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2023/07/22 (Sat) 09:00:26
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富雄丸山古墳出土蛇行剣と盾形銅鏡
橿考研チャンネル
2023/01/25
https://www.youtube.com/watch?v=-YK8IDr5bOY
奈良市教育委員会が令和4年10月5日から実施している富雄丸山古墳の発掘調査(第6次調査)において、造り出しで確認された粘土槨から、長大な蛇行剣と、類例のない鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡が出土しました。
富雄丸山古墳は長◯彦の墓か?/ニギハヤヒを探せ03
もぎせかチャンネル
2023/04/01
https://www.youtube.com/watch?v=BiLJl8JPx84
「ゼロ代天皇」の墓/ニギハヤヒを探せ01
もぎせかチャンネル
2023/03/28
https://www.youtube.com/watch?v=XYcVyShBjaw
「いわふね」の謎。磐船神社/ニギハヤヒを探せ02
もぎせかチャンネル
2023/03/29
https://www.youtube.com/watch?v=8DJAwUJkXKk
磐船神社
2023.4.1から、お一人でも洞窟巡りができるそうです。
ニギハヤヒの宮殿はここだ!/ニギハヤヒを探せ04
もぎせかチャンネル
2023/04/02
https://www.youtube.com/watch?v=pRO_tN8ApU8
矢田坐久志玉比古神社
ニギハヤヒの息子が新潟を開拓した!/弥彦神社
もぎせかチャンネル
2023/05/14
https://www.youtube.com/watch?v=1VStgdXIxSg
彌彦神社(公式)
https://www.yahiko-jinjya.or.jp
もぎせかチャンネル
https://www.youtube.com/@maomao96363/videos
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2023/07/22 (Sat) 09:48:47
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朝鮮の無文土器時代人が縄文人を絶滅させて日本を乗っ取った
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007681
被差別同和部落民の起源 _ 朝鮮からの渡来人が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007586
天皇の姓は阿毎氏(あまし/あめし/あまうじ/あめうじ)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/232.html
天皇はソウル出身の漢民族
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/233.html
天皇家は伊都国を本拠地として奴隷貿易で稼いでいた漢民族系朝鮮人
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007686
天皇家は2世紀に伊都国から日向・大和・丹後に天孫降臨した
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007799
天皇家は弥生時代後期にソウルから福岡県の伊都国に植民した
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/234.html
天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html
神武東征 _ 当時世界最大の水銀生産地は奈良で、神武東征も水銀獲得の為だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007798
邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007801
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/246.html
神武って何した人?
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/238.html
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2023/07/22 (Sat) 13:33:09
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2013-02-11 神武って何した人?
