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2023/10/29 (Sun) 10:57:14
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《特別公開》「第2次世界大戦はここから始まったと考えます」出口治明さんが解説する「満洲事変」の“背景”
出口治明の0から学ぶ「日本史」講義/「満洲事変」#1
2023/10/19
https://bunshun.jp/articles/-/66426
source : 週刊文春 2021年2月25日号
立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明さんがふたたび週刊文春に帰ってきます。
週刊文春の人気連載「出口治明の0から学ぶ『日本史』講義」は、出口さんの病気療養のため2021年春から2年半の間お休みしておりましたが、週刊文春10月26日号より再開の運びとなりました。久々の講義は天皇機関説事件や2・26事件が起きた時代から取り上げていきます。この連載再開に合わせて、文春オンラインでは休載前の講義(196回~201回)を期間限定で公開します。
かねてから「『日本史』というものはない」と話してきた出口さん。世界全体の大きな流れのなかから、日本という国の姿を出口さんと一緒に見ていきましょう。
◆ ◆ ◆
第2次世界大戦は満洲事変から始まった
今回から6回にわたって満洲事変について話していきます。第2次世界大戦は満洲事変から始まったと僕は考えるからです。研究者の中には、満洲事変から第2次世界大戦敗戦までを「15年戦争」としてひとつに括ったり、「第2次世界大戦は満洲事変がすべて」と考える人もいます。それくらい大きな事件だったのです。
では、まずは当時の背景から見ていきましょう。
1929年にアメリカで株価が暴落し、世界恐慌が始まりました。満洲は大豆の特産地でアメリカはそのお得意さんだったので、大豆の輸出量が激減し、日本の権益だった南満洲鉄道(満鉄)の輸送収入も落ち込んでしまいます。経営は悪化して、人員削減や設備修繕の延期など苦しい状況に陥ったのです。
この当時、満洲を治めていた奉天軍閥の張学良は排日活動を強めていました。国民政府の蒋介石とともに、日本は満鉄で生きているのだからと満鉄を干上がらせるための鉄道政策を執り始めたのです。
満鉄を包囲する中国鉄道
満鉄は貿易港である旅順・大連から長春へと真っ直ぐに走っていました。張学良は対抗するように錦州の葫蘆島(ころとう)に大きな港を築き、ここを起点に満鉄を包囲する新しい省営鉄道網(中国鉄道)計画を立てました。
https://bunshun.jp/articles/photo/66426?pn=2
世界恐慌の影響は大きく、1930年には大連港からの輸出量が、前年比で200万トン、輸入量も50万トン減り、その上、銀貨の国で金建運賃を採用していた満鉄は、30年代に入って暴落した銀相場により運賃の高騰を招き、銀建の中国系鉄道に競争で不利になったのです。
世界恐慌は金解禁を行った日本にも波及し、昭和恐慌が起きました。若槻礼次郎内閣の経済政策はうまくいかず、閉塞感が高まっていく。そんな時に一番ガス抜きしやすいのは、外に敵を設けることです。
満鉄副総裁だった政友会の松岡洋右(ようすけ)などから「満蒙(満洲と内蒙古)は日本の生命線なのに中国に対して弱腰や」と批難の声が大きくなり、陸軍の中堅幹部からも「幣原(喜重郎外相)には任せられへん。もう実力行使しかないで」という声がどんどん高まっていきました。
満洲事変の背景を簡潔に述べれば、世界恐慌と張学良の排日政策への対応となります。世界恐慌はやむをえません。でも、張学良を排日に追い込んだのは関東軍が父親の張作霖を爆殺したからです。「自分で自分の首を絞めたのやないか」といわれても仕方がないですよね。
「日本の警察は守ってくれなかった」と不買運動が激しくなった
1931年7月2日、満洲で万宝山(まんぽうざん)事件が起きます。長春北西の万宝山で、朝鮮人の入植者と中国人の農民の間で水争いが発生したのです。
朝鮮は日本の領土でしたから、日本の領事館警察は朝鮮人の肩を持ちます。そこで中国人農民と銃火を交える小競り合いが起こりました。
当時、朝鮮には商売上手な中国人がたくさん来ていました。「万宝山で朝鮮人が中国人にいじめられた」という話が伝わると、7月5日には朝鮮各地で「華僑はけしからん」という朝鮮排華暴動が起こり、127人が殺害されたとされています。
