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2023/08/12 (Sat) 13:31:06
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藤井聡【東京ホンマもん教室】なぜ、日本は戦争に敗れたのか? 8月12日 放送分
2023/08/12
https://www.youtube.com/watch?v=4W8G5HcR7jg
メインテーマは『なぜ日本は戦争に敗れたのか?』
いまだに続く敗戦の後遺症!なぜ横田空域は戻ってこない?
アメリカが日本を支配する驚愕の仕組み「日米合同委員会」の実態
石原莞爾「世界最終戦争論」から読み解く!日本の“戦略”における大きな失敗
日本敗戦の理由に2つの「禍機」!現代にも通じる教訓とは?
ゲストは番組2回目の登場となる米国在住の国際政治アナリスト・伊藤貫
来年に控えた大統領選を前に混沌極まるアメリカ民主政治の実態を赤裸々に語る!
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2023/08/12 (Sat) 13:35:34
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漢民族系朝鮮人の天皇一族による極悪非道の世界侵略の歴史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14003198
大東亜共栄圏というのは中国・東南アジアで麻薬を売ってぼろ儲けする体制の事だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006701
日本が朝鮮併合したのも満州や中国を植民地化したのも食料を増産するためだった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006703
飢餓輸出 _ 日本占領下、ベトナムで200万人が餓死
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006700
故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA
【田布施システム】朝鮮系に乗っ取られた日本の裏歴史! 歴代首相を生み出す謎の村「田布施」を専門家が徹底解説!
https://tocana.jp/2019/12/post_130392_entry.html
https://tocana.jp/2020/09/post_171763_entry.html
日本の有名政治家の出自が集中する「田布施」_ 戦後の総理大臣の75%が世襲政治家
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14071870
君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html
昭和天皇が戦争狂になった訳
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html
原爆投下が日本を救った_ ユダヤ人とトルーマンと昭和天皇に感謝
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/327.html
ジェームズ斉藤 : 日本のゴールド「天皇の金塊」
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006705
日本のゴールド「天皇の金塊」をジェームズ斉藤が徹底解説! 知られざる日本の財宝、驚愕の金額…米デフォルトと関連
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/392.html
昭和天皇を震え上がらせた共産主義の恐怖とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/754.html
関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1055.html
2・26事件は共産主義者の青年将校が起こしたクーデターだった
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/222.html
鈴木貞美『満洲国 交錯するナショナリズム』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14104501
みんな大好きな 白洲次郎さんの正体
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14103660
満州国の軍隊とはなんだったのか
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14096508
林千勝
近衛上奏文を読めば、隠したかった「構造」が見えてくる [これが本当の近現代史#100]
2023/06/03
https://www.youtube.com/watch?v=B_VqXCuV7oc
戦前・戦中・戦後 全てに仕掛け有り [これが本当の近現代史#103]
2023/06/23
https://www.youtube.com/watch?v=1PHUTOQ_TOM
従軍慰安婦・徴用工強制連行、南京大虐殺は事実なのか?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14106485
天皇一族の正体
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14037746
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2023/08/15 (Tue) 06:07:27
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米英金融資本の支配下にあった日本が東アジア侵略を進めた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202308140000/
1945年8月15日、昭和天皇(裕仁)は「ポツダム宣言」の受諾をアメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に伝えたと「臣民」に発表した。7月26日に発表されたポツダム宣言は日本に無条件降伏を要求している。
連合国で無条件降伏という話が出てきたのは1943年1月にカサブランカで行われた米英仏の首脳、つまりフランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチル、シャルル・ド・ゴールの会談においてだ。その直前、ソ連へ攻め込んでいたドイツ軍はスターリングラードで降伏している。
ドイツ軍は1941年6月、ソ連に対する奇襲攻撃を開始。西側には約90万人だけを残し、310万人を投入するという非常識なものだが、これはアドルフ・ヒトラーの命令で実行されたという。
1941年7月にドイツ軍はレニングラードを包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点に到達した。ヒトラーはソ連軍が敗北したと確信、再び立ち上がることはないと10月3日にベルリンで語っている。またウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測しながら傍観していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)
