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なぜ、家康は江戸で幕府を開いたのか?

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2023/06/10 (Sat) 14:07:16

公太郎竹村の記事一覧 | 「新」経世済民新聞
https://38news.jp/author/takemura

明治から昭和にかけ日本列島全体が禿山であった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14094093



2023年6月10日
【竹村公太郎】どうする家康!―大油田と大穀倉地帯―   
https://38news.jp/default/24914

 なぜ、家康は江戸で幕府を開いたのか?
当時の江戸は途方もない不毛の地であった。
いまだその定説はない。
「どうした家康!」である。
しかし、地形とインフラから見ると
解は一本道となる。

天下制覇の京都
 1600年、徳川家康は
関ケ原の戦いで西軍に勝った。
家康は朝廷から征夷大将軍の称号を得るため、
京都の二条城に入った。
1603年に征夷大将軍の称号を受けると、
即座に江戸に帰ってしまった。
この江戸帰還が江戸幕府の開府となった。

なぜ、家康は
あの不毛の地・江戸に帰ったのか?

150年続いた戦国の幕を下ろすには、
この家康の江戸帰還はあまりにも不自然だった。
戦国時代を勝利して、天下人となるには、
朝廷を抱えることが要件だった。
混乱の世の中を鎮静化し、
天下を制覇する象徴が京都の朝廷であった。

 歴代の足利将軍、武田信玄、
今川義元、織田信長
そして豊臣秀吉を見ればわかる。
彼らの目は常に朝廷に向かっていた。
朝廷を抱え、それを天下に示すことが、
天下人になることの宣言であった。
そのためには、天下人は
京都または京都周辺にいなければならない。



(図―1)天下取りを狙った武将たち。 
 ところが、家康は違った。
征夷大将軍になった家康は、
京都に背を向け、
あの東の果ての箱根を超えて、
さらに武蔵野台地の東端にある
江戸に帰ってしまった。



(図―2)は、
京都文明からアルプスと
箱根を超えた江戸の位置を示す。

度し難い不毛の土地、江戸
 全国の戦国大名たちは
あっけにとられたに違いない。
まだ、大坂城には秀吉の嫡男、
豊臣秀頼が構えていた。
西には戦国制覇を狙う毛利も島津もいた。
それなのに、全国制覇の
天下人になることなどに
興味がないかのように、
家康は箱根の東に消えてしまった。

 江戸は、度し難い不毛の土地であった。
不毛の土地というだけではない、
日本列島の交流軸から外れ、
孤立し、情報が届かない、
発展性のない土地であった。

 江戸はだだっ広い
武蔵野台地の東端にあった。
この武蔵野台地も役立たずの台地であった。
何しろ河川がない。米を作るための水がない。
その武蔵野台地の西側には、
箱根、富士山と続く
険しい山脈が壁のように連なり、
日本文明の中心の西日本との
往来を妨げていた。

 江戸城の東には、
水平線が見えないほど
広大な湿地帯が広がっていた。
縄文時代、地球は温暖化で
海面は5m上昇していて、
関東地方は海の下であった。

家康が江戸に入った頃、
地球は温暖化から
寒冷化に移行していて、
海は現在の海面水準になっていた。
海は陸から離れ、
縄文時代に海だった跡に、
利根川、渡良瀬川
そして荒川が流れ込んでいた。

 それらの河川によって
運ばれた土砂が、
巨大な関東の干潟湿地を形成していた。
21世紀の現在、
江戸時代の大干潟を見ることはできない。



その代わり(写真―1)で
フランスのランス川の干潟を示す。
世界遺産のモンサルミッシェルで
知られているランス川は
利根川の流域に比べて
10%にも満たない小さな河川である。
ランス川河口でさえ
このような大干潟が形成されている。
関東の河口干潟が
いかに広大であったかが理解できる。
 少しでも雨が降れば、
関東の湿地帯の水は
何カ月間も水が引かなかった。

また、高潮ともなれば
東京湾の塩水が関東の深くまで遡っていた。
この劣悪な環境の湿地帯で
生えているのはアシ・ヨシのみであった。
 家康はこの不毛の地に帰還した。

フィールドワーカー家康
 家康がこの不毛の江戸に初めて入ったのは、
さかのぼること13年前の1590年であった。
 1590年、豊臣秀吉は北条氏を降伏させ、
ついに天下人となった。
その年、秀吉は家康に戦功報償として
関東を与える、という名目で
家康を江戸に移封した。
この移封は正確に言えば、
秀吉による家康の江戸幽閉であった。

 江戸の地は、
平安から鎌倉時代にかけ
秩父一族の豪族・江戸氏によって開発された。
 室町時代は上杉定正がこの地を制し、
その家臣、太田道潅が
江戸に城郭を築造した。
応仁の乱からの戦国時代に
関東一帯を制したのが北条氏であった。
北条氏は上杉氏を追放し江戸城郭も支配した。

 1590年に家康が
江戸城に入ったといっても、
それは荒れ果てた砦であった。
秀吉と雌雄を競う家康が
入るような城郭ではなかった。
荒れ果てた江戸城に入ったとき、
家康の部下たちは激高したと、
伝わっている。



(図―3)は、現在の東京の地形図である。
 家康はこの粗末な江戸城郭に入ったが、
城の大修復や新築には取り掛からなかった。
江戸の町づくりに本格的に
着手するのも関ケ原の戦いの後である。
 1590年、江戸に入った家康は
一体何をやっていたのか?

 この時期、
家康はフィールドワークに徹していた。
家康は徹底的に関東一帯を見て歩き廻っていた。
この関東一帯の調査は
後年の検地・知行割・町割などの
政策で生かされていった。
しかし、それ以上に
この現地調査は歴史的に
重要な意味を持つこととなった。

 家康はこの関東の調査で
「宝物」を探し当てていた。
 それを手に入れれば、
間違いなく天下を確実にする
とてつもない代物であった。
 発見した宝物は2つあった。
一つは、目に染みるような
関東一帯の森林であった。
もう一つは、大湿地の関東平野を、
日本最大の穀倉地帯に
転換させる鍵となる地形の発見であった。

日本一の緑の油田地帯
 米国の歴史学者、
コンラッド・タットマン氏による
日本の歴史的森林伐採の変遷の調査は、
日本史を議論するうえで貴重な資料である。
彼は全国の寺社仏閣に入り、
縁起書類等を調べ上げた。
それら書物には寺社の創建、
改築時の木材搬入先が記されていた。
その研究成果が日本森林伐採の
変遷図であった。



(図―4)が日本の森林の歴史的変遷の図である。
 この図から分かることは、
奈良時代の寺社建造のための木材伐採範囲は、
琵琶湖、紀伊半島まで広がっていた。
戦国時代には
能登半島、伊豆半島、紀伊半島全域、
高知、山口まで伐採範囲は拡大していた。

