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2023/09/20 (Wed) 18:32:24
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【琉球王国の歴史】わかりやすく解説!中国との関係は?沖縄になるまでの激動の歴史を徹底解説!
2021/05/22
https://www.youtube.com/watch?v=9AntDeIhRYM&list=PLp6PKFXjU68TpFy9ftuPYYomOAidOQK0z&index=1
沖縄はどのように日本となったのか?
そこには、中国、琉球国王、薩摩藩、徳川家康、豊臣秀吉、多くの人物が複雑に絡み合っていた…
知られざる沖縄の苦悩の歴史が見えてくる!
9000年前の沖縄の歴史から、現在の沖縄の問題点まで、ダイナミックに解説!
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2023/09/21 (Thu) 00:41:22
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琉球人は沖縄の先住民なのか?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007597
1-2. 日本と関連民族のY-DNAハプロタイプの出現頻度 rev.1
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-2.htm
1-8. 縄文遺伝子近縁度調査 Y-DNA「D」とY-DNA「C」
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-8,30-11,30-12,19-14.htm#1-8
1-4. 琉球列島のY-DNA遺伝子構成
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-4,16-5,19-12,19-13.htm#1-4
輪廻転生とシャーマニズム
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14008348
沖縄のユタ
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14010300
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2023/11/03 (Fri) 08:39:24
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沖縄島と宮古諸島の人類集団の形成史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16823345
琉球人は沖縄の先住民なのか?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007597
【琉球王国の歴史】わかりやすく解説!中国との関係は?沖縄になるまでの激動の歴史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14150107
1-4. 琉球列島のY-DNA遺伝子構成
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-4,16-5,19-12,19-13.htm#1-4
「縄文人」とアイヌ・琉球・「本土」集団との関係
https://sicambre.at.webry.info/201907/article_32.html
縄文より前の日本がいろいろヤバい!?旧石器時代の謎!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14038590
日本人はどこから来たのか?【CGS 茂木誠 超日本史】
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14133679
【岩宿遺跡】 日本人はいつから日本列島にいたのか? 旧石器時代の発見
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14150180
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2023/12/10 (Sun) 16:46:09
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雑記帳
2023年12月10日
ゲノムデータから推測される南琉球諸島の人口史
https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_10.html
古代人および現代人のゲノムデータから南琉球諸島の人口史を推測した研究 (Cooke et al., 2023)が公表されました。本論文は、おもに2021年の研究(Cooke et al., 2021)で提示された、日本列島「本土(日本列島のうち本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする地域)」のアイヌ集団以外の現代人集団の3層の遺伝的構造に基づいて、南琉球諸島の人口史を推測しています。本論文の見解は、最近提示された沖縄諸島と宮古諸島の現代人の遺伝的起源を解明した研究(Koganebuchi et al., 2023)と整合的だと思います。ただ、2021年の研究(Cooke et al., 2021)は、弥生時代の人類集団を長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることや、古墳時代の人類集団を一部の個体に代表させていることが問題で(関連記事)、今後は時空間的にずっと広範囲の弥生時代以降の人類のゲノムデータを考慮しつつ、日本列島の人類集団の遺伝的歴史を解明していく必要があるでしょう。