こうした中、1941年12月に日本軍はマレー半島と真珠湾を奇襲攻撃してイギリスだけでなくアメリカとも戦争を始める。ドイツの勝利を予想して米英と戦争を始めたのかもしれないが、そうした展開にはならなかった。ソ連軍の抵抗でこうした予想通りにことは進まず、ドイツ軍は1942年1月にモスクワで降伏、同年8月にスターリングラード市内へ突入したのだ。
ヨーロッパでドイツがソ連に負けたことを受け、英米仏が開いたカサブランカ会談で無条件降伏が打ち出された。これはドイツや日本の降伏を遅らせることが目的だったと言われている。日本はともかく、ドイツがソ連に負けたというイメージを消し去り、イギリスやアメリカに負けたのだという演出をするには時間が必要だったのだろう。
勿論、日本が戦争を始めたのは1941年12月よりはるか前のことだ。本ブログでは明治維新をイギリスによる東アジア侵略戦略の一環だと考えている。
明治体制になってからイギリスやアメリカの外交官は台湾や大陸を侵略するように焚きつけて軍事技術を提供、その一方で米英金融資本は戦費を融資している。そして明治政府は琉球を併合し、台湾へ派兵、江華島事件を引き起こし、日清戦争、日露戦争、シベリア派兵へと突き進んだ。シベリア派兵はロシアで起こった十月革命への干渉だ。
十月革命は第1次世界大戦と深い関係がある。1914年6月にサラエボでオーストリア皇太子がセルビア人に暗殺され、翌月にオーストリアがセルビアに宣戦布告して第1次世界大戦が始まるのだが、ロシア支配層は戦争に反対する地主階級と戦争に賛成する産業資本家との間で対立が生じていた。
戦争反対派の中心人物は皇后アレクサンドラと大地主を後ろ盾にするグリゴリー・ラスプーチン、戦争賛成派の中心は有力貴族でイギリス支配層と深い関係にあるフェリックス・ユスポフだ。
ロシアとドイツを戦わせたいイギリスにとって目障りな存在だったラスプーチンは1914年6月に腹部を刺され、重傷を負って入院。その間にロシアは宣戦布告していたが、その後も対立は続く。そしてラスプーチンは1916年12月に暗殺された。暗殺者はフェリックス・ユスポフだとされている。
ユスポフは1887年3月にサンクトペテルブルクのモイカ宮殿で生まれているが、その11年前、その宮殿でイギリス人男子が生まれていた。ユスポフ家に雇われていた家庭教師の息子、スティーブン・アリーだ。この人物は後にイギリスの対外情報機関MI6のオフィサーになる。のちにフェリックスはオックスフォード大学へ留学するが、そこで親密な関係になったオズワルド・レイナーもMI6のオフィサーになる。
ロシアで支配層の内紛が展開されている最中、1916年にイギリス政府はMI6のチームをロシアへ派遣したが、その中心メンバーはアリーとレイナーにほかならない。このチームがフェリックスと接触していることは運転手の日誌で明らかになっている。またラスプーチンの殺害に使われた銃弾を発射できるピストルを持っていたのはレイナーだけで、真の暗殺者はレイナーではないかと考える人もいる。
そして1917年3月にロシアでは「二月革命」が引き起こされ、資本家が実権を握った。そのほか、カデット、エスエル、メンシェビキも革命グループに含まれていたが、ボルシェビキは参加していない。その指導者は亡命中か刑務所の中だった。革命で成立した臨時政府は戦争を継続する。
それに対し、両面作戦を避けたいドイツ政府は即時停戦を主張していたウラジミル・レーニンに目を付ける。そこでドイツ政府はボルシェビキの指導者を列車でロシアへ運び、「十月革命」につながった。こうした経緯があるため、ソ連とドイツはアドルフ・ヒトラーが台頭するまで関係は良好だったのである。そして日本はイギリスやフランスの要請で十月革命に干渉、1925年までソ連領内に居座ったわけだ。
その間、1923年9月1日に東京周辺を巨大地震が襲った。被災者数は340万人以上、死者と行方不明者を合わせると10万5000名を上回ると言われている。損害総額は55億から100億円に達していたという。
この資金を調達するため、日本政府はアメリカの巨大銀行JPモルガンに頼った。ロスチャイルド金融資本からスピンオフした金融機関だ。その当時、JPモルガンと最も緊密な関係にあった日本人は井上準之助だと言われている。関東大震災を切っ掛けにして日本の政治経済はJPモルガンから大きな影響を受けるようになった。
地震の当日、総理大臣は不在。山本権兵衛内閣が成立するのは9月2日のことだ。その内閣で井上は大蔵大臣に就任、1924年1月までその職にあった。1927年5月から28年6月までは日本銀行の総裁、浜口雄幸内閣時代の29年7月から31年12月まで、再び大蔵大臣をそれぞれ務めている。
9月1日の夕方になると社会主義者や朝鮮人をターゲットにした流言蜚語が飛び交いはじめ、2日夜に警視庁は全国へ「不定鮮人取締」を打電して戒厳令も施行された。
こうした雰囲気が社会に蔓延、数千人の朝鮮人や中国人が殺されたと言われている。さらに社会主義者やアナーキストが虐殺されているが、そうした犠牲者のひとりがアナーキストの大杉栄だ。彼は妻の伊藤野枝や甥の橘宗一とともに憲兵大尉だった甘粕正彦に殺されたのである。地震当時、東京に住んでいた人の話では、焼き殺された朝鮮人もいたようだ。実行者は日本の庶民にほかならない。
そうした中、JPモルガンは日本に対して緊縮財政の実施と金本位制への復帰を求め、浜口雄幸内閣は1930年1月に要求通りに実行する。緊縮財政で景気が悪化するだけでなく、日本から金が流出して不況は深刻化して失業者が急増、農村では娘が売られる事態になった。
こうした政策を推進した井上は「適者生存」を信奉していた。強者総取り、弱者は駆逐されるべき対象だとする新自由主義的な考え方をする人物だったとも言えるだろう。当然、失業対策には消極的で、労働争議を激化させることになる。浜口は1930年11月に東京駅で狙撃され、31年8月に死亡し、井上は32年2月に射殺された。
1932年に駐日大使として赴任してきたジョセフ・グルーはJPモルガンと深い関係にある。グルーのいとこがジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻なのだ。
この年、アメリカでは大統領選挙があり、ウォール街が操る現職のハーバート・フーバーがニューディール派を率いるフランクリン・ルーズベルトに敗れた。慌てたウォール街の住人はクーデターを目論む。計画の中心的な存在である巨大金融機関のJPモルガンは司令官としてダグラス・マッカーサーを考えたが、人望があり、軍の内部への影響力が大きいスメドリー・バトラーを取り込まないとクーデターは無理だという意見が通り、バトラーに働きかけることになる。
ウォール街のクーデター派はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領への信頼感を失わせるようなプロパガンダを展開、50万名規模の組織を編成して恫喝して大統領をすげ替えることにしていたという。
話を聞いたバトラーは信頼していたフィラデルフィア・レコードの編集者トム・オニールに相談、オニールはポール・コムリー・フレンチを確認のために派遣する。フレンチは1934年9月にウォール街のメンバーを取材、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があるという話を引き出した。バトラー少将は1935年にJ・エドガー・フーバーに接触してウォール街の計画を説明するのだが、捜査を拒否している。日本の政治経済に大きな影響力を持っていたJPモルガンはアメリカでファシズム体制の樹立を目論んでいたわけだ。
日本軍は1927年から28年にかけて山東省へ派兵、1931ねんには柳条湖事件、32年に「満州国」建国、37年に盧溝橋事件、39年にノモンハン事件へと続く。その延長線上にマレー半島や真珠湾への奇襲攻撃がある。
JPモルガンが1932年に日本へ駐日大使として送り込んできたグルーは皇族を含む日本の支配層に強力なネットワークを持っていたが、特に親しかったとされている人物が松岡洋右。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたり、岸もグルーと親しかった。
