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【英国 階級社会】英国で見たリアルな階級社会 収入・住宅・教育の格差

1:777 :

2023/07/15 (Sat) 12:33:59

【英国 階級社会】英国で見たリアルな階級社会 収入・住宅・教育の格差 ロンドン在住の元為替ディーラー 松崎美子×松島修
2023/06/22
https://www.youtube.com/watch?v=T8qdiqH_nic
2:777 :

2023/07/15 (Sat) 12:38:12

マルクスがイギリスで共産主義を考えた理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/891.html

階級社会イギリスは、オーウェルの「1984年」監視社会を実現した、最初の国だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/889.html

欧州で増える貧困層 イギリスではフードバンク難民が100万人以上
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/803.html

英国鉄道労働者4万人がスト 物価高や低賃金への反撃
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14081003

イギリスの高級オーディオはすべて輸出用で本国では全く売れない
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14004079


3:777 :

2024/01/05 (Fri) 15:53:20

明治の日本が目指した「デモクラシー」は、英国型の混交政体(mixed constitution)であった。イングランド王国の統治形態を模範とすれば、国家元首が天皇陛下で、上院は世襲貴族、すなわち大名クラスの重鎮で構成され、下院議員は下級であっても武士階級の士族を主体とせねばならない。イングランド史を学んだ者なら気づくと思うが、日本の大学教授という種族は、英語を習得しても、日本語の感覚や日本の文化に疎いから、奇妙で的外れな訳語を用いたりする。

Frederic W Maitland 11223(左 / フレデリック・W・メイトランド)
  例えば、フレデリック・W・メイトランド(Frederic William Maitland)の名著『The Constitutional History of England(イングランド國體史)』を和訳した小山貞夫は、「House of Commons」を「庶民院」と訳していた。(F.W.メイトランド『イングランド憲法史』小山貞夫 訳、創文社、1981年pp. 231, 243, 317, 318.を参照。) なるほど、「commons」は大抵の場合、「平民」とか「庶民」を意味するが、英国の政治制度で使われる用語となれば話は別だ。下院議員とは「共同体(communes)」から選ばれた「代理人」であり、元々は準貴族たる騎士が選ばれていた。(John Edward Austin Jolliffe, The Constitutional History of Medieval England : From the English Settlement to 1485, London : Adam & Charles Black, 1937, p.328.)

  象牙の塔に住む教授はともかく、 専門家でない日本人が「庶民」という言葉を聞けば、「江戸の庶民」とかを想像してしまうだろう。一般的に、「庶民」とは商人や職人、農夫とか猟師などの平民(国民 / 領民)を指す。「百姓」だって「万民」じゃなく、主に「農民」を指す言葉だろう。それゆえ、「庶民」の中に代官や町奉行、与力、同心、直参旗本の武士などを含めたら何となくおかしい。

  西洋史を専攻する学者の間では、「庶民院」という訳語が定着している。だが、一般国民にとったら「士族院」と訳した方が適切だ。令和の日本だと、麻生家や岸田家のお坊ちゃんでも“庶民的”な姿を見せるが、階級社会のイングランドでは、「紳士・上層中流階級」と「労働者階級」とでは、様々な面で違っている。

  例えば、酒を飲む時でも、“ホライトカラー(専門職や管理職)”が行くパブと“ブルーカラー(筋肉労働者)”が集まるパブは別個である。ちなみに、中流階級のイギリス人でワインを自宅で嗜(たしな)む者は裕福な者くらいで、1950年代か60年代に「ビストロ(bistros)」が英国で流行ったから、段々と普通の中流階級が呑むようになったらしい。(ジーリー・クーパー『クラース』渡部昇一訳、サンケイ出版、昭和59年、pp.341-342.) 一方、労働者の方は赤提灯みたいな居酒屋で、安っぽい「ジン(gin)」や「密造酒(hooch)」みたいな代物を注文する。彼らの自宅(or長屋)には「ワインセラー」といった御洒落な部屋は無いから、雑貨店でバドワイザーを買うくらい。休日になると仲間と集まり、一緒にビールをガブ飲みして、サッカー観戦に熱狂するのが定番だ。

