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2023/10/14 (Sat) 10:48:40
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雑記帳
2023年10月14日
瀧浪貞子『桓武天皇 決断する君主』
https://sicambre.seesaa.net/article/202310article_14.html
https://www.amazon.co.jp/%E6%A1%93%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87-%E6%B1%BA%E6%96%AD%E3%81%99%E3%82%8B%E5%90%9B%E4%B8%BB-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%96%B0%E8%B5%A4%E7%89%88-1983/dp/4004319838#:~:text=%E7%9A%87%E4%BD%8D%E7%B6%99%E6%89%BF%E8%80%85%E3%81%AB%E3%81%AF%E6%88%90%E3%82%8A%E5%BE%97%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AB%E3%82%82%E3%81%8B%E3%81%8B%E3%82%8F%E3%82%89%E3%81%9A%E3%80%81%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F%E3%81%AE%E5%A5%87%E8%A8%88%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8A%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%97%E3%81%9F%E6%A1%93%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%82,%E9%95%B7%E5%B2%A1%E4%BA%AC%E3%80%81%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%BA%AC%E3%81%B8%E3%81%AE%E4%BA%8C%E5%BA%A6%E3%81%AE%E9%81%B7%E9%83%BD%E3%81%A8%E3%80%81%E8%9D%A6%E5%A4%B7%E3%81%A8%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%92%E6%B1%BA%E6%96%AD%E3%81%97%E3%80%81%E5%AE%9F%E5%BC%9F%E3%83%BB%E6%97%A9%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%AA%A8%E8%82%89%E3%81%AE%E7%A2%BA%E5%9F%B7%E3%82%92%E4%B9%97%E3%82%8A%E8%B6%8A%E3%81%88%E3%81%9F%E5%A4%9A%E7%AB%AF%E3%81%AA%E7%94%9F%E6%B6%AF%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%81%BF%E8%A7%A3%E3%81%8F%E3%80%82
岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2023年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。著者の見解には独特なところがあり、困惑させられることも少なくはなく(関連記事)、専門家からの批判もありますが(関連記事)、その独特さに中毒性があり、つい読みたくなってしまいます。これは、遠山美都男氏の一連の一般向け著作とも通ずるところがあるように思います。本書も、桓武天皇についての一般的な認識を覆すような見解が提示されているのではないか、との期待と不安から読みました。じっさい、桓武天皇には生涯にわたって天武系皇統の意識を持ち続けた、と冒頭で指摘されており、たいへん困惑しましたが、著者らしい見解でもあるように思われ、気になって先を読み進めました。正直なところ、以下に述べるように本書の見解には納得のいかないところもあり、飛躍しすぎているようにも思いますが、専門家ではない私にとっては読ませる内容でした。
