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グローバリズムとは思想やイデオロギーではなく、単に労働者の賃金を下げるコスト削減の事

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2023/06/18 (Sun) 09:25:51

人手不足でも失業・困窮が減らぬワケ。企業はリスキリングした従業員を雇うよりも、人工知能やロボットに置き換える=鈴木傾城
2023年6月17日
https://www.mag2.com/p/money/1324147

日本政府は「リスキリング」と言うが、今後は人工知能が仕事をありったけ奪って、資格やら技術やら持った人間よりも人工知能の導入を好む企業の方が増えて、慢性的な失業者・困窮者が増える可能性の方が高いのではないか。そうなると、また税金を上げるのだろうか?(『 鈴木傾城の「ダークネス」メルマガ編 』)


人工知能は人間がやっている仕事の多くを代替する
ChatGPTの勢いが止まらない。大量のテキストデータを学習した人工知能が、ユーザーの問いかけ(プロンプト)に対して「高い精度」で解答を示すこの人工知能は驚くべきスピードと深度で社会を変えつつある。

画像生成の人工知能が話題になったのは2022年だが、もはや次のイノベーションは、人工知能を中心に進んでいくという流れは完全に定着した。今後も、思いもよらない分野で人工知能が社会を変えていくだろう。

人工知能はインターネットのビッグデータを解析しながら、ありとあらゆる問題に解答を出す。



もちろん、今はまだ不完全な部分もあって、これによって人工知能に疑念を抱く人もいるのだが、ハイテク分野での技術革新というのは進化が急なので、あと数年もしたら今の疑念を超えるほどの精度を叩き出す可能性も指摘されている。

人工知能は、人間を超える能力を発揮して今まで人間が行っていた業務を軽減していく。人工知能で便利になる。しかし、「便利になる」で進化は止まるだけではない。「便利になる」以上の進化を見せるようになっていく。

その結果、何が起きるのか。

人工知能は、間違いなく人間がやっている仕事の多くを代替するのだ。今後、こうした動きはより鮮明化するようになっていく。

オックスフォード大学の調査では「10〜20年後に49%の職業が消える」と言っているのだが、今の爆発的な進化を見ていると、10年も時間は要らないのではないかとも思わせるほどだ。

企業は手間もコストもかかる人間よりも人工知能の方を好む
これまで人工知能は創作や表現や芸術の分野には進出できないだろうと思われていたのだが、すでに人工知能は言葉(プロンプト)を与えれば絵も描くし、音楽も作るし、作詞もするし、小説も書く。

クリエーターがやってきたことを代替する。

これまで人工知能は、小売店販売員、レジ、会計士、一般事務、セールスマン、一般秘書、積み降ろし等の作業員、コールセンターの案内、ビル管理人……と、自動化の技術が発展している分野、繰り返し的なタスクやデータ入力作業などの仕事を代替すると言われていた。

まさか表現の分野の仕事まで奪ってしまうとは多くのクリエーターは想定もしていなかったのではないだろうか。

今後、人工知能は単純作業しかできなかったロボットにも搭載されていくが、人工知能とロボットが結びつくと、ますます人間の仕事が人間ではない存在に置き換えられるだろう。

端的に言えば、ありとあらゆる職業が人工知能とロボットに奪われていく。「癒しの分野はさすがに人工知能では置き換えられないだろう」と言われているが、数年経ったらまた違う光景もあるかもしれない。



今、日本政府は「リスキリング」とか言っているが、人工知能が仕事をありったけ奪ってしまって、資格やら技術やら持った人間よりも人工知能の導入を好む企業の方が増えて、慢性的な失業者・困窮者が増える可能性の方が高いのではないか?

どう考えても、企業は手間もコストもかかる人間よりも人工知能の方を好むだろう。そうした方がコスト的にも仕事的にも効率が上がるからだ。つまるところ、人工知能が進出できる分野では、人間を雇うインセンティブがない。


企業の目的は常に利益を増大させることだ
企業はこれまでコスト削減のために、どんな努力をしてきたのか。従業員を、上司の命令をそつなくこなす「歯車のように動く人間」にしてきたのではなかったのか。

なぜ企業が従業員を「歯車化」していたのか。いったん仕事をルーチン化するところまで持っていけると、従業員が入れ替わっても仕事が止まらないからである。



さらに考えなければならない。

従業員を入れ替えても仕事が止まらないというところまで仕事をルーチン化できると、次に企業は何を行うのか。企業は従業員を「より安く雇える人間」にどんどん変えていくのだ。

正社員が非正規雇用に入れ替わる流れというのは、「仕事を単純作業にまでブレイクダウンし、その上でコストの高い従業員をコストの安い従業員に入れ替える」という仕組みで成り立っていた。

企業は利益を生み出すために、ひたすらコスト削減に邁進していく。だから、「正社員を非正規雇用に代える」「従業員を安い賃金で働く外国人に代える」という流れに向かって走っていたのである。



これまで、従業員を安い賃金で働く外国人に代えるためには、企業が自ら製造拠点を海外に持っていくか、もしくは自国で外国人を雇うかの2つの方法があった。これをグローバル化という。

グローバル化とは「従業員の賃金を下げる」というコスト削減のために行われているのであり、別に多文化共生みたいなもののために行われているのではない。多文化共生は、言ってみれば自分たちの金儲け目的をカモフラージュするものである。

企業の目的は常に利益を増大させることだ。主義主張などは二の次だ。

人工知能とロボットは“コスト削減”に最適
最近はコスト削減のために行われていたグローバル化が各国で大きな反撥を生み出すものになった。グローバル化というのは「自分たちの賃金をどんどん下げていく」という仕組みを、企業に雇われている人々はやっと実感として理解できるようになっていったからだ。

逆に言えば、「グローバル化で従業員の賃金を下げている」ということが「完全にバレた」のだ。ついでに多文化共生も安く働く外国人の低賃金労働者を確保するための方便であることがバレた。

自分たちの給料をむざむざ下げられて黙っている人はどこにもいない。だから、世界的にグローバル化に対する反対の声が広がっている。

企業側はこうした動きをじっと観察しているわけで、そうであれば企業側も「新たなコスト削減」のために人工知能やロボットの活用をより急ぐと考えて間違いない。



自国の人間を安く使うとか、外国人を使ってコスト削減するという方策が停滞するのであれば、企業は間違いなく人工知能やロボットを極限まで使ってコスト削減するという方向に走る。

多くの企業はリスキリングした従業員を雇うよりも、人工知能やロボットに置き換える方を好むようになる。欧米の多国籍企業もそうだが、今は様子見の日本企業もそうなる。


人工知能は「人減らし」の最強のツールとなっていく
日本企業は今まで「仕事を単純作業にまでブレイクダウンし、その上でコストの高い従業員をコストの安い従業員に入れ替える」という仕組みの中で、コスト削減を行っていた。

では具体的に「仕事を単純作業にまでブレイクダウンする」というのは、どのように対処していたのか。それが「マニュアル化」である。日本仕事を単純作業に落とし込み、従業員をマニュアル通りに動かすことによって、非正規雇用者でもアルバイトでもパートでも成り立つように現場を改善してきた。



マニュアル通りに動く……。これこそ、人工知能やロボットが最も得意とする分野であることに気づかなければならない。グローバル化が賃金引き下げの手段であることが「バレた」のであれば、日本企業も自ずと次の戦略に進む。人工知能は「人減らし」の最強のツールとなっていく。

そうなると、政府は「失業対策だ」とか言いながら、また税金や社会保険料を引き上げるのだろうか……。


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グローバリストの戦略
2013-11-22
https://ameblo.jp/newliberal/entry-11705384946.html

消費税を増税しただけで、安倍不支持になる
TPPに交渉参加しただけで、安倍不支持になる
私は、そんな「お花畑保守」にひとこと言ってやりたい
お前らは、日本の総理がカダフィのように殺されてもいいのか?・・と
ボイド


ちなみにボイドはリベラルだす~(・ω・)/

それはそうと(笑)


最近、グローバリズムは「共産主義」だって人がいるんですね

でも、「資本主義」、「共産主義」って考える時点で、あなたは既に「昭和のお花畑」です(笑)

グローバリズムって「企業」の理論なんですよ

自分たちが儲かれば、国家や国民なんてどうなろうが、知ったこっちゃないわけです

つまり、「資本主義」(A)、「共産主義」(B)も、金儲けの道具でしかない

AとBが対立したら、AにもBにも武器(核兵器含)が売れて儲かるよな~

これが、企業の戦略なんです



かつて、植民地時代に彼らは考えたんですよ

奴隷制度だと、奴隷のモチベーションもいまいち上がらないし、労働生産性が低いよな、と・・

やっぱ、奴隷にも必要最低限の「希望」と、必要最低限の「お金」を与えて、生産効率性を上げたほうがいい、と

生産効率化がもたらす利益-新奴隷に与えるコスト>旧奴隷がもたらす利益

考え方は、まさにROIであって、この損益分岐の上に生まれた新奴隷管理制度が「グローバリズム」です

なので、グローバリズムは、共産主義も、資本主義も一切関係なし

「生産効率性の向上と、最低限の統治コストを実現した新奴隷制度」

つまり、グローバリズムは「奴隷制度」なんです



さて、世界の歴史ってものは、国家戦略をベースに国家管理視点で書かれているんですね

なので、グローバリズムを理解するには、それを「企業戦略」の視点から、読み直す必要があるのです

労働者(奴隷)には、労働をさせるので、ストレスが溜まります

これが溜まりすぎると、暴動とかデモとかになって厄介なんですね

なので、適度にストレスを解消させる必要があります

人間には、そもそも闘争本能があって、本能的に「殺し合い」を見るのが好きなんです

古くはコロシアムですけど、今は、それが、サッカーとか、ボクシングとかになってます

政治的論争、民族的論争なんていうのも、同じです

そういうものを見て、わーわー応援、批判させることで、社会や企業に対するストレス、欲求不満を解消させるというのが、基本的な戦略です

今の東アジアだって、「韓国ガー」「日本ガー」ってやってるでしょう?(笑)

古くは、「右翼ガー」「左翼ガー」・・・

でも日本の戦後の右翼も左翼も、グローバル企業が人工的に作ったものだって、ご存知でした?(笑)



この形を変えたものが、軍事戦略です

(この軍事戦略というのは、国家の軍事戦略ではなくて、企業の軍事戦略ですね)


対立するAとBという勢力がある

AにもBにも武器を売ると儲かる

※日露戦争なんてまさにこれ

まずこういう基本戦略があります


AとBが平和的な状態であれば、争うように仕向ける

そして、AにもBにも武器を売ると儲かる

※北朝鮮がミサイル撃つぞ~ってなると、日本がアメリカの迎撃システムを買う、なんてのはこれですね
※北朝鮮に払う賄賂<日本から入るお金、であればビジネス成立です


Aに敵対する勢力がなければ、人工的に敵対する勢力Bを作り出す

そして、Bから攻撃を仕掛ければ、Aに武器が売れて儲かる

※まぁ、これは中東でよく見かける光景です、反政府勢力とかですね


東西冷戦
朝鮮戦争
ベトナム戦争
イスラエル建国
イラク戦争
リビア紛争
シリア紛争←ついに失敗
(実は金融も、この軍事戦略の応用でかなり読み解けるんです)


で、100年近く騙されてきたのが、私たち新奴隷であると

さぁて、どうしてくれようか、と

それが2013年です(・ω・)/

大切なのは、国家戦略の視点だけでなく、企業戦略の視点からも世界を見ていくということですね
https://ameblo.jp/newliberal/entry-11705384946.html




国際金融資本の詐欺手口 『Monopoly Men』 Federal Reserve Fraud 日本語字幕版
2012/08/05
https://www.youtube.com/watch?v=HUtqp7Jboi4

国際金融資本家のFRBによる国家乗っ取りや歴史が詳しく描かれています。
ロスチャイルドやロックフェラーなどの国際金融資本家によって
世界がコントロールされている実態がわかりやすく表現されています。
日本語訳もうまいです。


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グローバリストと反グローバリストの戦いというのは、実はユダヤの内ゲバなんです。ここを多くの人が理解していません。

プーチンとロスチャイルド、ユダヤ、ロシアの真実とは!?
2021.06.22
https://tocana.jp/2021/06/post_212901_entry.html

──先日、プーチン大統領とバイデン大統領の米露首脳会談が行われましたが、何かこの二人に関連するニュースを教えてください。

ジェームズ それでは今回は特にロシアとプーチンについてぜひ知っておいて欲しいことがあります。まず、ロシアという国を見る時は、すべてがフェイクという前提で見ないといけません。もともとフェイクニュースの発祥の地がロシアなんですが、それはロシアそのものがフェイクの国だからです。

──ロシアはまるごとフェイクだと。

ジェームズ そうです。実は、その視点こそがロシアを、ひいてはプーチンを理解する際に凄く重要な点になります。いまのロシアに限らず、ソ連時代、さらにロシア帝国、モスクワ公国、キエフ公国時代からあの国はずっとフェイクだったんです。もちろん、共産党もフェイクです。多くの日本人は良くも悪くもロシアの革命の原動力だったと、共産党のことを考えていますが、全然違います。あれはユダヤ人やタタール人等の非ロシア人によるロシアの乗っ取りです。レーニンもユダヤの血が入っていましたし、トロツキーは生粋のユダヤ人です。

──つまり、フェイクとユダヤが関係しているんですね。

ジェームズ そうです。そもそもロシアという国は帝政時代にはポグロムといって、ユダヤ人をずっと迫害してきたんです。特に18世紀が一番ひどくてユダヤ人村を取り囲んで虐殺を繰り返していました。ユダヤ人たちにはその時の恨みがずっと残っているんです。その中で、ロシア革命が起きているんです。ですから、ロシア革命を単なる共産革命だと思ったらロシアという国を完全に見誤りますね。

──考えてみたら資本論を書いたマルクスがそもそもユダヤ人でした。

ジェームズ マルクスもフェイクです。彼はロスチャイルド家と親戚でかなり裕福な家庭で育ってますからね。

──えっ! そうだったんですか? プロレタリアートの味方じゃなかったんですか!?

ジェームズ まったく違います。彼は資産家でした。これひとつ取っても共産主義を導入したロシアのフェイクぶりが見えてくるでしょう。で、ここで大切なのが、ソ連時代の諜報組織KGBの歴代トップが全員ユダヤ人だと言われていることです。

──KGBまでユダヤなんですか!?

ジェームズ そうです。ということは当然プーチンもユダヤなんです。隠れユダヤです。

──えっ!


ジェームズ いえいえ、驚くことではありません。私のいる諜報の世界では常識ですし、いくつも証拠があります。まず、彼の母親の名字はシャロモビッチというのですが、最後にビッチがつくのはウクライナ系に多く、シャロモはシャロームで、ヘブライ語で平和を意味します。ロシア人ではこういう名前はありません。しかも、プーチンは自伝を書いているのですが、初版では母の名をシャロモビッチと書いています。しかし、第2版からはロシア風のシャロモーバに変えているんです。母親の名前が変わるなんて普通では考えられません。そして彼の父親ですが、タルムードの研究家なんです。

──シャロームにしろ、タルムードにしろ、完全にヘブライ、完全にユダヤ教ですね。

ジェームズ そうです。そしてプーチンの出身地、サンクトペテルブルク、当時はレニングラードと呼ばれていたんですが、彼が生まれたアパート街はユダヤ人居住区だったんです。あとは過去の発言を聞いてみるとソ連を礼賛しているようでいてユダヤを持ち上げることばかり言っています。一番はっきり言ったのは2010年で「私はユダヤ人のためならなんでもやる」と。ですから、プーチン・ユダヤ人説はほぼ確定しています。

──じゃあ、プーチンはユダヤ教の信者なんですね。

ジェームズ いいえ、プーチンは表向きは敬虔なロシア正教徒です。だから、そこもフェイクなんですが、もっと凄いのはロシア正教会自体もフェイクです(笑)。なぜなら、ロシア正教会を運営しているのはFSBという諜報機関だからです。ロシア正教会はソ連時代にKGBが乗っ取っていて、そのあとKGBの後継組織であるFSBが運営しています。事実、いまのロシア正教のトップ、キリル一世はFSBの大物エージェントです。

──FSBが裏で操っているとかじゃなくて。

ジェームズ そうです。ロシア正教会そのものがFSBなんです。ですから、キリルー一世は高額な給料を貰っていて、ベンツのリムジンに乗っていますし、ブレゲの高級銀時計も付けています(笑)。キリルー一世がブレゲを着けて宗教活動をしている画像もあります。これがロシアという国です。大統領がユダヤ教であることを隠して、民族を隠して、宗教が秘密組織そのものという国です。

──いやぁ、徹底的ですね。そういえば、昔、ジェームズさんが言っていた「プーチンは4人いる説」もありましたね。

ジェームズ プーチンは今は3人で、本物はもう死んでいると言われています。

──逆に本物がいない!?

ジェームズ そうです。ですから、これが一番のフェイクかもしれませんね(笑)。ともかくプーチンという存在はロシアのアイコンでしかありません。敬虔なロシア正教徒として世界のキリスト教徒を守る救世主であるというカバーをプーチンというアイコンはやっています。また、KGBとしてのプーチンは、大統領としての職業もカバーでしかありません。だから、彼は根っからの諜報員で、工作員のやり方で政治をやっているんです。つまり、プーチンのロシアそのものが謀略工作です。

──裏と表がまるで違いますね。

ジェームズ そうです。ロシアの裏側には常にユダヤがいます。ただし、ユダヤと言ってもプーチンのユダヤコネクションはユダヤの正統派、保守系で「チャバッド・マフィア」と呼ばれる、聖職者とマフィアを兼職する離れ業を生業にしている人士です。彼らの多くはヴァチカン、ロシア正教会、ヨーロッパ王室の金庫番を務めており、「権力者に擦り寄り稼ぐ」という独特のユダヤ流生き残り戦略を持っています。当然彼らはプーチンや彼の「お友達」の金庫番も務めています。彼らのお陰で大統領名義の個人資産は米国、英国、スイス等に厳重に保管され、その額は200兆円に上ります。おそらくプーチンは世界の指導者で最も資産家で、トランプやバイデンが小物に見えるほどです。プーチンのロシアはチャバッド・マフィアが支配し、国民から資産をカツアゲするただの泥棒国家です。そして、プーチンが表向き反グローバル主義を掲げている理由はここにあるんです。


──ただ、グローバリストたちもユダヤですよね?

ジェームズ そうです。ですから、グローバリストと反グローバリストの戦いというのは、実はユダヤの内ゲバなんです。ここを多くの人が理解していません。
 グローバリストという呼ばれる人たち、典型的なのがジョージ・ソロスですが、彼にしたって基本的にユダヤ系なんですけど、本音は無神論者です。彼らはユダヤ系ですけど、ナチスにも協力するような化け物なんですよ。ですから、彼らは神と決別し、約束の地もないような人たちなんです。
 しかし、反グローバリスト派は約束の地があるという立場で、それがカナンの地であるイスラエルです。プーチンはイスラエルを認める立場で、バリバリのシオニストです。なにしろ、いまロシアではホロコーストに関する疑問を持つだけで5年間の収容所行きです。プーチンは反ユダヤ主義に関しては物凄く厳しいです。ホロコースト説を法律によって守っている国なんです。反グローバリストとグローバリストの対立の軸はここです。

──ロスチャイルド家とかは保守系なんですか?

ジェームズ ロスチャイルドはどちらにも加担しています。ロスチャイルドにとっては、プーチンもソロスも投資のためのひとつのコマでしかありません。それはロックフェラーも同様ですが、影響力は遥かにロスチャイルドのほうが大きいです。ちなみにスターリンも革命家だった当時はロスチャイルド家がパトロンでした。もともとスターリンはギャングのメンバーで銀行強盗とかをやりまくっていたんですけど、それを裏で支援したのがロスチャイルド家です。彼はロスチャイルド家のためのマフィアだったんです。

 ともかく、プーチンはロシアファーストではなくてユダヤファーストです。ロシアファーストのように見せかけていますけど、ユダヤに忠誠を尽くしているという視点で見ると世界が見えてきます。

──確かに、こういった話を聞くと、いまの世界が見えてきますね。

ジェームズ ロシア、ユダヤ、プーチンを見ないで世界は語れないんです。恐らく読者の皆様にはプーチンファンが多いかと思われますが、彼も結局は私が以前から何度も唱えている「コントロールされた反対勢力」なのです。このようなことはマスコミや学会では絶対に知ることができず、クレムリンの中枢でしか知ることができません。ロシアを知ることで見えてくるのは、近代国家というのは一握りの異民族が多数派の民族を支配する、フェイク国家です。日本も然り。ロシアを注視することで、日本の将来も見えて来ます。


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人力
2023年6月11日

プーチンは依然はダボス会議のヤングエリートのメンバーで、母親の姓はユダヤ系ですから、間違いなくユダヤ系ですね。

プーチンが大統領になって国有財戦を独占していたオレガリヒを排除したのは、ユダヤの内部抗争であり、プーチンの背後にも別のオレガリヒが居る。

現在、陰謀論は「グローバル勢力 VS 反グローバル勢力」という図式を好みます。これは以前の「ロスチャイルド VS ロックフェラー」と同様に、フェイクだと私は考えています。

確かにそれぞれの勢力の間で利害対立が存在し、足の引っ張り合いなどもあるでしょうが、それはマフィアの中の内部抗争の様なもので、もっと上のレベルでは世界は統一された意思の元に運営されている。新型コロナ騒動を観れば明らか、中露を含めて、新型コロナ騒動の茶番劇を演じていた。もし、本当に対立しているならば、真実を暴露して西側諸国を窮地に追い込む事も可能ですが、ロシアは危険なウイルスベータワクチンを国民に接種しています。これは「人口削減」という「世界のアジェンダ」に中露も忠実である事を裏付けています。

私は有名な陰謀論者の多くが、陰謀側の人間だと考えています。彼らは多少の真実と、決定的な嘘を語る事で、世界の真実を見えなくする役割を負っていると妄想しています。

プルゴジンの件は、「なるほど!」とちょっと目からウロコでした。プルゴジンが何故ネット動画でジョイグを名指しで非難したのか??でしたが、クリムリン内部での権力闘争が絡んでいるとなれば納得です。

ロシアにしろ、中国にしろ、権力闘争は熾烈ですが、それを勝ち残る力を持った人物しか、「皇帝」として国を治める事は難しい。「皇帝主義」「ツァーイズム」の国の宿命とも言えます。広い国土と、多様な民族を統一する事は難しい。アメリカは「自由・民主主義・正義」という洗脳によって纏まっていましたが、ネットの時代に洗脳は解けかけています。これは中露にしても同じで、若者は国家や指導者に反感を持っている。

西側諸国はメディアの洗脳によって国民が自主性を持って政策し決定していると思い込んでいましたが、この幻想は崩れ初めています。一方、中露などの独裁国家は、強権と恐怖によって国民を支配して来ましたが、共産主義の幻影の崩壊によって「監獄国家」を国民が受け入れる時代は終わりました。

東西両陣営ともに、「国家を国民が疑う時代」に必要なのは「分かり易い敵」です。その意味において日本も戦争から逃れる事は出来ず、管理された戦争の当事者に先進国もなる時代が再び訪れると私は妄想しています。
https://blog.goo.ne.jp/ponpoko2022/e/b948923090bbbeccd572a1dc677a7385


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プーチンの正体 _ プーチンはユダヤ人でユダヤ人の利害しか考えていなかった
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1184.html
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/187.html

プーチンの後継者はワグネルのプリゴジン
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14119287

「重病診断」で頻繁に登場か プーチン大統領“影武者”徹底検証
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14120814

偽プーチンが複数存在
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14098621

玉砕を覚悟したプーチン大統領が弾くソ連軍歌『カチューシャ』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14003159

ペテルブルク大学の法学部教授になろうとしていたプーチンが政治家に転身した経緯
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14015915

2:777 :

2023/06/18 (Sun) 09:45:42

ユダヤ陰謀論とグローバリズムを考える _ ヨーロッパ化されたキリスト教がユダヤ思想の正体で、ユダヤ教やユダヤ人とは何の関係も無かった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/504.html

ユダヤ陰謀論とグローバリズムを考える _ ヨーロッパ化されたキリスト教がユダヤ思想の正体で、ユダヤ教やユダヤ人とは何の関係も無かった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/504.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/739.html

国民国家 対 グローバル資本主義
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1326.html


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ユダヤ陰謀論 _ 馬渕睦夫
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/735.html

馬渕睦夫のユダヤ陰謀論はどこまで本当なのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/212.html

ディープステートとは何か
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/416.html

ディープステートとかいう馬渕睦夫のアホ陰謀論
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/623.html


金貸しは、国家を相手に金を貸す (馬渕睦夫 世界を操るグローバリズムの洗脳を解く の紹介)

世界を操るグローバリズム-1~アメリカが周到に仕掛けた大東亜戦争~
http://www.kanekashi.com/blog/2017/09/5457.html

世界を操るグローバリズム-2~アメリカが裏で糸を引いたソ連の南下と中国の共産化~
http://www.kanekashi.com/blog/2017/09/5464.html

世界を操るグローバリズム-3~本当にヒトラーの意思で第二次世界大戦が始まったのか~
http://www.kanekashi.com/blog/2017/09/5469.html

世界を操るグローバリズム-4~海軍が善玉で、陸軍が悪玉だと思わされてきた日本人~
http://www.kanekashi.com/blog/2017/10/5486.html

世界を操るグローバリズム-5~ピューリタン革命でユダヤ人がイギリスに戻った~
http://www.kanekashi.com/blog/2017/10/5492.html

世界を操るグローバリズム-6~「敵を妥協せず徹底的に叩く」というアメリカの精神的背景~
http://www.kanekashi.com/blog/2017/10/5503.html

世界を操るグローバリズム-7~独立戦争も南北戦争も金融支配を巡る争いだった~
http://www.kanekashi.com/blog/2017/10/5513.html

世界を操るグローバリズム-8~中央銀行という名の民間銀行は本来必要ない~
http://www.kanekashi.com/blog/2017/10/5523.html

世界を操るグローバリズム-9~アメリカはFRB以降お金が支配する国になった~ - 金貸しは、国家を相手に金を貸す
http://www.kanekashi.com/blog/2017/11/5535.html

世界を操るグローバリズム-10~日清戦争から日本を恐れ始めたアメリカ~
http://www.kanekashi.com/blog/2017/11/5543.html

世界を操るグローバリズム-11~日本にキリスト教が根付かなかった訳~
http://www.kanekashi.com/blog/2017/11/5557.html

世界を操るグローバリズム-12~第一次世界大戦はオーストリア皇太子暗殺が原因なのか~
http://www.kanekashi.com/blog/2017/12/5567.html

世界を操るグローバリズム-13~ロシア革命はユダヤ人を解放したユダヤ人の革命だった~
http://www.kanekashi.com/blog/2017/12/5578.html

世界を操るグローバリズム-14~欧州の革命の背後にはユダヤ人解放~
http://www.kanekashi.com/blog/2017/12/5582.html

世界を操るグローバリズム-15~アシュケナージが世界の金融を握っている~
http://www.kanekashi.com/blog/2017/12/5598.html

世界を操るグローバリズム-16~東西冷戦は米ソによる自作自演~
http://www.kanekashi.com/blog/2017/12/5611.html

世界を操るグローバリズム-17~なぜアメリカ政府がアメリカ社会を壊すのか~
http://www.kanekashi.com/blog/2018/01/5625.html

世界を操るグローバリズム-18~冷戦終結は「用済みソ連」の解体だった~
http://www.kanekashi.com/blog/2018/01/5638.html

世界を操るグローバリズム-19~ウクライナ問題の真相は「プーチン」対「金貸し」の戦い~
http://www.kanekashi.com/blog/2018/01/5642.html

世界を操るグローバリズム-20~ウクライナやイスラム国に纏わる事変はネオコンによるプーチン打倒が目的~
http://www.kanekashi.com/blog/2018/01/5651.html

世界を操るグローバリズム-21~中国指導部と金儲けで一致するアメリカ国際金融資本~
http://www.kanekashi.com/blog/2018/01/5658.html

世界を操るグローバリズム-22~グローバル化は国家機能の民営化を目指す~
http://www.kanekashi.com/blog/2018/02/5664.html

世界を操るグローバリズム-23~「新自由主義」と「左翼思想」はまったく同じ考え~
http://www.kanekashi.com/blog/2018/02/5673.html

世界を操るグローバリズム-24~民族文化と欧米化を両立させた日本は世界のモデルケース~
http://www.kanekashi.com/blog/2018/02/5675.html

世界を操るグローバリズム-25~グローバリズムの終焉~
http://www.kanekashi.com/blog/2018/03/5686.html


これがチャンネル桜関係者とアホ右翼が信じている「ユダヤ陰謀史観」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/505.html

チャンネル桜関係者とアホ右翼が信じている「日銀と通貨発行権」の誤解について
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/848.html

馬渕睦夫 世界を支配する者達が生み出した『中央銀行』という奇形
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/558.html


▲△▽▼


林千勝のユダヤ陰謀論はどこがおかしいか?
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/139.html

林千勝の近衛文麿悪者説はどこがおかしいか?
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/140.html

林千勝の陰謀論を考える _ 日米戦争を策謀したのは昭和天皇か、近衛文麿か?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/457.html

林千勝のユダヤ陰謀論
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/796.html


▲△▽▼


人工知能チャットボット<ChatGPT>をはじめよう
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14111593

人に対して支配者を気取って邪悪な回答を返す対話型AI「BratGPT」が登場した
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14115023

【ChatGPT】ビル・ゲイツ ”PC登場以来の衝撃”
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14100164

特番『AIが進む未来で人間がやるべき事とは? ーChatGPTや生成AIとどう付き合うべきか?ー』ゲスト:駒澤大学経済学部准教授 井上智洋氏
https://www.youtube.com/watch?v=riNa_BAi8R8

ウインドウズはバックドアから情報を抜き取り、CIAが全世界を情報管理する目的で設計された
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14115674

ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズの正体
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/727.html

Google は CIA や NSA のIT部門 _ シリコンバレーが人々に知られたくない本当の姿
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/560.html

インターネット・AI は人類を一つの価値観に隷属させるための強力な怪物
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14089916

人間よりAI上司のほうがいい
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/138.html

AIはホワイトカラーを労働市場から駆逐する
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14090437

「AI社会」で中間層が消える? アメリカでは高学歴のワーキングプアが増加
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/328.html

AI には客観的で公正な判断はできない
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/122.html
3:777 :

2023/06/18 (Sun) 09:49:47

【トンデモ】 日本のメディアを支配する“フランクフルト学派”の恐怖
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14118106
4:777 :

2023/06/18 (Sun) 11:37:13

自ら発展途上国化しようとしている日本 1


アベノミクスの主眼は格差拡大にあり--森永 卓郎


アベノミクスに対して否定的な立場を明確にする一人が、テレビのコメンテーターでもお馴染みのエコノミスト、森永卓郎氏だ。森永氏はアベノミクスの目的を、経済格差の拡大と言ってはばからない。


加速する格差のグローバル化

 今から10年以上前、筆者は、森永卓郎氏の著書『年収300万円時代を生き抜く経済学』(知恵の森文庫)を読み衝撃を受けたが、今の現実は、同書の「予言」通りの方向に進みつつある。そして、アベノミクスによって、この状況がさらに悪化するというのが、森永氏の見立てだ。

 「あの本を出したときは、『頭がおかしい』って周りから言われました。ところが今や、年収300万円でも御の字の時代です。要するに、本質的な問題は10年前から何1つ変わっておらず、安倍内閣は、小泉内閣の構造改革政策と同じことをやろうとしているわけです。この政策の進展で、弱者にとってより悲惨な未来が訪れると思いますね」

 確かに、「3本の矢」からは経済的弱者の姿が浮かび上がって来ない。アベノミクスが続くことで、日本の経済格差が広がる可能性は否定できない。

 「可能性というか、アベノミクスは格差を押し広げるのが本来目的だと思いますね。表向きは誰もそれを口にしませんが、テレビでご一緒した人たちは皆、裏では『そんな社会を作りたい』と言っていますから」

 ちなみに、ここで言う「皆」とは、政治家や政権に参加するエコノミストたちのことを指しているのだろう。そして、彼らが欲する「社会」とは、米国的な格差社会を意味するものでもある。

 「米国や中国は、実質的に日本よりはるかに厳しい格差社会。それを、『グローバルスタンダード』と称して、日本に持ち込もうとしているのがアベノミクスの実態です。要するに、アベノミクスの推進派は、日本の社会を、エリート層が金の力で人をこき使う世界にしたいだけなんです」

 「戦後における日本社会の特殊性というのは、社会的な強者であるエリートの家にも、お手伝いさんや子守りがいなかったこと。それって世界的に希有な例なんです。だからこそ、日本は、『人類史上、最も成功した社会主義国家』と評されてきたわけで、そう言われるほど平等な社会だった。そんな社会を瓦解させ、一部のエリート層が運転手やら、メイドさんやら、ボディガードやらを雇えるような社会にする。それがアベノミクスの真の狙いと見るべきです」

乱世を望む弱者の群れ

 ほんの20年前に比べてもレベル低下が著しい今日の政治家や財界人が、自らがエリートであるという前提で「格差を欲する」というのも嫌な話だ。ただし、政治家ばかりも責められない。有権者のほうにも、民主国家の致命傷となりかねないレベルダウンの傾向が見られるようなのだ。

 森永氏はため息混じりにこう語る。

 「本来なら、経済的な弱者が平等政策を唱える政治家を支えるのが当たり前です。ところが日本の有権者は、それと真逆の行動を取ってきた。小泉内閣のときも、安倍内閣の今も、低所得層が圧倒的に『弱者切り捨て』の構造改革を支持するんですよ。おそらくこれは、視野の狭さによるものでしょう。自分の近くにいる課長とか部長を見ている分には、自分と大した格差は感じませんから。ただし、世の中には、年収何億円・何十億円の勝ち組がいる。自分の半径5㍍以内のモノしか見ていないと、その姿は見えてこないんです」

 「ですから、多くの若者や経済的弱者が腹を立てる相手は、正社員で高給を取っているような人たちでしかなく、日本の年功序列的な体系や正社員優遇の体系を打ち壊しさえすれば、自分たちが上に上がれると錯覚してしまう。実に、嘆かわしい状況です」

 これは、経済的な「乱世待望論」と言えるだろう。しかも、恐ろしいことに、同様の錯覚は日本外交をめぐる世論にも影を落としているようだ。

 「今の構造改革賛成派は安全保障上の右派であるケースが少なくありません。ですから、戦争を是が非でも回避しようという考えはさらさらなく、逆に戦争になって社会がばらばらになれば自分たちに浮き上がるチャンスがあるとすら考えてしまう」

 「もちろん、現実に戦争が起きれば、低所得層から戦場に送られて、命を落とすことになるのは、米国の例を見れば明らかなんです。そんな簡単なことに、なぜ気付かないのか不思議でなりません」

 格差の拡大が続けば、国内需要全体は縮小し、国内経済の体力は落ちる。一方、戦争待望論がにわかに沸き起これば、対外関係は確実に悪化する。これは、日本の将来にとって決して良いことではない。「勝ち組」の人士たちは、その辺りのことを、どう考えているのだろうか。

 「お金持ちの人たちは、何かあっても、いつでも日本から逃げられる――そう考えているだけだと思いますね。ただし、現実には海外で活躍できる人は少数派なので、これも錯覚なんですが」
http://net.keizaikai.co.jp/archives/7384  

安倍の政策は
原発再稼働、中国警戒、集団的自衛権、TTP、特定秘密保護法 etc
全てCSISの豚ゴリラこと

L.アーミテージ「第3次アーミテージ・ナイレポート」
http://www.mod.go.jp/msdf/navcol/SSG/topics-column/col-033.html

の指示通り なのが知られてきたわけだが 朝日、毎日などの大手メディアもB層国民向けのガス抜き程度の扱い
民主党国対議員も含めて未だに安倍と夕食会でお気楽
内閣支持率が40パーセントある等あり得ない
メディアも民主も一体化し全体で既定路線を消化しているだけでは

___

在日米国商工会議所のHPには、日本政府に対する「意見書」が並んでいて、自民党も安倍首相はすべてその指示通りに動いているだけだった。
 

在日米国商工会議所のHP 日本への「意見書」
http://www.accj.or.jp/ja/advocacy/viewpoints

在日米国商工会議所のHPには、日本政府に対する「意見書」が並んでいます。

「日本人女性を労働市場に送り出すために、日本政府は外国人家政婦を受け入れよ」、

「金銭解雇ルールの導入など、正社員の首を切りやすくせよ」、

「共済の優遇措置をなくし、アメリカの保険会社の稼ぎやすい環境を作れ」、

「統合型リゾート(カジノ)やれよ、日本人から稼ぐんだからカジノへの入場料を高く設定すんなよ」

といったようなあからさまな要求が並んでいます。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2015/05/29/se-58/


竹中平蔵が日本に外人メイドを入れろと言っていたのもアメリカの指示だったんですね:


日本在住の欧米人がメイドを欲しがる理由

竹中平蔵先生が突然、外人メイドを入れろと言い出したのは日本在住欧米人から指示された為。 彼らにとってメイドというのは性奴隷の事なんですね:

若い女性が金持ちの家にメイドで雇われて、性的被害に遭う話は、それこそ膨大にある。

ある女性が中東にメイドで雇われたが、仕事は老人の性介護(セックスの相手)であり、そのうちその家の息子たち全員の性の玩具にされてしまったという凄惨な話があった。

中東の出稼ぎはフィリピン人も多いが、やはりホスト・ファミリーにレイプされたり、 性的ないやがらせを受けたり、虐待されたりしている。

ブラジャーだけやトップレスで掃除することを強要されたり、レイプされそうになって雇い主を刺殺したら、

正当防衛に関わらず死刑の判決が下ってフィリピン全土が大騒ぎになったりした。

アラブ圏では言うことを聞かないメイドを罵ったり、棒やムチで殴ったりするのは、「しつけ」のうちで、それでも言うことを聞かないとメイドを殺すこともある。
http://ginga-uchuu.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-ffbc.html


犬とメイドはきちんと躾けるのが本人の為
メイドは体を触られたら必ず『Oh Yes. Fuck Me My Master』と言う様に躾けようね。

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自ら発展途上国化しようとしている日本 2

英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる 2015-07-08


我が国を長期的に亡国に導く可能性がある衝撃的なニュースが報じられていた。

『ホンダ、英語を公用語…日本人だけなら日本語も
http://www.yomiuri.co.jp/economy/20150705-OYT1T50040.html


 ホンダは2020年を目標に、英語を社内の公用語にすることを決めた。
原則として、外国人の社員が参加する会議や、本社と海外拠点で共有する文書では、英語を使う。自動車業界はグローバル化が進んでおり、英語の公用語化によって、社員同士の意思疎通を円滑に進めることを目指す。

 基本的には、外国人社員が一人でも会議に出席していたり、本社から海外拠点に指示したりする場合には英語を用いる。ただし、外国人社員が出席しない会議や、現地の従業員だけが共有する文書は、これまで通り日本語や現地の言葉を使うなど柔軟に対応する。

 現在、本社と海外の現地法人の電話会議は、主に日本語で会話しており、日本人の駐在員しか出席しない場合が多い。駐在員が会議の内容を英語に翻訳して外国人従業員に伝えるため、手間がかかり、本社の意図を正確に伝えられないこともあったという。』


 これで、ホンダは「日本企業」であることをやめたも同然です。そして、日本語環境で高度な思考を巡らせ、製品開発や販売戦略を練ってきた日本人社員が英語を強制されることで、意思疎通は更に悪化し、需要に応える自動車を作るという意味における、真の意味の「ホンダの競争力」は凋落していくことになるでしょう。


 ホンダを含む「英語の公用語化」などと愚かな実験を始めた全ての日本企業の経営者、社員に読んで欲しい一冊があります。7月17日に発売になる、施光恒先生の「英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる (集英社新書) 」です。


自由、平等、そして民主主義の「基盤」となっているのは、何でしょうか。

国民の言語です。


 国民の言語が統一されていることで、人間は、
「多数の選択肢に実際にアクセスし、その中から選ぶことができる」
 という意味における自由を手に入れます。日本が、

「英語が公用語。日本語は現地語」

 といった状況だと、我々日本国民の人生の選択肢は相当に狭まってしまうでしょう。すでにして、「英語が分からなければ、ホンダで働けない」と、自由の制限が始まっているのです。


 また、言語が統一されていれば、
「グローバル言語(かつてはラテン語。今は英語)を話す人と、現地語(あるいは土着語)で話す人」
 といった格差が生じ、平等が破壊されることが防げます。そして、日常生活で使う言葉や語彙で「政治」を話し合うことができて初めて、民主主義が成立するのです。 


 施先生が本書で例に出されていますが、ベルギーは1830年の建国以来、異なる言語を使う人々の間で連帯意識をいかに醸成するか、苦労に苦労を重ねてきました。結局、言語が異なる国民同士の連帯意識を高めることは不可能に近く、現在は南部と北部の対立が先鋭化し、選挙のたびに国政が停滞する(政権が発足できない)状況が続いています。(最近では、言語問題に輪をかける形で、移民問題を抱えているわけです)


 母国語を捨てることは、自由や平等、そして健全な民主主義が存在する社会を諦めることなのです。
 
 そもそも、「グローバルな言語(現在は英語)」が公用語的になっており、人々が日常的に話す言葉が「土着語」「現地語」と呼ばれ、高等教育を母国語で実施できない国のことを「発展途上国」と呼ぶのです。


 ビジネス界のみならず、我が国では小学校の英語教育の早期化や、大学教育の英語化が始まっています。すなわち、自ら発展途上国化しようとしているわけで、これほど愚かな国は世界に類例を見ないのではないでしょうか。
 
 人類の進歩というものがあるとしたら、それは施先生も書かれていますが、「翻訳と土着化」で進んできました。欧州を近代化させたのは、間違いなくグローバル言語(ラテン語)で書かれた聖書の各国語への翻訳と土着化です。聖書が英語やフランス語、ドイツ語に翻訳され、概念に基づき語彙が増えていき、各地の「国民」は母国語で世界を、社会を、神を、人生を、哲学を、政治を、科学を、技術を考えられるようになったのです。結果、欧州は近代化しました。


 日本の近代化は、それこそ「明治産業革命」時代の翻訳と土着化により達成されました。外国語をそのまま使うのではなく、概念を理解し、日本語に翻訳する。適切な言葉がないならば、作る(日本語は漢字で表現されるので、非常に便利です)。


 科学、哲学、個人、経済、競争、時間といった言葉は、日本語に適切な訳語がないため、造語されました。自由、観念、福祉、革命などは、従来の漢語に新たな意味が付加されました。


 日本が先進国なのは、先人が「英語を公用語化する」(そういう話は何度もありました)という愚かな選択をせず、「総てを母国語で」を貫いたおかげです。結果的に、恐ろしく柔軟性(これも幕末以降の造語ですが)に富み、抽象表現が幅広く使える日本語により、世界に冠たる文明(これも造語)を築き上げることに成功したわけです。


 確かに、日本人は英語が下手ですが、当たり前です。そもそも日常生活で英語を使う必要が全くなく、母国語で素晴らしい文化(これも造語)を花開かせているのです。英語が巧くなるわけがありません。とはいえ、何度か書いていますが、「日本語」以外でワンピースやコードギアスやシュタインズ・ゲートが生まれると思いますか? 絶対に、無理です。


 逆に、「現地住民」が英語を学ばなければならない国は、母国語のみでは生活できない発展途上国なのでございます。この種の国の国民が、母国語のみで生きていけるようになったとき、初めて「先進国」になるのです。


 というわけで、施先生がメルマガなどでも書いて下さったように、我が国は各国が、
「英語が下手でも普通に生きていける国」

 になるよう、支援するべきなのでございます。それにも関わらず、我が国は自ら「英語を学ばなければ、生きていけない国」を目指しているわけで、このあまりにも愚かな動きに対し、断固反対していかなければなりません。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12047937948.html


【施 光恒】英語化と「国のかたち」 2015/07/10


7月17日に、『英語化は愚民化──日本の国力が地に落ちる』(集英社新書)という新しい本を出します。
http://www.amazon.co.jp/dp/4087207951/ref=zg_bs_492118_4


中身は、日本社会で進む英語偏重の流れや、その背後にあるグローバル化を筋道立てて批判したものです。

しかし、英語偏重の流れは、止まりませんね。三橋さんも先日触れていらっしゃいましたが、楽天、ユニクロだけでなく、ホンダも、企業内の公用語を英語にするらしいですね。

昨日もそれに関連する下記のような記事がでていました。

「ホンダ「も」導入した英語公用語化──「オフィスは英語」が日常の風景になるのか」(『日経ビジネス ONLINE』2015年7月9日付)
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/110879/070800028/?P=1

小学校での英語正式教科化も、2020年から始まる予定です。7月6日の『朝日新聞デジタル』では、小学校での英語教育推進の是非についてのさまざまな意見が特集されていました。

「早期の英語教育、改めて考える 反響をもとに取材」(『朝日新聞デジタル』2015年7月6日)
http://www.asahi.com/articles/ASH6T6486H6TUTIL03Y.html

日本語も覚束ないような幼い時から「英語、英語」ということには、上記の記事にあるように反対意見も多々出されているのですが、文科省など行政は、着々と、英語化を進めています。

小中学校で外国人教師を採用したり、小学校教員の採用試験を英語重視に改めたりするようです。

「教員採用試験でも広がる「グローバル化」──英語教育の充実で」(『Benesse教育情報サイト』2015年7月2日)
http://benesse.jp/blog/20150702/p1.html

私が「おっかないな」と思うのは、こうした英語偏重の「改革」が続けば、あるどこかの時点で「閾値」を超え、ダーッと日本社会の英語化が進んでしまうのではないか、ということです。

その「閾値」というのは、多くの日本人が、「英語ができなければ、子供たちが将来、よい教育を受けられないし、よい職業にもつけず、みじめな思いをしてしまうだろう」と実感してしまう時点だと思います。

この時点を迎えてしまえば、たとえ個々人が「ここは日本なのだから、英語よりもまず日本語が大切だ」と考えていたとしても、あまり関係ありません。自分の子供が将来、つらい思いをするかもしれないと心配になってくれば、大部分の人は、自分の考えはどうあれ、子供にともかく英語を身に付けさせるようになるでしょう。

この「閾値」となる時点は、すでにすぐそこまで来ているのではないかと思います。

今回のホンダの企業内英語公用語化のニュースも、この時点の到来を早めるものの一つでしょう。

それに政府は、小学校の英語正式教科化や、大学の授業の英語化など、英語偏重の教育改革に躍起になっています。

全国の小学校で英語が正式教科となってしまえば、当然、私立や国立の中学入試でも、英語が必須科目となります。

「コミュニケーション重視」「実用的英語力重視」のご時世ですので、中学受験で英語の面接などが導入されるところが増えるのではないでしょうか。

そうなれば、教育熱心な家庭では、小学生のときから、アメリカやイギリス、あるいはフィリピンなどの英語圏に留学させることが流行すると思います。少なくとも、夏休みに、小学生が語学留学するのは、ごく一般的になるはずです。

また、下村博文文科大臣は、平成25年の第四回産業競争力会議で、「世界と競う大学」を作るために、「今後10年間で、大学の授業の5割以上を英語で実施するようにすべきだ」という成果目標を提案しています。
(-_-;)

「人材力強化のための教育戦略」(「第4回 産業競争力会議配布資料 下村文部科学大臣提出資料」平成25年3月15日)
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/skkkaigi/dai4/siryou7.pdf
(PDFファイルが開きます。上記の成果目標は、6ページに記載されています)。

「小学生の間にある程度、英語を身に付けていないと、よい中学に入れない」「英語ができないと、よい大学で学べない」「将来、良い仕事にも就けなくなってしまう」と思う日本人が、遅くても10年足らずの間に急速に増えることが予想されます。

財界の一部や、その意を受けた政府が、(日本人の税金を用いて)政策として日本社会の英語化を進め、「国のかたち」を変革しようとしているわけです。

この変革は、ある程度まで行ってしまい、「英語ができなければ、子供たちが惨めな境遇に追いやられる」と多くの人が実感するようになれば、それから先は、半ば自動的に日本社会の英語化は加速度的に進んでいくようになります。

その先に待っているのは、英語能力の格差が経済的なものに反映される著しい格差の拡大であり、「英語族」と「日本語族」との間の国民の分断であり、日本語があやしく日本人的な感覚も持ち合わせていない新世代の「エリート」による、よそよそしい政治であると思います。
(´・ω・`)

なぜ、日本社会の英語化というバカな流れが止められないのでしょうか。

一つの理由は、現代人の多くが、「グローバル化は時代の必然的流れであり、抗うことはできない」「英語化も時代の不可避の流れだから、しょうがない」というような奇妙な歴史観にとらわれてしまっていることにあるように思います。

拙著『英語化は愚民化』では、まず、この奇妙な歴史観の検討と批判から、話を始めています。

「グローバル化・英語化は時代の流れだから、しょうがない」という無力感にとらわれず、「たとえ英語ができなくても、子供たちは、高いレベルの教育をきちんと受けられ、よい仕事にも就ける。様々な機会を享受できる。惨めな思いなどしなくてもよい」という日本を守っていかなくてはならん。そういう思いから、拙著を書きました。

書店に並ぶようになりましたら、ぜひ手に取ってご覧くだされば幸いです。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/category/seteruhisa/


本日は先日来ご紹介して、異様に反響があった施 光恒先生の「英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる (集英社新書) 」発売日でございます。わたくしはゲラ段階で拝読させて頂き、献本いただいて再度読んだわけですが、つくづく「良書」でございます。

 というわけで、あまりネタバレしたくはないのですが、一つだけ、
「なぜ、現在の日本国において、曲がりなりにも民主主義が成立しているのか」
 について、施先生の考察を書きたいと思います。


 民主主義が成り立つためには、国民が政治的な概念、言葉、定義を共有し、議論をする必要があります。政治の語彙(ボキャブラリー)がない人は、政治について語ることはできません。


 例えば、現在の永田町では「防衛という安全保障」を巡る議論(一応、議論としておきます)が活発化していますが、これは「防衛」「安全保障」といった概念を、日本国民が日本語で語ることが出来なければ成り立たないのです。日本語に「防衛」「安全保障」という語彙がない場合、日本国民は防衛や安全保障について議論することはできません。


 その状況で、民主主義が成り立つでしょうか。もちろん、無理です。


 というわけで、民主主義をこよなく愛する(はずの)朝日新聞は、今こそ「反・英語化」の路線を採るべきなのです。日本の政治が「英語」なしでは議論できない状況になった日には、間違いなく我が国の民主主義は終わります。政治は、英語を解する一部の特権階級のものとなり、「土着語」である日本語を話すマジョリティの国民は、政治について語ることが不可能になってしまうのです。


 母国語で、つまりは日常的に使う言語で「政治」について、一般の国民が話し合うことが不可能な国では、民主主義は成り立たないのです(実際、成り立っていません)。我が国が「国民が主権を持ち続ける国」であるためにも、現在の「英語化」の動きには断固として反対しなければならないのでございます。


 日本国民は、江戸末期から明治初期にかけて、欧米から新たに入ってきた「概念」について、「翻訳と土着化」をして下さった先人に感謝するべきです。当時の日本人が、文化、文明、民主、自由、共和、経済、競争といった「概念」について、日本語を「造語」してまで翻訳して下さったおかげで、我が国は先進国になれたのです。すなわち、普通の日本人が文化やら文明やら、共和、民主、経済、競争といった「概念」を用いてコミュニケーション可能な国にしてくれたからこそ、日本は先進国となりました。


 無論、当時の日本人は概念の翻訳と土着化のみならず、より物理的な「技術」についても欧米から学び、「日本で生産可能」とするための投資を積み重ねました。まさに、その「遺産」こそが明治産業革命遺産なのです。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12051193178.html
5:777 :

2023/06/18 (Sun) 11:38:53

遊び感覚で思考壊す英語教育
情緒や生活習慣を米国化

親や教師無視しゴリ押し    2013年11月15日付


 「グローバル化に対応する人材をつくる」「そのためには英語がペラペラ話せることが必要」といって、小学校では5、6年生で英語が必修とされ、中学校では3年間の英語の授業時間が国語を上回るようになり、高校では今年4月から「英語の授業はすべて英語でおこなう」という方針が実行され始めた。大学でも、「英語でやっている授業は○%」と数値目標で追い立てている。加えて安倍内閣の教育再生実行会議は、「小学校5・6年生から英語を教科にしてテストをおこなう」「中学校でも英語の授業を英語でおこなう」といった方針をうち出している。しかしこの間、「話せる英語」「使える英語」を徹底したことで学校現場はどうなったか。小・中・高校で実情を聞いた。
 
 桃太郎はピーチボーイ 小学校の学習発表

 下関市内のある小学校では、最近、父母たちが見守る学習発表会で、六年生が「英語劇(むかし話)」を発表した。だれもが馴染みのある「桃太郎」「浦島太郎」「おむすびころりん」といった日本の昔話を、日本語でなく英語で演じるのだ。
 例えば「桃太郎」の劇は、「Hello! everybody! Momotaro,the peach boy. Let's start !(こんにちは、みなさん! ももたろうの劇です。さあ! 始めましょう!)」から始まる。

 英語のセリフを暗記している子もいたが、その他の子どもは父母たちにわかるように画用紙に書いた日本語訳を示しながら、画用紙の裏にカタカナで書かれたセリフを読んでいる。小学校では、英語のスペルを教えて読ませることはしてはいけないことになっているからだ。

 恥ずかしそうにいう子もいれば、ふざけていう子もおり、見に来ていた親たちは「だれがどの役をやっているかわからない」と苦笑したり、「なにをいっているのかわからない。低学年が日本語で桃太郎の劇をした方がまだいい」という声が上がるなど、なんともいえない違和感が漂った。以前なら六年生は、重厚な内容の物語を学級の仲間と協力して練習を重ね、感情を込めて劇を作りあげ達成感を得ることが追求されてきた。しかし英語では日本人としての情感や人情の機微に触れる演技などできない。親たちのなかでは「子どもになにが残ったのだろうか」と語られている。

 小学校では、子どもたちが感情をぶつけあい、会話もしけんかもしながら大きく成長していく時期である。その成長期にわざわざ英語教育を導入すること自体、なにを成長させたいのかと多くの親が疑問を感じている。普段の英語の授業も、絵や音楽を通じて「楽しく英語に慣れ親しむ」というものが貫かれている。日常会話である時間の聞き方や買い物の仕方、色、数字や果物などをゲーム感覚で覚えたり、耳で聞いてそれを聞き分けたりと、「スピーキング重視」「ゲーム感覚で楽しく」「英語を積極的に発すること」が重要とされている。英単語や英文を書いたり、読んだりすることは一切ないのが特徴。それはまともな英語教育ではなく語学力をつけることなど最初から目的ではなかったことを示している。

 最近の授業では、この時期に欧米でおこなわれるキリスト教の祭り、「ハロウィン」を勉強し、「Trick or treat(ご馳走をくれないと悪戯するよ)」といって各家庭をせびって歩くかけ声をはじめ、それにちなむ英語を覚えるなど、ことさら欧米流の風俗・習慣に幼い頃から慣れ親しませる内容となっている。

 6年生の教師は「スペルを書かせることもなく、絵を見てその名前を英語で答えさせたりで、英語の時間はほとんどゲーム感覚。教師であればどんな授業であれ、子どもにどんな力をつけさせるかと考えて教育するが、これで英語の力がつくのか? というのが本音だ。まずは日本語の勉強からだろうというのが、教師ならだれもが感じている。だが文科省はそれでいいという。どんな人間をつくろうとしているのか」と語っている。


 必修化後の中学生英文書けず語学力低下

 ゲーム感覚で英語に慣れさせられた子どもたちが、中学に入学すると、初めて単語のスペルを覚えたり、名詞、動詞、現在進行形などの文法を習う。

 現在の中学2年生は、小学5年生のときに英語が必修となった学年だ。ある中学校教師は、「今の中2が入学してきたとき、ALT(外国語指導助手)と積極的に英語で挨拶を交わしている姿を見て、“これまでと違う。小学校の英語の効果だ”と感心していた」という。しかしその時の英語のテストが過去最低だったと話す。例えば「What is your name?(あなたの名前はなんですか?)」を聞いて意味を理解することはできるが、そのスペルや文の構成が理解できない。つまり、耳で反応したり外国人と軽い調子で挨拶ができたとしても、英語という言語がどのような成り立ちになっているか思考する力は身についていない。

 英語教育の専門家も、文科省が「しゃべれる英語」「コミュニケーション重視」といって英語教育の改革を20年やってきたが、その結果「文法がわからない、英文が読めない、書けないという生徒が増え、英語の力が年年下がっている」と指摘している。また「物事を深く考えて、多角的に見る視点が失われた」ことも共通して指摘している。

 ある中学校の教師は、「小学校の英語は“コミュニケーション能力の育成”といって導入されたが、それは単に“ハーイ!”“ハロー”といって軽い挨拶ができる能力であって、相手の気持ちを深く理解するという力ではない。今、いじめやスマートフォンなどを通じた子ども同士のトラブルが深刻になっている。小学3、4年生から英語を導入するというが、日本語で友だち同士の関係を結ぶことも難しいのに、さらに短絡的な思考を強めるだけではないか」と語っている。

 英語で授業する高校 現実にあわず大矛盾に

 高校では今年4月から、進学校か実業高校かに関係なくすべての高校で、1年生の英語の授業は「原則として英語でおこなう」という方針を実行することになった。

 下関市内の高校で半年たった実情を聞くと、「立ちなさい」「座りなさい」「黒板に答えを書きなさい」「プリントを集めなさい」「グループで話しあいなさい」「教科書の○○ページを開きなさい」という生徒への指示は英語でするが、日本語を使わずに授業を進めることは無理であり、これまで通り日本語を使った授業をおこなっているところが多い。

 進学校に通う1年生の女子生徒は「4月の初め、先生が日本語を使わずにすべて英語で指示しはじめたので、みんな“えっ? 意味がわからない”と話になった。それで最近はなくなった。英文法の授業については先生が“文法は日本語でないとわからないから日本語でやる”といっている」と話している。

 ある英語教師は、「日本人が英語を学ぶ場合は、育った環境が日本語なのだから、日本語で考えて学ぶのがあたりまえ。英語で英語を教えることは生徒も教師も混乱するだけで、まったく無理なことをやらせようとしている。結局、アメリカに対する劣等意識を植えつけ、条件反射的に英語で動ける人間をつくろうとしているのではないか」と指摘した。


 大学人も警鐘 母国語奪う植民地教育

 小学校も中学校も高校も、英語を担当する教師は、文科省の進める「コミュニケーション重視」の英語教育では子どもの力はつかず、逆に英語の基礎的な力はなくなり、物事を深く考える力も弱まり、短絡思考とアメリカ崇拝が強まることを共通して危惧している。安倍政府の進める英語漬け教育は、学校現場ではすでに大失敗している。

 それなのになぜ、さらに対象年齢を引き下げて、無理矢理押しつけようとするのか。それは英語教育の目的が、純粋に子どもたちに会話の力をつけさせたいというものとは別のところにあるからである。

 大学で英語を教える教員のなかでは、英語教育の押しつけはアメリカによる植民地教育であるとする論議が高まっている。この数世紀間の歴史を見ても、アメリカやイギリスが世界各地でおこなった侵略と植民地支配のなかで、支配された民族は生活のすべてを奪われるとともに、民族の文化も母語も奪われた。

 たとえば19世紀のアフリカ大陸は、資源を求めるヨーロッパの列強によって勝手に線引きされ、全面的に植民地化されたが、同時に言語も奪われ、英語が押しつけられた。土着の言語は「悪魔の創造物」であり、それを話す者は白人によって「愚か者」「野蛮人」とみなされた。ケニアでは、高校や大学に進学するための試験の六科目がすべて英語でおこなわれるようになった。母語を奪われた結果、アフリカ人は民族の歴史や文化を継承する手段を失い、学校の教育で語られる言語と家庭や地域での日常言語との間につながりが見出せず、疎外感に苦しむ子どもが続出したという。

 またアメリカ大陸では、先住民のインディアンの虐殺がおこなわれ、生き残った先住民は居留地に押し込められた。インディアンの子どもたちは親から隔離されて寄宿学校に入れられ、そこで子どもたちは部族語を禁止され、それまでの生活習慣も捨てさせられて、英語と白人の生活習慣、キリスト教を強制された。そして、もともとの名前もとり上げられて、ジョンやメリーといったアメリカ人の名前がつけられた。

 そして、日本もそれが他人事ではなくなっている。日本の子どもたちから、物事を深く考える力を奪い、短絡的で条件反射的な、思考能力破壊を「英語教育」と称して植えつけ強い支配者に屈服するような状態におくことは、いったいだれが喜ぶことか。それは外資系企業や国を捨てるグローバル企業のためにごく一握りのエリートをつくるとともに、大多数の子どもを切り捨て、カタコト英語で反応する使い捨ての非正規雇用労働力にする意図に通じている。そしてそれは自衛隊にも英語での命令をするよう徹底し、あげくは日本の若者を米軍の下請戦争の肉弾にするための、正確な計算にもとづいた政策にも通じている。

 安倍政府が力を入れる英語漬け教育で進行する事態は、日本の子どもたちから民族の背骨を抜くのでなく、民族の子どもとして育てる教育を徹底して強める重要性を示している。父祖たちの歴史的経験、とりわけ被爆体験や戦争体験を学び、原爆投下者を憎み、平和を愛し、独立した日本をめざして行動できる青少年を、教師、父母、戦争体験世代が一致団結して育てる運動を、大きく発展させなければならない。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/asobikannkakudesikoukowasueigokyouiku.html


「英語教育論」についての再論 (内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2014/09/14_1017.php

 英語教育についてある媒体に書いたものをブログに採録したところ、それを読んだニュージーランドに20年お住まいの読者の方から手紙を頂いた。
その方の見聞でも、ニュージーランド「留学移民」事情は、だいたい私の指摘と符合しているということであった。

香港や台湾や韓国からの児童生徒の留学生は「いざというとき」の脱出先を確保するという政治的な目的もあるので、parachute children と呼ばれている由。もちろん、そればかりでなく、幼児期から英語運用能力を身につけることで、故国に戻ったときにキャリア形成上のアドバンテージを得るということも期待されている(それをhead start と呼ぶというそうである。「一歩先んじたスタート」)。
僕の見聞の通り、父親が国に残って仕送りする母子家庭がベーシックなスタイルだが、中には小学生の子どもだけをホームステイ先に送り込んでいるケースもあるという。

さて、このように幼いときに母語的環境から切り離された子どもたちはどうなるのか。

家族と一緒に移民してきた場合、母語を生活言語として「話すこと」はできるが読み書きはできないという事例が多い。

小学生の途中で留学したが、英語運用能力が大学入学レベルに達せず、一方日本語では祖父母と会話ができないというケースや、高校の途中から留学して大学入学の英語レベルには達したが、今度は英和辞典の日本語が読めなくなったというケースなど「英語も日本語も中途半端」ないわゆる「セミ・リンガル」というケースも少なくないそうである。

この方は「留学移民」についてもEMI(Englishas a Medium of Instruction=英語以外の教科を英語で教える教育法)についても批判的であった。

高校の数学や物理を英語で教えることにどういうメリットがあるのか。教えられる教員もいないだろうし、英語の苦手な生徒たちは数学や物理学について興味があっても教科内容を理解する手前で梯子を外されてしまう。

それが非効率だからというので、明治初期に大学での教科を日本語で教えられるように、漱石のような卓越した知性を「お雇い外国人」に代えて次々と大学教員に登用し、あわせて日本語そのものを高度化していったのではなかったか。

先人が営々として築き上げて、日本の近代化を推し進めた民族的な努力を100年後にまたゼロに戻そうとする人たちは何を考えているのか。

私たちにまず必要なのは英語の早期からの習得ではなく、むしろ「日本語の高度化」だと私は思っている。

明治時代において西周や加藤弘之や中江兆民や福沢諭吉が果したような「世界と日本を架橋する」仕事を担う人々が出てこなければならないと私は思っている。
そういうのは「そういう仕事は自分がやるしかない」という自覚のある人が進んで担うものであって、利益誘導したり、強制したりするものではない。ましてや、日本人全員が就くべき仕事でもない。

「外界と自分たちの集団の間を架橋すること」は集団が生き延びてゆくために必要な無数の仕事のうちの一つである。必須のものではあるが、無数の必須の仕事のうちの一つであることに代わりはない。

「餅は餅屋」。そういう「架橋仕事」が「好きで堪らぬ」とか「自分の天職だ」と思っている人がやればいい。全員が「餅屋」になる必要はない。

考えればわかるが、「全員が餅屋であるような社会」で人は生きて行くことができない。

そんな社会で、そもそも、誰が餅米を作るのか、誰が餅を流通させるのか、餅を売った金で餅以外に何が買えるのか。少し考えれば「餅屋経済」が不可能であることはわかる。

けれども、それでも「餅屋経済」を願う人たちがいる。

「全員が餅屋であるような社会」はすぐに壊滅してしまうが、「ほとんど全員が餅屋である社会」でなら、残りの「非餅屋」には莫大な利益を確保するチャンスがあるからだ。

彼らは「餅屋が欲しがるもの」(つまり餅以外のすべての生活財)を作り、それを売ることで莫大な利益を上げることができる。

ご覧のとおり、これはグローバル経済の理想状態を戯画化した姿である。
すべての労働者と消費者を規格化・定型化することで企業の収益は最大化する。

全員が同じことしかできない、同じものしか求めない状態にあって、「それ以外のことができる」一握りの人間になることこそグローバル資本主義者の夢なのである。70億の99%を互換可能な状態にとりまとめると、地上のすべての富は残り1%に排他的に集積されることになる。

いま日本の英語教育で推進されているのは、「できるだけ多くの互換可能な人間で地上を埋め尽くす」というグローバル資本主義の夢の実現のためのプログラムである。

明治人たちの身を削るような努力を水泡に帰せしめ、日本語話者は母語だけでは政治も経済も学術も芸術も「語ることができない」状態にすること、つまり言語的な植民地状態に日本を作り替えることに官民挙げて熱中している。

「狂気の沙汰」という以外に形容のしようがないけれど、さすがにここまで頭のネジが飛んでくると、「この人たちは頭がおかしいのではないか」ということには気の利いた小学生でも気づくだろう。

彼らが言語的実践としてどういうオルタナティブを提示してくるのか、私は期待して眺めている。

予測できることが一つある。

それは、アメリカにおけるエボニクスやシンガポールにおけるシングリッシュのような「英語の極端な方言化」である。

戦略的な言い方をすれば、「母語として身につけた英語」ではもう「別の英語」圏の人たちとはコミュニケーションできないという状態を作り出すことで、英語の国際共通性=特権性を解体するのである。

実際に、たぶん半世紀後には、インドと中国では、人々が文法も語彙も私たちの知っている英語とは違う固有の「インド英語」と「中国英語」を話し始めているだろう。彼らがそのときに十分な政治力を持っていれば、当然それを「英米英語」に代えて「国際共通語」にすることを要求してくる。

もちろん、そのときは文科省は(まだ存在していれば、だが)「中国英語ができないとビジネス・コミュニケーションで不利になり、また無用の侮りを受けるリスクがある」という理由で、低年齢からの「中国英語」習得を学習指導要領に書き込むだろう。

それに対して「バカじゃないの」と思う国民が過半に及ばないようであれば、日本はもうその前に終わっているだろうから、私が今さら心配するには及ばない。
もう一つもっと夢のあるオルタナティブもある。

それは「日本語の高度化」という選択肢である。

それを担うような天才的な「日本語の遣い手」の登場を私ははげしく待望している。  
http://blog.tatsuru.com/2014/09/14_1017.php

アメリカ人の優位性は自国語が国際語になっているという事だけ:


ヨーロッパ連合(EU)では、医師免許をはじめとする諸種の国家資格が共有化されようとしている。そこでは英語が共通言語だ。この国家の壁を乗り越えたヨーロッパの歴史的で壮大な試みを無視してよかろうはずがない。医学生に限らず、わが国の大学生は皆、日本語の教科書だけで学問ができる。その例外性に多くの人は気づいていない。

日本以外の国では、英語(最低、ヨーロッパ系言語)ができなければよい教科書が読めないし、医者にも看護師にも臨床検査技師にもなれない。日本語は漢字のおかげで、外来語を簡単に母国語化するすばらしい能力を有していることを再確認したい。タイ語やスワヒリ語では医学用語の大部分が表現できない。韓国でも、医学生は英語でばかり勉強して、ちっともハングルで勉強してくれないと多くの教員が嘆いている。

EUでは医師免許をはじめとして、いろいろな国家資格が英語で統一されようとしている。最近になってフランス文化やドイツ文化の最先端科学部門における劣勢がはっきりしてきて、ドイツ人もフランス人もその他のヨーロッパ人は最先端科学部門は英語が出来ないと母国語では無理らしい。

同じアルファベットを使い、ラテン語からの派生語や、大きな影響を受けた同じ文化圏の言葉だから、専門用語はいちいち翻訳するよりも英語をそのまま使ったほうが手っ取り早いのでしょう。もはやフランス語やドイツ語はローカル言語であり、英語でないと最先端科学分野の学問は出来なくなっている。だからドイツ人やフランス人のお医者さんは英語が堪能なのは国家資格が英語で行われるからだろう。

アジア、アフリカ、中南米諸国の医学生は英語ができなくては最先端医療が学ぶことが出来ないし、多くの留学生を欧米に送り込んで学ばせている。タイ語やスワヒリ語では専門用語が翻訳できないからだ。2010年9月7日の株式日記ではスウェーデンの化学や文化の事を書きましたが、スウェーデン語と英語の二重言語生活を強いられる結果をもたらしている。他のヨーロッパ諸国も大なり小なり同じだろう。英語を学ばなければ最先端科学について行けない。

中国や韓国が大量の留学生をアメリカに送り込んでいるのも同じ理由によるものだろう。まさに英語帝国主義の大勝利であり、英語がグローバルスタンダード言語となり、非英語国では二重言語生活を余儀なくされている。その反面では英米人は外国語を学ぶ必要が無く、その時間を科学分野の研究に割り当てることが出来る。英語で国家試験が行われるようになると言うことは、それだけ非英語国民は負担を強いられることになる。

スウェーデンにおいても、スウェーデン語で書かれた文章と、英語で書かれた文章を読ませて、理解力を比べてみたら25%も英語で読んだグループは劣っていた。

つまり国際競争力においてもアメリカイギリスといった英語を母国語とする国民が圧倒的に有利になり、スウェーデンなどのヨーロッパの小国は言葉も文化もやがては失われていくのだろう。アイルランドもかつてはアイルランド語を話していましたが、今では英語が国語となりアイルランド語は文化財として残っている程度だ。

IT用語や金融用語や医学用語などは英語が共通語となり、日本も例外ではない。かつては武力が帝国の力の象徴になっていましたが、現代では言語が帝国の象徴となり、非英語国では二重言語生活を余儀なくされて、25%ものハンデを背負っているようなものだ。
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu232.html

アメリカの大学院入学はGREという共通一時みたいなのが、ほとんどの大学入学基準として使われてるが、英語と数学と英作文からなる。

で、アジア人は数学で満点近くを皆とるが、英語試験が恐ろしく難解なボキャブラリーの現地人しかできないしろもので、落ちる外国人が多い。

もし、数学だけだったら、アイビーリーグや名門はほとんどアジア人留学生だけになってしまうだろうね。

で、英語帝国の興隆とともに、経済学はもとより科学の発展も止まってしまったんじゃないか?だいたい発明のような直感は自国語でしか出てこないだろ?

アメリカの戦後の発明なんて何がある?ロケットなんてv2そのものだし、ジェット機もコンピューターもヨーロッパ人が発明した。もう、0にちかい。

ようするにアメリカは英語を武器に戦後の科学覇権(社会科学の含む)を維持してきたんだ。

まあ、本当の天才を育てたいんだったら、英語を勉強させたとしても教育は自国語ですべきだ。
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/471.html

しかも、アメリカ人は一部のエリート以外は英語で書かれた文章すら読めないアホばかり:


なぜ外国映画はアメリカで字幕上映されない?


世界中ほとんどの国で、外国映画は吹き替え上映が普通。

日本みたいに字幕上映が多い国が例外。


1 :名無しより愛をこめて [sage]:2009/07/12(日) 13:22:19 ID:J3Qe6wQy

アメリカで公開される外国の映画は殆どが英語吹き替えで上映されたり、
映画の舞台が非英語圏でも堂々と登場人物が英語を喋ったりで、日本で言う
字幕厨なんていう奴は全くいなく、吹替厨だらけ。

なんでアメリカ人は外国映画を英語字幕で見ようとしないんだろ?


3 :名無シネマさん[sage]:2009/07/12(日) 14:18:47 ID:CKJtk7i/

英語は綴りを読まなくちゃならないからな
漢字は一文字の情報量が多いから流し読みしても意味が汲み取りやすい
日本語字幕が全部ひらがなで書かれてる位の読み難さじゃないかな>英語字幕


7 :名無シネマさん[sage]:2009/07/13(月) 14:18:50 ID:Y0rfQyei
>>3
何度か、英語字幕付きの日本映画を見たけど登場人物が難しいことを言いだすと、長い単語が画面にズラズラと流れてこれは無理だと思ったよ。


8 :名無シネマさん[sage]:2009/07/19(日) 20:34:54 ID:ShU9guzs

ドイツに半年いたことがあったけど、
映画館は約8割はハリウッド映画を吹き替え上映してたよ。 
1日一本週4日、メジャーな映画(天使と悪魔、グラントリノ、ターミネーター等)の英語のオリジナル(字幕なし)上映があってたけど。

>>4が最初のほうでいってるように、
吹き替え上映はアメリカに限らず、けっこういろんな国で多数派なのでは?


10 :名無シネマさん[sage]:2009/07/28(火) 18:02:21 ID:W/Jd8xzS

吹替えって結構徹底してるみたいです。
しかし一度「John Rabe」というドイツ映画を見に行ったことがあるんだけど、
これがドイツ映画でドイツ語が主言語のくせにせりふがすべて吹替え!

なぜかというと、この映画はシンドラーのリストドイツ版?
日本軍の南京大虐殺から中国人を救ったドイツ人ビジネスマンの話。

なので、せりふもドイツ語のほか、英語、フランス語、中国語、日本語といくつかある。(IMDbで確認した)

日本人の将校役の俳優さんたちは日本語だな!と期待したらだめだった。
明らかにドイツ語でしゃべってる部分まで調整のため?かふきかえられてんだもん。

まじで徹底した吹替えっぷり。 これはドイツでの一例なので、ほかの国でどうなのかは未体験だが・・・
外国いって字幕で外国映画を見ようなんて、アメリカに限らずどこの国いっても期待しないほうがいいぞ。


そしてその結果、アメリカ人の知性はこの有様:


 「アメリカでは大人の4人に1人が自分の名前程度しか読み書きできない」。新聞や雑誌で、こんな統計に出くわしてハッとする。

 ただそれは、ぼくが4人に1人という数に驚くからではなく、

「やっぱりそうか、アメリカの非識字率ってそんなとこだったんだよな・・・・・」

と改めて意識させられ、でもショックは受けず、危機感もイマイチわかず、

「ま、別段新しい数字でもないし・・・・・」

と片付けそうになる、とそこで気がつく。そしてハッとするのだ。慣れっこになってはならない、深刻な問題なのだ。

 しかしまったく、ぼくの母国はどこを見ても、危機的な統計がゴロゴロしている。


――国民健康保険の制度はなく、アメリカ人のおよそ6人に1人が無保険状態で、事実上、医療が受けられない。


――ブッシュ政権が1期目で実施した大型減税は、総額の半分以上が超富裕層のトップの1パーセントの懐に入った。


――米国人は世界人口の5%にも満たないが、世界の石油消費量の4分の1以上を、一国だけで燃やしている。


――マリア様がセックス抜きに、処女のまま妊娠してキリスト様を産んだという「処女懐胎」を、アメリカの成人の8割が信じている。


 25%の非識字率と、その他もろもろのトンデモ統計と、当然みんな地続きのものだ。字がうまく読めないと、テレビが主な情報源になってしまい、テレビ報道は、「処女懐胎」と同じくらい現実から掛け離れていることが多々ある。

では、もし一生懸命ABCを勉強し、どうにかディクショナリーと首っぴきで新聞が読めるようになったとして、それで確かな情報にありつけるかというと、そうはメディア屋が卸さない。

 例えば、二年前の古新聞を見てみると、『ニューヨーク・タイムズ』を始めアメリカの全国紙も地方紙も、妄想とイリュージョンの記事で埋め尽くされている。「死との隠れん坊・なおくすぶるイラクの核兵器の謎」「細菌博士・世界一の殺傷力を持つ女」―― 2002年の暮れは、イラクが隠し持っているに違いない生物兵器と化学兵器と核兵器と弾道ミサイルの脅威の話題で100%持ち切りだった。
http://www.web-nihongo.com/back_no/column_01b/041221/index1.html
6:777 :

2023/06/18 (Sun) 11:41:09

施光恒・九大大学院准教授「英語押しつけで日本人は愚民化」(日刊ゲンダイ)
2015年8月3日 日刊ゲンダイ
http://www.asyura2.com/15/senkyo189/msg/878.html


英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる (集英社新書) – 2015/7/17
施 光恒 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E5%8C%96%E3%81%AF%E6%84%9A%E6%B0%91%E5%8C%96-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%9B%BD%E5%8A%9B%E3%81%8C%E5%9C%B0%E3%81%AB%E8%90%BD%E3%81%A1%E3%82%8B-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%96%BD-%E5%85%89%E6%81%92/dp/4087207951


■安倍政権は米国に追随したいだけはないか


安倍政権は安保法制で何を守ろうとしているのか。根本的な問いかけをしている話題の書が、施光恒・九大大学院准教授が著した「英語化は愚民化」(集英社新書)である。米国の繁栄を前提に、とことん米国に追随しようとする安倍政権は安保政策やTPPで尻尾を振るだけでなく、ついには英語の事実上の公用語化に動き始めている。英語教育の充実は当たり前のように思われがちだが、それによって、強制的に国の形、文化、働き方が変えられてしまう恐れがある。その先に何があるのかを著者に聞いた。


――タイトルは非常に刺激的というか、英会話ブームの今の日本の風潮を真っ向から否定するものですね。この本を書かれた動機は?


