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ネトウヨ一般に共通する特性

1:777 :

2023/09/16 (Sat) 04:01:27

悪口とヘイト・スピーチの区別がつかない人たち
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/09/19/234305


ネトウヨ一般に共通する特性として、

•勉強しない
•何度誤りを指摘されても頑として認めない
•とっくに否定された妄説を何度でも持ち出してくる
•議論の前提となる概念に「オレ様定義」を振り回すため会話が成り立たない
•無知なのにいつも上から目線
•中身が何であれ最後に言い返した方が勝ちだと思っている(いわゆる「論破」w)
•やっぱり勉強しない

といったものがあるわけだが、こちらの記事に、その典型とも言うべきコメントがついた。


朝鮮人へのヘイトが規制の対象で日本人や日本国の象徴に対するヘイトが「表現の自由」という論拠を教えてください。
常識的に考えれば両方規制の対象のはずですが?
あなたが別のところで宣ってる「日の丸も旭日旗も糞」なんて言葉はヘイトそのものですよね。
あなたが大好きな中国で国旗は糞なんて言ったら刑法犯になりますが?
あなたの所属するセクトの常識を世間のまともな人に押し付けないでください。はっきり言ってこのブログこそ一番の糞です。

日本国内において「日本人や日本国の象徴に対するヘイト」などというものが成立するわけがない。そんなものは「表現の自由」ではなく「形容矛盾」というのだ。

どうせこのコメ主は理解しようとしないだろうが、一応その根拠を説明しておこう。

ヘイト・スピーチ及びヘイト・クライムに関する研究は、アメリカでの公民権運動(アフリカ系の人々に対する差別の撤廃を求める運動)の流れを継承する形で進められ、1980年代頃からその定義が明確化されてきた。[1]


 代表的論者のチャールズ・ローレンスは、ヘイト・スピーチを「人種的烙印の一形態としての攻撃」であり、標的とされた集団が「取るに足りない価値しか持たない」というメッセージ、「言葉による平手打ち」だと表現している。またブライアン・レヴィンは、ヘイト・スピーチは、それ自体が「言葉の暴力であると同時に、物理的暴力を誘引する点で、単なる「表現」を超える危険性を有すると指摘、ヘイト・スピーチと暴力の関係を、「人種的偏見、偏見による行為、差別、暴力行為、ジェノサイド」の五段階の「憎悪のピラミッド」で説明している。

 このように、ヘイト・クライムもヘイト・スピーチもこの憎悪ピラミッドの中に位置づけられ、人種、民族、性などのマイノリティに対する差別に基づく攻撃を指している。このような経緯から、マイノリティに対する差別であり攻撃であるという両者の本質は共通するが、「ヘイト・クライム」は主要に有形力を伴う犯罪、「ヘイト・スピーチ」は有形力を伴わない言動による暴力を指す。(略)

差別に基づく言葉の暴力であるヘイト・スピーチが攻撃対象とする「マイノリティ」は、一般的に、

1.一国においてその他の住民より数的に劣勢な集団で、
2.非支配的な立場にあり、
3.他の住民と異なった民族的、宗教的または言語的特徴を有し、
4.自己の文化、伝統、宗教または言語を保持することに対して、連帯意識を黙示的であるにせよ示しているもの

とされている。また、この中でも特に重要な要素とされるのが2の「非支配的な立場」だ。[2]

この定義に照らしてみれば、同じ日本国内での少数者であっても、例えば在日コリアンが典型的なマイノリティであるのに対して、要件2が当てはまらない(むしろ特権的存在である)駐留米兵がマイノリティでないのは明らかだろう。

なお、ヘイト・スピーチがマジョリティ間での単なる悪口や罵詈雑言とは決定的に異なる悪質なものであるのは、それが社会における重層的な差別構造の一環としてなされるがゆえに、攻撃対象とされたマイノリティに重大な精神的ダメージを与えるものだからだ。そのダメージがどのようなものであるかは、差別者集団「在特会」が京都朝鮮第一初級学校に押しかけて拡声器でヘイトを浴びせかけた襲撃事件の例などから知ることができる。[3]


 ヘイト・スピーチは、このような差別構造の一部としてなされるからこそ、その一瞬の言葉による攻撃のみならず、幾世代にもわたる社会全体からの差別と暴力の恐怖、苦痛をよみがえらせるが故に、また、今後も自分にそして次世代の子どもたちに対しても一生繰り返されるかもしれない絶望を伴うが故に、マイノリティの心身に極めて深刻な害悪をもたらす。

(略)

