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現在でも韓国では、ほとんどの研究者に広開土王碑文改竄説が信じられている

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2023/07/26 (Wed) 09:02:53

雑記帳
2023年07月23日
「在日」にとっての古代史とは何であったのか
https://sicambre.seesaa.net/article/202307article_23.html

 表題の論文(李., 2022)を読みました。本論文は、高松塚古墳の壁画発見の大々的報道(1972年3月21日)を契機とする、いわゆる「古代史ブーム」において、金達寿氏と李進熙氏が果たした役割に焦点を当てるとともに、韓国の学界状況も解説しており、不勉強な私にとってはたいへん有益でした。過去の韓国の学界状況について、韓国の代表的な古代史研究者である李基東氏から著者が直接的に話を聞いたとのことで、この点でも本論文は貴重です。

 1970年代の韓国の学界では、古代日本の帰化人(渡来人)問題や古代日朝関係史や朝鮮半島南部支配問題(任那日本府問題)について、ほとんど関心の対象ではなかったそうです。伽耶もしくは任那を本格的に取り上げた論文や本も、1970年代後半までなく、金廷鶴氏の『任那と日本』(小学館、1977年)がその嚆矢となるそうですが、同書は日本語で発表され、朝鮮語では発表されず、韓国や日本の伽耶研究史でもほとんど引用されていない、と指摘します。

 本論文は、金達寿氏や李進熙氏など1970年代における在日の問題提起が、日本での「古代史ブーム」の最中における「在日の古代史」として、当時の日本社会の文脈に大きく依拠しており、在日の問題意識に支えられていたので、当時の韓国の学界では必ずしも受容される文脈がなかった、と指摘します。金達寿氏や李進熙氏などの見解は、戦後日本社会でも根強く残っていた「皇国史観の残滓」や「朝鮮に対する先入観」や「侵略史観の土壌」への対抗として、「東アジアの視野にたって古代日本の実像を考え」ようとしていた日本の「市民」に受け入れられ、それは多分に日本社会の文脈に沿ったものだった、というわけです。ただ本論文は、金達寿氏や李進熙氏の見解が韓国の非専門家層には広く受け入れられており、韓国において報道が学界に及ぼした影響も指摘します。

 一方、北朝鮮においては戦前の日本人研究者の学説に対する徹底的な批判が行なわれ、金錫亨氏により、紀元後3世紀末以降に朝鮮半島から日本列島に渡った移民が各地に分国を形成し、故国と連携を維持しつつ、諸勢力が統合され帝紀、7世紀前半に大和朝廷が成立した、との見解が提示されました。日本が朝鮮半島に「進出」して朝鮮半島の一部(任那など)を支配したのではなく、その逆で、日本列島こそ朝鮮半島起源の人々の分国(コロニー)があった、というわけです。古代日本による朝鮮半島(の一部の)支配を裏づける根拠とされてきた広開土王(好太王)碑についても、韓国では読み直しが進み、渡海したのは倭ではなく高句麗だった、と主張されました。

 金錫亨氏の学説そのものは、実証性に問題があるとして日本の学界では斥けられましたが、これにより古代日朝関係史の再検討が活発になり、金達寿氏は1970年以降、「帰化人」を「渡来人」と訂正するよう提唱し、これは日本社会に大きな影響力を有した、と言えるでしょう。李進熙氏は、韓国における広開土王碑文の読み直しを問題にせず、広開土王碑文が近代において日本の陸軍参謀本部により改竄された、と主張しました。こうした金達寿氏や李進熙氏の主張が当時の在日を大いに鼓舞するところはあった、と本論文は指摘します。ただ本論文は、こうした日本の通説を転倒させた仮説の「反動」が大きかったことも指摘します。

 金達寿氏と李進熙氏に代表される「在日の古代史」は1990年代後半以降急速に色褪せていき、現在の視点から問題となるのは、日本列島の古代における「文明化」について、当時の歴史的状況を具体的に考慮することなく一方的に朝鮮半島からの渡来人の役割のみを強調すれば、近代における日本による朝鮮半島の植民地支配の正当化につながるかもしれない、と本論文は指摘します。歴史認識や歴史観をめぐる問題の複雑さが、日本列島と朝鮮半島に関しても当てはまる、と言えるでしょう。

 本論文は広開土王碑文改竄説をやや詳しく取り上げ、韓国の学界の問題点を指摘します。それは、韓国の歴史学界では、戦前日本の研究を否定すれば真実が現れる、といった単純化がまかり通っているのではないか、というものです。歴史研究に対する判断能力を有するとは思えない国会(これは韓国に限らないでしょうが)を「市民」が動かし、研究者の長年の成果を否定し、それらの廃棄物を処分することが現実に起こっており、そうした陰謀論に基づく古代史への発想が歴史研究を隘路に陥れているのではないか、というわけです。上述のように、1970年代の日本における「在日の古代史」への韓国の学界の反応は鈍かったものの、一般層には広く浸透しており、それがやがて歴史研究を制約するところもあったようです。本論文はその具体例として、広開土王碑文改竄説を取り上げます。

 広開土王碑文改竄説自体は、1980年代以降の日本と中国での研究により、今では否定されています。しかし、広開土王碑文改竄説については、著者が韓国で複数の中堅の古代史研究者に確認したところ、第一線で活躍している一部の研究者を除いて、ほとんどの研究者や一般国民は改竄説を信じているそうで、本書は李進熙氏の広開土王碑文改竄説が、日程陰謀論を増幅させ、とりかえしがつかない問題をもたらしてしまった、と評価しています。一方で、金廷鶴氏は『任那と日本』において、広開土王碑に関する南北朝鮮の学界での再解釈にも、李進熙氏による改竄説にも疑問を呈していました。

 本論文は、広開土王碑文改竄説を主張する韓国の研究者の心理として、改竄を認めなければ、戦前からの日本の学界における仮説を認めることになるのではないか、との危機意識があるのだろう、と推測します。本論文は、広開土王碑には、高句麗側の功名な修辞が駆使されており、韓国と北朝鮮の研究者の多くはそれを認めようとしない、と指摘します。広開土王碑は単に広開土王の聖徳を誇る記念碑ではなく、広開土王が新たに創設した墓守人制度について詳しく述べ、その遵守を求めた法令文書であり、広開土王の軍事的功績を顕彰するため、その前には高句麗にとっての危機が強調された、というわけです。広開土王碑から倭による朝鮮半島における強大な支配を直ちに読み取ることには問題があり、そうした解釈を始めたのは、同時代の国際情勢を投影した近代日本で、そうした解釈を前提としてそれを民族主義的に読み替えるために、朝鮮半島でも無理な解読が行なわれた、と本論文は指摘します。

 以上、本論文の内容についてざっと見てきました。現在でも韓国では、第一線で活躍している一部の研究者を除いて、ほとんどの研究者に広開土王碑文改竄説が信じられているのは意外でした。歴史は民族主義と相互補完的なところが多分にあり、歴史学の研究者といえどもそうした枠組みを相対化するのはなかなか容易ではないことも改めて窺えます。本論文は基本的に文献史学の問題を扱っていますが、日本列島と朝鮮半島に関しては、いわゆる先史時代も民族主義的観点から語られことが多いように思われ、私のような凡人が民族主義的観点を相対化するのは容易ではありません。

 この問題については、古人類学的観点から最近取り上げましたが(関連記事)、改めて考えると、私見は日本と南北朝鮮両方の民族主義にとって都合が悪いとともに、それを都合よく利用することもできるでしょう。私見が日本と南北朝鮮の民族主義に与える影響は事実上皆無でしょうから、その点での責任はほとんど考えていませんが、学術的成果を民族主義的観点からご都合主義的に利用するようなことは、日本でも(おそらく南北朝鮮でも)珍しくありません。私の見識と能力ではなかなか困難ですが、私もそうした誤りをできるだけ少なくするよう、心がけねばなりません。