そうなると、今度は中国で「朝鮮へ出稼ぎに行った仲間が100人も殺された。日本の警察は守ってくれなかった」と、日本製品の不買運動が激しくなりました。
中国国民党は、「朝鮮の排華暴動は日本が扇動した計画的大虐殺だ」と決めつけました。中国にしてみれば、日本は在満朝鮮人の保護にかこつけて警察官を満洲に導入している、という不満があって、同年2月の国民党会議で「朝鮮人の満蒙移住厳禁」を決議していたほどです。
万宝山事件の少し前、6月27日には「中村大尉事件」が起きました。中村震太郎(しんたろう)という参謀本部の将校が、農業技師と偽って4人組で立入禁止区域の調査に入り込んだのです。中国軍に捕まり大金を所持しているのが発覚すると、スパイだと認定されて殺害されました。
関東軍は現役将校が殺されたことに激怒して徹底的に事件を調べました。そして中国の官憲に殺されたという確証を得ると、8月17日に報道を解禁します。
ただ、身分を偽ったことには触れず、「参謀将校が満洲での調査活動中に中国の官憲に殺された」という内容でした。金沢にあった第九師団では、飛行機から10万枚のビラを撒きました。そこには「日露戦費24億円、投資17億円、我が同胞の貴き鮮血20万人」を費やして確保した満洲が奪われようとしている、と書かれていました。当然日本の世論は怒りで沸騰するわけです。
満蒙問題解決の好機
はじめ、中国側はシラを切っていました。しかし関東軍は詳しく調べていたので、その後は「農業技師と偽り、お金もたくさん持っていたのでスパイと見ても当然やないか。逃げようとしたので射殺したんや」と殺害を全面的に認めました。
日本側はどう考えていたのでしょうか。幣原外相は奉天の林久治郎総領事に「中国に謝罪、賠償、犯人の処罰をさせろ。将来こんなことが起こらないように保障させろ」と命じていました。でも関東軍の石原莞爾(かんじ)主任参謀や板垣征四郎高級参謀らは「中国にいうことを聞かせるには武力行使せなあかんで」と考えていました。この事件を「満蒙問題解決の好機」と捉えていたんですね。
陸軍中央はというと、穏健派の金谷範三参謀総長の時代ですから耳を貸しません。「この事件を利用するのは穏当じゃない」と陸軍次官が関東軍参謀長に示達しています。
陸軍中央にはこの頃「関東軍にいる石原と板垣が暴発しそうやで」という情報が入っていました。
中国側が中村大尉殺害について認めたと述べました。満洲の様子を「もう交戦直前のような空気やで」と伝える人もいて、中国も認めざるをえなかったんですね。それが9月18日のことでした。
宴会の陰で計画を実行
同じ日、東京の参謀本部から建川美次(たてかわよしつぐ)第一(作戦)部長が現地の聴き取りをするため、奉天に派遣されました。板垣は、「まあ話は酒を飲んでから」と料亭でガンガン飲ませて酔い潰してしまいます。
もっとも、建川は石原や板垣の計画に賛同していて、わざと一晩を無為に過ごしたという説もあります。
この日、石原たちは計画を実行に移します。もともとは9月28日に行おうとしていたのですが、陸軍中央に察知されたと考えて決行を早めました。これが柳条湖事件です。
石原の考えは、武力発動によって対外的な危機を作りだし、その対応を名目に日本国全体を戦時体制へ移行させるというものです。これは、後で触れる桜会の橋本欣五郎中佐らの、まず国家を改造してから満蒙領有を目指す「内先外後」に対し、「外先内後」方針と呼ばれます。
資源がない日本は、満洲を全面占拠して、その資源を活用して自給自足で戦う。だから満洲は日本の生存圏なのだというのです。ヒトラーが主張した東方生存圏的な発想ですね。満洲領有が新たな戦争を誘発したら次は中国本土に侵入し、その資源でさらに長期戦が可能になる。「戦争が戦争を養う」という理屈です。
柳条湖事件は蒋介石が抑えつつあった中国共産党が息を吹き返す契機になりました。その攻撃の戦力を日本に割かざるをえなくなったからです。そう考えると歴史は皮肉ですね。
構成・神長倉伸義
参考文献:臼井勝美『満州事変』(講談社学術文庫 2020)、山室信一『キメラ―満洲国の肖像』(中公新書 2004増補版)、緒方貞子『満州事変』(岩波現代文庫 2011)、重光葵『昭和の動乱 上』(中公文庫 2001)、北岡伸一『政党から軍部へ』(中公文庫 2013)
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2023/10/29 (Sun) 10:59:13
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《特別公開》満鉄線路の爆発はどのくらいの規模だったと思いますか? 実は… 出口さんが解説する柳条湖事件と“その後”