  話を戻す。中世のイングランドで「議会(特に下院)」に招集される非貴族といえば、大半が騎士階級の血筋に連なる紳士(gentry)か地主階級の生まれである郷士(squire)ときている。イングランドの“庶民”が連想する“士族”は、パブリック・スクールやマナー・ハウスで育った教養人。熱湯風呂で“ウケ”を狙う「たけけし軍団」の「そのまんま東」とか、ビキニ姿で貧素な肉体を晒していた「謝蓮舫」なんかが「士族院議員」に選ばれることはない。(蓮舫の写真集を買った奴は、いったいどんな神経をしているのか?) もし、ヴィクトリア女王が日本の「国会議員」を目にしたら、眉を顰めてしまい、側近のメルボルン卿(Lord Melbourne, William Lamb)に「あの東洋人は何者か?]と御下問なさるだろう。たぶん、ウェリントン公爵(1st Duke Wellington, Arthur Wellesley)だと鼻で笑って沈黙するんだろうなぁ~。

Renho 9932William Lamb Lord MelbourneDuke Wellington 11Queen Victoria 111
(左 : 謝蓮舫 / メルボルン卿 / ウェリントン公爵 / 右 : ヴィクトリア女王)

  とにかく、イングランドの政界で「士族院」に選ばれるのは、紳士や郷士の旦那衆で、藝人や左翼がノーリッヂとかシェフィールド、ダービーといった共同体の“代表”に鳴ることはない。著名な選出議員と言えば、チューダー朝からスチュアート朝にかけて活躍したエドワード・クック卿(Sir Edward Coke)が挙げられる。偉大なる法学者であったエドワード卿は、民訴裁判所や王座裁判所の首席判事、ならびに枢密院顧問官として知られているが、士族院の議員になったこともある。「国士」と呼べる議員は他にもいて、チャールズ1世に諫言すべく、寵臣のバッキンガム公爵を批判したジョン・エリオット卿(Sir John Eliot)も有名だ。同時代の議員としては、大法官や民訴裁判所の首席判事を務めたジョン・フィンチ卿(Sir John Finch)が思い出される。フィンチは士族院議長(Speaker of the House)にもなっていた。

Edward Coke 213John Eliot 213John Finch 213William Cecil Lord 6634
(左 : エドワード・クック卿 / ジョン・エリオット卿 / ジョン・フィンチ卿 / 右 : バーリー卿ウィリアム・セシル )

  名門貴族の子孫も士族院議員になっており、女王エリザベス1世に仕えたバーリー卿(Lord Burghley)ウィリアム・セシル(William Cecil)には、二番目の妻ミルドレッド・クックとの間にできた次男のロバート・セシル(Robert Cecil)がいた。この傴僂(せむし)息子は枢密院顧問官や国務大臣に就く前、士族院議員を務めたことがある。エリザベス女王から「余のピグミー(my pygmy)」、ジェイムズ1世からは「余のリトル・ビーグル(my little beagle)」とからかわれたけど、有能だったので初代ソールズベリ伯爵(1st Earl of Salisbury)になっていた。ロバートには異母兄弟がいて、バーリー卿の長男であるトマス・セシル卿(Sir Thomas Cecil)も、エリザベス治世下で士族院議員になっている。

Robert Cecil 1234Thomas Cecil 213James Cecil 234James Brownlow William Gascoyne-Cecil
( 左 : ロバート・セシル / トマス・セシル卿 / ジェイムズ・セシル / 右 : ジェイムズブラウンロー・ウィリアム・ガスコイン・セシル )

  初代エクスター伯爵(Earl of Exter)となった、このトマス卿の息子も世襲議員になっていて、次男のリチャード・セシル卿(Sir Richard Cecil)は士族院議員となったし、セシル家の子孫は次々と議員や官僚になっていた。初代ソールズベリ侯爵(1st Marquess of Salisbury)となったジェイムズ・セシル(James Cecil)も下院議員になったが、後に父親の跡を継いで上院議員になっている。第二代ソールズベリ侯爵のジェイムズブラウンロー・ウィリアム・ガスコイン・セシル(James Brownlow William Gascoyne-Cecil)も議員に選ばれ、三代目のロバート・アーサー・タルボット(Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil)、四代目のジェイムズ・エドワード・ヒューバート(James Edward Hubert Gascoyne-Cecil)、五代目のロバート・アーサー・ジェイムズ(Robert Arthur James Gascoyne-Cecil)などが士族院の議席に就いている。

