777投稿集 2607249


沖縄島と宮古諸島の人類集団の形成史

1:777 :

2023/11/03 (Fri) 08:31:21

雑記帳
2023年11月03日
沖縄島と宮古諸島の人類集団の形成史
https://sicambre.seesaa.net/article/202311article_3.html

 沖縄島と宮古諸島の人類集団の形成史に関する研究(Koganebuchi et al., 2023)が公表されました。日本語の解説記事もあります。本論文は、現代人と古代人のゲノムデータに基づいて、宮古諸島と沖縄島の現代人集団の形成過程を検証しています。本論文は、琉球諸島の現代人集団が、共通の琉球「縄文人」集団を祖先として、グスク時代における本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」からの移民による強い遺伝的影響下で成立したことを示しています。本論文の見解は大枠では正しい可能性がきわめて高そうですが、今後、琉球諸島の古代ゲノム研究の進展により、琉球諸島の現代人集団の形成過程がより詳しく解明されていくのではないか、と期待されます。


●要約

 琉球諸島は日本列島の最南端に位置し、いくつかの島嶼群から構成されます。各島嶼群には独自の歴史と文化があり、日本列島本土のそれとは異なります。琉球諸島の人々は遺伝的に細分化されますが、その詳細な人口統計学的歴史は不明なままです。本論文は、宮古諸島と沖縄島の住民間の遺伝的分化に焦点を当てて、琉球諸島の計50人の全ゲノム配列決定分析の結果を報告します。宮古諸島と沖縄島の住民は主成分分析(principal component analysis、略してPCA)およびADMIXTURE分析で異なってクラスタ化し(まとまり)、宮古諸島の人々には人口構造が存在する、と確証されました。

 本論文は、人口分化がおもに。日本列島本土もしくは台湾など主変地域からの移住率の違いではなく、遺伝的浮動により起きた、との仮説を裏づけます。さらに、宮古諸島と沖縄島で観察された遺伝的勾配は、これらの島々を越えての繰り返しの移住により説明できます。本論文の分析から、新石器時代の琉球縄文時代における複数の亜集団の存在は、琉球諸島の現代の人口集団の説明に重要ではないことも示唆されました。しかし、日本列島本土との混合の期間における複数の亜集団との仮定は、現代の琉球諸島の人口集団の説明に必要です。本論文の調査結果は、琉球諸島の複雑な人口史の解明に役立てる洞察を追加します。


●研究史

 琉球諸島は日本列島の差異何分に沿って1000km以上にわたって分布する島嶼で、主要な4諸島、つまり奄美諸島と沖縄諸島と宮古諸島と八重山諸島に別れています(図1)。九州本土と沖縄諸島、沖縄諸島と宮古諸島、宮古諸島と石垣諸島、石垣諸島と台湾との間の距離は、それぞれ約660kmと290kmと120kmと290kmです。考古学的証拠から、これらの諸島は独自の発展や外部からの影響により異なる先史時代の分化を有していた、と示唆されてきました。以下は本論文の図1です。
画像

 日本列島では、旧石器時代の骨格遺骸は、港川フィッシャー遺跡(22000~20000年前頃)やサキタリ洞遺跡(37000~20000年前頃)やピンザアブ洞遺跡(29000年前頃)や白保竿根田原洞穴遺跡(16000年前頃と20000年前頃)など、ほぼ琉球諸島の亀裂から回収されてきました。旧石器時代の後に琉球諸島では、貝塚時代の期間(6700~700年前頃)の開始まで生息の証拠のほとんどない期間がありました。九州地域の縄文文化に影響を受けた貝塚文化の証拠は琉球諸島北部(奄美諸島と沖縄諸島)で発見されてきましたが、琉球諸島南部(宮古諸島と八重山諸島)では見つかっていません。したがって、この期間には琉球諸島の南北間に文化的境界が存在した、と提案されてきました。

 琉球諸島南部では、下田原文化(4200~3500年前頃)と無土器文化(2500~900年前頃)が確認されてきました。この二つの文化期の間には、約1000年間の時間的空隙がありました。琉球諸島南部におけるこれらの文化の起源については依然として議論されていますが、一部の考古学者の仮説は、これらの文化が台湾とフィリピン北部の分化に影響を受けた、というものでした。800年前頃、グスク文化が南北の琉球諸島に現れました。おそらくは日本列島「本土」からの移民と、「中国」との接触により、急速な文化的変化がもたらされました。文化的には南北の琉球諸島を統合したグスク文化は、農耕の出現と鉄器の拡大と競合的な政体により特徴づけられました。その後、琉球王国(1429~1879年)が確立され、政治的には琉球諸島を統一しました。琉球王国の独立統治は、400年前頃に九州南部の薩摩藩による支配のため終了しました。

 多くの人類学的研究が、日本人集団の歴史を再構築しようと試みてきました。古代DNAの最近の研究により、「縄文人」はアジア東部人の基底部系統から分岐し、長期にわたってアジア大陸部人口集団から孤立していた、と明らかにされてきました(関連記事1および関連記事2)。形態学および遺伝学の研究から蓄積された証拠は、現代の日本列島の人々が、弥生時代もしくはその後の期間における在来の縄文時代の狩猟採集民とアジア東部大陸部からの移民の混合により形成された、との仮説を裏づけます(関連記事)。ゲノム規模の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)と全ゲノム配列決定データから、琉球諸島現代人は遺伝的に「本土」日本人と異なっている、と示されてきました(関連記事)。琉球諸島現代人は「本土」日本人集団よりも「縄文人」からの遺伝的寄与を大きく受け取った、と示唆されてきました。

 以前の遺伝学的研究は、琉球諸島内の人口集団間の遺伝的分化も特定してきました。とくに、ゲノム規模SNPデータから、宮古諸島民は遺伝的に沖縄諸島民と区別でき、遺伝的分化はおもに、台湾先住民集団など琉球諸島を越えての遺伝子流動ではなく、これら人口集団間の孤立によって生じた、と示唆されています。沖縄諸島と宮古諸島の人々の間の分岐年代は数百もしくは最長でも数千年と推定されてきており、琉球諸島の旧石器時代の人々(2万年前頃)が琉球諸島現代人の主要な祖先ではなかった、と示唆されています。より新しい研究は宮古諸島内の人口構造を調べ、これは恐らく沖縄諸島からの複数の移住により形成されました。しかし、沖縄諸島と宮古諸島における人口集団の形成過程は、琉球諸島の「縄文人」とグスク時代以後の日本列島「本土」からの移民との間の混合を考慮して充分には検証されてきませんでした。

 本論文では、全ゲノム再配列決定(whole-genome resequencing、略してWGS)を用いて集団遺伝学的分析が実行され、琉球諸島の人々の詳細な人口統計学的歴史が解明されました。SNP配列を用いての先行研究では、確認の偏りのため、集団遺伝学的分析に情報をもたらすヌクレオチド多様性と部位頻度範囲の正確な評価は困難でした。WGSデータは、ある人口集団の人口統計学的歴史のより正確な推定値を提供する、と予測され、それは、WGSデータには確認の偏りがなく、稀な多様体に関しての情報を含んでいるからです。本論文は、沖縄諸島と宮古諸島の人々に焦点を当てて、人口集団の形成過程を決定し、過去の人口規模の変化を特定しました。本論文はとくに、琉球諸島の2ヶ所の地域が日本列島「本土」からの遺伝的影響の観点でどのように異なっているのか、調べました。


●資料と手法

 沖縄諸島の25人と宮古諸島の25人、計50人がこの研究に参加しました。沖縄諸島の25人は沖縄島出身で、宮古諸島の25人は沖縄西部情報銀行から特定され、その内訳は宮古島が17人、池間島が2人、伊良部島が4人、多良間島が2人です(図1)。各参加者の祖父母4人全員がそれぞれの島に住んでいる、と聞き取りで確認されました。DNAは血液もしくは唾液から採取され、WGSは(株)マクロジェン・ジャパンで行なわれました。欠損データの割合が0.10未満の、両アレル(対立遺伝子)一塩基多様体(Single Nucleotide Variant、略してSNV)が用いられました。琉球諸島民と本州住民と漢人からの全ゲノム配列決定と共同多様体呼び出しから、5863618個の多様体が見つかりました。Plink1.9版を用いて、近親交配系統(F)と対での同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)推定値(pi_hat)が計算されました。とくに密接な近親関係(Fが0.0625超もしくはpi_hatが0.125超)の個体は存在しなかったので、全標本が分析に用いられました。

 遺伝学的統計では、人口集団間の遺伝的差異の過大評価を避けるため、中国の漢人集団において変動的で、各人口集団で0.05超の少数派のアレル頻度を有するSNVのみが用いられました。対での加重平均FST(Fixation index、略して2集団の遺伝的分化の程度を示す固定指数)はsnpStatsパッケージを用いて計算されました。主成分分析(principal component analysis、略してPCA)は、EIGENSOFT(7.2.1版)のsmartpcaを用いて実行されました。人口集団のクラスタ化は、主成分1(PC1)および主成分2(PC2)でのk-平均クラスタ化によって確認されました。参照パネルとして、サイモンズゲノム多様性計画(Simons Genome Diversity Project、略してSGDP)から得られたアジア東部および南東部の人々のゲノム配列決定が用いられました。さらに、各個体における遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の程度を特定するため、モデルに基づくクラスタ化がADMIXTUREを用いて実行されました。K(系統構成要素数)=2~4まで、さまざまな数のクラスタ(まとまり)が検証されました。

