777投稿集 2620590


ジプシー・ロマ迫害の歴史

1:777 :

2023/10/06 (Fri) 06:38:11

【ゆっくり解説】もう一つのホロコースト、ナチスによるシンティ・ロマの虐殺。
ゆっくりニッチな歴史解説
2023/09/18
https://www.youtube.com/watch?v=DSX4CsWFXAI

もう一つのホロコースト、ナチスによるシンティ・ロマの虐殺についてゆっくり解説。
2:777 :

2023/10/06 (Fri) 06:52:29

犠牲者100万?!ナチ傀儡『クロアチア独立国』のセルビア・ユダヤ・ロマ人大量虐殺の全貌
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/345.html

チャップリン『犬の生活 A Dog's Life』1918年
チャーリー・チャップリンはロマ出身
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14004939

チャップリン『キッド The Kid』1921年
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14004947

チャップリン『黄金狂時代 The Gold Rush』1925年
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14004957

チャップリン『街の灯 City Lights』1931年
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14004973

チャップリン『モダン・タイムス Modern Times』1936年
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14004993

チャップリン『独裁者 The Great Dictator』1940年
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14005014

チャップリン『殺人狂時代 Monsieur Verdoux』1947年
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14005019


ロシア民謡の世界
ロシア・ジプシー民謡
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14003366
3:777 :

2023/10/08 (Sun) 00:11:32

雑記帳
2023年10月07日
水谷驍『ジプシー史再考』
https://sicambre.seesaa.net/article/202310article_7.html

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B8%E3%83%97%E3%82%B7%E3%83%BC%E5%8F%B2%E5%86%8D%E8%80%83-%E6%B0%B4%E8%B0%B7-%E9%A9%8D/dp/4806807044

 柘植書房新社より2018年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は日本でも名称自体はよく知られている「ジプシー」の概説です。著者の執筆動機は、日本社会における「ジプシー」理解が、1970年頃以降の研究の進展を踏まえていない、「インド起源の放浪民族」という古い研究段階に留まっていることです。「ジプシー」の名称は差別的だとして、現代日本社会では代わりに「ロマ」の使用が多くなっているように思います。しかし本書はこの問題について、「ジプシー」という呼称への視線が賤視・蔑視のみだったわけではなく、「ロマ」以外にもシンティやマヌーシュなど自称が多数あり、そうした人々は自らを「ジプシー」と峻別するので、総称としては「ジプシー」が妥当になる、と指摘します。

 ジプシー研究の問題点は、ジプシー社会に文字による伝承という伝統がないことで、ジプシーの歴史を書くのはほぼヨーロッパ主流社会に委ねられてきました。ヨーロッパ主流社会は、15世紀初頭にジプシーらしき遊動民集団がヨーロッパに初めて出現した時以降、ヨーロッパでは珍しいその集団の起源地に高い関心を寄せてきました。ジプシーの正体と原郷をめぐっては、18世紀後半に啓蒙主義ドイツの歴史学者であるハインリッヒ・M・G・グレルマンが「インド起源の放浪民族」説を提唱するまで、さまざまな議論がありました。当初ヨーロッパでは、ジプシーは広くエジプト人と呼ばれ、そこからエジプシャン→ジプシャン→ジプシーと呼ばれるようになりました。それは、15世紀初頭にヨーロッパ中央部各地で記録され、主流社会により最初の「ジプシー」とされた集団が、「小エジプト(または低地エジプト)から来た巡礼」と称した、と伝えられたからです。フランスでは、ボヘミア方面から来たとされ、ボエミアンと呼ばれることが多く、現在でもフランスにおけるジプシーの一般的な呼称の一つです。またジプシーは、当時東方もしくは南方から侵入してくる「野蛮人」の総称的代名詞だったタタール(モンゴル人)やサラセン(ムスリム)と呼ばれることもあり、東方起源ということでグレカ(ギリシア人)とも呼ばれました。ともかく、ジプシーは当初ヨーロッパにおいて、ヨーロッパ東方の辺境もしくは異境から来た異邦人の集団と考えられました。当時のヨーロッパの知識人は、ジプシーの起源について、シリアの古代神官の子孫とか古代ペルシアとかアナトリア半島とか、さまざまな見解を提唱しました。

