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2022.12.04
消費される「縄文」 現代への不満と表裏一体に「作られた」古代宗教
岡本亮輔
https://www.gentosha.jp/article/22074/
世界屈指の「無宗教の国」とされる日本。しかし初詣は神社に行き、結婚式は教会で、葬式は仏式で、というのは一般的です。日本人にとって宗教とはどのようなものなのでしょうか。伝統宗教から新宗教、パワースポットや事故物件、縄文などの古代宗教。さまざまな観点から日本人と宗教の不思議な関わりを解き明かす
『宗教と日本人』(中公新書)
https://www.amazon.co.jp/%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA-%E8%91%AC%E5%BC%8F%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%8B%E3%82%89%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%BE%E3%81%A7-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-2639-%E5%B2%A1%E6%9C%AC-%E4%BA%AE%E8%BC%94/dp/412102639X
より、一部を抜粋してお届けします。
豊かに語られる縄文人の心と信仰
近年の縄文文化をめぐる動向としては、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界文化遺産登録運動が重要だろう。2019年末に同物件の推薦が閣議決定され、順調にいけば、2021年夏にユネスコ世界遺産委員会で審議される見込みだ(編集部注:審議の結果、世界遺産に登録することが決定しました)。その構成資産となる各地の遺跡では、縄文人の心や信仰が実に豊かに語られる。
秋田県鹿角市の大湯ストーンサークル館には、夏至の日に縄文人が儀礼を行う姿を想像して描かれた絵がある。縄文人たちが輪になって座り、中心には太陽に向かって両手を掲げる人物がいる。絵の右上には、「大湯遺跡の祭りのクライマックス。特別な立場の人物が環状列石の中心に座り、特殊組石の立石の向こうに日が沈むのをみとどける。先祖の墓からなる舞台装置の中で、参加者の意識は高揚する」という説明文が添えられている。太陽崇拝と先祖祭祀が読み込まれているのである。
北海道千歳市には、縄文時代後期に造られた集団墓「キウス周堤墓群」があり、墓の中から赤い顔料が見つかっている。千歳市埋蔵文化センター展示室の説明板では、赤は太陽や血の色であるため、縄文人が死者の再生を願って撒かれたものと推察されている。他にも、石棒は男性のシンボルで特別な霊力を持ったシャーマンが所持したもの、子供の足形のついた土版は死んだ母親に持たせたものといった具合に、縄文人の信仰と実践が解説されるのだ。
2018年7月には、NHKで放送された『歴史秘話ヒストリア』の「縄文一万年の美と祈り」で大島直行の主張が参照され、縄文人の月信仰が詳しく紹介された。また、岩手県の御所野縄文博物館では、世界遺産登録運動のための一連の講演会が行われ、大島も登壇している。
講演内容は、
同博物館編『環状列石ってなんだ』(2019年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4787718193?tag=gentoshaplus-22
に収められているが、そこでも、「「月」と「子宮」と「水」と「蛇」の関係が、一連のものとしてシンボライズされているのは、世界中で常識となっています」と主張され、縄文土偶だけでなく、イースター島のモアイ像も、妊娠した女性が月を見ている姿であるといった解釈が披露されている。
現代社会への不満と表裏一体に投影される縄文のイメージ
興味深いのは、ケルトにも見られたように、想像力で復元した縄文文化が現代人にとっての規範やアイデンティティの源泉とみなされ、それが世界遺産の推薦書原案のような公的な文書にも見られることだ。
世界遺産登録のためには、その物件が他にはない顕著な普遍的価値を有することを示す必要がある。2013年の推薦書原案では、縄文には「堀(濠)や防御施設のない協調的、開放的な社会の継続的な形成」が見られ、農耕牧畜とは異なる「縄文里山の成立による持続可能で自然資源の巧みな利用による定住を実現」したことが、普遍的価値の源泉として述べられている。
そして、縄文人に学ぶためのワークショップが、各地の博物館で開催されている。御所野縄文博物館では、各種の「縄文体験」が準備されている。教育関係者用のパンフレットでは、木の皮のストラップや植物の繊維のコースターを作ることで、「縄文人は季節に合わせて上手に生活していた」といった学びがあることが強調される。青森県の三内丸山遺跡にも同様の体験プログラムがあり、季節ごとに祭りも開催されている。
人類学者の古谷嘉章は、ブラジルのアマゾン地方の住民に、彼らのルーツではない先史時代の文化の土器のレプリカを作るといった「先史文化の現代的利用」が見られることに着想を得て、現代日本で縄文が消費される現象に注目している(『縄文ルネサンス』)。
https://www.amazon.co.jp/dp/4582838243?tag=gentoshaplus-22
確かに博物館による縄文体験プログラムや縄文まつりは全国各地で開催され、他にも、地方自治体による縄文文化を利用したまちづくり、人材育成、広域ツーリズムの創出などもある。さらに縄文からインスピレーションを得たミュージシャンや芸術家によるフェスやイベント、土偶をデザインした縄文グッズ開発など、例を挙げればきりがない。
古谷はこれらを「知らなかった縄文文化(のモノ)に、気づかなかった価値を見出し、現代社会で生きる私たちの生活に活かす、多種多様な現象」として総括し、「縄文ルネサンス」と名づけている。重要なのは、縄文ルネサンスの興隆は現代社会への不満と表裏一体で、「「問題含みの現在のイメージ」と「縄文イメージ」がネガとポジの関係にある」という指摘だ。現代社会は平和ではなく、格差が広がり、環境が破壊されていると感じる人々が、その対極を縄文に見出すのである。
信仰なき信仰構築
考古学者の山田康弘によれば、縄文時代後半には階層社会が出現した可能性がある。また、縄文人の遺骨の多くに傷痕がないことを理由に、縄文に戦争はなかったなどと言われるが、これまで発掘された遺骨はごくわずかで、むしろ、それらに石斧で打撃を加えられた頭蓋骨などが一定数含まれることを考えると、縄文にも暴力は当然あったとしか言えないという。さらに、食糧のほぼ全てを自然に依存していた縄文人には自然との共生以外に選択肢はなく、環境保護思想があったわけでもない(『縄文時代の歴史』)。要するに、堕落した近代社会と理想的な古代社会という対比が繰り返されているのである。
第2章で取り上げた写真家エバレット・ケネディ・ブラウンも、著書『失われゆく日本』を「縄文のコスモロジー」という章で結んでいる。それによれば、縄文人は土器や土偶などのものづくりを通して神や「絶対の世界」といった「大いなるもの」を見ており、そうした中から信仰が生まれてきたかもしれないという。遠く隔たった他者の信仰であるからこそ、自由に語れる。宗教的なのは古代人ではなく、古代人の信仰を想像的に作り出して規範とし、時にそれに基づいた実践を行う現代人なのである。
エリアーデであれば、葬式の祭壇の装飾や焼香の所作に無数の再生を願うシンボルを見つけ出し、地鎮祭は天地開闢の反復であると読解するだろう。そして、東京スカイツリーは世界の柱で、天空的祖型への憧憬だと論じ、周囲を流れる隅田川、旧中川、荒川は蛇のシンボリズムだと指摘してみせるかもしれない。しかし、こうした議論は、現代社会への不満や批判が、古代人という想像上の他者に仮託されて噴出したものである。
そして重要なのは、自らの信仰が他者に重ねられるわけではないことだ。自分が一度として信じたことのない信仰が、古代人をはじめとする他者の信仰として語られるのだ。現代宗教として注目すべきなのは、語りえぬ他者の信仰を想像し、それがいかに社会的に共有されるか。つまり、世俗社会の信仰なき人々によって信仰が作られる過程そのものなのである。
https://www.gentosha.jp/article/22074/
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冬至と夏至の古代太陽信仰
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日本列島の巨石文化
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縄文時代の人々の言葉・食べ物・服装・道具や 遺跡・土器を学ぼう
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2023/08/03 (Thu) 09:30:58
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縄文人の信仰
https://rekishi-memo.net/joumonjidai/saishijou.html
縄文人に恵みと災いをもたらした自然
祭礼は秋に行った
縄文時代の人々は人間の知恵や力が及ぶ領域が限られていた。
その為、縄文人は自然界の万物に対して畏敬の念を抱いていた事だろう。
自然界では木の実や山菜、動物、水など、人間が生きていくために必要な恵みをもたらした。
縄文人はその恵みに感謝し、収穫が行われる秋に祭礼を行ったと考えられる。
自然災害を恐れた縄文人
自然は台風や地震、豪雪など、様々な災いをもたらした。
現代でも災害は脅威であり、縄文人が抱いた恐怖は大変なモノであっただろう。
自然は人の命を繋ぐ存在であり、奪う存在でもあった。
特に縄文人は火山の噴火を恐れた事だろう。
約7300年までには鹿児島県沖の鬼界カルデラで噴火が発生、西日本の縄文文化は一時後退する程の被害を被った。
ただし、火山の近くには黒曜石などの資源もあり、火山が人々に恵みを与えていた事も事実である。
太陽を用いて時間の流れを把握した
電気による証明も無ければ、火を使った照明を発明するまで、人は多くの時間を要した。
唯一の照明だった太陽は、縄文人にとっては何よりも偉大な存在であっただろう。
縄文人は太陽の動きを把握する事で、「一年」を観測するカレンダーとして用いたと考えれている。
縄文時代の祭祀場
縄文人は神々に日頃の恵みを感謝し、祈りを捧げていた。
縄文時代の集落の中央には祭祀場と思われる遺跡が発掘されている。
全国各地にあるストーンサークルは、彼らの「祈りの場所」だった可能性があるのだ。
縄文人たちの祈り・祭祀を探ってみよう。
環状集落の中央で祭祀が行われた
科学が発達していなかった時代、人々は地震や火山の噴火、大雨や嵐、河の氾濫など、人の力の及ばない自然災害を「神の怒り」と考えていただろう。
その為、自然の神々への祈りは特に重要視されてきた。
神々と対話できる呪術に長けた人が尊敬されるようになり、いつしか集落のリーダー格となったとみられる。
集落内に一定の階層があった
また、当時は狩猟や漁労を生業としていたので、狩りなどに長けた人も尊敬の対象となり、集落のまとめ役になったと考えられる。
縄文時代は食料や生活資源を分け合う平等社会だったが、後期~晩期になると豪華な副葬品を有する死者が現れるようになる。
封建社会のような身分の差はなかったと思われるが、呪術師(シャーマン)などのリーダー格と一般のムラ人との間には一定の階層差はあったと推測される。
弥生時代に入るとその傾向はさらに顕著になり、邪馬台国の女王・卑弥呼のような指導者まで現れた。
集落内の祈りの施設で祭祀を行った
それでは、縄文時代の人々は何処で祈りを捧げていたのか。
大規模集落は中央の広場を囲んで住居群が配置される環状集落の形態を執ったが、この中央の広場で祭祀が行われたとみられている。
集団が共同生活を営むには、こうした「祈りの場所」が必要不可欠だったようだ。
ストーンサークル
秋田県鹿角市の大湯環状列石
大規模集落には貯蔵穴、ゴミ捨て場など生活に役立つ施設が設けられたが、祭祀が行われたとされる遺構も発見されている。
その代表的な存在といえるのが、秋田県鹿角市にある大湯環状列石だ。
石組みの環状列石は北側の野中堂(直系40~42メートル)と南側の万座(直系45~46メートル)からなり、内側にもそれぞれ直系15メートル程度のサークルがある。
環状列石の周辺には貯蔵穴や土杭、掘立柱建物などの跡のほか、土器や土偶も出土している。
大型の日時計だった
大湯環状列石には日時計状の組石があり、環状列石の中心部から日時計の中心部を見た方向は、夏至になると太陽が沈む方向になる。
その為、この地で何かしらの祭祀が行われた可能性が高い。
各地のストーンサークル
日本列島のストーンサークルは主に北海道や東北で見付かっており、青森県にある小牧野遺跡の物は細長い石を縦長に並べた独特な石の組み方をしている。
また、秋田県の伊勢堂岱遺跡には4つのストーンサークルがある。
形状は地域によって異なるが、環状列石の築造が全国的な慣習だった事は間違いない。
https://rekishi-memo.net/joumonjidai/saishijou.html
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2023/08/03 (Thu) 09:49:32
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2013年5月21日
池田 清隆(いけだ きよたか) / 磐座(イワクラ)探求家
神は美しいものにしか宿らない
https://www.surugabank.co.jp/d-bank/event/report/130521.html
~磐座聖地への旅~
出版社の役員を務める傍ら、我が国の固有信仰ともいえる岩石崇拝(イワクラ=磐座)に魅了され、調査研究を続けてきた池田氏。退任後も八ヶ岳南麓に居を構え、本格的な調査研究を続けながら、これまでに2冊の著書をまとめあげた。磐座信仰の痕跡を訪ね歩いてきた旅の魅力をスライドなどでご紹介いただきながら、縄文時代にまでさかのぼる「神」の姿、そして『古事記』の世界との関わりについて迫ります。古代に想いを馳せながら、新しい旅のかたちについて考えてみませんか。
「神」の存在を感じた古代人の美意識
磐座とは何だろうか。広辞苑で引くと「神の鎮座するところ。神の御座」。神道辞典には「そこに神を招いて祭りをした岩石。その存在地は聖域とされた」とある。今回は、その磐座を長年に渡って調査研究してきた池田清隆氏が講師。今回のセミナーでは日本人の中に脈々と受け継がれてきた岩石崇拝について、前半は『古事記』をひもときながら、そして後半は実際に池田氏が訪れた全国各地の磐座を写真で見ながら学ぶこととなった。
日本を旅していると、由緒ある神社の境内やその近くに周囲をしめ縄で囲んだ石や岩があったりする。これが「岩石崇拝」。その信仰形態は「イワクラ(磐座・石位・石坐・岩座)」「イワヤ(石屋・岩屋)」「イワサカ(磐境)」「イシガミ・イワガミ(石神・岩神)」の4つに分かれるという。
「イワクラ」は「神が依りつき宿る岩石への信仰」であり、「イワヤ」は「神が依りつき、籠る岩窟への信仰」、「イワサカ」は「神を迎え、祀るための区切られた岩石空間への信仰」、「イシガミ・イワガミ」は「岩石そのものを神として祀る信仰」を指す。池田氏はこうした場所に行くと「いつもドキッとする」という。
「それはきっと古代人も同じ。山中で巨石や岩窟を見たとき、古代の人たちは直感的に神がいると感じたのではないでしょうか。そうした神聖な感覚、美意識にかなったものが信仰の対象として祀られてきたのだと思います。」
「神は美しいものにしか宿らない」とはまさにこのことだ。こうした磐座への岩石崇拝ははるか縄文時代から日本にはあった。
「この岩石崇拝の視点で『古事記』を読むと、大和朝廷の信仰の原点は磐座信仰にあったのではないかと考えられます。『古事記』に書かれていることを突き詰めていくと、弥生時代ではなく縄文時代の信仰、神道以前の古神道に辿り着いたのです。」
『古事記』に見られる「岩石崇拝」
神道は「いろんなものが混ざりあってできたもの」。現代にも縄文時代の信仰は残っている。例えば石の棒を祀った諏訪地方の「ミシャグチ」は縄文時代からつづくこの地方の「地霊(神)」だ。『古事記』でもこうした岩石崇拝を思わせる記述はいくつも見つけることができる。「なぜイザナギノミコトは黄泉比良坂(よもつひらさか)に千引の石を引き据えたのか?」、「なぜアマテラスは〈石屋戸〉に籠る必要があったのか?」、「なぜ、ホノニニギは〈天の石位〉を離れて天降ったのか?」と『古事記』で語られるエピソードにはいたるところに「石」や「岩」が出て来る。池田氏は「『古事記』の根底には岩石崇拝の思想が脈々と流れている」と考えている。