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130211/1360564621
今日は「建国記念の日」。敗戦までの「紀元節」の名前だけ変えて価値中立性を装った、戦後日本の偽装記念日の一つである。
紀元節が2月11日なのは、日本書紀で神武が「辛酉年春正月 庚辰朔」(辛酉の年の1月1日)に即位したと書かれており、これが西暦紀元前660年の2月11日に当たると、明治初期に机上の計算をしたためだ。
では、天皇家の初代であり、建国の祖とされるこの神武なる人物はいったいどんなことをした人なのだろうか。
テキストは『古事記』、ガイドに古田武彦『盗まれた神話』『古代は輝いていた』を使って、具体的に見てみよう。
(「神武天皇」というのは後代になってつけられた諡号で、生きていたときの名は「神倭伊波礼毘古(カム・ヤマト・イワレビコ)」ほか、いろいろな名があるのだが、ここでは「神武」で統一する。)
さて、古事記の「神武記」は、いきなり神武とその兄(五瀬)との謀議シーンから始まる。
神倭伊波礼毘古の命、その同母兄五瀬の命と二柱、高千穂の宮にましまして議りたまはく、「いづれの地にまさば、天の下の政を平けく聞しめさむ。なほ東のかたに、行かむ」とのりたまひて、すなはち日向より発たして、筑紫に幸行でましき。
青年だった五瀬と神武は、このまま九州の高千穂の地にいても自分たちの思うようにならない、つまり将来の展望が開けないから、東方に新たな支配地を得ようと、侵略行を決意するわけです。
かれ豊国の宇沙うさに到りましし時に、その土人くにびと名は宇沙都比古うさつひこ、宇沙都比売うさつひめ二人、足一騰あしひとつあがりの宮を作りて、大御饗おほみあへ献りき。其地より遷移りまして、竺紫の岡田の宮に一年ましましき。またその国より上り幸でまして、阿岐の国の多祁理たけりの宮に七年ましましき。またその国よ遷り上り幸でまして、吉備の高島の宮に八年ましましき。
決意はしたものの、大王でも何でもない五瀬と神武には、いきなり大遠征を行えるような力はない。そこで、十数年かけて九州や瀬戸内海各地の豪族たちからの支援を獲得し、徐々に実力を蓄えていきます。
かれその国より上り行でます時に、浪速なみはやの渡を経て、青雲の白肩の津に泊てたまひき。この時に、登美とみの那賀須泥毘古ながすねびこ、軍を興して、待ち向へて戦ふ。ここに、御船に入れたる楯を取りて、下り立ちたまひき。かれ其地に号けて楯津たてづといふ。今には日下くさかの蓼津たでづといふ。ここに登美毘古と戦ひたまひし時に、五瀬の命、御手に登美毘古が病矢串いたやぐしを負はしき。かれここに詔りたまはく、「吾は日の神の御子として、日に向ひて戦ふこと良はず。かれ賎奴が痛手を負ひつ。今よは行き廻りて、日を背に負ひて撃たむ」と、期ちぎりたまひて、南の方より廻り幸でます時に、血沼ちぬの海に到りて、その御手の血を洗ひたまひき。かれ血沼の海といふ。其地より廻り幸でまして、紀の国の男をの水門みなとに到りまして、詔りたまはく、「賎奴が手を負ひてや、命すぎなむ」と男建おたけびして崩りましき。かれその水門に名づけて男の水門といふ。陵みはかは紀の国の竈山かまやまにあり。
そしていよいよ近畿(河内国)に突入。しかし、当然この地は無主の地などではありません。長らくこの地を統治してきたナガスネビコとの戦闘になります。
結果、おそらく侵略軍の総大将だったであろう五瀬は矢を受けて重傷を負い、死んでしまいます。大敗です。
ナガスネビコと正面から戦っても勝てないと覚った神武は作戦を変更。大きく紀伊半島を迂回し、背後にあたる熊野方面から奈良盆地への侵入を図ります。また、敵方に内通者を作り、その手引きで相手を陥れたり、和平を装って騙し討ちにする、といった手口を駆使していきます。
かれここに宇陀に、兄宇迦斯えうかし弟宇迦斯おとうかしと二人あり。(略)ここに兄宇迦斯、(略)「待ち撃たむ」といひて、軍を聚あつめしかども、軍をえ聚めざりしかぱ、仕へまつらむと欺陽いつはりて、大殿を作りて、その殿内に押機おしを作りて待つ時に、弟宇迦斯まづまゐ向へて、拝みてまをさく、「僕が兄兄宇迦斯、天つ神の御子の使を射返し、待ち攻めむとして軍を聚むれども、え聚めざれぱ、殿を作り、その内に押機を張りて、待ち取らむとす、かれまゐ向へて顕はしまをす」とまをしき。ここに大伴の連等が祖道の臣の命、久米の直等が祖大久米の命二人、兄宇迦斯を召びて、罵言のりていはく、「伊いが作り仕へまつれる大殿内には、おれまづ入りて、その仕へまつらむとする状を明し白せ」といひて、横刀たちの手上握り、矛ゆけ矢刺して、追ひ入るる時に、すなはちおのが作れる押に打たれて死にき。ここに控ひき出して斬り散はふりき。かれ其地を宇陀の血原といふ。然してその弟宇迦斯が献れる大饗をぱ、悉にその御軍みいくさに賜ひき。
奈良県宇陀郡の豪族エウカシは、その弟オトウカシの裏切りを利用して惨殺。