そのグルーは第2次世界大戦後の日本のあり方を決めたジャパンロビーの中心人物でもある。 この団体の後ろ盾はウォール街だ。つまり、戦前も戦後も支配システムは基本的に同じ天皇制官僚体制であり、「戦前レジーム」だ、「戦後レジーム」だと騒ぐのは滑稽なのである。
アメリカやイギリスの支配層は第2次世界大戦の前と同じように中国やロシアの征服を目論んでいる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202308140000/
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2023/08/31 (Thu) 08:12:48
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100年前の関東大震災を切っ掛けにして日本はウォール街の影響下に入った
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202308300001/
今から100年前の1923年9月1日、東京周辺を巨大地震が襲った。被災者は340万人以上、死者と行方不明者を合わせると10万5000名を上回り、損害総額は55億から100億円に達していたという。復興資金を調達するために外債発行を日本政府は決断、ウォール街を拠点とする巨大金融機関のJPモルガンと交渉する。この巨大金融機関と最も深く結びついていた日本人が井上準之助だ。井上がJPモルガンと親しくなったのは1920年に対中国借款交渉を行った時だという。(NHK取材班編『日本の選択〈6〉金融小国ニッポンの悲劇』角川書店、1995年)
JPモルガンを率いていたトーマス・ラモントは3億円の外債発行を引き受け、1931年までの間に融資額は累計10億円を超えたという。必然的にJPモルガンは日本に大きな影響力を及ぼすようになる。日本の通貨を支配するために金本位制を強制、今の用語を使うならば「新自由主義経済」を導入させた。その結果、日本からは金が流出して不況はますます深刻化、東北地方で娘の身売りが増えることになる。
そうした政策に反発する人たちもいた。例えば血盟団は1932年に井上準之助や団琢磨らを暗殺、36年2月26日には陸軍の青年将校が軍事蜂起している。腐敗した政治家や財界人を排除すれば天皇が素晴らしい政治を行ってくれると信じていたようだが、勿論、間違っていた。天皇も彼らの仲間だったのだ。
ウォール街は帝国主義の牙城だが、その中核がJPモルガンにほかならない。そのウォール街を揺さぶる出来事が1932年にあった。大統領選挙で彼らに担がれていたハーバート・フーバーがニューディール派を率いるフランクリン・ルーズベルトに敗れたのだ。
フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた。利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれ、ウォール街に目をかけられたという。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)
その当時、大統領の就任式は選挙から4カ月後の3月に行われていた。式の直前、1933年2月15日にルーズベルトはフロリダ州マイアミで開かれた集会に参加したのだが、銃撃事件に巻き込まれている。イタリア系のレンガ職人、ジュゼッペ・ザンガラが32口径のリボルバーから5発の弾丸を発射したのだ。弾丸はルーズベルトの隣に立っていたシカゴのアントン・セルマック市長に命中、市長は死亡したものの、ルーズベルトは無事だった。
ザンガラの足場が不安定だったうえ、そばにいたW・F・クロスという女性がザンガラの銃を握っていた腕にしがみついて銃撃を妨害、すぐ別の人も同じようにザンガラの腕にしがみついたと報道されている。クロスによると、ザンガラはルーズベルトを狙っていた。(‘Woman’s courage foils shots assassin aimed at Roosevelt,’ UP, February 16, 1933)
次期大統領の命が狙われた可能性が高いのだが、徹底的な調査は行われていない。事件の真相が明らかにされないまま、ザンガラは3月20日に処刑されてしまった。
ルーズベルトが大統領に就任した後、ウォール街の住人はクーデターを計画する。1933年から34年にかけてのことだ。この事実は名誉勲章を2度授与されたアメリカ海兵隊の伝説的な軍人であるスメドリー・バトラー少将が計画の詳細を聞き出した上で議会において告発、明らかにされた。(Public Hearings before the Special Committee on Un-American Activities, House of Representatives, 73rd Congress, 2nd Session)
バトラーによると、ウォール街の住人たちはドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていた。50万人規模の組織を編成して政府を威圧、「スーパー長官」のようなものを新たに設置して大統領の重責を引き継ぐとしていた。動員する組織として想定されていたのは在郷軍人会だ。
クーデターを計画したグループはアメリカに金本位制を復活させようとしていた。ウォール街に利益をもたらすからだ。失業対策として彼らが考えていたのは強制労働収容所にすぎず、労働者の権利を認めたり公教育を充実させるといった政策は考えていない。
クーデター計画を聞き出したところでバトラーは反クーデターを宣言した。50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分は50万人以上を動かして対抗すると応じた。内戦を覚悟するようにバトラーは警告したのだ。(前掲書)
関東大震災から日本の政治経済に大きな影響を及ばしたJPモルガンをはじめとするウォール街の金融機関とはファシストにほかならない。そのJPモルガンは1932年に駐日大使としてジョセフ・グルーを日本へ送り込んでくる。この人物のいとこにあたるジェーン・グルーが結婚した相手はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥だ。
また、グルーの結婚相手であるアリス・ペリー・グルーの曾祖父にあたるオリバー・ペリーは海軍の軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリー。ジェーン自身は少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通ったという。
グルー夫妻は官僚や財界人だけでなく天皇周辺にも強力な人脈を持っていた。例えば松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らがその人脈には含まれていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945~1952』時事通信社、1994年)
しかし、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在した。離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)
ところで、震災当日、日本の政府は機能していなかった。8月24日に加藤友三郎首相が死亡し、山本権兵衛(ごんのひょうえ)が組閣している最中だったのである。親任式が行われたのは翌日のことだ。
そうした中、震災対策の責任者として活動していたのは水野錬太郎内相と赤池濃警視総監。朝鮮の独立運動を弾圧したコンビだ。
赤池総監は震災当日の午後4時半に東京衛戍司令官の森山守成近衛師団長に軍隊の出動を要請し、皇居、官公庁、駅、銀行、物資集積所などを部隊が警備、憲兵も市内の治安維持にあたった。さらに総監は罷災地一帯に戒厳令を布くべきだと水野内相に進言している。
