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日本兵52万人が犠牲に…フィリピンに残された戦争の爪痕をめぐる 最悪の戦場を

1:777 :

2023/09/18 (Mon) 16:40:48

日本兵52万人が犠牲に…フィリピンに残された戦争の爪痕をめぐる 最悪の戦場を現地からわかりやすく解説
2022/12/03
https://www.youtube.com/watch?v=gmY-X670Vrc

0:00 オープニング
0:54 地理的ポジション
4:12 アメリカ統治時代
6:03 太平洋戦争開戦
6:41 日本軍のリンガエン湾上陸
10:11 マニラ陥落
10:22 アメリカ軍の抵抗
11:44 アメリカ軍の降伏
13:06 捕虜の扱い
14:57 バターン死の行進
17:58 死の行進モニュメント
18:56 貨物列車
20:20 慰霊碑(カパス・ナショナル・シュライン)
22:48 公園の木々(カパス・ナショナル・シュライン)
26:30 サンチャゴ要塞
28:23 要塞の地下牢
32:03 戦局の悪化
33:36 決戦
35:35 レイテ島の戦い
36:21 神風特攻隊
38:41 アメリカ軍のリンガエン湾上陸
40:26 持久戦
41:22 聖トーマス大学
43:10 旧パコ駅
44:09 日本軍の大砲
46:05 サンアグスチン教会
46:59 マニラ大虐殺
50:48 メモラーレ・マニラ
51:52 フィリピンの戦いの終了
52:06 マニラ米軍記念墓地
53:13 終戦
53:31 小野田寛郎
56:50 鈴木紀夫
59:02 小野田の帰国
1:00:08 親日国フィリピン
1:01:05 クラウドファンディングのお礼
1:01:25 新しい挑戦
1:03:06 エンディング
2:777 :

2023/09/18 (Mon) 16:51:17

男がやってみたい事はみんな同じ _ 日本兵がフィリピンでやった事
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/110.html

故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

太平洋戦争は共産革命を恐れた昭和天皇が英米支配層と組んで起こした八百長戦争だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14016737

日米戦争 破局への道 【CGS 茂木誠 超日本史 第30回】
2019/10/10
https://www.youtube.com/watch?v=TmyOlzE1wE4&list=PLrhni2Vgrbr0OweawRqEJ2aAjHoyMmpak&index=30

アニメ 太平洋戦史録
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14098862

大東亜共栄圏というのは中国・東南アジアで麻薬を売ってぼろ儲けする体制の事だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006701

漢民族系朝鮮人の天皇一族による極悪非道の世界侵略の歴史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14003198

ジェームズ斉藤 : 日本のゴールド「天皇の金塊」
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006705

日本のゴールド「天皇の金塊」をジェームズ斉藤が徹底解説! 知られざる日本の財宝、驚愕の金額…米デフォルトと関連
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/392.html

3:777 :

2023/09/18 (Mon) 16:52:04

2017-10-29
日本兵は赤ん坊を串刺しにしたか?
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/10/29/095521


日中戦争やアジア太平洋戦争において、日本兵が何の罪もない赤ん坊を銃剣で串刺しにした、という話が、日本軍の残虐性を象徴するエピソードとして語られることがある。

これは本当のことなのだろうか?

試しに「日本兵 赤ん坊 銃剣」といったキーワードでウェブを検索してみると、これは嘘だ、中国側のプロパガンダだ、と(例によって何ら根拠を示すことなく)主張するウヨサイトが続々と引っかかる。

だが、ネットde真実の皆さんには残念だろうが、どの程度一般的な行為だったかはともかく、日本兵がこのようなことを行った事例がいくつも存在したことは間違いないのだ。

被害証言(中国)
まずは、1932年9月16日に中国遼寧省北部で起きた平頂山事件の際の事例。これは、前日に起きた抗日ゲリラによる撫順炭鉱襲撃事件との関係を疑った日本軍守備隊が、炭鉱に隣接する平頂山集落の住民約3000名をほぼ皆殺しにした大虐殺事件である。日本軍は、まず住民を近くの崖下に集めておいて、包囲した部隊が機関銃で銃撃を加え、生き残った住民は銃剣で刺殺し、さらに遺体を焼いた上、崖を爆破して事件の隠蔽を図った。

この事件で奇跡的に生き残ったうちの一人、韓樹林さん(事件当時12歳)が次のような体験を語っている[1]。

 二度目の掃射が終わると、兵隊たちは銃剣をかざして死体の山に近づいた。思い思いに、死体を蹴とばしたり、銃剣で刺したりしながら、折り重なった死者たちの上を歩いてくる。生存者がいるかどうか調べているのだ。韓さんはこのとき、上半身は表面に出ていたが、下半身は誰かの死体の下に埋まっていた。父親は頭と両足先が表面で、胴と大腿部あたりはやはり誰かの死体の下だった。

 「動くな」と、父が韓さんに小声で、鋭く言った。兵隊たちが近づいてきた。薄目をあけてみると、生き残りの女子供たちが、次々と刺されたり銃口をあてて撃たれたりしている。韓さんから数メートル離れて、一人の赤ん坊が、死んだその母の乳房に抱きついて泣いていた。兵隊はこの乳児を銃剣で突き刺すと、そのまま空中に放り上げて捨てた。そのすぐ近くに妊婦が死んでいた。別の兵隊が銃剣でお腹を切開し、何かをとりだした。他の兵隊たちの笑い声がきこえた。

 とうとう韓さんと父親のところへも来た。二人はじっと死んだふりをしていた。兵隊は父の上になっていた誰かの死体を銃剣で突き刺した。剣は死体を貫通し、さらに父の大腿部まで突き通った。父は激痛を耐えて黙っていた。兵隊は通りすぎた。小柄な子の韓さんは、幸い“テスト”の目こぼしになった。

次は日中全面戦争が始まった1937年秋、上海近郊の農村で起こった事件を、生き残った弟(事件当時11歳)から聞いた姉が語った内容[2]。

 目的(注:強姦)を達した日本兵たちは、全員に向かって「ここを離れるな。逃げたりすると命はないぞ」と言い残し、その日は引き揚げた。しかし隣家の逃げおくれていた人びとは、強姦された娘も含めてその夜のうちに逃亡した。あくる日、またしても同じ顔ぶれの日本軍が現れた。娘が逃げたことを知ると、金さん一家全員を外庭へ出した。一列に並べた。銃剣をつけ、弾丸を装填した。

(略)

 このとき弟は、列の一番端にいた。(略)隣りに母がいた。十数人の兵隊たちは、一部は家の中を略奪しており、他の家族らを取り調べるなどうろうろしていて、一瞬の盲点があった。母が小声で、しかし鋭く「早く逃げて」といった。弟は走った。100メートルほど離れて川があり、その手前に池がある。池をかこむ草むらにとびこんだ。小柄な子供の脱出は、さいわい兵隊たちの目にとまらなかった。弟は草むらの中から様子を見守っていた。

 殺人の用意を終えた兵隊十数人は、一列に並べた16人に対して一斉に襲いかかった。ある者は剣で突き、ある者は発砲した。(略)女子供のほとんどは銃剣で刺し殺された。とくに前日強姦された従兄の嫁は、あとで見ると衣服を全部はぎとられ、腹をたち割られていた。

 皆殺しが終わると、兵隊たちは家に放火した。引き揚げる前に、一人の兵隊は死体を調べて、生存者がないかと確かめた。生後4ヵ月の赤ん坊はオムツにくるまっていたが、蹴とばすと泣きだした。兵隊は片手でつかみあげた。ひも一本で結ばれている赤ん坊の着物は、ぱらりと落ちて裸になった。兵隊は泣きさけぶ子を地面にたたきつけると、銃剣で突き刺した。背中から腹に貫通した。そのまま、銃剣の先に赤ん坊を串刺しした形で、肩にかついだ。日本軍の一行は、号令とともに整列し、号令とともに出発した。赤ん坊をかついだ兵隊は、隊列の最後尾に加わった。赤ん坊はまだ生きていて、串刺しにされたまま動いている。軍歌をうたいながら、隊列は去った。