社会心理学者クレイグ・ヘンダーソンは、被害者に共通する心理的影響を、

①継続する感情的苦悩、
②自信喪失、
③逸脱感情(自分は「普通」とは違っておりマイノリティであるから狙われたという自己認識)、
④自分を責める、

などを具体的に挙げている。

 京都朝鮮第一初級学校の事件における被害は、中村一成のルポで明らかにされた(略)夜尿や夜泣きがはじまった子や、廃品回収の拡声器の音に「ザイトク来た!怖い!」と泣きじゃくる子、現在も一人では外出できない子がいる。また、校門前にかけつけた保護者の一人である金尚均氏(龍谷大学法科大学院教授)は、「人間じゃない」と面罵され、言葉を失った。本名ではなく日本名(通名)で通った日本の小学校で「チョンコ」と差別された過去に引き戻され、努力して積み上げてきた自己肯定感が一挙に奪われたという。

 金尚均氏の苦悩は、現在朝鮮学校に通う子どもたちも負わされている。(略)大阪、京都など各種の自治体による調査結果によれば日本の小学校に通う在日朝鮮人の子どものうち八割から九割は、日本名を名乗っている。自らの国籍、民族そして名前をどう名乗るかという葛藤を日常的に子どもの頃から背負わされているのである。このような構造的な差別の中で、その属性を無価値と罵倒するヘイト・スピーチは、どれだけ子どもたちの心をえぐるだろう。

例のコメ主はこんなこと↓も書いているが、日本社会の問題を論じているのに中国在住日本人など持ち出してどうするのか。また、「グローバルなインターネット」などと言っても、日本語でやりとりされるネット空間では日本人が圧倒的なマジョリティであり、それは現実の日本社会と変わらない。(むしろ、自称「普通の日本人」がはびこっているだけ更に悪い。)現実を一切踏まえずに書き散らされる屁理屈など無意味だ。


人の言葉を借りなきゃヘイトが何かもまともに説明できないんですか?ww
要するに威気高にネトウヨを叩くvergilさんは実は何も分かってないってことですね。
って言うか、自分に都合の悪い意見をヘイト呼ばわりして言論弾圧を図っているだけですね。まさしく左翼の本性です。
念のため日本では日本人が多数派だからヘイトにならないってんなら明らかに間違いです。そんなもん相対的だからです。
例えば中国に居住している日本人は中国ではマイノリティだしヘイト被害の対象です。日本国内でも局所的には在日のほうが日本人より多い場所もあります。グローバルなインターネットで他者に明らかな憎悪表現するならそれは間違いなくヘイトスピーチです。なのでここはヘイトブログ、それもかなり悪質なヘイトブログです。

ところで、細々と個人ブログを書いているだけの私に、どうやったら「言論弾圧」などできるのか。そんな方法があるなら教えて欲しいくらいだww

[1] 師岡康子 『ヘイト・スピーチとは何か』 岩波新書 2013年 P.39-40
[2] 同 P.40-41
[3] 同 P.53-54
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/09/19/234305
2:777 :

2023/09/16 (Sat) 04:06:23

西洋の保守主義の起源
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14132986

世界に比類なき日本文化 _ 名誉白人認定されたいアホ右翼は欧米人に金渡して「日本スゴイ!」と言わせている
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/235.html

ダメダメ家庭の目次録
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/index_original.html

『映画とクラシック音楽の周囲集』
https://web.archive.org/web/20181116232531/http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/index.html

07年7月から07年12月まで配信していたメールマガジン「映画とクラシック音楽の周囲集」のバックナンバー
https://web.archive.org/web/20181116232559/http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/schejule.htm

03年9月から04年8月まで配信していたメールマガジン「映画の中のクラシック音楽」のバックナンバー
https://web.archive.org/web/20181116232600/http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/top-page.html
3:777 :

2023/09/16 (Sat) 04:14:59

映像作品に描かれたダメダメ家庭
04年11月12日
旅芸人の記録(75年カンヌ映画祭国際批評家賞)
監督 テオ・アンゲロプロス
https://kinoufuzenkazoku.hariko.com/04-11/04-11-12.htm

ギリシャの芸術家の名前って、皆様は、どれくらいご存知ですか?
「エッヘン!ワタシはこれでも世界史は得意だったのよ!」
と、おっしゃりたい方も多いでしょ?
「まあ、彫刻家や音楽家は名前が伝わっていないけど、文学関係なら、有名なホメロス、それに3大悲劇詩人のエウリピデス,ソフォクレス,アイスキュロス、喜劇のアリストファネス。別の方面?でも有名なレスボス島の女流詩人のサッフォーとか・・・」

まあ、出て来る名前って、こんなところでしょ?
逆にこれくらいは出てこないと、世界史を改めて勉強しないとね。

これらの名前は全員古代の人ですよね?それ以降のギリシャの芸術家の名前は?

