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川田稔『武藤章 昭和陸軍最後の戦略家』

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2023/09/23 (Sat) 11:41:58

川田稔『武藤章 昭和陸軍最後の戦略家』
雑記帳
Sep 23, 2023
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 文春新書の一冊として、文藝春秋社より2023年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、東京裁判において死刑判決を受けたA級戦犯としては最年少だった武藤章の評伝です。ここ十数年ほど、以前よりも日本近現代史の本をずっと多く読むようになり、武藤への関心が高くなったので、一度武藤の評伝を読もうと考えました。武藤は日中戦争勃発時には強硬派で、日独伊三国同盟の締結には積極的で、仏印進駐にも深く関わりましたが、対米開戦には反対し続けました。これを単なる矛盾や苦し紛れの変節と考える人も少なくないでしょうが、本書は、武藤の軌跡を丹念に追えば、一貫した論理が見えてくる、と指摘します。武藤は大日本帝国陸軍きっての戦略家だった永田鉄山の後継者として、世界大戦を予期し、それに備えるべく国防国家の実現を使命としたのであり、日中戦争への傾斜も対米戦回避への努力も、武藤にとって矛盾していなかった、というわけです。

 本書は、昭和日本の困難を象徴する人物として、武藤を把握します。本書がおもに取り上げているのは満洲事変以降で、それ以前の武藤の経歴は簡略です。武藤は1892年12月、熊本県で藩医も務めた医師の家柄に生まれました。武藤自身は軍人志望ではなく、熊本陸軍幼年学校から陸軍士官学校へと進んだのは、母親の強い希望のためでした。武藤は陸軍幼年学校入学時に軍人だった従兄弟の井上喜伝の養子となり、陸軍士官学校卒業時に武藤姓に戻っています。幼い頃から優秀だった武藤にとって、幼年学校と士官学校の授業は満足できるものではなかったようです。武藤が傲岸不遜な人物であることはよく知られているでしょうし、本人も自覚していたようですが、十代の頃からそうだったのでしょう。

 士官学校卒業後に部隊勤務を経て陸軍大学校に進んだ武藤は、第一次世界大戦半ばからの平和主義の傾向で軍人蔑視の風潮もある中、煩悶したようです。私生活では、武藤は陸軍中将の尾野実信の娘である初子と結婚し、これは武藤の経歴にかなり有利に働いたようです。武藤と初子との間に子供は生まれず、武藤は初子の姪を養子に迎えています。1923年、武藤はドイツに派遣されます。この時、その前年からドイツに駐在していた石原莞爾との交流があり、武藤は石原から日蓮宗の一派である国柱会への入会を強く勧められましたが、断っています。1926年、武藤はドイツからの帰国途中にアメリカ合衆国に2ヶ月ほど滞在しています。

 武藤の陸軍内での立場を見ていくうえで、一夕会に属していたことはたいへん重要です。満州事変は、関東軍の石原莞爾や板垣征四郎たちと、一夕会に属しており陸軍中央にいた永田鉄山や岡村寧次や東条英機たちとの連携によるものでした。武藤は当時、参謀本部作戦部(第一部)作戦課の兵站班長でしたが、敗戦後、満州事変そのものは全く寝耳に水だった、と述べています。しかし、当時作戦課の課長で武藤の上司だった今村均は、関東軍の行動を抑制しようとしており、戦後に、武藤も公然と自分に対抗し、石原莞爾に同調するようなことを絶えずやっていた、と回想しています。また本書は、武藤が一夕会に属していたこと以外に、満州事変直前の中村大尉事件も、武藤が満州事変で強行姿勢を続けた一因だったのではないか、と推測しています。殺害された中村震太郎大尉の直属の上司が武藤でした。