其地より幸行でまして、忍坂おさかの大室に到りたまふ時に、尾ある土雲八十建やそたけるその室にありて待ちいなる。かれここに天つ神の御子の命もちて、御饗を八十建に賜ひき。ここに八十建に充てて、八十膳夫かしわでを設けて、人ごとに刀佩けてその膳夫どもに、誨をしへたまはく、「歌を聞かば、一時共もろともに斬れ」とののりたまひき。かれその土雲を打たむとすることを明して歌よみしたまひしく、
忍坂の 大室屋に
人多さはに来入り居り。
人多に 入り居りとも、
みつみつし 久米の子が、
頭椎くぶつつい 石椎いしつついもち
撃ちてしやまむ。
みつみつし久米の子らが、
頭椎い 石椎いもち
今撃たぱ善らし。
かく歌ひて、刀を抜きて、一時に打ち殺しつ。
奈良県桜井市忍坂では、和解の宴会をするからと言ってその地の族長たちを集めておいて、給仕に化けた兵隊に合図して一斉に斬り殺させる。
かれかくのごと、荒ぶる神どもを言向け和し、伏まつろはぬ人どもを退け撥はらひて、畝火の白梼原かしはらの宮にましまして、天の下治らしめしき。
このように、何の道理もなくいきなり軍を率いて他人様の土地に侵入し、血みどろの殺戮を繰り広げた末に、奈良県橿原市付近に拠点を築き、周辺一帯を支配する豪族となったわけです。
もちろん、実態としては奈良盆地の一部を支配しているだけであっても、記紀のイデオロギーによれば、それは「天の下治らしめしき」ということになります。
いやぁ、実に立派な初代天皇ですね。
※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)による。
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130211/1360564621
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2016-04-12 神武天皇没後2600年式年祭という差別の祭典
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/04/12/220842
4月3日、奈良県橿原市の「神武天皇陵」で、神武の没後2600年を祭るという宮中祭祀「式年祭」が行われ、当代天皇・皇后もこれに参列した。
朝日新聞(4/3):
奈良県を訪問中の天皇、皇后両陛下は3日、初代天皇とされる神武天皇の没後2600年にあたり、橿原市の神武天皇山陵に参拝した。天皇家の行事「宮中祭祀(さいし)」の一つで、秋篠宮ご夫妻も同行。皇太子ご夫妻は両陛下の名代として、皇居・宮中三殿の皇霊殿に参拝した。
産経新聞(4/3):
初代天皇である神武天皇の式年祭が、大正5年以来100年ぶりに行われた。皇祖の命日に御霊を慰める式年祭は、宮中祭祀(さいし)の中でも「大祭」に位置付けられる重要な儀式。天皇、皇后両陛下は大正天皇、貞明皇后の前例にならい、奈良県橿原市の神武天皇陵まで赴き、厳かに拝礼された。
(略)
神武天皇 (略)日本書紀によると、太子となって九州から東遷し、大和を平定。紀元前660年に橿原宮で即位し、初代天皇となった。紀元前584年に127歳で崩御したとされる。(略)
後に「神武」という漢風諡号を贈られたこの男が何者で、何をしたのかについては、既に何度か書いてきた。
•神武って何した人?
•神武は結局ナガスネビコには勝てなかった
•「建国記念の日はなに天皇が即位した日?」 正解は「そんな天皇はいない」
•GoogleMapで「欠史八代」を歩く
かいつまんで言えば、弥生後期(3世紀頃)、地元九州では大した出世の望めない傍流の血筋だった男が手勢を率いて近畿に攻め込み、血みどろの殺戮戦を繰り広げたあげく、かろうじて奈良盆地の一角(橿原市付近)に拠点を築き、周辺一帯(せいぜい10キロ四方程度)を支配する地方豪族となり、大和の人々の怨嗟と憎悪に取り囲まれながらそこで死んだ。これが、同時代頃にはサノ、ワカミケヌ、ヒコホホデミ、イワレビコなどと呼ばれていたこの男の実像である。時代も何百年も違うので「没後2600年」などお笑い種だし、そもそも神武は「天皇」などと呼べるような存在ではなかった。
しかし、この「式年祭」なるものの愚劣さはそれだけにとどまらない。祭祀の場となった「神武天皇陵」自体、問題大ありなのだ。
まず、神武の埋葬地について、記紀はそれぞれ次のように記載している。
古事記(神武記):
およそこの神倭伊波礼毘古の天皇、御年壹佰參拾漆137歳、御陵は畝火山の北の方白檮かしの尾の上にあり。
日本書紀(神武紀):
七十有六年の春三月の甲午の朔甲辰に、天皇、橿原宮に崩りましぬ。時に年一百二十七歳。
明年の秋九月の乙卯の朔丙寅に、畝傍山東北陵に葬りまつる。
この埋葬地が具体的にどこだったのかは、既に室町時代頃には分からなくなっていた。いったん、元禄期に四条村の福塚と呼ばれていた高さ3mほどの塚が神武稜とされたが、位置的に「畝傍山東北陵」と言うには離れすぎていることから後に否定され、候補地として次の二箇所が残った。
1.畝傍山の東北山麓に位置する丸山古墳
2.畝傍山山麓から北東に300mほど離れた小字ミサンザイ(別名神武田じぶでん)
