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最初の芸術

1:777 :

2023/12/24 (Sun) 19:16:24

世界の名画・彫刻
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最初の芸術(旧石器時代)
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北アメリカ北西海岸 トーテムポール
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アフリカ・パプアニューギニアの木彫仮面
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ストーンサークル
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縄文時代の美術 _ 縄文土器
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縄文時代の美術 _ 土偶
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縄文時代の美術 _ 環状列石
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洞窟絵画、メソポタミア美術・エジプト美術
https://irohani.art/study/4157/

人類が絵を描き始めた4万年前の洞窟壁画からエジプト・メソポタミア文明について、解説します。

なぜ人は表現をする? ネアンデルタール人の洞窟絵画

美術の歴史はとんでもなく古いんです。今から4万年以上前、ほぼ原人に近いネアンデルタール人の時代には「美術作品」が生まれています。動物を狩るために石や木で作った槍や斧のような、実用性のある創作物はもちろんありました。しかし彼らは、なぜか住居にしていた洞窟の壁に「手形」や「動物の写実画」などを書いているんです。

ラスコー洞窟の壁画


その理由ははっきりとは分かっていません。狩りの成功を祈ったおまじないなのか、無意識的に弔いをしていたのか……。いやいやそんな高尚なものじゃなく「暇すぎて、な~んもすることない」とゴロゴロしながら描いたのかもしれません。とにかく人はネアンデルタール人の時代から「創作をすること」を本能的に始めていたんです。


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原始美術ってなに? オーリニャック、ラスコー、アルタミラなどの洞窟絵画と造形の特徴|ジュウ・ショ(アートライター・カルチャーライター)
https://note.com/jusho/n/n418e6a6d4670


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雑記帳
2021年11月21日
最初の芸術とは何か
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_21.html

 最初の芸術に関する見解(McDermott., 2021)が公表されました。スラウェシ島では遅くとも45000年前頃までさかのぼるイノシシ(図1)を描いた洞窟壁画が発見され(図2)、現時点では世界最古の具象芸術とされており、世界最古の芸術との評価もあります(関連記事)。しかし、どの絵画や描画や彫刻が「最古」という言葉に値するのか、議論の余地があります。考古学者が芸術をどう定義するのかによっても、この呼び名は変わってきます。以下は本論文の図1です。
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 スラウェシ島のイノシシは、確かに最古の具象的もしくは表象的芸術です。それは実物から描くもので、平均的な観察者が一目見て、抽象作品ではなくイノシシとして認識するようなものだ、とスラウェシ島の洞窟壁画を報告したブラム(Adam Brumm)氏は説明します。表象芸術は、ギリシアのヘレニズム美術の大理石の女神から、アメリカ大陸先住民のシャチやワタリガラスの仮面まで、芸術史において一般的です。以下は本論文の図2です。
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 非具象的もしくは非表象的表現もあります。キャンバス上のロスコ(Mark Rothko)のカラーブロックからトゥルイット(Anne Truitt)の色彩豊かな最小限の柱まで、現代劇場では豊富な事例があります。最初の抽象的な模様は、スラウェシ島のイノシシの洞窟壁画よりも数万年早く出現し、現生人類(Homo sapiens)や他の人類が、平行線や格子や円を貝殻や骨に刻みつけました。しかし考古学者の間では、これらが実際に芸術的表現の最初の煌めきなのかどうか、意見が分かれています。

 ドイツで最近発見された、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の所産と考えられている51000年前頃の骨に刻まれた線(図3)を含む、具象的および抽象的画像両方の最近の発見により、芸術はいつ本当に、どの種で誕生したのか、という問題への関心が高まっています。考古学的証拠に加えて、古代の線刻の写真を用いた現代の認知実験があります。この研究は、彫刻が元々「芸術」、つまり視覚を刺激するために意図的に作られた画像や線刻として意図されていたのかどうか、研究者が認識するのに役立ちます。以下は本論文の図3です。
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●手と火明かり

 進化認知考古学者のスタウト(Dietrich Stout)氏は、旧石器時代芸術の研究において、何が芸術なのかわからないことに大きな問題がある、と打ち明けます。スペインのアルタミラ(Altamira)で1880年に洞窟壁画が発見された時、考古学者は偽造と推測しました。数十年後、アルタミラの洞窟壁画が遅くとも13500年前頃と明らかになってさえ、研究者は芸術の定義にあまり時間を費やさなかった、とスタウト氏は指摘します。見れば分かる、というわけです。アルタミラの洞窟壁画には、技術やさまざまな素材や絵を描く時の灯りが必要です。それらは、19世紀のヨーロッパの美術館が展示するような、抽象的なものよりも具象的なものを多用した絵のようでした。

 これは初期の考古学者には、ヨーロッパの洞窟壁画を描いた人々が認知的には完全に現代的で、粗野なものから比較的洗練されたものへと急激に変わったのではないか、と考えられました。これにより、現実世界の印象を頭の中で思い浮かべ、岩の線を用いることで、それらの印象の物理的表現が可能となりました。直接的証拠がないにも関わらず、その頃の考古学者は、旧石器時代の芸術家が、言語や抽象的思考や宗教など、他の「現代的な」特徴の全てを有していたに違いない、と推測しました。初期の考古学者が想像していたような芸術は、最初期のヨーロッパの洞窟壁画と同時に創造的な革命を起こし、それはフランスの当時としては最古の洞窟壁画となるショーヴェ(Chauvet)洞窟の3万年前頃のことでした。

 しかし、これは軽率な結論と分かりました。現生人類では脳サイズが過去50万年間あまり変化しておらず、問題のある概念だ、とスタウト氏は指摘します。現代文化の多くでは、具象的芸術も抽象的芸術も作られています。したがって、ヨーロッパの具象的な芸術作品が、表象的芸術技術を有する新たな集団の到来を告げるものではなく、認知的飛躍の証拠である、と仮定する妥当な理由はありません。重要なのは、「革命」との発想がヨーロッパの考古学的記録のみを見ていた人為産物だったことです、とスタウト氏は指摘します。ヨーロッパにおける移住の兆候は、急激な革命的変化との印象を与えていましたが、他地域ではもっと緩やかな変化だった、と分かっています。現在、世界中で「芸術」表現に多様性が見られ、具象的芸術を「現代的」特徴のより広範な一括品の主要な指標としてみなす理由はもはやない、とスタウト氏は指摘します。

 スタウト氏は、現在考古学の分野にはいくつかの異なる陣営があり、それぞれが微妙に異なる定義に固執している、と考えています。それは全て、明らかに現代の難問である、芸術とは何か?の核心に迫っています。芸術とみなされるものの最も一般的な基準は、明らかな実用性のない行動です。たとえば、スラウェシ島のイノシシを描くために用いられた赤色顔料のオーカー(鉄分を多く含んだ粘土)です。この顔料は具象的芸術に先行するより古い遺跡でも発見されており、顔や他の身体部位の装飾として芸術的に用いられたかもしれませんが、その証明は困難です。オーカーは、たとえば動物の皮の加工など、実用的にも用いられます。ある種の美的原理もしくは意味を伝える意図がじっさいにあった、というより強い証拠を求める考古学者もいる、とスタウト氏は指摘します。たとえば、ビーズは装飾品ですが、集団の独自性を示すこともあります。しかし、その実用性を除外することは困難です。