夕方になると「社会主義者や朝鮮人の放火が多い」とか「朝鮮人が来襲して放火した」、あるいは「不逞鮮人が来襲して井戸への投毒・放火・強盗・●姦をする」といった流言蜚語が飛び交いはじめた。そして9月2日夜に警視庁は全国へ「不定鮮人取締」を打電し、戒厳令も施行されている。
どのようなプロセスで流言蜚語が広まったか不明だが、結果として数千人の朝鮮人や中国人が殺されたと言われている。さらに大杉栄や伊藤野枝を含む社会主義者やアナーキストが虐殺されている。こうした出来事は、少なくとも結果として、中国占領の準備になった。
明治維新以降、日本では民主主義勢力が徹底的に弾圧されていたが、1925年4月には治安維持法が公布され、5月に施行された。1927年5月には第一次山東出兵、28年4月に第二次山東出兵、5月に第三次山東出兵、6月には張作霖を爆殺、31年9月に柳条湖で満鉄の線路を爆破(柳条湖事件)、32年3月に「満洲国」の建国を宣言、そして37年7月の盧溝橋事件というように中国侵略を進めていく。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202308300001/
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2023/09/04 (Mon) 07:41:47
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戦争は勝てる仕組みを作らないと努力しても負けます
2023.09.04
https://www.thutmosev.com/archives/295078dj.html
個人の頑張りで勝てるのは1回だけ。日本軍幹部は過労や整備不良を自慢していた
https://blog.kk-takagi.co.jp/2018/10/15/月月火水木金金
関連動画が記事下にあります
優秀な人が集まる仕組みを作ったアメリカ
一般に西洋の人々は物事の仕組みを作るのが得意で、資本主義や民主主義、大量生産や休暇などはすべて西洋で生まれました
西洋人の中でも米英の中心人種であるアングロサクソンは社会のシステムを作るのが得意で、今もその優位性で世界の上位階層を形成しています
アメリカは今米中経済戦争をしているが閉鎖的で仲間がいない中国に対してアメリカには無数の同盟国や友好国が存在します
中国は世界から優秀な人材を1000人集める「1000人計画」を進めているがその手段は弱みを握って中国で働かせるとか金で勧誘するような事です
アメリカは200年前から優秀な人材を集める仕組みを構築してきたので、全世界のあらゆる優秀な人はすべてアメリカに移住してアメリカで成功するのを望んでいます
なので米中人材競争は始まる前から決着がついていて、中国が勝つことはないだろうと予告します
中国にも優秀な人材はいますが優秀であればあるほど中国から脱出しようとするので、家族を出国できないようにするなど人質をとって中国につなぎ留めている
北朝鮮の金正日という人は人材獲得の重要性を理解していたが、その方法は優秀な人を日本や韓国から拉致するというものでした
北朝鮮の国内では成分という身分制度で一生が決まり、どんなに優秀でも低い成分では活躍できないので外国人を連れて来ても無駄でした
第二次大戦前の日独伊には優秀な人が大勢いて、だからこそ零式戦闘機やポルシェやフェラーリが誕生したが、優秀な人を生かせる仕組みがありませんでした
身分制度や間違った学歴主義、偏狭な独裁政権のせいでアメリカやイギリスに寝返った人もいて自国の潜在力を100%生かしたとは言えない
アメリカの仕組みで驚くのは昨日まで敵対勢力の国民だった人が亡命して来ると、すぐ重要な地位につけて活躍している点でした
アインシュタインはドイツ生まれのドイツ人だったのにドイツはまったく生かすことができず、スイス国籍からアメリカ国籍になりアメリカ人として連合軍の勝利に貢献した
アインシュタインはドイツの教育で物理学者になったのだが、ドイツ政府はせっかく生まれた最も優秀な人材を自ら排斥しました
仮にアインシュタインが協力を申し出てもドイツはユダヤ人の彼を逮捕しただろうし、日本は国籍をコロコロ変える人を絶対に信用しません
日独は勝てる仕組みがなかったから負けた
ドイツのポーランド侵攻とソ連侵攻で第二次世界大戦がはじまりましたが、最初連戦連勝だったドイツ軍はある瞬間から嘘のように連戦連敗に転換してしまいました
原因はトップのアドルフヒトラー総統が現場に介入したからで、スターリングラードという何の価値もない町に総攻撃を命じてなんと兵士150万人を全滅させた
彼がこの町に固執した理由はたったひとつ「スターリン」の名前がついていたからで、そこにスターリンはいないのでどうでも良いのに固執し続けた
最初にポーランド侵攻した理由は「ドイツ国民の人気取り」で、ソ連に侵攻した理由は「イギリスを占領出来なかったので反対側を攻めようや」とせいぜいそんな理由でした
ドイツの戦略は非常に場当たり的で長期的な展望がなく、こんな国と同盟国だった日本は泥沼の戦争に巻き込まれていきました
1941年12月8日にハワイ真珠湾とマレー沖海戦で太平洋戦争が始まり、日本軍は最初連戦連勝だったのにある日を境に負け始めた
その日はおそらく1942年(昭和17年)6月5日のミッドウェー海戦で、敗因は暗号を解読されたとか言われていますが基本的な事を実施していませんでした
空母6隻と戦闘機など数百機を動かすには点検と整備が不可欠ですが、日本海軍は12月8日からほとんど休養を取らず整備もせず戦わせ続けました
半年後にミッドウェーに遠征した時には稼働する偵察機がほとんど皆無だったので、米空母を発見できず逆に発見されて攻撃されました
不思議な事は何もなく「定期整備を怠った自動車が故障した」のと同じですが、なぜか日本軍上層部は「神国日本は不敗である」と信じ込んでいた
そのうぬぼれの根拠は空母乗務員の考えられない重労働で、開戦前からずっと「月月火水木金金」で休養を取らせず猛訓練でしごき続けた
この結果ミッドウェー海戦当日空母乗務員は過労の限界に達していたのでミスを連発し、 司令官の南雲中将も間違った判断を連発した
一方アメリカは真珠湾攻撃で主力艦隊が全滅した後はひたすら兵力を温存し訓練や整備を怠りなくし、ミッドウェー当日は万全の状況で迎えました
ミッドウェー海戦の時点ではレーダーはまだ精度が低かったので、日本側が100%の状態なら余裕で南雲艦隊が勝っていたと思われます
どうして負けたかと言うとひたすら個人の努力のみに依存した日本に対し、アメリカは「勝つ仕組み」を半年かけて整えたからでした
負け始めてからの日本はさらにミスを連発し、何よりも貴重な戦闘機と熟練パイロットを特攻という一回の攻撃で消耗することをやり、しかもそれを上官が「俺が特攻をやらせた」と手柄にして昇進していました
翻るとバブル崩壊前後からデフレの30年間の日本にも、こうした事が山ほどあったような気がします
山本五十六によると勝つ準備を万全に整える事が「必勝の信念」であり兵士の努力に期待するのは愚の骨頂だそうですが、結局彼も精神論の罠に嵌ってしまいました
航空機の整備も点検もせず乗員に休養も与えなかったのでミッドウェー海戦の日には飛べる偵察機がなかった
常識的な事をしてさえいればミッドウェーは勝てた戦いでした
https://www.youtube.com/watch?v=Ff8mcvl5l9s&t=149s
https://www.thutmosev.com/archives/295078dj.html
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2024/02/11 (Sun) 13:51:01
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戦争中の軍人が実は相手側と 通じていた例は過去にもあり、例えば大戦末期の関東軍(中国大陸に出兵した日本軍)の上層部はソ連軍に対し「日本の東半分を与える」という提案をして朝鮮半島の38度線で止まるよう取り引きした
