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井上文則『軍と兵士のローマ帝国』

1:777 :

2023/09/02 (Sat) 14:17:02

雑記帳
2023年09月02日
井上文則『軍と兵士のローマ帝国』
https://sicambre.seesaa.net/article/202309article_2.html

https://www.amazon.co.jp/%E8%BB%8D%E3%81%A8%E5%85%B5%E5%A3%AB%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%96%B0%E8%B5%A4%E7%89%88-1967-%E4%BA%95%E4%B8%8A/dp/4004319676

 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2023年3月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は軍と兵士の視点からのローマ帝国史で、284年のディオクレティアヌス帝の即位以降の後期ローマ帝国軍も重視していることが特徴です。本書は、漢やパルティアやサーサーン朝など同時代の大国と比較して、職業軍人から構成される常備軍だったことがローマ帝国の軍隊の特徴だった、と指摘します。ただ、ローマ帝国の軍制が当初からそうだったわけではなく、共和政期には市民兵で、軍団は毎年編成されていました。

 しかし、ローマがイタリア半島を越えて拡大していく過程で、戦争が慢性化し、市民兵の担い手だった武装を自弁できる中小農民が没落していくなかで、半ば職業軍人化した兵士が現れます。紀元前2世紀後半のグラックス兄弟の改革の失敗後、無産市民も兵の対象とされ、兵士の大半は職業軍人となっていきます。イタリア半島外に領土(属州)が拡大していく中で、治安維持のため軍団も毎年の編成から常備軍化していきます。当初、軍団に入隊可能だったのは、原則としてローマ市民権の保持者だけでした。こうした傾向に沿って常備軍を制度化したのは、初代ローマ皇帝のアウグストゥスでした。本書は、これにより兵士と市民が分離され、両者の間に距離ができたことも指摘します。ただ本書は、ローマ帝国において軍は貧弱な行政機構を補い、兵士は軍務以外のさまざまな役割も担っていたので、兵士と一般市民との日常的な接触があったことも指摘します。

 こうして成立したローマ帝国常備軍の各軍団の司令官は、属州エジプトの駐屯軍を除いて元老院議員で、その中でもプラエトル(法務官)経験者から選ばれました。司令官の任期に厳密な規定はなかったものの、通常は3年程度でした。ローマ帝国において、皇帝は軍の支持なしに帝位を保てないので、軍の掌握に注意を払いました。ローマ帝国の軍隊は、すでに軍人皇帝時代の前から帝位継承問題に関わることが多く、その嚆矢は、カリグラ帝が暗殺され、その叔父のクラウディウスを近衛兵が皇帝として擁立したことです。このようにローマ帝国において軍が帝位継承問題に関与で来た理由として、皇帝選出の手続きが定まっていなかったことを本書は指摘します。

 帝政期のローマ軍は、五賢帝以降に変容していき、本書はマルクス・アウレリウス帝からコンスタンティヌス帝までの時代を移行期間と把握しています。転機となったのは166~167年に始まったマルコマンニ戦争で、ランゴバルド人とオビイ人がドナウ川を越えて属州パンノニアに侵入してきました。ランゴバルド人とオビイ人は属州駐留軍に撃退されましたが、170年にはマルコマンニ人とクアディ人がイタリア半島にまで侵攻してきました。マルコマンニ戦争は、マルクス・アウレリウス帝の後継者となった息子のコンモドゥス帝の代に終結しましたが、軍司令官と属州総督が、これまでの慣行に囚われず軍事的能力優先で起用されるようになります。その後、セウェルス帝の代に属州駐留軍対策でイタリア半島の軍事力が強化され、兵士の給与を増額します。

 しかし、セウェルス帝の兵士優遇策は軍を増長させ、軍人皇帝の時代を迎えます。この軍人皇帝時代に、ウァレリアヌス帝の考案による帝国の分担統治が始まり、各皇帝に直属の常設の機動軍が整備されていき、軍人皇帝の権力基盤となります。この過程で能力主義がさらに定着していき、バルカン半島出身の兵卒が軍司令官に就任するようになります。こうしてローマ軍は変容していき、軍政と民政の分離が徹底されたディオクレティアヌス帝の治世を経てコンスタンティヌス帝の代には、機動軍と辺境防衛軍から構成される後期ローマ帝国の軍制が確立します。この後期ローマ帝国の軍は、攻勢を主目的とする前期ローマ帝国の軍とは異なり、防衛を主眼とするようになった、と本書は指摘します。