出口治明の0から学ぶ「日本史」講義/「満洲事変」#2
2023/10/22
https://bunshun.jp/articles/-/66431
source : 週刊文春 2021年3月4日号
立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明さんがふたたび週刊文春に帰ってきました。
週刊文春の人気連載「出口治明の0から学ぶ『日本史』講義」は、出口さんの病気療養のため2021年春から2年半の間お休みしておりましたが、週刊文春10月26日号より再開の運びとなりました。久々の講義は天皇機関説事件や2・26事件が起きた時代から取り上げていきます。この連載再開に合わせて、文春オンラインでは休載前の講義(196回~201回)を期間限定で公開します。
かねてから「『日本史』というものはない」と話してきた出口さん。世界全体の大きな流れのなかから、日本という国の姿を出口さんと一緒に見ていきましょう。(全6回の2回目/はじめから読む)
出口治明さん ©文藝春秋
出口治明さん ©文藝春秋
◆ ◆ ◆
満鉄の線路で爆発が起きた
前回は満洲事変が起きるまでの背景を説明しました。今回は柳条湖事件とその後を見ていきましょう。
1931年9月18日、午後10時20分頃、南満洲鉄道(満鉄)の線路で爆発が起こりました。場所は奉天駅北8キロほどの柳条湖付近です。
首謀者は関東軍の板垣征四郎高級参謀と石原莞爾(かんじ)主任参謀です。石原には、戦争が戦争を養う自給自足圏を作って、最終的にはアメリカと雌雄を決する世界戦争をやるんだという壮大なビジョンがありました。27年にはすでに「満蒙(満洲と内蒙古)を領有せざるべからざるは絶対的」といっています。
しかし陸軍中央は、反日的な奉天軍閥の張学良を排して、親日政権を作れば十分と考えていました。
偽旗作戦から戦争を仕掛ける
石原の思想を正しいとは思いません。ただ、壮大な絵図を描いてそれを実行に移す能力はすごいものです。きっと人たらしなんでしょう。
石原莞爾 ©文藝春秋
石原莞爾 ©文藝春秋
まず板垣がコロッとやられました。板垣に思想性はありません。石原に説得されて「お前がそんなにでかい夢を持っているんやったら、腹を決めてお前とともに命を賭ける。2人で日本を変えたろうやないか」といった感じです。
2人は、永田鉄山が29年に作った「一夕会(いっせきかい)」という陸軍中堅将校の集まりの仲間です。一夕会では軍部刷新と満蒙問題解決に重点を置くことが議論されていました。
この2人が偽旗作戦を起こしたのです。満鉄の線路を爆破して、それを中国人の仕業にする。そしてそれを口実に中国に戦争を仕掛ける。偽りの旗を掲げて危機を作りだし、それをテコにして日本を改造しようと考えました。
実は爆破の直後に…
この爆発、どのくらいの規模だったと思いますか? 実は爆発の直後に急行列車が通過していました。つまり、列車が走れるぐらいの、ほんの数十センチの爆破だったのです。
満鉄は日本の貴重な財産ですから、本当に破壊することなんてできません。研究者の中には、爆発音が聞こえればよかったと考える人もいるくらいです。
でも規模はどうであれ、満洲における日本の権益の象徴が狙われた以上は自衛のために戦うという名分がたちます。関東軍は本来、鉄道守備兵として派遣された組織でしたが、次第に役割を拡大させながら満洲に根を張っていきました。
軍刀を抜いて脅す
夜10時20分の爆発時、本庄繋関東軍司令官と石原主任参謀は関東軍本拠地の旅順に、板垣高級参謀は奉天にいました。
10時40分頃、奉天特務機関から奉天の日本総領事館に「中国軍が柳条湖で満鉄線を爆破した。日本軍はすでに出動中だ」と電話連絡が入ります。森島守人領事が特務機関に駆けつけると、板垣が「本庄司令官は旅順にいるので、軍命令は自分が代行して出した」と語ります。
森島領事は「外交交渉で解決すべきだ」と力説しました。しかし板垣は「総領事館は統帥権に干渉するのか」と激昂し、花谷正少佐が軍刀を抜いて森島を脅しています。「外務省の仕事やない。天皇陛下の統帥権の問題やで」というわけです。
爆発から3時間後の19日午前1時半になると、本庄司令官は中国軍に対する攻撃命令を出します。この動きの早さを見ると、陰謀を薄々知っていたのではと思いますよね。というのは、本庄は8月に着任したばかりでしたが、「最後の解決の時期が近づきつつある」と、軍事行動を匂わせる発言をしていたのです。