本当にその気があったのか歴史の謎だがソ連軍は真に受けて停止し、その間に米軍を先にソウルに招き入れて米軍対ソ連軍の構図を作り、以降80年近くそのラインは維持されている
また関東軍はあの毛沢東軍と連携して蒋介石の中国軍と戦い、このお蔭て毛沢東軍は世界大戦に巻き込まれず終結後に蒋介石軍を倒す事が出来た
https://www.thutmosev.com/archives/33196.html
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7:777
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2024/09/13 (Fri) 16:59:30
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『後期日中戦争華北戦線:太平洋戦争下の中国戦線Ⅱ』 著・広中一成
2024年9月12日
https://www.chosyu-journal.jp/review/31677
https://www.amazon.co.jp/%E5%BE%8C%E6%9C%9F%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89-%E8%8F%AF%E5%8C%97%E6%88%A6%E7%B7%9A-%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%B8%8B%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%88%A6%E7%B7%9A2-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%BA%83%E4%B8%AD/dp/4040824334#:~:text=%E5%BA%83%E4%B8%AD%20%E4%B8%80%E6%88%90%20(%E8%91%97)
敗戦から79回目の夏を迎え、先の大戦がなぜ起こったのか、二度とあのような悲劇を起こさないためになにができるかをめぐって論議が活発になっている。
この本は、太平洋戦争の真っ最中に中国戦線で何が起きていたのかをテーマにしている。日中戦争は、1937年の盧溝橋事件から日本が敗戦を迎えた1945年8月まで続くが、その途上の41年12月に日米戦争が開戦してからはそれまでと様相が一変してしまったのに、戦後の研究では注目されないままにきていた。1978年生まれ、愛知学院大学准教授の著者は、これまでの研究の蓄積を踏まえつつ、日米戦争開戦以降の中国戦線、それも華北戦線(主に河北・山西・山東・河南の四省)に着目し、そこで何が起こったかをまとめた。2021年に同じ著者が著した『後期日中戦争―太平洋戦争下の中国戦線』の続編である。
日中戦争の開戦時から敗戦まで、中国には日本陸軍の100万人以上の兵士が釘付けになっていた。1941年当時、華北には日本陸軍の北支那方面軍35万4000人がいたが、八路軍の遊撃戦に翻弄され、広大な中国大陸の点と線の支配しかできていなかった日本軍は、次第に追い詰められていた。業を煮やした日本軍が使ったのが毒ガスと細菌兵器であり、三光作戦(焼き尽くす・殺し尽くす・奪い尽くす)だった。
この本にはたくさんの兵士の証言が掲載されている。そのなかには「日本のためにならない匪(ひ)賊を退治するのが戦争だと学校の先生も、お役人も、坊さんもそう教えた。私はお国のために尽くせる兵隊となって戦地に渡った。だが、戦場は違った」「“部落掃討、火をつけろ”という大隊長の命令が伝わるや、和やかだった部落に日本兵の怒号が響く。100軒あまりの家が1軒残らず焼き払われ、逃げ遅れた婦人や子供、老人や病人、数十人の人たちが、家もろともに焼き殺され、あるいは刺し殺された」という証言がある。
しかし日本軍は八路軍を撃退できなかったばかりか、かえって戦力を増大させて反撃を受けた。ある将校は戦後、「日本軍はバカの一つ覚えのように、満州事変頃と同じ匪賊討伐をくり返し、その観念から抜けきれなかった。そして八路軍の勢力が伸張していくのは、思想の力でも首脳部の領導のよさでもなく、具体的に民衆の訴えに応えてやる者が彼らしかいなかったからだ」と書いている。
一方、一銭五厘の赤紙で召集された日本の兵士も悲惨なものだった。1944年4月、大本営は「米軍が使っている中国南西部の飛行場を撃滅せよ」とって、51万人の日本兵に1500㌔の行軍を強いた。これは「大陸打通作戦」と呼ばれるが、米軍の空襲を避けながらの強行軍で、アメーバ赤痢やマラリアにかかって脱落する兵士があいつぎ、約10万人が戦病死したという。中国戦線でももはや武器弾薬も食料もなく、まともに戦える状態ではなかった。
この頃から華北では、八路軍の反転攻勢が始まる。日本軍の補給路を断ち、日本側の拠点を次々と奪取したこと、日本軍の支配から解放した地区では農民たちに対する租税減免を徹底したことなどが記されている。ヨーロッパ戦線に目を転じれば、43年頃からソ連軍がドイツ軍に対して優位に立った。
この頃の日本軍占領地について、北支那方面軍の参謀だった寒川吉溢はこう振り返っている。「方面軍占領地域である三特別市(北京・天津・青島)と400県において、治安良好なのは3特別市の他七県(1・6%)に過ぎず、八路軍の支配と認めざるをえないものが139県(31・5%)。全体の66・9%に当たる295県でも、日本軍は県城を中心に若干の郷村に分駐しているだけで、民心はむしろ八路軍側に傾くものが多い」という実情だった。
済南に米軍上陸を阻止するための陣地を構築していた第42大隊歩兵砲中隊の真壁秀松は、当時をこう振り返っている。「四方八方敵だらけ、八路軍が集合し攻撃をかけてきたようである。あっという間もなく旅団長が倒れる。司令部が慌てふためく。旅団にしてもわが大隊にしても、指揮系統が乱れて烏合の衆といってよく、まったく処置なしである」
勝利の見込みなく日米開戦
著者は以上のことから、「太平洋戦争で日本は完膚なきまでに叩きのめされた。だが、もう一つ知っておかねばならないのは、華北戦線でも八路軍の反転攻勢で日本軍は一気に崩壊し、完全に敗北したということだ。このことを認めれば、アジア太平洋戦争に対するわれわれの歴史認識もさらに正確なものになるだろう」と指摘している。
さらにいえば、 すでに1941年の日米開戦時に、中国戦線での日本軍の戦死者は18万5000人を数え、勝利の見込みは断ち切られていた。太平洋戦争でアメリカに負ける前に、中国でさんざんにやられていたのだ。当時、アメリカと日本の戦争の最大争点は中国市場の争奪にあり、日本がアメリカの蒋介石への支援ルートを断とうとすると、アメリカは在米資産凍結、石油輸出の全面禁止をやり、中国からの日本軍の全面撤退を要求した。しかし天皇をはじめ日本の権力中枢は、中国に敗北したとなれば自分たちの権威は丸つぶれとなり、そこから内乱・革命に発展することを恐れて、日米開戦に進み、最後には日本全国を焦土にしてアメリカの単独占領を受け入れた。彼らは国民がどうなろうが、自分たちの地位を守ることにしか関心がない。こうしたことを含め、第二次大戦の性質をめぐる研究がさらに進むことが期待される。
(角川新書、302ページ、定価960円+税)
https://www.chosyu-journal.jp/review/31677
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8:777
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2024/10/22 (Tue) 06:32:49
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2024-10-16
『日本のいちばん長い日』 -- 天皇の「わたくし自身はいかようになろうとも」発言はあったのか?