 上述のようにローマ帝国では初期の頃より軍が皇帝の選出に大きな影響力を有していましたが、コンスタンティヌス帝以降、機動軍が元老院に代わって正当な皇帝を選出して承認するようになり、帝位簒奪者を産み出すこともありました。一方で、3世紀の動乱により人口が減少し、戦争が一層慢性化する中で、軍は兵士の確保に苦慮することになります。その結果、ローマ帝国は帝国外の「異民族」に兵力を頼るようになりますが、「異民族」出身者の割合が高かった、とされる機動軍でも、「異民族」の割合は41%程度だったようです。一方、辺境防衛軍の兵士はほとんどローマ人でした。上述のようにすでにディオクレティアヌス帝の治世で軍政と民政の分離が徹底されたことで、各地を移動する機動軍と市民との関わりは、おもに機動軍の移動先での民家への宿泊となり、これは機動軍における「異民族」出身兵士の割合の高さとともに軍と市民との軋轢を増加させたようです。さらに本書は、このように「異民族」出身兵士の多い軍隊の駐屯に慣れたことにより、ローマ市民は同盟部族軍の大量流入に対して大規模な抵抗を起こさなかったのだろう、と推測します。

 こうした中で、4世紀後半にいわゆる大移動が始まり、西ローマ帝国では、総軍司令官のスティリコが東方から来た征服者と西ローマ帝国の人々に考えられていたことから、西ローマ帝国の機動軍との関係が微妙で、同盟部族軍に頼るようになり、その傾向はスティリコの失脚後に一層強くなります。西ローマ帝国では、豊かなアフリカ北部の属州も失い、財政基盤が弱体化する中で機動軍を維持できなくなり、辺境防衛軍も次第に解体していきます。本書は最後に、ローマ帝国の軍制史をユーラシア史に位置づけ、ローマ帝国の常備軍を支えたのはシルクロード交易からの関税収入で(関連記事)、シルクロード交易を支えていた諸帝国によるユーラシアの政治的安定が2世紀半ば以降に崩れていき、それに伴ってローマ帝国軍もより専業化していった、と指摘します。東西のローマ帝国の運命の違いについて本書は、東ローマ帝国はその地勢から「異民族」の侵入が限定的だったことを挙げます。さらに本書は、ローマ帝国を一体の世界と把握する見解が常識とされているものの、歴史的に重要な境界線はユーフラテス川ではなく東西のローマの境だったのではないか、と指摘します。つまり、ローマ帝国東方はローマ帝国西方よりもパルティアやサーサーン朝と一体ものとして把握すべきではないか、というわけです。

https://sicambre.seesaa.net/article/202309article_2.html
2:777 :

2024/04/26 (Fri) 09:40:24

【アメリカ】ローマ帝国と現代アメリカの意外な関係!ローマ滅亡の本当の原因からアメリカの未来を考える
世界史解体新書
2024/04/25
https://www.youtube.com/watch?v=C-xB7QmTjGA

本日のテーマは「古代ローマ帝国の滅亡」でした!


ローマの歴史を一本にまとめたぜ! 人の全てがここにある
俺の世界史ch
2023/03/04
https://www.youtube.com/watch?v=amNQaM-Xoh0&t=0s

00:00 王政ローマ(前編)
10:53 王政ローマ(後編)
19:06 カミルス
23:44 サムニウム戦争
31:13 ピュロス戦争
41:26 第一次ポエニ戦争
56:03 ハンニバル戦争
1:15:46 スキピオVSハンニバル
1:38:02 第三次ポエニ戦争
1:52:38 グラックス兄弟の改革
2:17:08 マリウスとスッラ
2:44:28 第一次三頭政治
3:15:26 共和政ローマの終焉
3:31:16 元首政ローマ
3:43:20 ユリウス・クラウディウス朝の成立
3:58:20 ユリウスクラウディウス朝の破滅
4:27:33 四皇帝時代
4:41:14 フラウィウス朝
5:05:46 ネルウァ&トラヤヌス(五賢帝時代の始まり)
5:33:17 ハドリアヌス
5:58:41 二人のアントニヌス
6:28:46 コンモドゥス
6:54:05 五皇帝時代
7:08:05 カラカラ帝
7:34:12 ヘリオガバルス
8:00:06 ユリア・メサ
8:22:11 軍人皇帝時代
8:39:24 テトラルキア
8:55:07 コンスタンティヌス帝
9:11:43 背教者ユリアヌス
9:28:11 ローマの東西分裂
9:39:14 ホノリウス
10:16:56 西ローマ帝国の滅亡