畝傍山と両者の位置関係は次のようになる[1]。
丸山は畝傍山の北側に張り出した尾根のほとりにあり、「畝火山の北の方白檮の尾の上」という古事記の記述に良く適合し、日本書紀の言う「畝傍山東北陵」という呼称にもふさわしい。実際、ここが神武陵の候補地としては最有力だったのだが、幕末の文久2(1862)年、こちらではなく、田の中に孤立した小塚であるミサンザイのほうが神武陵と決定された。その理由は、次のようなものだった[2]。
問題となるのは,神武陵の候補地の丸山が被差別部落である洞に隣接していたことである。鈴木良が採集した言い伝えによると,神武陵探索の勅使を迎えるのに,200余戸の部落を「ムシロ」で囲い,部落の上手に一夜づくりの新道をつくったという(「天皇制と部落差別」) 。また陵墓の治定(決定)に発言力をもった国学者の谷森善臣は,朝廷に提出した「神武天皇御陵考」(『谷森家旧蔵関係史料』上,宮内庁書陵部所蔵,谷函249号)のなかで,
然るに洞村之穢多治兵衛と申者,威霊なる地之由虚言申者有之ニ付き,
近年神武帝殯殿之跡抔と申立候儀も出来候得共難心得儀ニ御座候
「洞村の穢多治兵衛」という者が,丸山を「威霊なる地」であると虚言していると,治定にもっとも影響力のあった谷森は非難している。最有力地の丸山は,洞部落に隣接するゆえに,排除されたのである。
かくして神武陵は、差別ゆえに神武の埋葬地ではない可能性の高いミサンザイに誤って決定された。
いや、これは単なる「誤り」ではないのかもしれない。この「文久の治定」に約半世紀先立って儒学者蒲生君平(1768-1813)が行った天皇陵調査で、洞村について「相傳つたうるに、その民故もと神武陵の守戸しくなり。凡およそ守陵の戸はみな賎種。本もと罪隷をもって没入したる者は郷に歯ならばず」と報告されていた[3]。このことを、神武陵の治定に関わるほどの学者たちはみな知っていたはずである。彼らは、墓守集団としての洞村を従える丸山こそが神武陵に違いないと薄々感じていながら、被差別部落に隣接する古墳を天皇陵とすることを嫌って、あえてミサンザイを選んだのではないか。
ちなみに、この洞村は、後にさらなる悲劇に見舞われる。「神武御陵兆域※1ヲ眼下ニ見ルノ地位ニアリテ恐懼ニ堪ヘサルコト」[4]という理由で、1917年から20年にかけて強制的に移転させられたのである。この事件を小説『橋のない川』で描いた住井すゑは、次のように語っている[5]。
住井 あのう部落の移転なんかはね許されることじゃないですよね。
古田 ええ、ほんとほんと。
住井 その神武天皇の御陵にしたのが明治。出来上がったのが明治四年でしょ。それで大正の始めになって部落がそこにいるのは畏れ多いからって強制立ち退き食わすんですから、そんならそこに御陵作らなければいいんですよね。ところが大正になるともうみな忘れちゃって、昔っからその御陵はそこにあって部落は後で住んだような話に変わってんですよね。そいで強制立ち退きさされて近鉄の沿線にもう乞食小屋みたいに何百戸か住んでたわけです。今まあそれなりの家を建てて住んでますけどね。
しばし沈黙
洞村は、丸山を「眼下に見る」位置にあるわけではない。部落差別の結果、間違った場所に神武陵が作られ、今度はそれを見下ろす位置に部落があるのはけしからんといって移転させられたわけである。いま、旧洞村は、丸山古墳とともに、「神武天皇陵」の周囲に人工的に作られた深い森の中に埋もれている。
神武天皇陵付近 -- Google Mapより
「天皇」などではなかった一地方豪族の墓を、差別ゆえに間違った場所に仰々しくでっち上げ、差別ゆえに墓守の民をその住処から追い払い、デタラメな年代比定に基いて「没後2600年」と称する祭祀を行う。まさに、天皇制というものの愚劣さを象徴する差別の祭典である。
【2016/4/17追記】
『皇陵史稿』という、洞村強制移転のほんの数年前の1913年に出版された天皇陵問題の研究書がある。
この本の中で著者は、洞村についてこう書いている[6]。重大な内容なので、全文引用する。
畝傍山は、なつかしい山である。
理屈は知らず、唯何となく、恋しく、懐つかしい「何事のおはしますかは知らねども」である。
理屈から云へば、畝傍山は何でも無いものかも知れん、畝傍山の宮居、畝傍山の御陵、と云ふのも、畝傍山を目安に取つただげて、畝傍山それ自身は何でも無かつたかも知れん。
が、かやうな切つても血の出ん、冷酷な、三百的な理屈は、此聖祖開国の地に、適用したく無い「畝傍山みればかしこし」と、宣長の吟じたのは、誠に国民の代表的讃嘆の言葉であると思ふ、吾等は、窮天極地、此山の尊厳を持続して、以て天壌無窮に、日東大帝国開創の記念としたいと思ふ。
驚く可し。神地、聖蹟、この畝傍山は、甚しく、無上、極点の汚辱を受けて居る。
知るや、知らずや、政府も、人民も、平気な顔で澄まして居る。
事実は、こうである。
畝傍山の一角、しかも神武御陵に面した山脚に、御陵に面して、新平民の墓がある、それが古いのでは無い、今現に埋葬しつつある、しかもそれが土葬で、新平民の醜骸はそのまま此神山に埋められ、霊土の中に、爛れ、腐れ、そして千萬世に白骨を残すのである。
