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北九州市城野遺跡 "朱塗り石棺の謎" -発掘調査記録公開!-

1:777 :

2023/06/24 (Sat) 09:31:32

城野遺跡 "朱塗り石棺の謎" -発掘調査記録公開!-
城野遺跡の現地保存をすすめる会
2017/01/19
https://www.youtube.com/watch?v=QxvY4FBnXq0&t=8s

北九州市小倉南区の旧城野医療刑務所跡地で発見された城野遺跡。
1800年前の弥生時代の大規模な集落、九州で2例目の玉作り工房とともに、九州最大規模の方形周溝墓が発見され、真っ赤な水銀朱がたっぷりと塗られた幼児の石棺2基が発見されました。その発掘調査の感動の記録です。
城野遺跡は、魏志倭人伝に記された北部九州の国々に匹敵する勢力がいたクニ=「企救」国の中心集落(首都都)だったのではないかと言われています。日本考古学協会も北部九州を代表する遺跡として国、県、市に対し3回も要望書を出しています。
ところが、北九州市が土地(国有地)の取得を要望しなかったため、2016年3月に所有者となった大手建設会社の開発により、今、城野遺跡は消滅の危機に瀕しています。
「城野遺跡の現地保存をすすめる会」のホームページもご覧ください。

2:777 :

2023/06/24 (Sat) 09:35:29

吉野ケ里遺跡の謎のエリアで見つかった石棺墓からは副葬品は見つからなかった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14117417

卑弥呼が眠っている!?箸墓古墳
https://www.youtube.com/watch?v=3G92G5lhqKg

神武東征 _ 当時世界最大の水銀生産地は奈良で、神武東征も水銀獲得の為だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007798

3:777 :

2023/06/24 (Sat) 09:56:00

城野遺跡公園オープン
更新日 : 2022年4月26日
https://www.city.kitakyushu.lg.jp/shimin/26501451.html

福岡県指定史跡 城野遺跡公園(小倉南区城野一丁目13)

 城野遺跡は、弥生時代の終わりごろ(今から1,800年くらい前)の遺跡です。この遺跡では、九州で最大規模の方形周溝墓(当時のリーダー達のお墓)や、玉作り工房(水晶などを加工した作業場)の跡が発見されるなど、本市の歴史を考える上で貴重な遺跡です。この遺跡の重要さが評価されて、令和2年3月27日に福岡県の史跡に指定されています。

 本市では、市民の皆様に城野遺跡について知っていただくとともに、本市にとって貴重な文化財の活用を図るために、遺跡の重要な部分である方形周溝墓の周辺の970平方メートルを、城野遺跡公園として整備しました。

方形周溝墓の復元展示
 南北約24メートル東西約16メートルの周溝内に小児用の箱式石棺が2基設置されています。いずれの石棺にも赤色顔料が厚く塗られ、そのうちの1基には線模様画が描かれていました。方形周溝墓が築かれたのは、今から約1800年前の弥生時代終末期にあたります。

 その規模や重要性から、箱式石棺については平成26年2月に移築保存を実施し、平成28年11月より北九州市立埋蔵文化財センターで移築展示を行っています。遺跡公園には、石材を3D計測して、軽量コンクリートで精巧に復元したレプリカを展示しています。

遺跡公園内に展示されている箱式石棺2基のレプリカ
箱式石棺レプリカの復元展示 赤色顔料で塗られた石棺の石材
線模様画が描かれた石棺石材(埋蔵文化財センターにて展示)
2つの玉作り工房と周辺の竪穴住居跡群
 城野遺跡では、40基以上の竪穴住居や貯蔵穴(貯蔵用の穴)、土坑墓、方形に区画された溝など、人々がこの地で生活をした様々な痕跡が残されていました。平面が方形でベッドと呼ばれる一段高い部分を持つ竪穴住居が多くみつかりました。この竪穴住居のうち2基については、九州で2例目となる玉作り工房であったと考えられています。

 この玉作り工房からは、管玉などの完成品のほかに、水晶や碧玉などの原石や未製品、失敗品の破片が出土しています。また、玉の穴をあけるための鉄の錐、磨いてかたちを整えるための砥石が確認されており、玉作りの過程を知るうえで貴重な資料となっています。

竪穴住居跡群
城野遺跡と西日本の主要な弥生遺跡の位置関係を示す方位盤
遺跡方位盤の画像
遺跡方位盤
 遺跡公園中段のサンシェードの横に、城野遺跡と西日本の主要な弥生遺跡の位置関係を示す青銅製の方位盤を設置しました。