 戦国時代、すでに関西には木々はなくなり、
山々は禿山だったことを意味している。
日本の歴史は森林伐採の繰り返しであった。



(写真―2)は滋賀県、京都の
比叡山の大正から昭和にかけての
禿山だった写真である。

 戦国時代当時、木々が唯一の燃料であり、
建造物や道具の材料資源である。
燃料と資源がなければ、社会の発展などない。
1590年、家康は秀吉によって
関東に幽閉された。
その家康が関東で目にしたのは、
緑溢れる利根川・荒川流域であり
武蔵野台地の原生森林群であった。
家康は日本一の森林地帯、
今でいえば大油田地帯を関東で発見した。



武蔵野台地には森林は残っていないので、
(写真―3)の富士山麓の原生林で
当時の武蔵野台地を想像するしかない。
 家康が発見したもう一つの宝とは、
ある小さな地形であった。

日本一の穀倉地帯
 前述したが、縄文時代、
地球は温暖であり海面は上昇していた。
海水は関東地方の奥まで進入し、
当時の関東平野は海の下にあった。
6000年前より寒冷化で海面は低下し、
かつて海だった場所に利根川、渡良瀬川
そして荒川が流れ込み、
広大な干潟を形成していた。



(図―5)は、
家康が江戸に入った時期の関東地方である。
 (図―5)の地形ではっきりわかるのが、
利根川は現在の関宿付近の台地で
行く手をブロックされていた。
この関宿の地点で利根川は、
向きを南に変え江戸湾に流れ込んでいた。

徳川家康はこの地形を発見した。
関宿の台地を削れば、
利根川の流れは江戸湾に向かわず、
東の銚子に向かう。
厄介な利根川の洪水が江戸湾に来なければ、
干潟を埋め立て干拓するのは簡単だ。
この広大な干潟は
日本一の穀倉地帯になる。
 日本一の穀倉地帯で米を作る。
米は最高の金銭価値を持つ。
他の大名の領地を武力で奪わなくても、
膨大な財産が手に入る。
家康はこの大湿地帯の下に眠る
大穀倉地帯を見抜いた。

江戸へ帰還
 関ケ原の戦いの以前から、
家康はこの利根川を銚子に向かわせる
工事に着手していた。
しかし、天下分け目の関ケ原の戦いが
開始されたので、
利根川の工事は一時中断した。
 家康はその関ケ原の戦いに勝利し、
征夷大将軍の称号を受けると、
即座に江戸に戻ってしまった。

 実は、家康には戦いが待っていたのだ。
人間同士の戦いではない。
人間同士の戦い以上に
過酷な関東の地形との戦いであった。
利根川の流れを東にバイパスする
「利根川東遷」という戦いであった。

 家康は50年間、
天下を獲るために
人の血を流し続けて戦ってきた。
その獲った天下を治めるため、
今度は地形との過酷な闘いを開始した。
 徳川家康が江戸に帰還した理由は、
関東の武蔵野台地と利根川
という地形であった。
日本一の大森林地帯と
日本一の大穀倉地帯の可能性を持つ利根川。
この二つの宝が家康の江戸帰還を待っていた。

 利根川の地形との戦いは
家康が駿府へ移ってからも
江戸時代を通じて行われた。
政治体制の変革が起きた
明治政府になっても、
この利根川との戦いは引き継がれ、
21世紀の令和の時代になっても
利根川の現場で継続されている。

日本近代化の舞台:関東平野
 明治になり、
日本は幕藩封建体制から
一刻も早く国民国家へ
変身する必要があった。
アフリカ、アジア、太平洋を
植民地にした欧米列国が
日本に迫ってきていた。
列国の植民地政策の原則は
「分割統治(Divide and Rule)」であった。

その国の分断を深め、
国内をバラバラにする手法である。
 列国から見たら、
日本の幕藩封建体制など
分割統治にとって
これ幸いと映ったに違いない。
何しろ全国各地に権力は分散していた。
その権力は海峡と山々で
区切られた地形によって分断されていた。

 ところが、明治近代化で
全国の日本人は一気に
東京に集中していった。
特に地方の次男、三男坊、四男坊は
躊躇なく故郷を後にした。
若い力と資金が集まり工業を起こし、
商業が展開された。
口角泡を飛ばし議論をして
政党が生まれ、法律が産まれ、
議会が開催され国民国家が形成された。

日清、日露戦争に辛くも勝利し、
最後の帝国国家に滑り込んでいった。
 これら日本の近代化の
舞台の中心は関東であった。
関東には途方もない広い土地があった。
スポンジに水が吸われるように
若者は関東に入って行った。



(図―6)の中心の青色が江戸時代、
赤が明治、周辺の発展が大正、昭和である。
 全国の人々が集まるには、
大阪、京都は狭すぎた。
関東平野が全国の日本人の力を
集中させる大地であった。
地形的に日本人の分断は避けられた。

400年前、徳川家康は
利根川東遷に着手した。
利根川の大洪水は銚子から
太平洋に流れ出し、
関東の大湿地帯は乾田化した。



(写真―4)で利根川の
洪水の70%が銚子に向かっている。
 分断せず、関東に集中した
日本人は強かった。
関東平野という舞台で、
彼らは力を合わせ、
近代化と国民国家を実現した。
この舞台は400年前の家康が準備した。
https://38news.jp/default/24914
2:777 :

2023/06/10 (Sat) 14:12:04

漢民族系朝鮮人の天皇一族による極悪非道の世界侵略の歴史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14003198

日本人の起源と江戸時代までの歴史
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/606.html

江戸時代の鎖国の目的は、戦略物資である硝石の独占、銀の流出制限、奴隷貿易の禁止だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/594.html

江戸時代はこういう時代だった
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/576.html

黒田基樹『徳川家康の最新研究 伝説化された「天下人」の虚構をはぎ取る』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14102598



3:777 :

2023/07/06 (Thu) 19:23:19

2023年7月6日
【竹村公太郎】どうする家康! ―水がないー
https://38news.jp/default/25256

水がない
 1600年、徳川家康は
関ケ原の戦いで西軍に勝った。
家康は1603年に
征夷大将軍の称号を受けると、
さっさと江戸に帰ってしまった。
 家康にはやるべきことがあった。
利根川の流れを銚子へ向ける
利根川東遷工事であった。
これは日本史上最大の国土開発であり、
その後の日本文明の方向を
決定づける国土開発でもあった。

 歴史に残る利根川東遷という
大事業の陰に隠れて、
ある重要な工事が江戸のど真ん中で
行われていた。
江戸住民の飲み水を供給する
ダム建設である。

 家康は、利根川での治水と
江戸市内での利水ダムという、
水の両面作戦を展開せざるをえなかった。
このことを教えてくれるのが広重の絵である。
写真がない江戸時代、
広重は浮世絵という手法で
江戸文明のインフラを描いてくれていた。
(図―1)が、
その「虎ノ門あふい坂」である。



広重の虎ノ門のダム
 ある時、広重の画集を
ぱらぱらとめくっていた。
その時、「虎ノ門外あふい坂」で手が止まった。
 「虎ノ門外あふい坂」はもう何度も見ていた。

それまでは、
裸で願かけ修業する二人の職人と、
そばや屋の親父と、
二匹の猫に視線を奪われていた。
もちろん、滝も見てはいたが、
滝の重要な意味を見過ごしていた。
この絵で手が止まったのは、
滝の意味に気がついたからだ。
滝は自然の滝ではない。
人工の滝であった。