士臺、神山と、御陵との間に、新平民の一団を住はせるのが、不都合此上なきに、之に許して、神山の一部を埋葬地となすは、事ここに到りて言語同断なり。
聖蹟図志には、此穢多村、戸数百二十と記す、五十余年にして、今や殆ど倍数に達す、こんな速度で進行したら、今に霊山と、御陵との間は、穢多の家で充填され、そして醜骸は、おひおひ霊山の全部を侵蝕する。
(予が大和紀行中の一節)
学者でさえこれほど露骨な内容を書くのである。当時、被差別部落がどれほどの侮辱と蔑みに晒されていたかがよく分かる。洞村が強制移転させられたとき、特にこの墓地は、「一片の骨さえも残してはならない」と徹底的に掘り返された[7]という。
[6] 後藤秀穂 『皇陵史稿』 木本事務所 1913年 P.198
[7] まれびと 「おおくぼまちづくり館と洞村跡地」
【追記終り】
※1 墓域のこと。
[1] 高木博志 『近代における神話的古代の創造』 京都大学人文科学研究所 人文学報 2000年3月 P.19
[2] 高木 P.23
[3] 蒲生君平 『山陵志』 1803年または1822年
[4] 高木 P.33
[5] 住井すゑ・古田武彦・山田宗睦 『天皇陵の真相』 三一新書 1994年 P.73
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/04/12/220842
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神武は結局ナガスネビコには勝てなかった
http://vergil.hateblo.jp/entry/2015/11/07/161559
先日、TLにこういうツイートが流れてきた。兄の五瀬とともに九州からやってきたイワレビコ(神武)が近畿に侵入したとき、最大の敵として立ちふさがった(トミノ)ナガスネビコ(記:登美能那賀須泥毘古 紀:長髄彦)についての話である。
天孫饒速日命を奉じて神武天皇の東征に抵抗した大和の豪族長髄彦は、神武側に寝返った饒速日に殺されてしまう。饒速日は河内の石切劔箭神社に祀られているが、生駒山中腹にある上之社の境内地が、昭和末期の近鉄新生駒トンネル工事の落盤で大陥没(続
国譲り神話にしろ「天つ神」以前からあった日本の信仰を「国つ神」と呼び変え、ルーツも実は天つ神にあったかのように語り、歓迎されながら受け入れられたように語ってるだけには見れる。そう考えるとキリスト教による異教の悪魔化や聖人信仰に取り入れての布教とさして変わりはしない。
確かに、日本書紀には、ニギハヤヒ(記:邇藝速日 紀:饒速日)がナガスネビコを殺して神武に降ったと書かれている。
日本書紀(神武即位前紀):
饒速日命、本より天神あまつかみ慇懃ねむごろにしたまはくは、唯天孫のみかといふことを知れり。且また夫かの長髄彦の禀性ひととなり愎佷いすかしまにもとりて(ねじけていて)、教ふるに天人きみたみの際あひだを以てすべからざることを見て、乃ち殺しつ。其の衆もろびとを帥ひきゐて帰順まつろふ。天皇、素もとより饒速日命は、是天より降れりといふことを聞しめせり。而して今果して忠効を立つ。則ち褒ほめて寵めぐみたまふ。此物部氏の遠祖なり。
しかし、古事記ではだいぶ様子が違っているのだ。
古事記(神武記):
然ありて後に、登美毘古を撃ちたまはむとする時、歌よみしたまひしく、
みつみつし 久米の子らが
粟生あはふには 臭韮かみち一茎もと、
そねが茎 そね芽繋ぎて
撃ちてしやまむ。(歌謡番号12)
また、歌よみしたまひしく、
みつみつし 久米の子らが
垣下に 植ゑし山淑はじかみ、
口ひひく 吾は忘れじ。
撃ちてしやまむ。(歌謡番号13)
また、歌よみしたまひしく、
神風の 伊勢の海の
大石に はひもとほろふ
細螺しただみの、いはひもとほり
撃ちてしやまむ。(歌謡番号14)
(別の豪族兄師木えしき弟師木おとしきについての歌謡 -- 略)
かれここに邇藝速日の命まゐ赴むきて、天つ神の御子にまをさく、「天つ神の御子天降りましぬと聞きしかば、追ひてまゐ降り来つ」とまをして、天つ瑞しるしを献りて仕へまつりき。かれ邇藝速日の命、登美毘古が妹登美夜毘売とみやびめに娶ひて生める子、宇摩志麻遅うましまぢの命。こは物部の連、穂積の臣、婇臣が祖なり。かれかくのごと、荒ぶる神どもを言向け和し、伏まつろはぬ人どもを退そけ撥はらひて、畝火うねびの白檮原かしはらの宮にましまして、天の下治らしめしき。
「撃ちたまはむとする時」というのは、これから戦いを始めようとする時、である。登美毘古(ナガスネビコ)との開戦を前に「撃ちてしやまむ」と歌って盛んに気勢を上げているわけだが、そこからいきなり、戦いの描写もなく、「勝った」も「殺した」もなく、ニギハヤヒの帰順の話になっている。これはどういうことなのか。
普通に考えれば、それは「勝てなかったから」だろう[1]。
その三が、もっとも重要だ。冒頭に「将撃登美毘古之時」とあり、「対、登美毘古戦」の開始前の歌だ。そしてその後の歌はない。つまり、「勝利の歌」もしくは「勝利後の歌」を欠いているのである。地の文でも、「登美毘古を斃した」とは記していないのだ。これは何を意味するか。