「イザナギノミコトが怒ったイザナミノミコトを防ぐために黄泉の国との境に千引の石を据えたのは、石にはいろいろな災いをもたらすものを防ぐ力があると信じられていたから。アマテラスが天の岩戸に籠ったのは、岩窟の発する霊力を自分も身につけようとしたから。岩石信仰の視点で『古事記』を読むと、こんな見方ができるのです。」
天皇が即位する際に使用する高御座(たかみくら)も、元を辿れば磐座であったかもしれない。天孫降臨の話の中ではホノニニギ(ニニギノミコト)は高天原の磐座を離れて「現人神」となるべく豊葦原へ下ったとされている。だとすれば高御座はそのときの磐座の名残りとも考えられる。
日本各地に残る「磐座聖地」
後半は「磐座聖地への旅」。日本各地に多数残る磐座だが、全体的に見れば「ほとんどはわからなくなってきている」と池田氏。岩石崇拝は祀る人がいなくなったら「それが信仰の対象であったかどうかがわからなくなる」からだ。
まずは北海道旭川市のカムイコタン。アイヌ語で「神の住む場所」とされているここには石狩川が流れている。今は景勝地として知られているこの場所も昔は交通の難所。自然を崇拝するアイヌの人々にとっては「神」が宿っている場所であった。
次いで盛岡の三石神社。ここには悪さをする「羅刹(らせつ)」という鬼を石に縛りつけたという伝説がある。その際、鬼が「もう二度と悪さをしない」と石に手形を残したことが「岩手」の名の由来になったとも言われている。名物の「さんさ踊り」は鬼が去ったことを喜んだ人々が始めたものだという。が、この伝承には大和朝廷が蝦夷を征服していった歴史を読み取ることもできる。「羅刹」を蝦夷の首長である阿弖流為(あてるい)に置き変えれば、こうした伝承が生まれた経緯は想像に難くない。
茨城県の大洗磯崎神社の「神磯」は海岸を磐座とし鳥居を立てたもの、長野県茅野市の「小袋石」は諏訪大社の原点ではないかと推測される巨石、立科町の「鳴石」は峠にいる荒ぶる神への畏怖と畏敬から人々がここへと石を運んでつくった磐座、そして静岡県浜松市にある渭伊神社の「天白磐座遺跡」は池田氏が初めて訪れた磐座だ。
「ここの祭神は蟾渭(せんい)神(ヒキガエル)。これは近くに川がいっぱいあって水の神として信仰されていたからではないかと思われます。」
3つの巨石からなる「天白磐座遺跡」は見た目のバランスも素晴らしい。池田氏はこれを見て「古代人の美意識」を感じたという。見ていてゾクゾクする磐座はまだまだほかにもある。伊勢神宮内宮の「巌社(いわのやしろ)」、大津市の日吉大社の「金大巌(こがねのおおいわ)」、平安京の基点となったという京都の松尾大社や船岡山の磐座、奈良県にある御廚子(みずし)神社の磐座、船に見なした高さ18メートルもの巨岩を祀る大阪の磐船神社、熊野速玉大社元宮の「ゴトビキ岩」、古代の祭祀形態を今に伝える島根県の飯石神社や佐太神社の磐座、広島県の宮島の弥山山頂磐座、厳島神社境内の磐境、影向石(ようごういし)、琉球王朝の聖地である沖縄本島にある斎場御嶽(さいはうたき)の三庫裡……といった具合に北海道から沖縄まで、日本には知られているだけでも磐座がまだまだ無数に点在している。池田氏の「夢」は、「その磐座をそれぞれの背負った歴史を踏まえた上で『磐座聖地100選』といった形の案内書にして紹介していくこと」だ。
池田氏の自宅は八ヶ岳の山中。ここに13年前から夫人と暮らしているという。
「憧れは〈山中暦日無し〉の生活。縄文時代の人々が神々と暮らしたように、四季の移ろいの中でゆったりと暮らしたいですね。」という最後の言葉に盛大な拍手が送られセミナーは幕を閉じた。
https://www.surugabank.co.jp/d-bank/event/report/130521.html
磐座
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E5%BA%A7
山ノ神遺跡(奈良県桜井市)
天白磐座遺跡(静岡県浜松市)
磐座(いわくら、磐倉/岩倉)とは、古神道における岩に対する信仰のこと。あるいは、信仰の対象となる岩そのもののこと。
日本に古くからある自然崇拝(精霊崇拝・アニミズム)であり、基層信仰の一種である。神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代(神籬という)と神威をもって祭祀の中心とした。時代とともに、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが、元々は古神道からの信仰の場所に、社(やしろ)を建立している場合がほとんどなので、境内に依り代として注連縄が飾られた神木や霊石が、そのまま存在する場合が多い。
自然への信仰の例は岩以外にも、鎮守の森(「モリ」自体が神社をさし、杜は鎮守の森自身である)、禁足地としての「島」、宗像大社の沖ノ島、六甲比命神社や三輪山などの「山」に対する信仰、「火」に対する信仰、滝などから、風雨・雷という気象現象までの多岐にわたるものである。
岩にまつわるものとして他にも、磐座を中心とした祭祀場である磐境(いわさか)があるとされる[1]が、こちらは磐座に対してその実例がないに等しい。そのため同一のものと目されることもある。『日本書紀』では磐座と区別してあるので、磐座とは異なるなにか、「さか」とは神域との境であり、神籬の「籬」も垣という意味で境であり、禁足地の根拠は「神域」や「常世と現世」との端境を示している。つまり磐境は、石を環状に配置した古代の遺跡であるストーンサークル(環状列石)と同じもので、そこを神聖清浄な場所として保存するための境界石を人工的に組んで結界を形成して「神域」を示している祭祀遺跡であり、神籬とともに神社の原始形態とされている。
現在ではご神木などの樹木や森林または、儀式の依り代として用いられる榊などの広葉常緑樹を、神籬信仰や神籬と言い、山や石・岩などを依り代として信仰することを磐座という傾向にある。
街道沿いにある巨石では、馬頭観音が彫られたり、有名な武士が馬をつないだといった伝説が付されたりしたものもある。これらを含む磐座・巨石信仰を縄文時代に遡りうるとして、人工的に配列された磐座もあり、その配置が特定の図形や方位、あるいは星座の形などを表わしていると主張する研究団体(イワクラ学会)がある[2][3]。こうした見解に対して、そもそも磐座祭祀が開始されたのは古墳時代に入ってからであるとの指摘[4]や、巨石を人工物とする説への批判がある[5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E5%BA%A7
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2023/08/03 (Thu) 09:52:00
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古神道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E7%A5%9E%E9%81%93
山宮浅間神社(静岡県富士宮市) 。本殿を持たず、富士山の遥拝所などがあり、遥か昔の神道の形態をいまに伝えている。
古神道(こしんとう)とは、
日本において外来宗教の影響を受ける以前に存在していたとされる宗教をいう。純神道、原始神道、神祇信仰ともいう。通常はこちらを古神道という。
江戸時代の復古神道の略称。
江戸時代の復古神道の流れを汲み、幕末から明治にかけて成立した神道系新宗教運動。仏教、儒教、道教、渡来以前の日本の宗教を理想としている。神道天行居や出雲大社教、神理教、古神道仙法教などの教団が存在している。大本などに影響を与えた。
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出典検索?: "古神道" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年12月)
外来の影響を受ける以前という意味での古神道とは「原始宗教の一つである」ともされ、世界各地で人が社会を持った太古の昔から自然発生的に生まれたものと、その様相はおしなべて同様である。その要素は、自然崇拝・精霊崇拝などのアニミズム、またはその延長線上にある先祖崇拝としての命・御魂・霊・神などの不可知な物質ではない生命の本質としてのマナの概念や、常世(とこよ・神や悪いものが住む)と現世(うつしよ・人の国や現実世界)からなる世界観と、禁足地や神域の存在と、それぞれを隔てる端境とその往来を妨げる結界や、祈祷・占い(シャーマニズム)による祈願祈念とその結果による政(まつりごと)の指針、国の創世と人の創世の神話の発生があげられる。民俗学などで提唱された。
江戸時代に発達した復古神道の流れの国学において、古神道という概念が初めて提示された。当初の定義では「記紀などの古典に根拠を置き儒仏の要素を混じえない神道」が古神道、「記紀などの古典に根拠を置かず儒仏思想を混じえた神道」が俗神道であるとされ、古神道と俗神道が対概念であった。
近代以降、歴史学において仏教伝来以前の神道を純神道と呼んだが、その後、おもに人類学のほうから原始神道という呼び方がされるようになった。
しかしさらに後、神道という枠組み自体が仏教や儒教と対抗的に歴史的に形成されたものであるという説に依拠して、現在のいわゆる神道の実体または核心が儒仏以前に遡るという発想には疑問がもたれ、新たに神祇信仰(または神祇崇拝)という言い方がされるようになった。これは古代の特定の民族の宗教でありながら特定の名称をもたない多神教が、例えば「古代ギリシア人の宗教」とか「古代エジプト人の宗教」などと呼ばれていることに準拠した表現でもある。
以上の用語はほぼ同義であるが、しいていえば微妙なニュアンスの差異がある。それは、古神道という用語は、純粋に学問的な手法による研究にしろ、宗教的または神秘主義的な手法にしろ、ある一定の体系だった世界観がかつて存在し、かつそれが本来の神道であったという予感のようなものを前提としており、これに対して神祇信仰という用語は、かつて存在したのはいわゆる神道と呼ばれるべきものとは別であったことが学問的な研究の結果わかるはずという信念を前提としている。これらに対して原始神道は、不可知論または未知の立場である。むろんこれらは微妙なニュアンスの問題で、実際にはほぼ同義の言葉である。
仏教でいう根本仏教・原始仏教・初期仏教という言葉の差異にあてはめると、古神道が根本仏教、原始神道が原始仏教、純神道が初期仏教のニュアンスにそれぞれ近く、神祇信仰に該当する仏教の言葉はない。また通俗書などでは「縄文神道」という言葉もみられるが、かなり意味が狭く限定されてしまうのと、学問の進歩とともに縄文のイメージが変化していくため恣意的なニュアンスを賦与されがちであり、専門用語として熟した言葉ではない。
自然崇拝
日本民俗学では、太陽から来るマナを享受し、それを共有する存在をライフ・インデックスとして崇拝する自然崇拝は神籬・磐座信仰として現在にも残るとされ、具体的には、神社の「社(やしろ)」とは別に境内にある注連縄が飾られた御神木や霊石があり、また、境内に限らずその周囲の「鎮守の森」や、海上の「夫婦岩」などの巨石などが馴染み深いものである。また、雷を五穀豊穣をもたらすものとして「稲妻」と呼んだり、クジラは日本においては、座礁や漂着などして現れた貴重な食料として、感謝の気持ちを込めて「えびす」と呼んだりして、各地に寄り神信仰[注 1]が生まれた。また、「野生の状態で生き物として存在するマナ」として捉えられるシャチやミチ(アシカ)なども、畏き(かしこき)者として恐れ敬われた。
自然や幸せに起因するものだけでなく、九十九神にみられるように、生き物や人工物である道具でも、長く生きたものや、長く使われたものなどにも神が宿ると考えた。そして、侵略してきた敵や、人の食料として命を落としたものにも命や神が宿る(神さぶ)と考え、蒙古塚・刀塚や魚塚・鯨塚などがあり、祀られている。
異界観
磐座信仰から派生した庚申塚
自然に存在する依り代としての岩や山、海や川などは神の宿る場所でもあるが、常世と現世との端境であり、神籬の籬は垣という意味で境であり、磐座は磐境ともいい、神域の境界を示すものである。実際に、島に森林を含めた全体を神の領域とする「禁足地」である宗像大社、「沖ノ島」のような場所もあり、その考えは神社神道の建築様式の中などにも引き継がれているが、例えば、本来は参道の真ん中は神の道で禁足となっている。
一般家庭にも結界はあり、正月の注連縄飾りや節分の柊鰯なども招来したい神と招かれざる神を選別するためのものでもある。また、集落などをつなぐ道の「辻」には石作りの道祖神や祠や地蔵があるが、旅や道すがらの安全だけでなく、集落に禍や厄災を持ち込まないための結界の意味がある。
世界観
古来からの古神道は後から意味付けされたものも多く、その対象も森羅万象におよぶので、共通の概念や用語をとりまとめるのは難しいが、古神道に始まり、現在への神道までの流れとして時系列や、漢字や日本語としての古語の意味などを考え、記述する。
神世(かみよ)現世と常世のすべて。
とこよ(常世・常夜)
常世
常夜
うつしよ(現世)
神
尊(みこと) - 日本神話にある人格神(人と同じ姿形、人と同じ心を持つ神)
御霊(みたま) - 尊以外の神。個々の魂が寄り集まったものとしての神霊の形。
魂(たましい)・御魂(みたま) - 個々の人の命や人の心の態様。神の心の態様。
荒御魂(あらみたま) - 荒ぶる神のこと。
和御魂(にぎみたま) - 神和ぎ(かんなぎ)といわれる安寧なる神のこと。
四魂
神代・上代(かみよ・かみしろ) - 現世における神の存在する場所を指す。日本神話の神武天皇までの、現世にも神が君臨した時代を指すときは上代もしくは神世(かみよ)である。
神体(しんたい) - 古来からあり、神が常にいる場所や神そのものの体や、比較的大きい伝統的な神の宿る場所やもの。
神奈備(かんなび・かむなび・かみなび) - 神名備・神南備・神名火・甘南備とも表記し、神が鎮座する山や神が隠れ住まう森を意味する。
磐座(いわくら) - 神が鎮座する岩や山。なお、磐境(いわさか)とは神域や常世との端境である岩や山を指す。
神籬(ひもろぎ) - 神が隠れ住む森や木々、または神域や常世との端境。現在では神社神道における儀式としての神の依り代となる枝葉のこと。
御霊代(みたましろ)依り代(よりしろ) - 代(しろ)とは代わりであり、上記のほか神が一時的に降りる(宿る)憑依体としての森羅万象を対象とした場所や物を指す。
巫(ふ・かんなぎ) - 神降ろしのことで、神の依り代となる人(神の人への憑依)を指す。
先祖崇拝
「お盆」といわれるものはそのしきたりや形式は古神道の先祖崇拝であるが、仏教伝来以来の神仏習合の影響により、寺で行われ僧が執り行うことになっているため、一般に仏教行事として認識されており、古神道としての側面が曖昧になっている[1]。仏教は本来、輪廻転生し徳を積めば最後は開眼し仏となる教えであり、「特定される個人としての死」はないので先祖崇拝はなく、「盂蘭盆」が正式な仏教行事で釈迦を奉るものである[1]。現在では、特定の仏教宗派に属さなければ、盂蘭盆に触れる機会は少ないことも、「お盆は仏教行事という認識」につながっている。吉野裕子によれば、盆即ち申の月と、寅の月つまり正月を祝う風習は、中国からの影響もあるが日本独特のものであるという。また、民俗学者の柳田國男によれば、日本では古来「窪んだ物、カプセル状の物、ぴらぴらしたもの」に魂がつくとされ、お盆の名称も、いわゆるトレイを「魂の寄るもの」として使ったための呼称ではないかとする。
祈祷や占い
祈祷や占いは現在の神社神道でも受け継がれ、古来そのままに亀甲占いを年始に行う神社もある。大正時代まで盛んであった祭り矢・祭り弓も日本の価値観や文化(目星を付ける・的を射る・射幸心)に影響を与え、その年の吉凶を占うことから、「矢取り」に選ばれた者は的場に足繁く通ったという。現在のおみくじも本来は神職による祈祷と占いを簡素化したものであり、柳田國男によれば「正月に行う、花札や百人一首」なども、占いの零落したものである。
また、巫女の舞や庶民や芸能の芸として現在に受け継がれる「神事としての興行(相撲)」や舞(纏舞い・獅子舞)や神楽(巫女の舞など)や太神楽(曲独楽・軽業)なども神に捧げ神を和ごませる儀礼としての祈祷である。
歴史
祭政一致
まつりごとは「まつりの式次第を主催する」の意であり、その祭りに従うことが「まつろふ」である。従って、物部氏が、元来軍事、政治を担当したと考えられ、「貴人にマナをつける」職掌だったとする谷川健一説や、折口信夫の『水の女』で展開する「ふぢはら」は淵原であり、中臣氏が、元「貴人を洗い清め、特殊な方法で絆を締めて尊いものにした」シャーマン的な存在であったとする説も成立しうる。また古くは卑弥呼なども祈祷師であり、その祈祷や占いから「国の行く末」を決めていたといわれる[2]。神社神道の神主などの神職は古くから政(まつりごと)の執政をし、平安時代には道教の陰陽五行思想を取り込むことによって陰陽師という組織とその政治における官僚としての役職を得た。そして、占いや祈祷により指針を定め、国政[要曖昧さ回避]を司った。この流れは戦国時代以降は潜むが、公家の間では政として、あるいは神社神道として残っていった。