https://vergil.hateblo.jp/entry/2024/10/16/113231
日本のいちばん長い日 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%95%B7%E3%81%84%E6%97%A5
映画『日本のいちばん長い日』(1967年)
https://www.dailymotion.com/video/x8obxsl
https://www.bing.com/videos/search?q=%E6%98%A0%E7%94%BB%20%20%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%95%B7%E3%81%84%E6%97%A5%20&qs=n&form=QBVR&=%25e%E6%A4%9C%E7%B4%A2%E5%B1%A5%E6%AD%B4%E3%81%AE%E7%AE%A1%E7%90%86%25E&sp=-1&lq=0&pq=%E6%98%A0%E7%94%BB%20%20%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%95%B7%E3%81%84%E6%97%A5%20&sc=10-15&sk=&cvid=07A7D05E8AC044729CB84C60768D9D5F&ghsh=0&ghacc=0&ghpl=
岡本喜八監督による映画『日本のいちばん長い日』(1967年)。日本の降伏に至る最後の数日間、とりわけ8月15日の「玉音放送」までの24時間を、息詰まるような緊張感で描いた名作、と評価されている。
ただし、私はこれが名作とはまったく思わない。その理由は以前こちらの記事に書いておいた。
『日本のいちばん長い日』-- 名作と言われるこの映画も、改めて見直してみたら愚かな茶番劇でしかなかった。
https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/04/08/074516
この映画の「感動的」シーンの一つに、最終的にポツダム宣言受諾を決めた御前会議(1945年8月14日)の席上、天皇裕仁が涙ながらに降伏を決意した理由を語る場面がある。
映画のこの場面での天皇の発言全文は以下のとおり。
(阿南陸相の受諾反対論を聞いた後で)
反対論の趣旨は、つぶさによく聞いた。
しかし、わたくしの考えは、この前も言ったとおりで、変わりはない。
これ以上戦争を続けることは、無理である。
陸海軍の将兵にとって、武装解除や保障占領は耐えられないであろう。
国民が玉砕して国に殉ぜんとする気持ちもよくわかる。
しかし…(ここでポケットからハンカチを出して涙を拭う)しかし、わたくし自身はいかようになろうとも、国民を…国民にこれ以上苦痛を舐めさせることは、わたくしには忍び得ない。(涙声)
できることは、何でもする。
わたくしが、直接国民に呼びかけるのがよければ、マイクの前にも立つ。
陸海軍将兵を納得させるのに陸軍大臣や海軍大臣が困難を感ずるのであれば、どこへでも出かけて、なだめて説き伏せる。
(鈴木総理に向かって)鈴木、内閣は至急、終戦に関する詔書を用意してほしい。
(列席者一同すすり泣き)
いかにも、苦しむ国民を救うために我が身の危険もかえりみずに決断を下す指導者、というイメージだが、裕仁は本当にこんなことを言ったのだろうか?
敗戦後は保身に汲々とし、マッカーサーに媚びていた裕仁の姿を知っていれば、こうした疑問が出てくるのは当然だろう。
原作である半藤一利の『日本のいちばん長い日』では、この天皇発言についてこう注記している。[1]
(9)天皇のお言葉は、左近司、太田、米内各大臣らの手記を参照し、鈴木総理にもたしかめて、下村宏氏が記述した左のものがいちばん忠実に写しとっているとされている 。
「反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えは、この前いったことに変りはない。私は、国内の事情と世界の現状をじゅうぶん考えて、これ以上戦争を継続することは無理と考える。国体問題についていろいろ危惧もあるということであるが、先方の回答文は悪意をもって書かれたものとは思えないし、要は、国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の回答を、そのまま受諾してよろしいと考える。陸海軍の将兵にとって、武装解除や保障占領ということは堪えがたいことであることもよくわかる。国民が玉砕して君国に殉ぜんとする心持もよくわかるが、しかし、わたし自身はいかになろうとも、わたしは国民の生命を助けたいと思う。この上戦争をつづけては、結局、わが国が全く焦土となり、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、わたしとして忍びない。この際和平の手段にでても、もとより先方のやり方に全幅の信頼をおきがたいことは当然であるが、日本がまったくなくなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる。わたしは、明治天皇が三国干渉のときの苦しいお心持をしのび、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う。これからは日本は平和な国として再建するのであるが、これはむずかしいことであり、また時も長くかかることと思うが、国民が心をあわせ、協力一致して努力すれば、かならずできると思う。わたしも国民とともに努力する。
今日まで戦場にあって、戦死し、あるいは、内地にいて非命にたおれたものやその遺族のことを思えば、悲嘆に堪えないし、戦傷を負い、戦災を蒙り、家業を失ったものの今後の生活については、わたしは心配に堪えない。この際、わたしのできることはなんでもする。国民はいまなにも知らないでいるのだから定めて動揺すると思うが、わたしが国民に呼びかけることがよければいつでもマイクの前に立つ。陸海軍将兵はとくに動揺も大きく、陸海軍大臣は、その心持をなだめるのに、相当困難を感ずるであろうが、必要があれば、わたしはどこへでも出かけて親しく説きさとしてもよい。内閣では、至急に終戦に関する詔書を用意してほしい」
本文での御前会議の描写もこの内容に基づいたものとなっており、映画版の天皇発言は、脚本を書いた橋本忍(戦後日本人の被害者意識をくすぐって大ヒットした『私は貝になりたい』の脚本家でもある)による、この内容の見事な要約と言えるだろう。
ところが、半藤はこれに続けて御前会議に出席していた陸軍参謀総長 梅津美治郎によるメモの内容も載せていて、こちらの天皇発言は大きく違うのだ。[2]
なお梅津参謀総長の鉛筆書きのメモが残されている。それによれば、天皇の発言は、
「自分ノ非常ノ決意ニハ変リナイ