わたしには、その答えは一つだと思われる。「神武は敗けた」、あるいは「勝てなかった」のだ。なぜなら、実際は勝ったのに、その事実をカットする、あるいは書き忘れる、そんな史書があるだろうか。ありはしない。『古事記』が天皇家側の史書である以上、これは不可避の判断である。
歌の問題も同じだ。もしこれが後代の「造作」、もしくは挿入なら、なぜ勝利の歌を偽作、もしくは偽入しなかったのだろう。簡単なことだ。勝利前の歌は作れても、勝利後の歌は作れない。そんな不器用な「造作」者、あるいは半端な「挿入」者など、わたしには想像できない。
以上の考察の意味するところ、それは何か。神武は大和盆地に侵入した。それには確かに成功した。しかし、外部(大和盆地外)の勢力たる登美の長髄彦たちには勝ちえなかった。これがありていな状況だ。したがって、
故、此の如く、荒ぶる神等を言向け平和し、伏はぬ人等を退け撥ひ、
畝火の白檮原の宮に坐して、天の下を治らしき。(『古事記』神武記)
という、有名な一文も、この盆地内の支配を宣言したものにすぎなかったのである。
仮に神武がナガスネビコを倒していたなら、神武は河内をはじめとするナガスネビコの支配領域を手に入れていたはずである。しかし実際には、神武どころかその後も8代にわたって近畿天皇家は奈良盆地外に勢力を広げることができなかった。この点から見ても、神武がナガスネビコに勝てなかったのは明らかだろう。ニギハヤヒがナガスネビコを殺して投降したという日本書紀の記述は、神武の事蹟を誇張するために付加された作り話なのだ。
ちなみに、ニギハヤヒに関する記述は、これ以外にも古事記と日本書紀とで大きな違いがある。日本書紀では、まずニギハヤヒが先に天降り、ナガスネビコはこれに臣従していたことになっている。
日本書紀(神武即位前紀):
時に長髄彦、乃ち行人つかひを遣して、天皇に曰さく、「嘗むかし、天神の子有ましまして、天磐船に乗りて、天より降り止いでませり。号なづけて櫛玉饒速日命(略)と曰す。是吾が妹三炊屋媛みかしきやひめ(略)を娶りて、遂に児息みこ有り。(略)故かれ、吾、饒速日命を以て、君として奉つかへまつる。夫それ天神の子、豈あに両種ふたはしら有まさむや。奈何いかにぞ更に天神の子と称なのりて、人の地くにを奪はむ。吾心に推おしはかるに、未必為信いつはりならむ」とまうす。
一方古事記では、上で引用したとおり、ニギハヤヒが「天降った」のは神武より後で、またナガスネビコがこれに臣従したという記述もない。恐らくニギハヤヒは神武と違ってナガスネビコと敵対せず、妻と土地を与えられて共存していたのだろう。記紀ともにニギハヤヒが神武に帰順したことになっているのは、その子孫である物部氏などの有力豪族を天皇家に結びつけるために、先祖の代から天皇家に仕えていたことにしたのではないだろうか。
[1] 古田武彦 『古代は輝いていた(2) 日本列島の大王たち』 朝日新聞社 1985年 P.27
※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)に基き、一部変更・補足している。
※本記事中に引用した日本書紀の読み下し文は、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(一)』(岩波文庫 1994年)に基き、一部変更・補足している。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2015/11/07/161559
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ではこの機
(=日本国憲法公布の日)」である今日11月3日をかつての「明治節」に戻したい反動議員たちが集会を開いたそうだ。民の生活を良くするための努力は何一つしないくせに、旧大日本帝国の正当化にだけは実に熱心だ。このような者たちを国会議員でいさせておくことこそ国家的損失、税金の無駄使いというものだろう。
中でも我らが防衛大臣、稲田朋美氏の発言は傑作である。(朝日新聞 11/2)
稲田朋美防衛相も「神武天皇の偉業に立ち戻り、日本のよき伝統を守りながら改革を進めるのが明治維新の精神だった。その精神を取り戻すべく、心を一つに頑張りたい」と語った。
「神武天皇の偉業」ww
私は、後に「神武」と呼ばれることになる人物は3世紀頃に実在したと考えているが、この男がやったことは、『古事記』を素直に読み解けば以下のとおりである。
1.野心だけは満々だが九州では出世の望めない傍系の兄弟が、
2.各地の豪族たちから支援を獲得して軍勢を整え、大阪湾から近畿に突入
3.しかし待ち受けていたナガスネビコに敗れて総大将の兄は討ち死に
4.生き残った弟(神武)が紀伊半島を迂回して熊野方面から奈良盆地に侵入
5.だまし討ちと虐殺を繰り返したあげく、ようやく奈良盆地の一角を占拠
6.しかし結局そこから一歩も出られず、大和の人々の憎悪に囲まれたまま、一地方豪族として死んだ