●要約
日本人集団の遺伝的起源の3構造では、現在の人口集団は主要な3祖先の子孫である、と述べられています。それは、(1)在来の縄文時代狩猟採集民、(2)農耕の弥生時代に到来したアジア北東部構成要素、(3)ヤマト王権の古墳時代におけるアジア東部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の主要な流入です。しかし、日本列島のさまざまな地域で観察された遺伝的異質性は、このモデルの適用性と適合性の評価の必要を浮き彫りにします。本論文は、日本の他地域と比較して独特な文化と歴史的背景を有する、南琉球諸島の歴史時代のゲノムを解析します。本論文の分析は、この地域において3構造が最適と裏づけ、「本土」日本人よりも顕著に高い推定割合の縄文祖先系統が見られます。それぞれの大陸由来祖先が直接的に大陸からの移民によりもたらされた日本列島「本土」とは異なり、すでに3系統の祖先を有する人々が、グスク時代の出現と一致する11世紀頃に南琉球諸島に移住し、先史時代の人々と混合しました。これらの結果は、日本列島の最南端における3構造モデルを再確認し、その構造が多様な地理的地域において出現した多様性を示します。
●研究史
古代ゲノム配列データは、世界中の現在の人口集団の起源に関する理解を強化し、頻繁に変えてきました(Liu et al., 2021)。そうした地域の一つは日本列島で、先史時代および原史時代のゲノム解析が、現在の人口集団の起源について三者モデルを裏づけました(Cooke et al., 2021)。この枠組みでは、現在の日本人の祖先系統は主要な3供給源に由来します。それは、(1)日本列島外とはほとんど接触せず、数千年間日本列島全域に暮らしていた、在来の狩猟採集民である縄文時代の人口集団、(2)弥生時代(3000年前頃以降)に水田稲作農耕とともに日本列島に到来した、中国北部【北東部】のアムール川流域の古代の個体群で観察されたアジア北東部構成要素、(3)初期ヤマト王権の形成と関連している、古墳時代(1700年前頃以降)に到来した現在のアジア東部の人口集団(漢人など)と類似した祖先系統の大きな流入です。
日本人集団の起源についてさまざまなモデルが、遺伝学と考古学と言語学の証拠に基づいて以前に提案されてきましたが、元々は頭蓋顔面データに基づいて体系化された「二重構造」仮説が最も広く知られており、続いています。この二重構造モデルでは、全ての日本人集団は祖先系統の主要な2供給源の漸進的な混合の子孫で、それは、当初の縄文時代の人々と、弥生時代におけるアジア北東部からのその後の移民です。二重構造モデルでは、北海道のアイヌ集団と日本列島最南端の琉球諸島の人々との間の形態学的類似性は縄文時代の人々に起因しており、その後の大陸部の供給源人口集団からの祖先系統は殆ど若しくは全くなかった、と述べられています。遺伝的異質性は、日本「本土」とこれら地理的に異なる地域の人口集団間でも観察されます。さらに、縄文時代の個体群は現在の琉球諸島住民や北海道のアイヌ集団の方と、日本列島の他地域の住民とよりも高い遺伝的類似性を有しています(Gakuhari et al., 2020、Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)。それでも、これらの観察は、大陸部祖先系統の起源ではなく、日本全域の縄文祖先系統の差異を説明できるだけです。
古代ゲノムデータに基づいて提案された三者モデルは、二重構造モデルと比較すると、サイモンズゲノム多様性計画(Simons Genome Diversity Project、略してSGDP)に含まれる現在の日本人弧隊の遺伝的祖先系統に有意により適合する、と示されました(Cooke et al., 2021)。しかし、日本列島「本土」を越えて遺伝的に異なる人口集団におけるこの枠組みの適用性はまだ検証されておらず、それは、現代人の参照データセットが現時点では、日本列島の真の異質性を反映してない、「本土」日本人の小さな部分集合に限定されているからです(GenomeAsia100K Consortium., 2019、Mallick et al., 2016)。この3方向混合モデルが日本列島の多様な地域でどのように変わるのか評価することは、日本列島の人口集団の起源における違いと日本列島内の最近の歴史を示唆できるかもしれません。
沖縄県宮古島市にある長墓遺跡の150年前頃となる歴史時代の4個体の配列データの最近の刊行(Robbeets et al., 2021)は、南琉球諸島に暮らす最近の人口集団の祖先の特性の調査を可能としました。南琉球諸島は、先行研究により強調されているように、例外的な島嶼の地理と歴史と文化で認識されています。南琉球諸島には、日本列島「本土」、さらには琉球諸島北部とさえ異なる独特な特徴があります。注目すべき一つの側面は長期間の先史時代で、それはグスクとして知られている独特な地域文化が出現する11世紀まで続きました。この長期の島嶼的および文化的孤立は、日本列島の大半に広がっていた弥生文化や古墳文化や他の歴史時代の文化の欠如に起因するかもしれません。結果として、南琉球諸島のゲノムデータは、日本人の起源の文脈における三者モデルおよびその形成過程の適用性と変動性調査の貴重な機会を提示します。本論文では、琉球諸島の歴史時代の人口集団のデータを用いて三者構造が再調査され、その祖先特性が「本土」日本人集団と比較されます。