桓武天皇(山部王)は737年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に、白壁王(光仁天皇)の長男として生まれます。母である高野新笠は百済系の渡来氏族である和氏の出身で、その家柄の低さは桓武にとって劣等感になったようです。なお、737年の干支は丁丑だったため、桓武は牛の動静への拘りが強かったようです。白壁王の父親は天智天皇の息子である施基(志紀、芝基、志貴)皇子です。本書は、光仁さらにはその息子の桓武の即位を可能にしたのは施基皇子の立場にあった、と推測します。施基皇子は679年のいわゆる吉野の盟約に呼ばれた6人の皇子のうちの1人です(他の皇子は、天武の息子が草壁と大津と高市と忍壁、天智の息子が川島)。この吉野の盟約で天智の息子2人が天武の息子として扱われることになった意義を、本書は重視します。武力で行為を簒奪した天武にとって、その正統性は皇位継承資格のある天智の皇子たちの承認を得て初めて成立した、と本書は指摘します。施基皇子と川島皇子は天武の娘を妻としており、これは天武による2人への贖罪でもあったのだろう、と本書は解釈しています。
こうして、擬制的ではあるものの「天武の血脈」に連なった施基ですが、「父」として天武を素直に受け入れられなかったのではないか、と本書は推測します。その理由は、685年にそれまで位階のなかった皇族(親王と諸王)にも位階が与えられることになったものの、この時、吉野の盟約に参加した6人の皇子のうち、施基のみは叙位された形跡がないからです。また、川島や忍壁などとは異なり、施基は天武から弔問や史書編纂といった任務を与えられていません。本書は、686年に天武が危篤に陥ると、吉野の盟約の6人の皇子全員が増封されたことに注目します。吉野の盟約の6人の皇子全員を対象とするのは、吉野の盟約以降では初めてのことで、これは鸕野讚良皇后(持統天皇)の意向であり、鸕野讚良にとって吉野の盟約はそれほど重い意味があったのだろう、と本書は推測します。天武没後の689年6月、施基は鸕野讚良から撰善言司に任じられています。善言とは、古今の典籍や先人の教訓などから理にかなった言葉のことです。この時、撰善言司に選ばれたのは施基を含めて7人でしたが、いずれも知識人・文化人で、施基には文化的素養があったようです。施基は感受性が強く、天武へのわだかまりを払拭できず、それを察した天武から遠ざけられたのではないか、と本書は推測します。もっとも、単に施基が年少だったからとも解釈できるように思いますが。撰善言司に任じられたのを契機に、施基は珂瑠皇子(文武天皇)と関係を深めたようです。
その後、持統朝において施基が政務に関わったのか不明ですが、文武朝では持統の火葬の責任者に任命されるなど、政務に関わっていきます。施基は704年には、天武の息子5人とともに増封されており、それは施基が天武の「子」だったからだ、と本書は指摘します。ただ、施基の位階は他の5人の皇子よりも低く、施基には政治的野心がなく、文学の才能を開花させていったのではないか、と本書は推測します。705年に忍壁が没すると、施基は吉野の盟約に加わった唯一の生存者となり、その立場は重くなった、と本書は指摘します。元明・元正朝において施基は厚遇され、「天武の皇子」としての自覚がやっと生まれたのだろう、と本書は推測します。施基は716年8月に没しますが、この施基の天武系皇子との意識が、その息子の光仁と孫の桓武の障害に大きく影響した、というのが本書の見通しです。
白壁王は709年に施基と紀諸人の娘(橡姫)との間に生まれ、異母兄に、天武の娘である託基皇女を母とする春日王がいました。白壁王は、数え年8歳(以下、年齢は数え年です)で父を亡くしますが、その官位昇進は他の王族よりとくに劣っていたわけではないようです。無位だった白壁王が従四位下に叙されたのは737年で、上述のように同年に桓武(山部王)が生まれています。異母兄の春日王は745年に没しており、他の2人の兄もその前後に死亡していたようで、そのために白壁王が施基の後継者と目されるようになったことです。白壁王は757年以降、矢継ぎ早に昇叙されており、これは当時政権を掌握しつつあった藤原仲麻呂による引き立てで、その理由として本書は、白壁王が聖武天皇の娘である井上内親王を妻に迎えていたことと、擬制的にしても白壁王が天武の「孫」として扱われていたことを指摘します。759年に淳仁天皇は父である舎人親王を天皇として遇する、と表明し、白壁王は淳仁天皇の兄弟や舎人親王の孫たちとともに叙位されているので、明らかに淳仁天皇の親族としての扱いを受けている、というわけです。本書は、白壁王と井上内親王の婚姻には聖武上皇の意向が反映されており、それは白壁王が天武の「孫」と考えられていたからであり、藤原仲麻呂がこの婚姻関係に着目した、と本書は推測します。