滝は人工の堰堤(えんてい)から
流れ落ちていた。
堰堤は石を積み練り固めたダムである。
絵の構図から判断すると、
基礎地盤から高さ10m近い
立派なダムであった。

 場所は千代田区の虎ノ門である。
修行している二人の職人が向うのは、
現在も虎ノ門にある金毘羅さんだ。
二匹の猫が座っている坂は、
アメリカ大使館へ行く坂である。
反対側の右の丘の上で光っている屋敷は、
今の首相官邸である。

 虎ノ門にダムがあれば、
背後の赤坂一帯は貯水池と
なっていたはずだ。
実際に赤坂の繁華街は
明治まで水の下であった。
今は「溜池」という地名だけ残っている。
 虎ノ門ダムの貯水池は、
交通量の多い「外堀通り」である。
 名前の通り貯水池は江戸城の外堀であった。
貯水池は江戸城の堀の役目を果たしていたが、
それ以上に重要な使命があった。
 江戸市民の飲料水を供給することであった。

江戸の塩水
 1590年、徳川家康は
豊臣秀吉の命令で、江戸へ移封された。
 当時の江戸は、
住家がぽつんぽつんと点在する
寂しい寒村であった。
江戸城のある台地に湧水はあった。
しかし、大軍を擁する
徳川勢の飲料水としては、
絶対的に不足していた。
 江戸城の台地の東には、
荒川の隅田川が江戸湾へ
向かって流れていた。

しかし、川の水は
飲み水にはならなかった。
なぜなら、江戸の低平地は
限りなく平坦で、
江戸湾の海水は満潮のたびに逆流し、
陸の奥深くまで差し込んでいた。
そのため、川の水の塩分は濃く、
飲料水としては使用できなかった。

 江戸は政権を樹立する地として、
最も基本的なインフラの
「水」がない欠陥の地であった。
家康は水のない江戸に
押し込められたのであった。
 家康が江戸入りに際し、
最初にやるべきことは
飲料水を確保することであった。

江戸のダムづくり
 1590年の江戸入を前に、
家康は家臣、大久保藤五郎に
上水の確保を命じた。
 大久保藤五郎は
後の神田上水となった神田山から
沢水を引いた。
どうにか、当面の飲み水は確保され、
家康は江戸入りをした。

 江戸入りしてから10年後の1600年、
天下分け目の関ヶ原の戦いが始まった。
関ケ原で勝利した家康は江戸へ戻った。
江戸幕府が開府され、
いよいよ首都・江戸の街づくりが
本格化していった。

 江戸の街づくりで有名なのが、
日比谷の埋立てである。
神田の高台を削り、
日比谷の入江を埋め立てた。
ここに家臣団たちの住居を配置し、
日本橋川や運河を整え荷揚場を建設した。
日比谷の埋め立ては
土地造成という華やかな工事だったので、
江戸の街づくりの代表として語られる。

しかし、日比谷の埋立ての
華々しい工事の陰で、
重要なインフラ工事が行われていた。
 虎ノ門のダム建設工事であった。



江戸を支えた水源
 江戸幕府開府から3年目の1606年、
家康は和歌山藩の浅野家に堰堤、
すなわちダム建設を命じた。

 神田の沢水に頼っていた江戸の水は、
目に見えて不足していった。
そのため、ダムを建設し、
ダム貯水池で水を確保しよう
というものであった。
現在の赤坂から溜池にかけては低湿地で、
清水谷公園から水が湧き出ていた。
さらに、虎ノ門付近は
地形的に狭窄部となっていた。

 この地形に目をつけた家康が、
浅野家に堰堤建設を命じた。
虎ノ門の狭窄部に堰堤を
建設すれば貯水池が誕生する。
さらに、この水面は江戸城を
防御する堀にも兼用できる。
虎ノ門の堰堤は、
都市の飲料水のための
日本最初のダムとなった。
広重は「虎ノ門外あふい坂」で
記念すべきそのダムを描いていた。

 虎ノ門ダムが完成して半世紀がたったころ、
江戸の人口はどんどん膨れあがり、
再び、水不足になっていった。
遠く多摩川から水を
導水する工事が持ち上がった。
工事は1653年に開始され、
1654年に総延長43kmの
玉川上水が完成した。

 玉川上水は虎ノ門の溜池に連絡された。
多摩川の水が豊富なときに、
この溜池に水を貯めておき、
多摩川が渇水になると
虎ノ門の溜池の水を使うこととなった。
(図―2)は広重が描いた玉川上水である。



 現代と遜色のない都市への
水供給システムが構築された。
 江戸時代を通じ、
虎ノ門の溜池は
江戸市民の命の水を供給し続けた。



ダムは都心から消え山の中に
 明治になり、
江戸が東京と改まっても、
玉川上水と虎ノ門ダムは
東京市民に水を供給し続けた。
しかし、明治の近代化は、
東京への急激な人口流入を招き、
居住環境は悪化し、
溜池の水質も一気に悪化していった。

 明治19年、
東京でコレラが大流行した。
近代水道事業の必要性が認識され、
明治31年、新宿に
淀橋浄水場が完成した。
多摩川からの玉川上水は、
虎ノ門の溜池をバイパスし、
淀橋浄水場へ直接送り込まれた。
浄水場で水は沈殿・ろ過され、
市内に鉄管や鉛管で配水された。

 玉川上水は虎ノ門の溜池を
バイパスされてしまった。
溜池の水はさらに腐り、
虎ノ門の溜池は東京首都発展の
邪魔者になってしまった。
溜池は少しずつ埋め立てられて、
昭和初期にダム堰堤そのものも
埋め立てられてしまった。

 300年間、水を供給し続けた
虎ノ門のダムは消えた。
東京都民の目の前から、
命の水の源が消えていった瞬間であった。
東京はとめどなく膨張していった。
人口は200万人、そして500万人も突破し、
1000万人へと向かっていった。
多摩川の水は徹底的に取水され、
羽村堰の下流の多摩川は
賽の河原になっていった。

文明を支えるダム
 増加する都民の飲み水のため、
多摩川の上流に小河池ダムが建設された。
更に、戦後の高度経済成長に伴い、
東京の発展は続き、
急増する水需要に対して、
利根川から水を導水することとなった。
利根川上流の集落を水没させ、
東京都民のためのダムが
次々と建設された。



(写真―1)が多摩川の小河内ダムで、



(写真―2)が利根川水系のダム群の一部である。

 しかし、東京都民は
そのことを知ることはなかった。
 現在、東京都は利根川から
1日当たり240万m3の水を導水している。
 240万m3といってもピンとこない。
甲子園球場を水で一杯にすると
60万m3である。
だから、東京都は毎日毎日、
甲子園球場を満杯にして4杯分の水を、
利根川から導水している。
いや、導水という
生易しい言葉は似合わない。
収奪という激しい言葉が似合う。

