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津本英利『ヒッタイト帝国 「鉄の王国」の実像』

1:777 :

2023/12/09 (Sat) 10:56:42

雑記帳
2023年12月09日
津本英利『ヒッタイト帝国 「鉄の王国」の実像』
https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_9.html

https://www.amazon.co.jp/%E8%AC%8E%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E7%8E%8B%E5%9B%BD-%E3%83%92%E3%83%83%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%EF%BC%88%E4%BB%AE%EF%BC%89-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%B4%A5%E6%9C%AC-%E8%8B%B1%E5%88%A9/dp/4569854575


 PHP新書の一冊として、PHP研究所より2023年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書冒頭で指摘されているように、日本語のヒッタイト専門の一般向け書籍はないかもしれず、私も思い浮かびません。日本語の一般向け書籍でヒッタイトが取り上げられているとなると、古代オリエント史の一部であることがほとんどでしょう。その意味で本書はたいへん貴重と言えそうで、日本語で読めるヒッタイトの一般向けの入門書的な通史として、長く読み続けられていくことになりそうです。また本書冒頭で、ヒッタイト語の片仮名表記は難しく、たとえばヒッタイトの都の呼称として、「ハットゥッサ」と「ハットゥッシャ」のどちらが正しいのか確証できないことも指摘されています。

 本書でまず指摘されているのは、ヒッタイト帝国は当時「ハッティ国」と呼ばれており、「ヒッタイト」は現代の英語での呼称ということです。「ハッティ国」は元々アナトリア半島中央部の地域名称で、その住民は「ハッティの人々」と呼ばれていました。ここには遅くとも紀元前2000年頃にはインド・ヨーロッパ語族話者が出現し、先住民と考えられる「ハッティの人々」を支配するようになります。最近の古代ゲノム研究では、インド・ヨーロッパ語族とヒッタイト語などアナトリア語派の共通祖語を話す集団が新石器時代のアジア西部に存在し、ユーラシア草原地帯とアナトリア半島へと移動したことで言語が分岐していった、と推測されています(関連記事)。この新たな支配者の言葉はヒッタイト時代には「ネシャ語」と呼ばれており、これが現在では「ヒッタイト語」と呼ばれています。ネシャ語話者は自国を「ハッティ国」と呼び続けました。ハッティ語はいわゆる孤立言語で、周辺のどの言語とも共通性が確認されていません。「ネシャ」とはアナトリア半島中央部のカネシュという町に由来し、「k」音が経時的に発音されなくなる傾向にあるインド・ヨーロッパ語族では「k」音が脱落し、「ネシャ」と呼ばれるようになったわけです。

 カネシュは現在のキュルテペ遺跡で、古アッシリア語の楔形文字で書かれた粘土板文書が大量に出土しています。この粘土板文書を残したのは、地元のアナトリア半島住民ではなく、アッシリアから到来した商人でした。当時、アナトリア半島にはまだ独自の文字がありませんでした。アッシリア商人はアナトリア半島各地に、都市国家の王から許可を得て、居留地(カールム)を設置しました。そうした各地のカールムを統括する最大のカールムがカネシュにありました。アッシリア商人は、メソポタミアでは乏しく、アナトリア半島には豊富な地下鉱物資源を求めて、アナトリア半島に到来しました。大量の粘土板文書からは、当時のアナトリア半島には、ネシャ語(ヒッタイト語)の他に、ヒッタイト語に近いルウィ語や、ミタンニ(ミッタニ)国のフリ人の系統不明の言語、アッシリア人のセム系言語など、多様な言語の存在が示されます。ヒッタイトの粘土板文書の特徴は、公的文書のみで私的文書がなく、その大半を宗教文書が占めることです。これは、紀元前3000年頃の成立当初より粘土板文書のほとんどが私的な経済文書で占められているメソポタミアとは対照的です。ヒッタイトでは、宗教関連以外の文書の多くは、木の板に蝋を塗り、先端の尖った金属で蝋を引っ掻いて記録されていたようで、そのために宗教関連以外の文書が残りにくかったようです。