 TreeMixが、分岐する人口集団の系統樹と混合事象を推測するために用いられ、PCAとクラスタ分析から推定された5クラスタを用いて、0~2個の混合端が適合させられました。中国の漢人は外群として設定されましたf₃およびf₄はAdmixToolsを用いて計算されました。qpGraph分析では、漢人と本州の人々と沖縄諸島の人々(OK)と宮古諸島南部の人々(S-MY)と宮古諸島北部の人々(N-MY)に加えて、北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の女性の「縄文人(F23)」のゲノムデータが用いられました。古代DNAデータを含めたため、分析は全てのSNVもしくは異性塩基対置換(transversion、プリン塩基、つまりアデニンおよびグアニンと、ピリミジン塩基、つまりシトシンとチミンとの間の置換)のみを用いて(1885361のSNV)実行されました。古代琉球諸島人口集団、つまり琉球諸島の「縄文人」と沖縄諸島の「縄文人」と宮古諸島の「縄文人」と沖縄諸島のグスク時代住民と宮古諸島のグスク時代住民を仮定して、以前に報告されたあり得る混合事象を含めて、人口史がモデル化されました。世代ごとの塩基対あたりの変異率は、1.25×10⁻⁸に固定されました。標本数の違いによる影響を検証するため、中国の漢人と本州の人々とOKとS-MYの集団で5点の標本が10回無作為抽出されたデータセットが準備され、同じ推定が実行されました。


●WGSデータにおける遺伝的差異

 沖縄諸島民(25個体)と宮古諸島民(25個体)から合計50個体のWGSデータが、平均深度36.3倍(最大で46.9倍、最小で29.4倍)で得られました。北京の中国の漢人(Chinese Han in Beijing、略してCHB)の1000人ゲノム計画の深い配列決定データから得られた、本州の日本人(25個体)と中国の漢人(25個体)のデータも用いられました。集団遺伝学的分析のためGATK3を用いて共同で多様体が呼び出され、5863618のSNVが特定されました。

 日本列島の3人口集団(沖縄諸島と宮古諸島と本州)の全ての組み合わせで、加重平均FSTが計算されました。本州対宮古諸島(4.70×10⁻³)は、本州対沖縄諸島(2.79×10⁻³)および沖縄諸島対宮古諸島(2.25×10⁻³)よりも高いFST値を示し、このパターンは距離による分離と一致する、と示唆されます。


●琉球諸島民の人口構造

 SGDPから得られた公開されていて利用可能な微小配列(マイクロアレイ)データセットの共同分析により、アジア東部および南東部人口集団における遺伝的構造パターンがPCAにより調べられました(図2A)。PC1は琉球諸島民(沖縄諸島と宮古諸島)を他のアジア東部および南東部人口集団と区別しました。PC1軸において琉球諸島民に最も近い人口集団は「本土」日本人集団で、それに続くのが韓国人および中国人集団です。しかし、台湾の先住民は、地理的に琉球諸島民にひじょうに近いにも関わらず、遺伝的に琉球諸島民から遠く離れていました。PC1とPC2の図のパターンは逆「U」字型を示し、これは人口集団の飛び石モデルで通常観察されるパターンです。したがって、PC2における距離は、人口集団間の遺伝的距離に関して直接的情報を提供しないかもしれません。以下は本論文の図2です。
画像

 次に、沖縄諸島民と宮古諸島民と本州の日本人と中国の漢人のPCAが実行されました(図2B)。k平均クラスタ化(k=6)後、中国の漢人と本州の日本人が独立したクラスタを形成しました。琉球諸島人口集団については、4クラスタが特定されました。沖縄諸島民24個体は宮古諸島民5個体とクラスタを形成し、これは本論文では沖縄(OK)クラスタ(図2Bの青色の円)と命名され、この宮古諸島の5個体は沖縄諸島からの最近の移民だった、と示唆されます。OKクラスタの隣のクラスタは、宮古諸島民11個体で構成されました。質問表によると、宮古諸島北部地域の宮古島と多良間島と伊良部島のこれらの個体は、他社との比較でひじょうに離れた位置にクラスタ化します(N-MYクラスタ、図2Bの赤色の円)。沖縄諸島民の1個体と宮古諸島民の4個体はN-MYとS-MYのクラスタ間に図示され、これらの個体は宮古諸島の2ヶ所の異なる地域間で混合した、と示唆されます。この観察は、これらの個体の祖父母の出生地の観点では、沖縄諸島民1個体を除いて、質問調査の結果と一致します。

 琉球諸島民全員のADMIXTURE分析では、最小交差検証誤差を提供するK値は2で、この場合、中国の漢人が一方の極(緑色)を、N-MYがもう一方の極(赤色)を形成し、残りの個体は中間的でした(図2C)。K=3と仮定すると、沖縄諸島民の祖先的構成要素(青色)が現れ、S-MYクラスタの個体群は2つの構成要素の間で混合を形成するようでした。


●琉球諸島民の人口史

 人口集団における系統発生的関係と過去の移住事象を推定するため、クラスタを人口集団とみなしてTreeMix分析が実行されました。0~3回の移住端を有する4点の図が図3で示されます。N-MYクラスタは枝が比較的長いと分かり、強い遺伝的浮動がこの人口集団で起きた、と示唆されます。残差の高い値から、移住なし(m=0)の系統樹モデルと移住1回(m=1)のモデルはデータにあまり適合しない、と示唆されました。2回の移住(m=2)もしくは3回の移住(m=3)のモデルは、データによりよく適合しました。m=2および3では、中国の漢人から本州の日本人への移住端は、おもに弥生時代におけるアジア東部大陸部から日本列島への移住を示唆した可能性が高そうです。

 しかし、他の移住端は、歴史的および考古学的知識に従って単純には解釈できません。ある移住端は本州およびOKクラスタの分岐点で始まり、S-MYクラスタで終わりましたが(m=2および3)、他の端はN-MYクラスタの分枝で始まり、本州日本人ので終わりました(m=3)。実際の人口統計学的歴史はより複雑かもしれず、TreeMix分析は移住端の数を過小評価し、モデルを単純化する可能性があります。そうした場合、枝の形態と長さが歪み、残差を最初化するよう非現実的な端が描かれるかもしれません。したがって、TreeMixの結果を慎重に解釈する必要があります。以下は本論文の図3です。
画像

 人口集団間の遺伝子流動をさらに評価するため、f₃およびf₄統計を用いてデータが検証されました。f₃検定(S-MY;N-MY、OK)は有意に負の値を返し(図4A)、S-MY人口集団がN-MYおよびOKの人口集団間の混合により形成された、と示唆されます。しかし、f₄(本州、OK;S-MY、N-MY)およびf₄(漢人、OK;S-MY、N-MY)検定は、ゼロから有意に逸脱せず(図4B)、OKおよびS-MYの人口集団間の相互作用はこれらの検定では有意ではなかった、と示唆されます。YとZが琉球諸島人口集団を表す f₄(漢人、本州;Y、Z)とf₄(ムブティ人、本州;Y、Z)とf₄(ムブティ人、漢人;Y、Z)を検証すると、統計は有意な値を返しませんでした。Zが琉球諸島人口集団を表すf₄(ムブティ人、漢人;本州、Z)は有意に負で、本州の人々は琉球諸島人口集団よりもアジア東部大陸部人口集団から大きな遺伝的影響を受けた、と示唆されます。以下は本論文の図4です。
画像

 f₄統計を用いて、「縄文人」からの遺伝的寄与も検証されました。「縄文人(F23)」のデータを含める、つまりf₄(ムブティ人、F23;Y、Z)だと、統計量の有意な値は「縄文人」の寄与率の観点ではYとZの人口集団間の違いを示します。その結果、琉球諸島人口集団への「縄文人」の遺伝的影響は本州の日本人より大きかった、と論証されました(図4B)。さらに、この結果は琉球諸島の3人口集団への「縄文人」の遺伝的影響に有意な違いがないことも示唆しました。これらの結果から、沖縄諸島と宮古諸島の人口集団間の遺伝的違いは、「縄文人」と弥生時代の移民との間、もしくは本州と琉球諸島の人口集団間の遺伝的差異とは独立した形成された、と示唆されます。

 台湾先住民(Taiwanese aborigines、略してTWA)からの遺伝子流動が、沖縄諸島と宮古諸島の人口集団間の遺伝的差異をもたらした可能性も検証されました。Zが琉球諸島人口集団を表すf₄(ムブティ人、TWA;本州、Z)の値は、ゼロから有意に逸脱しませんでした(図4B)。この結果から、TWAからの遺伝子流動は琉球諸島人口集団間の遺伝的分化の主因ではない、と示唆されます。