もちろん、天皇に即位したなどというのは、後世の作り話である。
21世紀にもなって、いまだにこんなものを「偉業」だの「日本のよき伝統」だのと妄想する者たちが政権を握っているのだから、なんとも恐ろしい。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/11/03/091039
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初期天皇家の引っ越し事情w
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今日は紀元前660年のこの日に「神武天皇」が即位したという大嘘を根拠に明治クーデター政権が勝手に決めた「建国記念の日」なので、神武と初期天皇家に関するデタラメを一通り指摘しておくことにしよう。
■ 「神武天皇」などいなかった
まず初代の「神武」。
私は、記紀の神武説話のもととなった歴史上の人物は恐らく実在した(3世紀頃)と考えているが、この男は到底「天皇」などと呼べる存在ではなかった。記紀の説話を皇国史観イデオロギーに囚われずに読めば、この男は軍勢を引き連れて九州から近畿に攻め込み、血みどろの殺戮戦を繰り広げたあげく、ようやく奈良盆地の一角に拠点を確保した侵入者に過ぎない。
支配領域の広さから言っても、この男は当時の近畿にたくさんいた地方豪族の一人に過ぎず、天皇に「即位」したなどというのは大嘘である。
ついでに言うと、「神武」というのは後世になってつけられた諡おくりな(漢風諡号)であり、当時こんな名で呼ばれていたわけではない。本来の名前は「サヌ」だろう。
要約するとこんな感じだ。
1.野心だけは満々だが九州では出世の望めない傍系の兄弟が、
2.各地の豪族たちから支援を獲得して軍勢を整え、大阪湾から近畿に突入
3.しかし待ち構えていたナガスネビコに敗れて総大将の兄(イツセ)は討ち死に
4.生き残った弟(サヌ)が紀伊半島を迂回して熊野方面から奈良盆地に侵入
5.だまし討ちと虐殺を繰り返したあげく、ようやく奈良盆地の一角を占拠
6.しかし結局そこから一歩も出られず、大和の人々の憎悪に囲まれたまま、一地方豪族として死んだ
■ 初期天皇家の「非常に規模の小さな歴史」
サヌに続く8代の「天皇」については、ほとんど説話が伝えられていないが、各「天皇」がどこに拠点(宮)を置き、どこに葬られたかについては記紀に記載があるので、そこから彼らの足跡を辿ることができる。
この点に関して、評論家・哲学者の山田宗睦氏が興味深いことを述べている。戦前の皇国史観教育を受けて育った氏は、教えられたことをそのまま信じていたが、大学に入って『古事記』を手に実際に各「天皇」の「都」の地を訪ね歩いたところ、初期天皇家の歴史が「非常に規模の小さな」ものだったことに気がついたというのだ。[1]
山田 皇紀二千六百年のようなことに対して私は当時中学生だけれども、受けていた教育が教育だから何も疑問は持たなかったね。(略)神武天皇は実在していたと思っているし、綏靖・安寧全部いて、万世一系で昭和天皇まで来ているんだということも信じていた。(略)昭和18年10月に京都大学に入った時から、古事記を手にして古事記に書いてある通りに歩いて行くわけね。
林 そういう点では非常に身近かに古事記・日本書紀はマスターしているわけですね。
山田 そうだ。本当にあったことだと思っているから、初代の神武天皇から始めて次の天皇はどこへ都したのか、どこそこと書いてあるのを見てそこへ行ってね、なんだ、ほんのちょっとこの部落から次の部落へ、都を遷したなんて、こんな……。
林 (笑)。
山田 自分で歩いてみて初めてね、なんていうか非常に規模の小さな歴史なんだっていうことが、分かる。大学へ入ってもまだ書いた通り信じているわけだから、それが実際にそうやって歩いてみることで崩れていくわけですよ。
林 うーん。
山田 ああいうのはどういう体験かなあ。古事記そのものじゃなくて、古事記を読んで作られた天皇制イデオロギーを教えられているわけでしょう。だから古事記を読むことによってかえって習ったのとは違うじゃないか、という意識が出るわけですよ。何で女を奪い合って天皇がケンカをするんだとかね、何かそういうことが疑問になって出てくる。イデオロギーのこわさというか、古事記に書いてあることとも違うことを建て前として教えられていたのが、旧制高校で古事記を読んで少し違うんじゃないかと思いだす。そして京都大学へ入って、古事記を持って歩いてみたら、何だ日本の歴史ってのは何か引越し位の、都を遷したなんてのと違うじゃないかというふうに思い始めた。
一同 (笑)。
では、実際にその歴史の規模を確認してみよう。
サヌ(神武)からオホヤマトタラシヒコクニオシヒト(孝安)までの各「天皇」の「宮」の位置は、『古事記』[2]によれば次のようになる。
代 名前 宮 比定地(奈良県)
1 サヌ(神武) 畝火(うねび)の白檮原(かしはら)の宮 橿原市畝傍山東南