王政ローマ前編が公開されたのが2020年の2月15日、この時はまだチャンネル登録者数1000人に到達していなかったんだぜ

*オクタヴィアヌスは2023年現在の教科書でオクタウィアヌスとなっているなど、ラテン語は濁音を表記しないのが2023年現在の主流となっています。動画ではネルヴァなど濁音を表記していますが、試験などの際には教科書の表記通りに書きましょう。



小学生でもわかる古代ローマの歴史【西洋史第2弾】
2020/02/26
https://www.youtube.com/watch?v=2fB67WNYB-M&t=64s

古代ローマの歴史です。超古代文明って感じです。裕福な人が貧乏人から搾取するのを国が干渉して抑えるぞ的な、近現代の資本主義っぽい具合の感じにもなってます。中国の国共内戦とかにも似てます。もう少し条件が揃っていればもうこの時代から軍事革命や産業革命が起きてたかもしれません。まさに文字通りロマンです。古代ローマはあらゆる点において完璧すぎるのでツッコミどころがほとんどなく、ネタっぽい風味を出す隙を与えてくれなかったのが少し残念でしたが、それでこそ古代ローマ文明だとも思いました。

・その他用語
帝国になる前の古代ローマ・・・共和制ローマ
偉い人たちが集まった中央政府・・・元老院
アフリカ側の国の名前・・・カルタゴ
ポエニ戦争後に土地を占有して裕福になった人たち・・・ラティフンディア
貧困層助けようぜグループの名前・・・ポプラレス
貧困層助けねえよグループの名前・・・オプティマテス
アウグストゥスの皇帝になる前の名前・・・オクタウィアヌス
アウグストゥス(オクタウィアヌス)のライバル・・・アントニウス
一回目の時の中東のデカイ王国・・・パルティア
二回目目の時の中東のデカイ王国・・・ササン朝
北方の謎の異民族・・・ゲルマン人
ヤバイ皇帝・・・コンモドゥス帝
ダメな皇帝・・・カラカラ帝
ローマ帝国を半分に分けた皇帝・・・ディオクレティアヌス



【2ch歴史】ローマ帝国が滅んだ理由が ヤバすぎるwww
2chで世界史学ぶ民
2023/06/09
https://www.youtube.com/watch?v=GGA0IAkM5I4&t=6s



ギリシャ・イタリアの歴史と現代史
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/469.html

井上文則『軍と兵士のローマ帝国』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14146859

山賊・海賊によってつくられたギリシャ・ローマ
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/619.html

イタリア半島の人口史
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/624.html
3:777 :

2024/05/19 (Sun) 09:29:09

雑記帳
2024年05月18日
宮嵜麻子『ローマ帝国の誕生』
https://sicambre.seesaa.net/article/202405article_18.html

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%AE%AE%E5%B5%9C-%E9%BA%BB%E5%AD%90/dp/4065350220


 講談社現代新書の一冊として、講談社より2024年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はローマが帝国となっていく過程を検証し、おもにローマが大国化していく紀元前3世紀末からアウグストゥスの頃までを対象としていますが、それ以前の地中海地域の一都市国家だった時代も取り上げられています。確かに、ローマ帝国の成立において、規模や勢力の点で地中海に多数存在した都市国家と変わらなかった頃の歴史は、ローマの覇権を可能としたのが何だったのか、解明するうえで重要になると思います。