 16世紀には、ジプシーが「外国」起源ではなく、ヨーロッパ起源との学説も提示されました。たとえば、ジプシーとは信仰を持たずに毎日「犬のように」生きる「諸民族の人間の屑」で、「一緒になりたいと望む男女を仲間として受け入れる」無節操な混成集団であり、多様な出身地域の浮浪者や泥棒や乞食などが加わっていた、というものです。17世紀にはジプシーの起源をユダヤ人とする説が提唱され、14世紀半ばに迫害を逃れて森に隠れ住んだユダヤ人が、フス派が迫害されるようになった15世紀に、もはや厳しく追及されることはなくなったと判断して町に戻ってきたものの、ユダヤ人と見破られないようにし、一方でキリスト教徒とも称せずに、エジプト人と自称した、というわけです。こうした確たる学説とまではいかずとも、ジプシーの「インド起源」を示唆する「証拠」は15世紀からありました。

 ジプシーの起源について一定水準以上の科学的探究が始まったのは18世紀半ば以降で、その最初の試みがグレルマンの著書(1783年)でした。グレルマンは、ヨーロッパ各地に住み、さまざまな名称で呼ばれるジプシーは同じ民族で、その共通する身体的特徴として、暗褐色の肌や長い黒髪や黒い瞳や均整のとれた四肢を挙げました。ジプシーの大半は集団で移動する放浪生活を送っており、鍛治や博労や楽師や占いや砂金採取やバイシュンなど独特の生業に従事し、怠惰で勤勉を嫌い、実際には乞食と泥棒で暮らしており、独特な踊りは卑猥で、飲酒と喫煙をとくに好み、人肉食が疑われ、独自の宗教はなく、内婚制で、若くして結婚して多産である、といった特徴をグレルマンは上げました。ジプシーは「ヒンドスタン」起源の独自の言葉を用いており、その原郷はインドと考えられ、インドにはジプシーとよく似た、「シュードラ」と呼ばれる最下層カーストが存在する、とグレルマンは指摘しました。シュードラ」の一部が1408~1409年にティムールの侵略により故郷を追われ、西方へと放浪の末にヨーロッパに到来し、その子孫がジプシーである、とグレルマンは考えました。ジプシーの起源を青銅器時代のヨーロッパに求める説や、オーストラリア方面から到来したとする説も提唱されましたが、グレルマンの主張が国際的にも広く受け入れられ、最近まで「科学的ジプシー論」の「定説」として確立し、日本に置おけるジプシー論も基本的にグレルマンの主張に依拠しています。

 グレルマンのジプシー論を前提として、19世紀以降にジプシーの歴史を探る試みが本格化します。その主要な担い手は、19世紀末にイギリスで結成された民間の研究団体「ジプシー民俗協会」に結集することになる、欧米の熱心なアマチュア研究者でした。それとは別に、ジプシーの起源や移動経路を精力的に探究したのが、比較言語学でした。こうして、ジプシーの歴史について一定の共通認識が形成されました。それによると、ジプシーの原郷はインドですが、さらに詳しい起源地は議論百出で、紀元後1000年前後にインドを出た、と考える論者が多いものの、異論も多数あります。ジプシーはペルシアとトルコを経由して11世紀にはバルカン半島に到達し、15世紀初頭にヨーロッパ中央部に出現しました。ジプシーは当初、自称通りに巡礼として厚遇されたものの、やがて不気味な存在として畏怖されつつも、泥棒や乞食や浮浪者やスパイなどとして嫌われるようになり、迫害は18世紀に最初の頂点に達します。19世紀には、啓蒙主義の精神に従ってジプシーを「開花」しようとする試みが広がる一方で、ロマン主義的観点から「高貴なる野蛮人」との羨望もジプシーに向けられました。19世紀後半から20世紀初頭にかけてバルカン方面から「ジプシー」が大量に流入し、各国において人種主義思想の高まりの中で遊動民集団の規制と排斥が強化され、これがナチ体制のドイツによるジプシー絶滅策につながりました。