Richard Cecil 662Robert Arthur Talbot Cecil 002James Edward Hubert Cecil 222Robert Arthur Cecil 5th
(左 : リチャード・セシル卿 / ロバート・アーサー・タルボット / ジェイムズ・エドワード・ヒューバート / 右 : ロバート・アーサー・ジェイムズ )

  日本でも有名なホイッグ党のロバート・ウォルポール卿(Sir Robert Walpole)は、地方紳士で士族院議員だった父ロバート・ウォルポールの三男として生まれた。この息子は英国のエリートらしく、イートン校とケムンブリッジ大学を経て士族院議員となり、首相や大蔵卿を務めたあと、初代オルフォート伯爵(1st Earl of Orford)に叙せられた。初代チャタム伯爵(1st Earl of Chatham)となったウィリアム・ピット(William Pitt)も世襲議員で、父のロバート(Robert Pitt)は士族院議員だったが、祖父のトマス・ピット(Thomas Pitt)はマドラス管区長(President of Fort St. George, Madras)だ。首相になったウィリアム・ピットには、同姓同名の息子がいて、「小ヒット」と呼ばれたウィリアム・ピット(William Pitt the Younger)も英国の首相になった。国王ジョージ3世の指名というか、一種の賭けで、王国の宰相になった訳だが、僅か24歳で首相に就任じゃ、色々な陰口があっても当然だ。

Robert Walpole 213William Pitt 1st Earl of Chatham 224William Pitt the YoungerThomas Pitt 2334
(左 : ロバート・ウォルポール卿 / ウィリアム・ピット / 「小ピット」のウィリアム・ピット / 右 :トマス・ピット)

  昔、上智大学教授だった渡部昇一先生が述べていたけど、イングランドが繁栄したのは「デモクラシー」じゃなく、「ジェントルマンによる統治」だったからという指摘があった。第20世紀後半のイングランドが大国(super power)の地位から転落し、「英国病」に悩む程の醜態を晒したのは、大衆支配の国家になったからだ。ヴィクトリア朝の英国を知る者には堪えられないが、国内では労働党が台頭し、オックスフォードやケンブリッジ、ロンドン大学などでは、ハロルド・ラスキ(Harold Joseph Laski)やジェラルド・アラン・コーエン(Gerald Allan Cohen)、エリック・ホブズバウム(Eric John Ernest Hobsbawm)のようなユダヤ人学者や、クリストファー・ヒル(John Edward Christopher Hill)みたいなマルキストが溢れていた。こんな有様だから、プラトンが嫌った「カキストクラシー(kakistocracy / 劣悪な者による支配)」が固定化しても当然だ。近世までの西歐では、君主政と貴族政(aristocracy / 優秀な者による支配)が理想の政体となっていた。それゆえ、新旧の労働党や隠れ共産主義者が台頭する政界なんて論外。目眩がするほど恐ろしかった。

Harold Laski 12Gerald Allan Cohen 2324Eric Hobsabwm 8833Christopher Hill 643
(左 : ハロルド・ラスキ / ジェラルド・アラン・コーエン / エリック・ホブズバウム / 右 : クリストファー・ヒル )

  確かに、現在のイングランドの下院は、まさしく「庶民院」に相応しい。何しろ、労働組合上がりの“族議員”や金融業者の手先となった売国奴、低能丸出しの平民議員、帰化国民のパキ人やインド人の親を持つ2世や3世が当選して大臣や首相になっている。例えば、有色人種のリシ・スナク(Rishi Sunak)が首相となり、パキスタン系のサディク・カーン(Sadiq Khan)がロンドン市長、アフリカ系のキース・ヴァズ(Nigel Keith Anthony Standish Vaz)がヨーロッパ担当大臣になっているんだから、パブリック・スクール卒のイギリス人が聞いたらビックリ仰天だ。さらに、サイーダ・ワルシ(Sayeeda Hussain Warsi)やビク・パレク(Bhiku Parekh)のように男爵位(Baron /Broness)を授かったアジア系貴族院議員も居るんだから世も末である。

Sadiq Kahn 932Keith Vaz 213Sayeeda Warsi 255Parekh Bhikhu 5894
( 左 : サディク・カーン / キース・ヴァズ / サイーダ・ワルシ / 右 : ビク・パレク )