内外ノ情勢、国内ノ情態、彼我国力戦力ヨリ判断シテ軽々二考へタモノデハナイ
国体二就テハ敵モ認メテ居ルト思フ 毛頭不安ナシ 敵ノ保障占領ニ関シテハ一抹ノ不安ガナイデハナイガ 戦争ヲ継続スレバ国体モ国家ノ将来モナクナル 即チモトモ子モナクナル
今停戦セバ将来発展ノ根基ハ残ル
武装解除ハ堪へ得ナイガ 国家ト国民ノ幸福ノ為ニハ明治大帝ガ三国干渉二対スルト同様ノ気持デヤラネバナラヌ
ドウカ賛成シテ呉レ
陸海軍ノ統制モ困難ガアラウ
自分自ラ『ラヂオ』放送シテモヨロシイ
速二詔書ヲ出シテ此ノ心持ヲ伝へヨ」
と要約されている。
こちらには「わたし自身はいかになろうとも」云々の言葉はないし、降伏を決めた理由も、降伏しても「国体(天皇制)」は維持できると確信しており、逆に降伏しなければそれが「元も子もなくなる」からである。
大本営『機密戦争日誌』には、同じく御前会議に出席していた陸軍省軍務局長 吉住正雄から伝達された、「御言葉」の要旨が記録されている。[3][4]
十、次デ、軍務局長ヨリ、本日御前会議ニ於ケル御言葉ヲ伝達ス。要旨左ノ如シ。
自分ノ此ノ非常ノ決意ハ変リハナイ。
内外ノ動静国内ノ状況、彼我戦力ノ問題等、此等ノ比較二附テモ軽々二判断シタモノデハナイ。
此ノ度ノ処置ハ、国体ノ破壊トナルカ、否しかラズ、敵ハ国体ヲ認メルト思フ。之ニ附テハ不安ハ毛頭ナイ。唯反対ノ意見(陸相、両総長ノ意見ヲ指ス)ニ附テハ、字句ノ問題卜思フ。一部反対ノ者ノ意見ノ様ニ、敵二我国土ヲ保障占領セラレタ後ニドウナルカ、之二附テ不安ハアル。然シ戦争ヲ継続スレバ、国体モ何モ皆ナクナッテシマヒ、玉砕ノミダ。今、此ノ処置ラスレバ、多少ナリトモ力ちからハ残ル。コレガ将来発展ノ種ニナルモノト思フ。
――以下御涙卜共ニ――
忠勇ナル日本ノ軍隊ヲ、武装解除スルコトハ堪エラレヌコトダ。然シ国家ノ為ニハ、之モ実行セネバナラヌ。明治天皇ノ、三国干渉ノ時ノ御心境ヲ心トシテヤルノダ。
ドウカ賛成ヲシテ呉レ。
之ガ為ニハ、国民二詔書ヲ出シテ呉レ。陸海軍ノ統制ノ困難ナコトモ知ッテ居ル。之ニモヨク気持ヲ伝ヘル為、詔書ヲ出シテ呉レ。ラヂオ放送モシテヨイ。如何ナル方法モ採ルカラ。
内容は梅津メモとよく一致している。
また、こちらの発言要旨からは、裕仁が涙を流したのは国民の苦難を思ってのことなどではなく、自分の軍隊である皇軍を武装解除させられる屈辱からであったことも分かる。
御前会議の席上でリアルタイムに書かれたメモや当日中に伝達された内容と、戦後になってから関係者(単にその場にいた人ではなく、裕仁を免責したいという強い動機を持つ利害関係者である)の手記や聞き取りをもとに書かれた内容と、どちらが信用できるだろうか?
常識的に考えて、答えは自明だろう。
ついでに言えば、下村宏がまとめた天皇発言自体からも不自然さは読み取れる。
裕仁は「明治天皇が三国干渉のときの苦しいお心持をしのび、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う」と言っているのだが、三国干渉とは、西欧列強の圧力により日清戦争で日本が清から強奪した権益の一部(遼東半島)を返還させられたものだ。
確かに明治天皇睦仁にとっては屈辱だっただろうが、天皇その人が戦犯として裁かれるかどうか(処刑もあり得る)という事態とでは比較にもならない些事だろう。三国干渉がどうこうと言っている時点で、裕仁には「わたし自身はいかになろうとも」などという覚悟はないのだ。(ちなみに映画版ではこの「三国干渉」云々はカットされている。)
ところで、半藤が「いちばん忠実に写しとっているとされている」と評する内容を記した下村宏は、鈴木貫太郎内閣の情報局総裁である。つまり、玉音放送の直前までデタラメを流し続けてきた大本営発表の親玉なのだ。
映画『日本のいちばん長い日』で描かれた感動シーンは、下村宏がでっち上げたシナリオを半藤一利がもっともらしく修飾し、橋本忍が感動ストーリーに仕上げた醜悪なフェイクでしかない。
[1] 半藤一利 『日本のいちばん長い日 決定版』 文春文庫 2006年 P.73-74
[2] 同 P.74-75
[3] 軍事史学会編 『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌 下』 錦正社 1998年 P.763-764
[4] 岩井秀一郎 『最後の参謀総長 梅津美治郎』 祥伝社 2021年 P.225-226
https://vergil.hateblo.jp/entry/2024/10/16/113231
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2021-04-08
『日本のいちばん長い日』-- 名作と言われるこの映画も、改めて見直してみたら愚かな茶番劇でしかなかった。
https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/04/08/074516
半藤一利の原作をほぼ忠実に映画化した、岡本喜八監督の映画『日本のいちばん長い日』(1967年)。日本の降伏に至る最後の数日間、とりわけ8月15日の「玉音放送」までの24時間を、息詰まるような緊張感で描いた名作と評価されている。
以前見たときは確かに私もそう感じたのだが、最近改めて見直してみたところ、もう、この映画はただの茶番劇にしか見えなくなっていた。
脚本や演出が悪いのではない。役者の演技が大根というわけでもない。実際、この映画では、錚々たる名優たちがそれぞれの役を熱演していた。
鈴木貫太郎首相 - 笠智衆
阿南惟幾陸相 - 三船敏郎
米内光政海相 - 山村聡
天皇裕仁 - 松本幸四郎
下村宏情報局総裁 - 志村喬
井田正孝中佐 - 高橋悦史
畑中健二少佐 - 黒沢年男
徳川義寛侍従 - 小林桂樹
ダメだったのは、彼らが演じた人物たちそのものだ。
号泣する男たち
この映画では、いい大人の、それも責任ある地位にある男たちが、実によく泣いている。
たとえば、ポツダム宣言の受諾にあたって、天皇および日本政府の権限は連合国軍最高司令官に「subject to(従属)」する、という条件を受け入れるかどうか、閣議では決められないまま8月14日11時頃から開かれた御前会議の場面。
裕仁が立ち上がり、「わたくし自身はいかようになろうとも、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、わたくしには忍び得ない。できることは何でもする。わたくしが国民に直接呼びかけることがよければ、マイクの前にも立つ」と語ると、居並んだ閣僚たちはみな嗚咽をもらし、ある者など椅子からくずれ落ちて絨毯に膝をつき、泣き声を上げる。裕仁本人もしきりにハンカチを頬に当てて涙をぬぐっている。
バカじゃなかろうか。