参考文献:
李成市(2022)「「在日」にとっての古代史とは何であったのか」『抗路』第10号P98-115(抗路舎)

https://sicambre.seesaa.net/article/202307article_23.html
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2023/07/26 (Wed) 09:09:32

雑記帳
2023年06月11日
日本列島の人類史に関する問題の整理
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_11.html

 最近、日本列島における4万年以上前の人類の存在の可能性や、日本語の起源などについて考えることがあったので、一度おもに古代ゲノム研究に基づいて関連する情報をまとめるとともに、遺伝学に基づく人類の進化や拡散に関する通俗的な見解について、普段から考えていることも整理します。最近の当ブログの記事は、論文を訳して時に私見も少し付け加えるだけで終わることが多く、自分なりに一度整理しないと、全体像をよく把握できないままになる、と考えたからです。言い忘れたことや欠落している視点は多々あるでしょうが、とりあえず現時点の見解をまとめます。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)との関係や、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)についてなど、他にも自分なりに情報をまとめて整理する必要のある問題が多いので、今後少しずつ進めていくつもりです。


●便宜的区分と古代ゲノム研究の通俗的解釈に関する問題

 分類・区分して程度の違いを見出す能力は現生人類でとりわけ発達しており(ネアンデルタール人やデニソワ人に現生人類と同等のそうした能力があった可能性も否定はできませんが)、鉄と銅の違いや鯛と河豚の違いや石材の違いなど、分類・区分は現生人類社会の基盤の一つになっています。重要なのは、そうした区分にどれだけの整合性・妥当性があるのか、ということだと思います。ただ結局のところ、時代や地理や文化や民族などの区分も含めて分類という行為は、現生人類の知的営みにおいてたいへん重要で実用的ではあるものの、あくまでも理解を助けるための手段という側面も多分にあります。現生人類の営みが多くの場合時空間的に連続していることを考えると、対象が現在であれ過去であれ、あくまでも便宜的措置であり、それを絶対視することなく、多くの前提・留保のもとに、ある程度割り切りつつも、慎重に区分してそれを使用していくしかないのでしょう。

 たとえばネットで検索すると、アイヌ民族・文化の成立は13世紀で、北海道の先住民は「縄文人(この記事では縄文文化関連集団という意味で用います)」であるとして、アイヌ文化・民族を縄文文化やその後継と考えられる続縄文文化や擦文文化およびその担い手の集団と明確に区別するような、通俗的見解が散見されます。これは便宜的な区分を絶対視してしまった見解で、現生人類にとって常に警戒すべき陥穽と言うべきでしょう。年表を見ると、アイヌ文化期は13世紀頃以降に始まる、とするものが多いようですが、これはあくまでも便宜的区分・名称であり、この頃に初めてアイヌ民族・文化が成立することを証明しているわけではありません。じっさい、考古学的文化に民族名を冠することは問題だとして、アイヌ文化ではなくニブタニ文化と呼ぶよう、提唱している研究者もいます(瀬川., 2019)。文化と民族の連続性と変容と断絶の評価は難しく、年表の字面だけ見て文化の断絶を想定するのは、論外だと思います。

 古代ゲノム研究の大衆的な受容にも問題があり、まず、古代ゲノム研究は統計的手法に依拠しており、「完全な証明」をできるわけではなく、あくまでも確率の問題ということです(放射性炭素年代測定法などの年代測定法も同様です)。この点を誤解している人はきわめて少ないかもしれませんが、A集団のゲノムはB集団関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)50%程度とC集団関連祖先系統50%程度でモデル化できる、というような知見を、B集団とC集団がA集団の祖先だと証明された、と認識している人は少なくないかもしれません。しかし、これはあくまでも、A集団のゲノムにおける祖先系統の割合が、BおよびC集団的な祖先系統により統計的に適切にモデル化できることを示しているだけで、B集団とC集団がA集団の直接的祖先であることを証明しているわけではありません。

 たとえば、現代日本人集団を現代朝鮮人関連祖先系統(91%)と縄文時代個体関連祖先系統(9%)の2方向混合としてモデル化できる、と示した研究(Wang CC et al., 2021)がありますが、もちろん、現代朝鮮人集団が現代日本人集団の祖先のはずはないので、現代朝鮮人集団のような遺伝的構成の集団が朝鮮半島には太古から存在し、現代日本人集団の主要な祖先になった、と考える人は少なくないかもしれません。その研究では、古代人集団を用いて、現代日本人集団は青銅器時代西遼河集団関連祖先系統(92%)と縄文時代個体関連祖先系統(8%)の2方向混合としてモデル化できる、とも推測されています。しかし、これは青銅器時代西遼河集団が現代日本人集団の直接的祖先であることを示しているのではなく、ある集団の直接的な祖先集団を見つけることが困難な古代ゲノム研究において、年代や文化や地理的分布(考古学的知見)も参照しつつ、代理となりそうな古代人集団で検証して、統計的に適切な結果を提示しているにすぎません。

 その意味で、古代ゲノム研究から特定の現代人集団の祖先集団を特定することは困難で、どれだけ近似値に近づけるかが問題となります(これは多くの学問に共通する問題かもしれませんが)。最近の研究(Robbeets et al., 2021)では、現代日本人集団は低い割合の縄文時代個体関連祖先系統と青銅器時代の高い割合の西遼河地域の夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体関連祖先系統の混合としてモデル化できる、と示されましたが(後述のように、この研究には批判もあります)、夏家店上層文化集団と縄文時代集団が現代日本人の直接的な祖先であることを証明しているわけではなく、それぞれの集団と遺伝的に類似した集団が現代日本人の直接的な祖先集団である可能性は高い、と示しているだけです。ただ、地理分布からして、「縄文人」集団が現代日本人の(影響は小さくとも)直接的な祖先集団である可能性は高そうです。古代ゲノム研究で示される特定の集団もしくは個体のゲノムにおける祖先系統とは、基本的に代理であることを踏まえねばならないでしょう。

 古代ゲノム研究で他に重要な問題となるのは、特定の文化や時代を表す集団が1個体で構成される場合も珍しくないことです。その1個体が特定の文化や時代の集団の遺伝的構成を適切に表している可能性はあるとしても、遺伝的多様性の高い集団ならば、それを適切に反映できませんし、他の地域もしくは集団から流入してきた外れ値個体であればなおさらです。この問題は古代ゲノム研究に今後ずっとついて回るでしょうから、とても無視できません。完新世の現生人類については、今後この問題をある程度回避できるかもしれませんが、ネアンデルタール人など非現生人類ホモ属では、ゲノム解析数の増加を完新世現生人類ほどにはとても期待できません。現生人類とネアンデルタール人の混合についても、非アフリカ系現代人集団の祖先と混合した集団が直接的に確認されているわけではなく、あくまでも代理の個体のうちどれが非アフリカ系現代人集団の祖先と混合したネアンデルタール人集団に近いのか、検証されているだけです(Mafessoni et al., 2020)。

 また上述の問題とも関わりますが、特定の文化や時代といった区分も便宜的なので、これを安易に個体もしくは集団の遺伝的構成と関連づけたり、特定の地域における人類集団の遺伝的連続性を前提としたりするのは危険です。この問題については、世界のいくつかの事例を以前に取り上げましたが(関連記事)、文化と遺伝というかDNAとの関連は多様で、遺伝的構成や片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)やY染色体ハプログループ(YHg)を、安易に特定の文化もしくは民族の分類と関連づけることは極めて危険です。これは、ネアンデルタール人が常染色体ゲノムでは現生人類よりもデニソワ人の方と明らかに近縁でありながら、mtDNAでもY染色体でもデニソワ人より現生人類の方と明らかに近縁であること(Petr et al., 2020)からも、強く示されています。