  脱線したので話を戻す。そもそも、なぜイングランドで紳士や郷士の起源になる騎士階級が勃興したのかと言えば、それは国王が大貴族の野心を排除したり牽制するためであった。有力な公爵とか伯爵などは時折、チャンスがあれば王位の簒奪やクーデタ並みの叛乱を企てたりするから、棟梁としての国王は安心できない。だから、王族への野心を持たない準貴族、とりわけ君主と王国に心からの忠誠を誓う騎士は貴重だ。中にはロクデナシも混じっているけど、世襲貴族よりも数が多いから、有能な紳士が自然と浮かび上がってくる。所謂、「嚢中之錐(のうちゅうのキリ)」というやつだ。王国全体を効率的に支配したい国王からすれば、血筋だけで公爵や伯爵になったボンクラ息子より、文武両道に秀でた紳士を用いる方が、よっぽど賢明である。実際、ヘンリー1世やヘンリー2世は、王座の裁判権を強化すると共に、各地の「州長官(sheriff)」とか「巡回裁判官(itinerant justice)」に騎士や地方の名士を充(あ)てていた。

  英国の陪審員裁判も中世の頃に確立された司法制度で、地方の領地で訴訟沙汰が起きれば、先ず四人の騎士が選ばれ、その者達が12名の騎士を選出して問題の審議に取り組んでいたのである。また、こうした地方行政官の騎士は、当時の“中央政府”とも呼べる「王の法廷(Curia regis)」に招聘され、重要な法律や政治議論に加わるよう命じられた。ただし、最初は傍観者のような立場であったが、徐々に戦争や課税の議論に加わるようになり、しまいには王様の方針に異議を唱えることも。こうして下院の騎士達は国政を左右するような勢力になっていった。士族院の起源や発展については、メイトランドの著作やウィリアム・スタッブス(William Stubbs)の『The Constitutional History of England』、およびスタンリー・B・クライムズ(Stanley Bertram Chrimes)の『An Introduction to Administrative History of Medieval England』を読むと、複雑な英国の憲政史や行政史がよく解る。

  とにかく、ノルマン人に征服されたイングランドでは、封建貴族を率いた国王が、自らの権力を強化し、中央集権で政治を行うという有様になったが、それが幸運な逆説となって中流階級が栄えるデモクラシー的国家になっていた。“征服王”と呼ばれたウィリアム1世は1086年、ソールズベリに有力な土地保有者を集め、国王に対する忠誠を誓うよう命じた。(Edward Shepherd Creasy, The Rise and Progress of the Englsih Constitution, London : Richard Bentley, 1853,p.88.やJames Clarke Holt, ed. , Doomsday Studies, Suffolk : The Boydell Press, 1987, p.42.およびHenry Alfred Cronne, 'The Salisbury Oath', History, Vol. 19, Issue 75, 1934, p.250.を参照。)

  ハロルド王を倒し、新たな支配者となったノルマンディー公爵が、ヨーロッパにいる他の君主や領主と違う点は、封土を直接もらっている「直属受封者(tenants-in-chief)」だけでなく、その臣下となっていた「陪臣(sub-tenants)」にも国王への忠誠を誓わせていた方針にある。見方によっては高圧的な専制君主にも思えるが、封建制に特有な地方貴族の叛乱を防いだことでイングランド王国の安泰に貢献することになった。

「法案作成能力」じゃなく「信頼」と「知名度」が鍵となる選挙

  封建制を基盤とする立憲君主政のイングランドで、 なぜ平民の下院議員よりも紳士の士族院議員の方が良いのか、と言えば、それは「信頼」の点で勝っているからだ。基本的に民衆は“新奇なもの”や“異質な文化”、“見知らぬ他人”を無意識的に嫌う。そして、“身近”で“馴染みのあるもの”に安心感や好意を抱く。だから、日本でも自民党が長期的な“政権与党”になっている。“ブランド”を有する自民党は、金銭スキャンダルや浮気問題が発覚しても選挙に強く、“異質”な共産党や公明党は、一部の“マニア(赤色分子やカルト信者)”を除いて、全く人気がない。自民党が内部から腐敗し、売国奴が幹事長や官房長官になっても野党に転落しなかったのは、全国各地の一般国民に、その党名と信頼が浸透していたからだ。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68951524.html
4:777 :

2024/01/05 (Fri) 15:57:44

ロンドンクライシス、平均家賃47万円で家をなくす人達
2024.01.05
https://www.thutmosev.com/archives/32317.html

とあるロンドンのルームシェア


https://knowyourmeme.com/photos/2615400-starter-packs
ロンドンの平均家賃47万円?