本庄と石原は、3時半頃には列車で奉天へ向かいます。中国軍と満洲で戦うにしては、旅順はあまりにも南方にありますからね。
一方、関東軍の動きに対して、蒋介石も張学良も、無抵抗を指示しました。「今は日本と戦争したくない。攻めてきても抵抗したらあかんで」と。そのため、奉天城は午前4時半に、近くにある北大営(ほくだいえい/張学良軍の総本部で6800名が駐屯していました)は午前6時半に関東軍が制圧しました。日本軍の損害は戦死2名、負傷22名でした。
ものすごく手回しがいいですね。中国側が無抵抗だとはいえ、いかに計画が進んでいたかです。
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関東軍は1万人ぐらいしかいませんでした。ただ張学良は満洲を留守にしていて、自身は直属の部隊11万5000人を率いて北京にいました。
本庄司令官は中国軍への攻撃命令とほとんど同時に朝鮮軍(朝鮮駐在の日本軍)の林銑十郎(せんじゅうろう)司令官に来援要請を行いました。
このとき張学良が蒋介石とタッグを組んで、在満30万人の兵力で関東軍を攻めていたら、という歴史のイフも考えられます。でも彼らは大水害や共産党との闘いなどで、日本と事を構えたくはなかった。だから無抵抗方針をとりました。その事情を読み込んで、わずか1万人の部隊で行動を起こしたわけですから、石原も板垣も果断だったとは思います。
本庄司令官は19日の正午頃に奉天に着きました。夕方、東京の南次郎陸相と金谷範三参謀総長に、「関東軍が全満洲の治安維持を行います。ついては3個師団の増派が必要です。費用は満洲で負担します」という電報を打ちました。
20日には特務機関長の土肥原賢二大佐を奉天市長に任命し、臨時市政府による軍政を布きました。
朝鮮軍の動きにビックリ
事件発生時、外務省はどのように動いたのでしょうか。
奉天の日本総領事館は、18日午後11時15分に中国側の外交担当者から「北大営が包囲されたが、我々は抵抗する気はない」という電話を受けています。19日午前0時にも同様の意思が電話で改めて強調して伝えられました。
林久治郎総領事は板垣に「中国が不抵抗方針を伝えてきた。外交的に解決するからアホなことやらんといてくれよ」と伝えます。しかし板垣は「中国軍が我が軍を攻撃したのだから、こちらは徹底的にやる」と答えています。完全に腹を決めていることがうかがえますよね。
ところで、陸軍中央に第一報が届いたのは19日午前1時7分でした。特務機関の花谷少佐が発信した「中国軍に満鉄線を爆破されて、軍が出動した」という電報が入ります。
南陸相や金谷参謀総長は、朝7時に杉山元(はじめ)次官や小磯国昭軍務局長、参謀本部の部長クラスを集めて会議を開きます。ここで小磯軍務局長が「関東軍の行動は至当(もっとも)だ」と発言します。そして今村均第一部長代理が増援計画を作ることになります。向こうが手を出してきたから応戦する。助けに行く準備もとりあえずしておかなあかん、というわけです。
8時30分になると、朝鮮軍の林司令官から「本庄に頼まれたので増援を準備中やで」という連絡が入ります。この話に参謀本部は仰天して派兵を見合わせるよう指示しました。なぜかというと、日本軍が国境を越える場合は、閣議における経費支出の承認と、奉勅(ほうちよく)命令(天皇の許可)が必要だったからです。
奉勅命令なしで勝手に越境すれば、天皇の統帥権を侵すことになる。だから参謀本部は飛び上がったのです。「お前、気でも狂ったのか。そんなことをしたら死刑やで」と。
ところが関東軍にとって、そう言われることは織り込み済みでした。
構成・神長倉伸義
参考文献:臼井勝美『満州事変』(講談社学術文庫 2020)、山室信一『キメラ―満洲国の肖像』(中公新書 2004増補版)、緒方貞子『満州事変』(岩波現代文庫 2011)、重光葵『昭和の動乱 上』(中公文庫 2001)、北岡伸一『政党から軍部へ』(中公文庫 2013)
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2023/10/29 (Sun) 11:01:23
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《特別公開》柳条湖事件後に“独断”で国境を越えた日本軍「これは本来なら死罪です。でも…」〈出口治明さんが解説〉
出口治明の0から学ぶ「日本史」講義/「満洲事変」#3
https://bunshun.jp/articles/-/66581
source : 週刊文春 2021年3月11日号
