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2023/09/19 (Tue) 12:47:05
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【真珠湾攻撃】なぜ決断されたのか?真相はどこに?計画から経過まで元東大生がわかりやすく解説!
2020/07/10
https://www.youtube.com/watch?v=hg0X3ndmEOU&t=0s
【ハル・ノート】日本破滅への第一歩?開戦の真実はどこに?内容をわかりやすく解説!なぜ日本とアメリカは戦争への道を選んだのか?
2020/07/04
https://www.youtube.com/watch?v=8jXdbZLbkRo&t=0s
日本が太平洋戦争をするきっかけとなったのがハル・ノート!
ハル・ノートが出されたきっかけが分かれば、戦争の本質が見えてくる!
ハル・ノートの内容も注目!
アメリカの巧妙なやり方や、裏に込められた野望まで丁寧に解説!
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2023/09/19 (Tue) 12:50:03
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故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA
君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html
昭和天皇が戦争狂になった訳
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html
昭和天皇を震え上がらせた共産主義の恐怖とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/754.html
関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1055.html
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2023/09/19 (Tue) 12:51:46
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【マレー作戦】日本軍大勝利!その秘訣に迫る!海軍と陸軍の最強タッグ!元東大生が徹底解説!
2020/07/24
https://www.youtube.com/watch?v=W_jYp5Qi3c4
イギリスを敵に回してまでなぜマレー作戦は断行されたのか?
日本軍の作戦はどのようなものだったのか?
驚きの作戦で超スピード進軍!
日本軍の活躍を焼き付けろ!!
手放しでは喜ばさない!マレー作戦の負の面まできっちり解説!
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2023/09/19 (Tue) 14:52:04
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昭和天皇は若いころから、宮中の書斎にはナポレオンの胸像が飾られていた(有名な話らしい)。パリを訪問したときに土産として自分で買ったもので、珍重していた。
「ナポレオンの軍隊は安上がりの徴集兵で」彼は「この軍隊を愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた。日本の軍隊は葉書一枚で徴兵された“民草”といわれる安上がりの軍隊で、ナポレオンの軍隊以上に愛国心に燃えていた。
ナポレオンは補給のほとんどを現地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。
ナポレオンは参謀部をつくり、機動力にまかせて、波状攻撃を仕掛けた。天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。」
「あの真珠湾攻撃は、そしてフィリピン、ビルマ、タイ…での戦争は、ナポレオンの戦争とそっくりである。」と鬼塚氏は書いている。そう言われれば確かにそうだ。
つまり、昭和天皇はナポレオンを崇拝し、彼にならって大戦争を仕掛けるという壮大な火遊びをやったのである。真珠湾攻撃が「成功した」と聞くと、狂喜乱舞したと言われる。2・26事件当時の侍従武官・本庄繁の『日記』には、天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれているそうだ。
終戦の玉音放送が流れる日の朝、侍従が天皇を書斎に訪ねると、昨夜まであったナポレオンの胸像がなくなっており、代わってリンカーンとダーウィンの像が置いてあった、と…。
この変わり身の素早さには驚かされる。つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。
戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。国民もそれに騙された。
そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。
大東亜戦争で米英と戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであって、太平洋を主任務地としたのは海軍であったから、あの太平洋での拙劣きわまる作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し、国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は、海軍にあった。