証言者の金月妹さんは、この事件で父母を含め、家族・親戚17人を殺されている。

被害証言(フィリピン)
フィリピンでも、日本軍による同様な残虐行為についての証言がある。こちらは大戦末期の1945年2月、バタンガス州アンチポロでの事例[3]。

 その夜は、朝めしを食べに行く食堂の夫婦に、夕食に呼ばれた。(略)

 この家の夫人は、パミンタハンの虐殺当時、アンチポロの集落に住んでいた。1945年2月27日、男たちがカルメルの神学校に行った後の午前10時頃、日本兵はバランガイ(注:村)に男たちが残っていないかどうか、家々を回って捜しにやって来た。

 「私たちは日本兵が恐いんで、30人位の女や子どもたちが一つの家に集まって震えていたのよ。そこに二人の兵隊がやって来て、戸を開けたの。恐くって子どもたちが泣き出した。私も泣いたわ。特に一人の赤子が烈しく泣き続けたのよ。すると日本兵が怒り出し、母親から赤ん坊をひったくると上に投げたの。それを別な兵隊が銃剣で突き刺したのよ」

 「それ、ほんとうに目撃したの?」

 私は思わず聞き返した。

 「見たわよ、ほんとうに。そして、深井戸に投げ込んだの。私も母親と一緒だったけど、泣きやまなかったので、深い傷ではなかったけど、ここを突かれたの」

 彼女は、左胸の上をブラウスの上から指先で示した。

 「痛いよりも恐かったわ。後で痛みを感じたけど、あの時は恐くて恐くて。日本兵が来るとすぐ逃げて、物陰からそっとのぞき見したものよ。全部で十人は突かれて傷ついたはずよ」

こちらは同年3月、同州ブリハンで起きた集団虐殺事件の中での事例[4]。

 マリシリーノ・マガリンさんは、7歳で戦争孤児になった。1945年3月4日で、パミンタハンの大虐殺から数日後のことだ。

(略)

 「家族は、両親と兄弟姉妹の11人だった。ルンバンのバランガイに住んでいたけど、アメリカと日本の戦争が激しくなってきたんで、ブリハンに疎開していた。そこに日本兵が来て500人位の人たちを、夜の8時頃に谷川の近くの広場に連れて行った。最初に、赤ん坊が放り上げられて殺されたんだ」

 「ほんとうに目撃したんですか?」

 よく耳にすることなので、思わず聞き返した。

 「ほんとうですよ。その夜は月夜だったんです。日本軍はみんなに列を作るように、大声で言った。でも、子どもたちは異様な雰囲気におびえて泣きだした。私も泣きましたよ。兵隊は目をつり上げて恐い顔をしていたが、激しく泣く赤ん坊を母親からひったくると、突き殺して川の方に投げてしまった。

 子どもが泣き、大人たちが悲鳴を上げる中で、5人位ずつ殺し始めた。私は兄や姉たちと一緒に銃剣でやられた。その前に私はジュウドウで倒されて、後ろから突かれた。

 日本兵はみんなを殺してしまうと、死体の上に枯れたココナツの葉をかけたんで、火をつけられやしないかと思った。

 気がついたら、朝だった。日本兵がやって来て、まだ生きている人がいると、銃剣で殺していった。

 私は死んだふりをしていたけど、すぐ上の姉は日本兵を恐がって逃げ出そうとしたんで、本当に殺されてしまった。

 日本兵が行ってから、ゆっくりゆっくり這い出した。疎開して誰もいない小さな家にたどりついた。(略)

 その後で、知り合いの人に助けられた。医者も薬もないから、ココナツオイルとからしを傷につけておくだけだった。元気になったのは一年後だった。ヤシ油とからしだけでは、背中から胸に突き抜けた銃剣の傷が治らないので、アメリカ軍はマニラのジェネラルホスピタルに運んで治療してくれた。病院に6ヵ月入院してましたよ。

こちらは同年4月から5月にかけて、マニラ東方インファンタ地区一帯で「ゲリラ討伐」と称して行われた住民虐殺の中での事例[5]。

 バランガイ・キャプテン(注:村長)の家の近くで、油気のないぼさぼさ髪の主婦のソンニャ・ポハルテさんに会った。

 「私が7歳の時でしたよ、日本兵がここで虐殺したのは……。うちでは、母と妹三人に弟一人が殺されたんです。母は妊娠していたから、もう一人殺され、残ったのは父と私だけでした。

 日本軍はココナツの枯葉を燃やし、明かりの代わりにして家に来ると、眠っていた一歳の弟を足でけり、上に放り上げて銃剣で突き殺した。驚いて、父と私は飛び出して逃げたけど、後の者はみんな殺されてしまった。私は父とばらばらになって湿地に逃げ込んで震えていましたよ。父と会ったのは一週間後でした。その後で、ポレリオにボートで疎開したの。

 母や妹たちが急にいなくなったから、ときおり、思い出して泣きましたよ。妹と口げんかをよくしたけど、にぎやかな家が急に寂しくなってしまったの」

 「近所の人から日本人のあんたが来たと知らされた時は、また殺しに来たんじゃないかと思って、びっくりしたわ。昔の日本兵は残酷だったから恐くって恐くって。長い間恨みました。なぜ母を殺したんだと……」

加害証言
「赤ん坊の串刺し」を証言しているのは被害者側だけではない。加害者である日本軍側の証言もある。これは1937年12月、南京攻略戦途上の行軍中に起きた事件についての、陸軍第6師団輜重兵小隊長による証言だ[6]。

 約二十日ほど航海して、やがて杭州湾沖に停泊、杭州湾上陸作戦の開始となった。第一線部隊は上陸後、上海を占領。輸送部隊は上海へ迂回して上陸した。軍需物資、その他の装蹄準備に約一週間を費し、昭和12年11月30日に、南京へ向けて不眠不休の強行軍を開始した。

(略)

 約二十日間、輸送船の中で過ごし、消耗した直後の行軍であったため、兵も倒れんばかりであり、乗馬もことごとく輓馬に転用のやむなきにいたるほどの状態であった。

 まったく、兵と馬の疲労はその極に達していたのだ。将校の乗馬も、落伍者のために使われ、徒歩を強要されることもあった。

 兵は、過労と病気でつぎつぎと倒れていく。そして、兵が少なくなっても補充兵もなく、輸送は過重を強いられ、困難をきわめた。

 南京までの途中、通過する部落は、そのほとんどの家々が破壊され、焼き払われ、道路には敵兵の死体だけでなく、民間人の死体も数えきれないほどころがっていた。

(略)

 途中にころがる無数の死体の中でも、とくに婦女子の死体には、下腹部に丸太棒をつき刺してあり、目をそむけたくなるような光景であった。

 日本軍の急進撃のため、路傍に取り残されて泣いている赤ん坊がいた。母親が殺されたのか置いて逃げたのかわからないが、一人ぽつんと残されていた。その子を歩兵の一人が、いきなり銃剣でブスリと、串刺しにしたのである。

 赤子は、声を出す間もなく、即死した。

 突き刺した兵は、さらに、刺したまま頭上に掲げた。それも誇らしげに……。「やめろ」という間もない、アッという間の出来事であった。

 つねに、最前線をゆく兵士としてみれば、戦友の戦死等により、毎日が、生と死の間に身を置く状態である。自然と気も荒くなり、また、敵慌心も増すのであろう、死骸に対して、あるいは無抵抗の民間人に対して、さらには赤ん坊にまで目をそむけたくなるような仕打ちをしていく。