立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明さんがふたたび週刊文春に帰ってきました。
週刊文春の人気連載「出口治明の0から学ぶ『日本史』講義」は、出口さんの病気療養のため2021年春から2年半の間お休みしておりましたが、週刊文春10月26日号より再開の運びとなりました。久々の講義は天皇機関説事件や2・26事件が起きた時代から取り上げていきます。この連載再開に合わせて、文春オンラインでは休載前の講義(196回~201回)を期間限定で公開します。
かねてから「『日本史』というものはない」と話してきた出口さん。世界全体の大きな流れのなかから、日本という国の姿を出口さんと一緒に見ていきましょう。(全6回の3回目/はじめから読む)
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関東軍の自作自演の可能性を匂わせた外相
今回は柳条湖事件の報せを聞いた政府の動きを見ていきます。
柳条湖で起きた満鉄線路爆破事件の翌日、1931年9月19日午前10時、若槻礼次郎首相は緊急閣議を開きました。
まず南次郎陸相から「中国軍に攻められたので自衛のために行動を起こした」と説明がなされます。ところが幣原喜重郎外相は「奉天総領事館からの報せによると、どうも関東軍の自作自演の可能性がある」と匂わしました。南陸相は増援の提議を行うつもりでしたが、それが言えない雰囲気になってしまいました。
閣議後、若槻首相は参内して「満洲でこんな事件が起こりましたが、不拡大方針をとることを閣議で決めました」と天皇に奏上します。
午後2時、陸軍の最高意思決定機関の陸軍三長官会議が開かれました。顔ぶれは南陸相、金谷範三参謀総長、武藤信義教育総監です。南が「いま以上に事件を拡大させないようにと閣議で決まった」と述べると、金谷は「じゃあ速やかに旧態に復するように指示します。占領した北大営や奉天は元に戻さなあかん」と言って会議は終わりました。
陸軍中央の下剋上
ところが参謀本部の今村均課長は金谷参謀総長に「現状維持」を上申します。「もう軍は出動してしまった。矢は放たれたので元には戻せません」とトップの方針に異論を唱えたのです。さらには「旧態復帰は断じて不可」とする善後策を起案して参謀本部首脳会議の次長、部長クラスから内諾を得てしまいます。
陸軍中央でも上の決定に従わない体制がすでに出来上がっていたのです。
「仮に政府が倒れても構わない」ナンバー2同士が集まって確認し合った
若槻は不安で、元老の西園寺公望(さいおんじきんもち)や重臣に何とか動いてもらおうとします。でも西園寺と牧野伸顕内大臣の間にも意見の違いがありましたし、内大臣秘書官長の木戸幸一も「首相が他力本願なるは面白からず」という姿勢でした。
20日の午前10時、杉山元(はじめ)陸軍次官、二宮治重参謀次長、荒木貞夫教育総監部本部長というナンバー2同士が集まります。「仮に政府が倒れても構わない。旧態に復帰はさせない」と確認し合ったのです。
同じ日、金谷参謀総長は午後2時に参内して、関東軍の様子や朝鮮軍には待機をさせていることを天皇に奏上しています。足元で起こっている下剋上に気づいていないのです。
21日、再び閣議が開かれましたが、旧態復帰派と、「占領した状態のまま中国と交渉しよう」という現状維持派が半数ずつに分かれて、議論は平行線を辿ります。
南陸相は、ここまできたら現状維持しかないし、増援も必要だと提議します。しかし若槻首相以外は全員増援に反対でした。朝鮮軍から「越境を始めるで」という報せが届いたのはそのさなかでした。国境を越えて軍を動かすには天皇の裁可と内閣による費用の承認が必要でしたが、勝手に動いてしまったんですね。
これは本来なら死罪です。でも、もう国境を越えたのなら仕方がない、と追認するしかありませんでした。この日の夕方、金谷参謀総長は参内して朝鮮軍が独断で国境を越えてしまった、という事実だけを伝えて帰ります。金谷は天皇に帷幄上奏(いあくじょうそう/軍首脳が閣議を経ずに軍に関することを上奏すること)して允裁(いんさい/裁可のこと)を得ようとしたのですが、閣議決定も首相の承認もないものが許されるはずはないと考えたのです。
柳条湖事件後、関東軍がまたたく間に押さえた奉天城。写真は事件翌日の9月19日に撮影されたもの ©日本電報通信社撮影/共同通信
翌22日の午前10時前、若槻首相が参内しました。天皇は、閣議で不拡大方針を決めたのなら、それを貫徹するように努力しなければいけないと「懇諭」し、それは陸軍大臣にも伝達してほしいと命じました。