ところが、戦後は「海軍善玉論」がマスコミや出版界を席巻し、あの戦争は全部陸軍が悪かったという風潮が醸成された。多くの作家(阿川弘之ら)がそのお先棒を担いだ。
だから後年、阿川弘之が(あの程度の作家なのに)文化勲章を授賞したのは、海軍と天皇の戦争責任を隠してくれた論功行賞であったとしても不思議はない。
海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だったから、天皇としてはどうしても敗戦の責任を海軍に負わせるわけにはいかなかった。そこから「海軍善玉論」を意図的に展開させたのではないか。
佐藤氏は太平洋の作戦全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三ら下僚参謀が勝手に指揮したと書いているが、知ってか知らずか、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書いていない。
東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、
「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。
これは当時としては真実である。
しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。
責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。
それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。
それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。
キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。
みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2
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2023/09/19 (Tue) 14:54:56
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昭和天皇の身代わりになって処刑された東条英機
【東京裁判で東條英機が語った本音とは】天皇不起訴を実現に導いたキーナン検事の暗躍。
2023/03/10
https://www.youtube.com/watch?v=W111K5dUEec
1947年の12月、戦時中の首相、東条は自らを弁護して証言台に立った。
彼は生贄の羊となることを望んではいたものの、降伏以降、彼への雑言悪態は
限度を越えていた。
中には、天皇自身が、東条の命令不服従の不実を非難しているとさえ報じられていた。あるいは、日本の新聞は、東条が自決しようとして、刀ではなく拳銃を使ったことを、臆病者と呼んでいた。東条の家族は、近所からライ病患者のごとく扱われ、お金にも不自由した。彼の弟は、二ヶ月前、列車中で一袋の米を盗んだとして逮捕されていた
1947年の大晦日、東条への直接尋問のなかで、〔木戸の〕弁護人
ログマンはこう質問した。
「天皇の平和に対してのご希望に反して、木戸侯爵が行動をとったか、
あるいは何かを進言したという事実を何か覚えていますか?」
東条 そういう事例はもちろんありません。私が知る限りにおいてはありません。
のみならず、日本国の臣民が、陛下のご意思に反して、かれこれすることはあり得ぬことであります。 いわんや、日本の高官においておや。
ログマン 以上をもって、木戸卿に代わる私の尋問を終わります。
裁判長(ウェッブ) 今の質問がどのようなことを示唆しているかは、
よく理解できるはずである。
まさしく、それは誰もが知っていたことだった。
そこでキーナンは、彼の証人の切り札たる田中隆吉を、富士山麓の山中湖畔の自宅で休暇中のところより呼び戻し、ただちに巣鴨刑務所の東条に会いに行かせた。
だが東条はそれに応じようとはしなかったので、田中は皇居に行き、木戸の前秘書で
天皇の顧問の後継者、松平康昌に情況を説明した。次いで松平は、同僚の
側近たちと相談し、収監中の元内大臣木戸に手紙を送る許可を裕仁よりえた。
東条とは隣同士の房にいる木戸は、さっそく東条との話し合いに入った。
彼は東条と護衛の監視下で仕切り越しに長々と話をした。
木戸はまた、
刑務所中庭で運動の際、直接に東条に話しかけ、東条の家族の状況を改善させることを約束した。 小男で近眼の木戸ながら、彼は刑務所の雑務中でも裕仁の代理人であったため、東条は彼の話を無視することはできなかった。
二日にわたって話が交わされた後、ついに東条は折れた。
彼は法廷にもどると、キーナンによる反対尋問の中で、
自分が天皇を戦争を始めるよう説得し、それによって、裕仁を自身の気持ちに反して動くように強いさせたかも知れないことを認めるに至った。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm
内閣特別顧問の石原莞爾――退役した満州戦略家――は、敗戦の説明をおこなうため、全国の津々浦々を行脚した。
彼の話す内容は、戦争を始めたのは元首相東条であり、彼以外に責任はない、という単純なものであった。
