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日本列島の巨石文化

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2023/07/25 (Tue) 11:25:09

『日本の巨石文化・1』 佐治芳彦
https://www.jomon.or.jp/archives/24.php

日本の巨石文化
はじめに

人間は生存のために他の動物と同じく自然環境と適応関係を保っていく。人間の、この自然環境にたいする適応体系が「文化」である。これは、特定の社会の人々によって習得され、共有され、伝達される行動様式ないし生活様式の体系といってもよい。

さて、人間の文化は、発生の段階から「石」と大きくかかわってきた。人類と石器とのかかわりは250万年以上に遡るが、未加工の石の利用はさらに古く、それは約400万年以前の人類の発生にまで遡るだろう。つまり、彼らは道具を使用することで人類となったのであり、その原初的道具に石が含まれていたからである。やがて、石は加工されて石器となり、さらに建造物の素材として広く利用されるようになった。

考古学的な時代区分でいう石器時代は、ふつう旧・中・新の三期に別れるが、その最後の段階である「新石器時代」(日本ではほぼ縄文時代にあたる)に世界の各地域で、面取りや化粧仕上げなどの加工が比較的少ない大きな石を用いて作られた建造物、すなわち「巨石記念物」(megalithic monument)を特徴とする文化が生まれた。これが「巨石文化」である。

巨石記念物

 巨石記念物にはいくつかの種類がある。その代表的なものとして次のようなものがある。すなわち、自然石ないし多少の加工を施して地上に立てられた単一の柱状の石である「メンヒル(立石)」。つぎに「立石群」、これには「環状立石(ストーンサークル)」と「列石(アリニュマン)がある。二基ないしそれ以上の支石で一枚の扁平の蓋板石を支えたテーブル状の構築物である「ドルメン」これには墳墓(支石墓)ドルメンと記念ドルメンとがある。なお、イースター島のモアイは巨石記念物に含められるが、ピラミッドやスフィンクス、オベリスクなどは除外される。

巨石文化の分布

 この文化は、新・旧両大陸の主として沿岸部にひろく分布している。すなわち、北欧(スカンジナビア半島)からドイツのバルト海沿岸部、フランスのブルターニュ地方、対岸のイギリスのケント地方、イベリア半島の大西洋、地中海沿岸部、南フランス、イタリー半島、北アフリカの地中海沿岸部、黒海沿岸部、紅海・ペルシャ湾沿岸部、アフリカの大西洋・インド洋沿岸部、インド亜大陸のアラビア海、ベンガル湾の沿岸部、インダス・ガンジス河流域、デカン高原、ヒマラヤ山麓などの内陸部、ミャンマーのベンガル湾沿岸部、インドシナ半島の南シナ海・タイ湾沿岸部、インドネシア、オセアニア。中国の東シナ海沿岸部、中国東北部の渤海湾沿岸部、シベリア日本海沿岸部、朝鮮半島、日本列島、さらに新大陸の北・中・南アメリカの太平洋・大西洋沿岸部にわたっている。

伝播の問題

 巨石文化は、上記のように南極大陸をのぞく地球の諸大陸の沿岸部に広く分布していることから、当然「伝播」の問題が浮上してくる。伝播とは文化要素が一つの文化から他の文化に移る過程をさす。

 伝播論で有名なイギリスのエリオット・スミスらの太陽巨石文化移動説(人類文明エジプト起源説)は、現在受入れられていないが、巨石文化の伝播そのものを否定することは難しい。かつて「コンティキ号の冒険」を試みたトール・ヘイールダールは、日本の代表的人類学者から「エリオット・スミスの亡霊」と酷評されたが、彼の「ラー号の冒険」によってエジプトと中南米との葦船による航海の可能性が実証されたことによって伝播説は甦ったともいえる(なお、オーストリアの民族学者のハイネ=ゲレデルンは、この伝播に従事した人々を「エニシエント・マリナーズ古代航海民」と呼んだ)。

https://www.jomon.or.jp/archives/24.php




『日本列島の巨石文化・2』 佐治芳彦
https://www.jomon.or.jp/archives/25.php

日本列島の巨石文化
 日本列島にも巨石文化が存在したことは先史考古学的な事実である。

 日本の巨石文化の特徴は、まず巨石記念物のスケール規模や使用された岩石のサイズ寸法が一般に小形である点がまず挙げられる。 たとえばカルナック(仏)の列石は長さ一~六メートルにおよぶ巨大な自然石を幅100~百数10メートルの間に10~13個直立させ東西方向に列状に配置されている。 それは三群に別れているが、短いもので長さ100メートル、長いものでは1120メートルにおよび、列石数は全体で3000個に近い。 このような巨大なスケールの列石は日本には見あたらない。 また、イギリス南部ソースベリー平原のストーンヘンジと秋田県の大湯の環状列石とは比較にならない。