楽天やユニクロが社内の公用語を英語化したでしょう? 同じ頃、安倍政権が日本社会全体を英語化する政策を推進し始めた。たとえば、産業競争力会議の下にあるクールジャパンムーブメント推進会議は「公共の場での会話は英語のみ」という英語公用語特区をつくる提言をしました。日本国内であるのに日本語を「使ってはいけない」区域をつくるという信じ難い提案です。

教育行政でも、英語による授業の割合を増やす大学には巨額の補助金を与えるようになり、文科省は一流の大学は10年後に5割以上の授業を英語化せよ、とまで一昨年言っている。

その背景には、グローバル化の時代なのだから仕方がないという発想があるのですが、本当にグローバル化の流れは必然なのか、良いことなのか。その波に乗ることで、日本の強さの基盤が破壊されることはないのか。そうした根源的な疑問を持ったんですね。


――小学校でも間もなく英語が正式教科になりますね。


そうなれば、中学入試の科目に英語が入ります。教育熱心な家庭は小学生を英語圏に短期留学させるでしょうね。父親は日本で稼ぎ、母子は外国で暮らす。そうやって英語が上達した子が、日本のエリートと目されるようになる。

しかし、こうした英語偏重教育は当然、日本語の力に跳ね返ってくる。母国語である日本語が怪しいエリートたちに、果たして深い思考ができるのだろうか。英語はできるが思考力のない植民地エリートのような人々が仕切る政治や行政は、一般の国民が求めるものとはかなりずれたものになる。これが怖いのです。


――こうした英語化推進は「国家百年の計の過ちである」と書かれていますね。


ビジネスや大学教育など日本の社会の第一線が英語化されてしまうと、どうなるか。英語がしゃべれるか否かという教育格差が、収入など経済的格差に直結し、究極の分断社会が誕生します。どんなに他の能力が高くても英語力を磨く余裕がないというだけで、中間層の人々は成長したり、能力を磨いたりする機会を奪われる。日本の誇る中間層が愚民化を強いられ、没落するのです。

また、日本語が高度な議論の場で使われなくなれば、日本語そのものも最先端の用語を持たない遅れた言語となり、国民の愚民化に拍車が掛かる。一方で、英語がしゃべれるだけのエリートもまた、深い思考力や洞察力を持てないから日本全体が愚民化していきます。


――でも、英語がしゃべれるようになるのは悪いことじゃないでしょう?英語化に熱心な楽天の三木谷さんは「第2公用語を英語にしたら、日本の経済はシンガポールのように超強くなる」と言っていますよ。


英語化によって日本の知的中間層が衰弱したら、日本経済の再生など不可能です。ちなみにシンガポールは超格差社会で、民主主義国家ですらないのです。グローバル化の流れに乗れば、国民が幸福になるというのは幻想です。


――今の日本を覆っているのが、米国流のグローバルスタンダードに従うべきだという風潮です。


安保法制にしても、TPPや英語公用語化の動きにしても、何が日本の利益になるのかはっきり見えない。結局、米国に追従したいだけではないか。こうした問題への対応を見ていると、今の政府が、まるで自分たちをアメリカ人であるかのように錯覚しているのが分かる。すでに植民地エリートになっているのかもしれません。


■英語しかしゃべれない植民地エリートが国を壊す


「安倍政権に強い危機感」と訴える施氏(C)日刊ゲンダイ


――英語を公用語化すれば、グローバル企業が参入し、日本人もそこで働けるというのが狙いなのでしょうが、この発想も植民地的ですね。


「経済的利益のためなら日本語をないがしろにしてもかまわん。言語はしょせんツールだから」と英語化推進派は思っているようです。しかし、経済的利益などあまりないし、それよりも何も、言語は私たちの知性や感性、世界観をつくっているのです。

例えば、日本語は私、俺、小生などさまざまな一人称がある。時には子供の前で自分を指して『お父さんはね』などとも言う。相手を呼ぶ場合もあなた、君、おまえから、先生、課長などいろいろです。日本人は常に相手との関係を考えて話をする。それが互いに思いやる文化をつくってきた。一方、英語の一人称は常にIだし、二人称もYouだけです。英語を母国語とする人は、最初から自分が中心にいるのです。


――日本人の気配り、欧米人の自己主張。そういう民族性の違いは言語に起因すると?


我々は言葉から自由になれないし、その言語がつくり出す文化に縛られているのです。たとえ英語がペラペラになっても、彼らの文化やルールの上で、米国人や英国人と対等に勝負できるかというとそうではない。結局、日本人がグローバル資本の奴隷になるだけです。つまり、英語はそこそこ話せるけれども高度な思考はできないといった、安価で都合のいい現地雇いの労働者の量産が狙いでしょう。


非英語圏の星である日本までが英語化すると、世界全体も不幸になります。英語圏諸国を頂点に置くピラミッドのような「英語による支配の序列構造」がさらに強固になるからです。つまり、英語のネーティブの特権階級が上にいて、その下に英語を第2公用語とする「中流階級」ができる。その下に英語を外国語として使う「労働者階級」が存在する。そういうピラミッドが不動のものになる恐れがあります。


――このピラミッドの下の方から、日本人が抜け出すことは難しそうですね。


この言語による不公正な格差構造のある世界を、日本人はグローバル社会と呼び、称賛する。グローバル化って、マジックワードなんですよ。本当は違うのに、進歩した世界に聞こえてしまう。役所でも、グローバル化対応予算などというと、すんなり通りやすくなる。


――村より国家、国家より地域統合体、理想は世界国家みたいな考え方ですね。しかし、EUは地域統合で行き詰まっていますね。


「『ドイツ帝国』が世界を破滅させる」で話題のフランスの歴史学者のエマニュエル・トッドは、グローバル化の進展に伴って、EU各国内での民主主義が機能しなくなっていると警鐘を鳴らしています。


――EUの閉塞状況こそを参考にしなければいけないのに、日本は周回遅れのランナーのように、グローバル化と叫んでいる。


安倍首相は当初、「瑞穂の国の資本主義」というスローガンを掲げていたのに、真逆の方向に進んでいます。安倍さんのナショナリズムというのは日本の文化や言語を大事にするのではなく、米国がつくった評価システムの中で日本のランキングを上げるという発想です。私はそれをランキング・ナショナリズムと呼んでいます。米国の覇権を前提にして、日本がなるべく米国に近い位置を占めようとする発想です。


グローバル化の荒波からいかに国民生活や文化を守るかが問われているのに、国民経済の安定を目指すべき経産省がグローバル化をあおり、日本文化を守るための教育を担う文科省が日本を破壊する英語公用語化の旗を振っている。米国への従属から脱する気のない政府に強い危機感を覚えます。
7:777 :

2023/06/18 (Sun) 11:42:04

2015-09-05
ユーロの大量難民受け入れを促進するグローバリストの裏側
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20150905T1620500900

ユーロの為政者たちは「多文化主義」を強力に推進しており、移民を大量に自国に入れ、難民を大量に受け入れている。

ユーロという枠組みで国境をなくし、人の出入りを容易にして人種を混合して「世界はひとつ」を実現しようとしている。

この動きを「グローバリズム」という。

グローバリズムが推進され、それに反対する保守的な政党はすべて「極右」というレッテルを貼られてメディアで叩かれるのは、現在の支配階級(エスタブリッシュメント)がグローバル化によって莫大な利益を得るからである。

なぜ、現在の支配階級はグローバル化によって利益が得られるのか。

それは支配階級の資金源のほぼすべてが「多国籍企業」から来ているからだ。

彼らのほとんどは多国籍企業の所有者なのである。だから多国籍企業が求めるものが、彼らの基本政策となる。

その多国籍企業こそがグローバル化を求めているので、現在の強大な影響力を持った支配階級は、迷うことなくグローバル化に向かって突き進む。

100%の確率で「巨大多国籍企業」の所有者

フォーブスの億万長者ランキングをひとつひとつ見れば、そのすべてが「多国籍企業」の所有者であることが分かるはずだ。

(1)ビル・ゲイツ(マイクロソフト社)
(2)カルロス・スリム(テレフォノス・デ・メヒコ)
(3)ウォーレン・バフェット(バークシャー・ハサウェイ)
(4)アマンシオ・オルテガ(ザラ)
(5)ラリー・エリソン(オラクル)
(6)チャールズ・コーク(コーク・インダストリーズ)
(7)デイヴィッド・コーク(コーク・インダストリーズ)
(8)クリスティ・ウォルトン(ウォルマート)
(9)ジム・ウォルトン(ウォルマート)
(10)リリアンヌ・ベッタンクール(ロレアル)

上位10位の億万長者を見ても、100%の確率で「巨大多国籍企業」の所有者である。それに続く億万長者もまた然り。

ロスチャイルド一族、ロックフェラー一族、デュポン一族、ヴァンダービルト一族、メロン一族等は、こうした億万長者のリストに入っていない。

しかし、こうした旧財閥一族がもう億万長者ではないのかというとそうではない。

彼らはそれぞれ自分たちの財団を所有しているが、その財団が多国籍企業の株式を大量に所有している。旧財閥一族は今でも財団を通して巨万の富を得ているのだが、ただリストに載らないように振る舞っているだけである。

つまり、すべての支配層は多国籍企業に通じている。

そのため、多国籍企業にとって素晴らしいことは、支配階級にとっても無条件に素晴らしいことでもある。

その多国籍企業がグローバル化を求めているのであれば、すべての支配階級がグローバル化を一心不乱に推進するのは当然のことである。


なぜ多国籍企業にグローバル化は重要なのか?

では、なぜ多国籍企業にグローバル化は重要なのか。もちろん、「市場」が全世界に広がれば広がるほど成長と利益が手に入るからだ。

そして、全世界の人間が「共通の文化」を持っていればいるほど、同一製品を大量生産することができて低コストで利潤を追求できるからだ。

さらに、全世界に進出できるようになると、賃金の安いところで工場を作り、賃金の高いところで商品を売るという芸当も可能になる。

多国籍企業にとってグローバル化は自分たちが「より儲ける」ために必要不可欠のものなのである。だからこそ、多国籍企業の所有者である支配階級は、全力でグローバル化を推し進めることに余念がない。

その国の文化や伝統など、そんなものはグローバリストにとっては邪魔な存在でしかない。

文化や伝統のような独自のものが強く残っていると、その文化や伝統に商品をローカライズしなければならないのでよけいなコストがかかる。

コストを消すためにはグローバル化を推進して、価値感も文化も「同じ」にするのが一番だ。

国家の力が強大であると、国が地場産業を守るために関税をかけたり保護貿易を進めたり多国籍企業に寄生をかけたりするので、国家も邪魔になる。

多国籍企業にとって、すでに「国家」という概念は自分たちの邪魔なものになっている。だから国家を弱体化させ、ブロック化させ、最終的に国家を単に地域の役場レベルにまで弱体化した方が良いとグローバリストは考える。

こうした多国籍企業の圧倒的な影響力を背景に選ばれたのが先進国の政治家たちである。

先進国の政治家たちが揃いも揃ってグローバリズムを推し進め、それに対して何の疑問も抱かないのは、そういう人間だけを支配階級が「選択」しているからである。


難民受け入れに反発する国民をどう押さえるか?

そういった目で、現在のヨーロッパで起きている移民や難民の大量流入を見ると、こうした難民を受け入れるというのはグローバリストにとっては「素晴らしいこと」であることであると気付くはずだ。

大量の「安い賃金で働く人間」がなだれ込み、大量の「消費者」が生まれる。

しかも難民が増えれば増えるほど、ヨーロッパが持っていた伝統や文化というものは破壊され、難民たちが持っていた文化もヨーロッパの文化に触れて薄められていく。つまり、両方が同時に画一的な文化に染まっていく。

これは、多国籍企業にとって都合が良い展開だ。

もちろん、30万人も難民が一気になだれ込んで来るのだから、ただでは済まない。

現在のヨーロッパは大混乱に見舞われており、難民が増えるに比して難民排除の動きもまた活発化してヨーロッパ圏は「難民崩壊」する可能性がある。

それでもヨーロッパの政治家たちが大量難民を受け入れるのは、そうすることによって国が混乱しても「多国籍企業は儲かる」からである。

しかし、大量の難民が押し寄せてしわ寄せを受け、難民の受け入れに反発する国民をどのように押さえるか……。

最近、グローバル・メディアは、トルコ海岸で死んだシリア難民の三歳児の死をクローズアップして、「難民を受け入れないと悲劇が繰り返される」「難民を助けなければならない」という洗脳工作を一挙に繰り広げている。

そして、難民の流入に反対する人間は「かわいそうな三歳児を見なかったのか。人間としての感情がないのか」と吊し上げて非難する世論形成を作り上げている。

かくしてユーロ圏には大量の難民が押し寄せても、それに反対することはできなくなっていく。そして、多国籍企業はモノを売る人間が数十万人も増えて歓喜に湧く。

世の中は多国籍企業が儲かる方向で動いている。資本主義社会の支配者は、多国籍企業だからである。


今後、難民の受け入れに反対する人間は、この写真を突きつけられ「かわいそうな三歳児を見なかったのか。人間としての感情がないのか」と吊し上げられることになる。
8:777 :

2023/06/18 (Sun) 11:42:38

英語化は植民地政策だ 施光恒
9月 28th, 2015 by 月刊日本編集部.


英語化は植民地化政策だ

―― 施さんは『英語化は愚民化』(集英社新書)を上梓し、英語化に警鐘を鳴らしています。


施 結論からいうと、英語化は植民地政策の一環です。安倍政権は様々な面で対米従属を深めています。経済面ではTPP、軍事面では日米ガイドラインと安保法案、そして文化面でも英語化という形で対米従属が進行しているのです。

 しかし言語の問題は政治や経済とは訳が違います。国語は国家、民族、歴史、伝統、文化の根源だからです。

 フランスの作家アルフォンス・ドーデの小説『最後の授業』では、普仏戦争後にフランスからドイツに割譲されることになったアルザス・ロレーヌ地方の小学校でのフランス語の最後の授業が描かれます。そこで教師は児童にこう語りかけます。「フランス語は世界中でいちばん美しい、いちばんはっきりした、いちばんしっかりした言葉である。だから君たちはこれを守りつづけ、決して忘れてはならない。なぜなら民族が奴隷になったとき、国語さえしっかり守っていれば、自分たちの牢獄の鍵を握っているようなものなのだから」と。

 現在の英語化は「英語公用語化」といっても過言ではないほどです。このまま英語が日本語を駆逐していけば、私たちは「牢獄の鍵」をうしない、対米自立の道が断たれます。日本的なるものは滅びるか、滅びないまでも再起不能になり、そのあと日本列島に残るのはアメリカの植民地ということになってしまうのです。


―― それでは英語化の現状から伺えますか。


施 現在、日本社会全体で英語化が進んでいます。企業では今年7月、ホンダが楽天やユニクロに続いて社内で英語を公用語とすることを決定しました。

 教育分野でも同様です。政府は早ければ2018年以降小学校5年生から英語を正式科目とする方針です。さいたま市や岐阜市のように小学校一年生から英語の正式教科化を進めている地方自治体もあります。英語のみで英語の授業を行う「オールイングリッシュ方式」はすでに高校では導入されていますが、今後は中学でも採用されます。

大学教育については下村文科相が一昨年、一流とされる大学は、今後、10年のうちに5割以上の授業を英語で行うようにすべきだと述べています。また、文科省も「スーパーグローバル大学」構想なるものを打ち出すなどして、授業の英語化を進めるよう各大学の尻を叩いています。

その結果、京大は一般教養科目の2分の1の英語化を目指していますし、東大理学部化学科に至っては昨年秋からすでに全授業を英語に切りかえています。各学会でも、最近は「研究発表は日本語ではなく英語でやるべきだ」という風潮が強まっています。

 行政も例外ではなく、近い将来、国家公務員から地方公務員まで英語化が進む恐れがあります。今年度からはキャリア官僚になるための国家公務員総合職試験ではTOEFLの活用が始まりました。またTPPには「政府調達(公共事業の入札)」という項目があり、TPPに加盟すれば国家レベルの公共事業だけではなく、地方自治体レベルの小規模な公共事業も国際入札で行われるようになり、行政文書も英語化されていくでしょう。

 さらにクールジャパンムーブメント推進会議という政府の有識者会議は、公用語を英語とする「英語特区」を企画し、「公共の場での会話は英語のみに限定する」「販売される書籍・新聞は英語媒体とする」と提案しています。いわば「日本語禁止特区」です。自ら「アメリカの租界」を作っているようなものです。

英語化で日本の国力は地に落ちる

―― しかしグローバル化の時代を生き抜くには、英語力を高める必要があるという声が大きい。


施 いや、逆に英語化は日本の国力を落とすでしょうね。まず日本人の学力が格段に落ちる。ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英氏は、中国や韓国の研究者から「どうしてアジアで日本だけが次々と受賞者を輩出できるのか」と尋ねられ、「日本人は母国語で専門書を読むことができるからだ」と思い当ったと話しています。

 本来、人間の可能性は母語の中でこそ最大化します。どんなに上手でも日本人にとって英語は外国語です。外国語である以上、英語で日本語より深い思考をすることはできない。スーパーグローバル大学は「世界レベルの教育研究」を行うために「英語で授業を行う」と謳っていますが、英語化は日本の知的レベルを下げる一方でしょう。

また政府は「グローバル人材」を育てて経済力を上げたいようですが、GDPの上位五カ国はアメリカ、中国、日本、ドイツ、フランスです。一方、英語を公用語として使っているアジア・アフリカ諸国のGDPは低い。

 そもそも英語力と学術や経済の力とを結びつける発想が間違っています。……
http://gekkan-nippon.com/?p=7080
9:777 :

2023/06/18 (Sun) 11:43:33

グローバリスト官僚 2015-11-20


『グローバリズムは国民経済を弱体化させるのみならず、国民を、

「国境を越えた移動が困難で、母国語(日本の場合は日本語)を話し、労働と対価としての所得で生活する国民」

 と、

「国境を越えて移動が可能で、母国語ではなくグローバル言語(現在は英語)を話し、労働の対価としての所得ではなく、資本利益(配当など)で生きていくグローバリスト」

 に二分化する。国民が英語を話す「少数派グローバリスト」と「それ以外の多数派の国民」に分断され、各国の安全保障や社会保障が揺らいでいくのだ。安全保障や社会保障は、国民の「共同体意識」なしでは成立しない。すなわち、ナショナリズムが重要なのだが、グローバリズムは国民の連帯感を破壊する。』


 
 11月20日の日本農業新聞の「小話往来」に、信じがたい記事が載っていました。


『小話往来「日本語軽視が露呈」

 政府が「日本と米国がリードした」(安倍晋三首相)と誇るTPP交渉。実際、日米で参加12カ国の国内総生産(GDP)合計の8割近くを占め、日米の批准がなければ発行しない。しかし、大筋合意した協定文には「英語、スペイン語 およびフランス語をひとしく正文とする」と定め、日本語は入っていない。

 19日の民主党経済連携調査会。篠原孝氏(衆・長野)が「(日本語を)要求してけられたのか」とただすと、外務省の担当者は「日本語を正文にしろと提起したことはない」と認めた。

 同省は以前、日本が遅れて参加したことを理由に挙げていた。だが、同様に後から参加したカナダは一部地域でしか使われないフランス語も正文に認めさせた。矛盾をつかれても同省は「カナダには政治的に非常に重要な課題だ。日本語をどうするかという問題とは文脈が違う」と言ってのけた。

 政府自ら自国の言語を軽視しているともとれる発言に岸本周平・同調査会事務局長は「今のは聞かなかったことにする。議事録から削除」と切り捨てた。(東)』


 いかがですか?


 「2016年 」の国民の二分化。グローバル言語を話す「グローバリスト」と、日本語を使う「日本国民」とに、現実の日本で国民が二分化されていっていることが分かると思います。


 当たり前ですが、TPP交渉において、交渉に当たる外務官僚は、「日本国民」を代表する立場です。あるいは、カナダの交渉官もまた、カナダ国民を代表する立場にあります。


 カナダでは、ケベック州などがフランス語を公用語として定めています。とはいえ、メインの言語は圧倒的に英語になっています。


 そのカナダですら、国内の「一部の国民」のために、TPPの正文の言語としてフランス語を押し込んだわけです。カナダの交渉官が「カナダ国民」を代表している以上、当然だと思います。


 日本農業新聞の記事にもある通り、TPP協定はアメリカ、もしくは日本国が批准しない場合は、失効となります。それに対し、カナダは別に抜けたところで、他の国々が批准すれば、TPPは発効します。


 それにも関わらず、TPP協定の正文について、日本の外務官僚は「日本語」を要求しなかったわけです。しかも、国会で、

「カナダには政治的に非常に重要な課題だ。日本語をどうするかという問題とは文脈が違う」

 と、発言した。すなわち、外務官僚は、

「日本国民は、別にTPP正文を日本語で読む必要がない」

 と、判断したことになります。


 別に「売国奴」という話ではないと思います。むしろ、問題はより深刻で、彼ら外務官僚は、

「日本国民は英語を話し、国境にとらわれず、グローバルに生きることが正しい」

 と、勝手に思い込んでいるグローバリストなのです。彼らは、日本国民が日本語ではなく、英語で生活、ビジネスすることを「正しい」と思い込んでいるわけです。結果、国民国家としての日本国が壊れていっています。


 すでに、日本では教育分野における「英語化」が進められています。同時に、「国」を背負って外国との交渉ごとに当たる外務官僚までもが、日本語を軽視する。


 もちろん、日本国や日本語を軽視する官僚は、文部科学省や外務省にばかりいるわけではありません。と言いますか、日本を軽視するグローバリスト官僚が「いない」省庁を、わたくしは思いつくことができないでいます。


 国土交通省の官僚ですら、この自然災害大国日本の国土を守る立場にありながら、

「日本の土木・建設企業が潰れても、外国企業から土木・建築サービスを提供してもらえばいい。自然災害の発生時にどうするか? もちろん、自然災害の際には我々を助ける契約にしておけばいい」

 と、信じがたいまでに安全保障軽視なセリフを言ってのけた人物がいます。


 それにしても、日本農業新聞の外務官僚の発言を読むと、我が国が冗談抜きで「亡国の危機」に瀕していることが分かります。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12097581104.html
10:777 :

2023/06/18 (Sun) 11:44:21

【施 光恒】グローバル化は中世化 2016/03/18


拙著『英語化は愚民化』(集英社新書)で述べたことの一つに、

グローバル化やその文化面での表れとしての英語化は、

なぜか一般的には「進歩」とか「歴史の必然的流れ」とか思われていますが、

その実、全く逆で、中世的世界への逆戻りと考えたほうがいいのではないか

ということがありました。

中世ヨーロッパでは、ラテン語を話す聖職者や貴族などの各地の特権階級が一種の「グローバル・エリート」層を形成していました。そして、各地の未発達の土着語(英語やフランス語、ドイツ語などの元になった語)しか話せない庶民を、社会の中心から排除していたのです。

近代社会とは、この状態が変わることを通じて成立しました。
宗教改革における聖書の翻訳は大きなきっかけでした。

ラテン語で書かれていた聖書を、ルターやティンダルらの宗教改革者が、ラテン語(あるいはギリシア語やヘブライ語など)から庶民の日常語である土着の言葉に聖書を翻訳していきました。

ラテン語などからの知的な用語が、各地の土着語に移植され、それによって、庶民の日常語が知的なものとなっていきました。

これに伴い、ラテン語ではなく日常の言語に根差した社会空間が各地に成立します。

ここでは、多くの普通の人々は、社会の中心から排除されることなく、自分たちの知的能力を磨き、発揮し、社会参加できるようになります。

こういう状態が生じてはじめて、多くの人々の力が結集され、活力ある近代社会が登場してきたわけです。


しかし、現在の世界で進む英語化は、英語をかつてのラテン語のような「グローバル・エリート」の言葉とし、英語が不得手な者を、社会の中心から排除していきます。

日本のような英語国ではない国では、「英語階級」と「非英語階級」(日本では「日本語階級」)といった形に国民が分断されます。

そして、おそらく大多数を占める「非英語階級」は、政治や経済の中心から排除されるわけです。ちょうど、中世のヨーロッパのような社会になってしまいます。

拙著『英語化は愚民化』では、こんな感じで、グローバル化や英語化は、実は、社会が良くなる「進歩」などではまったくなく、逆に、中世のような社会への逆戻り現象だととらえたほうがいいのではないかと書きました。

今回のメルマガで何が言いたいかといいますと、最近、やはり

「グローバル化は、進歩どころではなく、中世化に過ぎないのではないか」

とよく考えます。そう考えられる現象が多々あるのではないかということです。


この点で一つ興味深かったのは、

郭洋春氏の『国家戦略特区の正体――外資に売られる日本』(集英社新書、2016年)
http://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E6%88%A6%E7%95%A5%E7%89%B9%E5%8C%BA%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93-%E5%A4%96%E8%B3%87%E3%81%AB%E5%A3%B2%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%83%AD-%E6%B4%8B%E6%98%A5/dp/4087208206

という本のなかの農業改革についての記述です。

国家戦略特区のなかには、新潟市や兵庫県の養父(やぶ)市や秋田県の仙北市のように、農業改革を主眼として指定されたものがあります。これらの農業改革の試みで規制緩和のテーマとして挙げられているものの一つは、「農地の集積・集約、企業参入の拡大などによる経営基盤の強化」です。

つまり、米国のような大規模農業を日本にも導入して効率化を図り、日本の農業の国際競争力の強化を狙うものです。

こうした「農業の大規模化」について、著者の郭氏は、「世界史的に見ても、農地解放運動の歴史に逆行する行為」(107頁)だと指摘しています。

確かに、日本を含む多くの国では、農地解放、つまり大規模な土地を所有する地主の下で働かざるをえなかった小作農に土地を分け与え、自作農にすることこそ、農業の近代化であり、民主主義の社会にふさわしいものだと考えられてきました。

国家戦略特区構想などで進む農業改革は、株式会社の農業への参入が一つのテーマです。大企業が参入することによって、農業は大規模化し、効率化されます。

そこではもちろん、土地所有者ではない人々が、低賃金で働くことになるのでしょう。昔の「地主」と「小作人」の復活とも見て取れます。

郭氏は、

「効率化が目的とはいえ、日本の農業を再び大規模化するというのは、農地解放運動さらには民主主義の歴史に対する挑戦といってもいいだろう」(同頁)

と記しています。


このように、TPPなどグローバル化の中で進む日本の農業改革も、一種の中世化かもしれません。中世ヨーロッパで見られたような、大地主と農奴の再現といったら少々言い過ぎでしょうか。

こういう「中世化」というか、歴史の逆行のようなものは、他のところでもいろいろと見られます。

国家戦略特区でいえば、例えば「解雇規制の緩和」や「労働時間規制の緩和」(残業代ゼロ)などの労働規制の緩和の流れもそうでしょう。

高校生のころ、「現代社会」や「世界史」の時間に、労働者の権利や社会保障受給権などを総称して「社会権的基本権」ということを習いました。また、社会権的基本権は、20世紀になって定められたということで、「20世紀的人権」ともいうと学びました。

私の高校時代は、1980年代後半でまだ20世紀でしたので、「なるほど、社会権的基本権とは、新しい、現代的人権なのだな」と思っていました。

しかしこれ、21世紀になった今あらためて考えてみると、

「20世紀に徐々に認められてきたが、21世紀になるとだんだんと削減され、なくなっていく」

という意味で、労働者の権利などの社会権的基本権は「20世紀的人権」と呼ばれているのだと理解したほうがいいかもしれません。

経済のグローバル化が進み、資本の国際的移動が自由になると、各国政府は、資本の海外流出を避けるために、あるいは外資を呼び込んでくるために、グローバル企業が「ビジネスしやすい」環境を作ろうとします。つまり、グローバル企業に都合のいい環境を作っていきます。

そこで、各国は、労働者の権利や社会保障を徐々に削っていくのですね。
人件費も削減されますので、労働条件は、悪くなっていきます。

これも、「中世化」への流れの一つとみることができるでしょう。

こう考えてくると、最近、自民党が、「移民受け入れの議論を始めるべきだ」と言い始めているのも、この流れのもう一つの現れといえそうです。

近代社会とは、一般庶民が、社会の中心メンバーとなり、自分たちの言語や文化のうえに国を作り、民主主義の下、国を運営していく社会です。つまり、各国では、人々が「我々は同じ国民だ」という連帯意識を持ち、「自分たちこそ社会の主人公だ」と考え、政治を動かしていくわけです。

しかし、経済のグローバル化の名のもと、移民を大規模に導入すれば、こうはいきません。一般的に、国民の連帯意識は薄れ、団結が難しくなります。人々はバラバラになり、政府に意志を伝えにくくなります。

移民受け入れを推進する側の狙いの一つは、このように、移民を受け入れることによって、国民を分断し、連帯しにくくすることだともいえるでしょう。

国民の連帯を分断すれば、政治に文句がつけられることが減りますので、労働者の権利や福祉の削減、人件費の引き下げ、移民のいっそうの受け入れなど、国民に不人気な政策が、その後、やりやすくなります。

また、各種の社会保障などの福祉は、おおもとでは、国民の相互扶助意識に根差しています。つまり、人々のもつ「同じ国民だから、助け合おう」という意識こそが、福祉の基本にあるものです。

移民を大規模に導入することによって、国民の連帯意識を壊してしまえば、社会保障を減らしていくことは、ますます容易になっていきます。

実際、近代社会の成立の一つの前提は、国民意識の確立でした。
国民の連帯があってはじめて、民主主義や福祉(平等)も成り立つのです。

以上のようにみてくると、やはり、「グローバル化は中世化」と言えるでしょう。


一方には、英語を操り、土地に縛られず、愛国心も持たず、世界を飛び回って大金を稼ぐごく少数の「グローバル・エリート」がおり、

他方には、社会の中心から排除され、(英語で構築された)知的な世界から切り離されて自信を失い、低賃金でこき使われ、打ちひしがれ、バラバラの大多数の一般庶民がいる

という世界です。

「グローバル化」って言葉、本当に最近、ますますいやになってきました…

どうにかしないといかんですね
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2016/03/18/se-73/
11:777 :

2023/06/18 (Sun) 11:45:43

【施 光恒】「EUが引き起こす分断」 2016/06/25
国民投票の結果がどうなるかわかりませんが、加盟国がEUを離脱しようという動きは、今回の英国がどちらを選択するとしても、今後、たびたび生じるでしょう。

数日前にも、イタリアのローマ市長選で、EU懐疑派の新興政党「五つ星運動」の候補ビルジニア・ラッジ氏の当選が決まりましたし。

日本の評論家やマスコミは、「EUは人権や民主主義の理念を体現したものだ」といった具合に好意的にみる場合が多いですが、EU自体に民主的正当性があるかどうかは、実は結構、疑問です。EU加盟各国の人々の多くが、本当にEUを支持しているとはなかなか言い難いのです。

例えば、2004年から2005年にかけて、EUのいっそうの政治的統合を進めるために「欧州憲法条約」(EU憲法条約)を制定しようという動きがありました。欧州憲法条約の発効には、全加盟国の批准が必要でした。批准の是非を決める手続きは国によって異なり、議会承認だけで済ます国と、国民投票を行う国とがありました。

フランスやオランダ、イギリスなどは、国民投票が必要な国でした。それで、フランスは2005年の5月末に、オランダは6月に、それぞれ国民投票を行ったのですが、どちらの国でも、否決されてしまいます。つまり両国では、EU統合推進を否定する側が勝ったのです。

そのため、イギリスやアイルランドなどその後に国民投票が予定されていた国も、実施を延期してしまいました。それで結局、欧州憲法条約は立ち消えとなります。

その後、しばらく冷却期間を置いたのち、2007年には、欧州憲法条約をよりマイルドにし、統合推進の色彩を薄めた「リスボン条約」(EU基本条約)の批准手続きがはじまりました。

欧州憲法条約の二の舞となることを恐れた各国政府は、リスボン条約の批准に際しては、国民投票を回避し、議会承認で済まそうとします。ただ、アイルランドだけは、自国の憲法での取り決めとの関連で、国民投票を回避することはできませんでした。

そのため、2008年6月に国民投票を実施したのですが、ここでも、リスボン条約反対派が、つまりEU懐疑派が勝ってしまいました。

欧州憲法条約やリスボン条約の国民投票の結果から推測されるように、加盟各国で国民投票をすると、EU懐疑派が勝つ可能性は決して少なくありません。

その意味で、EUに民主的正当性があるかどうかは怪しいのです。

EU懐疑派の懸念は、一つは、EUはどうしても新自由主義的政策を推し進めがちで、「勝ち組」に有利な政策が増え、庶民には厳しい政治が常態化してしまうのではないかという点です。

例えば、欧州憲法条約がフランスで否決された際、ある記事は次のように伝えていました。

***
EU憲法、グローバル化の勝ち組は賛成? パリで80%超える区も
(『朝日新聞』東京本社版2005年5月31日夕刊)

欧州連合(EU)憲法条約を拒絶したフランスの国民投票で、パリの商業地や高級住宅地での賛成率が80%前後に達したことが分かった。反対派が「自由競争に偏りすぎ」と批判するEU憲法を、欧州統合を前向きにとらえる「グローバル化の勝者」が懸命に支えようとした様子が浮かび上がる。

内務省によると、全国で賛成45%という結果に対し、大都市の賛成率はパリ66%、ストラスブール63%、リヨン61%と総じて高い。地中海の「移民の街」マルセイユは例外で、大幅に低い39%だった。(以下、略)
***

フランスの歴史人口学者エマニュエル・トッドも、次のようにEUの新自由主義的性格を批判しています。

***
ブラッセルにある欧州委員会のメンバー選出は、選挙によらない極めて不透明なもので、「ブラッセル体制」とは、ヨーロッパの政治エリート同士の談合による寡占を表現したものと言えます。

そしてナショナルレベルの政治リーダーは、不人気な政治政策を実行するときは、

「いや、これは欧州委員会で、EUレベルで決まったことだから受け入れざるを得ないんだ」

と、上から押し付ける形で、例えば自由化や民営化のような大衆には不人気な政策を実行する。

こうした二重構造がある以上、少なくともEUに関しては、「デモクラシー以後」という事態がすでに始まっていると言わなければなりません。
(E・トッド/石崎春己編『自由貿易は、民主主義を滅ぼす』藤原書店、2010年、39頁)。
***

EUは確かに、加盟各国を「統合」しますが、その反面、EUの内部では、グローバル化した経済のなかで利益をえられる少数の「エリート」と、緊縮財政や福祉の削減、移民流入に伴う人件費の低下などの悪影響を被る各国の「庶民」という「分断」が生じます。

EUをめぐるこのような「統合」と「分断」という点に関しては、少々古いですが、もう一つ、興味深い記事があります。2008年6月のアイルランドの国民投票でのリスボン条約否決直後の首都ダブリンの様子を伝えるものです。


***
「EU基本条約否決 小国の反乱 統合に打撃」
(『朝日新聞』2008年6月15日付朝刊)

13日夜、開票結果が発表されたダブリン市内の会場。不思議な光景だった。

中絶反対を訴える宗教右派の団体の横に左翼グループ、後ろには民族主義のシンフェイン党支持者。近くのホテルでは企業家グループが勝利会見を開いていた。
条約批准に反対し続けてきたのは、何の共通点もない人々だった。

(中略)

また、反対票を投じた人々からは

「仏独など大国主導のEUには反対」

「われわれが選んだわけでもないブリュッセル(EU本部所在地)のエリート官僚がすべてを決めてしまう」

との声も上がっていた。(以下略)
***


上記の新聞記事では、捉え損なっていますが、ダブリンで条約批准に反対し続けた人々は、「何の共通点もない人々」ではありません。

これらの人々には、「アイルランド人」という共通点があります。
私は、このことはとても大切だと思います。

普段あまり意識されませんが、ナショナリティ(国民意識)という絆が重要なのは、ここに表れているように、「宗教右派」、「左翼」、「民族主義者」、「企業家」といった多様な信条や利害を持つ人々をまとめる力を持つという点です。

一般に、人は、自分と信条や趣味、利害が近い他者とは、協力しあうことが可能ですが、これらを異にする他者とは、なかなか協力しあったり、連帯したりできません。

ナショナリティという絆は、少々不思議ですが、イデオロギーや利害、趣味、社会的経済的立場が大きく違う者同士の長期間にわたる協力や連帯、相互扶助を可能にするのです。

あらためて考えてみれば自明ですが、いまにいたるまで、自由民主主義の政治は、「国民国家」という単位でしか実現していません。

つまり、「平等」(再分配的福祉)や「民主主義」を重視する政治は、ナショナリティという絆なしではおそらく成り立たないのです。

「同じ国民だから」という意識がないところでは、経済的立場や思想・信条を大きく異にする者同士が(たとえいやいやながらであっても)連帯したり、助け合ったりしていくことは実際上、大変困難なのです。


ヨーロッパは、他の地域と比べれば、歴史的にも宗教的にも同質性が高く、「EU人」とでもいうべきトランスナショナルな(超国家的な)共通のアイデンティティを作りやすいところだと思いますが、それでも、民主主義や福祉政策を常時一緒にやっていけるほどの連帯意識や相互扶助意識を生み出すのは非常に困難です。

逆に言えば、新自由主義者からしてみれば、民主主義や再分配的福祉といった「面倒くさい」ことを要求してくるナショナルな連帯意識など、なるべくなくしたいわけです。

国境の垣根を低くし、人の移動を活発化し、域外から移民も連れてきて、異なる人々を混ぜ合わせてしまえば、連帯は生まれにくくなり、自己責任原則が支持を得ます。

つまり福祉や民主主義の要求は出てこなくなるでしょう。
新自由主義者には大変都合がいいわけです。


長々と書いてきましたが、結局、言いたかったのは、次のことです。

どうも日本では、

「EU賛成派 = 自由民主主義的で開明的、前向き」、

「EU懐疑派 = 非自由民主主義的で排外主義的、後ろ向き」

といったイメージに基づく一面的な論評や報道が多いように感じますが、必ずしもそうとは言えないのではないでしょうか。

むしろ、自由民主主義の政治という観点から見た場合、EU懐疑派のほうにも、少なからず、耳を傾けるべき理があるのではないでしょうか。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/category/seteruhisa/page/2/


2016.7.7 【施光恒の一筆両断】投票日を前に声にならぬ民意、見下すな


 「既存の政党が民意を十分に取り込めていない」。そういう懸念を最近よく耳にします。

米大統領選では、共和党でも民主党でも非主流派候補が大躍進しました。EU離脱を巡る英国の国民投票でも、保守党と労働党それぞれに離脱派、残留派が存在し、既存政党が世論をまとめ切れていないのが明らかでした。


 なぜ既存政党が民意を取り込めなくなってしまったのか。

英国の国民投票後の論評を見てその一因がわかりました。

英国内外の評論家やマスコミの論調は、離脱派の選択を頭ごなしに非難するものが大部分でした。


「『理性』が『感情』に敗れた」

「悪しきポピュリズム(大衆迎合主義)の噴出」

など、離脱派の選択を非合理なものと見下す論評があふれました。

 離脱派に対するこうした批判は一面的です。

離脱派の主張の根幹にあるのは、国民主権の回復という至極まっとうなことです。

例えば、

「移民をどの程度受け入れるべきか」

「どのような人々を受け入れるべきか」

など国の形に関わる重要問題の決定権を、EU本部から自分たちの手に取り戻したいという願望は、賛否は分かれるとしても別に非合理ではありません。

 米大統領選のトランプ氏の躍進に関する論評にも同様のことを感じます。

トランプ氏の言動は確かに乱暴なものも少なくない。
ですが、同氏を支持する人々の背景にあるものを軽視せず、見つめる必要があるでしょう。

 英国の国民投票、米国のトランプ現象の背後にあるのは、過度のグローバル化に伴う経済的格差の拡大です。

また、多くの事柄が「グローバル化の時代だから仕方がない」と片付けられてしまう傾向に対して庶民が抱く政治的無力感です。


 そもそも政党の役割、あるいは評論家やジャーナリストなど「知識人」を自認する人々の役割の一つは、いまだ十分に言語化されていない市井の人々の声に耳を傾け、実現可能な世論の一つとしてまとめ上げ、代弁していくことでしょう。

にもかかわらず、英国の国民投票や米国のトランプ現象をめぐる論評を見る限り、離脱派やトランプ支持者の声を

「感情的な反発」

「危険な極右的意見」

など「病理的」だと断定するばかりで、この役割が十分に果たされていません。

 政治家や「知識人」の多くは、グローバル化への流れを自明視し、それに反対する声を「非合理」「危険」と決めつける傾向が強いからでしょう。

この決めつけこそが、既存政党が民意を十分に取り込めない現象の背後にあるのではないでしょうか。

 この現象は、残念ながら日本でも生じつつあります。参院選がいまひとつ盛り上がらないのはそのためではないでしょうか。

実際、東日本の一部の県では、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に関する与党の対応への不満のためJAなど農政団体が自主投票に回り、事実上の保守分裂選挙となっています。

 また、民泊解禁や外国人単純労働者の受け入れ検討の開始などグローバル化路線一辺倒の安倍政権の成長戦略に、保守層の中に違和感を覚える人々は少なからずいます。

しかし、彼らの不満には受け皿がありません。
http://www.sankei.com/region/news/160707/rgn1607070007-n1.html

【施 光恒】日本は英国から学べるか


英国のEU離脱の決定は、現在の新自由主義に基づくグローバル化の流れに対して、民意として明確な疑問を突き付けたという点で大いに意義があったと思います。

EUというトランスナショナルな政治体を作ろうという試み自体に無理があることが露呈しました。

ただ、国民投票後の報道を見る限り、離脱したとしても、英国の前途は多難ですね。
私がそう思うのは、経済の問題ではありません。
英国の国民統合が相当揺らいでしまっているのではないかという点です。

いくつかの深刻な分断が英国の国民統合を脅かしています。


第一に、「グローバル化から利益を得ていたエリート層」と「そうではない一般庶民層」との間の分断。

第二に、「グローバル化の恩恵を受けてきたロンドンやバーミンガムなどの大都市」と「それ以外の地方」との分断

第三に、「離脱派が多かったイングランド」と「残留派が多かったスコットランド」との間の分断


これらの分断を解消し、英国が一つの国民国家として今後もうまくやっていけるのかどうか、他国のことながら心配になります。

国民統合さえしっかりしていれば、EU離脱後の英国にはたくさんの政治的、経済的選択肢が生まれるゆえ、短期的には少々経済が悪くなったとしてもあまり心配しなくてもいいでしょう。

しかし今回の国民投票で顕在化したこうした分断が続けば、英国の将来はあまり明るくありません。

前回のメルマガでも書きましたが、福祉政策や民主的意思決定の基礎となるのは、国民の連帯意識にほかなりません。これが得られなくなってしまえば、せっかくEUを離脱したところで、格差是正などの様々な社会政策を円滑に行っていくのは困難でしょう。

「やはり英国はEUに残留したほうがよかったのでは?」などと言いたいわけではありません。EUに残っても、EUには、福祉政策や民主的意思決定を行っていく土台となる人々の連帯意識は欠如しています。

平等(再分配的福祉)や民主主義を取り戻すという点で、離脱は賢明な選択でした。
ですが、肝心の英国の国民統合を修復し、再生しないと、離脱した意義が消えてしまいます。

では、英国の国民統合の修復・再生の見込みはあるでしょうか。

残念ながら、国民投票後の英国内外の報道や各種の論評を目にしたかぎりでは、これもなかなか難しそうです。

一番問題だと思うのは、EU残留を望んだ側に、離脱派の声に真剣に耳を傾けようとする態度がほとんど見られないことです。

エリート層の多かった残留派は、どうもハナから離脱派を「非合理で思慮の浅い奴ら」とみなしてしまっており、真面目に耳を傾け、対話していく相手と考えていないようです。

各種メディアには、残留派の立場に立ち、離脱派をけなす論評があふれていました。

曰く、

「理性と感情が戦って、感情が勝ってしまった」

「離脱派の政治家のウソの宣伝に騙されただけだ」

「離脱派は、すでに後悔しまくっている」

「悪しきポピュリズムの発露だ」

「移民に対する差別意識が噴出している」

「極右勢力が台頭しつつある」

などなど…

しかし本来であれば、国民投票の後、残留派は次のように考えるべきでしょう。

「国民の半数以上がEU離脱を望んだということは、きっとこれまでのEUのありかたはどこかおかしいのだろう。今後の英国の国づくり、EUや国際社会との付き合い方についてあらためて離脱派の見解を聞きながら、一緒に模索していこう」。

残留派のほうが、教育の面でも、経済的にも恵まれている層が多いということですので、なおさら、彼らのほうから歩み寄って英国民の間に生じた分断を解消していかなければならないはずです。そうでなければ、国民統合の再生は難しいでしょう。

あと、もう一点だけ。

日本についてなのですが、日本政府や日本の財界は、以前から、英国のEU残留支持にとても熱心でした。どの国よりも、残留支持の強い態度を早くから表明していたといっても過言ではありません。


たとえば、三年前の2013年7月には、次のような毎日新聞の記事がありました。

***
「日本政府『EUに残るべきだ』 “異常干渉”と報道」
(『毎日新聞』2013年7月21日付)

英国内で欧州連合(EU)からの離脱を求める声が高まる中、英紙サンデー・タイムズは21日、 1面トップ記事で日本政府が英国に対しEUに残るよう、「異常な警告」をして英・欧州関係に干渉したと報じた。

同紙によると、日本政府は英外務省に提出した覚書(メモ)の中で、英国内で活動する日本企業は約1300社で約13万人の雇用を生み出していることを説明し、英国がEUから離脱すれば、こうした雇用が危機に直面すると「異常な警告」をして、EUにとどまるべきだと「異常な干渉」をしたとしている。

日本側には、英国がEUから離脱すれば、英国内で製造したモノを欧州で売る場合に関税や事務手続きなどの点で、これまでにない制限が加わり、 英国内の日本企業に不利になるとの懸念がある。日本政府はこれまでも英政府に繰り返し日本の立場を説明してきた。

今回、覚書という形で明確に警告したことが一部に「異常な干渉」と受け止められた可能性がある…(後略)
***

他に、今回の国民投票では、トヨタ自動車は、英国法人の全従業員に対して「残留支持」を呼びかけました。離脱してしまったらEU向け輸出に関税がかかるようになってしまって大変だから、ぜひ「残留支持」に投票してくれと依頼する手紙を送ったそうです。

「トヨタ、英従業員に手紙で残留支持訴え 「関税、コスト削減、値上げ……重大な課題に直面する」と(『産経新聞』2016年6月22日付)
http://www.sankei.com/world/news/160622/wor1606220017-n1.html


他に、経団連の榊原会長も、国民投票後に、英国民の選択を強く非難しています。

***
「ナショナリズム“断ち切り”重要 ~ 榊原会長」
(日本テレビ系(NNN) 6月27日(月)22時45分配信)

 イギリスの国民投票でEU離脱派が勝利したことを受けて、経団連の榊原会長は、「ナショナリズム」が他の国々に波及するのを断ち切ることが経済にとっても重要であるとの認識を示した。

「イギリスが選択したのはうち向き思想、ナショナリズム、保護主義、孤立主義、そういったグローバル経済と逆の動きですよね。

そういった考え方が広がってくる。そういったことを懸念するわけで」


榊原会長はこのように述べた上で、これまでG7(=先進7か国)が築き上げてきた「自由貿易のもとで各国が成長、繁栄していく仕組み」を維持するために、イギリスで起きたようなナショナリズムの動きが他の国に波及していかないよう断ち切ることが大事だとの認識を示した。
***


普段、「大人しい」「自分の意見をいわない」とされている日本政府や日本人なのに、英国のEU離脱に関しては、他国以上と言ってもいいほど、非常に強く残留派を支持し、離脱派をけなしています。

これにはもちろん、経済的考慮もあるでしょう。

ですが、それだけではなく、日本の政治家や財界人の多くは、いまだに、グローバル化は、常にハッピーで進歩的で、絶対的に正しいものなのだと強く信じてしまっているようです。

つまり、

「EUや、EUに体現されている現在のグローバル化の流れは、否定しようがなく良いものだ。人類の理想なのだ。

逆に、国の枠組みにこだわることは、後ろ向きで望ましくないことなのだ」

という強い思い込みがあるのでしょう。

そして、

「グローバル化には、多くの一般庶民に貧困をもたらし生活基盤を破壊する側面もある」

とか、

「グローバル化に伴い、国民主権を奪われることは、人々の生活にとっても、民主主義の観点からも望ましくないことなのだ」

という至極当然のことに思いが至らないのでしょう。


グローバル化によって国民統合に大きな傷を負った英国の将来も前途多難ですが、グローバル化をいまだに妄信する政治家や財界人を多数抱えている我が国の将来もかなり危なっかしいものなのかもしれません。

用心しなければなりませんね!
m9( ・`ー・´)キリッ
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2016/07/08/se-79/
12:777 :

2023/06/18 (Sun) 11:46:22

英国のEU離脱について – 西尾幹二のインターネット日録
平成28年6月26日 坦々塾夏季研修会での私の談話

 6月25日のニュースを見ながら考えました。

今回のイギリスの決定で、離脱派の党首と思しき人物がテレビで万歳をして、イギリスの独立、インディペンデント・デイだと叫びました。

常識的に考えて、世界を股にかけ支配ばかりして、世界各国から独立を奪っていた国が、自ら「今日は独立の日だ」などと叫んでいるのですから、いったい地球はどうなっているのかと思いました。

 今日の段階で日本のメディアはヨーロッパの情勢ばかり言っています。
アメリカや中国を含む地球全体の話をほとんどしません。

そして英国のEU離脱、すなわち EU というグローバリズムの否定、英国ナショナリズムをさも悪いことのようにばかり言っていますが、そうなのでしょうか。


 ヨーロッパは今、確かに混乱していて、伝え聞くところでは、ドイツのメディアは気が狂ったかのようにイギリスを罵って、

「こんな不幸なことを自ら招いている愚かなイギリスの民よ・・・、
これからイギリスは地獄に向かってゆく。あれほど言ったではないか。」

私には、これがドイツの焦りの声に聞こえます。

さっそくドイツ、フランス、イタリアの外務大臣が会合して、意気盛んに

「すぐにでも出てゆけ。来週の何曜日に出て行け。」

まるで借家人を追い出すような勢いで言っているそうです。フランスもイタリアも次の「離脱国」になりそうで怖いのです。ですからイギリスはいろいろ長引かせようと思っても、そういう四囲の状況から早晩追い立てられるようにして出ていくことになるのではないか。

いっぽうイギリスの中では後悔している人が何百万人もいて、再投票をしてその再投票願望のメディア、インターネット上の票数が何百万に達したとかいうような騒ぎもありますが、もうそんなことは出来ないでしょうから、決められたコースに従って粛々と動いてゆくことだろう思います。


 それもこれも日本のメディアが EU というグローバリズム、国境をなくす多文化主義を一方的に良い方向ときめつけて、それに反した英国の決定を頭から間違った方向と定めているからではないでしょうか。

必ずしもそうではない、という見方が日本のメディアには欠けています。


 各国の思惑はそれぞれで、日本のメディアはとてもそこまで伝えていないけれど、基本的にはヨーロッパの情勢を伝えているだけですので、私は今日は今度の一件を端的にアングロサクソン同志の長い戦い、米英戦争の一環と考えてみたいと思います。

アメリカとイギリスという国は宿命の兄弟国であり、また宿命のライバルでもあって、何かというと、どちらか片一方が跳ね上がると、すぐもう片一方が制裁を加えるということを繰り返しています。

これはずっと昔からそうで、私が『天皇と原爆』の中でも書いたように、基本的に第二次世界大戦は「アメリカとドイツ」、「アメリカと日本」の戦いであると同時に、実は「アメリカのイギリス潰しの戦い」でもあったということを何度も何度も歴史的な展望で語ったのをご記憶かと思いますが、私の見る限りではそういうことは度々あるわけです。

 今回のイギリスはやり過ぎていますね。

何をやり過ぎたかというと、キャメロン首相とオズボーン財務大臣というのは組んでいて、オズボーンはキャメロンと大の友達で、キャメロンの後を継ぐことにもなっていて、キャメロンを首相に持ち上げた人ですが、大英帝国復活の夢を露骨に言い立てています。

しかし今の自分の国の力だけでは出来ないので中国の力を借りるという路線に踏み込んで、オズボーンは中国に出かけて行って「ウイグルは中国の領土だ」と言って習近平を喜ばせたりしてやっていたイギリスの勢力です。

私なんかは日本人として苦々しく思っていましたが、アメリカの首脳部も苦々しく思っていたのだ、ということがいろいろ分かってきました。

 基本的にヨーロッパはどの国も中国が怖くありません。
煩くもないので、中国を利用したいという気持ちがつねにあり、そしてロシアが邪魔という気持ち、この二つがあります。
それからドルは出来るだけ落ちた方がいい、ドルの力を削ぎたいという気持ち。

これがヨーロッパ人が考えている基本姿勢です。
ですから日本に対する外交も全部その轍の中に入っています。

なんとかして日本を・・・、という考えは全く無く、この間の伊勢志摩サミットでどんな話が出たのか分かりませんが、結局今言った基本ラインがヨーロッパの政治の中枢にありますので、そういう方向だったでしょう。

 今中国が握っている人民元は2,200兆円(22兆ドル)です。
ところが中国は3,000兆円もの借金をしています。
だから2,200兆円を世界にばら撒いても、借金が3,000兆円で、年間150兆円の金利を払わなければいけないのですが、中国にそんな力はありません。

ですからズルズルと中国経済がおかしなことになっているのが我々には見えているのです。
そのズルズルとおかしなことになっている間に人民元が急落するでしょうから、そうなる前に何とか自国に取り込もうと、少しでも自分たちの利益になるようなことをしようということを、各国が目の色変えてやっているのです。

その先陣を切ったのがイギリスでした。

ご承知のAIIB、アジア・インフラ投資銀行でイギリスが真っ先に協力を申し出たというので、世界を震撼せしめました。

それは先ほど言った財務大臣オズボーンの計略だったのです。
中国の力を使ってシティを復活させたい・・・。
中国もシティの金融のノウハウを手に入れたい・・・。


 中国共産党党員の要人が金を持ち出しているのは夙に有名ですが、その持ち出した金は1兆5千億ドルから3兆ドルの間と、はっきりした額は分らないのですが、1兆ドルは100兆円ですから、「裸官」によっていかに途轍もなく多くの金が海外に飛び出しているのです。

しかし、なによりもそれをアメリカがしっかり監視し始めて、アメリカはこれを許さない、というスタンスになってきた。

中国人からするとアメリカではもうダメだ、ということで、中国共産党の幹部たちはその資金をシティに逃がしたい。

香港経由で専ら中国とイギリスは手を結んでいましたので、シティを使って自分たちのお金を逃したいということもあるのでしょう。


 それを暴露したのがパナマ文書ですよね。
それでキャメロンが引っかかったではないですか。

ものの見事にアメリカは虎の尾を捕まえたのです。
おそらくEU離脱派を主導しているジョンソンという人が次の総理になる可能性が高いと思いますが、あの人物もトランプに顔が似ていてね・・・。(笑)

ジョンソンが首相になったら、彼は反中ですから、イギリスはAIIBから抜けますと言う可能性は高いし、今まで支持していたSDRの人民元の特別引き出し権も止めるかもしれない。つまり、イギリスは中国から手を引いて一歩退くという方向に行くかもしれない。

中国の悲願は、人民元が国際通貨ではないということをどうやったら乗り越えられるか、何とかして人民元を国際通貨にしたい、どこの国でも両替できる通貨にしたい。

それができなかったので、今は香港ドルに替えて、そこから国債通貨にしていますから香港ドルに縛られていたのです。

10月からSDRを認められて、人民元はいよいよ国際通貨になれると期待されていますが、英国の離脱でさてこれもどうなるか?疑問視されることになるでしょう。

 パナマ文書という言葉が先ほど出てきましたが、ついこの間までタックスヘイヴンやオフショア金融とかいう言葉が飛び交ったことはご記憶かと思います。

タックスヘイヴンは「脱税システム」ということで有名です。

私は、あぁこれこそ歴史上イギリス帝国が植民地を拡大した時の悪貨な金融システムなんだなぁと・・・。

そうなのです。イギリスは酷いことをやっていたのですよ。

タックスヘイヴンというのは、その中心、大元締め、つまり元祖みたいなものはシティです。

シティというのは、イギリスの女王がシティに入るためにも許可がいるというほどイギリスの中の独立国みたいなものです。つまりローマの中のヴァチカンのような一つの独立国みたいなもので、それくらい権威が高く、しかも中世から続いているわけです。

そしてそれを経て東インド会社ができて、世界中を搾取した、あの大英帝国の金融の総元締めであって、そしてそれによって皆が脱税などを繰り返した。

そう、二重財布ですよね。

つまり日本でも税金を納めないでやるために商店とかでも二重財布をやっているでしょう。

実際の会計と、それから違う会計を作ってやってるではないですか。
その二重財布みたいなことをやって、これで世界を支配していたんだなぁと。
武力だけではなかったということです。
日本は明治維新からずうっと手も足も出なかったではないですか。

悪質限りの無いこのオフショア金融あるいはタックスヘイヴンのシステムというものを、今でもアングロサクソンは握っているのですが、結局この思惑が米英で今ぶつかったのですね。

 アメリカはイギリスのやり方がやり過ぎている、というか、チョッと待てと・・・。

じつはアメリカだって隠れてやっているけれど、パナマ文書にアメリカは出てこなかった。イギリス人やロシア人や中国人は出てきたけれど、アメリカは国内にそういうシステムがあるものだから誤魔化せるわけですね。ですがアメリカは国際的に大々的にはやりませんよ。その代り各国の不正な取引は監視します、と。

 なぜそういうことになったかというと、一つにはリーマンショック。

自分の不始末で金融がぐちゃぐちゃになって、これを何とかしなければいけない。監視しなければいけない。

それからもう一つは、ダブついたお金がテロリストに回って、イスラム国みたいなテロリスト集団が出てきたから、これを何とか抑えなければいけないということ。

この二つの動機からアメリカは断固取り締まるという方向になりました。

そうすると目の色が変わるのはシティです。
イギリスはシティによっていま一度大英帝国の夢を・・・、ということですから、これは当然ながらイギリスのシティがアメリカのドル基軸通貨体制の存立を脅かすということになってきます。深刻な対立が生まれていたことがお分りかと思います。


 「中国の野望」は「イギリスの野望」を裏から支えているという姿勢があります。
つまり所謂プレトンウッド体制というものが毀れかかってきている。

そのためにアメリカは過去にイラク戦争もしてきたわけですから、アメリカは焦っている。しかも身内であるイギリスがそういうことをやったということで、対応をとる処分に苦慮してきたのだろうと思います。

 それでもアメリカとイギリスが永遠に対立するなどということは無いので、結局イギリスの中の体制が変わってキャメロンが辞めて、きっと親米政権が生まれるでしょう。そして、どうせまたアメリカとイギリスは手を結ぶことでしょう。

いずれはウォール街とシティは和解するのです。
今度の出来事はその流れの一つではないかと思いますが、皆さんいかがでしょうか。


 そうなると、残ったEUはどうなるでしょうか。

先ほども申したようにドイツは頻りに

「哀れなイギリスよ、お前たちは泥船に乗ったのか?」

と言っているそうです。メディアも頻りに「可哀想なイギリスよ」とやりたてている。

テレビなどがイギリスは明日ダメになってしまう、というようなことをどんどん流しているそうです。そしてシティがEUから離れていくわけです。

そうするとEUは必然的に没落します。
それでシティの代わりにフランクフルトにいろんな金融機関が集まってくるということが興りかかっているそうです。
しかし100パーセントそうはならないでしょう。

つまりこのあとアメリカはイギリスの出方ひとつでシティを守るかもしれません。だから結局EUはドイツが中心。アメリカとドイツが永遠に仲良くなるとは思えませんし、結局アメリカとイギリスは和解してEUはダメになる。

そしてシティはアメリカの管理下に置かれる。
アメリカ、というかウォール街がシティの上に立つような構造になるのではないか、ということが当たるかどうか分かりませんが私の予想です。

ヨーロッパ全体はおかしくなってくる。
フランスやイタリアもEUを否定する政権になるかもしれず、ドイツは英国を憐れんでいましたが、話は逆になるかもしれない。ドイツは EUという泥船をかかえてどうにもこうにもならなくなるかもしれません。


 少なくとも中国の世界戦略は破綻した・・・。良かった!と思います。

今度の事件で私は良かった、と思ったのですが、私はドルを少し持っています。
ドル建て債券を持っていて、円高になるからみんな落っこっちゃったのです。
私なんかほんとに僅かだけれど、その変化をみていると、企業や国家が持っているドルはどんどん目減りするわけですから、大変なことになるだろうなぁと思っています。

アベノミクスがうまくいったとかいうのは、あれはほとんど円安政策です。
円安があそこまでいったから経済が動き出したのですから、名目上のことです。
とにかく個人的には不味いのだけれど、私の中の非個人的な部分は万歳と・・・。心の中で喜んでいます。

 私の短い人生の中でこんなことが沢山はないのです。

つまり中国が台頭したのも理解できない。
あの最貧国が大きな顔をして、お金で他国を威圧するなどということは5年くらい前までは夢にも考えられなかったということ。

そしてあのアメリカがタジタジとして自分で自分を護れなくなっているというのもビックリする話で、イギリスもおかしくなってきた。

おそらくスコットランドが独立するのではないかという気がします。
スコットランドがもう一回独立投票をやれば確実に離れるでしょう。
そうするとイギリスという国は無くなるのです。
ブリティッシュという概念は無くなってイングランドになる。
イングランドになると同時に大国ではなくなります。

何がおこるかというと、おそらく第二次世界大戦の戦勝国としての地位を失う。
即ち国連の常任理事国としての地位を継承できなくなると思います。

だってそうでしょう。ブリティッシュ、ブリテン大国がイングランドになったら、これはもう違う国なのですから。
そういうことが直ぐにではなくとも必然的に起こりますよね。

これでイギリスに片がつくと・・・。
明治以来日本の上に覆いかぶさっていた暗雲が私の短い人生の中で一つずつ消えてゆく、というようなことを考えながら昨日(6月25日)のニュースを見ていた次第です。
https://ssl.nishiokanji.jp/blog/?p=1754
13:777 :

2023/06/18 (Sun) 11:47:15

EUの終わりの始まりか。2016年6月23日イギリスEU脱退

イギリスがEU(欧州連合)を脱退するか残留するかの国民投票が2016年6月23日にあったが、その結果、大勢の見方を覆すかのように「EU脱退」が確実になった。

接戦だった。最後の最後までイギリス国内の見方は割れ、今も残留派と脱退派が「どちらがイギリスの将来にとって良いのか」で激しい議論がある。

6月23日までEU残留の可能性の方が高いと言われていたので、この番狂わせで経済が大混乱し、2016年6月24日のポンドは前日比でマイナス10%近く急落した。

イギリスがEUを脱退することになると、イギリス自身がEU(欧州連合)という自由貿易圏から抜け出すことになるのだから、これはイギリスの多国籍企業にとってはビジネスが制限されることを意味する。

また、今後はEUがどのような展開を向かえるとしても、イギリス自身は蚊帳の外におかれるわけで、政治的な影響力も減退する。

つまり、政治・経済の観点から見ると、イギリスのEU脱退はマイナスの影響が強い。これは、国民投票をする前に、イギリスのキャメロン首相が何度も繰り返して国民に訴えていたことである。


EU脱退は、多国籍企業とグローバル化の敗北

イギリスの多国籍企業にとっても、イギリスのEU脱退は大きなビジネス的災厄である。今後、イギリス製品にはEU圏内で関税がかけられる可能性もある。これは製品の価格競争力が失われることを意味する。

また、イギリスも大量の移民・難民を国内に流入させていたのだが、これによって多国籍企業は安い労働力を手に入れてコスト削減に邁進していた。

イギリスがEUを脱退するのであれば移民の流入もストップするわけで、イギリス企業だけでなく「イギリス国内に製造拠点を持つ多国籍企業」は等しく危機に陥ることになる。

つまりイギリスのEU脱退は、まぎれもなく「イギリスの多国籍企業の敗北」であり「グローバリストの敗北」であると言うこともできる。

事実、イギリスのEU脱退派の中には「我々は多国籍企業に勝った」と歓声を上げる人も多かった。それと同時に過度なグローバル化にもブレーキがかけられることをEU脱退派は願っている。

今まで怒濤の勢いで世界中を覆い尽くしていたグローバル化は、「貧困層を他所から連れてきて安く働かせ、自国の労働者の賃金も下げさせる動き」であることが、ゆっくりと普通の人々が認識するようになった。

賃金が下げられ、仕事が消え、わずかな仕事も低賃金をモノともしないで働く移民たちに取られていった。

そんな現実を見て、一般の労働者は「グローバル化は自分たちを幸せにしない」ことを知るようになったのだ。

グローバル化は多国籍企業にとって都合が良いことでも、自分たちには不都合な動きであると知ったのだ。そのため、現在は世界中で人々がグローバル化に懐疑の目を向けるようになっている。

今、EU諸国で「反グローバル主義」が台頭し、既存政党を揺るがすようになっているのだが、いよいよイギリスの反グローバル主義者が、難攻不落と思われていたEUという「グローバル化」を揺るがすことに成功した。


政治よりも経済よりも、もっと重視したいものとは

ヨーロッパの支配階級(エスタブリッシュメント)はグローバル化を極度なまでに押し付けてきた。

これに対して各国の国民は、エスタブリッシュメントに反旗を翻して「反グローバル化」の動きを鮮明化させていた。

フランスでは、以前から国民戦線(FN)が大きく躍進するようになっている。

(フランスは、イスラム過激派のテロで大きく意識が変わった)
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20151207T1707350900


EUの頂点に立っているはずのドイツでも、AfD(ドイツのためのもう一つの選択)という反EU、反グローバル化の政党が躍進している。

(世界がつながり、混乱が生まれ、指導者も不在という地獄)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160509T0338530900.html


オーストリアでも、オランダでも、ハンガリーでも、スウェーデンでも、ノルウェーでも、ギリシャでも、同じような反EUを標榜する政党がじわじわと勢力を拡大している。

もはや、この動きが止まらない。

EU(欧州連合)というシステムは、ヨーロッパの普通の人々にとっては「グローバル化押し付け制度」に他ならない。そのため、グローバル化に疑念を持つようになっている人たちにとってはEU脱退は当然のことだったのだ。

確かにEUという巨大な自由貿易圏から抜けると、経済活動は停滞し、政治的にも活力を失っていくことになる。一時的には国内も大混乱に見舞われることになる。

今回のイギリスでも、事前にキャメロン首相やEU諸国の首脳が警鐘を鳴らし、全世界のグローバル・メディアもイギリス人を思いとどまらせようとした。

にもかかわらず、イギリス人の半分以上がEU脱退を選んだ。イギリス人は「政治よりも経済よりも、もっと重視したいものがあった」ということだ。

それは何だったのか。


イギリスのEU脱退は、「EUの終わりの始まり」

それは、「移民・難民の排除」である。

日本のメディアはほとんど報道してこなかったが、イギリスでも「移民・難民問題」「それに伴うイスラムの文化侵食」が大きな社会問題を引き起こしていた。

ロンドンはインド系移民、アフリカ系移民、イスラム系移民でごった煮のような状態と化している。

それを嫌って白人がどんどん郊外に逃げ、ロンドンは事実上、イスラム系移民に乗っ取られた都市のようになっていた。

2016年5月にはイスラム教徒の議員であるサディク・カーン氏が市長となっているが、これも投票者にイスラム教徒が増えたことから起きている現象である。

こうした「多文化共生」はグローバル・メディアでは異民族共存の美しい姿として描き出されていたが、実際には社会の底辺では激しい軋轢と対立と衝突を生み出していて、社会は混乱していく一方だった。

価値感が違うと共存できないのが現実だったのだ。

治安も悪化し、彼らが暮らす区域はスラム化し、凶悪犯罪も無差別テロも多発し、バイシュンやドラッグと言ったアンダーグラウンドも拡散していた。

その上、2015年からは内戦で国家崩壊したシリアから大量の難民がヨーロッパに押し寄せるという現象まで起きて、こうした難民がイギリスにも到達していた。

これによって、古き良きイギリスを愛する国民の我慢の限界を超え、2016年6月23日の国民投票で、EU離脱派が勝利するという番狂わせに向かっていったのである。

イギリスのEU脱退の背景にある「反移民・反難民・反グローバル化・反EU」の精神的な感情は、他のEU諸国もまた共有しているものだ。

そのため、このイギリスのEU脱退が引き金となって、EU加盟国のEU離れが起きて、EUの崩壊が起きるのではないかと早くも懸念されるようになっている。

2016年6月23日のイギリスのEU脱退は、「EUの終わりの始まり」になったかもしれない。

辞任に追い込まれたキャメロン首相。イギリスのEU脱退が引き金となって、EU加盟国のEU離れが起きて、EUの崩壊が起きるのではないかと早くも懸念されるようになっている。
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20160624T1615320900
14:777 :

2023/06/18 (Sun) 11:48:23

トリクルダウンはあり得ない

経済関連の「詭弁」の一つに、仮説を「原則」であるかのごとく扱い、結論を断定するという手法があります。

例を挙げますと、

「トリクルダウン理論により、富裕層・法人減税は正しい」

「クラウディングアウトが起きるから、国債発行はダメ」

「マンデル・フレミング・モデルにより、変動相場制の国では財政政策が無効」


などになります。

クラウディングアウトとは、政府の国債発行が「金利上昇」を招き、企業の投資が減少するため、経済成長が阻害される。というロジックなのですが、現実の日本(欧州でも)ではデフレで民間の資金需要が不足し、政府の国債金利はむしろ「下がって」います。

マンデル・フレミング・モデルはクラウディングアウトの延長で、政府の国債発行・財政政策の拡大が「金利上昇」と「通貨高」をもたらし、輸出減により財政政策によるGDP拡大分が相殺される。よって、変動相場制の国において財政政策は無効。というロジックなのですが、長期金利0.23(!)%の国で、何言っているの? という感じでございます。

しかも、第二次安倍政権発足以降、「通貨安」が大幅に進んだにも関わらず、日本の実質輸出は増えていません。純輸出で見ても、原発を稼働しないため、外国からの原油・LNGの輸入が増え、マイナス(純輸入)が拡大していきました。

さらに言えば、日本銀行が国債を買い入れている以上、「国債発行=金利上昇」などという単純なモデルが成立するはずがないのです。MFモデルにしても、財政出動が金利上昇、円高をもたらすのがそんなに怖いなら、金融政策を併用すれば済む話です。

要するに、クラウディングアウトにせよ、MFモデルにせよ、

「絶対に財政出動の拡大はダメ。国債発行もダメ」

という「結論」がまずあり、その結論に導くための詭弁として持ち出されているに過ぎないのです。


とはいえ、この種の詭弁が政界を支配し、財政政策による需要創出が実現しないため、我が国はいつまでたってもデフレ状況から抜けられないでいます。

トリクルダウンも同じです。

トリクルダウンとは「富裕層減税や法人税減税により、国内の投資が拡大し、国民が豊かになる」というロジックになっています。

減税分を「国内の投資に必ず使う」ように政府が強制できるならばともかく(できません)、資本の国境を越えた移動が実現したグローバリズムの時代に、トリクルダウンなど成立するはずがないのです。

しかも、法人税を減税し、企業の現預金を増やしたところで、デフレで投資利益が見込めない以上、国内の設備投資が拡大するはずがありません。

上記の理屈は、「常識」に基づき考えてみれば、誰でも理解できるはずです。特に、損益計算書やバランスシートに触れる機会が多い経営者であれば、一発で分かるでしょう。

ところが、現実にはトリクルダウンが成立するという「前提」に基づき、法人税減税をはじめとする構造改革が推進されています。

それどころか、もはや政府はトリクルダウンという「言い訳」をする必要すら感じていないのかも知れません。


竹中氏が今回、トリクルダウンを否定しましたが、これは別に、

「トリクルダウンがあると嘘ついていました。ごめんなさいね」

とう話ではなく、

「トリクルダウンなど、あるわけがない。政府に甘えず、各人が努力せよ。負けたら、自己責任」


と、責任を「国民」に丸投げしたに過ぎません。

それにしても、中国が改革開放を推進した際、鄧小平は「人民」に対する言い訳として、トリクルダウン仮説の一種である先富論を持ち出しました。中国のような共産党独裁国であっても、勝ち組に優しい政策をする場合は、トリクルダウン仮説で「言い訳」をする必要があるのです。

ところが、日本ではもはやトリクルダウンという「言い訳」すらなされず、格差を拡大することが明らかな構造改革が推進されていっています。

この状況を「怖い」と思うのは、三橋だけでしょうか。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2016/01/11/mitsuhashi-345/

「トリクルダウンあり得ない」竹中氏が手のひら返しのア然 2016-01-06    

 さて、今さらですが、トリクルダウンとは何でしょうか?