 欧米では、こうしたグレルマン説に基づくジプシー認識が1970年代以降に大きく変わります。この変化を促進したのは、第一に、「参与観察」の手法による世界各地のジプシー集団の実証的研究の大きな進展です。その結果、ジプシーが居住する国や地域の歴史と文化に深く規定されており、多様な人々が主流社会により「ジプシー」と扱われてきた、と明らかになりました。一方で、「ジプシー」とは全く無関係と自他ともに認めるにも関わらず、多くの点でジプシーと共通する要素を有する集団が世界各地に存在することも証明されました。第二に、ヨーロッパの社会史研究の飛躍的発展により、ジプシーの問題も中世以降のヨーロッパ史の具体的展開に位置づけて考察されるようになりました。とくに重要なのは、中世から近世への移行期である15~16世紀のヨーロッパ社会では、崩壊しつつある旧体制から放出された膨大な人数の流民層/貧民層が大きな社会問題となっており、その研究が本格的に始まることで、その実態や歴史および社会的意味が明らかにされていき、「ジプシー」もこうした社会層の一部を構成している、と認識されるようになりました。第三に、「民族」の理解が深まり、民族を固有の本質を備えたきわめて実体的で普遍的な人間集団と考える見解が見直されていきました。

 こうして、ジプシーの起源について、封建制の崩壊から資本主義体制への移行過程でヨーロッパ各地に広く発生した雑多な出自の貧民・流民層にあり、こうした人々が定住民の主流社会と時空間的にさまざまな形で特殊な関係を締結する中で、「ジプシー」という特異な社会的存在形態が形成され、この過程で時の政治権力や教会権力による「烙印押捺」という過程が決定的役割を果たした、と考えられるようになりました。時の政治権力や教会権力にとって好ましくないと考えられた人間集団の分類が設定され、異端者もしくは犯罪者として社会から排除・排斥されていった、というわけです。排除・排斥の基準となったのは、近代ヨーロッパ国民国家に相応しい、善良なキリスト教徒で定住地があり、雇用されて賃金労働に従事していることでした。こうした条件を満たさない貧民・流民が排除・排斥の対象となったわけです。その結果、排除・排斥された側は、独特な生活様式や文化を形成していき、主流社会の「隙間」を埋めることで、主流社会から許容されてきました。

https://sicambre.seesaa.net/article/202310article_7.html
4:777 :

2023/10/08 (Sun) 01:05:52

ジプシー(gypsy)は、一般にはヨーロッパ(欧州)で生活している移動型民族を指す民族名。転じて、様々な地域や団体を渡り歩く者を比喩する言葉ともなっている。ドイツ語の「ツィゴイナー(Zigeuner)」を含めて外名であり、当人らの自称ではない。自称としては「ロマ」のほか、「シンティ(ジンティ)」「トラヴェラーズ」などがあるが、それぞれがジプシー全てを包含しているわけではなく、確立された統一呼称は存在しない。宗教面ではキリスト教の諸宗派(カトリック教会、プロテスタント、正教会)信徒もムスリムもいる。言語的にも、ロマが話すロマ語(ロマニ―語)には60を超える方言があり、多様な人々である[1]。


歴史と名称について

ジプシーは「西暦1100年にアトスに現れた」とする記録が最古のものとされる。

15世紀には西欧各地に到達した。ドイツでジプシーを確認している最古の記録は1407年のものである。

フランスでは1419年、東部のシャティヨン・アン・ドンブに、「小エジプト」出身の伯爵ニコラを名乗り、神聖ローマ皇帝とサヴォイア公の保護状を持つと称する人物に率いられた一団が滞在した記録がある[2]。1421年のアラスで歓待された集団は、肌や髪が黒く、髭を伸ばし、服装を含めて当時の西欧市民と大きく異なる見かけで驚かれた[3]。1427年、パリに現れた彼らは、「自分たちは低地エジプトの出身である」と名乗った。ここから「エジプトからやって来た人」という意味の「エジプシャン」の頭音が消失した「ジプシー」 (Gypsy) の名称が生じたと言われる[4]。