 種系統樹と遺伝子系統樹とは必ずしも一致しないので(Harris.,2016,第2章)、常染色体ゲノムの特定領域であれ、ミトコンドリアであれY染色体であれ、そのハプログループの比較で特定の集団(種、分類群)間の近縁関係を論じるのは危険です。たとえば、近縁なA・B・Cの3系統の分類群において、A系統がB系統およびC系統の共通祖先と分岐し、その後でB系統とC系統が分岐したとすると、B系統とC系統は相互に、A系統よりも形態が類似している、と予想されます。しかし、形態(もしくは表現型)の基盤となる遺伝子の系統樹が種系統樹と一致しない場合もありますから、B系統とC系統はどの形態(もしくは表現型)でもA系統とよりも相互に類似している、とは限りません。

 これと関連して、B系統においてある表現型と関連する遺伝子のあるゲノム領域において、遺伝的浮動もしくは何らかの選択により変異が急速に定着した場合、ある表現型ではB系統は近縁のC系統よりもA系統の方と類似している、ということもあり得ます。じっさい、チンパンジー属とゴリラ属とホモ属の系統関係において、種系統樹ではチンパンジー属とホモ属が近縁ですが、ニシローランドゴリラ(Gorilla gorilla gorilla)ではゲノム領域の約30%で、種系統樹と遺伝的近縁性とが一致しない、と推定されています(Scally et al., 2012)。つまり、この約30%のゲノム領域では、ホモ属(現代人)がチンパンジー属よりもゴリラ属の方と近縁か、チンパンジー属がホモ属よりもゴリラ属の方と近縁である、というわけです。

 この記事の主題に即して具体的に日本列島の事例を挙げると、先史時代の先島諸島です。先島諸島には縄文文化の影響が及ばなかった、と考えられており(水ノ江., 2022)、沖縄諸島が安定していた貝塚時代から農耕の開始やアジア東部大陸部の陶磁器など外来要素が突如出現し大きく変わったグスク時代に、これらの要素は先島諸島へと伝わり、奄美・沖縄諸島と先島諸島が初めて一つの文化圏になりました(高宮., 2014)。しかし先島諸島では、グスク時代のずっと前となる紀元前9~紀元前6世紀頃の個体において、遺伝的にほぼ完全に縄文時代個体と重なる複数の個体が確認されています(Robbeets et al., 2021)。考古資料には見えない言語など精神的文化の共有があったのか否か、遺伝的に大きく異なる他集団と共存していたのか否かなど、この事例が意味するところは現時点でよく分からず、日本列島においても文化もしくは民族とDNAとを安易に関連づけてはならない、と示しているように思います。


●4万年以上前

 日本列島では4万年前頃以降に遺跡が急増し(佐藤., 2013)、これ以降の人類の存在と、それが現生人類であることについては、ほぼ異論がないと思います。問題となるのは日本列島における4万年以上前(中期旧石器時代と前期旧石器時代と一般的には呼ばれています)の人類の存在で、2000年11月に発覚した旧石器捏造事件(関連記事)もあり、否定的な人が多いようにも思われます。そもそも、ヨーロッパ基準の前期→中期→後期(下部→中部→上部)という旧石器時代区分が、日本列島も含むアジア東部において適切に当てはまるのか、という問題もあるかもしれませんが、これについては私の知見があまりにも不足しているので、今回はこれ以上言及しません。

 捏造事件発覚後に、日本列島最古(127000~70000年前頃)と騒がれた(関連記事)島根県出雲市の砂原遺跡の石器については、そもそも石器なのか否か議論となっており(関連記事)、人類の痕跡を示している、との共通認識が考古学研究者の間で確立しているとはとても思えません。それ以外の4万年以上前かもしれない日本列島の遺跡は、岩手県遠野市の金取遺跡です。砂原遺跡の石器については、年代以前にそもそも石器なのか否か、議論になっているのに対して、金取遺跡の4万年以上前とされる石器については、石器であることを疑う見解はないようです(上峯., 2020)。したがって、日本列島に4万年以上前に人類は存在しなかった、と主張するならば、金取遺跡の4万年以上前とされる石器について、その年代が4万年前頃以降であることを証明しなければなりません。

 ただ、仮に4万年以上前に日本列島に人類が存在したとしても、おそらく世界でも有数の更新世遺跡の発掘密度を誇るだろう日本列島において、4万年以上前となる人類の痕跡がきわめて少なく、また砂原遺跡のように強く疑問が呈されている事例もあることは、仮にそれらが本当に人類の痕跡だったとしても、4万年前以降の日本列島の人類とは遺伝的にも文化的にも関連がないことを強く示唆します。仮に日本列島における4万年以上前の人類の存在を仮定するならば、中国で中期~後期更新世のデニソワ人かもしれないホモ属遺骸が複数発見されていることから(関連記事)、デニソワ人かもしれません。あるいは、絶滅したか現代人の主要な祖先ではないかもしれませんが、中国では10万年前頃の現生人類とされる遺骸が発見されているので、現生人類の可能性も考えられますが、その年代はずっと新しいのではないか、と議論になっています(関連記事)。


●後期旧石器時代

 ここでは、4万年前頃から縄文時代の直前までを指します。4万年前頃以降に日本列島に到来した人類集団については、そもそも後期旧石器時代の人類遺骸がほとんど発見されていないため、推測困難です。この時期で最古級となる遺跡が、長野県佐久市の香坂山です。香坂山遺跡では、較正年代で36800年前頃と、日本列島では最古の石刃石器群が発見されており、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、略してIUP)に位置づけられています(国武., 2021)。上述のようにDNA(遺伝的構成)と文化とを安易に結びつけてはいませんが、IUPは遺伝的にはユーラシア東部系集団との関連が指摘されています(Vallini et al., 2022)。

 もう少し具体的に見ていくと、4万~3万年前頃には、現在の北京付近からアムール川流域とモンゴルまで、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体で表される集団が存在していたようです(Mao et al., 2021)。これを仮に田園洞集団と呼ぶと、田園洞集団はアジア東部大陸部沿岸にまで広く分布していたようですから、日本列島に到来した可能性も充分考えられます。ただ、現代人には殆ど若しくは全く遺伝的影響を残していないようですから(Mao et al., 2021)、4万~3万年前頃に日本列島に到来した現生人類集団は、縄文時代集団や現代日本人集団とは遺伝的につながっていないかもしれません。

 日本列島で発見された旧石器時代の人類遺骸は、そもそも本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」で発見された更新世の人類遺骸が皆無に近いので、ほぼ琉球諸島に限られています。沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡では、旧石器時代の6個体のmtDNAが解析され、mtHgはM7aとB4とRに分類されていますが、琉球諸島現代人のゲノム解析から、旧石器時代琉球諸島の人類集団は、琉球諸島現代人の祖先ではなさそうだ、と推測されています(松波., 2020)。他にmtDNAが解析された更新世琉球諸島の人類遺骸としては、沖縄県島尻郡八重瀬町の港川フィッシャー遺跡で発見された2万年前頃の港川1号があり、そのmtHgはMの基底部近くに位置する、と推測されています(Mizuno et al., 2021)。この個体がその後の琉球諸島、さらには日本列島の人類集団と遺伝的につながっているのか否かは、mtHgからは判断できません。


●縄文時代

 縄文時代は、草創期(16500~11500年前頃)→早期(11500~7000年前頃)→前期(7000~5470年前頃)→中期(5470~4420年前頃)→後期(4420~3220年前頃)→晩期(3220~2350年前頃)と一般的に区分されています(山田., 2019)。縄文時代の開始を、土器が出現した16500年前頃とするのか、生態系・石器組成の変化や竪穴住居の定着などに基づいて13000~11000年前頃とするのか、議論がありますが(関連記事)、草創期を旧石器時代から縄文時代への移行期とする見解もあります(山田., 2019)。