 トリクルダウンとは、

「富裕層や大企業を豊かにすると、富が国民全体にしたたり落ち(=トリクルダウン)、経済が成長する」

 という「仮説」です。トリクルダウン「理論」と主張する人がいますが、単なる仮説です。


 上記は今一つ抽象的なので、より具体的に書くと、

「富裕層減税や法人税減税をすると、国内に投資が回り、国民の雇用が創出され、皆が豊かになる(=所得が増える)」

 となります。


 要するに、グローバリズム的な、あるいは新古典派(以前は古典派)経済学的な「考え方」に基づき、所得が多い層を優遇しようとした際に、政策を「正当化」するために持ち出される屁理屈なのでございます。


 ちなみに、大恐慌期のアメリカでは、財閥出身の財務長官アンドリュー・メロンが「法人税減税」を推進した際に、まんまトリクルダウン仮説が用いられました。 


 さて、現代日本において、トリクルダウンで安倍政権の法人税減税に代表される「グローバル投資家」「グローバル企業」を富ませる政策を正当化していたのが、みんな大好き!竹中平蔵氏です。


『「トリクルダウンあり得ない」竹中氏が手のひら返しのア然
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/172701/1


 テレビ朝日系の「朝まで生テレビ!」。

「激論!安倍政治~国民の選択と覚悟~」と題した1日放送の番組では、大田区の自民党区議が「建築板金業」と身分を隠し、安倍政権をヨイショするサクラ疑惑が発覚。「今年初のBPO入り番組」とネットで炎上中だが、同じように炎上しているのが、元総務相の竹中平蔵・慶応大教授の仰天発言だ。


 番組では、アベノミクスの「元祖3本の矢」や「新3本の矢」について是非を評価。

冒頭、「アベノミクスは理論的には百%正しい」と太鼓判を押した竹中平蔵氏。

アベノミクスの“キモ”であるトリクルダウンの効果が出ていない状況に対して、

「滴り落ちてくるなんてないですよ。あり得ないですよ」

と平然と言い放ったのである。


 トリクルダウンは、富裕層が富めば経済活動が活発になり、その富が貧しい者にも浸透するという経済論だ。2006年9月14日の朝日新聞は〈竹中平蔵・経済財政担当相(当時)が意識したのは(略)80年代の米国の税制改革だった。

その背景には、企業や富裕層が豊かになれば、それが雨の滴が落ちるように社会全体に行きわたるとする『トリクルダウン政策』の考え方があった〉と報じているし、13年に出版された「ちょっと待って!竹中先生、アベノミクスは本当に間違ってませんね?」(ワニブックス)でも、竹中氏は

〈企業が収益を上げ、日本の経済が上向きになったら、必ず、庶民にも恩恵が来ますよ〉

と言い切っている。


 竹中平蔵氏がトリクルダウンの旗振り役を担ってきたのは、誰の目から見ても明らかだ。

その張本人が今さら、手のひら返しで「あり得ない」とは二枚舌にもホドがある。

埼玉大名誉教授で経済学博士の鎌倉孝夫氏はこう言う。


「国民の多くは『えっ?』と首をかしげたでしょう。ただ、以前から指摘している通り、トリクルダウンは幻想であり、資本は儲かる方向にしか進まない。竹中氏はそれを今になって、ズバリ突いただけ。つまり、安倍政権のブレーンが、これまで国民をゴマカし続けてきたことを認めたのも同然です」(後略)』


 そもそも、トリクルダウンが成立するためには、絶対的に必要な条件が一つあります。それは、富裕層なり大企業で「増加した所得」が、国内に再投資されることです。前述の通り、トリクルダウンとは、富裕層や大企業の所得が「国内の投資」に回り、国民が豊かになるというプロセスを「仮定」したものなのです。


 現代の説明も、かなり抽象的ですね。

「トリクルダウンは、富裕層が富めば経済活動が活発になり、その富が貧しい者にも浸透するという経済論」

 まあ、それはそうなのですが、正しくは

「富裕層が富み、国内に投資がされる」ことで経済活動が活発になる

という話なのです。


 すなわち、資本の移動が自由化されたグローバリズムの下では、トリクルダウンなど成立するはずがないのです。特に、デフレーションという需要不足に悩む我が国において。


 富裕層減税や法人税減税で、「富める者」の可処分所得を増やしたところで、「グローバリゼーションで~す」などとやっている状況で、国内への再投資におカネが回ると誰が保証できるのでしょう。誰もできません。


 結局、企業は対外直接投資、富裕層が対外証券投資におカネを回すだけではないのでしょうか。特に、日本のように国内にめぼしい投資先がなく、国債金利が長期金利で0.26%と、異様な水準に落ち込んでしまっているデフレ国では。というか、国内における投資先がなく、民間がおカネを借りないからこそ、長期金利が0.26%に超低迷してしまっているわけですが。


 無論、国境を越えた資本移動が制限されていたとしても、トリクルダウンが成立するかどうかは分かりません。減税で利益を受けた富裕層や企業が、国内に投資せず、増加した所得を「預金」として抱え込んでしまうかも知れません。


「いやいや、貯蓄が増えれば金利が下がり、国内に投資されるので、トリクルダウンは成立する」

 などと学者は反駁するのかも知れませんが、長期金利0.26%であるにも関わらず、国内の投資が十分に増えないデフレ国で、何を言っているの? 頭、悪すぎるんじゃないの? という話でございます。現在の日本は、企業の内部留保までもが史上最大に膨れ上がっています。


 お分かりでしょう。トリクルダウンが仮に成立するとしても、その場合は、

「国境を越えた資本の移動が制限されている」

「デフレではない」

 と、最低二つの条件が必要になるのです。ところが、現実の日本はグローバル化を推し進めつつ、同時にデフレです。トリクルダウンが成立する可能性など、限りなくゼロに近いわけでございます。


 そんなことは端から分かっていたし、何度も著作等で訴えてきたわけですが、残念ながらマスコミの主流は

「トリクルダウン理論により、法人税減税は正しい」

という、「頭、悪すぎるんじゃないの?」理論が主流を占めていました。


 少なくとも、現在の日本において、トリクルダウン前提の経済政策は「間違っている」と、全ての国民が認識する必要があるのです。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/

続 トリクルダウンはあり得ない 2016-01-07


 昨日は、単にトリクルダウン仮説について解説しただけで、竹中氏の「真意」には踏み込みませんでした。

そもそも、竹中平蔵氏はなぜ「トリクルダウンはあり得ない」と語ったのか。


 安倍総理は、年頭の記者会見において、フジテレビの西垣記者の「選挙に向けてこの半年、国会が今日から開く中、どういった目標を掲げていかれるお考えでしょうか」という質問に対し、

「将来の老後に備えて、あるいは子育てのためにも使っていくことになるわけでありまして、これは正に成長と分配の好循環をつくっていくという新しい経済モデルを私たちは創っていく。その「挑戦」を行っていかなければいけないと思います」

 と、答えました。


 「分配」という言葉を総理が使ったのは、初めてのような気がいたします。


 わたくしは昨年末に刊行した徳間書店「2016 年 中国・ユーロ同時破綻で瓦解する世界経済 勝ち抜ける日本 」において、


『安倍総理は2015年1月28日の参院本会議で、民主党の質問に答えるかたちで、

「安倍政権としてめざすのはトリクルダウンではなく、経済の好循環の実現だ」

 と、トリクルダウンを否定した。

 だが、実際に安倍政権が推進している政策は、消費税増税をはじめとする緊縮財政にせよ、法人税の実効税率引き下げにせよ、あるいは様々な構造改革にせよ、明らかに特定のグローバル投資家を利する政策ばかりだ。

 グローバル投資家に傾注した政策を推進しつつ、トリクルダウンを否定したため、筆者はむしろ総理が国内の所得格差の拡大を歓迎しているかような印象を受けたものである。

 すなわち、富裕層やグローバル投資家、大企業を優先する政策を打つ政権は、言い訳としてトリクルダウン理論を持ち出すのだ。

法人税減税や消費増税、構造改革など、国内の所得格差を拡大する政策を繰り出しつつ、トリクルダウンすら否定するのでは、余計に問題ではないだろうか。』


 と、書きました。


 朝生のを見た限り、竹中氏は別に、 「トリクルダウンはあり得ないんです。ごめんなさい」というニュアンスで「トリクルダウンはあり得ない」と語ったわけではないわけです。


 トリクルダウンなど起きえない。
政府の政策で富が「滴り落ちる」のを待っている方が悪い、

というニュアンスでトリクルダウンを否定したのでございます。

すなわち、格差肯定論としてのトリクルダウンの否定なのです。


 そもそも、トリクルダウン仮説は民主主義国家において、一部の富裕層や法人企業に傾注した政策をする際、有権者である国民に「言い訳」をするために編み出されたレトリックなのです。


「富裕層や大手企業を富ます政策をやるけど、いずれ富は国民の皆さんに滴り落ちるので、安心してね」

 というわけでございます。


 つまりは、政治家がグローバリズム、新自由主義的な構造改革、緊縮財政を推進し、国民の多数を痛めつける際に「言い訳」として持ち出されるのがトリクルダウン仮説なのです。


 竹中氏がトリクルダウンを否定したのは、構造改革を推進するに際し、国民に言い訳をする必要性を感じなくなったのか、あるいは言い訳するのが面倒くさくなったのかのいずれかでしょう。


「面倒くせえな。トリクルダウンなんてあるわけないだろ。

政府の政策で、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧困化し、それでいいんだよ。

どうせ、負けた奴は自己責任なんだから」


 と、一種の開き直りで「トリクルダウンはあり得ない」と竹中氏が発言したと確信しています。


 とはいえ、総理が「分配」と言い出したということは、竹中氏はともかく「政治家」にとっては、「トリクルダウンすらない構造改革、富裕層・大企業優遇政策」は、有権者に説明がつかないということなのだと思います。


「竹中氏がトリクルダウンを否定した。へ~え。

つまり、あんた(国会議員)たちは富める者がさらに富み、貧困層はますます貧困化する政策を肯定するんだな?」

 という突っ込みを受けるのは、安倍総理とはいえどもきついでしょう。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12114721167.html
15:777 :

2023/06/18 (Sun) 11:49:00

「真面目に働くことによって明るい未来が拓く」という今までの資本主義の基幹を為していた牧歌的な時代は、グローバル化が進めば進むほど過去のものになりつつある。
現代の資本主義は、全世界を巻き込んだ凄まじい競争を強いる弱肉強食の資本主義である。企業は競争に打ち勝つために、素早く巨大化し、素早く時代に対応し、利益を極大化させることが望まれている。

利益を極大化させるためには、余計なコストがかかる雇用を必要最小限にするのが手っ取り早い。人間を雇うというのは、企業から見ると凄まじいコストなのである。

年500万円の人間を20年雇用したら、その1人だけで1億円のコストがかかる。実際にはこれに福利厚生から事務所代から雑費等含めて、かなりの出費がある。

単純に言えば、人は雇わなければ雇わないほどコストは削減される。そのために企業は、ありとあらゆる方法で雇用を削減する方法を考え出す。

それが派遣雇用の拡充であったり、アウトソーシングであったり、途上国の工場移転であったり、IT化であったり、ロボット化であったり、人工知能であったりする。

現在はそうした「雇用を排除する動き」が同時並行で行われ、加速している時代である。

これがさらに進んでいくのが2016年以降の動きだ。「働いても働いても豊かになれない」というワーキングプア層が社会の大半を占めるほどの苛烈な社会になっていくのだ。

今起きているこの大きな動きに私たちはひとり残らず飲み込まれていることに注意しなければならない。2016年以降、この流れが変わるというのはあり得ない。

「会社に雇われて働く」というのは、ワーキングプアになるというのと同義語になる。

まだ多くの人は半信半疑かもしれないが、よほどのエリートでない限り、「会社に勤める」というのは貧困に落ちる危険な行為になりつつあるのだ。
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20160101T1601100900

富裕層が仕掛けているのは、自分たちが100戦無敗になる方法


100戦無敗になるにはどうしたらいいのか。簡単だ。徹底的に弱い相手と戦うことだ。たとえば、大人は3歳児と戦ったら必ず勝つ。

大人が常に3歳児と戦い続ければ、常に勝ち続けることができる。それは勝負ではなく、リンチになるはずだ。大人はその気になれば、殴り殺すことさえ可能だろう。

だから、スポーツはこういった「大人vs子供」のような、最初から勝負が分かりきっているような組み合わせを禁止する。惨劇を避けるためだ。

それを不服として、大人が「自由に勝負させろ」と叫んでいたら、どうかしていると思われるはずだ。

しかし、それはスポーツの世界だからどうかしていると思われるだけで、実社会ではそのあり得ない競争が行われる世界なのである。

100万円の資産しかない人間が、100億円の資産を持つ企業と無理やり競争させられるのが資本主義の掟である。巨大な者が「もっと自由を」という時は、「弱者を叩きつぶす自由をくれ」という意味なのである。


落ちこぼれた人間には金すらも出したくない政府

「どんどん競争させろ。競争のルールは必要最小限にしろ。弱い者がどうなったところで知ったことではない」

これが資本主義を拡大解釈した「市場原理主義」の正体である。日本は2000年に入ってから、この弱肉強食の市場原理主義が小泉政権下で組み入れられた。

事実上の実行者は、当時、経済財政政策担当大臣と金融担当大臣を兼任していた竹中平蔵だった。

この男によって社会経験の浅い若年層は非正規労働者に追い込まれ、どんどん生活が不安定化しくことになる。

こういった格差が生まれるのは当然だと竹中平蔵は言っている。さらに、「日本はまだまだ格差が少ない社会だ」との認識も示している。

つまり、もっと激しい競争社会して、それによって弱者がもっと増えても別に構わないというスタンスである。さらにこの男は2016年に入ってからトリクルダウンも否定している。

トリクルダウンというのは「資産家や大企業を先に豊かにすると、富が国民全体にトリクルダウン(滴り落ちて)、経済が成長する」というものだ。

鄧小平の唱えた「先富論」に似ているものだが、竹中平蔵はそのトリクルダウンもないと言った。強い者はどんどん富むが、その富は弱者に回らない弱肉強食の社会を日本に取り入れたのがこの男である。

竹中平蔵は派遣会社の会長なのだが、派遣会社というのは労働者の稼ぎをピンハネする事業をしている。ピンハネして、要らなくなったら捨てる。

その結果、労働者が弱者になったとしても「それは、その人の自己責任だ」と言うのが竹中平蔵の理論なのである。

弱者など、どうでもいい。落ちこぼれた人間には金すらも出したくない。だから、この男が小泉政権下でしたのは、社会保障支出の大幅な削減だった。

その結果、高齢者も、障害者も、シングルマザーもみんな追い込まれて、生活保護受給者は大幅に増えることになった。


努力しても這い上がれない社会が来ている

弱肉強食の市場原理主義を取り入れればそうなることは、はじめから分かっていた。なぜなら、強欲な資本主義の総本山だったアメリカがそうなったからだ。

アメリカではレーガン政権がこの市場原理主義を推し進めた結果、1%の富裕層と99%の低賃金層という超格差社会を生み出して、今でもその格差の分離は広がっている。

アメリカでは、強者と弱者が明確に分離しており、その格差は極限にまで近づこうとしている。富める者はさらに富み、貧しき者はさらに貧しくなっている。

中流階級は激減し、2010年には貧困者が4620万人に達した。7人に1人は貧困層だ。さらに、予備軍まで入れると、3人に1人は生活に追われている状況になっている。

問題なのは、この格差が固定化しつつあるということだ。アメリカン・ドリームはすでに消失している。努力しても這い上がれない社会がやってきているのである。

当然だ。競争を開始する時点での条件に大きな格差がついている。スタートラインが富裕層と貧困層とではまったく違う。正当な競争になっていないのである。

貧困層は満足な給料がもらえない職業を転々とするしかなく、結局、働いても働いても豊かになれないワーキングプアが常態化してしまう。

貧困が固定化するのは、次の5つの要因がある。

(1)生活に追われ、疲れて何も考えられなくなる。
(2)低賃金で自分も子供も教育が受けられなくなる。
(3)金を含め、あらゆるものが不足してしまう。
(4)這い上がれない環境から自暴自棄になっていく。
(5)社会的影響力がなく、権利は保障されない。

いったん貧困に堕ちると、この5つの要因が同時並行で始まっていき、その中で押しつぶされてしまう。

これは、アメリカだけの問題ではなく、今や日本の底辺の問題でもある。すでに、日本の底辺もこの5つの要因にがんじがらめにされて、這い上がるのが絶望的に難しい社会になっているのである。


アメリカでは、強者と弱者が明確に分離しており、その格差は極限にまで近づこうとしている。富める者はさらに富み、貧しき者はさらに貧しくなっている。


貧困層は、相変わらず見捨てられていた

格差が固定化されるというのは、富裕層と貧困層の超えられない一線ができるということである。人々は分離し、この両者は次第に違う文化を生きることになる。

暮らす場所も、食べる物も、通う学校も、遊ぶ場所も、付き合う人も、すべて違っていく。そして、この両者は互いに相手に無関心になり、話す言葉すらも違っていくようになる。

日本もそうなる危険性が高い。格差は固定化して、堕ちてしまった人は、社会から見捨てられて生きるようになっていく。

2014年3月。私は10年ぶりにインドのコルカタに向かって、インドの貧困地区がどうなっているのかを確認しに行った。

その結果、どうだったのか。書籍『絶対貧困の光景』で書いたのだが、かつての貧困層はインドの経済発展からものの見事に取り残されていた。

コルカタは、確かに一部は経済発展していた。

ところが、貧困層はまったく経済発展の恩恵に浴していなかったのだ。彼らは社会から無視され、相変わらず社会から見捨てられていた。

10年前、貧困の中で生きていた女性たちは今もまだまったく同じ状態で放置されていた。彼女たちは路上で暮らし、路上で物乞いをし、スラムは相変わらずスラムのままだった。

先進国と変わらないマンション、ショッピングモールができていて、富裕層がベンツを乗り回しているその横で、10年前に貧困層だった人たちは、まだ路上を這い回って生きていた。

(堕ちたら、這い上がれないのだ……)

竹中平蔵が言った通り、「トリクルダウン」など、影も形もなかった。貧困層に富はこぼれ落ちていなかった。完全に置いてけぼりだ。

そういった状況は私もよく知っていたはずだった。しかし、実際にそんな現状を目の前に突きつけられた時に感じたショックは、決して小さなものではなかった。

格差が固定化され、弱者が見捨てられ、貧困層が大量に増え続ける社会がどんなに悲惨な社会なのか、日本人はもっと真剣に考えるべきだ。

日本はそんな道を辿ろうとしているのである。


スラムの子供たち。富める者は富み、貧しい者は奪われるのであれば、この少年と幼い妹には未来はない。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160118T0438270900.html


2016-02-06
難民・移民が流入して大混乱しても、それが止まらない理由

移民問題・難民問題は、今やユーロ圏を揺るがす火薬庫と化してしまった。

排斥デモ、異民族敵視、憎悪、相互対立は、多民族国家を目指した国のほとんどが経験している。多民族共生というのは、口で言うほど簡単なものではない。

共生どころか、むしろ衝突となり暴力の応酬となってしまう。当然だ。ひとつの地域に、文化がまったく違って、考え方も根本からして異なる人たちが押し込まれる。

民族によっては、マナーも違えば、常識も違えば、言葉も違えば、人種も違う。

何もかも違った人間がどんどん増えていくと、受け入れる側からすると、自分たちの文化が侵略されていると捉えるのは、避けられない。こういった対立は、これから世界中で吹き荒れることになる


しかし、だからと言って、移民・難民の流入や、多民族国家の動きが頓挫するとは、絶対に考えない方がいい。

どんな問題が起きても、どんな激しい国民の抵抗が起きても、グローバル社会に参加した国家では、それが強引に行われていくことになる。

なぜなら、グローバル化していく社会の中で、国家という枠組みが邪魔になっており、今は「国家」という枠組みを取り壊そうとする動きが加速しているからである。

「自国文化を守ろう、自国の歴史を大切にしよう」という動きは、「保守」とは呼ばれず、「極右」とグローバル・メディアによってレッテル貼りをされている。

世界中のメディアは、保守を必ず「極右」として扱い、レイシストと断定する。それはグローバル化を後退させる動きなので、「絶対に許されない思想」と認定して、封印されていく。

グローバル化を阻止する動きは、絶対に許されない。

多国籍企業、金融市場、巨大メディアは、グローバル化する社会の中で支配権を拡大していく過程にある。

世界を動かしているのは国民ではなく、多国籍企業、金融市場、巨大メディアである。そして、これらの企業の各ステークホルダー(関係者)たちである。

全員が揃って陰謀に荷担しているという見方もあるが、実際のところは、陰謀論によって動いているというよりも、グローバル化した方が「より儲かる」というシンプルな原則によって突き動かされていると言った方がいい。

儲かるのなら、儲かる方向に向かって資本が殺到していく。それがあたかも何らかの指示があるように一方方向に動いているように見える。

事業家や金融資本は何者かに命令されて動いているわけではない。儲かる方向に向かって動いていたら、それはグローバル化の方向だったのである。

ロンドンの光景。もうすでにロンドンでは44%近くが非白人となっていると言われている。移民・難民の流入や、多民族国家の動きは止まらない。


儲かるから、グローバル化が推し進められるのだ

グローバル化したら、世界のすべてが多国籍企業にとって市場になる。そうなれば、単純に儲かる。だから、多国籍企業はぶれることなくグローバル化を推し進める。

グローバル化したら、賃金の安い国で物を製造することができるようになる。そうなれば、コスト削減できる。そして、競争力が付いて儲かる。

グローバル化したら、移民が大量に入ってきて、やはり低賃金で人が雇えるようになる。そうなれば、またもやコスト削減ができる。だから、移民政策や、多文化主義は推進されるのだ。シンプルだ。

貿易を行うに当たって、国をまたぐたびに関税を取られたら損をする。だから、国がなくなればいいと考えるのが多国籍企業でもある。儲けのためには、関税を取る国家という存在が邪魔なのだ。

販売を行うに当たって、各国の違いに合わせて商品をローカライズするのは無駄なコストである。言語が英語か何かで統一できれば、ローカライズする手間がなくなる。だから、国がなくなればいいと考えるのが多国籍企業である。コストのためには国家という存在が邪魔なのだ。

販売を行うに当たって、文化が違っているとやはりその国に合わせなければならないが、それも無駄なコストである。だから、移民を入れて、混ぜて、独自文化を薄めさせれば、文化に合わせる手間もなくなる。

だから、文化がなくなればいいと考えるのが多国籍企業でもある。移民・難民を大量に入れて「多文化共生」にするのは、その国の独自の文化を消すのに最良の方法だ。

パリの光景。41%が非白人の人口となっている。グローバル化したら、移民が大量に入ってきて、低賃金で人が雇えるようになる。そうなればコスト削減ができる。だから、移民政策や、多文化主義は推進される。


世の中は多極化しているのではない。逆だ

ありとあらゆるものが、国家の消滅、国家の役割縮小、国家の無力化を目指している。上記以外にも、そんな動きは次々と動いている。

通貨が違っていれば、為替の変動というものに注意を払わなければならず、それは多国籍企業にとっては手間である。国家をブロック化するか、もしくは国家を消滅させれば為替も統一するので便利だ。だから多国籍企業は、通貨の統一を邪魔する国家という概念を消し去りたい。

巨大メディアも、言語・文化がどんどん統一されていけば、情報収集も、情報提供も、世論誘導もやりやすい。だから、グローバル化に乗るのは「得する」動きだ。そのために、言語・文化の守り手である国家を消滅させたい。

インターネットもまた、「情報」という分野で世界を統一しようとする動きである。インターネット企業は、世界がグローバル化すればするほど儲かる仕組みになっている。だから、国家間の情報遮断は許しがたいことであり、やはり国家という概念を消し去りたいと思っている。

グローバル化は、それを突き詰めると、世界が「ひとつ」になるということだ。世界が「ひとつ」というのは、要するに国家も、文化も、言語も、通貨も、すべてが「ひとつ」になるという意味である。

現在、そのような社会に向かっている。世界は多極化しているのではない。完全にその逆だ。

グローバル化の動きは、「ひとつ」になる動きだ。国家のブロック化は、「ひとつ」になる動きだ。多文化主義の動きは、「ひとつ」になる動きだ。金融市場の国際化は、「ひとつ」になる動きだ。移民促進の動きは、「ひとつ」になる動きだ。

グローバル化によって、世界は統一化されようと動いている。多極化しているというのは、単に政治の力学の話であって、世の中全体の動きではない。

多極化していると見せかけて、世の中はグローバル化によって「ひとつ」になろうとしているのである。

絶対に移民政策が止まらないのは、世界が「ひとつ」になるためだ。本当に、単純な話だ。そうすれば多国籍企業、金融市場、巨大メディアは儲かるのである。そして今や、すべての国がグローバル化に向かって暴走している。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160206T0136500900.html
16:777 :

2023/06/18 (Sun) 11:49:42

サッカーとか、ワールドカップの様子を見ていると、「日本戦見てない奴は非国民」みたいな攻撃的な同調圧力が異常に高まっていましたね。全員が同じものに、同じように熱狂することを強制する。この同調圧力がこの20年くらいどんどん高まっている。
均質化圧と同調化圧。それはやはり学校教育のせいなんだと思います。

学校はどこかで子どもの成熟を支援するという本務を忘れて、子どもたちを能力別に格付けして、キャリアパスを振り分けるためのセレクション装置機関になってしまった。

子どもたちを格付けするためには、他の条件を全部同じにして、計測可能な差異だけを見る必要がある。

問題は「差異を見る」ことじゃなくて、「他の条件を全部同じにする」ことなんです。みんな叩いて曲げて同じかたちにはめ込んでしまう。そうしないと考量可能にならないから。同じ価値観を持ち、同じようなふるまい方をして、同じようなしゃべり方をする子どもをまず作り上げておいて、その上で考量可能な数値で比較する。

見落とされているのは、この均質化圧が財界からの強い要請で進められているということです。


彼らからすれば労働者も消費者もできるだけ定型的であって欲しい。

労働者は互換可能であればあるほど雇用条件を引き下げることができるからです。

「君の替えなんか他にいくらでもいるんだ」と言えれば、いくらでも賃金を下げ、労働条件を過酷なものにできる。


消費者もできるだけ欲望は均質的である方がいい。

全員が同じ欲望に駆り立てられて、同じ商品に殺到すれば、製造コストは最小化でき、収益は最大化するからです。

ですから、労働者として消費者として、子どもたちにはできるだけ均質的であって欲しいというのは市場からのストレートな要請なんです。

政治家や文科省の役人たちはその市場の意向を体して学校に向かって「子どもたちを均質化しろ」と命令してくる。


―均質化と同調圧力を押し返し、本来の「知のありよう」を取り戻すのには、やはり教育がキーワードになっているのでしょうか?

教育だとは思いますよ。でも、今の学校教育は閉ざされた集団内部での相対的な優劣を競わせているだけですから、そんなことをいくらやっても子どもは成熟しないし、集団として支え合って生きて行く共生の知恵も身につかない。

保護者も子どもたちも、どうすれば一番費用対効果の良い方法で単位や学位を手に入れるかを考える。最少の学習努力で最大のリターンを得ることが最も「クレバーな」生き方だと思い込んでいる。

でも、学校教育を受けることの目的が自己利益の増大だと考えている限り、知性も感性も育つはずがない。人間が能力を開花させるのは自己利益のためではなくて、まわりの人たちと手を携えて、集団として活動するときなんですから。

でも、今の学校教育では、自分とは異質の能力や個性を持つ子どもたちと協働して、集団的なパフォーマンスを高めるための技術というものを教えていない。

共生の作法を教えていない。それが生きてゆく上で一番たいせつなことなのに。


僕は人間の達成を集団単位でとらえています。ですから、「集団的叡智」というものがあると信じている。長期にわたって、広範囲に見てゆけば、人間たちの集団的な叡智は必ず機能している。エゴイズムや暴力や社会的不公正は長くは続かず、必ずそれを補正されるような力が働く。

ですから、長期的には適切な判断を下すことのできるこの集団的叡智をどうやって維持し、どうやって最大化するのか、それが学校でも最優先に配慮すべき教育的課題であるはずなのに、そういうふうな言葉づかいで学校教育を語る人って、今の日本に一人もいないでしょう。学校教育を通じて日本人全体としての叡智をどう高めていくのか、そんな問いかけ誰もしない。

今の学校教育が育成しようとしているのは「稼ぐ力」ですよ。

金融について教育しろとか、グローバル人材育成だとか、「英語が使える日本人」とか、言っていることはみんな同じです。

グローバル企業の収益が上がるような、低賃金・高能力の労働者を大量に作り出せということです。


文科省はもうずいぶん前から「金の話」しかしなくなりました。

経済のグローバル化に最適化した人材育成が最優先の教育課題だと堂々と言い放っている。

子どもたちの市民的成熟をどうやって支援するのかという学校教育の最大の課題については一言も語っていない。子どもたちの市民的成熟に教育行政の当局が何の関心も持っていない。ほんとうに末期的だと思います。

―モノや資源のレベルでも、教育のレベルでも、色んな意味での持続可能性というのは、一人一人がそういった知のマップを作ることだと思います。このマッピングをどうやって可能にして、共生の知恵をもった社会に作ることができると思われますか。

今の日本の制度劣化は危険水域にまで進行しています。いずれ崩壊するでしょう。ですから、目端の利いた連中はもうどんどん海外に逃げ出している。シンガポールや香港に租税回避して、子どもを中等教育から海外に留学させて、ビジネスネットワークも海外に形成して、日本列島が住めなくなっても困らないように手配している。彼らは自分たちが現にそこから受益している日本のシステムが「先がない」ということがわかっているんです。でも、「先がない」からどうやって再建するかじゃなくて、「火事場」から持ち出せるだけのものを持ち出して逃げる算段をしている。


僕は日本でしか暮らせない人間をデフォルトにして国民国家のシステムは制度設計されなければならないと思っています。

でも、日本語しか話せない、日本食しか食えない、日本の伝統文化や生活習慣の中にいないと「生きた心地がしない」という人間はグローバル化した社会では社会の最下層に格付けされます。

最高位には、英語ができて、海外に家があり、海外に知人友人がおり、海外にビジネスネットワークがあり、日本列島に住めなくなっても、日本語がなくなっても、日本文化が消えても「オレは別に困らない」人たちが格付けされている。

こういう人たちが日本人全体の集団としてのパフォーマンスを高めるためにどうしたらいいのかというようなことを考えるはずがない。どうやって日本人から収奪しようかしか考えてないんですから。
http://blog.tatsuru.com/2014/09/05_1112.php

イスラム女性が酒を飲み、ダンスをし、ランジェリーを着る 2014-01-25


女性がアルコールを飲んで酔っ払う。そして、男たちの前でダンスする。女性がフィットネスに精を出す。女性がビリヤードをする。女性がベランダに出てタバコを吸う。女性がセクシーなランジェリーを買う。

何か問題があるだろうか?

もちろん、先進国で女性がアルコールを飲んでダンスしたところで、それが問題になるわけではない。しかし、それがイランだったら?

もちろん、イランでも表立ってこのような行為をしたら、公開処刑にされる可能性がある。しかし、時代は変わりつつある。

厳しい戒律の中、黒いベールに包まれているイラン女性も、ホメイニ師が仕掛けた1979年2月のイスラム革命以前は、実は自由はファッションが許されていたイスラム戒律の緩い国でもあった。ミニスカートをはいていた女性すらもいたのだ。

そんな時代が、イランの底辺で少しずつ戻りつつあるという。もちろん大ぴらではない。ゆっくりと、である。


世界標準に相容れない価値観は消すという流れ

インターネットによる結びつきは、全人類に共通の価値観を定着させようとしつつある。

先進国も、後進国も、今では人々の着ているものは、ほぼ同じものになりつつあり、食べ物の嗜好も統合されてきた。

もちろん、国による違いや地域差も、依然として残っている。犬食が悪いとか、鯨が悪いとか、イルカ漁が残酷だとか、激しい議論がある。

実は、そういった議論は「異質を失くす方向」で統一される可能性が高い。「世界標準に相容れない価値観は消してやる」というのが現在の社会の動きなのである。

かつては、それぞれの国にはそれぞれの衣装があった。

日本でもアメリカでもイギリスでもアフリカでも中国でも、それぞれその国特有の「衣装」があった。

現在は、そういった衣装は「民族衣装」と特定カテゴリー化されて、気がつけば「普段着るものではない」ということにされている。

そして、どこの国でもプライベートはTシャツ、ビジネスではスーツというものに統一されていく。そして、世界はどこも代わり映えしない世界となった。

どのようにして、そうなるのか。

それはグローバル企業の莫大な「広告」によって為される。広告によって人々の意識は変えられて、いつしかTシャツやジーンズ等が良いという嗜好になっていくのである。

そして、それと平行して、色も質も豊富なTシャツやジーンズ等が大量に入って来る。それらは先進国の若者も着ているので、後進国の人々も嬉々としてそれを着る。


グローバル化の本質は、画一化なのである

インドの女性たちはその美しいサリーを捨て、Tシャツにジーンズを履くようになっている。

男たちはとっくの前に民族衣装など捨てていて、背広とワイシャツとネクタイに変身している。

カンボジアも10年ほど前まで誰もがクロマーと呼ばれる手ぬぐいを帽子の代わりに頭に巻いていたが、今どきそんなカンボジア人がいたら、ただの田舎者だと思われるだけだ。

カンボジア人は今や工業製品で作られた安物の帽子をかぶるか、帽子をかぶらないでヘアスタイルの方に凝るようになった。

彼らにしてみればそれは新しいものを追い求めているのかもしれない。しかし、先進国の人々が見れば、「カンボジア人がグローバル化された」ということなのである。

グローバル化の本質は、画一化だ。

グローバル化によって画一化されることで、企業は「同じ製品」をどこの国でも大量に売りつけることができる。

国ごとに好みが違っていたら、その国に合わせてローカライズしないとならない。企業にしてみれば手間がかかる。インド女性がサリーを着ていたら、多国籍企業のジーンズ会社は困るのだ。

サリーは大量生産できないし、インドにしか売れない。しかし、インド人を画一化させて全員にTシャツとジーンズを履かせることに成功すれば、グローバル化された企業はインドで大儲けすることができる。

インド人にTシャツとジーンズを履かせること、それが「画一化」させるということである。


グローバル化の中で画一化されるように洗脳された

グローバル経済は見かけだけではない。考え方も、技術も、欲しがるものも、すべて画一化する。

たとえば、インターネットを使うための技術は世界中どこでも同じものである。そして、インターネットに接続されるOSや機器も数社ほどの製品に統一されている。

パソコンならマイクロソフト、スマートフォンならアップルやグーグルが頭脳を独占している。その世界で人々は画一化されたブラウザを使い、画一化されたSNSで友達を見つける。

車を見ても、バッグを見てもそうだ。先進国の男も後進国の男も欲しがる車はメルセデス・ベンツであり、女の欲しがるバッグはルイ・ヴィトンである。

すべての国の人たちが判で押したかのようにベンツやルイ・ヴィトンを欲しがる。画一化されたのだ。グローバル化の中で画一化されるように洗脳されてしまった。

しかし、本人だけは、なぜか自分が「画一化」されたとはまったく気がついていない。気がついていないが、しっかり「画一化」されてしまっている。

味覚もそうだ。その国にどんな飲み物があったとしても、グローバル化された社会で人々はコカコーラを飲み、ペプシを飲む。ラオスで飲むコカコーラも、タヒチで飲むコカコーラも味は同じだ。画一化されてしまっている。

中国は今でもポーレイ茶を飲んでいる。中国や香港やチャイナタウンを歩くと、あの独特の香りを街中で嗅ぐことができる。

しかし、若者はコカコーラを飲み歩き、マクドナルドのハンバーガーを食べる。

こういったグローバル化はイスラムの世界をも浸食しているのである。いずれ、イスラム世界も長い時間をかけてグローバル化されて、画一化されて来るだろう。

イランの女性たちの動きは、そういった時代の最先端となっている可能性がある。


アルコールを飲んで、ダンスをして、楽しむイラン女性。ホメイニ師が見たら激怒して処刑してしまうだろう。


おしゃれを楽しむイラン女性。もともとイラン女性はとても美しいことで知られている。

ベランダで顔も髪も隠さないで喫煙するイラン女性。タバコは別に珍しくない。髪も顔も隠さないというところが珍しい。

ランジェリーに凝るイラン女性。黒いベールの下は、とてもエロチックであると言われている。

ビリヤードをするイラン女性。こうやって女性が少しずつ街に出て人生を楽しむことが、時代を変える第一歩になるが、皮肉にもそれはグローバル化の中に取り込まれる第一歩にもなる。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20140125T0348290900.html


そういえば、つい数年前までインドでは髪や身体を洗う時には泥を使っていたが、今では安く変える石鹸やシャンプーが浸透していっている。
これらの石鹸やシャンプーは貧しい人たちでも買えるように小分けで売られている。

メーカーはユニリーバ。イギリス企業(正確にはイギリスとオランダに経営機能を持つ多国籍企業)である。


インドに浸透していく多国籍企業ユニリーバ。男は「ユニリーバ」と聞いても知らない人も多いかも知れないが、女性はみんなこの企業を知っている。


侵略されても、それが文化侵略などとは思わない

ユニリーバはインドで確固たるブランドを築いている。これらの人たちが生活レベルを上げるたびに、ユニリーバの高級商品が彼らの手に渡っていくことになる。

グローバル化は、安い労働力と巨大な市場を求めて世界中のどこにでも浸透していくから、地元産業は衰退し、残った企業は淘汰されていく。

日本では昔、よろず屋という形態の店があったが、今ではそんな店を捜しても見つからないかもしれない。なぜならすべて淘汰されてコンビニがそれに取って変わったからだ。

フィリピンに、サリサリ・ストアという「よろず屋」「雑貨屋」形態の個人ショップが多く見かけるが、もしフィリピンの経済状況が上がっていくなら、これらのサリサリ・ストアは淘汰されて消えていくことになる。

国がグローバル化に組み込まれると、このような個人店舗から吹き飛んでいくのは定石の動きだから誰でも分かる。

すでに1985年前後からグローバル化に飲み込まれたタイでも、コンビニエンス・ストアが幅を利かすようになって個人ストアを駆逐してしまった。

コンビニで売られるものは、自国の大企業のものと、海外の多国籍企業のものに二分される。

日本でも、コカコーラやエビアンなどは普通に売っているが、これらが多国籍企業であるのは言うまでもない。

スーパーもデパートもショッピングモールも、地元のものがスケールで敗退して、莫大な資本を投下できる多国籍企業がゆっくりと確実にその地に浸透していく。

テスコ、カルフール、ウォールマートという巨大ショッピングモール店はそれぞれイギリス、フランス、アメリカの資本だが、買い物をする人間がそんなことはいちいち考えていない。

趣味が良い空間で、大量のものがあって、安く買えるのであれば、どこの国の資本でも歓迎するし、それが文化侵略などとは思わないのである。


フィリピンのサリサリ・ストア。この国もグローバル化に飲まれると、やがてこういった個人商店の店は、大資本によるコンビニやショッピングモールに駆逐されて消えていくことになる。


すべてが画一化されたようなモノクロの世界

外国資本のショッピング・モールに入っているテナントは、マクドナルドだったり、ケンタッキー・フライド・チキンだったり、あるいはスターバックスだったりする。

しかし、それらに目くじらを立てる人間もいない。これらは新興国にとって、先進国の香りがする「素晴らしい企業」であり、文化侵略どころか「憧れ」だ。

かくして、これらの多国籍企業はゆっくり、着実に、アジアに浸透していき、やがてどこの国に行っても代わり映えのしない多国籍企業の看板に埋め尽くされる。

グローバル化はアジアを激変させている。そして、文化を画一化させていく。

多様化を失っていく文化は、人間の増加によって次々と野生動物が絶滅していく姿にだぶる。

グローバル化に対応できない国は絶滅していく。グローバル化に対応した国は均質化・画一化していく。グローバル化がとことん浸透すると、賃金もやがては画一化していく。

多国籍企業は経済的な論理で激しいグローバル化を追い求めているが、その結果についてはほとんど無視されているように思える。

グローバル化の行き着く先は、すべてが画一化されたようなモノクロの世界だ。世界中、どこに行っても同じ光景、同じ商品、同じ価値観で固定化される。

多国籍企業は、その商品が全世界を覆い尽くすまで止まらないのは間違いない。この動きに歯止めはかからない。資本主義が終わるまで続く。

すでに私たちは、日本にいても、タイにいても、シンガポールにいても、コカコーラを飲み、マクドナルドを食べ、スターバックスでくつろぐことができる。

幸せだろうか?


これがどこの国か分かるだろうか。タイだ
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131110T2225020900.html
17:777 :

2023/06/18 (Sun) 11:50:07

日本も含め、全世界は最後に同じ文化になってしまうのか?


中国やインド、そして東南アジアの各諸国が台頭してきたのは、グローバル化が加速したからだ。

グローバル化が加速するとなぜこれらの諸国が台頭することになるのかというと、簡単に言えば「人的コストが安いから」である。

では、なぜ世界はグローバル化していくのかというと、企業間の競争があって、そこでは結果的にコスト削減を徹底的に行い、利益を上げたものが勝利を手にするからである。


コストを削減するには人件費を削減するのが一番早い。

あるいは、安い労働力を使うのが良い。

当然、どこの企業もこの2つに目をつけて、この2つは同時に行われた。具体的に言うと、以下のことが、同時に行われた。

(1)賃金の高い先進国の労働者の削減
(2)賃金の安い新興国の労働者の確保

賃金の安い国はどこだったのか。それは中国であり、インドであり、東南アジア諸国であった。


残った正社員は、リストラするか賃金削減するか

先進国の失業問題は、グローバル化によって必然的に起きたことだ。

日本人の労働者がそれに巻き込まれるのは、時間の問題だったのだ。

だから、小泉政権時代からそれは加速していったが、日本はもっと早く賃金削減が起きてもおかしくなかった。

本来であれば、バブルが崩壊して企業がコスト削減に走らなければならなかった1990年代に賃金削減が起きてもおかしくなかった。

そうならなかったのは日本には終身雇用という文化があったからで、企業が無理していたという言い方もできる。日本企業にも良心があったということだ。

結局、無理に無理が重なってどうにもならなくなったので、企業側はどんどん工場を新興国に移し、本社側の人員は派遣に切り替えた。

そして、残った正社員は、リストラするか賃金削減するかの二者択一になった。

2000年代に入ってから、この両方が平行して行われたのである。

・日本の賃金はまだ高いから、正社員はもっと削られる。
・賃金はもっと削減される。


サラリーマンをやっている人間は、もはや一部分の人間しか生き残れないことになる。グローバル化の本質を考えると、どうしてもそのような動きになってしまうからだ。

すべては賃金の安い国へと仕事が流れていく。

それが中国であり、インドであり、東南アジアだったのだ。


大量のコマーシャルを流して、その文化の中に浸透

この中で、中国とインドはよく特別化されることが多いが、それは理由がある。

最も大きな理由は「人口」だ。これらの国は安い労働力を使えると同時に、支払った賃金で潤うと、人口の多さがそのまま販売の市場につながっていく。

中国とインドはこの2国だけで人口は26億くらいで地球上の人口の40%ほどを占めているから、市場としての魅力は抜群である。

そのためには、この国に巣食う貧しい人達がもう一段階豊かになる必要もある。

それで労働コストが上がったのであれば、今度はバングラやアフリカが「世界の工場」になって、そこで作ったものを中国やインドに売るという流れになる。

多国籍企業は新興国に大量のコマーシャルを流して、どんどんその文化の中に浸透している。

まさにその動きこそがグローバル化の動きであって、これがアジアを強制的に変化させている原因だ。

アジアの文化に浸ってのんびりしたいと思っていたら、アジアの姿がどんどん変わって取り残されてしまう。


その背景には、多国籍企業の顔がちらつく。

古き良きアジアは、もはや幻想の中にしか存在しない。

______

なぜ「日本文化はいずれ死ぬ」と断言することができるのか

私たちは自国を愛しており、自国の文化、自国の言語、自国の歴史を愛している。これは誰でも心に持っている気持ちであり、国を大切にする気持ちは決して消えることはない。

しかし、「自分の国を大切に思う」という気持ちは、これから次々と踏みにじられることになる。これは現代社会の大きな方向性として、知っておくべきだ。

「自分の国を大切に思う」というのは、グローバリズムに反するものだからだ。グローバリズムは、国を消失させる動きであることは、もう誰もが気付いている。

グローバル化は文化を破壊し、最終的に国を破壊する。

そうなる理由は簡単だ。文化がそれぞれの地域で違っていると、ローカライズするのにコストがかかるからだ。

文化が違っていると、文化に合わせなければならない。「合わせる」というのが多国籍企業にとってコストであり、不確定要素になる。

国家がなくなり、文化が均質化すれば、全世界で同じ物を売ることができて、全世界に支配権を得ることができる。


独自文化は破壊される方向性にあることを認識せよ

グローバル化にとって、独自文化は邪魔だ。理解できないし、ローカライズには手間がかかるし、無視すれば市場をとりこぼすことになるからだ。

だから、私たちは気が付かなければならない。

グローバル化がこれからも進むのだから、「独自文化は破壊される方向性にある」ことを。もっとはっきり言うと、こういうことになる。

「日本文化は必ず破壊される」
「日本人は日本のものではなくなる」

日本だけではなく、すべての国がそうなる。欧米ではすでに多文化主義が執拗に推進されている。

移民が続々と入り込み、人種が地域文化に馴染まないで混乱し、国内で大きな混乱が起きているにもかかわらず、それは粛々と推進されている。

ドイツでも、イギリスでも、フランスでも、オランダでも、ノルウェーでも、すべての国でまったくブレることなく多文化主義が推し進められている。

もちろん、こういった多文化主義に反対し、「独自文化を守れ」という動きは市民の間から大きな声となって湧き上がっているのは言うまでもない。

世界各国で、次々と保守政党が立ち上がって支持されている。

しかし、こういった移民排斥の運動は、世界中で「差別主義者」のレッテルを貼られる。そして、その政党は「極右団体」と称され、グローバル・メディアによって徹底的に糾弾されて、叩き潰されていく。
http://www.bllackz.com/2013/10/blog-post_20.html?utm_source=BP_recent
18:777 :

2023/06/18 (Sun) 11:58:21

【施 光恒】「企業担当制」という約束 2015/04/03


少し前の話になりますが、3月17日に政府の審議会「対日直接投資推進会議」は、海外から日本への投資拡大のための「5つの約束」というものを発表しました。

海外からの投資を呼び込むため日本は下記の5点について努力しますと、外国政府や外国企業に対して約束したのです。

「海外企業の対日直接投資加速へ 政府が5つの約束を決定」(FNNニュース 2015年3月18日配信)
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00288394.html


5つの約束とは、次のものです。(政府発表の文章、そのままです)。

(1)百貨店・スーパーマーケット・コンビニエンスストア等で外国語で商品を選んで買い物をいただけるよう、病気になったときも外国語で安心して病院で診療いただけるよう、車や電車・バスで移動する際も外国語表記で移動いただけるようにします。

(2)訪日外国人が、街中のいろいろな場所で、我が国通信キャリアとの契約無しに、無料公衆無線LANを簡単に利用することができるようにします。

(3)外国企業のビジネス拠点や研究開発拠点の日本への立地を容易にするため、すべての地方空港において、短期間の事前連絡の下、ビジネスジェットを受け入れる環境を整備します。

(4)海外から来た子弟の充実した教育環境の整備を図るとともに、日本で教育を受けた者が英語で円滑にコミュニケーションが取れるようにします。

(5)日本に大きな投資を実施した企業が政府と相談しやすい体制を整えます。また、日本政府と全国の地方自治体が一体となって、対日投資誘致を行うネットワークを形成します。

(上記の「5つの約束」の詳細については下記のサイトをご覧ください)。
「内閣府 対日直接投資推進会議」HP
http://www.invest-japan.go.jp/promotion/

いかがでしょうか。

まあ、なんか情けないですよね。最初の(1)の「買い物をいただけるよう…」とか「外国語表記で移動できるよう…」なんて日本語の文章自体がどこかヘンになっていますし…。
(・_・;)

それに、こういう「国際公約」を作る最近の政治のやりかた、私は、気に入りません。

日本国民に周知する前に、「5つの約束」を外国や外国企業に対して発表し、既成事実を作っていくというのは、言うまでもなく、民主政治に反しています。

「5つの約束」について問題にしたい点は多々あるのですが、今回は、「企業担当制」の創設についてです。上記の約束(5)の一環として作られる制度です

(「企業担当制」については、先月、産経新聞の九州・山口版の拙コラムでも扱いました。そちらもご覧ください。)
「企業担当制 自国民保護へ十分な監視を」『産経新聞』(九州・山口版)(平成27年3月12日付)
http://www.sankei.com/region/news/150312/rgn1503120044-n1.html

この「企業担当制」とは、「海外から日本に重要な投資をする企業には、安倍内閣の副大臣や政務官を相談相手につける」という構想です。外国企業からさまざまな要望を直接聞き、進出しやすいように各種の便宜をはかるというのです。

この構想、ちょっとヘンだと思いませんか。

あからさまに、日本の政権の高級幹部と海外の大企業が結託し、企業に様々な便宜をはかるよう御用聞きしますよ、ということですので。

普通、政治と企業とが近い関係にあれば、注意が必要です。一般国民の利益ではなく企業の利益が優先されるのではないかと、マスコミなどは警戒します。

また、外国勢力が、日本の政治に影響を及ぼすことにも、通常は注意が促されます。

実際、日本の政治が、外国の政府、企業、個人からの影響のため、国民本位でなくなってしまうことを恐れ、そうならないように各種の規制がかけられています。

外国人の政治献金が禁じられているのも、放送局に外資規制がかけられているのも、また、外国人の参政権を認めるべきでないのも、政策が外国の影響を受け、国民本位でなくなってしまう事態を避けるためにほかなりません。

「政府と企業の癒着の恐れ」、「外国勢力から影響を受ける恐れ」という二つの懸念があるのに、「企業担当制」については、マスコミは、ほとんど批判していないように思います。なんか不思議です。もうちょっと警戒心をもって報じてもいいのではないでしょうか。

「グローバル化」の一環だから、ということで、批判の矛先が鈍っているのではないかと懸念します。

確かに、海外からの投資は、株価を引き上げたり、雇用を生み出したりするプラスの効果もあります。

しかし、グローバル化の進む現代の経済においては、グローバルな投資家や企業の利益と日本の一般国民の利益が必ずしも一致するとは限りません。

周知の通り、現在の日本はデフレ継続中です。したがって、国内市場ではモノが売れません。日本企業でさえ、投資を手控えて、内部留保をため込んでいるのが現状です。

日本企業でさえ投資を手控えるほど日本市場は稼ぎにくい状況にあるのに、「海外企業を呼び込んできたい、そのための口利きを政府の高級幹部が直接行おう」ということですから、「企業担当制」では、おそらくいろいろな「サービス」が行われるはずです。

グローバル企業に有利で、たいていの場合、日本の一般国民には不利な「サービス」です。

おなじみのものとしては、例えば、法人税の減税でしょう。

グローバル化時代の税制の基本原則は、「国境を超えて移動できる企業や投資家、富裕層には甘く、国境を移動できない一般庶民には厳しく」です。この基本原則に忠実な税制が「海外企業からの要望」、「投資を呼び込むために必要」という言い訳のもと、ますます整備されていきそうです。

他の「サービス」としては、「岩盤規制の打破」です。周知の通り、政府は、「エネルギー、医療、農業、雇用、教育」などを「規制産業」と称して、これらの分野の規制緩和を行うと繰り返し強調しています。

しかし、これ、日本の一般国民の生活という観点からすれば、結構恐ろしい話です。

これらの分野は、いうまでもなく国民生活の根幹です。「人々の生活の基盤となるので、あまり直接的に市場原理を導入してはならない」ということで、これまで政府や自治体が監督してきた部分が大きいわけです。

それなのに、そういう経緯をきれいさっぱり忘れ、最近は「既得権益」をぶっ壊して、市場原理にさらすぞ! それこそ前向きな改革なんだ!!と、安倍政権は、躍起になっています。

企業からすれば、国民生活の根幹に関わる「エネルギー、医療、農業、雇用、教育」などは、デフレでもとても「稼ぎやすい」領域です。

人々は生活が苦しいときでも、電気やガス、水道などのインフラは使いますし、医療も受けます。食品も買わなければなりません。教育についても、不況下でも、なるべくよい教育を子供に受けさせたいというのが人情です。

デフレの渦中にあっても、この領域であれば、企業は、安定したビジネスが期待できるわけです。

市場として国際的にみても非常に大きく、またデフレだろうがなんだろうが安定的に稼げる日本のこの種の領域に、グローバル企業は、参入したくてたまらなかったわけです。

「企業担当制」では、これらの領域のいっそうの規制緩和も海外企業から要望されるでしょうし、政府のほうも、「海外企業や投資家の皆様にご満足いただけるよう」それに応えていくのでしょう。

昨日(4月2日付)の日経新聞の第一面は、「裁量労働制の対象拡大──金融やIT、専門知識持つ法人営業職に」という労働規制緩和に関する記事でした。
http://www.nikkei.com/article/DGKKASFS01H51_R00C15A4MM8000/

これも、「岩盤規制の打破」の一環です。「雇用」分野の規制緩和です。

「企業担当制」ができた暁には、グローバル企業と日本政府高官との間にホットラインが敷かれるわけですから、この種の変革がさらにどんどん進められるようになるはずです。

日本人は、「外国人からこれこれの要望がある」という議論に大変弱いですからね。国内の議論ではなかなか進まなかった各種「改革」も、「企業担当制」という御用聞き制度からあがってきた要望と絡めることによって、結構簡単に実現するようになっていくのではないでしょうか。

また、「企業担当制」では、グローバル企業と政府高官や中央省庁とのホットラインだけではなく、事実上、各地の自治体とのホットラインも作られます。

政府は、各自治体間で、海外から投資や企業を引き込んでくるための競争をさせたいのでしょう。一種の「御用聞き競争」になりそうです。「法人税引き下げ競争」とか「規制緩和競争」、「補助金あげる競争」、「外国人向けの病院や学校などの施設を日本の税金で作る競争」など、グローバル企業やその従業員に便宜をはかる競争が行われそうです。
(+_+)

ホント、現在の日本では、「グローバル化」というのは、我々の通常の感覚を麻痺させる一種の「マジック・ワード」として機能しているように思います。

企業と政府が直結してしまう危険性がマスコミなどにほとんど指摘されず、スルーされてしまっているわけです。

「グローバル化」の名のもとに進められる各種「改革」提案に、もう少し警戒心をもってもいいのではないでしょうか。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2015/04/03/se-56/
19:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:01:13

チェスタトンの外国語論 早期英語教育は有害
グローバリストの奴隷育成

  文部科学省の中央教育審議会で子供に英語教育を施す環境作りを議論しているそうだ。(『日本の議論』「英語」は本当に必要なのか / 産経新聞 2014年12月20日) 平成28年度にも改定される新学習指導要領では、小学生高学年から英語が科目として導入されるんだって。高校生には英語で討論や交渉力を高めるような教育方針にするという。まったく役人ってのは、どうして余計なことだけでなく、邪魔な改定をするのだろう? 小学生に英語教育など不必要だし、他の教科の時間を削るから有害である。どうせ現場の教師はてんてこまいになって、やる気のない子供は無理強いされてふくれっ面するだけだ。多少興味を示す子供だって、たかが数時間の授業だから挨拶程度でおしまい。すぐペラペラ喋れると期待した子供は授業に失望するだろう。かくして英語の授業はお遊戯の時間となって、子供の学力はみるみる低下するだけ。したり顔のお役人様にいい英語を教えましょう。
Bloody fool, arsehole ! (アホんだら)

  文部官僚や学校教師は立場上の損得勘定をしているから脇に寄せといて、肝心の子供はどのような意見をもっているのか。ベネッセが6200人にアンケートした調査によれば、中高校生の90パーセントが仕事で英語を使うようになる、と予測していることが分かった。テレビや雑誌、学校などで英語の必要性が宣伝されているから当然だろう。しかし、「自分自身が英語を使うイメージがあるか」との問いに対しては、中学生44パーセント、高校生46パーセントが「ほとんどない」と答えたそうだ。具体的な仕事に就いていない生徒に、切迫した現実的必要性はないだろう。

  ところが、英語教育を推進したいのは財界だ。経団連からやって来た三宅龍哉委員は、海外に社員を派遣するときに企業が英語教育をせねばならぬ、と不満の意見を述べた。要は企業が英語教育費を負担することになるから、学校の方(税立施設)で費用と時間を持ってくれ、と要求しているのだ。虫のいい提案だろう。

  もっとけしからんのは、元入試センター教授の小野博・福岡大学客員教授だ。小野氏は「社会情勢の変化により日本企業のアジア進出が更に拡大したり、逆に移民を受け入れるなど、今後日本社会は変化を余儀なくされる可能性が高い。英語は必ず必要になる」と断言したそうだ。こういう馬鹿が教授になっているのだから、いかに大学が堕落しているか分かるだろう。イギリス人が日本に移住してくるわけがなく、おもに英語圏のアジア人を想定しているのだろう。たとえば、フィリピン人のためにどうして我が国の子供が英語を勉強せねばならぬのか。フィリピン人が移民せぬよう防ぐことの方がよっぽど重要である。「社会情勢の変化」という“まやかし”の言葉を用いるところなど、小野氏には如何にも詐欺師的匂いがする。まるで彼は国境を破壊してアジア人を引き入れようとするグローバリストの手先みたいだ。

  小野氏のような腰巾着を登用する財界と役人は、日本人労働者の生活水準をアジア人並(つまり奴隷状態)に下げて、低賃金でこき使いたいだけだろう。そのために小学生から低賃金労働者にすべく、税金を使って調教しようとする肚は見え透いている。国際企業にとりアジアはリスクが高い。社会インフラが貧弱だったり、政情不安で暴動を気にせねばならない。せっかくの投資がパーになったら大変だ。安全で便利な日本で製品を作りたい。日本にインドやシナ、フィリピンから安い労働者を輸入して、利益を最大限まで上げたい。その時、日本人労働者がアジア人と共同して作業できるために、共通語たる簡単な英語が必要なだけだろう。その英語だって簡単な単語を並べて、お互いに推理しながらの意思疎通だ。

  じゃあ聞くが、英語を社員に強要する社長や重役たちは本当に英語で会話しているのか? そんなに英語力が重要なら、英米の有能人物を雇えばよいだろう。そんなこと言ったらお偉方は沈黙。つまり、自分たちは“日本人社員”に向かって、“日本語”で言いたい放題の指図をしたいが、社員どもは雑談でさえ英語を使えと命令するのだ。ユニクロや楽天の社員はどう思っているのだろうか? 日本語では傲慢な態度の重役らは、英米の白人社員の前だと、そのお粗末な英語を披露せねばならぬから、態度が急変して作り笑顔になることがよくある。彼らは同期の重役仲間とは、日本語で会話しながら“のびのびと”ゴルフを楽しむ。ゴルフ場が会議室。英語で雑談などしない。二極分化している日本では、上流階級の子弟は、進学校で英才教育を受けながら日本語で会話をし、低能教育しか受けていない低賃金労働者は、社会の底辺から抜け出せぬ人生を送り、職場ではブロークン英語を強要される仕組みが出来上がる。

怨みのこもった英語教育熱

  日本人が「英語だ、英会話だ」と騒ぐ原因は、多くの国民に学校での英語教育に対する怨みがあるからだろう。十年間くらい勉強したのに、イギリス人やアメリカ人の前でちっとも流暢に喋れないどころか、外人の話を聴き取ることすらできない。そうした若者が親になったら、自分の子供だけは違った教育で英語を流暢に話せるようにさせたい、などと決意して欧米系のインターナショナル学校に入れたりするのだ。勉強が出来なかった親に限って、お金で環境さえ整えれば我が子は自分と違った秀才になると思っていやがる。ばぁーか。蛙の子はカエルだ。日本では英語が喋れるくらいで、自慢になり仕事がもらえる。日テレで英語を披露していた関根麻里という藝人(何の藝かな?)は、米国なら単なる小娘だからテレビに出られない。オヤジの関根勤のほうがよっぽど外国で通用する。だってカマキリ姿でギャグをする藝人の方がアメリカ人にとって面白い。(若きラビット関根の十八番。ただし娘の番組は一度しか観ていないので詳しく語れない。ゴメンなさい。) つまり、子供にはまづ中身のある教育を施し、立派な日本人に育てることが優先事項である。

  元NHKワシントン特派員だった日高義樹の英語なんて酷かった。テレビ東京のレギュラー番組で、ヘンリー・キッシンジャーにインタヴューしたとき、日高氏は、たんに自分の英語を自慢したいがために、通訳を附けずに対談していた。もともと教養がない日高氏が、不慣れな英語を使って鋭い質問など出来るはずがない。台本通りの質問を得意げに吐いていたから、視聴者はつまらないし、どうでもよくなってシラケてしまう。日高のアホは英語より先に政治や歴史を勉強しろ。むかしソニーが輝いていた頃、盛田昭夫会長の話は傾聴に値するものだった。彼の英語は拙(つたな)くても、思わず聞きたくなるようなモノだった。盛田氏の個人的魅力があったからかも知れないが、彼は米国で信念と情熱を込めて中身のある議論を交わしていたのだ。対話しているアメリカ人は、極東アジアから来た英語を喋る九官鳥ではなく、背骨の通った日本の国士を相手にしていたのである。

  つい最近、エアー・バッグ製造のタカタが、缺陷(けっかん)製品のリコール問題で社長が米国の公聴会に召喚され弁明していた。しかし、彼の英語はどちらかと言えば下手で、筆者は大企業の社長でもこの程度かと思った。(詳しく言えば、話す英語にリズムや強弱がないのだ) 大切なのは弁明の中身であり、誠意を示す表現なり態度である。見え透いた嘘を流暢な英語で語っても、アメリカ人は感心しないのだ。個人的魅力がない日本人がいくら英語を喋っても、そのへんのパンク野郎か乞食と同じだろう。日本人は人格形成を蔑ろにして、簡単な英語で空虚な会話を習得しようとしている。せっかく英語を習得したのに、アメリカ人から「へぇー、英語上手ね。あんた香港からの支那人?」て尋ねられたら、日本人は「何を無礼者」と怒るだろう。語学より大切なことがあるのだ。

英語学習より英国史が先

  数学教育についても言いたいことがあるが、今回は語学教育に限って述べたい。日本人が英語を勉強するときには、何らかの目的があってのことだろう。子供はいったい英語で何がしたいのかがはっきりしないまま、学校で英語を詰め込まれるのだから、英語嫌いになって当然だ。日本の公教育は子供に勉強が嫌いになるようプログラムされている。「そんなこととないぞ。こっちとら、一生懸命頑張ってるんだ」と教師は反論するだろう。でも、スクールがギリシア語の「スコラ(σχλη)」から由来することは周知の通り。つまりギリシア人は日常の雑用や仕事を奴隷にやらせて暇だから、みんなで集まって宇宙や地球の構造や摂理を探求するといった趣味に興じていたのだ。だから、幾何学や哲学、論理学といった学問をあれこれ討論しても、定期テストや入試なんか持ち出さなかった。もちろん最低限の基礎知識は必要だ。まったくの素人では議論にならない。ただ、船大工なら親方が新入り職人をテストすることはあっても、プラトンやソクラテスが哲学の議論で仲間に学期末試験なんて課さない。謂わば「オタク族」の集まりにそんなの要らないのだ。しかし、現在の学校では、子供を将来の労働者にすべく、効率的に職業訓練を施したいから、実力試験を課して達成度を測りたいのである。食肉にされるブロイラーが餌と抗生物質で効率的に飼育されるのと同じ要領。家庭で日本語を話している小学生や中学生が、いきなり外国語を強要され、試験でランクづけされたあげく、もっと勉強しろと命令されたら楽しいはずがない。一週間にたった数時間の授業で文法(syntax/grammar)や発音が全く違う言語を習得するなど無理。苦痛のみが増幅するだけだ。一方、ヨーロッパ人にとって英語は姉妹語だから簡単(gravy)である。

chesterton 1  ここで、英国の有名な偉人ギルバート・K.・チェスタトン(Gilbert Keith Chesterton)を紹介したい。筆者も大好きなイギリス人批評家で、日本でも人気の高い碩学の知識人である。チェスタトンは『デイリー・ニューズ』紙に『歴史VS.歴史家』という文章を掲載した。若いときに彼は、「学校に通っている児童には歴史のみを教えるべし」と喝破した。(G.K.Chesterton, History Versus the Historians, Daily News, 25 July, 1908, in Lunacy and Letters, ed. by Dorothy Collins, Sheed & Ward, London, 1958, pp.128-129) チェスタトンが暴論に思えるような意見を述べたのは、当時の古典科目ではラテン語の習得は必修であったからだ。そしてラテン語の教授方法に苦言を呈したのである。「少年は単にラテン語を学ぶだけではラテン語の重要性は分からぬ。しかし、ラテン人の歴史を学ぶことで、それが分かるであろう。」とチェスタトンは提案したのだ。(ラテン人とはローマ人を指す。)

  さすがチェスタトンの炯眼(けいがん)は鋭い。彼が言うには、アウステルリッツ(Austerlit)という地名を地理の授業だけで覚えることはナンセンスだ。単なる計算を学ぶ算数の授業だって同じこと。しかし、フランス皇帝ナポレオン1世が、アウステルリッツでオーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝フランツ2世)とロシア皇帝アレクサンドル1世を相手に干戈(かんか)を交えた一大決戦(Bataille d'Austerlitz)となれば話が違う。子供だって大物武将三人が睨み合った三帝会戦(Dreikaiserschlacht)なら、教師の話を手に汗握って聞き入るだろう。日本の子供も桶狭間の戦いや川中島の合戦の話は面白い。弱小藩の織田信長が“海道一の弓取り”今川義元の首をとった逆転劇はスリル満載。智将の上杉謙信と猛将の武田信玄がぶつかった戦の講談は大人だって楽しい。砲兵出身の名将ナポレオンが計算をしたり、地図を見ながら策を練る姿を聞けば、子供たちも地理と算数に興味が沸くだろう。

  チェスタトンは一件無味乾燥な科目でも、その背景を教えてもらえば、子供が“知的好奇心(intellectual curiosity)”が芽生えることを指摘しているのだ。幾何学が嫌いな生徒でも、十字軍のロマンティクな物語やサラセン人の世界を知れば、そのへんてこな数字の羅列に興味を示すかも知れない。(ギリシアの「幾何学Algebra」は中東アジアを経由して西洋に導入されたから。) 英語では「何が何だか分からぬ(It's Greek to me.)」と表現して、ギリシア語などイギリス人には「ちんぷんかんぷん」だろうが、ギリシア人の文化藝術を知れば、その難解な言語を学びたくなる。チェスタトンは、「歴史はすべての学問を、たとえ人類学でも人間臭くする」と言う。「人類学」を人間に親しみのある学問にするとは、いかにもチェスタトンらしいヒューモアだ。

  日本人が外国語習得について考えてみれば、おかしな事に気づくだろう。朝鮮を統治していたのに朝鮮語を喋れる半島在住の日本人(内地人)がほとんどいなかった。朝鮮総督府の役人でさえ、朝鮮語を学ぼうとする者が滅多にいなかったのだ。理由は簡単。馬鹿らしいから。朝鮮人なんて不潔で下劣な民族の言葉をどうして一流国の日本人が学ぶ必要があるのか。初めて見る糞尿だらけの極貧国に、日本人が憧れるような文化はない。朝鮮に渡った日本の知識人だって、儒教を朝鮮人から学ぼうとは思わなかった。小便さえ自分でしなかった両班の姿を見れば笑ってしまうだろう。日本人にはアカンタレと乞食が何を話そうが興味ない。ロシア語なら陸軍将兵も必要を感じたから学ぶ者がいたし、ドイツ語は尊敬するドイツ陸軍とドイツ文化の言葉だから、強制されなくても日本人は進んで学んだのである。現在、支那語に人気がないのは、支那人を見れは納得できる。だって、支那人と話して嬉しいのか?

  我々日本人が英語を学ぶときは、まづ英国史を勉強すべきだ。特殊な職業を目指す子共は別だが、語学能力を本業とせぬ一般の日本人は、イギリス人が如何なる歴史を送ったのか、どんな功績を残したのか、彼らはなぜ大帝国を築くことが出来たのか、などを知るべきだ。そして興味をそそられた者が、イギリス人を自分で理解するために英語を専攻すべきだ。大学入試のためだけの英語とは違い、そこにはイギリス人が感じた事を彼らの言葉で自分も感じることができる喜びがある。こうした語学勉強なら一生続けられるだろう。「ハロー、レッツ・スピーク・イングリッシュ」なんて謳う幼児英会話教室は要らない。
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20:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:02:09

グローバル企業が支援する愚民か政策 / 怨念を動機にする英語教育 (part 2)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68691561.html
「お遊び」としての英語教科

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(左: 『個人教授』でのナタリー・ドロン / 右: 実際に英語を教える教師 )

  教育改革の理念はご立派だけど、実際、学校側はどのような「英語教育」を行ってきたのか? 「小学校英語活動実施状況調査」によると、公立小学校の総合学習において、約8割の学校が英語活動を実施しており、特別活動等も含め何らかの形で英語活動を実施している学校は、93.6%に及んでいるそうだ。第6学年では、英語活動を実施している学校のうち、97.1%が「歌やゲームなど英語に親しむ活動」を行い、94.8%が「簡単な英会話(挨拶や自己紹介など)の練習」に取り組んでいるという。また、73%が「英語の発音の練習」を行っているそうで、年間の平均授業実施時数は、第6学年で13.7単位時間(1単位時間は45分)であるらしい。


  「英語の授業」といっても、外人教師が子供たちと一緒に歌ったり、大袈裟なジェスチャーで挨拶する程度なんだから、実質的には「遊びの時間」である。文科省は具体例を挙げているので、ちょっと紹介したい。


  ① 例えば、自分の好きなものについて話すという言語の使用場面を設定して、実際に英語を使って、自分が好きな食べ物について話しあったりする(コミュニケーション)。その際、国語科の内容とも関連させながら、日本語になった外国語にはどのようなものがあるかを学習する(言語・文化理解)。また、apple, orangeなどの単語を通して英語の音声に触れてみたり、I like apples.などの表現例を使ってみたりする(スキル)。


  ②例えば、友達を誘うという言語の使用場面を設定して、実際に英語を使って、自分が好きな遊びに友だちを誘ってみる(コミュニケーション)。その際、日本の遊びと世界の遊びについて比較対照してみる(言語・文化理解)。また、ohajiki, baseballなどの単語を通して英語の音声に触れてみたり,Let's play ohajiki.などの表現例を使ってみたりする(スキル)。

  もう、論じることすら馬鹿らしくなる。確かに、小学生なら教師の言葉を真似て、上手に「アップル」とか「オレンジ」と発音できるだろう。しかし、自分が欲する事や感じた事をそのまま文章にできまい。「リンゴが好き !」といった簡単な文章なら英語で表現できようが、気に入った服や玩具を買ってもらいたい時など、“微妙”な呼吸を必要とする場合には、慣れ親しんだ日本語となるだろう。例えば、母親と一緒に百貨店を訪れた少年が、「ねぇ、ママ、僕、あのオモチャがおうちにあったら、毎日ママに見せてあげられるんだけどなぁ」とねだることもあるし、父親に連れられた娘が「パパ、私このお人形が前から欲しかったんだけど、クリスマスまで我慢するね」と哀しそうな目をして、暗に買ってくれとせがむこともある。(賢い子供なら、“こっそり”とお爺ちゃんやお婆ちゃんに「おねだり」を考える。なぜなら、こうした小悪魔は祖父母が孫に甘いことを熟知しているからだ。) 子供は一番便利な言葉を選んで生活するものだ。両親が日本人なら、いくら学校で英語を学んでも無駄である。子供は親に向かって日本語を話すし、親の方も日本語で答えるはずだ。

特に、子供を叱る場合、「こらぁぁ、何やってんの!! そんなことしたらダメぢゃない !」と言うだろうし、オモチャを買ってくれとせがまれた時も、「泣いたってアカンで。無理なもんは無理や !!」と日本語で却下するだろう。したがって、日常会話の80%ないし99%が日本語なら、学校の授業なんか焼け石に水である。

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(左: フィリピン人の女中 / 右: ベイナム人の労働者 )

  「外国語専門部会」のメンバーは、机上の空論を弄ぶ連中だから単なる馬鹿ですまされるが、その方針を支持する経済界の連中には用心が必要である。彼らは「グローバル化に伴う英語の重要性」を看板に掲げているけど、本音ではアジア人労働者と一緒に作業が出来る日本人を求めているだけだ。英語を用いてコミュニケーションをはかる相手とは、教養と財産を持つ西歐白人ではない。稚拙な英語教育で低脳成人となった日本人は、工場や下請け企業でアジア系従業員と同列になり、カタコトの英語で仕事をする破目になる。大手企業が輸入するフィリピン人やマレー人、ベトナム人、支那人などに日本語を習得させるのは困難だから、簡単な「共通語」を職場の言葉にする方がいい。英語なら多少発音がおかしくても通じるし、移民労働者も多少の予備知識を備えているから、日本人の現場監督でも何とかなる。「グローバル化」と言えば響きが良いが、その根底には、日本人に対する待遇をアジア人並に引き下げ、低賃金労働者としてこき使おうとする目論見は明らかだ。子供の将来を案じ、私塾にまで通わせる日本人の親は、我が子をフィリピン人並に育てるべくお金を払っている訳ではない。しかし、お遊びの英語教育を受ける子供は、数学や理科、国語などの授業数を削られるから、総合的な学力低下は避けられず、卒業してから就く仕事は限られている。だいたい、望んでもいない低級な職種とか、厭々ながらの職業に就いた若者が、やる気と向上心を持って働くのか? 職場意識の低下は明らかだ。

どんな外人を雇うのか ?