 この後、武藤は参謀本部情報部の総合班長となり、情報部長だった永田鉄山と緊密な関係になり、強い影響を受けたようです。本書は、武藤も永田も藩医の家系だったことが、両者の接近と関係しているのではないか、と推測しています。第一次世界大戦の前後6年間、ドイツおよびその周辺に駐在していた永田はヨーロッパの洗浄を直接実見し、国家総力戦となる次期世界大戦は不可避との判断から、日本も国家総動員体制をあらかじめ整えておかねばならない、と考えていました。そのさい日本にとって問題となるのは必要資源の確保で、国内で不足する資源を満洲や華北や華中で補い、自給自足体制を整えねばならない、と永田は考えていました。さらに永田は、国家総動員体制の構築にさいして、少なくとも中央の陸軍幕僚軍人は国防の見地から政治に積極的に関与すべきと考えていました。

 この時期、一夕会はいわゆる皇道派と統制派に事実上分裂し、武藤は永田を中心とする統制派に属します。武藤は参謀本部情報部総合班長時代の1933~1934年に、情勢把握のため中国と欧米に派遣されています。武藤は当時の国際情勢について、各国が「国家主義」の方向に動いており、仏独戦争は不可避で、中国は蒋介石政権の「革命外交」から必ず日本に「刃向かって」くる、と判断していました。そこで武藤は、日満の提携関係をさらに中国へと及ぼすよう、構想していました。ただ、この時点での武藤の構想は、「親日的態度をとる地方政権」を援助し、中国内部に地域的な親日政権を作っていく、と示唆しており、後の華北分離工作に通ずる、と本書は評価しています。

 武藤は1935年3月に永田の意向で陸軍省軍務局の軍事課高級課員(課長補佐担当)となり、皇道派と統制派の対立が激化する中で、同年8月12日に永田鉄山が現役の中佐である相沢三郎に陸軍省内で殺害されます。この永田殺害事件も重要な契機となって起きた二・二六事件では、統制派の中心人物の一人と決起の首謀者たちに考えられていた武藤も、殺害の対象となっていました。しかし、二・二六事件は短期間で鎮圧され、皇道派や古参の将官は陸軍から追放されます。この人事を主導したのが武藤でした。そうした中で強い発言力を有するようになったのが、陸軍省では武藤で、参謀本部では作戦課長の石原莞爾でした。武藤と石原の圧力により、1936年5月、陸軍大臣現役武官制が復活します。これについて武藤は、軍の横暴ではなく粛清を企図した、と戦後に語っていますが、陸軍の政治的影響力行使の有力な手段の一つとなります。

 盧溝橋事件が起きた1937年7月7日の時点において、武藤は参謀本部の作戦課長で、作戦部長は石原莞爾でした。この事態に石原は、事態不拡大と現地解決の方針を示し、現地の日本軍には拡大防止を支持します。しかし、武藤は上司の石原の方針に反し、南京政府が「全面戦」を企図している可能性もあるので、この事態には「力」で対処するしかなく、「北支」の兵力を増強し、状況に応じて機を失せず、「一撃を加える」必要がある、と考えていました。後に武藤と対立する陸軍省軍事課長の田中新一も、武藤のこの方針を支持します。武藤は内地の3個師団を直ちに動員し、中国軍を「膺懲」すべきと主張しましたが、石原は、現在の動員可能師団は15個で、そのうち中国方面に振り向けられるのは11個程度となり、その程度では中国との「全面戦争」は不可能だが、内地の3個師団を中国に派遣して戦闘状態に入れば全面戦争になる危険が大きい、と反論しました。武藤の再反論は、国家統一が不可能な分裂状態にある中国に対して、日本側が強い態度を示せば国民政府は屈服する、というものでした。ただ武藤も、長期の日中全面戦争となる可能性も考慮に入れていました。本書は武藤と石原の対立の前提として、永田鉄山の指示で武藤が起案した華北分離工作を、石原が独自の判断から中止させていたことを挙げます。石原は極東ソ連軍の増強に強い危機感を抱き、対ソ戦の観点から中国との紛争を避けようと考えていました。石原は武藤との抗争に敗れて関東軍に転出し、武藤は中支那方面軍参謀副長として中国に派遣されますが、武藤の予想に反して国民政府は屈服せず、日中戦争は泥沼化します。

