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鄭舜功 _ とにかく日本人は凶暴

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2023/07/19 (Wed) 19:52:54

荒れる倭寇をやめさせよ! 特命をおびた中国人が目撃した「意外な日本」。
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https://news.yahoo.co.jp/articles/c18c3ee9af55440038c5550e64d1ec9017495a2a

 洋の東西を問わず、「隣国との関係」はいつも緊張をはらんでいる。日本にとって、隣の超大国・中国は常に脅威であり、中国人は尊敬と畏怖の対象だった。では中国人にとっての日本人は? 460年余り前、日中の緊張緩和の道を探って戦国時代の日本を訪れ、自然風土と人々の姿を虚心に観察した中国人がいた。しかし、彼が記した訪日記録は、中国でも刊行されることなく、ほとんど忘れ去られていたのである。

【写真】中国がみた戦国の日本人
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異色の歴史家が、超マイナーな史料に着目
 戦国時代の日本を記録したこの貴重な見聞記は、『日本一鑑(にほんいっかん)』という。著者は生没年不詳の中国人、鄭舜功(ていしゅんこう)。といっても、知っている人はほとんどいないだろう。講談社選書メチエの新刊『戦国日本を見た中国人 海の物語『日本一鑑』を読む』の著者で、立教大学文学部教授の上田信氏はいう。

 「『日本一鑑』は、中国における「日本事典」というべきもので、中国の海域史の研究者や、日本の戦国時代の研究者には、そこそこ知られた文献ではあるのですが、著者の人物像も含めてトータルに紹介されることはほとんどありませんでした。一般的にはほぼ知られていないんじゃないでしょうか」

 つまり、日中両国にまたがる史料のため、中国史研究者も日本史研究者も必要な部分だけを断片的に利用し、三部十六巻にわたる全体を通して研究することがなかったというのだ。

 上田氏自身は、明清時代の中国社会史が専門だが、著書『海と帝国』(「中国の歴史」第9巻、講談社学術文庫)が、出口治明氏に「明清時代の中国を海洋の歴史という地球的規模の観点から説き明かした類例のない名著」(現代ビジネス2020年10月20日)と絶賛されるなど、広くユーラシアの視点から新たな歴史像を提示してきた異色の東洋史研究者だ。これまでの著作も『貨幣の条件』『死体は誰のものか』『シナ海域 蜃気楼王国の興亡』『人口の中国史』…など、従来の「中国史」の枠を超えた個性的な書名がならぶ。

 そして上田氏が、中国から見た「日本中世史」に挑戦したのが、新刊『戦国日本を見た中国人』である。本書では、訪日中国人・鄭舜功が、戦国時代の日本の実像に触れた興味深い記述がふんだんに紹介されている。

 〈そこには、同時代の日本人が当たり前として記録しなかった日本人の姿や、日本人と接触した歴史の浅い西洋人が見落としている日本人の感性を読み取ることができる。本書を機にこの日本ルポの存在を知っていただければ、不遇な運命に翻弄された鄭舜功も喜ぶであろう。〉(『戦国日本を見た中国人』p.6)

 ではこの鄭舜功という人物、いったい何のために日本にやってきたのだろうか。

 鄭舜功が来日した1556年、戦国日本は転機を迎えていた。この年、美濃では斎藤道三が息子・義龍と戦って敗死し、翌年には西国の名門・大内氏が毛利氏に滅ぼされる。織田信長は桶狭間の戦い(1560年)に向けて力を蓄えつつあった。

 しかしこのころ、中国では全く別の「日本」が姿を現していた。日本を拠点として活動する武装集団・倭寇(わこう)に、中国の沿海地域は頻繁に襲われていたのである。明代の年号を冠して「嘉靖大倭寇」と呼ばれるこの争乱で、中国は緊迫した情勢にあった。

 この時、日中の緊張緩和の道を探るという志を持って、明朝皇帝の命を奉じ、日本に渡ってきたのが鄭舜功である。

 鄭舜功は生没年は不詳だが、出身は中国「新安郡」、すなわち現在の安徽省南部から浙江省東部にまたがるあたりらしい。無位無冠の平民ながら、自ら信じるところを主張し、国政に物申す「草莽の志士」であり、上田氏は鄭に「俠気を感じる」という。