 それでも、合意が得られつつある分野もいくつかあります。現生人類の芸術がヨーロッパで4万年前頃に始まった、との考えは「崩れかけている」とブラム氏は指摘します。スラウェシ島のイノシシの洞窟壁画は、その先駆けとなります。このイノシシの絵は表象的で、ヨーロッパにおける同等の具象画よりも5000年以上先行する、とブラム氏は指摘します。スラウェシ島のイノシシの洞窟壁画は、最古の具象的芸術ではないかもしれません。インドから中国までの狩猟採集生活を描いた洞窟の風景は、もっと古い可能性があります。

 大きな課題の一つは、ほとんどの洞窟壁画の年代測定が難しいことです。たとえばインドネシアでは、1950年代にアンテドンゲ(Leang Tedongnge)の一部地域で洞窟壁画が最初に報告され、それは伸ばした手の周りに一口の顔料を吹きつけ、洞窟の壁につけたものでした。最近まで、インドネシアの高温湿潤な環境ではそれほど古くないだろう、と推測されていました。塗料はすぐに侵食されるだろう、というわけです。

 しかし2011年に、ブラム氏たちは、インドネシアの石灰岩洞窟の一部の壁画の上に形成された、ポップコーン型の成長物に気づきました。これは、絵が描かれた後しばらくして形成されたようです。この成長物は、鍾乳石に似た方解石の沈殿堆積物と明らかになりました。この成長物は、何世紀にもわたって何百もの硬化層に蓄積します。ウランとその崩壊物であるトリウムの比率を測定することにより、ポップコーン型の堆積物の最古層が年代測定されました。2014年に、手形の上のポップコーン型の堆積物は少なくとも4万年前頃だと公表されました(関連記事)。その後、インドネシアの他の洞窟で狩猟場面が発見され、最古の具象的芸術の年代は43900年前頃までさかのぼりました(関連記事)。2021年には、上述の現時点で世界最古の表象的芸術とされるイノシシの絵に関する研究が公表されました(関連記事)。スラウェシ島でのこれらの発見は、表象的芸術がアジアで始まったことを示唆している可能性がありますが、より可能性が高いのは、人類史を通じての表象的芸術の軌跡の一部にすぎないことです、とブラム氏は指摘します。最古の壁画は現生人類の出アフリカ前にさかのぼる、とブラム氏は予想しています。


●記号と意味

 「芸術」を構成するものに関する他の解釈は、異なる起源の物語を示唆しているかもしれません。つまり、現生人類で始まるとは限らない、ということです。抽象的表現の証拠は50万年前頃までさかのぼり、ジャワ島のホモ・エレクトス(Homo erectus)がジグザグ形の線を貝殻に刻みました(関連記事)。ドイツのネアンデルタール人が居住していた洞窟では、51000年前頃となるシカの骨に刻まれた抽象的な三重のL字型バターンが発見され、ホラアナグマの頭蓋1点とシカの肩甲骨2点との間に置かれていました。顕微鏡検査とCT走査により、骨の三次元画像が明らかになり、骨では彫刻が正確に刻まれ、きちんとした確度で切りつけられており、それらが道具から偶然切り刻まれた跡ではなく、意図的に作成されたことを示唆します。この彫刻は骨自体の放射性炭素年代測定により51000年前頃と水位呈されており、この遺跡の道具がネアンデルタール人的な特徴を示すことともに、現生人類がヨーロッパに到来する数千年前に作られたことを示唆します。

 この線刻のある骨を報告したリーダー(Dirk Leder)氏は、この発見について収穫が二つある、と指摘します。まず、ネアンデルタール人には意図的な象徴的表現を構築する能力があった、ということで、これは過去には議論となってきました。次に、芸術の起源は45000年前頃よりもずっと長い時間枠にさかのぼる、ということです。現生人類とネアンデルタール人はともに表象的ではないとしても、表現的で伝達的な線刻や描画を行なっており、今後も議論は続くでしょうが、芸術的表現がネアンデルタール人や恐らくはそれ以前の人類によっても作られている、とますます認識されるようになるだろう、とリーダー氏は予想しています。

 リーダー氏たちの芸術の定義が主観的に見えるならば、そうです。しかし、認知科学者たちは、象徴性の起源を正確に示すことにより、さらに客観的な評価を試みています。一部の考古学者は、それぞれの落書きには何らかの意味を示している、と主張します。たとえば円は「馬」を意味するかもしれませんが、その形態は動物とはまったく似ていません。他の考古学者は、彫刻を美的には興味深いものの、それ以外には意味のない装飾と考えています。

 この問題の解決のため、認知科学者のティレン(Kristian Tylén)氏は2017年から考古学者と協力して、南アフリカ共和国のブロンボス(Blombos)洞窟や他の遺跡の10万年前頃までさかのぼる線刻を用いて研究しました。ティレン氏たちは、現代人を対象とした一連の認知実験を設計しました。たとえば、刻まれたパターンがどれほど識別可能か、といった検証です。たとえば、単純な格子から図像や単語に進化するなど。経時的にパターンが特定のものを意味するようになる何らかの適応的圧力があったならば、数覧年にわたってパターンがより記憶に残り、区別しやすくなる、と考古学者は予測するでしょう。

 実験では、被験者たちに古代の線刻、たとえば、画面上で数秒間点滅した画像が見せられ、次に記憶から見たばかりのパターンを再描画するよう指示されました(図4)。象徴性の進化と一致して、より新しい人工物は以前のものよりも思い出しやすい、と示されました。しかし、同じ研究の別の一連の実験では、参加者はできるだけ早く同じパターンに一致しました。この場合、研究者たちはより新しい若しくはより新しいパターンの識別可能性に意味のあるパターンを見つけられませんでした。これらの落書きは最初の芸術と考えるべきで、特定の意味を示す伝達標識ではなく、美しくて視覚系を刺激するように作られた、とティレン氏は指摘します。以下は本論文の図4です。
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 神経考古学者であるホジソン(Derek Hodgson)氏は、2019年に本質的な同じ結論に達する見解を公表しました。最初の意図的な模様は平行線か交差が多く、神経が水平線と垂直線にとくに敏感な視覚野の偏りに起因している、とホジソン氏は考えています。記号がより大きな象徴的意味を持てば、言語が異なるように、文化ごとに象徴的意味の間の違いがより大きくなると予測される、とホジソン氏は指摘します。しかし代わりに、最初の格子やV字型や線は、世界中で限られた数の形状で現れており、視覚的に興味深いものの、明示的に意味はない、とホジソン氏は示唆します。

 しかし、ホジソン氏の理論と反するような見解がすぐに提示されました。デリコ(Francesco d’Errico)氏は機能的磁気共鳴画像法(fMRI)を用いて、54万~3万年前頃の線刻、景観、物体、アルファベットでの意味のない単語、古代の書記体系である線文字Bの断片など、さまざまな画像と、これらすべての刺激の組み換え版により刺激された、脳領域を特定しました。デリコ氏たちは、全ての刺激の組み換え版が参加者一次視覚野で処理されことを明らかにし、これは、脳によるそれ以上の処理なしの単純な視覚認識を示唆します。しかし、線刻は脳領域を物体の認識方法と同様のパターンで活性化しており、組織化された視覚表現として処理され、象徴的意味づけのために用いられたかもしれない、と示唆されます。