 第二次世界大戦勃発直後の1939年9月30日、武藤は陸軍省軍務局長に就任します。当時の阿部信行内閣の陸相は畑俊六で、陸軍次官は山脇正隆でした。武藤の軍務局長就任直前に、参謀本部の実務の最高責任者である作戦部長には、統制派で武藤とも親しい士官学校同期の冨永恭次が就任していました。これにより、陸軍省も参謀本部も実務の最高責任者を統制派が掌握することになりました。永田鉄山の後継者的存在と見られていた武藤にはかなり明確な戦略構想があり、陸軍中央の基本的な政戦略は武藤が主導していきます。

 軍務局長就任直後の武藤にとってまず重要となったのは、ヨーロッパで始まった戦いへの関与でしたが、武藤は慎重でした。一方で武藤は、世界が「歴史的の一大転換期」にあり、「我が国ひとり安閑としていることは絶対に不可能」と認識していました。武藤は、ヨーロッパでの戦争に不介入の立場で、「国防国家」体制の確立と日中戦争の早期解決を当面の課題とします。武藤の「国防国家」論とは、「国家総力戦」に向けた体制を「平時」から整備し、物心両面で挙国一致体制にある国家を意味していました。第一次世界大戦の前には、「武力戦のみ」により戦争の勝敗が決していたものの、それ以降に「戦争の形態」は急激に変わり、「総合国力」を全て動員する「国家総力戦」となったので、「広義国防」の観点から国家総力戦体制を整えねば、国防の目的を達成できない、というわけです。これは永田鉄山の構想を継承したものでした。武藤の構想では、国内の体制整備だけではなく、「自給自足経済体制」の樹立、とくに資源の自給自足が必要とされました。そのために、中国だけではなく、アジア南東部など南方の資源の獲得が求められ(当時、重要な軍需資源である石油や生ゴムやボーキサイトは、アジア東部ではほとんど産出されませんでした)、日本と満洲と中国を核としてアジア南東部も含むより広域的な「大東亜生存圏」の形成が必要とされました。アジア南東部の資源への着目は永田にはなく、武藤独自の新たな観点だった、と本書は評価しています。その背景には、永田存命の頃と比較しての航空兵力や戦車や軍用自動車の重要性増加がありました。

 武藤はこうした観点から「国防国家」建設のための総合国策案の作成に着手します。これには、陸軍はその強い政治的発言力にも関わらず、国策を主導する「確たる政策」がない、との武藤の認識がありました。1940年6月、軍務局参考案として「総合国策十年計画」がまとめられ、以後の陸軍の政策展開の基本となりました。その内容は、最高国策としての大東亜協同経済圏の建設による国力の充実発展、そのための陸海軍の軍備充実、ヨーロッパ大戦(第二次世界大戦)には不介入方針を維持、日中戦争の早期解決と日中の経済提携による重要産業開発、内政での強固な政治指導力確立と全国的国民総動員組織の形成、および計画経済の推進と国家統制の強化でした。本書は、大東亜協同経済圏の設定が、昭和史において武藤が果たした最重要の役割と評価しています。強固な政治指導力確立はいわゆる近衛新体制運動の積極的推進と関わり、「一国一党」体制が目指されましたが、こうした観点も永田には明確に見られず、ナチ体制やソ連が念頭に置かれていたのだろう、と本書は推測します。「総合国策十年計画」は第二次近衛内閣で1940年7月26日に閣議決定された「基本国策要綱」に反映されました。

 「総合国策十年計画」では、ソ連について、「必戦関係」にあるものの対ソ戦備の充実までは「平和的状態の維持」に務めるとされ、アメリカ合衆国については、現状より関係が悪化するのを防止するとともに、「対米依存経済より脱却する」との方針が打ち出され、これは大東亜協同経済圏の形成と表裏一体でした。「総合国策十年計画」ではイギリスに対して、「英国および英系勢力を極東より駆逐する」と敵対的な姿勢が示されましたが、その実行には適切な情勢判断を要する、とも付言されました。武藤は、イギリスによる支援が中国側の抗日姿勢を支える要因になっている、と認識していました。また「総合国策十年計画」では対英方針について、英米関係の注視も必要と指摘されていました。