1930年代初め、石原と東条は、天皇の支持を取り付けるため互いに争っていた。だが東条が勝利していた。今、東条を犠牲者に祭り上げるにあたり、石原ほど詳細を知るものはいなかった。
出身地東京で一年以上の退役生活を送っていた東条は、その中傷を冷徹に受け入れ、戦争の責任を全面的に負うのが自分の意思であると、友人たちには内々に語っていた。
友人たちは彼の意思を尊重したが、以前の部下や下僕たちはそれに反発した。たとえば、官邸に20年間使えてきた給仕は、東条を、もっとも人間的で思慮深い人物であると述べていることが幾度も取り上げられていた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_3a.htm
マスコミ報道等では、第二次世界大戦は日本の軍部が独走し、
天皇は仕方なくそれに引きづられた・・という事になっている。
そのため戦争中首相であった東条英機は戦争犯罪者として処刑され、
天皇は「罪を問われなかった」という事に「なっている」。
1944年7月20日、天皇の東条英機あての勅語。
「あなたは(東条は)、朕(天皇)の行う戦争において、朕の指導の下に
十分職務を果たした。」・・()内部、筆者の注。
ここで天皇自身「が」主体となって戦争を行っている事、つまり軍部に引きづられて
戦争が行われているのでは無い事、
東条が「天皇の指導の下」にその命令通りに戦争を行って来た事を、天皇自身が証言している。
天皇は、自分の行った戦争の責任を全て東条に押し付け、東条を処刑させ、
自分だけ生き延びたのである。
戦争中、東条は1日に3回天皇を「御機嫌うかがい」のため訪問し、
政界では「ゴマすり東条」と批判されていた。
東条を始めとした政界軍部が「強引に戦争を行い」、天皇がそれに引きづられる等という事は、
この東条と天皇の「力関係」から見て有り得ない。
天皇は東条に全責任を押し付け、自分だけ生き延びたのである。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49704032.html
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2023/12/09 (Sat) 04:47:18
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大人の教養TV 【真珠湾攻撃】現地パールハーバーからわかりやすく解説
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16829161
故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA
【真珠湾攻撃】なぜ決断されたのか?真相はどこに?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14149893
【昭和天皇】太平洋戦争との関わりは?意外なエピソード?その功績と罪を紐解く
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14150098
【山本五十六】太平洋戦争を指揮した日本屈指のエリート軍人を徹底解説!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14149840
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2023/12/10 (Sun) 08:06:14
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2023.12.10XML
今年の12月で真珠湾攻撃から82年、レノン暗殺から43年
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202312100000/
今から82年前の1941年12月7日に日本軍はハワイの真珠湾にあるアメリカ太平洋艦隊の基地を攻撃、43年前の1980年12月8日にジョン・レノンがニューヨーク市にあるダコタの入り口で射殺された。
真珠湾を攻撃する直前、日本軍はマレー半島を攻撃している。その時点でアメリカ側は日本側の機密情報を入手していた。ドイツの外交官ハンス・トムセンは日本の外務省が使っていた暗号機B型(パープル)の暗号をアメリカが解読しているとヨアヒム・フォン・リッベントロップ独外相へ報告、その情報は日本側へ伝えられていたのだが、日本の外務省はそれを使い続けている。
ちなみに、アメリカでは第2次世界大戦が始まった後、通信傍受と暗号解読を目的とするSSA(通信安全保障局)を設立、1942年3月には日本海軍が使っていた呂暗号(JN-25)も解読に成功、同年6月に実行されたミッドウェー諸島攻略作戦の内容を事前に入手していた。
日本軍が太平洋で軍事作戦を計画していたことをアメリカ側は知っていた可能性が高いのだが、どこを攻撃するかはつかんでいなかった。真珠湾は遠浅のため攻撃が技術的に難しく、守りの堅い軍港。攻撃のリスクは高い。
その前、アメリカ政府の内部では日本に対する石油の輸出が議論されていた。財務省は積極的だったが、フランクリン・ルーズベルト大統領は石油の禁輸が「日本をインドシナへ駆り立てる」と考え、1937年より前の日本に対する石油輸出量は維持すると主張していた。(岩間敏「戦争と石油(1)」石油・天然ガスレビュー、2006年1月)
日本軍はマレー半島を攻撃するという考えが常識的だろう。実際、最初に攻撃したのは石油があるマレー半島だ。そこへ日本の艦船が近づいていることもわかっていた。