 都市国家ローマの起源は曖昧としていますが、紀元前8世紀頃に現在のローマ市の中心部にラテン人と呼ばれる人々の一部が集まり、都市の原型が建設されたのだろう、と推測されています。本書は、都市国家だった頃のローマ人にとって、精霊により守護され、神々の特別の恩寵を受けた都市こそが国の本質で、周囲の土地はそれに付随するものにすぎなかった、と指摘します。初期のローマの特徴は王が存在したことで、10人の王のうち最後の3人はラテン人とは異なるエトルリア人だった、とされています。ローマで王が追放されたのは紀元前509年と言われており、共和政が始まります。共和政の当初は、全市民が平等だったわけでも、国政に携わったわけでもなく、王政期以来の少数の貴族(パトリキ)がいました。共和政当初の貴族は、元老院の議席と政務官を独占していました。政務官の権限は行政のみならず軍事と司法と宗教行為にまで及び、とくに執政官(コンスル)と法務官(プラエトル)は戦地で軍の命令権など、絶大な権限を有していました。平民は政治決定機関の民会には出席できましたが、民会も貴族が議決を左右できました。しかし、エトルリアなど周辺勢力との戦いが相次ぎ、度々危機に陥る中で、戦力として重要な役割を果たしていた庶民が権利拡大を訴え、紀元前494年には平民の利益を代表する護民官が設置され、平民のみが参加し、護民官が主宰する平民会も設立されます。紀元前367年には、リキニウス=セクスティウス法により、二人いる執政官のうち一人は平民が就任することになります。紀元前287年のホルテンシウス法では、平民会の議決には貴族も従わねばならない、と定められました。

 こうして政治および社会的には、貴族と平民との間の格差は解消されていきましたが、経済的格差の解消はさほど進まなかったようです。本書は、都市国家時代のローマが元老院と政務官と民会の三機関の相互補完と牽制で成り立っていたことを指摘します。ただ、平民から執政官に一人選出されるとはいっても、一部の富裕な家系が独占するようになり、元老院の政務官への「助言」が実質的に「命令」になるなど、共和政とはいっても現実には寡頭政だった、と指摘されています。身分闘争後に権力を有した貴族は、旧来の貴族(パトリキ)と区別して、ノビレス(貴顕貴族)と呼ばれます。しかし、平民がこうした寡頭政に本格的に抵抗するようになるのは紀元前2世紀半ば以降でした。当時のローマ人にとって市民は全員自由で平等ではあるものの、それは能力や立場に応じて権力や権威を備えている状態と考えられていた、と本書は指摘します。これは、富裕市民が祭りや娯楽を主催したり、食料を市民に施したりといった、富裕者の義務という強い観念につながっていきます。相対的な関係において、有力者(パトロヌス)が弱者(クリエンス)を庇護するわけで、この関係はパトロネジと呼ばれ、通常は特定の二者間で結ばれ、世代を超えて継承されたようです。

 上述のように地中海の一都市国家だった共和政ローマは当初から周辺勢力と戦い、他の都市国家の併合などで領域を拡大していき、紀元前3世紀半ば頃までにはイタリア半島のほぼ全土を支配化に起いて、紀元前3世紀後半にはイタリア半島外にも支配領域を広げます。ただ本書は、この時点でのローマを帝国とは評価しておらず、ローマによる「支配」の実情を検証します。ローマに敗北した都市国家の市民が、それまでの市民としての権利を奪われた代わりに、ローマ市民権を与えられたり、戦後にローマ市民の一部が移住した都市もあったり(コロニア)、ローマに敗れるか従属した後でも、自立した国や共同体であり続けたりしました。ローマは支配化の各国と条約を締結し、同盟関係となりました。そうした国々がローマに逆らうことは難しく、その意味ではローマの支配下にあったものの、法的な意味では自立していた、というわけです。ローマが支配域を拡大していく過程で奴隷も増えたようで、そうした奴隷が解放されると、ローマ市民となり、解放奴隷には制約があったものの、その子供の世代以降にはそうした制約がありませんでした。こうした奴隷出自の人々は、実際にはさまざまな面で差別を受けやすく、比較的差別を受けにくい大都市に集まる傾向があったので、ローマでも一定の影響力を有するようになっていきます。