 当時のアナトリア半島では都市国家が分立して構想しており、その中からヒッタイト帝国が台頭します。アッシリア商人の残した史料にはカネシュのさまざまな王の名が見え、その中でピトハナとアニッタの親子が後にヒッタイト帝国で遠祖と崇められていたようです。アッシリア商人は紀元前1700年頃以降アナトリア半島に来なくなったようなので、アニッタからヒッタイト帝国成立までの同時代史料はなく、その間の経緯は曖昧です。アッシリア商人がアナトリア半島に到来しなくなった理由としては、この頃のアナトリア半島中央部の都市遺跡のほとんどで攻撃に起因すると思われる火災層が発見されているので、戦乱を避けたのではないか、と推測されています。ただ、土器などの考古資料からは、紀元前18世紀までのカールム時代とその後の古ヒッタイト時代との間で大きな断絶は見られないそうです。

 ヒッタイト帝国の初代の王は、紀元前17世紀頃のラバルナと伝えられていますが、後代の粘土板文書で登場するだけで、不明な点が多いそうです。ただ、後のヒッタイト王は「大王」を意味する称号として、ラバルナに由来する「タバルナ」を名乗ったので、ヒッタイト帝国の太祖として認識されていたのは間違いないようです。紀元前14世紀以降の「帝国期(新王国時代)」にはタバルナの称号は使われなくなり、「我が太陽」との称号が一般的になります。ラバルナの次のハットゥシリ1世は実質的なヒッタイト帝国の初代王で、ハットゥッシャ(ボアズキョイ遺跡)に遷都しましたが、ハットゥッシャはアニッタにより破壊され、再興されないよう呪いまでかけられていた、と伝わっています。また、ハットゥシリはラバルナの王妃(タワナンナ)の兄弟の息子で、ラバルナの息子が7人いると伝わる中で、ラバルナとの血縁関係はさほど近くなかったようです。ヒッタイトの王妃の権力の大きさから、とくに初期ヒッタイト王権は女系原理で相続されていた、との説も提示されています。また、複数の都市国家連合として成立したヒッタイト帝国は、婚姻で結びついた二つの王統(ザルプワ・ハットゥッシャの北方連合とクッシャラ・カネシュの南方連合)が互いに王位を継承していた、との説も提示されています。

 ハットゥシリ1世はハットゥッシャに遷都後、一代でアナトリア半島中央部を統一し、さらには南進してシリアの都市国家を次々と服属させます。ハットゥシリ1世は子供たちに裏切られ、王位は孫のムルシリ1世が継承します。ムルシリ1世はバビロンにも遠征してバビロン第一王朝を滅ぼすなど、勢力を拡大しますが、さすがにメソポタミアの支配を維持することはできませんでした。ムルシリ1世は義弟のハンティリに殺害され、ハンティリが王となります。ヒッタイトでは義兄弟にも王位継承資格が認められていたようで、ハンティリ1世は息子とともに娘婿のジダンタに殺され、新たに即位したそのジダンタ1世は実の息子に殺害されるなど、同様の簒奪が繰り返され、ひったいの王権は不安定でした。こうした混乱の末に即位したテリピヌは、王位は王妃の息子(嫡出の王子)が男系原理で継承し、嫡出の王子がいない場合は非嫡出の王子、それもいなければ嫡出の王女の婿が王位を継承するよう、定めます。テリピヌの治世には、王位継承争いや不作などで弱体化したヒッタイト帝国の立て直しが図られ、官僚機構の整備やバビロニア式の楔形文字氷期が導入され、農民の零細化防止のため財産の分割相続が制限されました。テリピヌの治世は古ヒッタイト時代の終わりとされますが、その後の中期ヒッタイト時代(テリピヌの治世の紀元前16世紀末~シュッピルリウマ1世の紀元前14世紀半ば頃)にも、王位継承の内紛は続き、外敵の脅威もありました。