 方位盤で紹介する遺跡は、纏向遺跡や吉野ヶ里遺跡といった、その時代を代表する著名な遺跡や、西谷墳墓群や楯築遺跡、平原遺跡といった、特徴的な墓を有する遺跡のほか、九州で1例目の玉作り工房跡が発見された潤地頭給遺跡など、城野遺跡と関係が深いと考えられる遺跡です。
https://www.city.kitakyushu.lg.jp/shimin/26501451.html
4:777 :

2023/06/24 (Sat) 10:01:04

連載37 城野遺跡/帰ってきた弥生人 第5章③ “特報!吉野ヶ里遺跡の石棺墓発見にあたって”
2023-06-09
https://ameblo.jp/jounoiseki/entry-12806891273.html


城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-

第5章 遺跡保存への道のり③

“特報!吉野ヶ里遺跡の石棺墓発見にあたって”



先日6月5日に、佐賀県吉野ヶ里遺跡でみつかった弥生時代の石棺の蓋石が開けられて大々的な全国ニュースになりました【写真1】。考古学ファンや邪馬台国ファンならだれもが知っているこの情報に、私も非常に関心を寄せています。



このブログは本来、第5章「遺跡保存への道のり」の3回目にあたるのですが、急きょ変更して、この問題を取り上げて私なりの位置づけと皆さんのお考えをお聞きできればと思います。もっとも、最近はブログアップも滞っており、急きょには当たりませんが…。(2023年6月7日寄稿) ※写真は一部新聞・テレビで各社が報道したものを使っています。



【写真1】吉野ヶ里遺跡石棺の蓋石はずし作業

100㎏近くある蓋石を重機で吊り上げて外している。





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吉野ヶ里石棺は蓋石を外したあと、中に土砂がいっぱい詰まっていて、その上面からは水銀朱と思われる赤色顔料が検出されたということでしたね【写真2】。私はこの映像を見たとき、14年前に2基並んだ城野遺跡の箱式石棺の蓋石を開ける場面を思い出しました【写真3】。といっても、本連載18“方形周溝墓の発見”(2021.4.10公開)でお伝えしたように、のっぴきならない用事で私自身その時その場面には立ち会えませんでしたが、他の職員に頼んでビデオカメラには記録されていました。



【写真2】吉野ヶ里遺跡の石棺蓋石を開けた状態

中は土砂でほぼ埋まっていた。白く見えるのは白色粘土か。この状態では側石や木口石があるのかはっきりしない。





【写真3】城野遺跡の石棺の蓋石をはずす作業風景

クレーン車を使って、蓋石に縄をかけている。南棺の蓋石が少し持ち上がった状態







まず、吉野ヶ里の石棺蓋石ですが、長さが230㎝、幅が約60㎝あり計4枚の石が並んで置かれています【写真4】。城野の蓋石のほうは一方(南棺)が1枚石で長さ185㎝、幅68㎝、もう一方(北棺)は2枚の石からなり、長さ152㎝、幅76㎝をはかります。ただし北棺の蓋石の1枚は据え置く際に割れたようで、割れ口を粘土でふさいで、小さな破片を挟み込んでいました【写真5】。



【写真4】吉野ヶ里遺跡の石棺墓蓋石全景

3枚の大きな石と、破片のような小さな石が並んだり、詰められたりしている。





【写真5】城野遺跡の北棺の蓋石

中央斜めに割れたため、粘土で目貼りしている。また、すき間には薄い破片を詰め込んでいる。







吉野ヶ里の蓋石については映像で見た感じですが、各石の割れ口がとてもシャープでエッジが鋭い印象を受けました。よって、もともと1枚の平たい石を遺跡に持ち込み、蓋石を作るために4つに分割したのではないでしょうか。この石は報道によると佐賀県多久市付近でみつかる安山岩ではないかとのことですので、旧石器時代から石器を作るのに使われている石材を弥生人も利用していたことになります。



一方城野遺跡の蓋石の石材は玢(ひん)岩で、紫川でも拾えるし小倉南区蒲生あたりの岩山に分布すると石の専門家から聞いています。この石は弥生時代に木を伐採する石斧の材料に使用されています。