英国立統計局(ONS)が23年4月に発表した統計では民間賃貸住宅に新規入居した国民が支払った家賃は収入の平均26.8%だった

別の調査によるとイングランド(イギリス本島の大半)の大学生の家賃は年間7566ポンド(約136万円)で月11万円だったが、これは田舎の地方都市も含んでいる

それに今時1人で1部屋を借りている学生は少ないので、1部屋分の家賃は11万円の数倍になっている場合もあります

生活維持のために借りた学生ローンの大半が家賃の支払いで使い切り、1週間平均50ペンス(約92円)相当しか手元に残らない

学生が借りる部屋の45%が大学提供のもので残りの55%は民間の部屋、西部のブリストルでは平均年間賃料は9200ポンド(約170万円)だった

学生が生活費として借りられる年間の上限額は9978ポンド(約184万円、ロンドンでは1万3022ポンド=約241万円)なので借りた金の7割以上が家賃だけで消えるのです

東京の平均家賃が9万円でロンドンは15万円、日本の平均は5万円台でイングランド平均は11万円なので比較すると1.5倍から2倍の差に思えるがそうではないのです

東京や日本の家賃は「1部屋丸ごとの家賃」でロンドンやイングランドは「一部屋や1軒を数人でシェアする家賃」なので数倍違います

東京で10万円の部屋を借りて2人でシェアすると家賃5万円ですが、ロンドンは40万円以上を4人でシェアして10万円以上になっています

NHKで紹介されたロンドン中心部の例では6.5畳の部屋の家賃が47万円で4人でシェアしてそれぞれが14万円なので、合計家賃56万円になっていました

4人のうち1人は1人で住む部屋を探したが1500ポンド(日本円でおよそ27万円)以下の物件は、まったく見つからなかったという

2023年10月時点で賃貸が可能な空き物件の数はコロナ禍前と比べて3割以上減少、これはコロナ後の都心回帰現象が影響しているという

間違った政策でホームレスが急増
NHKによるとロンドンの平均家賃は47万円で部屋数が不足していて、さらに契約期間中であっても家主の都合だけで契約解除し立ち退かせる事ができるためホームレスが増加している

イングランドでホームレスの子どもは13万1370人も居て、定住する安定した住居がなければ一時収容施設の人もホームレスにカウントされる

ホームレスになったきっかけで最も多いのは家賃の値上げや大家の立ち退き要求で、イギリスでは何の理由もなくても大家が「出て行け」と言えば立ち退かなくてはならない

その代わり入居時の審査は緩いのだがこれほど家賃が高騰してしまったために、立ち退き要求され家を無くした人は平均4か月次の部屋を借りれていない

英紙フィナンシャル・タイムズによると、ロンドンの賃借人は収入の35%を家賃の支払いに充てていて、これはイギリス平均の26.8%よりかなり高い

イギリスで賃貸住宅が不足しているのは公的賃貸住宅がないからだが、その原因は1980年代にサッチャー首相が行った経済政策にあった

サッチャーは景気対策として公的賃貸に住んでいる人に格安でその住居の所有権を払い下げ、その後住宅価格は数十倍に高騰した

公営住宅がなくなったので全てを民間賃貸住宅で引き受ける事になったが、需給バランスが崩壊してしまい平均家賃40万円という事になった

東京の場合は国営団地URの他に都営や区営住宅がかなりあり、民業圧迫と言われながらも家賃相場を下げる効果をもたらしている

イギリスのオンライン新聞インディペンデントは22年のロンドンでは8855人が住む家がないことが原因で路上生活者となっていた」と報じました

インディペンデント紙によれば、この数字はロンドンのホームレス人口が、過去1年間で20%増加している

こうした中で イギリスのスエラ・ブラヴァマン内相がホームレスへの罰則を科すと表明し「ホームレスは自分が望んだライフスタイル」と発言し国民の反発を受けて辞任に追い込まれた

ブラヴァマン内相はパキスタン系の女性政治家で、インド人のスナク首相が任命した「南アジアチーム」の1人だったが人々を大いに失望させた

https://www.thutmosev.com/archives/32317.html

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