 現時点で解析されている縄文文化関連個体のゲノムデータからは、縄文時代の人類集団は時空間的に広範囲にわたって、既知の現代人および古代人集団と比較して一まとまりを形成し、遺伝的には比較的均一と考えられます(Cooke et al., 2021)。これは、縄文文化がほぼ現在の日本国の領土に限定されており、他地域との相互作用は低調だった、とする考古学的知見と整合的です(水ノ江., 2022)。ただ、mtHgでは地域差が指摘されており(篠田.,2019,P165-170)、核ゲノムでも地域差が示唆されています(Cooke et al., 2021)。とくにmtHgの地域差は、「縄文人」集団の形成過程を解明するうえで、重要な手がかりになるかもしれません。

 このように、「縄文人」集団は既知の現代人および古代人集団と比較して遺伝的に特異な存在と言えるかもしれませんが、ユーラシア東部系集団の変異内に収まっていますし、上述の田園洞集団のように、後期更新世~初期完新世にかけては現生人類でも、現代人への遺伝的影響が小さいか、ほぼ絶滅してしまった集団は世界各地で珍しくありませんでした(関連記事)。その意味で、現代ではほぼ日本列島にしてその遺伝的痕跡を残しておらず、それもアイヌ集団を除けば遺伝的影響がかなり小さいと考えられる「縄文人」集団も、現生人類の歴史では特別な存在とは言えないでしょう。むしろ、今後ユーラシア東部圏やオセアニアの人類史で問題となるのは、現代人の主要な祖先集団がいつどのような経路で現代の分布地域に到来したのか、ということだと思います。

 現時点で最古となるゲノム解析された縄文時代の個体は、愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡で発見された女性で、較正年代で8991~8646年前頃となります。この個体のゲノムはすでに典型的な「縄文人」的構成要素を示しており、遅くとも9000年前頃までには、「縄文人」的な遺伝的構成の集団が形成されており、日本列島に存在したのでしょう。ただ、早期の時点で日本列島全域の縄文文化関連集団がすでに遺伝的に比較的均一だったのかは不明です。

 「縄文人」的な遺伝的構成の集団がどのように形成されたのかは、不明です。これについては大きく二つに分けられ、一方は、「縄文人」的祖先系統がユーラシア東部現代人の主要な祖先集団(MAEE集団)の祖先系統と20000~15000年前頃に分岐した、とするものです(Cooke et al., 2021)。もう一方は、「縄文人」的祖先系統がユーラシア東部系の遺伝的に大きく異なる祖先系統との混合により形成された、というものです(Wang CC et al., 2021)。前者の場合、どこで分岐し、いつ日本列島に到来したのか、後者の場合、いつどこで混合して日本列島に到来したのか、あるいは日本列島で混合した場合、各集団はいつ日本列島に到来して混合したのか、という問題がありますが、現時点ではよく分かりません。以下は、後者の見解を図示したWang CC et al., 2021の図2です。
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 愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡の縄文文化関連個体(IK002)のゲノム解析結果を報告した研究(Gakuhari et al., 2020)は、遺伝的に古代北ユーラシア人(Ancient North Eurasian、略してANE)に分類される、シベリア南部のマリタ(Mal’ta)遺跡で発見された24000年前頃となる1個体(MA1)関連祖先系統からの遺伝子流動の痕跡がほとんど検出されなかったことから、「縄文人」が南回り(ヒマラヤ山脈以南)でユーラシア西方から日本列島へと到来した、と推測します。ANEはユーラシアの現代人でも東部より西部の方と近く、現代のアメリカ大陸先住民の主要な祖先の一部となりました(Sikora et al., 2019)。

 一方で、同じくANEに分類される、ヤナ犀角遺跡(Yana Rhinoceros Horn Site、略してヤナRHS)の31600年前頃の個体は、日本人や他のアジア南東部および東部現代人と遺伝的に比較して「縄文人」と有意に密接なので、ANEと「縄文人」との間の遺伝子流動が推測されています(Cooke et al., 2021)。これらの知見をどう解釈すべきか、難しいところですが、ヤナRHS個体とMA1との間に直接的な祖先・子孫関係はなさそうですから(Sikora et al., 2019)、MA1と異なるヤナRHS個体のゲノムの祖先系統の一部に、「縄文人」の祖先と共通するものがあるのでしょうか。この問題は、「縄文人」集団の遺伝的形成過程解明の手がかりになるかもしれません。

 結局のところ、「縄文人」集団がどのように形成されたのか、現時点では不明ですが、北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の縄文時代個体のゲノムデータを報告した研究(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)で、アジア東部大陸部の南方から北方までの沿岸集団と「縄文人」との遺伝的類似性が報告されていたことは注目されます。その後の研究(Wang CC et al., 2021)では、ロシア極東沿岸部のボイスマン(Boisman)遺跡の6300年前頃となる中期新石器時代集団(ボイスマン_MN)のゲノムが、モンゴル新石器時代集団関連祖先系統87%と「縄文人」関連祖先系統13%でモデル化されました。また朝鮮半島南岸の新石器時代の個体群のゲノムは、0~95%の「縄文人」関連祖先系統と、西遼河地域の紅山(Hongshan)文化個体関連祖先系統でモデル化できます(Robbeets et al., 2021)。

 上述のように、現在の考古学的知見では、縄文文化はほぼ現在の日本国の領土に限定されており、他地域との相互作用は低調だった、と考えられており、これらの地域で縄文文化が大きな影響力を有して根づいたとはとても言えないでしょうが、朝鮮半島南岸については、0.1%程度の推定割合ながら縄文土器が出土しており(水ノ江., 2022)、さらに朝鮮半島南岸の新石器時代の個体群のゲノムにおけるさまざまな割合の「縄文人」関連祖先系統から考えると、「縄文人」が九州から朝鮮半島南岸へと渡り、一定の遺伝的影響を残した可能性は高そうです。

 しかし、これら日本列島外の縄文時代相当期間の個体群のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統が、縄文時代の日本列島の個体からもたらされたものかどうかは、検討の余地があります。最近の研究(Huang et al., 2022)は、先行研究(Wang CC et al., 2021)と同じく「縄文人」祖先系統の形成を、遺伝的に大きく異なる2つの祖先系統の混合としてモデル化していますが、先行研究よりも複雑になっています。その研究では祖先系統の分岐について、ユーラシア東部系が、まず初期ユーラシア東部系と初期アジア東部系に分岐し、初期アジア東部系が南北に分岐して、南部系は南部(内陸部)系と沿岸部系(アジア東部沿岸部祖先系統)に分岐します。「縄文人」関連祖先系統は、アンダマン諸島のオンゲ人関連祖先系統に比較的近い初期ユーラシア東部祖先系統(54%)とアジア東部沿岸部祖先系統(46%)の混合とモデル化されています(Huan et al., 2022図4)。以下はHuang et al., 2022の図4です。
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 Huang et al., 2022では、ボイスマン_MNはアジア東部北部祖先系統(71%)とアジア東部沿岸部祖先系統(29%)の混合とモデル化されています。つまり、先行研究で推定されたボイスマン_MNのゲノムにおける13%程度の「縄文人」関連祖先系統は、「縄文人」から直接的もしくは朝鮮半島経由でもたらされたのではなく、「縄文人」のゲノムにおける一方の主要な祖先系統を、ボイスマン_MNも約30%と比較的高い割合で有していることに起因しており、ボイスマン_MNと「縄文人」との直接的な関連はなかったのかもしれません。これは朝鮮半島南岸新石器時代個体群にも言えて、これらの個体のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統は、日本列島の縄文時代の個体からもたらされたものではないかもしれません。