 琉球諸島人口集団がどのように形成されたのか調べるため、qpGraphを用いて過去の人口集団の分岐と混合がモデル化されました。考古学および人類学の証拠に基づいて、TreeMix分析での推定よりも複雑なモデルが仮定され、そのモデルでは、現代の琉球諸島人口集団はグスク時代もしくはその前に琉球諸島の先住狩猟採集民(琉球諸島「縄文人」)と日本列島「本土」からの移民との間の混合と、その後の人口集団間の相互作用で形成されました。この分析では、3通りの異なる仮定的状況が検討されました。第一の仮定的状況では、琉球諸島の「縄文人」集団が宮古諸島民と沖縄諸島民の祖先間で分化した、と仮定されました(図4C)。第二の仮定的状況では、琉球諸島には1「縄文人」集団だけが存在し、グスク時代の初期段階における琉球諸島の「縄文人」と日本列島「本土」の移民との間の混合は、沖縄諸島民と宮古諸島民の間で異なっていました(図4D)。第三の仮定的状況では、「本土」日本人との混合の時点で、1任意交配人口集団のみが存在し、その後で人口集団は分岐した、と仮定されました(図4E)。

 結果として、これらのモデルの全てが許容可能で、最低のZ得点は3未満であり、第二のモデル(図4D)が最小の最低Z得点値(0.818)でした。さらに、最初のモデル(図4C)では、琉球諸島「縄文人」から沖縄諸島「縄文人」および宮古諸島「縄文人」への浮動媒介変数は両方とも0で、このモデルは第二のモデルと実質的に同じである、と示唆されました。したがって、第二のモデルがデータに最適と考えられました。第三のモデル(図4E)は却下されませんでしたが、本論文の結果から、1琉球諸島「縄文人」集団との仮定で充分である、と示唆されました。異性塩基対置換と同性塩基対置換(transition、プリン間やピリミジン間の置換)の両方を用いての推定も、第二モデルが最適と示唆しました。

 最後に、有効人口規模の変化を解明するため、部位頻度範囲に依存するMC++手法が適用されました。過去の有効性の軌跡(図5)に基づいて、5人口集団は全て、約2000~5000世代前に出アフリカボトルネック(瓶首効果)を経た、と推測されました。そのボトルネック事象後に、漢人と本州とOKのクラスタはほぼ人口規模を維持しました。対照的に、N-MYおよびS-MYクラスタの人口規模は約70世代前に減少しました。減少の程度はS-MYクラスタよりもN-MYクラスタの方で大きくなっていました。標本規模縮小データセットを使用した分析では、S-MYを除いて、漢人と本州とOKとS-MYの各クラスタは、最近の人口規模縮小への傾向を示しませんでした。したがって、これらのデータから、N-MYクラスタの標本数の少なさは分析における人口規模縮小の理由ではない、と示唆されます。以下は本論文の図5です。
画像


●考察

 琉球諸島民の人口構造と歴史の解明には、大きな学際的関心が寄せられています。WGSデータを調べた本論文は、起きたと宮古諸島民との間の遺伝的分化を確証しました。PCAおよびADMIXTURE分析のパターン(図2)は、SNP微小配列データを用いての先行研究で観察された、琉球諸島民の遺伝的勾配を明らかにしました。

 琉球諸島における人口集団の分化は、日本列島「本土」や台湾など琉球諸島外からの遺伝子流動の違いではなく、おもに遺伝的浮動により引き起こされたかもしれません。本論文もこの可能性を裏づけます。N-MYクラスタの人口規模減少は、TreeMixの長い枝(図3)や、qpGraphでのN-MYに向かう浮動端の値や(図4C~E)、SMC++における過去の人口統計学的変動(図5)により推測されました。人口規模減少はIBD断片に基づくSNP配列データを用いての以前の推定と一致しましたが、SMC++分析は最近の人口増加を検出しませんでした。さらに、「本土」日本人もしくは台湾先住民からの遺伝子流動の程度の違いを示唆する有意な証拠が見つかりませんでした。

 宮古諸島では、無土器文化がグスク時代の前に確認されました。無土器文化を開発した人々の起源はまだ不明ですが、一部の考古学者は、無土器文化が台湾およびフィリピン北部のオーストロネシア文化と共通点を有している、と仮定してきました。古代DNAの最近の研究では、宮古島の無土器文化期の長墓遺跡の先史時代個体群は「縄文人」の遺伝的祖先系統を有していた、と示唆されました(関連記事)。本論文は、無土器文化を開発した人々を特定しませんでしたが、本論文のデータは、台湾先住民が現代の宮古諸島民の形成に関わった、との見解を裏づけません。

 f₄統計分析の結果は、「縄文人」狩猟採集民からの遺伝的寄与の観点で、琉球諸島人口集団間のわずかな非有意差を明らかにしました(図4B)。混合図(図4D)からも、日本列島「本土」からの人々との混合率が、琉球諸島の南北の島民間でわずかに異なっていた(北部では77%、南部では81%)、と示唆されました。この結果は予期せぬもので、それは、宮古諸島が地理的に沖縄諸島よりも日本列島「本土」から遠いためです。

 混合図(図4D)からはさらに、「本土」日本人は「本土縄文人」(17%)と弥生時代の移民(83%)との間の混合で形成された、と論証されました。したがって、「本土」日本人と琉球諸島「縄文人」との間の混合を検討すると、琉球諸島民では「縄文人」の遺伝的構成要素は合計で約36% と計算され、これは「本土」日本人の1.4倍の値です。先行研究では、「本土」日本人と琉球諸島民の「縄文人」祖先系統の割合が推定されてきました(関連記事1および関連記事2)。ある先行研究(関連記事)では、別の供給源人口集団としてCHBを検討すると、「縄文人」の遺伝的寄与は現代日本人では9%(qpGraph)と13.7%(f₄比検定)、琉球諸島民では27.4%(f₄比検定)だった、と報告されました。本論文の推定混合率は先行研究よりも高く、推定率の違いは参照人口集団と想定モデルに依拠しているかもしれません。

 琉球諸島民の移住にはさまざまな仮定的状況が考えられます。一つの可能性は、宮古諸島で無土器文化を発展させた人々は、最近の古代DNA研究(関連記事)が示唆したように琉球諸島「縄文人」に起源があり、現代の宮古諸島民に遺伝的に寄与した、というものです。もう一つの考慮すべき点は、複数の亜集団がグスク時代の初期段階に存在したかどうかです。これらの点を検討するため、混合図を用いて琉球諸島人口集団の形成に関して3通りの仮定的状況が調べられました。本論文の分析から、グスク時代初期に複数の亜集団が存在した(図4D)、と示唆され、その時点での任意交配集団を想定する仮定的状況は却下されました。

 本論文の分析から、琉球諸島「縄文人」の複数の亜集団の想定(図4C)は必要ないことも示唆されました。これが意味するのは、無土器文化を発展させた人々は、その起源がどの場合であれ、現代の宮古諸島民に大きな遺伝的寄与をしなかっただろう、ということです。最後に、日本列島「本土」からの移民との任意交配の琉球諸島「縄文人」集団の混合が、沖縄諸島と宮古諸島の人口集団の祖先間でさまざまな在り様で起きた、と示唆する、図4Dで示されるモデルが受容されます。宮古諸島人口集団の祖先の混合が、宮古諸島で起きたとは限らないことに注意すべきです。考古学と歴史学の証拠を考慮すると、沖縄諸島にはいくつかの亜集団が存在し、宮古諸島民はこれらの亜集団のうち一つから派生した、と仮定できます。

 地理的に近いN-MYおよびS-MYクラスタ間で遺伝的分化が観察されたことも、注目に値します。N-MYクラスタの個体が池間島と伊良部島に暮らしているのに対して、S-MYクラスタの個体は宮古島と多良間島に暮らしています。歴史的に、池間島の人々は他地域の人々から孤立しており、伊良部島の人々は池間島の人々から派生しました。宮古諸島内の地域間の限定的な相互作用の証拠は、方言の多様性でも見ることができます。宮古諸島にはいくつかの方言があり、池間島で話されている池間方言は他の宮古諸島の方言とはかなり異なります。これらの遺伝学と言語学の分化は、地理および文化および/もしくは政治的孤立により引き起こされたかもしれません。

 先行研究では、沖縄諸島から宮古諸島への複数の移住があった、と示唆されました。混合図作成に用いられた本論文のモデル(図4C~E)では、沖縄諸島から宮古諸島への2回の比較的最近の移住が仮定されました。S-MY人口集団の形成についての許容モデル(図4D)では、沖縄諸島からの混合率は最初の移住では58%で、第二の移住では33%でした。琉球諸島民で観察された遺伝的勾配は、地域的境界を越えたそのような繰り返しの移住により説明できます。