 現代の研究の一つの制約は、現代人の被験者を用いることです。たとえば、デリコ氏の研究では、複雑な形態と関連する領域での現代人の脳の活動が、何千年も前の象徴的意味の証拠として解釈されています。問題は、現代人が読み書きを学んできたため、脳のその領域にひじょうに象徴的な脳力を持っていることです、とホジソン氏は指摘します。人々が文字を用いる前に脳の領域が同様に活動したのかどうか分からない、というわけです。デリコ氏は、今後刊行予定の研究で、考古学者の脳活動のパターンを非専門家のそれと比較することにより、現代人で研究する限界に対処しようと計画しています。専門家と非専門家の両方が、実際の線刻と、線刻のように見える意図的ではない自然の模様の集合を見ます。考古学者は、じっさいの線刻に必要な手の動きを覚えている脳の運動野を用いることで、意図的ではない模様をすぐに見つける必要があります。現代の専門家の脳の反応を、現代の非専門家のそれと比較することは、過去の象徴的意味を推測するために、現代の参加者の反応を用いるよりも公平である、とデリコ氏は指摘します。

 デリコ氏は芸術がひじょうに曖昧な概念であることを、注意深く指摘します。デリコ氏やティレン氏やホジソン氏たちは、芸術の曙について明確に議論しているわけではなく、むしろ象徴的な物質文化の出現と進化について議論しています。カラハリのサン人は平行線の記号を用いて、たとえば矢の所有権を示します。その模様には象徴的役割がありますが、サン人は芸術ではなく職人技とみなします。それでも、一部の考古学者が、芸術的であるには表現は象徴的であるべきだ、と主張するので、象徴性の出現時期は依然として、芸術の始まりと関連する問題です。

 デリコ氏は個人的には、そうした見解に同意しておらず、象徴性と芸術は必ずしも関連していない、と指摘します。研究者たちが象徴性の定義で何らかの合意に達したとしてさえ、芸術自体の定義について一致に達するのは難しいでしょう。そうした一致は、芸術時代の信念から逸脱する可能性があります。デリコ氏は、特定の社会が芸術家にとって独立した役割を有している、との証拠がなければ、集団が「芸術」を作った、と述べることに躊躇います。芸術は誰かが芸術家として社会的役割を得る時に社会で始まる、とデリコ氏は考えています。その場合社会は、誰かが特別な訓練と他の人にはできない経験を有すると認識している、というわけです。

 では、最初の芸術はいつだったでしょうか?答えは、考古学者がどの芸術の定義を支持し、考古学者が問うている特定の研究の問題に依存します。抽象的な芸術は原始的で、表象的芸術に進化した、との見解はますます説得力を失いつつあるようです。ティレン氏は、抽象的な芸術とスラウェシ島のイノシシの洞窟壁画など具象的な作品には独立した起源があるかもしれない、と推測しています。ヨーロッパでは、一部の旧石器時代の動物の小立像は、表象的芸術の始まりの後に出現したようで、ずっと古いパターンと類似した抽象的な線刻で装飾されています。これは、二つの表現の同時形態を示唆します。一方は、純粋に美的で抽象的であり、もう一方は、少々的で表象的であり、おそらくはより複雑な認知を必要とします。

 今後、スラウェシ島のイノシシの洞窟壁画が最古の具象的芸術ではなくなるかもしれません。ブラム氏は現在、スラウェシ島とニューギニア島のインドネシア側との間の島々の調査資金を申請中で、最初にインドネシアの島々を下り、65000年前頃にオーストラリアの北端に到達した人々の経路をたどっています。ブラム氏は、スラウェシ島の東側の未調査の島々で、スラウェシ島よりも古い壁画が見つかることを期待しています。これまで未調査の島々の絵がオーストラリアの最初の住民と同じくらい古ければ、19~20世紀の一部の考古学者が考えていたよりも少なくとも2倍の期間、この地域の最初期の旅人は芸術表現を有していた、と示唆されます。考古学者を初めとする人々の関心をそそるのは、このような大きな問題と歴史の修正です。それは考古学で最大級の問題の一つで、現代人の祖先もしくは近縁がいつ芸術の連続体である模様もしくは形態を作り始めて、その理由は何だったのか、注目されます。


参考文献:
McDermott A.(2021): News Feature: What was the first “art”? How would we know? PNAS, 118, 44, e2117561118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2117561118


https://sicambre.at.webry.info/202111/article_21.html  
2:777 :

2024/01/05 (Fri) 03:23:03

雑記帳
2024年01月04日
イベリア半島東部の旧石器時代の洞窟壁画
https://sicambre.seesaa.net/article/202401article_4.html

 イベリア半島東部の旧石器時代の洞窟壁画を報告した研究(Ruiz-Redondo et al., 2023)が公表されました。本論文は、スペインのバレンシアにあるドネス洞窟(Cova Dones)の上部旧石器時代の洞窟壁画の予備的分析結果を報告しています。イベリア半島には旧石器時代の洞窟壁画が多く、現生人類(Homo sapiens)だけではなく、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)も洞窟壁画を残した可能性が指摘されていますが、議論になっています(関連記事)。とはいえ、一部の洞窟壁画を残したのがネアンデルタール人である可能性は高いと思います(関連記事)。


●要約

 本論文は、スペインのバレンシアのドネス洞窟における旧石器時代洞窟芸術の最近の発見の詳細を提示します。予備的結果は豊富な図画群を明らかにし、地中海の上部旧石器時代芸術では珍しく、イベリア半島東部沿岸では以前には知られていなかった特徴があります。


●研究史

 伝統的に、更新世の洞窟芸術の分布は、スペイン南部とイタリアの地域を含む「周縁部」のある、フランコ・カンタブリア地域に集中してきました。口の旧石器時代岩絵遺跡の70%はこの地域にありますが、近年では、ヨーロッパとアジア全域で発見がありました。フランコ・カンタブリア地域外の発見は常に、旧石器時代の象徴性の知識を高めることと関連しています。

 イベリア半島東部海岸沿いでは、状況は逆説的です。この地域には装飾品の観点で重要な更新世の動産芸術遺跡がありますが、旧石器時代の洞窟芸術遺跡は少なく、9ヶ所が更新世と確実に特定されており、合計では最大21ヶ所になるかもしれません。描かれた形象の少なさは著しく、それは、バレンシア共同体とカタルーニャを合わせた地域には、多くてもわずか3点しかないからです。


●予備的な結果

 この状況で、2021年夏のドネス洞窟の岩絵の発見は、地中海地域の「図画行動」の研究に大きく貢献します。この遺跡は深さが約500m単一の回廊洞窟で、バレンシアのミラレス(Millares)市の急峻な峡谷に開けています(図1)。以下は本論文の図1です。
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 いくつかの鉄器時代の発見にも関わらず、旧石器時代遺骸の存在は、オーロックスの頭を含む、4点の描かれた画題が確認された2021年の非公式の調査まで知られていませんでした(図2a)。2023年のさらなる研究により、画題の量と多様性、技術的特徴の豊富さと詳細を考慮して、この遺跡が主要な旧石器時代芸術の聖域と特定されました。以下は本論文の図2です。
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 これまでのところ、洞窟の3ヶ所の異なる地点に位置する、少なくとも19点の動物形状の表現を含む、110点以上の図画単位が特定されてきました。洞窟の奥深くにも関わらず(主要な装飾地域は入口から約400mにあります)、含まれる全ての地点と区画と形象は、登る必要なしに容易に近づけます。描かれた動物は、7頭のウマ、7頭の雌のシカ(アカシカ)、2頭のオーロックス、1頭の雄シカ、2頭の曖昧な動物です。芸術の残りは、定型的な標識(長方形と蛇行)、「マカロニ」(指もしくは同靴で柔らかい表面全体を引っ掻いて作られた「溝」)のいくつかの区画、孤立した線、保存状態の悪い未確認の絵で構成されています。

