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1:777
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2023/06/25 (Sun) 16:07:29
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飛鳥宮 古代国家形成の舞台 ~発掘調査60年~
橿考研チャンネル
2023/03/28
https://www.youtube.com/watch?v=j9bUUMEis4c
60年におよぶ橿原考古学研究所による史跡 飛鳥宮跡の発掘成果をまとめた映像です。飛鳥宮の歴史とともに、その調査の歴史に迫ります。
飛鳥京跡苑地の発掘~20年の調査成果~
橿考研チャンネル
2022/03/25
https://www.youtube.com/watch?v=7QCzU3R-YWI
飛鳥の宮殿に隣接する「苑池」は規模も大きく、びっしりと石が敷き詰められていて、その迫力に驚かされます。中国や朝鮮半島にも、全く同じタイプの苑池は見つかっておらず、飛鳥時代の日本のあり方を物語る「苑池」の全容を見ることができます。
高松塚古墳の50年
橿考研チャンネル
2022/03/25
https://www.youtube.com/watch?v=F3FQGF6MerU
極彩色の壁画で知られる奈良県明日香村の高松塚古墳。1972年の発掘調査、カビなど生物被害との戦い、石室解体とその後12年間の壁画修理など、古墳がたどった激動の半世紀を貴重な記録映像で振り返ります。
藤ノ木古墳の発掘調査~未盗掘古墳の世界~
橿考研チャンネル
2022/03/25
https://www.youtube.com/watch?v=iAehnOrZW54&t=166s
未盗掘古墳であることがわかった1985年の調査から、石棺の開棺まで注目を集めた奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳。映像には、朱塗りの石棺が見つかった時の様子や多くの副葬品が眠る棺が開けられる瞬間が記録されています。
橿考研チャンネル - YouTube
https://www.youtube.com/@user-vp6ti5pv6r/videos
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2:777
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2023/06/25 (Sun) 16:12:26
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寺西貞弘『天武天皇』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14114723
わずか16年で消滅!?藤原京の謎!!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14051657
藤ノ木古墳の発掘調査~未盗掘古墳の世界~
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14091779
遺跡からみる近江地域の渡来系集団―大津北郊地域の遺跡を主な手がかりとして―
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14095639
日本人の起源と江戸時代までの歴史
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/606.html
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3:777
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2023/06/26 (Mon) 15:12:33
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【人類学】ヤポネシアゲノムから見る日本人のルーツ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/c/geo/1680731914/l50
0103名無しさん@お腹いっぱい。
2023/06/12(月) 04:00:56.88ID:thiUSxGb
Brown Bag Seminar No.033 Kazuo Miyamoto 「近年の日本語・韓国語起源論と農耕の拡散」
https://www.youtube.com/watch?v=a4hLPynYKug
0111名無しさん@お腹いっぱい。2023/06/17(土) 22:11:32.66ID:MmXWHyFO
>>103
動画観たけど、遼寧から南下して日本へっ言いたいみたいやね。
トランスユーラシア語族説と一緒やん。
0112名無しさん@お腹いっぱい。2023/06/17(土) 22:13:42.12ID:MmXWHyFO
>>104
神代の天皇の年齢は2倍歴時代のものらしいさか、半分にすると現代に近くなるんやて。
0105名無しさん@お腹いっぱい。2023/06/14(水) 05:34:43.56ID:MgVdfu+g