  もう一つ、英語教育改革に伴う問題として挙げられるのは、どうやって充分なALT(Assistant Language Teacher / 外国語指導助手)を確保するかである。現在、英語の授業は日本人の教師に加えて、英語圏からの補助教員を用いて行われているから、各地方自治体は適切な外人のリクルートに手を焼いているそうだ。ベネッセ教育総合研究所の調査によれば、教育現場は英語を専門とする講師や、日本語がある程度話せるALTを獲得したいそうだが、実際のところ、こうした外人は稀で、日本人教師との意思疎通が困難なうえに、授業の打ち合わせができない。しかも、ALTが2、3で交替してしまうし、ALTによって方針や態度が違いすぎる。もっと悪いことに、指導力が身についていないALTが多いという。これは教師でない筆者も想像ができる。英語を話すアメリカ人やオーストラリア人だからといって、外国人に英語を教える能力があるとは限らない。日本語は文法や語彙、発音の点で英語と全く異なる。とりわけ、日本語を話す子供を相手にする場合、相当な根気と熱意が必要で、教育技術の無い外人を雇ったってトラブルが増すだけだ。もし、日本人教師がサウジ・アラビアに派遣されて、現地の子供に日本語を教える破目になったら、一体どのような事が起こるのか? 想像しただけで恐ろしくなる。

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(写真 / アジアへ派遣された英語教師 )

  充分な外人ALTを確保する場合、自治体が負担する費用も馬鹿にならない。仮にも教師だから、渋谷とか新宿で見つけた不良外人を雇うわけにも行かないので、多くの学校はJETプログラム(外国語青年招致事業 / The Japan Exchange and Teaching Programme)に頼んで、外人教師を斡旋してもらうことになる。しかし、上質な人材を招致するとなれば、それなりの給料や恩給を約束しなければならないし、待遇だって日本人以上に設定しないと承諾されない場合もあるだろう。小さな地方公共団体だと予算不足に悩んでいるので、ALTへの住居手当とか出張費を考えると頭が痛い。こうなれば、民間企業に頼らざるを得ないし、人材派遣業者だって甘い言葉を囁いてくる。ALTの増加要請は、地方自治体にとって財政的なピンチだが、「口入れ屋」にとっては儲けるチャンスだ。海外で安く仕入れた「外人」を日本に輸入して高く売りさばく。これを大手の人材派遣会社が全国展開のビジネスにすれば、大きな利鞘を得ることになる。ついでに不動産屋と結託し、外人教師の住宅もセットにすれば、更なる利益を摑むことができるだろう。

  一方、予算の確保に困った地方の役人は、まず中央に泣きつくから、巨額な補助金が各地に流れることになる。気前の良い中央官庁がバックにつけば、学校側は外人教師に高給を渡すことができ、口入れ屋もピンハネ額が多くなってニコニコ顔。これって、何となく、バイシュン婦を斡旋する女衒(ぜげん)みたいだ。例えば、日本の派遣業者が不景気なアイルランドを訪れ、適当な「教師」を物色したとする。教師としての資質が不充分でも、英語を話す白人を物色できれば、日本で高く販売できるから、多少、交渉金が釣り上がっても採算が合う。どうせ庶民のガキに歌や絵本を教えるだけの「補助教員」だから、教養とか品格は問題じゃない。結局、損をするのは、「お遊び」の英語に時間を費やし、気位だけが高い愚民へと成長する子供たちと、巧妙に税金を吸い取られる親の方である。

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(左: 英語を話す黒人女性  / 右: カナダの白人女性 )

  凡庸な外人ALTをあてがわれる事態となれば、子供を預ける親も心配になるが、子供の方にも別の不満が募ってくる。学校教師は言いづらいだろうが、外人教師の人種や容姿が問題となるからだ。極端な例だが、もしAクラスを担当する外人ALTが金髪碧眼の若いイギリス人女性で、Bクラスを受け持つALTがブリテン国籍者なんだけどジャマイカ系の黒人男性であったら、どんな反応が起こるのか? もちろん、両者も英国で言語学を専攻し、教員免許を持っている。しかし、Bクラスの子供たちは、Aクラスの生徒を羨み、「僕もAクラスの先生がいい」とか「Aクラスの方に移りたい」と言い出す。さらに、保護者からも「どうしてBクラスはイギリス白人の先生じゃないの?」と抗議が来る。

  英語の教師を探す場合、イングランドやアメリカだけではなく、カナダとかオーストラリア、アイルランドも募集地となるが、事によってはインドやエジプト、ケニア、フィリピンだって候補地となり得る。外人講師への出費を抑えようと思えば、アジアかアフリカ出身者の方がいい。でも、子供たちの反応を考えれば、ブリテン連邦や北米出身の白人教師の方が“適切”と思えてくる。あり得ないことだけど、もし中学校の英語教師をイングランドから招くなら、ケンブリッジ公爵夫人となったキャサリン・ミドルトンのような女性の方が好ましく、やがでヘンリー王子と結婚するメーガン・マークルのような黒人女性じゃ二の足を踏んでしまうじゃないか。

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(左: キャサリン妃 / メーガン・マークル / エリザベス女王 / 右: フィリップ殿下)

  確かに、どちらも心優しい女性であるが、マークル氏がイギリス文化を解説するなんて、ちょっと抵抗がある。イギリス系のカナダ人が教えるんなら納得できるけど、支那系とかアフリカ系のカナダ人だと遠慮したい。やはり、英国の言葉や風習を教えてもらうなら、先祖代々イングランドに暮らすアングロ・サクソン系のイギリス人の方がいいし、パキスタン移民3世とかインド系帰化人5世の教師より、オランダ系やドイツ系の移民2世の方がマシだ。何しろ、イングランド王国では女王陛下がドイツ系だし、フィリップ殿下はギリシア出身のドイツ系貴族で、スコットランドのエジンバラ公爵になっている。日本の皇室とは大違いだ。

  ベネッセ教育総合研究所が行ったアンケートに、「英語教育で重要なこと」という項目があり、そこでは外国人との交流に関する質問があった。「とても重要」と答えた人は英語教育賛成派で55.4%を占め、反対派でさえ30.7%であった。最重要とは言えないが「まあ重要」と答えたのは、賛成派で41.6%、反対派では54.9%であった。ということは、賛成派と反対派を問わず、多くの人が外国人との交流に何らかの重要性を見出している訳で、子供たちが進んで外国人に接することを期待していることになる。だが、話しかける相手が西歐白人ではなく、イングランドに移り住んで来たインド人やパキスタン人、トルコ系帰化人の2世や3世、あるいはブリテン国籍を持つアラブ系イスラム教徒であったらどうなるのか? イギリス人とは思えない容姿の教師を前にして、日本の子供たちが積極的に話しかけ、英語やイギリス文化に興味を示すとは思えない。

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(左: インド系男性 / 中央: 英国のジャマイカ人女性 / 右: ムスリム男性 )

  もし、帰宅した息子に母親が、「今日、英語の時間はどうだった?」と尋ね、「う~ん、別に」といった返事だけしか得られなかったら心配になる。それに、問い詰められた息子が、「あんまり面白くない」とか「あの先生イヤだ」と呟いたらどうするのか? 具体的な将来設計を描けない小学生は、教師によって好き嫌いができてしまい、好きな先生の授業なら喜んで学ぼうとするが、気に入らない教師に当たるとガッカリする。ある心理学の実験によれば、幼児だって美女を見ると自分から抱きつこうとするらしく、ブスだと顔を背け、抱きつこうとしないそうである。幼い子供は理性でなく本能で行動するから、大人は冷や冷やするらしい。こうした行動様式はともかく、高額所得者の親を持つ子供は有利だ。お金持ちの保護者は自由に私立学校を選択できるし、優秀な講師を揃えた英語塾にも通わせることができる。しかし、低所得の家庭だと公立学校へ通わせることしかできない。つまり、「選択肢」の無い親子は、どんな学校でも我慢するしかないのだ。

  「日本の学校における教育理念とは何なのか」については様々な意見があるけれど、「立派な日本国民を育成する」ということに関しては、異論はあるまい。いくら英語を流暢に話して歐米人と対等に議論できるといっても、外国人に対して卑屈なら日本人としては失格だ。英語を習得することだけに労力を費やし、大人になっても自国の文化を知らず、日本語さえも未熟なら、こうした人物は歐米人の小使いに過ぎない。まるでローマ人の将軍に飼われたユダヤ人通訳みたいなもので、便利だけど尊敬に値しない「下僕」である。日本人が思考する時に用いる言語は日本語であり、その性格を形成するのも日本語である。その大切な言葉遣いが幼稚で、日本の歴史についても無知な者が、祖国に誇りを持って生きて行けるのか? アメリカ人やイギリス人は、いくら英語が達者な日本人でも、揉み手すり手でやって来る小僧を「対等な者」とは思わない。現在の英語教育は歐米人に対する劣等感を植え付けるだけで、卑屈な日本人を大量生産する結果になっている。我々は英語が苦手なことで尻込みする必要は無い。もし、「英語を流暢に話せるんだぞ」と自慢するクラスメートに会ったら、「ああ、すごいねぇ。まるでフィリピン人みたい」と褒めてやれ。どんな顔をするのか楽しみだ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68691561.html
21:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:02:55

中身のない英語を話しても意味がない

日本育ちの子をインターナショナルスクールに入れるのは愚の骨頂だ
バイリンガルに育てるつもりが…
西宮 凛 同時通訳者・ESL英語講師
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54131


日本で日本人の家庭に生まれながら、インターナショナルスクールに入れる。それは経済的にも余裕があり、「子どもにインターナショナルな感覚を持たせたい」という思いを抱く家庭ならではのことでしょう。

しかし自らが海外で育った帰国子女でもあり、同時通訳者として働きながらアメリカの大学院で英語教授法の資格を取得し、多くの「早期英語教育を求める保護者」と「大人になってからきちんとした英語を学ぼうとしてきちんと身につけた大人」を見てきた私は、声を大にしていいたいのです。

「日本に生まれ育ちながらバイリンガルに育てたいのなら、絶対にインターナショナルスクールには入れないほうがいい」と。

母国語で考えることが最重要

日本人が算数が良くできる理由の一つを紹介しましょう。

1、2、3、4、5、6、7、8、9、10を3秒以内に、数字をきちんと耳で誰もが認識できる速さでだーーーーっといえることです。

では、英語で同じように、1~10まで言ってみてください。

One, two, three, four, ……日本語に比べてなんと時間がかかることでしょう。

これは、英語の教育ではone, two, three, … をスぺリングから数字に入ってしまうからなのです。

この速さが、算数の四則計算に始まり、基礎力から応用力への発展への理解力スピードにも関係していきます。日本語での教育に素晴らしいところが十分あると理解していただけたらと思います。

では、言語習得能力についてのことを説明していきましょう。

一番大切なのは「絵本の読み聞かせ」

日本では、7歳から基本的に読み書きの習得、識字教育が始まります。この7歳までに子どもにたくさんの本を読ませるということがとても大切だと私は思っています(理想的には10000冊という説もありますが、繰り返し読むことも含めてできる限りでいいと思います)。

0歳からスタートして、お母さんやお父さん、周りの人たちが毎日子どもに読み聞かせをすることで、耳から、目から、自然に子どもが言葉に触れるので、言葉に対する感性が身につきます。


0歳児にお勧めのオノマトペ絵本の代表格『じゃあじゃあびりびり』から、ユーモアものから、大人も思わず涙する感動物語まで、「絵本」とひとことでいっても幅広い。大人も子どもと一緒に楽しもう。

そうして生まれたころから「文字」に目と耳で触れてきた子どもは、おそらく、文字を書く道具が周りにあれば3歳くらいから、ひらがなをしっかり目で追い、自分でも書きたがるようになります。それまで耳と目だけで入ってきた言葉が、文字で立体的に繋がっていきます。

就学年齢になる7歳から学校に入り、ひらがなの正しい書き方を学び、国語を体系的に学ぶことで、一気に子どもの知的好奇心は深まります。それまで受け身だった読み聞かせから、文字と言葉に対する理解が深まることで、その先にある楽しさに能動的に取り組むようになります。

本を読むこと、文字を書くこと、そして起承転結を捉えること、日本語の文章に「はじめ・中・終わり」というまとまりがあることを理解し、自分の思いを正確かつ適切に伝える行動を段階的にできるようになっていきます。文章のまとまりを読み取ることができると、国語のみならず算数、社会、理科などの他の科目も、また具体物に対する理解もどんどん深まります。

このようなやり方を7歳から10歳までに深めておくと、10歳くらいで手に触れることのできない抽象物への理解ができるようになるのです。ちなみに、目に見えないもの、人の感情や目の前で起きていない事象を深く理解でき始めるのは10歳以降と言われています。

言語獲得で特に大切なのはこの幼少期から思春期までの限られた時期であり、「言語習得の臨界期」に言語に触れることが一番の近道とする仮説は、1967年に研究者レネバーグが打ち出しました。その後も様々な研究が続けられています。

無理なインターは「セミリンガル」になる

近年「英語獲得は早い方がいい」という学校現場での取り組みも熱を帯び、また「だから小学校からインターナショナルスクールに入れれば、英語のネイティブになるでしょう」とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。

でも日本に住み、日本の家族と暮らしている場合、最初に母国語(L1言語と言います)ができなければ、第二カ国語(L2言語)をマスターし、両方の言語を自由に操作出来る「バイリンガル」にはなりません。英語をある程度話せるようにはなりますが、日本人として使えるべき日本語が不自由になってしまいます。

また、近年外国人が日本にも増えてきたとはいえ、日本で学ぶ英語はどうしても「外国語」であり、「第二ヵ国語」ではないことにも注意をしたいものです。

1 本を通して就学年齢に到達する7歳までにできるだけ多くの母国語に親しませる

2 就学年齢である7歳から10歳までに正しい母国語を学び、具体物の理解を進める

3 10歳から抽象物の理解を深めていくことができるように、日本語の文章構造の理解を深める

この3つを受けて初めて、母国語を駆使して物事を理解し、他の言語システムを理解し、他文化、多様性の理解をでき、グローバルに活躍できる人材になる一歩を踏み出せるのです。

「これからの時代は英語が出来たほうがいい」とか「大人になった時に困らないように」という理由だけで、日本で生まれ育ったお子さんをインターナショナルスクールに入れている場合ではありません。

私の尊敬する同時通訳者の諸先輩方も、インターナショナルスクールにいきなり通わせる前に大切なのは、母国語である日本語の習得、と口を揃えておっしゃっていました。それくらい本末転倒なことなのです。


インターナショナルスクールはカリキュラムも含めて良さがたくさんあるが、日本ドメスティックな家庭対象に作られたものではない。photo by iStock

例えば、両親共に海外育ちであるとか、赴任帯同によりお子さんが海外の英語環境で育った等のバックグラウンドがある等の場合には、英語がそのお子さんの核となる言語になっているのでその方がお子さんにとっても幸せだと思います。ただそのような場合にもご家庭で日本語力の維持、特に漢字を読ませることにはみなさん努力していらっしゃるはずです。

バックグラウンドなしでインターナショナルスクールに入れるのであれば、セミリンガル/ダブル・リミテッドまっしぐらです。家族との会話や意思疎通もままならなくなるお子さんもたくさん見てきました。ちなみにセミリンガル/ダブル・リミテッドは「両方の言語において年齢に応じた言語習得度に満たない中途半端な二ヵ国語使用者」という意味です。

もちろん中には、2つの言語を同時期に習得し、二か国語を母語とする話者や「バイリンガル脳」を持つ方もいて、その研究も行われています。しかし一般的に日本で日本人の家庭に生まれたお子さんについては、母国語を習得し、母国語で論理的に考える力があるからこそ、バイリンガル、トライリンガルになる下地が出来ると考えます。

母国語を習得し、母国語で論理的に考える力があるからこそ、バイリンガル、トライリンガルになれるのです。

発音やアクセント習得は早期教育が効果的だが

ただし、「早期教育は効果がないのか」というと、そういうことではありません。

「英語セッティングの環境に入る年齢が早ければ早いほど、英語習得力は高まる」というのは「発音、アクセントにおいてはその通り」です。

これは脳の発達との関係も大いにあると主張する研究もあります。生理学でいう「側性」、つまり大脳の各種機能が左右両半球に分化する状態は、生まれてから思春期にかけて発達し、それがどちら寄りになるのかが決まるタイミングと、英語習得における臨界期に大いに関係があると、スコヴィルをはじめ心理言語学者が発表しています。

思春期の具体的な時期は、人によって違いがあることを前提に、大脳の各種機能の発達が大体落ち着く頃には、新しい言語の発音、アクセントを忠実に再現できる「柔軟性」が少しずつ失われることを主張したのです。脳神経の発達と発音は非常に密接に関わっています。発音、アクセントは口の筋肉の動きがあってこそうまくできるわけで、神経と筋肉の動きと発達が、発音とアクセントの良し悪しを左右することは間違いありません。

自分の目の前にいる第三者が話す英語の発音がきれいだったり、ネイティブの話す英語を聞き取れたりしている、という場面を見ると、「第二ヵ国語である英語習得に成功しているんだ」、と感じることでしょう。実際、大人になって英語を学ぶ日本人の多くは、読むことはできても、聞いたり話したりすることができないという直面に多く立たされ、「小さい時にやっておけば良かった」という声をよく聞きます。

「RとLの発音がきちんとできる!」「アクセントがネイティブ並み!」であると、それだけで「素人目にもわかりやすい」から、その点で「じゃあ早く子どもに英語の学習をスタートさせたほうがいい」という説が出やすいのではないでしょうか。

また、言語学習開始年齢が早ければ早いほど良い、とされる仮説に対し、ただ耳から、口から、の発音、アクセントの習得度合いをもって最終的な言語習熟レベルを図るのは適切ではないとする説もあります。

1995年にスラヴォフとジョンソンという研究者が、7歳から12歳の間に渡米し英語を第二ヵ国語とする中国人、日本人、韓国人、ヴェトナム人の107人の子供達を、7~9歳の間に英語学習を始めたグループと、10~12歳に英語学習を始めたグループに分けて実験を行いました。

英語学習の開始時期は早いほど良い、と言語獲得の臨界期仮説を謳う研究者にとっては驚きの結果が出ました。

構文の理解、文章の構造や比較的難しいとされる文法の理解においては、英語学習の開始時期が遅いグループが秀でていたのです。


中身のない英語を話しても意味がない

言語学習の獲得においては、まずその言語の正しい文法を理解できる年齢に到達してから、情緒的、社会的、動機的な要因が言語獲得に与える影響を踏まえて学習することが大切であり、年齢、早期学習が必ずしも最終的な習熟度に直接的な関係があるわけではない、と発表しています。

英語習得のどのレベルを「完成形」とするのか、教養も品格もある過去のアメリカ大統領(「過去」です、残念ながら)が話すような英語レベルを求めるのか、それとも、発音はネイティブ並みでも、とても実際のネイティブが落ち着いて聞いていられないようなスラングだらけの英語を話すレベルで良しとするのか、目標を見据えた学習も非常に重要です。

様々な研究者の発表や実験、また日本人や日本人以外のノンネイティブ学習者に対して本当に必要な英語を日本とアメリカの両方で指導してきた経験を踏まえると、私は以下のことが大切だと考えています。

・正しい文法の習得:

・修辞法の習得:

・論理的根拠を持つこと(ロジックの大切さ)

以上の3つに重きを置いた英語教育が出来るのは、「母国語があって母国語で論理的に考える言語能力あってこそ」、なのです。

子どもであればあるほど、言葉がもたらす社会的影響や価値には気づいていません。発した言葉が持つ影響をわからないまま、ただその言葉を流暢に話せる人間になることは非常に危険だと私は感じており、これが私の英語教育において大切にしている、「その言葉を使って世の中に何を発信する人間になるのか」、という「ロジック」の部分です。

日本人が「英語」を必要とする現場において、英語は出来るのだけれど、軸のない空っぽな会話では困るわけです。ですから幼少のうちから読み聞かせをすることで、豊かな語彙力、表現力、物事を深く考える力を養っておきたいと思うのです。

また、年齢と習熟度の関係だけではなく、年齢を重ねたからこそ「語学は難しい」という心理が働き、及び腰になるので、その分習熟が遅くなるという研究もあります。
しかしその時期を越えてからの語学学習においては、子どもが母国語をマスターする過程の学びプロセスを念頭に入れながら、コツを抑えた学習法をしていけば良いことなのです。その学習法については、別の機会にご紹介できればと思います。

今の小学生が大人になる頃には、現時点で存在しない仕事に就く子どもたちが40%になるとも言われています。

ネットも更に進化するでしょう。数多ある情報の中から、情報を素早く正確に理解し、吸収し、本当に自分にとって必要な情報なのか、また信頼できる情報なのかを判断し、それを仕事や生活に活かしていく力が更に求められると思います。

つまり、文章を読み、論理的根拠、分析力、物事を深く考える力を用いてさらに発展させる力が問われると思います。

国と国の間=inter-national(インターナショナル)ではなく、自分が何者であるのか、そのルーツとスピリットを踏まえた上で日本人として世界に出て、世界基準のものの考え方を出来てこそglobal(グローバル)になれる。

そのために、早期学習で得られる発音とアクセントありきの英語教育はしなくて大丈夫です。幼少期からの読み聞かせの持つ力、大人だからこそ深みのある英語学習ができるのはアドバンテージなのです。

母国語で深く思考できないことが一番、「バイリンガル」への道を遠ざけてしまうのです。
22:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:03:27

内田樹の研究室 2018.01.31
『街場の文体論』韓国語版序文

これが韓国語訳されることになったわけですけれど、果たして僕がこの授業で取り上げたさまざまなトピックが隣国の読者たちにとっても同じような切実さを持つものかどうか、確信がありません。でも、一つ言えるのは、韓国でも日本でも、言語が遭遇している危機についてはおそらくそれほどの違いはないということです。それは母語が痩せ細っているということです。序文として、それについて少しだけ思うことを書いてみたいと思います。

母語が痩せ細っているというのは、現実的には英語が支配的な言語になりつつあるということです。すでに各種の学会ではそうなりつつあります。

自然科学系の学会ではしばしば日本人だけの集まりでも発表や質疑は英語で行われます。研究者たちは英語で論文を読んで、英語で論文を書いて、英語で議論する。

韓国でも事情は同じだと聞いています。どちらも英語での大学の授業数が増えています。

「留学生数」や「海外提携校数」や「英語で開講されている授業数」や「外国人教員数」が多い学校に助成金がたくさん分配される。

だから、どの大学も必死になって英語に教育資源を集中的に分配するようになっています。

日本では中学高校で英語の授業は英語で行うことが定められました。

こういう流れを「国際化」とか「グローバル化」といって肯定的に語る人がたくさんいます。でも、それはそんなに喜ばしいことなんでしょうか。

とりあえず日本において統計的に一つだけわかっていることは、母語の教育を疎かにして、限られた教育資源を英語に集中するようになってから英語力が低下したということです。

この現実に慌てた政府は日本人が英語ができないのは学習開始年齢が遅いからだという根拠のない解釈に飛びついて、英語教育の開始年齢をさらに引き下げて、小学校3年生からの英語教育開始を決めました。結果はまだ出ていませんが、英語力を含めてすべての学力が低下することになるだろうと僕は予測しています。

なぜそんなことが起きるのか。それは言語政策を起案している日本の政治家や官僚や学者たちが「言葉を使う」という営みの複雑さを知らないからです。

彼らは言語というものを自転車や計算機のような「道具」だと思っている。こちらに道具を操作する主体がいて、あちらに道具がある。性能のよい道具を手に入れ、操作技術に習熟すれば仕事が捗る。そう思っている。

でも、それは違います。言葉は道具じゃない。僕たちが言葉を使うというより、僕たち自身が言葉で作られているのです。僕たちが言葉を支配しているのではなく、むしろ僕たちが言葉によって支配されているのです。

言葉は僕たちの血であり、肉であり、骨であり、皮膚である。それがどのような質のものか、どのようなかたちのものか、どのような特性を持ったものかによって、僕たち自身のものの考え方も、感じ方も、生き方もすべてが影響を受ける。

英語を巧妙に操れるようになるということは、「英語を母語とする種族のものの考え方、感じ方」をわが身に刻み込み、刷り込んでゆくということです。そのことの重大さに人々はあまりに無自覚だと思います。

アメリカの植民地であったフィリピンでは英語が使えないとビジネスマンとしても公務員としても教師としてもジャーナリストとしてもよい職には就けません。だから、地位のある人たちはみんなみごとな英語を話します。

フィリピンの生活言語はタガログ語です。でも、タガログ語ではビジネスをすることも政治や経済について語ることもできません。そのための語彙が母語にはないからです。

フィリピン人のある大学の先生がこう語っていました。「英語で話せることは実利的(practical)であるが、母語では話せないことは悲劇的(tragical)だ。」

なぜ悲劇的であるのか。それはこのような言語環境に置かれている限り、フィリピン起源の政治理論や芸術運動が出現する可能性が絶望的に低いからです。

知的なイノベーションは(ほとんどの場合)母語による思考から生まれてくるからです。
母語が痩せ細っていれば、知的なイノベーションは始まらない。

例えば僕たちは母語でしか新語(neologism)を創ることができません。新語というのは、勝手に作れるわけではありません。条件があります。それは生まれて初めて耳にした語であるにもかかわらず、聞いた瞬間に母語話者たちにはその語義もニュアンスもわかるということです。だから、あっという間に広がる。これは外国語ではできません。自分で新語を作ってみても(例えば、不規則変化は覚えるのが面倒だからこれからは“I went”ではなく”I goed”にしようと僕が提案してみても)「そんな言葉はない」と冷笑されるだけです。

新しい言葉を創れないということは、新しい概念や新しいロジックを創ることができないということです。創造的なアイディアが思い浮かんだ時のことを思い出せばわかります。それは「喉元まで出かかっているのだけれど、まだ言葉にならない」というもどかしさを伴う経験です。アイディアは身体の奥の方から泡のように湧き出てくるのだけれど、まだはっきりしたかたちをとることができないでいる。最終的にそれなりの言葉になるのですけれど、それは手持ちの言葉を引き延ばしたり、押し拡げたり、これまでそんな語義で使った前例のない使い方をしたことでようやく達成されます。創造的な概念がかたちをとる時には母語もまた変容する。知的創造と母語の富裕化は同期する。

言葉を使うというのは、そういう力動的なプロセスなのです。道具を使うのとは違います。

鋏を手に持っている時にその新しい使い方を思いついたら、鋏がその思いに合わせて形状を変え、材質を変え、機能を変えるということはあり得ません。その「あり得ない」ことが母語においては起きる。それを考えれば、母語の運用がいかに生成的なものであるかが想像できると思います。そして、この知的創造は(例外的な語学の天才を除けば)母語によってしかできません。既存の言葉を引き延ばしたり、押し拡げたり、たわめたり、それまでにない新しい語義を盛り込んだりすることは母語についてしかできないからです。

ですから、母語が痩せ細るというのは、その言語集団の知的創造にとっては致命的なことなのです。

植民地帝国はどこでも自分たちの言語を習得することを植民地現地人たちに強要しました。

宗主国の言語は強国の言語であり、当然「グローバル」な言語であるわけですから、植民地化された人たちはそれを習得したことで、政治的にも経済的にも学術的にも実力をつけて、国際社会の中で以前よりは高い地位に達してよいはずです(日本の英語政策はまさにそのような発想に基づいて実施されています)。

でも、歴史はそのような実例を一つも教えてくれません。

なぜ宗主国は植民地に「グローバルな言語」の使用を強要するのか。

それは宗主国の言語を習得した植民地人たちには母語を富裕化する動機が失われるからです。そして、母語が痩せ細ると知的創造の機会が失われる。

植民地人たちは、自分たちの歴史的現実について語ろうとする場合でさえ宗主国のロジック、宗主国の歴史観、宗主国の世界戦略に即してしか語れないようになる。父祖伝来の「家産」的な生きる知恵と技術を伝え、それに即して生きることができなくなる。母語が痩せ細るというのはそういうことです。

僕が「クリエイティブ・ライティング」という授業を始めたのは、「グローバル化」潮流の中で日本語が痩せ細り始めているということに強い危機感を抱いたからです。

でも、母語を豊かなものにすることは集団の知的創造性において必須であるということが言語政策を考えている人たちには理解されていません。その結果、日本の知的生産力は21世紀に入ってから急激に劣化しました。

一昨年の秋にはForeign Affairs Magazine が昨年春にはNature がそれぞれ日本の研究力の劣化について長文の分析記事を掲載しました。それほど危機的な状況であるのにもかかわらず、日本の教育行政はすでに失敗が明らかになった「グローバル化に最適化する教育」をさらに加速させる政策をいまも次々と採択しています。これは日本の知的生産力に回復不能の傷をもたらす結果になるでしょう。

誤解して欲しくないのですが、僕は外国語教育の重要性を否定しているわけではありません。僕自身は最初に中学生で漢文と英語を習い、大学ではフランス語を集中的に学びました。その後は(どれもものにはなりませんでしたけれど)ドイツ語、ラテン語、ヘブライ語を独学しました。去年からは韓国語の勉強も始めました。新しい外国語を学ぶとは、異国の人々の自分たちとはまったく異なる宇宙観や倫理規範や美意識に触れることです。それによって自分の母語的偏見が揺り動かされることに僕はいつも深い驚きと喜びを経験しています。そして、これらの外国語との触れ合いは間違いなく僕の母語運用能力を高め、もし僕が母語においてなにごとか知的創造を果たしたとすれば、それに深く関与したと思います。

でも、いま「グローバル化」の名の下で行われているのは「母語的偏見を揺り動かされる」ような生成的で鮮烈な経験ではありません。「英語ができないと出世ができない、金が稼げない、人にバカにされる」というような怯えに動機づけられた外国語との出会いが生産的なものになると僕にはどうしても思えないのです。

この本は「母語が痩せ細っている」という危機感の中で行われた授業の記録です。きっと韓国にも自国語の豊かさと創造性について、僕に似た危機感を抱いている人がいるのではないかと思います。そういう人たちにぜひ読んで欲しいと思います。
http://blog.tatsuru.com/
23:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:04:23

2018.4.3
英語を仕事で使う人の数は減少傾向という現実、むしろ必要な力とは
榎本博明:心理学博士、MP人間科学研究所代表+ 
http://diamond.jp/articles/-/165663
2020年東京オリンピックでの「おもてなし」に向けて、“英語ファースト”の時代が訪れている。「いまの時代、英会話ぐらいできないと」、「英語は早いうちから学んだ方がいい」と言われるが、

『その「英語」が子どもをダメにする』(青春出版社)
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4413045203/diamondonline-22/


の著者・榎本博明氏は、そんな思い込みが蔓延する英語“偏重”な教育現場に警鐘を鳴らす。

実際、仕事で英語は本当に必要?

 現在、日本人は仕事上どれくらいの頻度で英語を使っているのだろうか。仕事で英語を話す機会といえば、海外支店に転勤になった場合か取引相手が海外の企業だった場合ぐらいである。

 とはいうものの、これからグローバル化が進む時代で、実際は英語の必要度がどんどん増しているのではないかと考える人も多いだろう。

 これについては、実証的なデータがある。言語社会学者の寺沢拓敬が行った調査で、「日本で実際にどれぐらいの英語が使われているか」を検証した。2002年の調査結果では、仕事で英語を「よく使う」人と「ときどき使う」人を合わせた比率は12.7%だったのに対し、2008年は13.3%と6年間でほとんど変化はみられなかった。

 さらに、「過去一年間に仕事で少しでも英語を使った」という人の比率は、2006年21.0%に対し、2010年は16.3%と、むしろ減少傾向にあるのだ。

このようなデータを見るかぎり、これから先も日本で仕事する上で本当に英語が必要になってくるのか疑問になってくるだろう。

 また、企業が社員にもとめる能力を調査したところ、英語力よりもむしろ専門性や柔軟性、そして仕事ができること、だれとでもコミュニケーションがとれることだったという。(『週刊金曜日』2013年11月8日号)

 最近では、英語は入社後でも十分身につくという考えが広がり、企業では仕事を進める力や人間力が重視されているというのが実態である。

 やはり、子どもの将来を考えた場合、英語教育に先走るよりも、まずは日本語力や思考力の基礎をしっかり固めることが優先されるべきだといえるだろう。

就活で「コミュニケーション力」が重視されるワケとは?

 新卒採用で多くの企業が最も重視するのが、「コミュニケーション力」だ。これはもちろん日本語でのコミュニケーションのことを指す。例年、「主体性」や「意欲」などを抑えて「コミュニケーション力」が圧倒的に重要視されるのはなぜだろうか。

 これは、近年の大学生の日本語能力の低下が関係していると考えられる。たとえば「内向的」「情緒不安定」「引っ込み思案」などの言葉が通じなくなってきていると榎本氏はいう。

 多くの大学教員が、学生に対して心理検査やアンケート調査ができなくなってきたというが、それは質問項目の意味がわからないという学生が増えてきたからといわれている。

 最近の学生は、SNSでのやり取りで記事を投稿したり友達と会話するなど、言葉に触れる経験は豊富なのだが、本をあまり読まないため、読書体験で得られるはずの豊かな表現や抽象的な概念に触れる機会がないのだ。

このように、英語どころか日本語のコミュニケーションさえうまくできない若者が増えているため、企業としては何としても「コミュニケーション力」がある若者を雇いたいと思うわけである。

 さらに、2007年から日本語検定が行われるようになり、企業の採用試験や研修で使われているという。そのようなものが必要になったということは、それだけ日本語に不自由な若者が増えてきたことの証拠といえるだろう。

英会話ができても、外国人と対等にはなれない

 そもそも日本人の多くが、英会話を話せれば外国人と対等にコミュニケーションがとれていると勘違いしている。その勘違いゆえに、わが子に英会話を習わせたいという親が多いのだ。

 もちろん英会話を話せないより話せた方が、コミュニケーションは円滑に進むだろう。しかし、“話せる”ことだけに注力してしまうのは危険である。

 子どもの言語発達について、発達心理学者の岡本夏木氏は、日常生活の言葉である「一次的言葉」と授業の言葉である「二次的言葉」を区別している。

「一次的言葉」は、具体的なことがらについて、いわば、日常生活において身近な人たちとの間で会話するための言葉である。それに対し「二次的言葉」は、抽象的な議論にも使える言葉であり、そこには話し言葉だけでなく書き言葉も加わったものである。

要するに、日常生活の具体的な場面の会話で用いる言葉か、教室で授業を受ける時などのように抽象的思考や議論をする時に用いる言葉か、ということだ。

 日本語を不自由なくしゃべっていても勉強ができない日本人、知的活動が苦手な日本人がいくらでもいるように、大事なのは学習言語能力、つまり後者の「二次的言葉」を磨くことである。それができないと、授業についていけず、ものごとを深く考えることができない子になってしまうのだ。

 幼いうちから英会話に注力しすぎた結果、英語どころか日本語能力も低く、日本語の文章が読めなかったり抽象的な議論ができないとなれば、取り返しがつかないだろう。

 先述しているように、英語はある程度大きくなってからでも学ぶことは十分可能なのだから、小さいうちから焦る必要は何もないのである。

 英会話は勉学ではなくあくまで「コミュニケーションのツール」。子どもが大きくなって勉強や仕事で本当に必要な能力は何なのか。親には、目先の能力にとらわれず、子どもの将来を見越した教育を受けさせることを忘れずに、わが子と向き合ってほしい。
24:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:05:15

専門家が直言「TOEICが日本を滅ぼす」2018年4月20日 プレジデントオンライン


英語能力のテストとして、学校教育でもビジネスでも重要視されるTOEIC。しかし長年、企業の語学研修に携わってきた猪浦道夫氏は「TOEICは英語能力検定試験として欠陥がある。TOEIC対策講座に成り下がった英語教育を進めることで、母国語をふくめたそもそもの言語教育に悪影響が出ており、日本人の知的レベル低下を招いている」と警鐘を鳴らす――。
■TOEICハイスコアは成功への登竜門?

筆者は長年、語学教育にたずさわってきましたが、30年ほど前から学校の英語教育が「文法偏重から会話力重視へ」と急カーブを切り始めました。そのころからビジネス界でもグローバル化の標語のもとに、ビジネスピープルたるもの「誰もが英会話力は必須」のような雰囲気になってきて、どこか不気味な感じがしていました。

その象徴的な存在がTOEICの急成長です。昨今では、あたかもこれからの教育界、ビジネス界ではTOEICのハイスコアが成功への登竜門であるかのごとくみなされるようになってきています。

1990年ごろまで、英語力を認めてもらうには「実用英語技能検定(英検)」が一般的でしたので、この試験は英検に比べてさぞかし画期的な試験なのかと思いました。そこで、この試験の問題を分析してみましたが、そのときの正直な感想は、「これがビジネスに役立つ実践的な英語力とどういう関係があるのか。全体的に英検のほうがまだ数段優れているな」というものでした。

にもかかわらず、TOEICの浸透はやがて文科行政、企業教育にまで及んできて、いまや猫も杓子もTOEICという状況になりました。知人、生徒たちにTOEICの感想を尋ねてみると、その反応の多くは、TOEICなんてあまり意味がないけど上から受けろと言われたので、就職の書類にスコアを書く欄があるので、また若い世代の場合、大学受験で一定のスコアが求められているから仕方がない、という消極的またはやや否定的な意見でした。

いまや、小中学校から大学、大学院、そしてビジネスピープルに至るまで、なんでもかんでもTOEICで学習者の英語力を図ろうとしています。

しかし、TOEICで測れる英語の能力は、あたりさわりない英語トーク(しかも米語の発音)の聴き取りと、専門性の低い英文の理解力だけです。しかも、後者の場合、日本語をまたいでの翻訳力はまったく評価できません。この点では、いろいろな問題はあるにせよ、英検のほうが圧倒的に優れています。

しかるに、言語能力というものは多様でそんな単純なものではありません。「聞く」「話す」「読む」「書く」の4つの能力の区別はよく知られていますが、もう少しキメ細かく見ると、「聞く」「話す」の部分は「通訳能力」があるかどうか、「読む」「書く」の分野は「翻訳能力」があるかどうかの視点も考慮しなければなりません。

さらに、それらの能力はスピーチレベルというものを考慮しなければなりません。おおざっぱに分類しても、現地の人と日常のくだけた会話をするレベル、改まった場面で正式な話し方をするレベル、そして、専門分野の情報交換に必要なコミュニケーション能力です。文章にも、この区別が厳然としてあります。

■本当に英語力が必要な人、不必要な人

英語を学ぶ場合、学習者がどのような目的で学ぶのかによって、どこのゾーンの能力をどの程度まで伸ばすかを考慮しなければ時間の無駄になります。

例えば、日本の大学生がその専門分野の研究において必要としている英語能力とは何でしょう。それは英会話の能力ではなく、原書を読み理解する能力です。大学院レベルの研究(特に理系)においては、それに加えて英語で論文を書く能力が求められましょう。

一方、企業活動における英語力とはどうあるべきでしょう。実は90%のビジネスピープルは高度な英語力を必要としていません。国際化、グローバル化の掛け声のなかで「少しぐらい英語ができないとみっともない」といった曖昧なイメージだけが先行しているだけで、実際に現場にいるビジネスピープルの多くは英語を使う機会はありません。

英語を必要とするのは、海外とのやりとりがある部署の人間だけです。英語を必要としない社員にまで画一的にTOEICの勉強を強要しようとするのは、経理部で働く可能性のない社員に簿記の試験を受けろと言っているようなものです。企業活動のそもそもの目的を考えれば、ビジネスの現場でほとんど役に立たない英語力を少しぐらいアップさせる時間があったら、ビジネスの力を磨いたほうが会社にとってメリットが大きいはずです。

もしビジネスを目的として英語を学習するにしても、個々人の業務内容を考慮してターゲットを絞るべきです。例えば、英文メールが書ければよい、英語文献などを読んで情報分析できなければならない、頻繁に外国人ビジネスピープルと交渉事がある、といったものです。そのレベルによって求められる英語力は大きく異なります。漫然とオールラウンドに高度な英語力を身に着けたいと思っているならば、それは差し迫った必要性に迫られていない証拠です。

■国語ができなきゃ英語なんてできるわけがない

私は、最近、英語のみならず母国語である日本語も含めて、日本人のコミュニケーション能力、論理的思考力が変調をきたしているのではないかと思うようになりました。この傾向は、一般の人々や若者ばかりでなく、ビジネスピープルや知識人と呼ばれる人々のあいだでも顕著で、はたで他の人のトークを聞いていても話がかみ合っていないと感じることが多いのです。

私はこの度『TOEIC亡国論』という、あえて刺激的なタイトルの本を出版しました。それはなぜか。本稿でもこれまで、英語能力試験としてのTOEICの欠陥を示してきましたが、そんな試験が社会に当たり前のように受け入れられてしまったことで、英語にとどまらない言語教育そのものに悪影響を及ぼしはじめているという、強い危機感があるからです。

認知科学者で慶應義塾大学名誉教授の大津由紀雄氏は、文科省「教育の在り方に関する有識者会議(第3回)」において、大学での英語教育の現状を「TOEICの対策講座化に堕している」と評し、「TOEICでの高スコアは必ずしも英語の熟達度を示すものではな」いと喝破しています。

そしてその原因として、「そもそも日本語がきちんと使える人が非常に少ない」ことを挙げ、母国語教育と英語教育のあり方に同根の問題があることを指摘しています。

本来あるべき言語教育とは、英語という特定の言語に偏ることなく、言葉そのものに対する興味をさまざまな角度から養い、母国語と外国語をよく比較観察しながら「ことばの仕組みとか動き」を理解するものであるべきだと、大津氏は言います。

しかも、そもそも「比較観察」する前提となるのは国語力。国語力は思考と深く関連性があり、言語というものは思考した結果を表現するツールに過ぎません。だから、英語を学ぶ以前に、国語力に立脚した思考能力がなければ話にならないのです。

外国語の能力は母国語の能力を上回ることはないが、外国語を知ることは母国語を見直す契機となり、母国語の習熟度を高めます。英語学者の渡部昇一氏はこれを「知的格闘」と呼んでいましたが、外国語を知ることは、母国語と外国語両方に望ましい教育効果が期待できるのです。

■TOEICを目的とした教育で「母国語力」が低下している

ところが、TOEIC対策講座と化した外国語教育では、前述した通り、翻訳能力や通訳能力、そして実践的なスピーチ能力が、正しく身につくとはいえません。大津氏のいう「比較観察」も、渡部氏のいう「知的格闘」も磨かれず、外国語教育で求められる「母国語と外国語両方の習熟」という効果が期待しづらいと言えるでしょう。にもかかわらず、TOEICの点数さえよければいい、という教育を続けていれば、日本語力は磨かれず、当然ながら、日本語力を基盤とする思考力も育たない。

同時に、英語教育における学習者のレベルダウンは、言語学的見地から言えば、紛れもなく背景に国語力の欠如と、読み書き、文法学習の軽視に原因があることはまず間違いありません。つまり、日本語教育がうまく言っていないから、英語力も育たない。

他方で、TOEICの対策講座になった英語教育のせいで、日本語力が育たない。このような負のスパイラルは、基本的には学校教育での誤った教育方針が原因です。重ねて言いますが、そのあしき傾向を助長しているのがTOEICの存在で、その弊害はもはや看過できないレベルにまで達しています。

■日本語教育と外国語教育をセットで考え直すべし

その危機感は最近ますます強まっています。私はときどき国会の審議で答弁している官僚の話し方とか、テレビ番組に出ているコメンテーターと言われる人たちの会話や討論を聞くことにしています。そこで感じたことですが、意識的に論点をずらすとかある種の交渉術的な戦略があることを考慮しても、それ以前に日本語もおかしいというか、きちんとした日本語を話していない人も多い。

一方には、インテリを気取ってところどころ誰にもわからないような英語を交えて話す人もいて、そういう討論を聞いていると、そもそもこの人たちはコミュニケーションする気があるのだろうかという気さえしてきます。

今の世の中は殺伐といていて、子供殺しの親とか、モンスターペアレンツ、会社内での過労死など、痛ましい事件が後を絶ちませんが、これらの事件は、背景に日本語力の貧困によるコミュニケーションの欠如に遠因があるのではないかとすら思えてきます。唐突に思われる方もあるかもしれませんが、自分の考えを理解してもらえないと、人間というものはすごいフラストレーションを感じ、それが極限に達すると「切れる」ものなのです。

文科省の行政指導には、大きな問題があります。経済政策とか外交政策とか、およそ政策というものは、基本的には優れた専門家による検討を踏まえて決められていくものでしょう。ところが、文科省の(特に)英語教育に関しては、優れた専門家の諮問に耳を傾けているとはとても思えません。志ある立派な専門家がどれだけ主張しても、一向にそれが好ましい形で英語教育に反映されません。

浮ついた英語学習を改めて、そろそろ日本人の言語教育がどうあるべきか、国際社会での真のコミュニケーション能力には何が必要かを、国民ひとりひとりが原点に立ち返って考え直してほしいと思う今日この頃です。
http://news.livedoor.com/article/detail/14604971/
25:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:05:58

リベラル風の上流国民だと、心の奥底ではアジア人を嫌っているくせに、表面上は“心優しい天使”を演じて「博愛主義者」だ。
その中でも、とりわけ悪質なのが、お嬢様大学に通ってピンク左翼に染まったインテリ女性である。彼女たちは街角で移民排除を訴えている日本人を見ると、「何、あの下品な人たち !! 右翼ってホントに嫌よねぇぇ~」と口にするが、道路工事の現場で働くベトナム人とか、古ぼけた団地に居坐る支那人、怪しげな飲み屋に務める朝鮮人と親しくなることはない。もちろん、恋愛対象なんて論外。

そもそも、名門の一流校には穢らわしいアジア人が居ないし、たとえ同じクラスに留学生がいても、奇妙な顔をした外人は「ご学友」じゃない。それに、ご自慢の英語を駆使して会話を楽しむのは、憧れの西歐人だけ。香港出身の支那人とか、マニラからやって来たフィリピン人じゃ嬉しくないし、日本人の友達に“ひけらかす”こともできない。

だいたい、英語を話したからといって、アングロ・アメリカ人になる訳じゃないのに、まるで「上等な人間」にでも成ったかのようにウキウキするんだから、植民地のアジア人と同じじゃないか。こういうバイリンガルの日本人に出逢ったら、

「わぁぁ、すご~い、まるでフィリピン人みたい!」

と褒めてやれ。苦虫を噛み潰したようにムっとするから。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68722954.html
26:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:07:03

日本の見世物小屋化の別称「観光立国」=外国人仕様を増やす=「外国人で儲ける」業界づくり→移民受入
2018年04月30日
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12372382304.html


なんだか頭にくるので本日2つ目の投稿!ムキー

日本人には不快で我慢ばかりさせる安倍首相肝いりの政策、それが「観光立国」!

日本人はとにかく「外人」に弱いので、気おくれしたり、大目に見たりと間違えた接し方をして馬鹿にされています。

文化の違う相手にマナーは通用しませんから、外国人には強力な規制、罰則が必要です。

マリカーは生活に必要な日本人のインフラである公道を、一部の人間がレジャーに使っているのです。でも外国人が喜ぶからと批判も出ませんが、その姿が卑屈なことに日本人自身が全く気付いていません。

公道カートなんて、

日本人が馬鹿にされているんですよ。

わかりますか?はこ怒る

貧困国がお金下さいとせがむから来てやった外国人様が我が物顔で迷惑行為をしていて、それを私たちが我慢させられているのです。途上国の貧困現地人並みの扱いなのです。困

対価をもらい公道を閉鎖してレースをするのではなく、私たちの生活はそのままで彼らを割り込ませて遊ばせているのです。(業者はタダで公道を商売に使っていることになります。)

公道カートの安全強化 2年後シートベルト義務化 国交省が基準改正(産経)2018/04/28

やっと規制するかと思ったら、外国人様が怪我をしないようにという改正です。

私は彼らがどうなろうと構いませんが、邪魔なので禁止にしてほしいのです。


外国人観光客 医療費未払いで入国拒否も 自民提言(毎日 2018/04/27)


未払いのまま出国した外国人の情報を医療機関から収集し、再び来日した場合には入国管理法に基づき入国を拒否することを求めた。

一方、外国人観光客が安心して医療を受けられるよう、外国語で診療を受けられる医療機関の充実や、薬局での多言語対応を進めるほか、習慣の違いに配慮した診療のための研修を行うよう要求。


外人による医療費踏み倒しも公立なら結局は税金で補填でしょう?

ビザなしで誰でも呼ぶからこういうことが起きるのです。母国では病院に行かない人も多いのです。善意は悪用されるのが常識です。外国人観光客は前払いでいいのではないでしょうか?

それと、医療機関に「習慣の違いに配慮した診療を要求」、こんなもの不要です。

金持ちがそれなりの対価を払って配慮してもらうならいいですが、私たちと同等のお金を払って特別待遇は許されることではないのです。外国人に配慮しすぎです。はこ怒る

それよりも海外旅行傷害保険加入を入国条件にする方がまともです。

(日本の健康保険は海外でも後から補填してくれます。これと同様の制度がない国から来た人は旅行医療保険を義務付けるべきです)

こちらの記事では海旅加入を入国時の条件にしている国があることを紹介しています。

日本と同等の医療を途上国で受けるには高額な費用を払います。

例えば、私は通訳もいる上等な病院へ行くと、診察代だけで60~100ドル払います。

もし日本で3割負担なら診察だけで2千円~3千円以上を窓口で払うことになります。

でもそんなに払いませんよね。生活保護受給者や子供ならタダですか?

日本の医療が高い水準なのに安く掛かれるのは日本人だからです。公衆衛生、予防接種、国民の生活向上のための政策でこうなっています。

これを、関係ない外国人に当てはめるのは不公平であり、まして配慮までして私たちと同額なら、日本人の税金が回ることになり、その分私たちへの待遇は確実に下がります。

外人用に設備やシステム、人員を確保させて、そのうち観光客が減れば、医療業界は「もっと外人下さい」ということになるでしょう?これで移民賛成業界がまた増えるわけです。

外国人に来てもらいたい「観光立国」のために、公道カートという迷惑行為が許され、犯罪の巣窟となるであろうアジト“民泊”を奨励に留まらず、嫌がる自治体を国が脅して無理やり全国展開、観光地は日本人を締め出し荒廃させ、民度の低い国から大量の単純労働者を入れ、それらの奏でるオーケストラ、相乗効果で不衛生や野蛮と相性の良い外国人や、私たちの税金を食い潰し私たちのサービスを低下させる外国人が常時日本に居座る国へと変貌していきます。

今政府はバラ色みたいなことしか言いませんが、経済面で移民の弊害が顕著化するのは少し後、ボディーブローのように効いてきますし回復しません。

これを短期間でやったのは安倍首相で、確かに安倍ちゃん以外に誰がいる?というくらいの破壊ぶりです。応援している人は日本が嫌いなんでしょうね、そう思うことにしました。ムキー

外人頼みしかない!という発想が一見正しく見えるのは、安倍首相が日本人を貧しくさせて、日本人が世界中から食い物にされるように仕向けたからです。はこ怒る


「低すぎる最低賃金」が日本の諸悪の根源だ 2020年の適切な最低賃金は1313円
(東洋経済 デービッド・アトキンソン : 小西美術工藝社社長 2018/03/02)
以前アトキンソン氏の観光についての記事が酷すぎるとブログに書いたことがありますが、今回の記事は納得しました。

この中で彼は、日本政府は日本人労働者をバカにしていると書いています。

日本人を徹底的に貧困化させて、穴埋めに外国人を呼び込んでいるのが安倍首相です。

安倍首相が人為的に操作しているのです。

日本人医師があんなに安い診察料であれだけ高度のサービスを提供することを考えても、労働賃金が安すぎですし、安全でおいしい食事が安すぎます。

グローバル化を進めれば、平民の日本人は間違いなく劣化したサービスや食料にしかありつけなくなります。

貧困化させた日本人の穴埋めに呼び込む観光客ですが、日本政府は弊害を隠しています。

観光客の害は先進地域でよく問題になっています。CNNがこんな記事を出しているほどです。

押し寄せる観光客、住民と切り離し ベネチアが新規制導入(CNN 2018/04/27)

私の持論au 着フル度を超えた観光を止めることこそ、環境保護、温暖化防止にも役立つはずです。

パリ協定がどうしたこうしたというより、観光縮小、多産禁止にした方がよほどエコです。


世界的に、先進国だったところが移民を受け入れる方向に行くことは自然ではなくて人為的に仕組まれています。

「生意気になってきた中産階級を没落させる仕組み」でもあることを、よく理解した方がいいと思います。
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12372382304.html




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世界でバカにされる日本人 - 今すぐ知っておきたい本当のこと - (ワニブックスPLUS新書)
谷本 真由美 ワニブックス 2018-08-22
https://www.amazon.co.jp/dp/B07GDB23F7?tag=cakespoc-22

海外でなめられまくっている日本 2018年9月11日
https://cakes.mu/posts/21698


日本では「日本スゲー」というTV番組が人気ですが、海外経験豊富な元国連専門機関職員の@May_Roma(めいろま)さんは、8月24日発売の『世界でバカにされている日本人』では世界における日本の心の姿を紹介しています。

かつてはあこがれの対象だった日本は、いまでは落ちぶれた可哀想な国という印象です。そのような変化がよく分かるのが、世界各国のネットでの反応です。

特に若い人や子供の間では今やネットで得る情報は動画が中心なので、ネット動画の世界で日本がどのように扱われているかをみることで、日本のイメージを知ることが可能です。

ネット動画の世界には、日本人 を舐めきっている外国人が存在します。その代表の一つは、2018年の初頭に話題になったユーチューバーのローガンポール氏による青木ヶ原樹海の遺体動画の事件でしょう。

相次ぐ外国人の“非常識”動画 「日本はなめられている」

ローガン・ポール氏はアメリカで有名なユーチューバーで様々ないたずら動画を投稿して莫大な再生回数を稼いでいます。

子供達の間で大人気なのですが、そのいたずらがあまりにも過激で下品なので、子供が真似してしまうと困り果てている親も少なくありません。

ローガン・ポール氏にとって日本は格好のターゲットです。日本に来て撮影した動画では、ナイロンできた女物のペラペラの着物を来て都内で犯罪スレスレのイタズラを繰り返します。

生のタコや生魚を都内の走行中の車に投げつけたり、渋谷の交通量の多い道路で寝転がったり、カフェで食事中の人達の窓に向かって生魚を投げつけたり、魚を触った手で店の商品を触りまくり、築地市場に行って仕事中のフォークリフトに乗ったり、売り物を指差して大騒ぎです。市場の人にあまり図に乗るんじゃないと小言を言われるシーンもあります。

さらに、青木ケ原樹海に探検に行き、亡くなったばかりの自殺者の遺体を動画に撮って、「怖い怖い」と茶化してレポートしたのです。削除前に彼のファンである多くの子供達がその動画を見てしまったことで大炎上してしまいます。

彼の日本で撮影した動画をみると、あまり教育レベルが高くない外国人が日本に対してどんな感情を抱いているのかということがよくわかります。

ローガン・ポール氏はオハイオ出身の田舎出身で教育レベルが決して高いとは言えないごくごく一般的なアメリカ人です。そういった人たちにとって日本人だけではなく東洋人全般というのは体が小さく文句を言わないちょっと奇妙な人々です。

これはアメリカにいる東洋系の人達も同じで、東洋系でアメリカ人とはいっても、体も小さいですし、白人に比べると闘争心がありませんし、親や祖父母のしつけがあるので暴力に訴えることはしませんから、おとなしい人が多いのです。

東洋人の典型的なイメージは、運動が苦手なガリ勉です。体育会系リア充がスクールカーストの頂点というアメリカでは、ガリ勉やオタクは日本や東アジアに比べて人権などないのに等しい存在です。

そのカテゴリに入ってしまう東洋人というのは常にからかいの対象で、スクールカーストの最底辺です。

また黒人やヒスパニックと比べると数が少ないので、組織化された圧力団体も多くはありません。政治力がありませんので、差別的なことを言われたりジョークに見せかけた差別をされることも少ないことではないのです。

東洋人はそういったイメージを持たれていますから、あまり教育程度が高くないアメリカのマジョリティにとってはからかいの対象です。

ですからローガン・ポール氏達はアメリカやヨーロッパであったら絶対にしないような悪戯を日本でしまくり、亡くなった人の遺体をビデオに撮影するようなことができたのです。

日本人をからかいの対象と見ていて、さらに同じ人間とは感じていないからです。

言葉も異なり、顔つきも違う、そしてアメリカの内陸部では食べない人の多い得体の知れない海産物をたくさん食べる日本人は、とても奇妙な人々なのです。

魚というのは彼らにとって生臭く、「魚の臭がする」というのは「女性器の臭いがする」という意味です。ですから、悪戯として魚を人に投げつけるのには、侮辱の意味があるわけです。

そんなものをありがたく食べている日本人は、教室の隅で勉強ばかりしていて、わけの分からない数学やプログラミングの話をしている東洋系ガリ勉と同じ変な奴らだ、というイメージです。

もし亡くなった方の遺体がアメリカの白人であったりヨーロッパの白人であったら彼らは同じように撮影することはできなかったでしょう。

しかし大騒ぎをしても、日本はおとなしい人が多く、外国人に対して寛容ですから、お店の人や通行人が訴訟を起こすことはありませんし、胸ぐらをつかんで殴りつけることもありません。

アメリカだったら同じことをしたら銃撃されている可能性もありますし、ヨーロッパであったらその場で押さえつけられてボコボコにされる可能性が高いです。

そもそも他の先進国では治安が悪いところも多く他所者が足を踏み入れた途端に注意されることだってあるからです。

こういう反応が当たり前ですから、日本人の謙遜や旅人への寛容さは「何かされることを受け入れている」「反撃する気力がない弱い奴ら」と思われてしまうわけです。

日本にはそんな所はありませんし一般の人たちも大変おとなしく心が優しいですから、彼らはそれを知っていて好き放題やるわけです。

日本人のこういった人の良さや大人しさは、ネットの動画を通じて世界中に広がります。それを素晴らしい、美徳だと賞賛してくれる人達がいる一方で、日本人はマヌケな奴らだと悪用しようとする人達もいるということは知っておいたほうが良いでしょう。


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地下鉄落書き、樹海の遺体…相次ぐ外国人の“非常識”動画 「日本はなめられている」2018.1.30
http://www.sankei.com/smp/affairs/news/180130/afr1801300018-s1.html


落書きが見つかった東京メトロ日比谷線の車両(ツイッターから)


 東京都内の地下鉄各線で、電車の車体に塗料で落書きされる事件が相次いでいる。外国人グループの関与も疑われるというが、動画サイトには日本を訪れた人物が電車などに落書きをする様子も数多く投稿されている。なぜ日本が狙われるのか。(夕刊フジ)


 地下鉄車両の落書きは13日以降、東京メトロ千代田線や日比谷線であったほか、18日には東西線の車両でも見つかった。

 「自己承認欲求、特に仲間内で自慢したいという心理があるようだ」とみるのは、都市部の落書きに詳しい東京都市大建築学科の小林茂雄教授。

 「外国人が観光ビザ等を取得し、1週間や10日間程度滞在して落書きをして帰国するというケースが多いようだが、電車の落書きの場合、車両の保管場所や監視カメラの位置、逃走経路などを綿密に調査している。国内にも協力者がおり、情報をこまめにやりとりしているのではないか」

 壁などにメッセージ性のある絵や文字を描く「グラフィティ」は近年は芸術としての認知も高くなり、日本国内でも町おこしに生かす事例もあるが、所有者や管理者に無許可で描けば器物損壊罪と建造物損壊罪に問われてもおかしくない。

 2008年には6都府県の地下鉄の車両などに落書きを繰り返したスロバキア人とハンガリー人が大阪府警に逮捕された例もある。

 日本を狙った落書きについて小林氏は「注目を浴びるような街や都市がターゲットとなるが、ニューヨークやロンドンなどはテロ対策もあってセキュリティーが厳しい。東京は凶悪犯罪が少なくセキュリティーが甘いと考えられているのではないか」と分析する。

 ユーチューブには、外国人とみられる人物が、日本の鉄道の駅や車両基地に夜中に忍び込み、スプレーで落書き、逃走する様子を撮影した動画も数多く投稿されている。

 ITジャーナリストの三上洋氏は「『やってやったんだ』『簡単だぞ』という意味で、描く過程をネットにアップして自慢するのもグラフィティの目的の一つだ。中には自分たちのグッズを販売しているグループもあり、金もうけとみることもできる」と語る。

 昨年末には米国人ユーチューバーが、富士山麓の青木ケ原樹海で自殺したとみられる遺体の動画を投稿。「不快になった」などネット上で批判された一方で約600万回も再生された。

 前出の三上氏は「日本はきれいな国で人がやさしいというイメージだから、それをおちょくっており、多少なめられている。他の動画でも日本人をバカにしていて、差別感情ともとれるものもあった」と話す。

 日本の安全性に甘えた身勝手な行為。そんなに目立ちたいのなら、もっとヤバい独裁国家で挑戦してみてはどうか。
http://www.sankei.com/smp/affairs/news/180130/afr1801300018-s1.html



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自分を知らない、言いなり=おもてなし、搾取されてもバカにされても気づかない日本人…(+_+) 2018年09月15日
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12404933569.html


以前「日本の見世物小屋化の別称「観光立国」=外国人仕様を増やす=「外国人で儲ける」業界づくり→移民受入」という記事で、『マリカーは生活に必要な日本人のインフラである公道を、一部の人間がレジャーに使っているのです。でも外国人が喜ぶからと批判も出ませんが、その姿が卑屈なことに日本人自身が全く気付いていません。』ということを書きましたが、それとも通じる記事を見ました。左下矢印

海外でなめられまくっている日本(May_Romaさま)


かつてはあこがれの対象だった日本は、いまでは落ちぶれた可哀想な国という印象です。

こういう書き出しで始まるこの記事、「日本スゲー」派の人に読んでいただきたいと思います。

ところで、こんなニュースがひっそりとありました。


9月9日午後1時55分ごろ、走行中の東京発博多行き山陽新幹線のぞみ19号(16両編成)で、果物ナイフのような刃物を持った外国人の男性観光客がいるのが見つかり、北九州市の小倉駅に停車した。通報を受け駆け付けた福岡県警小倉北署員が降車させ、任意同行した。乗客にけがはなかった。

 小倉北署によると「旅先で使うために持っていた。ナイフが汚れていたので洗いたかった」と説明している。県警は同行の女性と一緒に事情を聴き、銃刀法や軽犯罪法の違反には当たらないと判断した。
 下り2本が最大11分遅れ、計約500人に影響した。

ここでもおバカ対応で舐められる事例を作ってしまいました。ばかぁ

以前新幹線で殺傷事件が起きた後、『国交省は省令の鉄道運輸規程の改正に着手し、適切に梱包されていない刃物の列車内への持ち込み禁止を明文化する方針。利便性への影響などを考慮し、現時点で手荷物検査の導入は見送った。』という内容の報道が出ました。

欧州でイスラムテロがナイフを使っていること、鉄道でも何件も起きていることを何度も紹介していますが、日本の鉄道がナイフの持ち込みをOKしているようでは、そのうち狙われるようになります。前出のMay_Romaさまの記事内でも次のような文章があります。


日本人の謙遜や旅人への寛容さは「何かされることを受け入れている」「反撃する気力がない弱い奴ら」と思われてしまう~

今回たいしたことが無かったとしても、厳しく対処することでナイフを持ち歩く習性の外国人を震え上がらせなくてはいけなかったのです。アジア人だから、東洋人だから馬鹿にされるというのはいつもそうとは言えず、その国の対応で決まります。

今や、日本だから馬鹿にされるという状態です。rabbit*ハァ*

インバウンドで浮かれる業界ではこんな記事がありました。


【台風21号】大阪ホステルに聞いた 災害時の外国人対応「欧米人は『台風珍しい!動画撮りたい!』と外に出たがり静止するのが大変だった…」


ヨーロッパからの訪日外国人は、台風を知らない方が多いです。


日本人は、このような大きな災害があると自粛ムードに流されがちですが、訪日外国人はそんなことはありません。

とありますが、私達がサイクロンやハリケーンを知っているのに、欧州人は知らないというのでしょうか?

日本人は同胞が大変な目に遭っているという心配の気持ちがありますが、外国人には所詮他人事、日本人が死と直面するような大災害も「愉快なエンターテイメント」なんでしょう。

<「関空」大混乱に巻き込まれた中国人留学生の手記>という記事もありました。

この方は日本語ができるので自力で何とかしたようですが、こう書いてあります。


 現在、日本は国を挙げて観光立国を目指しています。しかし台風に限らず、地震をはじめ日本は世界的にも災害の多い国です。外国人旅行者の災害への不安が広がれば、観光へのダメージは大きくなっていくでしょう。

 私のように日本語が話せるわけではない外国人旅行者は、今回のような災害が起きたら、帰国の目途を立てられず、避難すら大変だと思います。災害の多い日本だからこそ、外国人旅行者へのケアを充実させる必要性があるのではないかと、今回の体験を通して強く感じました。

仰る通り日本は自然災害大国です。人口密度も高く、気候変動もあってか、どこでも被災地、誰もが被災者のようになってきています。

このような中、遊びに来た外国人のために日本人の税金から便宜を図るために何かしろというのは無理なんです。

だから「インバウンド」とやらで儲けているらしい業界が自力でやればいいのです。

それに海外にいる日本人は皆さんその国の行政に頼り切って対処しているんでしょうか?

大使館や領事館が緊急時にメールなどで情報もくれますし、居住者ならば関係している現地の人たちが情報をくれたり助けてくれたりします。旅行者なら旅行代理店などが連絡にあたります。

中国では災害時に日本語で親切丁寧な対応をしてくれるんですか?

南国のようなのんびりしたリゾート地でもなく、年がら年中あちらこちらで自然災害が発生し、物価も安くなく、底の浅い知識で来るような外国人観光客を相手にする日本政府の「観光立国」は実は移民受け入れ政策の一環で、日本人に外人慣れを促し、外国人用の生活インフラを整備させるのが目的だと私は考えています。

外国人用インフラについてついでに言うと、あちらこちらの看板などで注意事項や禁止事項が日本語だけというのがまだ多いです。注意や禁止事項こそ全部に英訳が必要(多言語は不要です。かえって見にくくなります。母国語⇔英語の辞書は必ずありますから。)でイラストも効果的です。トラブル防止にも役立ち外国人の為にもなりますし、日本人が英語で注意するときにも役立ちます。

日本が少子化でも「ダントツ」で豊かになる道(東洋経済)という記事のなかに、コマツの坂根相談役がこう発言しています。


よく「この国の労働力は逼迫している」といわれていますが、欧米に比べて国全体として、ムダな事業や仕事に雇用をたくさん抱えています。その部分を整理することができれば、新たな労働力を生み出すことができます。

そして「日本人手不足は2020年代半ばには解消される可能性が高いからです。日本人が移民と共生する覚悟が十分にないのであれば、拙速な移民の促進はやめたほうが賢明なのではないでしょうか。」という問いかけに対して坂根氏は次のように答えています。


私も同じような心配をしています。おそらく業界内で競争力のない企業ほど外国人を安い賃金で雇いたいという願望が強いでしょう。ということは、同一労働していても外国人を日本人より安く使うといったことになり、結果的には、外国人労働者から見てこの国の魅力はなくなり、優秀な外国人労働者までもが日本に来ようとは思わなくなっていくでしょう。

むしろ本当の労働力といった意味では、国を挙げての少子化対策と高齢者や女性の労働力を活かすことをまず第一に考えるべきです。簡単に移民の受け入れに逃げてはいけないと思っています。無駄な雇用に手をつけないで移民に頼っていては、日本にせっかく変われるチャンスがきているのに、そのチャンスを逸してしまうことになります。

外国人雇用の拡充は「無能な経営者」の甘えだ ~生産性向上のチャンスを逃す「愚策」を許すな(デービッド・アトキンソン)という記事を以前紹介しましたが、この中で彼は、日本政府は日本人労働者をバカにしていると書いています。

その日本政府は世界中で馬鹿にされているようにみえます。

日本人が馬鹿にされているのと同じ理由からです。

海外ニュース翻訳情報局さまからの次の記事はお薦めです。

元米軍海兵隊士官提言・必読】東京からの視点? 控えめな反応

プーチンからもシージンピンからもトランプからも鼻であしらわれているのに、さも世界中から重要人物扱いされているかのように安倍首相を持ち上げ、世界で起きている重要な変動を見ないふりしている日本は、ますます困ったことになっていくのではないかと思います。

国力が劣っているので我慢を強いられることもあるでしょうが、そんななか、自尊心もなくし外国人さまに媚び諂うことをおもてなしと言い、外からも内からも骨抜きにされているような感じがしてなりません。

EUでサマータイムが住民の意向で廃止されようかという時に、<「非常に良い解決策」、 IOCが東京五輪でのサマータイム導入を支持>というのも、日本人の外人崇拝を知っている森さんかJOCがIOCに言ってもらったんだろうなと思います。

それに、迷惑を被る日本人の反対を、迷惑を被らないその時だけの外国人が、それも運動会のために抑え込もうとしていること自体日本人が馬鹿にされているということなんです。

だからといって野党を応援しているわけではありません。

「第3子出産で1000万円」国民民主党・玉木代表「コドモノミクス」に注目集まる 「電子マネーで配布」「外国人は対象外」

このなかで、玉木氏は「国民の税金なので外国人にも行う政策ではない」と言っていますが、実際にそういう法律を政府が作れば外国人差別は出来ないのです。外国人も税金を払っているというでしょう?生活保護は憲法上国民が対象なのに実際は外国人がもらっています。

工作機関の朝鮮学校が「金出せ!」と裁判していますよね?

内外人平等が法整備された日本で、こんなことしか言わないような野党にも明日はありません。それとも裁判で負けて「仕方なく」外国人にも払うことが織り込み済みなんでしょうか。怒る

ダライ・ラマ氏があのスウェーデン・マルメでまともなことを言ってくれました。

「欧州は欧州人のもの」ダライ・ラマが法話で移民問題に言及

自国の再建に尽くさないで他人の財布で生きることを望むような外国人、又は受け入れてくれた国を自分好みに変えようと活動する人には耳が痛いでしょう。

移民が移民を呼び込み、受け入れてくれた国を自分の好きなように変えて、その国民にさらなる負担を強いる活動(いじめ問題と難民問題を同一視するサヘル・ローズさんなど)は、私たちの社会を軽んじているからこそできるのでしょう。

日本人は、日本人からも「いいカモ」として絞られています。

携帯の料金体系がカルテルみたいで異常な契約形態であるのは、そこに無駄に人が群がっているからで、NHKが不要なチャンネルを増やし1人で出来る番組に(芸の無い)芸人の生活救済のため多数を出演させギャラを払い、そのために国民から不必要に高額なお金を巻き上げているのもそこに無駄に人が群がっているからです。

そして、それを政治家が黙認して是正しないのは国民がその無駄を異常と思わず当然視しているからです。

余計な斡旋で5次6次受けみたいな業界を作り、労せずして丸投げで儲ける人たちもいます。

人手不足はこういう無駄な仕事を無くし、大量の余剰人員をまともな正業にシフトすることで解消できる部分もあると思います。

それをやるのが政治です。

それをしないで外国人移民を入れても上手く回らないだろうことは素人でも想像できますし、カルテルや、手数料を高額にして取れるところから最大限搾り取るようなビジネスモデル、仲介料を何段階も通って高額になるような仕組みがまかり通る日本には健全な社会が育たないと思います。このボッタクリから逃れるための「研究」サイトもありますが、そういうことに時間をかけることもまた日本全体を疲弊させますし、諦めた人は無駄な出費を強いられます。はこ怒る

日本の政治家にろくでも無い者しかいないのは、他力本願で、搾取されている自覚がなく、バカにされている自覚もない多くの日本人の代表だからではないかと思います。

外国からも同じ日本人からも騙され搾取されている、これを自覚しなければいけないのです。

日本人 大丈夫?

日本人である自分の将来が本当に心配です。
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12404933569.html
27:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:08:37

外国語学習について - 内田樹の研究室 2018-10-31


2018年6月12日に「文系教科研究会」というところで、私立の中学高校の英語の先生たちをお相手に英語教育についてお話した。その一部をここに掲載する。

ここで論じたのは英語だけれど、言語教育一般について適用できる議論だと思う。
ここ数日、「論理国語」と「文学国語」というカテゴライズをするという話がTLを飛び交っているけれど、それがほんとうだとしたら、それはたぶん言語というものについて一度も真剣に思量したことのない人間の脳裏に去来したアイディアだろうと思う。それはまさに「植民地における現地人への宗主国言語教育」とまったく同型的なものだからだ。

国語教育においても「植民地現地人」に求められる言語能力は同じである。

それは宗主国アメリカに仕え、アメリカに朝貢することで「代官」「買弁」としての地位を保全している日本の支配層たちが、同国人の知性の発達を阻害し、日本人を愚民化することで、属国日本をアメリカが支配しやすいようにするために作り出した仕掛けである。

以下がそのときの講演。途中からなので、話が見えにくいのはご容赦。

外国語学習について語るときに、「目標言語」と「目標文化」という言葉があります。

「目標言語」というのは、今の場合なら、例えば英語です。なぜ英語を学ぶのか。それは「目標文化」にアクセスするためです。英語の場合であれば、ふつうは英語圏の文化が「目標文化」と呼ばれます。

僕らの世代において英語の目標文化ははっきりしていました。それは端的にアメリカ文化でした。アメリカ文化にアクセスすること、それが英語学習の最も強い動機でした。僕たちの世代は、子どものときからアメリカ文化の洪水の中で育っているわけですから、当然です。FENでロックンロールを聴き、ハリウッド映画を観て、アメリカのテレビドラマを観て育ったわけですから、僕らの世代においては「英語を学ぶ」というのは端的にアメリカのことをもっと知りたいということに尽くされました。

僕も中学や高校で「英語好き」の人にたくさん会いましたけれど、多くはロックの歌詞や映画の台詞を聴き取りたい、アメリカの小説を原語で読みたい、そういう動機で英語を勉強していました。

僕もそうでした。英語の成績は中学生からずっとよかったのですが、僕の場合、一番役に立ったのはビートルズの歌詞の暗記でした。ビートルズのヒット曲の歌詞に含まれる単語とイディオムを片っ端から覚えたのですから、英語の点はいいはずです。

つまり、英語そのものというよりも、「英語の向こう側」にあるもの、英米の文化に対する素朴な憧れがあって、それに触れるために英語を勉強した。英米のポップ・カルチャーという「目標文化」があって、それにアクセスするための回路として英語という「目標言語」を学んだわけです。

その後、1960年代から僕はフランス語の勉強を始めるわけですけれども、この時もフランス語そのものに興味があったわけではありません。フランス語でコミュニケーションしたいフランス人が身近にいたわけではないし、フランス語ができると就職に有利というようなこともなかった。そういう功利的な動機がないところで学び始めたのです。フランス文化にアクセスしたかったから。

僕が高校生から大学生の頃は、人文科学・社会科学分野での新しい学術的知見はほとんどすべてがフランスから発信された時代でした。40年代、50年代のサルトル、カミュ、メルロー=ポンティから始まって、レヴィ=ストロース、バルト、フーコー、アルチュセール、ラカン、デリダ、レヴィナス・・・と文系の新しい学術的知見はほとんどフランス語で発信されたのです。

フランス語ができないとこの知的領域にアクセスできない。当時の日本でも、『パイデイア』とか『現代思想』とか『エピステーメー』とかいう雑誌が毎月のようにフランスの最新学術についての特集を組むのですけれど、「すごいものが出て来た」と言うだけで、そこで言及されている思想家や学者たちの肝心の主著がまだ翻訳されていない。フランス語ができる学者たちだけがそれにアクセスできて、その新しい知についての「概説書」や「入門書」や「論文」を独占的に書いている。とにかくフランスではすごいことになっていて、それにキャッチアップできないともう知の世界標準に追いついてゆけないという話になっていた。でも、その「すごいこと」の中身がさっぱりわからない。フランス語が読めないと話にならない。ですから、60年代―70年代の「ウッドビー・インテリゲンチャ」の少年たちは雪崩打つようにフランス語を学んだわけです。それが目標文化だったのです。 

のちに大学の教師になってから、フランス語の語学研修の付き添いで夏休みにフランスに行くことになった時、ある年、僕も学生にまじって、研修に参加したことがありました。振り分け試験で上級クラスに入れられたのですけれど、そのクラスで、ある日テレビの「お笑い番組」のビデオを見せて、これを聴き取れという課題が出ました。僕はその課題を拒否しました。悪いけど、僕はそういうことには全然興味がない。僕は学術的なものを読むためにフランス語を勉強してきたのであって、テレビのお笑い番組の早口のギャグを聴き取るために労力を使う気はないと申し上げた。その時の先生は真っ赤になって怒って、「庶民の使う言葉を理解する気がないというのなら、あなたは永遠にフランス語ができるようにならないだろう」という呪いのような言葉を投げかけたのでした。結局、その呪いの通りになってしまったのですけれど、僕にとっての「目標文化」は1940年から80年代にかけてのフランスの知的黄金時代のゴージャスな饗宴の末席に連なることであって、現代のフランスのテレビ・カルチャーになんか、何の興味もなかった。ただ、フランス語がぺらぺら話せるようになりたかったのなら、それも必要でしょうけれど、僕はフランスの哲学者の本を読みたくてフランス語を勉強し始めたわけですから、その目標を変えるわけにゆかない。フランス語という「目標言語」は同じでも、それを習得することを通じてどのような「目標文化」にたどりつこうとしているのかは人によって違う。そのことをその時に思い知りました。

ロシア語もそうです。今、大学でロシア語を第二外国語で履修する学生はほとんどいません。でも、若い方はもうご存じないと思いますけれど、1970年に僕が大学入学したとき、理系の学生の第二外国語で一番履修者が多かったのはロシア語だったのです。

「スプートニク・ショック」として知られるように、60年代まではソ連が科学技術のいくつかの分野でアメリカより先を進んでいたからです。科学の最先端の情報にアクセスするためには英語よりもロシア語が必要だった。でも、ソ連が没落して、科学技術におけるアドバンテージが失われると、ロシア語を履修する理系の学生はぱたりといなくなりました。もちろんドストエフスキーを読みたい、チェーホフを読みたいというような動機でロシア語を履修する学生の数はいつの時代もいます。目標文化が「ロシア文学」である履修者の数はいつの時代もそれほど変化しない。けれども、目標文化が「ソ連の科学の先進性」である履修者は、その目標文化が求心力を失うと、たちまち潮が引くようにいなくなる。

僕の学生時代はフランス語履修者がたくさんおりました。でも、その後、フランス語履修者は急減しました。ある時点で中国語に抜かれて、今はもう見る影もありません。

理由の一つは、日本のフランス語教員たちが学生たちの知的好奇心を掻き立てることができなかったせいなのですけれど、それ以上に本国のフランスの文化的な発信力が低下したことがあります。フランス文化そのものに日本の若者たちを「目標」として惹きつける魅力がなくなってしまった。

フランス語やロシア語の例から知れる通り、われわれが外国語を学ぶのは目標文化に近づくためなのです。目標文化にアクセスするための手段として目標言語を学ぶ。

しかし、まことに不思議なことに、今の英語教育には目標文化が存在しません。英語という目標言語だけはあるけれども、その言語を経由して、いったいどこに向かおうとしているのか。向かう先はアメリカでもイギリスでもない。カナダでもオーストラリアでもない。どこでもないのです。

何年か前に、推薦入試の入試本部で学長と並んで出願書類をチェックしていたことがありました。学長は英文科の方だったのですけれど、出願書類の束を読み終えた後に嘆息をついて、「内田さん、今日の受験者150人の中に『英文科志望理由』に『英米文学を学びたいから』と書いた人が何人いると思う?」と訊いてきました。「何人でした?」と僕が問い返すと「2人だけ」というお答えでした「後は、『英語を生かした職業に就きたいから』」だそうでした。

僕の知る限りでも、英語を学んで、カタールの航空会社に入った、香港のスーパーマーケットに就職した、シンガポールの銀行に入ったという話はよく聞きます。別にカタール文化や香港文化やシンガポール文化をぜひ知りたい、その本質に触れたいと思ってそういう仕事を選んだわけではないでしょう。彼らにとって、英語はたしかに目標言語なのですけれど、めざす目標文化はどこかの特定の文化圏のものではなく、グローバルな「社会的な格付け」なのです。高い年収と地位が得られるなら、どの外国でも暮らすし、どの外国でも働く、だから英語を勉強するという人の場合、これまでの外国語教育における目標文化に当たるものが存在しない。
これについては平田オリザさんが辛辣なことを言っています。彼に言わせると、日本の今の英語教育の目標は「ユニクロのシンガポール支店長を育てる教育」だそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」はもちろん有用な仕事であり、しかるべき能力を要するし、それにふさわしい待遇を要求できるポストですけれど、それは一人いれば足りる。何百万単位で「シンガポール支店長」を「人形焼き」を叩き出すように作り出す必要はない。でも、現在の日本の英語教育がめざしているのはそういう定型です。

僕は大学の現場を離れて7年になりますので、今の大学生の学力を知るには情報が足りないのですけれども、それでも、文科省が「英語ができる日本人」ということを言い出してから、大学に入学してくる学生たちの英語力がどんどん低下してきたことは知っています。それも当然だと思います。英語を勉強することの目標が、同学齢集団内部での格付けのためなんですから。低く査定されて資源分配において不利になることに対する恐怖をインセンティヴにして英語学習に子どもたちを向けようとしている。そんなことが成功するはずがない。恐怖や不安を動機にして、知性が活性化するなんてことはありえないからです。

僕は中学校に入って初めて英語に触れました。それまではまったく英語を習ったことがなかった。1960年頃の小学生だと、学習塾に通っているのがクラスに二三人、あとは算盤塾くらいで、小学生から英語の勉強している子どもなんか全然いません。ですから、FENでロックンロールは聴いていましたけれど、DJのしゃべりも、曲の歌詞も、ぜんぶ「サウンド」に過ぎず、意味としては分節されていなかった。それが中学生になるといよいよ分かるようになる。入学式の前に教科書が配られます。英語の教科書を手にした時は、これからいよいよ英語を習うのだと思って本当にわくわくしました。これまで自分にとってまったく理解不能だった言語がこれから理解可能になってゆくんですから。自分が生まれてから一度も発したことのない音韻を発声し、日本語に存在しない単語を学んで、それが使えるようになる。その期待に胸が膨らんだ。

今はどうでしょう。中学校一年生が四月に、最初の英語の授業を受ける時に、胸がわくわくどきどきして、期待で胸をはじけそうになる・・・というようなことはまずないんじゃないでしょうか。ほかの教科とも同じでしょうけれど、英語を通じて獲得するものが「文化」ではないことは中学生にもわかるからです。

わかっているのは、英語の出来不出来で、自分たちは格付けされて、英語ができないと受験にも、就職にも不利である、就職しても出世できないということだけです。そういう世俗的で功利的な理由で英語学習を動機づけようとしている。でも、そんなもので子どもたちの学習意欲が高まるはずがない。

格付けを上げるために英語を勉強しろというのは、たしかにリアルではあります。リアルだけれども、全然わくわくしない。外国語の習得というのは、本来はおのれの母語的な枠組みを抜け出して、未知のもの、新しいものを習得ゆくプロセスのはずです。だからこそ、知性の高いパフォーマンスを要求する。自分の知的な枠組みを超え出てゆくわけですから、本当なら「清水の舞台から飛び降りる」ような覚悟が要る。そのためには、外国語を学ぶことへ期待とか向上心とか、明るくて、風通しのよい、胸がわくわくするような感じが絶対に必要なんですよ。恐怖や不安で、人間はおのれの知的な限界を超えて踏み出すことなんかできません。
でも、文科省の『「英語ができる日本人」の育成のための行動計画の策定について』にはこう書いてある。

「今日においては、経済、社会の様々な面でグローバル化が急速に進展し、人の流れ、物の流れのみならず、情報、資本などの国境を超えた移動が活発となり、国際的な相互依存関係が深まっています。それとともに、国際的な経済競争は激化し、メガコンペティションと呼ばれる状態が到来する中、これに対する果敢な挑戦が求められています。」

冒頭がこれです。まず「経済」の話から始まる。「経済競争」「メガコンペティション」というラットレース的な状況が設定されて、そこでの「果敢な挑戦」が求められている。英語教育についての基本政策が「金の話」と「競争の話」から始まる。始まるどころか全篇それしか書かれていない。

「このような状況の中、英語は、母語の異なる人々をつなぐ国際的共通語として最も中心的な役割を果たしており、子どもたちが21世紀を生き抜くためには、国際的共通語としての英語のコミュニケーション能力を身に付けることが不可欠です」という書いた後にこう続きます。

「現状では、日本人の多くが、英語力が十分でないために、外国人との交流において制限を受けたり、適切な評価が得られないといった事態も起きています。」
「金」と「競争」の話の次は「格付け」の話です。ここには異文化に対する好奇心も、自分たちの価値観とは異なる価値観を具えた文化に対する敬意も、何もありません。人間たちは金を求めて競争しており、その競争では英語ができることが死活的に重要で、英語学力が不足していると「制限を受けたり」「適切な評価が得られない」という脅しがなされているだけです。そんなのは日本人なら誰でもすでに知っていることです。でも、「英語ができる日本人」に求められているのは「日本人なら誰でもすでに知っていること」なのです。

外国語を学ぶことの本義は、一言で言えば、「日本人なら誰でもすでに知っていること」の外部について学ぶことです。母語的な価値観の「外部」が存在するということを知ることです。自分たちの母語では記述できない、母語にはその語彙さえ存在しない思念や感情や論理が存在すると知ることです。

でも、この文科省の作文には、外国語を学ぶのは「日本人なら誰でもすでに知っていること」の檻から逃れ出るためだという発想がみじんもない。自分たちの狭隘な、ローカルな価値観の「外側」について学ぶことは「国際的な相互依存関係」のうちで適切なふるまいをするために必須であるという見識さえ見られない。僕は外国語学習の動機づけとして、かつてこれほど貧しく、知性を欠いた文章を読んだことがありません。

たしかに、子どもたちを追い込んで、不安にさせて、処罰への恐怖を動機にして何か子どもたちが「やりたくないこと」を無理強いすることは可能でしょう。軍隊における新兵の訓練というのはそういうものでしたから。処罰されることへの恐怖をばねにすれば、自分の心身の限界を超えて、爆発的な力を発動させることは可能です。スパルタ的な部活の指導者は今でもそういうやり方を好んでいます。でも、それは「やりたくないこと」を無理強いさせるために開発された政治技術です。
ということは、この文科省の作文は子どもたちは英語を学習したがっていないという前提を採用しているということです。その上で、「いやなこと」を強制するために、「経済競争」だの「メガコンペティション」だの「適切な評価」だのという言葉で脅しをかけている。

ここには学校教育とは、一人一人の子どもたちがもっている個性的で豊かな資質が開花するのを支援するプロセスであるという発想が決定的に欠落しています。子どもたちの知性的・感性的な成熟を支援するのが学校教育でしょう。自然に個性や才能が開花してゆくことを支援する作業に、どうして恐怖や不安や脅迫が必要なんです。勉強しないと「ひどい目に遭うぞ」というようなことを教師は決して口にしてはならないと僕は思います。学ぶことは子どもたちにとって「喜び」でなければならない。学校というのは、自分の知的な限界を踏み出してゆくことは「気分のいいこと」だということを発見するための場でなければならない。

この文章を読んでわかるのは、今の日本の英語教育において、目標言語は英語だけれど、目標文化は日本だということです。今よりもっと日本的になり、日本的価値観にがんじがらめになるために英語を勉強しなさい、と。ここにはそう書いてある。目標文化が日本文化であるような学習を「外国語学習」と呼ぶことに僕は同意するわけにはゆきません。

僕自身はこれまでさまざまな外国語を学んできました。最初に漢文と英語を学び、それからフランス語、ヘブライ語、韓国語といろいろな外国語に手を出しました。新しい外国語を学ぶ前の高揚感が好きだからです。日本語にはない音韻を発音すること、日本語にはない単語を知ること、日本語とは違う統辞法や論理があることを知ること、それが外国語を学ぶ「甲斐」だと僕は思っています。習った外国語を使って、「メガコンペティションに果敢に挑戦」する気なんか、さらさらありません。

外国語を学ぶ目的は、われわれとは違うしかたで世界を分節し、われわれとは違う景色を見ている人たちに想像的に共感することです。われわれとはコスモロジーが違う、価値観、美意識が違う、死生観が違う、何もかも違うような人たちがいて、その人たちから見た世界の風景がそこにある。外国語を学ぶというのは、その世界に接近してゆくことです。 

フランス語でしか表現できない哲学的概念とか、ヘブライ語でしか表現できない宗教的概念とか、英語でしか表現できない感情とか、そういうものがあるんです。それを学ぶことを通じて、それと日本語との隔絶やずれをどうやって調整しようか努力することを通じて、人間は「母語の檻」から抜け出すことができる。

外国語を学ぶことの最大の目標はそれでしょう。母語的な現実、母語的な物の見方から離脱すること。母語的分節とは違う仕方で世界を見ること、母語とは違う言語で自分自身を語ること。それを経験することが外国語を学ぶことの「甲斐」だと思うのです。

でも、今の日本の英語教育は「母語の檻」からの離脱など眼中にない。それが「目標言語は英語だが、目標文化は日本だ」ということの意味です。外国語なんか別に学ぶ必要はないのだが、英語ができないとビジネスができないから、バカにされるから、だから英語をやるんだ、と。言っている本人はそれなりにリアリズムを語っているつもりでいるんでしょう。でも、現実にその結果として、日本の子どもたちの英語力は劇的に低下してきている。そりゃそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」が「上がり」であるような英語教育を受けていたら、そもそもそんな仕事に何の興味もない子どもたちは英語をやる理由がない。

(中略)

今は英語教育にとりわけ中等教育では教育資源が偏ってきています。他の教科はいいから、とにかく英語をやれという圧力が強まっています。別にそれは英語の教員たちが望んだことではないのだけれど、教育資源が英語に偏っている。特に、オーラル・コミュニケーション能力の開発に偏っている。何でこんなに急激にオーラルに偏ってきたかというと、やはりこれは日本がアメリカの属国だということを抜きには説明がつかない。

「グローバル・コミュニケーション」と言っても、オーラルだけが重視されて、読む力、特に複雑なテクストを読む能力はないがしろにされている。これは植民地の言語教育の基本です。

植民地では、子どもたちに読む力、書く力などは要求されません。オーラルだけできればいい。読み書きはいい。文法も要らない。古典を読む必要もない。要するに、植民地宗主国民の命令を聴いて、それを理解できればそれで十分である、と。それ以上の言語運用能力は不要である。理由は簡単です。オーラル・コミュニケーションの場においては、ネイティヴ・スピーカーがつねに圧倒的なアドバンテージを有するからです。100%ネイティヴが勝つ。「勝つ」というのは変な言い方ですけれども、オーラル・コミュニケーションの場では、ネイティヴにはノン・ネイティヴの話を遮断し、その発言をリジェクトする権利が与えられています。ノン・ネイティヴがどれほど真剣に、情理を尽くして話していても、ネイティヴはその話の腰を折って「その単語はそんなふうには発音しない」「われわれはそういう言い方をしない」と言って、話し相手の知的劣位性を思い知らせることができる。

逆に、植民地的言語教育では、原住民の子どもたちにはテクストを読む力はできるだけ付けさせないようにする。うっかり読む力が身に着くと、植民地の賢い子どもたちは、宗主国の植民地官僚が読まないような古典を読み、彼らが理解できないような知識や教養を身に付ける「リスク」があるからです。植民地の子どもが無教養な宗主国の大人に向かってすらすらとシェークスピアを引用したりして、宗主国民の知的優越性を脅かすということは何があっても避けなければならない。だから、読む力はつねに話す力よりも劣位に置かれる。「難しい英語の本なんか読めても仕方がない。それより日常会話だ」というようなことを平然と言い放つ人がいますけれど、これは骨の髄まで「植民地人根性」がしみこんだ人間の言い草です。

「本を読む」というのはその国の文化的な本質を理解する上では最も効率的で確実な方法です。でも、植民地支配者たちは自分たちの文化的な本質を植民地原住民に理解されたくなんかない。だから、原住民には、法律文書や契約書を読む以上の読解力は求めない。

今の日本の英語教育がオーラルに偏って、英語の古典、哲学や文学や歴史の書物を読む力を全く求めなくなった理由の一つは「アメリカという宗主国」の知的アドバンテージを恒久化するためです。だから、アメリカ人は日本人が英語がぺらぺら話せるようになることは強く求めていますけれど、日本の子どもたちがアメリカの歴史を学んだり、アメリカの政治構造を理解したり、アメリカの文学に精通したりすること、それによってアメリカ人が何を考えているのか、何を欲望し、何を恐れているのかを知ることはまったく望んでいません。

(以下略)

「原住民には法律文書や契約書を読む以上の読解力は求めない」ということを英語教育について書いたら、国語教育でも同じことをしようとしているということを知らされた。

まことに情けない国に成り下がったものである。
http://blog.tatsuru.com/2018/10/31_1510.html
28:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:09:33

2018.04.21
もう日本人の出る幕なし?外国人だらけのニセコに見る日本の未来
このままでは「観光大国」は遠い夢…
高橋 克英
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55346



いまや「日本で最も国際的なリゾート」といわれる北海道ニセコ。
街は外国人で溢れ、看板や物価も完全に富裕層向けにシフトしている。

高級ホテルの建設ラッシュに沸く同地区は、地価の上昇でも3年連続国内トップを記録した。ところが、当然ウハウハだと思われた地元経済の実態は……? 

