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冬至と夏至の古代太陽信仰

1:777 :

2023/07/21 (Fri) 20:00:39

縄文族ネットワーク [太陽の道]コミュの冬至と夏至の古代太陽信仰
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冬至と夏至の古代太陽信仰

mixiユーザー
2009年07月09日 17:20
古代人はことのほか、この冬至と夏至を死と再生になぞらえ、遺跡に刻み正確に観測して盛大なお祭りをしてきました。
世界中で今も昔も太陽を崇拝する民族は各地に存在し、日本でもかって太陽崇拝を行っていた痕跡がさまざまな形で残っています。

また、冬至は一年中で太陽が一番弱くなると見られていて、この日を境にして太陽が再生し復活すると考えられていました。
人間の生命のよみがえりに重ね合せて、生命の復活を願う祭を行いました。
陰と陽で世界を見る宇宙観の言葉に「一陽来復」がありますが、これは冬至の日に陰と陽が逆転し「地中に一陽が宿る」ということを意味します。

冬至の日を境に日がまた伸びはじめ、「最初の夏の一粒」が地中にできて動きはじめます。
本格的な夏のはじまりを告げる夏至の日には、「最初の冬の一粒」が降りてきて夜が最も短くなるのです。

地球と太陽の位置関係が変わる冬至と夏至は、信仰や生活の仕方は違っても自然とともに生きているかぎり、太陽と地球の位置関係は地球に生きる人にとってはきわめて重要なターニングポイントでした。


◆冬至

北半球の諸民族の間には冬至が太陽の誕生日だとする思想があり、冬至を祝う行事はかなり広く行われてきました。
クリスマスも元々は冬至祭として太陽の復活を祝う西洋土着の行事でした。
救世主キリストを太陽になぞらえ、太陽の誕生日と考えられていた「冬至節」と結び付けたという説もあります。
この時期に行なわれるほとんどの風習や行事は、もともとは冬至のお祭りに由来しているといってもいいくらいだと思います。

▽冬至とクリスマス
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中国ではこの日を節日(せちにち)として祝う習慣があり、特にその日が陰暦の11月1日に当たると「朔旦(さくたん)冬至」といって宮中では祝宴が行われました。

▽古代中国暦
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日本でも各地に風習が残っており、この日は「冬至粥」といって小豆粥を食べるところや、コンニャクを食べるところなどがあります。
また「柚子湯」の風習は、古くは禊ぎの意味もありました。
そして、「冬至カボチャ」の風習も広く伝わっています。
さらに「ン」の付く食べ物、例えばニンジン、レンコン、ミカンなどを7種食べると幸せが訪れるともいいます。

▽冬至の鎮魂(タマフリ)と新嘗(ニイナヘ)
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▽冬至とゲータ-祭り
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=12997249&comm_id=1581098
▽朝鳥明神の冬至祭(岐阜県揖斐川町)
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=14289936&comm_id=1581098


◆夏至

古代人は太陽を観測するため様々な方法を考え出し、影の長さを利用する太陽観測棒は世界各地に残っています。
南米のインカ文明でも夏至に太陽神をあがめる大祝典があり、貴族や高官がその首都クスコに集まりました。

夏至や冬至の太陽の日の出線を示す有名な史跡に、イギリスのソールズベリにあるストーン・ヘンジがあります。
紀元前1900年頃に形成されたとされるこのストーン・サークルの北東方向には、夏至の太陽の日の出線方位が開き、太陽観測の要石があり、太陽祭祀が行われたのではと推測されています。

▽古代ケルト暦
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多くのキリスト教国では夏至を「聖ヨハネの祭り」として祝っています。
もともとは、ヨーロッパ各地に夏至の日に樹を立てその周りで踊る風習がありました。
樹の柱には白樺の葉や草花で飾り付けられ、聖霊が宿ると考えられていた。
植物の聖霊を人格化した儀式として模擬結婚式があり、豊作を祈りました。
言伝えでは、夏至祭の夜に枕の下に9種類の花を置いて寝ると、男性は将来の運命、女性は婚約者の夢が見られるとされました。

北極圏全域では、この日に白夜となります。
長く暗く寒い冬を過ごすスカンジナビアの北欧では、今でも夏至を祝うお祭りが盛大に行われます。
この習慣は15~16世紀にドイツから伝わってきたといわれています。
昔は「葉男」と呼ばれるシダで仮装した子供たちが行列しましたが、これもドイツ、スイス、イギリスの「Jack in the green」と共通しています。

この日は白樺の木で作ったマイストング(夏至柱)を囲んでフォークダンスを踊り、庭で摘んだイチゴや酢漬けのニシンを食べて夏の訪れを祝います。
女性たちが中心になって白樺の枝葉を編んでこしらえる冠リース作りから始まります。
その後、花や葉で飾った十字架の形に似せた夏至柱(白樺の木)を男性たちが中心になって立ち上げます。

スウェーデンでは村の中心にシンボルとして翌年の夏至祭まで柱が立てられます。
その後夏至柱を囲んで輪になり、フォークダンスを踊ります。
一晩中、踊り続ける村もあるようです。