 中期ヒッタイト時代は、トゥトハリヤ1世の治世を除いて、ヒッタイト帝国にとって内憂外患の苦難の時期だったようです。内憂とは古ヒッタイト時代から繰り返される王位継承争いや不作で、外患とはヒッタイト帝国の南方にいたフリ人のミタンニ王国や、北方のカシュカ族でした。シリア北部のミタンニ王国は交易路を抑えて経済的に繁栄し、戦車(チャリオット)の扱いに長けており、軍事力が優れていたようです。ヒッタイトの軍隊は、常備軍と属国からの補助軍と臨時の徴兵軍と傭兵などから構成され、常備軍の兵士になれたのは自由民のみでした。カシュカ族は都市や統一国家を建設しなかったものの、ゲリラ戦のような襲撃で長きにわたってヒッタイトにとって最大の脅威となりました。ヒッタイト帝国中興の祖となったトゥトハリヤ1世は、即位直後から遠征を繰り返し、ヒッタイト帝国の勢力範囲はエーゲ海にまで及びます。しかし、トゥトハリヤ1世の後継者である娘婿のアルヌワンダ1世の治世にはカシュカ族の攻撃に悩まされ続け、ヒッタイト帝国の安定と繁栄は長続きしませんでした。アルヌワンダ1世の治世には、王の印章の銘文にヒッタイト語楔形文字とルウィ語象形文字が併用されるようになり、ルウィ人の文化はフリ人の文化とともにヒッタイト帝国内で大きな比重を占めるようになっていきます。アルヌワンダ1世とその息子で後継者のトゥトハリヤ2世の治世には、ヒッタイト帝国にとって情勢はさらに悪化し、首都のハットゥッシャも攻撃されたようです。

 この危機的状況でヒッタイトを古代オリエント世界の大国に押し上げたのは、トゥトハリヤ2世の息子で、紀元前14世紀半ばに即位したシュッピルリウマ1世でした。シュッピルリウマ1世はトゥトハリヤ2世の後継者となった兄弟のトゥトハリヤ3世を殺害して即位し、周囲の勢力を遠征や婚姻などで制圧していき、強敵のミタンニ王国の内紛に乗じてミタンニ王国の属国化に成功します。この間、ミタンニ王国がエジプトと提携したため、ヒッタイトはエジプトと対立するようになります。シュッピルリウマ1世の時代は有名なツタンカーメンの治世とも重なっており、ツタンカーメンの死後にその王妃がシュッピルリウマ1世に、息子の一人を次のエジプト王として送るよう、要請したこともありました。ヒッタイトとエジプトの属国支配の違いとしては、ヒッタイトが一定の独立性を認めて間接的支配に留めたのに対して、エジプトは直接的支配を志向したことが挙げられています。

 エジプト人捕虜からヒッタイトに疫病が広まり、シュッピルリウマ1世とその息子で後継者となったアルヌワンダ2世が相次いで没した後に即位したのは、アルヌワンダ2世の弟であるムルシリ2世でした(紀元前1322年頃)。おそらくは即位が予定されておらず、経験に乏しいムルシリ2世を周辺諸国は侮ったようです。しかし、ムルシリ2世は即位直後から積極的に遠征を繰り返し、敵対的な周辺勢力を制圧していきます。ただ、ヒッタイトはシュッピルリウマ1世の晩年から続く疫病で疲弊していたようです。ムルシリ2世の後継者となった息子のムワタリ2世の治世に起きたのが、有名なカデシュの戦いです(紀元前1274年)。カデシュの戦いについてはエジプトとヒッタイトの両方で記録が残っており、エジプト王のラメセス2世は自軍の大勝を碑文や壁画などに華々しく残していますが、ヒッタイト側では、後代の王により簡潔な勝利の記録が残されているだけです。そのため、カデシュの戦いについてはほぼエジプト側の資料に依拠するしかありません。ただ、ムワタリ2世は在位中にハットゥッシャからタルフンタッシャに遷都しており、タルフンタッシャの所在地が不明なため、その遺跡が発見されれば、もっと詳しいヒッタイト側の記録が発見される可能性もあるそうです。