 だが、日本の巨石文化の最大の特徴は、神道だけでなく仏教的民俗のなかに現在もなお生きていることだろう。

いわさか磐境

 ふつう「いわくら磐座」とならび称されているが、「磐境」は「ひもろぎ神籬」とともに神社の原始形態とされる(神域を示す)。 その「磐」の原意は「山の石」(岩)であり「海の石」(磯の石=小石)に対するものだ。 つまり、大きな岩=巨石である。 したがって磐境とは、たんなる斎場ではなく、巨石によって囲まれた神域だったと考えられる。

磐座

 磐座は、神のいます���固な座(席)ではなく、神がいます山中の巨石をさしていた(この巨石は山麓から運んだ自然石とかぎらず地上から露頭している巨石の場合がある)。

 なお、いわゆる「日本のピラミッド」(後述)といわれる御神体山には、中腹に磐境、山上付近に磐座に相当する巨石・巨岩が見られる。

 この磐境や磐座の存在する御神体山は、日本の巨石文化の特徴の一つである「日本のピラミッド」のレリック残存、いや生きているエビデンス証拠といえるかもしれない。

環状列石

 代表的な環状列石である大湯遺跡(秋田県)は、万座と野中堂の二つのストーンサークルからなっている。 この二つの環状列石は夏至のときに太陽が沈む方向をかなり正確に意識して造られていることが分かった。 そこから「日時計」の考察にウエイトをおく天文考古学がアピールされたが、たしかに夏至や冬至、さらには春分や秋分での日没を意識した、つまり縄文カレンダーの基準となるモニュメントの配置がなされている環状列石が全国に散在している。 なかでも中部高地(長野県の阿久遺跡、上原遺跡)からは環状列石や集石機構をもつ大集落の出現と、ハイ・レベルな縄文文化の存在が示されている。

 だが、それらの環状列石が周辺集落の墓地であったことも否定できない。 ここから、ストーンサークルを祖先祭祀の場とする見解が出てくる。 複数集落に分散した縄文人が、たとえば後世のお盆帰りやお彼岸の墓参と似た目的で、このような聖域を共同で建設し、かつ維持したのではないかという発想だ。 つまり、縄文共同体の地域的アイデンティティ維持のために造ったという発想である。 とすれば、この種の遺跡分布の密度の濃い東北地方の人々のお盆における帰省願望(かつて小松左京氏は、東北人のお盆の帰省願望の熾烈さから「東北出身の人々は月世界に出稼ぎにいっても地球カレンダーでお盆の季節になれば帰省するのではないか」とったことがあった)は縄文以来のものである可能性もある。

積石塚

 積石塚(ケルン)は、礫石などをピラミッド型に積み上げたもので、盛り土での墳丘と同じく墓の標識として、また、墓の装飾や保護のために造られたものと思われる(周囲に環状列石をめぐらした例も少なくない)。 このケルンは現在では登山者の道標なり、記念物とされている。 日本では、スポーツとしての登山が移入されてのちのものと思われているが、その起源は巨石文化の記憶に求められるのではあるまいか。

 また、「地蔵和讃」の賽の河原の積石(ケルン)は、中世以降、民衆に広まった。 この賽の河原の「賽」とはもともと「境」を意味する。 つまり、この世とあの世の「境」に在る我が子への哀惜が、この仏典的には根拠がない「賽の河原」の「地蔵和讃」を創った… 私は、これも民衆のあいだに生きている巨石文明のレリック(残存物)と見たい。

巨石広場

 巨石記念物(とくにメンヒル)を中心とした広場をさす。 それは世界各地の巨石遺跡に見られるが、日本の縄文集落遺跡にも見られ、祭祀場であり集会の場であったと考えられる。 この事実は重要である。 すなわち、古代アテネのアーゴラ広場を例にとり、民衆の広場の不在をもって日本の民主主義を云々する人々がいるが、そうした見解は縄文の巨石広場の存在についての無知に基づくのではないか。 私はこの巨石広場での共同体の祭祀や儀礼やデスカッションに古代世界にほぼ共通した原始民主制の存在を主張したい。 つまり、環状住居の中央にこのような巨石広場をもっていた縄文社会は原始民主制社会だったということである。 私が、この広場を中心とした縄文集落の空間デザインに注目したのは、D.フレーザーが、アフリカのムティ・ピグミーの円形の村落設計から原始平等主義を読み取ったこと。 また、北アメリカのオグララースー族は、宇宙を円と考え、その観念を自分たちの村落のデザインに投影しているが、いずれも住居が広場の中心から等距離に弧状に配置され、しかも入り口はすべて広場に面しているということに示唆されたからである。

  D.フレーザーは、採集民であるムプティ・ピグミーの場合、ある男が自分の住居の戸口で、いくらわめいても、それはあくまでも個人的(私的)な発言で、それ以上の重みをもたないが、彼が広場の中央に立って話すときは、その発言は部族にたいする公的な発言として受け取られるという。 この例から縄文人と巨石広場との関係について考えると、縄文階層社会説(奴隷所有! )を大声で主張するのはいかがなものであろうか。