こうなると途端に出てきませんよね?アレキサンダー大王以降のギリシャの芸術界は一体何やっていたの?2千年以上もサボっていたの?
ギリシャ人も、かつては、すばらしい芸術家を輩出したのに・・・遺伝子的にレヴェルが低いわけではないでしょう?だって、かつては立派だったんだし・・・
それに、16世紀のスペインの画家に、その名も「ギリシャ人」という名前のエル・グレコというギリシャ系の人もいます。ギリシャ人もギリシャ以外の国では活躍しているわけ。

どうして、ギリシャ国内では芸術家を生み出さなくなってしまったのでしょうか?

このように芸術家を産まない国や地域ってありますよね?
日本のお隣の朝鮮半島の芸術家の名前って、ご存知ですか?
中国の芸術家の名前なら、世界史でいやというほど覚えさせられましたよね?詩人だけでも李白、杜甫、白楽天、孟浩然・・・ああ!!思い出したくも無い、勉強ばかりのあの日々!?
しかし、朝鮮半島の芸術家の名前って、出てきませんでしたよね?

あるいは、イスラム圏の芸術家の名前って、出てきますか?
イスラムでは歌舞音曲を禁じているはず。絵画もダメなの?文学だって禁じているのかな?「テメエらは、コーラン読んでりゃ、ええんや!」なの?しかし、ペルシャにはイスラムとは異質なキャラクターの詩人のオマル・ハイヤームという人もいました。別に遺伝子的に芸術とは無縁の人というわけではないんですね。
どうしてイスラムの下では、芸術家が出なくなってしまったのでしょうか?

これらの国や地域の経済的な問題なの?しかし、どのみち、創造的な芸術家がその作品でお金儲けをできるわけもないことは歴史的な現実。芸術家というものは死んでから認められるものでしょ?芸術作品を制作すると言っても、文章を書くのは費用がかかるわけでもないので、「その気」になりさえすれば、できることでしょ?

芸術家の絶対数が少なく、多くの人が芸術家との接触することが少なかったから、芸術作品を作る意欲や発想が起こらなかったの?しかし、例えばギリシャなどは様々な芸術家が訪れていますよね?それにギリシャ人も外国に出てみればいいじゃないの?韓国人だってそう。中国に行けばいいだけ。その気になれば、様々な芸術家との接触は可能なんですね。
では、これらの国や地域が何故に、芸術家を生み出さなかったのでしょうか?

それはそれらの人々がダメダメだからですね。
「悪いのは全部アイツのせいだ!」そのような発想なので、自分自身を厳しく見つめることをしないわけ。自分自身から目をそらしているような人間が、芸術家になれるわけがありませんよ。

職業としての音楽家や物書きや絵描きにはなれるかもしれません。しかし、そんな自分自身から目をそらすような人間は、永遠に届くような作品を生みだす「芸術家」になれないわけです。別の言い方をすると、自分から逃避してしまっているので、仕事にはなっても、使命にはなっていないわけ。

今回の文章で取り上げる映画はギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロス監督の75年の作品である「旅芸人の記録」という映画です。
テオ・アンゲロプロス監督は現在における最も厳しい精神の「芸術作品」を作る監督です。まあ、映画の分野において、芸術性では3本指には確実に入るような大芸術家。

しかし、ギリシャという芸術不毛の地で、どうしてアンゲロプロスのような芸術的な映画監督が出現したの?また、彼は、どのようにして、芸術家不毛の地から芸術作品を生み出すような芸術家になったの?

アンゲロプロスは自分自身の「内なるギリシャ」、つまり自分の中の「内なるダメダメ」を厳しく見つめ、それを克服していったわけです。
今回取り上げる「旅芸人の記録」という作品は、ダメダメなギリシャ人の一員であるアンゲロプロスの心の中に巣食う「ダメダメな部分」を白日なところにさらしているわけ。
その過程があったがゆえに、近年のアンゲロプロス監督作品の「人間と人間のコミュニケーション」「人間の再生への希望」を語る豊穣な作品群が生み出されることになったわけです。

では、彼の作品「旅芸人の記録」の導きに従って、ギリシャ人のダメダメな面・・・これは呆れるほど韓国やイスラムにおけるダメダメな面と共通しています・・・を見てみることにいたしましょう。