●分析結果
沖縄県の宮古諸島の宮古島の北半島にある長墓貝塚および岩陰遺跡(図1)で発掘された骨格遺骸から、最近の歴史時代(historic、略してH)の4個体(NAG007、NAG035、NAG036、NAG039)が標本抽出されました(Robbeets et al., 2021)。まず、対での外群f₃分析が実行され、他の古代および現在の日本人標本との遺伝的類似性が確認されました。この分析は、縄文時代と弥生時代と他の時代(古墳時代や歴史時代や現在など)の日本列島の標本のクラスタを明確に定義します。つまり、第三のクラスタ内では、歴史時代の個体群はさらに他の標本と分離意され、それは、古墳時代および現代の人口集団よりも縄文時代の個体群の方と高い遺伝的類似性に起因します。その後、これらの個体はまとめて「長墓_H(歴史時代)」という単一の人口集団にまとめられ、qpAdmを用いて、古代もしくは現在の日本列島の人口集団のどれも、祖先系統の単一の供給源としてモデル化に成功できない、とさらに論証され、これら長墓遺跡の歴史時代の住民は縄文時代集団の直接的祖先だった、との提案された見解は除外されました。これらの結果は、長墓遺跡の個体間の祖先組成における日本列島「本土」住民との違いを示唆しています。以下は本論文の図1です。
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長墓_Hの三者構造の適合性を評価するため、3つの異なる祖先構成要素による遺伝的構成がモデル化されました。それは、縄文時代の12個体(Cooke et al., 2021、Gakuhari et al., 2020、Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、McColl et al., 2018)、アジア北東部(Northeast Asian、略してNEA)祖先系統を表す、北方のアムール川地域の高水準の祖先系統を有する中国で発見された古代人2個体(Ning et al., 2020)、つまり西遼河(West Liao River、略してWLR)の青銅器時代(Bronze Age、略してBA)の外れ値(outlier、略してo)個体(WLR_BA_o)および、ハミンマンガ(Haminmangha、略してHMMH)遺跡の中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)個体(HMMH_MN)と、アジア東部祖先系統を表すSGDPパネルから得られた現在の漢人です(Mallick et al., 2016)。三者モデルは長墓_Hにうまく適合し(裾確率は0.591)、その内訳は、縄文祖先系統26.7±4.9%、NEA祖先系統30.5±10.3%、アジア東部祖先系統42.8±7.5%です(図1)。興味深いことに、長墓_Hにおいて縄文祖先系統の割合は古墳時代(13.1±3.5%)もしくは現代日本人(15.0±3.8%)と比較して約2倍です(Cooke et al., 2021)。
長墓_H人口集団での三者構造のモデル化の成功は、二重構造仮説可能性を除外しません。長墓_Hにおける3方向混合モデルの適合性を包括的に評価するため、三者構造内の2方向混合(つまり、縄文とNEA、縄文とアジア東部、アジア東部とNEA)の仮定的状況の可能性の適合も検証されました。これらのモデルのうち2つ(縄文とNEA、NEAとアジア東部)は完全に却下されましたが(p<0.05)、縄文とアジア東部の二重構造では充分と分かりました(p=0.061)。どのモデルが最適なのか結論づけるため、検証された三者モデルと各2方向モデルとの間のそれぞれの比較について、入れ子になったモデルでp値が計算されました(表1)。その結果、三者モデルが入れ子になったモデルの全てよりも有意にデータと適合する、と分かりました。これは、三者構造が歴史時代の琉球諸島人口集団の起源を説明するのに最適なモデルという明確な証拠です。
南琉球諸島の独特な歴史的および文化的背景を考えると、この地域における三者構造の形成過程は日本列島「本土」とは異なっていたかもしれません。古代ゲノム解析は以前に、この地域の先史時代個体群が遺伝的には縄文時代個体群だった、という証拠を提供しました(Robbeets et al., 2021)。したがって、大陸部祖先系統は、2つの追加の非縄文構成要素をすでに有していた人々によりもたらされた可能性が高そうです。この仮説を検証するため、縄文時代の個体群と古墳時代もしくは現代日本人の個体群との間の2方向混合モデルにより、長墓_Hがモデル化されました(表2)。以下は本論文の表2です。
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検証された全モデルは長墓_Hの遺伝的祖先系統に適合し、この混合モデルは古墳時代もしくは現代の日本人集団どちらかの単一の祖先系統モデルよりも有意でした。これらの結果から、図1で示されるように、長墓_Hの遺伝的構成の説明には追加の縄文祖先系統が必要になる、と示唆されます。DATESを用いて、この混合は975年前頃(もしくは11世紀)に起きた、とさらに推定され、この年代は先史時代(つまり無土器時代)末およびグスク時代の開始と一致します。本論文の分析は、三者構造の形成においてさまざまな地域がさまざまな歴史を有しており(図2)、それが日本列島全域のゲノム差異に寄与したかもしれない、という見解を裏づけます。以下は本論文の図2です。