 芸術作品の技術的特徴の多様性と希少性は注目に値し、それはこれらの芸術作品にはさまざまな種類の線刻と絵が含まれているからです。線刻は形象の古典的な単一的特徴の輪郭で構成されていますが(図3a)、壁の表面に「月の乳(mondmilch)」(石灰岩の沈殿物の一種)を引っ掻いたことにより形成された形象も含まれます(図3b)。以下は本論文の図3です。
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 この技術は旧石器時代の洞窟芸術では稀で、以前にはイベリア半島東部では知られていませんでした。この描画技術は確かに驚くべきもので、画題は通常の希釈したオーカー(鉄分を多く含んだ粘土)もしくはマンガン粉末の代わりに、赤色粘土の壁への塗布により作成されました。この鉄の豊富な粘土は、洞窟の床に多く存在します。地中海地域およびそれ以外の地域では、こうした技術の事例はたとえば、アルダレス洞窟(Cueva de Ardales)やベルニファル(Bernifal)やヒグエロン(Higuerón)やラ・パシエガ(La Pasiega)洞窟やピレタ(Pileta)やルフィニャック(Rouffignac)で知られていますが、ラ・ボーム・ラトローヌ(La Baume Latrone)を除いて、これらの遺跡の全てで稀です。ドネス洞窟では、描かれた全体の総体(80点超の図画単位)は、この技術を用いて作成されています。


●年表

 新鮮な粘土で描かれた形象は稀で、その年代測定は困難と知られています。ドネス洞窟では、絵の古さは、塗布された粘土が湿潤環境、とくにいくつかの継承の異なる領域を覆う厚い方解石の層の存在において乾燥するまでの時間があった、という事実により裏づけられます(図4a)。以下は本論文の図4です。
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 「マカロニ」の年代も、一般的には評価困難です。絵を描いた技術の単純性のため、確実に旧石器時代に分類するのは困難ですが、風化過程の発生(つまり、古錆)のため、長期間と推測できます。ドネス洞窟では、他の証拠がこれらの痕跡の一部は旧石器時代の年代と示唆しています。洞窟の壁にはホラアナグマの爪痕が点在しています。そのうちの一つは、いくつかの指の溝と部分的に重なっています(図4b)。この種のヨーロッパにおける提案された24000年前頃の絶滅年代は、この区画の下限を提供します。

 より詳細な時間様式分析が行なわれる前でさえ、いくつかの特徴は遺跡の年代確立に役立てます。「地中海3本線雌シカ」は、地中海旧石器時代芸術ではよく知られた画題です。スペインのマラガ(Málaga)県のネルハ(Nerja)洞窟では、放射性炭素年代が、これらの表現の一つのある1区画で得られました。その結果(19900±210年前、IntCal20を用いると較正年代では85.2%の確率で24545~23680年前)は、グラヴェティアン(Gravettian、グラヴェット文化)からソリュートレアン(Solutrean、ソリュートレ文化)への移行(較正年代で26000~24000年前頃)年代分布を示唆します。長方形の標識は、上部旧石器時代を通じて遍在する画題ではありません。

 パルパッロ(Parpalló)の近くの遺跡については、これらの図の較正年代は、層序の位置に基づいて24500~21100年前頃、と示唆されています。これらの結果は、コムテ(Comte)やネルハやラ・ピレタ(La Pileta)やラス・モティージャス(Las Motillas)やラス・エストレラス(Las Estrellas)アンブロシオ(Ambrosio)など、地中海イベリア半島旧石器時代芸術に存在する他の長方形標識との矛盾を示しません。最後に、オーロックスとウマの様式は、完全に診断できるわけではないものの、絵の年代の評価に使用できます。継承の様式分析は、マグダレニアン(Magdalenian、マドレーヌ文化)前の年代(2万年以上前)を示しており、ホラアナグマの絶滅の年代を考えると、岩絵の少なくとも一部は24000年以上前に違いない、と推測されます。


●まとめと将来の研究

 ドネス洞窟の岩絵は、地中海旧石器時代芸術において重要な発見です。この計画はまだその初期段階ですが、予備的な結果はこの遺跡の研究について多大な可能性を明らかにし、この壁画群がおそらくイベリア半島東部沿岸では最重要と確証します。その図像的および技術的特徴から、これはイベリア半島東部の数少ない主要な更新世の装飾遺跡となり、将来の研究により可能性が確認されれば、最近発見されたフォント・メジャー洞窟(Cova de la Font Major)もこの分類に含めることができるでしょう。将来の研究は洞窟の壁を調査し続け、岩絵の明らかに独特な技術的側面とその年代および考古学的背景に焦点が当てられるでしょう。


参考文献:
Ruiz-Redondo A, Barciela V, Martorell X.(2023): Cova Dones: a major Palaeolithic cave art site in eastern Iberia. Antiquity, 97, 396, e32.
https://doi.org/10.15184/aqy.2023.133


https://sicambre.seesaa.net/article/202401article_4.html
3:777 :

2024/01/05 (Fri) 03:34:45

雑記帳
2022年07月10日
中部旧石器時代のイベリア半島南部の洞窟壁画
https://sicambre.seesaa.net/article/202207article_10.html

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、中部旧石器時代南部のイベリア半島南部の洞窟壁画に関する研究(Martí et al., 2021)が報道されました。AFPでも報道されています。芸術の制作は、人類の文化的進化における大きな飛躍とみなされています。それは、複雑な象徴的表現を永続的方法で記録し、伝える手段を表します。しかし、何世代にもわたる研究者の努力にも関わらず、旧石器時代芸術の起源と年代と技術と機能と意味に関する問題は未解決です。過去20年の研究は、図画表現の最初の事例(関連記事1および関連記事2)、主要な洞窟遺跡群の学際的分析、開地遺跡群の調査、新発見の提示、洞窟絵画(塗布)の最初の事例の年代測定に焦点を当ててきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 とくに関連性があるのは、層序的に関連する方解石付着物へのウラン系列年代測定の適用により、これらの芸術的出現がこれまで考えられていたよりもはるかに古くからある、と示されたことです。スペイン北部のカンタブリア州にあるエルカスティーヨ(El Castillo)洞窟では、408000年前頃という赤い円盤の下限年代値が得られ、ヨーロッパの最初の洞窟芸術のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の製作と一致しており(関連記事)、64800年以上前となるイベリア半島の3ヶ所の遺跡の、非具象的絵画と手のステンシル(物体を表面に置き、その上から塗装することで、表面に図を残すこと)により最終的には裏づけられました(関連記事)。ボルネオ島の手のステンシルの芸術(関連記事)とスラウェシ島の写実的絵画(関連記事)は、それぞれ下限年代が43900年前頃と39900年前頃となり、予測されたように、この慣行の最初のヨーロッパの出現との広範な同時性を確信的に論証します。イベリア半島の証拠には疑問が呈されていますが(関連記事)、全ての批判は徹底的に応答されています(関連記事)。