 山奥のダム群は
水が豊かな時に水を貯め、
利根川が渇水になった時に水を供給する。
このダムによって、
東京の365日の快適な
都市生活が維持されている。

 400年前、家康は
飲み水のない江戸に押し込められた。
家康は日本初の
都市ダムを建設することで
苦境を突破した。
家康が始めた水確保のシステムは
21世紀の現代にまで引き継がれている。
https://38news.jp/default/25256
4:777 :

2023/08/12 (Sat) 11:46:10

2023年8月12日
【竹村公太郎】どうする家康!―江戸で米が作れない!―
https://38news.jp/default/25655

米が作れない
 1603年、関ケ原の戦いで勝った家康は
征夷大将軍の称号を受けると、
さっさと江戸に帰ってしまった。

 家康にはやるべきことがあった。
利根川を銚子へ向ける
利根川東遷工事であった。
この利根川東遷事業と同時に、
重要な工事が江戸と川崎で行われていた。

 江戸の工事は、
生きるための飲み水の
虎ノ門堰堤(ダム)建設であった。
川崎の工事は、
喰うための農地開発であった。
幕府を開いた江戸では全
く米が作れなかった。
当時、米は食糧であり、
金銭であり、社会的地位であった。
江戸ではその大切な米が獲れない。
家康は一体どうしようとしたのか。

最悪の江戸
 関ケ原から遡ること10年前の1590年、
徳川家康は豊臣秀吉に江戸へ幽閉された。
当時の江戸は、
住家がぽつんぽつんと点在する
寂しい寒村であった。
江戸城は武蔵野台地の東端にあった。
江戸の西に広がる武蔵野台地は、
米が獲れない不毛の地であった。
なぜなら、武蔵野台地には
稲作のための川がなかった。

 一方、江戸城の東には
広大な湿地が展開していた。
その湿地に荒川、渡良瀬川
そして利根川が流れ込み
広大な干潟を形成していた。
その東の干潟は限りなく平坦で、
江戸湾の海水は満潮のたびに逆流し、
関東の奥深くまで差し込んでいた。
そのため、ここは塩分が
濃く米が獲れない不毛の湿地であった。

 日本列島を見まわして、
これほど悲惨な土地はなかった。
江戸に押し込められた徳川家康は、
一日も早く3万人の部下たちを
養う農地を必要とした。

川崎の氾濫原
 江戸に入った家康は鷹狩と称して、
関東一円のフィールドワークに徹していた。
どうしても探したかったのは農地であった。
千葉には河川がなかった。
群馬、栃木、茨城の北関東は
江戸から遠すぎた。
埼玉には氾濫原の中に砂州があったが、
しばしば利根川の大洪水が襲っていた。
結局、多摩川と鶴見川が合流する
氾濫原の砂州を開発することにした。
砂州は氾濫原で川の土砂の堆積で
こんもり盛り上がった土地である。


(図―1)は、
21世紀の東京首都圏の地形図である。


(図―2)は、現在の川崎の地形図で、
多摩川と鶴見川の合流地点で
砂州が広がっている。


(図―3)は、
広重が描いた川崎宿である。
多摩川の対岸の砂州に
川崎宿が描かれている。
関ケ原の戦いの3年前の1597年、
家康は用水責任者の小泉次太夫に命じて
多摩川で大規模な農地開発を命じた。

大規模な農地開発
 農地開発は測量から始まり、
関ケ原の戦いの休止を経て
1611年に完成した。


(図―4)は二ヶ領用水の全体図である。
多摩川からの取水は上河原堰、
宿川原堰の二カ所から行われ、
上流の稲毛領37村、
下流の川崎領23村で
約32㎞の大規模な
水路網が張り巡らされた。

 当初、堰は設置されず
自然流入で取水していた。
しかし、多摩川の水量が少ない時にも
取水できるように竹で編んだ
蛇篭(じゃかご)に玉石を入れて
取水地点に並べて「堰止め」の技法が
取られるようになった。
この手法は昭和初期まで使われていた。


(写真―1)は、
山口県佐波川水系で
遺跡として残されている
関水(せきみず)の玉石で
堰き止めた取水施設である。
二ヶ領用水で収穫した米は稲毛米として、
江戸、明治、大正そして昭和まで江戸市民、
東京都民に供給されていった。

 徳川家康の二ヶ領用水は
江戸への貢献だけではなかった。
全国の大名の農地開発の目標となり、
国土開発の具体的な技術指針となった。

たなびく二ヶ領用水の旗
 家康は江戸に幕府を開き、
200を超える戦国大名たちを
制御するためにある工夫をした。

 大名たちを全国の
流域の中に封じ込めたのだ。
大名たちは流域の山々の稜線を超えて
領地を広げることは禁じられた。
海を越えて海外に向かっていくことも
許されなかった。
流域に封じられた大名と人々は、
自分たちの足元の流域に
エネルギーを集中していった。
まず、中小規模の川で堤防を築造した。

 あちらこちらに乱流している
流れを堤防の中に押し込めると、
旧河道が豊かな農地になっていった。
次に川の水の取り入れ口と
農業用水路を建設した。

 その経験を経て、
大きな川でも堤防を築き、
取水堰と農業用水路を整備していった。
戦いのない平和な江戸時代、
日本中の流域で国土開発、
農地開発が行われた。
日本列島の米の生産力は
急速に増大していった。


(図―5)は、
日本の1千年の耕地面積の変遷と
人口増加を示す図である。
戦国時代までは農地の変化はない。
江戸時代に農地開発が一気に行われ、
豊かさが実現し、
それに伴い人口も急激に
増加していることが明瞭に分かる。

 江戸時代、二ヶ領用水は
日本の国土開発の輝く旗となった。
しかし、二ヶ領用水は
負の歴史も刻んでいくこととなった。

 稲毛領と川崎領の地域は、
二ヶ領用水のおかげで
豊かになり栄えていった。
人々が集まり人口が増えていくと
新しい水需要が増大していき、
水の奪い合いが発生するようになった。
二ヶ領用水は江戸幕府直轄であり、
水紛争は文書で記され、保管され、
世界的に見ても珍しい貴重な記録となった。

農村共同体の紛争
 江戸時代、流域の開発に伴い、
左岸と右岸、
そして上流と下流で
複数の農村共同体が誕生していった。
これらの農業共同体は仲が悪かった。
なぜなら、川の水量は限られている。
渇水になれば水の取り合いとなる。

 話し合いで決着できないと、
暴力での奪い合いとなった。
これは日本だけではない。
世界共通の現象であった。
ライバル(Rival )の語源は
川(River)から来ている。
同じ流域で生きている他の共同体は、
仲間ではなく敵だった。
同じ川の沿岸で生きている
顔見知りが敵になる。
この水争いは陰に籠り、
陰惨なものとなり、
記録に残されにくかった。

 しかし、二ヶ領用水は
徳川家康によって造られた
幕府直轄の農地であった。
そのため二ヶ領用水の紛争は
江戸幕府の問題でもあり、
紛争処理も幕府の責任であった。
そのため、二ヶ領用水の紛争は
詳細に記録されていった。