中国「この日本人とかいうヤツラなんだか嘘くさい・・・。」
『旧唐書』巻一九九上 列伝第一四九上 東夷「日本国伝」
日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。
或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本舊小国、併倭国之地。
其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中国疑焉。
又云、其国界東西南北各数千里、西界南界咸至大海、東界北界有大山為限。山外即毛人之国。
(和訳)
日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。
その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている。
彼らは「我が国の国境は東西南北、それぞれ数千里あって西や南の境はみな大海に接している。
東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言っている。
0113名無しさん@お腹いっぱい。2023/06/18(日) 05:03:14.01ID:uki0yXrR
板橋義三 『高句麗の地名から高句麗語と朝鮮語・日本語との史的関係をさぐる』
板橋論文を大幅にかいつまむと次のようになろう:
総計111の高句麗語が収集され、そのうち47語は日本語に同源語が見られる。
周辺言語との比較では、日本語との同源性が一番高い。
僅か111語で何が言えるか?とも思ったり、その僅かな中でも47語、と濃厚に日本語との同源が推定出来る、というのは大変なことだ、とも思ったりする。
山 高句麗 γapma 日本 yama
熊 高句麗 kun[m] 日本 kuma
木 高句麗 kil/kir/kin 日本 ki/ko2i-
心 高句麗 kor 日本 ko2ko2ro2
馬 高句麗 ma 日本 ma
鉛 高句麗 namur 日本 namari
白 高句麗 sirap 日本 siro:sira-
兎 高句麗 usiγam 日本 usagi
谷 高句麗 tan 日本 tani
三 高句麗 mir 日本 mi
五 高句麗 uc 日本 itu
七 高句麗 nanin 日本 nana
十 高句麗 tok 日本 to2wo
0114名無しさん@お腹いっぱい。2023/06/18(日) 05:26:37.12ID:uki0yXrR
日本語と関係があるかもしれないと思っているのは、濊語。
つまり旧高句麗地名から推定される言語で、それが日本語に近いのは間違いない。
実際には高句麗語を反映するというよりも、倭人(濊人)が半島でモザイク化して居住していて
半島日本語の地名を残したとか、そんなイメージではないかと思うんですけど。
それを河野六郎先生がはじめて濊人の言語ではないかと言い始めた。
きっかけとなった証拠は、もともと朝鮮で倭人をなんと呼ぶかというとjejですね。これが濊の字音jejと一致します。
倭人の字音はwajとなるはずなんですが、中期朝鮮語の資料ではjejと呼ばれている。
それが現在の中国東北部、「夫余」の地域あたりまでJaponicで解ける地名があると言われています。
0123名無しさん@お腹いっぱい。2023/06/19(月) 08:10:54.20ID:P2nZVGYS
喜田貞吉「我が国を日の本と称することは、邦人自身ではなく、百済人らの間に始まった。」
「国号の由来」 喜田貞吉 1937年
https://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49809_44666.html
0124名無しさん@お腹いっぱい。2023/06/19(月) 08:25:15.60ID:P2nZVGYS
「日本」の国号成立に百済人が関与か
https://livedoor.sp.blogimg.jp/rakushigotojyutsu/imgs/5/7/57d59532.jpg
中国の古都・西安で見つかった墓誌に「日夲」の文宇が見つかった。墓誌は678年の作としている。
日本と名乗るようになったのは大宝律令(701年)からとの見方が有力だが、墓誌が本物ならさらに遡ることになる。
祢軍という百済人の軍人の墓誌で、676年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。
百済を救うために倭国は朝鮮半島に出兵したが、663年に白村江の戦いで唐・羅連合軍に敗れる。
その後の状況を墓誌は「于時日夲餘噍據扶桑以逋誅」と記述している。
墓誌銘の文章は、扶桑・風谷・盤桃など自然環境的特徴に基づいた隠喩的名称を使ったものと見られる。
倭国はヘジュァ(海左:海東側)、ヨンドン(瀛東:中国東側)と表記されており
碑文の「日夲」は現在の日本を指したものではなく、中国から見る「日が昇る所」という意味で、すなわち百済を示す。
日本書紀に「傾覆百濟、君臣總俘、略無噍類」とあり、「餘噍」は、百済の君臣の残党と推定できる。
「扶桑」は、中国神話で東方のはてにある太陽を生む樹と言われ、後世、扶桑国は、中国における日本の異称となった。
よって、碑文の解釈は「日夲の餘噍(百済の残党)は、扶桑(日本列島)に立て籠もり、誅伐をのがれた」となる。
このことからイ・ヨンヒョン学芸士は「日本の国号成立に百済人が関与した可能性が大きい」と分析した。