沖縄のグスクは夏至の日の出の方に向いているとされています。
特にその中でも玉城(タマグスク)の門の形はゴホウラ形に彫り込まれ、そこから夏至の太陽が差し込みます。

▽沖縄・玉城城で夏至祭♪【夏至著(ゲシッチョ)さん】
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=17856308&comm_id=1581098

伊勢の二見浦では夏至の時期だけ夫婦岩の間から朝日が昇ります。
そしてこの海中には興玉神石(沖の石)があり、昔からその沖の石は常世の国から神が寄りつく聖なるところといわれてきました。
夫婦岩はその鳥居と見なされていました。

▽伊勢のアマテルと「太陽の道」
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=12941004&comm_id=1581098


弥生時代に入っての稲の栽培では、夏至が重要な農業暦の一日となりました。
古代のシャーマン(巫術師)はこの日を人々に告げ田植えの督促をしたといわれます。

冬至にかぼちゃを食べるように、この日も何かを食べる習慣があります。
そろそろ田植え休みで梅雨明けとなる頃、何を食べるかは地方によってまちまちです。
例えば、「無花果田楽」を食べる風習。
麦の収穫時期なので「麦もち」を作るという風習。
関西地方ではタコの八本足のようにイネが深く根を張ることを祈願して「タコ」を食べます。
福井地方では「さば」を食べたりもするそうです。



コメント(24)


[1] mixiユーザー
11月20日 12:31
このトピは冬至と夏至をわかりやすく知るための突破口として、当コミュ内の関連するトピへのリンクが目的としています。

本文はまだまだ書きかけですので、ぜひ情報をお寄せください!
イイネ!コメント
[2] mixiユーザー
11月20日 22:37
こんにちは。いつも珍しい情報ありがとうございます。

前に青森三内丸山へ行った時に、ガイドさんが言ってました。
三内丸山に、大木で再現したかなり高い有名な塔が、あります。あの塔も冬至の日の太陽が昇る位置にあって、下から上へ太陽が昇ると言ってました。世界的にだなんて不思議ですねー。
イイネ!コメント
[3] mixiユーザー
11月21日 20:49
>mio さん

はじめましてのトピにもコメントいただきましたね。
こちらこそ、ありがとうございます!

青森は非常にエネルギーの高いところなんでしょうね。
南の巨石に北の巨木の文化。
縄文のころは、まさしく世界に向けての発信基地だったと思います。
ぜひ、三内丸山のトピお願いします!
イイネ!コメント
[4] mixiユーザー
11月21日 21:06
わたしのコミュにもリンクさせていただきましたハート

ありがとうございます顔(願)揺れるハート

10年前、約二年くらい縄文風水というのを学ばせていただいたのですが
初日に聞いた
夏至と冬至の話が忘れられず
特別な想いがあります
イイネ!コメント
[5] mixiユーザー
11月22日 22:14
>ジプシークィーン さん

こちらこそ、ありがとうございます!
縄文風水の夏至と冬至の話、また教えてくださ~いるんるん
イイネ!コメント
[6] mixiユーザー
12月17日 16:17
12月9日に発売されたアネモネ新年号に、銀河縄文人・夏至著さんの冬至の総まとめ的な記事「冬至は再生と復活の祝祭日」が載ってます!
http://www.anemone.net/product/752

コミュ「夏至著 倶楽部 gesittcyo)」にも、全文アップでシェアしてくれました。

♪^。^♪ アネモネに掲載した、冬至の話!!
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=26060112&comm_id=173478


...
イイネ!コメント
[7] mixiユーザー
12月17日 17:31
風月さん


実はわたしが十年前に聞いた話の出処は夏至著さん経由からだったのですよ(笑)(夏至著さんとは二年前のふたつの夏至祭のむすびのご縁)


深いご縁を感じてます♪

いよいよ今週になりましたね!

楽しみにしています
イイネ!コメント
[8] mixiユーザー
12月17日 20:36
いよいよ21日が冬至です!

ワクワク...
イイネ!コメント
[9] mixiユーザー
12月17日 22:59
いよいよですね~~ハート達(複数ハート)

ハート揺れるハートワクワクしてまするんるん

富士山素敵な『冬至』を・・・富士山
イイネ!コメント
[11] mixiユーザー
12月18日 00:03
> 夏至著(ゲシッチョ)さん

今年も銀河縄文でつながりましょ~♪

むすびのくくり、よろしくお願いします!!!
イイネ!コメント
[12] mixiユーザー
12月18日 00:06
> ちえちゃん

はじめまして!

よろしければ生駒山のこと、ぜひニギハヤヒのコミュにもお願いできませんか?
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=38061976&comm_id=3876850

コピーでかまいません。
これからも、どうぞよろしくお願いします。
イイネ!コメント
[13] mixiユーザー
12月20日 11:52
いよいよですね。
色々と参考になりました。
一部私のHPやオハナカフェのメルマガに転載してもよろしいでしょうか?
http://silentroots.ddo.jp/
http://ohanacafe.jp/

素敵な冬至をお迎えください。クローバー
イイネ!コメント
[14] mixiユーザー
12月20日 14:01
> Silent Rootsさん

いよいよですね~♪

古代の情報は私のものではありません(笑)
もちろんご自由にお使いください!!!
イイネ!コメント
[16] mixiユーザー
12月21日 00:58
> ちえちゃん

京都ですか?