大友宗麟・三好長慶への政治工作
 1556年に広州を出航した鄭舜功一行は、台湾沖、南西諸島を通過して日本の領域内入ったところで暴風雨に遭い、京都に直行できずに豊後水道から豊後に入る。時の豊後の君主は、九州戦国の雄にのし上りつつある大友義鎮(宗麟)だった。鄭舜功はその後、この豊後で6ヵ月を過ごすことになる。

 このころ、中国が日本人に抱いていたイメージは、たとえば1607年に編纂された民間の百科事典に登場するイラストの姿である。高麗国(朝鮮)の住民は衣服を整え、靴を履く姿で、大琉球国(琉球)の人物像は着物を羽織り、裸足姿で描かれるのに対して、「日本国」の住民は、諸肌脱ぎで裸足、刀を担ぎ、いかにも凶暴な姿である。

 さらに日本国の説明には、「もっぱら沿海を強盗して生計を立てている。中国人は『倭寇』と呼ぶ」とある。これは「嘉靖大倭寇」が終息した後の記述だが、凶暴で野蛮な日本人が、ステレオタイプとしてすっかり固定しているのである。

 しかし鄭舜功は、そうした先入観にとらわれなかった。自らの見聞と、じかに接した人々の感触から、日本人は理をもって説得すれば話が通じると見込んで、大友氏の政庁に働きかけた。『日本一鑑』にはこう記している。

 〈豊後の君臣は日中に政務を遂行するために、評定を開いている。〔私は〕そのたびごとに出向いて、〔倭寇対策をせよとの中国からの〕上諭を提示したところ、上諭に基づいて禁令を行うことになった。宣諭を奉じた責務を一身に背負い、評定に臨んで辺境の異人を善導したところ、忠信仁義をわきまえないものはいなかった。どうして世を惑わし、民を偽りに陥れ、禍を引き起こすことが続くだろうか。(中略)ここに夏夷(中国と日本)の争乱は終息するだろう。〉(『戦国日本を見た中国人』p.94-95)

 続いて鄭舜功は、京都の政界に探りを入れ、すでに足利将軍の権威が失墜しているとみて、交渉相手として、天皇とその周辺に的を絞る。そして当時の京都政権の実力者、三好長慶に政治工作を行った。戦国期の混乱する政局の中で、外国人が、交渉すべき相手を見極めるのは難しかっただろう。

 「当時の中国側では、天皇という存在はあまり意識されていませんでした。政権を持っているのは武士だという認識で、外交を行う政権と関係を作ろうとしている。豊後で情報を集めた鄭舜功は、京都の中心にいるのは後奈良天皇と三好長慶であると見定めた。天皇は権力は持っていないけれど、その権威は日本全体に及んでいることも理解しており、京都に配下を派遣して外交関係を作り、倭寇状況を収めていく方策を考えたようですね」(上田氏)

 ところで『日本一鑑』には、こうした政治・外交に関することばかりが記されているわけではない。むしろ、それ以外のいわば「雑多な記述」が興味深いのである。

 たとえば、出航から間もないころ、現在の尖閣諸島と思われる「釣魚嶼」近辺では、3メートルを超えるサメについて記している。そして、船員らに聞いたのだろうか、何種類ものサメの名を列挙し、「トラに化けて島の人畜を喰う」サメもいるなどと書いている。

 徳之島周辺では、トビウオに興味を示した。〈両翼は尾よりも一寸ほど長く、風をはらんだ帆の影を見て、無数に飛翔し、ヒョウヒョウと音を立てる〉とある。おそらく実際に捕獲して観察したのだろう。漫然と波に揺られていたのではなく、海を観察し、さまざまな情報を得ようとしていたのである。