事ここに至ったのは、戦局が既に絶望的になっているにもかかわらず戦争をやめるという決断ができず、何の見通しもないままずるずると事態を引き延ばしてきたこの者たちの無能・無責任のせいではないか。
もちろんこの無責任集団には裕仁本人も含まれる。半年前の45年2月、近衛文麿元首相が「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存じ候」と上奏して終戦交渉を促したとき、「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話はむずかしいと思う」とこれを拒絶したのは裕仁だったのだから[1][2]。仮にこの時点で降伏に向けた交渉を始めていれば、東京大空襲も沖縄戦も原爆もなく、国民に無用の苦痛をなめさせずに済んだはずだ。
「わたくし自身はいかようになろうとも」という裕仁のご立派な発言も、せいぜいその場の雰囲気にのまれて口走った程度でしかなかったことは、その後責任回避に汲々とし、退位すら拒否したその行動から明らかだろう。
御前会議から戻った阿南陸相に無条件降伏が決まったと聞かされ、陸軍省の幕僚たちが号泣するという場面もあった。
彼らが呼号してきた本土決戦が不可能になり、(もともと成算はゼロだったのだが)上陸してきた連合軍に痛撃を加えて有利な講和に持ち込むことも、最後まで戦って「悠久の大義」に散ることもできなくなった痛憤からだろうが、なんという幼稚さか。
お前たちが安全な内地で非現実的な作戦計画にうつつを抜かしていたころ、前線ではロクな補給も受けられないまま兵たちがばたばたと餓死し、あるいはバンザイ突撃で無意味な死を強いられていたのだ。
だいたい、大事な夫や息子や父親や兄弟を徴兵された家族たちは、彼らが白木の箱に収められた一片の骨、ひどい場合には珊瑚のかけらや石ころになって帰ってきても、お国のために命を捧げた名誉なこととして、泣くことすら許されなかったのだ。そんな非道を強いてきたお前たちに、自分らの妄想が実現できなくなっただけで泣く資格などありはしない。
最後の場面に至ってなお字句の修正に執着する愚か者たち
無条件降伏が決定し、「玉音放送」で裕仁が読み上げる「終戦の詔書」を作成する段階になると、閣僚たちは今度はその細かな字句の修正にまた貴重な時間を費やしていく。
大して長くもない詔書なのに、修正は何十箇所にも及んだ。
とりわけバカバカしいのは、原案のまま「戦勢日に非にして」とするか「戦局好転せず」と修正すべきかをめぐって争われた論戦だろう。
阿南陸相は、「個々の戦闘では負けたが、最後の勝負はまだついておらん」「陸軍は小さな島で戦いをやっただけで、一度も本格的な会戦はやっておらん」「しかるに負けたという、この戦勢非にしてというのでは、その死んでいった三百万の人々になんとして申し訳が立つ」と言って修正を主張するのだが、「戦勢日に非にして」であろうが「戦局好転せず」であろうが、どちらにしても、負けっぱなしでもうどうしようもない、という意味に違いはない。こんな字句にこだわることに何の意味があるのか。
ちなみに、映画ではセリフとして出てこないが、阿南は「この原案のままではいままでの大本営発表がすべて虚構であったということになる」とも述べたようだが[3]、詔書の文面をどういじろうが大本営発表が嘘だらけだったことに変わりはない。字句をいじって現実を糊塗しようとするその手口は大本営発表そのままであり、そういうことをしているからこんな事態に追い込まれたのだ。
すったもんだの末、詔書は裕仁本人も数箇所修正してようやく完成するのだが、粗末なラジオで雑音だらけの玉音放送を聞かされた国民には、どうやら戦争に敗けたらしい、とおぼろげに理解できただけで細かな文言など聞き取れなかったのだから、もはや笑うしかない。
戦争犯罪の証拠を燃やす隠蔽行為をあっさりスルー
降伏と聞いて号泣したり虚脱状態に陥っていた陸軍中央の一部若手将校たちは、やがて宮城を占拠して玉音放送の録音盤を奪取し、天皇に翻意させて戦争継続に持ち込もうという、クーデター計画に走っていく。
彼らが陸軍省で愚かな計画を練っていた頃、その背景として、裏庭にせっせと省内にある文書を持ち出しては焼き捨てる光景が映し出されていた。
これは、侵略戦争の犯罪性を示す証拠を隠滅しようとする、それ自体重大な犯罪行為である。後に、主犯の一人である奥野誠亮が次のように平然と述べている。(読売新聞 2015/8/11)
もう一つ決めたことは、公文書の焼却だ。ポツダム宣言は「戦犯の処罰」を書いていて、戦犯問題が起きるから、戦犯にかかわるような文書は全部焼いちまえ、となったんだ。会議では私が「証拠にされるような公文書は全部焼かせてしまおう」と言った。犯罪人を出さないためにね。
だいたい、政府・軍部はこの戦争を、欧米の植民地支配からアジアを解放する正義の戦いだと言ってきたではないか。それが事実なら、ここで燃やされている膨大な書類は、たとえ敗けても裁判の場で連合国に対して日本の正当性を主張するための貴重な証拠となったはずだ。それを自分で燃やしてしまうというのは、「正義の戦い」など大嘘だったことを自ら白状しているに等しい。
しかしこの映画では、そうした犯罪性には一切言及することなく、まるで当然のことのように燃やされる書類の山を淡々と映しているだけだった。
エンディングから垣間見える独善的歴史観
ある映画が何を描いてきたのかは、そのエンディングに集約した形で示される。
この映画の終わりでは、廃墟となった街や戦死者の姿に重ねて、次のような文字列が映し出される。
「太平洋戦争に兵士として参加した日本人 1,000万人(日本人男子の1/4)」
「戦死者200万人 一般国民の死者100万人 計300万人(5世帯に1人の割合いで肉親を失う)」
「家を焼かれ 財産を失った者 1,500万人」
そしてナレーションで「いま私たちは、このようにおびただしい同胞の血と汗と涙であがなった平和を確かめ、そして、日本と日本人の上に再びこのような日が訪れないことを願うのみである。ただそれだけを…」と締めくくられるのだが、そこに、日本がどれほどの惨害を近隣アジア諸国に与えてきたかの言及は一切ない。ただひたすら、戦争で日本人はこんなにひどい目にあった、だから平和が大事、というだけである。
この映画は、自分たちが何をしてしまったのかへの反省がまったくない、最後まで独善的な茶番劇でしかなかった。
[1] 吉田裕 『昭和天皇の終戦史』 岩波新書 1992年 P.22
[2] 山田朗 『昭和天皇の戦争 ー 「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』 岩波書店 2017年 P.244-245
[3] 半藤一利 『日本のいちばん長い日 決定版』 文春文庫 2006年 P.124
https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/04/08/074516