巨木遺構

 巨石ではなく巨木のモニュメント記念物の存在は、これまでインドのアッサム地方やミャンマーの山地民族の例が知られていたが、日本でも真脇・チカモリ・寺地、三内丸山などの縄文遺跡からも明らかとなった。

 このチカモリ遺跡や間脇遺跡、寺地遺跡など巨木の列柱をウッドサークル(環状列柱)と呼んでいる人も多いが、ストーンサークル(環状列石)とちがって天文観測的な機能は明らかでない(ただし、三内丸山の場合は夏至を意識している)。 したがって信仰的な意味合いがより濃いと見るべきだろう。 天降る神のヘリポートとして立てられたと見る人(梅原猛氏)もいる。 だが、縄文晩期のチカモリ遺跡ならまだしも、はるかに古い真脇遺跡(縄文前期)の場合、はたして天降神信仰があったかどうかは疑問である。

 それにしてもなぜ石でなく木か? 縄文人は「石の文明」に結局はなじまず、「木の文明」を指向したのか。 つまり「砂漠の思想」と「森林の思想」との違いか。 それとも建設素材入手(と運搬)の問題から巨木を選んだのか? ちなみに古代の巨木の生産地として有名なレバノン地方からウッドサークルの遺跡は報告されていないようである。

日本のピラミッド

 日本の巨石文化の特徴の一つにピラミッドがある。

 戦前、日本のピラミッドの存在を提唱したのは酒井勝軍だった。 彼の所説は戦後の古史古伝ブームとともに復活し、「サンデー毎日」の大々的キャンペーン(1984年)によって、多くの超古代研究者によって取り上げられることになった。

 祭祀考古学���立場からこの問題にアプローチしている鈴木旭氏の所属する環太平洋学会の定義によると、

 山容が四角錐の形をしている事。 それは、自然山でも、人工造山によるものでも構わない。
  山頂部が祀り場になっており、それに通じる参道がある事。
 山の周辺にも祭祀場があり、その山と一体となっている事。
 エジプト系のピラミッド群と区別して、環太平洋型ピラミッドと呼称する。

 ただし、これらの条件を一応満たしている人工的整形を施した山(日本のピラミッド)としては秋田県の黒又山を典型とするというのが鈴木氏の見解である。 なお氏はピラミッドというよりも「山岳祭祀遺跡」として捉えるほうがよいと考えているようだ。 脱古史古伝派の鈴木氏らしいアプローチであるが、ピラミッドであれ山岳祭祀遺跡であれ、山上や中腹に、しかも方位や太陽観測など考慮して、磐境や磐座とされる巨石を配置するという技術は、日本の巨石文化のユニークな達成である。

 だが、日本のピラミッドを山岳祭祀遺跡と限定してしまうことは、ある意味で巨石文化の矮小化に繋がりはしないかというのが日本のピラミッド・ファンの危惧である。 UFOとの連絡施設などというのは一応論外としても「太陽の神殿」としての可能性が考えられる。 ちなみに太陰(月)信仰から太陽信仰への移行は古代文明の大きな画期である。

 なお、環太平洋学会では、このような日本のピラミッドと同じ様式の遺跡が、韓国やインドネシア、太平洋諸島、さらに中南米に散在していることから、古代の環太平洋文明の存在の可能性を主張しているが、古代の環太平洋文化圏論者である私にも賛成できる仮説である。 すなわち、鈴木氏らも無意識裡に私と同じく「古代航海民」の活躍を前提としているようである。

なぜ巨石記念物を造るのか

 日本にはストーンサークルを含む配石遺構が500以上ある。 縄文人がそれらをなぜ造ったのだろうか。 ストーンサークルについてはすでに述べたが、メンヒル(立石)やドルメン(支柱石=支柱墓というが墓だけとはかぎらない)のような巨石記念物建設の動機はなにか。 これについて納得のいく説明は文化人類学でいう「勲功祭宴(feast of merit)」説であろう。

 勲功祝祭とは、インド、東南アジア、オセアニア、さらにはマダカスカルを中心に見いだされるポトラッチ型の祝宴である。 ここでいう勲功とは、ふつう外敵からの集落の防衛、大型野獣の捕殺、家畜など財産の大量放出である。 そして、勲功者(祭宴の主催者)には、その栄誉を顕彰する意味で、ある種の称号や自宅に特別な飾り付けをする権利を与えられ、また、木柱や巨石記念物(メンヒルやドルメン、ストーンサークル、石壇など)が記念として設立される(この建設自体も祝宴の一環とされる)。 それによって、勲功者の霊魂が生前の社会的地位に対応した来世での幸福を保障されるとする。 このような古代人の観念をハイネ=ゲルデルンは「時間的・系譜的な世界観」とよんだ。 この世界観が、古代文明地域において、天体の運行や宇宙の構造と人間の運命が依存しているという「空間的・呪的・宇宙的世界観」に取って代わられたとき、エジプトのピラミッドが建設されたのだろうか。 ピラミッドを巨石記念物に含めないのは、その世界観の違いによるのかもしれない。 そうだとすれば、いわゆる日本のピラミッドがピラミッドであるかどうかは、その世界観によることとなる。