0125名無しさん@お腹いっぱい。2023/06/19(月) 12:23:47.47ID:Ke/vzys3
興味ある記事やね。
「倭国」は九州に住んでいた人々が長江下流の部族の「倭族」と同じ言語や風習、ルーツを持っている理由で当時の中華王朝がそう呼んでいたという説を聞いた事がある。
だから、ヤマト王権の方は早くから「日本」の国号を名乗っていた可能性はあると思う。
百済は最初からヤマト王権と国交を持っていたんで、「日本」の国号を記していたのかも知れない。
0126名無しさん@お腹いっぱい。2023/06/19(月) 12:35:45.22ID:Ke/vzys3
古代の九州と本州は別の王朝が建っていたとの説もある。
記紀でも九州に度々出兵した事が記されているんで、ヤマト王権にとって敵対勢力がいた事は明確やろな。
だから、大陸や半島とはそれぞれ外交ルートを持っていた可能性はあるやろう。
0127名無しさん@お腹いっぱい。2023/06/19(月) 16:22:59.63ID:IJAbvvLz
古墳時代は奈良が当時の行政の中枢だったという話もある
「当たり前じゃね?」と思うかも知れないけど、実態としては豪族が集う事で国体を形成し首長国を採るような形態をしていた感じってのを散見する
要は連邦国家みたいなもんだったんだろうね
国号が変わったのはある時期からで、これは当時の有力な勢力名をそのまま踏襲するような形になったんだろうか
倭とかがルーツに出るのはこれより前の弥生時代の話だろうね
0128名無しさん@お腹いっぱい。2023/06/19(月) 18:42:47.02ID:Ke/vzys3
>>127
要は魏志倭人伝に記された邪馬台国が九州なのか、畿内なのかなんやろうけど、どちらも連合国である事は確かやと思う。
邪馬台国は女性の巫女が神託を受ける事によって政治をしていたと記されている。
ヤマト王権も倭迹迹日百襲姫命とか、倭姫命とか神功皇后等の神託を受けていた姫巫女が居たわけやし、似たような政治体制やったんやと推測している。
0129名無しさん@お腹いっぱい。2023/06/20(火) 04:01:05.09ID:9mkv7AI3
ジャレド・ダイアモンド「弥生人は朝鮮人」。
ジャレド・ダイアモンドは、その世界的なベストセラー『銃、病原菌、鉄』で、
「朝鮮半島から先進文明を持った人々が大量に渡ってきて先住の縄文人を殺したので、
弥生時代という縄文時代とは根本的に性格を異にする新しい時代が始まった」
という主張をかなりの説得力を持って示している。読めば納得、というやつだ。
しかしなんと、『銃、病原菌、鉄』が和訳される時、その章だけ訳されなかった。
「日本人=朝鮮人」という真実がそんなに都合悪いのか。
その訳し飛ばされた部分を訳してくれた人がいる。
https://cruel.org/diamond/whoarethejapanese.html
0130名無しさん@お腹いっぱい。2023/06/20(火) 06:53:43.04ID:ZD0pVa8B
>>129
何故、弥生人=朝鮮人は都合が悪いのか?
そんなん決まってるやん。
奴等の儒教思想による解釈は先祖=神なんやさか、日本人に対して更なる強請り集りが酷くなるのが目に見える。
唯さえ、永遠の謝罪と賠償要求、日本領土の不法占拠、捏造による返還要求、日本のEEZ内での調査妨害等無法者これに極まれリ。
0131名無しさん@お腹いっぱい。2023/06/20(火) 08:44:19.47ID:ozHaKP1A
>>129
なぜその章だけ訳されなかったのか?
もちろん、そんな中卒ギャグすぎる考古事実なんかないから
朝鮮半島から先進文明を持った人々が大量に渡ってきて先住の縄文人を殺して
弥生時代が幕開けしたなら、弥生時代は九州北部から土器型式が朝鮮土器で
幕開けするはずである
ところが弥生時代は沿海州南部と一致する刻目突帯文土器という土器型式で幕開けし、
しかも縄文末の山陰の出雲あたりからその土器は始まっている
イネの粒種や農具の系統から見て明らかに朝鮮半島から取り入れられている最古の
稲作遺構ですら朝鮮土器は一切作られなかった
朝鮮半島との交流を示す朝鮮土器の壺が一つ見つかったのみである
弥生中期になると朝鮮半島から搬入した朝鮮土器やそのコピーである擬朝鮮土器などの
朝鮮系土器が出土する遺構が多くなるが、朝鮮半島から入植した事を示す典型的な
オリジナルの朝鮮系土器がメインの遺構というのがほとんどなく、弥生終焉まで
朝鮮土器が列島の土器型式になる事はなかった
青銅器や鉄器などの最古の金属器の製造遺構でさえそのような状態である
列島側から積極的に朝鮮半島から先進文化を取り入れた痕跡はあるが、
朝鮮半島から入植してきた痕跡遺構はほとんど見られないのである
これは朝鮮半島の典型的なオリジナルの朝鮮陶質土器や韓式土器と区別が付かないほど
精巧な朝鮮系土器がメインで見られる遺構が多い古墳時代中期と比べると至極対照的な
事である
-
4:777
:
2023/06/26 (Mon) 15:22:19
-
0137名無しさん@お腹いっぱい。2023/06/21(水) 12:31:30.00ID:nui70mSm
朝鮮半島(三韓)の国名の中から、倭国と明らかに同一か、よく似ている名を取り上げてみます。
「邪馬(やま)」 弁韓には彌烏邪馬国 倭国には邪馬台国
「狗邪(くや)」 弁韓には狗邪国 倭国には狗邪韓国
「樂奴・華奴」 弁韓には弁樂奴国 倭国には華奴蘇奴国