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●考察
琉球諸島で暮らす人口集団は繰り返し、日本列島の他地域に暮らす集団とは遺伝的な異なる、と示されてきました。それにも関わらず、広範な混合モデル化を通じて、日本人集団の起源について三者構造が南方地域の歴史時代の個体群の人口においてうまく維持されている、と論証されます。日本列島「本土」の人口集団の代表で以前に観察されたように(Cooke et al., 2021)、このモデルは、琉球諸島人口集団が縄文時代個体群の直接的な子孫と仮定する、長年の「二重構造」の枠組みよりも有意に適合します。この結果から、縄文時代後の移民による主要な遺伝的寄与、つまり最初は弥生時代におけるアジア北東部祖先系統、その後の古墳時代におけるアジア東部祖先系統は、日本列島「本土」に限定されず、遠く日本列島の最南端に到達した、と示唆されます。しかし、これら大陸部祖先系統は以前には、異なる人口集団から別段階で日本列島「本土」に到達した、と示されましたが(Cooke et al., 2021)、南琉球諸島にはそのずっと後の段階で、すでに三者構造を有しており、南琉球諸島の先史時代集団と混合した単一の祖先人口集団によりもたらされたようです(図2)。
外群f₃分析では、長墓_H人口集団は古墳時代もしくは現代の日本列島「本土」個体群よりも、縄文時代個体群と高水準の遺伝的浮動を共有している、と示されました。長墓_H人口集団はその後、26.7±4.9%の縄文祖先系統を有している、と示され(図1)、これは古墳時代(13.1±3.5%)もしくは現代(15.0±3.8%)の日本列島の個体群で観察された縄文祖先系統(Cooke et al., 2021)の約2倍です。追加の縄文組成を組み込んだこの人口集団のモデルは同様に、古墳時代もしくは現代の日本人祖先系統のみに基づくモデルよりも適合する、と分かりました。これらの結果は、縄文時代個体群と琉球諸島現代人との間の高い遺伝的類似性に関する以前の調査結果(Gakuhari et al., 2020、Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)と一致します。本論文は、南琉球諸島における縄文祖先系統の過剰をもたらした混合過程のより詳細な全体像を提供します。
考古学的記録は、宮古諸島を含めて琉球諸島の南部が、日本列島「本土」もしくはさらに北琉球諸島と比較して、独特な変化を経てきた、という見解を裏づけます。先史時代の北琉球諸島と縄文文化との間で示唆される文化的かながりはありますが、これらのつながりは南琉球諸島では、その独自の物質文化の発展のためさほど明らかではありません。しかし、長墓遺跡の先史時代(3600~2600年前頃)個体群の遺伝学的分析(Robbeets et al., 2021)は、この地域における縄文祖先系統の存在を確証しました。
日本列島「本土」の生活様式は、3000年前頃以降に急激な変化を遂げ始め、まず採食から稲作農耕へ、その後で1700年前頃以降に国家形成へと至りました。対照的に南琉球諸島では、無土器文化として知られている完全に異なる文化が2500年前頃に出現し、これはこの地域の先史時代の最終段階を示しました。この文化は貝殻の手斧と土器の製作もしくは利用の欠如により特徴づけられ、約1700年間存続しました。その結果、縄文時代以降の日本列島「本土」で起きた文化的変容は11世紀まで南琉球諸島に影響を及ぼさず、11世紀にグスク文化が始まり、多数の人々が北琉球諸島から南琉球諸島へと移住しました。無土器文化がどこから到来したのか、縄文時代個体群的な先史時代の人々が無土器文化期に南琉球諸島に居住し続けたのかどうか、まだ不明ですが、縄文祖先系統と日本列島「本土」祖先系統との間の混合が起きた年代の本論文の推定値は、この人口移動の時期【11世紀】と一致します。この結果から、日本列島全域の三者構造の形成過程には地域的差異があった、と示唆されます。以下は本論文の要約図です。
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この研究は、南琉球諸島の宮古島の4個体から構成される人口集団に限定されていますが、琉球諸島が遺伝的に均質な地域ではなく、宮古諸島自体も均質ではない、と注意することは重要です。時空間的により密な標本抽出が、琉球諸島全域の遺伝的特性に関して移住の真の影響を理解するのに必要です。そうしたデータが利用可能になった時には、この人口集団と、日本列島全域の他の歴史時代および現在の人口集団との間の三者分類において、どのような類似性もしくは違いが存在するかもしれないのか、評価するのはとくに興味深いことでしょう。この研究は、さまざまな地域における人口集団の起源の理解を変える、古代ゲノムの力を改めて示しています。この研究は、確立された結論と関連する新たなデータが利用可能になった時に、古代ゲノムに基づいてなされた調査結果と提案された見解の再調査の利点も示します。
参考文献:
Cooke NP. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419
関連記事
Cooke NP. et al.(2023): Genomic insights into a tripartite ancestry in the Southern Ryukyu Islands. Evolutionary Human Sciences, 5, e23.