岩刻文様-岩石文字

 巨石文化伝播の仮説に有力な援軍が現れた。 それはハーバード大学の名誉教授(海洋学)バリー・フェルの『紀元前のアメリカ』のペトログリフ岩刻文様(ロック・アートとも)の研究である。
 
彼はコロンブス以前のアメリカ移住者の存在を示す神殿・巨石記念物・墳墓などとともにペトログリフ石に刻まれた碑文を取り上げ、古代における壮大な文化移動を立証しようとした。

 一方、日本では彦島(山口県)で発見された岩石文字(ペトログリフ)のなかにシュメール文字が見い出されたというショッキングな報告が吉田信啓氏からなされた。 だが、古事記をシュメール語で読めるとか日本の地名をシュメール語で解読? できるなどという情報に食傷していた私には川崎真���氏の問題の碑文の全文解釈についても懐疑的であるが、鈴木旭氏は日本のペトログリフからシュメールの神性を象徴する「七枝樹」が見えることから、古代シュメールと古代日本の文化的交流を仮定している。 だが、この「七枝樹」はオリエントの「生命の樹」であり、その日本への渡来については私なりの仮説を持っている(小著『謎のシルクロード』徳間書店、1980 参照)。 したがって、現在もっとも肝要なことは、各地から「発見」されるペトログリフにたいするオリエント古語の専門家による解読作業だろう。 その結果、もし、それがシュメール語であることが、学問的に確認されたならば、それは日本の古代学研究にとっての革命となるからである。
むすび

日本の巨石文化が終焉したのは、巨石記念物と結びついた宗教や呪術の衰退と、それによる技術集団の解体であり、それをもたらしたのは気候の寒冷化と食料難による共同体の衰弱であろう(勲功祭宴の社会・経済的余裕などなくなった)。 したがって、日本列島に巨石文化建設に匹敵する国家的土木事業が誕生するのは、水田稲作による社会的富の蓄積がすすみ、その富を独占するファラオ的な権力者の発生した古墳時代以降となる。
(岐阜県位山の岩座)
ファイル 25-1.jpg

 
(寺地遺跡巨大木柱)
ファイル 25-2.jpg
 

佐治 芳彦(さじ・よしひこ)

国際縄文学協会会員
作家

会津若松生まれ。 東北学院英文科卒。 東北大学文学部史学科卒。 現在は古代から現代史まで幅広い分野の 執筆で活動中。
『九鬼文書の謎』(くかみもんじょのなぞ)、『縄文の神とユダヤの神』など著書多数

2011年05月01日(日) | 縄文を読む/考古学を読む::縄文コラム/エッセイ
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日本の太陽崇拝、磐座崇拝、モイワ山崇拝、鳥居の起源
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冬至と夏至の古代太陽信仰
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日本列島の巨石文化
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2:777 :

2023/07/25 (Tue) 12:12:07

2022.11.19
古代の巨石祭祀場「日本のストーンサークル」12選/須田郡司 
文=須田郡司
https://web-mu.jp/history/6349/


日本列島各地で見ることができる、環状列石=ストーンサークル。 古代の人々はそこで何を祈り、何を目撃したのか。夢と祭祀の現場を、改めて振り返る。

目次
1 地鎮山環状列石 縄文時代後期の個人の墓か?
2 西崎山環状列石 小さな墓穴が密集して大サークルに
3 音江環状列石 13基の配石遺構を確認!
4 忍路環状列石 古代の集団の力の雄大さを物語る
5 八幡山環状列石 神社の境内で発見された環状列石
6 朱円環状列石 縄文の豊かな埋葬品が見つかる!
7 小牧野遺跡 縄文人の組織力を見せつけるモニュメント
8 大湯環状列石 「日時計状組石」で知られる大規模な遺跡
9 楯築遺跡 弥生時代の祭祀儀礼を物語る出土品
10 猪群山環状列石 伝承に包まれた謎の祭祀遺跡
11 米神山の佐田京石と山頂の環状列石 古代の信仰の跡を垣間見る遺跡群
12 下山環状列石 魂送りの儀式を行っていた「牛石」


地鎮山環状列石 縄文時代後期の個人の墓か?
北海道小樽市忍路:縄文時代後期


画像5
 地鎮山(じちんやま)環状列石は、忍路(おしょろ)環状列石(写真下)の西、地鎮山(標高50メートル)の山頂に位置する。その姿は楕円形で、12個の大石が10メートル×8メートルの規模に配置されている。昭和24(1949)年に行われた発掘調査では、中央よりやや南寄りに円形の集石(小さな円石を集めたもの)が見られ、その地下部分から2メートル四方、深さ1メートルほどの穴が発見されている。縄文時代後期の墓の一種と考えられているが、穴が1個しか発見されなかったことから、集団の墓ではなく個人の墓としての性格を持つものとされている。