さて、吉野ヶ里遺跡では蓋を開けると土砂(石棺の中を覆う土=覆土(ふくど))がほぼ全体を埋めていましたが、これは城野遺跡でも同じような状況でした。ただ、吉野ヶ里の場合は城野ほど入念に目貼り粘土で石の隙間をふさいではいなかったみたいなので、なおさら多くの土砂が入り込んだと考えられます。この土砂がフカフカと柔らかいのは、雨水などで流された細かい粒子の土が水と一緒に石棺の隙間から中に入り込んだためです。土が柔らかくスプーンでも掘れるので、おそらくこのブログがアップされる頃には石棺の内部はきれいに掘りあがった状態になっているのではないでしょうか。



あと注目されるのは、2枚の蓋石上面に短い直線を彫り込んだ模様というか図形が刻まれていたということです【写真6】。ただ頭部側とみられる一番大きな蓋石にはそうした模様がなく、蓋を開けた後、裏面に×印のような模様がみられたということでした。そこで先ほど述べたように本来1枚の石だったと仮定した場合の作業手順を以下のように考えました。



【写真6】吉野ヶ里石棺の蓋石上面に刻まれた図形のような模様

一番右の大きな蓋石には上面に模様はなく、裏面に×印ほかいくつかの模様がみられたという。







①まず石を割る前に全体に線刻模様を施した ②石を割る際、頭部側にしたい幅広の蓋石の分割に失敗し、細かい破片が飛び散ってしまった ③そのため、そのまま蓋を並べるのに支障をきたした ④そこで蓋石を裏返しにして並べざるを得なかった ⑤隙間の空いた部分には飛び散った破片を詰めて塞ぎ、あらかじめ掘った石棺サイズに対して少し長さが足らなかったため、足元の木口側にも破片を置いた、というシナリオはどうでしょうか。



②に関して、ニュースの映像を見た限りでは、この線刻が隣り合う蓋石の端ぎりぎりまで伸びているように見えたこと、破片にも同じような線刻が見えたことから、線刻模様を施したあとに石を分割したと考えました。



ここで、問題となるのは④、⑤でしょう。なぜ蓋石をひっくり返して置かねばならなかったのか、佐賀県の解釈のように頭部側の蓋石の裏にこうした模様を描くことで呪術的な意味を込めたのかもしれませんが、これに関してはこれらの蓋石が同一素材で接合関係にあるのかどうか、によりますので、遅かれ早かれ解決できることと思います。



次に赤色顔料の問題ですが、今回蓋石下の赤色顔料は所々にまばらに観察できる程度の少量です。しかも埋まった土砂の上面で見つかっているので、これは故意にそこに撒いたものではなく、蓋石に塗られていた赤色顔料の一部が年月の経過とともに剥がれ落ちた状況を示しています。ですから、土砂を掘り下げていく途中でも蓋石から剥がれ落ちた赤色顔料がみつかるものと思います。



一方、城野の場合は掘る前から2つの石棺蓋石の隙間から真っ赤な顔料が見えており、というよりあふれ出しており、まったくその使い方が異なっています。しかも両方の石棺の蓋裏にも赤色顔料が多量に塗られ、石棺内部には惜しげもなくそれを流し込んでいました。私の試算ではその量は70kgにも達します。さらにそれらは中国産の水銀朱ですからまさに驚くしかありませんでした【写真7】。今後、赤色顔料の量と質、産地について吉野ヶ里でも入念に調べられることと期待しているところです。なお、城野遺跡の方形周溝墓で囲われた箱式石棺の発掘調査については、動画「朱塗り石棺の謎」「城野遺跡実録80分」で配信しています。下記にも添付していますので、ぜひご覧ください。



【写真7】城野遺跡の箱式石棺

二つの石棺内部は真っ赤な水銀朱で満たされていた。左の石棺(南棺)には幼児の頭骨と歯、玉のネックレス、鉄製の刀子がみつかっている。





■動画「城野遺跡 朱塗り石棺の謎」(2017年1月公開 約14分)

城野遺跡の発掘調査を担当した佐藤浩司氏が九州最大級の方形周溝墓で発見された箱式石棺2基の発掘調査にあたり、「世紀の発見かもしれない」と2ヵ月半、約3時間撮り続けた唯一のビデオ記録を城野遺跡の全体像がわかるように約14分に編集したものです。↓をクリックしてご覧ください。

https://youtu.be/QxvY4FBnXq0



■動画「城野遺跡実録80分『弥生墓制の真の姿』」(2022年6月公開 約80分)