白壁王は藤原仲麻呂政権で抜擢され続け、762年には中納言に任命されていますが、764年9月に藤原仲麻呂が政変(恵美押勝の乱)で敗死します。恵美押勝の乱において、孝謙上皇が藤原仲麻呂追討軍を派遣した翌日(764年9月12日)、白壁王は正三位に昇叙され、翌年正月には吉備真備や藤原永手たちとともに勲二等を授けられています。白壁王は藤原仲麻呂追討軍に参加して功績があったようですが、具体的な功績は不明です。白壁王は藤原仲麻呂に抜擢されつつも距離を置き、恵美押勝の乱では孝謙上皇側の一員として行動し、孝謙上皇の信頼を得たたわけで、これが、孝謙上皇の異母姉(井上内親王)を妻としていることとともに、白壁王のその後を決定づけた、と本書は指摘します。白壁王の長男である桓武(山部王)は無位でしたが、恵美押勝の乱の終結直後の764年10月に、従五位下に昇叙されています。
白壁王は恵美押勝の乱後の称徳朝において、大納言に昇任後には官職も位階も昇叙がありませんでした。本書はそれを、律令制下において一般的に皇太子には叙品・任官はないのが原則と考えられることから、白壁王立太子構想と関連づけます。しかし、称徳天皇の後継者をめぐってはさまざまな動きがあり、容易に決断できる問題ではなかったことから、白壁王は酒に溺れたふりをし、保身に走ったのではないか、と本書は推測します。称徳天皇の没後に白壁王が即位したことに(光仁天皇)ついて、称徳天皇は後継者を決めずに没し、藤原永手たちが称徳の遺宣を偽作して、白壁王の立太子が実現した、との見解が一般的です。しかし本書は、白壁王の擁立構想は早くから称徳にあり、病床の称徳から審議を命じられた藤原永手たちが、称徳の意を汲んで白壁王の立太子を実現した、と指摘します。白壁王擁立の根拠として、「先帝の功」が挙げられていますが、ここでの「先帝」とは天武天皇のことで、その功とは吉野の盟約である、というのが本書の見解です。この時、吉備真備は白壁王ではなく文室浄三と大市の兄弟を強硬に推した、と真偽不明ながら伝わっていますが、そうだった場合、山部王(桓武天皇)が皇位を望んで内紛が起きるのではないか、と吉備真備が懸念していたのだろう、と本書は推測します。ただ、これは結果論的解釈のように思います。
白壁王の立太子とともに山部王は従四位下に昇叙されて侍従に任じられ、白壁王の即位(光仁天皇)とともに四品が与えられて親王となり、その後すぐ中務卿に任命されました。当時の山部王が後に即位する(桓武天皇)と予想した人はほぼいなかったでしょうが、その契機として、光仁天皇擁立の中心人物で左大臣だった藤原氏北家の永手が771年2月に急死したことを本書は挙げます。その後、藤原氏の中心的存在となったのが藤原氏式家の良継で、中納言から大納言より格上の内臣へと昇進し、異母弟の百川の謀略に加担し、山部親王に即位の道が開けます。まず、光仁天皇の皇后となった井上内親王が772年3月に光仁天皇呪詛により皇后の地位を剥奪され、その2ヶ月後には井上内親王の息子である他戸親王が皇太子を廃されます。本書は、この2ヶ月間に光仁天皇が廃太子の決断を迷ったのではないか、と推測します。井上内親王の廃后の3日前に渤海使が帰国しており、これは渤海使に廃后を知られないためだったのだろう、と本書は推測します。
773年10月、光仁天皇の同母姉の難波内親王が死亡し、これが井上内親王の厭魅のためとされ、井上内親王は息子の他戸とともに幽閉され、775年4月27日、井上内親王は幽閉中に息子と同日に死亡しました。本書は殺害説と自殺説があるこの件について、真相は不明としています。他戸親王が皇太子を廃された後、773年1月に山部親王の立太子が実現しましたが、その前後に、藤原良継が娘の乙牟漏を、藤原百川が娘の旅子を山部親王の妻としており、他戸親王失脚の中心人物は百川で、良継が協力した、と本書は推測しています。生母の出自の低さから、山部親王は与しやすいと考えた百川と良継が山部親王の立太子を画策した、というわけです。一方で本書は、光仁天皇が百川と良継をやや警戒していた可能性にも言及し、藤原永手への信任とは決定的に違っていた、とも指摘しています。光仁天皇が百川と良継の策謀に気づきながらも井上内親王の廃后と他戸親王の廃太子を決断した理由については、井上内親王が自身の即位を求めて呪詛した、と光仁天皇が信じた(信じさせられた)からだろう、と本書は推測します。井上内親王はその後復権しますが、他戸親王はついに復権せず、それは、皇太子だった他戸親王の復権は桓武の立場を否定することになるからだろう、と本書は指摘します。
こうして山部親王は次期天皇としての地位を約束されたわけですが、その立太子がすんなりと実現したわけではなく、光仁天皇には他にも有力な皇子がいました。その中には、尾張女王(施基皇子)の子供で、当時22歳の稗田親王がいました。中世初期に成立した『水鏡』によると、皇太子として藤原百川が山部親王を推すのに対して、藤原京家の浜成は母の身分の違いから稗田親王を推したそうです。浜成は山部親王の即位(桓武天皇)後、大宰帥から大宰員外帥に降格されています。光仁天皇は最終的に山部親王を皇太子と決めますが、それは、当面の社会的混乱を乗り切るには政治的経験の豊富な山部親王以外にないと考えていたからだろう、と本書は推測します。