月代(さかやき)は剃らずに抜いていた!?
 日本人の身なりや暮らしにも、好奇に満ちた眼を向ける。たとえば、男たちの髪型だ。

 〈いまは皆、髪を剃り落とし、〔頭髪の〕左右の耳際の髪を少しばかり留めて、束ねて頭の後ろで髷(まげ)にする。俗に闘殺のときに髪がうっとうしいから、髪を剃るのだという。髪を剃る道具は、中程まで断ち割った竹片を、指で開いて髪の中に入れて、両手でねじって髪を抜く。彼らは、そりゃ痛いもんだよ、と言う。〉(『戦国日本を見た中国人』p.5)

 月代(さかやき)は、カミソリで剃るのではなく、抜いていた、というのだ。また、出産や子育ての習俗については、こんなことも。

 〈調べてみると、日本では女が多く、男が少ないとある。(中略)ただし〔男が女より〕少ししか生まれないというわけではない。男が多く生まれると、風習としてそれを厭う。子を産んだ母親は、出産したときに男かどうかを調べ、男が多い家だと、すぐに赤子の身体か首を絞めて殺すのである。なんと残忍なことか。このようにするのは、女が多いことを望んでいるからである。一般的に妻・妾が多い理由となっている。〉(同書p.139)

 〈子どもを産んで一ヵ月あまりになると、晴天の日に揺り籠を高い木に掛けて、風に揺られるにまかせる。それは航海で驚かないようにするためである。〉(同書p.141)

 ちょっとにわかには信じがたい話ばかりで、ホントだろうかと思うが――。

 著者の上田氏は、「鄭舜功のパーソナリティから言うと、おそらく実際に見たまま、聞いたままを書いているんだと思いますね。ただし、これらの記述が、たまたま鄭が見聞きしただけなのか、当時の日本全体に言えることなのかは、検証が必要でしょう」という。どうやら鄭は、非常に好奇心が旺盛で、博物学的な関心を強く持った人物だったらしい。

 「一般論として、中国の知識人というのは、中国の文化が最高であって、周辺の文化はその亜流だから、特にじっくり観察する必要はないみたいな、あるいは中国の文脈に位置付けてそれで終わり、という感じなのです。鄭舜功の先入観にとらわれない好奇心の強さは、中国人には珍しいほどです」(上田氏)

 半年にわたって政治工作と情報収集を行うとともに、日本のありさまをつぶさに観察していた鄭舜功。しかし、翌1557年、事情が生じて急遽帰国した彼は、その功績が認められないばかりか、投獄の憂き目にあう。ともに日本で活動した配下の者たちも処刑されてしまった。当時の権力者との対日政策をめぐる方針の違いが原因だった。

 日中の国交回復を願った彼の提言は顧みられることはなかった。その見聞を獄中で書き記した『日本一鑑』も、刊行されることなく、いくつかの写本で伝えられ、やがて忘れられていった。

 7年のあいだ獄につながれた鄭舜功の、その後の消息は不明という。

 ※鄭舜功が書き残した「凶暴にして秩序ある日本人」については〈「とにかく凶暴な日本人」が、500年前の中国で起こした「衝撃の歴史的事件」。〉を、海から見た戦国時代については〈「関ヶ原」で大量消費の「弾薬」はどこから来た? 海から見る戦国日本の新しい姿〉を、ぜひお読みください。



2023.07.19
「とにかく凶暴な日本人」が、500年前の中国で起こした「衝撃の歴史的事件」。
『日本一鑑』が描く戦国時代のリアル
https://gendai.media/articles/-/113251?imp=0

倭寇対策の使命を帯びて、戦国時代の日本を訪れた中国人がいた。鄭舜功(ていしゅんこう)という名の「在野の志士」である。その見聞録『日本一鑑』には、自然風土から日本人の習俗、精神文化までが記録されている。隣国人の新鮮な眼で観察された、約500年前のリアルな日本とは――。