ちなみに、この「旅芸人の記録」という作品は1939年から1952年のギリシャを舞台に、「羊飼いの少女ゴルフォ」というお芝居を上演している旅芸人の一座を描いた映画です。事件を時系列的に追った映画ではありません。一座がそのお芝居を上演しようとすると、当時のギリシャの様々な情勢によって、途中で上演がストップしてしまう・・・そんな映画です。

つまり「羊飼いの少女ゴルフォ」の上演という「まがりなりにも」芸術活動と言える活動がジャマされていくことについての映画といえるわけです。
「ギリシャにおいて何故に芸術が育たないのか?」そのような問題意識が反映しているわけですね。

この映画について、日本の3文映画ライターが「激動のギリシャ現代史を語る映画」などと解説したりしていますが、現代史ではないんですね。もし、現代史を語るつもりなら、登場人物の名前をもっと現代的にするでしょう。この「旅芸人の記録」という作品での登場人物の名前はエレクトラとかアガメムノンなど、昔のギリシャ人の名前です。そして起こっている事件も、昔から何回も繰り返されているような事件。
つまりそれだけアンゲロプロス監督は「いつまで経っても変わらない」ギリシャを描きたいわけです。それに現代史を描くつもりなら、事件の配置を時系列的にしますよ。歴史を描くつもりが無いから、事件の時系列を無視しているわけです。
まあ、それがわからないからこそ、「映画ライター」なんでしょうが・・・

さて、この映画に従って、ギリシャのダメダメやダメダメ家庭の問題というより、もっと一般的な意味でのダメダメ精神の事例を以下に列挙いたします。

1. 働かない・・・ギリシャ人は働かない。この4時間の映画で、働いている人はレストランのウェイターくらい。労働者が「資本家打倒!」と言うのはいいとして工場で働いているシーンはない。「労動者ならまずは労働しろよ!」と言いたいところ。

また、資本家も工場を経営したり、外国と貿易を行うというそぶりもない。とにかく働かない連中なんですね。さすがに韓国では働いているシーンは出てきますが、イスラム圏でも働いているシーンって出てこないでしょ?商店で働いている人は多少出てきますが・・・イスラム圏の工場って見たことありませんよね?やっぱり働かない連中なんですね。

2. 政治好き・・・経済的な面では意欲がない連中ですが、政治には熱心です。「悪いのは全部政治が悪いせいだ!」などと思っていたりするので、やたら政治には熱心なんですね。この映画でもデモ行進のシーンが多い。あるいは政治議論も活発です。

個々の人間が政治について確かな見解を持つことは必要でしょう。しかし、問題の全部を政治のせいにしてもねぇ・・・しかし、デモのシーンはイスラムでも韓国でもおなじみですよね?そして、この手の人は、政治論議が好きでも、実際に政治に携わって、現状を改善しようとはしないもの。ただ、「ダメな政治のせいで、うまく行かない。」という理屈がほしいだけ。

3. 会話がない・・・登場人物の皆さんは、とにかく人の話を聞かない。4時間にもわたる映画なのに、会話のシーンがない。どちらかが一方的に言っているだけ。人の話を聞くという習慣がなさそう。

4. 被害者意識・・・何かと被害者意識が出て来る。『イギリスには裏切られた!』『国王には裏切られた!』とか・・・「ああ、オレ達って、何てかわいそうなんだ?!」そして相手を恨むわけ。

5. 当事者意識がない・・・被害者意識があるのに、当事者意識がない。「じゃあ、アンタはギリシャという国をどうしたいの?」と言われても答えられない状態。ただ、相手を恨んでいるだけなんですね。イスラムや韓国でもこんな感じですよね?

6. 内部分裂・・・ギリシャ人の内輪もめは、それこそ紀元前のアテネとスパルタの戦争など、いつもやっているようです。「イギリス人はギリシャから出て行け!」と本気で思っているのなら、ギリシャ人が結集して、イギリス人を追い出せばいいじゃないの?ところがこの映画では内輪もめのシーンばかり。ギリシャ正規軍とイギリス軍が戦うシーンなどは全然なくて、いつもギリシャ人同士で戦っているんですね。同じようにイスラムだと宗派対立などが出てきますよね?韓国だと地域対立とか・・・彼らがまとまるのは「○○大嫌い!」それだけなんですね。

7. こびへつらい・・・この映画で出て来るギリシャ人は、強きにこびへつらい、弱い人には威張っている。そのような権威主義なのもダメダメの特色の一つですね。落ちたイヌだけを叩こうとするのがギリシャ人の特色のようです。まあ、これはイスラムや韓国も同じですが・・・