上記ビデオ記録を約80分にカットしたものです。撮影当時の佐藤氏のコメントとともに発掘現場の声や音もはいっており、発掘調査の歴史的瞬間の感動がよみがえります。↓をクリックしてご覧ください。

https://youtu.be/qafp00zCTzQ?t=10





最後に、城野遺跡の箱式石棺は周囲を溝に囲まれた方形周溝墓の中に築かれていましたが【写真8】、吉野ヶ里の場合はどうも周溝がみつかっていないようです。



【写真8】城野遺跡の方形周溝墓

中央の2基の箱式石棺はコの字形の周溝で囲まれていた。







吉野ケ里遺跡のかつての調査で最も有名になった墳丘墓は弥生中期が主体で、今回発見の石棺墓の南東側約80mに位置していますが、調査の途中で当時の香月知事により、その重要性から保存の方向がとられたため細部まで掘り下げていないので、周溝があったのかどうかはわかりません。しかし報告書によると、この墳丘墓への墓参道状の溝が墓の南北で見つかっており、これを方形周溝の一部ととらえると、その幅は70m以上になります。この墳丘墓自体が45m×26mの巨大なものですから、このくらいの周溝があってもおかしくはないと考えています。ですので、今回発見の石棺墓も周溝で囲うのではなく、土を盛り上げただけの区画墓のようなものだったかもしれません。



今回の石棺墓は報道段階で弥生後期のもの、しかも石棺墓と考えられているので、時代を決める根拠となる土器片が見つかっているのかもしれませんし、墓の内部が側石、木口石で囲まれた石棺の形をしているのが確認できているのかもしれませんが、蓋石を除けた際の映像をみると、側石がないようにも見えます。そうなると石棺墓ではなく、地面を長方形に掘って、蓋石をのせただけの石蓋土坑墓の可能性も捨てきれません。とすれば後期ではなく中期の墓かもしれないのです。この墓以外、周辺に後期の墓が見つかっていないのは不自然だからです。どちらにせよ、この疑問もあと数日で解決することですね。



もうひとつ、この石棺墓の発見時の構造が2段掘りになっていないことに違和感を覚えています。



通常後期の箱式石棺は城野遺跡もそうですが、墓坑という大きめの穴を掘って、床面を2段に仕上げその下段に箱式に側石、木口石を組んで蓋石をのせるのです【図1】。佐賀県地域ではそのように作らないのかは私にはわかりませんが、この墓が後期のものなら、2段掘りで築き方形周溝で囲むのではないか、それがないのは、後世の削平つまり日吉神社を作る際の造成などで当時の地表がかなり削られているのではないかと思うわけです。おそらく1m近くは削平を受けているのではないでしょうか。これについても今後の調査で明らかになると思います。



【図1】城野遺跡箱式石棺墓の断面図

吉野ヶ里遺跡の石棺は赤線より下がみつかっているようで、上層はかなり削平を受けていると考えられる。







長々と、推測を交えて現段階での吉野ヶ里遺跡の石棺墓についてその問題点や展望を述べてきました。なにせ現地を見ていないので、すべて外れていたらご勘弁願います。また事態が急変したら、このブログで取り上げるかもしれませんので、その時はよろしくお願い致します。



ところで、ニュース映像では佐賀県の山口知事がスライドを使ってかなり詳しく石棺の説明をしていましたね。しかし実際に携わった調査担当者の話が聞けなかったのは残念に思いました。





【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 

1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、北九州市立大学非常勤講師、日本考古学協会会員



■日本考古学協会の要望書

日本最大規模の考古学研究者団体である日本考古学協会は国、県、市に対し「現状を保存し、史跡として整備、活用」を求める要望書を3回も提出しました。ぜひお読みください。



<2011.2.25要望書> ※城野遺跡の全貌が判明したころ

 http://archaeology.jp/maibun/yobo1012.htm



<2016.1.8再要望書> ※北九州市が保存を断念したことを知ったころ

 http://archaeology.jp/maibun/yobo1508.htm



<2016.7.20再々要望書> ※すぐ近くにある重留遺跡から出土した祭祀用の広形銅矛が国の重要文化財(広形銅矛では全国唯一)に指定後

 http://archaeology.jp/wp-content/uploads/2016/08/160802.pdf



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城野遺跡/帰ってきた弥生人 目次

-城野遺跡発見の一部始終をたどる- ※日付は掲載日



第1章 城野遺跡発見の経緯と経過(3回)

     城野遺跡はどのように発見され、どのように取り扱われてきたのか?

      ☛ ①2020/8/2 ②2020/8/10 ③2020/8/17

第2章 発掘調査の内容(20回)

     発掘調査により、どのようなことが明らかになったのか?