『戦国日本を見た中国人 海の物語『日本一鑑』を読む』(上田信著、講談社選書メチエ)
https://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%81%9F%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA-%E6%B5%B7%E3%81%AE%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%80%8E%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%80%E9%91%91%E3%80%8F%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E9%81%B8%E6%9B%B8%E3%83%A1%E3%83%81%E3%82%A8-%E4%B8%8A%E7%94%B0-%E4%BF%A1/dp/4065325749?crid=1390V0M1KECTA&keywords=%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%81%9F%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA&qid=1689075983&sprefix=,aps,564&sr=8-1&linkCode=sl1&tag=gakujutsu_sns-22&linkId=00e5c01a71d8f7c5158f289611556198&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_tl

から紹介していこう。


「倭人」の凶暴な性格は、火山のせい!?
この時代、中国人のイメージする日本人は、とにかく「凶暴」だった。

まず、鄭舜功訪日の30年ほど前、1523年に起きた「寧波事件」(寧波の乱)の衝撃は大きかった。日本の有力大名、大内氏と細川氏がそれぞれ仕立てた遣明船の乗組員らが、中国・寧波の町で抗争を繰り広げ、一帯を騒乱に巻き込んだのである。

そして、1550年代には、倭寇が中国沿岸部を荒らし回り、「嘉靖大倭寇」と呼ばれる。実際には、倭寇の中核には中国から日本に渡った密貿易者や犯罪者も多く含まれていたと言われるが、当時の中国から見れば総じて「倭人」だった。鄭舜功が日本へ向かった1556年はまさに、この「大倭寇」がピークを迎えていた。

なぜ、日本人はこんなに凶暴なのか? 鄭舜功は、日本列島の自然にその原因を求める。南西諸島の硫黄島に上陸して噴煙を上げる火山を実見し、九州・豊後でおそらく温泉の噴き出すさまを目にした鄭舜功は、風水の観点から、こう論じている。

〈この日本列島は、陰が極まったなかで生じたもので、硫黄島などを隆起させたものは、けだし陰が極まり陽が混濁し、気が鬱屈して蒸散したものである。しかし〔陰の気は〕漏れ尽きることはなく、〔日本列島で〕発現すると乾燥した「火」の性格を持つようになる。山の勢いはゴツゴツとして荒々しくなり、日本人の凶暴な気性を産みだしている。(中略)人もまた大地の気に感応して生まれるという。それゆえ日本人の性格が凶暴なのは、まさに地の気がそうさせているのである。〉(『戦国日本を見た中国人』p.118)

そして、日本人は性格が凶暴であるがゆえに、礼節と秩序を重んじている、とみているのだ。『日本一鑑』には、こうある。

〈海寇(海賊)は〔日本では〕「破帆(バハン)」、あるいは「白波」と呼ばれており、発覚すると一族が皆殺しにされる。〔日本の風俗では〕強盗の禁令が厳しいために、夜に門にかんぬきを掛けなくても、盗みは少ない。人々は〔強盗を〕賊と罵り、恨みを忘れない。その風習は武張ってはいるものの、仏を重んじ、文を好む。〔日本人に対する〕要領を得ようとするならば、文教を用いるべきである。〉(『戦国日本を見た中国人』p.123)

人命を軽んじる凶暴な力によって秩序が保たれ、その秩序のもとで文化が尊重される日本。そんな日本人に向かい合うときは、たんに武力に頼むのではなく、「文教」すなわち文化政策をもってせよ、というのである。



命を軽んじ、礼節と秩序を重んじる
日本人の文化として、『日本一鑑』で特に大きく取り上げられているものがある。それは、「日本刀」だ。

もともと、中国には朝貢貿易で大量の日本刀が持ち込まれていた。その品質は高く評価され、日本の重要な輸出品だったのである。15~16世紀には、1回の遣明船で3000本から多い時で3万本以上が、中国にもたらされていた。

倭寇として海を渡った日本人は、刀で多くの民を殺し、その凶暴なイメージが明代中国人の脳裏に焼き付いていた。しかし鄭舜功は、ごく普通の日本人は、必ずしも殺傷のために刀を用いていたわけではないことにも目をむけている。