 ただ、ボイスマン_MNには外れ値個体(ボイスマン_MN_o)があり、ロシア極東沿岸のレタチャヤ・ミシュ(Letuchaya Mysh)の7000年前頃となる狩猟採集民1個体(レタチャヤミシュ_7000年前)とともに、そのゲノムの30%程度が「縄文人」関連祖先系統でモデル化できます(Wang K et al., 2023)。また、上述のように、朝鮮半島南岸新石器時代には、そのゲノムの95%を「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる個体が確認されており、具体的には、後期新石器時代の欲知島(Yokchido)遺跡の個体です(Robbeets et al., 2021)。これら一定以上の割合の「縄文人」関連祖先系統でゲノムをモデル化できる個体、とくに欲知島遺跡個体は、その地理的近さと、ひじょうに少ないものの縄文文化の考古資料が朝鮮半島南岸で発見されていること(水ノ江., 2022)から、日本列島の縄文時代の個体が朝鮮半島に到来して遺伝的影響を残した結果かもしれません。

 ただ、ロシア極東沿岸の2個体(ボイスマン_MN_oとレタチャヤミシュ_7000年前)のゲノムが30%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できることの意味は、よく分かりません。朝鮮半島南岸も関わる何からのつながりがあったのか、あるいはアジア東部大陸部の南方から北方までの沿岸集団と「縄文人」との遺伝的類似性が、更新世にまでさかのぼる複雑なもので、それも反映しているのかもしれません。この関連で注目されるのは、アムール川流域の11601~11176年前頃の1個体(AR11K)のYHgがDEに分類されていることです。現代人と古代人の分布頻度から、更新世のアムール川流域にYHg-Eの個体が存在したとは考えにくいため恐らくはYHg-Dで、少ない個体の中で見つかったことは、当時まだ日本列島以外のアジア東部大陸部沿岸にもYHg-Dが現在以上の頻度で存在したことを示唆しており、それは「縄文人」集団の形成過程とも関わってくるかもしれません。

 つまり、YHg-D1a2aは日本列島と(日本列島から流入した)朝鮮半島(南部もしくは南岸)にしか存在せず、「縄文人」の指標となるYHgとするような通俗的見解がネットでは散見されるものの、縄文時代の日本列島から朝鮮半島に渡り、弥生時代以降に日本列島へと「逆流」した系統や、アジア東部大陸部沿岸から朝鮮半島などを経て弥生時代以降に日本列島到来した系統など、現代日本人のYHg-D1a2aでは、直接的には「縄文人」に由来しない割合も一定以上あるのではないか、というわけです。これは、日本人のYHgの詳しい分析と、分布頻度および分岐推定年代の精緻化と、古代DNA研究による裏づけで証明されていかねばならず、現時点では思いつきにすぎないことも否定できません。


●弥生時代

 弥生時代の開始については、言語学的知見も踏まえた考古学的観点から、日本語系統(日琉語族)系統の流入との関わりが指摘されています(Miyamoto., 2022)。それによると、日本語祖語は偏堡(Pianpu)文化の紀元前2700年頃の遼西地区東部もしくはマンチュリア南部の遼河流域に起源があり、紀元前1500年頃に朝鮮半島北部~中央部のゴングウィリ(Gonggwiri)式土器を介して朝鮮半島南部の無文(Mumun)文化を形成し、この頃に磨製石器を伴う稲作など灌漑農耕が山東半島から遼東半島経由で朝鮮半島南部へと広がり、紀元前9世紀に九州北部へと広がり弥生文化の形成に至って、日本列島在来の「縄文語」系統を(北海道を除いてほぼ)やがて駆逐した、とされます(Miyamoto., 2022)。一方、朝鮮語祖語もマンチュリア南部とその周辺に起源があり、現在の北京付近に位置した、いわゆる戦国の七雄の一国である燕の東方への拡大に圧迫されて朝鮮半島へと移動し、その考古学的指標は紀元前5世紀頃の粘土帯土器(rolled rim vessel、Jeomtodae)文化になり、やがて朝鮮半島から日本語系統を駆逐した、と指摘されています(Miyamoto., 2022)。つまり、マンチュリア南部とその周辺から、まず紀元前二千年紀半ばに日本語系統が朝鮮半島へと到来し、その後で九州北部に広がったのに対して、朝鮮語系統は紀元前千年紀半ばに朝鮮半島へ到来した、というわけです。こうした言語学的知見も踏まえた考古学的見解が、古代ゲノム研究でも裏づけられるのかどうか、以下で整理します。

 弥生文化関連個体群の最大の遺伝的特徴は、その差異の大きさです。弥生文化関連個体群のゲノムは基本的に、MAEE集団(ユーラシア東部現代人の主要な祖先集団)から派生したアジア東部北方系(NEA)集団関連祖先系統と、「縄文人」関連祖先系統の混合でモデル化できますが、その割合が個体により大きく異なり、現代日本人集団の平均10%前後と同等か、それよりやや低いか、20%程度とやや多いか、40~50%程度と明らかに多いなどさまざまで(Robbeets et al., 2021)、弥生文化関連個体群の遺伝的不均質性はこうした差異を反映しています。さらに、弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)は、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成し(神澤他., 2021a)、これは、東北地方の弥生時代の男性個体も同様です(篠田.,2019,P173-174)。また、鳥取県鳥取市(旧気高郡)青谷町の青谷上寺地遺跡で発見された13個体も遺伝的差異を示しており、1ヶ所の遺跡でも遺伝的不均一性の相対的な高さが示されています(神澤他., 2021b)。つまり、弥生文化関連個体群のゲノムは基本的に、NEA集団関連祖先系統と「縄文人」関連祖先系統の混合でモデル化でき、現代日本人集団と同様にNEA集団関連祖先系統の割合が高い個体が多いものの、「縄文人」関連祖先系統の割合は10%程度から100%までさまざまとなり(0%の個体群が存在した可能性も考えられます)、それが弥生文化関連個体群の遺伝的不均質性を反映している、というわけです。あるいは、日本列島の人類史上、弥生時代は最も遺伝的不均質性の高い期間だったかもしれません。

 このNEA集団関連祖先系統はさらに区分されています。上述のように、朝鮮半島南岸の新石器時代個体群は、「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統でモデル化できますが、上述のように、このEAN集団関連祖先系統を紅山文化個体関連祖先系統とされています(Robbeets et al., 2021)。一方で、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団のゲノムは、高い割合の夏家店上層文化個体関連祖先系統と低い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる、と指摘されています(Robbeets et al., 2021)。これは、朝鮮半島南岸の新石器時代個体群が、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団の主要な祖先ではなかったことを示唆します。しかし、この研究については、競合する混合モデルを区別する解像度が欠けていて、紅山文化個体関連祖先系統と夏家店上層文化個体関連祖先系統は朝鮮半島と日本列島の古代人と遺伝的に等しく関連しており、家店上層文化個体関連祖先系統を選択的に割り当てられた集団は、家店上層文化個体関連祖先系統の代わりに紅山文化個体関連祖先系統でも説明できる、との批判があります(Tian et al., 2022)。

 そもそも上述のように、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団のゲノムは、高い割合の夏家店上層文化個体関連祖先系統でモデル化できる、と指摘した研究(Robbeets et al., 2021)が示しているのは、現代日本人集団の主要な直接的祖先が夏家店上層文化集団だったことではなく、既知の古代人集団では夏家店上層文化集団が最適な代理となり得る、ということです。したがって、Tian et al., 2022の指摘から、現代日本人集団の主要な直接的祖先は、紅山文化集団や家店上層文化集団と類似しているものの異なる別の集団だった、と示唆されます。これは、上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解と親和的というか、少なくとも矛盾はしません。EAN集団関連祖先系統のより詳細で適切な区分と、それに基づく古代人および現代人の集団のゲノムの適切なモデル化には、時空間的により広範囲の、さらに多くの古代人のゲノムデータが必要になるでしょう。