      ☛ ①2020/8/24 ②8/31 ③9/9 ④9/18 ⑤9/27 ⑥10/8

       ⑦11/7 ⑧11/20 ⑨12/5 ⑩12/18 ⑪12/30 

       ⑫2021/1/25 ⑬2/15 ⑭3/26 ⑮4/10 ⑯5/1 ⑰6/3

       ⑱6/26 ⑲7/16 ⑳8/6

第3章 注目すべき事実(7回)

     城野遺跡は弥生時代の北九州の歴史にとって、何が重要なのか?

      ☛ ①2021/8/30 ②9/30 ③11/6 ④11/28 ⑤2022/1/8

       ⑥2/7 ⑦6/25

第4章 立ち退かされた弥生人(4回)

     ここで暮らした弥生人たちは、どこへ?

      ☛①2022/7/31 ②9/6 ③10/28 ④12/13

第5章 遺跡保存への道のり(3回)

     発掘担当者の悩みと苦しみ

      ☛①2023/1/31 ②5/6 ③6/9※特報(今回)

第6章 立ち上がる市民と城野遺跡(6回)

     守ることと伝えること…

第7章 立ちはだかる壁(4回)

最終章 帰ってきた弥生人(3回)

     新たな歴史の誕生


https://ameblo.jp/jounoiseki/entry-12806891273.html
5:777 :

2023/07/24 (Mon) 14:40:20

“古墳の大家”が語る「邪馬台国」最新学説。「吉野ヶ里遺跡の石棺墓は卑弥呼のものではない」「漢委奴国王の金印は何十個もあったんじゃないか」
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https://news.yahoo.co.jp/articles/d7347a249b630da231e7c4b30f283ebd3ead042b?page=1

吉野ヶ里遺跡の石棺墓発見で盛り上がりを見せる邪馬台国論争。“古墳の大家”として知られる国立歴史民俗博物館教授の松木武彦氏が、最新学説をもとに日本国の成り立ちや日本人のルーツを解き明かす。

【画像】「吉野ヶ里遺跡の石棺墓は卑弥呼のものではない」「漢委奴国王の金印は何十個もあったんじゃないか」
https://news.yahoo.co.jp/articles/d7347a249b630da231e7c4b30f283ebd3ead042b/images/000

埋葬されているのは“Bクラス”の人物!?
――今年5月に吉野ヶ里遺跡(佐賀県吉野ヶ里町・神埼市)で出土した石棺墓ですが、邪馬台国時代と重なる弥生時代後期(2世紀後半~3世紀半ば)のものと見られ、内面は真っ赤に塗られて幅は細く、卑弥呼の墓ではないかという声もあがっています。

松木(以下、同) 卑弥呼ではないでしょうね。邪馬台国時代の高位の人物は普通、木の棺に葬られ、例外なく副葬品として数多くの銅鏡があり、赤色顔料は30キロほどになりますから。

石棺というと聞こえはいいですが、実際は底もなく、自然の石を組み合わせてつくるので、“Bクラス”の人物が葬られるものです。石棺を赤色顔料で赤く塗るのは、吉野ヶ里遺跡では珍しいですが、全国的にはごく普通に見られます。

ただ、この石蓋には、×印の刻み目がたくさん入っているんです……。これはもしかしたら特殊なキャラクターか、特殊な能力を持っていた人物かもしれません。

――悪魔を封じ込めたのじゃないですか?

本当にそういう悪魔なのかもしれません。ただ者ではない。×印というのは、「もう出てくるな」と甦りを恐れたということですからね……。相当にヤバい人物かもしれませんよ。

――すでに石蓋を開けてしまっていますけど……。ちなみに、現在の学説では、邪馬台国はどこにあるとされているのですか?

考古学者の間では、奈良県桜井市付近の纏向(まきむく)遺跡がいちばん有力とされています。

それから九州という説もあります。九州エリア最大の遺跡は博多湾沿岸にあるのですが、鉄器もたくさん出るし、経済的に非常に栄えていた場所。「魏志倭人伝」の記述だと、そこは、奴国に当たる。邪馬台国は奴国より南にあるとされているので、「邪馬台国=吉野ヶ里遺跡」と考える人がいたりするんです。

――奴国といえば漢委奴国王印、いわゆる金印ですよね。

とはいえ、あの金印は農民が開墾中にたまたま見つけて福岡藩に届け出たもの。そのような形で、中国の歴史書に書かれた金印が見つかるのはまさに天文学的な確率です。

金印の書体や材質を分析した結果、やはり古代の漢時代のものという結論が出されています。本物だと見れば、それを疑う余地はない。だけど、出土状況が限りなく怪しいため、今は評価がわかれています。私なんかは、あの金印は何十個もあったんじゃないかと思い始めています(笑)。まがい物であり、なおかつ本物であるみたいな。


日本国の始まりはヤマト時代
――自分は軍事関連の仕事をしていますが、その視点で見ると、日本史上初の大規模な戦争とされる倭国大乱を終結させて日本を統一した邪馬台国が、吉野ヶ里遺跡のある有明湾北岸に近い位置にあったとは考えにくいのです。そもそも、日本という国はどのように成り立っていったのでしょうか?