781年4月、光仁天皇は皇太子に譲位し、山部親王が即位します(桓武天皇)。桓武の生母である高野新笠の出自の低さはずっと問題だったようでず、本書は、高野新笠が当初の和氏から高野氏へと変わったことについて、高野天皇と称された称徳天皇との関わりと、これが聖武天皇に連なるための擬制的方便だった、と指摘します。桓武天皇の正当化としては、異母妹で井上内親王を母とする酒人内親王との婚姻も指摘されています。桓武天皇は皇太子時代に、酒人内親王との間に朝原内親王を儲けています。酒人内親王は容姿端麗で蠱惑的であり、性格は傲慢でやや情緒不安定だったようです。桓武は酒人内親王を寵愛したそうですが、それは井上内親王と他戸親王への贖罪だったかもしれない、と指摘します。
桓武の即位の翌日、同母弟の早良親王が皇太子とされます。当時は、即位の数年後の立太子が通例でしたが、光仁天皇が皇位継承に関わる政治的混乱を危惧し、早良親王の立太子が急がれたのだろう、と本書は推測します。この時、出家していた早良親王は還俗しています。桓武の弱点として母親の出自の低さがあり、同母弟の早良親王を桓武の次に即位させることで、母親の格を高めようとしたのかもしれません。光仁上皇は、譲位と同じ781年末(12月23日)に死亡します。桓武とその父である光仁の関係は必ずしも良好ではなかった、との見解もありますが、本書は、桓武が父を慕い、敬愛していた、と推測します。
782年、氷上川継(河継)の謀叛が発覚しましたが、氷上川継は父系では天武の曽孫、母方祖父が聖武天皇となるので、桓武よりずっと天武の血脈が濃いことになります。この事件では貴族官人など35人が処罰されており、氷上川継個人の単なる妄想に基づく事件ではなかったようです。同年には、続いて舎人親王の孫と推測されている三方(御方、三形)王の呪詛事件が起き、これらは桓武即位の正統性に対する否定でした。ただ本書は、これらの事件が起きても、「天武系皇統」としての自己認識は変わらなかっただろう、と推測します。つまり、桓武はこれらの事件を契機に「天智系皇統」の意識に目覚め、それを強く押し出すようになったわけではない、ということです。本書はその根拠として、桓武がその後も聖武天皇に拘り、晩年まで重視していたことを挙げ、桓武は、「天武系皇統」というよりは「聖武系皇統」との自覚を強めていったのではないか、と推測します。また本書は、大友皇子の子孫など天智天皇の父系子孫が多数存在する中で、「天智系皇統」の強調は自らの立場や正統性を脅かしかねず、桓武は即位直後の時点で「天智系皇統」を意識することはなかっただろう、と指摘します。
ただ、いずれにしても、桓武即位の正統性に対する不信が当時の朝廷にあったことは否定できず、桓武はそうした問題の克服のため遷都を決意したのだろう、と本書は推測します。当時まだ、歴代遷宮の意識は「国家の恒例」として根強くあり、桓武が遷都の大義名分としたのはこの「故実」だった、と本書は推測します。一方で、当時の平城京には、生活廃棄物の処理といった問題が生じており、平城京は遅かれ早かれ棄てられるべき運命にあった、と本書は指摘します。こうして長岡京の造営が始まり、それからわずか5ヶ月ほどの784年11月に長岡京への遷都が実行されました。その目的の一つに奈良仏教の勢力排除がありましたが、桓武朝において仏教そのものが否定されたわけではありませんでした。長岡の地が新たな都として選ばれた大きな理由は、交通上の問題でした。長岡の地は山陰道および山陽道と東海道に通じ、そのすぐ南では葛野川と宇治川と木津川が合流して淀川となります。
遷都の翌年、785年9月23日に、長岡京遷都を支えた中心的人物で、当時の桓武にとって第一の寵臣とも言えた藤原種継が矢で射られ、翌日に死亡します。桓武は大伴氏を中心に数十人を逮捕させ、関連して皇太弟の早良親王も幽閉され、早良親王は淡路島への配流中に断食により死亡します。大伴氏が中心になって早良親王を擁立しようと考えた、と公式には結論づけられましたが、本書では、早良親王の直接的関与の有無は不明とされています。藤原種継殺害事件の動機についてはさまざまな仮説が提示されていますが、いずれも決定的な根拠はなく、ただ桓武と早良親王の関係が良好とは言えないことは確かだろう、と本書は指摘します。本書はその背景に、奈良仏教との因縁の深い早良親王と、奈良仏教の勢力排除を目指した桓武との間に対立要素があったのではないか、と推測します。さらに本書は、桓武が自身と早良親王を天智と天武に擬え、壬申の乱の再来を警戒し、早良親王に自殺を強要したのではないか、と推測します。なお、桓武が早良親王関連の記事を後に削除させた理由について、怨霊を意識しなかったわけではないものの、自らの天皇としての度量の狭さと徳のなさを消し去りたかったのではないか、と本書は推測します。桓武は後世の評価を恐れた天皇で、それ故に政治的演出を好んだ、というわけです。