地域振興の中心は、古くは寺社であり、その中心にある神社が興行や縁日や神事を行い、「寺社普請」だけでなく地域の社会基盤整備としての普請にもなった。そして、民間でも自治としての政が江戸時代から一層顕著に認められ[注 2]、祭りとして神や御霊や自然を祀り、その社会的行為は「七夕祭り」や「恵比寿講」として現在にも行われ、神社神道の儀式とは離れた民衆の神事として定着し、昔と同様に普請としての地域振興を担っている。
近現代の古神道
江戸時代末期には、尊皇攘夷思想や平田国学の隆盛と連動して世に出た、古神道と称する思想や儀礼などが多くある[3]。
明治時代以降、古神道は、国家神道が宗教ではなく国家儀礼であるとされたのに対し、「宗教」であることを強調されることとなった[4]。この点は黒住教をはじめとする幕末期以降の教派神道と共通しており、事実、教派神道系の教団には古神道を名乗るものが少なくない。
また篤胤以降の江戸国学が単なる国文学に傾斜するのに反発したり、近代の国家神道が宗教性を忌避して国民道徳へと変貌するのに飽きたらず、篤胤の研究範囲に内在していたスピリチュアリズムの部分を追求するなどした諸派は、その後秘教神道ともよばれ、その教義は神道霊学と称されるようになっていった。例外もあるがこれらの諸派も多くは古神道を標榜している。
現在においては、新宗教で古神道を名乗る宗派も、上記記述の宗派の流れを受け継いだものであって、江戸時代以前から存在していた神道の宗派とされるものには、そもそも、「古神道」とは称されていなかったものもある。伝統的な古神道では平田篤胤ほかが学頭を務めた皇室神道の伯家神道から受け継いた儀礼や行法がみられるが、この系統ではない出雲神道(出雲大社教)、巫部神道(神理教)、九鬼神道、修験道に由来する行法や教団も存在する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E7%A5%9E%E9%81%93
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祖先崇拝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%96%E5%85%88%E5%B4%87%E6%8B%9D
祖霊信仰(それいしんこう)は、死んだ先祖から生きている子孫たちに影響することを信じ、あるいは先祖から何らかのものを貰えるという信仰のこと。
日本において、社会学の分野では「先祖祭祀」という用語が定着している。また、明治以降では昭和戦後期の1950年代ごろまでは「祖先崇拝」が多く使用された[1]。
世界中の先祖崇拝というのは、アフリカ・マダガスカル・東アジアなどに広く存在している。
中国・朝鮮・日本など東北アジアのものが特に有名であるが、ズールー人など、世界的にも見られる。中国では祖先崇拝と呼ばれ、清明節などの習慣がある。日本では、学問的には祖先崇拝の名称が用いられているほか、祖霊信仰という名称も用いられている。先進国では、過去に存在しても、一神教などに置き換わられて、超越されている事が、一般的とされる[2][3]。
「先祖」を社会的に意味づけする社会においても、生物学的・遺伝的に見て繋がりのある先行者が全て「先祖」と見なされている訳では必ずしもない。特定のタイプ、カテゴリーの人間を「先祖」としている。それに対して、キリスト教やイスラム教がしっかりと根付いた地域では、祖先崇拝はほとんど行われていないと考えて良い。たとえばイタリアの地でも古代ローマ時代までさかのぼれば先祖崇拝というのは行っている人たちがいたようだが、キリスト教が定着してからは行われていない。
祖先を崇拝する社会において、「先祖」とされる人は、その社会の親族構造と関連性がある。すなわち、父系社会においては父方の生物学的先祖であった人が「先祖」とされ、母系社会においては母系の生物学的先祖であった人が「先祖」とされるなど、崇拝する側の親族構造・社会制度、「先祖」とされる対象のヒエラルキー・システムに関係があるとされる[4][5][6]。
アフリカの祖先崇拝
祖先を崇拝することはアフリカの宗教(英語版)やアフリカのスピリチュアリティーの重要な要素のひとつとなっている。ただし、アフリカの場合、全ての先祖を崇拝しているのではなく、あくまで尊敬に値するほどに立派な生き方をした先祖だけが神聖な先祖として崇拝されている(生前の行いが良くなかった先祖は、たとえ先祖であっても崇拝するのは不適切だ、と考えられている[7]。)。 神聖な先祖は、各人の祈りを聞いてもらう対象となり、供物をそなえられる。 神聖な先祖は神と人間とのあいだをとりなしてくれる、と信じられており、幸福な人生をおくるためには神聖な先祖を敬うことが必要だと考えられている。
祖先崇拝の場で使われる母の像の例
先祖Kotaの像
祖先崇拝と関係のある像の数々
中国の祖先崇拝
中国の祖先崇拝の文化は儒教が根源になっていると考えられがちだが、儒教思想が広がるかなり前から祖先崇拝の文化は存在した[8]。
殷の時代には「病気や災害は、天や祖先の祟り」と考えられており、それを宥めるために祭祀が行われていた[8]。また、殷は強固な父系社会であり、祖先を敬うことは社会秩序の維持のためにも重要であったと考えられている[8]。
周の時代になると、「福は祖先からもたらされる」「災いは天からもたらされる」と考えられるようになり、子孫の幸福のために祖先を祀るという考え方が生まれた[8]。
このような中国の祖先崇拝の文化は孔子(紀元前552年または紀元前551年 - 紀元前479年)及びその弟子たちが儒教を通して発展させた[8]。孔子の生きた春秋時代は従来の身分秩序が崩壊した時代であり、孔子は緩やかな家父長制に基づく家族関係をもとに社会秩序を再構築することを説いた[8]。儒教はもともと大きな社会勢力ではなかったが、漢の時代になって儒教の経典が公認され、儒家が要職に登用されるようになって中国全土へと普及した[8]。
中国の祖先崇拝における「祖先」の概念には幾つかの条件があり、先に死去した親族が必ずしも祖先として崇拝されるものではない[9]。まず、祖先となるには死者でなければならないが、夭折した者、未婚の者、横死した者は祖先になれず、悪い行いをせず天寿を全うする必要がある。また、祖先となる者は自分を崇拝してくれる子孫を設ける必要があるが、その子孫は自分と同じ姓の宗族員であり、男子もしくは婦人の地位をもつ女性でなければならないとされている。祖先崇拝の宗教観では、祖先は神明と鬼魂との中間的存在であり、適切な供儀を欠かさなければ一族を栄えさせるが、供儀を怠ると鬼魂へと変化し子孫に悪影響を及ぼすと考えられている[9]。
中国での祖先崇拝の例。食事のための食品類を、しかも酒類やお茶類まで用意して、祖先(の霊)に、供物としてささげている。
中国での祖先崇拝の例。先祖が住んでいた古い家で、お茶と線香などを供物としてささげている。
中国での祖先崇拝の例。線香の煙と香りを供えている。
墓で冥銭を燃やし先祖を供養している
ベトナムの祖先崇拝
一種の祭壇のようなものが用意してあり、先祖にあたる女性と男性の写真を置き、食べ物や酒やを供物としてささげ、線香をたいている。
韓国の祖先崇拝
韓国は儒教の影響がとても大きな国であり、祖霊信仰が根強い。ソルラル (旧正月) 、秋夕 (チュソッ) 、曽祖父・祖父・父の忌日には、家族が集まって、祭祀(チェサ、en:Jesa。日本の「法事」に相当するもの)が行われる。そして年長者がとても重視されていて、祭祀は通常、あくまで長男が行う。 ただし、信仰の対象になるのは、自分の直接の祖先のみで、傍系の祖先は信仰の対象にならない。従って、子孫を残さないまま死去したら、無縁仏として扱われる。
日本の祖先崇拝
日本の仏壇
祖先の霊を祀り、崇拝する。日本では先祖を「遠津祖」、「祖神」、「ご先祖様」、「ホトケ様」と言い、一般家庭で祖霊社や位牌を仏壇の中央にまつる慣習、お盆や彼岸にこれらの霊をまつる行事が祖霊信仰に属する。
なお、以下は主に日本本土における祖霊信仰について解説するが、奄美・琉球(奄美群島、沖縄県)の地域における祖霊信仰については琉球神道の項を参照のこと。
「琉球神道#沖縄本島の祖霊信仰」も参照
死者が出ると、初七日・四十九日と法要を行って供養し(詳しくは中陰を参照)、さらに1年後に一周忌、2年後に三回忌、6年後に七回忌、と法要を行う。その後、三十三回忌(地域によって差がある。四十九回忌、五十回忌のところもある)を迎えると、「弔い上げ」といって、このような法要を打ち切る。この「弔い上げ」は、生木の葉がついた塔婆を建てたり、位牌を家から寺に納めたり、川に流したりと、地域によって異なる。この「弔い上げ」を終えると、死者の供養は仏教的要素を離れる。それまで死者その人の霊として個性を持っていた霊は、「先祖の霊」という単一の存在に合一される。これが祖霊である。祖霊は、清められた先祖の霊として、家の屋敷内や近くの山などに祀られ、その家を守護し、繁栄をもたらす神として敬われるのである。前述の通り、先祖の霊を「ホトケ様」「カミ様」「ご先祖様」と呼ぶことにはこのような意味がある。
起源
祖霊信仰は、前述のように、盆や彼岸の行事などの形で日本全国に普通に見られる信仰である。縄文時代から環状列石による祖先崇拝を中心とした祭祀・儀礼が行われていた[10][11]。祖霊信仰のような祖先崇拝は日本を除いては、中国や太平洋地域の一部の限られた場所にしか見ることしかできない。
形態
夏の7月15日を中心に行われるお盆の行事は、祖先の霊をまつる行事を言う。これは、中国仏教での死者の霊を慰め供養する盂蘭盆会(うらぼんえ)に由来するとされる。日本におけるお盆の行事は、それまでの日本の祖霊信仰と習合が見られる。このような経緯からも日本における祖霊信仰という土壌を考えることができる。
春と秋に行われる彼岸という行事も、元々浄土思想に由来し、西方浄土を希求する中国の念仏行事であったものが、日本仏教において、先祖崇拝の行事になった。一方、浄土真宗では、成仏は阿弥陀仏に頼るものであって人間の力ではどうしようもないという考えから、追善供養を行わない[12]。
また、先祖の霊を祖霊社(地域によっては総霊社)という社に祀る場合もある。一般の家に神徒壇、神棚や祭壇を設けて、先祖を祀っている場合も多く見られる。
民俗の祖霊信仰
祖霊信仰に関連する事項として、民俗の両墓制について触れる。両墓制とは、死者が出た時に二つの墓所を作ることである。かつては遺体を埋葬する墓としての、埋め墓(捨て墓)と呼ばれる墓と、自分の家の近くや寺院内に建てる参り墓、詣で墓を作ることがあった。遺体を直接埋葬する埋め墓、捨て墓は、人が近づかない山奥や野末に作られ、埋められた遺体や石塔は時が経つにつれ荒れ果て不明になる。この埋め墓、捨て墓は、そこ自体を死者供養のための墓所としている訳ではないので、永く保存する事を目的としていない。一方の参り墓、詣で墓は家の近くや田畑、寺院など参詣に便利な場所に建てられることが多い。こちらの墓こそが、永く死者供養をすることを目的とした墓所になる。こうして、先祖の霊を居住地の近くに配置し、供養し、家の安泰を願うことも、祖霊信仰のうちの一つと言っていい。また、近世に至ると、直接遺体を葬った場所に墓所を建てることも多くなった。
屋敷神
祖霊信仰に関連する事項では、やはり墓所について屋敷墓の存在が挙げられる。屋敷墓は、自分の屋敷の中に墓を設けることである。史料や遺構で確認されるのは中世期である。この時代の墓制や葬送習慣についての詳細は、地域や身分階級によって異なるから、一概には言えない面もあるが、屋敷の中に死者を葬る特殊な墓制があるため、屋敷神としての先祖を家の中に祀った祖霊信仰の一種と考えることができる。
参考文献
赤田光男 『祖霊信仰』(民衆宗教史叢書) 雄山閣出版 1991
福田アジオ他 『日本民族大辞典 上』 吉川弘文館 1999
日本民俗学協会 『日本社会民俗辞典 第2巻』 日本図書センター 2004
民俗学研究所・日本民俗学会 『民俗学辞典』 東京堂出版 1966
Lafcadio Hearn(小泉八雲), Japan:An attempt at Interpretation, 1904
ヨーロッパの祖先崇拝
キリスト教が普及したとされる地域では唯一神以外の分かれた神を観念する事はないとされるものの、エドワード・バーネット・タイラーは主著『原始文化』の中で、聖人崇拝はこれにあたり、異教の神々を直接引き継いだ例も見られるとしている[13]。
ギャラリー
ヨルダンのジェリコで出土した、石膏で覆われた頭蓋骨。紀元前7000年~紀元前6000年ころのもの。祖先崇拝のために祖先の頭蓋骨を石膏で覆った、と考古学者らは考えている。
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琉球神道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%A5%9E%E9%81%93#%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%9C%AC%E5%B3%B6%E3%81%AE%E7%A5%96%E9%9C%8A%E4%BF%A1%E4%BB%B0
琉球神道は、古琉球および琉球王国を中心に信仰されてきた多神教宗教である。
日本神道と同様に、固有の教典や具体的教義、開祖を欠いており、神話、自然崇拝のアニミズム的かつ祖霊崇拝的な宗教である。
広義には、古琉球および琉球王国の版図、すなわち奄美群島から沖縄諸島、先島諸島において見られたアニミズム・土着的信仰要素を含む。
狭義には、琉球王国時代、王国各地の宗教支配の手段として祭政一致体制に整備された宗教を指す。琉球の按司や王はノロや聞得大君を祭政一致体制に組み込む一方でそれにそぐわない土着の地域信仰であるユタを度々弾圧した。
現在、琉球神道は民間信仰に形を変えて残っている。ニライカナイ信仰、御嶽信仰とも称する地域もある。
解説
民俗学者の折口信夫は著作「琉球の宗教」の冒頭で、琉球の宗教を袋中以来の慣用によって琉球神道の名で話を進めたいと断った後、琉球神道は日本本土の神道の一つの分派、あるいはむしろ巫女教時代のおもかげを今に保存していると見る方が適当な位であると述べた[1]。
鳥越憲三郎は『琉球宗教史の研究』の中で、琉球宗教の二大潮流をなすものは御嶽信仰と火神信仰であるとし[2]、やがて火神(ヒヌカン)は日神(テダ)と同一視され、按司(アジ)や国王の実権の所在を表徴する役割を持つに至ったと述べている[3]。
宮里朝光「琉球人の思想と宗教」によれば、琉球の固有宗教は、個人的な幸福を祈願するのではなく、社会及びそれを支える生活や生産について祈願し祝福するもので、社会が平和になれば個人は幸福になれると考えたのだと言う。その固有信仰は、祖霊神、祖先崇拝、火神、ニライ・カナイ、おなり神、水のセジ、万物有霊などがあるが、拝む対象の日月星辰を通して現世に益をもたらす祖霊に報本反始するものであると述べている[4]。
このように琉球は特有の信仰を有している。以下、その固有信仰などについて解説する。
信仰の由来
琉球神道は自然発生的に生まれたと考えられている。ノロが世襲型、ユタが原始的な召命型のシャマニズムであること、御嶽は古代集落が原型と考えられ御嶽信仰は祖霊崇拝が変化したものと考えられること、またおなり神信仰は古代の母系社会や女性上位社会の変化と考えられること、これらのことから古代信仰の形式をとどめていると考えられている。
セジ
セジという言葉がある。
仲原善忠『おもろ新釈』によればセジは霊力を意味し、セジが剣につけば霊剣に、石につけば霊石となり、門、港、舟、社、城等にもつき、人についた場合は超人となると述べている[5]。
仲松弥秀『神と村』では、『おもろ新釈』の説明を受けてさらに考察し、セジすなわち霊力とは「人間としては不可能なことを成し得る能力」を指しているであろうと述べている。そうであるなら「人間としては不可能なことを成し得る能力」は機能的に際限無く分類できるため、その能力を持つもの、即ち「神」は琉球において八百万も居るということになるであろうと述べている[6]。
神
仲松弥秀『神と村』では、全知全能のセジの具備者なる存在を古代琉球人が考えていたか否かについては研究不十分であるが、種々の機能を各々分担したセジの保持者は想定していたと考えられると述べ、人間は自己の欲するものを顕現してくれるセジを期待するのが至極当然であろうから、琉球における神とは「人間に善をもたらすセジの顕現者」と言う観念に傾斜していくことになるだろうと述べている[7]。