「小エジプト」「低地エジプト」が具体的にどの地域を指すかを彼らはほとんど語らなかったが、エジプト出身であることは15世紀末には疑われるようになっていた。1611年の書物には、ギリシアやダルマチア(ともにバルカン半島)からやって来るとの目撃談が記されている[5]。ただし西欧に出現した当初、彼らは、故郷においてキリスト教徒であり、ムスリムに征服されて信仰を一時捨てたものの、再び改宗し、ローマ教皇の命で償いの巡礼をしていると説明した。このため欧州キリスト教圏で好意的に迎えられたが、次第に犯罪などのトラブルが警戒されるようになり、たどり着いた街から早く出立するよう求められることなどが増えた。一方で傭兵や占いでは重宝がられたが、欧州で国家の権力が強まると、都市や農村の共同体に属さないジプシーは取り締まられるようになった。追放令や国によっては死刑の対象とされたほか、囚人としてガレー船の漕ぎ手に送り込まれることもあった[6]。西ヨーロッパに進出したジプシーは、恐らく、彼らの新たな鋳掛け技術、馬の飼育や軍事技術のおかげで、当初国王や皇帝の保護下に各地で歓迎されたが、15世紀末から16世紀にかけての「絶対王政」の揺籃期にいたって厳しく統制されるようになった[7]。

18世紀のオーストリアとプロイセン王国では定住化政策が試みられた。後者ではフリードリヒ2世がノルトハウゼン近くのフリードリヒスローラにジプシー村を作り、ジプシーを職工として働らかせようとしたが、失敗した[8]。ジプシー迫害は各時代各地域でみられたが、ナチス・ドイツでの迫害は凄絶を極めた。最悪の1943年にはすべてのジプシーがアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られるか不妊手術を強行された。ヨーロッパ全域でナチ時代に殺害されたジプシーは20万とも40万とも言われている[9]。

近年の日本においては、「ジプシー」は差別用語、放送禁止用語と見做され、「ロマ」と言い換えられる傾向にある[10]。

明治時代の日本の新聞ではジプシーが「西洋穢多」と報じられたことがあるが[11]、ジプシーの居住圏は西洋だけにとどまらない上、生活様式は日本ではむしろサンカに近い[12]。


ジプシーに分類される諸民族

主にインドが起源と考えられている諸族

ロマ
北インド・パキスタンに起源を持つインド・アーリア人系の移動型民族。ロマ語を話し、欧州における「ジプシー」の最大勢力である。
ロミ
ルーマニア、ルーマニア語圏に居住するロマニ系の民族。19世紀には現代のルーマニアに当たる地域で奴隷とされた。独自の文化や慣習を固守し、キング(王様)も存在する。
アッシュカリー、またはエジプシャン
コソボ及びその周辺諸国(旧ユーゴスラビア)に居住するロマ系の民族。当人たちは「ロマと異なるアイデンティティーを持つ」としているが、ロマ及び居住地域のその他住民からはロマの一部とみなされることが多い。
ロム (Lom people)
南コーカサス(アルメニア等)とアルトヴィン(トルコ)に居住する民族。欧州方面へ移動するロマの集団から別れ、11世紀頃の当地に留まった人々が先祖と考えられている。
ドム
主に中東のイスラム圏に居住するインド・アーリア人系の民族。彼らの話すドマリ語(Domari language)はロマ語と密接な関係にあると考えられている。
リューリ
中央アジア及びロシアに居住するドムの亜集団。
バンジャラ (Banjara)
インド及びパキスタン各地に居住し、ラージャスターン語系統のバンジャリ語(Banjari language)を話す民族。
スリランカ・ジプシー (Sri Lankan Gypsy people)
スリランカに居住し、主にテルグ語を話す民族。スリランカの主要言語であるシンハラ語ではahikuntakaと呼ばれている。


インド以外が起源と考えられている諸族

欧州における「ジプシー」は元々、ロマ以外の移動型民族を含む場合があった。
イェニシェ
アイリッシュ・トラヴェラー
スコティッシュ・トラヴェラー (Scottish Travellers)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%97%E3%82%B7%E3%83%BC

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