 だが、注意しても聞くような兵たちではなかったし、そのような状況ではなかったのだと思う。このように、行軍中あらゆる場所で、悲惨な状況が繰り広げられていた。

ちなみに、この証言が載っている『揚子江が哭いている』では「赤ん坊の串刺し」以外にも様々な残虐行為が告白されているが、同書のあとがきによれば、「これ以上は話せない」とか、「これが本になるのなら、やはり私は退かせて頂きたい」と取材を拒否されることも多かったという。加害証言が表に出るのは極めて稀有なことであって、語られないままに墓場に消えていった残虐事件が無数にあったことを忘れてはならない。

[1] 本多勝一 『中国の旅』 朝日文庫 1981年 P.105-106
[2] 同 P.199-202
[3] 石田甚太郎 『ワラン・ヒヤ 日本軍によるフィリピン住民虐殺の記録』 現代書館 1990年 P.240-241
[4] 同 P.274-276
[5] 同 P.384-385
[6] 創価学会青年部反戦出版委員会 『揚子江が哭いている ― 熊本第六師団大陸出兵の記録』 第三文明社 1979年 P.92-94
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/10/29/095521


2021-05-30
角田房子『本間雅晴中将伝』の解説がいろいろ問題ありな件
https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/05/30/143056


角田房子による本間雅晴陸軍中将の伝記[1]を読んだ。

https://www.amazon.co.jp/%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%95%E3%81%84%E5%A4%A2%E3%81%AB%E3%81%94%E3%81%96%E5%80%99-%E6%9C%AC%E9%96%93%E9%9B%85%E6%99%B4%E4%B8%AD%E5%B0%86%E4%BC%9D-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E8%A7%92%E7%94%B0-%E6%88%BF%E5%AD%90/dp/4122061156

本間雅晴は、アジア太平洋戦争において、第14軍司令官としてフィリピン攻略戦を指揮した人物である。攻略完了後、1942年8月には任を解かれて帰国し、その後軍務につくことはなかったが、戦後「バターン死の行進」の責任を問われて戦犯裁判にかけられ、処刑されている。

この本(2015年刊の文庫版)、角田による本文はともかく、解説がどうもいけない。

解説は野村進というノンフィクションライターによるものなのだが、学生時代(1970年代末~80年代)にフィリピンに留学した際の経験として、こんなことを書いている。

 また、同じく下宿前の路地裏で、私が近所の赤ん坊を抱いてあやしていたおりのことだ。ちょうど通りがかった短パンにTシャツ、ゴムぞうり姿の顔見知りの少年が、こちらを見上げて、宙に何かを放り投げ、それを突き刺すしぐさをして、ニッと無邪気に笑った。

 即座に意味がわかった私は、全身から血の気が引く思いがした。少年は、かつて日本兵が赤ん坊を空中に放り投げ、銃剣で突き殺したエピソードを、おそらく彼が初めて出会った日本人に再現して見せたのである。きっと両親や祖父母の世代の誰かに聞かされたのであろう。少年の顔にも悪気はまったく認められず、それがかえって私の胸をえぐったのだ。

 この残虐なエピソードの真偽は不明だが、北はルソン島の農村から南はミンダナオ島の漁村まで、全国各地に広まっていたことだけはまちがいない。少なくとも、そうした鬼畜の所業を犯しても不思議ではない連中と、戦時下の日本兵たちはみなされていた。

このエピソードは「真偽不明」ではなく、事実である。

日本兵が赤ん坊を銃剣で突き殺したという事例は、中国だけでなくフィリピンでも報告されている。

ジャーナリストの石田甚太郎がフィリピンに約1年間住み込んで収集した証言の中に、次のようなものがある。「誰かに聞かされた」ものではなく、現場を目撃した被害当事者による証言である。

1945年2月、バタンガス州アンチポロでの事例[2]:

 その夜は、朝めしを食べに行く食堂の夫婦に、夕食に呼ばれた。(略)

 この家の夫人は、パミンタハンの虐殺当時、アンチポロの集落に住んでいた。1945年2月27日、男たちがカルメルの神学校に行った後の午前10時頃、日本兵はバランガイ(注:村)に男たちが残っていないかどうか、家々を回って捜しにやって来た。

 「私たちは日本兵が恐いんで、30人位の女や子どもたちが一つの家に集まって震えていたのよ。そこに二人の兵隊がやって来て、戸を開けたの。恐くって子どもたちが泣き出した。私も泣いたわ。特に一人の赤子が烈しく泣き続けたのよ。すると日本兵が怒り出し、母親から赤ん坊をひったくると上に投げたの。それを別な兵隊が銃剣で突き刺したのよ」

 「それ、ほんとうに目撃したの?」

 私は思わず聞き返した。

 「見たわよ、ほんとうに。そして、深井戸に投げ込んだの。私も母親と一緒だったけど、泣きやまなかったので、深い傷ではなかったけど、ここを突かれたの」

 彼女は、左胸の上をブラウスの上から指先で示した。

 「痛いよりも恐かったわ。後で痛みを感じたけど、あの時は恐くて恐くて。日本兵が来るとすぐ逃げて、物陰からそっとのぞき見したものよ。全部で十人は突かれて傷ついたはずよ」

ちなみに、日本軍に連れ出されて「カルメルの神学校」に集められたこの集落の男たちは、ほぼ全員が虐殺されている。

同年3月、同州ブリハンでの事例[3]:

 マリシリーノ・マガリンさんは、7歳で戦争孤児になった。1945年3月4日で、パミンタハンの大虐殺から数日後のことだ。

(略)

 「家族は、両親と兄弟姉妹の11人だった。ルンバンのバランガイに住んでいたけど、アメリカと日本の戦争が激しくなってきたんで、ブリハンに疎開していた。そこに日本兵が来て500人位の人たちを、夜の8時頃に谷川の近くの広場に連れて行った。最初に、赤ん坊が放り上げられて殺されたんだ」

 「ほんとうに目撃したんですか?」

 よく耳にすることなので、思わず聞き返した。

 「ほんとうですよ。その夜は月夜だったんです。日本軍はみんなに列を作るように、大声で言った。でも、子どもたちは異様な雰囲気におびえて泣きだした。私も泣きましたよ。兵隊は目をつり上げて恐い顔をしていたが、激しく泣く赤ん坊を母親からひったくると、突き殺して川の方に投げてしまった。

 子どもが泣き、大人たちが悲鳴を上げる中で、5人位ずつ殺し始めた。私は兄や姉たちと一緒に銃剣でやられた。その前に私はジュウドウで倒されて、後ろから突かれた。

(略)

 気がついたら、朝だった。日本兵がやって来て、まだ生きている人がいると、銃剣で殺していった。

 私は死んだふりをしていたけど、すぐ上の姉は日本兵を恐がって逃げ出そうとしたんで、本当に殺されてしまった。

 日本兵が行ってから、ゆっくりゆっくり這い出した。疎開して誰もいない小さな家にたどりついた。(略)

 その後で、知り合いの人に助けられた。医者も薬もないから、ココナツオイルとからしを傷につけておくだけだった。元気になったのは一年後だった。ヤシ油とからしだけでは、背中から胸に突き抜けた銃剣の傷が治らないので、アメリカ軍はマニラのジェネラルホスピタルに運んで治療してくれた。病院に6ヵ月入院してましたよ。(略)」

同年4月から5月にかけて、マニラ東方インファンタ地区での事例[4]:

 バランガイ・キャプテン(注:村長)の家の近くで、油気のないぼさぼさ髪の主婦のソンニャ・ポハルテさんに会った。

 「私が7歳の時でしたよ、日本兵がここで虐殺したのは……。うちでは、母と妹三人に弟一人が殺されたんです。母は妊娠していたから、もう一人殺され、残ったのは父と私だけでした。