〈刀が鋭利であることを知るも、〔その刀で人を〕殺さないことをもって宝とする。(中略)そうした刀を佩いて年老いるまで人を殺さなければ、すなわち酒を供えて僚友・親戚に命じて、書を残してその刀を子に伝える。僚友や親戚もまた、酒を供えてそれを祝う。不殺の刀といい、宝となる。〉(同書p.129)

人を殺めたことがない刀は、その持ち主の精神的な修養の深さを象徴するものであり、そうした刀を伝承することで、その精神性も継承するというわけだ。『戦国日本を見た中国人』の著者で、立教大学文学部教授の上田信氏はいう。

「中国では、道具は道具として割り切っていて、そこに精神性を認めるということはあまりないように思います。包丁にしても、日本では食材ごとに出刃包丁や柳葉包丁などと使い分けますが、中国では中華包丁ですべてこなしてしまう。汎用性のある道具が一つあればいいという考えですね。日本人は、道具に対する強い思い入れがあることを、文化的な特性として刀の中に見出したのでしょう」

『日本一鑑』には日本の刑罰や切腹についても詳しく記述されている。鄭舜功自身がその場に立ち会ったと思われる描写もある。

〈口論になった人が酒の勢いで刀を抜いたら、人を傷つけなくても必ず死刑となる。姦淫・賭博・失火も死刑。盗みに対する禁令はきわめて厳しく、糸一本でも盗んだらみな死刑。〉(同書p.149-150)

〈犯人は郊外の原っぱか海辺の浜に引き立てられる。犯人の首の縛りをほどくと、犯人はおとなしく着ていたものを脱いで、自らその髪を束ねて頸を差し出す。見物人が最前列まで押しかけている。もし下人を処刑する場合は、この機会を用いて新しい刀の切れ味の善し悪しを調べる。塵芥のように命を軽んじているのである。もし叛逆すると、一族は皆殺しとなり住まいは焼却される。〉(同書p.150)

〈頭目や富者とみなされたものがもし極刑に当たる罪を犯すと、多くはみずから腹を断ち割って死ぬ。切腹する前に酒を堂内に置き、少しも動揺せずに飲食を摂る。観ている者は嗚咽する。もし少しでも躊躇して遅れると、衆人は手を叩いて笑い「女々しいやつだ」とはやし立てる。切腹し終わると、介錯される。〉(同書p.151)

『日本一鑑』に描かれた500年前の日本人の姿は、「凶暴」ではあるものの、礼節によって秩序づけられ、統御されていたということになるだろう。その象徴が日本刀であると、鄭舜功の目には映っていたのである。

※鄭舜功とは何者か? その使命と過酷な運命については、〈荒れる倭寇をやめさせよ! 特命をおびた中国人が目撃した「意外な日本」。〉を、海から見た戦国時代については〈「関ヶ原」で大量消費の「弾薬」はどこから来た? 海から見る戦国日本の新しい姿〉も、ぜひお読みください!





2023.07.19
「関ヶ原」で大量消費の「弾薬」はどこから来た? 海から見る戦国日本の新しい姿
忘れられた『日本一鑑』の世界
https://gendai.media/articles/-/113254?utm_source=yahoonews&utm_medium=related&utm_campaign=link&utm_content=related


応仁の乱に始まり、川中島、桶狭間、そして関ヶ原。「戦国時代」といえば、華やかで勇壮な合戦場のイメージが浮かぶ。しかし、「戦い」は陸上でのみ起きていたのではなかった。新刊『戦国日本を見た中国人 海の物語『日本一鑑』を読む』(上田信著、講談社選書メチエ)で見えてくるのは、「海に始まり、海に終わる」新しい戦国時代の姿だ。

「戦国時代」は日本人だけじゃない!
本書で取り上げられる中国の文献『日本一鑑』は、1556年、倭寇対策の使命をおびて訪日した中国人、鄭舜功(ていしゅんこう)による見聞記だ。ここには、政治・外交から、人々の生活、自然環境まで、戦国時代の日本のありさまが様々に記録されているが、船の航路にかんする記述も実に詳しい。