 残されにくい水紛争と
後始末まで文書にされていた点で、
二ヶ領用水の記録は
貴重な資料となっている。
以下の内容は「小泉次太夫用水史料」
(小泉次太夫事情調査団編集
・世田谷区教育委員会発行)
に基づいている。 
 

溝口(みぞのくち)水騒動
 1821年(文政4年)7月、
二ヶ領用水で溝口水騒動が発生した。
この年の二ヶ領用水は、
春から雨が少なく田植えの時期にも
日照りが続き、
干ばつに襲われていた。

 5月ごろから上流の溝口村は
約束を破って、
自分たちに有利になるように
川崎領への水路を閉め切ってしまった。
下流の川崎領の33村は
御普請役人に訴えたが解決されなかった。
下流部の33村は


(図―4)の東海道周辺から
下流部にかけての村々である。

 7月5日、飲料水にも事欠いた
川崎領の村々は対策を議論したが、
溝口村の名主・鈴木家は
打ち壊しを決した。
7月6日10時ごろ、
川崎領の農民たち1万4千人が
溝口村に向かった。
彼らは竹槍、鳶口(とびぐち)槍、
刀そして鉄砲まで手にしていた。

 溝口村の名主側も
石、竹槍、熱湯などで対峙したが、
邸宅は散々に打ち壊されてしまった。
溝口村名主は江戸にいて不在だったため、
川崎領の人々は江戸市中の馬喰町の
御用屋敷まで追いかけていく大騒動になった。

 1万4千人が武器を手にした事件は
水紛争というより水戦争の様相を呈していた。
この騒動に関係した川崎領と
上流の溝口村の責任者や参加者は、
幕府の調べを受け、
その行為の軽重に応じて
処罰を受けることとなった。

技術で公平な水配分
 人類が農作を開始して以来、
水紛争は現在の21世紀まで続いている。
水紛争は理性の話し合いから始まるが、
最後は暴力に行きつく。
命の源の水の前では、
人間の理性は無力となる。
水紛争は人類が避けることができない
宿命となっている。

 近代の昭和になり、
二ヶ領用水で4方向に水を配分する
サイフォン原理を使った円筒分水が
設置された。
円筒の下部から水を押し上げて、
上部で水が越流する
円筒の周囲長さ比で
水を正確に配分する施設である。

 技術によって公平に
水を分かち合うという
日本人の叡智である。


(写真―2)が久地村の円筒分水である。

 実は、400年前にさかのぼる
16世紀の日本で、
水紛争の暴力を技術で
克服した例があった。
戦国時代の甲府盆地で誕生した
「三分の一堰」である。


(写真―3)が今でも現存している堰で、
中央の小さな将棋の駒のような石が
3集落へ水を公平に配分する
仕掛けになっている。
この水分配の装置は、
戦国時代で最も尊敬される
大名の一人・武田信玄の
統率力によるものと伝わっている。

 技術で暴力を克服した
歴史的事実が伝承されていき、
サイフォンという
近代土木技術と出会って
円筒分水が誕生した。
この円筒分水は大正、昭和期に
日本全国に広まっていった。

 世界を見渡すと、
遠くから水を導水してきた遺跡、
湧水を工夫して導水した遺跡などは
多数残されている。
しかし、技術で公平な水配分を実現した
という遺跡の存在は聞こえてこない。
日本の「三分の一堰」は
施設としては小さい。
しかし、水争いを技術で克服したこの遺跡は、
途方もなく偉大な人類の遺跡である。
https://38news.jp/default/25655
5:777 :

2023/10/04 (Wed) 05:37:24

2023年9月8日
【竹村公太郎】どうする家康!―江戸湾の制海権―
https://38news.jp/default/25927

 1600年関ケ原で勝った家康は、
1603年に江戸で開府した。
関ケ原の戦いで勝ったとはいえ、
天下を制したとは言えなかった。

 大坂城には豊臣家が構え、
西側の背後には豊臣家を支える毛利、島津
そして長曾我部が控え、
北には豊臣側の上杉氏が構えていた。
家康は150年の戦国の
世を治める決戦を覚悟していた。

(図―1)が、
北条征伐の直後の勢力図である。
豊臣側との決戦に備え、
関東の鬼門は江戸湾であった。
江戸湾の制海権をどう確保するかだ。

関東の大湿地
 家康が江戸開府の13年前の1590年、
北条征伐で天下を獲った豊臣秀吉は、
間髪を入れず家康を江戸に移封した。
移封というより幽閉であった。

 江戸は見るも無残な土地であった。
西の武蔵野台地には河川がなく、
稲作が出来ない不毛の土地であった。
一方の東の低平地は塩水が
逆流する使い物にならない湿地帯であった。

 関東にはさらに厄介な事情があった。
100年近く関東を統治していた
北条氏一党の豪族たちが
関東大湿地の各地に散らばって構えていた。

 家康が江戸に入って取る物も
とりあえず手がけた工事が
「小名木川運河」であった。
小名木川運河の建設目的は
「行徳の塩を抑えるため」
が定説となっている。
しかし、家康は塩に困っていなかった。
家康の故郷・岡崎の矢作川河口には
部下の吉良家の大塩田があり、
塩は吉良領からいやというほど手に入った。

 家康が江戸で第一にやるべきは、
関東一帯の北条氏一党の豪族を
一刻も早く制することであった。
家康の小名木川運河の目的は、
軍事のための運河であった。

水軍で内陸を制する
小名木川運河の建設目的を知るには、
鈴木理生編著「東京の地理がわかる辞典」
(日本実業出版社)の
古地図を見れば解ける。

(図―2)が鈴木氏の平面図で、
江戸初期の江戸湾の川と
海岸が描かれている。
それを断面図風に書き直すと

(図―3)となる。
この図で分かるが、
小名木川運河は江戸湾の波に影響されず
行き来できる高速水路であった。

 家康は北条氏一党を征するために、
その湿地帯を利用することにした。
関東の誰も考えたことのなかった
水軍戦法であった。

 江戸城の直下の日比谷の入江から
水路を掘り隅田川に出る。
中川までは干潟に造った小名木川運河を行く。
中川からは船堀川を通って江戸川まで行ける。

 隅田川を上れば荒川の埼玉を制する。
中川や江戸川を上れば、
利根川の千葉、茨城、栃木、
群馬一帯を征する。
湿地の水路を使えば、
水軍はあっという間に関東一円に到着できた。
徳川軍が水路を伝って突如として
北条一党の砦の前に姿を現した。
北条氏一党はその勢いに呑まれてしまった。
家康は水軍で関東内陸を制した。

小田原城攻撃の水軍
 家康が水軍で関東制覇を
思いついたのには理由があった。
関東に移封される直前の北条征伐戦であった。
 北条方は箱根のふもとの小田原城に構えた。
箱根は防御の壁であった。

(図―4)は、広重が描いた
東海道五十三次の箱根である。
よく見ると、大名行列が
隊列を細長くして谷間を進んでいる。
箱根では何万人何十万人という大軍は動けない。
箱根の地形を知り尽くした北条氏は、
箱根を利用して小規模な局地戦を
繰り返す作戦を企てた。