https://doi.org/10.1017/ehs.2023.18
Gakuhari T. et al.(2020): Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations. Communications Biology, 3, 437.
https://doi.org/10.1038/s42003-020-01162-2
関連記事
GenomeAsia100K Consortium.(2019): The GenomeAsia 100K Project enables genetic discoveries across Asia. Nature, 576, 7785, 106–111.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1793-z
関連記事
Kanzawa-Kiriyama H. et al.(2019): Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science, 127, 2, 83–108.
https://doi.org/10.1537/ase.190415
関連記事
Koganebuchi K. et al.(2023): Demographic history of Ryukyu islanders at the southern part of the Japanese Archipelago inferred from whole-genome resequencing data. Journal of Human Genetics, 68, 11, 759–767.
https://doi.org/10.1038/s10038-023-01180-y
関連記事
Liu Y. et al.(2021): Insights into human history from the first decade of ancient human genomics. Science, 373, 6562, 1479–1484.
https://doi.org/10.1126/science.abi8202
関連記事
Mallick S. et al.(2016): The Simons Genome Diversity Project: 300 genomes from 142 diverse populations.
https://doi.org/10.1038/nature18964
関連記事
Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2
関連記事
Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature, 599, 7886, 616–621.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04108-8
関連記事
https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_10.html
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2023/12/11 (Mon) 13:55:08
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【最新研究】東アジア人(モンゴロイド)の形成史と寒冷地適応/縄文人は朝鮮半島にも住んでいた/黄河集団と長江集団の起源/Y染色体ハプログループDの謎/縄文人と繋がるホアビン人(ホアビニアン)とオンゲ族
LEMURIA CH/レムリア・チャンネル
https://www.youtube.com/watch?v=x4x5lVOjL_Y2023/12/04
東アジア人類集団人の形成過程に関する研究はヨーロッパに比べ遅れていましたが、ここ数年で東アジアでも古代DNAデータが揃いつつ有り、多くの研究成果が報告されています。
今回は近年の研究で明らかになってきた東アジア人の起源について解説していきます。
参考書籍
人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」
https://amzn.to/416LMkx
Kindle版
https://amzn.to/3S7C2CK
交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史
https://amzn.to/3WLzvie
Kindle版
https://amzn.to/3RcJyvD
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2024/07/29 (Mon) 17:19:42
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太田隆文 ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶 (2019年渋谷プロダクション)
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16862211
【沖縄戦】 地獄の戦場と化した沖縄…悲惨な戦争の経過
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14149783
【琉球王国の歴史】わかりやすく解説!中国との関係は?沖縄になるまでの激動の歴史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14150107
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2024/11/04 (Mon) 15:43:50
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学校で習わない琉球王国の歴史 DNAゲノム解析からわかる琉球人ルーツの謎 沖縄はいつから日本なのか?【なるためJAPAN】
なるためJAPAN 2024/11/02
https://www.youtube.com/watch?v=3WsezoZeR-k
教科書に載ってない琉球王国の歴史。沖縄の人々はどこから来たのでしょうか?最新のDNAゲノム解析からわかる琉球人ルーツの謎に迫ります。沖縄の言葉や文化、そして日本との歴史的な関係はどのように築かれてきたのか。わかりやすく解説します。
あなたはこの話題についてどう思いますか?ぜひあなたの意見をコメント欄に書いて教えてくださいね。
00:00 | はじめに
01:50 | 沖縄(琉球)の人は「日本人」なのか?