この日の閣議ではどの閣僚からも朝鮮軍の独断専行について、賛成とも反対とも意見が出ませんでした。しかしすでに朝鮮軍は越境しています。そのため若槻首相は仕方なく事後承認してしまうのです。
その後、金谷参謀総長から改めて上奏を受けた天皇は「この度はやむを得ざるも、今後気をつけるように」と戒め、朝鮮軍の部隊が満洲で関東軍の指揮下に入ることを許しました。
陸軍中央にとって、これは大きな前例になりました。閣議で経費についてさえ決めてもらえば軍事に関することは諮らなくてもよさそうやで、という悪しき前例を得たのです。
「領土的野心はない」と国際連盟に通告
さて、この間の動きについてメディアはどう伝えたのでしょう。
新聞は9月19日に号外を出し、同日の朝刊でも大きく報じました。内容は圧倒的に関東軍支持でした。中村震太郎大尉が殺され、日本の権益が侵されている。幣原外相は弱腰だ。ガツンと一発かまさなあかん、という声が大勢になるのです。
クールだったのは石橋湛山の「東洋経済新報」くらいです。「力で中国を屈服させることなんか不可能やで」と報じました。
21日には奉天公会堂に在留日本人約600人が参加して全満日本人大会が開かれました。そこで「全満洲を軍事占領するんや。皇軍の行動を止めるやつは宰相だって許さないで」と、決議文を手に軍司令部や総領事館に押しかけました。
では中国の動きはどうだったのでしょうか。南京や上海では学生が即座に反応、激怒して日本商品のボイコット運動が始まりました。9月23日に南京、26日は上海で20万人規模の抗日救国大会も開かれました。その影響は大きく、対中国輸出額は10月から12月で前年より6割から8割も減少したのです。日本も不況に陥っていましたから、こうなると余計に国民の対華感情は悪化します。
とくに長江流域に住んでいた日本人は深刻な物資不足に直面しました。長江を遡航する船便の積荷がゼロになったほどで、電話電信、郵便なども妨害や遅延が多発しました。のちに、11月1日に上海で開かれた日本人居留民大会は、「蹶然(けつぜん)起って中国を膺懲(ようちょう/こらしめること)せよ」と決議することになります。
9月24日、日本政府は「領土的野心はないし、鉄道と邦人の安全が保障されるなら軍は満鉄付属地に退かせるで」という内容の声明を発表します。さらに国際連盟には「満洲において領土的野心を有しない」として、中国と直接交渉する用意があると通告しました。
静観する英米ソ
国際社会はどう見ていたのでしょうか。
大英帝国は、関東軍の策謀であると感じながらも「うちの権益のためには日本の動きをしばらく見ていたほうが得策やで」と考えていました。
アメリカ(当時、国際連盟未加盟でした)は、「関東軍は政府を無視して動いているようだから日本政府を不戦条約違反では責められないで。軍部と対峙する幣原外相を信頼してやらなあかんで」と。ただ、アメリカは日本の動きを注視しているで、という意思は伝えました。
結局、英米ともに静観したわけです。これは1929年に起きた世界恐慌対策に追われていたからです。
北満洲に権益を持つソ連も不干渉を貫きます。ソ連は農業集団化が難航していて、数百万人の餓死者を出すなど厳しい問題に直面していて、極東で起きたことに応じる余裕がまったくなかったんですね。
ここまでは関東軍に有利に事が運んでいますね。でも、その状況は長続きはしませんでした。
構成・神長倉伸義
参考文献:加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』(岩波新書 2007)、臼井勝美『満州事変』(講談社学術文庫 2020)、緒方貞子『満州事変』(岩波現代文庫 2011)、伊藤之雄『政党政治と天皇』(講談社学術文庫 2010)、北岡伸一『政党から軍部へ』(中公文庫 2013)、『昭和天皇実録 第五』(東京書籍 2016)
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2023/10/29 (Sun) 11:03:24
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《特別公開》“ラストエンペラー”は抵抗していたが…「関東軍はイケイケドンドンでした」出口さんが解説する、満洲国建国の“裏側”
出口治明の0から学ぶ「日本史」講義/「満洲事変」#4
https://bunshun.jp/articles/-/66582
source : 週刊文春 2021年3月18日号
立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明さんがふたたび週刊文春に帰ってきます。