 日本軍はココナツの枯葉を燃やし、明かりの代わりにして家に来ると、眠っていた一歳の弟を足でけり、上に放り上げて銃剣で突き殺した。驚いて、父と私は飛び出して逃げたけど、後の者はみんな殺されてしまった。私は父とばらばらになって湿地に逃げ込んで震えていましたよ。父と会ったのは一週間後でした。その後で、ポレリオにボートで疎開したの。

 母や妹たちが急にいなくなったから、ときおり、思い出して泣きましたよ。妹と口げんかをよくしたけど、にぎやかな家が急に寂しくなってしまったの」

 「近所の人から日本人のあんたが来たと知らされた時は、また殺しに来たんじゃないかと思って、びっくりしたわ。昔の日本兵は残酷だったから恐くって恐くって。長い間恨みました。なぜ母を殺したんだと……」

石田のルポ『ワラン・ヒヤ』は1990年に出版されている。2015年刊の、フィリピン攻略戦司令官の伝記の解説を書いている段階で、野村はまだこの事実を知らなかったのだろうか。

そして野村は、陸軍部内では例外的な理性派で、教養豊かな人物だったと言われる本間について、こう続ける。

 私は、だが、本書を英語やフイリピノ語に訳して、ぜひともフィリピン人たちに読ませたい。なぜなら、本間の人物自体は、フィリピン人に嫌われたり憎まれたりするどころか、大いに好かれるはずと確信するからだ。まず見た目がよい。百八十センチの堂々たる体躯と、彫りの深い顔立ち。女・子どもにやさしく、いまで言う“マザコン”で、本書によれば「涙もろいというより泣き虫に近い」気質もフィリピン人好みである。

 ファッション好きの「ハイカラ中尉」、わが子らに自分を「パパチャマ」と呼ばせる「西洋かぶれ」、優柔不断な「腰抜け将軍」……。これら日本での嘲弄のレッテルが、フィリピンではすべて反転して、微笑ましい人柄の一端と受けとられる。当時の日本人としては稀有なことに、英語がぺらぺらなところも、長らくアメリカの植民地下に置かれ、いまだに英語の上手下手で人間の格付けをしたがるフィリピン人のあいだでは、賞賛の的となろう。

本間の処刑の理由とされた「バターン死の行進」について、彼にどの程度の責任があったのかは脇に置くとして、少なくとも本間が、フィリピンの人々に地獄の4年間をもたらした戦争の始まりである攻略戦の司令官だったことは動かしようがない。

そんな本間が、フィリピン人に好まれる見た目や性格の人物だったからといって、それだけで賞賛の的になるだろうなどというのは、あまりにフィリピン人をなめているのではないか。

日本軍に父親と夫を殺された、ある女性がこう語っている。[5]

 赤い小柄な花模様のワンピースを着て、黒髪を後ろにきちっとひっつめた彼女が、ソコロ・オカンポさんだった。鼻筋の通ったうす褐色の細面の顔には、若い頃の美貌が残っていた。

(略)

 「さっき私、日本兵を殺してやると言ってしまったけど、あれは冗談なの。例え仕返ししたって、どうなるものでもないでしょ。でも、胸の中では怒っているの。私の気持ちを日本人にどう伝えたらいいかしらね。……もしあんたがフィリピン人で、夫がこんな殺され方をしたらどう思うかしら? 日本人は、フィリピン人になったつもりで考えてほしいの」

日本による戦争で人生を滅茶苦茶にされたフィリピン人の立場に立って考えることができていれば、あのような言葉は出てこないのではないか。

[1] 角田房子 『いっさい夢にござ候 本間雅晴中将伝』 中公文庫 2015年
[2] 石田甚太郎 『ワラン・ヒヤ 日本軍によるフィリピン住民虐殺の記録』 現代書館 1990年 P.240-241
[3] 同 P.274-276
[4] 同 P.384-385
[5] 同 P.242-243

https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/05/30/143056  
4:777 :

2023/09/18 (Mon) 16:53:16

フィリピン人の元慰安婦 「私の体験 強制の証明」
 当時の状況は強制そのものだった-。シンポジウム会場にはフィリピン人元慰安婦の姿もあった。フェリシダッド・レイエスさん、86歳。「残り少ない証言者になってしまった」と声を振り絞った。

 「ある日、学校の教室に日本兵が2人やって来て、私を連行しました。駐屯地の一室に閉じ込められ、毎日多くの日本兵からレイプされ続けました」

 1943年9月、マスバテ島のミラグロス町。日本軍は小学校の敷地に建屋を建て、駐屯していた。役場には「日本軍歓迎」の垂れ幕が掛かっていたという。

 「先生はフィリピン人でしたが、日本軍を恐れていたので私を行かせるしかなかったのです。当時14歳。自分でバイシュン宿のようなところへ行くなどと考えられるはずがない。無理やり手をつかまれ、駐屯地に連れていかれ、被害に遭ったのです」

 5日目に高熱を出し、解放されたという。日本兵は家まで送ろうとしたが、断ってふらふらになりながら一人で帰り着いた。

 「私の体験はまさに強制的に連行され、被害に遭ったことの証明です。安倍首相をはじめ日本政府は強制連行はなかったと言っているが、まったくの誤りです」

 93年、日本政府に損害賠償を求めた訴訟(2003年に最高裁で棄却)の原告46人のうちの1人。訴状によると、戦争が終わるまで学校には行けず、自殺も考えたという。

【神奈川新聞】
https://www.kanaloco.jp/article/80127/cms_id/110703
5:777 :

2023/09/18 (Mon) 16:53:49

慰安婦にされた女性たち-フィリピン
http://www.awf.or.jp/1/philippine-00.html
 日本軍は、1941年12月、アメリカ領であったフィリピン・ルソン島へ上陸し、直ちにマニラを陥落させ、1942年1月3日から、軍政を実施しました。日本軍の軍政下で、フィリピン人は激しいゲリラ戦を展開し、抵抗運動を行いました。日本軍はゲリラ討伐を理由に、残酷な作戦を実行しました。フィリピンでのBC級戦犯裁判では、起訴381件の内、住民虐殺が138件、強姦が45件と多数を占めています。

 フィリピンでは、マニラをはじめ、占領地の各都市には軍慰安所がつくられ、日本人、朝鮮人、中国人の慰安婦が送り込まれましたが、現地のフィリピンの女性も慰安婦にされていました。

  フィリピン地図

 まずマニラ(地図中-2)には、連合軍資料にある警察報告によれば、慰安所12軒、兵下士官用5軒がありました。

捕虜の供述では、朝鮮人、フィリピン人、中国人の女性がいる慰安所が5ないし6軒あったとされています。

北部ルソン島では、バヨンボン(1)に慰安所がありました。

中部ビサヤ地方では、マスパテ島(3)に軍人倶楽部という慰安所がありました。

パナイ島のイロイロ市(4)には二つの慰安所があり、1942年には、第一には12人から16人、第二には10人から11人の慰安婦がいたことが確認されています。

セブ島のセブ(5)には、慰安所を経営する日本人業者が一名いました。

レイテ島のタクロバン(6)には、フィリピン人が経営する慰安所があり、9名のフィリピン人女性がいました。

同島のブラウエン(7)にも慰安所が1944年8月までには開設されました。

 南部ミンダナオ島のブツアン(8)には1942年にフィリピン女性3名の慰安所が開設されました。

また同島のカガヤン(9)には、1943年2月に第三慰安所ができたので、三つの慰安所があったことがわかります。

同島中央のダンサラン(10)にも慰安所がありました。

また同島のダヴァオ(11)にも、慰安所があり、朝鮮人、台湾人、それにフィリピン人の慰安婦がいました。

 
 また、フィリピンでは、軍の占領地域で現地部隊が一般女性を強姦した上に、暴力的に拉致・連行して、駐屯地の建物に監禁し、一定期間連続的に強姦をつづけたことも多かったことが証言されています。この被害者達も慰安婦被害者と考えることができます。そのような女性の中には父や夫を目の前で殺された人も少なくありません。
 