毎年同地をスキーで訪れている金融コンサルタント、マリブジャパン代表の高橋克英さんが、最新事情から「インバウンド」という言葉にすがる日本の未来を読み解く。

日本人客にも「まずは英語で話しかける」ニセコ事情

パウダースノーで世界的に有名な北海道のニセコリゾート。オーストラリア人やフランス人に華僑を中心に、今年も世界中から多くのスキーヤー、スノーボーダ―が同地を訪れ、温泉とともにスノーシーズンを満喫した。

地元の倶知安町が、スイスのサンモリッツと姉妹都市の提携を結んでから54年、いまやニセコは「東洋のサンモリッツ」から「世界のニセコ」として、その名を世界のスキーヤーや富裕層に知られる存在となっている。

私事ながらスキーが趣味で、ここ数年、毎年ニセコを訪れているが、その変貌には目を見張るばかりだ。例えば、ニセコ地区にある4つのスキー場の一つ、東山エリアの中核ホテルである「ヒルトンニセコビレッジ」の館内表記は、日本語よりも英語が先にあり、ホテル従業員も基本、外国人。当然「公用語」は英語である。

館内の寿司屋では板前が、私のように、どこから見ても日本人にしか見えない相手に対してでも、まずは英語で話かけてくる。宿泊客や利用客の大半が外国人なのだから、見かけは日本人でも、ひょっとしたら外国人かもしれないと考えて接するのは合理的だろう。

こうしたサービスは、なにも外資系のホテルだから行われているというわけではない。

ニセコで最も栄えている「ひらふ」エリアは、まるでスイスやイタリアの高級スキーリゾートのようだ。ショップの看板や広告も英語表記オンリーで、日本語が一切ない店も珍しくない。ショップの客も従業員も外国人。ひらふ十字路を中心に、スキー場のリフトに乗る地点までのひらふ坂の両側には、欧風デザインのホテルや近代的なコンドミニアムが並んでおり、そのほとんどが外国資本による外国人相手のものだ。

現在も、ひらふ地区では、あちこちでクレーン車と英語表記の建設看板が立ち並び、さらなる開発が進められている。たとえば今年、私が訪れた際もシンガポールの大手デベロッパーであるSCグローバルが、外国人富裕層向け高級ホテルを建設中だった。


[写真]まるで海外のように英語表記の看板が建ち並ぶニセコの街(Photo by GettyImages)まるで海外のように英語表記の看板が建ち並ぶニセコの街(Photo by GettyImages)

日本であって、日本ではない

冬のニセコは、日本でもっとも外国人率が高い街であり、もはやここは日本であって日本ではない。

京都や金沢など、近年日本の多くの観光地には外国人観光客が訪れている。だが、それらとニセコには決定的な違いがある。それは、ビジネスの対象を外国人、それも富裕層に特化していることだ。しかも、その戦略は大成功を収めている。

欧米などのスキーリゾートを対象とした「ワールド・スキー・アワード」における、50室未満のブティックホテル部門で、ひらふ地区にある高級デザイナーズ・ホテル「ザ・ヴェール・ニセコ」が世界一に輝いている。カテゴリーが限定されているとはいえ、日本にあるホテルが世界的にこれだけ高く評価された例は過去にもほとんどないはずだ。

「ザ・ヴェール・ニセコ」の最上階に位置するペントハウスは、ニセコでも最高級とされる部屋の一つで、187㎡の広々とした室内には最高のプレミアム暖炉、バスルーム3つを備え、天井まで届く大きな窓からは北海道の名峰・羊蹄山の壮大な眺めを一望できる。スキーのあとは開放感あふれる57㎡を誇るバルコニーの露天風呂でゆっくりと星空を眺めながらリラックス。まさに至福のひとときに違いない。

このペントハウスは、トップシーズンでは1泊50万円を超えるのだが、なんと、すでに来年2019年のシーズンまで予約で満室状態だという。

ちなみに、ホテル予約検索サイト「エクスペディア」などで、今年12月から来年3月のスキーシーズンにて宿泊予約しようとしても、「ザ・ヴェール・ニセコ」はじめ、ニセコ地区の高級ブティックホテルは、軒並み既に満室や売り切れとなっている。繰り返すが、今年ではなく、まだ1年近く先の来シーズンの話だ。まるで、バブル期の東京湾岸エリアや都心のクリスマス時期のホテル予約のような狂乱ぶりではないか。

ニセコが世界的に注目されはじめたのは2000年頃からだ。最初はオーストラリア人から人気に火がつき、その後、SNSなどを通じて評判が広がると、フランスを中心に、イギリス、ドイツ、北欧など、ヨーロッパ各国からもスキーヤーが訪れるようになった。

理由はズバリ、雪質にある。ご存知の方も多いと思うが、ヨーロッパのアルプスなどの雪質は固く締まっており、初心者には荷が重いところが少なくない。それに対し、ニセコはサラサラのパウダースノーで、しかも毎日のように雪が降るから常に新雪。一度これを体験すると、その違いに病みつきになる人が続出するのも頷ける。しかも、ナイター施設なども充実しているのに加えて、温泉や北海道の食と魅力に溢れている。

物価も「世界の高級リゾート水準」

さらに、ここ数年は、香港やシンガポール、マレーシア、台湾などの華僑を中心とした富裕層や、フィリピン、ベトナム、タイなど、雪が降らない国からの観光客も急増した。大げさではなくニセコでは日本人を探すのが困難になるほど、外国人で賑わっている。

リッチな外国人客を相手にしているため、物価も世界の高級リゾート相場になっている。ゲレンデ周辺では、ランチの海鮮丼でさえ5000円というのが、ごく標準的な料金だ。すし盛り合わせになると松竹梅で、それぞれ1万円、2万円、3万円も珍しくない。価格に、5000円、1万円といったキリのいい数字がやたらと多いのは、両替や換算を意識してのことだという。

これだけお金持ちが集まれば当然、地元経済にも恩恵が大きいだろうと思われそうだが、残念ながらそうでもないようだ。

まずショップやレストランだが、いまでは客はもちろん、従業員までも外国人が目立つようになり、日本人の姿がめっきり減っている。私が毎年訪れているレストランでも、昨年までは地元の日本人女性2人が「May I help you?」と慣れない英語で接客のアルバイトをしていたが、今回は、夏場はロンドンで働き、冬はニセコでスキーを楽しみながらアルバイトしているというフランス人青年と、職を求めて中国本土からやってきた20代女性の2名にとって代わられていた。これだけ多くの国から観光客がやってくると、接客にも英語だけでなく、フランス語や広東語までが求められる。これでは、普通の日本人が出る幕はないかもしれない。

「99.9%お客さんは外国人。今日もフランス人の団体と、香港やマレーシアからのグループの予約で満席です。彼らが満足する接客は、日本人では難しいですね」と英語でアルバイトに指示を出しながら、日本人の料理長は話していた。


[写真]外国人客でごった返すニセコのスキー場の食堂(Photo by GettyImages)外国人客でごった返すニセコのスキー場の食堂(Photo by GettyImages)

ニセコ地区では、外国資本による別荘やコンドミニアムの開発も進んでおり、外国人スキーヤーや観光客だけでなく、外国人居住者も年々増加している。こうした外国人のために働く外国人従業員の増加もまた、続いている。地元の学校には外国人の子供が増え、新たにインターナショナルスクールも作られているという。


なぜか地元も国内資本も儲けられていない

流入人口が増えれば、当然地価は上昇する。3月末、国土交通省から発表された公示地価では、地元の倶知安町の住宅地の公示地価は前年比33.3%と3年連続全国トップ。しかもトップ3をニセコ地区が独占した。さらに、商業地でも35.6%と全国トップとなり、まさにニセコが日本全国を圧倒している。

そうなれば、少なくとも不動産開発の分野では、日本のデベロッパーや金融機関が荒稼ぎしているのだろうと思ったのだが、どうやら、それもないようだとわかって驚いた。

私が調べた限り、ニセコでの海外富裕層向けを中心としたコンドミニアムや別荘への不動産投資ニーズに、国内の不動産業者・銀行は、ほとんど応えられていない。海外不動産業者やプライベートバンクと海外富裕層との間には、独自のネットワークが形成され、日系企業が入り込む余地がほとんどない状態であるという。

ニセコは、まさに「外国人の、外国人による、外国人のためのリゾート」と化していると言っていいだろう。地元ニセコ町の分析でも、民間消費や観光業の生産額のほとんどが、町外に流出超過だとされている。観光客や投資の増加は、もはや地域の収入には十分つながっていないというわけだ。

もちろん、ニセコ興隆は悪いことではない。ただ、観光客やスキーヤーたちがこれほどお金を落としてくれているのに、地元や日本経済に恩恵がないというのは、もったいなさすぎる。「おもてなしの心」などという美学を奉じて、細やかな気配りを観光産業の中心にすえるのもよいが、奥ゆかしいばかりでハングリー精神に欠けては、世界を相手に、いただけるものもいただけないことになってしまう。


[写真]メニューの表示も英語のほうが目立つニセコのレストラン(Photo by GettyImages)メニューの表示も英語のほうが目立つニセコのレストラン(Photo by GettyImages)

折しも、来年のG20大阪開催にあわせ、G20観光相会議がニセコで開催されることが決まっている。それに合わせてパークハイアットやリッツ・カールトンといった外資系超高級ホテルやコンドミニアムの開業も予定されており、北海道新幹線の札幌までの延伸にあわせ、ニセコ地区にも新駅ができる予定だ。共存共栄の世界を目指して、出遅れている国内資本による投資の増加に期待したい。

そこでの成否が、「観光大国」を目指す日本の未来をうらなう試金石になる、と言っても、あながち大げさにすぎるということはないだろう。
29:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:10:32

世界でバカにされる日本人 - 今すぐ知っておきたい本当のこと - (ワニブックスPLUS新書)
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海外でなめられまくっている日本 2018年9月11日
https://cakes.mu/posts/21698


日本では「日本スゲー」というTV番組が人気ですが、海外経験豊富な元国連専門機関職員の@May_Roma(めいろま)さんは、8月24日発売の『世界でバカにされている日本人』では世界における日本の心の姿を紹介しています。


かつてはあこがれの対象だった日本は、いまでは落ちぶれた可哀想な国という印象です。そのような変化がよく分かるのが、世界各国のネットでの反応です。

特に若い人や子供の間では今やネットで得る情報は動画が中心なので、ネット動画の世界で日本がどのように扱われているかをみることで、日本のイメージを知ることが可能です。

ネット動画の世界には、日本人 を舐めきっている外国人が存在します。その代表の一つは、2018年の初頭に話題になったユーチューバーのローガンポール氏による青木ヶ原樹海の遺体動画の事件でしょう。

相次ぐ外国人の“非常識”動画 「日本はなめられている」

ローガン・ポール氏はアメリカで有名なユーチューバーで様々ないたずら動画を投稿して莫大な再生回数を稼いでいます。

子供達の間で大人気なのですが、そのいたずらがあまりにも過激で下品なので、子供が真似してしまうと困り果てている親も少なくありません。

ローガン・ポール氏にとって日本は格好のターゲットです。日本に来て撮影した動画では、ナイロンできた女物のペラペラの着物を来て都内で犯罪スレスレのイタズラを繰り返します。

生のタコや生魚を都内の走行中の車に投げつけたり、渋谷の交通量の多い道路で寝転がったり、カフェで食事中の人達の窓に向かって生魚を投げつけたり、魚を触った手で店の商品を触りまくり、築地市場に行って仕事中のフォークリフトに乗ったり、売り物を指差して大騒ぎです。市場の人にあまり図に乗るんじゃないと小言を言われるシーンもあります。

さらに、青木ケ原樹海に探検に行き、亡くなったばかりの自殺者の遺体を動画に撮って、「怖い怖い」と茶化してレポートしたのです。削除前に彼のファンである多くの子供達がその動画を見てしまったことで大炎上してしまいます。

彼の日本で撮影した動画をみると、あまり教育レベルが高くない外国人が日本に対してどんな感情を抱いているのかということがよくわかります。

ローガン・ポール氏はオハイオ出身の田舎出身で教育レベルが決して高いとは言えないごくごく一般的なアメリカ人です。そういった人たちにとって日本人だけではなく東洋人全般というのは体が小さく文句を言わないちょっと奇妙な人々です。

これはアメリカにいる東洋系の人達も同じで、東洋系でアメリカ人とはいっても、体も小さいですし、白人に比べると闘争心がありませんし、親や祖父母のしつけがあるので暴力に訴えることはしませんから、おとなしい人が多いのです。

東洋人の典型的なイメージは、運動が苦手なガリ勉です。体育会系リア充がスクールカーストの頂点というアメリカでは、ガリ勉やオタクは日本や東アジアに比べて人権などないのに等しい存在です。

そのカテゴリに入ってしまう東洋人というのは常にからかいの対象で、スクールカーストの最底辺です。

また黒人やヒスパニックと比べると数が少ないので、組織化された圧力団体も多くはありません。政治力がありませんので、差別的なことを言われたりジョークに見せかけた差別をされることも少ないことではないのです。

東洋人はそういったイメージを持たれていますから、あまり教育程度が高くないアメリカのマジョリティにとってはからかいの対象です。

ですからローガン・ポール氏達はアメリカやヨーロッパであったら絶対にしないような悪戯を日本でしまくり、亡くなった人の遺体をビデオに撮影するようなことができたのです。

日本人をからかいの対象と見ていて、さらに同じ人間とは感じていないからです。

言葉も異なり、顔つきも違う、そしてアメリカの内陸部では食べない人の多い得体の知れない海産物をたくさん食べる日本人は、とても奇妙な人々なのです。

魚というのは彼らにとって生臭く、「魚の臭がする」というのは「女性器の臭いがする」という意味です。ですから、悪戯として魚を人に投げつけるのには、侮辱の意味があるわけです。

そんなものをありがたく食べている日本人は、教室の隅で勉強ばかりしていて、わけの分からない数学やプログラミングの話をしている東洋系ガリ勉と同じ変な奴らだ、というイメージです。

もし亡くなった方の遺体がアメリカの白人であったりヨーロッパの白人であったら彼らは同じように撮影することはできなかったでしょう。

しかし大騒ぎをしても、日本はおとなしい人が多く、外国人に対して寛容ですから、お店の人や通行人が訴訟を起こすことはありませんし、胸ぐらをつかんで殴りつけることもありません。

アメリカだったら同じことをしたら銃撃されている可能性もありますし、ヨーロッパであったらその場で押さえつけられてボコボコにされる可能性が高いです。

そもそも他の先進国では治安が悪いところも多く他所者が足を踏み入れた途端に注意されることだってあるからです。

こういう反応が当たり前ですから、日本人の謙遜や旅人への寛容さは「何かされることを受け入れている」「反撃する気力がない弱い奴ら」と思われてしまうわけです。

日本にはそんな所はありませんし一般の人たちも大変おとなしく心が優しいですから、彼らはそれを知っていて好き放題やるわけです。

日本人のこういった人の良さや大人しさは、ネットの動画を通じて世界中に広がります。それを素晴らしい、美徳だと賞賛してくれる人達がいる一方で、日本人はマヌケな奴らだと悪用しようとする人達もいるということは知っておいたほうが良いでしょう。

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地下鉄落書き、樹海の遺体…相次ぐ外国人の“非常識”動画 「日本はなめられている」2018.1.30
http://www.sankei.com/smp/affairs/news/180130/afr1801300018-s1.html


落書きが見つかった東京メトロ日比谷線の車両(ツイッターから)


 東京都内の地下鉄各線で、電車の車体に塗料で落書きされる事件が相次いでいる。外国人グループの関与も疑われるというが、動画サイトには日本を訪れた人物が電車などに落書きをする様子も数多く投稿されている。なぜ日本が狙われるのか。(夕刊フジ)


 地下鉄車両の落書きは13日以降、東京メトロ千代田線や日比谷線であったほか、18日には東西線の車両でも見つかった。

 「自己承認欲求、特に仲間内で自慢したいという心理があるようだ」とみるのは、都市部の落書きに詳しい東京都市大建築学科の小林茂雄教授。

 「外国人が観光ビザ等を取得し、1週間や10日間程度滞在して落書きをして帰国するというケースが多いようだが、電車の落書きの場合、車両の保管場所や監視カメラの位置、逃走経路などを綿密に調査している。国内にも協力者がおり、情報をこまめにやりとりしているのではないか」

 壁などにメッセージ性のある絵や文字を描く「グラフィティ」は近年は芸術としての認知も高くなり、日本国内でも町おこしに生かす事例もあるが、所有者や管理者に無許可で描けば器物損壊罪と建造物損壊罪に問われてもおかしくない。

 2008年には6都府県の地下鉄の車両などに落書きを繰り返したスロバキア人とハンガリー人が大阪府警に逮捕された例もある。

 日本を狙った落書きについて小林氏は「注目を浴びるような街や都市がターゲットとなるが、ニューヨークやロンドンなどはテロ対策もあってセキュリティーが厳しい。東京は凶悪犯罪が少なくセキュリティーが甘いと考えられているのではないか」と分析する。

 ユーチューブには、外国人とみられる人物が、日本の鉄道の駅や車両基地に夜中に忍び込み、スプレーで落書き、逃走する様子を撮影した動画も数多く投稿されている。

 ITジャーナリストの三上洋氏は「『やってやったんだ』『簡単だぞ』という意味で、描く過程をネットにアップして自慢するのもグラフィティの目的の一つだ。中には自分たちのグッズを販売しているグループもあり、金もうけとみることもできる」と語る。

 昨年末には米国人ユーチューバーが、富士山麓の青木ケ原樹海で自殺したとみられる遺体の動画を投稿。「不快になった」などネット上で批判された一方で約600万回も再生された。

 前出の三上氏は「日本はきれいな国で人がやさしいというイメージだから、それをおちょくっており、多少なめられている。他の動画でも日本人をバカにしていて、差別感情ともとれるものもあった」と話す。

 日本の安全性に甘えた身勝手な行為。そんなに目立ちたいのなら、もっとヤバい独裁国家で挑戦してみてはどうか。
http://www.sankei.com/smp/affairs/news/180130/afr1801300018-s1.html

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自分を知らない、言いなり=おもてなし、搾取されてもバカにされても気づかない日本人…(+_+) 2018年09月15日
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12404933569.html


以前「日本の見世物小屋化の別称「観光立国」=外国人仕様を増やす=「外国人で儲ける」業界づくり→移民受入」という記事で、『マリカーは生活に必要な日本人のインフラである公道を、一部の人間がレジャーに使っているのです。でも外国人が喜ぶからと批判も出ませんが、その姿が卑屈なことに日本人自身が全く気付いていません。』ということを書きましたが、それとも通じる記事を見ました。左下矢印


海外でなめられまくっている日本(May_Romaさま)


かつてはあこがれの対象だった日本は、いまでは落ちぶれた可哀想な国という印象です。

こういう書き出しで始まるこの記事、「日本スゲー」派の人に読んでいただきたいと思います。


ところで、こんなニュースがひっそりとありました。


9月9日午後1時55分ごろ、走行中の東京発博多行き山陽新幹線のぞみ19号(16両編成)で、果物ナイフのような刃物を持った外国人の男性観光客がいるのが見つかり、北九州市の小倉駅に停車した。通報を受け駆け付けた福岡県警小倉北署員が降車させ、任意同行した。乗客にけがはなかった。


 小倉北署によると「旅先で使うために持っていた。ナイフが汚れていたので洗いたかった」と説明している。県警は同行の女性と一緒に事情を聴き、銃刀法や軽犯罪法の違反には当たらないと判断した。
 下り2本が最大11分遅れ、計約500人に影響した。

ここでもおバカ対応で舐められる事例を作ってしまいました。ばかぁ

以前新幹線で殺傷事件が起きた後、『国交省は省令の鉄道運輸規程の改正に着手し、適切に梱包されていない刃物の列車内への持ち込み禁止を明文化する方針。利便性への影響などを考慮し、現時点で手荷物検査の導入は見送った。』という内容の報道が出ました。


欧州でイスラムテロがナイフを使っていること、鉄道でも何件も起きていることを何度も紹介していますが、日本の鉄道がナイフの持ち込みをOKしているようでは、そのうち狙われるようになります。前出のMay_Romaさまの記事内でも次のような文章があります。


日本人の謙遜や旅人への寛容さは「何かされることを受け入れている」「反撃する気力がない弱い奴ら」と思われてしまう~

今回たいしたことが無かったとしても、厳しく対処することでナイフを持ち歩く習性の外国人を震え上がらせなくてはいけなかったのです。アジア人だから、東洋人だから馬鹿にされるというのはいつもそうとは言えず、その国の対応で決まります。

今や、日本だから馬鹿にされるという状態です。rabbit*ハァ*


インバウンドで浮かれる業界ではこんな記事がありました。


【台風21号】大阪ホステルに聞いた 災害時の外国人対応「欧米人は『台風珍しい!動画撮りたい!』と外に出たがり静止するのが大変だった…」


ヨーロッパからの訪日外国人は、台風を知らない方が多いです。


日本人は、このような大きな災害があると自粛ムードに流されがちですが、訪日外国人はそんなことはありません。

とありますが、私達がサイクロンやハリケーンを知っているのに、欧州人は知らないというのでしょうか?

日本人は同胞が大変な目に遭っているという心配の気持ちがありますが、外国人には所詮他人事、日本人が死と直面するような大災害も「愉快なエンターテイメント」なんでしょう。


<「関空」大混乱に巻き込まれた中国人留学生の手記>という記事もありました。

この方は日本語ができるので自力で何とかしたようですが、こう書いてあります。


 現在、日本は国を挙げて観光立国を目指しています。しかし台風に限らず、地震をはじめ日本は世界的にも災害の多い国です。外国人旅行者の災害への不安が広がれば、観光へのダメージは大きくなっていくでしょう。

 私のように日本語が話せるわけではない外国人旅行者は、今回のような災害が起きたら、帰国の目途を立てられず、避難すら大変だと思います。災害の多い日本だからこそ、外国人旅行者へのケアを充実させる必要性があるのではないかと、今回の体験を通して強く感じました。


仰る通り日本は自然災害大国です。人口密度も高く、気候変動もあってか、どこでも被災地、誰もが被災者のようになってきています。

このような中、遊びに来た外国人のために日本人の税金から便宜を図るために何かしろというのは無理なんです。

だから「インバウンド」とやらで儲けているらしい業界が自力でやればいいのです。


それに海外にいる日本人は皆さんその国の行政に頼り切って対処しているんでしょうか?

大使館や領事館が緊急時にメールなどで情報もくれますし、居住者ならば関係している現地の人たちが情報をくれたり助けてくれたりします。旅行者なら旅行代理店などが連絡にあたります。

中国では災害時に日本語で親切丁寧な対応をしてくれるんですか?


南国のようなのんびりしたリゾート地でもなく、年がら年中あちらこちらで自然災害が発生し、物価も安くなく、底の浅い知識で来るような外国人観光客を相手にする日本政府の「観光立国」は実は移民受け入れ政策の一環で、日本人に外人慣れを促し、外国人用の生活インフラを整備させるのが目的だと私は考えています。


外国人用インフラについてついでに言うと、あちらこちらの看板などで注意事項や禁止事項が日本語だけというのがまだ多いです。注意や禁止事項こそ全部に英訳が必要(多言語は不要です。かえって見にくくなります。母国語⇔英語の辞書は必ずありますから。)でイラストも効果的です。トラブル防止にも役立ち外国人の為にもなりますし、日本人が英語で注意するときにも役立ちます。


日本が少子化でも「ダントツ」で豊かになる道(東洋経済)という記事のなかに、コマツの坂根相談役がこう発言しています。


よく「この国の労働力は逼迫している」といわれていますが、欧米に比べて国全体として、ムダな事業や仕事に雇用をたくさん抱えています。その部分を整理することができれば、新たな労働力を生み出すことができます。

そして「日本人手不足は2020年代半ばには解消される可能性が高いからです。日本人が移民と共生する覚悟が十分にないのであれば、拙速な移民の促進はやめたほうが賢明なのではないでしょうか。」という問いかけに対して坂根氏は次のように答えています。


私も同じような心配をしています。おそらく業界内で競争力のない企業ほど外国人を安い賃金で雇いたいという願望が強いでしょう。ということは、同一労働していても外国人を日本人より安く使うといったことになり、結果的には、外国人労働者から見てこの国の魅力はなくなり、優秀な外国人労働者までもが日本に来ようとは思わなくなっていくでしょう。

むしろ本当の労働力といった意味では、国を挙げての少子化対策と高齢者や女性の労働力を活かすことをまず第一に考えるべきです。簡単に移民の受け入れに逃げてはいけないと思っています。無駄な雇用に手をつけないで移民に頼っていては、日本にせっかく変われるチャンスがきているのに、そのチャンスを逸してしまうことになります。


外国人雇用の拡充は「無能な経営者」の甘えだ ~生産性向上のチャンスを逃す「愚策」を許すな(デービッド・アトキンソン)という記事を以前紹介しましたが、この中で彼は、日本政府は日本人労働者をバカにしていると書いています。


その日本政府は世界中で馬鹿にされているようにみえます。

日本人が馬鹿にされているのと同じ理由からです。


海外ニュース翻訳情報局さまからの次の記事はお薦めです。

元米軍海兵隊士官提言・必読】東京からの視点? 控えめな反応


プーチンからもシージンピンからもトランプからも鼻であしらわれているのに、さも世界中から重要人物扱いされているかのように安倍首相を持ち上げ、世界で起きている重要な変動を見ないふりしている日本は、ますます困ったことになっていくのではないかと思います。


国力が劣っているので我慢を強いられることもあるでしょうが、そんななか、自尊心もなくし外国人さまに媚び諂うことをおもてなしと言い、外からも内からも骨抜きにされているような感じがしてなりません。


EUでサマータイムが住民の意向で廃止されようかという時に、<「非常に良い解決策」、 IOCが東京五輪でのサマータイム導入を支持>というのも、日本人の外人崇拝を知っている森さんかJOCがIOCに言ってもらったんだろうなと思います。

それに、迷惑を被る日本人の反対を、迷惑を被らないその時だけの外国人が、それも運動会のために抑え込もうとしていること自体日本人が馬鹿にされているということなんです。


だからといって野党を応援しているわけではありません。

「第3子出産で1000万円」国民民主党・玉木代表「コドモノミクス」に注目集まる 「電子マネーで配布」「外国人は対象外」

このなかで、玉木氏は「国民の税金なので外国人にも行う政策ではない」と言っていますが、実際にそういう法律を政府が作れば外国人差別は出来ないのです。外国人も税金を払っているというでしょう?生活保護は憲法上国民が対象なのに実際は外国人がもらっています。

工作機関の朝鮮学校が「金出せ!」と裁判していますよね?

内外人平等が法整備された日本で、こんなことしか言わないような野党にも明日はありません。それとも裁判で負けて「仕方なく」外国人にも払うことが織り込み済みなんでしょうか。怒る


ダライ・ラマ氏があのスウェーデン・マルメでまともなことを言ってくれました。

「欧州は欧州人のもの」ダライ・ラマが法話で移民問題に言及

自国の再建に尽くさないで他人の財布で生きることを望むような外国人、又は受け入れてくれた国を自分好みに変えようと活動する人には耳が痛いでしょう。


移民が移民を呼び込み、受け入れてくれた国を自分の好きなように変えて、その国民にさらなる負担を強いる活動(いじめ問題と難民問題を同一視するサヘル・ローズさんなど)は、私たちの社会を軽んじているからこそできるのでしょう。


日本人は、日本人からも「いいカモ」として絞られています。

携帯の料金体系がカルテルみたいで異常な契約形態であるのは、そこに無駄に人が群がっているからで、NHKが不要なチャンネルを増やし1人で出来る番組に(芸の無い)芸人の生活救済のため多数を出演させギャラを払い、そのために国民から不必要に高額なお金を巻き上げているのもそこに無駄に人が群がっているからです。

そして、それを政治家が黙認して是正しないのは国民がその無駄を異常と思わず当然視しているからです。


余計な斡旋で5次6次受けみたいな業界を作り、労せずして丸投げで儲ける人たちもいます。

人手不足はこういう無駄な仕事を無くし、大量の余剰人員をまともな正業にシフトすることで解消できる部分もあると思います。

それをやるのが政治です。

それをしないで外国人移民を入れても上手く回らないだろうことは素人でも想像できますし、カルテルや、手数料を高額にして取れるところから最大限搾り取るようなビジネスモデル、仲介料を何段階も通って高額になるような仕組みがまかり通る日本には健全な社会が育たないと思います。このボッタクリから逃れるための「研究」サイトもありますが、そういうことに時間をかけることもまた日本全体を疲弊させますし、諦めた人は無駄な出費を強いられます。はこ怒る


日本の政治家にろくでも無い者しかいないのは、他力本願で、搾取されている自覚がなく、バカにされている自覚もない多くの日本人の代表だからではないかと思います。

外国からも同じ日本人からも騙され搾取されている、これを自覚しなければいけないのです。

日本人 大丈夫?

日本人である自分の将来が本当に心配です。
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12404933569.html
30:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:11:00

日本の見世物小屋化の別称「観光立国」=外国人仕様を増やす=「外国人で儲ける」業界づくり→移民受入 2018年04月30日
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12372382304.html

なんだか頭にくるので本日2つ目の投稿!ムキー

日本人には不快で我慢ばかりさせる安倍首相肝いりの政策、それが「観光立国」!

日本人はとにかく「外人」に弱いので、気おくれしたり、大目に見たりと間違えた接し方をして馬鹿にされています。

文化の違う相手にマナーは通用しませんから、外国人には強力な規制、罰則が必要です。

マリカーは生活に必要な日本人のインフラである公道を、一部の人間がレジャーに使っているのです。でも外国人が喜ぶからと批判も出ませんが、その姿が卑屈なことに日本人自身が全く気付いていません。

公道カートなんて、

日本人が馬鹿にされているんですよ。

わかりますか?はこ怒る

貧困国がお金下さいとせがむから来てやった外国人様が我が物顔で迷惑行為をしていて、それを私たちが我慢させられているのです。途上国の貧困現地人並みの扱いなのです。困

対価をもらい公道を閉鎖してレースをするのではなく、私たちの生活はそのままで彼らを割り込ませて遊ばせているのです。(業者はタダで公道を商売に使っていることになります。)

公道カートの安全強化 2年後シートベルト義務化 国交省が基準改正(産経)2018/04/28

やっと規制するかと思ったら、外国人様が怪我をしないようにという改正です。

私は彼らがどうなろうと構いませんが、邪魔なので禁止にしてほしいのです。


外国人観光客 医療費未払いで入国拒否も 自民提言(毎日 2018/04/27)


未払いのまま出国した外国人の情報を医療機関から収集し、再び来日した場合には入国管理法に基づき入国を拒否することを求めた。

一方、外国人観光客が安心して医療を受けられるよう、外国語で診療を受けられる医療機関の充実や、薬局での多言語対応を進めるほか、習慣の違いに配慮した診療のための研修を行うよう要求。


外人による医療費踏み倒しも公立なら結局は税金で補填でしょう?

ビザなしで誰でも呼ぶからこういうことが起きるのです。母国では病院に行かない人も多いのです。善意は悪用されるのが常識です。外国人観光客は前払いでいいのではないでしょうか?

それと、医療機関に「習慣の違いに配慮した診療を要求」、こんなもの不要です。

金持ちがそれなりの対価を払って配慮してもらうならいいですが、私たちと同等のお金を払って特別待遇は許されることではないのです。外国人に配慮しすぎです。はこ怒る

それよりも海外旅行傷害保険加入を入国条件にする方がまともです。

(日本の健康保険は海外でも後から補填してくれます。これと同様の制度がない国から来た人は旅行医療保険を義務付けるべきです)

こちらの記事では海旅加入を入国時の条件にしている国があることを紹介しています。

日本と同等の医療を途上国で受けるには高額な費用を払います。

例えば、私は通訳もいる上等な病院へ行くと、診察代だけで60~100ドル払います。

もし日本で3割負担なら診察だけで2千円~3千円以上を窓口で払うことになります。

でもそんなに払いませんよね。生活保護受給者や子供ならタダですか?

日本の医療が高い水準なのに安く掛かれるのは日本人だからです。公衆衛生、予防接種、国民の生活向上のための政策でこうなっています。

これを、関係ない外国人に当てはめるのは不公平であり、まして配慮までして私たちと同額なら、日本人の税金が回ることになり、その分私たちへの待遇は確実に下がります。

外人用に設備やシステム、人員を確保させて、そのうち観光客が減れば、医療業界は「もっと外人下さい」ということになるでしょう?これで移民賛成業界がまた増えるわけです。

外国人に来てもらいたい「観光立国」のために、公道カートという迷惑行為が許され、犯罪の巣窟となるであろうアジト“民泊”を奨励に留まらず、嫌がる自治体を国が脅して無理やり全国展開、観光地は日本人を締め出し荒廃させ、民度の低い国から大量の単純労働者を入れ、それらの奏でるオーケストラ、相乗効果で不衛生や野蛮と相性の良い外国人や、私たちの税金を食い潰し私たちのサービスを低下させる外国人が常時日本に居座る国へと変貌していきます。

今政府はバラ色みたいなことしか言いませんが、経済面で移民の弊害が顕著化するのは少し後、ボディーブローのように効いてきますし回復しません。

これを短期間でやったのは安倍首相で、確かに安倍ちゃん以外に誰がいる?というくらいの破壊ぶりです。応援している人は日本が嫌いなんでしょうね、そう思うことにしました。ムキー

外人頼みしかない!という発想が一見正しく見えるのは、安倍首相が日本人を貧しくさせて、日本人が世界中から食い物にされるように仕向けたからです。はこ怒る


「低すぎる最低賃金」が日本の諸悪の根源だ 2020年の適切な最低賃金は1313円
(東洋経済 デービッド・アトキンソン : 小西美術工藝社社長 2018/03/02)
以前アトキンソン氏の観光についての記事が酷すぎるとブログに書いたことがありますが、今回の記事は納得しました。

この中で彼は、日本政府は日本人労働者をバカにしていると書いています。


https://ameblo.jp/evening--primrose/image-12372382304-14180751504.html

https://ameblo.jp/evening--primrose/image-12372382304-14180751509.html

日本人を徹底的に貧困化させて、穴埋めに外国人を呼び込んでいるのが安倍首相です。

安倍首相が人為的に操作しているのです。

日本人医師があんなに安い診察料であれだけ高度のサービスを提供することを考えても、労働賃金が安すぎですし、安全でおいしい食事が安すぎます。

グローバル化を進めれば、平民の日本人は間違いなく劣化したサービスや食料にしかありつけなくなります。

貧困化させた日本人の穴埋めに呼び込む観光客ですが、日本政府は弊害を隠しています。

観光客の害は先進地域でよく問題になっています。CNNがこんな記事を出しているほどです。

押し寄せる観光客、住民と切り離し ベネチアが新規制導入(CNN 2018/04/27)

私の持論au 着フル度を超えた観光を止めることこそ、環境保護、温暖化防止にも役立つはずです。

パリ協定がどうしたこうしたというより、観光縮小、多産禁止にした方がよほどエコです。


世界的に、先進国だったところが移民を受け入れる方向に行くことは自然ではなくて人為的に仕組まれています。

「生意気になってきた中産階級を没落させる仕組み」でもあることを、よく理解した方がいいと思います。
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12372382304.html
31:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:11:47

親の身代わりとなる子供
  他人の子供だから、親がどんな風に命名するかは個人の勝手だろう。しかし、名附けられた子供を考えると不憫に思えてくる。なぜなら、幾人かの子供は、あたかも親のペットみたいになっているからだ。筆者はたまにテレビ東京の『きらきらアフロ』を観て、笑福亭鶴瓶と松嶋尚美が繰り広げる「たわいない雑談」を楽しむ。しかし、松嶋が会話の中で紹介する子供の話を聞くたびに心が痛むことがある。彼女には長男と長女がいるそうで、息子の「珠丸(じゅまる)」が兄で、娘の「空詩(らら)」が妹になるそうだ。漫才師の松嶋がアホなのは藝の一つになっているからいいけど、子供の名前くらい真剣に考えればいいのに、と"つい"思ってしまう。

  子供は自分の名前を選べないから、不幸になることもしばしばある。小学生までなら「じゅまる」君で可愛らしいが、思春期になれば恥ずかしくなるんじゃないか。松嶋がよく引き合いに出す娘の方も、自分の名前を書いて先生や友達に見せたら、「何て読むの?」と質問されるはずだ。この漢字を目にした一般人で、「らら」と読める人は滅多に居るまい。それでも、多文化主義の平成だから仕方ない。だが、親になった松嶋の教育方針には賛同できないところがある。以前、彼女は「英語が上手く喋れたらいいのになぁ」と願うあまり、ついに英会話を習ったそうだ。しかし、単なる趣味の一環なので進歩が無かった。それでもまだ英会話に未練があるようで、松嶋は息子をインターナショナル・スクール附属の幼稚園に入れたそうだ。

  これはまさしく短絡的な「お馬鹿」の発想で、自分の夢を子供で実現しようとする典型例だ。よく、ピアニストに憧れた女性がレッスンを受けるが、中学生や高校生から始めるので全然ダメということがある。まぁ、楽譜さえチンプンカンプなんだから、指と頭がバラバラに動いて演奏が滅茶苦茶になるのも無理はない。普通なら「自分の努力が足りない」と反省するものだが、頭の弱い御仁だと、「小さい頃から練習しなかったから出来ないのよ! 」と考えてしまうそうだ。たぶん、責任を他者に転嫁することで自分のプライドを守りたいんだろう。

  アホな親だからしょうがないけど、こうしたアカンタレは娘を産むと幼稚園児の頃からピアノを習わせ、無理矢理ピアニストにしようとする。ところが、好きでも無い練習を強要される子供は堪ったもんじゃない。ヒステリーを起こして反抗するから、親子喧嘩が絶えず、終いには高価なスタンド・ピアノが部屋のデコレーションになってしまう。だいたい、クラッシカル音楽とは無縁で、カラオケ店に通えば、Jポップスや歌謡曲を熱唱する親が、自分を棚上げにして、娘に「ちゃんと練習しなさい!」と言えるのか? 一方、娘にとったら「音楽」は「苦役」以外の何物でもない。毎日が拷問のようでピアノが兇器に見えてくる。本人に演奏への情熱が無ければ、楽器の練習は苦痛でしかない。

  英語コンプレックスの親も似たような性質がある。近くに普通の幼稚園や小学校があるのに、わざわざインターナショナル・スクールに通わせ、英語を学ばせようとする親は現実を解っていない愚者である。母国語の習得は子供の一生を左右する重要な教育で、国語能力の低下は他の教科、すなわち数学や理科、社会、英語にまで影響を及ぼす。なぜなら、子供は母語で物事を考え、思索する言語で文章を理解し、自分の意見を述べる時も母語が基本となるからだ。例えば、数学の問題を解く時、母語を習得していない子供は、何を問われているのかさえ分からない。感想文や随筆を書く時だって、日本語が拙いと支離滅裂な文章になってしまう。また、物理や哲学の授業を受けた時、「論理的に考えろ」と言われても、そもそも論理的に書かれた説明文を理解できないからお手上げとなる。しかも、漢字を読めない、書けないとなれば、教師の方が厭になってくるじゃないか。

  松嶋は欧米諸国を旅行した時、現地の白人と会話できなかったことを悔やみ、「英語を喋れたらなぁ」と思ったそうだが、その程度の動機で外国語の勉強が続くとは思えない。英語の基礎を習得していないばかりか、記憶力さえ低下している中年女性が、仕事の合間に勉強したからといってマスターできるものじゃないだろう。松嶋は気づいていないだろうが、西ゲルマン語は日本語と文法・構造(syntax)が根本的に違うし、発音や語源さえ繋がりが無いのだ。ある意味、日本人にとって英語やドイツ語は暗号の塊である。だから、成人してから英語を学ぶ者は、しっかりと文法を理解し、語彙を増やさねばならない。ところが、よほどの執念とか野心が無い限り、大人は記憶する量が膨大になると嫌気がさす。不本意でも、途中で諦めてしまう人が続出するのは当然だ。

  こうした挫折を味わった親の中には、自分の怠惰を自覚せず、子供に夢を託す者が少なくない。高額な授業料を払っても、我が子をインターナショナル・スクール(西歐白人の学校)に入れて、理想の分身(親の代役)にしようとする。確かに、外人学校へ入れられた日本人の子供は、記憶力が旺盛だから、友達と遊んでいるうちに英語を覚えるかも知れない。それに、クルクルパーの親と比べれば発音が良く、早口で喋ることもできるから、「まぁ、うちの子天才!」と低能ママは喜ぶ。だが、家に帰れば日本人の親が待っており、コテコテの日本語で話しかけるから、子供の上達は中途半端だ。いくら幼稚園で外人教師と接触しようが、子供にとったら親の方が大切だし、密接な会話や躾は日本語でなされるから、日本語が主要言語となってしまう。したがって、幼児期からの英語教育は初歩的なものに過ぎない。

  松嶋のような日本人は、「親馬鹿」というより「バカ親」に近い。松嶋本人は「バイリンガルの息子になった!」とはしゃぐが、幼い子供は親が味わった屈辱を体験していないから、英語を喋れるようになっても、大した感動は無いはずだ。だいいち、「バイリンガル」になった日本人の子供は、外人教師の質問に反応しているだけで、利発な子供になった訳じゃない。サーカスの熊と同じである。しかし、「輝かしい国際人になってくれ」と願うバカ親は、長いこと劣等感に苛まれているから、子供の英語力が向上したと単純に感激する。ハッピーな教育ママは、我が子の学力や知能が半減している事に気づかない。本来、正しい日本語や多くの漢字を覚える時期に、英語の「お遊戯」や楽しい英会話で時間を潰してしまうと、やがて大切になる国語能力が低下してしまうのだ。バイリンガルで育った高校生や大学生の中には、戦前の随筆すら読めない者がいる。なぜなら、歴史的仮名遣いや正漢字が分からないし、歴史の知識も無いから意味が摑めないのだ。

  見栄を張りたがる親からすると、我が子が英単語をすらすら読め、日常会話も"ネイティヴ"並に交わすことができれば、お金を払うだけの甲斐があったと思ってしまう。しかし、こうした子供は小学校や中学校に進むにつれ、勉強が苦しくなることもあるのだ。幼稚園を卒業した後、米国や英国に移住するんなら別だが、引き続き日本で生活するとなれば、学問は日本語で修めることになる。大学に進む頃になれば、国語や数学、理科の知識も必要になってくるから、英語の点数だけではカバーしきれなくなり、幼少時の「お遊び」を後悔することになるのだ。もっとも、最近では名前を書くだけで入れる私立大学とか、入試は英語だけという学校もあるから、日本語が未熟でも困ることは無い。それに、有名藝人の息子ともなれば、「二世藝人」という就職先があるから、"ひけらかし"の英語力は特技の一つとなる。そもそも、テレビ藝人に"まとも"な日本語は要求されないから、英語を使って外人タレントにインタヴューできる方が得になるのだ。

  日本には脳天気な親が結構多い。「英語を流暢に喋ることができる」という"能力"は、実際のところ「幻想」に近く、日本でしか通用しない「特技」である。英国や米国に行けば分かるけど、街中のほぼ全員が英語を喋っているから、「英会話力」なんて自慢にならない。不法移民や乞食、犯罪者だってそれなりの英語を喋るし、警官からの職務質問にちゃんと答えている。様々な人種が混在する英米だと、ペラペラ話せることより、立派な論文を書ける方が重要となるので、語彙が豊富で表現の巧みな人の方が社会的評価が高い。さらに、教養人ともなれば、英語はもとより、ラテン語の読み書きができるとか、歴史や古典に精通しているということが必須となる。

  しかし、英会話を重視する国際派の教育ママは、欧米の知識人階級まで頭がまわらず、我が子が成人してから、「中身が空っぽ」の木偶(でく)人形であると気づく。筆者は昔、英語力を自慢する女子学生に、「わぁ、凄い。フィリピン人か支那人並ですねぇ~」と言ったことがある。彼女は激怒したけど、イギリス人やアメリカ人だって同じ意見を持つはずだ。たとえ英語を流暢に話せても、肉体が変化してアングロ・サクソン人になる訳じゃない。松嶋たちが目指す「国際的日本人」は植民地で白人にこびる黄色い奉公人と同じだ。日本の歴史や文化について何も語れず、"これ"っといった特技も無く、ただラップ・ミュージシャン並の英語をひけらかしても馬鹿にされるだけだ。まともな西歐人は洞察力が鋭く、間抜け面のアジア人を相手にすることはない。自国の文化を蔑ろにし、誇りを持たない奴は軽蔑されるだけだ。名誉を重んずる西歐人は、たとえ日本人を好きになれなくとも、名誉を尊ぶ者か否か、を判断できる。松嶋の息子や娘がどのように成長するか分からないが、今のような教育を続けている限り、英語を上手に喋るだけのチンピラにしかならない。

  理解しがたい名前を附ける親とか、英語を学ばせる親は、子供のためを思ってそのような行動を取るのだろうが、常識に欠けるため逆の効果をもたらすことになる。また、「海外で通用する名前にしたい」とか「欧米人に近づきたい」と思って子供に西洋風の漢字名、例えば、「健 / ケン(Ken / Kenneth)」「英土 / エド(Ed / Edward)」「登夢(Tom / Thomas)」とか「マリア/ 麻里亜 (Maria)」「ジュリア / 樹里亜(Julia)」といったものを附ける親もどうかしている。確かに、欧米人が聞けば理解できるが、「これって、日本人の名前なのか?」と思ってしまう。まぁ、キリスト教徒の日本人ならミドル・ネームに「ステファノ」とか「パウロ」があってもいいけど、実家が浄土宗とか真言宗なのにヨーロッパ風の名前なんてちょっとおかしい。

  今いる日本人だけでも「困ったちゃん」が多いのに、今年から更なる移民が増えてくるので、驚きの親が激増するだろう。日本にやって来る研修生とか高度技術者というのは、祖国を捨てて日本国籍を目指す下層民が大半なので、日本人の理解を超えた風習や文化を持ち込んでくる。現在はキラキラ・ネーム如きで驚いているが、マレー人やフィリピン人のイスラム教徒が増えれば、「ムハマッド」君とか「アブドル」君といった子供も普通になってくるはずだ。学校でも異変が起こり、「国語」の授業が「日本語」という名称に変わるかも知れないぞ。子供の会話で「君の家では何語を喋っているの?」という質問が出てくるし、外務省のホームページには、「日本の公用語は日本語です」という紹介が出るかも知れない。平成で日本らしい日本が終わり、次の御代では階級や民族でバラバラになった日本になるだろう。バルカン半島みたいに、我が国がバルカン列島になったら大変だ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68738682.html
32:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:12:22

英語が使えないと負け組…それでも覚えれない悩み… 2019/3/19
https://medi-labo.club/eikaiwa/uz/?cam=pc_3&gr_no=0006&sd=10
■男性の英語力別の年収平均


■女性の英語力別の年収平均


あなたは、ご存知でしょうか?

英語が日常会話レベルの人は、話せない人より年収で300万~500万の差がつく事実を…


どの業界も今や英語力を人材に求めています。

2008年頃から

グーグル・アマゾン・フェイスブック

などの外資系企業も続々と日本に進出しています。

国内企業でも、訪日外国人対応やグローバル人材などで英語が出来る人材を求めています。

楽天では、「英語ができない役員は、2年後にクビ」となるほどです…


実は、私もこういった事実を知りながら自分は大丈夫だろうと楽観的に考えていました。

でも、会社のボーナスが減っていき徐々に不安を感じてきました。

そんな時、会社を辞めた元同僚の友人達と飲んでいる時、

A男:○○さん英語とかの取り柄がないと将来ヤバイよな!笑

B子:今、業績のいい会社って英語できる人材求めているからね!

C男:英語が出来ればもっといい職場あるの知らないのかな?


と言っている会話を聞いてしまいました。

もう恥ずかしくて恥ずかしくて…

何事も無かったように笑顔で過ごしましたが、辛すぎて早く逃げ出したかったです…

正直、いまさら英語を覚えるのをめんどくさがってました。

元同僚達は、今の仕事にやりがいを感じていたし給料も私よりはるかに高くなっていました。

このままではいけない!
https://medi-labo.club/eikaiwa/uz/?cam=pc_3&gr_no=0006&sd=10


こうして 思考力ゼロの英語バカが量産されていくのです。

日本人がいくら英語勉強してもフィリピンの10歳児にすら勝てないんだけどね。


将来の日本の大企業での序列と年収は

幹部:アメリカ人 年収1億円以上
管理職:英語ができる大卒のインド人・中国人 年収1000万円
平社員:一流大卒の日本人 年収400万円
非常勤社員: 二流大卒の日本人 年収 300万円
33:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:13:29

英語に堪能、母語に不自由 2019年3月29日

 次期学習指導要領で小学校5・6年生を対象に英語が正式教科となり、11歳、12歳の子どもたちが2年間で習得する英単語数は600~700にもなるという。現在、中学校では1200単語、高校では1800単語のあわせて3000単語を習得させているが、中学校段階の半分以上を前倒しして小学校段階で覚えさせ、さらに疑問詞や代名詞、動名詞や助動詞、動詞の過去形などの表現も学ばせるのだという。そして上級学校に進学すると、中学校で1600~1800単語、高校で1800~2500単語にまで増やし、高卒段階の習得単語を3000からいっきに4000~5000に引き上げるという。国を挙げてこれほど英語学習にムキになっているのは何のため、誰のためなのだろうか。

 「英語ができるオレは格好いい」の風潮なのか、はたまた英語熱の微妙な浸透による影響なのか、最近は何でもかんでも日本語の会話のなかに英単語を交えて話す人が増えてきた。一昔前ならルー大柴の芸風として笑われていたものが日常生活のなかで当たり前となり、いつの間にか意味や印象も脳味噌にすり込まれているから不思議だ。その度に「日本語でいえよ」と思いつつ、みずからが無意識のうちに使っている単語もままある。日本語で文法を使いこなしながら会話しているのに、単語は英語という奇妙な取り合わせである。

 企業ではコンプライアンス(法令遵守)やガバナンス(統治)といった言葉が当たり前に使われるようになり、会議や打ち合わせはミーティングなどという。選挙になれば公約といえばいいのにマニフェストといい、主導権を握ることをイニシアティブを握るといい、スターバックスに行くと、大中小でなくとも、せめてS・M・Lでよかろうものをスモール、トール、ラージ、グランデからサイズ(大きさ)をチョイス(選ぶ)し、「テイクアウト(持ち帰り)ですか?」と聞かれたりする。アイドルのAKB48は「アキバシジュウハチ」ではなく「エーケービー・フォーティーエイト」。昼飯に行こう→ランチに行こう、心から尊敬している→マジ・リスペクト、潜在能力を秘めていますね→ポテンシャルが高いね、売り切れています→ソールドアウトです--。日常のなかに浸透している英単語はまだまだある。そして、暴力亭主→DV男(ドメスティックバイオレンス)、コストパフォーマンス(価格性能比)→コスパ、キャパシティ(収容能力)→キャパなどのように短縮して独自の和製英語化を遂げているものもあったりする。そして、昔の人がDをデーといおうものなら笑い者にするような風潮すらある。英語ができるものがすごいという価値基準から、そうでない者を卑下するのである。

 さて、話を本題に戻すと、常用漢字すら習得できていない小学生が、漢字の筆記学習(毎日習慣づける)に加えて英語の単語学習(スペルを何度も筆記したり、反復学習するほかない)までこなし、これまで中学校1年生段階で学んできたはずの学習量を受け止め、消化できるのかは甚だ疑問だ。恐らく無理な話で、取り残されて置いてけぼりを食う子どもが続出することは疑いない。よほどの秀才でない限りは、家庭での自学による蓄積がなければ英単語も漢字も覚えられるものではなく、そのために費やす学習時間分ほどその他が疎かになる関係だろう。現状でさえ読み書き計算ができず、そのまま放置されている子どもたちが多いなかで、一部の「できる子」とその他の多数を占める「できない子」との溝はさらに深まることが予想される。

 母語である日本語の読解力が落ち、テストで文章題の意味が理解できない子どもが増えていることがニュースになった。文章力についても、句読点の打ち方やてにをはの使い方、接続語の使い方などに不自由な子どもたちが増え、大学では卒論を書こうにも起承転結や文章のつなぎ方がわからない学生も増えているという。読書量の圧倒的不足など要因は様様あるだろうが、日本語に不自由であるというのが特徴だ。

 英語でもスペイン語でも中国語でも、語学に堪能であることにこしたことはない。何カ国語も操れるような人をみると、その努力に大いに感心する。しかし、現在のように母語を押しのけてでも政府挙げて英語学習に傾斜しているのは、植民地従属国としての仕様を完成させ、英語への反射神経を高め、外資に牛耳られたグローバル社会に適応するためでしかない。母語や母国から切り離れて世界を漂流するコスモポリタン(無国籍主義者)の道を進むという政府の宣言なのだろう。       
https://www.chosyu-journal.jp/column/11286
34:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:15:02

内田樹 「英語教育について」2019-05-31
http://blog.tatsuru.com/2019/05/31_0824.html

昨年の6月12日に東京の私学の文系教科研究会(外国語)」で行った講演録が出版された。「東京私学教育研究所所報」84号に掲載されているが、ふつうのひとはあまり手に取る機会がない媒体なので、ここに採録する。

○司会者  今回は、ここ最近の外国語の文系教科研究会では例をみないほど多くの先生方にお集まりいただきました。6月の今ごろは、夏休みがそろそろ見えてきて、でもまだまだ遠くて、体力的にも精神的にもだいぶ苦しいころ合いだと思います。にも関わらず、これだけ多くの先生方が今回は集まってくださり、おかげさまで満員札どめとなりました。理由はたった1つです。今回、当研究会では、内田樹先生をお招きして講演会を開催できる運びとなりました。忙しくても体力的にきつくても、この方の話ならば何としても聞きたい、それが内田樹先生ではないでしょうか。

 内田先生は、現在は神戸女学院大学名誉教授であるとともに、神戸市で武道と哲学研究のための学塾「凱風館」を主宰していらっしゃいます。もともとのご専門はフランス現代思想ですが、武道論、教育論、映画論、文学論、漫画論などなど、実に多くの専門領域をおもちで、あらゆる領域について、あらゆる人に、万人に届く言葉を発信していらっしゃいます。

 内田先生の言葉の特徴は「届く」ということだと思っております。一見複雑で込み入った情況であっても、それについて内田先生が書かれた文章を読むと、目の前の混沌にさっとマップがかかり、そこにおいて自分がどのように歩みを進めていけばいいのかがすっと理解される。内田先生のご著書を読んで、そのような経験された先生方も多いのではないでしょうか。

 内田先生の文章を読むと、そこに書かれた内田先生の言葉が、もともと自分のいいたかったことを言ってくれた、と思える経験がよくあります。実際はそんなことは考えたこともなかったことなのに。そんな風に、言葉が、読んでいる自分の内側にまで届いて、響くのです。また、言葉というもの、読書というものは、本来そのようなメカニズムやダイナミズムをもっているのだ、ということも、実は、内田先生から私は学ばせていただきました。

 フランス現代思想がご専門ということもあり、言語というものに実に造詣の深い内田先生に、本日は「英語教育の危機」という演題のもと、激動期、大変革期といってもいい現在の英語教育界について、それから、英語に限らず、言葉を学ぶ、教えるとはどういうことかについて、存分に語っていただこうと思います。

 それでは、内田先生、よろしくお願いいたします。


○内田  過分のご紹介にあずかりました。内田でございます。

 一日の仕事が終わった後の、お疲れのところお集まり頂きまして、まことにありがとうございます。今、私が登壇する前に(公益財団法人東京都私学財団より外部検定試験料に関する)助成金の話がありましたけれども、実は今日もこちらに来る新幹線の車内で、「検証 迷走する英語入試」という、これは岩波のブックレットですが、これを読んでおりました。帯には、「緊急出版、混乱は必至」と書いてありますけれども、多分今の日本の教員の中で本当に最も困惑しているのは中高の英語の先生だろうと思います。本当にお気の毒だと思います。

 本当にどうしてこんなことになってしまったのか、僕にはよくわからないのです。みなさんにもよくわからないのではないかと思います。これから民間試験が入試に導入され、センター試験の英語がいずれなくなるという流れになっていますけれども、どうしてこんなことが現場の英語教員たちの意向を無視して行われていくのか。誰に訊いても、よくわからないと言う。いったい、誰にとって、どんな利益があって、こんな制度改革を行うのか。

 教育の目標は、子どもたちの市民的成熟を支援することに尽くされるわけですけれど、こんな制度改革で、子どもたちがどういう利益を得ることになるのか。子どもたちの知性的な成熟にこの改革がどう資するという見通しがあって、こんな改革を進めているのか、全くわからない。

 今回のことに限らず、日本の外国語教育は迷走し続けています。そもそも何のために外国語を学ぶのかという根本のところについての熟慮が不足しているからです。もちろんここにいる先生たちこそ、まずそれについて考えなければいけない立場ですけれども、日々の業務から、このような猫の眼のようにくるくる変わる制度改革にキャッチアップすることに手いっぱいで、「子どもたちはどうして外国語を学ばなければいけないのか」という最も根源的な問いを深めていく余裕がない、そんな状況ではないかと思います。

 英語の先生たちは、余りそういう話は聞きたくないかも知れませんけれど、自動機械翻訳が今すごい勢いで進化しています。文科省は、オーラル・コミュニケーションが必要だ、とにかく英語で話せなければダメだとさかんに言い立てていますけれど、そんな教育政策とは無関係に翻訳テクノロジーの方はどんどん進化している。

 去年の「中央公論」で自動機械翻訳の専門家と英語の専門家の対談がありました。今の機械翻訳はこれまでとシステムが違って、ただ用例を溜め込むだけでなく、「ディープ・ラーニング」ができるようになって、これまでとはまったく別物になったらしい。

 英語だと、今の自動機械翻訳が大体TOEIC600点ぐらいまでだけれども、数年のうちに800点になるそうです。対談の中で、自動機械翻訳の専門家が、だから、もう学校で英語を教える必要はなくなると言っていました。外交官とか通訳、翻訳とか、英語のニュアンスを精密に吟味する必要のある仕事では英語についての深い理解が必要だけれど、日常的なコミュニケーションについてはそんなものはもう要らない。だって、人間より機械の方が速く、正確になるから。英語の専門家は1%くらいいれば済む。後は機械に任せておけばいい、と。エンジニアらしい、いささか乱暴な議論でしたけれど、英語の先生たちはこの挑発的な発言に異論を立てる義務があると思います。小学生から英語を教える必要なんかないし、中学でも高校でも、特殊な職業をめざすもの以外には英語を教える必要がないと言い切ってるんですから。

 僕は毎年野沢温泉にスキーに行くのですけれど、今年も3月に野沢に行ったら、もう外国人ばかりなのですね。僕らが泊まった旅館は七、八割が外国の方でした。食堂に案内された時に、座席表が外国名ばかりだったので、仲居さんに「大変ですね、英語で接客するんですか?」と訊いたら、「いいえ。私ら英語できませんから、全部Google翻訳です」とこともなげに答えられました。

 僕はある禊の会に入っておりまして、ときどき禊の行に行くのですけれど、四月に行った時は、ロシア人が団体で来ておりました。聞くと驚く方が多いと思いますけれど、ロシア人も神道の禊をやる人たちがいるんですよ。モスクワにも道場があるんですが、やっぱり本場の日本で本格的に修行したいという人たちが来ているのです。この時はロシアの人とベネズエラの人が来ておりました。道場は祝詞を唱えたり、座禅を組んだりという行をしているところですから、もともと外国人の参加なんか予測していないし、もちろん外国語が堪能な人が揃っているわけではない。
 来たロシア人たちは英語もあまりわからないということで、どうやって意思疎通するんだろうと心配しておりましたら、道場長が、「これがあるから大丈夫」と言って、小さな機械を見せてくれました。Pocketalk という手のひらサイズの自動翻訳機械でした。まさに『ドラえもん』の「ほんやくコンニャク」でした。そこには60ヵ国語が入っていて、ボタンを押して、日本語を言うと、外国語になって音声が出てくる。外国語音声を入力してもらうと、日本語の音声に訳される。さっそくロシア人たちとその機械で会話をしてみました。

 僕はそういうガジェットに目がないので、家に帰ってすぐにAmazonで検索して、購入しました。SIMカードを入れると世界中どこでも使える。それが3万円台。仰天しました。いつの間にこんなものが・・・と思いました。われわれの知らないうちに、テクノロジーはどんどんと進化しているわけです。AIの「シンギュラリティー」が来ると産業構造が変わり、雇用環境が激変するとさかんに報道されていますけれど、そんな先の話ではなくて、自動化・機械化はあちこちでもう起きているわけです。

 これまで英語をいやいや勉強してきた「のび太」君のような子どもたちにとって「ほんやくコンニャク」はまさに夢の機械だったわけですけれど、それが今やSIMカード付きで、3万円台で手に入る。いずれ価格競争が起きて、「ほんやくコンニャク」がコンビニで電卓程度の価格で売られる時代も来るかも知れない。電卓が普及したせいで筆算や珠算の能力に対するニーズが失われたように、機械翻訳が日常的なものになってきたら、オーラル・コミュニケーション能力を身に付ける必要もなくなります。よく「町で外国人にいきなり道を尋ねられたときに英語ができないと困る」というようなことを英語学習の動機づけとして語る人がいますけれど、これからはポケットから出せば済むわけですね。

 今の「ほんやくコンニャク」は、まだ一度に聴き取れるセンテンスが短いですけれども、技術的な改良はこれからもどんどん進み、いずれどこでどんな外国語で話しかけられても、日本語でスムーズに対話できるようになる。『スターウォーズ』にすべての宇宙の言語が話せる通訳ロボットC-3POというのが出てきますけれど、個人用のC-3POをみんなが連れて歩けるようになるようなものです。

 こういうところで僕がしゃべっている音声を、すぐに文字起こしして後ろのスクリーンに投影するというテクノロジーはすでに開発されています。もともとは聴覚障害者用に開発されたものです。手話通訳者がいなくても話を理解できるようにということで開発された。話し始めのうちは、技術者が文章に手を入れます。日本語は同音異義語が多いですし、人によってかなり特殊な言葉づかいをしますから、技術者がいったん文字起こしされたものを、意味が通るように修正する。でも、時間が経つと、機械が話し手の語彙や「話し癖」に慣れて、技術者が介入しなくても、機械が講演をタイムラグなしにスクリーンに映し出すようになる。僕がそのシステムを使って講演したのはもう1年半ぐらい前です。恐らく今はもっと技術が進化していると思います。

 外国語教育はどうすれば効率的であるのかという話をわれわれは教育者という立場で必死にしているわけですけれど、そういうわれわれの側の努力とはまったく無関係に、科学技術は進化して、場合によっては英語教育についての根幹部分についてのこれまでの工夫や議論を無効化してしまうような変化が起きている。そのことをまずみなさんにはご理解頂きたいと思います。

自動機械翻訳がオーラル・コミュニケーションにおける障害の多くを除去してくれるということになったら、一体何のために外国語を学ぶのか? 日本の小・中・高の英語の先生方は、「何のために英語を学ぶのか?」ということについて、今や根源的な省察を要求されています。これまではそんなことを考える必要がなかった。英語を学ぶことの必然性・有用性は自明のものだと思われていた。でも、それが揺らいできた。

 僕自身は長くフランス語を勉強してきて、大学では語学の教師をしていたわけですから、「なぜ外国語を学ぶ必要があるのか」に関してはずっと考え続けてきました。特に、フランス語やドイツ語のような第二外国語については、「そんなものを学生に履修させる必要がない、そんな時間があったらもっと英語をやらせろ」というタイプの議論に何度も巻き込まれましたから、「なぜとりあえず不要不急のものであるフランス語を学ぶ必要があるのか?」という問いについてはかなり真剣に考えて来ました。

 僕の結論は「どんなものであれ、外国語を学ぶことは子どもたちの知的成熟にとって必要である」ということでした。これが僕の基本的な立場です。こればかりは譲れません。「ほんやくコンニャク」ができようと、ポケットマネーで通訳が雇えようと、そんなことは全く別のレベルで、人は外国語を学ぶ必要がある。でもそれは、文科省が言っているような「英語ができる日本人をつくる」といった功利的な目的とは無関係な話です。

 今日、この中に文科省の方はいらしていますか。いらしたら、自動機械翻訳がどのように日本の外国語教育を変えていくのかについて、これまで省内ではどういう話し合いをされてきたのかお訊ねしたいです。調査はされていますか? 実際に機械をお使いになってみたことがありますか? 今、自動機械翻訳がどうなっているかを知っていれば、「英語ができる日本人」養成プログラムのような、ビジネスの場面でオーラル・コミュニケーションがうまくないと、侮られる、損をする、というようなことを英語習得の主目的を掲げているプログラムは存在そのものが無意味になるかも知れないということにもっとショックを受けていいはずなんです。でも、その気配もない。ということは、文科省の方々は自動機械翻訳については何もご存じないということだと思います。教育プログラムの根幹を揺るがすようなテクノロジーの進化について「何もご存じない」のだとしたら、それは教育行政を司る省庁として「あまりに不勉強」とのそしりを免れないのではないかと思います。
 
 外国語学習について語るときに、「目標言語」と「目標文化」という言葉があります。「目標言語」というのは、今の場合なら、例えば英語です。なぜ英語を学ぶのか。それは「目標文化」にアクセスするためです。英語の場合であれば、ふつうは英語圏の文化が「目標文化」と呼ばれます。

 僕らの世代において英語の目標文化ははっきりしていました。それは端的にアメリカ文化でした。アメリカ文化にアクセスすること、それが英語学習の最も強い動機でした。われわれの世代は、子どものときからアメリカ文化の洪水の中で育っているわけですから、当然です。FENでロックンロールを聴き、ハリウッド映画を観て、アメリカのテレビドラマを観て育ったわけですから、僕らの世代においては「英語を学ぶ」というのは端的にアメリカのことをもっと知りたいということに尽くされました。

僕も中学や高校で「英語好き」の人にたくさん会いましたけれど、多くはロックの歌詞や映画の台詞を聴き取りたい、アメリカの小説を原語で読みたい、そういう動機で英語を勉強していました。

 僕もそうでした。英語の成績は中学生からずっとよかったのですが、僕の場合、一番役に立ったのはビートルズの歌詞の暗記でした。ビートルズのヒット曲の歌詞に含まれる単語とイディオムを片っ端から覚えたのですから、英語の点はいいはずです。

 つまり、英語そのものというよりも、「英語の向こう側」にあるもの、英米の文化に対する素朴な憧れがあって、それに触れるために英語を勉強した。英米のポップ・カルチャーという「目標文化」があって、それにアクセスするための回路として英語という「目標言語」を学んだわけです。

 その後、1960年代から僕はフランス語の勉強を始めるわけですけれども、この時もフランス語そのものに興味があったわけではありません。フランス語でコミュニケーションしたいフランス人が身近にいたわけではないし、フランス語ができると就職に有利というようなこともなかった。そういう功利的な動機がないところで学び始めたのです。フランス文化にアクセスしたかったから。

 僕が高校生から大学生の頃は、人文科学・社会科学分野での新しい学術的知見はほとんどすべてがフランスから発信された時代でした。40年代、50年代のサルトル、カミュ、メルロー=ポンティから始まって、レヴィ=ストロース、バルト、フーコー、アルチュセール、ラカン、デリダ、レヴィナス・・・と文系の新しい学術的知見はほとんどフランス語で発信されたのです。

 フランス語ができないとこの知的領域にはアクセスできない。当時の日本でも、『パイデイア』とか『現代思想』とか『エピステーメー』とかいう雑誌が毎月のようにフランスの最新学術についての特集を組むのですけれど、「すごいものが出て来た」と言うだけで、そこで言及されている思想家や学者たちの肝心の主著がまだ翻訳されていない。フランス語ができる学者たちだけがそれにアクセスできて、その新しい知についての「概説書」や「入門書」や「論文」を独占的に書いている。とにかくフランスではすごいことになっていて、それにキャッチアップできないともう知の世界標準に追いついてゆけないという話になっていた。でも、その「すごいこと」の中身がさっぱりわからない。フランス語が読めないと話にならない。ですから、60年代―70年代の「ウッドビー・インテリゲンチャ」の少年たちは雪崩打つようにフランス語を学んだわけです。それが目標文化だったのです。 

 のちに大学の教師になってから、フランス語の語学研修の付き添いで夏休みにフランスに行くことになった時、ある年、僕も学生にまじって、研修に参加したことがありました。振り分け試験で上級クラスに入れられたのですけれど、そのクラスで、ある日テレビの「お笑い番組」のビデオを見せて、これを聴き取れという課題が出ました。僕はその課題を拒否しました。悪いけど、僕はそういうことには全然興味がない。僕は学術的なものを読むためにフランス語を勉強してきたのであって、テレビのお笑い番組の早口のギャグを聴き取るために労力を使う気はないと申し上げた。その時の先生は真っ赤になって怒って、「庶民の使う言葉を理解する気がないというのなら、あなたは永遠にフランス語ができるようにならないだろう」という呪いのような言葉を投げかけたのでした。結局、その呪いの通りになってしまったのですけれど、僕にとっての「目標文化」は1940年から80年代にかけてのフランスの知的黄金時代のゴージャスな饗宴の末席に連なることであって、現代のフランスのテレビ・カルチャーになんか、何の興味もなかった。ただ、フランス語がぺらぺら話せるようになりたかったのなら、それも必要でしょうけれど、僕はフランスの哲学者の本を読みたくてフランス語を勉強し始めたわけですから、その目標を変えるわけにゆかない。フランス語という「目標言語」は同じでも、それを習得することを通じてどのような「目標文化」にたどりつこうとしているのかは人によって違う。そのことをその時に思い知りました。

 ロシア語もそうです。今、大学でロシア語を第二外国語で履修する学生はほとんどいません。でも、若い方はもうご存じないと思いますけれど、1970年に僕が大学入学したとき、理系の学生の第二外国語で一番履修者が多かったのはロシア語でした。「スプートニク・ショック」と言われたように、60年代まではソ連が科学技術のいくつかの分野でアメリカより先を進んでいたからです。科学の最先端の情報にアクセスするためには英語よりもロシア語が必要だった。でも、ソ連が没落して、科学技術におけるアドバンテージが失われると、ロシア語を履修する理系の学生はぱたりといなくなりました。もちろんドストエフスキーを読みたい、チェーホフを読みたいというような動機でロシア語を履修する学生の数はいつの時代もいます。目標文化が「ロシア文学」である履修者の数はいつの時代もそれほど変化しない。けれども、目標文化が「ソ連の科学の先進性」である履修者は、その目標文化が求心力を失うと、たちまち潮が引くようにいなくなる。

 僕の学生時代はフランス語履修者がたくさんおりました。でも、その後、フランス語履修者は急減しました。ある時点で中国語に抜かれて、今はもう見る影もありません。理由の一つは、日本のフランス語教員たちが学生たちの知的好奇心を掻き立てることができなかったせいなのですけれど、それ以上に本国のフランスの文化的な発信力が低下したことがあります。フランス文化そのものに日本の若者たちを「目標」として惹きつける魅力がなくなってしまった。

フランス語やロシア語の例から知れる通り、われわれが外国語を学ぶのは目標文化に近づくためなのです。目標文化にアクセスするための手段として目標言語を学ぶ。

 しかし、まことに不思議なことに、今の英語教育には目標文化が存在しません。英語という目標言語だけはあるけれども、その言語を経由して、いったいどこに向かおうとしているのか。向かう先はアメリカでもイギリスでもない。カナダでもオーストラリアでもない。どこでもないのです。

 何年か前に、推薦入試の入試本部で学長と並んで出願書類をチェックしていたことがありました。学長は英文科の方だったのですけれど、出願書類の束を読み終えた後に嘆息をついて、「内田さん、今日の受験者150人の中に『英文科志望理由』に『英米文学を学びたいから』と書いた人が何人いると思う?」と訊いてきました。「何人でした?」と僕が問い返すと「2人だけ」というお答えでした「後は、『英語を生かした職業に就きたいから』」だそうでした。