「躬臣・古資」 弁韓には古資彌凍国 倭国には躬臣国
「不彌(ふみ)」 馬韓には不彌国 倭国には不彌国
「卑離・巴利」 馬韓には卑離国 倭国には巴利国
魏志に記された地名だけでも、倭と韓ではこれだけ一致するもの、似たものがあることが分かりました。
これらの地名は、弁韓(任那)・馬韓(百済)の地域にいた半島日本語の話者が、
列島に移住後も故地と同じ名を付けたことを示しているのではないかと思われます。
特に彌烏邪馬国は邪馬台国のヤマでもある点は見逃せません。
0138名無しさん@お腹いっぱい。2023/06/21(水) 13:49:12.83ID:nui70mSm
× 半島南部を支配してたのは倭人
○ 半島南部から叩き出されたのが倭人
東アジア言語地図 (オハイオ大学 J. Marshall UNGER が作成)
https://www.oeaw.ac.at/fileadmin/Institute/IKGA/IMG/events/Unger_2013_handout.jpg
0141名無しさん@お腹いっぱい。2023/06/22(木) 12:14:48.02ID:WbHxinXe
高句麗の丸都山城が吉野ケ里遺跡とほぼ同時期(4世紀頃)の遺跡なので
この時点で相当な差がついてる
高句麗の丸都山城 4世紀頃
http://www.ryugyongclip.com/contents/gisa/nation/2016/07/gisa_nation_2016-07-30_dn170_image2.jpg
ヤマトの宮殿 5世紀中頃
https://i.imgur.com/LZVINw8.jpg
0142名無しさん@お腹いっぱい。2023/06/22(木) 12:16:34.18ID:WbHxinXe
倭 VS. 新羅
新羅 慶州 6世紀 発掘された当時の瓦
http://konotabi.com/KoreaTour2011/GeonjuMuseum/image437.jpg
http://konotabi.com/KoreaTour2011/GeonjuMuseum/image404.jpg
http://konotabi.com/KoreaTour2011/GeonjuMuseum/image434.jpg
http://konotabi.com/KoreaTour2011/GeonjuMuseum/image409.jpg
http://konotabi.com/KoreaTour2011/GeonjuMuseum/image465.jpg
http://konotabi.com/KoreaTour2011/GeonjuMuseum/image466.jpg
倭 古墳時代前期 服部遺跡
http://hattori-iseki.yayoiken.jp/wp-images/4.jpg
飛鳥板葺宮 7世紀末 皇極天皇の皇居
https://www.asuka-tobira.com/miya/itabukinomiya2.jpg
新羅の金城、百済の慰礼城、熊津、四ビ、高句麗の丸都山城、平壌城クラスの都邑が
日本に現れるのは城壁抜きの規模で比較しても藤原京(百済人が奈良につくった都)からだし
百済から瓦職人が渡来するまでは、板葺の掘っ立て小屋を皇宮としてたくらい
飛鳥時代に百済によって仏教の教えと共に寺院建築が伝えられ、飛鳥寺造営で初めて瓦葺の屋根が作られた
瓦製作は、百済の「瓦博士」が直接指導したことは有名で、軒瓦の文様には百済風の蓮花のデザインが採用されている
当時の日本列島住人はその最新の建築に目を見張ったことだろう
要するに現代日本の匠、職人さんたちってのは、朝鮮半島からの職能集団(品部)の子孫
0143名無しさん@お腹いっぱい。2023/06/22(木) 12:26:33.76ID:KgkzvyYi
僕が日本を見直したのは、30代になって初めてヨーロッパへ行って帰って来た時です。
ヨーロッパといっても、ほんの一部、スウェーデンをうろうろしただけですけれど、帰って来てみると、自分がどれだけこの島の植物や自然が好きかということがよくわかったんです。
人がいなければ日本はものすごくきれいな島だと思った。日本の国や日の丸が好きになったのではなく、日本の風土というのは素晴らしいものだという認識を持つようになりました。
貧乏であるとか、ゆとりがあるとかというのとは関係なしに、豊かな環境の中にいると思いました。
明治神宮にすごい森があって、それが人間の作った森だということなどがわかってきた。そんな土地の力を持っている島にいるんだということが、実に緩やかに少しずつわかってきたんです。
http://blogos.com/article/67026/?axis=&;p=2
0150名無しさん@お腹いっぱい。2023/06/25(日) 14:56:25.81ID:aY8QFO3q
文字を持たなかった倭人を教化したのが、百済のワニ博士だ
「隋書」 列伝第四十六 倭国 無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字
(訳) 倭国は文字を知らず、だた木に刻みを入れたり縄を結んで記録する程度であったが、仏法を敬い百済から経典を求めて得たことによってはじめて文字を読めるようになった。
0151名無しさん@お腹いっぱい。2023/06/25(日) 23:30:20.06ID:4yh+wJPk
>>150
マウント取りたいが為にこうやって書き込んで来るけど、こんな疑問は起きんか?