フィリピン政府による医療福祉支援事業の評価報告書より

(全文はこちら)
http://www.awf.or.jp/pdf/0197.pdf


多くのロラ(おばあさん)たちは、日本兵たちによって強制的に自宅から連行された。なかには仕事中や、両親に頼まれた用事で外出した際に連れ去られた者もあった。多くは当時、まだ独身であったが、既婚者も含まれていた。

ビコールに住むロラのひとりは、その頃住んでいた村に日本兵がやってきたとき、自宅で眠っていたという。

日本兵たちは村中の男たちと若い女たちを集めて村の小学校に連行し、翌朝までそこに留め置いた。彼女たちはその後、そこから市庁舎まで連れて行かれた。

また別のロラは、母親に食料の買い出しを頼まれ、近くの町へきていたところを連行された。

このほか、マラボンにある埠頭の近くで“シシッド”(ウェット)・ライス(船荷から漏れて海に沈んでいるコメ)を採っていたところを連行されたというロラもいる。


ロラたちは、もとは市庁舎や州政府の庁舎だったもの、個人の邸宅、小中学校や高校の校舎、病院や教会であったものを徴用した日本軍の兵営、あるいは駐屯地に連れて行かれた。

ロラのひとりによれば、マニラのある教会では毎夜、そのいたる所で日本兵によって女性がレイプされていたという。

ロラの自宅が駐屯地に徴用されたという例もあるほか、慰安婦たちを収容するのにトンネルが利用されていたという報告もある。

ロラたちが慰安婦として監禁されていた期間は、3日間から1年以上と、ロラによって様々であった。

4か月以上にわたって監禁されたロラたちが25%、3か月間が17%、1か月間が16%であった。

ロラたちはその全員が、監禁されていた期間にレイプされている。

ビサヤに住むあるロラは、家にやってきた日本兵たちに家族が尋問を受けている間に、7人の日本兵からレイプされた。

そして、その日から7日間、毎晩3人から5人の日本兵がやってきては彼女をレイプしたという。

マニラに住んでいるロラのひとりは、拘束されてから1か月にわたってレイプされ続けた。

6~7か月にわたって駐屯地に監禁されていたが、この間には週に3日ほど3人以上の兵士がやってきて、彼女を次々とレイプしたという。
 


マリア・ロサ・ヘンソンさんロサ・ヘンソンさんの場合

マリア・ロサ・ヘンソンさんは、1927年12月5日、フィリピンのマニラ近郊パサイで生まれました。大地主の父とその家事使用人であった母の間にできた婚外子でした。

1942年2月、彼女は日本兵にレイプされました。
そのとき、彼女は家で使う薪を採りに、叔父や近所の人々と出かけたのですが、みんなと離れたときに、日本兵三人につかまり、レイプされたのです。

彼女は二週間後にも同じ日本人将校に見つかり、ふたたびレイプされました。

彼女は日本軍に激しい怒りを感じ、抗日人民軍、フクバラハップに参加しました。一年間活動したのち、1943年4月、アンヘレス市の郊外の検問所で日本軍にとらえられ、司令部に連れて行かれ、そこで、「慰安婦」にされてしまったのです。

ロサ・ヘンソンさんは、兵舎として使われていた病院に連行されました(フィリピン人元慰安婦のための弁護士委員会)。

ヘンソンさんとほかの女性6人が、ここで日本兵たちに性行為を強要されたのです。

その後3か月してヘンソンさんは、もとは精米所であった別の慰安所に移されました。日本軍に協力していたフィリピン人から、日本兵のために洗濯をしてやれば金を稼げると言われ、ヘンソンさんとほかの何人かの若い女性たちは洗濯をするようになりました。あるときそのフィリピン人の協力者に連れられて、2階建ての家に連れていかれました。そこには3人の日本兵が待ち構えていたのです。そこには約1年間にわたって監禁されていました。昼の間は洗濯をし、夜になるとレイプされたのです。

(ロサ・ヘンソンさんの証言記録はこちら)
http://www.awf.or.jp/3/oralhistory-00.html#philippine


ロサ・ヘンソンさんは、1944年1月、ゲリラによって救出されました。連合国の上陸によってフィリピンは日本軍の占領状態から解放されたのです。
6:777 :

2023/10/02 (Mon) 21:57:21

岸田内閣改造でロシア顔負けの密室政治が復活! 「インテリジェンスがないと生き辛い世の中」ジェームズ斉藤
2023.10.02 14:00 文=中村カタブツ君
https://tocana.jp/2023/10/post_256757_entry.html

【連載:某国諜報機関関係者で一切の情報が国家機密扱いのジェームズ斉藤(@JamesSaito33)が斬る! 国際ニュース裏情報】


──前回は西側諸国だけでなく、中国も落ち目で、ロシアやインドに勢いがあるというお話でしたが、日本はどうなりそうですかね。親米や媚中の政治家ばかりなので。
ジェームズ:はっきり言って国家戦略としては評価以前に論外の人たちですけど、投資戦略からすると自分たちの小銭稼ぎにはなるんですよ。このあと、岸田さんの内閣改造のことを話しますけど、中国の観光客が解禁になっていまいっぱい来てますよね。彼らはこれがやりたいだけです。
──自分の利権さえ潤えばいいってことですか!

ジェームズ:その通りです。ただし、いまの中国人観光客は安倍さんの時代の爆買いの観光客と比べるとはるかにスケールが落ちてます。昔は超富裕層が来ていたんですが、いまは中間層の上ぐらいしか来ていません。習近平が超富裕層をかなり潰しまくったためで、中間層が来ているのは締め付けすぎて暴れないよう日本旅行でガス抜きしてもらう戦略です。ですので、中国観光客が来てるといっても前のように金を落としてはいきません。
──中国利権すら縮小しているんですね。
ジェームズ:金正恩がロシアに行ったのも中国経済を見限ったから、という理由ですからね。さらに言えば、いまの中国は共産主義の理想からも離れて、グローバリストの奴隷に成り下がっています。確かに習近平はゴリゴリの共産主義者なので、これまでの鄧小平や江沢民、胡錦濤の上海閥が敷いた改革開放路線を嫌っています。しかし、嫌ったところでこれまでの改革開放路線は簡単には修正できないので、北朝鮮はロシアに寄っているのです。
──北朝鮮ってそこまで共産思想に心酔していましたっけ?
ジェームズ:北朝鮮の共産主義は形だけで、根幹を成すのは主体思想です。端的に言えばこれはなににも頼らず、主権と独立を維持することを意味します。何にも頼らないということは、グローバル主義からの完全な決裂をも意味します。事実、北朝鮮にはアメリカのFRB(連邦準備制度理事会)のような民間資本が牛耳る中央銀行がありません。ですから、マネーをグローバリストに支配されていません。しかも、核を持っているのでグローバリストが戦争を仕掛けようと思っても簡単には入ってこれないのです。北朝鮮がグローバリストに依存していると言えるのは麻薬取引ぐらいです。北朝鮮は世界の麻薬ネットワークにおける重要な流通拠点です。あとは日本のパチンコ・マネーや朝鮮総連からの送金が流れ込んでいますが、それぐらいです。その一方で、中国はグローバリストの奴隷化が進んでいますから北朝鮮は離れていくのです。
 この奴隷化を改めるために必要なのが台湾侵攻です。これをやることが中国は改革開放路線からの完全な決別になります。ですので、今回、北朝鮮がロシア側にいったことでますます台湾有事の可能性が高まっています。
──パワーバランスは反西側に傾いていると。
ジェームズ:そういうトレンドですので中国はそこに乗りたいでしょう。実際、いまの東アジアはロシアと北朝鮮が反米勢力としてガッチリ手をつないでいる状態です。ここで習近平が台湾侵攻を実施すれば、ロシア、北朝鮮が中国を裏でサポートします。北朝鮮のしたたかな戦略としてはウクライナ戦争でロシアに、台湾有事では中国に物資を提供することです。そのしたたかさは侮れません。
──前から思ってましたけど、良くも悪くも金正恩はしっかりした指導者ですよね、日本の政治家と違って。
ジェームズ:それはそうでしょう。なぜなら、北朝鮮を作ったのは日本の中野学校ですから。
──えっ!?
ジェームズ:本当ですよ(苦笑)。戦後、中野学校関係者が朝鮮の北部に残留して北朝鮮建国に貢献していますから。
──えーっ、そうなんですか!? それじゃあ、なんでもっと日本寄りの国に作らなかったんだって話ですけど!
ジェームズ:いや、それは根本的な誤解があります。中野学校及び関東軍はもともと思想的には大アジア主義に属します。大アジア主義を要約すると、「アジア人のアジア」であり、ロシアが推進しているユーラシア主義と酷似しています。つまり、アジアから欧米を駆逐することが目的ですから、間違っているのは北朝鮮ではなく、いまの日本ですよ(苦笑)。
──あーっ! 言われてみれば確かに(苦笑)。いまの日本のほうが欧米べったりで欧米に毒された国になってますねぇ。
ジェームズ:大アジア主義の観点から見れば、いまの日本のほうが道理を外しているんです。残留日本兵の小野田寛郎さんっていたじゃないですか。彼は中野学校で訓練された、残置諜者で天皇のゴールドを第二次世界大戦後も護衛する任務を与えられていた「スーパー諜報員」でした。そんな彼がフィリピンから帰ってきてすぐにブラジルに渡ってしまったのは戦後の日本に幻滅したからです。いまの日本こそ、道理から外れているのです。