 こうして、ローマは支配域の拡大とともに、社会が膨張して複雑化していきました。こうした状況で、紀元前3世紀半ばに起きたのが第一次ポエニ戦争(紀元前264~紀元前241年)です。第一次ポエニ戦争は長引き、ローマもカルタゴも疲弊したものの、ローマに有利な和平条件だったことから、ローマの勝利と評価されています。ローマは第一次ポエニ戦争でシチリア島を獲得し、その後の混乱の中でコルシカ島とサルデーニャ島をカルタゴから奪い、海外支配が始まります。この海外支配は、イタリア半島の支配とは明らかに異なっており、属州とされました。属州民はローマの構成員ではあるものの、国政に参与できなかったり、ローマの裁判を受けられなかったりと、ローマ市民と同じ権利を有していないにも関わらず、納税や軍役などの義務が課せられ、税負担はローマ市民より重く、軍役では危険な任務を課せられました。属州を統治した総督はローマ市から派遣され、行政権と司法権のみならず軍権も掌握し、属州法に基づいて統治したものの、実質的に総督の裁量権はほぼ無制限でした。ただ、シチリア島のローマによる統治は当初、まだ属州法がなく、執政官も法務官もシチリア島で任務に就いていたわけではなく、後の属州の在り方とは大きく異なっていたようです。また、この時点では国内の政治体制が大きく変わったわけでもなく、本書は、ローマが本格的な帝国となっていくのは、紀元前2世紀初頭にイベリア半島に二つの属州が設置されて以降と評価しています。

 ローマの帝国化が本格的になっていく重要な契機が、第二次ポエニ戦争(紀元前218~紀元前202年)でした。紀元前216年のカンナエの戦いでローマは大敗し、当初はカルタゴの呼びかけに応じなかったローマの同盟都市の中で、カルタゴへの寝返りも見られるようになります。しかし、カルタゴ側への寝返りはイタリア半島南部以外の地域にまで広がらず、イベリア半島のカルタゴ勢力が紀元前206年に駆逐されたこともあり、カルタゴは劣勢となり、紀元前202年にザマの戦いでローマに敗れ、アフリカ外での戦争放棄およびアフリカ内でのローマの承認なしの戦争放棄や高額な賠償金など、過酷な和平条件を受け入れることになります。ただ、カルタゴは政治的にも経済的にも文化的にも自立を維持できました。第二次ポエニ戦争の結果、ローマのイベリア半島支配は確たるものになり、二つの属州が設置されますが、その直後から、先住民集団とローマとの戦いが激化します。イベリア半島の先住民は、カルタゴがイベリア半島から駆逐され、自立できると思っていたところに、ローマの強い支配下に置かれることになったので、放棄したようです。イベリア半島でのローマの属州支配は、ローマから派遣される統治官(総督)の人気がないなど、柔軟なものでしたが、それが共和政の権力構造の基盤となっていたさまざまな原則や縛りからの解放になっていたことを、本書は重視します。こうした例外的措置が常態化していくことで、共和政の骨幹が揺らいでいった、というわけです。イベリア半島での先住民とローマ側との戦いは断続的に続き、大カトのように明らかに先住民に対して優越的態度を示し、「奴隷状態に置く」ことを考えた有力者もいましたが、紀元前171年の「条約」により、「ローマ人の友」としての立場が確立します。しかし、属州総督による搾取はより体系化して強化され、こうしたイベリア半島における属州の在り様は、拡大していった帝国としてのローマの属州を先取りするものでもあったようです。

 一旦は安定したかに見えたローマのイベリア半島支配は、紀元前150年代以降、再び動揺し、先住民とローマとの間で激しい戦いが続きます。ローマは先住民側に度々敗れながらも、最終的にはイベリア半島の属州統治を確立しますが、イベリア半島には多様な先住民集団が存在し、その一部はすでにローマとの間に安定した関係を築いて、属州民としての立場を受け入れており、ローマとイベリア半島先住民との間の関係は多様だったようです。イタリア半島を境に地中海は東西に区分でき、いわゆるヘレニズム時代以降の東側はギリシア語世界圏になっていった、と言えそうですが、帝国化していくローマは、地中海東部でも勢力を拡大し、ヘレニズム諸国の君主の中にも、ローマの権威により自分たちの立場を守ろう、との動きが見られるようになります。ただ、ローマがヘレニズム世界に属州を設置したのは起源2世紀中頃以降で、イベリア半島よりかなり遅れました。本書はローマ史における転機として紀元前2世紀中頃を重視しますが、その背景として属州での経験を挙げます。属州とされたイベリア半島がローマに莫大な富をもたらしたことなどにより、ローマの対外姿勢は変化し、「国益」のため他者と戦うことを躊躇わなくなった、と本書は推測します。本書はこうした観点から、ローマ帝国の形成を紀元前2世紀中頃と評価します。