それでは明日、同じ太陽のもとつながりましょう!!!
イイネ!コメント
[17] mixiユーザー
12月21日 09:36
冬至のシュタイナーの瞑想のことばをよせます


*冬至*



真夜中に

太陽を見よ。

生命なき地のなかに

石で築け。


そうして衰徴のなか、

夜の死のなかに

創造の新たな始まり、

朝の若い力を見出せ。


高みで

神々の永遠の言葉が開示し、

深みで

平和に満ちたやすらぎの場が守られる。


暗闇のなかに生きつつ、

太陽を創造せよ。

物質のなかに活動しつつ、

精神の喜びを認識せよ。



ルドルフ シュタイナー
瞑想と祈りの言葉 イザラ書房
イイネ!コメント
[18] mixiユーザー
12月21日 21:13
> うたこさん

シュタイナーの冬至のことばをありがとう!

今日一日、まさにこんな感じでした。
シュタイナーの表現は、難しくない押しつけのない言葉で自分の中に隠れてるものを素直に引き出してくれるから好きです。
イイネ!コメント
[19] mixiユーザー
12月25日 17:59
富士山『冬至』開けましておめでとうございます。ぴかぴか(新しい)

昨晩、沖縄から戻りました♪

奇跡の『冬至』体験でした!

古代からの秘密が、徐々に紐解かれて・・・

学び多き、沖縄での『冬至』。

整理して、またご報告いたします。
イイネ!コメント
[20] mixiユーザー
12月25日 19:35
夏至著さんの報告、楽しみにしています♪


クリスマスがあたたかい気持ちにさせてくれるのは、クリスマスの時期になると心の中にも新しい太陽が誕生するからですね、きっと...

あとちょっとですが、みなさんよいクリスマスを!!!



[21] mixiユーザー
12月25日 19:52
ぴかぴか(新しい)ハート達(複数ハート)クリスマス夜
イイネ!コメント
[22] mixiユーザー
05月09日 15:46
私の故郷の尾道にも、巨大磐が人工的に割られていて、冬至には、その間にきれいに日が沈んでいくという不思議な岩があります。
イイネ!コメント
[23] mixiユーザー
05月19日 00:44
> 爆音天使さん

ぜひ詳しく教えてください。
写真とかあったら見たいです!
イイネ!コメント
[24] mixiユーザー
05月19日 01:04
個人的な話で恐縮ですが
つい先日、シュタイナーの『ヨハネ福音書講義』を読み終えたところで
クリスマスと冬至の話が実にしっくりきます。

このタイミングで書き込みがあったお陰で、このトピを目にすることになった。

そんな巡り合わせに敬意を込めて書き込みさせて頂きました
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1581098&id=13355554


▲△▽▼


日本の太陽崇拝、磐座崇拝、モイワ山崇拝、鳥居の起源
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14136221

冬至と夏至の古代太陽信仰
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14131739

日本列島の巨石文化
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14132954

縄文時代の人々の言葉・食べ物・服装・道具や 遺跡・土器を学ぼう
https://www.jomon-jidai.com/
https://www.jomon-jidai.com/sitemap
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14131837
2:777 :

2023/07/21 (Fri) 20:02:36

神社はなぜ「そこ」にあるのか?日本の保守の源流を探れ[三橋TV第732回]茂木誠・三橋貴明・高家望愛
2023/07/21
https://www.youtube.com/watch?v=c9_0inGcf1Q
3:777 :

2023/07/22 (Sat) 02:35:22

縄文時代に神社はあったのか?
2022/12/21
https://www.jomon-jidai.com/info/post-219


現在の日本各地にある神社は、「八百万」の神を祭祀の対象とした神道の信仰に基づいた祭祀施設であり、その起源は縄文時代に遡るとも言われています。



先史時代の縄文時代に現代のような神社があったわけではないものの、大木や巨岩あるいは山などに、神が降りられる場所や鎮座される場所として祭祀の場所の痕跡があります。

自然との共存を現代人よりも強く認識していた縄文時代の人々は、自然界の万物に対して畏敬の念を抱いていたと推測され、収穫が行われる秋には祭礼も行われたと考えられます。

縄文時代の人々の信仰や神社とのかかわりなどを紹介します。




縄文時代の人々の信仰とは?
日本各地で発掘された縄文時代の集落遺跡からは、集落の中央に祭祀場と思われる遺跡が発掘され、祈りや祭祀の場所と考えられるストーンサークルがみつかっています。

文字もなく、科学が発達していない縄文時代には、地震や火山の噴火、大雨や嵐などの自然災害は、人の力が及ばない「神の怒り」と考え、自然の神々への祈りが捧げられたと推測されています。



