777投稿集 2576145


ドミニク・アングル(フランス パリ 1780年8月29日 - 1867年1月14日)

1:777 :

2023/12/26 (Tue) 18:03:47

世界の名画・彫刻
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西洋美術史を流れで学ぶ(第17回)~アカデミーとサロン編~
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西洋美術史を流れで学ぶ(18回) ~新古典主義編~
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西洋美術史を流れで学ぶ(第19回)~ロマン主義編~
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ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres、1780年8月29日 - 1867年1月14日)
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ドミニク・アングル - YouTube
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2:777 :

2024/01/01 (Mon) 21:15:27

新古典主義を確立したアングル
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ドミニク・アングル『24歳のときの自画像』
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そんなダヴィッドの弟子で、新古典主義をジャンルとして確立したのがドミニク・アングルです。ダヴィッドが新古典主義的な表現を生み出したとするなら、アングルはジャンルとして確立させた存在です。

「色彩より線」という考えを追求し、彼は「線の巨匠」といわれるようになるんですね。ちなみにこの時代は「色彩は直感」「線は理性」という共通認識がありました。詳しくは次回の記事で紹介します。

この両者でいうとアングルは完全に後者なわけです。新古典主義の基本であるデッサンを追究した人で、すんごい正確無比な絵を描きます。


ドミニク・アングル『玉座のナポレオン』
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この『玉座のナポレオン』を含めてアングルの絵は「シンメトリー」のものが多いです。これはラファエロの影響といわれます。アングルはラファエロについて「あれもう人じゃなくて神だろ。本当に実在したんか?」というくらい尊敬していました。


ラファエロ・サンティ『アテナイの学堂』
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シンメトリーのほか「〇」を基調として構図を作っている部分も「あぁラファエロの熱狂的フォロワーなんだなぁ」と思わせますね。

https://irohani.art/study/6753/
3:777 :

2024/01/01 (Mon) 22:01:54

「アングルVSドラクロワ」という西洋絵画史きってのライバル関係
https://irohani.art/study/6843/

ドラクロワは鮮やかな色彩感覚でロマン主義的な作品を発表し続けます。

そんなドラクロワの活躍を快く思っていなかったのが、新古典主義のリーダー的存在まで上り詰めていた「ドミニク・アングル」でした。アングルについては前回の記事でご紹介していますので、参考にしてみてください。

アングルはドラクロワより18歳くらい年上で、ドラクロワがデビューするころには、既にサロンのスター選手だった人です。彼は新古典主義の指導者的な立ち位置で、王立アカデミーの院長まで務めた人です。ざっくりいうと「しっかりした人」ですね。絵の構図も教科書通りです。

ただアングルは「新古典主義はこのままでいいのだろうか」と悩んでいました。「昔ながらの画風を踏襲して、それで成長できるのだろうか」と。そんなアングルはドラクロワが出てくる前に「よし、殻を破ってみよう」と冒険するんですね。


ドミニク・アングル『グランド・オダリスク』
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そこで描いたのが「グランド・オダリスク」でした。前回お伝えしたように、彼はルネサンスの巨匠・ラファエロの熱狂的フォロワーだったので、中央に「円形」の空白が空いているのがわかるでしょう。ただし、明らかに身体が長いですよね。

ダックスフントくらい長い。これは正確さを求める新古典主義では考えられないんですよね。この表現にアングルの「どうだ。これが新しい表現だ。俺は主観的に美しいものを描いたんだ」というガッツポーズが詰まってます。

ただ、この作品はサロンでボロクソに言われるわけです。「背骨3本くらい多いだろコレ」とか言われちゃいます。この時のアングルは悔しかったでしょう。「いや分かってるわ!そのうえで表現してるからなこっちは!」と思ったでしょう。しかし世間はアングルに対して「新古典主義を極めてほしい」と思っていたので、彼の新しい表現を受け入れられなかったんです。

その後、アングルはもとの昔ながらの正確なデッサンに戻っちゃいます。そして新古典主義のリーダーとして、世間的にはエリート街道を突っ走ることになりました。

そんなグランド・オベリスク事件から3年後の1822年、まだ24歳のドラクロワがはじめてサロンに出てくるんですね。そこで先ほどの「キオス島の虐殺」を出品。賛否両論ありましたが、新聞の見出しを飾るくらいもてはやされました。

ここでアングルの「ロマン主義」という新しいムーブメントに対する嫉妬が大爆発。「俺がやりたかったやつ!」って感じだったでしょう。この時に2人の風刺画が描かれるほど、対立関係とされていました。

そしてこのアングルの悔しさが最高潮に高まったのは1831年。ドラクロワが「民衆を導く自由の女神」をサロンで発表します。名作絵画の1つですね。


ウジェーヌ・ドラクロワ『民衆を導く自由の女神』
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もちろん戦場に半裸の女がいるはずないです。また線ははっきりしていない曖昧なものになっています。新古典主義的な観点ではアウトなんですが、ロマン主義は自分の内面を反映した表現なのでOK。反対に色彩は非常に鮮やかかつ、繊細に描かれています。

この絵画は政府買い込みとなって、国民たちからも大絶賛の嵐だった。この絵によって、ついにロマン主義が世間的に大きく認められるんですね。

そんななかアングルはマジでかわいい。とにかく面白くなく「あいつは絵が分かっちゃいない」と言った。本当であればアートに革命を起こすのは自分の「グランド・オベリスク」のはずだったのに。こんな急に出てきた17歳年下の若造が新しい表現を確立させたことに、ジェラってたんです。

ドラクロワはその3年後、1834年に「アルジェの女たち」をサロンに出品。後年、パブロ・ピカソに大きな影響を与えた名画です。これも政府が買い上げます。


ウジェーヌ・ドラクロワ『アルジェの女たち』
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もはやドラクロワの国内人気は高まってきて、普通はここまでくると「美術アカデミー」に入会を許されるんですね。アカデミーに入ることは「一流の画家として認められること」。機能的なメリットでいうと、国からの依頼が増えるほか、フランスの芸術の審査などを任されることになるんです。

ただドラクロワは許されなかった。なぜなら、審査委員にアングルがいたからです。アングルだけがなんと20年間もドラクロワの入会を拒み続けます。嫉妬の嵐ですよもう。
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