 上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解との関連で注目されるのは、日本列島の弥生時代と古墳時代では、人類集団のゲノムが「縄文人」関連祖先系統とEAN集団関連祖先系統の混合(割合は異なります)でモデル化できることは同じであるものの、後者には違いが見られる、と指摘されていることです(Cooke et al., 2021)。つまり、EAN集団関連祖先系統でも、弥生時代の人類集団の場合には西遼河の中期新石器時代もしくは青銅器時代個体群関連祖先系統(アジア北東部祖先系統)により適切に表され、古墳時代の人類集団の場合には高い割合の黄河流域集団関連祖先系統(アジア東部祖先系統)と低い割合のアジア北東部祖先系統により適切に表されます。ただCooke et al., 2021では、これらの祖先系統がアムール川流域と西遼河地域と黄河流域との間の複雑な相互作用により形成された(Ning et al., 2020)、という大前提があります。弥生時代の人類集団に関しては、「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統との間の混合が3448±825年前、古墳時代の人類集団に関しては、「縄文人」祖先系統とアジア東部祖先系統の混合は1748±175年前と推定されています(Cooke et al., 2021)。

 これは、上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解と関連しているかもしれません。つまり、朝鮮半島における紀元前5世紀頃以降の朝鮮語系統の拡大と日本語系統の衰退を遺伝的に反映しているのが、アジア東部祖先系統の割合増加とアジア北東部祖先系統の割合低下で、それが日本列島の弥生時代と古墳時代の人類集団のゲノムにおけるEAN集団関連祖先系統の違いに示されているのではないか、というわけです。ただ、そうした変化が日本列島に反映されたのは弥生時代後期までさかのぼるかもしれませんし、弥生時代以降の朝鮮半島から日本列島への移住の波が、ある程度連続的で一定していたのか、一回もしくは複数回の大きなものだったのかは、もっと時空間的に広範囲の古代人のゲノムデータが多く分析されないと、推測は困難です。ただ、Cooke et al., 2021は、弥生時代の人類集団を、「縄文人」関連祖先系統の割合が高めの長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体(篠田他., 2019)で代表させており、下本山岩陰遺跡の2個体の前に、現代日本人程度の割合の「縄文人」関連祖先系統をゲノム有する個体が存在すること(Robbeets et al., 2021)も考慮して、弥生時代の人類集団の形成過程とその差異を検証しなければならないでしょう。


●古墳時代以降

 上述のように、弥生時代は人類集団の遺伝的差異が大きく、それはゲノムにおけるさまざまな割合の「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統により説明できます。Cooke et al., 2021は、現代「本土」日本人集団的な遺伝的構成が古墳時代に成立したことを指摘しますが、弥生時代よりは縮小していたかもしれないにしても、複数の研究から、古墳時代も人類集団の遺伝的差異が大きかった、と示唆されます。現代「本土」日本人集団と同じような割合の「縄文人」関連祖先系統をゲノムに有する個体としては、古墳時代前期となる香川県高松市の高松茶臼山古墳の男性被葬者(茶臼山3号、神澤他., 2021c)や、島根県出雲市猪目洞窟遺跡で発見された古墳時代末期(猪目3-2-1号)と奈良時代(猪目3-2-2号)の被葬者(神澤他., 2021d)が挙げられます。

 一方で、和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号(紀元後398~468年頃)および2号(紀元後407~535年頃)のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は、52.9~56.4%、2号が42.4~51.6%と推定されています(安達他.,2021)。後の畿内ではないものの近畿地方において、紀元後5~6世紀頃においても、このようにゲノムを現代「本土」日本人集団よりもずっと高い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる個体が存在することは、日本列島「本土」では古墳時代においても現代より人類集団の遺伝的異質性がずっと高かったことを示唆します。

 現代「本土」日本人集団の基本的な遺伝的構成の確立は、少なくとも平安時代まで視野に入れる必要があり、さらに言えば、中世後期に安定した村落(惣村)が成立していくこととも深く関わっているのではないか、と現時点では予測していますが、この私見の妥当性の判断は、歴史時代も含めた古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。ただ、現在は弥生時代や古墳時代よりも日本列島「本土」人類集団の遺伝的均質性は高くなっているでしょうが、それでも地域差はあり、それは弥生時代や古墳時代と同様に、「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統の割合の違いを反映しているのでしょう(Watanabe, and Ohashi., 2023)。

 この点で注目されるのは、古墳時代の日本列島と同時代の朝鮮半島との関係です。朝鮮半島の三国時代の伽耶に関して、その政治的中心地であった金海(Gimhae)の大成洞(Daesung-dong)にある支配者の大規模な3700m²にもなる埋葬複合施設で発見された、紀元後4~5世紀頃の8個体のゲノムが解析されました(Gelabert et al., 2022)。この8個体は遺伝的に、6個体から構成されるクレード(単系統群)1と2個体から構成されるクレード2に分類されます。クレード1のゲノムは、後期青銅器時代~鉄器時代黄河流域集団関連祖先系統(93±6%)と「縄文人」関連祖先系統(7±6%)でモデル化できます。クレード2のゲノムは、朝鮮半島中期新石器時代個体100%でモデル化できますが、中国北部集団関連祖先系統(70±8%)もしくは遼河流域青銅器時代集団関連祖先系統(66±7%)と、残りの「縄文人」関連祖先系統でモデル化できます。つまり、クレード2のゲノムは30%前後の割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できるわけです。

 Gelabert et al., 2022は、朝鮮半島南岸の紀元後4~5世紀頃の人類集団のゲノムに存在していた「縄文人」関連祖先系統について、朝鮮半島南岸において新石器時代から三国時代まで存続した可能性を指摘しますが、新石器時代以降のどこかの時点で途絶え、弥生時代や古墳時代の日本列島から改めてもたらされた可能性も検証に値するとは思います。これは、朝鮮半島において日本語系統の言語がいつ完全に消滅したのか、さらには伽耶諸国に対する「日本」というかヤマト王権の影響がいかなるものだったのか、という問題とも関わっているかもしれません。つまり、ヤマト王権と伽耶諸国との深い結びつきは、言語的近縁性に基づく根深いもので、日本列島で勢力を拡大したヤマト王権が朝鮮半島にまで影響力を及ぼした、と単純には解釈できないかもしれないことを示唆します。

 また、朝鮮半島南岸に新石器時代以降ずっと、ゲノムを一定以上の割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる人類集団が存在したとしたら、現代の日本列島「本土」集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は一定以上、朝鮮半島南岸新石器時代集団に由来するかもしれません。つまり、「縄文人」を縄文文化関連個体と規定すれば(この規定は無理筋ではないはずです)、現代の日本列島「本土」集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は、現在の推定(上述のように地域差はもちろんありますが、10%前後)よりずっと少なかったかもしれず、縄文時代と現代との間で日本列島の人類集団では遺伝的にほぼ全面的な置換が起きたことになります。まあ、現代日本人集団のゲノムにおける縄文人的構成要素の割合が平均して10%程度だとしても、全面的な置換に近い、と言えそうですが。