また、狩猟や漁労を生業とした縄文人は、狩猟や漁労の成果が努力の結果とは考えず、神の思し召しとでも言うかのように、集落内で食料や物資を均等に分け割っています。

八百万の神々を祭祀の対象とした神道と同様の考え方に基づく縄文時代の人々の信仰は、祈りを捧げる場所、祭祀の場所として作られた環状列石は、現在の神社の起源にあたると推測できます。



縄文時代の環状列石にみられる祭祀
縄文時代の大規模集落遺跡の中には、竪穴住居をはじめ貯蔵穴、ゴミ捨て場の役割を果たす貝塚など日常生活に使用される施設の他に、祭祀が行われた遺構もみつかっています。



秋田県鹿角市に発掘された大湯環状列石は、祭祀が行われたと考えられる代表的な遺構で、環状列石は北側の野中堂と南側の万座からなり、内側にもサークルがつくられています。

環状列石の周辺には、貯蔵穴や土坑、集落の象徴的な掘立柱建物などと共に、土器や土偶なども出土しています。



縄文時代の環状列石は、八百万の神の祭祀施設とする現在の神社と同様の意図と信仰が感じられる施設となっていて、現在の神社の起源になっています。



神社の起源は縄文時代の祭祀施設から始まった?
神社の歴史は太古に始まったと考えられるものの、どのように誕生したのかは明確にはわかっておらず、縄文時代につくられた環状列石のような祭祀場が原型と考えられています。



日本の神社は、自然崇拝を中心とした神道の信仰が元になっていて、縄文時代の人々が、人の力が及ばない自然への畏怖の念を抱き、集落の中心に作られた祈りや祭祀の場所にその意図の共通点がみられます。



縄文時代の人々は、秋田県の大湯環状列石のような祭祀場を設けて祭事を行い、人が住む世界とは異なる神の居る世界を祭祀施設として作り上げていて、現在の神社の原形になっています。

https://www.jomon-jidai.com/info/post-219
4:777 :

2023/07/22 (Sat) 02:37:40

縄文時代の祭祀遺跡とは?
2023/3/10
https://www.jomon-jidai.com/remains/post-221


神社が作られる以前に神霊を祀った遺跡は、祭祀遺跡と呼ばれ、縄文時代や弥生時代といった先史時代から、宗教や儀礼上の遺跡と推定されるものの、明確な意図は判明されていません。

古墳時代以降に発掘された祭祀遺跡は、出土した小型土器やさまざまな模造品、子持勾玉などが祭具として利用された考えられています。



狩猟採集を生活の糧としていた縄文時代の人々は、自然との共存をはかり、自然界からの恵みへの感謝と同時に、台風や地震などの脅威を感じていたと想像され、各地で発見される遺跡には、祭祀場と思われる場所もみつかっています。

全国各地でみつかっている縄文時代の祭祀遺跡を紹介します。




縄文時代の祭祀遺跡である環状列石と環状石離
縄文時代の集落遺跡には、集落の中央に祈りを捧げたと推測されるストーンサークルが発掘されています。



石を環状に配置したストーンサークルは、イギリスで巨石を使って作られたストーンサークルが有名で、縄文時代の日本列島にも178カ所で発見され、その約4割にあたる74カ所が東北の秋田県に集中しています。

縄文時代の祭祀遺跡として発掘されたストーンサークルは、石の輪が一重、あるいは二重や三重とさまざまなあり、この施設がどういった用途に使用されていたか、明確にわかっていませんが、天文台、お墓、祭祀場などの用途や、複合的な目的が推測されています。



縄文時代の祭祀遺跡として有名なストーンサークルは?
縄文時代の祭祀遺跡の約4割が集中する秋田県には、「伊勢堂岱遺跡」と「大湯環状列石」の二つがあり、祭祀跡とされるものの、お墓や天文台などの機能もあったと考えられています。



「伊勢堂岱遺跡」には、20種類以上の石が使われ、214点の土偶がみつかり、すべての土偶が壊され、妊娠や出産に関する祈願や祈りが捧げられたと推測されます。

「大湯環状列石」には、万座環状列石と野中環状列石の二つのストーンサークルがあり、二重の輪が数十個の石の組み合わせで作られ、縄文時代の祭祀に用いられたと考えられる鐸形土製品、石刀、男根状石製品、キノコ形土製品、土偶、動物形土製品、足形石製品など、すべての道具が出土し、死者を埋葬された場所と考えられています。



これらの祭祀遺跡からは、集落での祈りの場所であると同時に、並べられた列石の組石から、大型の日時計とされた可能が高く、祭祀場以外の目的も作られた集落毎に違いがありそうです。



縄文時代の祭祀遺跡にあるストーンサークル
縄文時代の集落遺跡は、環状に住居や施設が配置され、集落中央には広場が置かれ祭祀が行われたと考えられています。

秋田県に発見された「伊勢堂岱遺跡」や「大湯環状列石」といった祭祀遺跡からは、環状列石の構造や土偶などの副葬品など、死者の埋葬や生まれ変わりといった縄文人特有の思想や信仰を背景とした祭祀が推察されます。