──確かに日本はアメリカに事実上占領されたままですもんね。戦前の日本人から見れば、「なんだ、このざまは」となりますね。
ジェームズ:ですから、北朝鮮こそ大日本帝国の正統な継承国なんです。「あの戦争」をいまだ戦っているのが北朝鮮なんですよ(苦笑)。
──ということは朝鮮戦争の時、日本は北に乗るべきだったんですね(苦笑)。
ジェームズ:それは何を優先するかによります。「経済か、国の誇りか」という究極の選択肢です。日本は結局経済を優先したのでアメリカ側につきましたが、もし北朝鮮側についたとしてもやはりバックはソ連だったので、日本は確実に共産化していたと思います。なので、朝鮮戦争における日本の戦略自体は間違っていないと言えます。あと、ここから先は問題がありすぎるので、TOCANAでは出せませんが、血筋的にも北朝鮮は正統な大日本帝国である可能性もあるんです。
──そうなんですか?
ジェームズ:そうですね。詳しくはメルマガで公開しますが、北朝鮮という国は日本の中野学校及び関東軍関係者が残留して国家の基盤を作ってそれで祭り上げられたのが金日成なのです。金日成はソ連とも通じていて、関東軍や中野学校の関係者の戦略によれば、ソ連をも利用して大東亜戦争を継続しようとしていたのです。北朝鮮はその拠点となる場所だったのです。
──そういうことだったんですね。なんかとても納得できます。だから、本当に日本にミサイルを打ち込まないんですね。
ジェームズ:日本に打ち込まないし、安倍さんが困った時には逆に打ってくれていました。それで世間の目がそれますからね。安倍さんが内閣改造を終わった瞬間とか、イージス・アショアを買わなければいけないといったタイミングで北朝鮮はミサイルを打っていましたからね。あれはある意味祝砲ですよ(笑)。
──確かにね(笑)
ジェームズ:小泉純一郎が初めて北朝鮮を日本の総理として訪問しましたけど、その時に金正日は「私とあなたの祖先は同胞である」と言ってます。つまり、朝鮮であると。その時の拉致問題トップで官房長官だったのが安倍さんです。

──考えてみれば安倍さんも同胞ですね。
ジェームズ:安倍さんは田布施の人ですからね。田布施の人は北の両班の出が多いですからね。朝鮮の歴史で北って両班の拠点で貴族なんですよ。
──確か、小泉さんも鹿児島の旧田布施出身ですよね?
ジェームズ:そうですね。鹿児島のヤクザでもあります(笑)。ですから、北朝鮮が中国を見限ってロシア側に戻っていくというのはおかしな話ではなくて原点回帰なんです。
──東アジアの情勢は理解しました。意外な話もあって面白かったのですが(苦笑)、日本にはいま媚中の政治家がウジャウジャいるじゃないですか? 土地を中国人に売っても平気、風力発電、ソーラー発電に加担しても平気な売国政治家たちが。ああいう輩はどうなるんですか? 力は削がれるんですか?
ジェームズ:力は削がれますが、今回の内閣改造で法務大臣に小泉龍司という二階派議員が就任していますから微妙ですね。ソーラー利権、観光利権のような中国利権は全体的に弱まるというよりも部分的に弱まるだけでしょうね。なぜかというとアメリカのバイデン政権が部分的な戦略しかしてないためです。部分的戦略というのは先端技術、たとえば半導体やAI技術では中国を出し抜こうとしています。経済制裁や貿易戦争をやって中国の産業を一つひとつ潰していくことをしています。しかし、米中関係の全体を見るとアメリカは中国にズブズブで、中国で儲けようという思惑がまだまだあります。これに関してはアメリカでも批判が起こっていて、部分的な戦略では中国経済に対抗しうることはできないんじゃないかと。主に共和党関係者から包括的に中国からデカップリングをしないとダメだという意見が出ていますが、全く進んでいません。結局バイデン政権は媚中売国政権です。