また、琉球の神は主に「来訪神」と「守護神」に分類でき、守護神や来訪神のいる異界・他界に豊穣を祈り、特に太陽神を最高神として崇める多神信仰である。[要出典]来訪神は異界の神であり、平時には人々の集落に存在しないか、御嶽にのみいると考えられる。しかし祭りの時になると異界から集落や集落の御嶽に訪れると考えられており、来訪神と人間の関係は極めて近しい。特に著名な神は、琉球の創造神であるアマミキヨ(アマミク)とシネリキヨや、ニライカナイの最高神である東方大主(あがりかたうふぬし)、国王就任の際に現れるという君手摩(キミテズリ)などであるが、この他にも多数の神がいると考えられている。来訪する神は世界的に島嶼民族に共通して見られ、一般に海を神聖視するが、これは琉球においても同様である。[要出典]これに関連して、折口信夫は「まれびと論」を展開した。 一方、守護神はもともと地域集落の死者の魂=祖霊であり、ニライカナイで神となって集落に戻ってくるとされ、この神は平時に拝所や御嶽にいると考えられている。また、過去の偉大な功績を残したノロが神とされ、墓地が御嶽となる例が確認される。
御嶽
沖縄本島の村落には必ず御嶽(ウタキ)と呼ばれる聖林があり、そこには村人の保護者であり支配者である神が住み給っている[8]。御嶽に祀られる神は、その村落の構成員と血縁関係を持つ氏祖で、村落構成員に対し絶対的守護の義務を負っている[9]。
御嶽は日本本土に見られる神社の原初的形態である神籬の形式を伝えるものである[8]。鳥越憲三郎は、琉球の村落成立の重要な因子として、生活資料が確保できるかの経済的条件、気候や住環境の良し悪しの自然的条件、御嶽を創立する場所が選定できるか否かの宗教的条件の3つをあげ、村落成立にはこの3つが満たされる必要があったと述べている[8]。
(詳しくは御嶽 (沖縄)参照)
ヲナリ神
沖縄本島の女性一般は全て巫女的ないし神的素質を生得的・本有的に持つものと信じられているが、その好例がヲナリ神信仰である。「ヲナリ」とは沖縄方言で姉妹(ウナイ)を意味し、同胞の姉妹は、その兄弟(ヰキガ)の守護神であると信じられている。従って沖縄本島の全女性は兄弟を持つ限りにおいてヲナリ神となるわけである。ヲナリ神の信仰は琉球宗教の基本概念の1つとなっており、『おもろさうし』の中にもヲナリ神を詠ったおもろが数多く見られる。沖縄本島においては、政治的実権者とその姉妹から選ばれた巫女による祭政一致の政教二重主権が見られるが、これはヲナリ神の信仰に基礎付けられたものである。鳥越憲三郎は、ヲナリ神信仰は他の民族では既に見られなくなったが、古くは何れの民族もかかる信仰を持っていたのではなかろうか、と述べている[10]。
(詳しくはおなり神参照)
巫女
沖縄本島の民間社会において、民衆の宗教的機能を担う職能者は、女性司祭者のノロ等の神人(カミンチュ)と、シャーマンとしてのユタ等の類に分かれる。前者が主として御嶽やグスク等の聖地・御願所・拝所(ウガンジュ)において村落の公的祭祀や共同体の祈願行事の司祭をするのに対し、後者は村落の個々の家や家族に関する私的な呪術信仰的領域に関与している。桜井徳太郎は、この両者とも沖縄民間信仰の底辺を貫流するシャマニズムの根の上に立ち、沖縄の民間信仰を支える車の両輪と言えると述べている[11]。
堀一郎は、シャーマニズムとシャーマンの概念は学者によって異なる定義づけがなされ、諸学者間に一致した見解は現状もたれていないと述べ[12]、桜井徳太郎もこれと同様のことを述べている[13]。しかしまた桜井徳太郎は、シャーマンになるための入巫動機が、生計を立てるためとか世襲継承の原理に基づくとかにあるのではなく、心身異常の巫病に罹り、苦悩のすえ神霊の召命を受けてそれを克服し、ついにシャーマンへと成巫するという過程が最も自然なシャーマン的プロセスであるとするなら、沖縄シャーマンの成巫過程はその典型的タイプであると述べている[14]。
ノロ
前述のとおり、沖縄本島には御嶽などにおいて部落や村落の公的祭祀や共同体の祈願行事の司祭をおこなう祝女(ノロ)と呼ばれる女神官が存在する。
御嶽の節で述べたように、村落は守護神となる氏祖が祀られた御嶽を中心に形成されたが、その最も近き血縁者にして神の代弁者である家が根所(ニードゥクル)と呼ばれ、村を支配指導する実権を掌握した。根所は御嶽の神の代弁者として実権を代行する機関となったため、神託を受ける者と、その神託によって村を治める者が必要になった。この時、神託を受けたのは根所の女子から選ばれた根神(ニーガン)で、神託をもとに政治的実権を行使したのは根神の兄弟であり根所の戸主である根人(ニーチュ)であった。ここに妹(或は姉)の神託をもとに兄(或は弟)が治める政教二重主権が生まれた。この政教二重主権はヲナリ神信仰を基定として成立したと考えられる[15]。
やがて村々を併合した按司と呼ばれる地方的実権者が現れるようになるが、按司もまた彼の姉妹から宗教的実権者たる巫女を選出した。これが祝女(ノロ)である。あるいは尊称を付してノロクモイと呼ばれた[16]。しかし、さらに時代が進むと地方実権者の1つである中山国により琉球統一がおこなわれ、その中央集権化政策によってノロは聞得大君を頂点とした官僚的神官組織に組み込まれることとなる[17]。この聞得大君も王の姉妹から選ばれ、統一王国においても兄妹による政教二重主権がおこなわれた[15]。
ノロや根神など神人は、神が降臨する聖地の御嶽で神懸りしながら神意を霊感し、それを地域社会の住民に伝達した[18]。鳥越憲三郎は、琉球において巫女は神の顕現として、具象的な神の姿において民衆の前に現れ、しかもその時は自他ともに神そのものと認める存在として託宣を聞いたと述べている。すなわち神が憑依した者としての巫女に先行して、神そのものとしての巫女が存在しており、琉球の多くの文献に見られる神々の出現は、神そのものとしての巫女を指してるのだとしている[19]。
(詳しくはノロ参照)
ユタ
もっぱら死霊の憑依を受けてトランスに入り、第一人称でその託宣を述べるものを一般に口寄せ巫女と称するが、南西諸島において口寄せ巫女としての巫儀を展開している呪術宗教職能者がユタ等と呼ばれ[14]、前述のとおり部落や村落の個々の家や家族に関する私的な呪術信仰的領域に関与している[11]。ユタになったものは必ず原因不明の病気が随伴するカミダーリィと呼ばれる状態を通過体験しなければならない[20]。このカミダーリィは、巫病の性格・内容を典型的に備えたものである[21]。カミダーリィとなった者は悩み悩んだ末、ついにユタに運命判断(ハンジ)を求め、ユタになる道順の手ほどきを受けるうち成巫する[22]。ユタという職能者の成立については、伊波普猷、桜井徳太郎、佐々木宏幹などが説を唱えているが、ノロなど神人(カミンチュ)から分化したという考えが多いようである[23][24][25]。
(詳しくはユタ参照)
沖縄本島の祖霊信仰
沖縄本島は祖先崇拝の盛んな土地として知られている[26]。また、御嶽の節にあるとおり、氏祖は村落の守護神とされる。
桜井徳太郎は沖縄本島独特の他界観念として後生(グソー)観をあげ、その一例として久高島の後生観を取り上げている。それによれば、久高島では墓地の入口を新後生(ミーグソー)と称して、そこを生界と死界との境界だとし、7年後の洗骨が終わると死者は真の後生へ赴いて神へ昇化すると久しく観念していた。新後生においては、死者は生前と同じ生活様式をとると考えられているため、新後生の墓廓は現世の家屋と同じ形態を備えている[27]。鳥越憲三郎は沖縄人の墓造りに関し、死後の生活に対する明るい観念が墓造りに対する悦びの感情を抱かせていると推察し、死後も出来るだけ居心地の良い住家でありたいという念願から私財のほとんどを惜しげなく投じて墓を造るのだと述べている[28]。墓造りに多額の費用を投じることに関しては、桜井徳太郎も1970年頃の沖縄本島北東部の調査の際、部落の人々が豪壮で大規模な墓造りを競っている傾向を報告している[29]。王族や士族の亀甲墓は17世紀後半から主として本島で普及する。最古のものは護佐丸の墓(1686年)や伊江御殿墓(1687年)など。
亀甲墓(カーミナクーバカ)
現在、沖縄本島における葬制は火葬となっているが、太平洋戦争前には伝染病患者の死などの特別な場合を除き土葬がおこなわれていた[29]。また、伊波普猷の報告[30]にあるとおり、明治時代までは風葬がおこなわれていた[31]。風葬は明治時代に行政から禁止されたが[注釈 1]、久高島では1960年代まで行われていたことが確認されている[31]。[注釈 2] また風葬に近い葬法では、1970年代まで宮古島で洞穴葬がおこなわれていた[32]。[注釈 3]
風葬において遺体はまず崖(パンタ)や洞窟(ガマ)に置かれて自然の腐敗を待ち、3年後・5年後・7年後など適当な時期を見て洗骨して納骨する。日本本土では薄葬令(646年)により庶民も定まった墓地に葬むる慣習が定着したのに比して、琉球弧において崖や洞窟(ガマ)は古来、現世と後生の境界の世界とされ、聖域であると同時に忌むものとされてきた。祖霊を崇める一方で、「死」はあくまで「穢れ」と捉えられているのである。
また折口信夫「琉球の宗教」によれば、琉球では自分の祖先でも死後七代目には必ず神になると信じられていたと述べ、『中山世鑑』ではこれを「七世生神(しちせいしょうしん)」と書いたと紹介している。さらに「琉球の宗教」によれば、琉球では人が死ぬと屍体を洞窟の中に投げ込んで、その口を石で固めてその隙間を塗りこむ風習があったが、七代経つと屍体を入れるのをやめて別の場所に新墓所を設け、それまで屍体を入れていた洞窟を「神墓(くりばか)」と称する。「神墓」は「拝所(をがん)」となり、時代を経るに従って他の人々も拝するようになる、と琉球では祖霊が神になることを紹介している[35]。
死生観として、魂は神のいる異界ニライカナイ(後述)より来て、死んでまたそこへ帰り、守護神となって集落へ還ってくると考える。このため祖霊を非常に敬い、死後の世界を後生(グソー)と称して、これも非常に現世や生者と近しいものとしてとらえている。また、琉球における仏教の影響から旧暦8月には祖霊が集落、家族のもとへ帰ってくるという、お盆の祭事を行う。なお、祭事の日取りは旧暦を用いる。
他界概念
琉球神道では、神がいる他界概念としてニライカナイとオボツカグラを想定する。ニライカナイは海の彼方、あるいは地底にあると考えられ、そこは豊穣と命の根源となる異界である。ニライカナイ信仰は東方信仰と混交して、東方にあると考えられるようになった。一方、オボツカグラは天空にあると考えられる異界である。もともとは国頭地方の信仰と考えられ、琉球王国時代に喧伝されて、宗教支配の為の王権神授論的な権威付けに用いられた。まとめると、ニライカナイは水平線上の庶民的な、オボツカグラは垂直にある権威的な他界といえる。ちなみに西方は魔界があるとされている。
教義と経典
指針はノロを介して神より与えられる。人々はただ、定められた時期に必要な祭りを行い、訪れる神と交流するのである。
琉球王国における体系化と東方信仰
斎場御嶽、三庫理(さんぐぅい)
琉球王国は祭政一致の政策を敷き、各地の類似信仰を吸収、弾圧、廃止などを行い整理統制化した。各地に様々な呼び方をされていた聖域を「御嶽」という呼称に変え、ノロは階級化され、集落のノロが各集落の御嶽を管理し、地方の豪族領主である按司の血縁の女性をその地域全体のノロを統括する大阿母(神職名)とし、さらに国王の血縁の女性をノロ々々の頂点である聞得大君とした。
また、琉球王国は太陽神(てぃだ)を最高神とする東方信仰を根幹においた。そして琉球国王は太陽に重ねて称えられ、ニライカナイの君手摩神の祝福を受け、オボツカグラのの認証を持つとされて、王権神授論を構成した。
東方には太陽が昇る穴(太陽が穴:てぃだがあな)があると考えられ、その先は神域と考えられた。[要出典]すなわち東方は太陽のある聖域であり、反対に西方は死の領域と考えられ、忌避された。王国時代の風葬は西方の崖や洞窟で行われた。首里からみて、太陽が登ってくる地平線の真下にある玉城村など四間切は聖地と考えられ、多くの御嶽が集中している。またさらに東方の海に浮かぶ久高島は琉球王国最高の聖地と考えられ、久高島の中央にあるクボー御嶽は太陽が穴そのものとされていた。以来、久高島は現在に至るまで沖縄最高の聖地として知られている。
また、琉球王国時代には、琉球開闢神話が史書として残された。『中山世鑑』や『琉球神道記』などに、日本(大和)の開闢神話と酷似した神話が記録されている。開闢神話において、琉球は天帝(日の大神、太陽神)によってアマミキヨ、シネリキヨの二柱の神によって土地を造成され、島となり、それから琉球開闢七御嶽をつくり、島に人間を放ったとされている。
琉球王国では、その王統が伊平屋・伊是名島に由来することから、伊平屋・伊是名の神を王国の守護神として王府首里に勧請した形跡がうかがえる。[要出典]一例として、国王巡礼の守護神となっていた有名な園比屋武御嶽の神が、元々は伊平屋の神であったことがあげられる。また、聞得大君の神名である「しませんこ あけしの」は、もともと国頭地方勢理客の御嶽の神名であることがわかっている。
先島の信仰
また、琉球王国は先島を勢力下に収めるたびに、この信仰をその地に広め、現地にノロや司(つかさ:八重山のノロ職名)を置いている。しかし基本的に間接統治であったため、現地の信仰の多くもそのままに残され、御嶽のような形式がその地域の信仰に取り込まれていくこととなった。ただし、王国と敵対したオヤケアカハチが信仰していた八重山地方のイリキヤアマリ神信仰のように、王府により禁制された信仰も存在する。
先島諸島における主なものとしては、宮古島大神島の大神御嶽を中心に行われる「祖神祭(ウヤガン)」、同じく島尻で行われる「パーントゥ・プナハ」、八重山全域でみられる「アカマタ・クロマタ」、石垣島群星御嶽で行われる「マユンガナシ」などがあげられる。いずれも秘祭として部外者禁制を敷いているものが多い。
奄美の信仰
「奄美群島の歴史」も参照
ウナリ神信仰を基盤とした祭政一致社会が古奄美に見られる。奄美群島の島々は平家ゆかりの神社など平家伝説が残っており、平家を祀る神社が多く建立されているが、琉球の源為朝伝説と同様に史実かどうかは定かで無い。「奄美世」においては史料に乏しく、その実態は各史料や伝説に基づく推測の域を出ず、不詳である。
史料で確認できるのは琉球勢力が奄美に及び始めた14世紀以降である。奄美群島南部の沖永良部島と与論島は、14世紀に沖縄本島北部に存在した北山王国の勢力下にあった。この頃(北山世主)から文化や信仰面においても奄美群島(特に南部)と北山の関係は深かったと考えられる。北山の勢力圏では既にノロ制度の原型が見られていた。1416年に北山王国が中山王府に滅ぼされて以降は中山の支配下(「那覇世」)に入った。
那覇世の15 - 16世紀頃、奄美群島北部にも中山王府による征服と支配体制の普請があり、それに伴い御嶽信仰やノロ制度も入ったと見られる。また琉球王国支配下の沖縄諸島、先島諸島ほどに統制は厳しくなく、ユタなどの影響も近世まで色濃く残っていた。
薩摩藩の琉球侵攻により奄美群島の実効支配を喪失(「大和世」)すると、大和の神仏習合的宗教が本格的に流入した。薩摩はキリスト教と浄土真宗(一向宗)以外は弾圧しなかったため[注釈 4]、奄美在地の宗教は神仏習合と、従前のノロ、ユタ信仰が混淆したものとなっていた。
葬制は琉球と同様に洞窟での風葬が主体であった。亀甲墓はわずかに見られる。大和世以降は土葬が中心となった一方、遺骸を掘り起こして洗骨し改葬すると言う琉球・沖縄的な慣習も昭和まで残っていた。本土では既に稀な土葬も奄美地方では20世紀末まで残った[36]。
現在でもノロが祭祀を取り仕切る地域がいくつかみられるが、全体的にノロとその祭祀は廃れつつある。
日本神道との類似性
伊波普猷は、明治37年(1904年)に発表し昭和17年(1942年)に改稿した「琉球の神話」の中で、『中山世鑑』の起源神話と『古事記』の淤能碁呂島神話、『宮古島旧記』の神婚説話と三輪山神話などの類似を指摘し、琉球群島にはこれら以外にも色々な神話伝説があり神話の宝庫であることから、広義の琉球群島[注釈 5]には未だ世に知られていない無数の神話伝説があり、これらの神話伝説を悉く集めて日本本土の神話伝説と比較研究を始め、更に進んで朝鮮、満州、蒙古と比較研究をすることは、ただ神話学者にとって必要なだけでなく、人種学者にとっても必要なことであると説き、ポリネシア群島の人種移動の問題はこのような研究によって解決されたのだと指摘した[37]。
昭和6年(1931年)松本信廣は『日本神話の研究』の中で、ローランド・ディクソン(Roland B. Dixon)がポリネシアを分類するために設定した2つの型「進化型」[注釈 6]と「創造型」[注釈 7]を用い、日本開闢神話をポリネシア創世神話の「進化型」と「創造型」の複合形であり、イザナギ・イザナミ神話から以降は「創造型」の形式を受け継いでいるものではないかとの説を発表した。このとき松本信廣はポリネシアと日本神話を直接比較するのではなく、中間に琉球の古伝説を置くとこの関係がいっそう明白になると述べ、「琉球民族が古く日本民族と袖を分かったもの」[注釈 8]である以上、琉球の古神話がイザナギ・イザナミ神話の一異体であり、日本神話が琉球のそれを中間において、遠く南方の創造型神話と一脈の関連を持っていることを否み得ないとの考えを示した[38]。