 ムワタリ2世の後継者は息子のムルシリ3世でしたが、ムワタリ2世の弟であるハットゥシリ3世に王位を簒奪されます。ムルシリ3世は父の在位中から共同統治者だったようで、即位後はハットゥシリ3世の輔弼を受けて、まずタルフンタッシャからハットゥッシャに遷都(還都と言うべきでしょうか)します。この時期、ミタンニ王国から独立したアッシリアが次第に勢力を拡大し、ヒッタイトとアッシリアの関係は悪化していきます。ムルシリ3世とハットゥシリ3世の関係は悪化し、ヒッタイトを二分する争いになりましたが、属国や有力貴族の多くはハットゥシリ3世を支持し、ムルシリ3世は北シリアの属国であるヌハッシェに亡命します。ハットゥシリ3世はシリアを巡って長く対立してきたエジプトのラメセス2世と紀元前1259年に和睦し、これは「世界最古の和平条約」と一般的に呼ばれています。ヒッタイト帝国の外交の特徴は、条約が法人格としての国家同士の締結ではなく、王個人同士のものだったことです。一方でこの時期には、ヒッタイト西方では反乱が起きるなど、不穏な状況も見られました。ハットゥシリ3世の後継者となったトゥトハリヤ4世の治世には、アッシリアに対して防戦一方となったり、西方情勢の不穏が続いたりと、ヒッタイトの対外的勢威は振るわなかったようです。

 トゥトハリヤ4世の死後にその息子のアルヌワンダ3世とシュッピルリウマ2世が即位し、シュッピルリウマ2世が記録に残る最後のヒッタイト王となります。この頃には、ヒッタイトは内戦や属領の自立により、以前のような帝国としての内実は失われており、ハットゥシリ3世の頃から飢饉や食糧不足もつづいていたようです。紀元前1180年頃を最後にヒッタイト語の記録は途絶え、その後のヒッタイトの消息は、同盟国だったエジプトの碑文に見えるだけです。この碑文には、ヒッタイトは「海の民(これ自体は近代の名称)」という混成集団に滅ぼされた、とあります。紀元前1200年頃以降、エーゲ海沿岸から東地中海沿岸にかけてミケーネ文化の彩文土器と似ている「ミケーネ3C式土器」が広く出土するようになり、「海の民」の移動により各地へ持ち込まれたと考えられていますが、この彩文土器がアナトリア半島で出土するのはおもに沿岸部で、内陸部ではほとんど出土していません。同じく紀元前1200年頃以降、アナトリア半島西部や地中海沿岸にヨーロッパと共通する青銅製の武器や道具が出土するようになりますが、これもアナトリア半島内陸部では出土していません。つまり、ヒッタイト本国では「海の民」の痕跡が確認できないわけですが、ヒッタイト末期にハットゥッシャ(ボアズキョイ遺跡)など各都市が炎上していることも確認されています。

 ヒッタイト滅亡後のアナトリア半島は、かつて文字記録だけではなく土器も見つかっておらず、「暗黒時代」と呼ばれていましたが、その後は「暗黒時代」の土器が次々と確認されています。これらの考古学的成果も踏まえて今では、ヒッタイト帝国の滅亡に「海の民」が直接的に関わっていたわけではないものの、その活動が契機となり、ヒッタイト帝国を支えていたさまざまな制度は機能不全に陥り、属領の自立や内戦などの連鎖につながって、ヒッタイト帝国は滅亡した、と考えられています。ただ、ヒッタイト帝国の滅亡とともに楔形文字によるヒッタイト語(ネシャ語)表記の伝統も滅びましたが、ヒッタイト帝国中期以降に盛んになったルウィ語象形文字による筆記の伝統がヒッタイト帝国滅亡後も500年間ほど続くなど、紀元前1200年以後もヒッタイト系統の文化や人々は、おもにアナトリア半島南東部からシリア北部にかけて生き延びていたようです。また、ヒッタイト帝国の二つの副王国であるカルケミシュとタルフンタッシャは存続し、少なくとも紀元前1000年頃まではヒッタイト王家傍流の伝統を維持したようです。こうした後期ヒッタイト諸国は、やがてアッシリアに併合されていきます。

 ヒッタイトの王はとくに初期には軍事指導者的性格が強く、同時に宗教的および法的代表者(権威)でもありました。ヒッタイトの土地所有では小土地所有者が多く、経済的には、牧畜と農耕の混合で生計を立てる小規模自営農民が主体だったようです。ヒッタイトでは判例集に近いような法典も整備されましたが、有名なハンムラビ法典との大きな違いは、同害復讐法が存在せず、被害者に対する補償が強調されていることです。ただ、身分や罪の大きさにより判決には揺れがあったようです。ヒッタイトの法典には、婚姻に関わる民法や物価の規定も含まれていました。ヒッタイトには奴隷も存在し、自由民と奴隷では法での扱いに差がありましたが、奴隷同士の婚姻や、奴隷と自由民の結婚は禁止されていませんでした。ただ、奴隷が自由民の女性と結婚しても、奴隷の身分は変わりませんでした。最大の奴隷供給源は、戦争による捕虜と強制連行された敵地の住民でした。