 一方、韓国の西部沿岸地域に位置する全羅北道(Jeollabuk-do)群山(Gunsan)市の堂北里(Dangbuk-ri)遺跡の紀元後6世紀半ば頃となる6個体のゲノム解析結果(Lee et al., 2022)は、これら6個体が西遼河地域青銅器時代集団関連祖先系統、もしくは追加の低い割合の中国南部の福建省の渓頭(Xitoucun)遺跡の後期新石器時代個体関連祖先系統でモデル化でき、「縄文人」関連祖先系統の統計的に有意な寄与が検出されませんでした。ただ、遺伝的な北方の代理を内モンゴル自治区の中期新石器時代個体群へと置き換えると、堂北里遺跡の6個体と韓国の蔚山広域市の現代人のゲノムにおける、少ないものの有意な量の「縄文人」関連祖先系統の寄与が検出されます。しかし、地理的および時間的近接性を考慮すると、西遼河地域青銅器時代集団が古代および現代の朝鮮人にとってより適切なモデルを提供している、と考えられます。つまり、遅くとも紀元後6世紀半ば頃には、「縄文人」関連祖先系統がほぼ検出されないような現代朝鮮人とよく似た遺伝的構成の集団が存在していたわけです。この集団の言語は恐らく朝鮮語系統だったでしょうが、当時の朝鮮半島の人類集団の遺伝的構成の地域差については、もっと多くの古代ゲノムデータが必要となり、朝鮮半島の人類集団における「縄文人」関連祖先系統の消滅時期も現時点では不明です。


●琉球諸島と北海道

 沖縄諸島に関しては、グスク時代の人類集団とそれより前の人類集団とでは形質的にかなり異なっており、近世集団は古墳時代集団や鎌倉時代集団に近い、との形質人類学の研究成果と、上述の、グスク時代に農耕の開始やアジア東部大陸部の陶磁器など外来要素が突如出現した、との考古学的知見から、貝塚時代末期以降に外部、おそらくは古代末期~中世初期以降の九州本島から沖縄諸島への人類の流入がかなりあったのではないか、と推測されています(高宮., 2014)。上述のように、奄美・沖縄諸島と先島諸島が初めて一つの文化圏となったのもこの頃で、先島諸島においては、紀元前千年紀の個体ではゲノムがほぼ完全に「縄文人」関連祖先系統でモデル化できましたが、近世には琉球諸島の現代人のような遺伝的構成(高い割合のNEA集団関連祖先系統と低い割合の「縄文人」関連祖先系統)の個体が確認されています(Robbeets et al., 2021)。

 琉球諸島の現代人集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は27%程度と推定されており(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)、古代末期~中世初期以降の九州本島から沖縄諸島へ到来した人類集団のゲノムが、20%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できるとすると、琉球諸島の現代人集団のゲノムは、古代末期~中世初期以降の九州本島集団関連祖先系統(80~90%)と貝塚時代集団関連祖先系統(10~20%)の混合としてモデル化できそうです。琉球諸語は貝塚時代集団の言語と古代末期~中世初期の九州本島集団の言語の混合により成立したのでしょうか、基本的には日本語系統に分類されることからも、日本(ヤマト)文化の影響が圧倒的に強かった、と推測されます。つまり、遺伝的にも文化的にも、近世以降の琉球諸島集団について縄文時代(というか貝塚時代)からの強い連続性を想定することは難しいように思います。

 現代アイヌ集団については、「縄文人」集団との強い遺伝的連続性がネットでもよく指摘されており、その根拠は、アイヌ集団のゲノムが66%程度と高い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できることです。しかし、上述のように、遺伝学的研究だけでアイヌ集団と「縄文人」集団との連続性を証明できるわけではなく、考古学など他分野の研究成果も踏まえて初めて、きわめて蓋然性の高い推測になっていることに注意すべきでしょう。また、アイヌ集団の遺伝的な地域差がどの程度あるのか、現時点ではよく分かりません。オホーツク文化関連個体の研究(Sato et al., 2021)から、アイヌ集団は遺伝的に、「縄文人」集団とオホーツク文化集団と日本列島「本土」集団の関連祖先系統の混合でモデル化できる、と提案されています。その関連祖先系統の割合は、ゲノムをほぼ「縄文人」関連祖先系統でモデル化できそうな続縄文文化もしくは擦文文化集団から49%、オホーツク文化集団から22%、日本列島「本土」集団から29%程度です。もちろん、上述のように、この割合には地域差があるかもしれません。

 オホーツク文化集団のゲノムは11%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化でき、上述のように弥生時代以降の日本列島「本土」集団のゲノムも少ない割合ながら一定以上の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できますから、アイヌ集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統のうち一定の割合(10~15%程度?)は、オホーツク文化集団および弥生時代以降の日本列島「本土」集団に由来する可能性が高そうです。もちろん、アイヌ集団の祖先と混合したオホーツク文化集団および弥生時代以降の日本列島「本土」集団にも地域差があったでしょうから、具体的な割合の推測は困難ですが。つまり、ネット上では、現代アイヌ集団のゲノムにおける「7割」という「高い割合」の「縄文人」要素を根拠に、「縄文人」集団から現代アイヌ集団への連続性を主張する見解も散見されるものの、そんな単純な話ではないだろう、というわけです。

 もちろん、上述のように、遺伝というかDNAと文化や民族とを安易に関連づけてはならないことが大前提で、DNAと文化とのさまざまな関連(関連記事)からも、遺伝的影響の大小と文化的影響の大小を安易に関連づけてはならないことが示唆されます。その上で、オホーツク文化が紀元後10世紀以降に擦文文化から人工物や生産・生業技術や居住パターンや生計戦略などの数々の要素を段階的に受け入れ、トビニタイ文化を経て最終的に擦文文化に吸収・同化されていき、少なくとも物質文化側面では、擦文文化そのものと区別がつかないものになったこと(大西., 2019)と合わせて考えると、縄文時代から続縄文時代経て擦文文化期へと続いた北海道を中心に分布した地域集団がオホーツク文化集団に対して優位に立ち、これを同化していった可能性が高そうです。つまり、アイヌ集団の言語は恐らく縄文時代の北海道の(特定の?)人類集団に由来し、その文化・民族性を縄文文化と切断する見解は妥当ではないだろう、というわけです。もちろん、アイヌ集団がオホーツク文化やアジア東北部大陸部の人類集団から大きな文化的影響を受けなかったわけではないでしょう。


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Watanabe Y, and Ohashi J.(2023): Modern Japanese ancestry-derived variants reveal the formation process of the current Japanese regional gradations. iScience, 26, 3, 106130.
https://doi.org/10.1016/j.isci.2023.106130
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安達登、神澤秀明、藤井元人、清家章(2021)「磯間岩陰遺跡出土人骨のDNA分析」清家章編『磯間岩陰遺跡の研究分析・考察』P105-118
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大西秀之(2019)「アイヌ民族・文化形成における異系統集団の混淆―二重波モデルを理解するための民族史事例の検討」『パレオアジア文化史学:人類集団の拡散と定着にともなう文化・行動変化の文化人類学的モデル構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 21)』P11-16
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神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021a)「佐賀県唐津市大友遺跡第5次調査出土弥生人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P385-393
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神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021b)「鳥取県鳥取市青谷上寺遺跡出土弥生後期人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P295-307
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神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021c)「香川県高松市茶臼山古墳出土古墳前期人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P369-373
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神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一、斎藤成也(2021d)「島根県出雲市猪目洞窟遺跡出土人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P329-340
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国武貞克(2021)「中央アジア西部における初期後期旧石器時代(IUP期)石器群の追求と日本列島到来の可能性」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)』P11-20
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上峯篤史(2020)「存否問題のムコウ」『Communication of the Paleo Perspective』第2巻P24-25
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佐藤宏之(2013)「日本列島の成立と狩猟採集の社会」『岩波講座 日本歴史  第1巻 原始・古代1』P27-62
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篠田謙一(2019)『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』(NHK出版)
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篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2019)「西北九州弥生人の遺伝的な特徴―佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析―」『Anthropological Science (Japanese Series)』119巻1号P25-43
https://doi.org/10.1537/asj.1904231
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瀬川拓郎(2019)「アイヌ文化と縄文文化に関係はあるか」北條芳隆編『考古学講義』第2刷(筑摩書房、第1刷の刊行は2019年)P85-102
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高宮広土(2014)「奄美・沖縄諸島へのヒトの移動」印東道子編『人類の移動誌』初版第2刷(臨川書店)第3章「日本へ」第5節P182-197
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松波雅俊(2020)「ゲノムで検証する沖縄人の由来」斎藤成也編著『最新DNA研究が解き明かす。 日本人の誕生』第2刷(秀和システム)第5章
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水ノ江和同(2022)『縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏』(朝日新聞出版)
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山田康弘(2015)『つくられた縄文時代 日本文化の原像を探る』(新潮社)

https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_11.html
3:777 :