 結論として、本論文は、宮古諸島の亜集団で起きた遺伝的浮動と地域間の移住により形成された、琉球諸島民間の遺伝的勾配を特定しました。しかし、琉球諸島の人口史の詳細に関して問題が残っています。たとえば、琉球諸島の旧石器時代の人々の起源はどこだったのでしょうか?下田原文化と無土器文化はどのように形成されたのでしょうか?古代人と現代人のゲノムを含む包括的な研究が、琉球諸島の詳細な人口史の解明と、アジア東部島嶼部でのヒトの活動に関する新たな洞察の追加に役立つでしょう。


参考文献:
Koganebuchi K. et al.(2023): Demographic history of Ryukyu islanders at the southern part of the Japanese Archipelago inferred from whole-genome resequencing data. Journal of Human Genetics, 68, 11, 759–767.
https://doi.org/10.1038/s10038-023-01180-y

https://sicambre.seesaa.net/article/202311article_3.html
2:777 :

2023/11/03 (Fri) 08:37:42

琉球人は沖縄の先住民なのか?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007597

【琉球王国の歴史】わかりやすく解説!中国との関係は?沖縄になるまでの激動の歴史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14150107

1-4. 琉球列島のY-DNA遺伝子構成
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-4,16-5,19-12,19-13.htm#1-4

「縄文人」とアイヌ・琉球・「本土」集団との関係
https://sicambre.at.webry.info/201907/article_32.html

縄文より前の日本がいろいろヤバい!?旧石器時代の謎!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14038590

日本人はどこから来たのか?【CGS 茂木誠 超日本史】
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14133679

【岩宿遺跡】 日本人はいつから日本列島にいたのか?旧石器時代の発見
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14150180

3:777 :

2023/11/03 (Fri) 08:40:05

沖縄島と宮古諸島の人類集団の形成史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16823345



琉球人は沖縄の先住民なのか?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007597

【琉球王国の歴史】わかりやすく解説!中国との関係は?沖縄になるまでの激動の歴史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14150107

1-4. 琉球列島のY-DNA遺伝子構成
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-4,16-5,19-12,19-13.htm#1-4

「縄文人」とアイヌ・琉球・「本土」集団 との関係
https://sicambre.at.webry.info/201907/article_32.html

縄文より前の日本がいろいろヤバい!?旧石器時代の謎!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14038590

日本人はどこから来たのか?【CGS 茂木誠 超日本史】
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14133679

【岩宿遺跡】 日本人はいつから日本列島にいたのか?旧石器時代の発見
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14150180
4:777 :

2023/12/10 (Sun) 16:45:34

雑記帳
2023年12月10日
ゲノムデータから推測される南琉球諸島の人口史
https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_10.html

 古代人および現代人のゲノムデータから南琉球諸島の人口史を推測した研究(Cooke et al., 2023)が公表されました。本論文は、おもに2021年の研究(Cooke et al., 2021)で提示された、日本列島「本土(日本列島のうち本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする地域)」のアイヌ集団以外の現代人集団の3層の遺伝的構造に基づいて、南琉球諸島の人口史を推測しています。本論文の見解は、最近提示された沖縄諸島と宮古諸島の現代人の遺伝的起源を解明した研究(Koganebuchi et al., 2023)と整合的だと思います。ただ、2021年の研究(Cooke et al., 2021)は、弥生時代の人類集団を長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることや、古墳時代の人類集団を一部の個体に代表させていることが問題で(関連記事)、今後は時空間的にずっと広範囲の弥生時代以降の人類のゲノムデータを考慮しつつ、日本列島の人類集団の遺伝的歴史を解明していく必要があるでしょう。


●要約

 日本人集団の遺伝的起源の3構造では、現在の人口集団は主要な3祖先の子孫である、と述べられています。それは、(1)在来の縄文時代狩猟採集民、(2)農耕の弥生時代に到来したアジア北東部構成要素、(3)ヤマト王権の古墳時代におけるアジア東部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の主要な流入です。しかし、日本列島のさまざまな地域で観察された遺伝的異質性は、このモデルの適用性と適合性の評価の必要を浮き彫りにします。本論文は、日本の他地域と比較して独特な文化と歴史的背景を有する、南琉球諸島の歴史時代のゲノムを解析します。本論文の分析は、この地域において3構造が最適と裏づけ、「本土」日本人よりも顕著に高い推定割合の縄文祖先系統が見られます。それぞれの大陸由来祖先が直接的に大陸からの移民によりもたらされた日本列島「本土」とは異なり、すでに3系統の祖先を有する人々が、グスク時代の出現と一致する11世紀頃に南琉球諸島に移住し、先史時代の人々と混合しました。これらの結果は、日本列島の最南端における3構造モデルを再確認し、その構造が多様な地理的地域において出現した多様性を示します。


●研究史

 古代ゲノム配列データは、世界中の現在の人口集団の起源に関する理解を強化し、頻繁に変えてきました(Liu et al., 2021)。そうした地域の一つは日本列島で、先史時代および原史時代のゲノム解析が、現在の人口集団の起源について三者モデルを裏づけました(Cooke et al., 2021)。この枠組みでは、現在の日本人の祖先系統は主要な3供給源に由来します。それは、(1)日本列島外とはほとんど接触せず、数千年間日本列島全域に暮らしていた、在来の狩猟採集民である縄文時代の人口集団、(2)弥生時代(3000年前頃以降)に水田稲作農耕とともに日本列島に到来した、中国北部【北東部】のアムール川流域の古代の個体群で観察されたアジア北東部構成要素、(3)初期ヤマト王権の形成と関連している、古墳時代(1700年前頃以降)に到来した現在のアジア東部の人口集団(漢人など)と類似した祖先系統の大きな流入です。

 日本人集団の起源についてさまざまなモデルが、遺伝学と考古学と言語学の証拠に基づいて以前に提案されてきましたが、元々は頭蓋顔面データに基づいて体系化された「二重構造」仮説が最も広く知られており、続いています。この二重構造モデルでは、全ての日本人集団は祖先系統の主要な2供給源の漸進的な混合の子孫で、それは、当初の縄文時代の人々と、弥生時代におけるアジア北東部からのその後の移民です。二重構造モデルでは、北海道のアイヌ集団と日本列島最南端の琉球諸島の人々との間の形態学的類似性は縄文時代の人々に起因しており、その後の大陸部の供給源人口集団からの祖先系統は殆ど若しくは全くなかった、と述べられています。遺伝的異質性は、日本「本土」とこれら地理的に異なる地域の人口集団間でも観察されます。さらに、縄文時代の個体群は現在の琉球諸島住民や北海道のアイヌ集団の方と、日本列島の他地域の住民とよりも高い遺伝的類似性を有しています(Gakuhari et al., 2020、Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)。それでも、これらの観察は、大陸部祖先系統の起源ではなく、日本全域の縄文祖先系統の差異を説明できるだけです。

 古代ゲノムデータに基づいて提案された三者モデルは、二重構造モデルと比較すると、サイモンズゲノム多様性計画(Simons Genome Diversity Project、略してSGDP)に含まれる現在の日本人弧隊の遺伝的祖先系統に有意により適合する、と示されました(Cooke et al., 2021)。しかし、日本列島「本土」を越えて遺伝的に異なる人口集団におけるこの枠組みの適用性はまだ検証されておらず、それは、現代人の参照データセットが現時点では、日本列島の真の異質性を反映してない、「本土」日本人の小さな部分集合に限定されているからです(GenomeAsia100K Consortium., 2019、Mallick et al., 2016)。この3方向混合モデルが日本列島の多様な地域でどのように変わるのか評価することは、日本列島の人口集団の起源における違いと日本列島内の最近の歴史を示唆できるかもしれません。

 沖縄県宮古島市にある長墓遺跡の150年前頃となる歴史時代の4個体の配列データの最近の刊行(Robbeets et al., 2021)は、南琉球諸島に暮らす最近の人口集団の祖先の特性の調査を可能としました。南琉球諸島は、先行研究により強調されているように、例外的な島嶼の地理と歴史と文化で認識されています。南琉球諸島には、日本列島「本土」、さらには琉球諸島北部とさえ異なる独特な特徴があります。注目すべき一つの側面は長期間の先史時代で、それはグスクとして知られている独特な地域文化が出現する11世紀まで続きました。この長期の島嶼的および文化的孤立は、日本列島の大半に広がっていた弥生文化や古墳文化や他の歴史時代の文化の欠如に起因するかもしれません。結果として、南琉球諸島のゲノムデータは、日本人の起源の文脈における三者モデルおよびその形成過程の適用性と変動性調査の貴重な機会を提示します。本論文では、琉球諸島の歴史時代の人口集団のデータを用いて三者構造が再調査され、その祖先特性が「本土」日本人集団と比較されます。