中国人が目にする日本とは、まずは海に浮かぶ大小の島々であり、船を着ける港の賑わいであった。そして、それらの港町を支配するのは誰か、航路の治安を保つのはどんな勢力で、関所はどこにあるのか、そうしたことが関心の的なのである。もちろん、そのいずれもが、当時の軍事状況や社会状況を反映している。

こうして戦国時代を海から見ていくと、いったい何がわかってくるのだろうか――。

「一言で言えば、戦国時代は日本人だけで作っていた時代ではない、ということです」と本書の著者、上田信氏はいう。

もちろん、キリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルや、ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスなど、「戦国のドラマ」には「南蛮人」もよく登場する。しかし、鄭舜功の『日本一鑑』を読むと、中国と日本とのあいだを往来した渡海者たちの圧倒的な規模が、時代を転換させるうえで重要な役割を果たしたことがわかってくるというのだ。

「中国から渡ってきた人々が、予想以上にいろいろなところに住み着いて、貿易にかかわっていたのです。各地の戦国武将も、そうした存在を利用し、海の外の状況を相当意識して、政治や軍事を考えていました。海での政治や経済は、列島の陸の中だけで考えるのとはちがうつながり方をしていたわけです」(上田氏)

中国史研究者である上田氏が提示しようとするのは、ユーラシアの中の日本、世界史のなかの戦国時代である。


そもそも、この時代の政権を「室町幕府」と呼ぶのが、世界史の文脈で考えると奇妙だという。

〈その名の由来となった京都室町、相国寺 の西隣に位置した「花の御所」は、1380年代に建てられたもの。1338年に室町幕府が開かれた、とするのは奇妙である。また「幕府」という用語は、中国からの借用語で、本来の意味は出征中の将軍の幕営を指す。一個の政権を、幕府と呼ぶことはない。日本でも14世紀から18世紀まで、同時代の史料に「室町幕府」と記されることはなかっただろう。〉(『戦国日本を見た中国人』p.13)

そこで本書では、この時代の中央政権を「室町幕府」ではなく「京都武家政権」と呼ぶことから始める。

混乱の時代こそ、外に目を向けよ!
通説では、1543年、ポルトガル人によって種子島に伝えられた鉄砲が、織田信長や豊臣秀吉による全国統一の動きを加速したといわれる。しかし、これだけでは表面的な理解だ。

火薬・銃弾がなければ、鉄砲は単なる「鉄の棒」にすぎない。黒色火薬や銃弾の原料のうち、木炭と硫黄とは日本国内で入手できた。しかし、硝石は国内では大量生産できず、中国やシャム(タイ)から買い付けている、と鄭舜功は記している。

〈また、弾丸に適した鉛を入手するにも、国内の鉱山でまかなえる量は限られ、大規模な戦争に必要な量を確保することはできなかった。いずれも海外からの輸入に、頼らなければならない。これらの軍需物資は、海のルートでもたらされた。新たな武器、鉄砲を活用できるということは、こうした「海のルート」を掌握する、ということなのである。〉(同書p.19)

硝石や鉛の輸入というと、ついポルトガルの南蛮貿易を思い浮かべてしまうが、「量的には中国人が運んでいる物資のほうが、ずっと多いはず」(上田氏)という。中国人は普通に日本社会に入り込んでいるので、取り立てて記録されていないようなのだ。



折しもこの時代に激増していた日本からの銀の輸出と、硝石・鉛など軍需物資の輸入に深く関わった中国や日本の密貿易商人のなかから、海賊稼業に手を染め「倭寇」と呼ばれる集団が現れる。この倭寇を鎮める手掛かりを求めて、日本に渡ってきたのが鄭舜功だった。

そして鄭舜功が配下の者を京都に派遣し交渉した相手こそ、軍事物資の輸入港として栄えた堺の町をその影響下に置き、信長に先んじて鉄砲を活用した人物、三好長慶である。

堺や大阪など畿内への航路も、瀬戸内ルート、日向・土佐沖ルート、太平洋ルートなどがあり、三好氏のほか、毛利氏や信長、本願寺勢力などが入り乱れて抗争を繰り広げた。陸上での合戦の背景には、こうした海上ルートの争奪戦があったのだ。

