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ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(フランス パリ9区 1796年7月16日 - 1875年2月22日)

1:777 :

2023/12/26 (Tue) 17:48:36

世界の名画・彫刻
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西洋美術史を流れで学ぶ(第17回)~アカデミーとサロン編~
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西洋美術史を流れで学ぶ(18回) ~新古典主義編~
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西洋美術史を流れで学ぶ(第19回)~ロマン主義編~
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西洋美術史を流れで学ぶ(20回) ~バルビゾン派編~
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ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(Jean-Baptiste Camille Corot、1796年7月16日 - 1875年2月22日)
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カミーユ・コロー - YouTube
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2024/01/01 (Mon) 22:35:09

バルビゾン派とは1830年ごろからフランスのバルビゾン村に現れた「イーゼルにキャンバスを入れて風景画や風俗画を描く」集団です。彼らの特徴はとにかくあるがまま、見たままの姿を描くということでした。これを「自然主義」といいます。
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とにかく「無理に誇張したりせず自然な形で作品を作ろうぜ!」と考えたから「自然主義」です。例えば超絶カッコつけて盛り付けられた“映えっ映えなフランス料理”を見て「いやいや……普通でええわ。味変わらんから」と言っちゃうのが自然主義の精神性になります。

バルビゾン派の当時、まだまだ風景画や風俗画の世間的な評価は高まっていませんでした。というのもこれは第17回で紹介したんですが、当時はアカデミー(王立の美大)が設けた「絵画のモチーフヒエラルキー」がまだ残っていたんです。1位から「歴史画」「肖像画」「風俗画」「風景画」「静物画」というランク付けでした。

ただ、ちょっとずつヒエラルキーが見直されていた。それが分かるのが「ジョン・コンスタブルのサロン・ド・パリ金賞受賞」というニュースです。



ジョン・コンスタブルの肖像画 Stephencdickson
,
CC BY-SA 4.0
, via Wikimedia Commons

「ジョン・コンスタブルって急に誰よ」って感じですので、彼のことをざっくり紹介しましょう。コンスタブルは1776年、イギリスで生まれた画家です。ゴリゴリの田舎育ちでお父さんがトウモロコシ商人で製粉所とか持っていた。って感じののどかなところで育ちます。

彼は先ほど紹介したアカデミーで勉強をするわけですが、そのなかで新古典主義に対して「現代の大きな悪癖は、真実を超えた何かをしようとする華麗さです」といっています。つまり「神話・宗教画」全盛のアカデミーで「みんなかっこつけすぎやろ。もっと真実を描くべきだろ」とおもったわけですね。

そこで彼は、当時は超絶珍しかった「風景画家」になることを決意するんです。もちろん、当時は風景画で飯食うなんて考えられないことですので、たまに肖像画とか神話画も描いていますが、主にのどかな田園風景や畜産農家の絵を描き続けました。


ジョン・コンスタブル『ワイブンホー・パーク』
, Public domain, via Wikimedia Commons

初期の彼のスタイルは「屋外でスケッチしてから室内で記憶を辿りつつ色を塗る」というものでしたが、1814年以降はスタイルを変更。完全に屋外で油彩を描ききるようになるんですね。これは「あるがままの真実を嘘偽りなくそのまま描く」という熱量があったからです。

そんな彼の作品は新古典主義の面々からは「なに、このふわっとした絵」みたいな感じで冷ややかにみられていましたが、ロマン主義の面々からは「すげぇ。この絶妙な色合い。高い技術力……これはすごい」と評価を受けるようになります。

そして1824年にはアカデミー主催の展覧会「サロン・ド・パリ」に「乾草の車」を出品し、なんと金賞を取るんですね。


ジョン・コンスタブル『乾草の車』
, Public domain, via Wikimedia Commons

で、この展示を観たのが、主にフランスのロマン主義の画家たち。「おい、イギリスにヤバい風景画家がおる」と話題になるわけです。ドラクロワにいたってはこの絵を見て自分の代表作『キオス島の虐殺』の背景を塗り直しています。

現場で衝撃を受けまくったコロー

ジャン=バティスト・カミーユ・コローの肖像写真(ナダールにより撮影)
, Public domain, via Wikimedia Commons

そんな現場で衝撃を受けた1人がジャン=バティスト・カミーユ・コローという画家でした。コローはこの展示のあと、1829年から早速、バルビゾン村のフォンテーヌブローの森にいってイーゼルを立てて、戸外制作をしています。


ジャン=バティスト・カミーユ・コロー『フォンテーヌブローの森の眺め』
, Public domain, via Wikimedia Commons

ちなみにコンスタブルしかり、この当時の戸外制作って実はシンプルな課題がありました。それが「絵の具がすぐ乾いちゃう」っていう……。当時の油絵具は今みたいなチューブ型のものじゃありません。だから、顔料の粉を油で混ぜて、乾かないように動物の膀胱に入れて持ち運ばなきゃいけなかったんですね。今考えたらヤバいですが、当時の戸外制作の風景画家たちは、みんな動物の膀胱を持ち歩いてました。
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