また、祭祀遺跡によっては、天文台や日時計などの用途も推察されています。
https://www.jomon-jidai.com/remains/post-221
5:777 :

2023/08/03 (Thu) 11:52:34

消費される「縄文」 現代への不満と表裏一体に「作られた」古代宗教
岡本亮輔
https://www.gentosha.jp/article/22074/


世界屈指の「無宗教の国」とされる日本。しかし初詣は神社に行き、結婚式は教会で、葬式は仏式で、というのは一般的です。日本人にとって宗教とはどのようなものなのでしょうか。伝統宗教から新宗教、パワースポットや事故物件、縄文などの古代宗教。さまざまな観点から日本人と宗教の不思議な関わりを解き明かす

『宗教と日本人』(中公新書)
https://www.amazon.co.jp/%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA-%E8%91%AC%E5%BC%8F%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%8B%E3%82%89%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%BE%E3%81%A7-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-2639-%E5%B2%A1%E6%9C%AC-%E4%BA%AE%E8%BC%94/dp/412102639X

より、一部を抜粋してお届けします。


豊かに語られる縄文人の心と信仰
近年の縄文文化をめぐる動向としては、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界文化遺産登録運動が重要だろう。2019年末に同物件の推薦が閣議決定され、順調にいけば、2021年夏にユネスコ世界遺産委員会で審議される見込みだ(編集部注:審議の結果、世界遺産に登録することが決定しました)。その構成資産となる各地の遺跡では、縄文人の心や信仰が実に豊かに語られる。



秋田県鹿角市の大湯ストーンサークル館には、夏至の日に縄文人が儀礼を行う姿を想像して描かれた絵がある。縄文人たちが輪になって座り、中心には太陽に向かって両手を掲げる人物がいる。絵の右上には、「大湯遺跡の祭りのクライマックス。特別な立場の人物が環状列石の中心に座り、特殊組石の立石の向こうに日が沈むのをみとどける。先祖の墓からなる舞台装置の中で、参加者の意識は高揚する」という説明文が添えられている。太陽崇拝と先祖祭祀が読み込まれているのである。

北海道千歳市には、縄文時代後期に造られた集団墓「キウス周堤墓群」があり、墓の中から赤い顔料が見つかっている。千歳市埋蔵文化センター展示室の説明板では、赤は太陽や血の色であるため、縄文人が死者の再生を願って撒かれたものと推察されている。他にも、石棒は男性のシンボルで特別な霊力を持ったシャーマンが所持したもの、子供の足形のついた土版は死んだ母親に持たせたものといった具合に、縄文人の信仰と実践が解説されるのだ。

2018年7月には、NHKで放送された『歴史秘話ヒストリア』の「縄文一万年の美と祈り」で大島直行の主張が参照され、縄文人の月信仰が詳しく紹介された。また、岩手県の御所野縄文博物館では、世界遺産登録運動のための一連の講演会が行われ、大島も登壇している。

講演内容は、

同博物館編『環状列石ってなんだ』(2019年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4787718193?tag=gentoshaplus-22

に収められているが、そこでも、「「月」と「子宮」と「水」と「蛇」の関係が、一連のものとしてシンボライズされているのは、世界中で常識となっています」と主張され、縄文土偶だけでなく、イースター島のモアイ像も、妊娠した女性が月を見ている姿であるといった解釈が披露されている。

現代社会への不満と表裏一体に投影される縄文のイメージ
興味深いのは、ケルトにも見られたように、想像力で復元した縄文文化が現代人にとっての規範やアイデンティティの源泉とみなされ、それが世界遺産の推薦書原案のような公的な文書にも見られることだ。

世界遺産登録のためには、その物件が他にはない顕著な普遍的価値を有することを示す必要がある。2013年の推薦書原案では、縄文には「堀(濠)や防御施設のない協調的、開放的な社会の継続的な形成」が見られ、農耕牧畜とは異なる「縄文里山の成立による持続可能で自然資源の巧みな利用による定住を実現」したことが、普遍的価値の源泉として述べられている。

そして、縄文人に学ぶためのワークショップが、各地の博物館で開催されている。御所野縄文博物館では、各種の「縄文体験」が準備されている。教育関係者用のパンフレットでは、木の皮のストラップや植物の繊維のコースターを作ることで、「縄文人は季節に合わせて上手に生活していた」といった学びがあることが強調される。青森県の三内丸山遺跡にも同様の体験プログラムがあり、季節ごとに祭りも開催されている。


人類学者の古谷嘉章は、ブラジルのアマゾン地方の住民に、彼らのルーツではない先史時代の文化の土器のレプリカを作るといった「先史文化の現代的利用」が見られることに着想を得て、現代日本で縄文が消費される現象に注目している(『縄文ルネサンス』)。

https://www.amazon.co.jp/dp/4582838243?tag=gentoshaplus-22


確かに博物館による縄文体験プログラムや縄文まつりは全国各地で開催され、他にも、地方自治体による縄文文化を利用したまちづくり、人材育成、広域ツーリズムの創出などもある。さらに縄文からインスピレーションを得たミュージシャンや芸術家によるフェスやイベント、土偶をデザインした縄文グッズ開発など、例を挙げればきりがない。