 僕の知る限りでも、英語を学んで、カタールの航空会社に入った、香港のスーパーマーケットに就職した、シンガポールの銀行に入ったという話はよく聞きます。別にカタール文化や香港文化やシンガポール文化をぜひ知りたい、その本質に触れたいと思ってそういう仕事を選んだわけではないでしょう。彼らにとって、英語はたしかに目標言語なのですけれど、めざす目標文化はどこかの特定の文化圏のものではなく、グローバルな「社会的な格付け」なのです。高い年収と地位が得られるなら、どの外国でも暮らすし、どの外国でも働く、だから英語を勉強するという人の場合、これまでの外国語教育における目標文化に当たるものが存在しない。

 これについては平田オリザさんが辛辣なことを言っています。彼に言わせると、日本の今の英語教育の目標は「ユニクロのシンガポール支店長を育てる教育」だそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」はもちろん有用な仕事であり、しかるべき能力を要するし、それにふさわしい待遇を要求できるポストですけれど、それは一人いれば足りる。何百万単位で「シンガポール支店長」を「人形焼き」を叩き出すように作り出す必要はない。でも、現在の日本の英語教育がめざしているのはそういう定型です。

 僕は大学の現場を離れて7年になりますので、今の大学生の学力を知るには情報が足りないのですけれども、それでも、文科省が「英語ができる日本人」ということを言い出してから、大学に入学してくる学生たちの英語力がどんどん低下してきたことは知っています。それも当然だと思います。英語を勉強することの目標が、同学齢集団内部での格付けのためなんですから。低く査定されて資源分配において不利になることに対する恐怖をインセンティヴにして英語学習に子どもたちを向けようとしている。そんなことが成功するはずがない。恐怖や不安を動機にして、知性が活性化するなんてことはありえないからです。

 僕は中学校に入って初めて英語に触れました。それまではまったく英語を習ったことがなかった。1960年頃の小学生だと、学習塾に通っているのがクラスに二三人、あとは算盤塾くらいで、小学生から英語の勉強している子どもなんか全然いません。ですから、FENでロックンロールは聴いていましたけれど、DJのしゃべりも、曲の歌詞も、ぜんぶ「サウンド」に過ぎず、意味としては分節されていなかった。それが中学生になるといよいよ分かるようになる。入学式の前に教科書が配られます。英語の教科書を手にした時は、これからいよいよ英語を習うのだと思って本当にわくわくしました。これまで自分にとってまったく理解不能だった言語がこれから理解可能になってゆくんですから。自分が生まれてから一度も発したことのない音韻を発声し、日本語に存在しない単語を学んで、それが使えるようになる。その期待に胸が膨らんだ。

 今はどうでしょう。中学校一年生が四月に、最初の英語の授業を受ける時に、胸がわくわくどきどきして、期待で胸をはじけそうになる・・・というようなことはまずないんじゃないでしょうか。ほかの教科とも同じでしょうけれど、英語を通じて獲得するものが「文化」ではないことは中学生にもわかるからです。わかっているのは、英語の出来不出来で、自分たちは格付けされて、英語ができないと受験にも、就職にも不利である、就職しても出世できないということだけです。そういう世俗的で功利的な理由で英語学習を動機づけようとしている。でも、そんなもので子どもたちの学習意欲が高まるはずがない。

 格付けを上げるために英語を勉強しろというのは、たしかにリアルではあります。リアルだけれども、全然わくわくしない。外国語の習得というのは、本来はおのれの母語的な枠組みを抜け出して、未知のもの、新しいものを習得ゆくプロセスのはずです。だからこそ、知性の高いパフォーマンスを要求する。自分の知的な枠組みを超え出てゆくわけですから、本当なら「清水の舞台から飛び降りる」ような覚悟が要る。そのためには、外国語を学ぶことへ期待とか向上心とか、明るくて、風通しのよい、胸がわくわくするような感じが絶対に必要なんですよ。恐怖や不安で、人間はおのれの知的な限界を超えて踏み出すことなんかできません。

 でも、文科省の『「英語ができる日本人」の育成のための行動計画の策定について』にはこう書いてある。

「今日においては、経済、社会の様々な面でグローバル化が急速に進展し、人の流れ、物の流れのみならず、情報、資本などの国境を超えた移動が活発となり、国際的な相互依存関係が深まっています。それとともに、国際的な経済競争は激化し、メガコンペティションと呼ばれる状態が到来する中、これに対する果敢な挑戦が求められています。」

冒頭がこれです。まず「経済」の話から始まる。「経済競争」「メガコンペティション」というラットレース的な状況が設定されて、そこでの「果敢な挑戦」が求められている。英語教育についての基本政策が「金の話」と「競争の話」から始まる。始まるどころか全篇それしか書かれていない。

「このような状況の中、英語は、母語の異なる人々をつなぐ国際的共通語として最も中心的な役割を果たしており、子どもたちが21世紀を生き抜くためには、国際的共通語としての英語のコミュニケーション能力を身に付けることが不可欠です」という書いた後にこう続きます。

「現状では、日本人の多くが、英語力が十分でないために、外国人との交流において制限を受けたり、適切な評価が得られないといった事態も起きています。」
「金」と「競争」の話の次は「格付け」の話です。ここには異文化に対する好奇心も、自分たちの価値観とは異なる価値観を具えた文化に対する敬意も、何もありません。人間たちは金を求めて競争しており、その競争では英語ができることが死活的に重要で、英語学力が不足していると「制限を受けたり」「適切な評価が得られない」という脅しがなされているだけです。そんなのは日本人なら誰でもすでに知っていることです。でも、「英語ができる日本人」に求められているのは「日本人なら誰でもすでに知っていること」なのです。

 外国語を学ぶことの本義は、一言で言えば、「日本人なら誰でもすでに知っていること」の外部について学ぶことです。母語的な価値観の「外部」が存在するということを知ることです。自分たちの母語では記述できない、母語にはその語彙さえ存在しない思念や感情や論理が存在すると知ることです。

 でも、この文科省の作文には、外国語を学ぶのは「日本人なら誰でもすでに知っていること」の檻から逃れ出るためだという発想がみじんもない。自分たちの狭隘な、ローカルな価値観の「外側」について学ぶことは「国際的な相互依存関係」のうちで適切なふるまいをするために必須であるという見識さえ見られない。僕は外国語学習の動機づけとして、かつてこれほど貧しく、知性を欠いた文章を読んだことがありません。

 たしかに、子どもたちを追い込んで、不安にさせて、処罰への恐怖を動機にして何か子どもたちが「やりたくないこと」を無理強いすることは可能でしょう。軍隊における新兵の訓練というのはそういうものでしたから。処罰されることへの恐怖をばねにすれば、自分の心身の限界を超えて、爆発的な力を発動させることは可能です。スパルタ的な部活の指導者は今でもそういうやり方を好んでいます。でも、それは「やりたくないこと」を無理強いさせるために開発された政治技術です。
 ということは、この文科省の作文は子どもたちは英語を学習したがっていないという前提を採用しているということです。その上で、「いやなこと」を強制するために、「経済競争」だの「メガコンペティション」だの「適切な評価」だのという言葉で脅しをかけている。

 ここには学校教育とは、一人一人の子どもたちがもっている個性的で豊かな資質が開花するのを支援するプロセスであるという発想が決定的に欠落しています。子どもたちの知性的・感性的な成熟を支援するのが学校教育でしょう。自然に個性や才能が開花してゆくことを支援する作業に、どうして恐怖や不安や脅迫が必要なんです。勉強しないと「ひどい目に遭うぞ」というようなことを教師は決して口にしてはならないと僕は思います。学ぶことは子どもたちにとって「喜び」でなければならない。学校というのは、自分の知的な限界を踏み出してゆくことは「気分のいいこと」だということを発見するための場でなければならない。

 この文章を読んでわかるのは、今の日本の英語教育において、目標言語は英語だけれど、目標文化は日本だということです。今よりもっと日本的になり、日本的価値観にがんじがらめになるために英語を勉強しなさい、と。ここにはそう書いてある。

 目標文化が日本文化であるような学習を「外国語学習」と呼ぶことに僕は賛成できません。

 僕自身はこれまでさまざまな外国語を学んできました。最初に漢文と英語を学び、それからフランス語、ヘブライ語、韓国語といろいろな外国語に手を出しました。新しい外国語を学ぶ前の高揚感が好きだからです。日本語にはない音韻を発音すること、日本語にはない単語を知ること、日本語とは違う統辞法や論理があることを知ること、それが外国語を学ぶ「甲斐」だと僕は思っています。習った外国語を使って、「メガコンペティションに果敢に挑戦」する気なんか、さらさらありません。

 外国語を学ぶ目的は、われわれとは違うしかたで世界を分節し、われわれとは違う景色を見ている人たちに想像的に共感することです。われわれとはコスモロジーが違う、価値観、美意識が違う、死生観が違う、何もかも違うような人たちがいて、その人たちから見た世界の風景がそこにある。外国語を学ぶというのは、その世界に接近してゆくことです。 

 フランス語でしか表現できない哲学的概念とか、ヘブライ語でしか表現できない宗教的概念とか、英語でしか表現できない感情とか、そういうものがあるんです。それを学ぶことを通じて、それと日本語との隔絶やずれをどうやって調整しようか努力することを通じて、人間は「母語の檻」から抜け出すことができる。
 外国語を学ぶことの最大の目標はそれでしょう。母語的な現実、母語的な物の見方から離脱すること。母語的分節とは違う仕方で世界を見ること、母語とは違う言語で自分自身を語ること。それを経験することが外国語を学ぶことの「甲斐」だと思うのです。

 でも、今の日本の英語教育は「母語の檻」からの離脱など眼中にない。それが「目標言語は英語だが、目標文化は日本だ」ということの意味です。外国語なんか別に学ぶ必要はないのだが、英語ができないとビジネスができないから、バカにされるから、だから英語をやるんだ、と。言っている本人はそれなりにリアリズムを語っているつもりでいるんでしょう。でも、現実にその結果として、日本の子どもたちの英語力は劇的に低下してきている。そりゃそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」が「上がり」であるような英語教育を受けていたら、そもそもそんな仕事に何の興味もない子どもたちは英語をやる理由がない。

 達成目標があらかじめ開示された場合に、子どもたちの学習努力は大きく殺がれます。教育のプロセスをまじめに観察したことがある人間なら、誰でもわかることです。「勉強するとこんないいことがある」とか「勉強しないとこんなひどい目に遭う」というようなことをあらかじめ子どもに開示すると、子どもたちの学習意欲はあきらかに減退する。というのは、努力した先に得られるものが決まっていたら、子どもたちは最少の学習努力でそれを獲得しようとするに決まっているからです。

 学習の場では決して利益誘導してはならないということを理解していない人があまりに多い。でも、長く教員をやってきてこれは経験的にはっきりと申し上げられます。賞品で子どもを釣ったり、恐怖で子どもを脅したりしても子どもたちの知的な能力は絶対に向上しません。彼らはどうやったら最少の学習努力で目的のものを手に入れるか、そこに全力を集中するようになるだけです。

 大学で最初の授業のときにオリエンテーションをやると、必ず「先生、単位をもらえる最低点は何点ですか」と「この授業は何回まで休めますか」という質問が出ます。単位をとるための最低点と最少出席回数をまず確認する。「ミニマム」を知ろうとするわけです。これは消費者マインドを持って教室に登場した学生にとっては当然の質問です。「これいくらですか?」と訊いているわけですから。

 彼らにとって単位や学位や免状や資格は「商品」なんです。そして、学習努力は「貨幣」です。だから、買い物客が「この商品の価格はいくらですか?」と訊くように、「この授業で求められる最少学習努力はどの程度ですか?」を訊いてくる。
 求める商品にそれなりの価値があることは彼らだってわかっているのです。でも、どんな価値のある商品であっても、一番安い価格で買うというのは消費者の権利であり義務であるわけです。特売コーナーで同じ商品が安く売っていたら、カートに入れた商品を元の棚に戻して、特売コーナーの同一商品をカートに入れる。それは買い物をする人間としては当たり前のことです。「元の棚」がかなり遠いところであっても、ごろごろカートを押して、そこまで戻しにゆく。その手間を別に惜しいとは思わない。それが消費者です。

 ですから、消費者としてふるまう学生たちの目には、出席をとらない科目、毎年同じ試験問題を出す科目、丸写しレポートでも単位をくれる科目は「特売コーナー」に置かれている商品のようなものとして映る。「特売商品」で同じ単位がもらえるなら、そういう「楽勝科目」だけを集めて卒業単位を稼ぐのが最もクレバーな学生生活であることになる。消費者マインドが骨までしみついた学生たちは、大学に来てまで「どうすれば最も少なく学べるか」をめざして努力するようになる。
 もし書店に「3ヵ月でTOEICスコアが100点上がる」という参考書があったとします。それを買おうと思って、横を見たら「1ヵ月で100点上がる」という本があった。当然、そちらを買う。でも、その隣に、「1週間で100点上がる」という本があった。これはもうこちらを買うしかない。でも、そのさらに横には「何もしなくても100点上がる」という本があった。もう迷わずこれを買う。

 そういうものですね。学習の達成目標が決まっていれば、あとはいかに少ない学習努力でそれを達成するかというところに知恵を使う。それが最も合理的であるということは子どもにだってわかります。ですから、学校で「勉強すると、こんないいことがある」という仕方で功利的に誘導するのは自分で足元を掘り崩しているようなものなのです。

 車を買うときだって、ふつうの人は何軒もディーラーを回って、だいたい車格が同じくらいの車を値踏みして、「おたくはいくら引くの?」と訊いて回りますよね。そして、一番値引き率の高いディーラーで買う。子どもたちだって、そういう親たちのふるまいを見て育っています。だから、一番安いところで買うためには、一日かけて何軒もディーラーを回るくらいの苦労はしても当然だということを学ぶ。だから、学校でも「最少の学習努力で教育商品を手に入れるために最大限の努力を惜しまない」という非合理な行動をするようになる。

 僕が教務部長をしている時に、単位をよこせとどなり込んできた学生がいました。事情を聴くと、レポートの期限に遅れたので、担当の教師が受理してくれなかった、それで単位を落としたというのです。期限に遅れたのは、提出期限が一日前倒しになったのを知らなかったからです。先生はうっかりして、入試があって学生入構禁止の日をレポートの提出期限として指定したしまったのです。大学の事務からそれを指摘されて、締め切り日を一日繰り上げて、学生たちには教室でそのことを告知したのですが、その学生はその日授業に出ていなかったのでそれを知らなかった。そして、大学構内に入れない日にレポートを持ってきて、ガードマンに追い返されてしまった。その学生と親たちが教務課の窓口に来て抗議しているわけです。「レポート提出期限の変更は授業を休んだ学生全員に周知徹底するのは大学の義務だ」と言う。「ちゃんと掲示板に告知してありました」と言ったのですが「中には掲示板を見ない学生だっている。教師は欠席した学生全員にひとりひとり電話をかけて知らせるべきだった」とごねる。ついに「弁護士を立てて大学を訴える」と言い出した。

 この一家のご努力にはほんとうに感動しました。どうして教務課で騒ぎ立てることについてはこれほど努力を惜しまないのに、授業に出ることや掲示板を見ることにはこれほど努力を惜しむか。担任の先生に出席簿を出してもらって調べたら、その学生は15週のうち6回しか出席しておりませんでした。それを知らせたら、さすがに親も引き下がりました。その学生は親には「ほとんど全部出席していた」と嘘をついていたのでした。

 この親子は消費者マインドで学校に来る人間の典型だと思います。「最低価格で商品を手に入れる」ためにはいかなる努力も惜しまない。それが倒錯的なふるまいだということが本人にはわからないのです。教務課相手に何日もかけてタフな交渉をするより、ふつうに授業に出ていた方がずいぶん楽だし、知識も身に着くので「一挙両得」ではないかと思うのですけれど、そういう計算が立たない。
 
 親や学生だけではありません。学校にもいます。市場原理で教育を語る人間が。「学校は店舗だ。われわれが売っているのは教育サービスだ。保護者と子どもたちはクライアントだ。消費者に選好される教育商品を売るのが教育活動なのだ。だから、市場のニーズを見きわめ、ターゲットを絞って、マネジメントをしなければいけない」というようなことを言う人間が。本人はビジネスマインドで教育を語って、わかった気になっているようですけれど、本当に頭が悪い。そんなことをしたら、学力はどんどん下がるに決まっているではないですか。

 だって、彼の言う「クライアント」が求めるのは「最低の学習努力で手に入る、価値のある教育商品」なわけですから、最終的には「勉強しなくても、学校に来なくても、試験を受けなくても、レポートを書かなくても、学習努力ゼロでも学位を差し上げます」というところを選ぶようになるに決まっている。

 最近よく「在学中に1年留学」ということを謳っている大学がありますね。大学は学生から授業料を徴収して、留学先の大学に研修費を払って、差額を手に入れる。教育活動ゼロでそれなりの授業料が入るわけですから笑いが止まらない。学生の25%が大学に来ないんですから教育コストは大幅に軽減できる。人件費も光熱費も25%節約できるし、トイレットペーパーも減らないし、校舎の床も階段も損耗しない。そのうち「だったら留学期間2年にしたらどうか」と言い出すやつがきっと出てきます。それなら教員を50%減らすことができる。「それならいっそ留学3年必須にしたらどうか」と誰かが言い出し、ついには「いやそれより4年間留学必須にしたどうか」と言い出すやつが出て来る。そうすれば大学は何も授業せず、集めた授業料を留学先の研修費に払った差額はまるごとポケットに入る。もう教職員を雇う必要もないし、キャンパスさえ要らない。教育活動を一切しないでも金が入ってくる。

 そうなんです。市場原理に従うなら、大学はできるだけ教育活動にコストをかけない方が儲かる。ですから、論理的には「大学がない」ときに利益率は最大化する。

 実際に21世紀はじめに林立した株式会社大学の中には、貸しビルに部屋を借りただけでキャンパスを持たず、専任教員を雇わずに職員に講義させ、ビデオを見せて授業に代えたりして、最少の教育コストで「大儲け」を狙ったところがありました。もちろん、すぐに潰れました。でも、経営者は「どうして市場原理に従って経営したのに失敗したのか」最後まで理解できなかったのではないかと思います。

 教育に市場原理を持ち込んだら、学生たちは「最少の学習努力」をめざし、学校経営者たちは「最少の教育コスト」をめざすようになる。それが当然なのです。でも、そんなものは教育ではない。そんな簡単なことさえわからない人間たちが、教育がどうあるべきかについて論じ、政策を決定して、現場にあれこれとお門違いな命令を下して、ひどい場合は大学を経営している。それが今の日本です。学校教育が劣化するのも当たり前です。

 もう一つ、申し上げておきたいことがあります。それは学校に競争原理を持ち込んではならないということです。このエピソードも何度も本に書いたことですけれど、印象的な事例なので繰り返します。

 僕のゼミの学生で、学習塾でバイトをしていたものがいました。そこは学習習慣のない子どもたちのための塾で、マンツーマンで勉強を教えていた。一生懸命教えた甲斐があって、その学生が担当していた子どもがようやく学習習慣が身についてきて、教室でも長い時間机に座っていられるようになった。そして、ある日ついに塾の学習進度が学校を超えた。学校でまだ習っていない単元に進んだのです。そうしたら、その子は、学校で自分が知っていることを先生が教え始めたら、立ち上がって歌を歌い出したというのです。

 学校の先生から親に相談が行って、親から塾で担当していた学生に相談が行って、学生から僕が相談を受けて、「先生、一体この子は何のためにそんなことをしたのでしょう?」と訊かれたので、彼は彼なりに合理的な行動をとったのだと思うと答えました。

 この子はずっと学校の勉強に遅れていた。それがようやくわずかながらも級友よりも先に進んだ。このアドバンテージを維持するためには、周りの級友たちの学習を妨害するのが最も効果的である。そう考えたわけです。

 実際に、子どもたちは実に小まめに級友たちの学習妨害をしています。「学級崩壊」ということがある時点から言われ始めましたけれど、それは子どもたちが急激に反社会的になったからではなく、むしろ過度に社会化されたからではないかと僕は思っています。子どもたちは実際に合理的に行動しているのです。自分の学力を上げるための努力は自分ひとりにしかかかわらないけれど、学級崩壊はクラスメート全員の学習を妨害できる。同学齢集団内部での相対的な優劣を競うという観点から言うと、自分の学力を上げる努力よりも、周囲の学力を引き下げる努力の方が費用対効果が高い。

 昔からそういうのはありましたね。進学校だと、試験前でも「全然勉強やってないよ」と言って級友を油断させたり、試験の前日に麻雀に誘って勉強の邪魔をしたりとか、そういう「せこい」ことをやっていた。でも、今はもっとそれを組織的かつ無意識的にやっている。競争原理的には合理的なふるまいなので誰も止めることができない。

 偏差値というのがまさに競争原理がもたらした倒錯の典型です。偏差値は学力とは無関係です。あれは、同学齢集団のどの辺にいるのかという「格付け指標」です。今、偏差値70の子は、僕が中学生だった頃に連れ来たら、とてもそんな偏差値はとれないでしょう。競争相手の同学齢集団の規模が二倍以上だし、学力そのものも年ごとに低下していますから。でも、偏差値というのは集団そのものの学力が低下しても、格付け機能だけは変わらない。そういう競争に子どもたちを追い込んだら、当然子どもたちは「最少の学習努力で高い偏差値をとる方法」を工夫するようになります。そして、そのためには「集団全体の学力を下げる」のが最も効率的であるということは誰にでもわかる。

 僕は神戸の住吉というところに住んでいます。近くには灘高とか六甲学院といった中高一貫の進学校があります。電車に乗ると、よくそういう学校の生徒たちに会います。ついにじり寄っていって、どんな話をしているのか立ち聞きしてしまう。みごとなほど知的な会話をしていない。直接教科の内容にかかわることでなくてもいいのです。今だったら、「米朝会談どうなると思う」というような話をしてもいいじゃないですか「金正恩はこれからどう出るか」とか「南北は裏で話がついていたのか」とか「CIAが絡んでいるのかね」とか、高校生だって、そういう話をしてもいいじゃないですか。「これから日本の政治はどうなるのか」とか「東京オリンピックはほんとうに開催できるのか」とか。自分たちのこれからにかかわることなんですから。でも、そういう話をまったくしていない。

 例えば、生徒たちがそれぞれ手分けして海外のネットニュースを読んだり、本を読んだりして情報を集めて、それを共有すればいいと思うんですよね。頭のいい子たちなんだから。でも、そうやってお互いの知的リソースを富裕化するという作業はみごとなほどまったくしていない。おしゃべりの内容は、「そんなことを知っていても、試験の点数が一点も上がることのない話題、話し相手の知性が少しも活性化しない話題」に限定されています。もう、みごとなほど。無意識にやっているんですよ、そういうことを。同学齢集団の競争相手たちの知性が活性化することを本能的に回避しようとしている。そういうことを社会全体でやっている。学力が低下し、大学の学術的発信力が先進国最低にまで下落するのも当然なんです。

 いったいどうすればいいのか。僕からの提案はシンプルなんです。でも、これは無理だと皆さんは言うと思います。それは「成績をつけない」ということです。成績をつけない。生徒たちを格付けをしない。教えたいことがあるので教える。聞きたい人は聞いてくれ。そういう授業をする。そんなことをしたら管理職からも、親からも、生徒たち自身からも「止めてくれ」と言われると思いますけれど、日本の学校教育を蘇生させる道はそれしかないです。点数をつけない。成績をつけるのを止めれば、格付けによって資源を傾斜配分するというルールを止めれば、日本の子どもたちの学力は一気にV字回復します。それは断言してもいい。

 成績をつけ、格付をして、得点の高いものに報奨を与え、得点の低いものは処罰するというのは「微量の毒」のようなものなんです。毒もうまく使えば薬になるけれど、所詮は毒です。短期的に、一気に限界を超えさせるためには、格付けによる差別は有効です。でも、そういう無理は長続きするものじゃない。どこかで子どもたちの心身が壊れ始める。ほんとうに自己の知的限界を超えるためには、時間がかかるんです。教師は生徒たちの学びへの意欲が起動するまで、長い時間待たなければいけない。学びに促成栽培はあり得ないんです。

 同学齢集団の中で相対的な優劣を競わせるのは「促成栽培」です。農作物を育てる時に、農薬や肥料を大量に投与したり、人工的な環境で育てるのと同じです。すぐに効果は出るけれど、それはほんとうに力がついたわけじゃない。

 学校で子どもたちが身に付けるべき能力は、学校を出てから役立つものでなければ意味がありません。学校を出た後はすぐに年齢も違う、性別も違う、専門も違う人たちと共同的にかかわることになります。自分とものの考え方が違う人たちとのコラボレーションができなければ仕事になりません。同学齢集団内で相対的な優劣を競ってきた能力なんか、そういう場面では何の役にも立ちません。コラボレーションで必要なのは、汎用性の高い知的能力です。交渉力、調停力、胆力、共感力、想像力...そういうものです。だから、学校教育の本旨はそういう汎用性の高い知的能力を育ててゆくことでなければならない。それが子どもたちに本当に必要な、生きる知恵と力なんです。そういう力を高めてゆくことが、子どもたちの市民的な成熟を支援するということです。同学齢集団内の相対的な優劣を競わせて、お互いの知性が活発化するのを邪魔し合ってゆけば、子どもたちの生きる知恵と力はどんどん減退してゆく。それは今の日本の現実を見ればわかるはずです。

 僕は、神戸の道場で合気道という武道を教えています。門人は今300人ぐらいです。僕のところでも段位や級は出しています。そういうものがある方が励みになるらしいから。ですから、門人たちは昇段級審査の前になると集中的に稽古をします。なんとか時間をやりくりして道場に来て、自主的に稽古をしている。そういうふうに集中的に稽古することで、ある「壁」を超えるということも現にあります。ですから、僕は段位や級を出すことの効用は認めてます。でも、それは「そういうもの」がある方が一人一人の力が伸びる確率が高いという経験知に基づいてのことです。段位の上下を比べたり、誰が早く昇段したのか、誰が遅いかというようなことは一切口にしない。別に抑制しているわけではなく、僕はそんなこと考えたこともないから。門人同士を比べて、この人の方がこの人より巧い、この人の方が強い、というようなことは考えたことがない。門人同士の相対的な優劣を比較することなんか、修業上何の意味もありません。優劣を比較する対象があるとしたら、それは「昨日の自分」だけです。「昨日の自分」と比べて「今日の自分」がどう変化したのか、それは精密に観察しなければなりません。昨日まで気づかなかったどういう感覚が芽生えたか。昨日までできなかったどういう動きができるようになったか。そこには注意を向けなければいけない。でも、同門の他人と自分を比べて、その強弱や巧拙などを論じても何の意味もない。ほんとうに何の意味もないのです。修業の妨げにしかならない。

 僕の師匠は多田宏先生という方です。以前先生から「他人の技を批判してはいけない」と教えられました。僕はその時はまだ若くて、先生の意図よくわからなかった。口には出しませんでしたけれど、「他人の技の欠点に注目するのは有用なのではないか」と内心では思いました。先輩の技を注視して、あの人はここがよくない、あの人はここが優れている、この道場では誰それさんがやっぱり一番うまい、あの人は段位は高いが技術は劣るとか、そういうことを同門同士で論じ合ってもいいんじゃないかと思っていたからです。それが修業の役に立つと思っていた。

 たぶん僕が得心のゆかない顔をしていたからでしょう、先生は僕の方を見て、「他人の技を批判してうまくなるのなら、俺も朝から晩まで他人の技を批判しているよ」と言って笑って去っていかれた。その時の先生の言葉が今でも心に残っています。他人と自分の間の技術の相対的な優劣など論じても、そんなことは自分の修業に何の役にも立たない。それを骨身にしみるような言葉で教えられました。

 それはまさに武道修業者の基本として、澤庵禅師の『太阿記』の冒頭に掲げられている言葉です。

「蓋(けだ)し兵法者は、勝負を争わず、強弱に拘(こだわ)らず、一歩を出でず、一歩を退かず、敵、我を見ず、我、敵を見ず、天地(てんち)未分(みぶん)陰陽(いんよう)不到(ふとう)の処に徹して直ちに功を得べし」。

 兵法者の心得として、まず勝負を争わないこと、強弱にこだわらないことと書いてあります。修業の第一原則がこれなんです。相対的な優劣にこだわってはならない。それは自分の力を高めていく上で必ず邪魔になる。勝てば慢心するし、負けたら落ち込む。そんなことは修業にとって何の意味もありません。修業というのは、毎日淡々と、呼吸をするように、食事をしたり、眠ったりするのと同じように、自然に、エンドレスに行うことが肝要なのです。だから、修業には目標というものがありません。

 スポーツの場合だと、試合というものがあります。ある場所、ある時点に能力のピークが来るように設定して、それが終わったら、しばらく使い物にならないというようなことが許される。それは試合がいつど
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2023/06/18 (Sun) 12:15:44

スポーツの場合だと、試合というものがあります。ある場所、ある時点に能力のピークが来るように設定して、それが終わったら、しばらく使い物にならないというようなことが許される。それは試合がいつどこでどういう形態で行われるか事前に開示されているからです。でも、武道が涵養している能力はそういうものではない。どんな危機的局面に際会しても、適切にふるまって、生き延びる力です。その語義からして、「危機」とは、それが何であって、いつどこで遭遇するかわからないものです。天変地異でも、テロでも、パンデミックでも、ゴジラ来襲でも、どんな状況でも適切に対応できる力を「兵法者」は修業する。それは試合に合わせて「ピーク」を設定するとか、ライバルとの相対的な優劣について査定したり、成績をつけたり、それに基づいて資源分配するということとはまったく別の活動です。
 われわれは子どもたちを格付けして資源分配をするために教育をしているのか、それとも子どもたち一人一人のうちの生きる知恵と力を育てるために教育しているのか、そんなことは考えるまでもないことです。そして、一人一人の生きる知恵と力を高めるためには他人と比べて優劣を論じることには何の意味もありません。まったく、何の意味もないのです。有害なだけです。でも、現在の学校教育ではそれができない。全級一斉で授業をするという縛りがありますから、一人一人をそれほど丹念に観察できないというのはわかります。でも、授業を子どもたちの査定や格付けのために行うことについてはもっと痛みを感じて欲しいと思います。それはほんとうは学校でやってはいけないことなんです。

「日本の学校教育をよくする方法がありますか」とよく聞かれます。ですから、僕の答えはいつも同じです。「成績をつけないこと」です。でも、それを言うと、教員たちはみんな困った顔をするか、あるいは失笑します。「それができたら苦労はないですよ」とおっしゃる。でも、ほんとうにそれほど「それができたら苦労はない」ことなんでしょうか。

 僕は現に武道の道場という教育機関を主宰していて、そこでは「成績をつけない。門人たちの相対的な優劣に決して言及しない」ということをルールにしていますが、実に効率的に門人たちは力をつけて、ぐいぐいと伸びています。道場では査定ということをしない。寺子屋ゼミという教育活動も並行して行っていますけれど、ここでも研究の個別的な出来不出来についてはかなりきびしいコメントをすることもありますけれど、ゼミ生同士の優劣について論じることは絶対にしません。
 どうして教育の場で、教わる者たちは、指導者によって査定され、格付けされ、それに基づいて処遇の良否が決まるということが教育にとって「当然」だと信じられるのか、僕にはそれがわかりません。明らかにそれは教育にとって有害無益なことです。それは40年近く教育という事業に携わってきた者として確信を以て断言できます。

 僕は、一昨日に千葉の保険医たちの集会に呼ばれてお話をしてきました。懇親会で隣にいた保険医の方から「医療と市場原理はどうしてもなじまないのですけれども、どうしたらいいでしょう」と訊かれました。その質問には「苦しんでください」と答えました。にべもない答えだったとは思いますけれど、仕方がないのです。医療と市場原理は並立しないからです。並立しないものを並立させてようとしているのだから、苦しむ以外にない。

 医療というのは、医療を求める全ての人に、分け隔てなく、最高の質の医療を、ごくリーズナブルな代価で、できれば無償で提供することを理想としてます。そういう仕組みを作ることが医療の理想なわけですけれども、市場原理の中では、そうはゆかない。市場原理に即して考えると、医療は医師の技術・医療機器・医薬品・看護介護のサービスという「商品」として仮象する。だから、需給関係に従って、その「商品」に一番高い値を付ける人が所有することができる。アメリカはもうそうなっています。医療は市場で貨幣で買うものだと思われている。だから、お金をもっている人は最高の医療技術を享受できるけれど、貧困層は最低レベルの医療しか受けられない。富裕層は金に糸目をつけずに最高の医療スタッフを「侍医」として雇用することができるけれど、保険医療しか受けられない患者は、最低の医師、最低の看護師、最低の医療設備の病院にしか行けない。そのような最低の治療さえ受けられない人もいる。

 でも、本来、医療というのはそういうものであっていいはずがない。「ヒポクラテスの誓い」というのは古代ギリシャの医療人の誓いで、いまでもアメリカの医学部卒業式ではこの誓言をするはずですけれども、そこには「患者が自由人であろうと奴隷であろうと医療内容を変えてはならない」と謳ってあります。最古の医療倫理が「医療は患者の個人的属性に従って変えてはならない」ということなのですが、そのヒポクラテスの倫理がもう守られていない。これはヒポクラテスの誓いの方が正しくて、市場原理の方が間違っているのです。だから、「どうしたらいいでしょうか」と訊かれても「苦しんでください」としか言いようがない。医療の理想は実現することが難しい。かといって市場原理に従ってゆけば、超富裕層が医療資源を独占して、貧しい者は医療の恩恵を受けられないという古代ギリシャ時代以前の未開社会にまで退化してしまう。市場原理に委ねるとある種の領域では制度は限りなく劣化するという平明な事実を直視すべきなんです。それを直視したくないというのなら、苦しむしかない。

 それは、教育も同じです。われわれの共同体を担っていく次世代の若者たちの知性的な、感性的な、そして、霊性的な成熟を支援することが教育本来の目的です。ヒポクラテスの誓いと同じく、本来であれば全ての集団の、すべての子どもたちに同じ質の教育機会が与えられるべきなんです。だから「義務教育」なんです。集団には次世代を教育する義務が課されている。

 何万年も前の小さな集団で暮らしている太古の時代から、子どもたちがある年齢に達したら、年長者たちが子どもたちを集めて、「生きる技術」を教えました。狩猟の仕方とか、農耕の仕方とか、魚の獲り方とかを教えた。そういう技術を学ばないと子どもたちは生き延びることができず、集団が消滅してしまうからです。集団を存続させるためには、子どもたちに、ある年齢に達したら「生き延びるための知識と技術」を教え込む。それが教育です。

 教育する主体は集団なのです。そして、教育の受益者も集団なのです。集団が存続していくというしかたで集団が受益する。でも、今の教育では、子どもたちは消費者として「教育商品」を購入している気でいます。高い学歴を持ち、ハイエンドな資格とか免状を持っていたら、社会的地位が上がり、年収も上がり、威信も享受できる。だから、教育は商品だ、と。よい教育を受けたいというのは、よい洋服が欲しい、よい時計が欲しい、よい車が欲しいというのと同じだ、と。そういうものは自分の身を飾るものなのだから、自分の財布から金を出して買え、と。どうして税金を投じて、すべての子どもたち公教育を施さなければいけないのか、意味がわからないという人が現にいくらでもいます。

 でも、何度でも申し上げます。教育は買い物とは違います。教育は集団の義務なんです。教育の受益者は子どもたち個人ではなく、共同体そのものです。共同体がこれから継続し、そこで人々が健康で文化的な生活ができるように、われわれは子どもを教育する。

 でも、市場原理を持ち込んでくると、この筋目がまったく見えなくなってしまう。市場原理では、教育する主体は先生たち個人だとみなされる。集団ではないのです。教員個人の「教育力」なるものが数値的に表示されて、それに対して報奨や処罰が用意される。高い教育力を持つ教員個人が高い格付けを受けて、高い給与や地位を約束される。教育力の低い教員は低い格付けを受けて、冷遇される。それと同じように、教育を受けたことの利益は個人にのみ帰属する。知識も技術も、自分がその後他の同胞たちよりも高い地位に就き、高い年収を得るために、排他的に利用される。それがフェアネスだと信じている人が現代日本ではマジョリティを占めている。

 教育するものからも、教育を受けるものからも、「共同的」という本来の契機がまったく脱落したのが、現在の教育です。教育活動は個人のではなく、集団の営みであるということを理解していない教員さえたくさんいます。

 大事なことなので、何度でも申し上げますけれど、教育の主体は集団です。教育は集団で行うものであり、教育を受けるのは個人ですけれど、その個人の活動から受益するのは集団です。「ファカルティー(faculty)」というのは「教師団」という意味です。教育活動を行うのは「ファカルティ―」であって、教員個人ではありません。「ファカルティ―」というのは、同じ学校で、同じ学期に、職員室で机を並べて仕事している同僚たちだけのことではありません。今教えている子どもたちがこれまで就いて学んできたすべての教師たち、子どもたちの周りにいたすべての年長者たちと共に、われわれは「ファカルティー」を形成している。僕たちは、僕たちに先行する教師たち・年長者たちからいわば送り出され、手渡された子どもたちを受け取り、自分たちに教えられることを教え、それを次の教師たちに「パス」してゆく。そのすべての大人たちが「ファカルティ―」を形成している。

 僕が神戸女学院大学に在職していた頃の話です。あの学校は同窓会の結束が固くて、卒業生がしばしば遺産を学校に贈与してくれます。部長会の席で、亡くなった卒業生から遺言で学校宛てに何千万円のご寄贈がありましたということを経理部長がしばしば報告してくれました。それを聞く度に、「ありがたいことだ」と思いながら、微妙に気持ちが片づかなかった。

 85歳ぐらいで亡くなった卒業生からの遺産贈与だとすると、その人が神戸女学院に通っていたのは、今からもう70年ぐらい前なわけです。70年前ぐらいに受けた教育に対する感謝の気持ちを遺産として遺してくださったわけですけれど、僕たちはもうその人を教えた先生たちの顔も名前も知らない。みなさん、とっくにお亡くなりになっている。その人たちが行ったすばらしい教育への感謝の気持として遺産贈与があるのだけれど、今この学校で働いている教員たちに、果たしてそれを受け取る資格はあるのか、そう考えてしまったのです。だから、片付かない気持ちがした。

 でも、しばらく考えて、これはやっぱり受け取っていいのだと思うようになりました。というのは、僕が今ここで必死に教育を行って、そのおかげでそれから後の人生が豊かなものになったと思ってくれた卒業生が、仮に今から70年後に神戸女学院に対して遺産を寄贈してくれたとします。その場合、遺産を受け取ることになった教員たちは、僕たちのことなんかもう覚えていないわけです。名前も知らないし、何を教えたのかも知らない。でも、もしそういうことがあったら、70年後の教師たちにはその遺産を喜んで受け取って欲しいと思います。というのは、教育活動というのは、「ファカルティー」が行うものだからです。70年前にここで教えた人たち、70年後にここで教える人たち、もう死んでしまった教師たち、まだ生まれてもいない教師たち、彼らを僕たちは一つの「ファカルティ―」を形成している。150年にわたってこの学校で教えた、これから教えることになるすべての教師たちと共に僕は「ファカルティ―」を形成している。卒業生の感謝の気持はたまたまその事案が発生した時に在職していた教職員が受け取るのではなくて、「ファカルティー」が受け取るのです。

 教育の主体は集団である、教育は集団的な事業であるというのはそのことです。「教師団」には、今この学校で一緒に働いている人びとだけではなく、過去の教師たちも未来の教師たちも含まれている。そういう広々とした時間と空間の中で、教育活動は行われている。そして、そういうような時代を超えた集団的活動が可能なのは、教育事業の究極の目的が「われわれの共同体の存続」をめざすものだからです。

 だから、教育政策の適否を計る基準は一つしかないと僕は思っています。それはその政策を実行することが子どもたちの市民的成熟に資するかどうか、それだけです。市民的成熟に資することであればよい。市民的成熟に関係のないこと、それを阻むものは教育の場に入り込ませてはいけない。それだけです。そういう基準で教育政策の適否を判定したら、今の文科省が主導している教育政策のほとんどは、子どもたちの市民的成熟にまったく何の関係もない、むしろそれを阻害するものだということがわかると思います。でも、そういうまっとうな基準で教育政策の適否を判定する習慣をわれわれは失って久しい。それが現在の日本の教育の混乱と退廃をもたらしている。

 では、どうしたらいいのかと。まだもう少し話す時間が残っているようですから、ちょっとだけ話します。大した知恵がなくて、できないことばかり言って本当に申しわけないのですが、一つは、保険医の方に言ったのと同じで、「とにかく苦しんでください」ということです。そして、先ほども言ったように、できることなら成績をつけないでもらいたい。成績をつけてもそれほど教育活動が阻害されない教科もあるかも知れませんが、できればどの教科でも何とか成績をつけないで進めて頂きたい。カリキュラムのどこかに、子どもたちが誰とも競争しないで済む時間帯を設けて欲しい。昨日の自分と今日の自分の変化を自分ひとりで観察する。そのような学びの場を何とか立ち上げて頂きたいと思います。

 もう一つ、今は英語教育にとりわけ中等教育では教育資源が偏ってきています。他の教科はいいから、とにかく英語をやれという圧力が強まっています。別にそれは英語の教員たちが望んだことではないのだけれど、教育資源が英語に偏っている。特に、オーラル・コミュニケーション能力の開発に偏っている。何でこんなに急激にオーラルに偏ってきたかというと、やはりこれは日本がアメリカの属国だということを抜きには説明がつかない。

「グローバル・コミュニケーション」と言っても、オーラルだけが重視されて、読む力、特に複雑なテクストを読む能力はないがしろにされている。これは植民地の言語教育の基本です。

 植民地では、子どもたちに読む力、書く力などは要求されません。オーラルだけできればいい。読み書きはいい。文法も要らない。古典を読む必要もない。要するに、植民地宗主国民の命令を聴いて、それを理解できればそれで十分である、と。それ以上の言語運用能力は不要である。理由は簡単です。オーラル・コミュニケーションの場においては、ネイティヴ・スピーカーがつねに圧倒的なアドバンテージを有するからです。100%ネイティヴが勝つ。「勝つ」というのは変な言い方ですけれども、オーラル・コミュニケーションの場では、ネイティヴにはノン・ネイティヴの話を遮断し、その発言をリジェクトする権利が与えられています。ノン・ネイティヴがどれほど真剣に、情理を尽くして話していても、ネイティヴはその話の腰を折って「その単語はそんなふうには発音しない」「われわれはそういう言い方をしない」と言って、話し相手の知的劣位性を思い知らせることができる。

 逆に、植民地原住民にはテクストを読む力はできるだけ付けさせないようにする。うっかり読む力が身に着くと、植民地の賢い子どもたちは、宗主国の植民地官僚が読まないような古典を読み、彼らが理解できないような知識や教養を身に付ける「リスク」があるからです。植民地の子どもが無教養な宗主国の大人に向かってすらすらとシェークスピアを引用したりして、宗主国民の知的優越性を脅かすということは何があっても避けなければならない。だから、読む力はつねに話す力よりも劣位に置かれる。「難しい英語の本なんか読めても仕方がない。それより日常会話だ」というようなことを平然と言い放つ人がいますけれど、これは骨の髄まで「植民地人根性」がしみこんだ人間の言い草です。「本を読む」というのはその国の文化的な本質を理解する上では最も効率的で確実な方法です。でも、植民地支配者たちは自分たちの文化的な本質を植民地原住民に理解されたくなんかない。だから、原住民には、法律文書や契約書を読む以上の読解力は求めない。

 今の日本の英語教育がオーラルに偏って、英語の古典、哲学や文学や歴史の書物を読む力を全く求めなくなった理由の一つは「アメリカという宗主国」の知的アドバンテージを恒久化するためです。だから、アメリカ人は日本人が英語がぺらぺら話せるようになることは強く求めていますけれど、日本の子どもたちがアメリカの歴史を学んだり、アメリカの政治構造を理解したり、アメリカの文学に精通したりすること、それによってアメリカ人が何を考えているのか、何を欲望し、何を恐れているのかを知ることはまったく望んでいません。

 言語は政治的なものです。オーラル・コミュニケーションはとりわけ政治的な力の差が際立つところです。一方が母語で話し、一方が後天的に学習した外国語で話して、そこで議論する、対話する、合意形成するということがどれほどアンフェアで、不合理なことか。英語が国際的共通語であるのは、英米が二世紀にわたって世界の覇権国家であったからです。それだけの理由です。だから、英語圏の人々は母語を話せば国際会議で議論でき、国際学会で発表できる。われわれ非英語圏の人間は、英語学習のために膨大な時間と手間をかけなければならない。それは計り知れないハンディキャップを課されているということです。超大国の覇権が恒久化されるように、言語状況そのものが設計されている。それは冷厳な歴史的事実なわけですから仕方がないことです。でも、「アンフェアだ」ということは言い続ける必要がある。

 もう一つオーラル・コミュニケーションが重要視されるのは、オーラルだと、その出自が一瞬で判定できるからです。ネイティヴ・スピーカーなのか、長くその英語圏の国で暮らして身に付けた英語なのか、日本の学校で日本人に習った英語なのか、一瞬でわかる。これをverbal distinctionと言います。「言語による差別化」です。映画『マイ・フェア・レディ』の原作はバーナード・ショーの『ピグマリオン』という戯曲ですが、映画でも戯曲でも、テーマはこの「言語による差別化」でした。

 映画の冒頭に、ヘンリー・ヒギンズ教授が、オペラハウスの前で、見知らぬ人に向かって、「あなたはどこの出身だ、職業は何だ」と次々と言い当てて気味悪がられるという場面がありますね。ヒギンズ教授は音声学の専門家ですから、一言聞いただけで、その人の出身地も階層も職業も学歴もことごとく言い当てることができる。でも、ヒギンズ教授はその能力を誇ってそうしているわけではないのです。イギリスでは、誰もが口を開いた瞬間に所属階級がわかってしまう。そういうかたちで「差別」が自動的に行われている。教授はそれはよくないことだと考えているのです。そして、自分はこのような「言語による差別化」を廃絶して、すべての人間が「美しい英語」を話す社会を実現するために研究をしているのだ、と語るのです。そこに花売り娘のイライザがあらわれて、すさまじいコックニーで話し始める。そこからご存じの物語が始まる。

 でも、今日本で行われているオーラル中心の英語教育は、この時のヒギンズ教授の悲願とは、まったく逆方向を目指しています。一言しゃべった瞬間に、オーラル・コミュニケーション能力が格付できるシステムを構築しようとしている。これはまさに植民地の言語政策以外の何物でもない。

 植民地英語を教えようとしている人たちの言うことはよく似ています。文法を教えるな、古典を読ませるな、そんなのは時間の無駄だ。それよりビジネスにすぐ使えるオーラルを教えろ、法律文書と契約書が読める読解力以上のものは要らない。そう言い立てる。それが植民地の言語政策そのままだということ、自分たちの知的劣位性を固定化することだということに気が付いていない。

 植民地的な言語教育の帰結は、母語によっては自分の言いたいことを十分に表現できなくなるということです。フィリピンは現地語のタガログ語がありますけれども、旧植民地ですから、宗主国の言語である英語ができないと、官僚にもビジネスマンにも教師にもなれない。それは、生活言語であるタガログ語では、ビジネストークもできないし、政治・経済についても、学術についても語れないからです。母語にはそのための語彙がない。ある程度知的な情報を含む会話をするためには、英語を使うしかない。「フィリピンの人は英語がうまくて羨ましい」というようなことを無反省に言う人がいますけれど、フィリピン人が英語に堪能なのは、アメリカの植民地であり、母語を豊かなものにする機会を制度的に奪われていたからです。その歴史も知らないで、「なぜフィリピンの人はあんなに英語がうまいのに、日本人はダメなんだ」というようなことを言っている。そして、「そうだ。日本をアメリカの植民地にしてしまえば、日本人は英語が堪能になるに違いない」と本気で思っている。

 母語を豊かなものにするというのは、あらゆる言語集団にとっての悲願です。というのは、すべての知的イノベーションは母語で行われるからです。先ほどは「母語の檻」からどうやって離脱するかというようなことを言っていたのに、話が違うではないかと思われる方もおられるでしょうけれど、そういうものなのです。全てのものには裏表がある。いいところもあれば、悪いところもある。外国語を習得するというのは「母語の檻」から出て知的なブレークスルーを遂げる貴重な機会なのですけれど、私たちは他の誰にもできないような種類の知的なイノベーションを果たすためには、それと同時に母語のうちに深く深く分け入ってゆくことが必要なのです。ほんとうに前代未聞のアイディアというのは母語によってしか着想されないからです。

 僕はおととし池澤夏樹さん個人編集の「日本文学全集」で、『徒然草』の現代語訳をやりました。高橋源一郎さんが『方丈記』、酒井順子さんが『枕草子』を訳して、僕が『徒然草』というラインナップの巻です。池澤さんから依頼があった時に、『徒然草』なんて大学入試の時から読んでないので、できるかなと思ったのですが、とにかく引き受けて、古語辞典を片手に一年かけて訳しました。

 やってみたら、結構訳せました。『徒然草』は800年前の古典なんですけれど、なんとか訳せた。そして、こういう言語的状況というのは、他の東アジアの諸国にはちょっと見られないんじゃないかなと思いました。古典を専門にしているわけでもない現代人が辞書一冊片手に古典を読んで、訳せるというようなことは中国でも、韓国でも、ベトナムでも、インドネシアでも、まず見ることのできない景色だと思います。

 どうしてそんなことが可能なのか。それは日本語が大きな変化をこうむっていないからです。明治維新後に、欧米から最新の学術的な概念とか政治や経済の概念が輸入されましうたけれど、テクニカルタームを加藤弘之、西周、中江兆民、福沢諭吉といった人たちが片っ端から全部漢字二語に訳してしまった。natureを「自然」と訳し、societyを「社会」と訳し、individualを「個人」と訳し、philosophy を「哲学」と訳し...というふうにすべて漢字二字熟語に置き換えた。これはたいした力業だったと思います。

 こういうことができたのも、日本列島の土着語に中国から漢字が入って来た時も、現地語を廃して、外来語を採用するということをせず、土着語の上に外来語を「トッピング」して、ハイブリッド言語を作ることで解決した経験があったからです。昔は「やまとことば」の上に中国語をトッピングして日本語を作った。ひらかなもカタカナも漢字から作った。明治になったら、今度は英米由来の概念を漢訳して、それを在来の母語の上にトッピングして新しい日本語を作った。日本語はこういうことができる言語なんです。そのおかげで、日本は短期間に近代化を遂げることができた。

 中国の近代化が遅れた理由の一つは、欧米の言語を音訳したからです。中国語そのものを変えることを望まなかった。欧米の単語を漢訳して、新しい語を作るということは、中国語には存在しない概念が中国の外には存在することを認めるということです。これは世界の中心は中国であり、すべての文化的価値は中国を源泉として、四囲に流出しているのだという「中華思想」になじまない。だから翻訳しないで、そのまま音訳して中国語の言語体系に「トランジット」での滞在を認めただけで、言語そのものの改定を忌避した。

 孫文はルソーの『民約論』を参考にして辛亥革命の革命綱領を起案したそうですけれど、孫文が用いたのは中江兆民の漢訳でした。兆民はルソーをフランス語から和訳と漢訳を同時に行ったのです。そういうことができた。土着語に漢語を載せるのも、土着語に欧米語を載せるのも、プロセスとしては同じことだったからです。

 漱石も鷗外も荷風も、明治の知識人は漢籍に造詣が深かった。漱石は二松学舎で漢学を学んだあと英語に転じます。漱石がイギリス文学と出会っても、それに呑み込まれることがなかったのは、英文学のカウンターパートに相当する深みのある文学的なアーカイブが自分の中にすでに存在していたからです。すでに豊かな言語的資源を自分の中に持っていたからこそ、自在に新しい外国語に接することができた。だから、外国語を学ぶことと並行して、母語を深く学ぶ必要がある。そうしないと外国語に呑み込まれてしまう。知的なイノベーションで大きなハンディを背負うことになります。

 というのは、ネオロジスム(新語)を作ることができるのは母語においてだけだからです。後天的に習得した外国語では新語や新しい概念を作ることはできません。僕が英語やフランス語で、勝手に新しい言葉を作っても、相手には全然通じない。I went というのは不規則変化で面倒だから、これからはI goed にしようと提案しても、英語話者は誰も相手にしてくれない。言っても鼻先で笑われるだけです。

 でも、母語の場合だったら、「そんな言葉はない」「そんな意味はない」というかたちで新語が否定されることはない。だって、通じてしまうから。誰かが言い出した新語の意味がわかると、次は自分がそれを使い始める。ある人が、ふっとネオロジスムを思いついた時点で、それは潜在的には日本語のボキャブラリーにすでに登録されているのです。

 前に温泉に行ったときに、露天風呂に入っていたら、あとから若い学生が二人入って来て、湯に浸かると同時に「やべ~」と呟いたことがありました。もう10年近く前でしょうか。その時に「ああ、そうか。『やばい』というのは、『大変気持ちがいい』という新しい語義を加えたのだな」とわかりました。実際に今出ている国語辞典には「最高である、すごくいい」という新しい語義がすでに加筆されております。

「やばい」はもとからある語に新しい語義が加わった事例ですけれど、「真逆」というのは新語です。最初に聴いたのは高橋源一郎さんとしゃべっている時でした。「まぎゃく」という音を聞いただけで「真逆」という文字が自動的に脳裏に浮かびましたし、「正反対」の強い表現だということもわかりました。説明されなくても、わかる。

よく考えたら、これはすごいことですよね。新語や、新概念は発語された瞬間に、母語話者にはそれが何を意味するかがわかるのです。それは新語、新概念というのが、個人の思い付きではなくて、母語の深いアーカイブの底から泡のように浮かび上がってきたものだからです。最初にそれを口にした人はその「泡」をすくい上げて言葉にしたのです。創造したわけじゃない。だから、母語話者にはその意味がすぐわかる。

 イノベーションというのは新語、新概念を創造することです。新しい言葉が、誰も聴いたことのない新しい言葉であるにもかかわらず、発語された時点ですでに母語において「受肉」している。だから、「あ、そういうことね」だと理解される。「それって、これまで誰も言ったことがないことだね」と理解される。変な話ですよね。新しい言葉が「これまで誰も言ったことのない言葉」として、その意味も用法もセットで受け容れられるんですから。母語ならそれができる。そして、外国語では、できない。

 だから、本当に新しいものを発明しようと思ったら、われわれが作り出したものが世界標準になるとしたら、それは母語における新語というかたちで潜在的にはすでに語彙に登録されたかたちで登場してくるのです。

 母語のアーカイブはそれだけ豊かだということです。日本の古語はある種の外国語なわけですけれど、少し読み慣れると、すぐにニュアンスがわかるようになる。古典を読んでゆくと、1000年前、500年前の日本人に世界がどう見えていたのか、彼らがどのようなコスモロジーのうちで生きていたのかが追体験される。これもやはり「母語的現実」からの離脱の経験であるわけです。

 ただ、古典を学ぶというのと、英語を学ぶというのはぜんぜん異質の経験です。古典といっても日本語です。僕たちが今使っている現代日本語は、この古語から生まれて来た無数の「新語」の蓄積で出来ている。もとはと言えば、すべての日本語はこの古語のアーカイブのうちに起源を持っている。そこから浮かんできた「泡」の集大成が現代日本語なんです。吉田兼好を800年前からタイムマシンに乗せて現代に連れてきても、たぶん一月くらいで現代日本語をだいたい理解できるようになると思います。同じ生地で出来ているんですからわからないはずがない。

 古典はある種の外国語であるにもかかわらず、その習得が異常に簡単です。なぜなら、知らないはずの単語や言い回しの意味が「なぜかわかる」から。『徒然草』で面白かったのは、『徒然草』の専門家の方からメールを頂いて、「訳文が正確だ」とほめて頂いたことです。特に係り結びの訳し分けがよかったと書いてありました。僕は係り結びにいくつもの意味の違いがあって、それは厳密には訳し分けないといけないということを知らなかったので、びっくりしました。文法規則を知らなかったのに、正しく訳せてしまった。そういうことが起きるのは、それが日本語で書かれていたからですね。

 自国語の古典をまず学ぶこと。アクセスしやすい外国語をまず学んで、異なる言語形式で世界を分節する人たちの思念や感情を想像的に追体験すること。これはそれから後に外国語を学ぶ基礎としてとても有用な経験になるだろうと思います。

 1960年代はじめに、江藤淳がプリンストン大学に留学したことがあります。江藤はプリンストンで日本文学を講じていました。英語で授業をやり、英語で論文を書いて、途中から夢も英語でみるようになったそうです。けれども、帰ってきた後に、新しいものを作ろうと思ったら、日本語で考えるしかないと思うようになった。思考がかたちをなす前の星雲状態にまで遡ることができるのは母語においてだけだからというのです。

「思考が形をなす前の淵に澱むものは、私の場合あくまでも日本語でしかない。語学力は習慣と努力によってより完全なものに近づけられるかも知れない。(...)しかし、言葉は、いったんこの『沈黙』から切りはなされてしまえば、厳密には文学の用をなさない。なぜなら、この『沈黙』とは結局、私がそれを通じて現に共生している死者たちの世界-日本語がつくりあげて来た文化の堆積につながる回路だからである。」(『近代以前』)

 われわれが使っている日本語のアーカイブのうちには、これまで日本列島に住み、言語を語ってきたすべての人々の記憶と経験が蓄積されていて、「淵」のようなものをかたちづくっている。この「淵」からしか、新しい言語的な創造を汲み出すことはできない。

 江藤はこの母語のアーカイブのことを「沈黙の言語」と呼びます。かつて同じ言語を語ったすべての死者たちから遺贈された言語経験の総体、その「淵」に立つことによって初めて文学的な創造ができるのだ、と。

 これとほとんど同じことを村上春樹も書いています。村上春樹はアメリカやイギリスやイタリアやギリシャや、世界中で暮らしていて、最後にボストンで河合隼雄さんと出会い、それが一つのきっかけになって日本に帰ってくるのですけれども、江藤淳と非常に似たことを言っています。

「どうしてだかわからないけれど、『そろそろ日本に帰らなくちゃなあ』と思ったんです。最後はほんとうに帰りたくなりました。とくに何が懐かしいというのでもないし、文化的な日本回帰というのでもないのですが、やっぱり小説家としての自分のあるべき場所は日本なんだな、と思った。というのは、日本語でものを書くというのは、結局思考システムとしては日本語なんです日本語自体は日本で生み出されたものだから、日本というものと分離不可能なんですね。そして、どう転んでも、やはり僕は英語では小説は、物語は書けない。それが実感としてひしひしとわかってきた、ということですね。」(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』)

 村上さんはデビュー作『風の歌を聴け』を最初は英語で書いて、それを自分で日本語に訳すというかたちで書き出したそうです。それがあの独特の文体の原型になった。でも、村上春樹さんも最終的には世界文学になるためには日本語の「淵」に立ち戻ってきた。その消息は河合隼雄さんとの次のやりとりから伺えます。


「村上 あの源氏物語の中にある超自然性というのは、現実の一部として存在したものなんでしょうかね。

河合 どういう超自然性ですか

村上 つまり怨霊とか...

河合 あんなのはまったく現実だとはいます。

村上 物語の装置としてではなく、もう完全に現実の一部としてあった?

河合 ええ、もう全部あったことだと思いますね。だから、装置として書いたのではないと思います。」(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』)


 河合隼雄さんはこの時に『源氏物語』に出て来る六条御息所の生霊は文学的虚構ではなくて、平安時代の人たちにとってはありありとした現実だったと断定するわけです。そのような物語的現実の中で人間は生き死にしているのだ、と。それを聞いて村上さんはそれ以外の外国語では文学的虚構でしかないものが、日本語のうちでは現実としてありありと顕現することがあり得るということに深く納得する。現実を創り出すのは、それを語る言語である。だから、本当に「世界のここにしかないもの」を創造しようと望むなら、自分の母語のうちに立ち返るしかない、村上春樹はそう考えた。江藤淳が日本語の「淵」に立ち返ろうと思って日本語に帰ったのと、これは同型的なふるまいだろうと僕は思います。

 本当に創造的なもの、本当に「ここにしかないもの」は、母語のアーカイブから汲み出すしかない。ですから、どれだけ深く母語のうちに沈み込んでゆくかということと、母語をどうやってより豊かなものにするかということが、同時に文学者の課題になるわけです。それこそがそれぞれの国や地域の文化の質を高めるためにまずなすべきことなのです。

 でも、今の日本では、母語に深く沈潜することも、母語を豊饒化することも、教育的課題としてはまず語られることがありません。日本人が日本語によってしか表現できないような新しい概念なり理説なりをどのように提示して、それを世界標準たらしめるのか。それを人類全体の知的資源に登録して、人間の文明をより多様なもの、より豊かなものにしてゆくことにどうやって貢献できるのか。そういう議論を教育論の中で聴くことはまったくありません。

 母語の過去に遡ること、母語の深みに沈み込んでゆくこと、これが創造において決定的に重要なことなのです。これもまた僕たちが日常的に囚われている「現代日本語の檻」から離脱するための重要な手立てであるのです。

 村上春樹の話ばかりになりますけれど、村上さんはエッセイの中で、はっきりと自分は上田秋成の後継者をめざすと書いています。「雨月物語」と村上文学は直接に繋がっている、と。明治時代の自然主義文学があるけれど、自分は近代文学の文学史的系譜とは無関係であって、上田秋成からダイレクトに繋がっている、と。

 まことに奇妙な符合なのですが、上田秋成と現代文学を繋がなければならないということを江藤淳も書いているのです。半世紀以上の隔たりがありながら、江藤淳と村上春樹がともにアメリカから帰ってきたあとに、ほとんど同じことを書いている。それは日本語という回路を通じて、作家はかつて日本語を語ったすべての死者たちと共生しているということです。日本語は「日本語がつくりあげて来た文化の堆積につながる回路」だということです。二人ともに自国文化の「近代以前」の深い闇の中に降りてゆくことが新しいものを創造するためには必要なのだと書いている。そういう言語的な覚醒の経験をこの二人は共有している。

 外国語を学ぶことも、母語の「淵」深く沈潜してゆくことも、ともに「母語の檻」から抜け出ることをめざすという点では少しも矛盾していません。言葉を学ぶということは、この二つのいずれをも欠かしてはならない、僕はそう思います。

 学校教育の場で子どもたちに教えるべきことは、「君たちは君たちの言語の虜囚である」ということです。君たちは自由に思考し、自由に感じ、自由に言葉を操っているつもりでいるかも知れないけれど、君たちは実は君たちが閉じ込められている集団的な「言葉の檻」から出ることができないでいるのだ。君たちの語彙も、音韻も、ストックフレーズも、君たちが使うメタファーもレトリックも、すべて「既製品」なのだ。君たちは与えられた言語の中で感じ、考え、語ることを強いられている。でも、君たちの中には自分が「檻」の中にいることを薄々感づいていて、もっと清涼な空気を吸いたい、もっと自由に語りたい、もっと自由に考えたいという願いを抱いている人がいると思う。その人たちに教えたい。「母語の檻」から出るには二つの方法があるよ。一つは外国語を学ぶこと、一つは母語を共にする死者たちへの回路をみつけること。これはとても大切な教えだと思います。

 僕は武道を教えていますけれども、それは今の子どもたちに「君たちが自然だと思っている身体運用以外の仕方がある」ということを教えるためです。身体の使いかは言語と同じように構造化されています。子どもたちが現代的な言語運用のルールに繋縛されているように、現代的な身体運用のルールに繋縛されて、それが自然だと思って暮らしている。すべての人間は自分と同じように身体を使って外界を感じ、身体を動かしている、そう素朴に信じ切っているわけです。人間の身体は太古から現代まで、世界中どこでも「同じようなもの」だと信じ切っている。でも、彼らの身体運用はまさに2018年の現代の都市で暮らしている子どもたちに選択的に強制された「奇妙な」身体の使い方なのです。一つの民族誌的奇習なのです。歩き方も、座り方も、表情の作り方も、声の出し方も、すべて集団的に規制されている。
 それとは違う身体の使い方があることを、例えば中世や戦国時代の日本人の身体の使い方があることを僕は武道を通じて教えているわけです。子どもたちをその文化的閉域から解放するために武道を教えているわけです。君たちは学べば、ふだんの身体の使い方とは違う身体の使い方ができるようになる。その「別の身体」から見える世界の風景は彼らがふだん見慣れたものとは全く違ったものになる。それは外国語を学んで、外国語で世界を分節し、外国語で自分の感情や思念を語る経験と深く通じています。自分にはさまざまな世界をさまざまな仕方で経験する自由があること、それを子どもたちは知るべきなのです。

結局、教育に携わる人たちは、どんな教科を教える場合でも、恐らく無意識的にはそういう作業をしていると思うのです。子どもたちが閉じ込められている狭苦しい「檻」、彼らが「これが全世界だ」と思い込んでいる閉所から、彼らを外に連れ出し、「世界はもっと広く、多様だ」ということを教えること、これが教育において最も大切なことだと僕は思います。


 最初のトピックに戻りますけれども、今行われている英語教育改革なるものは、子どもたちをさらに狭い母語的現実の中に封じ込めようとしています。彼らに現代日本固有の民族誌的奇習を刷り込んで、「これが全世界だ」と錯覚させようとしている点で、ほとんど犯罪的なことだと思います。

 いささか過激な言葉を使いましたけれども、おそらく多くの先生方は、実感としては僕に同意してくださると思います。すべての教育実践は子どもの知性的な、感性的な成熟を支援するためにある、それに資するかどうかだけを基準にして教育実践の適否は判断されるべきである。これは教育者として絶対に譲れない、どんなことがあっても譲れない一線です。僕と同じように感じてくださる先生方が一人でも増えて下さることを願っています。それを今の日本の学校の中で、やり遂げるのはたいへんなことだと思います。さぞやご苦労されることと思います。

 でも、一昨日の保険医さんに言ったように、教育というのは苦しむ仕事なのです。人類が始まった時から存在する太古的な仕事ですから、市場経済や国民国家ができるよりはるか前から存在した職能ですから、市場経済や国民国家となじみがよくないのは当たり前なのです。でも、われわれはすでに市場経済の世界に暮らしており、国民国家の枠内で学校教育をする以外に手立てを持たない。だから、葛藤するのは当たり前なんです。学校教育がらくらくとできて笑いが止まらないというようなことは、現代社会では絶対にあり得ないのです。それは学校教育のやり方が間違っているからではなくて、学校教育は市場経済とも国民国家とも食い合わせが悪いからです。それについては諦めるしかない。むしろ自分たちのほうがずっと前から、数万年前からこの商売をやっているのだからと言って、無茶な要請は押し返す。Noと言うべきことについてはNoと言う。とにかく子どもたちを守り、彼らの成熟を支援する。彼らが生き延びることができるように生きる知恵と力を高める。それがみなさんのお仕事だと思います。

何だか、応援しているのか呪っているのかわからないような講演でしたけれども、とにかくつらい現実をまずみつめて、それから希望を語るということでよろしいのではないかと思います。ご清聴ありがとうございました。
http://blog.tatsuru.com/2019/05/31_0824.html
36:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:17:03

いずれわが国は、どんな言語を話せるかで階級が決まる社会になるのではないか。
2019/06/24
https://kenjisato1966.com/%e3%81%84%e3%81%9a%e3%82%8c%e3%82%8f%e3%81%8c%e5%9b%bd%e3%81%af%e3%80%81%e8%a8%80%e8%aa%9e%e9%9a%8e%e7%b4%9a%e7%a4%be%e4%bc%9a%e3%81%a8%e3%81%a7%e3%82%82%e3%81%84%e3%81%86%e3%82%82%e3%81%ae%e3%81%ab/
わが国では目下、

いかに移民が流入しようと

移民だと認めさえしなければ

移民が増えたことにはならない

という爽快な発想のもと、

移民、もとへ外国人労働者の受け入れが進んでいます。

一時はあれこれ反対した保守派と呼ばれる人々も

いかに問題が深刻化しようと

問題だと認めさえしなければ

問題が深刻化したことにはならない

という爽快な発想のもと、

移民よりも憲法改正だの、

週刊誌の皇室報道批判だのに熱中している様子。

けれども現実の事態は、容赦なく進行してゆきます。

どうぞ。

外国人の日本語教育は国と地方の責務 推進法成立

(NHKニュース、21日配信)

外国人の日本語教育を充実させるための「日本語教育推進法」が

21日の参議院本会議で全会一致で可決され、成立しました。

「日本語教育推進法」は外国人の日本語教育を充実させる施策の実施を

国と地方自治体の責務と位置づけ、

国はその基本方針を定めなければならないとしています。

そのうえで、教育水準を向上させるため

外国人の子どもを指導する教員の配置や養成に必要な施策の実施や、

働く外国人への日本語研修などを支援することを国に求めています。

また、関係省庁が参加する「日本語教育推進会議」を設け、

日本語教育の推進に向けた関係機関との調整を図るよう国に義務づけています。

もとの記事こちら。

この法律を取りまとめたのは

およそ30名の超党派衆参議員によって構成される

日本語教育推進議員連盟。

中心となっているのは

河村建夫(衆議院・自民党・元文科大臣。連盟会長)

中川正春(衆議院・自民党・元文科大臣。連盟会長代行)

馳浩(衆議院・自民党・元文科大臣。連盟事務局長)

里見隆治(参議院・公明党。連盟事務局次長)

石橋通宏(参議院・立憲民主党。連盟事務局次長)

の5名とのこと。

しかるにですな。

2018年8月、

日本語教育推進法(当時はまだ法案)との関連で

議員連盟の活動を紹介した

AATJ(AMERICAN ASSOCIATION OF TEACHERS OF JAPANESE,

全米日本語教育学会)の記事には

しっかりこう書いてあります。

移民を少子化問 題の解決策と考える国会議員、

中央省庁官僚、ビジネスリーダーは少なからずおり、

日本としての移民政策を議論すべきという意見を時折出 している(。)

(日本語教育推進法案も)名目上は、

国内の日本語教育に関する法案だが、

日本の移民問題を議論する突破口としても考えられている。

元の記事こちら。

「あら、あっさり語るに落ちたわね」(※)お姉さまのお言葉です。


馳浩事務局長も

一般社団法人「全国日本語学校連合会」によるインタビュー

(「留学生通信」114号、2019年4月13日付)で

このように語っています。

韓国や台湾(は)、外国人材の獲得におい て、

より専門性のある職種も、

第一次産業もそうですが、

様々な実業の現場で、働く外国人 を獲得するために手を打っています。

今や世界は、獲得競争に入っている時代です。

にも関 わらず、我が国は遅れているのが実情です。

従って、外国人は母語を大切にしながらも、

と くに子供さんの場合には、母語を大切にしながらも、

わが国で働き、生活していく上で必要 な

コミュニケーションツールとしての日本語を習得してもらう、

支えることが必要です。

(明らかな誤字を一字修正)

元の記事こちら。

要するに

移民と認めない形で移民の数を増やしておいて

「日本語を(満足に)話せない人が増えちゃ困るだろ?」と

外国人にたいする日本語教育の必要性を説くことにより

それらの人々がわが国に定住する存在、

つまり移民であることを受け入れさせようという話でしょう。

(※)記事の内容と直接の関係はありません。


日本語教育推進法案が

日本の移民問題を議論する突破口としても考えられている

と喝破した、AATJのナガノ・トモノリさんの見識は

その点であっぱれと言わねばなりません。

ただし、ここで思い出すべきは

わが国は英語化の推進にも力を入れているということ。

議員連盟には文科大臣経験者が3名もおりますが

当の文科省は

「今後の英語教育の改善・充実方策について」という文書で

こう述べているのです。

社会の急速なグローバル化の進展の中で、

英語力の一層の充実は我が国にとって極めて重要な問題。

これからは、国民一人一人にとって、

異文化理解や異文化コミュニケーションはますます重要になる。

その際に、国際共通語である英語力の向上は日本の将来にとって不可欠であり、

アジアの中でトップクラスの英語力を目指すべきである。

東京オリンピック・パラリンピックを迎える2020(平成32)年はもとより、

現在、学校で学ぶ児童生徒が卒業後に社会で活躍するであろう2050(平成62)年頃には、

我が国は、多文化・多言語・多民族の人たちが、

協調と競争する国際的な環境の中にあることが予想され、

そうした中で、国民一人一人が、様々な社会的・職業的な場面において、

外国語を用いたコミュニケーションを行う機会が格段に増えることが想定される。

元の文書こちら。

実際、4月22日の記事

「国のあり方に筋を通さなければ、国語力も英語力も向上しないという話。」

で紹介したとおり、

今や政府は中高生の英語力について

数値目標まで設定して尻を叩いているのです。

達成できてはいませんがね。

だとしても

グローバル化の名のもと

外国人にたいする日本語教育の重要性を説きながら

日本人にたいしては

グローバル化の名のもと英語教育の重要性を説くとは

どういう話だ、一体?!

♬認知す〜る〜な〜ら、チョイと不協和音頭、ヨイヨイ


・・・お分かりですね。

つまり日本語教育推進の対象となっている人は

英語がしゃべれると見なされていないのです。

ずばり言ってしまえば、

途上国を中心とした非英語圏からの単純労働者が

想定されているに違いない。

これについても馳浩議員が

しっかり語るに落ちて下さっています。

先に引用した箇所で

(韓国や台湾は)より専門性のある職種も、

第一次産業もそうですが、

様々な実業の現場で、働く外国人 を獲得するために手を打っています。

というフレーズが出てきたのにご注目。

つまりこれは

(韓国や台湾は)専門性のある職種に限らず、

第一次産業を含めた単純労働についても

移民を積極的に受け入れている

という意味なのです。

さらにインタビューには、こんな発言まで出てくる。

この法案が必要だと考えた一番のきっかけは、

リーマンショックの後に、 ずいぶん外国人労働者が解雇されたが、

十分な対応がなされていない。

日系人の場合、家族 で来ておりました。

とくに日系ブラジル人の場合、子供の教育が中断される。

本国に帰るの か、転職するのか、

正直言いまして外国人集住都市においては、ずいぶんと混乱が起きました。

(※)ブラジルの公用語はポルトガル語です。

となれば法案作成の意図はこうなる。

これからの時代、英語ができない単純労働者の移民が

家族を連れてどんどん定住するだろう。

それらの人々が日本語までできなかったら、どうにもならない。

だから外国人の日本語教育に力を入れるべきだ!

当然、裏にはこういう含みがある。

専門的な技術や知識を持つ移民、

いわゆる高度人材様については

むしろこちらが英語で対応できるようにならねばならない。

だから日本人の英語教育に力を入れるべきだ!

グローバル化の名のもと

外国人への日本語教育強化と

日本人への英語教育強化が同時に叫ばれるという

なかなかにパラドキシカルな事態も

こう考えれば、すっきり筋が通るのであります。

けれどもこれは

日本に以下の4種類の人間が暮らすようになることを意味する。

1)英語ができる日本人(上級国民)。

(※)英語は話せないが、フランス語、ドイツ語、ロシア語など、

  他の主要国の言語を話せる日本人もこれに準ずる。

2)英語ができて、専門知識や技能のある移民(高度人材)。

(※)英語は話せないが、他の主要国の言語を話せる移民もこれに準ずる。

3)日本語しかできない日本人(一般国民)。

4)英語も日本語も不自由な移民(単純労働者)。

(※)英語を話せこそするものの、学歴や職歴に見るべきものがなく、

  専門知識や技能がない移民もこれに準ずる。

カッコ内の語句が示すとおり

これは単なる言語上の区分ではありません。

社会的・経済的な階層、すなわち階級であります。

たぶん2020年代には

「英語」に「中国語」が追加されたうえ、

一般国民の貧困層が「下級国民」として

移民の単純労働者と一緒くたにされるでありましょう。

これらの人々の日本語力も貧弱でしょうからね。

すなわちわが国は

どんな言語を話せるか(あるいは話せないか)で階級が決まる

言語階級社会とでも呼ぶべきものになってゆくのです。

こうして一つの国に二つの言葉が根づき、

戦乱の種子が撒かれたのだ。

──『ジュビリー』(デレク・ジャーマン監督、1978年)

「ね、令和ニッポンって爽快でしょう♥」(※)お姉さまのお言葉です。


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ちなみに1月7日の記事

「今年から移民受入が本格化するが、外国籍の子どものうち2割は就学状況が不明である。」

でも述べたとおり

わが国ではすでに

1万6000人もの外国籍の子どもが

学校に通っているかどうか確認できません。

その中には所在不明の子や

住民票を残したまま転居した子もいると見られます。

とはいえ子どもには親がいるでしょうから、

これは足取りのつかめない外国人の親が、1万人単位で存在する恐れが強いということ。

国や自治体の義務とか言っているけど、

そんな人々にどうやって日本語を教えるの?