ヤマト王権が何故仏教や漢字を採り入れたのか?
そのワニ博士は中世の西欧諸国の様に、頼まれもしないのにキリスト教を布教しにやって来た宣教師と同じなんか?
それなら、ただのスパイやん。
0152名無しさん@お腹いっぱい。2023/06/26(月) 12:55:45.44ID:OIoZqard
古代日本も朝鮮半島国家も特定の文字や宗教があったかどうかは知らんけど、結局は中華王朝の文化や技術を取り入れて富国強兵政策を行っている。
それは、国内の安定と国外の外交には必要な物やった為やろう。
それに現代の英語と同じ様に共通の言語を学んでいれば、外交や交易のやり取りはスムーズに行える。
こちらから取り入れようとして学んだ事と、強制的に覚えさせられた事じゃ意味が全然違うよな。
ワニ博士はどっちなんや?
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/c/geo/1680731914/l50
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5:777
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2023/06/26 (Mon) 16:23:11
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うう
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6:777
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2023/08/23 (Wed) 16:43:29
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【落合陽一】謎の『石造物』の正体は?聖徳太子『隋が激怒』した国書、実は“勘違い”で送ってしまった!「仏教伝来は複合的に“オイシイ話”だった」飛鳥時代の外交戦略と『日本誕生』を詳しく解説「三韓征伐は…」
https://www.youtube.com/watch?v=PD-__4CGLmU&list=PLDxonNcxMgrtONxErEWf2ZUlVJAoqDh9R&index=8
飛鳥時代を知ることは、国づくりの「ルーツ」を知ることに他ならない。
120年あまり続いた飛鳥時代は、日本の歴史区分としては決して長くはないが、今風に言えば、あらゆる“イノベーション”が起きた時代であった。天皇を中心とした律令国家を目指す政策が推し進められ、「日出処の天子、書を日没する処の天子に致す」に代表されるように、大国の隋などとの外交上の“駆け引き”が行われ、さらに貨幣が初めて作られるなど、まさに「クニ」としての礎が築かれたと言える時代だ。
中でも、大きな改革の一つが、仏教の導入。聖徳太子は、法隆寺の建立の他、「和を以て貴しと為す」「あつく三宝を敬え」とする『十七条憲法』を説くなど、積極的に仏教の教えを取り入れたとして知られている。飛鳥時代の政治の本質と仏教との関係とは? 「国づくり」が大きく進むなかで、社会システムや人々の生活はどう変わったのか?いかに日本文化の基礎が築かれたのか?