 そうしたイベリア半島の洞窟芸術の初期の一例がスペイン南部のアルダレス洞窟(Cueva de Ardales)です(図1)。アルダレス洞窟には長いものの断続的な研究史があり、1世紀以上前に始まって、最近の調査まで続いています。しかし、これまで、ウラン系列年代測定によるもの含めて、洞窟の絵(もしくは塗布)を構成する顔料は分析されていませんでした。ヨーロッパ南西部旧石器時代絵画技術の起源と進化を研究するより広範な計画の一部として、本論文は区画II.A.3の顕微鏡および化学的分析に焦点を当てます(図2)。以下は本論文の図1です。
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 方解石標本のウラン系列年代測定に基づくと、区画II.A.3の赤い染色の年代は、幕(状の石筍、以下「幕」で統一)5で45900年以上前、幕6で45300年以上前および48700年前以降、幕8で65500年以上前と制約されます(関連記事)。これらの結果は、その芸術活動を地域的なネアンデルタール人と関連した中部旧石器時代に位置づけ、その区画の年代測定されていない幕の装飾がさまざまな後の年代であるかもしれない、と示唆するものはありません。

 本論文の目的は二つあります。第一に、区画II.A.3の赤い顔料の組成を特徴づけることです。顔料は、自然の染色を表しているかもしれない、と示唆されていますが、肉眼観察では裏づけられません。第二に、顔料組成と技術のパターンが、年代測定により論証された中部旧石器時代の芸術活動のさまざまな段階についてさらなる詳細を提供できるのかどうか、調べられます。アルダレス洞窟の床と壁から収集された、天然の鉄分を多く含む着色物質も分析され、これら地質物質の化学的痕跡が、塗布に用いられた顔料の供給源であることと一致するのかどうか、検証されました。


●アルダレス洞窟

 アルダレス洞窟は、スペイン南部となるアンダルシア(Andalucía)州のマラガ(Málaga)県の、アルダレス村の近くに位置します(図1)。アルダレス洞窟は長さが1577mで、上層坑道と下層坑道の2層の重なりが特徴です。アルダレス洞窟は、地震により以前には崩壊堆積物で塞がれていた入口が再度開いた後の1821年に発見されましたが、旧石器時代の洞窟壁画がアンリ・ブルイユ(Henri Breuil)により発見されたのは1918年でした。

 ほとんどが上部旧石器時代に分類されている、1000点以上の図形表現が報告されてきました。その中には、具象的および非具象的両方の彫込みと絵があり、252区画に分類されています。ほとんどの抽象的な赤い絵は洞窟二次生成物の上に描かれ、奥ではなく入口近くに位置します。つまり、考古学的発掘により中部旧石器時代のネアンデルタール人による空間の広く同時代の使用が裏づけられた、洞窟部分で見つかっています。本論文で取り上げられる区画II.A.3は、下層坑道の「星の広間(Sala de las Estrellas)」の印象的な石筍丸天井に位置します(図2)。以下は本論文の図2です。
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●区画II.A.3の微小標本

 標本は、赤鉄鉱とアルミノケイ酸塩(粘土鉱物と雲母)と方解石、一部では石英と無定形炭素で構成されます。分析では、少量の硫酸塩とリン酸塩に由来するかもしれない、燐光物質と硫黄の痕跡も検出されました。これら微小標本の走査電子顕微鏡(SEM)観察は、鉱物起源を示唆します。それは、これらの中に生体内鉱質形成で通常見つかる粒子形態(たとえば、糸状体や球菌様形態や数珠玉構造や生物膜)を特徴とするものがないからです。微小標本における結晶の形状と大きさも、鉱物性質と一致します。より詳細な分析により、興味深い質感と組成の違いが明らかになります(図3)。以下は本論文の図3です。
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 幕5(P-ARD-06)と幕8(P-ARD-03およびP-ARD-04)の標本は、測微法から準測微法の板状の鉄分の豊富な鉱物と粘土の固く結合した凝集体で構成されていますが、幕6(P-ARD-05)では、赤鉄鉱とアルミノケイ酸塩粒子は、凝集体としてではなく、個々の粒子の形で表れます。幕9(P-ARD-02)の赤い染色は、幕5および8とは、粗い分離した雲母小板の存在および水和粘土鉱物がない点で異なります。幕6とは異なり、幕5および8と同様に、赤鉄鉱と粘土の粒子は凝集体の形で幕9に発生します。さらに幕6(P-ARD-05)は、他の標本では検出されない無定形炭素の存在を明らかにします。


●地質標本

 顔料として用いられた可能性がある、鉄分の多い堆積物6種が、アルダレス洞窟で特定されました。これらは、緩いオーカー堆積物から密集した紫色の岩まで不均質な物質で構成されています。代表的な標本のSEM分析から、これらの物質が区画II.A.3の標本と類似性を共有していないことは明らかです。X線回折分析により、地質標本のうち2点(G-ARD-01およびG-ARD-11)のみが赤鉄鉱を含んでいる、と示されます。赤鉄鉱は、石筍の赤い染色の原因鉱物ですが、どちらもその区画の標本とは比較できません。標本G-ARD-01は測微法から準測微法の粒状で巨大で針状の鉄とマンガンの豊富な結晶、鉄の豊富な硫酸塩小球、カリウムの豊富な雲母で構成されますが、標本G-ARD-11は、粘土の葉状母岩に2µmの円盤状の鉄の豊富な結晶のかたまりで構成されます(ケイ素、カリウム、アルミニウム、マグネシウム、チタン、カルシウム、マグネシウム)。


●洞窟二次生成物標本

 幕9の染色を覆う洞窟二次生成物層で実行された顕微鏡元素分析は、それがおもに低マグネシウム方解石で構成されている、と示します。おそらくはアルミニウムの豊富な水酸化物からの少量のアルミニウムも存在します。鉄もしくは粘土の鉱物は検出されませんでした


●考察

 区画で収集された微小標本の分析は、肉眼による区画の密接な観察に基づいて提案されたように、染色は鉱物起源で、微生物活動の結果として解釈できない、と示唆します。染色は、河川の流れや土壌からの浸透や浸水や壁の風化など、洞窟で通常起きる自然の地質学的過程の結果としても解釈できません。洪水は洞窟の壁や天井さえ覆うかもしれませんが、ほとんどの蓄積は床で発生し、一般的には広範囲に及びます。アルダレス洞窟では、洪水により形成された堆積物の痕跡は、区画II.A.3の位置する空洞の床でも壁でも見えません。さらに、洪水により運ばれた粘土小板はSEMでは一般的に、壊れているか丸い端を示し、本論文の標本には当てはまりません。水滴による酸化鉄の堆積は、方解石の拡散した赤い染色を生成しますが、塗料として解釈される堆積物は、方解石の上および/もしくは方解石に覆われた異なる層の形態で発生します。

 鉄と粘土の豊富な鉱物の存在が洞窟二次生成物と関連しているかもしれない、という仮説を除外すると、分析された方解石標本はどちらも含まず、水滴中に存在する鉄の豊富な粒子はいずれも、区画II.A.3の顔料で見られる緩い赤鉄鉱と粘土小板の形成につながらないでしょう。岩盤の風化は、保存状態良好な参加立つと粘土小板の薄い層を生成できる唯一の過程ですが、大きな空間に位置する石筍の真ん中にある小さな領域の排他的影響と一致せず、その壁では類似の堆積物は観察されません。さらに、形態の観点では、模様は、赤い物質の濃度がじょじょに減少することを特徴とする接触変成帯に囲まれた、色密度の高い中央領域により特徴づけられます。このパターンは、実験的に再現されたように、飛び散ることによる塗料の着色を示唆します。本論文の結果は、区画II.A.3が自然仮定の結果かもしれない、という推測と一致しません。