8. ユーモアがない・・・4時間にわたる映画なのに、笑えるシーンがない。まあ、それは監督のアンゲロプロスの個人的キャラクターの面も大きいでしょう。しかし、ダメダメな人間は「自分自身を笑う」心のゆとりって無いものなんですね。「オレってバカだなぁ・・・」なんて自分を笑わないのに、自分以外の人のことは高笑いするわけ。

ユーモアって、いつもとは別の見方で物事を見たりすると、出てきたりするものでしょ?ユーモアがないってことは、それだけ、ものの見方が画一的ということなんですね。

9. ホスピタリティーがない・・・この面は、むしろアンゲロプロス監督の別の作品で強調されています。どうもギリシャ人は外の世界から来た人を歓迎するという発想がない様子。外来者を、ヘタをすれば政治的な人質として利用したりするくらいの扱い。外の世界から来た人と会話して自分の知識を広め、相手に自分のことを知ってもらおうなんてこれっぽちも考えていない。

自分自身が被害者意識に凝り固まっているので、人をもてなす心の余裕がないわけ。このような面は韓国もイスラムの全く同じですよね。スポーツ大会などヒドイものでしょ?これでは味方ができませんよね?

10. 歴史自慢・・・この「旅芸人の記録」という作品では強調されていませんが、ギリシャは偉大な歴史がありますね。それはそれで結構なこと。しかし、ちょっと考えて見てください。「オレは小学校の時は優秀で、学級委員をやっていたんだ!」・・・そんなことを言う人間ってショボイオヤジでしょ?ちゃんとした人間はそんな昔の自慢話などはしないものでしょ?

歴史自慢しかするものがない連中って、それだけ今現在がダメダメということですよね?しかし、ダメダメな人間は歴史しか自慢するものがないので、歴史自慢をしたがる。そして「こんなに偉大な歴史を持つ我々なのに、今うまく行かないのはアイツのせいだ・・・」と被害者意識をますます膨らませるわけ。


このように、「悪いのは全部アイツのせいだ!」と思っていると、自分の気持ちとしてはラクですよね?だって、自分自身では何もしなくてもいいんですからね。ただ相手を恨んでいるだけでいい。
まあ、一般の人はそれでいいのかもしれませんが、そんな貧しい精神では芸術家は育たないでしょ?

真の芸術家になるためには、自分の内面にあるそのようなダメダメな面を自覚していく必要があるわけです。
ギリシャ人のアンゲロプロスは、このような自分に厳しい映画作品を作ることによって、自分自身を一歩前に進めたわけです。まあ、こんなメールマガジンを発行している私が言うんだから間違いありませんよ。

ちなみに、この「旅芸人の記録」という映画はギリシャ映画ですので、セリフはギリシャ語です。ということで字幕担当の人も「とある芥川賞受賞作家さん」がやっています。
その作家さんはギリシャ語が出来るので、アンゲロプロス監督作品の字幕だといつもこの人です。

この作家さんは、ギリシャに住んだり、最近ではイラクに行って「フセイン政権下ではイラク人はすべて幸せだった!アメリカ人は出て行け!」とかおっしゃっておられます。メールマガジンも発行されていて、私も読む時がありますが、実に「お・も・し・ろ・い」わけ。

自分自身の問題から目をそらし、グチばかり言う人間は、やっぱりそんな類の人間が多いところに行きたがるものなんですね。そうして、グチで盛り上がることになる。
「アンタたちは全然悪くないのよ!悪いのは全部アメリカなんだ!」
そう言われれば言われた方もラクでしょ?確かに同情してもらったイラクの人も幸福かもしれません。だって「自分自身は全然悪くない!」と思っていられるわけですからね。「悪くはない」んだから、自分自身では何もしなくてもいいわけ。

そのような精神的に怠惰な状況に、外国からのダメダメ人間が、まるで腐臭にハエやゴキブリが吸い寄せられるように喜んで出かけ、集まり、そしてグチで盛り上がる。

職業としての物書きや絵描きや音楽家は、そこそこのスキルがあればなれるものです。しかし、芸術家になって未来に残る作品を生み出すには「自分自身を厳しく見つめる」ことが必要不可欠なんですね。

ダメダメなギリシャの映画監督のアンゲロプロスが「旅芸人の記録」という、何より自分に厳しい作品を作って、自分自身を見つめ大芸術家になっていったのに対し、グチばかり言っていて、世界中のグチ人間を求めて自分から逃げ回っている人間が、芥川賞という新人賞止まりなのは、芸術的にみて必然なんですね。

この映画で描かれたギリシャの人々は、誰かを犯人認定して、対抗心ばかりを膨らませ、自分では何もする気もなく、しょーもない議論ばかりという、典型的なダメダメ人間の姿といえるでしょう。
これは何もギリシャの問題だけでなく、たとえば、インターネットの掲示板が、まさに絵に描いたようにこんな様相でしょ?