 日本はそういうアメリカの態度を見て動きますから、部分的な対応しかしません。そうなると観光業で儲けようとかそういう発想になるんですよ。あとは移民関連ビジネスですね。ソーラー系、風力発電系は経済安全保障の範囲に入るので規制がかかるでしょう。三浦瑠麗の事件や秋山議員の事件で東京地検が動いているのは明らかにアメリカからのオーダーですから。
──風力発電やソーラーは切り捨てられていくと。
ジェームズ:中国の技術関係は切り捨てられていくでしょう。これが最近永田町界隈でバズっている「経済安全保障」という用語のカラクリです。そもそもアメリカでは経済安全保障(economic security)なんという用語を普段使用しません。アメリカで経済安全保障というと「中国製や日本製の物を排除してMade in USAをいかに守るか」という意味になり、選挙の時に労働者から票を大量に集めるための国内雇用対策の話になります。アメリカで日本で言う「経済安全保障」に当たるものは技術競争(technology competition)になります。しかし、日本ではアメリカに騙されてこれを経済安全保障と呼ぶことになり、あたかも「これは日の丸経済復興のチャンスだ!」と思い込んでいますが、実はアメリカが望む技術規制に付き合わされているだけなのです。しかも、「これからは経済安保だ!」と主張する御用学者が毎日のようにテレビ等で発信しているので、経済安全保障というマジックワードは完全に「形骸化」しています。
 経済安全保障の危険性は「アメリカが規制したい技術以外完全野放し」ということです。実際、観光は技術とはほぼ無関係です。スパイを大量に入国させてしまうという部分で経済安全保障と関連しますが、いまの動きを見ているとセキュリティクリアランス、スパイ対策は全然進んでいません。また、バイデン政権は日本に対し「移民をどんどん歓迎せよ」と非常に鬱陶しい外圧をかけてきます。となると、スパイ対策はやりたくてもできないのです。以前お話しした埼玉のクルド人問題を見ても、やはり麻薬が絡んでいるのでスパイ対策をした瞬間に、クルド人の不法移民だけでなく、日本の国会議員、そして日米安保体制そのものが揺らぐことになります。これが日本の状況です。結局アメリカのオーダーさえ聞いていれば何をやってもいいということなんですよ。ですから、いま媚中派はどういうシフトにして儲けようかしか考えてなくて中国の団体観光客解禁となったのもその動きと連動しています。
──そんなせこいことしか考えてないんですか。
ジェームズ:GOTOキャンペーンとかはあれは二階さんの利権ですからね。結局、彼らは中国に憧れてるわけではなく、金なので。金の儲けどころが観光客にあるならそこにシフトするだけなんです。
──一言で言ってクズですね。二階さんと並んで媚中の売国政治家、河野太郎さんはどうなりそうなんですか?
ジェームズ:デジタル庁のトップとして残留してます。これはどういうことかというと「マイナンバー問題と一緒に しね」ということです。残留ということはマイナンバー問題も継承しますから(笑)。
──おぉ、そう聞くと溜飲が下がりますね(笑)。
ジェームズ:ですから、今回の内閣改造を一言でいうと疑似麻生内閣の誕生です。
──疑似麻生内閣?
ジェームズ:はい。麻生さんの権力がますます上がったということです。いま麻生派からの閣僚が4人もいますよ。岸田さんの宏池会は3人ほどで麻生派よりも少ないです。これはおかしいです。総理の出身派閥よりも麻生派のほうが多いんですから。安倍派の4人というのは最大派閥なんでわかるんですが、麻生派の4人は多すぎです。また、麻生さんは継続して自民党副総裁でもあります。これは形式的な地位ですが、麻生さんがやるとなると違う意味合いが出てきます。岸田さん、大臣、幹事長に命令できる立場と言っていいもので、麻生さんの了解なしに政権は動きません。それほど麻生さんの権力が固まったということです。
──今回の岸田内閣って何を改造したのかなって思うくらいパッとしなかったし、メディアもがっかりみたいな書き方でしたが。
ジェームズ:いえ、「静かなる粛清」です。誰に対して粛清をしたのかというと安倍派と茂木派と二階派です。安倍派の萩生田、西村、高市、松野とすべて留任させて立ち位置変えていないんです。どういうことかというと安倍派のトップ4人を政権に張り付けて安倍派をまとめる時間を与えないようにしたんです。
──そういうことか。
ジェームズ:二階派は観光業利権及び移民利権を渡す意味で法務大臣をデビューさせましたが、アメを与えたのはそれだけで、それ以外は二階派の権力そのものを削いでいます。法務大臣を与えたのは入国の手続きを迅速にするためです。観光業で儲けてください、しかし政権の運営には口を挟ませませんと。菅さんの存在もかなり薄くなって完全に外野になっています。
──完全に麻生さんの天下だと。ところで麻生さんは何をしたいんですか?
ジェームズ:大宏池会です。自民党で保守本流を復活させたいと。あとは自分の後継者、暫定的ですがこれは息子なんですけど、麻生将豊という長男がいまして、彼を後継者にして大久保利通、吉田茂、麻生太郎と流れるファミリーの血を後世に継承させることを狙っています。
──でも、長男はまだ政治家でもないですよ。
ジェームズ:ですから、麻生さんが退いた時に選挙に出る可能性が高いです。1979年、麻生さんが38歳の時に政治家になってその時のインタビューで言っていたのは「マスコミに批判されてもいいから日本の将来を間違いのない方向に持っていきたい」というものです。それがファミリーの血を継承することなんでしょう。あとは、フランス系ロスチャイルド家と結婚した娘を継がせるという案も浮上しています。麻生さんは現在、長男と娘を天秤にかけている状況です。
──ロスチャイルド家で思い出しましたけど、フランスの水企業ヴェオリアに水道の権利を売ってますよ、麻生さんは。売国やってますけど。
ジェームズ:それは部分的売国行為(苦笑)であって、日本の国家戦略を正しい方向に持っていくのは自分たちの役目だと思っているんでしょう。ほかの政治家は利権と票集めしか考えないんですけど、麻生さんはそんなことを考えなくても政治家をやれる人なんで日本の国家戦略を考える時間はある人なんですよ。ですから、自分しかできないという自負はあると思いますよ。ここで肝心なのは、麻生さんの国家戦略は本人から見て正しいと思っていることであり、客観的には結果がすべて物を言います。
──まあ、大久保利通も台湾出兵をやりましたしね。
ジェームズ:なので台湾有事は日本有事と言うんでしょうね。麻生事務所には大久保利通の巨大な肖像画が飾られており、いかに麻生さんが先祖を意識しているかわかります。
──ともかく麻生さんだと。で、次の総理は茂木さんと言われてましたけど、引き続きそういう状況ですか?
ジェームズ:いえ、次は茂木さんと言われてましたけど、今回の人事でわからなくなりました。なぜかというと小渕優子、ドリル優子という訳ありの世襲議員を党四役のひとつ選対委員長にもってきたためです。ドリル優子は茂木派なのですが、彼女のバックはこの間亡くなった参議院のドンと言われた青木幹雄氏です。青木氏は茂木派なのに茂木さんが大嫌いで「茂木だけは絶対に総理にするな」と言って死んでいった人ですので、彼女を選対に据えたのは茂木潰しです。
──ほぉ。
ジェームズ:さらにドリル優子はなぜか清和会の森喜朗に凄い気に入られています。ですから、岸田さんは今回絶妙な人事をやっていまして、茂木さんに総裁選の立候補をさせないようにもっていくためにドリル優子を持ってきたんです。さらに彼女を据えることによって安倍派の事実上のドンである森さんにも恩義を売ってるわけです。
──二枚腰みたいなものは上手なんですね。
ジェームズ:岸田さんは権力のバランスを取るというか、仕組みを作るのはうまいです。それを維持できるかは知りませんが、確かに仕組みを作るのはうまいです。ですから、今回の内閣改造で思ったのが長年私が諜報任務で実際に関わってきたクレムリンの権力闘争みたいだということです。たとえば、プーチンは「クレムリンのCEO」とよく言われますが、クレムリン内で何をやっているかというと絶妙な人事の配置をし、分断統治でもって閣僚同士を競わせて、大統領の権力を敵無し状態にしています。最近まであった「ショイグvsプリゴジン」のイザコザはまさにこのやり方の産物でした。これはビジネスで言うとマネージメントであり、リーダーシップではありません。ビジョンのかけらもなく、ただ自分の権力維持を最優先するに徹する「自分ファースト」の典型です。岸田さんも全く同じで過去20年くらい封印されていた自民党の派閥抗争をわざと復活させ、自分に都合がいいように派閥間バランスを操作しているだけです。タチが悪いのは岸田さんはただの「官邸の雇われCEO」であり、プーチンのように自分の決断で動いていません。岸田さんの背後ですべてを取り仕切っているのは麻生さんです。これはもう平安時代末期の後白河法皇の院政の強権力を彷彿とさせます。いずれにせよ、「官邸のクレムリン化」が起こっているということは明らかに民主主義の形をした独裁であって全体主義になっていると言えます。
──国民無視も甚だしいですね。
ジェームズ:そこへ来て文春で叩かれまくった木原誠二を自民党幹事長代理として残留させています。
──奥さんが人殺しかもという人を(苦笑)。
ジェームズ:ですから、史上最低最悪の副官房長官が残留してしまったんですが、彼の肩書は幹事長代理兼政調会長代理なんですよ。この代理っていうのがおかしくて、政調会長と幹事長はいるわけです。そこに代理を据えるというのは意味がわからないですよね? 歴史的には代理ポストは派閥の実力者が送り込まれ、党の運営に影響力を持っていました。今の幹事長及び政調会長はそれぞれ茂木さん(茂木派)と萩生田(安倍派)になり、そこに宏池会の木原誠二を送り込んでいるということになります。これはどういうことかというと江戸時代で言えば目付け役です。