伊藤幹治は、伊波普猷が「琉球の神話」でその必要性を説いて後、『日本神話の研究』で松本信廣が日本神話と汎太平洋神話を比較するまで日琉神話の比較は途絶えていたが、『日本神話の研究』で提示された仮説は、その後多くの人に受け入れられ、こんにち日本の比較民族学上の定説になっていると述べている。さらに、岡正雄がおこなった日本の宇宙開闢神話に対する分類は、日琉神話の問題を直接取り上げた訳ではなかったが日本神話の出自=系譜に関する歴史民族学的な研究を活発化し、日琉双方の神話比較やその文化史的位置づけ作業も徐々に行われるようになったと、その影響を紹介している[39]。
岡正雄が提起した日本の宇宙開闢神話についての仮説は、その後、大林太良によって具体的展開を見ることになるが、伊藤幹治によれば日琉神話の比較が積極的におこなわれるようになったのは、この大林太良の研究によってである[39]。
昭和41年(1966年)発表された「記紀の神話と南西諸島の伝承」において、大林太良は日本の古典神話と奄美や沖縄の島々に伝承されている民間説話について、流れ島、天降る始祖、死体化生、海幸彦に関する伝承神話を比較検討し、次のことを結論として述べている[40]。
記紀に記された古典神話に親縁の諸モチーフは、わが国における現存あるいは比較的近い過去の伝承としては、ことに南西諸島に残存している。
これら南西諸島の伝承は、その基本的なモチーフ、構造においては記紀の神話と大幅な一致を見せるが、神名その他の細部においては一致していない。このことは古典神話、現存の記紀の形にまとめられてから南西諸島に二次的に伝播した可能性よりもむしろ、記紀にまとめられる前の共通の母胎から分れて、南西諸島において保存された可能性が大きいことを示唆している。
もしもこの想定が正しければ、記紀の所伝と南西諸島の伝承の比較によって、記紀以前の日本神話の古い形を再構成する可能性がある。
その際注目すべきことは、南西諸島の伝承は、国土創成、人類創造、農耕の起源の3つの主要問題を、一つづきのものとして取りあつかっていることで、構成的にも、記紀の神話よりも一貫しているのみならず、日本神話と深い親縁関係をもつと信ぜられるポリネシアなどの神話との比較から考えても、南西諸島の伝承がより古い形を保存している可能性を考慮すべきである。
この一連の開闢神話に含まれない若干のエピソード、たとえばオオゲツヒメ・モチーフや海幸彦・山幸彦モチーフも南西諸島に現存している。
古典神話と後代あるいは現存の伝承との組織的比較はまだ極めて不十分な段階にある。上記およびその他の諸問題をより明確に答えるためにも、一層組織的な材料の収集と比較が必要である。
伊藤幹治は、大林太良の試みを、伊波普猷以降ながい間とだえていた日琉神話の比較という作業の再出発と評価し、その後、山下欣一などの努力によって、琉球神話の資料の収集と整理が着々と進められ、日琉神話の比較研究の基礎がようやく固まってきたと述べている[39]。
また、伊藤幹治自身も「日本神話と琉球神話」の中で日琉の世界と人間の起源神話および穀物起源神話を取り上げ、そのモチーフを比較検討した結果、漂える国(島)や天界出自の原祖、ヒルコ、穂落としなどのモチーフは双方の神話中に共通して認められ、日琉神話の親縁関係を示唆していると指摘する一方で、風による妊娠、原祖の地中からの出現、原祖の漂着、犬祖などは琉球神話にしか見られず、また穀物神話の死体化生モチーフは日本神話にしか見られないことなどは、双方の神話の出自=系統が必ずしも一様でないことを物語っていると述べている。さらに続けて、こうした一致や不一致が、どうして生じているのかと言うことは、日琉神話研究の将来の課題になるだろうと指摘している[41]。
他にも日本神道との類似性については、以下の様なものが唱えられている。
柳田國男は昭和30年(1955年)に発表した「根の国の話」において、『万葉集』に詠われた亡くなった人に逢える場所「ミミラク」の地名の考証をおこない、その中で①ニルヤ・カナヤが『日本書紀』の「神代巻」に出てくる根の国と根本が一つの言葉であり信仰である、②それが海上の故郷であるが故に、単に現世において健闘した人々のために安らかな休息の地を約束するばかりでなく、なお種々の厚意と声援とを送り届けようとする精霊が止住し往来する拠点であると昔の人たちは信じていたらしい、③その恩恵の永続を確かめんがために、毎年心を籠め身を浄くして、稲という作物の栽培を繰り返し、その成果をもって人生の目盛りとする古来の習わしがあった、という3つの仮定を説いた[42][注釈 9]。
遠藤庄治は、「琉球の宗教儀礼と日本神話」の中で宮古列島の来間島豊年祭の由来譚が日光感精による処女懐胎であることを説明し、『日本書紀』神代巻冒頭の天地が分かれる以前は鶏子のごとくであったとする条と天日槍伝承に見られる卵生を思わせるモチーフが、来間島では豊年祭の由来として現在も語り継がれ、さらに祭りの催行も由来譚に登場する兄弟の家筋のものが司っていることを紹介して、沖縄においては記紀神話に語られる様々なことがらが現在も宗教儀礼の中で実修され、さらに宗教儀礼に関する神歌や口誦伝承もいまだに伝承されていると述べている[43]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%A5%9E%E9%81%93#%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%9C%AC%E5%B3%B6%E3%81%AE%E7%A5%96%E9%9C%8A%E4%BF%A1%E4%BB%B0
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2023/08/03 (Thu) 10:12:40
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アイヌの信仰
https://www.akarenga-h.jp/hokkaido/ainu/a-03/
カムイへの祈り—信仰
アイヌ民族の信仰では、この世のあらゆるものに〈魂〉が宿っていると考えられました。なかでも、動物や植物など人間に自然の恵みを与えてくれるもの、火や水、生活用具など暮らしに欠かせないもの、天候など人間の力が及ばないものを〈カムイ〉として敬いました。
アイヌの信仰のあらまし
アイヌ民族の信仰では、この世界は人間とカムイとがお互いに関わりあい影響を及ぼしあって成り立っているものだと考えられていました。このような考え方は、自然との関わりを深く持っていた昔の暮らしにとっては、生活に必要なものを手に入れたり使いこなしたりするための知識やしきたり、あるいは天災や病気への心構えなどを表すものでした。
「カムイ」というアイヌ語は、日本語では「神」や「仏」などと訳されることが多いようです。けれども「カムイ」という言葉は、日本語の「神」や「仏」などとは、ある程度意味の重なる部分もありますが、一致するものではありません。そこで、ここでは「カムイ」というアイヌ語を用いることにします。
現代では、日本に住んでいる他の多くの人々と同じように、アイヌも一人ひとりがさまざまな信仰観を持って生活しています。
一方で、今日のアイヌ文化の復興・継承の動きともあいまって、アイヌの精神文化についても関心が高まり、近年、各地でアイヌ独自の信仰や儀礼を学ぶ動きが見られたり、昔の儀式が復活したり、あるいは新たに創造されたりしています。
ここでは、明治から昭和初期に生まれ育った人たちが伝統的なこととして意識してきたことを中心に説明します。
アイヌの信仰には、キリスト教の聖書や仏教の法華経(ほけきょう・ほっけきょう)のような決まった教義や教典があるわけではありません。儀式の作法やカムイに対する意識などには、多くの地域で共通してみられる決まりごとや考え方がある一方で、地域ごとに、あるいは人によって異なる点もあります。
また、どの民族の伝統文化についてもありえることですが、みだりに人に話したり聞いたりしてはならないことや、その人の年齢や性別、立場によってそれぞれに、ふるまいや関心の持ち方を慎むべきことがあったりします。
さまざまなカムイ
どのようなものをカムイと考えるかは、地域や個人によってさまざまです。大まかには火や水、太陽や月、動物や植物などのほか、地震や雷などの自然現象や病気もカムイであったり、カムイが引き起こしたこととして考えられました。また、このような自然のものばかりでなく、人間の手で作られた舟や炉鉤(ろかぎ)、臼(うす)や杵(きね)などの道具類もカムイであるといわれています。
クマ
キツネ
人間の生活に役立つカムイ
シマフクロウ
炉で燃える火
人間が無事に暮らせるように守ってくれたり、人間の力だけでは足りないところを補ってくれたりするカムイもいます。
火のカムイは、大切で身近なカムイとされています。火は人間に温もりや灯りを与え、その熱で煮炊きをさせてくれるばかりでなく、人間の訴えや願いを聞き入れて他のカムイへ伝えてくれます。もし、人間の祈り言葉に足りないところがあれば、それをうまく補う役目も果たしてくれます。
シマフクロウは、村を見守る役目があるカムイとされ、アイヌの人々からとても尊敬されています。植物のカムイには、魔物を近づけない力を持つものがあります。
恐ろしいカムイ
人間の世界へは、恵みを与えてくれる良いカムイばかりでなく、人間が太刀打ちできない恐ろしい力を持ったカムイもやって来ます。人間の命を奪ってしまうような天然痘などのカムイは、人間の村に病気を流行らせることを目的にやって来て、その使命を果たさないうちはカムイの世界へ帰らないといわれています。また、暴風雨や雷なども大きな破壊力を持っており、人間が畏れ敬って接しなければならないカムイたちであるといわれています。
カムイを送る
カムイを送る儀式に供えられたごちそう
人間の世界での役目を果たしたカムイは、いずれ、そのカムイの家族や仲間が待っている、カムイの世界へ帰ることになります。
その際、人間は、自分たちの生活に必要なカムイたちが再びやって来ることを願い、カムイが喜ぶとされる木幣(もくへい)や酒、団子や干したサケなどの食べ物と一緒に感謝の祈り言葉を捧げます。その言葉を受け取ったカムイは、その家族や仲間に対して人間に親切にされた体験を聞かせます。そうすることで、そのカムイはもとより、他のカムイたちもきちんとした礼儀を持って祭ってくれる人間のところへ遊びに行きたくなると考えられています。 このように丁寧に送られて祭られたカムイは、さらに立派なカムイになり、仲間たちからも尊敬されるのだといわれます。
人間が動物などを捕らえて肉や毛皮を手に入れるのは、その動物の命を奪うことになりますが、それは肉体からそのカムイの“魂”を解き放つことでもあると考えられました。人間はその肉体を受け取り、“魂”をカムイの世界へ送り帰すことになります。
カムイに祈ること
祭壇で祈る男性
カムイへの頼みごとやお礼など、人間から伝えたいことがあるときにカムイに対する祈りを行ないます。
これらの祈りは、ちょっとした頼みごとから集落全体の安全などを祈るものまで、さまざまな形で行なわれます。
また、日常生活のいろいろな場面で行なうもの、舟を作ったり家を建てるときなど大切なことがらの際に行なうもの、あるいは豊漁の祈願やそのことに対する感謝のように行なう時期が一年の中である程度定まっているものがあります。
木幣を作る様子
木幣を作る様子
(写真提供:一般財団法人アイヌ民族博物館)
カムイへ祈るときには、さまざまな祭具が使われます。
「木幣」は、ヤナギやミズキなどを切って皮をはいだものの外側を削って房のようにしたものです。さまざまな形状のものがあり、神へ捧げたり、魔ものを払うときに使ったり、その木幣の本体を「家を守るカムイ」として祭ったりと、いろいろな用途があります。
彫刻が施されたへら状のものは、カムイや先祖へ酒を捧げるために作りました。へらの先端を酒につけ、その滴を火のカムイや木幣などにふりかけます。カムイに捧げる酒を入れる椀は、食事用の椀と区別して用いられました。
儀式用の椀とへら
(写真提供:一般財団法人アイヌ民族博物館)
色々な木幣
(北海道大学附属図書館北方資料室)
酒を捧げるためのへら
(写真提供:一般財団法人アイヌ民族博物館)
いろいろな祈りごと
カムイへの祈りは、いろいろな目的のもとに行なわれます。ここでは、そのいくつかの儀礼をとりあげます。
クマのカムイを送る儀式
『蝦夷島奇観』に描かれたクマを送る儀式の様子
(北海道大学附属図書館北方資料室)
クマのカムイの“魂”は、山で獲った人がその場で、あるいは仕留めたクマを村へ運んでから皆で送ったりしました。初春に冬眠中の親グマを獲ったとき、その巣穴に仔グマがいた場合にはその仔グマを生け捕りにして、村で2年ほど飼い育ててからカムイの世界へ送る儀式を行なうことがあります。
村の人々が大切に仔グマを育て、たくさんの土産を持たせてカムイの世界へ送り帰すことで、それに感謝したクマのカムイが再び人間の世界へ訪れることを期待したものです。このような儀式は、カムイの“魂”を送る儀式の中でも特に重要な儀式とされ、近隣の村から大勢の人を招いて盛大に行ないます。
このようなクマを送る儀式について、「何かに捧げる“いけにえ”としてクマを殺している」と説明されていることがありますが、決してそのように考えられていたわけではありません。
サケを迎える儀式
サケの漁期が始まる前にその年が豊漁になることを祈り、漁期の終り頃には豊漁だったことを感謝する祈りをします。
伝染病のカムイを避ける祈り
伝染病が流行りそうなときや流行ったときには、臭いの強い植物を家の戸口や窓、庭先などに置いたりして、伝染病のカムイがよその土地へ行ってくれるように祈ります。
先祖供養の儀式
先祖供養する女性
(新ひだか町アイヌ民俗資料館)
先祖の暮らす「死後の世界」へ供物を届けてもらえるよう火のカムイに頼みます。お菓子や果物は砕いたり割ったりして供え、タバコもちぎって撒きます。このとき、自分の名前や先祖の一人ひとりの名前をはっきり口に出さないと、供物はきちんと届かないともいわれています。
https://www.akarenga-h.jp/hokkaido/ainu/a-03/
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アイヌの死生観やアイヌと和人の葬儀葬式の違いと共通点を解説
https://www.sougiya.biz/kiji_detail.php?cid=1486
アイヌ民族は北海道や樺太の先住民として知られる。アイヌ民族には現在の日本の葬儀葬式と共通点を持ちつつも、和人とは違った独得の死生観を持っている。
アイヌの死生観やアイヌと和人の葬儀葬式の違いと共通点を解説
子供の誕生
肉体に魂が吹き込まれることで人が生まれるとアイヌの人々は考える。誕生したばかりの子の魂は弱弱しく、肉体から抜けやすいとされている。ゆえに赤ん坊を懇篤に世話し、育てる。また、肉体に魂が宿るのと同時に、つき神も誕生するとされており、生涯を共にするという。そしてつき神は良し悪しに関係なく事象を察知し、人に胸騒ぎを起こし、知らせると信じられた。そんなとき人々は適切な助言をつき神に祈り求めた。
アイヌの名付け
アイヌの家庭では生まれてしばらくは子供をあだ名で呼ぶ。そのあだ名というのも日本語に訳すと汚い名前であった。「糞のかたまり」や「老父の肛門」などがあったそうだ。これは悪い神であるウエンカムイがいい名前の子供を神の世界に連れて行ってしまうと信じていたからである。正式な名前は癖や性格が出てきてからそれにちなんで名付けられる。また、同じ名前の人で不幸が出た場合には名前を変更することがある。必ずしも一生を同じ名前で過ごすことはない。
アイヌの葬儀
人の死後、死体は洗われ、死装束が着せられる。次に、火の神と死者に向けてアイヌにおける陀羅尼を唱える。そして、生者は死者に供物を捧げ、訣別の食事会をする。葬式の翌日には、屋内を清め、座席変えなどを行う。アイヌでは、父母や夫の死への喪は重い傾向にある。そこでは一定期間の外出禁止、散髪の禁止、再婚の禁止などが確認される。
死体は埋葬される。死者を埋葬した墓地を訪ねる習慣がアイヌ文化にはなく、埋葬以降はヌラッパやイチャルパと呼ばれる祖先供養が行う。
アイヌの先祖供養
アイヌの祖先供養は屋外で行われる。ヌサ(弊壇)に祖先に捧げるイナウ(祭具の一種)を立て、餅や酒かす、タバコなどを供える。アイヌでは死者は現世と同じように彼方の世界で生活するという世界観から、裁縫道具などの生活用品が副葬される。此方の世と彼方の世は互いに逆転しているという世界観もアイヌには存在する。そのため、装束や神々への礼拝の仕方も普通とは逆の作法で行われる。また、あの世に持っていくために、器物を破壊することで霊を解放しようとする儀礼もある。遺品を燃やすことで死者の世界に送ることも行われていた。中には、住居(家)などのスケールの大きいものもあったようだ
参考資料
■北の生活文化(アイヌの人々の家族構成)
■煎本孝(2004)「アイヌにおける死の儀礼と復興:紛争解決、共生、行為主体」.北海道大学文学研究科紀要,113,31-64.