作り手のアンゲロプロスとしては、「激動のギリシャの歴史」を描いているのではなく、バカばかりやっているダメダメ人間の姿を描いているわけ。
彼は歴史学者ではなく、芸術家なんだから、普遍的な人間心理を描きますよ。
ダメダメというのは、時とか場所とかのテンポラリーな問題ではなく、人間の普遍的な心理の問題なんですね。だから、ちょっと見方を変えると、21世紀の日本での様相を理解するのにも役に立つわけ。

ちなみに、ギリシャもイスラム圏も韓国も、独裁政権が多い。
民主的政体は育たない。
それは民主主義というものは、個々の責任という面が要求されるからですね。自分自身が主体的に政治に参加する。そしてみんなの選択に共同責任を持つわけ。
しかし、責任を取りたくないダメダメ人間は、独裁政治の方がラクなんです。だって独裁だったら上手くいかなかったら、その原因の全部を独裁者のせいにできるでしょ?そして「オレたちは独裁政治の被害者だ!」と言うだけ。

だから、これらの国の政権担当者は、政権を降りた後は大変な目にあいますよね?
それは「うまく行かない原因」を一手に引き受けされられるからです。
「自分たちは被害者だ!」と思いたいダメダメ人間は、とにもかくにも加害者というレッテルを何かに貼りたがるわけ。
民主的政体だと、自分自身にも責任を取らないといけないので、精神的にラクができない。だから、このようなダメダメな連中は無意識的に独裁政治を望んでいるわけです。
ダメダメというのは、経済的な問題というより、まずもって心が貧しいわけなんです。

(終了)
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発信後記

この「旅芸人の記録」という映画はDVDが出ています、注文すれば購入できます。
ヴィデオは・・・置いてあるレンタルショップは日本にそれほどないでしょうね。
10月に色々な映画を取り上げたので、11月はやめておこうかなと思っていたのですが、今回配信したのは
1. 現在のイラク情勢を考えるのに参考になる・・・イラク人が純粋に被害者なの?という疑問を持っておられる方も多いと思います。その材料になるのでは?
2. 今年のアテネオリンピックの「体たらく」ぶりについて考えて見たいと思っておられる方に材料になるのでは?
3. 11月20日から東京の渋谷の映画館でアンゲロプロス作品の集中上映があるそうなので、配信のタイミングもそれに合わせた。

そんなところです。

この文章自体は、ちょっと前から準備してあって、文章もほとんど上がっていたのですが、それに合せて?映画館で上映されるなんて・・・神の配剤ということなんでしょうねぇ。
ただこの手の「芸術的?」な映画は東京でしか見ることができないのが問題ですが・・・
R.10/11/16
https://kinoufuzenkazoku.hariko.com/04-11/04-11-12.htm
4:777 :

2023/09/16 (Sat) 04:55:47

06年11月7日 (11年1月29日 記述を追加)
ポーランド・・・(韓国人のメンタリティとの共通性)
https://kinoufuzenkazoku.hariko.com/06-11/06-11-07.htm

このメールマガジンでは韓国の問題を取り上げることが多くあります。
別に民族問題云々を申し上げているわけではありません。韓国人はダメダメ家庭の具体的な特質を、実に多く持っている・・・だから、ダメダメの例示としては最適である。そんな観点です。

もちろん、世界には多数の国があり、韓国と同じようなダメダメな特質を多数持っている国も多くある・・・それは簡単に予想できること。
ダメダメ家庭の特徴は、会話不全と、当事者意識の欠如と、強い被害者意識と言えます。
それらが、色々な形で合わさって、ダメダメの具体的な諸相になっている。

今回は、韓国と同じようにダメダメの特質を強く持っている国として、ヨーロッパのポーランドを取り上げます。

と言っても、私個人はポーランドには行ったことはありません。前回の文章において、ちょっと言及したアメリカの作家ウィリアム・スタイロンの小説「ソフィーの選択」の中で、アメリカ南部と、ポーランドの類似点を描写した箇所があります。
その類似点が、まったく持って、韓国とも共通、つまり典型的なダメダメ家庭の特質そのものなんですね。