倭国大乱はまだ解明されていないので答えられることがあまりないのですが、日本の国の形、空間的なフォーメーションの変化には3段階あると私は考えています。

第1段階は、弥生時代に九州を統一していた倭国王の時代。これを私は「筑紫(つくし)時代」と呼んでいます。

第2段階が、古墳時代に大和が中心になり、その後は奈良や京都など細かい移動がちょこちょこありますが、見ようによっては幕末まで1000年以上続きました。これを私は広い意味で、カタカナで「ヤマト時代」と呼んでいます。

第3段階は、鎌倉幕府や江戸幕府など実質的に関東や江戸が中心になった時代。これを私は「東(あずま)時代」と呼んでいます。

――日本国の始まりは、第1段階の筑紫時代なのでしょうか?

僕のなかでは第2段階のヤマト時代が日本国の始まりだと思っています。筑紫時代はあくまでも局地政権。倭の王というけど、中国からもらった金印には「漢委奴国王」(漢の支配下である倭の奴の国王)と書いてあるわけです。

考古学的な情報を集めても、倭の王の覇権は九州以外に及んでいない。あくまでも九州の局地政権であり、さらに東のほうにバーバリアン(未開人)がわーっといる感じです。

古墳時代になると、前方後円墳が九州から東北まで広がり、初めて大和に中央政権ができました。律令国家になる奈良時代以前を、私の大学時代の師匠である都出比呂志先生は「初期国家」と呼び、「これがホンマの日本の出発点や」と言っていました。

前方後円墳はひとつのお墓の形であり、ひとつの宗教体系。それが、九州から東北まで広がった。日本人、当時は倭人ですけど、民族としてのアイデンティティが広い範囲で共有され、中央に集約された。やはり、第2段階のヤマト時代が最初の日本国と言えるのです。


大和政権が覇権を握ったのは、鉄の交易ルートをおさえたから!?
――日本人のルーツに関してもお聞きしたいです。もともと縄文人と渡来系弥生人が日本人の祖先とされてきましたよね。

そうですね。縄文時代からいた人たちは、その後も北海道や沖縄に残っていたとこれまで言われてきましたが、最近では、本州の海岸沿いにも残っていたんじゃないかという説があります。最近、古墳時代の海洋民がすごく注目されています。彼らは前方後円墳をつくらず、洞窟のなかに埋葬したりするんです。

つまり、いろんな遺伝的特性を持った人たちが多様に存在するのが日本なんです。海外の人類学者が「日本人はいろんな顔をしているな」とよく言います。

――古代の海辺は賑やかでありますね。日本海沿いには北に流れる安定した海流があり、北回り航路もあります。

弥生時代は日本海側が表でしたからね。ちなみに、倭国大乱が起きたとされる時代に、もっとも武装を固めていたのは北陸地方だったいうことが最近わかってきました。石川や新潟あたりですね。日本海交易ルートをめぐって、対立の目があったのかもしれません。彼らだけが山の上に砦をつくって、やたらと守りを固めていました。

当時の目玉は鉄なんです。日本列島で鉄は採れなかったので、朝鮮半島の百済や伽耶から取り寄せていました。とても貴重で、みんな喉から手が出るほど欲しかったんです。大和政権が覇権を握ったのは、鉄の交易ルートをおさえるのに成功したからじゃないか、という説もあるくらい。

――鉄の交易ルートを支配する利権争いから倭国大乱が発生した、という可能性もあるのでしょうか?

群雄割拠はあったと思います。ただ、最終決戦は避け、結局、卑弥呼を立てて妥協しました。

――中国史書には、鬼道を用いて卑弥呼が乱をおさめたとあります。実態は談合ですか?

そうかもしれませんね(笑)。
https://news.yahoo.co.jp/articles/d7347a249b630da231e7c4b30f283ebd3ead042b?page=1

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