https://www.sougiya.biz/kiji_detail.php?cid=1486
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アイヌの墓地の意味 : 死体遺棄場 作成: 2019-01-07
更新: 2019-01-07
http://m-ac.jp/ainu/_culture/death/graveyard/meaning/index_j.phtml
アイヌの「墓地」は,死体を遺棄する場所である。
それ以上でも以下でもない。
アイヌの墓は詣でるものではない。
しかしそれを言う以前に,アイヌは「どの死体はどこに埋められている」の考えをもたない。
実際,<棄てる>は<今後一切関係しない>であるから,棄てた場所を頭にとどめるということは,あろうはずもないのである(註)。
久保寺逸彦 (1956), p.172
墓地 tushir,settompa,a-shitoma kotan は、部落近い山の中腹、或は丘陵上等に設けられる。
共同墓地の形はとっているが、一家一区画を占めるという決まりもなく、死者のあるに従い、漸次その隣に一間半乃至二間位の距離を以て墓墳を掘っていったのが古い形式ではなかったか。
何故かとならば、アイヌの古い考方では、墓地は、死体を遺棄 osura する所であり、詣でて祀るところではなかった。
従って、たとえ、墓標を立て、それが残っていても、永い歳月の間には、何人の墓であるか不明になるであろうし、墓標は朽ち倒れてしまうであろうから、無縁仏になってしまうのである。
なお,久保寺逸彦 (1956) は上文に続けてつぎのように述べるが,これは間違いである:
同上, p.172
だが、祖霊は、鄭重に、各家の祭壇 nusa-san の前なる祖霊祭祀幣壇 shinurappa-ushi で祀っていたのだから、或る意味では、アイヌは両墓制だと云えるかも知れない。
従って、一区画を限って、そこへ一家の死者を埋葬する必要がなかったからである。
実際,幣壇の幣は亡者の位牌ではないし,祖霊祭祀は亡者供養ではない。
註: 風習としての「奇妙」を言うならば,「墓に詣でる」の方が奇妙である。
アニミズムを想うべし。人間以外の生物を想うべし。
引用文献
久保寺逸彦 (1956) :「北海道アイヌの葬制一沙流アイヌを中心として」
民俗学研究, 第20巻, 1-2号, 3-4号, 1956.
収載 : 佐々木利和[編]『久保寺逸彦著作集1: アイヌ民族の宗教と儀礼』, 草風館, 2001, pp.103-263
http://m-ac.jp/ainu/_culture/death/graveyard/meaning/index_j.phtml
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<亡者供養の概念をもたない>の構造 作成: 2019-01-04
更新: 2019-01-06
http://m-ac.jp/ainu/_culture/death/memorial/structure/index_j.phtml
「亡者供養」は,供養される亡者に「供養」が伝わるのでなければならない。
即ち,亡者は,《いま自分はだれそれに供養されている》がわかる者でなければならない。
実際,そうでなければ,供養は一方通行のもので,届く先をもたないわけである。
しかし,アイヌにとって「亡者」とは,この世を忘れ切って成るものである:
久保寺逸彦 (1956), p.129
死者が眼を明けたまゝでいることは、不気味なものとされる。 死者が去り行く家やその遺族に心を残すことになるので、死体が硬直しない中に、家族の者は、よく閉じる様にしてやり、低声を以て、
「心を後に残さず、先祖の許へいく様に。
眼を明けて見てはならない。
あなたに身内があったなどということは一切忘れてしまう様に。」
と、いゝ聞かせて (kashpa otte) やるべきものだという。
同上, pp.131,132
「火の老女神 Kamui-huchi、Ape-huchi」 に対する ukewehomshu の詞。
‥‥
この涙子も、生前には、生先永く生きようと心頼みにし、将来はかくしよう、こうもありたいと心に予期することも少くなかったのでしょうに、だが、今となっては、この様に、人間の身を離れて、神様の姿になられてしまったのです。
火の女神よ! あなた以外に、この涙子の面倒を、これから見て下さるものはないのです。
近く、この涙子は、その先祖たちの通った路に足を運び、祖々の住んでいる国へ到着することでありましょう。
今日からは、もう私ども人間の言葉を聴くべきではありません。
どうか、火の女神様から、万事よく、手落ちなく、教え諭してやって下さい。
同上, pp.132,133
「死者 rai-kur」に対する ukewehomshu の詞。
‥‥
今は、神様のこしらわれた姿になられたのですから (kamui-kar shirka,aieuiruke) 、そのあなたに、私ども人間の言葉をお掛けするのは、恐れ多いことと思います。
又、これからは、今までとは違って、人間の言葉には耳を傾けず、余計なことは聴かぬ振りして、たず一筋に、火の姥神のお導きを目当として、よく聴かれる様に、あなたの御心に固く決めて下さい。
近くいずれの日にか、あなたは、先祖たちの歩まれた道に、足を運ばれ、旅立たれるでありましょうが、彼の世へ無事に到着される様、たゞ一筋にそればかりを考えて、他の事は、一切考えないことにして下さい。‥‥
今後は、俗に謂う、互に手を突張り合う u-tom-tek-echiu (不和となる意) の仲となって、あなたと私たち人間との間は、遠く隔たってしまった訳ですから、決して、親戚があるとか、身内の者がいるとかいう様な事は思ってはなりませんよ。
かくして「亡者供養」は,アイヌの概念になるはずのないものである。
ここでは,さらに念を押す意趣で,上記要件に加えてつぎの2つも「亡者供養」の要件になることを強調していおく:
a. 亡者の代わりにする物
b. 亡者の記念時
これらも,以下に述べるように,アイヌには無縁のものである。
亡者供養には,<亡者の代わりにする物>が要る。
それは,墓とか位牌の類である。
つぎに,亡者供養が集団のセレモニーになるためには,<亡者の記念時>が要る。
個人なら「位牌に手を合わせる」を日課にしている者がいるように,<亡者の記念時>は無しでも済む。 しかし,集団のセレモニーとなると,<まさに供養セレモニーを催すべき時>の趣きで,<亡者の記念時>が要るのである。
<亡者の記念時>は,暦を持つことによって,持てる。
──翻って,暦の無いところに<亡者の記念時>は立たない。
そして<亡者の代わりにする物>と<亡者の記念時>が揃うとき,「命日の法事」を形として,亡者供養セレモニーが成る。
さて,アイヌは暦をもたない。
よって,<亡者の記念時>は立たない。
<亡者の代わりにする物>の方は,どうか。
アイヌは,亡くなった者を埋めた場所に,標識を立てる。
しかしそれは,われわれの謂う「墓」ではない。
アイヌはその標識に詣でることはしない。
われわれの謂う「墓地」は,アイヌにおいては穢れであり,忌むべき場所である。
そこは,近づくところではない。
アイヌは,位牌の類の<亡者の代わり>を用いない。
翻って,位牌はただの工作物なのに,どうしてひとはこれを<亡者の代わり>にできているのか。
それは,「魂を入れる・抜く」の概念を受け入れているからである。
アイヌは,このような概念を持たない。
かくして,「亡者供養」は,アイヌの概念になるものではない。
引用文献
久保寺逸彦 (1956) :「北海道アイヌの葬制一沙流アイヌを中心として」
民俗学研究, 第20巻, 1-2号, 3-4号, 1956.
収載 : 佐々木利和[編]『久保寺逸彦著作集1: アイヌ民族の宗教と儀礼』, 草風館, 2001, pp.103-263
http://m-ac.jp/ainu/_culture/death/memorial/structure/index_j.phtml
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2023/08/03 (Thu) 10:32:23
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モイワとモヤ、岩木山(アイヌ語源の山名解)
https://www.yamareco.com/modules/diary/826-detail-10037
市民図書館でふと見つけた本がおもしろいのでこれをネタに新発見をご披露します。
東北・アイヌ語地名の研究/山田秀三
http://www.yamareco.com/modules/amaxoop2/amaxo.php?ASIN=4883230635
札幌にある藻岩山、実はその横の円山がモイワで、藻岩山はインカルシペ(眺望所)だそうです。で、モ・イワの意味は「小さな・神様のいる鎮守の森のような山」という意味だそうです。「モイワ」はその生活圏のどこからも見える整った形の丸い山で、北海道はじめ、アイヌの生活圏各地にあるそうです。
東室蘭駅の東にある楽山(らくさん)はピシュン・モイワ(浜のモイワ)
元浦川で古老に聞いたモイワ
豊頃の十勝川下流にある茂岩
北見市西郊外のモイワなど。沖縄のウタキのような存在だそうだ。
で、東北地方のアイヌ語地名では、これにあたるのがモヤ。
モヤといえば、青森市内どこからでも見える雲谷峠(もやとうげ)。札幌の円山よろしく独立円錐の目立つ山。山の名なのに峠とあるのは、ここに昔トンケイというアイヌの戦士が住んでいて、西暦800年の坂上田村麻呂将軍のヤマト派遣軍と戦い、破れた。このときに現地ゲリラのトンケイ軍をおびき出すためにねぶたをやったのがねぶた祭の起源だという言い伝えがある。そのトンケイの名は現地では残っていて、明治にこの山を地図に記すとき、モヤトンケイに雲谷峠の当て字をしたそうだ。
青森には十三湖の北に靄山(もややま)という150mくらいの円錐山もある。まさにモヤ。
カムイ・イワキ(神住むところ)の省略形がイ・イワキ(それの住まわれるところ)、これが岩木の由来だと言う。このイワがモイワのイワ。岩木は小さくないからモは付かない。著者は「津軽」もアイヌ語と踏んでいる。
そのほか秋田の米代川下流の茂谷山、田沢湖の靄森山など。
アイヌはどこへ行ったのか?どこにも行っていない。北東北に、北海道に、多くの日本人の体に混血して残っている。
次回はサンナイ(三内、山内、珊内地名考)
https://www.yamareco.com/modules/diary/826-detail-10037
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2023/08/03 (Thu) 11:37:36
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古代中国には、北方の畑作・牧畜地帯の龍を信仰する龍族と、南方の稲作・漁撈地帯の太陽や鳥それに蛇を信仰する太陽族・鳥族・蛇族が明白にすみわけて存在していた。南方の長江流域の稲作・漁撈民は、太陽こそ稲の豊穣をもたらすものと考えた。そして、鳥はその太陽の運行を助けるものであった。太陽は朝生まれ、夜に死ぬ。その永劫の再生と循環を支えているのが鳥であった。
その南北構造のルーツは7千年前までさかのぼることができる。中国東北部の内モンゴル自治区から遼寧りょうねい省にかけて、新石器時代に高い文化が発展した。その代表が6千年前の紅山こうざん文化であり、龍が信仰されていた。
ところが、寒冷・乾燥化が進行した5千年前に紅山文化が衰退し、4千年前には崩壊する。北方の中原で生活していた畑作・牧畜の民は南下して、長江中流域の江漢平原から長江文明を担った稲作・漁撈の民を追い出し、雲南省や貴州省の山岳地帯へ追放した。青銅器の武器を持った「家畜の民」が、青銅器の武器を持たない「森の民」を征服することはやさしかったであろう。
こうして、4千年前以降、北方から何回にもわたって征服する波がおしよせた。とりわけ3千年前は、著しい気候の寒冷・乾燥期であった。北方の中原から「家畜の民」が大挙して長江流域に南下した。長江流域に生活していた「森の民」は、森の多い山岳地帯に退去せざるをえなくなった。この時、長江文明の担い手の苗ミャオ族を含む長江流域の人々が、長江文明の崩壊とともに台湾や日本列島へと移動した可能性が高くなってきた。
中国大陸においては太陽族・蛇族は龍族に追われたのであるが、海上難民となって日本列島に到着した太陽族・蛇族は、これまであった縄文時代の太陽信仰・蛇信仰に出会うことになる。縄文時代以来の太陽と蛇を信仰する再生と循環の世界観に、この稲作・漁撈民の太陽信仰と鳥信仰・蛇信仰はすんなりと受け入れられたのである。
神武天皇はヤタガラスの道案内によって、熊野から奈良盆地南部の橿原かしはらの地に宮をかまえる。天津神あまつかみ系の子孫である神武天皇が、対決しなければならなかったのが、その東北に位置する三輪山を中心とする国津神くにつかみ系の神々であったが、再生と循環の世界観を共有していたため、スムーズな国譲りが行われた。
日本の神話に出てくる天皇のルーツをみていくと、アマテラスは田で稲を作る太陽神であった。神武天皇が初代天皇になり奈良盆地を支配する時に、その案内をしたのはヤタガラスという鳥だった。そしてトヨタマヒメはワニだった。稲、太陽、鳥それに揚子江ワニ、これらはすべて長江文明を代表するものである。高天原から日本列島へやってきたニニギノミコトは、鹿児島県の笠沙かささの地についた。長江文明の新しい文化や技術を持った人々がやって来た。長江下流域から、船で東シナ海に出ると、対馬暖流に乗って真っ先に行きつくところが、鹿児島の南端である。そこから対馬暖流が行きつくところが、出雲でありその先が富山の越の国なのだ。
神武天皇にはじまる日本の天皇は、雄略天皇、武烈天皇という二代の暴虐によって、皇統は断絶の危機に直面する。その時、天皇の血を受け継いだ人としてさがしだされてきたのが、越の国出身の継体天皇であった。越の国のルーツは、長江流域からの越人の国の意味あいが強かった。継体天皇の墓地といわれる高槻市今城塚古墳や埴輪を製造した高槻市新池遺跡からは、船を線刻した円筒埴輪が百個以上も出土している。これは継体天皇と九州の水軍と強い関係を暗示している。そして九州の水軍の背景には江南の水軍がひかえている。
天武天皇が唐帝国の覇権主義に対抗し、倭国を独立した国として維持するために注目したハードは律令体制であったが、ソフトは太陽信仰だった。天武天皇は長江文明以来の太陽信仰を体系づけ、「日の御子」として天皇を中心する「日本国の心の形」を作り上げた。天武天皇は太陽王であった。日本列島における「太陽の文明」はこの天武天皇によって名実とも完成した。天武天皇は長江文明を継承し、その長江文明の世界観を天皇を中心とする日本国の建国の柱にすえたのである。長江文明は日本文明となって甦ったのである。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/hon/ryutotaiyou.htm
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2023/08/03 (Thu) 12:37:41
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古代史の鍵・丹後 籠神社
太陽信仰もつ海人集団の拠点
「元伊勢」、伊勢神宮の成立に関与?