2 カムヌマカワミミ(綏靖) 葛城(かづらき)の高岡(たかをか)の宮 御所市森脇
3 シキツヒコタマテミ(安寧) 片塩(かたしほ)の浮穴(うきあな)の宮 大和高田市三倉堂付近
4 オホヤマトヒコスキトモ(懿徳) 軽(かる)の境丘(さかひをか)の宮 橿原市大軽町見瀬付近
5 ミマツヒコカヱシネ(孝昭) 葛城(かづらき)の掖上(わきがみ)の宮 御所市池之内付近
6 オホヤマトタラシヒコクニオシヒト(孝安) 葛城(かづらき)の室(むろ)の秋津島(あきつしま)の宮 御所市室
■ Google Mapで根拠地の移動を確認してみる
これをGoogle Map上にプロットしてみると、各世代ごとの根拠地の移動は次のようになる。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/02/11/122452
サヌ(神武)→ カムヌマカワミミ(綏靖)
カムヌマカワミミ(綏靖)→ シキツヒコタマテミ(安寧)
シキツヒコタマテミ(安寧)→ オホヤマトヒコスキトモ(懿徳)
オホヤマトヒコスキトモ(懿徳)→ ミマツヒコカヱシネ(孝昭)
ミマツヒコカヱシネ(孝昭)→ オホヤマトタラシヒコクニオシヒト(孝安)
全体をまとめてみても、縦横7~8キロ程度の範囲を行ったり来たりしているだけである。
山田氏の言うとおり、ナントカ天皇が「◯◯の宮にましまして、天の下治しらしめしき」などと大仰に書かれている初期天皇家の歴史が、実際にはいかに規模の小さいものだったかがよく分かる。
[1] 住井すゑ・古田武彦・山田宗睦 『天皇陵の真相』 三一書房 1994年 P.132-133
[2] 武田祐吉・中村啓信 『新訂 古事記』 角川文庫 1982年 P.83-89
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/02/11/122452
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大和には天皇家より古い「万世一系」の家があった
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/04/16/100219
「神武天皇陵」問題の記事でも引用した住井すゑ氏と古田武彦氏の対談本の中に、非常に面白いエピソードが書かれている[1]。
古田 そうですか。いやァあのね、私吉野でね、古事記に案内した人出て来ますね、あの子孫だっていう材木問屋の社長さんいましてね、額にかけて非常に自慢しとられた。ところでその後帰って来てからね、私のところへ知らぬある人から手紙が来まして、その人は京都大学の工学部へ入ったんだけど、例の学園闘争かなんかでね、途中でやめて材木会社に入ったと。そして木材の買付けで吉野へ行ったと。そしてある農家の家に泊ったと。でその農家の主人と酒飲んで話してるうちにその農家の主人が泣き始めるわけ、なんでかというたら「私の先祖は神武天皇が入って来た時に特に撃退してこれを食い止めた家なんだ」と、「そういうことをね、近所は皆知っとるよ、だからもう本当にね、戦争中はつらかった」と。
住井 はあァ。
古田 あれは逆賊の家や。それが敗戦になってやっとほっとしたけど、今でもつらい、と言ってね酒飲んでさめざめと泣くんだそうですよ。もう徹夜で語ってくれたそうです。ところがね、その聞いた方の人は、神武天皇は架空だと思ってるわけ、津田左右吉のあれで。だから、何この人言ってんだろうと思うてね……。
住井 ワハハハ……。
古田 私の本『盗まれた神話』というのを読んだわけです。そしてさっきのような神武はリアルだというのを読んでね、ああそうかと、それならあのおやっさんの気持もわかる、というんで私に調査に行ってほしいというお手紙をいただいたんです。だからなんか、そういうね、大和っていうのはいまだにそういうの生き残ってるんですね。
住井 残ってますね、ええ。
この農家のご先祖は、外来の侵略者であるイワレビコ(神武)たちと戦い、愛する郷土の土地と人々を守ったわけである。実際、古事記を見ると、吉野は神武の侵入経路上に名は出てくるが、神武が橿原に拠点を築いた後は地名として出てこない。次に「吉野」が現れるのは、ずっと後の応神天皇(15代)の時代である。少なくとも神武から数世代の初期の頃は、吉野はまだ近畿天皇家の支配領域には入っていなかったと思われる。
近畿天皇家の始祖は神武と言われているが、実際には仲哀(14代)→応神(15代)、武烈(25代)→継体(26代)と王朝交替を繰り返しており、実態としては決して「万世一系」などとは言えない。一方、この農家のご先祖は、はるか昔から大和に根付いて暮らし、侵略者神武と戦って郷土を守り、その後もずっとこの土地で代を重ねてきた。これこそが、誇るべき真の「万世一系」ではないだろうか。
[1] 住井すゑ・古田武彦・山田宗睦 『天皇陵の真相』 三一新書 1994年 P.91-93
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/04/16/100219