03:09 | DNAで解明した沖縄(琉球)のルーツ
05:38 | 沖縄(琉球)はいつから日本になったのか?
09:58 | 沖縄(琉球)の言葉の秘密
12:30 | 沖縄(琉球)に 存在する神社
16:28 | まとめ
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2024/12/10 (Tue) 14:08:00
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破綻した琉球を助けた日本 植民地支配という沖縄の嘘
2024.12.10
https://www.thutmosev.com/archives/33527142.html
琉球時代の王を再現した儀式
image19
引用:http://konotabi.com/photoalbum/Okinawa2007/Shurijo/image19.jpg
破綻した琉球を助けた徳川幕府
沖縄の人は残念ながら戦後沖縄に浸透した左翼が流布した嘘の知識を信じていて、日本を憎ませて沖縄と離反させようという企みにはまっている
沖縄の基地を巡って沖縄と政府が対立していますが争いは表面的な議論ばかりで、沖縄そのものの成り立ちが語られる事はない
沖縄人自身が沖縄や琉球について間違った知識しか持っておらず、左翼知識人に吹き込まれた嘘の知識を元に「中国こそ沖縄の祖国」などと思っています
嘘の歴史では「琉球王国は豊かな独立国だったが、突然薩摩と幕府が侵略し植民地支配した為、琉球の人々は2重課税され、奴隷の様に働かされ搾取された」と書かれています
沖縄人は自分達をこう思っているが、これは戦後の敗戦につけこんで中国やソ連、米国が日本の左翼を利用して植えつけた知識でした
事実はまず琉球が日本や明のような「独立国」だった事は有史以来一度もなく、15世紀ごろ琉球は明の冊封体制に組み込まれ明の属国になりました
琉球王は明の属国になるのと引き換えに琉球の統治を認められたのであって、冊封された国は皇帝の家来の領土であって国家ではないです
日本の薩摩藩や土佐藩は大和朝廷から任命された徳川将軍の部下であって、それぞれが独立国ではないのと同じ事なのです
明という国家に従属する1人の王が納める地域として貿易を認められ琉球は繁栄したが、繁栄は100年ほどしか続かなかった
明が鎖国していたから琉球は中継地として中継貿易を独占できたのだが、明が鎖国を辞めた事で存在理由がなくなった
沖縄の大学教授や沖縄の人が信じている「琉球は明との貿易で栄えていた」というのは15世紀の時代で、今から600年以上も昔の事です
明の鎖国政策の終わりによって切り捨てられた琉球は昔の貧困に戻り、16世紀に琉球は既に破綻しており国として立ち行かなくなっていました
琉球の繁栄は幕府が支えていた
そこにやってきたのが薩摩と徳川幕府で、薩摩の支配に組み込まれる事で日本との中継貿易が可能になり、再び琉球は栄えました
左翼が主張している「豊かだった琉球は薩摩の侵略で貧しくなった」というのは真実とは真逆の大嘘です
日本は徳川幕府の鎖国令によって鎖国していたが、いくつかの例外が設けられており、長崎の出島、朝鮮との交易、琉球を仲介した大陸との交易を認めていました
中継貿易の拠点として息を吹き返した琉球は、八重山地震まではバブルとも言える繁栄を謳歌しました
薩摩藩は琉球を搾取するどころか琉球の開発を助け農地の開拓に励んだが、琉球は15世紀から続けていた冊封体制も存続し明や清に貢物を献上していました
琉球が栄えていた時代には明からお返しの貢物が届けられましたが、利用価値が無くなってからは琉球からの一方的な搾取になっていました
1771年、八重山地震による津波で八重山諸島の人口の3分の1がなくなる大被害があり、薩摩が行った農地開発は水泡に帰し、琉球は再び破綻して貧乏のどん底に落ちました
このとき琉球を助けたのは、やはり薩摩と徳川幕府で、幕府は薩摩に、薩摩は琉球に物資や人手を送る事で援助しました
冊封体制の清は何もしてくれませんでしたが、琉球は相変わらず朝献を続けたので、幕府から止めるように言われています
八重山地震で破綻した琉球王は住民に人頭税など重税を課しました