 旧石器時代の装飾が施された洞窟で見つかったいくつかの赤い染色は、洞窟の壁に印をつける意図的な過程に起因するのではなく、偶発的な接触結果かもしれない、と提案されてきました。狭い通路では、オーカー(黄土)で着色された服を着ているか身体を彩色した訪問者が偶然に壁を触ることは、じっさいあり得ます。しかし、区画II.A.3の事例では、偶然の染色は除外できます。なぜならば、塗布された丸天井はひじょうに大きな空間の真ん中にあるからです。さらに、色の痕跡は、石筍の襞の突出領域および凹んだ領域の両方で見つかります。じっさい、この色が見えるこの襞の窪みの一部はひじょうに深く、腕の届かないところにさえあります。顔料付着が観察できる場所の一部に到達できる唯一の方法は、実験的に再現された技術により飛ばされた点滴および小滴としてです。

 地質学的標本と考古学的標本との間の顕著な違いは、この研究で標本抽出された洞窟堆積物のどれも、区画II.A.3の塗布に用いられた顔料の供給源として用いられなかったことを示唆します。さらに、考古学的標本のラマンスペクトルにおける赤鉄鉱帯の強度と幅の実質的変化も、針鉄鉱の豊富な原材料が熱処理された可能性を示唆する特徴も、観察されませんでした。したがって、洞窟に自然に存在した針鉄鉱の豊富な物質が、区画II.A.3の塗料の生成のために熱処理された、という仮説の裏づけは存在しません。本論文の結果が強く支持するのは、旧石器時代の(複数の)芸術家が、洞窟外で見つかる可能性が高いまだ知られていない供給源から、地層で収集された鉄の豊富な塊を使用したことです。将来の研究では、石筍の塗装に用いられたオーカーが近隣で見つかるのか、より遠い供給源に由来するのか確認するには、局所的な鉄の豊富な層を調査する必要があります。

 区画II.A.3の微小標本の組成で観察された違いには、さまざまな原因が考えられます。一人もしくは複数の芸術家による芸術的活動の単一事象を仮定すると、組成のわずかな違いは、多様な地質学的起源および異なる技術で製造された顔料粉末を用いての(たとえば、それらの人々が異なる文化的伝統に属していたか、さまざまな地域からアルダレス洞窟遺跡に旅をしてきたため)、壁面もしくは異なる人に適用された混合の不完全な均質化に起因するかもしれません。あるいは、そうした変化は、さまざまな壁面がさまざまな時期に塗られており、塗料の配合が微妙に異なっていたか、各時期に用いられた供給源が異なっていた、という事実に起因するかもしれません。

 これらの選択肢は、利用可能な年代測定証拠に対して評価され得ます。幕5および8の模様は、それぞれ45900年以上前と65500年以上前なので、それらが65500年前頃以前のある時点で行なわれた単一の塗布事象を表している、という見解を除外できません。そうした仮説は、模様は両方の幕においてひじょうに類似した塗布で作られており、鉄の多い鉱物と粘土の細粒の凝集体で構成されている、という本論文の発見と一致します。幕6は、年代が48700~45300年前頃なので、異なる侵入を表しているに違いありません。幕6の顔料が幕8と異なる、という本論文の発見は、用いられた着色材の性質における経時的変化を示唆します。幕8の顔料は赤鉄鉱とアルミノケイ酸塩の粘土の大きさの板状粒子で構成されていますが、そうした粒子は幕6の場合、凝集体を形成するのではなく、散乱しています。幕9の顔料は、粗いカリウムの豊富な雲母と関連する細粒の鉄の豊富な鉱物と粘土で構成されており、分離した雲母小板の存在と水和粘土鉱物の欠如のため、幕5・6・8で用いられた塗料とは異なります。

 要約すると、年代測定の証拠は、少なくとも2回の侵入を示唆します。オッカムの剃刀に基づくと、組成の類似性は同じ塗布事象の付属を反映している可能性がより高く、非類似性の場合はその逆です。これは、組成が異なることに加えて、それ自体が実証するわけではないものの、異なる塗料の使用と一致するアルダレス洞窟標本が異なる粒径も特徴としているため、より当てはまります。したがって、両方の一連の証拠(年代測定と組成)を組み合わせると、本論文の標本は少なくとも2回の塗布事象を表している、と確認できます。さらに、真の回数はおそらく少なくとも3回で、あるいは4回の可能性も考えられます。塗布事象の回数をさらに正確にするには、より多くの年代測定の証拠の獲得を待たねばなりません。

 塗布は繰り返し追加された結果なので、ある種の若返りや修復の対象となる芸術の一部なのかについて、疑問が生じます。画題の若返りは岩絵で見られると示されてきており、民族誌的研究は、塗り直しが伝統的な共同体間で一般的な慣行だと論証してきました。旧石器時代の洞窟芸術についても、意図的な修正および/もしくは修復が提案されてきており、スペインとレヴァントの岩絵伝統の遺跡群で遍在しているようで、儀式目的もしくは劣化した図の復元について、復元か変更か拡張されたと考えられる区画を特徴とします。その事例にはスペインのカステリョン(Castellón)県のヴァルトルタ・ガスッラ(Valltorta-Gassulla)地域のレミギア洞窟(Cova Remigia)が含まれ、全体的もしくは部分的塗り直しと新たな要素もしくは別の色の追加が記載されており、図画的で物語的な再流用が示唆されます。

 カステリョン県のサルタドラ洞窟(Coves de la Saltadora)では、化学的に異なる顔料の検出は、1点の模様が塗り直されたものとの解釈につながりました。2色の組み合わせの明確な事例は、最近スペインのレトゥル(Letur)のバランコ・デ・セゴヴィア(Barranco de Segovia)で記録されており、黒色の上の赤色の使用は、元々の値の増大として解釈されました。画像の性質と同一性を修正した意図的な上塗りの他の事例は、アルバラシン(Albarracín)のセジャ・デ・ピエザッロディラ(Ceja de Piezarrodilla)、オボン(Obón)のチョポ洞窟(Cueva del Chopo)、フミーリャ(Jumilla)のカント・ブランコ(Canto Blanco)、トルモン(Tormón)のブラド・デ・ラス・オリヴァナス(Prado de las Olivanas)、アルバセテ(Albacete)のビエハ洞窟(Cueva de la Vieja)で見られます。

 アルダレス洞窟の区画II.A.3の事例では、画像の修復が行なわれたかどうかの評価は、カルシウムとマグネシウムの付着物により分離された異なる顔料層の識別によって可能ですが、そうした微細層序研究は、塗布と画壁面の両方への顕著な損傷を伴い、この研究の重要な前提の一つにより排除されています。つまり、標本抽出の間に塗布への損傷を与えないようにすることです。しかし、そうした行動が結果に反映される可能性は低そうです。

 民族誌的類推は古代の行動について直接的に推論するのに信頼できませんが、それでも、可能性の範囲を説明し、考古学的証拠も解釈を助けるのに役立ちます。岩絵修復の民族誌的事例が示すのは、この慣行が経時的に消えていく特徴(形態、細部、色の関連性)を抽象的もしくは具象的表現に適用するのによく用いられる、ということです。若返りは、個別で認識できる象徴として表現を特定する診断上の特徴の集団の関連する構成員による視覚的認識を保証し、一部の事例では、場所と人々との間の象徴的つながりの更新も意図しています。それは、絵(塗布)の修復により、意味のある場所と祖先のつながりを培い、その場所に集団を結びつける芸術を更新します。