 「総合国策十年計画」は作成に半年近くを要していたので、ヨーロッパにおける1940年前半の戦況(フランスのドイツへの降伏など)が反映されていませんでした。そこで武藤は、同年7月3日に、新たに「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定します。ここでは、ヨーロッパ大戦における枢軸側勝利との想定から「独伊との政治的結束」を強化するなど、ドイツとイタリアについて「従来の友好関係を持続」と簡潔に言及されていただけの「総合国策十年計画」とは異なる外交方針が示されましたが、一方で、日中戦争の解決と「対南方問題の解決」に努め、「仏印」や「蘭印」への武力行使の可能性も示されたものの、対米戦争回避の努力が謳われていました。「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」は、「対南方問題の解決」ではイギリスにのみ攻撃を限定し、アメリカ合衆国からの軍事介入を避ける、英米可分の立場を取りましたが、状況によっては対米戦もある、との認識でした。ただ、武藤は対米戦不可との姿勢を変えませんでした。武藤は、国力差から対米戦は日本の自殺行為と考えていました。武藤は、イギリスがドイツに敗れれば、第一次世界大戦の経験から戦争に慎重なアメリカ合衆国がイギリスのアジア南東部の植民地のために戦争することはない、と判断し、英米可分の立場を取りました。英米不可分の立場だった海軍も、ヨーロッパの戦況激変を見て、英米可分論に傾きます。しかし、ドイツによるイギリス本土上陸作戦が延期となり、海軍は再び英米不可分に傾きます。

 内政では、軍事組織だった陸軍には全国民の自発性を政治目的のために動員する経験も能力もないため、「総合国策十年計画」では強固な政治指導力確立と全国的国民総動員組織の形成が謳われましたが、「一国一党」は天皇の統治権を制約する「幕府的存在」との批判から、近衛文麿は新党結成に消極的となり、武藤の構想は実現しませんでした。1940年10月に発足した大政翼賛会は、政治団体ではなく準公共団体的な公事結社とされ、政治的指導力のない単なる精神運動組織でした。

 1940年9月に成立した日独伊三国同盟は、陸軍が主導したわけではないものの、武藤など陸軍中央も、南方武力行使のさいにドイツおよびイタリアとの同盟が必要との判断から、容認していました。このさいに、松岡洋右外相のしゅどうにより日独伊三国同盟はイギリスだけではなくアメリカ合衆国も対象とされました。武藤は英米可分の立場でしたが、独ソ不可侵条約を締結したドイツの仲介により日ソ関係を好転させ、さらには日独伊ソの提携によりアメリカ合衆国に圧力をかける、との日独伊ソ四国「連合」が構想からドイツとの対米軍事同盟を容認しました。当時の経済力の比較では、日独伊ソと米英がほぼ拮抗し、武藤がこれを念頭に置いていたのかは分かりませんが、日独伊ソで米英に対抗するという図式は、当時の国力比較としてさほど荒唐無稽なものではなかった、と本書は評価します。

 日独伊三国同盟の締結と同じく1940年9月、北部仏印進駐が実行されますが、この時の混乱の責任を取って冨永恭次が作戦部長を更迭され、その後任は田中新一でした。1941年になると、武藤は英米可分から英米不可分へと立場を変え、海軍だけではなく陸軍でも英米不可分と認識されるようになりました。これは、1941年3月にアメリカ合衆国で武器貸与法成立が成立したためでした。陸軍でも、戦備課により南方を占領しても対英米長期戦の遂行には不安がある、との判断が示されました。こうした状況で、1941年4月に日ソ中立条約が締結されました。日独伊ソ四国「連合」により米英と対峙する、と構想していた武藤にとって、歓迎すべき外交成果でした。しかし、この頃には独ソはすでに緊張関係にあり、ドイツはすでに1940年11月には対ソ開戦を決意していたようです(関連記事)。毒素関係の悪化と、独ソ開戦確実との情報を日本にも伝えられていましたが、武藤は、ドイツが対英戦の継続中ながら対ソ戦を始めるとはまったく考えていませんでした。この背景として、武藤など陸軍中央が、独ソ不可侵条約の締結から、ナチ体制のドイツはイデオロギーよりも軍事的戦略判断を優先する、と認識していたことがありました。