 ヒッタイトの信仰の特徴は、古代オリエント世界で共通する自然への畏敬や、自然界の神々を鎮めて祀るための祭礼と使節の多さです。これは、ヒッタイトの生産が揺らぎの多い天水農耕だったことと関係していたようです。また、神の多さと多様性もヒッタイトの信仰の特徴で、都市や山などさまざまな場所に神がいると考えられていました。そうあした神々の起源は、ヒッタイト帝国成立以前のハッティ人の神々や、ヒッタイト人(ネシャ語話者)の神々や、ヒッタイト語と近いルウィ語話者の神々や、ヒッタイトに征服されたフリ人の神々など、多様でした。本書は、ヒッタイトが古代オリエント世界において大国となった要因として、鉄器と戦車の使用だけではなく、アナトリア半島の多様な民族(的集団)を、その神々とともに自らの神々の世界に習合させたことにあるのではないか、と推測します。なお、ヒッタイトの王墓はまだ発見されていないそうです。

 ヒッタイトには鉄器を初めて本格的に使用した、もしくは発明して独占した国との印象も一般的にはあるかもしれません。こうした印象では、ヒッタイトの滅亡により製鉄技術が拡散し、鉄器時代が始まった、と認識されています。鉄の使用はヒッタイト帝国よりも前にさかのぼり、人類が最初に利用した鉄は隕鉄でした。鉄鉱石を製錬して作った鉄器は前期青銅器時代にさかのぼり、紀元前二千年紀には、隕鉄ではない鉄製品が文字および考古資料でも本格的に見られるようになります。ただ、鉄は当初武器や道具ではなく、貴金属のような扱いを受けていました。ヒッタイト帝国期の文字資料では鉄製品が言及されていますが、初期には槍先や笏といった王権などに関わる権威の象徴品だけで、後半の新王国時代には、武器や道具などでも鉄製品が言及されるようになります。ヒッタイトでは、鉄製品の生産は各地方都市で行なわれ、都のハットゥッシャに納められました。ヒッタイトにおける鉄製品の出土数は、同時代のアジア西部全体では多いものの、青銅製品の出土数と比較すると圧倒的に少なく、青銅器より鉄器の方が多く使われていたわけではないようです。当時の文書からも、ヒッタイト帝国が鉄を独占していたわけでも、秘匿していたわけでもなさそうです。ただ、紀元前1200年頃となるヒッタイト帝国滅亡とほぼ同時にアジア西部が鉄器時代に入ったことも確かで、これについては、青銅の流通および生産が危機に陥った結果の緊急回避的状況との仮説もありますが、決定的ではないそうです。
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2023/12/09 (Sat) 11:01:30

メソポタミア人の起源
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アナトリア半島人の起源
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レヴァント人の起源
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ペリシテ人の起源
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フェニキア人の起源
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レバノン人の起源
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コーカサス人の起源
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ヤグノブ人の起源
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アーリア人の起源
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インド・イラン語派やバルト・スラブ語派のアーリア人の Y染色体は R1a
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ケルト人、バスク人やゲルマン系アーリア人の Y染色体は R1b
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3-7. Y-DNA「J」   セム度・メソポタミア農耕民度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-7.htm

3-4. Y-DNA「R1a」  スラブ度・インドアーリアン度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-4.htm

シュメール神話の人類創世
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14139520

西洋の達人が悟れない理由
03. 中川隆 2011年1月29日 Ⅱ. エロスの深層
神様が人間を創った理由
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/385.html

アナーキストが誰にも相手にされない理由 _ 一般大衆は自由であるよりも支配されることを望んでいる
アダムとイブはサタンのお陰で神の専制支配から逃れることが出来た。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/737.html

異教徒は「人間」ではないので殺してもいい
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/798.html


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