週刊文春の人気連載「出口治明の0から学ぶ『日本史』講義」は、出口さんの病気療養のため2021年春から2年半の間お休みしておりましたが、週刊文春10月26日号より再開の運びとなりました。久々の講義は天皇機関説事件や2・26事件が起きた時代から取り上げていきます。この連載再開に合わせて、文春オンラインでは休載前の講義(196回~201回)を期間限定で公開します。
かねてから「『日本史』というものはない」と話してきた出口さん。世界全体の大きな流れのなかから、日本という国の姿を出口さんと一緒に見ていきましょう。(全6回の4回目/はじめから読む)
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自衛の範囲を越えた行動
前回、米英ソの列強が満洲事変については静観していたことを述べました。ところが関東軍の独走によって風向きが変わっていきます。今回は孤立していく日本の状況と、関東軍が進めた満洲国建国について見ていきましょう。
日本政府や陸軍中央は関東軍に対して再三、不拡大方針を伝えました。しかし関東軍は、張学良が奉天から移した本拠地の錦州を、1931年10月8日に無警告で爆撃します。
陸軍中央は、南満洲は満鉄があるからある程度の兵力を配置するのは仕方がないという方針でした。でも錦州は満鉄沿線から西に200キロ以上離れています。これでは拡大の意図ありととられても仕方がないですよね。
さらに関東軍は北方にも兵を動かします。9月24日、金谷範三参謀総長は「ハルビンには絶対出兵したらあかんで」と命じました。北満洲に手をかけてソ連を刺激したら大変やで、というわけです。ところが関東軍の独走は止みません。11月19日に北満洲の要衝チチハルを占領してしまいました。
自衛の範囲はとうに越えてしまいました。アメリカのスティムソン国務長官はこの報せを受けた日の日記に「日本政府にはもう統制力はなく、狂犬の支配下に置かれてしまったで」と書いています。
アメリカを怒らせた錦州攻撃
11月26日、天津で暴動が起こりました(第2次天津暴動)。
本庄繁関東軍司令官は、天津への軍の進撃を容易にするため、錦州攻撃を命じたのです。これを知った金谷参謀総長は、翌27日朝、天皇に拝謁し、「兵は奉天に引き返すように」という錦州攻撃の中止命令を引き出し、どのような状況であっても遼河より東に退くように、と指示を出しました。関東軍は朝鮮軍(朝鮮駐在の日本軍)からの援軍も要請しましたが、これも許されなかったため、数量的に錦州攻撃が不可能となり、一旦動きを止めました。
中国は柳条湖事件直後から、国際連盟に対して事実関係を調査するよう提訴していました。12月に入って大英帝国のリットン卿をはじめ、仏伊独米、5名の委員によるリットン調査団を派遣することが連盟理事会で決まります。
米国務長官は「ファイナル・クライマックス」と日記に記した
調査にあたって、日本には匪賊(略奪や殺人を集団で行うグループ)を討伐する権利を認めることになるのですが、関東軍は、これをもって張学良軍を討つために錦州攻略も可能と解釈を拡大させて、翌32年1月3日には錦州を占領してしまいます。
スティムソンは「匪賊の討伐を建前に、日本軍は侵略を進めているように見えるで」と怒ります。そして錦州占領を知ると「ファイナル・クライマックス」と日記に記しました。「これは、もうアカン」という心境でしょうか。スティムソンはワシントン会議の9か国条約(中国の主権尊重などの取り決め)とパリ不戦条約(紛争は平和的手段で解決する)に違反して成立させたものは「いっさい認めへんで」というスティムソン・ドクトリンを1月7日に日本に通告します。
それでも関東軍は意に介しません。2月5日にはハルビンも占領し、満洲の主要な都市や鉄道を完全に支配下に置いてしまいました。
2歳で皇帝となった“ラストエンペラー”
ここからはラストエンペラーと呼ばれた愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)について見ていきましょう。
溥儀は2歳のときに清の最後の皇帝となった人ですが、辛亥革命の後、1912年に退位しました。でも皇帝を名乗ったまま北京の紫禁城に住み続けることが認められていました。ところが24年10月に軍閥の馮玉祥(ふうぎょくしょう)の軍隊が北京に入ると、溥儀を追い出してしまいます。
関東大震災で義捐金を送った溥儀
溥儀にはジョンストンという大英帝国の家庭教師が付いていて、大英帝国の公使館に逃げ込もうとしましたが断わられてしまいます。やはり、退位した皇帝の肩を持つことで中国の権益を失いたくなかったのです。