京都府の丹後(かつての丹波)地方は、天女伝説や浦島伝説で知られる。近年、古代海部(あまべ)氏の系図が公表されたり、考古学的にも注目すべき遺物が出るなど、漁労や航海を生業とした海人集団による独自の歴史性が明らかにされつつある。
丹後半島の東側、日本三景の一つ「天の橋立」の付け根に、「元伊勢」といわれる籠 (この)神社が鎮座する。祭神はホアカリノミコト(火明命)で、丹波国造が祖神として祭った。
籠神社の宮司家は海部直といい、宮司家が長く秘蔵してきた二つの系図、通称「海部氏系図」「勘注系図」は、現存する最古の系図として、昭和五十一年に国宝に指定された。
これら系図によれば、海部直氏の始祖、ホアカリノミコトをオシホミミの第三子とする。
オシホミミは『古事記』によれば、天照大神の子である。一方、『新撰姓氏録』(九世紀成立)によれば、ホアカリノミコトは愛知県の濃尾平野に勢力を築いた雄族・尾張氏の祖神である。尾張氏の配下にあった有力な海部集団が、ホアカリノミコトを自らの祖神としたものらしい。
浦島伝説にちなんで名前の付けられた丹後半島の亀島
籠神社にはまた、二枚の中国製の銅鏡も伝えられてきた。それぞれ前漢時代、後漢時代のもので、系図中にも「息津鏡」(おきつかがみ)「辺津鏡」(へつかがみ)と記されている。昭和六十二年に初めて公表され、弥生時代に招来されて以来、二千年にわたって伝世されたということで、大きな反響をよんだ。息は沖、辺は岸辺のことで、航海の安全に呪力をもつ鏡として祭られたものだ。
銅鏡といえば、平成六年には、竹野郡弥栄町の墳墓から、邪馬台国の卑弥呼の晩年に相当する「青龍三年」(紀元二三五年)の年号がある銅鏡が発見され、卑弥呼とのかかわりも取り沙汰された。
弥生時代の近畿地方には、銅鏡文化はほとんどなく、丹後の特殊性がうかがわれる。太陽信仰をもっていた海人集団の幅広い活動を示すといえよう。
ホアカリノミコトは太陽神で、各地に鎮座するアマテル(天照)神社の祭神である。神話学の松前健氏は、もともとあった「アマテル」という神が、その格があげられて皇祖神である「アマテラス」となったのだと説く(『日本神話の形成』)。
当時の海人集団の習俗をパノラマ的に描いたらしい土器がある。鳥取県西伯郡淀江町から出土した壷(弥生時代中期後半)だ。神殿建築のような高床式の建物があり、その右側の船には、鳥の装束の人物が乗っており、船の上には太陽らしい渦巻き(同心円)紋がある。
さらに、左側の木には、瓜のようなものが二つぶら下がっている。金関恕・天理大教授 によれば、銅鐸であるという。千田稔・国際日本文化研究センター教授は、このパノラマ図について銅鐸をともなった弥生時代の太陽信仰を描いたものとし、アマテル信仰の 源流とみている。
息津鏡=籠神社・海部宮司家所蔵
しかしこれがアマテラス信仰の源流であるかについては、さらに検討の必要がある。ホアカリノミコトは、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこほあかりくしたまにぎはやひのみこと)のように、ニギハヤヒと複合で称されることがしばしばで(丹後の天照玉命神社もその一つ)、ニギハヤヒは物部氏の祖神の名であるからだ。
物部氏は銅鐸を奉祭した氏族とみられ、実際、丹後には銅鐸が多く出土する。天ノ橋立に囲まれた阿蘇海に流入する野田川右岸の加悦町から、銅鐸形土製品が発見され、籠神社の東の由良川の上流には、阿陀岡神社が鎮座し、付近から二個の銅鐸が出ている。
郷土史家の金久与市氏によれば「銅鐸出土地には必ずといっていいほど古社がある。海洋民の集団が由良川をさかのぼり、上流地点に銅鐸を祭祀し、祠を建立、拠点としたのではないか」(『古代海部氏の系図』)という。
丹後町から西に向かう網野町の函石浜遺跡からは、中国の新時代の王莽によって鋳造された「貨泉」が発見されている。中国とかかわる交流を物語るものだ。
平成十年には、王墓とみなされる墳墓(弥生後期〜末期)が籠神社から約三キロ西南で見つかった。美しい透明の青色ガラス製の釧で話題を呼んだ。他に、貝輪系の銅釧(く しろ)(腕輪)十三点、鉄剣十四本などが出土したが、これらは九州系の文化遺物である。
銅鐸氏族・物部氏には、天磐舟(あまのいわふね)による降臨神話があり、先の壷のパノラマ図をほうふつとさせる。物部氏は航海、交易によって栄えた氏族だったといえよう。
さて、この地を「元伊勢」というのは、天照大神が大和から伊勢に遷座する途中、最初に立ち寄ったのが、この籠神社だったとする伝承が、伊勢神宮に伝わる「倭姫命世記」(やまとひめのみことせき)(七六六年の成立という)にあるからだ。また、伊勢神宮外宮の豊受大神ももと籠神社奥宮の祭神で、八世紀に、丹後から遷座したと伝えられる。
このように、丹後は大陸・韓半島に近いがゆえに、物部氏や海部氏をはじめとする海人集団の幅広い活動の舞台となり、アマテラスの伊勢への遷宮ともかかわりをもったと思われる。まさに古代史を解くカギが潜む地といえる。
http://tamagaki.exblog.jp/2992078/
京都府北部、丹後半島の付け根にある天橋立は、日本三景の一つに数えられる観光の名所ですが、天橋立を渡ったところにある丹後一の宮、籠(この)神社はまた、古代史ファンにはよく知られた神社です。
1975年、神社に代々極秘で伝えられていた系図が公表され、関係者の大きな注目を集めました。現存する日本最古の系図として、また、従来にない古代史の新史料として、思いがけないものだったからです。翌年にはさっそく国宝の指定を受けたのも異例のスピードでした。
この系図には、なんと邪馬台国の女王、卑弥呼と思われる名前が記されています。最近、卑弥呼の墓の最有力候補として注目されている奈良県・纏向遺跡にある箸墓古墳、その被葬者とされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の名が載っているのです。
系図によると、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫のところに、「日女命(ひめのみこと)」と出てきます。この「日女命」の脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」などと記されています。
「日神」とは、すごい呼び方です。太陽神のような扱いを受けた女性ということでしょうか。なんとなく卑弥呼を思わせるといってもいいでしょう。
それに、「神大市姫命」の「大市」。これは『日本書紀』のなかで箸墓について、「倭迹迹日百襲姫が死んで、大市に葬る。時の人はこの墓を名づけて箸墓という」とある記述に完全に一致します。宮内庁による箸墓の呼び名「倭迹迹日百襲姫の大市墓」の「大市」です。
どうやら、箸墓に葬られた百襲姫という女性は、丹後の籠神社の系図にある「日女命」と同一人物で、彼女が卑弥呼であるらしい。つまり、卑弥呼は「日女命」と考えてよいようです。
この系図は、5世紀に丹波国造となった海部氏が、籠神社の神主となって代々伝えてきたものです。主祭神の彦火明命を丹波国造の祖として、以後、今日まで海部氏が代々続いており、現在は82代目の海部光彦さんです。
「海部氏系図」と呼ばれるこの系図には、始祖の彦火明命についての驚くべき伝承も伝えています。
彦火明命は、「天火明命(あまのほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、いくつかの名前がありますが、天皇家の祖先と同じ天照大神の孫で、やはり天孫として天降っている。しかも、丹後に天降っているというのです。
天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。
籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。
息津鏡(下)と辺津鏡(上) (c)gakken
ひとつ(辺津鏡)は、紀元前1世紀後半の前漢鏡(内行花文昭明鏡)、もうひとつ(息津鏡)は、紀元後1世紀の後漢鏡(長宜子孫内行花文鏡)です。
前漢鏡の方は、近畿地方では出土例がまったくない貴重なものですし、後漢鏡の方も、近畿地方では破片で出ることはあっても、完全な形で出土したことはなく、やはり貴重な鏡といえます。
驚くべき鏡が、代々神社の神宝(かんだから)として伝えられていたわけです。
では、なぜ卑弥呼の名が籠神社の系図のなかに残っているのでしょうか。それが謎です。
古代丹後の鉄とガラス
籠神社のある丹後半島周辺は、不思議な伝説が多いところでもあります。
『丹後国風土記逸文』には、このあたりの漁師の若者が竜宮城を訪れる話、つまり、有名な浦島太郎の伝説が残っています。ほかにも、羽衣を奪われた天女が天に帰れなくなるという羽衣伝説、さらに、天橋立はもともとイザナギ命が天から通ってくる梯子でしたが、神が地上で寝ている間に倒れて天橋立になった、という伝説もあります。いずれも、天上界や海の彼方にある別世界と交渉する内容をもっているのが特徴といえます。
籠神社の名前の由来も、神代に彦火火出見命(ひこほほでみのみこと・彦火明命の別名)が籠船で龍宮に行ったとの伝説があり、そのために昔は籠宮(このみや)といったようです。
丹後はこのように、どこか神話的な世界の残る地方でもあります。籠神社のある宮津市の「宮津」とは、大きな宮のそばにある港という意味です。むろん籠神社を指してのことです。天橋立はもともと籠神社の参道だったからです。
なお、丹後という呼び名は比較的新しいもので、古代には、現在の京都府と兵庫県の中部北部合わせた全部を丹波と呼んでいました。ところが、684年(天武13年)に丹波国から但馬国(兵庫県北部)が分けられ、713年(和銅6年)、丹波国の北部5郡が分けられて丹後国となったという経緯があります。
弥生時代には、この丹後地方は列島のなかでもかなり特別な地域だったようです。何が特別かというと、弥生時代からなんとガラスや鉄製品が作られていたのです。それを物語る考古学の発掘が、この10年ほどの間に相次いでいます。
特徴的なものをいくつかピックアップしてみると…
まず、丹後半島中央部の弥栄(やさか)町、奈具岡(なぐおか)遺跡では、紀元前1世紀頃ごろ(弥生時代中期後半)の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっています。水晶やガラスを使って勾玉(まがたま)や管玉(くがたま)などを生産していた工房です。そのための道具としてノミのような鉄製品が作られていたようです。
この遺跡の場合、出土した鉄屑だけでも数キログラムになるといわれ、大和や河内など近畿地方の中心部と比べると、「鉄の量としては桁違いの多さ」だといわれます。ましてや、鉄製品そのものが残されていたら、どれほどの量だったのでしょうか。
驚くべきことに、このような玉造りが丹後半島では紀元前2世紀ごろから始まっていました。玉造りの工房のある遺跡が、丹後半島だけで十数か所見つかっています。
当然、この地域の遺跡から大量のガラス玉が出土するケースも多く、大宮町の三坂神社墳墓群や左坂墳墓群など、ガラス玉の総数は1万点にも及ぶということです。全国の弥生時代のガラス玉のほぼ10分の1が、丹後から出土しているといわれます。
もう一つの先進地域
次は、墓です。平成13年5月、宮津市の隣、加悦町の日吉ヶ丘遺跡からやはり弥生時代中期後半の大きな墳丘墓があらわれました。紀元前1世紀ごろのものです。30メートル×20メートルほどの方形貼石墓といわれるスタイルで、当時としては異例の大きさでした。
墓のなかには大量の水銀朱がまかれ、頭飾りと見られる管玉430個も見つかりました。水銀朱は当時としては貴重なもので、魔よけの意味があるといわれます。それがふんだんに使われていました。しかも、大量の管玉。墓に接するように環濠集落があるようです。
この墓は、他の地域と比べてみると、あの吉野ヶ里遺跡の墳丘墓とほぼ同じ時代です。墓の大きさも、吉野ヶ里よりわずかに小さいだけで、しかも、吉野ヶ里の墳丘墓には十数体が埋葬されていましたが、日吉ヶ丘遺跡の場合はただ一人のための墓です。当然、王の墓という性格が考えられ、「丹後初の王墓か」と新聞などでは話題になりました。
全国的に見ても、この時代にはまだ九州以外では王はいなかったと考えられていますが、丹後では王といってもよい人物が登場してきたわけです。
丹後半島の古墳公園(加悦町)
倭国大乱の原因となる鉄
丹後地方は、弥生時代の終わりごろになってくると、今度は鉄製の武器を大量に保有するようになります。
平成10年9月、携帯電話の中継塔を立てる目的で、籠神社から数キロはなれた岩滝町の天橋立を見下ろす丘陵の中腹を調査したところ、驚くべき出土品が多数見つかりました。これは大風呂南遺跡と呼ばれる墳墓群ですが、その中心的な墓(1号墓)から11本の鉄剣と、美しい青色のガラスの腕輪が出土したのです。墓の年代は西暦200年前後。
ほかにも、銅の腕輪(銅釧・どうくしろ)が13個、大量の鉄製品や管玉、朱など、弥生時代の墳墓の常識を超えるものでした。
なかでもガラスの腕輪は、国内ではこれまでに3例しかないうえに(福岡県で2例、丹後で1例)、どれも原形をとどめていませんでしたが、ここでは完全な形で出土し、透明感のあるコバルトブルーの輝きを放っています。被葬者が左手につけていたもので、権威の象徴です。
11本の鉄剣も、墓の副葬品としては異例の多さです。弥生時代の墓に副葬される鉄剣は通常1~2本ですが、11本というのは被葬者がいかに大きな権力を持っていたかをよく物語っています。しかも、時代は西暦200年前後、まさに邪馬台国が誕生した直後です。
この墓の被葬者は、奈良県・纏向遺跡の石塚や、岡山県・楯突墳丘墓に葬られた人物と同じ時代に生きていたことになります。
この時代の丹後の墓からは、鉄剣が大量に出土します。特別な立場にあるような人の墓ではなく、家長クラスの墓からも当たり前のように鉄剣が出てくるのです。おそらく軍事集団のようなものが存在していたのではないか、と考えられています。そうなると当然、軍事集団を束ねるリーダーがいたはずです。大風呂南遺跡の墓の被葬者は、そのような人物だったのではないか、と考えられています。
ガラス釧(腕輪)と銅釧 丹後郷土資料館蔵
このように倭国大乱期から邪馬台国時代にかけて、列島のなかでどこよりも鉄を保有していたのが丹後です。その多くが鉄剣や鉄鏃(てつぞく・矢の先端部)など、武器として出土しています。
弥生時代はかつて平和な農村社会と考えられていましたが、案外、戦いが多かった時代だと今では考えられています。各地の戦いで武器の主力が鉄器になってくるのは、1世紀ごろからです。そのころから、丹後の墓からも鉄剣が出始める。ちょうど1世紀ごろの王墓と見られる三坂神社3号墓からは、大陸製の鉄刀やりっぱな弓矢、豪華な玉飾りなど、経済的な権力を持った王の姿があらわれてきます。
その後、2世紀後半から3世紀前半にかけては、上に述べたような状況で鉄剣がポンポン出てくきます。この時期に丹後の勢力がもっていた鉄は、キャスティング・ボードになったのではないでしょうか。これほどの突出した武力が、あの倭国大乱を引き起こしたのではないか、とさえ思えるのです。
そう考えると、丹後(古代丹波)の勢力は、女王卑弥呼の誕生にも重要な立場を取ったに違いありません。邪馬台国の女王に卑弥呼を共立していく主要なメンバーに、古代丹波が入っていたのはほぼ間違いないでしょう。しかも、海部氏の系図に残る「日女命」の名は、卑弥呼がじつは古代丹波出身だったのではないか、と思えてきます。
先進の技術によって蓄えられた力が、数百年をかけてピークに達したとき、そういう時代に合わせるように、ひとりの飛びぬけて神秘的な能力をもった女性が丹波にあらわれたのではないでしょうか。もちろん、その女性こそが卑弥呼です。
http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/index.html
十種神宝
十種神宝(とくさのかんだから、じっしゅしんぽう)とは、物部氏の祖神である饒速日命が伝えたとされる十種の神宝である。
『先代旧事本紀』の「天孫本紀」の記載によるもので、饒速日命が天神御祖(あまつかみみおや)から授けられたとする。『先代旧事本紀』には「天璽瑞宝十種(あまつしるし みずたから とくさ)」と書かれている。
分類すれば、鏡2種、剣1種、玉4種、比礼(女性が、首に掛けて、結ばずに、左右から同じ長さで前に垂らすスカーフ様のもの)3種となる。これを三種の神器に対応させて、鏡は八咫鏡、剣と比礼は草薙剣、玉は八尺瓊勾玉であるとする説もある。
十種神宝の内容は以下の通りである。
沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
蜂比礼(はちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
品物之比礼(くさぐさのもののひれ)
布瑠の言
布瑠の言(ふるのこと)とは、「ひふみ祓詞」・「ひふみ神言」ともいい、死者蘇生の言霊といわれる。
『先代旧事本紀』の記述によれば、「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。
「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと。
「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す。
饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種神宝を使って神武天皇と皇后の心身安鎮を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源であると『先代旧事本紀』には記載されている。
十種神宝の行方
石上神宮の祭神である布留御魂神は十種神宝のことであるとする説もある。石上神宮に伝わる鎮魂法では「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱える。いずれにしても、十種神宝は現存していない。
本物か不明であるが、大阪市平野区喜連6丁目にある楯原神社内の神寶十種之宮に、偶然、町の古道具屋で発見されたという十種神宝が祀られている。石上神宮側から返還要請があったにもかかわらず、返していないという。
江戸時代、山崎闇斎は、垂加神道においては神秘的な意義の有るものとして、さまざまな口伝的著述を残した。
籠神社には、息津鏡・辺津鏡という2面の鏡が伝世している。十種神宝の沖津鏡・辺津鏡との関係は不明で、籠神社も特に見解は出していない。
秋田県大仙市の唐松神社には古史古伝のひとつである『物部文書』とともに奥津鏡、辺津鏡、十握の剣、生玉、足玉とされる物が所蔵されているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%A8%AE%E7%A5%9E%E5%AE%9D
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2023/08/19 (Sat) 09:04:57
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井戸尻考古館 _ 縄文人の生活再現
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14141614
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2023/08/19 (Sat) 15:32:34
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縄文時代に神社はあったのか?