 そのため、1941年6月22日の独ソ戦勃発は、武藤も含めて陸軍中央には衝撃的でした。独ソ戦勃発前に、陸軍省軍務局では独ソ戦の展開が予測されており、それは、短期的にはドイツがソ連領内深くに侵攻するものの、広大な土地と強固な体制を確立しているソ連が屈服することはなく、あたかも日中戦争のような状況になるのではないか、というものでした。陸軍では、独ソ戦の動向をかなり的確に予測できていたようです。武藤は、独ソ開戦となっても事態を静観し、状況によりソ連軍との戦いを判断する、と考えており、それは独ソ開戦後も変わりませんでした。ともかく、独ソ開戦により日独伊ソ四国「連合」により米英と対峙する、との構想は破綻し、武藤は新たな戦略に転換せざるを得なくなります。一方で、参謀本部作戦部長の田中新一は独ソ開戦を好機と考え、まずソ連への武力行使により北方問題を解決し、ソ連の屈服によりイギリスの対独継戦意志が粉砕されることで、日本の南方武力行使は容易になり、対米軍事圧力の強化によってアメリカ合衆国の対独参戦を抑止できる、と構想していました。この頃から陸軍では、武藤だけではなく田中新一も戦略を立案する重要人物として現れてきます。

 独ソ開戦直後の1941年6月24日、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」陸海軍案が作成され、独ソ戦には当面介入せず、戦況が日本にとってきわめて有利な状況、つまり短期間でのソ連崩壊となれば北方武力行使に踏み切る、と決められました。ここで海軍は初めて、「対米戦を辞せず」との強い表現を示しましたが、海軍はこの時点で対米戦を決意していたわけではなく、北方武力行使論比定のための修辞といった側面がありました。田中新一など参謀本部は北方武力行使を念頭に関東軍特殊演習を実行しますが、これは武藤の病休中に田中が武藤の頭越しに東条陸相の了承を得たものでした。しかし、極東ソ連軍の対独戦線への移動は、師団数で独ソ開戦前の17%、機甲部隊と航空機で1/3程度だったことから、対ソ武力行使は1941年8月9日には断念と決定されました。これは、前月の南部仏印進駐に対して、アメリカ合衆国による石油の対日全面禁輸が決定されたためでもありました。南部仏印進駐決定の背景には、タイに進軍すれば「米英の反発は必至」であるものの、南部仏印までなら強い反発はないだろう、との判断があったようです。南部仏印進駐に対するアメリカ合衆国による石油の事実上の対日全面禁輸は日本側にとって予期せぬ衝撃だった、とされますが、武藤はその可能性も念頭に置いていたようです。それでも武藤が南部仏印進駐を決断したのは、参謀本部による対ソ攻撃阻止が目的だったようで、じっさい、対ソ武力行使は断念されました。これ以降の武藤の基本的戦略は、アメリカ合衆国との妥協による対米戦回避に集約されます。一方アメリカ合衆国側は、対日石油全面禁輸により日本を北方ではなく南方に向かわせ、ソ連の崩壊を避けようとした、と本書は推測します。

 対ソ武力行使を断念した田中新一は、南方武力行使と対米英開戦を強硬に主張するようになり、武藤と激しく対立します。陸海軍の議論の末に1941年9月2日、「帝国国策遂行要領」陸海軍案が決定され、対米英蘭戦を辞さずとの決意で10月下旬を目処に戦争準備を整えつつ、並行して米英との外交を進め、10月上旬にも要求が貫徹できない場合には直ちに対米英蘭開戦を決意する、との内容でした。1941年9月6日の御前会議で、「帝国国策遂行要領」陸海軍案を一部修正した、大本営政府連絡会議決定「帝国国策遂行要領」が承認されました。しかし、対米交渉は日本側の思惑通りには進まず、それでも対米戦回避のため対米交渉を主張する武藤に対して、参謀本部からの不信が募っていきます。武藤は、対米戦に自信はない、との及川古志郎海相の東条英機陸相に対する内々の発言から、海軍が戦はできないと言えばよい、と考えていましたが、アメリカ合衆国を仮想敵として予算を獲得してきた海軍が、それを公言することは困難でした。