 区画II.A.3で塗料を塗るのに用いられた技術と、その結果としての模様は、個別の特徴の認識を可能としません。これは、その場所とのつながりを培うことが、特定の表現との関連づけではなく、石筍に跡をつける主因だったに違いない、と示唆します。画像自体が象徴的情報を有しており、芸術活動の焦点である場合、画像の修復は意味が分かりますが、アルダレス洞窟で見られるものは異なります。この場合、象徴的情報の担い手は区画それ自体ではなく、区画のある巨大な石筍の丸天井であるように見えます。換言すると、画布としての丸天井を扱うことは有用な省略表現ですが、この巨大な層は塗布を並べるのに用いられる便利な表面にすぎず、これらの塗布はどこで作られたかに関係なくそれ自体が象徴的情報の保管庫である、と考えるべきではありません。代わりに、丸天井は象徴的で、塗布はその象徴として存在するのであり、その逆ではない、と本論文は考えます。この文脈では、繰り返しの塗布は、その意味を維持するか、強化するか、修正するための、既存の画題の修復もしくは修正と類似していません。むしろ、その場所あるいは「画布」自体の象徴的価値の新たな主張を代わりに表しているに違いありません。

 本論文はこの研究の結果に基づいて、区画II.A.3は単語の狭い意味での「芸術」、つまり、「美しいか、感情を表現するような、対象や画像や音楽などの制作」、あるいは「絵画や図画や彫刻制作の活動」ではないものの、空間の象徴的意味を永続させようと意図する図画行動の結果である、と仮定します。フランス南西部のブルニケル洞窟(Bruniquel Cave)の証拠は、中部旧石器時代のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が、カルストの奥深くの場所で、洞窟二次生成物の意図的変更と複雑な配置の構築に用いたことを含む、象徴的活動に関わっていたことを示します(関連記事)。

 アルダレス洞窟の証拠は、一部のネアンデルタール人共同体の象徴的体系に洞窟二次生成物が基本的役割を果たした、との見解を裏づけます。したがって、区画II.A.3で見られるような、巨大で印象的な丸天井への飛散赤色顔料を用いての模様の塗布は、アルダレス洞窟の他の事例でも存在する、長期の伝統に深く根差した発展と見なすことができます。したがって岩絵は、ほぼ同じ種類の象徴的行動を表す、マルトラビエソ(Maltravieso)洞窟やラパシエガ(La Pasiega)洞窟(関連記事)やエルカスティーヨ洞窟(関連記事)やゴーラム洞窟(Gorham's Cave)遺跡(関連記事)など、イベリア半島の他の洞窟遺跡群で見られる中部旧石器時代の手のステンシルや幾何学的痕跡とともに、ヨーロッパで場所に模様を残す形態として始まったかもしれません。

 アルダレス洞窟との類似性を有するより多くの塗布が、将来イベリア半島で特定され、中部旧石器時代と年代測定されるだろう、と本論文は予測します。上部旧石器時代の洞窟芸術は技術的にも主題的にもより複雑ですが、標識や手のステンシルはその中で重要な役割を果たしています。アルダレス洞窟や他のイベリア半島の遺跡群で特定されたような塗布は、社会的複雑化と関連する新たな必要性が、より多様で革新的な技術的慣行に支えられた新規の象徴的伝統の出現を誘発した、長い過程の前段階を表しているかもしれません。

 なお、本論文の刊行後に公表された研究では、フランス地中海地域における5万年以上前の現生人類(Homo sapiens)の存在が報告されており(関連記事)、中部旧石器時代のヨーロッパの洞窟遺跡における象徴的表現については、ネアンデルタール人独自の所産である可能性とともに、現生人類からの影響、もしくはネアンデルタール人と現生人類の相互作用の結果である可能性も想定しておくべきだと思います。ただ、現時点での証拠からは、5万年以上前のヨーロッパの現生人類は、ヨーロッパから撤退したか、絶滅したか、ネアンデルタール人集団に吸収され、その遺伝的痕跡をヨーロッパのネアンデルタール人集団に全く或いは殆ど残さなかった、という可能性が高そうです。


参考文献:
Martí AP. et al.(2021): The symbolic role of the underground world among Middle Paleolithic Neanderthals. PNAS, 118, 33, e2021495118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2021495118

https://sicambre.seesaa.net/article/202207article_10.html
4:777 :

2024/01/05 (Fri) 03:36:30

雑記帳
2018年10月13日
6万年以上前とされたイベリア半島の洞窟壁画の年代の見直しへの反論
https://sicambre.seesaa.net/article/201810article_23.html

 6万年以上前とされたイベリア半島の洞窟壁画の年代の見直しへの反論(Hoffmann et al., 2018C)が公表されました。今年(2018年)2月に、スペインの洞窟壁画の年代が6万年以上前までさかのぼると公表され(Hoffmann論文)、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の所産である可能性が高いということで、大きな話題を呼びました(関連記事)。具体的には、北部となるカンタブリア(Cantabria)州のラパシエガ(La Pasiega)洞窟、ポルトガルとの国境に近く西部となるエストレマドゥーラ(Extremadura)州のマルトラビエソ(Maltravieso)洞窟、南部となるアンダルシア(Andalucía)州のアルダレス(Ardales)洞窟です。

 もっとも、これら3洞窟の壁画が現生人類(Homo sapiens)の所産である可能性も一部で指摘されていましたし(関連記事)、そもそも年代に疑問が呈されていることも当ブログで取り上げました(関連記事)。先月(2018年9月)、これら洞窟壁画の年代で古いものには肯定的証拠がなく、新しい年代は信頼性が高いものの、「芸術的」表現とは言えない、と指摘した批判(Slimak論文)が公表されました(関連記事)。本論文はこの批判への反論となります。以下、本論文の内容を短くまとめました。

 Slimak論文は、Hoffmann論文の見解が正しいとすると、ヨーロッパの洞窟壁画に25000年の空白期間が存在する、と指摘します。じゅうらい、ヨーロッパで最古の洞窟絵画はスペイン北部のカンタブリア州にあるエルカスティーヨ(El Castillo)洞窟で発見されており、40800年前頃以前と推定されていました(関連記事)。Hoffmann論文はヨーロッパにおける洞窟壁画の年代が65000年前よりもさかのぼると推測したので、そうだとすると、ヨーロッパの洞窟壁画に25000年の空白期間が存在する、というわけです。しかし、それはHoffmann論文を誤解したためで、Hoffmann論文はそうした空白期間(中断)の存在を示唆していません。アルダレス洞窟の壁画のうち、年代の根拠とされた標本の一つであるARD16の45900年前という下限年代と、ARD 08・09・06標本の63700年前という上限年代および32100年前という下限年代は、Slimak論文の云う「空白期間」に該当します。じっさい、Hoffmann論文の65000年以上前の壁画を除外しても、数百点もの壁画と関連する年代値が、空白期間に該当します。またSlimak論文は、アルダレス洞窟の47000年前頃以降の赤い堆積物で覆われた二次生成物の年代の信頼性は高いと指摘しつつも、それが人為的なのか疑問を呈していますが、100年以上の研究で人為的と確定しており、さらには技巧的との認識すらあります。