西崎山環状列石 小さな墓穴が密集して大サークルに
北海道余市町栄町:縄文時代後期

画像2
 西崎山(にしざきやま)環状列石群は、第1区から第4区に区分され、このうち第1区が西崎山環状列石として史跡に指定。余市駅から東南へ5.5キロメートル、海抜70メートルの西崎山の丘上にある。このサークルは縄文時代後期の墓で、直径1〜2メートルの遺構が7か所密集し、ひとつの大きなサークを形成している。それが長径17メートル、短径12メートルの楕円形をなし、大小数百個の自然石が並べられている。大きいサークルを構成する小さいサークルのひとつひとつは墓穴と思われ、土器や石鏃(せきぞく)が発見されている。

音江環状列石 13基の配石遺構を確認!
北海道深川市音江町:国指定史跡

画像3
 音江(おとえ)環状列石は、石狩川に面した稲見山と呼ばれる丘陵突端部の標高115メートル前後のところにある。それぞれが直径2〜5メートルの大きさで、円形に大小の石を並べた13基の遺構となっている。1952〜1955年に東京大学考古学研究室によって13基の配石遺構があることが確認された。その際、そのなかの9基を発掘したところ、各々の配石の下には掘りこまれた穴があり、ベンガラがまかれ、底から朱漆塗りの弓やヒスイの飾玉、石鏃(矢じり)などが出土した。これらの墓はいずれも、付近から採集された土器や伴出した石鏃、ヒスイの玉などから縄文時代後期のものではないかと考えられている。

忍路環状列石 古代の集団の力の雄大さを物語る
北海道小樽市忍路:国指定史跡

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 忍路(おしょろ)環状列石は三笠山山麓の緩斜面を平坦にカットし、その面に、大きな立石とその周囲に小石を並べたものを大きな楕円形(33メートル×22メートル)にめぐらせている。この遺跡は、縄文時代後期(約3500年前)のもので、この時代に出現する「区画墓」と呼ばれる集団の墓地と考えられている。文久元(1861)年に発見され、大規模な土木工事の結果作られたこの環状列石から、この地域に住んでいた集団の力を読み取ることができる。北海道において発見されている類似の遺跡のなかにおいてもっとも雄大な規模を示す。

八幡山環状列石 神社の境内で発見された環状列石
北海道余市郡余市町:縄文時代後期

スクリーンショット (27)
 余市(よいち)町の小山の八幡山にあったが、余市水産博物館の庭に移されている。八幡神社跡地は昭和43年に地元青年団の共同試験地となり、その造成中にブルドーザーで削平した際、縄文時代後期ごろと考えられる環状列石が発見された。発見地点はかつての八幡神社の境内にあたるため、一部の環状列石が偶然破壊を免れている状況だった。町内で環状列石として確認されている遺跡は、西崎山環状列石、警察裏山遺跡などがあるが、いずれも高台で見晴らしのよい場所であり、八幡山環状列石も同じような立地であったと考えられる。

朱円環状列石 縄文の豊かな埋葬品が見つかる!
北海道斜里郡斜里町:北海道指定遺跡

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 知床斜里(しれとこしゃり)町内で見つかっている数か所の遺跡は、主に縄文時代のもの。史跡的には「朱円周堤墓(しゅえんしゅうていぼ)」だが、この名で知られている。直径28メートルと32メートルのふたつの円の中央が墓になっている。副葬品には、縄文時代後期末の粟沢式土器と土製の鈴、土版、漆器片、石棒、石斧(せきふ) 、石鏃、ヒスイ製の飾り珠などがある。墓の掘り込みにはベンガラが敷かれていた。また、火葬骨とともに衣類の一部と考えられる編み物も発見されている。朱円遺跡の発掘は、環状土籬(かんじょうどり)の概念をはじめて明らかにした調査として重要で、出土品とともに北海道指定史跡となっている。

小牧野遺跡 縄文人の組織力を見せつけるモニュメント
青森市大字野沢字小牧野:国指定史跡

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 小牧野(こまきの)遺跡は縄文時代後期前半に作られた環状列石を主体とする遺跡で、荒川と入内(にゅうない)川に挟まれた舌状台地の標高140メートル付近に位置する。環状列石は、埋葬、祭祀・儀礼に深く関わるもので、膨大な日数と労力をかけて作られ、縄文人の組織力を見せつけるモニュメントである。縄文時代の葬送・祭祀などに関わる精神生活、土地の造成や石の運搬などの土木工事の実態などを知るうえできわめて貴重な遺跡だ。本遺物では、土坑墓群を主体とする墓域や捨て場を中心に土器や石器、石製品、三角形岩版や円形岩版などが見つかっている。