イギリスのウィンストン・チャーチル首相も日本のそうした動きを察知、1941年11月にベンガル(現在のバングラデシュ周辺)で「拒否政策」と呼ばれる焦土作戦を打ち出す。日本軍の食糧にしないということでサイロや倉庫から種籾を含む全ての米を押収、また輸送手段を奪うということで漁民の船や自転車を取り上げたのだ。
その政策を推進中の1942年10月にベンガル地方はサイクロンに襲われた。死傷者が出ただけでなく農作物が大きな打撃を受け、食糧不足は避けられない状態になる。ところが飢餓が見通されてもチャーチル政権は米の運び出しを続ける。チャーチルは1943年1月、イギリスの食糧と資源の備蓄を強化するため、インド洋で活動していた商船は全て大西洋へ移動させていた。(Madhusree Mukerjee, “Churchill’s Secret War,” Basic Books, 2010)
それに対し、現地の提督は1943年10月に政策の継続は大惨事を招くとチャーチル首相に警告、イギリス下院では満場一致で食糧を送ると議決したが、首相は無視した。食糧を送るというルーズベルト大統領の提案も拒否している。その結果、ベンガルでは1943年から44年にかけて大規模な飢饉が引き起こされ、餓死者の人数はベンガル周辺だけで100万人から300万人に達したと推計されている。
チャーチルが焦土作戦を実行したのは日本軍がインドへ侵攻してくると考えたからだが、そうなるとアメリカの参戦なしにイギリス軍は日本軍に勝てないとイギリス政府は見ていた。日本軍の真珠湾攻撃を見てチャーチルは大英帝国が存続できると考えただろう。(Nu’man Abd Al-Wahid, “Debunking the Myth of America’s Poodle, Zero Books, 2020)
真珠湾を攻撃した頃、ドイツ軍はモスクワでの戦いでの敗北が決定的になっていた。これが独ソ戦の転換点だ。そして1942年8月にドイツ軍はスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まるが、11月になるとソ連軍が猛反撃でドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲され、43年1月には生き残ったドイツの将兵9万1000名は降伏する。
これを見て慌てたのがチャーチル。ルーズベルトやフランスのシャルル・ド・ゴールとカサブランカで会談、そこで「無条件降伏」という語句が出てきた。これはドイツの降伏を遅らせ、米英が軍事作戦を行う時間的な余裕を作るためだったとも言われている。
そして1943年7月に米英両国軍はシチリア島へ上陸。ハリウッド映画で有名になったノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月になってからだ。コミュニストの影響力が強かったシチリア島へ上陸するため、アメリカ軍はマフィアの協力を得ている。
アメリカ海軍のONI(対諜報部)はユダヤ系ギャングの大物だったメイヤー・ランスキーの仲介でイタリア系犯罪組織の大物ラッキー・ルチアーノに接触、協力させることに成功した。ランスキーとルチアーノは子ども時代からの友人。ふたりともアーノルド・ロスティンの子分だった。
当時、ルチアーノは30年から50年の強制労働という不定期刑が言い渡されていた。優雅に暮らしていたとはいうものの、死ぬまで刑務所から出られそうになかった。そこに救いの手をさしのべてきたのがONIである。
ルチアーノはシチリア島の大ボスだった カロージェロ・ビッツィーニを紹介、ビッツィーニの要請で島内のボスはイタリア軍やドイツ軍に関する情報を米軍に提供したうえ、破壊活動にも協力した。シチリア島で強い影響力を持っていたコミュニストを押さえ込むため、マフィアを利用したという側面もある。大戦後、シチリア島がマフィアの支配地になるのはそのためだ。1946年2月9日、ルチアーノは「好ましからざる人物」という名目で刑務所を出され、国外に追放された。自由の身になったということだ。
真珠湾攻撃の39年後にレノンは殺された。レノンの右側、2.5メートルほど離れたところにいたマーク・チャップマンが発射した4発の銃弾がレノンの左側から命中している。至近距離から撃たれたことが医学的に示されている。殺される直前、レノンは反戦運動の前面に出ようとしていた。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202312100000/
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8:777
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2024/09/13 (Fri) 17:03:10
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『後期日中戦争華北戦線:太平洋戦争下の中国戦線Ⅱ』 著・広中一成
2024年9月12日
https://www.chosyu-journal.jp/review/31677
https://www.amazon.co.jp/%E5%BE%8C%E6%9C%9F%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89-%E8%8F%AF%E5%8C%97%E6%88%A6%E7%B7%9A-%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%B8%8B%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%88%A6%E7%B7%9A2-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%BA%83%E4%B8%AD/dp/4040824334#:~:text=%E5%BA%83%E4%B8%AD%20%E4%B8%80%E6%88%90%20(%E8%91%97)