現代の琉球人である沖縄人は「薩摩と幕府が2重課税を課した」という嘘を信じ込まされているが、薩摩や幕府が琉球で徴税した事は明治維新まで一度も無い
また薩摩や幕府が琉球に貢物や金銭を要求した事もなく、常に琉球から送られる以上の物を送って援助しました
これを「日本人が沖縄から略奪した」とは無礼にも限度がある
琉球征伐の実態
薩摩が琉球を支配下に置いた経緯についても嘘が信じられている
徳川家は関が原の合戦に勝利し征夷大将軍に任命され日本の全ての大名の頂点に立ち、征夷大将軍は天皇から任命された役職で、いかなる大名や武将も将軍の部下である
徳川幕府は琉球に対して自らに従うように何度か使いを出したが、琉球王であった中山は徳川を罵り侮蔑する態度に出た
徳川幕府と琉球の間を仲介していたのが薩摩であり、琉球王の無礼な態度に対して薩摩に征伐の命令が下った
つまり薩摩はある日思いつきに攻めたわけではなく存命だった徳川家康が琉球征伐を命令した
直接の原因は徳川の使者に対して、対応に当たった謝名が罵詈雑言を吐いて侮辱したからだった
使者を侮辱するのは近代以前には最も多い戦争理由で、例えば蒙古襲来や朝鮮征伐もこれで始まった
薩摩藩は1609年に琉球に上陸したが、琉球は戦う意思を示さなかったので公式な戦闘は起きなかった
抵抗した離島の住民ら数十人を倒し、薩摩軍も数名の犠牲が出たとされているが、鉄砲の射撃に驚いて多くの住民は降参した
薩摩軍3千人は住民らによる小規模な抵抗を受けながら本島に上陸し、本島では戦闘は無く和睦文書が交わされた
最初の島に上陸したのが1609年3月2日で、4月1日には首里城で講和が調印され、薩摩軍に撤退命令が出た
これが琉球上陸あるは琉球討伐の全てである
以降は薩摩藩の藩士数十名が駐留しただけで、明治維新まで薩摩軍が来る事は無かった
皮肉な事に明から捨てられて貧困にあえいでいた琉球王は徳川幕府によって王の座を保証され、援助まで受ける事になった
徳川は琉球を魅力ある場所とは思わず、自らの軍隊を派遣して直接統治しようとはしなかった
薩摩軍が琉球に駐留するのも望ましくないと考えたので、いわば非武装の中立地帯のようになった
幕府から見ると当時東南アジアを植民地化していた西洋が琉球を支配するのは避けたいので、琉球を援助する事で存続させ安定させようとした
これから1771年の八重山地震までは、 琉球が最も平穏で幸福な時代だった
https://www.thutmosev.com/archives/33527142.html
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2025/01/24 (Fri) 20:14:24
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首里城は幕府と薩摩が建設し、日本政府が再建した
2025.01.24
https://www.thutmosev.com/archives/81372976.html
戦前の首里城は1700年代に薩摩が建設したので、城というより大きな寺の形をしている
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画像引用:https://pm1.narvii.com/6459/7e043505c11f74a086e97643fccebb47ef2ed01a_hq.jpg
初期の首里城の様子は分かっていない
2019年10月31日に焼失した首里城は過去に4回焼失し(今回で5度目)、この時に燃えたのは記録に残っている5つ目の首里城でした
5つの首里城の大半は幕府や薩摩の支援で建設するか、日本政府が保存したり再建したもので琉球が独自に建てたものではなかった
一度目の焼失は1453年(享徳2年)で日本は室町時代後期、琉球の王位をめぐる内乱で首里城が戦場になった
最初の首里城の建物は記録に残っていないが、当時の琉球の状況や規模からかなり小さな建物だったのではないかと想像されています
首里城は山そのものが防御陣地で周囲を石垣で囲った形態で、木造建築物は戦時には役に立たない設計でした