大湯環状列石 「日時計状組石」で知られる大規模な遺跡
秋田県鹿角市十和田:名勝天然記念物

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 鹿角市十和田大湯(おおゆ)字野中堂字万座(まんざ)に所在する、ふたつの環状列石(野中堂<のなかどう>環状列石、万座環状列石)を主体とする縄文時代後期(約4000年前)の大規模な遺跡。野中堂環状列石、万座環状列石は石をさまざまな形に組みあわせた配石遺構が二重の環状を形成しているのが特徴だ。「日時計状組石」は、各々の環状列石の中心から見て北西側にあり、外帯と内帯の間に位置する。野中堂遺構は外径約40メートル内外、万座遺構は外径約四十数メートル内外を算する。遺構は火山灰層によっておおわれ、一帶に縄文土器・石器・土偶等を包含している。

楯築遺跡 弥生時代の祭祀儀礼を物語る出土品
岡山県倉敷市域北東:国指定史跡

スクリーンショット (29)
 楯築(たてつき)神社の境内を中心とする弥生時代後期の墳丘墓。自然地形を利用し、盛り土を行って整えられた墳丘の規模は、弥生時代の墳丘墓としては最大級。円丘部は径約50メートル、高さ5メートル。墳丘頂部には5個の巨石が立っており、墳丘斜面には円礫(えんれき)帯がめぐっている。岡山大学考古学研究室による発掘調査の結果、朱が敷き詰められた棺とそれを納めた木製の槨の痕跡が発見され、鉄剣と大量のガラス小玉、土製の勾玉なども見つかった。弥生時代から古墳時代にかけての社会の変化を研究するうえで、重要な遺跡のひとつ。

旋帯文石:岡山県倉敷市矢部楯築遺跡出土:国宝・重要文化財(美術品)

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 楯築遺跡から出土した旋帯文石(せんたいもんせき)。約350キロの石灰岩系の岩石に人面を刻み、体部全体に帯状の紐を旋回させ、束縛したような文様を精緻に彫成したものである。この文様は弥生時代の祭祀儀式に用いられた大形器台と同種で、祭祀、呪術的な様相を漂わせた、他に例のない遺品である。弥生時代社会を知るうえに欠かせない重要な遺品であるとともに、原始工芸の一水準をも示している。

猪群山環状列石 伝承に包まれた謎の祭祀遺跡
大分県豊後高田市

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 猪群山(いのむれやま)(標高458.2メートル)東峰の頂にある巨石群が猪群山環状列石で、人工物でなく、火山の爆発によってできたといわれる。中央にある高さ約4.4メートルの巨石を中心に、東西33メートル、南北42メートルの楕円状に、16個の巨石が並んでいる。環状列石の外側にも直径70メートルの円状に24個の石が配され、さらに周縁279メートルに土塁と側溝が巡らされているが、その内側が神域とされた祭祀遺跡と考えられる。伝承によれば、中央の巨石の頂上に窪みがあり、潮の満ち引きと連動しているとも、山幸彦が龍宮から持ち帰った神体石ともいわれる。

米神山の佐田京石と山頂の環状列石 古代の信仰の跡を垣間見る遺跡群
大分県宇佐市安心院町熊

スクリーンショット (31)
 古代から信仰されている米神山(こめかみやま)(標高475メートル)山麓西南に、高さ2メートルから3メートルの柱状の巨石が9本並んでいる(写真上)。「佐田京石(さだきょういし)」と呼ばれ、いつの時代に何の目的で置かれたかはわからないが、超古代の巨石文化遺跡として注目されている。毎年3月初旬に石の前で米神山巨石祭が行われ、巨石群が半円形に立ち並ぶ会場では登山者の無事が祈願される。そのほか山中には「月ノ神谷」や「日ノ神谷」など多数の巨石群が、山頂にも環状列石群があり(写真下)、弥生期(200年ごろ)の信仰の跡を見ることができる。

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下山環状列石 魂送りの儀式を行っていた「牛石」
大分県杵築市

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 杵築(きつき)市山香町山浦地区の下山集落近くの環状列石。縦70メートル、横40メートル程度の楕円形で、総面積0.2ヘクタールほどの大きさ。やや不規則環状に大石を並べたもので、古代人の巨石崇拝の遺跡と考えられる。列石の中心的なものが長さ2メートル、幅1メートあり、高さ60センチほどの「牛石」である。この石は、神の山「大牟礼(おおむれ)(大村)山」を向き、ここで魂たま送おくりの儀式を行っていたと思われる。北側は戦後の開拓時に取り去られているが、その大きさは日本最大級の環状列石と考えられる。下山環状列石の上に、ストーンサークル記念館が2004年にオープンした。

須田郡司
巨石ハンター・巨石写真家・石の語りべ 日本石巡礼(2003~2006)、世界石巡礼(2009~2010)を満願。日本各地で「石の語りべ」講演活動を展開しつつ、座・ロックツアー「出雲の聖なる石を訪ねる」を主催。日本各地の巨石マップの制作を行なっている。

https://web-mu.jp/history/6349/
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2023/08/03 (Thu) 11:54:11

2013年5月21日
池田 清隆(いけだ きよたか) / 磐座(イワクラ)探求家
神は美しいものにしか宿らない
https://www.surugabank.co.jp/d-bank/event/report/130521.html