 北条征伐で有名なのは、
秀吉の一夜城である。
小田原城を見下ろす一夜城は、
作戦本部としての役割はあった。
しかし、小田原城に実質的な
武力圧力を加えたのは水軍であった。
 
 豊臣方には日本最強の毛利水軍と
九鬼水軍が加わっていた。
瀬戸内海からはるばる遠征してきた
両水軍をガイドしたのが、
地元の駿府の徳川水軍であった。
相模湾一杯に浮かぶ三大水軍に、
北条氏軍団は心底から驚いた。
家康は湾に接した敵地への
水軍の強みを全身で会得した。

(図―5)は、
小田原城に圧力を加えた三水軍である。
 
 小田原城攻撃の経験が、
家康に小名木川運河を思いつかせ、
水軍で関東湿地を抑える作戦を立てさせた。

関東防御の弱点・関宿
 北条一党を制し関東の主となった家康は、
改めて関東の防御を固めることとなった。
関東の西にはアルプス、
富士山そして箱根の山々が壁になっていた。
北からは利根川と渡良瀬川
そして荒川が江戸湾に流れ込んでいた。
利根川、渡良瀬川そして荒川の3大河川は、
江戸を守る大規模な堀の役目を果たしていた。

(図―6)で関東の地形陰影図を示す。
江戸の防御は固いと思われたが、
重大な弱点があった。関宿であった。
(図―6)の赤丸が関宿である。
関宿で常陸国と下総国が地続きとなっていた。
この地続きの地形は実に危険であった。
関東の北には豊臣の重臣・上杉氏が構えていた。
以前は伊達政宗が会津を支配していたが、
伊達政宗は秀吉によって
宮城県の鳴瀬川の大崎に
移封されてしまった。
伊達氏の後に会津を
任されたのが上杉氏であった。

 もし、上杉が関東を襲えば、
関宿で一気に南下してしまう。
江戸湾の良好な港は
房総半島の上総湊や館山であった。
上総国と安房国が押さえられたら、
江戸湾の良港は九鬼水軍、
毛利水軍に抑えられ、
江戸湾は豊臣のものとなる。

 家康は関東に閉じ込められてしまう。
豊臣との決戦どころではない。

南下を防ぐ
 東北からの南下を防ぐ必要があった。
まず、利根川・渡良瀬川の流れを
利用することを考えた。
関宿の台地を掘削して
利根川を銚子に向ければ、
南下に対する防御の掘りができる。

 伊奈忠次に命じて1594年から着手したが、
相手は日本一の利根川と渡良瀬川であった。
あちらこちらに乱流している
流路を整える工事から着手したが、
何度も失敗を繰り返した。
豊臣家との決戦は迫っていた。
利根川東遷事業は決戦に
間に合うほど簡単な工事ではなかった。

 1600年、関ケ原の戦いが開始された。
利根川東遷は中断され、
利根川の掘りで北に備える計画は
断念せざるをえなかった。

 その関ケ原の戦いで勝った家康は、
西軍に加わった上杉を米沢藩に転封した。
会津は東軍に加わった
旧会津藩主の蒲生氏を充てた。
徳川家康の世になったかと思われたが、
家康は油断しなかった。

 まだ豊臣家は大坂城に構えていた。
豊臣家を期待する勢力もうごめいていた。
豊臣家を完全に滅亡させる
最終戦が必要であった。
最終戦を控え、江戸湾の制海権の
確保は絶対であった。
家康は北からの南下の防御線を、
陸路に変更する作戦とした。
 東金街道の建設である。

東金御成街道
 家康は1614年1月、
船橋から東金まで
約37㎞の街道建設を命じた。
豊臣家との最終決戦も
大坂冬の陣の9カ月前であった。
 
東金街道建設の命令は
「全て直線にしろ」
「工事は最短で完成させろ」であった。
全沿道の人々が駆り出された。
「三日三晩で造った」
「昼は白旗、夜は提灯。一晩のうち完成した」
とも伝わっていて
「提灯街道とか一夜街道」とも
呼ばれている所以である。

(図―7)を見ると、
地形は平坦となっている。
東金市付近の起伏を除けば、
街道は短時間で概成できた。
上総国を守る戦時街道が完成した。

激しい最終決戦の大坂冬の陣と
夏の陣により豊臣家は滅亡した。

 東金街道の目的は
「鷹狩」と伝わっているが、
戦国の戦火が燃えている時期に
鷹狩街道はない。
鷹狩なら37㎞も一直線で造る必要がない。
鷹狩なら住民総動員をかけて急がせる必要もない。
東金街道はどこから見ても戦時街道であった。

東北から敵が関宿を南下すれば、
小名木川運河を船で船橋に行く。
船橋から東金街道を馬で飛ばす。
一瞬にして上総国を防御する
布陣が構えられる。

(図―8)が、
小名木川と東金街道の連続した
直線高速ルートである。

 ヒットラーは
アウトバーンでヨーロッパを制した。
家康は一直線の小名木川運河と
東金街道のアウトバーンで関東を制した。

(写真―1)はヒットラーアウトバーンである。
 
 その後、江戸湾の制海権の仕上げとして、
房総半島の先端の安房国(あわのくに)を
幕府直轄領とした。
安房国は江戸湾の監視と防衛で
重要な役目を果たした。
幕末、勝海舟もこの安房国の責任者に任じられた。

 安房国は外国の蒸気船を見張った。
徳川慶喜の大坂との往復船を見守った。
安房国は日本の激動の歴史を
目撃することとなった。
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2023年10月3日
【竹村公太郎】どうする家康!―江戸に情報が来ないー
https://38news.jp/default/26157

 1600年関ケ原で勝った家康は、
1603年に江戸で開府した。
この江戸は首都として決定的な欠陥を持っていた。
江戸には情報が来なかったのだ。
情報が来ない都市など首都ではない。
どうする家康!

不思議な京都1千年の都
 8世紀、桓武天皇は
奈良から京都へ遷都した。
それ以来、19世紀まで京都は1千年間、
都として存在し続けた。
しかし、平安、室町、戦国時代を通して
京都は安全な街ではなかった。
京都は戦国時代の戦乱の中心であった。
応仁の乱では大火で焼け出され、
宗派間の武力闘争も頻発していた。

 当時の京都の人口は、
20万~30万人と推定されている。
一人当たり年間20本の立木が必要とすると、
全体で20本×25万人=500万本/年が必要となる。
年間500本ではない。
年間500万本の伐採である。
50年もたてば京都周辺の山々は
禿山になってしまった。


 (図―1)は
米国の歴史学者コンラッド・タットマン作成の
日本森林の変遷の図である。
赤色は戦国時代の寺社仏閣のための
木材伐採範囲である。
木材伐採は能登半島、伊豆半島、
紀伊半島の全域に及び、
高知県・山口県まで及んでいる。


(写真―1)は、
昭和年代の比叡山の写真である。
石油・石炭が制限されたので、
人々は山の木々に向かい、
比叡山までも禿山にしてしまった。
戦国時代の禿山のイメージがこれで分かる。