──幕府のスパイ的な。
ジェームズ:そうです。木原誠二が表の舞台で使えなくなったのでスパイにしたんです。

──読売新聞は木原誠二のことを「岸田首相の懐刀」って書いてますが、そういう意味なんだ(笑)。
ジェームズ:そうです。スパイということです(笑)。これは昔、ソ連にあったコミッサーという政治将校制度と似ています。コミッサーは赤軍の参謀本部とかに置いて、参謀が暴走しないように監視する役目です。しかもコミッサーは常にピストルを携帯しており、独断で反抗する軍人の頭を撃ち抜く権限を有していました。ですから、木原誠二はコミッサーになってしまったんです(苦笑)。これを見ても国民の許可なしに「官邸のクレムリン化」は猛スピードで進んでいます。

──木原さんはじゃあ完全な裏方になったんですね?
ジェームズ:はい。表に出ることはたぶんありません。日本はスパイとか諜報員を見下す文化なのでスパイになったということは今後のキャリアは断たれたということです。彼はもともと総理候補といわれて宏池会の王道をいくような人でしたが、文春砲でボコボコになったので「犬になってもらう」と(苦笑)。ですから、茂木さんが自民党機密費を自分の懐を肥やすために使おうとしたら待ったをかける。萩生田さんが政調会長として岸田政権に逆らうような政策を実行しようとしたら待ったをかける。そういう役目になったということです。政調会長というのは政策を立案するところなので、たとえば安倍派は積極財政で増税に反対です。そこを安倍派を代表して増税に反対するようなことをしたら待ったをかけて「増税でしょ」と。木原誠二は財務官僚だったので財務省の傀儡でもあります。つまり、今回の内閣改造は、麻生さんが天下を取って、岸田さんというロボットの総理を据えて、岸田さんの右腕にスパイとなった木原誠二を自民党トップに張り付けることによって増税路線を固めるということです。

──最悪じゃないですか!? いま増税してどうするんですか!
ジェームズ:日本は沈没ですよ。ですが、財務大臣も鈴木さんという、麻生さんの義理の弟の残留ですから(苦笑)。自民党の税制会長は甘利さんで彼も麻生派です。つまり、これは麻生さんによる増税を目的とした全体主義が始まるということです。増税は「大きな政府」への第一歩です。「大きな政府」は必ず全体主義になります。
──最悪ですね、麻生さんは。水は売るし、増税だし。
ジェームズ:そうです(苦笑)。前述の後白河法皇の院政が源平合戦を引き起こし日本を内戦に突き落としましたが、今回の「麻生院政」は大増税の阿鼻叫喚が待ち受けています。こんな平安時代の政治手法を現在にやっていることが既にあり得ない話です(苦笑) 。なので、今回の内閣改造は絶望的な話ばかりなんですけれど、外務大臣と防衛大臣は真剣な人事をやったと思います。外務大臣はほぼ無名の上川陽子氏で、防衛大臣が木原稔氏です。木原といっても木原誠二とは血縁関係はありません。

 まず、上川氏から説明しますと、彼女は安倍政権の時に法務大臣を経験していてオウム事件の関係者13人を一気に死刑にしました。

──おぉ、それは英断ですね(笑)。
ジェームズ:英断です。何しろ、男の歴代法務大臣が全てスルーしていた問題を一気に解決したのですから(笑)。この人は東大を出て三菱総合研究所に入ってから政治家ですから官僚出身ではありません。ですから、死刑という一番ブラックな政策でも臆せずに実行できる冷徹さと誠実さを持っている人です。

──テロリストは死刑ですよ。
ジェームズ:それが世界の常識です。ですから。この人はやることはやる。しかも一番嫌われるようなことでもやれる人なのでおそらく対中国の外交政策でもこれから変化が出てくるのではないかと思います。アメリカが推し進める技術問題、技術競争に関して、日本も中国から本格的にデカップリングするということです。あと、外務省は事務次官、駐米大使、審議官といった外務省のトップクラスの人たちが一気に麻生さんが入れ替えたんです。
──アメリカ寄りに入れ替えた?
ジェームズ:というよりもアメリカの言いなりにならない人に入れ替えました。麻生さんいわく「いまの駐米大使は間抜けだからクビにした」と聞いています(笑)。富田という駐米大使がクビになり、山田重夫という審議官が事務次官にならずに駐米大使になりました。あと市川恵一という人が将来事務次官になるといわれています。彼も有望で、外務省の中で安全保障の派閥があって超重要人物です。なので、いまの外務省はトップがしっかりした人に変わっています。“リン・ホウセイ”と呼ばれている林芳正さんをクビにして、しっかりした人にすげ換えました。ちなみに、“リン・ホウセイ”がクビになったタイミングはこの間のウクライナ訪問中で、キエフから日本に帰る飛行機の中でクビになっています(苦笑)。これも麻生さんが岸田さんに「林はダメな男だから奴が外遊中にクビにしろ」と命令したと関係者が言っていました。(笑)
──林さんは「やられた」と思ったでしょうね(笑)。
ジェームズ:麻生さんはずっと林は使えないと言ってましたし、外務省がまったくだらしなくて当てにできないということで、林さんから駐米大使まで全部総取っ替えです(笑)。
 また、今回の人事で宏池会のナンバー2だった林さんの序列は下がりました。代わってナンバー2になったのは上川さんです。林さんは将来の総理候補とまで言われていましたが、そうはさせないという思惑が今回の人事にはありました。
──それはいいですね。林さんがなったら最悪ですからね。
ジェームズ:今回でその野望は断たれました(笑)。次に防衛は木原稔さんですけど、彼は茂木派です。かなり勉強する人で自衛隊のOBが主催する勉強会にいつも出席しています。台湾有事のウォーゲームでは防衛大臣としてずっと参加していた人でもあります。
──すでにシミュレーションができてる人なんですね。
ジェームズ:そうです。有事が起こった時にどうするかを何十回もやっている人で、自衛隊の統合幕僚長たちに囲まれてサポートしてもらってもいますから有事には強い人だと思います。傷があるとすれば、統一教会絡みですが、自民党であれば何らかの関係をもってしまうのは仕方ないと思いますね。私も何回も会っているので、人柄としては誠実で、まともな人だという印象を受けました。ですから、外務大臣と防衛大臣の人事はかなり真剣な人事です。これは何を意味するのかというと、ついに岸田政権が戦時内閣に舵取りをしたということです。
──やっと! ホント、しないとマズいですもんね。
ジェームズ:マズいです。安倍派と二階派を徹底的に弱体させることで政権を安定さて、菅さんを完全に外野にしました。そして有事になってもちゃんと仕事ができそうな人が出てきたので悪くなかったと思います。難点を言えば、増税政権で日本の経済にとっては何ひとつ良い事はありません(苦笑)。
──痛し痒しですね(苦笑)。
ジェームズ:とりあえず、有事に対応できるようになっただけでも良しとするべきでしょうか。いずれにせよ、今回の内閣改造は私のような諜報関係者や毎日永田町に出入りしている政治記者くらいしか理解できないような「玄人向けの内閣改造」であり、一般国民に対する考慮はゼロです。過去20年くらい小泉さんや安倍さんがやった「国民人気最優先のパフォーマンス政治」の時代がついに終わり、官邸の閉ざされたドアの向こうですべてが決まる「密室政治」の時代が復活しました。岸田政権下における政治と国民の乖離度はクレムリンも顔負けです。冷戦中に確立した「クレムリン学」ならぬ「官邸学」が日本でも必要な時代が来たということです。ますますインテリジェンス・リテラシーがないと生きづらい日本になって来ました。
https://tocana.jp/2023/10/post_256757_entry.html

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