「たとえば、関ケ原の戦いでは、西軍・東軍はそれぞれ大量の鉄砲を使っていますが、戦場で大量に消費された火薬と弾丸のサプライチェーンはどうなっていたのでしょうか。私は、西軍が瀬戸内ルート、東軍が太平洋ルートと想像しているのですが……」(上田氏)

そして、その後の「鎖国政策」とは異なり、この時代の有力者たちは海外とも積極的につながろうとしていた。徳川家康は駿府にウイリアム・アダムスやヤン・ヨーステンを外交顧問として迎え、伊達政宗は支倉常長をヨーロッパに派遣する。

「信長をはじめ武将たちは、外国人を顧問に迎えて積極的に外国とつながりを求めるなど、自分たちが生きている日本列島だけで考えても身動きはできないんだという意識がありました。戦国時代とは、グローバルな発想ができる者だけが生き残れる、という時代だったんじゃないでしょうか」(上田氏)

※明の俠士・鄭舜功の非情な運命については〈荒れる倭寇をやめさせよ! 特命をおびた中国人が目撃した「意外な日本」。〉を、鄭が見た不思議な日本文化については〈「とにかく凶暴な日本人」が、500年前の中国で起こした「衝撃の歴史的事件」。〉もぜひお読みください。
2:777 :

2023/07/19 (Wed) 20:06:03

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2023/08/12 (Sat) 13:11:31

雑記帳
2023年08月12日
上田信『戦国日本を見た中国人 海の物語『日本一鑑』を読む』
https://sicambre.seesaa.net/article/202308article_12.html

 講談社選書メチエの一冊として、2023年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は鄭舜功が著した『日本一鑑』を取り上げ、「外から」見た戦国時代の日本の様相を叙述しています。こうした「外国(人)」史料が貴重なのは、自身の文化に由来する日本の(習俗なども含めて広い意味での)文化への無理解や偏見があるとしても、当時の日本社会では常識とされ、同時代の文献にはほとんど記載されなかったのに、その後そうした常識が変わったり廃れてしまったりして、後世の人間には理解しにくくなったような事象も、取り上げられることがあるからです。戦国時代については、そうした意味でキリスト教の宣教師を中心に「ヨーロッパ人」の残した文献が重視されてきましたが、本書は、日本ではあまり知られていないだろう(恥ずかしながら私も知りませんでした)明の鄭舜功が著した『日本一鑑』を取り上げ、これまで戦国時代に関心のある私のような一般層にはあまり知られていなかったような事象も紹介しており、たいへん有益でした。本書が『日本一鑑』を重視するのは、「ヨーロッパ人」よりも明というか「中国人」の方が、当時は「日本人」との接触の蓄積がずっと多く、それだけ日本社会への理解も深いだろう、という理由です。以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。

 本書はまず、戦国時代を日本史の文脈だけではなくより広い規模で位置づけるため、モンゴル帝国衰退後のユーラシア史を概観します。大元ウルスでは14世紀半ばには経済が混乱し、大元ウルスを北方に追いやって中華地域を支配した明では、貨幣経済が壊滅していたため、現物徴収と労働力徴用で社会を立て直そうとして、国外との交易では民間の取引を抑制しました。明は周辺諸勢力の君主との間の朝貢関係の枠内に交易を限定します。しかし、明は海域を統制できず、西日本の武士や商人や漁民が明の沿岸を襲撃し、明は朝貢以外の人々の往来を禁止します(海禁)。明は日本から大量の刀を輸入し、それはモンゴル高原からの軍事侵攻に対して日本刀が有効な武器だったからでした。京都武家政権(室町幕府)は足利義満が実権を握っていた頃に明から冊封され、朝貢貿易を始めます。この朝貢貿易を伴う日明関係で重要な役割を果たしたのは、中国の大内氏と管領の細川氏でした。こうした日本と明との関係は、1520~1530年代に石見で銀山の開発が進み、ユーラシア大陸部から新たな精錬法が導入され、銀の産出量が増大すると、大きく変わります。すでに明では15世紀半ば以降、銀で徴収する税制へとじょじょに変わっており、銀の需要が増え始めていたところへ、日本産の銀が流入するようになり、日明間の密貿易が増加したわけです。