 周囲の山々が禿山になれば、
ちょっとした雨でも豊かな表土は流れ出し、
京都の巨椋池(おぐらいけ)には土砂が埋まり、
人々の排泄物は滞り腐敗し、
京都では疫病が頻発していった。

 それでも京都は1千年間、
都であり続けた。
京都が都であり続けた理由があった。

歩くと京都に
 京都が1千年近く都であり続けた理由、
それは情報である。
京都は日本列島の情報の集中地点だった。
朝廷が京都に留まったから
情報が集まったのではない。
情報が黙っても京都に集まってくるから、
朝廷は京都に留まっていた。
情報が集まってくる原因は、
日本列島の地形にあった。

 ユーラシア大陸から
日本海側の海岸に漂着した人々が、
東に向って歩いていくと、
島根、鳥取、兵庫そして福知山、
亀岡を通って自然と京都にたどり着いた。
古道の山陰道である。
九州から陸路を東に向うと、
下関から広島、岡山、兵庫から
大阪は通らず京都にたどり着いた。
古道の山陽道である。

 瀬戸内海を船で東に行くと、
小豆島から大阪湾に着いた。
太平洋から紀伊水道を上ると
瀬戸内海に入り大阪湾に着いた。
大阪から小舟に乗り換えて
淀川を遡ると自然と京都に着いた。
日本列島の西から来た人々は、
皆、自然と京都に行き着いた。

 京都から東へ向かうと、
山科で逢坂を越える。
逢坂を越えると大津に出た。
大津から琵琶湖湖岸を
北に向かうと敦賀に出て、
日本海の福井、石川、富山
そして新潟へ繋がった。
古道の北陸道であった。
大津から陸路を東に進み関ヶ原を越え、
岐阜から山岳ルートを行くと
長野、群馬、栃木へ出て東北へと繋がった。
古道の東山道であった。
大津から米原を過ぎて
南へ向かい伊勢湾を船で超えると、
豊川、浜松、箱根を越えて横須賀に出た。
横須賀から船で江戸湾を
渡り房総半島に上陸した。
上総からは陸路を北上すると茨城、
栃木となり東山道と合流した。
これがのちの東海道、奥州街道であった。

 これら山陰道、山陽道、北陸道、東山道
そして東海道の古道は、何千年、何万年前から
日本列島を行き来する
古代の人々が歩いた道であった。


(図―2)が京都を中心として
形成されていた古道を示す。
 
日本列島の情報中心
 日本列島の主たる歩く道が
京都に集まっていた。
京都は日本列島の凸レンズの焦点であった。
凸レンズは散漫な光を焦点に集め、
光は焦点から再び広がっていく。
京都は3,500kmの日本列島の人々を
一点に集める焦点であった。

 京都は1千年のあいだ都であり続けた。
歴史は大激動して揺れ動いたが、
京都の都は不動であった。
京都は日本列島の人々が
交流する焦点だったからだ。
人間は情報の塊である。
情報の塊の人間が京都に集まり、
情報の塊の人間が京都から
日本列島に発散していった。
文明の条件は、同じ言葉を話し、
同じ文字を読み、
同じ情報を共有することだ。
日本列島を歩いていた人々は、
いつの間にか京都に集まり、
出会い、会話して、情報を交換した。
京都は日本文明を
醸成していく要の空間であった。

 これが、京都が1千年間の都で
あり続けた理由であった。
徳川家康は禿山に囲まれた
不潔な京都を見て「京都が都」で
あることの本質を見抜いていた。
そして、家康は人々が来ない江戸、
情報が来ない江戸、
その江戸に帰ることとなった。

人々が来ない江戸
 江戸は見るも無残な土地であった。
江戸の西の武蔵野台地には河川がなく、
稲作が出来ない不毛の土地であった。
一方の東に広がる低地は塩水が逆流する
使い物にならない干潟であった。
武蔵野台地の端にある江戸城は、
大湿地帯に顔を突き出していた。
余程のことがなければ
江戸に来る人はいなかった。
何しろ江戸の先からは
干潟があるだけで行く先がなかった。


(写真―2)はフランスの
ランス川河口の世界遺産の
モンサン・ミッシェルで、
家康が江戸入城した
当時の様子をイメージできる。
 日本列島の東北と西の往復は
古代から頻繁に行われていた。
2万年前のウイスコンシン氷期から
縄文時代となり、弥生、飛鳥から
奈良時代となった。

 東西の交流が特に頻繁になったのは
征夷大将軍・坂上田村麻呂による
蝦夷征伐であった。
平安以降、人々の交流は盛んになり
日本列島の一体感が形成されていった。
 この日本列島の東西の交差点は、
広大な関東地方であった。
広い関東には様々なルートが形成されていた。


(図―3)は、江戸以前の
東西の交流する古道を示した。
道とはいっても人々の足で
締め固めた細い道であった。
 東山道は群馬から
栃木から東北へと向かった。
甲府盆地からの古道は、
群馬へ向かう道と、
南の横須賀から房総半島に渡るルートとなった。
東海道をきた古道は箱根を越えると、
やはり横須賀から
房総半島へ渡るルートをとった。
関東の東西交流の中で、
江戸周辺だけは人々が来なかった。
江戸は情報が来ないという
決定的な欠陥を持っていた。

五街道の整備
 徳川家康は、
1600年の関ケ原の戦いの後、
京都の伏見城に入った。
そして1603年に征夷大将軍に任命されると
さっさと江戸に帰還して幕府を開府した。

 家康の年表を見ると
一年一年戦いで埋まる人生を送っている。
不思議なのは、伏見城に入った
1600年から1603年の2年間、
家康の年表は空白となっている。
歴史家によると、
この間、関ケ原の戦いの戦後処理をしていた、
征夷大将軍の任命を受けるための
朝廷対策をしていた、とされている。

 実はこの伏見城にいる間、
家康は重要な全国統治政策を開始していた。
江戸を首都に変貌させる
抜本的なインフラ整備であった。
 1601年、家康は
江戸の五街道整備を沿道の大名に命じた。
東海道、中山道、奥州街道、
甲州街道そして日光街道の五街道である。

 家康の五街道整備の理由は
様々に説明されている。
参勤交代のため。素早く軍が移動するため。
街道の消費拡大のため。
江戸幕府の権威向上のため等々。
交流インフラは様々な機能を持っているので、
これらの効果の説明は全て正しい。

 ただし、家康の五街道は
全国レベルの最初のインフラ整備である。
全国統治を開始する家康の最初の指示である。
それを考えると
「首都には情報が集まらなければ都ではない」
という強い家康の意志がにじみ出ている。
 
 街道整備は二代将軍秀忠に継がれ、
その後も全国で街道が整備され続けられた。


江戸時代の五街道を(図―4)で示す。
 家康が整備した五街道は
江戸文明の繁栄の象徴となった。
しかし、家康の街道は
江戸文明の繁栄の貢献に留まらなかった。
日本文明の明治近代化への重要な礎となった。

地形による強固な江戸封建社会
 日本列島は極めて特徴的な地形をしている。
列島中央に脊梁山脈が走り、
脊梁山脈から日本海と太平洋に向かって
無数の川が流れ下っている。
平野といえば湿地の沖積平野で
山々と海峡で分断されていた。
人々は稲作のため沖積平野に住みついた。