国立歴史民俗博物館の仁藤敦史教授を迎え、落合陽一が“日本初”ずくめの激動の世紀を通して、「日本誕生」の真相を探求する。
ゲスト:仁藤敦史(国立歴史民俗博物館・教授)
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7:777
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2024/06/07 (Fri) 18:28:54
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1500年前の日本の関西、朝鮮半島の祖先が住んだ場所だった
2023-10-10
https://japan.hani.co.kr/arti/culture/48030.html?utm_source=yahoo&utm_medium=referral&utm_campaign=headlines&utm_content=20240607
『渡来人の考古学と歴史』発刊
米国の学者が古代韓日交流史をまとめた本
全羅南道咸平礼徳里にある新徳古墳の1990年代の調査時の姿。前方が四角で後方が丸い古代日本特有の前方後円墳だ。古墳の各所に石を積んだ跡(葺石)が見え、周囲を溝で囲む日本式の前方後円墳の典型的な姿をそのまま示している=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社
最近、韓国人が最も多く訪れる海外の観光地の一つが、大阪のある日本の関西地方だ。日本で最大規模のコリアンタウンがあることでも有名なこの地域について、多くの韓国人は、20世紀初めに植民地となった祖国を離れた多くの朝鮮人が生計のために定着したところだと認識している。
しかし、歴史的な真実は、関西に刻まれた古代の祖先の驚くべき足跡を伝える。『続日本紀』の8世紀初めの人口調査記録によると、1300年前の関西地方の中心だった南部の奈良盆地に住んでいた人の80~90%が百済系移民だった。それを立証するのが、関西地方に5世紀後半から登場する百済特有の墳墓の様式である横穴式石室墳で、6世紀まで爆発的に増加し、高安などの地域に「1000個の墓」という意味の千塚古墳群が雨後の筍のように登場する。一部のエリートの墓は王陵級であり、非常に大きいうえ、銅鏡、鉄製短剣、刀、金のイヤリング、玉・ガラス製品などが出土し、百済と馬韓系統の住民と支配者の存在を示している。未発掘の古墳は数百基にのぼり、関西地方だけでも少なくとも1000基を超える百済系の古墳群が造られたと推定される。歴史考古学者の石渡信一郎氏は「千塚と呼ばれる巨大な墳墓の主が朝鮮半島西南部出身の渡来人とその子孫であることを考えれば、紀元後475年から600年までの125年間に、少なくとも100万人が朝鮮半島から日本列島に渡ってきたものと考えられる」と推定した。
『渡来人の考古学と歴史』表紙//ハンギョレ新聞社
こうした事実は、米国で研究中の3人の考古人類学者が、韓国と日本で刊行された膨大な考古学と歴史学の刊行物の書誌情報をもとに分析・整理した学術書『渡来人の考古学と歴史』(周留城出版社)に出てくる内容だ。米国オレゴン大学のイ・ソンレ考古学名誉教授、オレゴン大学のメルビン・エイケンス人類学(考古学)名誉教授、英国ダラム大学のジナ・バーンズ日本学名誉教授が共同で執筆し、韓国伝統大学融合考古学科のキム・ギョンテク教授が翻訳した。この本は、紀元前1000年以前の無文土器時代から紀元後7世紀の三国時代まで、朝鮮半島から日本列島に渡った移民の経路と、これらの人たちが日本の文化と社会の発展に寄与したことを、朝鮮半島からの「渡来人」の活動状況を通じて集中的に探求する。
この本は、古代の朝鮮半島からの渡来人の話を7つの質問を通じて解き明かしていく。これらの人たちはどこから来て、その歴史的・社会文化的な背景は何であり、なぜ朝鮮半島を去り、日本列島のどこに定着して何をしたのか。これらの人たちを日本列島の人たちはどのように待遇し、また彼らは日本社会にどのような貢献をしたのかについて、最近の研究成果をもとにわかりやすく解いていく。時代別に、稲作の伝来、青銅器文明の伝播、鉄器の伝播、宗教・文化的文物の大規模伝播などに区分される古代朝鮮半島の祖先の日本列島移住文化史は、絶えず流れる「河川のようなもの」であり、渡来人の話は、日本の始まりというミステリーの箱を開く重要なカギだとする洞察によってまとめられている。著者らは「日本が5~6世紀に古代国家の基盤をつくった革命的な変化は、技術と技能を持った人たちが入ってきて、技術的・文化的な革命を成し遂げたことによって可能だったもの」だとし、渡来人は古代日本の国家基盤を作った必須の要素だったと指摘する。
『古代韓日交流史』表紙//ハンギョレ新聞社
今年上半期に出版された中堅考古学者の パク・チョンス教授(慶北大学)の力作である『古代韓日交流史』(慶北大学出版部)も、伽耶・百済・新羅からの文化伝播が4~6世紀の日本の古代国家成立の軸になったことを、考古学的な発掘の成果で論証した大作だ。3~5世紀の日本列島と隣接した朝鮮半島南部の伽耶圏の文化が日本との交流の主軸であり、金官伽耶と大伽耶の順に交渉の主体が移り、その後、新羅の伽耶吸収によって百済に交流の中心が移ることになる過程を、パク教授が集めた日本各地の詳細な考古学的な発掘成果を通じて論証し展開していく。日本とは敵対的な関係に変わったとされている新羅の日本との交易や文物交流は、一般的に言われているのとは違い、5世紀以降も活発に継続し、百済滅亡後は唐に対応する両国の外交的な必要によってよりいっそう深まったという事実を、日本各地の新羅系古墳遺跡の事例を通して示しているのが興味深い。
https://japan.hani.co.kr/arti/culture/48030.html?utm_source=yahoo&utm_medium=referral&utm_campaign=headlines&utm_content=20240607