~磐座聖地への旅~

出版社の役員を務める傍ら、我が国の固有信仰ともいえる岩石崇拝(イワクラ=磐座)に魅了され、調査研究を続けてきた池田氏。退任後も八ヶ岳南麓に居を構え、本格的な調査研究を続けながら、これまでに2冊の著書をまとめあげた。磐座信仰の痕跡を訪ね歩いてきた旅の魅力をスライドなどでご紹介いただきながら、縄文時代にまでさかのぼる「神」の姿、そして『古事記』の世界との関わりについて迫ります。古代に想いを馳せながら、新しい旅のかたちについて考えてみませんか。


「神」の存在を感じた古代人の美意識

 磐座とは何だろうか。広辞苑で引くと「神の鎮座するところ。神の御座」。神道辞典には「そこに神を招いて祭りをした岩石。その存在地は聖域とされた」とある。今回は、その磐座を長年に渡って調査研究してきた池田清隆氏が講師。今回のセミナーでは日本人の中に脈々と受け継がれてきた岩石崇拝について、前半は『古事記』をひもときながら、そして後半は実際に池田氏が訪れた全国各地の磐座を写真で見ながら学ぶこととなった。

 日本を旅していると、由緒ある神社の境内やその近くに周囲をしめ縄で囲んだ石や岩があったりする。これが「岩石崇拝」。その信仰形態は「イワクラ(磐座・石位・石坐・岩座)」「イワヤ(石屋・岩屋)」「イワサカ(磐境)」「イシガミ・イワガミ(石神・岩神)」の4つに分かれるという。
「イワクラ」は「神が依りつき宿る岩石への信仰」であり、「イワヤ」は「神が依りつき、籠る岩窟への信仰」、「イワサカ」は「神を迎え、祀るための区切られた岩石空間への信仰」、「イシガミ・イワガミ」は「岩石そのものを神として祀る信仰」を指す。池田氏はこうした場所に行くと「いつもドキッとする」という。

「それはきっと古代人も同じ。山中で巨石や岩窟を見たとき、古代の人たちは直感的に神がいると感じたのではないでしょうか。そうした神聖な感覚、美意識にかなったものが信仰の対象として祀られてきたのだと思います。」
 「神は美しいものにしか宿らない」とはまさにこのことだ。こうした磐座への岩石崇拝ははるか縄文時代から日本にはあった。

「この岩石崇拝の視点で『古事記』を読むと、大和朝廷の信仰の原点は磐座信仰にあったのではないかと考えられます。『古事記』に書かれていることを突き詰めていくと、弥生時代ではなく縄文時代の信仰、神道以前の古神道に辿り着いたのです。」


『古事記』に見られる「岩石崇拝」

 神道は「いろんなものが混ざりあってできたもの」。現代にも縄文時代の信仰は残っている。例えば石の棒を祀った諏訪地方の「ミシャグチ」は縄文時代からつづくこの地方の「地霊(神)」だ。『古事記』でもこうした岩石崇拝を思わせる記述はいくつも見つけることができる。「なぜイザナギノミコトは黄泉比良坂(よもつひらさか)に千引の石を引き据えたのか?」、「なぜアマテラスは〈石屋戸〉に籠る必要があったのか?」、「なぜ、ホノニニギは〈天の石位〉を離れて天降ったのか?」と『古事記』で語られるエピソードにはいたるところに「石」や「岩」が出て来る。池田氏は「『古事記』の根底には岩石崇拝の思想が脈々と流れている」と考えている。

「イザナギノミコトが怒ったイザナミノミコトを防ぐために黄泉の国との境に千引の石を据えたのは、石にはいろいろな災いをもたらすものを防ぐ力があると信じられていたから。アマテラスが天の岩戸に籠ったのは、岩窟の発する霊力を自分も身につけようとしたから。岩石信仰の視点で『古事記』を読むと、こんな見方ができるのです。」

 天皇が即位する際に使用する高御座(たかみくら)も、元を辿れば磐座であったかもしれない。天孫降臨の話の中ではホノニニギ(ニニギノミコト)は高天原の磐座を離れて「現人神」となるべく豊葦原へ下ったとされている。だとすれば高御座はそのときの磐座の名残りとも考えられる。


日本各地に残る「磐座聖地」

 後半は「磐座聖地への旅」。日本各地に多数残る磐座だが、全体的に見れば「ほとんどはわからなくなってきている」と池田氏。岩石崇拝は祀る人がいなくなったら「それが信仰の対象であったかどうかがわからなくなる」からだ。

 まずは北海道旭川市のカムイコタン。アイヌ語で「神の住む場所」とされているここには石狩川が流れている。今は景勝地として知られているこの場所も昔は交通の難所。自然を崇拝するアイヌの人々にとっては「神」が宿っている場所であった。

 次いで盛岡の三石神社。ここには悪さをする「羅刹(らせつ)」という鬼を石に縛りつけたという伝説がある。その際、鬼が「もう二度と悪さをしない」と石に手形を残したことが「岩手」の名の由来になったとも言われている。名物の「さんさ踊り」は鬼が去ったことを喜んだ人々が始めたものだという。が、この伝承には大和朝廷が蝦夷を征服していった歴史を読み取ることもできる。「羅刹」を蝦夷の首長である阿弖流為(あてるい)に置き変えれば、こうした伝承が生まれた経緯は想像に難くない。