令和の時代は、こうして日に日に収拾がつかなく・・・

もとへ、爽快になってゆくのでありました。
https://kenjisato1966.com/%e3%81%84%e3%81%9a%e3%82%8c%e3%82%8f%e3%81%8c%e5%9b%bd%e3%81%af%e3%80%81%e8%a8%80%e8%aa%9e%e9%9a%8e%e7%b4%9a%e7%a4%be%e4%bc%9a%e3%81%a8%e3%81%a7%e3%82%82%e3%81%84%e3%81%86%e3%82%82%e3%81%ae%e3%81%ab/
37:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:17:58

2019年08月19日
自国に誇りを持たない日本人 黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68777235.html


ノルウェー人の日本人蔑視

  8月14日に放送されチャンネル桜の番組で、キャスターの高山正之が白人の日本人蔑視について持論を述べていた。彼が持ち出したのは、1999年のカンヌ国際広告祭で金賞を獲得したCMで、ブローテン航空(現在は「SAS Braathens」)が作ったTV広告だ。この映像は、外国語を知らない日本人乗客が、スチュワーデスから差し出された袋入りのサンドウィッチを「おしぼり」と勘違いして顔を拭いてしまう、という設定になっている。具体的に言えば、機内食を渡された日本人が、かけていた眼鏡を外し、ビニール袋の中にある白いパンを「おしぼり」と早合点するという設定になっていた。そして、何も疑わず顔を拭いたら、ピーナツバター(あるいは生クリーム)がベッタリと附いてしまったというオチになっている。さらに、第二幕があって、しばらくすると、スチュワーデスが再び例の袋をもってきた。ところが、ノルウェー語(または英語)を全く話せない日本人は、「お腹いっぱいです」というジェスチャーで答える。ここで観客は大爆笑、という筋書きになっていた。

  高山氏はこうしたTV広告を作ったブローテン航空に怒っていたが、それにもまして、金賞を与えた審査員に日本人がいたことで腹を立てていた。テレビ業界に詳しい人なら驚かないが、審査員の中に電通から派遣された日本人が含まれていたのだ。事件に興味を持った高山氏は博報堂のある社員に接触し、内情を探ってみたという。すると、件(くだん)の審査員は「田中」という人物で、英語が流暢に話せる帰国子女ということが分かった。金賞を与えるには全員の同意が必要であったというから、田中氏も賛成票を投じた訳だ。高山氏は番組の中で日本人意識に缼(か)けた電通社員に憤慨し、「なぜ、こんな侮辱的作品に賞を与えたのか。日本人なら反対しろ」と不快感を表していた。

  こうしたエピソードを聞くと、「やはり、帰国子女だと日本人の立場ではなく、西歐人の立場で考えてしまうんだろうなぁ~」と思ってしまう。まぁ、日本で生まれ育ち、日本の学校に通った日本人でも、「日本国民」という意識の無い者が多いから、田中氏だけを責めるのは酷だろう。でも、西歐人の前に出ると、途端に卑屈な態度を示す日本人には吐き気がする。特に、歐米人が主催する国際会議や文化評議会などに出席する文化人とか大学教授がそうだ。現地で使用される言葉は英語かフランス語になってしまうので、ゲルマン語が苦手な日本人は、中々発言することができない。まるで「入れ歯を忘れた老人」か「貧血の吸血鬼」みたいだ。

  たとえ共通語を話せたとしても、日本語のように上手く駆使できない場合、思ったことを充分に伝えることはできないから、不満を残す結果となる。もっとマズいのは、拙い英語で相手に誤解を与えてしまうことだ。また、外人に対して反論したくても、反論するだけの知識や論理、度胸すらも無いから、多数派に賛同してお茶を濁す場合だってある。誠に情けないけど、日本国内で威張っている官僚だって似たり寄ったりだ。普段は傲慢不遜な高級官僚でも、アメリカやヨーロッパで開かれる国際会議に出席したりすると、借りてきた猫みたいにおとなしくなる。イギリス人やフランス人相手に猛反論して、日本の国益を守ろうとする役人なんかほぼゼロ。ちょうと、WBAのヘビー級ボクサーに挑戦するバンタム級のアマチュア・ボクサーみたいなものだから、最初から試合を投げている。

大切だが無視される科目

  戦後の日教組教育で洗脳された日本人には、「日本人」としての自覚が無い。もちろん、外国旅行をすれば、いくら暢気な国民でも「自分は日本人」という意識くらいは持つ。だが、それ以上の知識が無いから、「日本人の矜持」をどう保持したらいいのか分からない。日本にいる時は、日本人という意識を持たなくても暮らせるから、敢えて「日本人」ということは考えなくても済む。けど、こんなのは温室の中で大股広げて寝ているデブ猫と同じである。もし、こうした日本人が仕事の都合でアメリカやブリテン、フランス、ドイツなどに転勤したら大変だ。それに、もし家族ぐるみの移住となれば、現地の学校に子供を通わせる選択になるから一大事。ところが、脳天気な親は何とかなるだろうと楽観する。しかし、後になって国語(日本語)や社会(歴史)といった重要科目に気づく。自分の子供がどんな風に育ってしまうのか予想できない親は結構多い。

  例えば、息子がイングランドやアメリカの学校に通ったとする。たぶん、こうした子供は両親よりも上手に英語を話すようになるだろう。英語に劣等コンプレックスを持つ母親だと、「いゃ~ん、ウチの子、英語ペラペラやん~ !」と嬉しくなるが、肝心の母国語がお粗末になっていることに気づかない。確かに、日本にずっと居たら大金を払って英会話塾に通わせても、一向に上手くならないから、“お得”な感じがする。アホらしいけど、単純な親は「日本に帰ったらみんなに自慢しよう !」と大喜び。しかし、こうした“バイリンガル”の息子は、どのような日本語を話し、どれくらいの読解力、および作文能力を持つのか? なるほど、イギリス人のクラスメイトを持つ子供は、平均的日本人以上に上手い英語を話し、英語である程度の文章(随筆)くらいは書けるようになる。

  ただし、日本語となれば、どうなのか? 一般的に帰国子女の場合、知っている漢字の数が少ないし、常用漢字以外の正字や歴史的假名遣いを知らないから、ちょっとした古い本を読むこともできない。例えば、「體」を「体」の正漢字と分からないし、「燈油」が「灯油」、「證據」が「証拠」とも判らない。「辨」と「辯」の違いも分からないから、「辨當」を「べんとう」とは読めないし、「花瓣」という漢字を見て「かべん」と発音できないこともある。「欠」が本来は「あくび」で、「闕席(けっせき)」とか「缼陥(けっかん)」使用する漢字ではないと知らない場合もあるから困ったものだ。また、高貴な人物に関する言葉遣いだってあやふやになるから、「天皇陛下から御諚(ごじょう)を賜る」と聞いても、何が何だか見当もつかないし、「袞龍(こんりょう)の袖に隠れる伊藤博文」という陰口を耳にしても、「天子様の御衣のことかぁ」とは思わない。日本の随筆に馴染みが無い帰国子女だと、「判官贔屓(ほうがんひいき)」と聞いて、源義経じゃなく「ハルク・ホーガン(有名なプロレスラー)を好きな人かなぁ~」と思ってしまう。バイリンガル女子で英語の発音を自慢する人は多いけど、谷崎潤一郎とか森鷗外の小説を原文で読むことができない人は結構いるぞ。まづ、歴史的假名遣いと舊漢字が分からないから、ついつい本を閉じてしまう。こんな状況なら、幸田露伴の小説なんてもっと無理。

  歐米諸国の学校に通う日本人の子供が直面する問題の一つが、歴史の授業だ。もし、イングランドの学校に通うことになったら、英国の歴史を学ぶことになるけど、日本の歴史を学ぶ機会は無い。子供の将来を心配する親なら、日本史の教科書を与えて勉強させるかも知れないが、文科省の教科書なんてつまらないから、子供は直ぐ投げ捨てたくなる。運良く歴史好きの親であれば興味を引くような説明もできるが、一般の親だと副読本を買い与えて終わりだ。普段の宿題で忙しい子供は、日本史を知らないまま地元の高校を卒業し、そのまま歐米の大学に入るか、日本に戻って「帰国子女枠」で推薦入学というパターンになる。試験入学を選ぶ者であれば、英語を中心とした筆記・面接試験を受け、「国際関係学部」とか「比較文化学科」などに進むタイプが多いんじゃないか。でもこれでは、「日本に“留学”する日本人学生」になってしまうだろう。ただし、「国際化時代」とやらを歓迎する大学ならOKだ。何しろ、“国境に囚われない地球市民”が理想ときている。日本語能力なんて端っから価値は無い。英語が上手ならトコロテン式に御卒業だ。

  一般の日本人はさほど重要に思っていないが、「歴史」の授業はある意味、数学や理科の授業よりも重要になってくる。なぜなら、「良き公民」を育成するための必須科目であるからだ。幾何学の試験で30点ないし20点しか取れなくても、成人すれば投票権を与えられるし、元素記号を全て暗記していなくても社会問題は理解できる。しかし、日本の過去を知らないと現在“懸案”となっている政治問題の経緯が分からない。ちゃんとした歴史認識知識を備えていれば、支那人や朝鮮人からのイチャモンにひれ伏すことはないが、カラっぽの頭じゃ平身低頭、有り金を献上して赦しを乞う破目になる。こうした人物は祖先の名誉を傷つけても心が痛まない。そもそも、家庭教育に「名誉」を重んずる徳目が無いんだから。

  日本国民全てが数学者や物理学者になる必要はないが、社会に責任を持つ有権者が記憶喪失状態では困る。祖先との繋がりを忘れ、国家の威信を損なう政策に賛成する国民が増えれば、国家の衰退は避けられない。現在だけを生きている日本人には理解できないだろうが、まっとうな「日本国民」とは、その職業に関係なく、祖先の遺産を引き継ぐ伝承者であり、将来の子孫へ遺産を手渡す保管者でもある。「死んだ後に核戦争が起きても、多民族国家になっても俺の知ったことじゃない !」と言い切る日本人は、自分の息子や娘、幼い孫の顔を見てから断言すべきだ。

帰国子女は祖国に「根」を持っているのか?

  国史を学ばない日本人には、真の愛国心は育たない。かつて、フランスには保守的知識人が少なからずいて、心から自分の郷里を、祖父母の亡骸(なきがら)が眠る大地を、偉大な伝統を誇る祖国を愛していた。例えば、「アクション・フランセーズ(Action Française)」を率いるシャルル・モラスや、反ユダヤ主義を掲げてフランスらしいフランスを守ろうとしたモリス・バレス(Maurice Barrés)が挙げられる。ちなみに、トランプ大統領の補佐官を務めていたスティーヴ・バノンは、マラスを称讃していたそうだ。(Michael Crowley, The Man Who Wants toUnmake the West, Politico Magazine, March/April 2017)

Charles Maurras 1Maurice Barres 1Steve Bannon 1


(左 : シャルル・モラス / 中央 : モリス・バレス / 右 : スティーヴ・バノン )

  とりわけ、バレスの思想は注目に値する。彼と比べたらジャン=ジャク・ルソーやジャン=ポール・サルトルなんて屑に等しい。普遍主義とか世界市民を理想にする左翼知識人と違い、バレスはフランスの大地に“根”を張った国士であった。彼にとってフランスとは「平等」とか「博愛」といった安っぽい言葉で成り立つ共和国ではない。フランスとは王家や教会との赤い絆で結ばれた歴史的結晶体であった。フランス文化の髄液を吸収して育ったバレスにすれば、各国を渡り歩き、ゼニ儲けに専念するユダヤ人など、根無し草のコスモポリタン、すなわち地球上をうろつく寄生民族に過ぎない。「真のフランス人」とは、祖先の遺灰が染み込んだ郷里に根を張る地元民、すなわち王国を築いてきたガリア人である。バレスはフランスの衰退を憂い、祖先との一体感を強調することで祖国を救おうとした。
  
 ・・・私たちが祖先からの連続だということをきっちり理解する、それも単に口先でというだけでなく、感受性鋭くありありと思い描くかどうかにかかっている。このことは、解剖学的にも正しい。祖先が私たちのなかで考え、語っている。一つながりの子孫たちは、同じ存在でしかない。周囲に存在する生命の働きかけのせいで、きわめて巨大な複雑さがそこに出現するかも知れない。しかし、だからといって、何も変質しはしない。それは、完全に仕上げられた建築の秩序に似ている。つねに同一の秩序である。それは、部屋の配置を変更した家に似ている。同じ土台の上に建てられているだけでなく、同じ切り石でできている。つねに同じ家である。(モーリス・バレス 『国家主義とドレフュス事件』 稲葉三千男 訳、創風社、pp.23-24.)

  バレスによれば、フランスの個人は家族の中、民族の中、国家の中で自己発見するそうだ。また、彼は巨大な中央集権によって支配されるフランスに危機感を覚えた。この保守派知識人は、地方色豊かなフランス、独特な歴史の中で育ってきた国、地方から成るフランスを愛し、中央から国家を統制しようと謀るコスモポリタンに対抗しようとした。バレスは言う。「フランス全体の国民性は、地方の国民性で形づくられている」。(上掲書、p.110.)

  愛国者のバレスは、国際主義者によって破壊されようとするフランスを目の当たりにした。そこで彼は地方主義を掲げる。つまり、フランスの大地に根を持つ国民を鼓舞して、自らの援軍にしようとしたのだ。彼は次のように宣言する。

  に心からの忠誠を捧げる。なぜなら、私はプロヴァンス人で、プロヴァンスを熱愛しているからだ。フランス国家の伝統を救おうと立ち上がった全ての人と、私は忠実に連帯する。(上掲書、p.201)

  バレスから見れば、フランスとはガリア人とフランク人の血が流れる巨木のような国家である。もし、大地からの養分を吸収する根が切断されれば、その枝や幹は衰弱し、やがて枯れてしまう。革命に酔いしれた左翼分子は、太古から脈々と続く王国の幹と根を巨大な斧で切り離すことに喜びを感じていた。ちょうど、王侯貴族や聖職者の首を刎(は)ねたように、彼らは何の躊躇もなく国家の連続性を切断しようとする。ただし、中央官庁で国家を牛耳るグローバリストは、ギロチンではなく法律という鋏(ハサミ)でフランスをズタズタに切り裂こうとした。バレスは行政官が作り出す法律によって、家庭や生誕地への愛を維持する地方の風俗や慣習が破壊されたと嘆く。

  先祖伝来のものは全て馬鹿げているから、新案の混合物に取り代えねばならない、と世間ではいう。そうすることで精彩のない愚劣な人びと、あらゆる種類の浮浪者たち、古くから土地々々の伝統を捨てて祖国および祖国を象徴する国旗を軽蔑する人びとを生み出した。(上掲書、p.103)

  本来、国家を形成する公民には、本能とも言える素朴で強固な祖国愛があるはずだ。しかし、祖先の歴史から切り離された子供達、すなわち、意図的に頭を改造され、下らない知識を詰め込まれた記憶喪失者には、祖国への愛や誇り、過去と未来に対する使命感や義務感が無い。こうした孤児(みなしご)が求めるものは、目先の銭であったり、見栄を張るための学歴、儚くも消えてしまう世間からの評判、セックス、スクリーン(映画や娯楽)、スポーツにグルメ(食欲)などである。したがって、日本の歴史を学ばなかった帰国子女に、祖国を誇りとする精神や先祖に対する感謝と敬意が無いのも当然だ。もっと酷い奴になると、傲慢な歐米人と一緒に祖国を小馬鹿にし、それが“進歩的人間”の証しだと思ってしまう。西歐諸国で育った日本人は、日本にどんな価値があるのか知らないから、西歐的な思考や行動様式の方が“上等”なんだ、と勝手に思ってしまうのだ。

  しかし、根無し草の日本人には困った事がある。たとえ、どんなに英語が上手でも、彼らは白人にはなれない。西歐諸国に住んでいれば有色人種と見なされ、日本に帰国すれば日本人のツラをした異邦人。「バイリンガル」になったと喜んでいる親は、現実に直面すると、我が子が「コスモポリタンのエイリアン(異質な浮浪者)」になってしまったことに愕然とする。「日本語や日本史なんて勉強しても価値が無い」と思う親は、フランスに住んでフランス人の友人をつくり、彼らに向かって次のように言ってみればいい。

  「フランスに住めば誰でもフランス語を喋れるし、フランス史を学んでも大金を摑める訳じゃないから、そんな事をしても時間の無駄よ」、と。

  まともなフランス人なら、顎を外すくらい驚くだろう。たぶん、「哀れな奴だ !」と見下すに違いない。常識的なフランス人は、我が子が正しい発音でフランス語を話し、優雅で論理的な文章を書けるよう教育する。子供にとって、美しいフランス語は貴重な財産だ。また、ヨーロッパ文明の中心であるフランスの歴史を学ぶことは喜びであると共に、国民になるための基礎である。パリの街をうろつくジプシーならいいけど、偉大なるフランスに属し、ガリア人の血を引く正統な国民であれば、祖先の栄光と悲劇を心に刻まなければならない。一方、フランスに潜り込んだアルジェリア人やギニア人なんか、フランス史を学んでも「外国史」と変わらないから、「何で俺達が死んだ白人を褒めなきゃならないんだ?!」と唾を吐く。彼らはゲットーの壁に落書きを刻むのが精一杯。しかも、卑猥な言葉か汚い罵倒語だけ。苦笑してしまうが、たまに綴りが間違っていたりする。

  電通の社員なんかに日本国民としての名誉や義務を求めるのは、端っから無理と分かっている。が、こんな連中を「上等国民」と勘違いする庶民も情けない。いくらテレビ局を牛耳る大企業といっても、所詮は銭を最優先するビジネス組織じゃないか。ブローテン航空のCMに反対しなかった田中氏はエリート社員だったのかも知れないが、日本人としての誇りは持っていなかった。もしかしたら、西歐人と真っ向から対峙して、「日本人を馬鹿にするな !」と怒ることを恥じていたのかも知れない。なぜなら、左翼リベラリズムを格好いいと思う西歐人は、国民国家を優先するナショナリズムを「カビ臭い因習」と見なすからだ。でも、田中氏は一体どの国に属していたのか? もし、彼が日本人であったなら、「自分も日本人である」といった事実を忘れていたことになる。英語をネイティヴ並に喋ったからといって、イギリス人に変身できる訳じゃない。歐米で育った帰国子女の中には、自分を白人と錯覚している者がいて、ブローテン航空のCMで描かれる日本人を目にすると、「私はあんな日本人じゃない !」という態度を示す。こういう人物には、「そうだよねぇ~。君は西歐人みたいだ。だが、君の両親や祖父母は、あの間抜けな日本人と同し種類なんだよ」と言ってやれ。どんな顔つきになるのか楽しみだ。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68777235.html
38:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:18:38

2019年10月11日
施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学
「世界秩序構想としての「翻訳」の意義に関する政治社会学的研究」
英米では1980年代から、日本では1990年年代半ばから本格化した新自由主義に基づくグローバル化は、もう終焉を迎えつつあります。グローバル化で各国の普通の人々の生活環境はボロボロになり、社会はすっかり疲弊してしまいました。
米国のトランプ大統領の選出、英国のEU離脱、フランスの黄色いベスト運動など、欧米では、もう数年前からグローバル化路線に対する反発が顕著です。

日本でも来年の東京オリンピックが終わったあたりから、社会の疲弊がますます顕著になるでしょう。我慢強い日本人もさすがに耐えかねて、現在のグローバル化路線に対する疑念があちこちで浮上してくることになると予想します。

今回の共同研究は、そうなるであろう近い将来を見据えて、ポスト・グローバル化(グローバル化以後)の日本の国づくりや世界秩序のありかたを考えていこうというものです。

その際、「翻訳」という理念に着目します。現在のグローバル化路線の欠陥を是正するのに必要なものが、「翻訳」という理念に含まれているのではないかと考えるからです。

現在のグローバル化の背景にある見方では、人間は、文化や言語から切り離されうる存在です。人間は、文化や言語を自由自在に選べるようになるし、そうなるべきだと考えます。

「自由な人間」とは、生まれ育った文化(母文化)や言語(母語)の拘束から離れ、より普遍的で合理的な世界に暮らす存在だと考えられます。グローバル化の見方では、グローバルな市場やグローバル・ガバナンスといったもので作られている合理的な世界で暮らすことこそ、人間にとっての自由の実現だと考えるのです。

しかし、グローバリズムの背後にあるこの人間観は、当然ながら間違っています。

人間は、母文化や母語から切り離されうる存在ではありません。むしろ、母文化や母語のなかで育ち、それらをきちんと身に着けることによってはじめて一人前になる存在です。

もちろん、文化的適応力や言語能力に優れた少数の人々は、母文化や母語から離れ、外国で暮らしてもどうにかやっていけるでしょう。しかし、外国語を母語並みに操れるようになるには、優れた資質と長年の鍛錬が必要なように、外国の文化や言語のなかで十分にやっていくのは、とても困難なのです。(よほど天才的な言語能力を持っていない限り、外国語で、すぐれた小説や詩を書くことはまず不可能です)。

ごく一握りの天才は別として、大多数の普通の人間は、やはり母語や母文化のなかでこそ、自分の能力を磨き、発揮し、いきいきと生きていける存在です。

私は、グローバリズムの思想的な誤りとは、根本的には人間観のこうした誤りだと考えています。人間を、文化や言語から切り離されうる存在だと非現実的に想定してしまったことです。

ですので、ポスト・グローバル化の新しい国づくりや世界秩序づくりの構想は、人間とは自分たちの文化や言語から簡単には切り離せない存在だとみる、より常識的な人間観のうえに立つものでなければなりません。

そういう常識的な見方では、ひとり一人を自由にするには、その人の母文化や母語をできる限り豊かに、充実したものにする必要があります。

日本人が、自由自在に、日常的なことからノーベル賞級の難しいことまで考えたり、話したりすることができるようになるには、日本語が充実していなければなりません。つまり、日本語が多様で豊かな語彙や表現を備えていなければなりません。

日本語だけでなく言語一般に言えることですが、ある言語が多様で豊かな語彙や表現を備えるためには、翻訳が大切です。さまざまな国のさまざまなモノや考え方を表す語彙や表現を、自分たちの言語という土台のうえに、適切に取り入れ、位置づけていくことが必要なのです。つまり、翻訳が必要なのです。

これは、言語にかぎったことではなく、文化一般にも言えます。(ごくごく少数の天才ではない)普通の人々が、多様な経験をし、自分自身を磨き、いきいきと生きていくためには、自分たちの文化という土台を基礎に、外来のさまざまなモノや考え方、生き方を取り込み、うまく位置づけ、自分たちの文化を充実し、豊かなものにしていくことが必要なのです。

つまり、広い意味での「翻訳」(文化の「翻訳」)が大切なのです。

幸いなことに、我々の先人である過去の日本人は、伝統的に「翻訳」が得意でした。近代以前は、中国やインドなどから、さまざまな文化を学び、それを巧みに日本化してきました。近代以降は、国をあげて、欧米から多様な事柄を学び、日本化し、日本の文化を豊かにしてきました。一握りのいわゆる特権階級だけではなく、日本の多くの普通の人々が享受できるようにしてきました

「翻訳」の作業を通じて、多くの普通の人々がアクセスしやすい多様性を作り出し、日本文化を充実させてきたのです。

グローバル化で疲弊しきってしまった日本や世界を立て直すために、日本のいわば伝統的な知恵でもあり特技でもある「翻訳」に注目する必要があると考えています。「翻訳」こそ、ポスト・グローバル化の秩序構想のカギ概念なのです。
https://38news.jp/default/14745
39:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:19:01

2019年11月1日
9割の日本人に英語は不要 成毛眞氏インタビュー
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/17789


マイクロソフト日本法人で社長を務め、

『日本人の9割に英語はいらない』(祥伝社黄金文庫)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%EF%BC%99%E5%89%B2%E3%81%AB%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E3%81%AF%E3%81%84%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84-%E6%88%90%E6%AF%9B%E7%9C%9E/dp/439661392X


を執筆した成毛眞氏に、日本人ビジネスマンと英語の向き合い方について考えを聞いた。

編集部(以下──)近年、多くのビジネスマンが英語学習に追われている印象だが。


成毛 眞(なるけ・まこと):HONZ代表。元マイクロソフト日本法人社長。インスパイア取締役ファウンダー。元早稲田大学ビジネススクール客員教授。近著に『amazon 世界最先端の戦略がわかる』(ダイヤモンド社)、『俺たちの定年後−成毛流60歳からの生き方指南』(ワニブックスPLUS新書)ほか。
(写真:WEDGE)

成毛:海外赴任や留学など実際に英語を使う必要性もないまま、漠然と英会話や資格の勉強をする人が多い。語学は強固な自己意識に支えられた熱意によってしか習得できない。本当に英語が必要なのは、外資系企業や商社社員、企業の海外部門、官僚、研究者のほか、インバウンドで来日した外国人と直接接する職業の人たちだ。その人数を概算すると、せいぜい日本人の1割。それ以外の大多数の日本人に、英語は必要ない。

──入社基準に資格試験の点数を使用する企業や、若手社員に英語力を課す企業もある。

成毛:1割の日本人に英語は必要だが、若手社員は生きた英語を仕事の中で覚えればよい。私の娘は商社に入り、穀物部門に配属された。そこでTOEICのスコア800点が必要と会社に言われたが、私は娘に「TOEICの勉強はしなくていい。大麦や小麦など穀物に関して誰よりも勉強しろ」と言った。娘はTOEICの点数こそなかなか上がらなかったが、仕事を通じて業務で必要な英語は身につき、さらに穀物に関する知識が豊富という理由で、海外の取引先から指名され、誰よりも早く出世した。仕事の基礎を覚える重要な時期に、英語だけに時間を削(そ)がれるのはもったいない。

──外資系企業で社長を務めたが、英語で苦労しなかったか。

成毛:当初はほとんど話せなかった。海外出張などを通じ仕事の中で身につけていった。英語が使えるか不安な人も多いだろうが、間違いが許されないよほど重要な商談の案件は、通訳をつければよいだけの話。むしろ「読む」ほうが難題だ。ビジネスの現場ではメールや社内資料、契約書、当然ながらすべて英語。貿易や経済用語、法律用語などはしっかり学ぶ必要がある。

──外国人相手のビジネスの場で特に必要と感じたことは。

成毛:すべての英単語を覚えることはできないから、知らない単語や難しい単語を別の言葉で表現できる力が求められる。また海外のビジネスの場では、自国の文化や歴史なども多く聞かれる。世界で活躍する外国人はみな自国のことをよく知っている。その意味で、日本のことを深く知り、自分なりの考えをしっかりと持ち、それを相手に伝えられる人こそ、海外で通用するビジネスマンだ。

──「スピーキング」を含めた4技能の英語改革が進められている。

成毛:生徒の英語力のベースが上がるなら望ましいことだが、重要なのは学ぶ目的意識だ。本当に英語を使う必要がある仕事に就く意志があるならば、大学に入ってから、あるいは職に就いてから、しっかり学べばよい。目的意識なくただ英語に触れるだけでは、いつまでも英語を使えるようにはならないだろう。
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/17789
40:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:20:11

2020年3月27日
カタカナ語氾濫の背後にあるもの
From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学
https://38news.jp/column/15584

「パンデミック」、「クラスター」。「オーバーシュート」「ロックダウン」。ほんと、新型コロナウイルスについての報道、わけのわからないカタカナ語が蔓延してますよね。「トリアージ」とかもときどき出てきて、「なんじゃこりゃ~、わかいやすい日本語でいわんかい」と私も思っていました。

(ちなみに、「パンデミック」は「感染症の世界的大流行」、「クラスター」は「小規模の感染者集団」、「オーバーシュート」は「患者の爆発的増加」、「トリアージ」は「患者の治療の優先順位」だそうです)。

ですので、先日の河野太郎防衛大臣の3月24日の発言にはまったく同感です。産経の記事を引用します。

***

河野太郎防衛相は24日の記者会見で、新型コロナウイルスに関する政府の説明に片仮名用語が多いとして疑問を呈した。日本語で分かりやすく説明するよう、厚生労働省など関係省庁に求める考えだ。

河野氏は、ロックダウン(都市封鎖)、オーバーシュート(爆発的患者急増)、クラスター(小規模の感染者集団)を例に挙げ、「ご年配の方をはじめ『よくわからない』という声は聞く。日本語で言えばいいのではないか」と述べた。(略)

***

「ロックダウン、オーバーシュート…「日本語でいい」 河野防衛相」(『産経新聞』令和2年(2020年)3月25日付)
https://www.sankei.com/politics/news/200324/plt2003240022-n1.html

本当に、カタカナ語が氾濫していますね。企業などが宣伝文句でカッコつけるだけならまだましなのですが、近年は、公務員や政治家、あるいは公共放送のはずのNHKまで、わけのわからないカタカナ語を多用します。

私が以前、非常に疑問に思ったのは、2018年9月の北海道での大規模停電のことでした。このとき、NHKの報道番組まで大規模停電のことを「ブラックアウト、ブラックアウト」と連呼していたので強い違和感を持ちました。「ブラックアウト」などとカッコつけずに、

「大規模停電」「全域停電」「大停電」などといったほうがどんな人にもよくわかります。

(まあ、NHKは昔の「教育テレビ」ではなく、数年前から「Eテレ」に名称変更したことからも、日本語を大切する気があまりないのはわかってましたが…)
(´・ω・`)

ちなみに、こういうカタカナ語は、多くの場合、英語だとも言い難いものです。例えば、英語で「クラスター」(cluster)とは、「類似したモノや人の集まり」ぐらいの意味です。「クラスター」だけでは「感染者の集団」という意味は思い浮かびません。英語が良くできる人でも、「クラスター」と聞いただけでは「感染者集団」だとは普通、わからないのです。

カタカナ語を多用すると、専門家やその分野に精通している人以外、よくわかりません。初めて見聞きする言葉は、説明がないと理解できません。また、記憶にも残りがたいのです。

その点、日本の伝統的な外来語の取り入れ方である漢字熟語を用いて、外来語を置き換えていくやり方は優れています。

「クラスター」や「ロックダウン」では初見ではなんのことかわかりませんが、「小規模感染者集団」とか「都市封鎖」と書けば、普通の日本人はすぐわかります。また、記憶にも残ります。

(この点について、以前、言語学者の鈴木孝夫氏の議論に触れながら、当メルマガに書いたことがあります。こちらもぜひご覧ください)。

施 光恒「日本人の底力」(「『新』経世済民新聞」2013年10月18日)
https://38news.jp/archives/02491

私は、特に、役人や政治家、公共放送たるNHKなど、公けの物事に関わる人々や機関がわけのわからないカタカナ語を得意げに使う風潮は大いに問題だと思います。
公けの物事を報じたり論じたりするときに大切なのは、なによりもまず「わかりやすさ」です。「万人によくわかること」です。

よくわかれば、その後、「問題の深刻さはどの程度なのか」「その問題に対処するためにはまず何をすればいいのか」などを一人一人が考えることにつながりやすくなります。

例えば、「ブラックアウトが生じた」では何をすべきかよくわかりませんが、「大規模停電(全域停電)が生じた」であれば、「これはまずい」とすぐに感じ、「その地域の電力供給の仕組みのどこに問題があったのか」、「一人一人は予期せぬ事態にどう対処し、何に気を付けるべきなのか」という思考に進むこともできます。
(以前、カタカナ語の多用が問題をぼかしてしまい、物事をさらに深く認識し考えることを妨げているのではないかということについて、「ヘイトスピーチ」という言葉を例に書いたことがあります。こちらもご覧ください)。

施 光恒「『ヘイトスピーチ』 レッテル貼りの恐れは」(『産経新聞』(九州山口版)2015年1月22日付)
https://www.sankei.com/region/news/150122/rgn1501220036-n1.html

では、なんで、こういうわかりにくいカタカナ語が、公けの事柄を論じるときにも多用され、蔓延してしまうのでしょうか。

もちろん、「インテリぶりたい」「カッコつけたい」などという理由も大いにあるでしょう。それに加えて私は、政治や災害報道などの公けの領域にも、ビジネスの論理が広まってしまっていることに一つの原因があるのではないかと考えています。

「ちょっとわかりにくくても、目新しい感じがし、人目を引くことができる」「その言葉を使っている人や組織が、かしこそうで素敵に見える」ほうがいいというのは、ビジネスの場面では大切なことが多いでしょう。新商品のキャッチフレーズや企業のイメージ広告では、そういう印象が優先されるのが普通でしょう。

わかりにくいカタカナ語が政治や行政、報道などにまで蔓延しているのは、そういう領域にもビジネスの論理がどんどん越境して広がってしまっているからではないかと考えます。そして、役人や政治家や公共放送の職員らの少なからぬ人々が、公けの仕事の意義を忘れ、ビジネス偏重の風潮に染まってしまっているからではないかと思うのです。

たとえば、近頃の行政の現場では、コンサルタント会社などに多くの業務を委託しています。このこともカタカナ語の氾濫の一因ではないでしょうか。

コンサルタント会社の人々が、業務の受託を目指しプレゼンテーションをする際、自分たちの企画を良く見せようとカタカナ語を多用することが結構あります。また、彼らが作った企画書や報告書などを公務員や政治家が使うことも多いでしょう。

また、地方自治体や大学の業界でもそうですが、緊縮財政主義の流行のもと、各種の補助金は、競争的に獲得していくべきだということが言われるようになってきました。ビジネス以外の領域にも、ビジネスのような競争を持ち込んで「効率化」をはかろうというのです。

こういう補助金獲得競争では、コンサル会社の場合と同様、プレゼンテーションが重視されますし、プレゼンでは他者に勝つために「よくわからないけど、目新しく人目を引くこと」「かしこそう、頭よさそう、素敵そう」に見えることが優先されがちです。

このようなかたちで、ビジネスではない公けの領域にビジネスの理屈や空気が持ち込まれるようになったことが、そして役人や政治家や公共放送の職員などが「公共に奉仕する」という本務を忘れ、それに浸ってしまったことが、政治や報道の世界でもカタカナ語が得意げに多用されるようになったことの背景にあるのではないでしょうか。

そうだとすれば、これはやはり問題です。

政治や行政、あるいは今回のような感染症の報道などについては、「万人によくわかり、正確に伝わること」が何より大切です。ターゲットにしている一定の消費者層だけではなく、お年寄りも若者も、高学歴層にもそうでない層にも、その問題に興味がある人にもそうでない人にも、よくわかることが大切です。

そのためには、目新しさやカッコよさは二の次で、たとえ泥臭い言葉だと感じられたとしても、ともかくわかりやすい、日常的な言葉で語ることが必要です。

つまり、当たり前ですが、政治や行政、報道といった公けの事柄に、ビジネスの理屈が持ち込まれてしまってはまずいのです。政治や行政、報道が語り掛けるべき相手は、そういう多種多様な人々がいる国民全体ですし、国民全体のことを何よりも考えて行動すべきなのです。

言葉に関して言えば、政治や行政、報道では、変にカッコつけることなく、万人にわかりやすい日常の言葉で語りかけることが何よりも大切なのです。

追伸
政治や行政の領域に、ビジネスの理屈が持ち込まれ、そちらのほうが「かっこいい」「優先されるべきだ」とみなされがちな昨今の風潮への疑問について、少し前に次のような文章も書きました。こちらもご覧くだされば幸いです。

【国家を哲学する 施光恒の一筆両断】「公務員らしさ」の大切さ(『産経新聞』(九州山口版)2020年3月2日)
https://www.sankei.com/region/news/200302/rgn2003020006-n1.html
https://38news.jp/column/15584


https://38news.jp/column/15584
41:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:20:56

2020年06月17日
ルー大柴のような政治家 / 青山繁晴の正体(後編)
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68815069.html
劣等感に悩む日本人
日本人は子供から大人まで、様々な階層が英会話に夢中になるが、英語の発音だけは苦手なようで、ネイティヴ・スピーカー並の発音に憧れているのか、「アメリカ人と対等に話したい! 」と“こだわる”人が多い。それゆえ、一般の日本人はイギリス人やアメリカ人のように話す“バイリンガル”を尊敬するようだ。未熟な若者ならまだしも、いい年をした中年までもが英会話学校に通い、大金を払ってるんだから情けない。仮に、目標が達成されても、会話の内容がお粗末で、チンピラ黒人より“ちょっとマシ”といった程度だ。本人の努力は尊重するけど、たとえ格好のいい“英語屋”になっても、そんなのは“せいぜい”フィリピン人かインド人の類いである。テレビ広告では「イーオン」とか「ECC」が盛んに「夢」を語っているが、あんなのは「幻想」で、実際のイギリス人やアメリカ人にとって、英語を話す東洋人なんて珍しくもない。なぜなら、カイロの青空市場で骨董品を売るエジプト人や、ダマスカスの喫茶店でコーヒーを運ぶシリア人、香港で観光客に近づく支那人でも、ちゃんと英語を話せるからだ。非英語圏の外人が英語を話すなんて当たり前。アムステルダムやロンドンで爆弾テロを計画するイラク人でさえ、一端の英語を喋っている。英語で“上級国民”に昇進できるのは日本だけだ。

  そもそも、イギリス語という言語は、ブリテン島に渡ったゲルマン人が喋るドイツ語の一種(方言)に過ぎない。それなのに、「英語」とくれば、日本人は劣等感の塊だ。たぶん、中学生の頃から英語の試験に晒され、点数で序列をつけられてきたからだろう。そのうえ、憧れのイギリス人やアメリカ白人から発音を馬鹿にされてしまうから、精神が歪んでしまうのも当然だ。この精神病はは中高年になるほど酷い。昔、総理大臣になった宮沢喜一は訪米し、たまたまACBの「This Week」に出演したが、この卑怯者が英語で喋ると、まるでシンガポールの政治家みたいだった。宮沢本人は同世代の老人に向けて、「俺の英語力は凄いだろぉぉ~」と自慢たっぷりであったが、司会者のデイヴッド・ブリンクリー(David Brinkly)の方が遙かに素晴らしく、イギリス紳士のように優雅で、ローの人のような威厳に満ちていた。それゆえ、対談を見ている日本人の方が恥ずかしくなる。(たぶん、親分の池田勇人も草葉の陰から「あのバカ野郎 !」と怒鳴ったんじゃないか。ちなみに、宮沢は議員になる前、池田の秘書をしていた。同じく、池田の元秘書で政治評論家になった伊藤昌哉も、宮沢をボロクソに貶していた。)

  NHKのワシントン支局長を務めていた日高義樹も“見栄っ張り”で、“お得意”の英語を口にすると有頂天だった。彼はテレビ東京で冠番組を持っていて、しばしばヘンリー・キッシンジャーにインタヴューする機会があった。しかし、稚拙な語学力であったため、キッシンジャーの意見に反論できず、丁稚の小僧みたいに「そうですか!!」と相づちを打つだけ。これなら、番組名を「ワシントン・レポート」から「ごもっとも対談」に変えた方がいい。本来なら、有能な通訳をつけて、厳しい質問を浴びせかければ良かったのに、日高氏は自分の英語力を披露したいがため、一生懸命“苦手”な英語を使っていた。でも、文法は滅茶苦茶、論理的な切り返しもできない。それゆえ、視聴者が知りたい本音は引き出せず、キッシンジャーの独演会に近いものだった。(筆者はこの番組を毎回録画していたので、日高氏がどんなミスを犯していたのか、今でも検証できる。) 会場には日本人の在米ビジネスマンも来ていたが、彼らがどう思っていたのか興味がある。たぶん、心の底でせせら笑ってたんじゃないか。何しろ、コネ入社が横行するNHKだ。局員の評価なんて伸縮自在、蜂蜜よりも甘いんだから。おそらく、日高氏は「特別な能力」でワシントンに派遣されたのだろう。

  以前も述べた通り、筆者は自分をイギリス人と勘違いしていないから、英語は外国語に過ぎず、意思疎通の道具だと思っている。もちろん、イギリス人やアメリカ人にとったら、御先祖様から継承する大切な遺産で、微妙な言い回しや思考の発達に欠かせない言語である。手段以上のものであることは間違いない。しかし、日本人はイギリス人じゃないから、国語(日本語)を粗末にしてまで学ぶ価値は無いと思う。日本の小学生や中・高校生にとって、英語より日本史を学ぶ方がよっぽど重要だ。たとえ、数学や理科で多少苦労する子供でも、歴史だけはしっかりと勉強すべきである。なぜなら、歴史教育は国防意識を涵養するうえで欠かせない科目であり、もし子供達が我が国の過去を知らないと、自分がどんな国家に生まれ、どのような恩恵を受けているのかが解らないからだ。それに、国家の名誉も判らない奴が、愛国心を持って戦うことができるのか?

  でも、やはり、英会話が不得意な事に劣等感を覚える人は多い。例えば、藝人の松嶋尚美は英語を学んでも、全く身につかず、劣等感を抱いているそうだ。そこで、息子と娘をインターナショナル・スクールに入れて“バイリンガル”にしたいそうである。でも、そうして育った子供は、中途半端な日本人にしかならず、歐米人から蔑まれる「植民地の土人」程度だ。考えてもみよ。単に、御主人様の命令を理解できる「召使い」が、「尊敬の対象」になるのか? フランスの貴婦人(ケルト系白人)は、いくら冗談やゴマすりが上手いベトナム人の道化がいても、「対等の人間」とか「友人にしたい外国人」とは思わないぞ。ソルボンヌ大学を卒業したって、ベトナム人はベトナム人のまま。フランス語を聴いて「お坐り」をする犬と同じだ。

  日本人はとかく英語に価値を置きすぎで、日本語を習得をおろそかにする傾向が強い。試しに、イギリス人やアメリカ人で、日本語を話せる者がどれくらい居るのかを考えてみれば、英会話ブームが如何にアホらしいかが解るはずだ。昔、藝人の山田邦子が面白いエピソードを話していた。信じられないけど、彼女は「アメリカ人=白人」と思っていたそうだ。「じゃあ、黒人は?」と訊きたくなるが、そうした発想は彼女の頭に無かった。また、山田氏が国際線の飛行機に乗っていた時の逸話が絶品だ。(どうも、山田氏は友人と一緒に坐っていたらしい。) 彼女がアメリカ人のスチュワーデスから「何か欲しい飲み物は?」と訊かれたので、「アイ・アム・オレンジジュース」と答えたそうだ。すると、その客室乗務員は心配そうな表情を浮かべ、「いいえ、あなたは人間ですよ !」と諭したらしい。たぶん、山田氏は英語が分からず、安直な翻訳をしたのだろう。

  筆者は昔、ハワイ旅行をしたオバはんから土産話を聞いたことがある。団体旅行の中高年女性らが、現地の商店に赴き、それぞれが好みのアイスクリームを注文したそうだ。すると、一人の婦人が「バニラ・アイス」を頼んだところ、アメリカ人の店員が差し出したのは、何と「バナナ味」のアイスクリームであった。購入者の日本人は、「注文と違うじゃないか !」と不機嫌になったが、英語で叱りつけることも出来ず、その場は我慢し、仕方なく「バナナ味」のアイスを舐めたという。たぶん、オバちゃんの発音が悪く、「バニラ」が「バナナ」に聞こえたのかも知れない。だが、中高年の奥方には話題が尽きないもので、勘定の時に「いくら」払っていいのか判らなったそうである。そこで、一応、「足りない」と言われないために、20ドル紙幣を差し出して、レジ係の店員に取ってもらい、米ドルの「おつり」を貰ったそうだ。

  「オバタリアン、何処に行ってもオバタリアン」というのが中年女性の特徴で、海外で困った場面に出くわしても、笑いながら大胆なことをする。件(くだん)のオバちゃん等は、アメリカ人の店員から「値段」を言われても、何を喋っているのか聞き取れなかったので、当てずっぽうで「代金」を推測したというから凄い。さすが、日本のオバちゃんは度胸が据わっている。ただし、こんな肝っ玉かあちゃんでも子供扱いされたことが悔しく、日本に帰ってきてから、「あ~ぁ、英会話が出来たらなぁ~」と嘆いたらしい。通訳ガイド抜きの「冒険」をしたら、とんだ「逸話」を残してしまうなんて、日本のオバタリアンは本当に愉快だ。(綾小路きみまろが喜びそうな逸話である。)

「米語(ベーゴ)」の達人

  脱線したので話を戻す。青山繁晴議員も、英語に関し何らかの“劣等感”を抱いているのか、日本人相手の会話なのに“ちょくちょく”英語を挟んでくる。彼が好んで言及する「CIA」とか「FBI」の話になると、急にアクセントを強くして、「シっ・アイっ・エー!!」とか「エッフ・ビィー・アィッ !」と発音してしまうのだ。彼は“わざと”「コケイン」と発音し、直ぐさま「あっ、コカインか!」と言い直す。もう見え見えの演技だが、青山氏は「つい、うっかりして得意の米語で発音してしまった !」と聴衆に教えたいのだ。番組を聴いている一般人は、「えっ、何で“そこだけ”ルー大柴になっちゃうのぉ~?」と驚く。父親がアメリカ人というモデル藝人の「シェリー」や、DJの「ハリー杉山」だって、日本人が相手なら日本式に喋るぞ。青山先生は「米語の達人」を宣伝したくてウズウズしているようだ。(筆者がここで紹介する「シェリー」は、アイドル歌手だった「シェリー」とは別の女性。ついでに言えば、彼女の本名は「安部玲子」で、実の父親はフランス人。明石家さんまが若い時、一緒に司会をしていた女性と言えば、思い出す人もいるんじゃないか。一方、杉山氏は英国人ジャーナリストのヘンリー・ストークスを父親とする混血児。ストークス氏は『大東亜戦争は日本が勝った』、『戦争犯罪国はアメリカだった』の著者。)

  青山氏が使うのは英語は「米語(ベーゴ)」らしく、ブリテン島のイギリス人やスコット人が話す伝統的な「アングル人の言葉」じゃない。しかし、青山氏が度々口にする「米語」とやらは、アメリカ人でも「えっ !」と驚くような“特殊性”を持っている。例えば、青山氏が我々に注意した人名の発音だ。彼は「みのもんた」が司会を務める「よるバズ」という雑談番組に出演し、通訳としても有名な小西克哉の隣に坐っていた。番組の中で小西克也がCIA長官のポンペオに言及すると、青山氏は彼の発言を遮り、「小西さんもご存じの事を、敢えて、皆様のために申し上げると、余計な事ですが、ポンペオというのは止めてほしい。“パンピィーオ”ですから ! 違う人に聞こえちゃうから !」と訂正したのだ。

  まぁ、青山氏はなんて「優しい人」なんだろう ! アメリカ英語(or米語)を分からない人のために、“わざわざ”“余計な事”に言及するなんて・・・。でも、この時、横で聴いていた小西は、苦笑しながら「違う !!」と反論していたが、“暴走機関車”の青山氏は“ご自慢”の「米語」を振りかざし、止まる気配が無かった。迷いが一切無い青山氏は、目の前のゲストに向かって、「パンピぃぃ~オですから !」と間違いを正していた。でも、「英語」に詳しい小西教授は、「困ったなぁ~」という表情で、「違う、違う、ポンペイオ ! ポンペイオですから !!」と何度も否定していた。しかし、小西克也は自信たっぷりの青山氏には勝てない。なぜなら、隣で興奮している“インテリジェンス”の専門家は、何度も何度も、ラングレー(CIA)やクワンティコ(FBI)の高官と「ベーゴ」で話した経験を持っていたからだ。(ただし、誰もその場面を録画・録音していないから、実際どうなのか判らない。)

  筆者は米語の達人じゃないから、偉そうなことは言えないが、アメリカの大学に留学した時、アメリカ人の教授とアメリカ人の級友がいる授業を受け、アメリカ人だらけの学生寮に住み、アメリカ人のルームメイトを持っていたから、多少、アメリカ式発音の英語が分かる。だから、青山氏の発音レッスンには納得できない。でも、彼の「ベーゴ」発音は強烈で、一度聴いてしまうと中々忘れられず、しっかりと脳裏に刻まれてしまうのだ。先月、FOXテレビでローラ・イングラム(Laura Ingraham)の「The Angle」を観ていたら、丁度、Mike Pompeo(マイク・パンピィ~オぉ~)長官のインタヴューが行われていたので、イングラム氏の発音は“どう”なのかと、注意して聴いてみた。すると、やはり、彼女も「ポンペイオ」と呼んでいたのだ。しかも、はっきりと発音していたから、日本人が聴いても容易に識別できる。しかし、筆者の頭の中には、青山氏の「パンピィ~オぉ~」という声が鳴り響いてしまい、それが何回も繰り返されたので、もう爆笑の渦から抜け出せなかった。結局、筆者はイングラム氏とポンペイオ長官が、どんな会話をしたのか全く記憶が無い。

Laura Ingraham 3Mike Pompeo 2


(左 : ローラ・イングラム / 右 : マイク・ポンペイオ)

  しかし、この発音レッスンには後日談がある。青山氏は「よるバズ」に出演したあと、視聴者から多くの反論を受けたようで、「虎ノ門ニュース」に出演した時、自身の発音問題に触れ、その失態を必死で誤魔化そうと図っていた。青山氏はよほど恥ずかしかったのか、「ポンペイオ長官の名前の発音には3種類ある !」と言いだし、何と、アメリカ国務省にも質問したというのだ。普通の日本人なら、「えっっっ~ ! そんな下らない事を一々国務省のアメリカ人に訊いちゃうのぉ~ ! 」と呆れてしまうが、これこそ、まさしく「議員特権」である。米国式発音に“こだわる”青山氏は、国務省の役人に対し、「正式には何と発音するんですか?」と尋ねたそうだ。にわかに信じられないが、青山先生がそう言うだから本当なんだろう。 ところが、世の中には不届き千万な人がいて、一部の日本人は「ホントかよぉぉ~? いつもの法螺(ホラ)話じゃねぇのかぁ~?」と小馬鹿にしたそうだ。まさか、自民党所属の参議院議員が、ありもしない架空の問答を捏造する訳ないじゃないか。たぶん、真顔で国務省の役人に質問したのだろう。

  それでも、青山氏には“心苦しい”点があるのか、人によってはアメリカ人でも「パンピーオ」もしくは「パンペーオ」、「パンペイオ」と言うので、「ポンペイオ」と発音しても良いらしい。青山先生は「癪だけど、NHKが発音するように、虎ノ門ニュースでもポンペイオでいきましょう」と述べていた。何か、苦し紛れの妥協というか、降参を認めない敗北宣言みたいで滑稽だった。ところが、自身の英語能力を守りたいのか、青山氏は入念な自己弁護に徹していた。曰わく、「日本人だと“POM”を“パン”と読むことには抵抗があるから、“ポン”でいいと思います」と付け加えていたのだ。さらに、青山氏は厳密な英語発音は日本語表記だと難しいところがある、と述べ、居島一平さんが“ちょっと”不審な目で見つめると、「そんなこと言ったら、トランプだって間違いですよ ! 正確にはトゥランプだから・・・」と熱弁をふるっていた。でもさぁ~、こうした弁解を聴くと、「そんなに片意地張らなくてもいいじゃん ! 素直に御免なさい、と謝っちゃえば済むのに・・・」とつい思ってしまう。

  筆者はベネッセ・グループの「ベルリッツ(Berlitz)」という英会話学校を知らなかったが、世間では有名な英会話スクールらしい。一般国民は疑惑の態度を示していたが、青山氏は自分の英語能力を自慢し、ベルリッツの評価段階で、「レベル10」と明確に述べていた。(チャンネル桜で放送する「青山繁晴の答えて、答えて、答える」における発言。) そこで、「ベルリッツ」の評価基準を調べてみた。すると、「レベル10」にある人は、「プロ級」レベルで、「ネイティヴ・スピーカー並」に話せる、と書かれているじゃないか !! 青山先生、凄い ! 凄すぎる !! 筆者なんか「レベル1」か、せいぜい「レベル2」程度だ。それにしても、共同通信の記者っていうのは、語学の達人が揃っているのか? ただし、青木理(おさむ)みたいな奴もいるから、全員がネイティヴ並に米語を話せる訳じゃないだろう。となれば、青山氏だけが「卓越した敏腕記者」という事なのかな? 「世界ふしぎ発見」のスタッフに調べてもらいたい。

  「米語」の達人たる青山氏、といえども、状況によっては「英語(ブリテン式)」発音を用いるそうで、ラジオ番組ではアーティストに「気遣い」を示し、英国式の発音で喋る時もあった。青山氏はFMラジオで「On the Road」なるレギュラー番組を持っている。番組の中で彼が、「Badfinger」というバンドの「Day After Day」(曲)を紹介した時、青山氏はいつもの「米語」で「ベェーッド(bad)」と発音せず、英国式に「バッド(bad)」と発音していた。なぜなら、「バッドフィンガー」が“イギリス”のバンドであるからだ。さぁ~すが、由緒正しき「武士(?)」の家系は違う。鈴木健二も感心する程の気配りだ。でも、このバンド(元々は「The Iveys」)はウェイルズの「スワンジー(Swansea)」で結成されたから、往年のファンは「ウェイルズのロック・バンド」と思っている。青山氏は英国人に敬意を払っているそうで、「ジェネシス」の名ドラマー「フィル・コリンズ(Philip D.C. Collins)」を紹介する時も、米国式の「カリンズ」じゃなく、英国式の「コリンズ」で紹介するそうだ。筆者は「日本人のリスナー相手なんだから、普通にコリンズでいいじゃん」と思ってしまうのだが、 「ベーゴ」に執着する青山氏にとっては、ハッキリさせねばならぬ「違い」らしい。

  「ベルリッツのレベル10」を自称する青山議員だが、時たま“意外”な間違いをする。まぁ、“うっかりミス”なんだから、そんなに目くじらを立てなくても、と思ってしまうが、一般視聴者は厳しい。例えば、虎ノ門ニュースで「タックス・ヘブン(租税回避地)」を話題にした時、青山氏はそれを「税金天国」と呼んでいた。しかし、目の前に居る「アメリカ人弁護士」のケント・ギルバート氏から、「天国(heaven)じゃなくて回避(haven)」ですよ !」と指摘されるや、青山氏は大慌て。(「まったく、もう、変な人だなぁ」といった“笑み”を浮かべるギルバート氏は、親切にも「逃げ場」ですよ、と教えていた。) しかし、「リスク・マネージメント(危機管理)」の「専門家」でもあるのか、青山氏の「ダメージ・コントロール」は素晴らしく、「税金天国」を即座に打ち消し、「え~、ですから、逃げ場としての天国みたいな場所」と言い直していた。すごぉぉぉ~い切り返し! さぁぁ~すが、青山先生はそこら辺の通訳とは、ひと味もふた味も違うぞ。青山氏は、くれぐれも「天国と誤解せぬよう」我々に注意を促していた。ところが、摩訶不思議。青山先生は「米語の達人」であるはずなのに、なぜか手元にあるラップトップ・パソコンで「haven」の意味を検索し、まるで初めて知った中学生のようにジッと液晶パネルを見つめていたのだ。どうしたんだろう?

  「ネイティヴ・スピーカー」並に「米語」を話す青山氏でも、時には中学生のように発音や綴りを間違える。例えば、青山議員は虎ノ門ニュースに出演し、在留資格を持つ外国人の説明をした時、「特定活動」の意味と定義が解っていなかった。彼は大学教授や藝能人を「特定活動」の範疇に入れていたのだ。でも、青山先生が指していた法務省の一覧表では、ちゃんと「教授」や「興行」の項目があり、「特定活動」なるものは、「外交官等の家事使用人、看護師、介護福祉師候補者等」と説明されていた。よって、大学教師や歌手、俳優は別の範疇に属するはずだ。ところが、もっと驚いたことに、青山氏は、「特定活動」の用紙に筆記体で「designated activity」と書いており、この英単語を見ながら、「デザイネイテド・アクティヴィティー」と読んでいた。これには筆者もビックリ。今時、普通の受験生だって、「designated」を「デジグネイテド」と発音するはず。それなのに、青山先生ときたら・・・。おそらく、青山氏は「デザイン(design)」の綴りに釣られてしまい、発音を混同したのだろう。(もしかしたら、「designated」という英単語を知らなかったりして・・・。いや、青山先生に限って、そんなことは絶対に有り得ない。たぶんね ! 以前、当ブログで紹介した、キーファー・サザーランドのTVドラマ、「デジグネイテド・サヴァイヴァー(Designated Survivor)」を読んでくれた人は解っていると思うけど。) また、青山先生は水道法について解説していた時、「コンセッション」に言及したが、自分で印刷物に書き込んだ「コンセッション」の綴りが間違っていた。青山先生の「consession」は間違いで、正しくは「concession」と書く。でも、先生はアメリカ人みたく「カンセッション」と発音していた。さすが、青山先生だ !

  青山氏は「米語」の達人ばかりではなく、米国の政治や軍事にも詳しい。所謂「アメリカ通」だ。しかし、頻繁に訪れる「国防総省」については何か“変”。「米語」で発音しているんだが、どうも納得できない。青山氏によると、我々が発音する「ペンタゴン(Pentagon)」は間違いで、「ベーゴ(米語)」では「ペェナゴーン」と言うそうだ。また、日本は「ジャパン」じゃなく、「ジャペぇぇ~ン」と発音するらしい。何となく、ルー大柴の「スタンド」が現れてきそうだ。(「金粉」が腕から湧き出る青山先生だから、「ゴールド・セネター」というスタンド名だったりして。まさか、「パープル・ブルー・マウンテン」というスタンド名にする訳にもいかないし・・・。原作者の荒木飛呂彦先生も笑ってしまうだろう。だいいち、「紫の青」って、「やや紫」という色になるのか?)とにかく、小堺一機や関根勤を前にしたギャグならいいけど、青山氏は真剣に述べていたから厄介だ。

「多才な能力」を披露する政治家

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(左 : 「よるバズ」に出演した青山議員 / 右 : ラジオ番組を収録中の青山議員とアシスタントの女性)

  もしかしたら、青山先生は郷ひろみの「二億四千万の瞳」を上手に歌えるのかも知れないぞ。たぶん、モノマネ藝人の「古賀シュウ」よりウマいはず。こうなると、神無月さんが青山先生のモノマネをする日も近い。昔、タモリは「徹子の部屋」に出演し、イタリア語やフランス語に加え、支那語や朝鮮語のモノマネをして黒柳徹子を笑わせていたから、青山先生も「徹子の部屋」に出演し、「本場の米語」を披露したらどうか。そうすれば、独立総合研究所の講演会は超満員となり、お金がザクザク入ってくるぞ。ついでに、青山氏ご自慢の「現代アート」も紹介すればいい。青山氏は「個展」を開いて、奇妙な色紙や弁当箱を何十万円の値段で売っていたけど、あまり買い手がいないようだから、テレビでもっと宣伝すべきだ。ホント、青山先生はルネッサンスの巨匠を彷彿とさせる、「万能の藝術家」なんだから。

  「レベル10」の英語力を誇る青山先生は、拙い英語を喋る日本人にとても厳しい。青山氏はまだ陣笠議員なのに、ラジオ番組で安倍総理の英語を容赦なくこき下ろしていた。でも、青山先生は叱るだけじゃない。ちゃんと、ご自身の「お手本」を披露していた。「ザ・ボイス」に出演した青山先生は、安倍首相の英語演説を取り上げ、喋り方というか発音が駄目で、ブズブズに切れており、「うまくない」と批判していた。そこで、青山先生は番組のリスナーに対し、ご自身の「生演説(朗読)」を読み聞かせ、「どうだ ! 俺の米語は!」と大変ご満悦であった。(青山氏のニコニコ顔が目に浮かぶじゃないか。) なるほど、青山議員は安倍首相よりも早口で喋っていた。けど、アメリカ人を真似た中高年みたいで、「こんなもんなのかぁ~?」と拍子抜けするような朗読であった。たぶん、筆者の聴力が劣っているからなんだろうが、何回聴いても「ジャングリッシュ(日本的英語)」にしか思えない。

  ラジオ番組で「米語」を語る青山は活き活きしており、安倍総理だけじゃなく、歌手の佐藤竹善(さとう・ちくぜん)さんもバッサリ斬っていた。筆者は聴いたことがないが、佐藤氏は「イーグルス」の名曲「One of These Nights」をカバーしたそうだ。すると、「発音」にうるさい青山氏は、佐藤氏が「nights」の複数形部分をハッキリと発音していないから、「ズッコケ」ちゃうらしい。興奮する青山先生は、こんなの「有り得ない」と嘆いていた。(筆者には佐藤氏が誤魔化しているとは思えないんだけど。) 有頂天の青山氏は、「たぶん、周りで言ってくれる人が居ないんじゃない?」と馬鹿にしていたが、その言葉はそのまま青山先生にも贈りたくなる。おそらく、青山先生の周りに居る人、例えば事務所の秘書とか、番組スタッフ、出版社の編集員も判っているんだろうが、激怒されるのが怖くて誰も指摘できないのだろう。「触らぬ神に祟り無し」だから。

  青山先生は「米語」だけじゃなく、様々な「才能」に溢れている。サーフィンを始めたら、直ぐに波の上で楽しむことができたと言うし、支那に行くと直ぐ北京語や上海語を喋れるようになるし、南米に行っても“たちまち”スペイン語を習得してしまうそうだ。しかし、日本に帰国するや、全部忘れてしまうらしい。それでも、現代アートに秀でた青山先生は、ポップ・ミュージックやロック音楽、さらにクラッシック音楽まで、幅広く知識を有しており、各ミュージシャンについて詳しい情報を暗記しているという。例えば、ラジオ番組で「チャカ・カーン(Chaka Khan)」を紹介したとき、彼女の名前は「チャカ」じゃなく「シャカ」なんだと教えていたし、彼女の名前は「赤」とか「炎」を意味するアフリカ語に由来するとまで述べていた。すごぉぉ~い。さすが、青山先生は博識だ ! アフリカ人の言語にまで精通しているなんて !

  青山先生の頭脳はフラッシュ・メモリーみたいに大容量で、ミュージシャンの細かな情報まで蓄えている。例えば、歌手のボニー・タイラーが喉にポリープが出来ていたのに、そのまま唄っていたとか、エリック・クラプトンが高層ビルの53階に住んでいたとか、熱心なファンと同じくらい詳しい藝能記事を知っていたのだ。でも、まさか、手元に置いてあるラップトップ・パソコンで「ウィキペディア」を覗いている訳じゃないよねぇ~。だって、先生の説明はウィキペディアの「文言」とソックリなんだもん ! まるで、Wikiの文章を朗読しているみたいだ。ラジオ番組だから、何をしてもバレない、と思っているのだろうか。いや、そんなことはない。青山先生はミュージシャンのプロフィールやエピソードを全部「記憶」しているというから、そんな詐欺はしないだろう。なにせ、千人分の質問を全て暗記できる程の記憶力を持っているんだから。青山先生は「天才バカボン」に出てくる「ハジメ」ちゃんみだいだ。何しろ、青山先生は驚愕の神童であった。生まれたての赤ん坊なのに、盥(たらい)の上に立ったという。これなら、藝能ネタくらい1億件でも2億件でも覚えられるさ !

  音楽にも詳しい青山議員は、ラジオ番組で言いたい放題。亡くなった歌手のホイットニー・ヒューストンを紹介する時も、わざわざ「米語」で発音し、口を尖らせて「フゥィットニー・ひ~ストゥン」と呼んでいた。米語にうるさい青山氏は、人気ミュージシャンのブルース・スプリングスティーンが話す英語にケチをつけ、「彼の発音は好きじゃない。舌が短い !」と嫌っていた。さらに、女優のリース・ウィザースプーンが歌手になると、冷徹にこき下ろす。青山先生曰わく、「声が出ていない、声に張りが無い !」と手厳しい。タイガース時代の沢田研二についても容赦なく、「音程の取り方が悪い ! そもそも、歌い方が駄目 !」と辛口評論。しかし、ビートルズだけは例外で、彼らの名曲を紹介して上機嫌。アシスタントの前で、その美声を披露。青山先生は、かすれた声で歌っていた。青山氏の追っかけファンなら感謝感激だ。でも、ファンじゃない人が聴けば、下手くそな裏声で、音痴の鼻歌にしか思えない。

  国際政治や軍事・外政に詳しい青山先生は、何と日本の文化にも精通しているそうだ。現在、青山先生は自民党の保守派勢力を集めて皇室の維持にも努めている。ただ、何故か青山氏は「男系」という言葉が嫌いで、「父系に変えましょう」と我々に呼びかけていた。先生曰く、「男系とか女系という言葉を使うと国際的に問題となるから、父親の系統で継承される皇位」と表現した方がいいらしい。また、“国際派”でアメリカにも多くの“友人”がいる青山氏は、外国人にも日本の文化を理解してもらおうと、お得意の「米語」で日本の皇室伝統を説明し、その際、「父系」を「ファ~ザーズ・ライン」と翻訳したそうだ。テレビ東京の対談番組に出演した時、青山先生は官邸キャップの篠原裕明を前にして、「王室を持たないアメリカ人でも、“father's line”と言えば一発で理解できます !」と豪語していた。まぁ、「ファ~ザーズ・ライン」でも間違いじゃないが、まともな大人であれば、「paternal line」 とか「patriliny」、「paternal-line ancestry」という言葉を使って説明するんじゃないか。

  イングランドの「英語」では、「父上」を「pater」と呼ぶし、「家長(族長)」は「patriarch」で、「ローマ貴族」や「世襲貴族」は「patrician(patricius / patricii)」と言うから、アメリカ人でも簡単に理解するはずだ。しかも、アメリカ人にはキリスト教徒が多いから、「アブラハム→イサク→ヤコブの系譜を思い出してくれ」とか、「古代フランク族のサリカ法(Lex salica)でも、王位継承は男子に限られていたじゃないか」と言えば、アメリカ人だって「あぁ、そうだなぁ~」と言って納得してくれるだろう。たとえ、メロヴィング朝のクローヴィス(Chlodovechus)とかサリカ法典を知らなくても、日本人の前で「西歐史を知らない !」とは言えないから、「日本の皇室もそうだったのか !」と頷くはずだ。それにしても、青山先生の「米語」は直訳過ぎる。まさか、「ペイトリオティズム(patriotism / 愛国心)」を知っている青山氏が、「父や祖父から受け継ぐ土地や世襲財産(patrimony / patrimonium)」を意味する英単語を知らないことはないよねぇ~。きっと知っているはずで、アメリカ人の子供でも解るように、わざと「ファ~ザ~ズ・ライン」と述べたのだろう。(ちなみに、「母系」は「マザァ~ズ・ライン」であるそうだ。「maternal line」でも良さそうなのに。一般の主婦だって「マタニティー・ドレス(maternity dress)」とか、「産休(maternity leave)」いう英語を知っている。) まぁ世間には色々な意見があるけど、本当に、青山議員は親切だ。

  今や、国際社会で活躍する商人や国会議員には、「英会話」能力が必要条件となっている。青山議員によれば、通訳を介して国際会議に臨むと、約三倍の時間が掛かってしまうそうで、国会議員たる者は、必ず「英語力」を身につけるべきなんだって。「米語」の達人たる青山氏は、アメリカに行っても、東南アジア(ASEAN)の会議に出ても、必ず人気者となる。なぜなら、青山議員は国際会議に出席すると、ご自慢の「米語」で熱弁をふるうからだ。さぁぁ~すが、青山先生は外交手腕に長けている。先生の自慢話によると、参加者の外人はみんな青山議員の発言を解ってくれるし、誰もがその英語スピーチに感謝するそうだ。会議が終わると大使や公使などが青山氏のもとへ近づいてくるというから、実に羨ましい。そこで青山氏は大胆な提言をする。日本の国会議員の一部には、英語を苦手とする者がいるので、「ちゃんと勉強しなきゃ駄目だ !」と叱り飛ばし、選挙に出る奴には予め英語の試験を課せ、とまで述べていた。

  青山先生のお説教は更に加熱する。ASEAN諸国の政治家が喋る英語なんて、CNNのキャスターが口にする英語に比べれば、遙かに遅いから、一般の国会議員でも解るはずだ、と。ただし、国際社会で揉まれてきた青山先生は別。CNNのキャスターだと、マシンガン・トークみたいに早口だから、「僕くらいの英語力じゃないとダメだけどね・・・」と青山先生は暗に自分の「米語力」を自慢していた。他者に厳しい青山議員は、「英語が苦手だから」という理由で日本語で外人と話す政治家には賛成できず、「ゆっくりでもいいから英語で話せ」、と勧める。しかし、青山先生でも時として“ゆっくり”とした英語を話すそうで、アメリカ人がはっきりと理解できるよう、青山先生は敢えて“遅い”英語を喋ってあげるんだって。いやぁぁ~、青山先生は本当に優しい。

  さすが、ペンタゴンの軍人と秘密の会話ができたり、CIAの知り合いと「米語」で語り合ったりするだけの人物だけある。(ただ、不思議なのは、どうやって相手のアメリカ人がCIAの局員だと判ったのか? 普通、高度な軍事・外交情報を扱うCIA局員は身分を隠しているはずなのに。もしかしたら、落合信彦みたいな人脈を持っているのか? そういえば、以前、筆者が『SAPIO』誌の編集者に「落合さんはCIAに友人がいるんですかぁ?」と尋ねたら、笑いながら誤魔化していた。筆者も敢えて追求せず、「まぁ、秘密ですよねぇ~」と笑いながら応対したのを覚えている。まったく、ハッタリ屋を相手にする編集者も大変だ。)
  
  青山先生が伝える数々の「奇蹟」を信じない人もいるだろうが、いくらなんでも参議院議員になった“国士”が嘘をつくとは思えない。おそらく、全て本当の事なんだろう。青山先生が秘蔵する「心霊写真」だって、国務省の高官と話す「米語」だって、高価な値段を附ける「藝術作品」だって、南米で強盗を倒した「武勇伝」も、お金や名誉も要らぬという「愛国心」も、どれもこれも全て「真実」だ。「法螺(ホラ)だろう」と馬鹿にする奴には罰(バチ)が当たるぞ。いつも夜遅くまで仕事をこなし、睡眠時間が僅かで「死にそうだ」と苦しむ先生が、国民を騙す訳がない ! たとえ、「話を膨らませた」としても、きっと表に出来ない「裏の事情」があるんだろう。青山先生は「死を覚悟した護国の鬼」なんだから、ゼニのために政治家をやっているんじゃないぞ。たとえ、講演会で何百万円もの利益が出たとしても、青山先生はそれを着服せず、きっと何らかの政治活動に廻すはずだ。「日本の尊厳と国益を護る会」だって、我々の文化や皇室伝統を守るために結成されたのであって、青山氏が目立つため、自民党の執行部が利用するガス抜き集団、保守派の票田を確保するための別働隊、なんかじゃないぞ。青山議員の「志(こころざし)」は立派なんだから。

  でも、こうして青山先生について書いてみると、何となく、段々と虚しくなるのは“何故”なんだろう。もし、阿藤快さんが生きていれば、「何だかなぁ~?」の神髄を教えてくれるんだけど・・・。「天才バカボン」の原作者である赤塚不二夫(あかつか・ふじお)先生なら、「これでいいのだ !」と言って気にしない。ところが、筆者には疑問が残ってしまう。「モヤモヤさまぁ~ず」じゃないけど、何か胸にモヤモヤが溜まってしまうのだ。「チャンネル桜」のキャスターあたりが、青山先生の真実を解説してくれれば助かる。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68815069.html
42:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:21:35

2020年06月20日
女帝の言葉は外国風 / 日本語だと格好悪い ?
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68815070.html
カタカナ英語を使いたがる人々

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  「横文字(西歐語)」が好きな日本人は、だいたい二つ種類に分けられる。一つは、職業柄、「商売」の一環として、わざと外国語(カタカナ英語など)を使う人だ。例えば、手品師の「ピェール」は、「フランス生活が長いマジシャン」というキャラクターで客前に出る。彼は手品の最中、わざと「シル・ヴ・プレ(sil vous plaît)」と述べた後、「あっ、ついフランス語を喋ってしまいました!」とギャグを飛ばす。でも、お客さんは「いつもの冗談」と判っているから、ゲラゲラと笑って赦してくれる。「ハクション大魔王」みたいに、墨でクルッと髭を描くピェールだが、そのカード・マジックは絶品で、観客は奇抜なトリックに釘付けとなり、いつの間にか惹きつけられて行く。滑稽なメイクとは裏腹に、流れるような手さばきを見せるから、お客さんは自然と大拍手。ピェールのような一流マジシャンなら、横文字を口にしても異論は無い。

  もう一つのタイプは、大した知識も無いのに矢鱈と横文字を使う見栄っ張りだ。この典型例は東京都知事の小池百合子。彼女は日本人が相手なのに、ちょくちょく英語を交ぜてくるから、「何だこのオバはん ! ルー大柴かよ !」と突っ込みたくなる。 そこで小池語録を繙くと、過去の事例が次々と湧き出てくる。ノア・ウェッブスター(英語辞書の編纂者)も脱帽するが、「ワイズ・スペンディング(賢い支出)」、「ダイヴァーシティー(多様性)」、「ガヴァナンス(統治・管理)」、「コミットメント(誓約・献身)」、「サステイナブル(持続可能な)」といったカタカナ英語がズラリ。アラブ人相手でも英語を用いる東京都知事は、「私は国際派なのよ !」と鼻高々。でも、日本人相手の記者会見なんだから、日本語を使うべきだろう。どうして、必要も無いのに横文字を使い、その直後に「言い訳」のような「和訳」を述べるのか? ところが、小池都知事は英語だけじゃなく、ドイツ語にも堪能なようで、「メルクマーク(Merkmal / 指標)」とか「アウフヘーベン(Aufheben / 止揚)を口にして「インテリゲンチャ」を演出する。目立ちたがり屋の小池氏のことだ。「こっちを向いて !」と言うときも、フランス語風に「アトンション(attention) !」と呼びかけるんじゃないか? また、不都合な事を訊かれたら「パルドン(Pardon)?」と聞き直して逃げたり、「ケスクセ(あら、何かしら? / Qu'est-ce que c'est?)」と言って“とぼけたり”する可能性もある。だが、“得意”なアラビア語だけは、何らかの“事情”で封印しているようだ。

  小池都知事は日本国民のためにスピーチを行っているのか、それとも自分を売り出すためにコンサートを上演しているのか、筆者にはさっぱり解らない。彼女は人々が武漢ウイルスで困窮しても、あるいは移動制限で不自由になっても、お得意の英語でロックンロール。神妙な表情を浮かべながら、「ロックダウン ! (都市封鎖)」とか「オーヴァーシュート ! (患者の急増)」、「クラスター ! (集団感染)」といったカタカナ用語を並べ立てる。「誰にでも解るように、ちゃんと日本語で言えばいいじゃないか !」と言いたくなるが、日本語だけで述べたら野暮ったい。なるべく“スマート”に喋らないと、“インテレクチュアル”に思われないから。(あっ ! 筆者も、つい「ルー大柴モード」になってしまった。) こんな風に言うと、「タカ&トシ」のトシ(三浦敏和)から「欧米か!」と叱られそうだが、ユリコ様は宝塚のトップ・スター以上の存在だからOK牧場。(小池都知事ならガッツ石松のセリフを堂々とパクってもお咎め無し。)

  とにかく、仮にもユリコ女史は東京都知事なんだから、重要な発表であれば、ちゃんと「日本語」で話すべきだろう。だいたい、「ステイ・ホーム(Stay Home !)」って何だ? やけに居丈高じゃないか。普通の日本語ほ使って「家に居ろ !」とか、「自宅から出るな !」と言えばいいのに、カタカナ英語で「スティ・ホーム」なんて、人を小馬鹿にしている。我々は犬じゃないぞ !! ユリコ様(公方様?)は、給付金を配る時にも、「待て ! (Stay / Wait !)」とか「伏せ ! (Down !)」、「グルっと転がれ ! (Roll over !)」とでも言うのか? 小池氏のことだ、よく出来たら、オっちゃんオバちゃんに対しても、「グッド・ボーイ ! グッド・ガール !」と褒めそうだ。小池と同じく、役人も横文字が趣味のようで、「コンセンサス(合意)」、「コンプライアンス(法令遵守)」、「ウィンウィン(両方が得)の関係」などと言って偉そうにする。小池や官僚はエリート意識満々なんだろうが、一般国民だって教養はあるんだ ! コケにするんじゃない !