敗戦から79回目の夏を迎え、先の大戦がなぜ起こったのか、二度とあのような悲劇を起こさないためになにができるかをめぐって論議が活発になっている。
この本は、太平洋戦争の真っ最中に中国戦線で何が起きていたのかをテーマにしている。日中戦争は、1937年の盧溝橋事件から日本が敗戦を迎えた1945年8月まで続くが、その途上の41年12月に日米戦争が開戦してからはそれまでと様相が一変してしまったのに、戦後の研究では注目されないままにきていた。1978年生まれ、愛知学院大学准教授の著者は、これまでの研究の蓄積を踏まえつつ、日米戦争開戦以降の中国戦線、それも華北戦線(主に河北・山西・山東・河南の四省)に着目し、そこで何が起こったかをまとめた。2021年に同じ著者が著した『後期日中戦争―太平洋戦争下の中国戦線』の続編である。
日中戦争の開戦時から敗戦まで、中国には日本陸軍の100万人以上の兵士が釘付けになっていた。1941年当時、華北には日本陸軍の北支那方面軍35万4000人がいたが、八路軍の遊撃戦に翻弄され、広大な中国大陸の点と線の支配しかできていなかった日本軍は、次第に追い詰められていた。業を煮やした日本軍が使ったのが毒ガスと細菌兵器であり、三光作戦(焼き尽くす・殺し尽くす・奪い尽くす)だった。
この本にはたくさんの兵士の証言が掲載されている。そのなかには「日本のためにならない匪(ひ)賊を退治するのが戦争だと学校の先生も、お役人も、坊さんもそう教えた。私はお国のために尽くせる兵隊となって戦地に渡った。だが、戦場は違った」「“部落掃討、火をつけろ”という大隊長の命令が伝わるや、和やかだった部落に日本兵の怒号が響く。100軒あまりの家が1軒残らず焼き払われ、逃げ遅れた婦人や子供、老人や病人、数十人の人たちが、家もろともに焼き殺され、あるいは刺し殺された」という証言がある。
しかし日本軍は八路軍を撃退できなかったばかりか、かえって戦力を増大させて反撃を受けた。ある将校は戦後、「日本軍はバカの一つ覚えのように、満州事変頃と同じ匪賊討伐をくり返し、その観念から抜けきれなかった。そして八路軍の勢力が伸張していくのは、思想の力でも首脳部の領導のよさでもなく、具体的に民衆の訴えに応えてやる者が彼らしかいなかったからだ」と書いている。
一方、一銭五厘の赤紙で召集された日本の兵士も悲惨なものだった。1944年4月、大本営は「米軍が使っている中国南西部の飛行場を撃滅せよ」とって、51万人の日本兵に1500㌔の行軍を強いた。これは「大陸打通作戦」と呼ばれるが、米軍の空襲を避けながらの強行軍で、アメーバ赤痢やマラリアにかかって脱落する兵士があいつぎ、約10万人が戦病死したという。中国戦線でももはや武器弾薬も食料もなく、まともに戦える状態ではなかった。
この頃から華北では、八路軍の反転攻勢が始まる。日本軍の補給路を断ち、日本側の拠点を次々と奪取したこと、日本軍の支配から解放した地区では農民たちに対する租税減免を徹底したことなどが記されている。ヨーロッパ戦線に目を転じれば、43年頃からソ連軍がドイツ軍に対して優位に立った。
この頃の日本軍占領地について、北支那方面軍の参謀だった寒川吉溢はこう振り返っている。「方面軍占領地域である三特別市(北京・天津・青島)と400県において、治安良好なのは3特別市の他七県(1・6%)に過ぎず、八路軍の支配と認めざるをえないものが139県(31・5%)。全体の66・9%に当たる295県でも、日本軍は県城を中心に若干の郷村に分駐しているだけで、民心はむしろ八路軍側に傾くものが多い」という実情だった。
済南に米軍上陸を阻止するための陣地を構築していた第42大隊歩兵砲中隊の真壁秀松は、当時をこう振り返っている。「四方八方敵だらけ、八路軍が集合し攻撃をかけてきたようである。あっという間もなく旅団長が倒れる。司令部が慌てふためく。旅団にしてもわが大隊にしても、指揮系統が乱れて烏合の衆といってよく、まったく処置なしである」
勝利の見込みなく日米開戦
著者は以上のことから、「太平洋戦争で日本は完膚なきまでに叩きのめされた。だが、もう一つ知っておかねばならないのは、華北戦線でも八路軍の反転攻勢で日本軍は一気に崩壊し、完全に敗北したということだ。このことを認めれば、アジア太平洋戦争に対するわれわれの歴史認識もさらに正確なものになるだろう」と指摘している。
さらにいえば、すでに 1941年の日米開戦時に、中国戦線での日本軍の戦死者は18万5000人を数え、勝利の見込みは断ち切られていた。太平洋戦争でアメリカに負ける前に、中国でさんざんにやられていたのだ。当時、アメリカと日本の戦争の最大争点は中国市場の争奪にあり、日本がアメリカの蒋介石への支援ルートを断とうとすると、アメリカは在米資産凍結、石油輸出の全面禁止をやり、中国からの日本軍の全面撤退を要求した。しかし天皇をはじめ日本の権力中枢は、中国に敗北したとなれば自分たちの権威は丸つぶれとなり、そこから内乱・革命に発展することを恐れて、日米開戦に進み、最後には日本全国を焦土にしてアメリカの単独占領を受け入れた。彼らは国民がどうなろうが、自分たちの地位を守ることにしか関心がない。こうしたことを含め、第二次大戦の性質をめぐる研究がさらに進むことが期待される。
(角川新書、302ページ、定価960円+税)
https://www.chosyu-journal.jp/review/31677