 茨城県の大洗磯崎神社の「神磯」は海岸を磐座とし鳥居を立てたもの、長野県茅野市の「小袋石」は諏訪大社の原点ではないかと推測される巨石、立科町の「鳴石」は峠にいる荒ぶる神への畏怖と畏敬から人々がここへと石を運んでつくった磐座、そして静岡県浜松市にある渭伊神社の「天白磐座遺跡」は池田氏が初めて訪れた磐座だ。

「ここの祭神は蟾渭(せんい)神(ヒキガエル)。これは近くに川がいっぱいあって水の神として信仰されていたからではないかと思われます。」
 3つの巨石からなる「天白磐座遺跡」は見た目のバランスも素晴らしい。池田氏はこれを見て「古代人の美意識」を感じたという。見ていてゾクゾクする磐座はまだまだほかにもある。伊勢神宮内宮の「巌社(いわのやしろ)」、大津市の日吉大社の「金大巌(こがねのおおいわ)」、平安京の基点となったという京都の松尾大社や船岡山の磐座、奈良県にある御廚子(みずし)神社の磐座、船に見なした高さ18メートルもの巨岩を祀る大阪の磐船神社、熊野速玉大社元宮の「ゴトビキ岩」、古代の祭祀形態を今に伝える島根県の飯石神社や佐太神社の磐座、広島県の宮島の弥山山頂磐座、厳島神社境内の磐境、影向石(ようごういし)、琉球王朝の聖地である沖縄本島にある斎場御嶽(さいはうたき)の三庫裡……といった具合に北海道から沖縄まで、日本には知られているだけでも磐座がまだまだ無数に点在している。池田氏の「夢」は、「その磐座をそれぞれの背負った歴史を踏まえた上で『磐座聖地100選』といった形の案内書にして紹介していくこと」だ。

 池田氏の自宅は八ヶ岳の山中。ここに13年前から夫人と暮らしているという。
「憧れは〈山中暦日無し〉の生活。縄文時代の人々が神々と暮らしたように、四季の移ろいの中でゆったりと暮らしたいですね。」という最後の言葉に盛大な拍手が送られセミナーは幕を閉じた。
https://www.surugabank.co.jp/d-bank/event/report/130521.html




磐座
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E5%BA%A7

山ノ神遺跡(奈良県桜井市)
天白磐座遺跡(静岡県浜松市)

磐座(いわくら、磐倉/岩倉)とは、古神道における岩に対する信仰のこと。あるいは、信仰の対象となる岩そのもののこと。

日本に古くからある自然崇拝(精霊崇拝・アニミズム)であり、基層信仰の一種である。神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代(神籬という)と神威をもって祭祀の中心とした。時代とともに、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが、元々は古神道からの信仰の場所に、社(やしろ)を建立している場合がほとんどなので、境内に依り代として注連縄が飾られた神木や霊石が、そのまま存在する場合が多い。

自然への信仰の例は岩以外にも、鎮守の森(「モリ」自体が神社をさし、杜は鎮守の森自身である)、禁足地としての「島」、宗像大社の沖ノ島、六甲比命神社や三輪山などの「山」に対する信仰、「火」に対する信仰、滝などから、風雨・雷という気象現象までの多岐にわたるものである。

岩にまつわるものとして他にも、磐座を中心とした祭祀場である磐境(いわさか)があるとされる[1]が、こちらは磐座に対してその実例がないに等しい。そのため同一のものと目されることもある。『日本書紀』では磐座と区別してあるので、磐座とは異なるなにか、「さか」とは神域との境であり、神籬の「籬」も垣という意味で境であり、禁足地の根拠は「神域」や「常世と現世」との端境を示している。つまり磐境は、石を環状に配置した古代の遺跡であるストーンサークル(環状列石)と同じもので、そこを神聖清浄な場所として保存するための境界石を人工的に組んで結界を形成して「神域」を示している祭祀遺跡であり、神籬とともに神社の原始形態とされている。

現在ではご神木などの樹木や森林または、儀式の依り代として用いられる榊などの広葉常緑樹を、神籬信仰や神籬と言い、山や石・岩などを依り代として信仰することを磐座という傾向にある。

街道沿いにある巨石では、馬頭観音が彫られたり、有名な武士が馬をつないだといった伝説が付されたりしたものもある。これらを含む磐座・巨石信仰を縄文時代に遡りうるとして、人工的に配列された磐座もあり、その配置が特定の図形や方位、あるいは星座の形などを表わしていると主張する研究団体(イワクラ学会)がある[2][3]。こうした見解に対して、そもそも磐座祭祀が開始されたのは古墳時代に入ってからであるとの指摘[4]や、巨石を人工物とする説への批判がある[5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E5%BA%A7

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