アメリカ南部も、ポーランドもダメダメと言うことなんでしょう。

かなり長くなりますが、スタイロンが描写したポーランドとアメリカ南部の共通点を小説「ソフィーの選択」から抜き出してみましょう。
それに、せっかく、図書館から借りた本が、まだ手元にあるわけだし・・・

と言うことで、以下引用です。

『国の魂、内奥深く荒らされた陰鬱な心、苦悩の中から形成されたその心が、逆境と貧困と敗北からなるアメリカ旧南部のそれと類似しているのだ。・・・退屈なほど一定の間をおいて「よそ者」に規則正しく踏みにじられ、搾取されてきたポーランドは、南部と同じく貧困にさいなまれた農民的な封建社会だ。古い昔からの屈辱に対抗する一つのとりでが精神的な誇りである点も旧南部と共通している。家系や家名への誇り、それに概して作為的な貴族や身分への誇りがあることも記憶すべきだろう。敗北して、ポーランドもアメリカ南部も熱狂的な愛国主義を生んだ。その他にも、馬や軍事的な肩書きへの情熱、女性を支配下におきたいという欲望、民話を語る伝統、火酒の恵みに耽溺することなども共通だ。それに意地の悪い冗談の対象になることなども・・・
・・・どちらも、何世紀に渡ってすべてを包含する精神分裂病の悪夢を生み出してきた。ポーランドもアメリカ南部でも、残忍と憐怒、偏狭と理解、敵意と友愛、搾取と犠牲、焼き焦がすような憎悪とやるせない愛情と言った相対するものを、同時に作り出してきた・・・』
(「ソフィーの選択」前巻 346ページから)

いや~呆れるほど、韓国についての描写と共通しているでしょ?もちろん、北朝鮮とも実に共通しています。
これらの心情なり行動を一言で言ってしまうと、こんな感じかな?

『習慣化された自己弁護』

「ワタシは悪くない!」
そのような自己弁護がもはや習慣化されてしまっている。「悪いのは全部○○のせいだ!」なんて言葉が、もはや何も考えずに出てくる。
そしてその犯人認定したものを、いじめることによって、「こいつのせいで、私はタイヘンなことに!!」「ワタシはかわいそうな被害者なんだ!」と自己確認の儀式とすることになる。

しかし、そうやって、自己弁護ばかりが上手になってしまったので、ますます「敗北」に慣れてしまう。そうやって「敗北」に安住して、ますます自己弁護。
いじめることが、自己弁護につながるので、どうしても、やり方がどんどんと残酷になってしまう。
自己弁護に浸って、自分で考えることをしないので、どうしても既存のカテゴリー分類だけでものを見る。だから人種差別が起こりやすい。アメリカ南部の人種差別はいうまでもないことですが、ポーランドのユダヤ人差別も有名ですよね?第2次大戦前のドイツにいたユダヤ人は、ポーランドから逃げてドイツに行ったという側面もあるくらい。それに、まあ、韓国人の人種差別については言うまでもないほどでしょう。

ポーランドも・・・周囲には大国がひしめいている。
ドイツ,ロシア,スウェーデン、かつてのオーストリア・・・
韓国も、北朝鮮も・・・言うまでもないこと。

「戦争しても、どうせ負けちゃうんだ!」と諦めきっているから、何も考えないし、何も準備しない。そうして見事に敗北して、「内部の敵」を探してリンチ。
「何もかもコイツのせいだ!」

そんな姿を見ていた周囲の人は・・・
『やっぱりアイツらは、ダメなヤツ!』

何でもポーランド人は、周囲の国から、「侮蔑」のまなざしで見られるそうですが、こんなことをやっていたら、そりゃ軽蔑されますよ。

日本人は、ヨーロッパの国々の違いなんてよくわかりませんが、やっぱりヨーロッパの中でも「格」が上の国と、格が下の国があるんでしょうね。これは単に人口とか、面積の問題ではなく、国民の品格のレヴェルという意味で・・・

ポーランド人は「ポラ公」(polack)なんて言われたりするそうですが・・・そんな言い方がいいわけがありませんが、そんな言い方をされるのを本人たちが呼び込んでいる・・・そんなもの。
そしてダメダメな人間は、自身に浴びせられたそんな侮蔑を、自分が受けた被害と捉え、逆上するばかり。逆上して、やっぱり、内部の敵をリンチして憂さを晴らす。そんなことばかりだから、周囲からますます相手にされなくなる。