 徳川家康は200以上の
大名たちを制御するのに、
この日本列島の地形を利用した。
山々と海で分断された
河川流域の中に各大名を配置した。


(図―5)は
全国を河川流域で区分した図である。
大名たちは流域に閉じ込められ、
外への膨張を禁じられた。
人々はエネルギーを内なる
流域開発に向けていった。
堤防で洪水を防ぎ、川から水を引き、
農地を開発していった。
流域は地形で分けられていたので
開発しても隣国と衝突することなかった。
流域に封じられた大名たちは、
安定した流域権力を確立していった。

 この権力を封じ込んだ
強固な流域封建社会こそ、
近代化の幕開けにおいて最大の障害となった。

封建から中央集権への脱皮
 1853年、黒船が来航した。
1868年、鎖国を解いた日本は
元号を明治と改め近代へと歩み出した。
蒸気機関を持った
欧米列国の力は圧倒的であった。
彼らはアフリカ、インド、東南アジア、
太平洋諸島そして清国を次々に植民地にしてきた。

彼らの植民地政策の原則は
「分割統治(Divide and Rule)」であった。
その国の権力間の亀裂を拡大させ、
疑心暗鬼を増幅させ内戦へ誘う。
内戦で体力が消耗したころ、
傀儡政権を擁立しその国を支配していく。
それが欧米の植民地化の手法であった。

 日本も分割され
植民地化される瀬戸際にあった。
何しろ日本列島には
流域ごとに地方権力が分散していた。
この流域権力社会は地形に
適応していたので自然であり強固であった。
地方権力社会の存在は、
欧米列国の植民地の
分割統治にとって好都合であった。

 日本は一刻も早く
地方の分散権力を解消し、
中央集権の国民国家を
築かなければならなかった。
明治新政府にとって、
廃藩置県は最も重要な政治課題であった。
政権を担った大久保利通や西郷隆盛が、
廃藩置県という困難な政治課題の渦中で
苦闘しているときに、
流域の封建社会からの脱皮を
インフラから実現しようとする
人間が現われた。

 海峡と山々と川で
分断されていた地形を貫き、
人々を東京へ集めるインフラ、
それは蒸気機関車であった。

鉄道の衝撃
 鉄道計画を推し進めた中心人物は、
大隈重信と伊藤博文であった。
さかのぼる10数年前
1855年(安政2年)当時、
17歳の若き佐賀藩士だった大隈重信は、
アルコールで動く全長30cmの
模型蒸気機関車を驚きの眼差しで目撃していた。
大隈重信は、近代化にとって
鉄道が必要であることを身体で知っていた。


(図―6)は佐賀・鍋島藩が試作した
蒸気機関車の図で、
若者たちが囲んで見学している。

蒸気機関車の計画は
明治元年になって具体化した。
大隈と伊藤の当初計画は
東京~京阪神のルートであった。
しかし、あまりにも費用がかかるため
大久保利通の了解が得られなかった。

 やむなく東京と横浜間の
29km間を敷設することとした。
1869年(明治2年)、
大久保利通はその計画をしぶしぶ認めた。
新橋と横浜間に短縮したとはいえ
投資額は膨大であった。
大隈と伊藤は日本最初の債権を
英国で売り出し、鉄道建設資金を確保した。
英国の技術を導入し、
新橋と横浜間の鉄道が実現した。

 蒸気機関車は東京と横浜を
たった1時間で結んだ。
多摩川や鶴見川を1分もかからず越えてしまった。
2000年を超える日本文明は
常に地形の制約下にあった。
蒸気機関車はその地形の制約を
あっけなく消し去った。


(図―7)は多摩川を渡る蒸気機関車である
大久保利通の凄さは、
この鉄道の社会的な衝撃性を
一瞬にして理解したことだ。
あれほど鉄道に反対した大久保利通は、
鉄道に乗車した日の日記に
「百聞は一見にしかず。愉快に絶えず。
鉄道の発展なくして国家の発展はありえない」
と記述している。

 その後、明治政府は
鉄道建設への投資を惜しまなかった。
明治22年、新橋から
名古屋、京都、大阪、神戸までの
全線が開通した。
明治24年、上野から
福島、仙台、盛岡、青森までの全線が開通し、
偶然に、その年に
日本帝国議会が開催されることとなった。

 新橋―横浜間の開業から
わずか30年余りで、
鉄道網は北海道から九州まで
7000kmを突破した。
封建社会を支えていた流域は
鉄道によって横腹を貫かれ、
日本列島は1つに結ばれた。


(図―8)は鉄道が東京へ向かう図を示し、


(写真―3)は当時の機関車である。

 流域を横断する鉄道を目の前にして、
人々は流域に自分を封じ込める時代は
終わったことを悟った。
全国の鉄道は東京に向かっていた。
長男を除く次男坊、三男坊は
鉄道に飛び乗った。
若い力と資金が
東京に集中することにより、
日本人は欧米列国によって分断されず、
国民国家を誕生させていった。


(図―9)は江戸時代から近代まで
一極集中する首都圏である。
ここで不可思議なのは、
鉄道建設の異常な速さであった。

不思議な鉄道建設
 約30年間で
日本全国7,000㎞の鉄道が開設した。
ありえないスピードである。
精密な測量機器はなく、
工事の重機械もなく、
エネルギー燃料も十分でない時代、
このような短期間で鉄道敷設が完成した。
70%が山地で無数の河川が
流れ下っている日本列島で
7000㎞を30年で鉄路を敷設したなどは、
奇跡とも思える想像を絶する速さである。

 しかし、これには理由があった。
決して奇跡ではなかった。
日本列島中に江戸街道があった。
鉄道は江戸街道に沿って敷設すればよかった。
トンネルや橋梁以外は、
精密な測量や設計をせずとも
提灯を並べて測り、
簡単なスケッチで工事する
「出会い丁歩」で建設を進めることができた。
何しろ江戸街道の安全の確実性は
300年近い実績があった。
 
 もし、江戸街道がなかったら、
鉄道で結ばれた国民国家の誕生は
ずーっと先になっていた。
日本文明の近代は
日清戦争、日露戦争はもちろん、
第1次世界大戦にも間に合っていなかった。

 日本の明治の近代化は、
奇跡と言われるほど一気に進んだ。
驚異の明治近代化は、
多くの英雄や政治的な葛藤で語られている。
しかし、日本列島の地形を貫き、
日本人を東京へ集中させた
鉄道インフラが近代化を
なし遂げたことは語られない。
ましてや400年前、
家康が五街道整備を命令したことが、
近代文明の鉄道の登場と
国民国家の誕生の鍵になった
など思いもよらない。
 
 1601年、家康は江戸に
情報集中させる五街道の整備を命令した。
江戸時代、街道は情報を江戸に集中させた。
260年後の明治近代、
鉄道は東京に情報を集中させた。

 交流軸は細長い列島の人々を
共同体にまとめ、
日本文明の近代化を素早く実現させた。

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