早良親王の廃太子は、天智と光仁と聖武の天皇陵に奉告され、本書はここにも桓武に聖武天皇に連なる意識があったことを見ています。本書はそれ以上に、天智陵への奉告が、早良親王の廃太子に関して、自身を天智に擬えた桓武にとっての自己正当化であり、天智が定めたとされる「不改常典(直系継承を定めたと理解されています)」を根拠とすることでもあった、と推測します。桓武は早良親王の廃太子後に、息子の安殿親王(平城天皇)を皇太子としています。この時に初めて、桓武にとって天智が身近な存在になり、天智への崇敬の念が芽生えたのだろう、と本書は推測します。786年12月以降、奉幣の対象とされた天皇陵は天智と光仁で、施基皇子陵などが適宜加えられるようになります。ただ、桓武には、「天武系皇統」を捨てたとか、そこから離脱しようとしたとかいった意識はなかった、とも本書は指摘します。桓武が父の光仁天皇を「神」として祀った理由については、持統天皇が天武天皇を「神」とすることで、草壁皇子を始祖とする天皇系譜の創出を試みたのに対して、桓武は、光仁天皇を天武天皇、自身を草壁皇子に擬え、自身から安殿親王(持統天皇の構想での文武天皇に相当)への皇位継承を明確にしようと構想したのではないか、と本書は推測します。
藤原種継殺害後も長岡京の造営は続きますが、次第にその計画に狂いが生じてきて、長岡京はけっきょく放棄され、平安京遷都となります。長岡京放棄の理由についてはさまざまな説が提示されており、桓武の生母やキサキなど身内の相次ぐ死や安殿親王の病といった身内の不幸が、早良親王(崇道天皇)の祟りとされたことが指摘されてきました。桓武は早良親王の祟りを公表しますが、これは、人々が早良親王の祟りを恐れていたことから、先手を打って自身が公表し、祀ることで、自身への非難を避けるとともに、自身の人柄に対する信頼感を抱かせようという、政治的演出だったのではないか、と本書は推測します。この他に、長岡京放棄の理由として洪水説などがありますが、本書は最大の原因として藤原種継の死を挙げています。本書は、平安京遷都において桓武への和気清麻呂の進言を重視しています。また本書は、桓武朝が安定してくるにつれて、桓武にとって皇統意識よりもミウチ意識の方が重要になり、それは平安京遷都の報告が天智天皇と施基皇子と光仁天皇の陵墓に限定され、聖武天皇が除外されていることに表れている、と指摘します。
794年10月22日、桓武は新たに建造された平安京へ遷ります。平安京は、桓武の徳を慕う人々がそう呼んでおり、桓武自身がそれを採用して命名した点で、所在地の名による従来の命名とは異なっていました。平安京遷都後も造営事業は続けられていましたが、桓武晩年の有名な徳政相論により停止されました。本書は、徳政相論の当事者(藤原緒嗣と菅野真道)がともに桓武の腹心だったことから、徳政相論は仕組まれたものだった、と推測します。桓武朝の特徴としては、キサキの増大による後宮世界の発展が挙げられており、桓武には少なくとも28人のキサキがいました。桓武朝ではまだ雑然としていた後宮制度は、嵯峨朝において整備されていったようです。桓武の後宮の特徴としては、渡来系氏族出身者の多さ(3割弱)がありますが、その後、渡来系氏族がキサキとなったのは仁明朝までで、それも数人でした。
桓武朝の事業としては、徳政相論でも取り上げられた「軍事」、つまり「蝦夷征討」が有名です。即位直後の桓武にとって、伊治呰麻呂の乱の鎮圧が大きな課題となり、伊治呰麻呂の名はその後、史料に見えなくなりますが、今度は阿弖流為が蝦夷の中心人物とされ、桓武はその制圧に腐心します。当初、蝦夷の制圧は上手く進まず、この間に蝦夷征討軍の指揮官は征東使から征夷使へと改められます。桓武が東北平定にこだわった理由としては、国家の領域的拡大で、都の造営とともに国家の基礎と考えられていたから、と本書は推測します。坂上田村麻呂の活躍もあり、東北平定に目処がついた桓武は、唐に使者を派遣します。遣唐使一行は、一度暴風雨のため渡航を断念した後で804年に再出発し、この中には最澄と空海もいました。桓武朝では史書の編纂も行なわれ、797年に『続日本紀』が成立しています。上述のように後世の評価を気にしていた桓武にとって、史書編纂への思い入れはひじょうに強かったようです。
https://sicambre.seesaa.net/article/202310article_14.html
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2023/10/14 (Sat) 10:51:53
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平城京から長岡京へ遷都する原因となった「祟り」の正体とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/123.html
桓武天皇の失敗と成功―日本列島のアイデンティティー―
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1052.html
寺西貞弘『天武天皇』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14114723