 ローマにとって明確な被支配者である属州の拡大は、ローマ社会の変容とも関わっています。ローマの社会は肥大化し、その構造は複雑化して、さまざまな立場の人々が関わるようになります。帝国となったローマを牽引する元老院は、ローマ市民だけではなく、属州の有力者などさまざまな立場の人々の利害に配慮せねばならなくなり、さらには中小農民の没落もあり、ローマ市民のさまざまな要請にも対処する必要が出てきました。さらに、戦争とその結果として設置される属州の富が膨大なものとなったため、元老院内でも権力闘争が激化していきます。これが、「内乱の一世紀」と呼ばれるローマの危機的状況の出現の前提となりました。中小農民の没落などローマ社会の変容に対して、復古を訴えるだけではなく、現実的な改革を求める政治が登場し、グラックス兄弟はとくに有名です。ただ本書は、困窮したローマ市民の救済という点では共通しつつも、兄のティベリウスとは異なり、弟のガイウスは元老院統治体制の弱体化を意図していた、と指摘します。この「内乱の一世紀」の中で、同盟市戦争の結果としてイタリア半島の全自由人がローマ市民権を獲得し、これによりローマの都市国家としての性格は焼失した、と本書は評価します。

 ローマ共和政の根幹だった元老院統治体制はこの「内乱の一世紀」の中で紀元前1世紀中頃までに揺らいでいき、単独で権力を掌握した有力者による統治へとつながり、ついには皇帝と呼ばれる単独の権力者が出現します。この過程での重要人物は、当然カエサルとオクタウィアヌスで、まずカエサルは任期が半年の独裁官をいったん辞任した後で再任し、その後はずっと在職しました。さらに、カエサルは紀元前48年以降、紀元前47年を除いて執政官にも就任し、民会と護民官の権限を縮小しました。帝国に変質したローマではもはや共和政は機能せず、ローマ市民のみならず属州と帝国周辺の広大な地域の人々の支持が帝国の統治に必要となる、とカエサルは理解していたようです。そのカエサルが殺害されたのは、それでも共和政の存続を求める人々がローマ社会の上層に少なからずいたことを示唆しているようです。

 カエサルの没後の権力闘争を勝ち抜き、「内乱の一世紀」を終結に導いたのは、カエサルから後継者に指名されたオクタウィアヌスでした。ただ、紀元前31年にオクタウィアヌスがアントニウスを破り、実質的に単独政権を樹立しても、帝政の開始はもう少し先だった、と本書は指摘します。この時点でオクタウィアヌスの権力は、公式に帝国を統治できると認められる性格のものではなかったからです。本書は、紀元前27年に、オクタウィアヌスが内戦以降に保持していた全権と軍を元老院と市民団に返上する、と宣言し、元老院と民会によりオクタウィアヌスにアウグストゥスの添え名が贈られたことを、本書は重視します。アウグストゥスは紀元前27年に全権と軍を返上すると宣言したさいに、元老院から属州統治を要請され、とくに情勢が不安定な属州の統治を引き受け、10年間の執政官格命令権を得て、後には繰り返し延長され、最終的に無期限とされました。この過程で、不安定な属州の統治との名目でローマ軍の大半を掌握し、その後、護民官職権や上級執政官格権限や大神官職を得るなどして、紀元前2年には元老院と市民団から「国父」の称号が贈られました。この結果、政治と軍事と宗教も含めてローマ帝国全域での全権をアウグストゥスは掌握することになりました。これらの権限には、新たに創設されたものはなく、全て共和政期から存在しました。オクタウィアヌスはローマ市民と最も権威ある者として「第一人者(プリンケプス)」と呼ばれ、オクタウィアヌスを「元首(プリンケプス)」、オクタウィアヌスにより始まった政治体制を元首政と言う人もいます。本書は、こうしてオクタウィアヌスにより始まった政治体制を共和政の再建とは評価していません。それは、これらの官職の条件だった任期などの制約がもはや失われていたからです。こうした帝政もしくは元首政の成立は、ローマ帝国の誕生の結果であり、その逆ではない、と本書は指摘します。
https://sicambre.seesaa.net/article/202405article_18.html

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