●分析結果

 沖縄県の宮古諸島の宮古島の北半島にある長墓貝塚および岩陰遺跡(図1)で発掘された骨格遺骸から、最近の歴史時代(historic、略してH)の4個体(NAG007、NAG035、NAG036、NAG039)が標本抽出されました(Robbeets et al., 2021)。まず、対での外群f₃分析が実行され、他の古代および現在の日本人標本との遺伝的類似性が確認されました。この分析は、縄文時代と弥生時代と他の時代(古墳時代や歴史時代や現在など)の日本列島の標本のクラスタを明確に定義します。つまり、第三のクラスタ内では、歴史時代の個体群はさらに他の標本と分離意され、それは、古墳時代および現代の人口集団よりも縄文時代の個体群の方と高い遺伝的類似性に起因します。その後、これらの個体はまとめて「長墓_H(歴史時代)」という単一の人口集団にまとめられ、qpAdmを用いて、古代もしくは現在の日本列島の人口集団のどれも、祖先系統の単一の供給源としてモデル化に成功できない、とさらに論証され、これら長墓遺跡の歴史時代の住民は縄文時代集団の直接的祖先だった、との提案された見解は除外されました。これらの結果は、長墓遺跡の個体間の祖先組成における日本列島「本土」住民との違いを示唆しています。以下は本論文の図1です。
画像

 長墓_Hの三者構造の適合性を評価するため、3つの異なる祖先構成要素による遺伝的構成がモデル化されました。それは、縄文時代の12個体(Cooke et al., 2021、Gakuhari et al., 2020、Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、McColl et al., 2018)、アジア北東部(Northeast Asian、略してNEA)祖先系統を表す、北方のアムール川地域の高水準の祖先系統を有する中国で発見された古代人2個体(Ning et al., 2020)、つまり西遼河(West Liao River、略してWLR)の青銅器時代(Bronze Age、略してBA)の外れ値(outlier、略してo)個体(WLR_BA_o)および、ハミンマンガ(Haminmangha、略してHMMH)遺跡の中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)個体(HMMH_MN)と、アジア東部祖先系統を表すSGDPパネルから得られた現在の漢人です(Mallick et al., 2016)。三者モデルは長墓_Hにうまく適合し(裾確率は0.591)、その内訳は、縄文祖先系統26.7±4.9%、NEA祖先系統30.5±10.3%、アジア東部祖先系統42.8±7.5%です(図1)。興味深いことに、長墓_Hにおいて縄文祖先系統の割合は古墳時代(13.1±3.5%)もしくは現代日本人(15.0±3.8%)と比較して約2倍です(Cooke et al., 2021)。

 長墓_H人口集団での三者構造のモデル化の成功は、二重構造仮説可能性を除外しません。長墓_Hにおける3方向混合モデルの適合性を包括的に評価するため、三者構造内の2方向混合(つまり、縄文とNEA、縄文とアジア東部、アジア東部とNEA)の仮定的状況の可能性の適合も検証されました。これらのモデルのうち2つ(縄文とNEA、NEAとアジア東部)は完全に却下されましたが(p<0.05)、縄文とアジア東部の二重構造では充分と分かりました(p=0.061)。どのモデルが最適なのか結論づけるため、検証された三者モデルと各2方向モデルとの間のそれぞれの比較について、入れ子になったモデルでp値が計算されました(表1)。その結果、三者モデルが入れ子になったモデルの全てよりも有意にデータと適合する、と分かりました。これは、三者構造が歴史時代の琉球諸島人口集団の起源を説明するのに最適なモデルという明確な証拠です。

 南琉球諸島の独特な歴史的および文化的背景を考えると、この地域における三者構造の形成過程は日本列島「本土」とは異なっていたかもしれません。古代ゲノム解析は以前に、この地域の先史時代個体群が遺伝的には縄文時代個体群だった、という証拠を提供しました(Robbeets et al., 2021)。したがって、大陸部祖先系統は、2つの追加の非縄文構成要素をすでに有していた人々によりもたらされた可能性が高そうです。この仮説を検証するため、縄文時代の個体群と古墳時代もしくは現代日本人の個体群との間の2方向混合モデルにより、長墓_Hがモデル化されました(表2)。以下は本論文の表2です。
画像

 検証された全モデルは長墓_Hの遺伝的祖先系統に適合し、この混合モデルは古墳時代もしくは現代の日本人集団どちらかの単一の祖先系統モデルよりも有意でした。これらの結果から、図1で示されるように、長墓_Hの遺伝的構成の説明には追加の縄文祖先系統が必要になる、と示唆されます。DATESを用いて、この混合は975年前頃(もしくは11世紀)に起きた、とさらに推定され、この年代は先史時代(つまり無土器時代)末およびグスク時代の開始と一致します。本論文の分析は、三者構造の形成においてさまざまな地域がさまざまな歴史を有しており(図2)、それが日本列島全域のゲノム差異に寄与したかもしれない、という見解を裏づけます。以下は本論文の図2です。
画像


●考察

 琉球諸島で暮らす人口集団は繰り返し、日本列島の他地域に暮らす集団とは遺伝的な異なる、と示されてきました。それにも関わらず、広範な混合モデル化を通じて、日本人集団の起源について三者構造が南方地域の歴史時代の個体群の人口においてうまく維持されている、と論証されます。日本列島「本土」の人口集団の代表で以前に観察されたように(Cooke et al., 2021)、このモデルは、琉球諸島人口集団が縄文時代個体群の直接的な子孫と仮定する、長年の「二重構造」の枠組みよりも有意に適合します。この結果から、縄文時代後の移民による主要な遺伝的寄与、つまり最初は弥生時代におけるアジア北東部祖先系統、その後の古墳時代におけるアジア東部祖先系統は、日本列島「本土」に限定されず、遠く日本列島の最南端に到達した、と示唆されます。しかし、これら大陸部祖先系統は以前には、異なる人口集団から別段階で日本列島「本土」に到達した、と示されましたが(Cooke et al., 2021)、南琉球諸島にはそのずっと後の段階で、すでに三者構造を有しており、南琉球諸島の先史時代集団と混合した単一の祖先人口集団によりもたらされたようです(図2)。

 外群f₃分析では、長墓_H人口集団は古墳時代もしくは現代の日本列島「本土」個体群よりも、縄文時代個体群と高水準の遺伝的浮動を共有している、と示されました。長墓_H人口集団はその後、26.7±4.9%の縄文祖先系統を有している、と示され(図1)、これは古墳時代(13.1±3.5%)もしくは現代(15.0±3.8%)の日本列島の個体群で観察された縄文祖先系統(Cooke et al., 2021)の約2倍です。追加の縄文組成を組み込んだこの人口集団のモデルは同様に、古墳時代もしくは現代の日本人祖先系統のみに基づくモデルよりも適合する、と分かりました。これらの結果は、縄文時代個体群と琉球諸島現代人との間の高い遺伝的類似性に関する以前の調査結果(Gakuhari et al., 2020、Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)と一致します。本論文は、南琉球諸島における縄文祖先系統の過剰をもたらした混合過程のより詳細な全体像を提供します。

 考古学的記録は、宮古諸島を含めて琉球諸島の南部が、日本列島「本土」もしくはさらに北琉球諸島と比較して、独特な変化を経てきた、という見解を裏づけます。先史時代の北琉球諸島と縄文文化との間で示唆される文化的かながりはありますが、これらのつながりは南琉球諸島では、その独自の物質文化の発展のためさほど明らかではありません。しかし、長墓遺跡の先史時代(3600~2600年前頃)個体群の遺伝学的分析(Robbeets et al., 2021)は、この地域における縄文祖先系統の存在を確証しました。

 日本列島「本土」の生活様式は、3000年前頃以降に急激な変化を遂げ始め、まず採食から稲作農耕へ、その後で1700年前頃以降に国家形成へと至りました。対照的に南琉球諸島では、無土器文化として知られている完全に異なる文化が2500年前頃に出現し、これはこの地域の先史時代の最終段階を示しました。この文化は貝殻の手斧と土器の製作もしくは利用の欠如により特徴づけられ、約1700年間存続しました。その結果、縄文時代以降の日本列島「本土」で起きた文化的変容は11世紀まで南琉球諸島に影響を及ぼさず、11世紀にグスク文化が始まり、多数の人々が北琉球諸島から南琉球諸島へと移住しました。無土器文化がどこから到来したのか、縄文時代個体群的な先史時代の人々が無土器文化期に南琉球諸島に居住し続けたのかどうか、まだ不明ですが、縄文祖先系統と日本列島「本土」祖先系統との間の混合が起きた年代の本論文の推定値は、この人口移動の時期【11世紀】と一致します。この結果から、日本列島全域の三者構造の形成過程には地域的差異があった、と示唆されます。以下は本論文の要約図です。
画像

 この研究は、南琉球諸島の宮古島の4個体から構成される人口集団に限定されていますが、琉球諸島が遺伝的に均質な地域ではなく、宮古諸島自体も均質ではない、と注意することは重要です。時空間的により密な標本抽出が、琉球諸島全域の遺伝的特性に関して移住の真の影響を理解するのに必要です。そうしたデータが利用可能になった時には、この人口集団と、日本列島全域の他の歴史時代および現在の人口集団との間の三者分類において、どのような類似性もしくは違いが存在するかもしれないのか、評価するのはとくに興味深いことでしょう。この研究は、さまざまな地域における人口集団の起源の理解を変える、古代ゲノムの力を改めて示しています。この研究は、確立された結論と関連する新たなデータが利用可能になった時に、古代ゲノムに基づいてなされた調査結果と提案された見解の再調査の利点も示します。