古谷はこれらを「知らなかった縄文文化(のモノ)に、気づかなかった価値を見出し、現代社会で生きる私たちの生活に活かす、多種多様な現象」として総括し、「縄文ルネサンス」と名づけている。重要なのは、縄文ルネサンスの興隆は現代社会への不満と表裏一体で、「「問題含みの現在のイメージ」と「縄文イメージ」がネガとポジの関係にある」という指摘だ。現代社会は平和ではなく、格差が広がり、環境が破壊されていると感じる人々が、その対極を縄文に見出すのである。

信仰なき信仰構築
考古学者の山田康弘によれば、縄文時代後半には階層社会が出現した可能性がある。また、縄文人の遺骨の多くに傷痕がないことを理由に、縄文に戦争はなかったなどと言われるが、これまで発掘された遺骨はごくわずかで、むしろ、それらに石斧で打撃を加えられた頭蓋骨などが一定数含まれることを考えると、縄文にも暴力は当然あったとしか言えないという。さらに、食糧のほぼ全てを自然に依存していた縄文人には自然との共生以外に選択肢はなく、環境保護思想があったわけでもない(『縄文時代の歴史』)。要するに、堕落した近代社会と理想的な古代社会という対比が繰り返されているのである。

第2章で取り上げた写真家エバレット・ケネディ・ブラウンも、著書『失われゆく日本』を「縄文のコスモロジー」という章で結んでいる。それによれば、縄文人は土器や土偶などのものづくりを通して神や「絶対の世界」といった「大いなるもの」を見ており、そうした中から信仰が生まれてきたかもしれないという。遠く隔たった他者の信仰であるからこそ、自由に語れる。宗教的なのは古代人ではなく、古代人の信仰を想像的に作り出して規範とし、時にそれに基づいた実践を行う現代人なのである。



エリアーデであれば、葬式の祭壇の装飾や焼香の所作に無数の再生を願うシンボルを見つけ出し、地鎮祭は天地開闢の反復であると読解するだろう。そして、東京スカイツリーは世界の柱で、天空的祖型への憧憬だと論じ、周囲を流れる隅田川、旧中川、荒川は蛇のシンボリズムだと指摘してみせるかもしれない。しかし、こうした議論は、現代社会への不満や批判が、古代人という想像上の他者に仮託されて噴出したものである。

そして重要なのは、自らの信仰が他者に重ねられるわけではないことだ。自分が一度として信じたことのない信仰が、古代人をはじめとする他者の信仰として語られるのだ。現代宗教として注目すべきなのは、語りえぬ他者の信仰を想像し、それがいかに社会的に共有されるか。つまり、世俗社会の信仰なき人々によって信仰が作られる過程そのものなのである。
https://www.gentosha.jp/article/22074/
6:777 :

2023/08/03 (Thu) 11:53:26

縄文人の信仰
https://rekishi-memo.net/joumonjidai/saishijou.html

縄文人に恵みと災いをもたらした自然
祭礼は秋に行った

縄文時代の人々は人間の知恵や力が及ぶ領域が限られていた。
その為、縄文人は自然界の万物に対して畏敬の念を抱いていた事だろう。
自然界では木の実や山菜、動物、水など、人間が生きていくために必要な恵みをもたらした。
縄文人はその恵みに感謝し、収穫が行われる秋に祭礼を行ったと考えられる。

自然災害を恐れた縄文人
自然は台風や地震、豪雪など、様々な災いをもたらした。
現代でも災害は脅威であり、縄文人が抱いた恐怖は大変なモノであっただろう。
自然は人の命を繋ぐ存在であり、奪う存在でもあった。
特に縄文人は火山の噴火を恐れた事だろう。
約7300年までには鹿児島県沖の鬼界カルデラで噴火が発生、西日本の縄文文化は一時後退する程の被害を被った。
ただし、火山の近くには黒曜石などの資源もあり、火山が人々に恵みを与えていた事も事実である。

太陽を用いて時間の流れを把握した
電気による証明も無ければ、火を使った照明を発明するまで、人は多くの時間を要した。
唯一の照明だった太陽は、縄文人にとっては何よりも偉大な存在であっただろう。
縄文人は太陽の動きを把握する事で、「一年」を観測するカレンダーとして用いたと考えれている。

縄文時代の祭祀場
縄文人は神々に日頃の恵みを感謝し、祈りを捧げていた。
縄文時代の集落の中央には祭祀場と思われる遺跡が発掘されている。
全国各地にあるストーンサークルは、彼らの「祈りの場所」だった可能性があるのだ。
縄文人たちの祈り・祭祀を探ってみよう。

環状集落の中央で祭祀が行われた
科学が発達していなかった時代、人々は地震や火山の噴火、大雨や嵐、河の氾濫など、人の力の及ばない自然災害を「神の怒り」と考えていただろう。
その為、自然の神々への祈りは特に重要視されてきた。
神々と対話できる呪術に長けた人が尊敬されるようになり、いつしか集落のリーダー格となったとみられる。

