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エドゥアール・マネ(フランス パリ 1832年1月23日 - 1883年4月30日)

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2023/12/24 (Sun) 10:46:54

世界の名画・彫刻
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エドゥアール・マネ(Édouard Manet, 1832年1月23日 - 1883年4月30日)
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エドゥアール・マネの絵を部屋に飾ろう
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2024/01/01 (Mon) 23:18:25

サロンで評価されなかった印象派画家たち
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そんな斬新な手法を生み出した印象派ですが、サロン・ド・パリ(通称・サロン)ではまったく評価を受けませんでした。サロンというのは古典主義に没入していた国立美大が運営していたんです。つまり、まず風景画ってだけでちょっと不利。しかも、この筆触がはっきり残っている手法ってそれまで観たことないわけです。

だから「え? なにこれ、下書きなん?」と、もうボロクソに叩かれまくります。それに印象派の画家たちは「保守派過ぎるやろ。新しい表現も認めろや」と完全にキレかかっていたわけです。

そんな怒りが頂点に達したのが1863年、印象派のリーダー的存在だったエドゥアール・マネの「草上の昼食」が落とされたときです。マネは当時の貴族の中でブームだった「裸の娼婦を連れてピクニックにいく」という遊びをそのまま描いたんですね。


エドゥアール・マネ『草上の昼食』
, Public domain, via Wikimedia Commons

ことわっておくと、マネは印象派のリーダー的指導者ですが、目指していたことは印象派とは違います。印象派は「黒使うの禁止な!」と仲間内で約束していましたが、マネは「いやいや、黒いるやろ」と使い続けています。

この1963年のサロンでは「草上の昼食」をはじめ、印象派の絵がかなり多く落とされた年であり、落選数の多さに、当時のフランス皇帝・ナポレオンが「落選者展」を開催したほどです。そこで「草上の昼食」はめちゃめちゃスキャンダルを起こします。なぜなら、とうじ裸婦像は宗教画でしか許されなかったものだったんですね。「現実世界の女を裸で描くとは何事か!」ってなるんです。


そんな印象派たちは「もうサロンが評価してくれないんやったら、自分たちで展覧会開催しようや」と思い立ち、1973年に「第一回印象派展」を開催します。

その展覧会には保守的な批評家がやってきて「実像がない印象みたいな絵ですな(笑)」「その通りですな(笑)」と酷評されるんですね。ちなみに「印象派」という名前はこの批評家のセリフから付けられた名前です。古き良きサロンとしては、この新しい表現を認めるわけにはいかなかったんです。

しかし印象派は市民たちには支持されるんです。この背景には先ほどの進化論をはじめ、産業革命によって「フランスの国全体がリアリストっぽい考えになっていたこと」があります。また、1841年にはフランスのストラスブール~バーゼル間にヨーロッパ初の国際路線が開通していました。これによって「風景」の需要が高まっていたこともあります。

実は画壇ばっかりが「絵画はしっかりしたデッサンで宗教画(神話画)を描けよ」と言い続けていたわけで、市民は「風景がいいじゃん。印象派の絵って、家に飾っておきたい感じするよね~」と肯定的だったんですね。

結局、印象派展に参加しなかった指導者・マネ

エドゥアール・マネ『ル・ボン・ボック』
, Public domain, via Wikimedia Commons

「指導者だが印象派でない」という微妙過ぎるポジションだった画家・マネについて触れておきましょう。印象派展は第8回まで開催されますが、マネは1度も参加していません。

というのも、彼は「サロンの古い考えを新しい展示会で改革しようや」という印象派たちの考えには賛同していないんですね。それより「あくまでサロンで勝負すべき」と考えていた。印象派の面々よりも保守的だったんですね。言い方を変えると「あえてアウェーでサロンの古い考えを変える」ために挑んだ人です。

だから印象派とは距離を置いているわけです。ただモチーフはサロン好みの宗教画や神話画ではない。都市部の人の生活を、あくまで「あるがまま」に描きました。ちなみに彼自身が上流階級だったので、上流階級の人の生活を良く描いています。酒を飲んで女性といちゃついている人の生活をそのまま描いていた。

だから当時の批評家たちはマネを「印象派」と勝手に括っちゃったわけです。今でもマネは印象派の一員と紹介されがちですが、実は微妙に違います。
https://irohani.art/study/7039/

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