2022/12/21
https://www.jomon-jidai.com/info/post-219
現在の日本各地にある神社は、「八百万」の神を祭祀の対象とした神道の信仰に基づいた祭祀施設であり、その起源は縄文時代に遡るとも言われています。
先史時代の縄文時代に現代のような神社があったわけではないものの、大木や巨岩あるいは山などに、神が降りられる場所や鎮座される場所として祭祀の場所の痕跡があります。
自然との共存を現代人よりも強く認識していた縄文時代の人々は、自然界の万物に対して畏敬の念を抱いていたと推測され、収穫が行われる秋には祭礼も行われたと考えられます。
縄文時代の人々の信仰や神社とのかかわりなどを紹介します。
縄文時代の人々の信仰とは?
日本各地で発掘された縄文時代の集落遺跡からは、集落の中央に祭祀場と思われる遺跡が発掘され、祈りや祭祀の場所と考えられるストーンサークルがみつかっています。
文字もなく、科学が発達していない縄文時代には、地震や火山の噴火、大雨や嵐などの自然災害は、人の力が及ばない「神の怒り」と考え、自然の神々への祈りが捧げられたと推測されています。
また、狩猟や漁労を生業とした縄文人は、狩猟や漁労の成果が努力の結果とは考えず、神の思し召しとでも言うかのように、集落内で食料や物資を均等に分け割っています。
八百万の神々を祭祀の対象とした神道と同様の考え方に基づく縄文時代の人々の信仰は、祈りを捧げる場所、祭祀の場所として作られた環状列石は、現在の神社の起源にあたると推測できます。
縄文時代の環状列石にみられる祭祀
縄文時代の大規模集落遺跡の中には、竪穴住居をはじめ貯蔵穴、ゴミ捨て場の役割を果たす貝塚など日常生活に使用される施設の他に、祭祀が行われた遺構もみつかっています。
秋田県鹿角市に発掘された大湯環状列石は、祭祀が行われたと考えられる代表的な遺構で、環状列石は北側の野中堂と南側の万座からなり、内側にもサークルがつくられています。
環状列石の周辺には、貯蔵穴や土坑、集落の象徴的な掘立柱建物などと共に、土器や土偶なども出土しています。
縄文時代の環状列石は、八百万の神の祭祀施設とする現在の神社と同様の意図と信仰が感じられる施設となっていて、現在の神社の起源になっています。
神社の起源は縄文時代の祭祀施設から始まった?
神社の歴史は太古に始まったと考えられるものの、どのように誕生したのかは明確にはわかっておらず、縄文時代につくられた環状列石のような祭祀場が原型と考えられています。
日本の神社は、自然崇拝を中心とした神道の信仰が元になっていて、縄文時代の人々が、人の力が及ばない自然への畏怖の念を抱き、集落の中心に作られた祈りや祭祀の場所にその意図の共通点がみられます。
縄文時代の人々は、秋田県の大湯環状列石のような祭祀場を設けて祭事を行い、人が住む世界とは異なる神の居る世界を祭祀施設として作り上げていて、現在の神社の原形になっています。
https://www.jomon-jidai.com/info/post-219
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2023/08/19 (Sat) 16:15:15
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縄文時代の祭祀遺跡とは?
2023/3/10
https://www.jomon-jidai.com/remains/post-221
縄文時代の遺跡について
神社が作られる以前に神霊を祀った遺跡は、祭祀遺跡と呼ばれ、縄文時代や弥生時代といった先史時代から、宗教や儀礼上の遺跡と推定されるものの、明確な意図は判明されていません。
古墳時代以降に発掘された祭祀遺跡は、出土した小型土器やさまざまな模造品、子持勾玉などが祭具として利用された考えられています。
狩猟採集を生活の糧としていた縄文時代の人々は、自然との共存をはかり、自然界からの恵みへの感謝と同時に、台風や地震などの脅威を感じていたと想像され、各地で発見される遺跡には、祭祀場と思われる場所もみつかっています。
全国各地でみつかっている縄文時代の祭祀遺跡を紹介します。
縄文時代の祭祀遺跡である環状列石と環状石離
縄文時代の集落遺跡には、集落の中央に祈りを捧げたと推測されるストーンサークルが発掘されています。
石を環状に配置したストーンサークルは、イギリスで巨石を使って作られたストーンサークルが有名で、縄文時代の日本列島にも178カ所で発見され、その約4割にあたる74カ所が東北の秋田県に集中しています。
縄文時代の祭祀遺跡として発掘されたストーンサークルは、石の輪が一重、あるいは二重や三重とさまざまなあり、この施設がどういった用途に使用されていたか、明確にわかっていませんが、天文台、お墓、祭祀場などの用途や、複合的な目的が推測されています。
縄文時代の祭祀遺跡として有名なストーンサークルは?
縄文時代の祭祀遺跡の約4割が集中する秋田県には、「伊勢堂岱遺跡」と「大湯環状列石」の二つがあり、祭祀跡とされるものの、お墓や天文台などの機能もあったと考えられています。
「伊勢堂岱遺跡」には、20種類以上の石が使われ、214点の土偶がみつかり、すべての土偶が壊され、妊娠や出産に関する祈願や祈りが捧げられたと推測されます。
「大湯環状列石」には、万座環状列石と野中環状列石の二つのストーンサークルがあり、二重の輪が数十個の石の組み合わせで作られ、縄文時代の祭祀に用いられたと考えられる鐸形土製品、石刀、男根状石製品、キノコ形土製品、土偶、動物形土製品、足形石製品など、すべての道具が出土し、死者を埋葬された場所と考えられています。
これらの祭祀遺跡からは、集落での祈りの場所であると同時に、並べられた列石の組石から、大型の日時計とされた可能が高く、祭祀場以外の目的も作られた集落毎に違いがありそうです。
縄文時代の祭祀遺跡にあるストーンサークル
縄文時代の集落遺跡は、環状に住居や施設が配置され、集落中央には広場が置かれ祭祀が行われたと考えられています。
秋田県に発見された「伊勢堂岱遺跡」や「大湯環状列石」といった祭祀遺跡からは、環状列石の構造や土偶などの副葬品など、死者の埋葬や生まれ変わりといった縄文人特有の思想や信仰を背景とした祭祀が推察されます。
また、祭祀遺跡によっては、天文台や日時計などの用途も推察されています。
https://www.jomon-jidai.com/remains/post-221
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2023/08/19 (Sat) 20:09:40
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縄文時代には格差も戦争がないと言われる理由は?
2022/6/12
https://www.jomon-jidai.com/info/post-211
人類の歴史は戦争の歴史ともいわれるほど、先史時代から現代に至るまで、世界各地で戦争が繰り返されています。
戦争は、利害の不一致や意見の対立などを暴力で解決しようとする行為で、戦争の原因となる理由は、さまざまに考えられます。
人が他人と関わりを持って生きる以上、個人や集団のそれぞれの対立や衝突の可能性がゼロになることはなく、いつの時代も戦争がない社会の実現を目指しています。
そんな歴史の中、先史時代の日本列島の縄文時代には、戦争がないとする説があります。
人類の歴史で繰り返される戦争が起きる理由には?
人類の歴史で繰り返される戦争が起きる理由には、食料や資源の奪い合いによるもの、国家や政府に対する不満で起きる内乱やクーデター、異なる民族や宗教間での対立、国家の侵略行為に対する国家間の対立などが考えられます。
先史時代の狩猟や採集を中心とした生活を送った縄文時代には、生きるために食べ物を確保しなければならず、そのための狩場や畑作の場所の取り合いは争いの原因ともなり、戦争が起きる理由となりそうです。
しかも、移動生活から定住生活へと移行した縄文時代には集落が形成され、縄文土器や磨製石器などが生み出され、徐々に食料が貯蔵されるなど、戦争が起こる理由が多々想像されます。
しかしながら、発掘された縄文時代の遺跡に残された人骨からは、戦争による傷跡がほとんど確認されず、戦争がない状況だったと想像されます。
縄文時代に戦争がない社会だったと言われるのは?
縄文時代に戦争がない社会だったと言われるのは、前述のように、遺跡から発掘された縄文人の遺骨に、戦争による傷跡がほとんど確認されていないためです。
戦争がない社会を生み出した縄文時代には、現代人とは違う縄文人の精神性や価値観があったと推測されます。
狩猟や採集を中心とした生活を送った縄文時代の人々は、現代人のような経済性を追求した労働や価値観とは違い、自然との共存が尊重され、集落内での能力差を互いに認め合っていたと考えられます。
狩猟や採集で獲得される獲物や収穫物は、努力しても同じ成果が得られるとは限らないことを認め、集落内で均等に配分され、生きるための食べ物を奪い合う争いを避けています。
しかも、集落内の竪穴式住居の大きさや配置からも、集落内での身分差や階級がなかったと推測でき、戦争がない社会を本能的に作り出すために争いの原因を排除しています。
争う理由を排除した縄文時代には、戦争がない?
人類が戦争を繰り返してきた理由には、生きるための食料や資源の奪い合いや利害や意見の対立などがあります。
定住生活を始めた縄文時代の人々は、集落内での争いとなる食料を均等に配分し、身分差や階級を設けることなく集団を構成し、争いとなる原因を排除しています。
自然との共存する生活を継続した縄文時代の人々は、現代人とは違う思想や信仰心があったと考えられ、戦争がない社会を本能的に具現化したと推測されます。
https://www.jomon-jidai.com/info/post-211
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2023/08/19 (Sat) 20:13:54
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縄文時代には、どんな人間関係が築かれていたのか?
2020/2/13
https://www.jomon-jidai.com/info/post-144
マンモスなどの大型動物を追いかけた狩猟生活を送っていた旧石器時代には、東西南北、獲物を追って洞窟を転々とする移動生活が想像されます。
打製石器を使用していた旧石器時代が、氷河期の終わりと共に温暖化した気候により、日本列島を覆っていた針葉樹林から広葉樹林へとかわり、落葉広葉樹林の木の実の採集を中心として副次的に狩猟を行う縄文時代へと変わります。
縄文土器の発明と打製石器から磨製石器への技術革新により、固い皮に包まれたドングリやトチといった木の実が粉にされ、料理されることで貯蔵が可能となり、一定期間特定の場所での定住が始まります。
移動生活から定住が始まった縄文時代にみられる人間関係などを考察してみます。
縄文時代に集団が形成されたことがわかる遺跡
各地で発掘された縄文時代の遺跡からは、石器や祭祀具、人骨などが発見され、人々が暮らした年代を特定したり、遺構や遺物からどんな生活をしていたかが推察されます。
文字が存在しない先史時代である縄文時代の集落の遺構からは、墓を中心として、広場、住居、貯蔵庫などが円形に配置され、円形あるいは環状の村が形成されています。
集落の中心に墓地が置かれたことから、共同体の精神的な拠り所が霊的な存在だったと推察できる一方で、集団を形成した村のような集落の中に、中心となるリーダーや指導者的なものをおかず、偶像も置かれていません。
リーダーや指導者がいない集団を形成していたと想像される縄文時代の人間関係は、構成する人が等距離にある関係といえ、上下関係もなかったと推察されます。
等距離の人間関係が可能だった縄文時代の背景と考え方には?
縄文時代に作られた集落の集団には、個人それぞれの能力差や得意分野の違いはあっても、狩猟の成果物を左右する階級は存在しなかったと想像できます。
発見された集落の遺跡からは、特別な場所を占有した住居跡がなく、身分の差が考えられる副葬品の差も無く、墓地にもそれほどの違いがみられないなどがその理由です。
こうした等距離の人間関係が成立したのは、現在のような成果主義や物質的対価といった発想がなく、自然の摂理の中で狩猟によって得られる成果が、努力だけでどうなるものでもないという理解が共有されていたためと考えられます。
しかも、現在の会社や町内会といった組織にあたる社長や役職などの関係性がなく、雇用関係や権力に従うといった人間関係がないため、集団の中で自分ができることをできる範囲で行なっていたと想像されます。
細分化された現代の社会よりもフレキシブルな人間関係が集団の中に構築されていたとも考えられます。
縄文時代の人間関係には上下関係も権力支配もない?
自然の摂理の中で、狩猟と植物の採集や栽培で生活していた縄文時代の人々が定住を始めて集落を作り、集団の中には、権力や指導者、偶像が置かれず、等距離の人間関係が構築されています。
現代社会にみられる組織の階級や権力による支配などがない縄文時代の人間関係は、集団内での個人の能力や得意分野を相互に認知しながら、それぞれが集団に役立つことを可能な範囲でこなし共存をはかっています。
縄文時代の人間関係には、成果主義や物質的対価、経済的対価といった思想も発想もなかったため、ある意味では理想の人間関係だったかもしれません。
https://www.jomon-jidai.com/info/post-144
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2023/08/20 (Sun) 04:22:49
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縄文時代にはどんな祭りがあったのか?
2019/7/16
https://www.jomon-jidai.com/info/post-74
日本各地で行われる祭りには、大勢の人が集まるイベントの性格が強い「祭り」も多く、古代から続く死者を祀り、豊作を祈願した祭りとさまざまな行事となっています。
季節の変わり目や人生の節目などで行われてきた祭りも、時代と共に変容しながらも、古代から続く信仰や宗教観をそのままに継続するものも多くあります。
祭りの始まりとなった縄文時代の遺跡からは、祭事場となった高床式の建物も確認されており、約1万年も続いた縄文時代のそれぞれの時期で変容したと考えられます。
縄文時代に始まった「祭り」について紹介します。
縄文時代から続く日本の「祭り」の語源と目的
縄文時代に始まったとされる「祭り」には、自然災害や病気、悪霊などを避け、神や精霊を祀る意図と、男女が交わるといった意味も含まれています。
旧石器時代から縄文時代となった当初は、30人程度の集団で生活し、その集団内での祭りは、歩行の延長上に生まれた踊りからトランス状態となった男女が交わったと考えられ、その過程で、精霊への祈りも捧げられています。
つまり、縄文時代に生まれた「祭り」には、超越的な存在である神や精霊をもてなし、願い事をするという意味があり、現代の神社や仏閣で行われる祭りに継承され、イベント的な「祭り」が付加されています。
縄文時代の時期で変化した「祭り」の形態
縄文時代の前期には、30人程度の単一集団内で飢えの恐怖と戦いながら狩猟と採集生活を継続しながらも、精神的な解放と将来への可能性を見出す収束場所として「祭り」が行われ、次の世代へと引き継がれています。
縄文土器の発明や採集生活により、食糧の確保が改善されるようになると、精霊への祈りを強化した土偶を使った祭祀がはじまります。
縄文時代の中期になると温暖化が進み、それまでの針葉樹林から広葉樹林へと変わり、食料確保と共に人口が増加し、前期の単一だった集団の規模が拡大すると共に分化しています。
次第に、集団同士の縄張りの確保や植物の生産における協働、出産可能な女性を移籍させるなど、集団同士間の交流と共に男女が交わることで、集団の結束力を維持しています。
その際、非日常的な「祭り」が行われていて、細長い石を横に放射状に並べ、その中央に直立する細長い石を置いたストーンサークルと呼ばれる祭り場は、男女の性器の結合が表されています。
現代の祭りの原点は、縄文時代にある?
日本の「祭り」の原点は、縄文時代に始まった神や精霊を祀った「祀り」と祈りを捧げる過程で踊る「祭り」でトランス状態となった男女間の交わりとされています。
約1万年も続いた縄文時代では、始まった当初から時間の経過と共に、生活を送る集団の形成が30人程度の集団から、次第に構成人員が増加して分化し、それぞれの集団同士の交流と対立が、新たな祭りを生み出しています。
縄文時代の祭りには、日常的な性や踊り、神や精霊への祈りが基盤となっていて、生活形態の変化と共にその形態と宗教的な意味が加えられています。
https://www.jomon-jidai.com/info/post-74
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17:777
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2024/03/01 (Fri) 19:36:52
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現代まで続く縄文スピリット~この素晴らしき縄文世界♪
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/11/17
https://www.youtube.com/watch?v=4RAgGHQvcSw&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=5&t=873s
最新の縄文研究からわかってきた縄文の暮らしを祭祀から見てみます。
私たちほぼすべての日本人が受け継ぐ縄文のDNA。 現在のアニミズム的神道のルーツは縄文まで遡れるのではないか?東北の大湯環状列石遺跡、三内丸山遺跡、御所野遺跡から探ります。