 そうした状況の中、鄭舜功は1556年に日本に渡ります。当時、嘉靖大倭寇で明が緊迫した情勢にある中、鄭舜功は無位無官の身でしたが、日明間の緊張緩和というか具体的には倭寇禁圧を志して日本にわたり、半年間日本に滞在して情報を収集して帰国したものの、その功績は認められず、投獄されます。当時の明では、鄭舜功『日本一鑑』の他にも日本に関する著作があり、倭寇対策として日本への関心が高まったようです。ただ本書は、そうした日本関連の著作には、日本を仮想敵国として日本の兵器や戦術などの対策を詳述したものもあり、日本(人・社会)を理解しようとする視点は欠如していた、と指摘します。その意味で、日本(人・社会)を深く考察しようとして観察した『日本一鑑』は貴重である、というわけです。

 鄭舜功が日本へと渡る前に日明関係に大きな影響を与えたのは、1523年の寧波事件でした。その前提となるのは、京都武家政権が弱体化して朝貢を行なえなくなったため、細川氏と大内氏が代行するようになったことでした。細川氏と大内氏との朝貢貿易の利害関係の対立に起因して起きたのが、大内側が細川側を襲撃した寧波事件でした。これは明にとって大きな衝撃となり、激昂して惨殺するような「日本人」との印象が定着しました。寧波事件の結果、日明間の朝貢貿易は停滞します。その結果、民間の密貿易が活発になり、嘉靖大倭寇につながるわけですが、『日本一鑑』では日明間の密貿易の始まりに琉球が関わっていた、とあります。

 鄭舜功は、現在の安徽省南部から浙江省東部にまたがる徽州の出身と自認していました。徽州地域では朱子学が受容され、その風水論が定着しており、鄭舜功はそうした風土の影響を受けました。鄭舜功は生没年不詳で、どのような経緯が日本に関心を抱いたのかなど、不明点が多いようです。鄭舜功が日本に渡った動機については、任官目的との指摘もありますが、本書はそれだけではなく侠気もあったのではないか、と推測します。鄭舜功は日本への航海中にトビウオを詳しく観察したようで、その博物学的な好奇心が窺えます。鄭舜功は日本に到着した後、政治工作を開始し、豊後の戦国大名である大友氏と接触し、さらに足利将軍家の権威失墜の情報を得て、京都の天皇との交渉を企図します。鄭舜功の畿内での交渉相手は、当時畿内で強大な勢力を誇り、現在では戦国最初の「天下人」とも評価されている三好長慶(関連記事)でした。ただ鄭舜功は、倭寇禁圧の使者として競合相手となった蔣洲が先に帰国したことに焦り、1556年12月下旬には帰国の途につきます。上述のように、帰国した鄭舜功は、その功績を認められないばかりか投獄されます。

 このように鄭舜功の日本での滞在期間は半年程度でしたが、その日本社会の観察には興味深いものがあります。上述の寧波事件と倭寇の影響もあって、当時明において「日本人」は凶暴との印象が定着していましたが、鄭舜功の報告はそうした「日本人」像の修正を迫るもので、秩序を重んじて善良なところも報告されました。日本では女性が多く、男が多く生まれると殺される、とも鄭舜功は報告していますが、本書は、戦乱の世で相対的に男性の死亡率が高いことや、女性の外出が少ない明と、女性の外出が相対的に多い日本との比較から、鄭舜功には日本では女性が多い、と見えたのかもしれない、と推測します。礼儀などの面で鄭舜功は日本社会を高く評価していますが、明との貿易を求めていた大友義鎮(宗麟)から「国客」として丁重に遇されたので、多少割り引く必要があるかもしれない、とも本書は指摘します。
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