参考文献:
Cooke NP. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419
関連記事

Cooke NP. et al.(2023): Genomic insights into a tripartite ancestry in the Southern Ryukyu Islands. Evolutionary Human Sciences, 5, e23.
https://doi.org/10.1017/ehs.2023.18

Gakuhari T. et al.(2020): Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations. Communications Biology, 3, 437.
https://doi.org/10.1038/s42003-020-01162-2
関連記事

GenomeAsia100K Consortium.(2019): The GenomeAsia 100K Project enables genetic discoveries across Asia. Nature, 576, 7785, 106–111.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1793-z
関連記事

Kanzawa-Kiriyama H. et al.(2019): Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science, 127, 2, 83–108.
https://doi.org/10.1537/ase.190415
関連記事

Koganebuchi K. et al.(2023): Demographic history of Ryukyu islanders at the southern part of the Japanese Archipelago inferred from whole-genome resequencing data. Journal of Human Genetics, 68, 11, 759–767.
https://doi.org/10.1038/s10038-023-01180-y
関連記事

Liu Y. et al.(2021): Insights into human history from the first decade of ancient human genomics. Science, 373, 6562, 1479–1484.
https://doi.org/10.1126/science.abi8202
関連記事

Mallick S. et al.(2016): The Simons Genome Diversity Project: 300 genomes from 142 diverse populations.
https://doi.org/10.1038/nature18964
関連記事

Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2
関連記事

Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature, 599, 7886, 616–621.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04108-8
関連記事

https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_10.html
5:777 :

2023/12/11 (Mon) 13:55:44

【最新研究】東アジア人(モンゴロイド)の形成史と寒冷地適応/縄文人は朝鮮半島にも住んでいた/黄河集団と長江集団の起源/Y染色体ハプログループDの謎/縄文人と繋がるホアビン人(ホアビニアン)とオンゲ族
LEMURIA CH/レムリア・チャンネル
https://www.youtube.com/watch?v=x4x5lVOjL_Y2023/12/04


東アジア人類集団人の形成過程に関する研究はヨーロッパに比べ遅れていましたが、ここ数年で東アジアでも古代DNAデータが揃いつつ有り、多くの研究成果が報告されています。
今回は近年の研究で明らかになってきた東アジア人の起源について解説していきます。

参考書籍

人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」
https://amzn.to/416LMkx
Kindle版
https://amzn.to/3S7C2CK

交雑する人類  古代DNAが解き明かす新サピエンス史
https://amzn.to/3WLzvie
Kindle版
https://amzn.to/3RcJyvD
6:777 :

2023/12/26 (Tue) 14:54:50

雑記帳
2023年12月26日
縄文時代の人類集団の遺伝的構造と非縄文文化圏への遺伝的影響
https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_26.html

 縄文時代の人類集団の遺伝的構造と非縄文文化圏への遺伝的影響に関する研究(Jeong et al., 2023)が公表されました。本論文は、新たな縄文時代の人類(縄文人)のゲノムデータを報告しているわけではありませんが、既知の「縄文人」や「縄文人」的な遺伝的構成の古代人のデータを再検証し、「縄文人」集団の遺伝的構造を明らかにするとともに、非縄文文化圏の「縄文人」的な遺伝的構成の個体の起源を推測しています。ただ、こうした縄文文化圏外の「縄文人」的な遺伝的構成要素を有する個体が、実際に「縄文人」の子孫であるとは限らない可能性も考慮しておくべきでしょう(関連記事)。本論文の見解は、今後「縄文人」や日本列島およびユーラシア東部大陸部の時空間的に広範囲の古代人のゲノムデータの蓄積により、さらに洗練されていくのではないか、と期待されます。また本論文からは、ゲノムや片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)と文化(および自己認識や帰属意識)とを安易に結びつけてはいけないことも改めて窺えるように思います。


●要約

 「縄文人」は日本列島の先史時代の住民で、16500~2300年前頃にかけて日本列島に居住していました。「縄文人」の古代ゲノムとゲノム規模データの最近の蓄積は、「縄文人」の遺伝的特性および現在の人口集団への寄与に関する理解をかなり深めてきましたが、時間にして14000年間、距離にして2000kmにわたる縄文時代の日本列島における「縄文人」の遺伝的歴史は、ほとんど調べられていないままです。本論文は、刊行されている「縄文人」23個体と「縄文人」的な個体群の古代のゲノム規模データ間の遺伝的関係の分析に基づく「縄文人」の遺伝的歴史を解明する、複数の調査結果を報告します。第一に、9000年前頃となる四国の縄文時代早期個体は残りのその後の縄文時代個体に対して共通の外群を形成し、西日本における人口置換が示唆されます。第二に、琉球諸島の宮古島や朝鮮半島南岸の欲知島(Yokjido、Yokchido)で見つかった、縄文時代の考古学的状況外の遺伝的に「縄文人」的な個体群は、四国の縄文時代後期の1個体と最も近い遺伝的類似性を示し、時空間的にその起源を絞り込みます。本論文は、日本列島内外の「縄文人」の動的な歴史を浮き彫りにし、古代の「縄文人」のゲノムの大規模な調査を必要とします。


●研究史

 「縄文人」は、日本列島に16500~2300年前頃に居住していた集団です。「縄文人」はその生計戦略においておもに狩猟と採集と漁撈に依存していましたが、定住生活様式を発展させ、土器を製作して使用し、この土器はその縄目文から縄文土器と命名されました。縄文土器の様式の時間的変化に基づいて、縄文時代は草創期(16500~10500年前頃)と早期(10500~7000年前頃)と前期(7000~5500年前頃)と中期(5500~4500年前頃)と後期(4500~3250年前頃)と晩期(3250~2500年前頃)に区分されてきました。

 「縄文人」の起源と遺伝的歴史は、「縄文人」自体の理解だけではなく、日本列島の現在の人口集団の遺伝的多様性の理解でも、学術的に強い関心を集めてきました。たとえば、日本列島の北端地域のアイヌは、日本列島中央部の(本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする)「本土」日本人とよりも、日本列島最南端の琉球諸島民の方と遺伝的に近く、それは、アイヌが「本土」日本人よりも「縄文人」関連の祖先からより高い割合の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を継承したからです。

 「縄文人」に関するほとんどの考古遺伝学的研究はおもにミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)を対象としており、mtHg-N9b1およびM7aがそれぞれ北方の「縄文人」と南方の「縄文人」で代表的と分かったので、「縄文人」における内部の人口分化が示唆されています(関連記事)。過去数年間で、ついに「縄文人」の古代ゲノムもしくはゲノム規模データが報告されてきており、高解像度で「縄文人」の人口構造と遺伝的歴史を調べる機会が提供されます(関連記事)。とくに、最近の研究では、5000年間(8800~3800年前頃)を網羅する「縄文人」9個体のゲノムが報告されており、長期的で均質な「縄文人」の遺伝的特性が確証されました(関連記事)。

 最近刊行された「縄文人」のゲノムは、「縄文人」の起源と現在の人口集団における遺伝的遺産についての主要な問題について、大きな進歩をもたらしました。たとえば、「縄文人」の遺伝子プールは大陸部の近隣人口集団と異なっており、それは、「縄文人」が現在の人口集団により適切に表されない深く分岐したユーラシア東部系統と強い遺伝的つながりを有していたからです(関連記事)。「縄文人」と他のアジア東部人口集団との間の分離は、「縄文人」の小さな有効人口規模(1000人未満)で25000~20000年前頃と推定されました(関連記事)。また、日本人の起源に関する、伝統的な二重構造モデルの拡張版である三重構造モデルが、古代の縄文時代と弥生時代と古墳時代の個体群の遺伝的比較に基づいて最近提案されました(関連記事)。

 興味深いことに、考古学的研究は、「縄文人」と遺伝的に関連する個体群を報告してきましたが、縄文時代の考古学的な文化および縄文時代の考古学的状況の範囲外で見つけてきました(関連記事)。これには、琉球諸島南部の島々(たとえば、宮古諸島や八重山諸島)や朝鮮半島南岸が含まれます。しかし、これらの研究は「縄文人」の共通起源、および「縄文人」と非「縄文人」との間の比較におもに焦点を当ててきましたが、「縄文人」内の人口史はほぼ調べられていないままです。

 本論文では、「縄文人」関連個体群の刊行されているゲノムもしくはゲノム規模データの詳細な再分析を行ない、そうした個体間の関係に焦点を当てました。これらは合計23個体で、縄文時代早期~縄文時代後期までの範囲で、全体的に均質な「縄文人」遺伝子プール内の豊富な動態についての証拠を提供します。具体的には、四国の縄文時代早期の1個体は日本列島全域のその後の縄文時代個体群に対して外群を形成し、この地域における人口置換が示唆されます。伝統的な縄文文化地域外の遺伝的に「縄文人」的な個体群の起源を、縄文時代中期/後期の西日本(中国と関西と四国と九州が含まれます)に絞り込むこともできます。