集落内に一定の階層があった
また、当時は狩猟や漁労を生業としていたので、狩りなどに長けた人も尊敬の対象となり、集落のまとめ役になったと考えられる。
縄文時代は食料や生活資源を分け合う平等社会だったが、後期~晩期になると豪華な副葬品を有する死者が現れるようになる。
封建社会のような身分の差はなかったと思われるが、呪術師(シャーマン)などのリーダー格と一般のムラ人との間には一定の階層差はあったと推測される。
弥生時代に入るとその傾向はさらに顕著になり、邪馬台国の女王・卑弥呼のような指導者まで現れた。

集落内の祈りの施設で祭祀を行った
それでは、縄文時代の人々は何処で祈りを捧げていたのか。
大規模集落は中央の広場を囲んで住居群が配置される環状集落の形態を執ったが、この中央の広場で祭祀が行われたとみられている。
集団が共同生活を営むには、こうした「祈りの場所」が必要不可欠だったようだ。

ストーンサークル
秋田県鹿角市の大湯環状列石
大規模集落には貯蔵穴、ゴミ捨て場など生活に役立つ施設が設けられたが、祭祀が行われたとされる遺構も発見されている。
その代表的な存在といえるのが、秋田県鹿角市にある大湯環状列石だ。
石組みの環状列石は北側の野中堂(直系40~42メートル)と南側の万座(直系45~46メートル)からなり、内側にもそれぞれ直系15メートル程度のサークルがある。
環状列石の周辺には貯蔵穴や土杭、掘立柱建物などの跡のほか、土器や土偶も出土している。

大型の日時計だった
大湯環状列石には日時計状の組石があり、環状列石の中心部から日時計の中心部を見た方向は、夏至になると太陽が沈む方向になる。
その為、この地で何かしらの祭祀が行われた可能性が高い。

各地のストーンサークル
日本列島のストーンサークルは主に北海道や東北で見付かっており、青森県にある小牧野遺跡の物は細長い石を縦長に並べた独特な石の組み方をしている。
また、秋田県の伊勢堂岱遺跡には4つのストーンサークルがある。
形状は地域によって異なるが、環状列石の築造が全国的な慣習だった事は間違いない。

https://rekishi-memo.net/joumonjidai/saishijou.html
7:777 :

2023/08/03 (Thu) 12:46:44

北の縄文(神居古潭ストーンサークル遺跡(旭川市))
https://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/bns/jomon/remains_05.html


■遺跡の概要

▲全景 旭川市神居古潭ストーンサークル遺跡は、神居山中腹の標高213mの平坦面にあります。
 戦後すぐに、一部が調査されましたが、1990年の試掘調査で、遺跡の主要部分の表土を剥いで配石の状態を確認して全容がわかりました。


■特徴的な遺構

▲I群  配石の構造は、大形の板状角礫をすき間なく立て並べたり、大形の棒状礫を間隔をあけて立て並べて区画するものや、棒状礫を連ねて立て並べたものなど全部で10群にわけられています。


■主な遺物

▲IV群  配石の状態を確認するのが目的の調査であり、配石の下は発掘していませんが、調査の際に3点ばかりの土器片、黒曜石の剥片が確認されています。土器の文様から縄文時代後期中頃のもので、このストーンサークルが使用された時代もこの時代と考えられます。本遺跡は共同墓地として営まれたと考えられています。
8:777 :

2023/08/03 (Thu) 12:59:23

ストーンサークルの密集地★縄文時代の小樽|グランドパーク小樽
https://grandparkotaru.com/blog/otaru-info/stone-circles

北海道は、北東北3県と共に、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界文化遺産への登録を目指しています。北海道内でこの世界遺産への登録候補となっているのは、函館市(大船遺跡・垣ノ島遺跡)と、千歳市(キウス周堤墓)、伊達市(北黄金貝塚)、洞爺湖町(入江・高砂貝塚)の各遺跡で、森町の鷲ノ木遺跡(ストーンサークル)も関連資産として挙げられています。

2019年、日本国内の文化審議会世界文化遺産部会において、「北海道・北東北の縄文遺跡群」が2019(令和元)年度の世界文化遺産推薦候補に選定されたので、いよいよ北海道から2つ目の世界遺産誕生へ近づいてきた段階にあります。

この縄文遺跡群は、縄文時代の草創期から晩期に至るまでの、「津軽海峡を挟んだエリア」の遺跡が選定されていますが、北海道には他にもたくさんの縄文遺跡が残されていて、もちろん小樽市内や近郊にも縄文遺跡が数多くあります。

ここでは、市内と隣町・余市町にある環状列石(ストーンサークル)をまとめてご紹介します。

◆忍路環状列石(ストーンサークル/小樽)
国指定の史跡で、今からおよそ3,500年前の縄文後期のものです。三笠山の標高20mほどの斜面を平らにならし、最大直径33mの楕円形に石が配置されています。1-2mある大きな石が丸く配置されている外側に、小さい石が配されているため、二重・三重の環状になっています。また、中心部には何本か割石が立てられています。