2023/07/26 (Wed) 09:11:53

天皇家は伊都国を本拠地として奴隷貿易で稼いでいた漢民族系朝鮮人
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007686

天皇家は2世紀に伊都国から日向・大和・丹後に天孫降臨した
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007799

天皇の姓は阿毎氏(あまし/あめし/あまうじ/あめうじ)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/232.html

天皇はソウル出身の漢民族
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/233.html

天皇家は弥生時代後期にソウルから福岡県の伊都国に植民した
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/234.html

天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html

皇族初夜の儀式「三箇夜餅の儀」 _ 朝鮮半島由来のシルトックという餅を使う儀式
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/313.html

皇族初夜の儀式
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html

皇室に伝わる秘儀
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html

天皇一族の様な一重瞼・奥二重瞼は華北に居た漢民族にしかみられない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/103.html

古代日本の主流氏族の26%が韓国系、天皇制国家支配体制の一軸を成す
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/534.html

漢民族系朝鮮人の天皇一族による極悪非道の世界侵略の歴史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14003198
4:777 :

2023/08/01 (Tue) 01:04:58

雑記帳
2023年07月30日
朝鮮民主主義人民共和国学界の古代史を読み解く
https://sicambre.seesaa.net/article/202307article_30.html

 表題の論文(松浦., 2022)を読みました。本論文は、日本の非専門家ではほとんど知られていないだろう、北朝鮮の古代史学界の動向を取り上げており、もちろん私もほとんど知らなかったため、たいへん有益でした。本論文によると、北朝鮮では建国後、1960年代半ばころに独自の古代史体系と呼ぶべきものがはっきりと見えてくるようになったそうで、それには、戦前の日本人研究者が主導していた頃の朝鮮史研究で築かれてきた常識を根本から覆すような見解が含まれていました。

 そもそも、朝鮮半島の古代史がどの時代範囲を指すのかが問題となりますが、日本では、紀元前3世紀までに成立したとされる古朝鮮の頃から、紀元後10世紀に新羅と渤海が滅亡する頃までを一般的に指すようです。建国後の北朝鮮の歴史学界における最初の古代史論争は、朝鮮史における古代とは何か、というものでした。1956~1960年にかけてのこの論争では、三国時代の社会経済構成体をめぐって、古代=奴隷制社会とする主張と、中世=封建制社会とする主張が提示されました。三国時代を中世とする研究者には、朝鮮史では奴隷制が支配的だった時代はなく、原始共同体社会から古代を経ず直接的に中世へ移行した、と主張する論者が多くいました。

 この論争は1960年に決着し、三国時代を封建社会と規定する見解が北朝鮮の歴史学界の統一的な学説として採用されました。ただ、朝鮮社会が原始から中世へと直接的に移行したのではなく、奴隷制社会は三国成立以前の古朝鮮に存在した、とされました。本社はこれを、対立する両主張の折衷的見解だった、と評価しています。次に北朝鮮の歴史学界で論争となった古代史の問題は古朝鮮に関するもので、とくにその位置でした。一方は、古朝鮮が現在の平壌を中心に朝鮮半島北西部の国家だった、と主張し、もう一方は、現在の中国の遼寧省が古朝鮮のおもな支配領域だった、と主張しました。この論争は「遼寧説」が勝利し、古朝鮮は現在の朝鮮半島とは異なる地域に存在した国家とされました。

 この他に1960年代の北朝鮮では、渤海を朝鮮史から除外する傾向が強かった日本の歴史学界とは異なり、朝鮮史に明確に位置づける見解が提示され、北朝鮮の歴史学界では広く受け入れられました。また1960年代には、紀元後3世紀末以降に朝鮮半島から日本列島に渡った移民が各地に分国を形成し、故国と連携を維持しつつ、諸勢力が統合され帝紀、7世紀前半に大和朝廷が成立した、との金錫亨氏の見解が提示され(関連記事)、こちらも北朝鮮の歴史学界で広く受け入れられました。

 古朝鮮は遅くとも紀元前3世紀までには成立していた、とされます。前漢が古朝鮮を紀元前108年に滅ぼし、古朝鮮の首都一帯に楽浪郡、その他の地域に真番と臨屯と玄菟の3郡を設置しました。本論文は、古朝鮮が現在の中国遼寧省にあった、との主張には今から見ると強引なものが少なくなく、「遼寧説」で確定とするのには無理があるように思える、と評価します。しかし、現実に北朝鮮の歴史学界では、論争に勝った「遼寧説」のみが歴史教科書などに掲載されるようになりました。

 このように、1960年代までに北朝鮮の歴史学界では、既存の通説を覆すような新解釈が次々と提示されました。その背景には、日本の朝鮮半島支配を正当化しようとした日本人研究者の不正な研究を論駁しなければならない、との問題意識があったようです。ただ本論文は、少なくとも当時、そうした認識が充分に立証されたものばかりではなかったことを指摘します。一方で本論文は、古朝鮮の位置に関する「遼寧説」などに、北朝鮮の研究者たちの政治的目的が先走ってしまった可能性を見ています。楽浪郡の位置を現在の中国遼寧省に比定する見解は、日本でも韓国でも広く支持されることはありませんでした。

 ただ、韓国でもこうした北朝鮮の歴史学界で認められた見解と酷似した主張を提示した研究者もおり、そうした主張が歴史学界外で広く支持されることもあって、2015年には、楽浪郡などを朝鮮半島内に位置づけた地図の製作を進めていた韓国政府系歴史研究機関が強く批判され、政界も巻き込む騒動となって、事業が中止に追い込まれることもありました。渤海を朝鮮史に位置づける見解は、韓国でも北朝鮮より10年ほど遅れて提唱されました。本論文はこうした現象の背景として、戦前の朝鮮史研究が日本人研究者にほぼ独占されていたことへの反感を挙げます。それを考えると、北朝鮮の歴史学界の主流的見解には確かに日本や韓国の歴史学界では受け入れがたいものもあるものの、それを北朝鮮の歴史学界の「異常性」として取り上げ、嘲笑の対象としてすむ問題ではない、と本論文は指摘します。

 以上、本論文の内容についてざっと見てきました。本論文は基本的に文献史学の問題を扱っていますが、日本列島と朝鮮半島に関しては、いわゆる先史時代を主要な対象として、古人類学的観点から関心のある私にとって、北朝鮮における先史時代の学術的成果がどのようなものなのか、日本史との関連でも注目しています。これに関しては最近取り上げましたが(関連記事)、北朝鮮の領域内の現代人や古代人のゲノムデータおよび考古学的データが大々的に公開されれば、朝鮮史だけではなく、日本史の解明にも大きく寄与すると考えられるので、今後の研究の進展が期待されます。もっとも、北朝鮮の現状では、現在の韓国のような水準でそうした研究を進めるのはかなり難しそうではありますが。


参考文献:
松浦峻大(2022)「朝鮮民主主義人民共和国学界の古代史を読み解く」『抗路』第10号P116-123(抗路舎)

https://sicambre.seesaa.net/article/202307article_30.html

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