●資料と手法

 日本列島およびその近隣地域の既知の古代人のゲノムデータが編集され、祖先系統の情報をもたらす124万(1233013)の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)一式で、ゲノム規模の遺伝子型データが得られました。これら古代人のデータは、既知の他の古代人および現代人のゲノムデータと統合され、現代人のゲノムデータでの主成分分析(principal component analysis、略してPCA)に、古代の個体群が投影されました。「縄文人」関連個体間の近縁性は、常染色体のSNPで計算された不適正遺伝子型塩基対率(pairwise genotype mismatch rate、略してPMR)に基づいて推定されました。

 検証対象の2集団間の共有される遺伝的浮動を測定するために、コンゴの熱帯雨林狩猟採集民であるムブティ人を用いて、外群f₃統計が計算されました。ムブティ人はf₄統計でも外群として用いられました。「縄文人」関連集団内の人口構造を理解するため、f₄形式(ムブティ人、縄文人1;縄文人2、縄文人3)の全ての組み合わせが計算されました。「縄文人」集団間の遺伝的対称性検証、もしくは世界規模の人口集団での追加の混合供給源を探すために、f₄形式(ムブティ人、世界規模の集団;縄文人1、縄文人2)が計算されました。

 hapROHを用いて、124万のSNP一式のうち40万以上のSNPを網羅する「縄文人」個体の同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)が調べられました。ROHは両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にあると推測され、人口集団の規模と均一性を示せるとともに、ROH区間の分布は有効人口規模と1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。各「縄文人」のゲノムの疑似半数体遺伝子型呼び出しと、参照として1000人ゲノム計画3期のハプロタイプデータが用いられました。


●刊行されている「縄文人」関連個体群のゲノム規模データ

 本論文では、刊行されている古代の「縄文人」もしくは「縄文人」的な23個体のゲノム規模データが用いられました(図1、表1)。これら23個体のうち17個体は、縄文時代の考古学的状況と直接的に関連する日本の本州もしくは四国の「縄文人」です。残りの6個体は「縄文人」的な遺伝的特性を有しているものの、縄文文化と直接的に関連しない考古学的状況に由来します。このうち6個体は琉球諸島の宮古島にある長墓遺跡で発見され(長墓_2800年前および長墓_4000年前)、残りの1個体は大韓民国慶尚南道統営(Tongyeong)市にある欲知島(Yokjido、Yokchido)遺跡で発見されました(欲知島_4000年前)。この23個体では近い関係の親族は検出されなかったので、分析にはこの23個体全てが含められました。この23個体は、遺跡と年代の情報に基づいて11の分析集団に分割されました(図1、表1)。

 使用されたこれらの個体のうち、2個体には低品質のため目印をつけました。一方の欲知島個体(TYJ001)は軽度の汚染(ミトコンドリア捕獲データに基づくと6%の汚染)の可能性があり、もう一方の最古の長墓遺跡個体(NAG016、長墓_4000年前)は重度の汚染があり、低網羅率(1233013のSNPのうち27652が網羅されました)でした。未知の汚染物質が現在の個体群にもはや存在しない「縄文人」起源である可能性は先験的に低そうなので、この2個体は汚染が定性的方法で検証に影響を及ぼさないだろう分析の部分集合に含められました。「縄文人」との遺伝的類似性を有すると報告された朝鮮半島南岸の追加となる先史時代4個体も使用されました。それは、大韓民国釜山(Busan)市の獐項(Janghang)遺跡の新石器時代墓地の2個体(獐項_6700年前)と、統営市の煙台島(Yeondae-do、Yŏndaedo)貝塚遺跡の2個体(煙台島_7000年前)です(関連記事)。以下は本論文の図1です。
画像

 PCAが実行され、現在のユーラシア人口集団との比較で「縄文人」関連個体群の遺伝的特性が視覚的に要約されました。「縄文人」関連個体全体の均質な遺伝的特性を報告した先行研究と一致して、「縄文人」関連個体群は他の人口集団から分離された緊密で明確なクラスタ(まとまり)を形成します。このクラスタから逸れる2個体は長墓遺跡で発見され(NAG012とNAG016)、両者とも低網羅率で、一方(NAG016)は重度の汚染があります。

 「縄文人」関連個体群内での詳細な遺伝的階層化を調べるため、「縄文人」と欲知島および長墓遺跡の個体群のみでPCAが実行されました。この分析では、欲知島遺跡と長墓遺跡の個体と他の「縄文人」個体群からの分離が観察されます。欲知島および長墓遺跡の個体群を除いて、PCAを日本列島「本土」の「縄文人」個体群のみに適用すると、西日本の「縄文人」と東日本(中部と関東)の「縄文人」と北海道との間の分離が観察されます。

 ほとんどの「縄文人」関連個体の低網羅率の性質を考慮して、個体間のPMRの計算により、各「縄文人」関連集団内での遺伝的多様性の水準が測定されました。さまざまな「縄文人」集団間のPMR値(平均で0.191)は全体的類似しており、漢人や日本人などアジア東部現代人よりずっと低く、「縄文人」メタ個体群(metapopulation、アレルの交換といった、ある水準で相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群の集団)内の全体的な遺伝的多様性現象を示唆します。興味深いことに、長墓_2800年前個体群はより減少したPMR値(平均で0.154)を示しており、長墓_2800年前に特有の強い人口ボトルネック(瓶首効果)が示唆されます。ROH断片の分布は、類似のパターンを提供します。つまり、「縄文人」関連個体群は全体的にROH断片の蓄積を示しており、これは遺伝的多様性現象の痕跡で、長墓遺跡個体群は他のほとんどの「縄文人」個体よりも多いROH断片を有する傾向にあります。


●縄文時代早期個体はその後の全ての「縄文人」個体にとって共通の外群です

 「縄文人」関連集団における人口構造を調べるため、f₃形式(ムブティ人;縄文人1、縄文人2)の外群f₃統計を用いて、「縄文人」関連集団の各組み合わせ間の遺伝的類似性がまず測定されました。アフリカ中央部の熱帯雨林の狩猟採集民人口集団であるムブティ人が外群として用いられ、汚染のため長墓_4000年前と欲知島_4000年前を除いて、「縄文人」関連11集団のうち9集団に分析が適用されました。この2集団を含めると、一貫して他の組み合わせよりも低い外群f₃値が示されました。四国の縄文時代早期の1個体、つまり9000年前頃となる愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡個体(JpKa)は、他の「縄文人」個体と比較的低い遺伝的類似性を示します。すべての組み合わせのうち、本州西部の縄文時代早期の1個体、つまり5600年前頃となる岡山県倉敷市の船倉貝塚個体(JpFu)と、四国の縄文時代後期の1個体、つまり3800年前頃となる愛媛県南宇和郡愛南町御荘の平城貝塚個体(JpHi)の組み合わせが最高の値を示します。

 外群f₃の結果と縄文時代早期個体の存在に触発されて、「縄文人」の人口構造に関すして競合する二つの仮説が明示的に比較されました。それは、(1)JpKaの最古の「縄文人」個体がその後の「縄文人」個体全てにとって共通の外群を形成するか、(2)西日本の「縄文人」集団(JpKaとJpFuとJpHi)が5000年間にわたる人口継続性を示す、というものです(図2)。以下は本論文の図2です。
画像

 この二つの仮説を区別するため、「縄文人」関連集団の全ての三者の組み合わせで、f₄形式(ムブティ人、縄文人1;縄文人2、縄文人3)のf₄統計が計算されました(図3)。仮説(1)では、f₄(ムブティ人、JpKa;縄文人2、縄文人3)は全ての組み合わせ(縄文人2と縄文人3)でゼロと予測され、それは、JpKaがその後の全「縄文人」集団にとって共通の外群だからです。対照的に、仮説(2)では、JpKaはその後の西日本「縄文人」集団(JpFu/JpHi)の方と他の「縄文人」よりも近いので、f₄(ムブティ人、JpKa;縄文人2、縄文人3)は「縄文人3」を西日本のその後の「縄文人」集団(つまり、JpFuとJpHi)とすると、有意に正になると予測されます。同様に、f₄(ムブティ人、JpFu/JpHi;JpKa、縄文人3)は仮説(1)では正となり、仮説(2)では負となるでしょう。以下は本論文の図3です。
画像

 f₄(ムブティ人、JpKa;縄文人2、縄文人3)については、「縄文人」集団28通りの組み合わせのうち1組だけが|Z|>3となり、それはf₄(ムブティ人、JpKa;北海道礼文島の船泊貝塚の3700年前頃の個体、JpFu)=3.187でした(図3A)。さらに、f₄(ムブティ人、縄文人1;JpKa、縄文人3)は多くの組み合わせにおいて有意に正で(縄文人1と縄文人3)、一般的にその値は正となる傾向があり、仮説(2)よりも仮説(1)の方が選ばれます。