 けっきょく、近衛文麿首相は状況打開が見えてこないことから政権を投げ出し、東条陸相が後任の首相となります。武藤は東条に外交による対米戦回避を改めて訴えていますが、東条内閣成立直後に軍務局長辞任を申し出て、東条に慰留されて留任しており、その理由は不明です。あるいは、武藤は田中新一など陸軍の強硬派との対峙に披露していたのでしょうか。東条内閣でも武藤は対米戦回避に尽力しますが、その武藤でも、対米妥協として、内蒙・華北の資源確保とそのための駐兵が最低限の条件と考えていました。したがって、1941年11月26日のハル・ノートは、武藤にとっても交渉打ち切りの通告と受け止められ、武藤もついに対米開戦を決意します。武藤は、対米戦に勝算はないものの、戦わねば対米屈服しかなく、近世史上、国を挙げて戦って敗れた大国で再び奮い立たなかった例はなく、戦わずに屈服した国は漸次思想の混乱と堕落により内部から崩壊し、再び大国とはなれない、との判断から対米開戦やむを得ず、と判断しました。対米開戦時、陸軍には戦争終結の見通しがなかった、とも言われていますが、陸軍省軍務局では、軍事的にアメリカ合衆国を屈服させることはできないので、ドイツおよびイタリアとの提携でイギリスを屈服させ、ヨーロッパからアメリカ合衆国の足がかりを失わせ、アメリカ合衆国をアジアとヨーロッパから切り離して孤立させ、その継戦意志を喪失させる、と構想されていました。しかし、武藤はこうした戦局の見通しに悲観的で、可能ならばかなり不利な条件でも早期講和すべきと考えていました。

 太平洋戦争勃発後、1942年4月、武藤は軍務局長を解任され、スマトラ島に駐留していた近衛師団の師団長に任命されます。武藤にもその理由は不明で、現在でも正確には分かっていませんが、1942年元日に武藤が岡田啓介元首相や東郷茂徳外相に早期講和実現を進言したことが東条首相兼陸相に知られ、軍務局長を解任された可能性が指摘されています。武藤は、長期の国家総力戦遂行には強力な政治指導が必要との観点から、開戦後は別の内閣が戦争を指導すべきと考えており、それが憲兵隊の情報網にかかって東条首相に知られたのではないか、とも推測されています。田中新一はガダルカナル島攻防戦をめぐる意見の対立から東条首相兼陸相によりシンガポールの南方軍総司令部付へと転任させられ、本書は、武藤と田中という「戦略家」不在の陸軍中央は場当たり的な対処を続けるしかなくなった、と評価します。武藤はサイパン島陥落時に太平洋戦争の勝敗は決した、と判断していたものの、スマトラ島での持久戦を決意していました。しかし、1944年10月、武藤はフィリピンの第14方面軍参謀長に任命され、武藤はこれを「死の宣告」と受け止めました。

 武藤はフィリピンで敗戦を迎えて、東京裁判ではA級戦犯の一人として起訴され、判事11人のうち7人の賛成で死刑判決を受けます。対米戦回避に尽力した武藤への死刑判決を意外に思う関係者は少なくありませんでしたが、軍務局長在任中の行為は終身刑相当であるものの、フィリピンでの残虐行為の責任から死刑判決を受けた、との見解もあります。本書は最後に、アメリカ合衆国にはヨーロッパとアジアの両面で総力戦を遂行する圧倒的な国力だけではなく、国際状況の変化に対応して戦略を切り替える政治・外交面での「余力」があったのに呈して、武藤も含めて昭和戦前日本には環境変化への対応力がなかった、と指摘します。

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