 Hoffmann論文にたいするSlimak論文の疑問は、(1)年代測定の試料となった炭酸塩は、信頼性の高い年代が得られる「閉鎖系」ではなく、「開放系」だったのではないか、(2)炭酸塩形成中の原料となる水に含まれている「非放射性」トリウム230により測定年代がじっさいより古くなってしまう可能性、(3)炭酸塩形成中の原料となる砕屑物による年代補正、という3点となります。本論文は、Slimak論文のこれら3点の疑問を検証しています。

 (1)Slimak論文が指摘するように、Hoffmann論文は系列的な標本抽出方法論を開放系か閉鎖系かの検証に用いました。第二次標本の年代は層序学的に正しく、外側から内側へと顔料に近づくにつれて、年代が古くなります。開放系では、第二次標本の年代学的順序がこのように秩序だっていることはほとんどあり得ません。Hoffmann論文は複数の第二次標本を用いて検証しており、閉鎖系ではなく開放系の炭酸塩を年代測定の試料としたのではないか、との疑念は払拭されます。

 (2)炭酸塩形成中の原料となる水に含まれている、いわゆる非放射性トリウム230の問題に関して、Hoffmann論文では、壁画の年代を測定した3ヶ所の洞窟すべてで、標本のなかに1000年前以降と年代測定されたものもありました。この結果は、水滴などによりトリウム230が形成中の炭酸塩に多く含まれ、実際よりも古い年代値が得られた、とする仮説とまったく一致しません。水滴などによりトリウム230が形成中の炭酸塩に多く含まれたとすると、ウラン-トリウム年代法では1000年前以降という新しい年代は得られないからです。

 (3)炭酸塩形成中の原料となる砕屑物汚染の補正を考慮すると、ラパシエガ洞窟の標本(PAS34c)に大きな不確実性があるの確かで、Hoffmann論文でも補足で長く議論されました。Hoffmann論文は、選択した補正要因が、同じく砕屑物補正の影響を受けるウラン234/ウラン238の比率から見ても適切だと示しました。Slimak論文は、ラパシエガ洞窟の他の全標本と一致しない、PAS34cのウラン234/ウラン238比率を利用するよう提案しますが、その効果を説明していません。さらに、PAS34cを除外しても、ラパシエガ洞窟の他の標本であるPAS34aとPAS34bは53000年前という下限年代を示しており、ラパシエガ洞窟の壁画が上部旧石器時代よりも前であることを示唆しています。

 Slimak論文は、Hoffmann論文の結果に由来する年代線に基づき、PAS34の年代がもっと新しい、と論じています。しかし、3点のデータポイントに由来する年代線は妥当ではなく、最低限5点が必要となるでしょう。さらに、これらの皮殻タイプが短期間で形成されるとの推測は、以前の結果からは支持されません。ウラン-トリウム年代法により系列的に年代測定された流華石への仮説的例示からは、Slimak論文の年代線の誤りがどのように生じるのか、示します。Slimak論文の年代線は25000年間の洞窟壁画の空白期間という仮説と一致しませんし、その高い砕屑物補正は大まかに言って、標本が同年代という間違った推測の結果です。Slimak論文の年代線は、より新しい標本の結合に偏向しています。Slimak論文の手法は、PAS34a・b・c標本が同時代だと示せなければ、不適切です。

 炭酸塩標本は、砕屑物のトリウムによりある程度は汚染され、Slimak論文が提案した、トリウム232/ウラン238比もしくはトリウム232/ウラン234比の測定に基づく信頼性の閾値は完全に恣意的です。より重要なのは、適用された補正年代の信頼度です。各遺跡への年代とトリウム232/ウラン234比の間に明確な正の相関性はなく、その年代は砕屑物補正とは比較的関連していません。アルダレス洞窟では、標本ARD5およびARD13bの現実的なウラン238/トリウム232比の値は、依然として59000年前という下限年代を示します。この標本の補正年代がSlimak論文の推測する47000年前以降と示すには、ひじょうに非現実的な砕屑物性のウラン238/トリウム232比が要求されます。Hoffmann論文の砕屑物に関する年代補正は堅牢です。

 マルトラビエソ洞窟の標本は、より高い砕屑物のトリウムにより特徴づけられます。したがってHoffmann論文では、砕屑物構成を直接的に特徴づける余分な努力がなされました。マルトラビエソ洞窟からの堆積物が集められ、標本の砕屑物断片の代用物として分析されました。二次生成物柱もまた標本抽出され、一連の6点の成長層が年代測定され、堆積物に由来する補正を制御します。分析の結果、これらの標本は補正年代に大きく影響を及ぼすには充分ではない、と明らかになりました。Slimak論文は、マルトラビエソの手形は中部旧石器時代になる、というHoffmann論文の見解に疑問を呈しましたが、それは単一の標本に基づいた年代だという不正確な認識に基づくもので、退けられます。マルトラビエソ洞窟の一部の壁画の年代は、63600+9600-8400年前と推測されます。

 現時点での証拠に基づくと、ヨーロッパにおいて洞窟壁画は65000年前以前に始まって、旧石器時代にわたってずっと断続的に描かれた、との想定が最もあり得そうです。Slimak論文は、ヨーロッパ中央部のボフニチアン(Bohunician)とフランス地中海沿岸のネロニアン(Neronian)という二つの複合技術の年代が5万年前頃で、現生人類と関連している可能性を指摘します。Slimak論文は、年代の信頼性が高いと主張する、アルダレス洞窟の47000年前頃以降の赤い堆積物が人為的か疑問を呈していますが、上述したように、人為的である可能性は高いでしょう。しかし、それが人為的だったとしても、47000年前頃にヨーロッパに現生人類が到達していた可能性を指摘することで、ネアンデルタール人は洞窟壁画を描けなかった、と主張する人々にとって、Slimak論文の見解は受け入れやすくなっています。しかし、Hoffmann論文を改めて検証した結果、その推測には根拠がありませんでした。ヨーロッパ最古の現生人類はルーマニアのワセ1(Oase 1)下顎骨で、年代は4万年前頃以降です(関連記事)。一方、直接的に年代測定された5万~4万年前頃のネアンデルタール人遺骸は、ヨーロッパ中で確認されています。これらの年代的なパターンは、ヨーロッパ最初の洞窟芸術の制作者がネアンデルタール人だと示唆しています。

 以上、ざっと本論文の指摘を見てきました。私は門外漢なので、ただちに的確な結論を下すことはとてもできませんが、乏しい知見で判断すると、本論文の反論の方にずっと説得力があるように思います。現時点では、ヨーロッパにおいて洞窟壁画を初めて描いたのはネアンデルタール人で、現生人類の影響はなかった、と考えるのが節約的だと思います。もちろん、現生人類がアフリカで独自に洞窟壁画を描き始めていたとしても不思議ではなく、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Hoffmann DL. et al.(2018C): Response to Comment on “U-Th dating of carbonate crusts reveals Neandertal origin of Iberian cave art”. Science, 362, 6411, eaau1736.
https://doi.org/10.1126/science.aau1736

https://sicambre.seesaa.net/article/201810article_23.html
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2024/01/12 (Fri) 08:27:32

西洋美術史入門第1回「原始美術」―旧石器時代の絵画(アルタミラ、ラスコーの洞窟壁画)と彫刻(「ライオン人間」、「原始のヴィーナス」像) - YouTube
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