 2番目の統計であるf₄(ムブティ人、JpFu/JpHi;JpKa、縄文人3)はほぼ|Z|<3となり、どちらの仮説の予測とも一致しません。f₄(ムブティ人、縄文人1;JpKa、JpFu/JpHi)によるJpKaおよびJpFu/JpHiとの他の「縄文人」集団の類似性を比較すると、結果は統計的に有意ではないものの、ほぼ正です。縄文時代前期のJpFuは近隣地域のより古い個体であるJpKaとの部分的な遺伝的つながりを有しているかもしれない、と推測されますが、この混合仮説の家司的検定は、統計的検出力を高めるために、より多くの古代人のゲノムを必要とするかもしれません。したがって、最古の「縄文人」個体であるJpKaは、西日本の「縄文人」を含む利用可能な「縄文人」集団にとって、共通の外群を表しているかもしれません。

 最後に、同じ分析が2番目に古い(6000年前頃)縄文時代前期の本州中央部北方となる富山県富山市の小竹貝塚遺跡個体群(JpOd)に適用されました。JpKaを含む場合以外では全ての「縄文人」の組み合わせにおいて、平均標準誤差3以内でf₄(ムブティ人、JpOd;縄文人2、縄文人3)の観察によりJpOdと非対称的に関連する「縄文人」の組み合わせは見つからず、f₄(ムブティ人、JpOd;JpK、縄文人3)は東日本(中部と関東と北海道が含まれます)のその後の全ての「縄文人」集団で平均標準偏差3超です。


●西日本の縄文時代後期個体と「縄文人」関連個体群の遺伝的類似性

 遺跡と地域は直接的に考古学的な縄文文化と関連していないものの、 「縄文人」的な遺伝的特性を示した、長墓遺跡(長墓_2800年前)と欲知島貝塚遺跡(欲知島_4000年前)の個体群のあり得る起源が調べられました。その結果、四国の縄文時代後期個体(JpHi)が長墓_2800年前と最も近い集団と分かり、f₄(ムブティ人、長墓_2800年前;他の縄文人、JpHi)はほぼ有意に正(Z=2.5~4.9)でした(図4A)。本州西部のより古い縄文時代前期個体であるJpFuは長墓_2800年前と2番目に密接に関連しているものの、その違いは統計的に有意ではなく、f₄(ムブティ人、長墓_2800年前;他の縄文人、JpFu)はJpHi(Z=-2.5)を除いて平均標準誤差は0.1~2.3でした。より古い長墓遺跡個体(長墓_4000年前)の明確な「縄文人」との類似性を考えると、「縄文人」関連集団は4000年前頃までにはすでに長墓遺跡に存在したでしょう。まとめると、JpFu/JpHiと関連している西日本の縄文時代後期人口集団は、南琉球諸島の「縄文人」関連人口集団の供給源だった可能性が高そうです。以下は本論文の図4です。
画像

 同様に、JpHiと長墓_2800年前は欲知島_4000年前との最も近い「縄文人」関連集団と分かり、f₄(ムブティ人、欲知島_4000年前;縄文人、JpHi /長墓_2800年前)は平均標準誤差が2.3~5.4で、f₄(ムブティ人、欲知島_4000年前;長墓_2800年前、JpHi )は平均標準誤差が0.1でした(図4B)。先行研究は、朝鮮半島南岸の先史時代集団(煙台島_7000年前と獐項_6700年前)における「縄文人」祖先系統の寄与を報告しました(関連記事)。同じ分析を繰り返すと、JpHiがそうした朝鮮半島南岸集団と最も近い「縄文人」関連集団のようだ、と分かり、f₄(ムブティ人、煙台島_7000年前;他の縄文人、JpHi)は平均標準誤差が1.2~2.7でしたが、小さな標本規模と低網羅率のため、検定はどれも統計的に有意でありません(つまり、Z<3)。

 要約すると、それぞれ4000年前頃と2800年前頃に観察される朝鮮半島南部および琉球諸島への「縄文人」関連集団の拡散は、西日本起源である可能性が高そうで、これらの地域の地理的近さと一致する、と示唆されます。これらの地域においてそれ以前(つまり、朝鮮半島南部の獐項_6700年前および煙台島_7000年前と、宮古島の長墓_4000年前)の個体で見られる「縄文人」祖先系統は、同じ供給源に由来していたかもしれませんが、現時点で利用可能なゲノムデータはさまざまな「縄文人」供給源間を区別する解像度が不足していることに要注意です。これらの地域や日本列島全体での将来の古代ゲノムの標本抽出は、これらの地域における「縄文人」祖先系統の時間窓と真の供給源を絞り込むのに役立つでしょう。


●考察

 日本列島に14000年以上居住してきた「縄文人」の起源と歴史は、考古学者と遺伝学者により長く調べられてきました。考古遺伝学における最近の進歩は、数十個体の古代の「縄文人」のゲノムの解読により大きな躍進を遂げました。これらの研究は「縄文人」の独特な遺伝的起源とその全体的に均質な遺伝的特性を明らかにしましたが、「縄文人」における遺伝的多様性と関係の再構築にはさほど焦点を当てませんでした。本論文は、これまでに利用可能な「縄文人」のゲノムの編集に基づく包括的な方法で、経時的な「縄文人」の人口構造を調べます。

 四国の縄文時代早期個体(JpKa)は西日本と東日本両方のその後の「縄文人」集団にとって共通の外群を形成するものの、西日本の近隣地域のその後の集団と剰余の類似性がある、と分かりました。対称性を破る「縄文人」集団の唯一の組み合わせはJpFuと船泊貝塚の個体で、これはJpKaとJpFuとの間のこの剰余の類似性に起因するかもしれません。あるいは、これは船泊個体特有の遺伝的つながりに起因するかもしれません。つまり、オホーツク海周辺のつながりで、f₄形式(ムブティ人、世界規模の集団;船泊、JpKa)のf₄統計による、現在の世界規模の人口集団のうちアジアのエスキモーと樺太島のウリチ人(Ulchi)がJpKaとよりも船泊個体の方と近い、という観察により示唆されます。先行研究は北海道のアイヌとオホーツク海周辺の人口集団との間の動揺のつながりを報告しましたが(関連記事)、この兆候は両者間のより最近の遺伝的交流に起因するかもしれません。

 次に古い「縄文人」集団である縄文時代前期のJpOdは対照的に、東日本のその後の全ての「縄文人」との明確な遺伝的類似性を示します。節約的な仮定的状況は、東方の「縄文人」集団が西方へと拡大し、9000~5000年前頃の広い時間的範囲内のある時点(つまり、JpKaとJpFuとの間)で在来の西方「縄文人」集団を部分的に置換した、というものです。「縄文人」ゲノムの時空間的に疎らな標本抽出のため、本論文の調査結果の代表性が保証されないかもしれないことに要注意です。

 「縄文人」は日本列島外の人口集団から強く孤立している、と仮定されてきたことが多いものの、最近の考古学的研究は、紀元前千年紀後半における「【渡来系】弥生人」との主要な接触に先行する、大陸部人口集団との長期の接触を浮き彫りにしています。これらの研究は、大陸部から縄文時代の日本列島への、栽培化された植物(たとえば、アズキやダイズ)や青銅器製品など物質文化の出現を報告しました。興味深いことに、最近の考古遺伝学的研究は、縄文時代の考古学的状況外の古代の個体群における「縄文人」的な遺伝的特性を報告しており(関連記事)、南琉球諸島の宮古島や朝鮮半島南岸の欲知島の遺跡が含まれます。両遺跡における「縄文人」的な個体は、西日本の縄文時代後期の1個体(3800年前頃のJpHi)と最も強い遺伝的類似性を有しています。

 両地域(宮古島と朝鮮半島南岸)では、「縄文人」祖先系統の最初の出現はJpHiの年代よりずっと古いものの、両地域のより古い個体、つまり宮古島の4000年前頃の個体(長墓_4000年前)や朝鮮半島南岸の7000~6500年前頃の個体(獐項_6700年前と煙台島_7000年前)はゲノムデータが低品質なので、特定の「縄文人」集団との類似性を正確に示すことはできません。したがって、これら初期人口集団に寄与した「縄文人」集団の時空間的な起源は曖昧なままです。「縄文人」、とくに日本列島「本土」最西端となる九州の縄文時代前期/中期のゲノムのさらなる標本抽出が、ユーラシア大陸部との「縄文人」の外向きの遺伝的つながりを再構築するための情報の、重要な断片を提供するでしょう。


参考文献:
Jeong G. et al.(2023): An ancient genome perspective on the dynamic history of the prehistoric Jomon people in and around the Japanese archipelago. Human Population Genetics and Genomics, 3, 4, 0008.
https://doi.org/10.47248/hpgg2303040008

https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_26.html

  • 名前: E-mail(省略可):

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.