これは戦国時代から江戸期の日本の城も同様で、天守閣は権威を示すためや、せいぜい平時の「県庁」のようなものでした
一度目の焼失後に再建された首里城を朝鮮の使者が目撃していて、史書に記録が残されました
内城は2層3階建てで王が居住し、侍女が100余人もいて3階は宝物庫、1階は宴会場だったと記録されています
当時の3階建てなので面積は広くてもあまり高さは無く、その後の首里城よりは小ぶりだったでしょう
二度目の焼失は1660年(万治3年)で日本は徳川幕府の江戸時代前期で薩摩の琉球侵攻の後でした
再建は薩摩と幕府が支援し日本の寺社風の建物になり、瓦屋根になったのもこの時でした
この頃琉球には大きな木造建築をつくる木材が不足したので、材料も九州や本土から集められた
江戸以降の首里城は日本の木材で作られていた
3つ目の首里城の瓦屋根は黒い色で、奈良や京都の寺社に近い様式だったと考えられます
三度目の焼失は1709年(宝永6年)、日本は江戸時代中期で琉球は財政破綻していて再建する力はありませんでした
この頃の琉球は薩摩と幕府の支援で支えられていて、琉球の木材も枯渇していたので薩摩から木を運んで建設した
薩摩の琉球支配で人口が増えたので、燃料となる薪を得るため住民が木を伐採したため木が無かったのです
特徴的な赤い瓦屋根はデザイン上の理由ではなく、瓦を焼く燃料の木材が無かったので、低い温度で焼くと赤く脆い瓦になる
4つめの首里城は薩摩から4万本もの木材を運んで建設し、薩摩は代金を受け取っていない
江戸期の木材は現在の10倍以上もの価値があり、城を作るほどの木材はさらに高価なものだったでしょう
この時再建された首里城は昭和20年まで存在し、戦後に再建した時も薩摩が再建したものを再現したものです
昭和20年(1945年)には沖縄戦で米軍艦の砲撃を受けて4度目の焼失、米軍による焦土化作戦で沖縄全体が廃墟になった
1972年(昭和47年)に沖縄が本土復帰し、日本政府は沖縄領有を正当化するため、沖縄への投資を始めた
当時中国と台湾が対立し両方の中国は沖縄の領有権を主張するなどしたため、日本は沖縄を重視し積極的に予算配分しました
首里城などの史跡再建もその一つで、1970年代から復興が始まり1989年(平成元年)に首里城再建が始まった
1992年(平成4年)に5つ目の首里城が完成し首里城公園として開園し現在に至っている
2019年10月31日に5度目の焼失があり、正殿など中心部の建物の多くがなくなりました
琉球を支えた徳川幕府と薩摩藩
戦後沖縄を領土にせんとする共産中国が目を付け、大学やメディアを通じて沖縄破壊工作をしかけてきました
日本と沖縄を離反させて引き裂き独立運動や暴動を起こさせたのち、中国軍が沖縄を乗っ取るという戦略です
日本に対してはあらゆる事が悪事とされ、中国に対しては対等な関係だったとか父親のような存在だと教えた
琉球は中国の冊封に入っていて、冊封とは入った時点で国として消滅し、王が皇帝の家来になる事です
皇帝は王から貢物を貰ったり搾取するだけで、間違っても属国琉球と「対等な関係」ではありません
琉球は中国に朝貢するが皇帝からは僅かな返礼しかなく、要するに「みかじめ料」と同じで貿易ではありません
琉球は八重山地震などで壊滅し朝貢する贈り物を用意できないので、幕府や薩摩からの援助物資を横流ししました
幕府は怒って琉球に援助物資横流しを辞めるよう要請するが、薩摩や清との複雑な関係もあって幕末まで続けられた
中国皇帝から琉球には返礼などはなく一方的に搾取しただけで、琉球から皇帝への朝貢品は幕府が払っていたのです
1660年、江戸初期の焼失は1609年の薩摩侵攻の後だったので、首里城は日本風の大きな建物になり再建は薩摩藩が支援した
1709年にまた焼失しこの時は全面的に薩摩が支援し4万本の木材を無償援助し、今日まで写真が残る巨大な建物になった
1771年には八重山地震があり琉球は破綻し貧困にあえぎ、また薩摩と幕府が支援して支えました
琉球が大陸やアジアとの貿易で栄えたのは江戸時代より前で、江戸期にはもうそんな時代は終わっていました
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