江戸時代に発見され、明治時代には発掘調査なども行われているため、日本国内において最も古くから知られ、日本の考古学史上において学術的調査・報告が最初に行われた環状列石だと言われています。

隣接する忍路土場遺跡では水場遺構など生活の場であった痕跡が発見されており、膨大な数の土器や石器のほか、低湿地のため木製品や漆工品など有機質の遺物も状態よく保存されていました。また、祭祀的な遺物とも考えられる巨大木柱も発掘されています。

◆地鎮山環状列石(ストーンサークル/小樽)


上記の忍路環状列石から1kmほど離れたところで、少し険しい山道を5分ほど登った標高50mのところにあります。北海道指定の史跡で、こちらも約3,500年前の縄文後期のものです。最大直径10mの楕円形に石が配置されています。中心部近くに小さな石を集めたところがあり、その地下部分1m程の深さの底に石が敷かれていました。ここは、墓の一種だったのではないかと考えられています。この穴がコンクリートで土留めされている点は興ざめですが、遺跡全体はうっそうとした森林の中にあって、神秘的な雰囲気があります。

◆西崎山環状列石(ストーンサークル/余市町)
小樽と余市の境目の標高70mほどの西崎山にある環状列石で、北海道指定の史跡です。この環状列石も約3,500年前の縄文後期のもので、最大直径約17mの楕円形をしています。その中に直径1-2mに石を並べた小さいサークルが7つあり、その1つ1つが墓だったと考えられています。また、この小さなサークルとサークルの間からは、土器や石鏃などが発見されています。また、木々の隙間からは日本海が見えるので、古代は見晴らしがよかったのかもしれません。

近くには、羽や角の生えた人型の壁画で知られる国指定史跡「フゴッペ洞窟」もありますので、ぜひ併せて訪れてみてください。※事前に開館状況をご確認ください

* * * * *

小樽近郊エリアには環状列石が80基以上も発見されていますので、縄文時代にはたくさんの人が集う一大拠点だったのかもしれません。

ご紹介したストーンサークルはいずれも国道から少し入ったところにあり、特に小樽市の遺跡には駐車場などもないためアクセスに難がありますが、先史時代の小樽エリアに興味がある方はぜひゆっくり時間をとって訪れてみてください。

また、他にも小樽には続縄文時代の史跡「手宮洞窟」があり、こちらもおすすめです。手宮洞窟については、こちらのブログで詳しくご紹介しています。
https://grandparkotaru.com/blog/otaru-info/stone-circles





ロマンあふれる古代アート★手宮洞窟
2019年08月10日
https://grandparkotaru.com/blog/otaru-info/temiya-cave

北海道には縄文時代の遺跡や遺構がたくさんあるのですが、小樽にも国指定の史跡「手宮洞窟」があります。今から1600年ほど前、本州ではすでに縄文時代が終わり、弥生時代から古墳時代へ移行しつつあった時期でしたが、北海道ではまだ「続縄文時代」と呼ばれる狩猟採集の生活様式が続いていました。「手宮洞窟」内には、その頃の人々によって刻まれた貴重な彫刻が残っています。

発見当時からしばらくは古代文字ではないかという説もありましたが、類似性が認められる隣町・余市町の「フゴッペ洞窟」の発掘調査結果などから、文字ではなく絵(刻画)であることが分かってきました。また、洞窟内には生活関連の遺物が少なかったことから、ここが生活の場ではなく、祈りの場だったのではないかとも考えられています。

手宮洞窟には、角のある人、杖のようなものを持った人、四角い仮面のようなものをつけた人など、「人」を描いたと思われるものがたくさん刻まれているのですが、これらは当時のシャーマン(呪術師)だったのではないかという説が有力です。特に、この「角を持つシャーマン」は、かつて広く北東アジアからシベリア周辺で見られた習俗だったことが分かっているので、続縄文時代に小樽近辺にいた人々が、海を挟んだ北東アジアやシベリアの人々と交流があった可能性を示しているのではないかと言われています。

当時の人々が海を渡って遠くの人々と行き来していたという説は、壮大な古代ロマンを感じさせますね。手宮洞窟の近くには、手宮公園や小樽市総合博物館などもあるので、小樽にお越しの折には手宮地区にもぜひ足を伸ばしてみませんか?
https://grandparkotaru.com/blog/otaru-info/temiya-cave
9:777 :

2024/03/01 (Fri) 19:37:12

現代まで続く縄文スピリット~この素晴らしき縄文世界♪
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/11/17
https://www.youtube.com/watch?v=4RAgGHQvcSw&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=5&t=873s

最新の縄文研究からわかってきた縄文の暮らしを祭祀から見てみます。
私たちほぼすべての日本人が受け継ぐ縄文のDNA。現在のアニミズム的神道の ルーツは縄文まで遡れるのではないか?東北の大湯環状列石遺跡、三内丸山遺跡、御所野遺跡から探ります。

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