ジョンストンは不憫に思い日本に声をかけます。溥儀は優しい人で、関東大震災のときに宝石を日本に贈っていたのです。「これ、義捐金(ぎえんきん)やで」と。それを覚えていたジョンストンが日本公使館に掛け合い、溥儀は天津の日本租界で25年から3年半ぐらい静かに暮らしていました。
ところが、28年に東陵事件が起きます。清には東陵と西陵の2つの陵(皇帝の墓)がありました。蒋介石の軍隊がその東陵の乾隆帝と西太后の墓を暴き、宝物を持ち去ったのです。
それに溥儀は激怒して、蒋介石に抗議しました。しかし蒋介石も共産党との戦争などで忙しく、退位した皇帝の話などまともに取り上げませんよね。溥儀は、清朝を復辟(ふくへき)しないと先祖に顔向けできないと思うようになったのです。30年8月には溥儀の密使が河本大作(張作霖爆殺事件の処分を受けて当時は予備役)を訪ねて、その希望を伝えました。
特務機関長は「あなたの運命です」と説得し…
関東軍は、1931年9月22日に板垣征四郎、石原莞爾(かんじ)、土肥原賢二奉天特務機関長、片倉衷大尉が作成した「満蒙問題解決策案」で「満蒙を領域とする宣統帝(溥儀)の政権を樹立して各民族の楽土にする」と謳いました。柳条湖事件のわずか4日後です。
石原は満洲を直接占領することを考えていました。しかし、日本政府や国際世論から承認を得ることが難しいと判断すると、あらかじめ用意していた別の計画を動かしはじめます。清朝の旧臣と連絡を取り合いながら、溥儀を新政権の頭領にして、満洲国を立ち上げる、というものです。9月30日、溥儀は旧臣から「満洲はあなたの父祖の地。是非一肌脱いでください」と求められます。陸軍中央はその動きには気付いていたようです。何度か「溥儀擁立の策動があるようだが、絶対関わったらあかんで」と釘を刺していました。
ところが11月2日、奉天特務機関長の土肥原大佐が「清の復辟を行うのはあなたの運命ですよ」と説得に動きます。そして11月8日、天津暴動(第一次天津暴動)が起こります。日本側から武器を供与された中国人が暴動を起こしたのですが、溥儀は「もう天津には住めない」と抜け出し、13日に満洲へ渡りました。土肥原による策謀です。
「これは過渡期の便法」
南次郎陸相は11月15日、国際的な非難への懸念から「溥儀を満洲の新政権に関係させたらあかんで」という指令を関東軍司令官へ出しています。でも関東軍はイケイケドンドンでした。32年2月18日、張作霖の義兄弟であった張景恵(ちょうけいけい)をトップに、東北行政委員会という組織を作らせて中国から東北省区の独立を宣言させたのです。
ただ、2月23日に関東軍の板垣から満洲国執政就任を聞かされた溥儀はものすごく抵抗しました。「執政なんて話が違う。これでは清朝の復辟にならない」と。板垣は「急には無理でっせ。これは過渡期の便法です」と説得し、側近も執政就任を勧めるので渋々受け入れることになりました。
そして3月1日に張景恵の邸宅で溥儀を執政とする満洲国の建国が宣言されました。五族協和、王道楽土というスローガンを掲げた満洲国がスタートしたのです。
満洲国の執政になった溥儀は1932年5月に新京(現長春)でリットン調査団と会見を行いました。床には猛獣の敷皮が見えます。©共同通信
満洲国の執政になった溥儀は1932年5月に新京(現長春)でリットン調査団と会見を行いました。床には猛獣の敷皮が見えます。©共同通信
構成・神長倉伸義
参考文献:加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』(岩波新書 2007)、臼井勝美『満州事変』(講談社学術文庫 2020)、緒方貞子『満州事変』(岩波現代文庫 2011)、伊藤之雄『政党政治と天皇』(講談社学術文庫 2010)、北岡伸一『政党から軍部へ』(中公文庫 2013)、『昭和天皇実録 第五』(東京書籍 2016)
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<目次>
意外と少ない世界の“独立国家”
ロシアと英国に迫られていた日本(明治〜大正時代)
日英同盟と近代日本の発展(明治〜大正時代)
なぜ日本は米英と敵対するようになったのか?
日本国内の政府と軍部(陸/海)の対立
日米決戦はなぜハワイから始まったのか ?
日本の陸軍と海軍、何が違ったのか?
天皇と陸軍と革命思想
陸軍と満洲と社会主義
日本の終戦……アメリカに負けるか、ソ連に負けるか
ソ連の対日参戦は周知されて いた
ソ連と日本の終戦〜北からの侵攻とシベリア抑留〜