小さい国でもスイスとかチェコだったら、侮蔑を向けられることはありませんよね?チェコはボヘミアだからボヘミアンなんて言い方がありますが、ボへミアンは、ちょっと違う意味だし・・・
チェコはそれこそボヘミアン・カラスなど工芸品もさかんで、首都のプラハは・・・私は、行ったことはないけど・・・きれいな街らしい。しかし、ポーランドには何があるの?
東欧の小さな国の中でも、様々な特徴がある・・・日本人には分かりませんが、そんな中ならダメダメについて考えるヒントもあるんでしょうね。

韓国の問題だって、韓国の事情から考えるよりも、ダメダメ家庭の一般的な特質から考えていった方が理解しやすいわけです。ダメダメな心は、どこにもあるわけですし、誰だって程度問題は別として、持っているわけです。

ちなみに、「ソフィーの選択」でのソフィーがポーランド人です。その恋人であるネイサンがユダヤ人です。このネイサンはやたらアタマがよく教養がある人ですが、ユダヤ人らしく不幸自慢の傾向がある。
「オレは、ユダヤ人だから、自分が苦痛や苦難の権威だと思っている。」なんて言葉も出てきます。自分が一番不幸な人間だから、他者の不幸には頓着しない・・・そんな傾向も持っている。

苦痛とか、苦難とか・・・そんな言葉からしか自分自身を考えられない・・・それって、やっぱりダメダメの典型でしょ?
こんな2人だからこそ、「入れ込み」「入れ込まれ」で、ドメスティック・ヴァイオレンスになり、やがて心中することになってしまう。

「ソフィーの選択」におけるソフィーもネイサンも、頭脳は明晰な人ですが、双方とも「自分が何をしたいのか?」が、明確ではない。
だからこそ、不幸を呼び込んでしまうことになる。そして、呼び込んだしまった不幸の原因を探し、報復する。
そんな報復活動に満足しているがゆえに、ますます「自分としてはこれをしたい!」という発想を持つことがない。
まず、「自分はこれをしたい!」って、掲げることは、誰だってできることでしょ?

しかし、心理的に抑圧してしまっていると、敵や犯人を設定し、報復活動をすることがアイデンティティになってしまう。つまり、対抗心に依存するようになってしまうわけです。
そして、心理的に抑圧してしまっていると、敵を設定するにも、自分でしっかり考えることなく、安直なカテゴリー分類に頼ってしまう。

それこそ、ポーランドではユダヤ人が、敵認定されたわけですし、
アメリカ南部は黒人が、敵認定されたわけです。
そして、韓国では、日本人が敵認定されているんでしょう。
そして、報復行為をすることで、自分たちこそ被害者であり、「悪いのは全部○○のせいだ!」と確認する儀式とするわけです。

別のところでも取り上げておりますが、11年でのサッカーの国際大会で、韓国人選手が、日本人を侮蔑するパフォーマンスを行ったとのことですが、つまり、彼らとしては、それだけ「敵認定」や「犯人認定」に依存しているんですね。
「うまくいかないのは全部○○のせいだ!」と、いつでも言えるようにしておかないと、言い訳ができないことになり、心理的に不安になってしまう。
だからこそ、その侮蔑のパフォーマンスも日本人に向けたものではなく、同胞である韓国人に向けたものになっているわけです。

自己弁護というのは、誰かに分かってほしいというものではなく、自分を納得させればそれでいい。
しかし、そんな姿が、周囲から侮蔑を呼んでしまうのは、本来なら子供でも分かること。
しかし、そんな侮蔑を受けるが故に、ますます「敵認定」や「犯人認定」に依存してしまう。
そんな姿は、ポーランドや、アメリカ南部や、韓国だけでなく、それこそ学校などのイジメの周辺でも見られたりするでしょ?

(終了)
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発信後記

「ソフィーの選択」の作者の死によって、この私も体の調子が悪くなってしまいましたが、改めて思うのが、「文章を書くことは、体に負担になるんだなぁ・・・」と言うこと。

こんなメールマガジンの文章でも、切り口はどうする?導入はどうする?緩急はどうする?エピソードはどうやって入れる?等々・・・色々と考えることがあります。
まあ、読む分には、そんなことまで読んでおられる方はいらっしゃらないでしょうが、書く側は色々と考えるわけ。

しかし、書くために色々と考えるので、文章を読むに際しても、「よく読める」ことになる。
「あっ?これはあのことね・・・」「この人は、もっとも重要な問題から逃避しているねぇ」なんて読んでいてスグにわかる。
よくわかるから、なおのこと体に負担になってしまう・・・
えっ?別に不幸自慢しているわけではありませんよ。
人間にはそれぞれ使命がある、ということです。
R.11/1/29
https://kinoufuzenkazoku.hariko.com/06-11/06-11-07.htm

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