滑稽な日本の外国かぶれ

  だいたい、インテリ気取りの日本人は、何かにつけ外国語を使いたがる。例えば、マスコミは「アパートメント(or flat)」を「マンション(mansion)」と呼ぶが、アメリカ人が聞けば「一軒家の豪邸」を思い浮かべてしまうぞ。不動産屋が「マンション」と称して紹介するのは、たいてい「コンドミニアム(condominium)」みたいな物件である。新聞やテレビの報道記者は、日本語で「長屋」と言えばいいのに、白銀台とか高輪、恵比寿などに建つ高層ビルだから「マンション」と呼んで恥じない。それなら、「高級長屋」でいいじゃないか。分譲された一角に住んでいるだけなんだから。他にも、巷の賃貸物件を見ていると、様々なカタカナ名称があって何がなんだか判らない。例えば、「マカロニほうれん荘」はフィクションだけど、普通の貸しアパートなら「何とか荘」と呼べばいいはずだ。それなのに、奇妙な和製英語の「コーポ(corporate house)」、高台にある訳じゃないのに「ハイツ(heights)」と称する二階建ての貸家、フランス風に「メゾン(maison)」を附けるプレハブ住宅、ドイツ風に「ハイム(heim)」と名付けられた洋風長屋、インド総督が住んでいる訳じゃないのに「レジデンス(residence)」と呼ばれる集合住宅など、詐欺物件みたいな家ばかり。

  それでも、やっぱり日本人は横文字が大好き。特に、テレビや雑誌は奇妙な和製英語で溢れている。例えば、昔、マスコミや被服業界では「ハウスマヌカン(house-mannequin)」という言葉が流行っていた。筆者は洋服店の「マネキン(人形)」かと思ってしまったが、ブティックで働く「販売員」の呼び名と知って驚いた。実際は「女性の売り子」なんだから、「女子店員」でいいんじゃないか。ついでに言えば、「カリスマ美容師」という呼び名もあって、筆者は「新興宗教の床屋」かと思ったが、よく聞いてみると「腕のいい散髪屋」あるいは「人気の美容師」とのことだったので、「なぁ~んだ、そんな意味かい !」と呆れたことがある。だって、「カリスマ(charisma)」と言えば、神様から与えられた特別な能力とか魅力を指す言葉なので、一般的には宗教学または社会学の説明で使われる学術用語だ。

  最近のホテルでも似たことがある。例えば、よく「コンシェルジュ(concierge)」という言葉を耳にするが、宿泊客の要望や相談に応じる「世話係」なら、フランス語じゃなくて日本語の役職名を用いた方が親切だろう。病院だと「インフォームド・コンセント」なる外来語を使うが、「説明して同意を得ること」でいいじゃないか。市役所も「環境アセスメント(assessment)」なる言葉を使いたがるが、要するに「環境への影響を評価する」ということだろう。日本人が口にする変な英語は非常に多く、ホテルやレストランでの「クレーム」というのは、「苦情(complaint)」のことで、「主張(claim)」じゃおかしい。不可解な横文字は他にもあって、「歌手がブレークする」とか「今年ブレークした新人」という表現があるけど、どうして脚光を浴びるようになった藝人に対して「break(壊れる、途切れる、割る)」といった英語を使うのか? 筆者は未だに解らない。

  和製英語を口にするが、その意味や由来を知らぬまま使っている人は多い。例えば、二人並んで撮った写真を「ツー・ショット写真」と呼ぶらしいが、被写体が3人、4人、10人、36人、100人と増えたら、どう呼ぶのか? 筆者は修学旅行の時、約30名で集合写真を撮ったことがある。なら、こうした写真は「サーティ・ショット写真」というのか? 「ツー・ショット写真」と聞けば、普通は「二回シャッターを切る」と思うはずだ。この「ショット(shot / 弾丸・射撃)」は酒場でも使われる言葉で、小さなコップにテキーラを注いで飲む時、「1杯(one shot)」「2杯(two shots)」と数える。一方、英語と思っている言葉が、実はフランス語由来という場合もあるので、話す相手によって注意せねばならない。例えば、洋菓子屋の「シュークリーム」はフランス語の「ショアラクレム(Chooux à la crème)」が訛った言葉で、イギリス人が聞けば「ケーキ屋で靴墨(shoe cream)か!」と驚いてしまう。

  和製英語は「カタカナだから正しい英語」と思ってしまう虞(おそれ)がある。例えば、文房具の「ホチキス」も日本だけの呼称で、英語では「ステイプラー(stapler)」だ。昔、日本人が「ホチキス社(E.H. Hotchkiss Company)」から輸入したので、この名前が附いたらしい。遊園地の「ジェット・コースター(jet coaster)」も和製英語で、「ローラー・コースター(roller coaster)」が正しい。考えてみれば当たり前で、ジェット・エンジンなんか附いておらず、「ローラー」で滑走しているんだから、最初から「ローラー・コースター」でいいはずだ。

 日本人はある英語を別の英語で使うことも多く、改築(修理)を「リフォーム」とか「リニューアル」呼ぶが、正しくは「リノヴェイション(renovation)」と言うべきだし、「バージョンアップ」は「アップグレイド(upgrade)」、「バイキング料理」は「ビュッフェ(buffet)」、「ペット・ボトル」は「プラスチック・ポトル(plastic bottle)」と呼ぶべきだ。「メリット」や「デメリット」も日本的な使い方で、本来なら「アドヴァンテイジ(advantage)」とか「ディスアドヴァンテイジ(disadvantage)」と言う方が分かりやすい。

  日本人は色々な国から言葉を入れてしまったので、語源の種類が解らなくなっている。例えば、オランダ語から入った「コップ(kop)」だが、英語で言えば「カップ(cup)」となり、日本人の子供は何が違うのか解らない。水だと「コップ」一杯となるが、清酒だと「ワン・カップ」となる。(ガラス製の「グラス」でも、人によっては「コップ」と呼ぶからややこしい。) 野球やゴルフの試合で貰う「優勝杯」の時は「カップ」と言い、「優勝コップ」と呼んだら、景品で貰う「マグ・コップ」みたいだ。余計な事だが、白米を盛る「茶碗」は「カップ」じゃなく「ボウル(bowl)」である。日本人だとピンとこないが、この「ボウル」は「窪地」をも意味するから、「フットボールの競技場」を指すこともある。

  一般的には意識されないが、日本語にはヨーロッパ由来の言葉とカタカナ英語が併用されているので面白い。例えば、「輪ゴム」の素材は、オランダ語の「ゴム(gom)」で、口で噛むゴムは英語の「ガム(gum)」だ。しかし、歯茎を指す「ガム」は古英語の「goma」から来ているので別口となる。医療用語にはドイツ語が使われ、有名なのは医者が書き込む「カルテ(karte / krankenbericht)」である。「ガーゼ(英語 / gauze)」はフランス語(gaze)から来ているが、元々はパレスチナの地名で、ユダヤ人とアラブ人が血みどろの戦いを繰り広げる「ガザ(Gaza)」が起源であるらしい。確かに、たくさんのガーゼが必要だ。

  ついでに言うと、現在の中学生や高校生は、福沢諭吉や勝海舟が蘭学を志し、「オランダ語」を勉強していた事は知っているが、オランダに関しては意外と知識が無い。そもそも、「オランダ」は「州名」で「国名」じゃない。「ネーデルラント王国(Koninkrijk der Nederlanden)」は、「フリースラント(Friesland)」や「フローニンゲン(Groningen)」、「ヘルデルラント(Gelderland)」、「ドレンテ(Drenthe)」、「フレヴォラント(Fleboland)」、「リンブルク(Limburg)」、「ゼーラント(Zeeland)」、「ユトレヒト(Utrecht)」、「オーファーアイセル(Overijssel)」などの州で形成される連邦国家だ。ちなみに、南半球にある「ニュージーランド(New Zealand)」の国名は、元々オランダ語の「新しいゼーラント(Nieu Zeeland / Nova Zeelandia)」で、オランダの冒険商人であるアベル・ヤンソン・タスマン(Abel Janszoon Tasman)がこの島に到達したから、この名前で呼ばれたという。(第17世紀にアジア大陸に進出したオランダ人の活動は、「オランダ東インド会社」の歴史を調べてみれば分かる。) 最初は「南海の島(Staaten Land)」という名前で呼ばれていたが、後に本国の「ゼーラント州」に因んで「新しいゼーラント」と呼ばれ、さらに英語風となって「ニュージーランド」に変わったらしい。

Abel Janszoon Tasman 2Anthony van Diemen 2Simon Baker 6

(左 : アベル・ヤンソン・タスマン / 中央 : アントニー・ヴァン・ディーメン / 右 : サイモン・ベーカー )

  ついでに言えば、オーストラリアの隣にある「タスマニア(Tasmania)」島は、元々タスマンの上司であるアントニー・ヴァン・ディーメン(Anthony Van Diemen)に因んで「ヴァン・ディーメン島」と呼ばれていたが、後に部下のタスマンに因んだ「タスマニア」という名前が一般的になった。 もう一つのトリビアを述べると、人気ドラマ『ザ・メンタリスト(The Mentalist)』で主役を務めたサイモン・ベーカー(Siomon Baker)は、タスマニア出身の俳優である。彼自身も米国のトーク・ショーで「タスマニア育ち」と答えていたから本当なんだろう。ニュージーランドやタスマニアを旅行する日本の大学生でも、国名の由来を知らない人は結構多く、イングランドの地名から取った名称と思っている。確かに、オーストラリアのシドニーやメルボルンには、「カンタベリー(Canterbury)」といった英国風の街があるから、イギリス系入植者が本国を真似たんだろうなぁ、と推測してもおかしくはない。でも、第17世紀や18世紀の頃は、オランダ人も海外で領土拡大を目指していたから、オランダ風の地名はあちこちにある。

  さらに脱線するが、NY州のマンハッタン島(ニュー・アムステルダム)にオランダ系の地名が多いのは、イギリス人と共にネーデルラント人が多く入植したからだ。有名な入植者と言えば、統治者となったピーター・スタイヴァサント(Petrus Stuyvesant)が挙げられる。彼の子孫には名士が多い。例えば、フランクリン・D・ローズヴェルト大統領の学友で、後に批判者となった下院議員のハミルトン・フィッシュ3世(Hamilton Stuyvesant Fish III)は、ピーターの末裔である。その他にもオランダ系の地名は多く、ナッソー(Nassau)とかハーレム(Haarlem)は誰でも判る。日本人旅行者も訪れるクィーズの「フラッシング(Vlissingen)」とか、ブルックリンの「ブッシュウック(Boswijck)もオランダ系の地名だ。「クリニッチ・ヴィレッジ(Greenwich Village)」の名前もオランダ語の「Groenwijck」からきている。

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(写真 / ネーデルラントの風景)

  話を戻す。日本人が呼ぶ「オランダ語」と言っても、それが「標準ネーデルラント語(Standaardnederlands)」なのか「ホラント方言(hollandais)」、「フラマン語(vlaams)」あるいは「フリジア語(Frysk / Fries)」なのか判らず、高校生だと一つの「国語」と思いがちだ。(公用語は「一般教養ネーデルラント語(Algemeen Beschafdt Nederlands)」である。まぁ、山の手言葉を土台にした標準日本語みたいな言葉と思えばいい。) ネーデルラントの地理となれば更にあやふやで、フランス人が呼ぶ「低地国(Pays-Bas)」と聞いても、「オランダ(Hollande)」という州なのか、それとも連邦全体を指す「ネーデルラント王国」なのか、はっきりしないのだ。今の高校生や大学生は「バタヴィア」と聞けば、インドネシアの首都「バタヴィア」しか頭に思い浮かばないが、元々はネーデルラント王国の北部、つまり現在のアムステルダムやハーレム、フリースラント辺りを指す古い地名である。タキトゥス(Tacitus)などの古代ローマ人は、ここを「バタウィア(Batvia)」と呼んでいた。それで、この地域に住むゲルマン人を「バタウィア人」と呼んでいて、近くにはザクセン人も住んでいたから、オランダ人とイギリス人(アングロ・サクソン)が容姿や風俗の点で似ているのは当然である。(1795年から1806年にかけて「バタウィア共和国」というのも存在した。)

  今のご時世、日本語で言える物事でも、英語で言うと「格好いい!」という風潮は実に多い。筆者は昔、小遣い稼ぎで子供に英語を教えていたことがある。その当時、雑談で日本語を用いたら中学生や高校生の女子に馬鹿にされたから、今でも悔しい。例えば、女子高生が穿いていた「ルーズソックス」が思い出せず、「蛇腹の靴下」と言ったら、ゲラゲラ笑われてしまった。子供だからしょうがないけど、日本語の語彙が不足している子供は多く、中には「“ジャバラ”って何?」と訊いてくる女の子さえいた。さらに、筆者が「襟巻き」とか「乳母車」と口にしたら、「先生、言い方が古いよぉ ~」と笑われ、「マフラー」や「ベビーカー」と訂正されてしまった。筆者はムっときたから、「じゃあ、エリマキトカゲはマフラー・トカゲなのか?」と反論したら、「それは別 !」と簡単にあしらわれてしまった。それでも腹立たしいので、「ベビーカーというのは和製英語で、正しくはストローラー(stroller)とかバギー(buggy)、プッシュチェアー(oushchair)なんだよ」と教えたら、「えっ、そうなの !」と驚いていた。(日本で「バギー」と言えば、山道や砂浜を走る四輪駆動車か、ゴルフ・カートを思い出すから意外なんだろう。食料品店で使う「ショッピング・カート」も、英語では「バギー」だ。もう、和製英語はなくしてもらいたい。)

  乳母車ついでに教えたのは、赤ん坊を指す俗語の「アンクル・バイター(ankle biter)」とか「スプログ(sprog)」といった英単語である。日本の公立学校だと「sprog(ガキんちょ)」や「lad(若者)」という単語は教えないし、固い表現を中心に教科書が作られているから、実際のイングランドやアメリカで戸惑う日本人は多い。例えば、普通の高校生だと「約束する」を「I promise you.」と訳してしまうが、アメリカ人なら「You have my word.」と言うだろう。今ではTVドラマ『24』の影響もあって、ジャック・バウアーの名セリフを口にする人も少なくない。外国語を習得するには、現地に住むことも有効な手段だ。筆者が米国の学生寮に入居した時、ベッドの掛け布団が必要だと気づき、近くの雑貨店に赴いたことがある。そこで、寝具コーナーの店員に「デュヴェイ(duvet)ありますか?」と訊いたら、「ああ、コンフォーター(comforter)ね !」と言われたので慌ててしまった。筆者が日本人だから「おしゃぶり(dummy)と間違がわれたのかも?」と思い、すかさず「あの、キルトやブランケットのような物」と言い直した。

baby with nukerschool kid 5

(左 : 「おしゃぶり」をしている赤ん坊 / 右 : ヘソを曲げた少女)

  でも、その店員は理解していたようで、ちゃんと掛け布団コーナーへと案内してくれ、筆者は無事買うことができた。それにしても、布団の名称が赤ん坊の「おしゃぶり」とは・・・。確かに、アメリカ人は「おしゃぶり」を「パシファイアー(pacifier)」と呼ぶから混乱しないが、日本人からすると焦ってしまう。ちなみに、腹話術の人形とかは、「ドール(doll)」でもいいんだけど、筆者は何となく「ダミー(dummy)」の方を使ってしまう。自動車の安全検証の時に用いる人形も「ダミー」なので、間違いとは言えない。でも、洋服を着せた人形だと「マネキン」なので、英語というのは本当に難しい。ちなみに、「ダミー」は「間抜け」も意味するから、本当に厄介な言葉である。(日本では人を騙すための「偽会社」という意味で「ダミー会社dummy company」を使う場合がある。) そういえば、人名が変な風に使われるから、これまたややこしい。例えば、「ゲロを吐く」というときに「ラルフ(ralph)」を用いるし、便所を指すときに「ジョン(John)」と言う時がある。「リチャード(Richard)」の渾名は「デック(Dick)」だけど、この言葉は「ペニス」も意味するから、アメリカ人はどう思っているのか。民衆党員なら、軽蔑を込めてチェイニー元副大統領を「デック」と呼ぶんだろうけどね。

  ここでは関係無いけど、日本で英語を勉強しても、いざアメリカで暮らすと米国式英語で混乱することがある。例えば、ニューヨークの軽食屋で、隣のアメリカ人がマフィンみたいなパンを食べているので、筆者が何かと訊いたら、「ビスケット(buiscuit)」と教えてくれた。日本で「ビスケット」は「森永のビスケット」みたいなお菓子だが、米国だと「クッキー(cookie)」となる。筆者はあまり違いを考えていなかったので、「そういえば日本人は両方使うよなぁ」と改めて考えたことがある。「コーン(corn)」も“ややこしい”英語で、米国だと「トウモロコシ」で、英国だと「穀物(grain)」を意味して、小麦などを指す。「コーン」は穀物から「粒」を連想するから、「コンビーフ(corned beef)」は「塩粒」で漬けた牛肉となる。トウモロコシが入っていないのに「コーンのビーフ」と言うから、日本の子供が首を傾げてしまうのは当然だ。イギリス人は「トウモロコシ」を「メイズ(maize)」と呼ぶから、日本の中学生は更に頭が混乱する。度量衡も英米で違いがあり、「1パイント(pint) 」のジュースは、米国で0.473リットルだが、英国だと0.568リットルなので気をつけないと損をする。クルマに給油をする時も、米国と英国では違っているから注意。1ガロン(gallon)は米国だと3.78リットルだが、英国だと4.54リットルなので、1ガロンありの値段を日本円に換算する時には、よく考えないとねぇ。

  英米人との会話では、英語の使い方で悩むことがある。日本人は「ポテト・チップス」みたいなのを「チップス(chips)」と呼ぶが、イギリス人なら「クリスプス(crisps /固く焼いた物)」で、アメリカ人が相手だと、そのまま直訳で「チップス」でいい。たぶん、イギリス人は煎餅みたいな感覚なんだろう。奇妙なことに、日本の「ポテト・フライ」は米国で「フレンチ・フライ(French fies)」と呼ばれるが、英国では「チップス」だ。英国を旅行すれば誰でも食べる「Fish and Chips」では、日本でいう「ポテト・フライ」が出てくる。「湖池屋のポテト・チップス」ではない。日英では変な共通点があって、イギリス人と日本人は便所を「トイレット(toilet)」と呼ぶが、アメリカ人は「バスルーム(bathroom / restroom)」と呼ぶので、日本的感覚からすると何となく奇妙だ。食堂で「バスルームはどこですか?」と訊けば、風呂を探しているみたいでおかしい。また、米国で「炭酸水」を注文する時は「ソーダ(soda)」でいいけど、英国だと「ポップ(pop)」だから頭が混乱する。筆者がアメリカ人の子供に「横断歩道」を指して「zebra crossing」と言ったら、「crosswalk」と言い直されたことがあるけど、英国なら「シマウマの渡り」で通じるようだ。

  その他、和製英語で紛らわしいのは、「トレーナー(正しくはsweatshirt)」という服の種類の名称で、北米だと「運動靴」と間違われてしまう。イギリス人やカナダ人は「トレーナーズ(trainers)」と呼び、アメリカ人は「ランナーズ(runners)」とか「スニーカーズ(sneakers)」と呼ぶ。英語らしいのに間違った英語というのも多い。例えば、銀行のATMで、「タッチ・パネル」というのがあるけど、本当は「タッチ・スクリーン(touch screen)」なので、「最初から正しく表記すればいいのに」と思ってしまう。「電子レンジ」も同じで、輸入当初から「マイクロウェイヴ・オーブン(microwave oven)」と呼んでいれば、紛らわしい混乱は無かったはずだ。和製英語で馬鹿らしいのは、「OL」という名称で、だいたい「会社で働く貴婦人」っておかしいだろう。「office worker」でいいのに、誰がこんな変ちくりんな言葉を考えついたのか? 「ヤクルト・レディー」も同じで、「ヤクルトおばさん」じゃ駄目なのか? たぶん、ヤクルトは化粧品の訪問販売をする「エイヴォン・レディー(Avon Lady)」を真似たんだろう。でも、「エイヴォン・マン(Avon Man)」に輝いた英国のトップ・セールスマンを真似て、男性販売員を「ヤクルト・マン」と呼んだら、「ひょうきん族」のキャラクターみたいで滑稽だ。(なんか、伊東四朗かアーノルド・シュワルツネッガーがやりそう。)

タカナ英語は「うどん屋の釜」

  日本人が西歐語を「格好いい」と思う気持ちには、幾つかの理由がある。誰でも思いつくのは、明治時代に“近代化”を目指した日本人が、“西歐の文明”を輸入して富国強兵に努めたことだ。誰もが知っているように、我々が言う「近代化」というのは「西歐化」に他ならない。新しい日本が模範とする先進国は歐米諸国のみ。聖人君子がいると思われた支那、そして儒教を崇めていた朝鮮は、停滞した古代国家、あるいは因習に凝り固まった劣等国。したがって、漢籍を売り物にしている支那学者なんて、カビ臭い書物に埋もれた腐儒、ないし役立たずの屁理屈屋といったところだ。朝鮮語に至っては、選択する外国語じゃなかった。平成の初めまで、朝鮮語を学ぶために大学へ進もうとする高校生は“ほぼ”皆無。もし居るとしたら、よほどの変人か朝鮮系の子供くらいである。あの“みすぼらしい”民族の言葉を習うなんて、プライドの高い日本人じゃ、死んでもできない。渡部昇一先生は、英語学を「男子一生の仕事」にする価値はある、と述べていたが、朝鮮語じゃ馬鹿らしいというか、牢屋に入ったような気分になるから論外。英語を除いて日本人が自主的・積極的に学ぶのはドイツ語かフランス語、あるいはイタリア語くらいまでで、貴重な時間とお金を費やすのは、魅力的な西洋語に限る。

  今のところ、青山繁晴や小池百合子は、大して上手くもない英語を口にして、「どう? 格好いいでしょう !」と上機嫌だが、アジア移民が増えれば、英語は気取り屋の玩具じゃなく、必要な手段となってくる。なぜなら、インド人やマレー人、フィリピン人の出稼ぎ労働者が増大すれば、職場で交わされる共通語は英語しかないからだ。しかし、日本で使われる英語は、アジア人用の低級英語に過ぎないから、職場で飛び交う英語はゼンジー北京かケイシー高峰レベルの外人語。アジア移民の子供と一緒にされる日本人の子供もいい迷惑だ。アジア人の子供は日本の学校に通っても、親とのコミュニケーションは祖国の言語となるから、カタコトの日本語を話す“バイリンガル・キッズ”が増えるだけ。しかも、こうしたバイリンガル児童が話す言葉は、ダログ語とかマレー語、ベトナム語だから、日本人の子供は“格好いい”とは思わない。一方、既に移民大国となったブリテンでは、300種以上の外国語が公立や私立の学校で話され、全小学生の20%に当たる、約90万人の児童が英語以外の言語を話しているそうだ。(Elizabeth Bailey and Emma Marsden, "Hundreds of languages are spoken in the UK, but isn'talways reflectedin the classroom", The Conversation, August 21, 2017.)

Aoyama 221(左 / 笑顔の青山議員)
  外国語を流暢に話して喜んでいる「国際派」の知識人は、多言語社会をどう思っているのか? そういえば、我らが青山繁晴先生はラジオ番組で、お得意の「米語」について話していた。あろうことか、国際派の青山先生は訪米した時、アメリカ人の入国管理官から怪しまれたそうだ。曰わく、「お前は日本の旅券を持っているのに、どうしてそんなに英語が上手いんだ?」と疑われ、詳しく尋問されたそうである。うぁぁぁ~、すごぉぉぉ~い ! さずか、青山先生は我々と違う! アメリカ人の入管職員がビックリするほど上手な「米語(ベーゴ)」を話したなんて! いゃゃ~ぁ~、羨ましいなぁぁ~。アメリカ人が「アメリカ人?!」と勘違いするほどネイティヴな発音なんて ! でも・・・、もしかしたら、単に「怪しい東洋人」に思えたから尋問されたのかも知れないよ。大変失礼だけど、アメリカ人の入管職員が先生の「米語」を理解できなくて、「何だ ! こいつ、ゴチャゴチャ喋りやがって!」と不機嫌になる場合もいるからさぁ。でも、そんなことはないだろう。だって、ベーゴをスラスラ喋る青山先生を誤解するアメリカ人なんか・・・居るはずがない。青山先生は自慢していたけど、普通にハワイでブラブラしていると、現地人から「アメリカ人」と間違われるそうだ。先生の「米語」はハワイ人が誤解するほどの「ネイティヴ」発音なんだって ! でも、現地の白人は、先生を「日系人」と思っていたからじゃないのか?

Sadiq Khan 1(左 / サディク・カーン)
  話を戻す。日本でも「研修生」とか「留学生」の名目で、ドンドン「移民」が押し寄せてくるから、やがてブリテンやフランス、ドイツのように異人種の坩堝(るつぼ)と化すだろう。そうなると、東京や大阪といった大都市圏では、外国系の市議や知事が誕生するかも知れない。悪夢の到来はもう少し。1960年代までのブリテン人(ゲルマン系やケルト系の白人)で、ジャマイカ人やインド人の市議会議員や市長が誕生すると予想する人は少なかった。しかし、現在のロンドン市長は茶色人種のサディク・カーン(Sadiqu Khan)で、彼の両親は1968年に移住してきたパキスタン人。日本だって東京に支那人や朝鮮人、インド人、フィリピン人、ベトナム人が増えれば、アジア系の都知事が誕生する可能性はある。何しろ、東京は行政能力よりも知名度や人気度で都知事が選出されるので、候補者にはある程度の知名度が必要だ。たとえ、財政や金融に精通していても、地味な人物なら当選は難しい。でも、小池百合子みたいに口達者な女優タイプだと、枕営業と綺麗事だけで当選してしまうのだ。

Koike Yuriko 76(左 / 若い頃の小池百合子)
  いずれにせよ、小池百合子がカタカナ英語を好むのは、知的な雰囲気を漂わせたいだけで、都民の利益を考えているからではない。彼女の演説や公約は「うどん屋の釜」と同じ。「ゆ(湯)うだけ」で「中身が無い」のだ。この厚化粧知事は、鏡の前で帽子や宝石を身につけ、店員に「どう見えるかしら !」と尋ねているオバタリアンと変わりがない。こういったインテリ風の女は、ちょいと洒落た「布きれ」でも、「素晴らしいスカーフ(scarf)ですね !」とか、「御洒落なショール(shawl)」、「ゴージャスなストール(stole)」と呼んでやれば喜ぶ。たとえ、ヘンテコな絵柄でも「有名デザイナーによる特注品です」と言えば満足するんだからアホらしい。表面だけで物事を判断する人物は、イタリアに住む支那人が作った革靴でも、「ミラノでも指折りの職人が作ったハイヒールです」と囁けば、2倍の値段でも買ってくれる。目利きのようなフリをして、「やっぱり、作りが違うわ !」と言って蘊蓄(うんちく)を述べるから、本当にチョロい。小池氏のような英語屋は、目を大きくして「ファビュラス(fabulous / 素晴らしい)」とか、「マーヴェラス(marvelous / 素敵)」、「インクレディブル(invcredible / 信じられない)」と言いそうだ。ピエールなら“お決まり”の「トレヴィアぁぁ~ン」だろうなぁ~。

  小池百合子が嘘つきでも人気があるのは、上品な物腰で真剣な話をするからだ。しかし、その口の中には黒い舌が二枚ある。都合の悪い質問を受ければ、笑顔でヒラリと躱(かわ)し、「持ち帰って後ほどお答えします !」と煙に巻いて終わり。昨日は昨日で、今は今。「ケ・セラ・セラ」と唄って、バイバイだ。本人に罪悪感が無いから、矛盾した発言でも、荒唐無稽な提案でも、一向に恥じることはない。これだから、都民は何回だって騙される。上昇志向の小池百合子にとって、都政の舵取りなんか退屈である。彼女は鮫のように華やかな舞台を求め、孔雀のように自分を飾り立てる。オリンピックがどんな形であれ、世界中の観客に英語で語りかけ、「私って最高 !」と自己満足に耽るのが小池の夢だ。このオバはんなら、「ジャパニーズ・ドリィィーム」と言うかも ! ただし、我々にとったら「ナイトメアー(nightmare / 悪夢)」なんだけど・・・。

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43:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:22:17

2021年2月20日
【施 光恒】「翻訳」と理想的な世界像
From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学
https://38news.jp/economy/17668
前回のメルマガで、ドイツの経済学者C・ビンツェル教授らの議論を参照しつつ、日常生活で使っている言語で知的事柄を学び、考え、議論できる環境が整っていることの大切さについて書きました。
(施 光恒「英語化が拍車をかける日本の衰退」(『「新」経世済民新聞』2021年2月5日付))
https://38news.jp/politics/17556

ビンツェル教授らは、16世紀の宗教改革のあと、西欧(特にプロテスタントの地域)でラテン語ではなく各地の日常の言葉(俗語)での出版物が急速に普及したことと、この地域の経済成長との関係について論じています。

つまり、この地域では、俗語で書かれた出版物が急速に増えたため、多くの一般庶民がそれまでよりも容易に様々な知識に触れ、自らを高め、社会に参加できるようになった。このことが大きな経済成長をもたらし、ひいては西欧が他の地域に先駆けて近代化できたことの理由ではないか。ビンツェル教授らはそのように推測しています。

日本の近代化の歴史を振り返ってみても、この点について同様のことが言えるでしょう。

明治以来、日本が近代化に成功し、曲がりなりにも経済大国になることができた大きな要因は、日常の言葉である日本語で知的事柄を学び、考え抜くことができる環境が整備されてきたからです。

先人が外国語の文献を数多く翻訳し、日本語を鍛え、日本語で森羅万象を学び、考え、論じることができる環境を作り、多数の普通の日本人が能力を磨き発揮しやすい社会ができたからこそ、日本は近代化できたのです。

このあたりの話について、私は以前の著書『英語化は愚民化』(集英社新書、2015年)でも、明治時代のいくつかのエピソードに触れながら書きました。

https://www.amazon.co.jp/s?k=%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E5%8C%96%E3%81%AF%E6%84%9A%E6%B0%91%E5%8C%96&i=stripbooks&hvadid=386549498051&hvdev=c&jp-ad-ap=0&tag=asyuracom-22&ref=pd_sl_5w0mfdz1eu_b


今回は、『英語化は愚民化』で触れなかったエピソードを一つ紹介しつつ、日常生活の言語の充実の重要性、およびそのことから導かれる世界の理想的なありかたについて少し考えてみたいと思います。

紹介したいエピソードというのは、早稲田大学の学長も務めた経済学者・天野為之(あまの・ためゆき)(1861-1938)のものです。

天野は、日本人の手による初の読みやすい経済学の本『経済原論』を1886年(明治19年)に出版しました。これは画期的なことでした。明治の前半までは、日本の大学では多くの場合、英語やドイツ語、フランス語など西洋の言語で授業が行われていました。あるいは日本語を使うとしても、外国語の原書に大きく頼りながら授業を講じていました。

当然ながら、英語など外国語で専門的な講義を受けても、十分に理解できる者はごくわずかの優秀な学生だけです。そのため、大学の講義を日本語でできるようにしたい、また、日本人が日本語で読みやすい専門書が書けるようにしたい、というのが当時の日本の悲願でした。

天野の『経済原論』は、そういうなかで書かれました。『経済原論』を出した冨山房(ふざんぼう)という出版社の社史のなかで、天野が当時のこと(1880年代半ば頃、つまり明治10年代後半頃)を振り返っています。

長いですが、明治半ばの状況がよくわかる文章なので、引用します。
(以下は、『冨山房五十年』(冨山房、昭和11年(1936年))に収録されている天野の文章からの引用です。天野がこの文章を書いたのは昭和6年頃のようです。読みやすいように旧字体を書き直すなどしています)。

*******
従来、政治学、経済学などいわゆる泰西(西洋)の学問を説くには、英・米・仏・独などの原書か、あるいはその翻訳書によったものである。学者の講義も原書あるいは翻訳書で行っていた。

慶應の諸教員のごときも、もっぱら原書によって講義をしておったようである。帝大の前身東京大学では、外国人が外国語を以て講義し、あるいは英米などの原書を教科書として講義していた。また坊間に行わるる経済書あるいは政治原論は、皆原書か翻訳書に限られていた。しかるに原書は少数の外国語に通ずる人の読むに限られ、翻訳書は晦渋で十分にその意を尽くしがたい。

ゆえに外国語を十分に学んでいない満天下の人士は、政治経済の学問に通ずることが不可能であった。これは学問の普及には非常の障碍であった。この障碍を取り去るには、ぜひとも日本人が邦語をもって経済原論などを科学的に著述するほかはない。

ところがこれが果たしてできるかどうかという議論が行われ、我々はこれを可能と信じた。そこで早稲田の学校でこれを実行し、いわゆる原書を教科書とせず、全然日本語で泰西の学理を提唱説明してみた。しかも私は、私の専門の経済学のうえに試みたところ、これが想像外に成績良く外国語の知識なき生徒にもよく理解される。

この成功に力を得て、この早稲田に於ける講義をまとめて世間に分かち、外国語の心得なき一般の人々の間に広く経済の学問を普及せしめんと試みたのが、私の最初の著作「経済原論」の出版である。

私の考えも友人たちの考えもまた冨山房の考えも、この書物がさほど世の中に歓迎されて売れようとは思わなかった。ところが出版してみると意外にも盛んに売れたものである。

今から五十年前の日本は、人口も富も少なく、したがっていわゆる読書階級に属する人も、きわめて少数であったにもかかわらず、想像外に多く読まれた(『冨山房五十年』、488-489頁)。
*******

上記の引用部分で私が特に興味深く感じたのは、「原書は少数の外国語に通ずる人の読むに限られ、翻訳書は晦渋で十分にその意を尽くしがたい」という部分です。

翻訳書は、翻訳してある分だけ原書よりもましですが、それでもまだわかりにくいものです。一般の日本人にはあまりなじみのない出来事や知識を背景に書かれていますし、また、考え方や叙述のスタイルは、国によって少しずつ異なります。

そのため専門書の翻訳は、一般の日本人には読みにくいことが多いのです。原書や翻訳書だけでは、学問的知識は多数の人々の間で容易には広まりません。

やはり、日本人が日本語で大学の講義を行い、それを書物にまとめ出版する必要があります。

実際、天野が、早稲田大学で原書を用いず日本語で講義を行ったところ、わかりやすいと好評でした。それに力を得て『経済原論』を著して出版しました。冨山房のこの社史によると、天野の『経済原論』は「生硬な直訳を離れ、万人のために平易通俗の語」(487頁)で初めて経済を解説した本で、「経済」という語自体が普及したのもこの本が良く売れたからだということです。

冨山房からは、『経済原論』ののち、歴史学や地理学、植物学、国文学などの多様な分野で、日本人の手による本が続々と出版されていきました。

こうしたなかで、普通の多くの日本人が容易に先進の知識を学び、自らを知的に鍛えていく環境が整っていったのです。多数の人々が自分の能力を鍛え、そしてそれを発揮していったことが経済成長を含む日本社会の近代化に大きく寄与したと推測できるのではないかと思います。

拙著『英語化は愚民化』でも他のいくつかのエピソードに触れつつ、こうした推測を行っています。また前回のメルマガで触れたように、ビンツェル教授もいくつかの歴史的資料に基づきつつほぼ同様のかたちで西欧の近代化について推測しています。

こうした推測、つまり各地の日常の言葉が高められ、多数の普通の人々が日常の言葉で様々な先進の知識を学び、考え、論じられるようになることが経済成長を促進し、ひいては活力ある近代的社会の形成につながるという推測が妥当だとすれば、現在の「グローバル化」についての見方は大幅な修正を迫られることになります。

グローバル化を良しとする現在の見方では、経済成長を促し、社会を活性化するには、国境線をなるべく取り払い、各地の特殊な文化的慣行を改め、合理的で普遍的な共通のルール(例えばアングロサクソン的な市場経済のルール)や法、言語(例えば英語)を広めるべきだということになります。

しかし、もしビンツェル教授や私の推測が妥当だとすれば、だいぶ違ってきます。大切なことは、各地の多くの普通の人々が慣れ親しんでいるそれぞれの土着の文化や言語、ルールを洗練し、高め、その土台のうえに、近代的社会を作っていくよう努めなければならないということです。それが、多数の人々が能力を磨き、発揮できる環境を整えることになり、ひいては経済成長や社会の活性化につながるのではないかということです。

西欧の近代社会の成立の過程、あるいは日本の明治の近代化の過程を見る限り、ビンツェル教授や私の推測のほうが正しいのではないかと思います。

もしそうだとすれば、グローバル化や、その文化面の現れである英語化は、経済成長にも社会の活性化にもつながらない愚行なのではないかなと考えざるを得ません。

必要なのは、「グローバル化」ではなく、「国際化」なのではないかと思います。
(「グローバル化」と「国際化」の違いについては、以下をご覧ください。)
施「脱・グローバル化の世界構想を」(『産経新聞』2019年10月2日付)
https://special.sankei.com/f/seiron/article/20191002/0001.html

また、目指すべき理想的な世界像とは、グローバル化を含む「帝国」路線ではなく、「多数の国々からなる世界」なのではないでしょうか。
(これについては、以下をご覧ください。)
施「なぜトランプ大統領は「知識人」に嫌われるのか」(『「新」経世済民新聞』2021年1月8日付)
https://38news.jp/politics/17397

https://38news.jp/economy/17668
44:777 :

2023/06/18 (Sun) 12:23:04

2021年09月03日
黒くなるイギリス人 / 歴史の書き換えが文化となる
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68869749.html
深まる国民の分裂

Klaus Schwab 7721(左 / クラウス・シュワブ )

  最近、アメリカに関する報道の中で、「World Economic Forum」の創設者であるクラウス・シュワブ(Klaus Schwab)が提唱する「グレイト・リセット(Great Reset)」をよく耳にする。これは西歐世界の有力者が従来の枠組みを破壊して、新たな枠組み(paradigm)を築き上げようとする壮大な計画だ。日本や歐米諸国の正常な国民、すなわち先祖伝来の生活様式を守り、子孫へ残すことを義務と感じる保守的な人々からすれば、常識外れの“とんでもない”暴挙に思える。ところが、国際金融を裏で動かし、世界市場の将来を決めるグローバリストにとったら、低賃金労働者の移動を阻む国境や、不合理としか思えない各地の商慣習、外国人を戸惑わせるだけの固有文化などは、目の前の利益を妨げる障碍物(impediment)でしかない。ゆえに、こうした“悪弊”は除去すべし、というのが帝国主義者の意向だ。

  グローバリズムの推進者にとって、忌々しく“厄介な問題”とは何か? それは、国境を跨いだマネー・ゲームに刃向かうナショナリストの防衛本能である。例えば、自国の産業と雇用を守ろうとする国益派の政権や、食品の安全性を確保しようとする消費者支援団体、国際企業の森林伐採に反対する環境保護の活動家、労働移民を排斥する民族政党などは、巨額の利権を貪るグローバル企業にとって目障りな存在だ。たいていの場合、こうした邪魔者は政治的圧力で潰される。例えば、遺伝子ワクチンに疑問を呈する者は社会的に抹殺されか、YouTubeやフェイスブックの閉鎖で泣いてしまうだろう。雑誌や新聞だと「広告剝がし」という制裁が恐ろしい。グーグルとかアマゾン、モンサント、ファイザー、ゴールドマン・サックスなどにとって都合のいい国家とは、多国籍企業に靡く政権と従順で勤勉な大衆が存在する弱小国である。

  とにかく、外国勢力にっとて最も大切なのは、国内の一致団結を崩す分断作戦だ。もしも、現地の民衆が外人の搾取に気がつき、挙国一致の体制で反撃に出れば非常に厄介である。「分断して統治せよ ! (Divide and Rule !)」は侵掠者の定跡だ。日本が脆いのに滅びないのは、皇室という「核」が存在するからで、いくら支那人やロシア人が日本を支配しようとしても、国民を束ねる皇室があると簡単には実行できない。だから、日本を植民地にしたい北京政府は、合法的に皇室を滅ぼし、日本人をバラバラにしようと考える。その一つが支那移民の輸出で、大量の支那人を日本に送り込めば、合法的な選挙で政権を握ることが出来るし、多数決の原理で皇室の廃絶も可能である。

  たとえ一気に撲滅できなくても、真綿で首を締め付けるように皇室予算を徐々に少なくすれば、皇族は精神的に苦しむだろう。それに、週刊誌を使って皇族のスキャンダルをもでっち上げれば、アホな国民は皇族に反感を抱き、皇室を「無用の長物」と考えるようになる。こうした陰謀と並行して、帰化制度を緩和し、何十万人もの支那人を「日本国民」に変換できれば、北京政府の日本支配は容易になる。もし、帰化支那人が日本社会で確固とした地位を築き、政治献金で与党を牛耳れば、後は「棚からぼた餅」を待つだけでいい。日系日本人は数が多いだけのマイノリティーとなり、支那人にこき使われるだけのネイティヴ・ジャパニーズとなる。創価学会は帰化支那人の新規会員が増えるから大喜びかも。帰化鮮人の企業については以前、当ブログで紹介したからここでは省略する。

  歐米諸国では既に多民族主義で昔ながらの社会が麻の如く乱れている。昔は「国民の一体感」とか「君民の紐帯」があったけど、有色移民の大量流入で霧のように薄くなってしまった。アジアやアフリカ諸国に「コモンウェルス(Commonwealth)」を形成したブリテン王国は、元植民地を手放すのが惜しくなって、第二次世界大戦後、被支配者である現地人の移住を許してしまった。1950年代、カリブ海から黒人移民を乗せてきた「エンパイア・ウィンドラッシュ(Empire Windrush)」号の話は有名で、まだ白人社会を“当然”と思っていたイギリス人は、船上のジャマイカ人を見てビックリ。異質な黒人が船から降りてきて、自宅の近所にあるアパートメントに棲み着いたんだから無理もない。

Windrush 11Windrush 221

( 写真 / 「エンパイア・ウィンドラシュ」号でやって来たジャマイカ移民)

こうした黒いエイリアンは、様々な職場に現れ、子供が通う学校でも見かけるようになった。それゆえ、温厚なイギリス人でも眉を顰めたし、正直な中流階級は遠慮なく反対意見を表明した。特に、有色人種と接する機会が多く、賃金低下に直面した白人労働者は憤慨し、彼らの多くが保守党のイノック・パウェル(Enoch Powell)に希望を託した。知性と勇気を兼ね備えるパウェルは、このまま有色移民が増え続けると、いつか将来、流血の事態が起きるだろうと予言した。そして、彼の懸念は的中し、イングランド国内で人種対立が勃発する。ロンドンではムスリムによるテロ事件すら発生したのだから、移民を受け容れた議員は切腹ものだろう。

  ところが、教養階級のイギリス人、とりわけ大学教育を受けた上層中流階級、高額所得のビジネスマン、特殊技術を身につけた専門職、中央官僚、国会議員、リベラル教師などは、悉く多民族・多文化主義に賛成なのだ。たとえ、イングランドの街中でパキ人やインド人、アラブ人、トルコ人、ケニア人、モロッコ人、クルド人、支那人などが闊歩していても知らん顔。ロッチデールやバーミンガムがバグダッドやカイロのようになっても平気だし、労働者階級の白人娘が、中東アジア人に輪姦されても騒がない。警察署のお偉方も人種差別の嫌疑を懼れているから、トルコ人やアラブ人の性犯罪を「普通の事件」と見なしている。

  レイシズムの呪縛は国家の指導層を麻痺させている。オックスフォード大学やケムブリッジ大学、イートン校やラグビー校を出たエリート国民なら、イングランドがアングル人やザクセン人の王国で、サセックスやウェセックスにはゲルマン人が定住した、という歴史くらい分かっているはず。しかし、彼らは左翼教育に染まったせいか、ブリテン島がオスマントルコの属州だった、と教えられても逆らうことはない。昔のイギリス人やスコット人なら、サラセン人やムーア人がポーツマスやヘイスティングスに上陸すれば、「祖国を守れ !」と仲間に呼びかけ、父から受け継いだ剣を握って出陣したものだが、今じゃ、旅館の小僧みたいに「ウェルカム !」と述べて頭(こうべ)を垂れている。ホレイショ・ネルソン提督が蘇ったら、もう一度墓場に戻ってしまうだろう。

Joseph Goebbels 001(左 / ヨゼフ・ゲッベルス )
  政治プロパガンダというのは、民衆に気づかれず、それとなく実行するもので、ナチ・ドイツのようにプロパンダ省(Reichs ministerium für Volksaufklärung und Propaganda)を堂々と創設するなんて愚の骨頂だ。陰謀の天才、暗闇の悪魔たる支那人なら絶対にやらない下策である。ユダヤ人は宣伝大臣のヨゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)を蛇蝎の如く憎み、ナチスの反ユダヤ主義を糾弾するが、ユダヤ人の方がヒトラーやケッベルスよりも数万倍、否、数億倍も狡猾である。なぜなら、ユダヤ人は決して表の組織を作らないからだ。彼らは巨額な資金を以てコソコソと動く。しかも、大金持ちの投資家や映画会社の重役が、自発的かつ献身的に活動するんだから凄い。筋金入りのシオニストでなくても、ユダヤ人は無意識的に同胞の利益と安全を図っている。ある者は個人的な怨みを抱いて反ゲルマン主義者になっているし、別の者は仲間からの称讃を得たいと思って大金を出す。米国に住むユダヤ人は、イスラエルに戻らないことに「罪悪感」を覚えるので、イスラエルのユダヤ人以上にシオニズムの礼讃者となる。KISSのジーン・シモンズは熱心なシオニストだが、やはり異教徒が住むアメリカを離れたくないそうだ。

  ブリテンに棲み着くユダヤ人は、現地のアングロ・サクソン人を洗脳するため、政界や財界ばかりでなく、教育界や藝能・メディア界にも浸透し、反ユダヤ主義は「絶対悪」と決めつけ、民族主義や優生思想は「けしからん」と吹聴する。なぜなら、イングランドやスコットランドのアングロ・サクソン人やケルト人、アイリス人、ウェイル人、西歐系帰化人がユダヤ人の害悪に勘づき、一致団結して排斥しようと蹶起(けっき)すれば、ユダヤ人にとって最大の恐怖になるからだ。一般のイギリス人は決して口にしないけど、露骨な国粋主義者だと正直に「イギリス人のためのイングランド(England for the English.)」と述べてしまう。もっと筋金入りの愛国者になれば、「メリー・イングランド(Marry England)」を求めてしまうし、祖国を「ユダヤ人の国(Judenland)」に変えることに猛反対となる。ユダヤ人を追放したエドワード1世はイングランドの英雄だ。

  “良心的”という言葉を愛する赤い白人や、リベラル思想にかぶれた“なんちゃって左翼”は、大学に潜むマルキスト教授を怪しまず、むしろ、彼らの説教をみんなで称讃したりする。これらのエセ・インテリはシェリー(Percy Bysshe Shelley)やポープ(Alexander Pope)の詩を口ずさんで教養人を気取っているが、エンターテイメント業界が垂れ流す反英プロパガンダには目もくれず、「下層民の娯楽だろう」と言って蔑む。でも、時折、自宅でこっそりと低俗な映画を楽しみ、いつの間にか洗脳されていたりする。彼らはアングリカン教会が腐敗しても、祖先から受け継いだ倫理道徳を馬鹿にされても怒らない。ブリテンのTVドラマでは、同性愛者や変態のキャラクターが跋扈し、卑猥で下品な藝人が毎日のように出ている。ドラマの配役でも多民族主義が横行し、どの作品にも必ず黒人やインド人、アフブ系やパキスタン系のムスリムが登場するんだから、観ていて厭になる。脚本だって「無理矢理」といったストーリー展開だ。

  民衆の意識を変革するには、学術書や教科書ではなく、映画やTVドラマが一番いい。何しろ、民衆が自発的に吸収してくれる訳だから、制作者は思いのままに特殊なイデオロギーを注入できる。最近のTVドラマは特に悪質で、それとなく歴史の捏造が行われているから怖い。例えば、2009年に「BBC One」で放送された『ロビン・フッド(Robin Hood)』には、戦闘的司祭の「タック(Tuck)」という修道士が登場するんだけど、そのキャラクターを演じるのが黒人俳優のデイヴィッド・ヘアウッド(David Harewood)。そりゃあ、古代や中世には北アフリカ出身の修道士がいたけど、イングランドを舞台にする「ロビン・フッド」の物語に相応しいとは思えない。どうしても外人の役者にしたいのであれば、デンマークやスカンジナヴィアからのゲルマン系男優でいいじゃないか。

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(左 : デイヴィッド・ヘアウッド / 中央 : エンジェル・コールビー / 右 : 『マーリン』に出演したコールビー )

  「BBC One」は2008年から2012年にかけて『魔術師マーリン(Merlin)』を放送した。ところが、ここにも奇妙な配役があり、侍女からキャメロットの王妃になる「グウェン(グィネヴィア / Guinevere)」に問題があった。このキャラクターを演じたのは、これまた非白人のエンジェル・コールビー(Angel Coulby)という女優である。どうしてアーサー王伝説のドラマなのに、わざわざガイアナ(Guyana)系の南米人を採用したのか? ブリテンには実力と美貌を兼ね備えた女優が結構いるのに、どうして西歐系女優を斥けて、非西歐系の役者を用いたのか? ネーデルラントかアイルランドの白人女優じゃ駄目なのか?

  歴史ドラマの変質は他にも例がある。2012年から「BBC Two」が放送している連続ドラマ、『ホロウ・クラウン / 嘆きの王冠(The Hollow Crown)』は、リチャード2世、ヘンリー4世、ヘンリー5世、ヘンリー6世、リチャード3世の各時代を描いて話題となった。2016年に放送された「ヘンリー6世 / Part 1」では、フランス出身の王妃で知られるマーガレット・オブ・アンジュー(Margaret of Anjou)」が登場するんだけど、この役を、何と黒人女優のソフィー・オコネドー(Sophie Okonedo)が演じているのだ。こんなキャスティングを目にすれば、日本人でもビックリして「えぇぇぇ~ !!!」と悲鳴を上げてしまうだろう。だが、制作者の顔ぶれを眺めてみれば、「なるほどねぇ~」と納得できる。

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(左 : ソフィー・オコネドー / 王妃に扮したオコネドー / 「マーガレット・オブ・アンジュー」の肖像画 / 右 : サム・メンデス )

  このドラマを手掛けたのは、あの有名なサム・メンデス(Samuel Alexander Mendes)監督だ。彼の父親はポルトガル系のカトリック信徒であるが、母親はイングランドのユダヤ人。歐米社会に棲み着くユダヤ人には、ヨーロッパ人みたいな顔つきの人がいるけど、よくよく両親の素性を調べてみると、父方か母方のどちらかにユダヤ人がいたりする。肉体はヨーロッパ人てきでも、その精神はセム人という左翼がいるから、一般の視聴者は注意しなければならない。サム・メンデスは日本人にもよく知られており、007シリーズのヒット作『スカイフォール(Skyfall)』や『スペクター(Spectre)』の監督でもあった。さらに、メンデスは『タイタニック』で人気女優となったケイト・ウィンスレット(Kate Winslet)の元亭主。今は別の女性と再婚している。映画監督が女優に手を附けることは「よくあること」で、日本の映画界も同じだ。関根惠子(現 / 高橋惠子)と結婚した高橋伴明や、岩下志麻を娶った篠田正浩のような監督を思い出せば分かるだろう。

  『嘆きの王冠』よりも更に酷いのは、Netflixが世に送り出した『ブリジャートン(Bridgerton)』という時代劇だ。これはジュリア・クウィン(Julia Quinn)の小説を基にしたTVドラマで、時代設定は1813年のロンドンとなっている。名門貴族のブリジャートン家には八人の兄弟がいて、ドラマの中では各人の恋愛や私生活が描かれているんだけど、アメリカの白人視聴者は、物語の複雑な展開よりも、キャスティングの“多様性”の方に目が向いてしまうのだ。もう、偶然なのか意図的なのか判らないけど、とにかく役者の選択がおぞましい。

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(左 : アジョア・アンドゥー / イギリス貴族に扮したアンドゥー / ルビー・バーカー / 右 : ゴルダ・ロシューヴェル )

  例えば、「ダンベリー夫人(Lady Dubury)」役をアジョア・アンドゥー(Adjoa Andoh)が演じているし、「マリーナ・トンプソン(Marina Thompson)」役はルビー・バーカー(Ruby Barker)、「ヘイスティングス公爵サイモン・バセット(Duke of Hastings Simon Basset)」の役はレジィ・ジャン・ペイジ(Regè-Jean Page)、その恋人「ダフネ・バセット(Daphne Bassett)」役を演じるのは白人女優のフィービー・ディネヴァー(Phoebe Dynevor)である。曰く附きの「シャーロット王妃(Queen Charlotte)」は、黒人女優のゴルダ・ロシューヴェル(Golda Rosheuvel)が演じていた。脇役も人種的多様性に富んでおり、「ウィル・モンドリッチ」というボクサー役をマーティンズ・インハンベ(Martins Imhangbe)が演じ、「ジェネヴィエール・デラクロワ(Geneviere Delacroix)」役をキャサリン・ドライズデイル(Kathryn Drysdale)が演じているんだから、目眩がしてもおかしくはない。

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( 左 : フィービー・ディネヴァー / レジィ・ジャン・ペイジ / マーティンズ・インハンベ / 右 : キャサリン・ドライズデイル )

  まともな神経を持つ日本人なら、『ブリジャートン』を観て呆れ返ってしまうけど、これを手掛けた制作者を調べてみれば、「まっ、しょうがないか !」と諦めがつく。何しろ、エグゼクティヴ・プロデューサーが、札附きの極左黒人、ションダ・ライムズ(Shonda Rhimes)なんだから。一応、彼女はヒット作の『Grey's Anatomy』や『Private Practice』、『Scandal』を手掛けた敏腕プロデューサーなんだけど、その精神は典型的なマルキスト黒人だ。ライムズは政治活動にも熱心で、下層国民に投票を呼びかけ、黒人を扇動して投票所に向かわせる政治団体、「When We All Vote」の要職に就いている。この団体を創設したのは、ホワイトハウスを去ったミッシェル・オバマで、支援者リストにはトム・ハンクス(Tom Hanks)のような左翼俳優がゾロゾロ名を連ねている。

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(左 : ドラマで共演したレジィ・ジャン・ペイジとフィービー・ディネヴァー / 中央 : ションダ・ライムズ / 右 : ミッシェル・オバマ )

  後から協力者になった藝人も数多く、2020年の大統領選挙の時には、朝鮮系女優のサンドラ・オー(Sandra Oh)やユダヤ人コメディアンのラリー・デイヴィス(Larry Davis)、ヒップホップMCのスヌープ・ドッグ(Snoop Dogg)などが駆けつけていた。『グレイズ・アナトミー』に出ていたサンドラ・オーは、ライムズに媚びていたのかも知れないが、こんなアジア人が「人気女優」なんて未だに信じられない。ハリウッドの制作陣やショウビズ評論家は、矢鱈とアジア系の俳優を持ち上げるが、支那系や朝鮮系の女優が本当に西歐人から評価されているのか? もし、彼女達が本当にビッグ・スターなら、日本でも写真集が発売されたり、化粧品会社のモデルに採用されるはずなんだけど、一向にそうした報道は聞いたことがない。昔、芳賀書店がファラー・フォセットやシェリル・ラッド、ナタリー・ドロン、ロミー・シュナイダーの写真集を発売していたけど、アジア系女優の写真集なんて滅多に無かったぞ。

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(左 : ファラー・フォセット / サンドラ・オー / ラリー・デイヴィス / 右 : スヌープ・ドッグ )

Carolyn Hinds 022(左 / キャロリン・ヒンズ )
  「嘘」や「ゴリ押し」を嫌う日本人なら、英米の白人視聴者がどう評価しているのか知りたいだろう。しかし、人種論を敬遠するイギリス人やアメリカ人が本音を語ることはない。たとえ、彼らに意見を尋ねても、建前の感想述べるだけで、黒人から批判されそうな本音は決して口にしないのだ。一方、有色人種の評論家は『ブリジャートン』を高く評価している。例えば、映画評論家のキャロリン・ヒンズ(Carolyn Hinds)は、イギリス貴族を描いた時代劇に黒人役者を抜擢した事に大感激。(Carolyn Hinds, "Bridgerton Sees Race Through a Colorist Lens", Observer, 1 January 2021.) 普通の英国ドラマなら、黒人はチョイ役かセリフの少ない脇役程度だ。従来のTVドラマなら、物語の主人公や重要な登場人物は必ず白人で、黒人が主要キャラクターに採用されることは決して無かった。ましてや、巨額な予算をかけて制作されるメジャーなドラマとなれば、有色人種が脚光を浴びることはまず有り得ない。だから、ヒンズは『ブリジャートン』に感激し、毎回、番組を楽しんで観ていた。筆者は一般のアングロ・サクソン系視聴者、あるいはスコット系かアイリス系のブリテン人がどう思っていたのかを知りたい。

  日本の一般視聴者は『ブリジャートン』をNetflixで観ても、ちょっと不思議な海外ドラマとしか思わないが、こうした作品をたくさん観ているイギリス人は、知らず知らずのうちに多民族主義を植え付けられている。若い世代ほど有色移民に対する拒絶反応が少ないのは、幼い頃から多民族教育で調教されているからだ。確かに、物心つく頃から、学校に違った容姿の友達が居て、就職する年齢になれば、職場にインド人やアラブ人、黒人、支那人がウジャウジャ居るんだから、人種の違いに鈍感になっても当然である。イギリス人が主流だった1950年代の社会を知っている高齢者だけが、イングランドの変貌に驚愕し、異邦人の浸透に不満を募らせている。

  しかし、老人の余生は短く、大した権力も無いから、没落する祖国を黙って見守ることしかできない。70歳代や80歳代の高齢者は、幼い時に愛国心を発揮して戦場へ向かった大人達を覚えているから、イングランドの衰亡に心を痛めている。ブリテン軍の将兵は祖国を守るため、歐洲随一の軍隊を誇るドイツと闘い、やっとの思いで勝利を摑んだ。ところが、勝利の果実は意外と少なく、帰還した兵卒は貧乏くじを引いた気分であったという。国家総力戦で良質なイギリス人が死んで、不愉快な外国人が増えたんだから、生き残ったイギリス人は堪ったもんじゃない。疲弊した祖国には、ポーランドからの亡命軍人が残留し、穢らわしいユダヤ難民が押し寄せてきた。さらに、求めてもいないジャマイカ人やインド人も続々と入ってきたから、貧乏になったイギリス人がナチズムに共感を抱いても当然だ。実際、ブリテンには社会主義者が多いし、国家と民族を優先するナショナリストが多い。ナチ・ドイツは労働者を主体とした平等社会を目指したが、イングランドは依然として階級社会だから、どちらが白人労働者にとって理想郷なのか迷ってしまうだろう。

  第二次世界大戦の勝者たるブリテンとアメリカでは、異人種の流入で社会が分断されている。しかし、やがて日本でも似たような惨劇が起きるに違いない。もし、日本の時代劇で支那人や朝鮮人の役者が横行し、ベトナム人やフィリピン人の役者が戦国大名や剣豪を演じたら、日系日本人は本当に厭になる。織田信長を支那人が、豊臣秀吉を朝鮮人、徳川家康をベトナム人が演じたら、日系人の視聴者はどう思うのか? また、日露戦争を題材にした大河ドラマで、乃木大将や東郷元帥の役をフィリピン人やタイ人の俳優が演じたら、テレビに向かって石を投げつけたくなる。さすがに、明治天皇や昭和天皇の役にインド人やトルコ人の俳優を起用することはないだろうが、帰化支那人の子供か日鮮混血児の役者なら、NHKで抜擢される可能性はかなり高い。むしろ、積極的に採用されるんじゃないか。

  そう言えば、昭和32年に『明治天皇と日露戦争』という映画が制作されたけど、畏れ多い明治天皇の役には、嵐勘寿郎(あらし・かんじゅうろう / アラカン)が抜擢された。当時、誰も天皇陛下を演じたことがなかったから、大御所のアラカンも緊張して演じたらしい。アラカン本人と制作陣は冷や汗ものだったというが、現在の映画監督や配給会社には、こうした畏敬の念は無いだろう。ただし、いくら反日のNHKでも、明治天皇や昭和天皇の役にボビー・オロゴンとか河本準一を起用することはあるまい。たぶん、あと20年くらいは日系人が主体のドラマが続くと思うんだけど、希望的観測は外れることが多いよねぇ~。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68869749.html
45:777 :

2023/06/30 (Fri) 11:30:26

オーストラリア人口の51%が移民になり国を出ていく白人たち
2023.06.30
https://www.thutmosev.com/archives/282185vs.html

シドニーのチャイナタウン


画像引用:https://en.wikipedia.org/wiki/Chinatown,_Sydney Chinatown, Sydney – Wikipedia
関連動画が記事下にあります

すさまじい速度で人種交代

オーストラリアは移民に寛容な国で日本から留学や移住する人も多く、実際に年25万人もの移民を受け入れています(2017年から21年平均)

これはコロナで移民が減少した期間が含まれていて22年以降は毎年30万人以上、移民は平均年齢が若く出生率も高いので、移民が35万人だと人口を年50万人増やすと言われています

2000年に約2000万人だったオーストラリアの人口は20年に2500万人、さらに2033年には3000万人、その後10年ごとに500万人づつ増えるという予想もされています

移民政策を続けるのが条件で年間30万人から40万人の移民を受け入れると移民が子供を産むことで年50万人ほど人口が増えるそうです

こうして20年ほど前に遅れた不況の国だったオーストラリアは資源ブームもあって超好景気の国になり、外からはとても魅力的な国に見えています

だがこの数年オーストラリアの現状に絶望して外国に移住する人が増えていて、従来の国民だった白人が国外脱出しています


オーストラリアは建国以来白豪主義で知られていて南アフリカのアパルトヘイトよりマシだが、移民は白人に限るという政策をやっていました

だが最新の調査によると総人口約2,550万人のうち自身か親が外国出身の割合が51%に達し、国民の過半数が移民になりました

2016年の統計では移民数691万人(期間は不明)の出身地はイングランドとニュージーランドが157万人(約23%)で他はアジアやアフリカからなので移民の78%が非白人だったと思われます

ウィキペディアにはオーストラリア人口の92%が白人と書かれているがそれは過去の話で首都シドニーはアジア人だけで約30%、白人比率は50%を切ろうとしています

欧米やオーストラリアでアジア人への暴力などが話題になるがそうした問題が起きるのは例外なくアジア人が急増して白人が急激に減少している地域です

例えば日本に毎年100万人の中国人や韓国人が移民して日本人が少数人種になっているとしたら、文句のひとつも言いたくなるのは自然です


弥生時代の50倍の速度で移民増加
日本では縄文末期(約3000年前)から弥生時代にかけて渡来人が移住して縄文人と合流して弥生人になり最終的にヤマト人種になるという人種の変化がありました

移住してきた渡来人は数十万人に達し縄文末期の人口は8万人だったので、そこに数十万人の渡来人がやってきたという教育を受けた人も居ると思います

だが渡来は1000年以上の期間続いたので1年1000人として1000年で100万人、それでは多すぎるのでせいぜい年数百人の渡来だったと推測されます

実態としては年間百人程度の渡来人が九州や大阪に移住してきて、従来の縄文人や弥生人と合流していったというのが縄文末期から弥生時代の渡来でした

オーストラリアの場合たった20年で人口の50%が移民になった訳で速度は弥生時代の50倍速、このペースだともう20年で人口の多くが移民系に入れ替わります

これほど早いと変化に適応できない人や拒絶する人も出て来るわけで、オーストラリアやドイツから国外に移住する白人が多い


ドイツでは最近新生児の50%が移民系になり10歳以下の子供の40%が移民系、全国民の25%以上が移民系になったと発表されました

メルケルと政府は「大成功した」ともっと移民を増やしていますが、そんな自国に嫌気が差したドイツ”先住民”数百万人がドイツ以外の国に移住し、ドイツの移民比率はさらに上昇しました

1980年代前半に移民はゼロだったがベルリンの壁崩壊、東西統一とEU成立で移民が自由に入国できるようになり今やドイツの全住人の30%近くが移民になった

2011年9月から2017年9月までの6年間にドイツ人は84.6万人減少、外国人は328.1万人増加だったがドイツ国籍取得した移民がかなり居たのに総人口はほとんど増えていません

それだけ従来ドイツに住んでいたドイツ人が外国に移住したという事で、ドイツや北欧では「移民を禁止するべきだ」と言っただけで良くて公職追放、悪ければ刑務所に入れられます

オーストラリアでも同じ事が起きていて、「祖国が破壊されるのを見たくない」という理由で欧米諸国や東南アジアや日本に移住を希望する人が増えています

日本で移民が多数になって神社や寺が壊されて外国の宗教に建て替えられているような現象が、移民が多い欧米社会で起きています

オーストラリアでは白人は 92%を占めていたのに今後1世代で少数派になろうとしているので危機感や反発も強い
https://www.youtube.com/watch?v=lcb1u_dxDhs

https://www.thutmosev.com/archives/282185vs.html
46:777 :

2023/07/04 (Tue) 03:55:13

ファシズムとは巨大資本が支配する 統制経済の事
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14125646
47:777 :

2023/07/19 (Wed) 08:48:26

【ch桜北海道】移民、難民!欧州の例から考える。日本では クルド人問題が![R5/7/18]
https://www.youtube.com/watch?v=HOnOWDfXXjM
48:777 :

2023/09/03 (Sun) 18:24:20

移民を受け入れる側と移民する側の論理
2023.09.03
https://www.thutmosev.com/archives/295318fg.html

貧困国からカナダに移住しただけで、母国で特権階級なみの権利を得られる


https://wusc.ca/fr/accueil-de-notre-2-000e-refugie-au-canada-dans-le-cadre-du-per/

関連動画が記事下にあります

双方にメリットがあるので移民が増えた

カナダはトルドー首相が就任する前人口3600万人だったが23年は4000万人、22年は100万人以上の移民や難民や労働者などを受け入れた

ドイツは1980年の移民はほぼゼロだったが22年の新生児は移民のほうが『先住民』を上回り近い将来全人口の過半数が移民の子孫になる

オーストラリアは数年前まで白人以外の移民を制限していたが自由化され、現在は人口の過半数が移民1世、オーストラリアで生まれた子孫を含めると6割以上が最近の移民だった

オーストラリアはもともと白人移民の国だったが2000年代以降アジアからの移民が急増し、将来アジア系が多数人種になるでしょう

北欧の移民割合は2割程度でフランスは10%でイギリス14%とイメージ程高くないが、移民を奨励しているので今後急増する可能性が高いです

移民を受け入れる国の立場は人種の平等や自由というのは建前で、少子化を移民で補って人口減少を遅らせようとしています

アメリカなどで移民を受け入れる事で経済成長したというデータがあるので、経済政策として移民を受けいれて各国は成功してきた

実際にカナダやオーストラリアやドイツは2010年代を通じて移民が少なかった国より人口が増え、経済成長率も高かった

オーストラリアの2019年までの成長率は2%台、ドイツも2%台でカナダも2%台が多かったがこの期間日本は「ゼロ%台」だった

移民政策の正しさを説明する説得力のある材料が日本で、「移民を受け入れないと日本のように衰退する」というのは説得力があった

ここまでは良い事づくめだったが2020年の新型コロナ流行以降は移民による経済効果はコロナの打撃で打ち消されて見えなくなってしまった

さらにコロナによる治安悪化に移民増加が輪をかけてしまい、移民は経済に悪影響を与えるし治安も悪化させるという主張が説得力を持つようになった

移民する側の論理
実際にカナダに移民して定住している人は(出身地などは不明)、ネットで移民する動機やメリットを次のように説明した

母国では、政府について否定的な発言を始めると実際に刑務所に入れられる(数日前サウジアラビアで政府批判をツイートした教師に死刑判決が出た)

由に自分を表現することが許されていることは幸せなことだがカナダ人は自分がどれほど幸運か気づいていない

出身地では食の安全は極めて悪く、水は汚れ空気は汚染されているが、カナダではそれらはほとんど無料か低コストで得られる

出身地の夏は、晴天だと35℃以上で湿度が高く40℃以上になることもあるがバンクーバーは20度以下で過ごしやすい

カナダでは教育が無料で英語を学ばせるのにも役立ち、他の先進国の最も裕福な雇用市場に参入できる機会を得られる

カナダは言論の自由があり、NATOに守られた安全な国であり世界最強の米軍が隣接しアメリカと同盟国で友好国

カナダ市民権を取得するとビザなしで多くの国に旅行でき、いつでもどこでも好きなときに行きたい国に行ける特権を持てる

稼いだお金を安全な銀行に預けることができるが、母国では政府はいつでも人々の資産を凍結することができる

どうもアフリカか中米の独裁国家出身移民の気がしますが、そうした国の出身者にとってはカナダで保障される最低限の権利すら雲上界に見える

この人も書いているがカナダに移住する第三世界の人はカナダが目的地ではなく通過点で、アメリカや欧州の『一流の国』に移住したいと考えている

年間カナダからアメリカに49,000人移住するがアメリカからカナダには10,400人しか移住しておらず、移民たちはカナダで無料教育を受けてアメリカに進学したり欧米で就職している

カナダは貧困国のための無料留学所になっていて、優秀な人はカナダから出ていきアメリカで通用しない人材だけがカナダに残っています


カナダは年間数万人も難民を受け入れていて難民収容所に入れるのは半数で、 溢れた半数はホームレスになる
https://www.youtube.com/watch?v=cNUxYurCm64

https://www.thutmosev.com/archives/295318fg.html
49:777 :

2023/10/26 (Thu) 07:40:42

特番『9ヶ月18か国!現地取材「移民」、「民族」、「格差」−−−暴動と社会分断の必然』ゲスト:著作家 宇山卓栄氏
2023/10/25
https://www.youtube.com/watch?v=Dj1b2bQjjWo

ゲスト:著作家 宇山卓栄氏
司会:松田政策研究所 代表 松田学


宇山卓栄 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%AE%87%E5%B1%B1%E5%8D%93%E6%A0%84&sp=CAI%253D


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宇山 卓栄(うやま たくえい、1975年 - )は、日本の著作家。


1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、代々木ゼミナール世界史科講師を勤める[1]。

著作
『民族と文明で読み解く大アジア史』2022年 講談社
『「宗教」で読み解く世界史 : 教養として知っておきたい』2020年 日本実業出版社
『「王室」で読み解く世界史 : 教養として知っておきたい』2020年 日本実業出版社
『韓国暴政史 : 「文在寅」現象を生み出す社会と民族』2019年 扶桑社
『世界史で読み解く「天皇ブランド」 : 国際教養が身につく「21世紀の君主論」』2019年 悟空出版

人物
教師の傍ら著作を行い。テレビ、ラジオ、 雑誌、ネットなど各メディアで、時事問題を歴史の視点で解説を行っている。2022年、北米・中南米を9か月旅行し実地調査を行う[2]。
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%AE%87%E5%B1%B1%E5%8D%93%E6%A0%84&sp=CAI%253D
50:777 :

2024/03/25 (Mon) 10:44:45

移民を大量に受け入れている国に移住しても生活できない
2024.03.25
https://www.thutmosev.com/archives/34105.html

良い職業はその国で生まれた人が就いているので、移民は低賃金職業を移民同士で奪い合う(カナダの不法移民)


https://jp.reuters.com/article/idUSKBN2Z707T/ アングル:移民受け入れ拡大のカナダ、経済繁栄は「蜃気楼」か _ ロイター
移民を受け入れるだけで面倒は見ない

2023年にマスコミが喜んで取り上げていたネタが「日本は貧しい。そうだ豊かな国で働こう、日本で働いてる奴はバカだ」というものでした

この手のニュースによると大体おすすめはカナダ、アメリカ、オーストラリアの3か国でシンガポールやドバイや北欧といったパターンもあります

この手の記事は各国の良い部分だけをつまみ食いしていて、例えばフランスは子育てが無料で北欧は医療費が無料、アメリカは自由の国でカナダは移民を歓迎しているという具合です

各国の良い部分だけをつまんで合成したら理想の国になりますが、現実にそういう国は地球に存在していません

マスコミがお勧めするカナダ、アメリカ、オーストラリアのビッグ3は年間に移民を100万人以上受け入れていて、移民すると大歓迎されると言っています

彼らの話をうのみにすると現地語を満足に喋れなくて未経験でも時給3000円以上の働き口が簡単に見つかり、日給2万円月給50万円を楽に稼げるそうです

現実はどうかというと海外で出稼ぎのような事を目的に3か国に移住した人のほとんどが失敗していて、現地の貧困者になるか諦めて帰国しています

年間100万人も移民を受け入れているような国は考えたら分かると思いますが「受け入れているだけで面倒は見ていない」から受け入れられます

もし日本政府が年間100万人のクルド人やベトナム人を受け入れたとしたら、きっと受け入れるだけで生活の面倒は見ない筈です

大量に押し寄せた移民は良くて低賃金労働者になるが悪ければ失業した路上生活者になり、政府は路上に転落した移民を助けたりしません

ニューヨークには1年で10万人も自称「難民」がやってくるが実際は違法に入国して難民申請をしただけなので難民ではなく、処分待ちの不法入国者に過ぎません

カナダにも移民の路上生活者が暮す一角があるが、政府は移民を受け入れるだけ受け入れてほったらかすのでどうしても競争に負けて路上に出る人がいます

移民国家は人口バブルで資産バブルを起こしている
オーストラリアにホームレスのイメージは無いが実際には人口2600万人なのに10万人のホームレスが存在し、路上生活をする人も多い

こうした移民大国は日本を考えればすぐ分かると思いますが「良い仕事」はその国で生まれた人が独占し、移民や外国人に与えられるのは「良くない仕事」です

アメリカではタクシー運転手やウーバータクシーは移民の仕事とされていて、それは低賃金長時間労働で時給が低く使い捨てだからです

毎年加わる移民100万人はその国で生まれた人と公平に扱われるのではなく、移民は「移民枠」のなかで移民同士で競争して仕事を得なくてはならない

移民に与えられる職業はだいたい飲食業や清掃や自国民が避けるような職業で、そういう仕事でも移民同士の競争で勝ち抜いた人だけが就けるのです

なのでその国の時給が3000円だったとしてももっと安い時給で働くか、失業するかという選択を多くの移民は迫られます

賃金が高い国に出稼ぎ移住してもその国の平均時給を得られない可能性が高いが、一方で生活費の高さは全員に平等に降りかかります

何しろ毎年100万人も移民や留学生や不法入国者が押し寄せるので、毎年家賃が上昇し安い物件なんてものは無くなりました

これら移民大国の家賃はアパートを1人で借りると高額なので数人でハウスシェアしても家賃10万円以上、1部屋を数人でシェアするとその半分くらいになる

シェアルームで家賃を節約し食事は安い物を買って自炊すると節約できるが、仕事がなくてお金が出て行くだけという人が多い

移民や外国人が働ける求人には数百人もの応募があるので完全な人手余り、低賃金でも仕事には困らない日本とは真逆です

こういう移民大国は「押し寄せる移民によって家賃と地価が上昇」、「地価上昇によって資産バブル発生しGDP上昇」「1人当たりGDPや全体のGDPが上昇」という決まったパターンがある

日本に例えると毎年東京に100万人の移民を受け入れるのであらゆる家賃や地価が高騰しバブル経済になり、国全体のGDPが上昇するイメージです
https://www.thutmosev.com/archives/34105.html
51:777 :

2024/03/31 (Sun) 20:38:25

クリントン大統領がエリツィン時代のロシアでやった事

伊藤貫【真剣な雑談】 第17回「アメリカ外交の巨悪と中東の絶望!!!」[桜R6/3/30]
https://www.youtube.com/watch?v=fTXHt0irDKE

特番『伊藤貫先生登場!その1  ~ アメリカ政治の混乱、民主主義という政治イデオロギーの欠陥~』ゲスト:国際政治アナリスト 伊藤貫氏
2024/03/30
https://www.youtube.com/watch?v=QUPANdUBvUA

特番『伊藤貫先生登場! その2 ~冷戦後のアメリカ軍事外交政策の大失敗、今後の国際政治 構造の変化~』ゲスト:国際政治アナリスト 伊藤貫氏
2024/03/31
https://www.youtube.com/watch?v=Kh8-JFSx7So


▲△▽▼


ロシア 聖なる我等が国
ロシア 愛する我等が国
固き意志 偉大な栄光や
永久に汝が富ならん

   讃えよ我等が 自由なる祖国
   いざ集え 兄弟よ
   先人が知恵 我等がもとに
   讃えよ 汝が誇りを

新世紀を間近に控えた2000年。プーチン大統領は、それまでの愛国歌からソ連国歌のメロディーに変えました。

ソ連からの独立後のロシアには未来への希望が満ち溢れていました。共産主義の呪縛からの解放、独立、そして自由。しかしエリツィン政権のもとでは共産主義からは逃げられましたが、安定した生活は得られませんでした。そして独立を境にしロシアからは光が失われつつありました。ロシアの大国としての誇りが失われ、犯罪は多発し、誇りである軍隊はほぼ崩壊に近くなりました。

アメリカには頭が上がらなくなり、西欧との生活環境の落差は広がる一方。これらに追い討ちをかけたのが98年の経済危機。帝政ロシア、ソ連を通じ自らの経済を見つめてきた、またロシア人の誇りのルーブルが紙くず同然となりました。

ロシアの人々は現実に打ちのめされました。しかし。ロシアの人々はこんなことではへこたれません。・・ですが、やっぱり自分達の生活には限界が近づいてくるわけです。

エリツィンは何もせず酒ばかりのんでいる。国民の生活の不満は政治に向けられました。そんな中。1999年の大晦日。ロシアと全世界に衝撃が走りました。エリツィンが突如辞任したのです。

後任は元ペテルブルグ市長プーチン。名も知らぬ若き男に大国ロシアは委ねられたのです。国民はあまり期待をしませんでした。「エリツィンよかましなだけだろう」と。

しかし、そんな国民のさめた目を横目に、「強いロシア」を掲げた大統領は次々と改革を断行。経済はだんだんと回復。生活も苦しいながらも徐々に改善。なんと言っても「強いロシア」が現実に感じられるようになったのです。

もう昔の我々ではない。昔の栄光を取り戻そうじゃないか!

ロシアの人々は沸き立ちます。
http://www.medianetjapan.com/10/travel/vladimir/russian_house/russian_anthem.html



アメリカを心底恐怖させた国ソ連は消滅しました。この時、アメリカ政府は、今後のロシアをどのようにしたらいいだろうかと考えました。

 心優しい日本人であれば、「経済危機に陥っているロシアに支援を送る」とかなんとか善意に基づいた行動をとるでしょう。
 しかし、「普通の国」アメリカはもちろんそのようなことは考えない。これは当然、「ロシアが二度とアメリカに反抗できないよう、この国を破壊し尽くそう」と考えた。

 アメリカは国際通貨基金(IMF)を通して、ロシアに「改革のやり方」を伝授した
 まず「政府による経済管理の廃止」。貿易が自由化され、西側の優れた製品がロシア市場になだれ込み、ロシアの国内産業は壊滅した。

 次に「価格の全面自由化」。国内産業が駆逐され、輸入に頼るしかない状況で、ロシアの通貨ルーブルは急落し、国内はハイパーインフレーションに見舞われた。改革がスタートした92年のインフレ率はなんと2600%、GDP成長率はマイナス14.5%。ロシア経済はアメリカの思惑通り破綻した。

 さらに大規模な「民営化」。国有財産はそれを今、手元に持つ人の所有となった。アパートの住人は、アパートの所有者となった。そして国有石油会社のトップは、その会社をほとんど無料で手に入れた。ここから生まれた新興財閥はエリツィン政権に賄賂を送って、税金をほとんど免除してもらった。当然、国家財政は大幅な赤字に転落した。
http://www.asyura2.com/0502/war67/msg/218.html


ロシアと社会主義

11日に発表された、ロシアの世論調査機関が行った国民意識調査によると、ペレストロイカを失敗と見なした人が56%、「1985年以前の体制を続けていれば生活水準は良くなっていたはず」とした
人が48%、「ペレストロイカがなければ超大国の地位を維持できた」と答えた人は36%に上ったという。

一般の日本人から考えると信じられない数字かもしれない。
西側メディアのプロパガンダによって、旧ソ連も人たちも今の北朝鮮の人のような生活を送っていたと考える人が大半なようだが、実情はそんな悪いものではなかったと思う。

確かにモノ=商品は質が悪く、流通量も少なかったが、きちんと働いていれば、生活に困ることはなかったし、老後も安心して過ごせたのだ。病院も学校もタダだった。
今は、1割のお金がある人は良い生活を、残りの9割の人は食うや食わずで1日中働く。
男性の平均寿命を見ると面白い。
85年には63才ぐらいだったものが、10年後には55才を下回ってしまったのだ。

もともと社会主義は競争を否定し、(成長を犠牲にして)平等と共生を重視する理念だった。
しかし、冷戦構造に巻き込まれ、米国と真っ向から世界対立する路線を進んだために、資本主義と競争する羽目になり、戦時態勢をずっと続けるようなことになってしまった。
本来なら2次大戦が終わった時点で、軍事から民生重視に産業を移行するべきだったものができなかった。その辺にソ連崩壊の最大の理由があるのではないか。

24時間仕事と金のことばかり考え、生き馬の目を抜くような人生しか
送れないのが、資本主義社会の本当の姿だと思う。
http://kenuchka.paslog.jp/article/11458.html

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