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吉野ケ里遺跡の謎のエリアで見つかった石棺墓からは副葬品は見つからなかった

1:777 :

2023/05/31 (Wed) 05:44:26

吉野ヶ里遺跡で新たに見つかった「石棺墓」 誰が埋葬されていたのか? 専門家の見解は 【佐賀県】
2023/06/15
https://www.youtube.com/watch?v=-YL8GG6Y_-s&t=112s

“邪馬台国論争”を決定づける世紀の大発見が期待されましたが、人骨や副葬品は見つかりませんでした。
では、墓には誰が埋葬されていたのか?
吉野ヶ里遺跡の調査に長年関わり「ミスター吉野ヶ里」とも言われる考古学者の高島忠平さんに話を聞きました。





吉野ケ里遺跡「石棺」調査が底に 全体に赤色顔料 シャーマンか(2023年6月14日)
https://www.youtube.com/watch?v=qIewOv6JCZ8

 佐賀県・吉野ケ里遺跡で、先週ふたが開けられた石棺墓の調査で14日、土の掘り起こし作業が棺の底の部分まで達しました。長年にわたる邪馬台国論争。九州説につながる発見はあったのでしょうか。

■吉野ケ里遺跡「石棺」調査が底に

 謎のエリアで発掘された石棺。先週、初めて棺のふたが開いた際には棺いっぱいに土が詰まっていました。その土を9日、12日と徐々に取り除き、進められていた発掘調査。

 佐賀県文化財保護・活用室、白木原宜室長:「副葬品にしても、人骨にしても、残っているのは棺の一番下になっているから、そこにたどり着くまで分からない」

■全体に赤色顔料 シャーマンか

 そして13日時点で棺の底に残された土は厚さ2、3センチ。何か見つかったのでしょうか。

 佐賀県文化財保護・活用室、白木原宜室長:「お棺の中全体に赤色を塗っていたのだろうと想定できる」

 棺の中に残っていた赤色顔料。それが棺全体に広がっていたといいます。

 佐賀県文化財保護・活用室、白木原宜室長:「(赤く)塗っていること=高貴な人物という方程式はないが、お棺の中を赤く塗ること自体がお墓全体のなかでは極めて少ない数」

 発掘現場の北では、シャーマンと考えられる人骨も出土しています。

 佐賀県文化財保護・活用室、白木原宜室長:「(ここも)卑弥呼かどうかは分からないが、吉野ケ里の集落にとって特殊な人間だったとは言えると思う」

 一方で、棺の中に肉眼で確認できるのは相変わらず「土」。

 佐賀県文化財保護・活用室、白木原宜室長:「副葬品は今のところ見当たりません。人骨も…見当たりません」

 土の厚さは残すところ2、3センチです。

 佐賀県文化財保護・活用室、白木原宜室長:「土があと2、3センチ前後。その中に入っているかどうか」「(Q.あるかないか見通しは?)こればっかりは分からないです」

 結論は14日に持ち越されました。

 佐賀県文化財保護・活用室、白木原宜室長:「けさ、棺の底に到達しました。副葬品、人骨は確認できませんでした。えー…というのが現状であります」「(Q.邪馬台国の墓である可能性は?)邪馬台国の誰の墓なのかは、考古学的な成果からは言及できない」

■副葬品見つからず 奈良県は?

 この結果に、ライバル、邪馬台国・畿内説をアピールする奈良県桜井市では。

 桜井市観光まちづくり課・岡本喜一課長:「今回、確定的なものが出なかったということですので、まぁ一安心ですね。はい」

 それと同時に。

 桜井市観光まちづくり課・岡本喜一課長:「色々な諸説があるからロマンがある」

 発掘にあたった白木原室長も。

 佐賀県文化財保護・活用室、白木原宜室長:「(Q.ワクワクはした?)もちろん、ワクワクしてます」

 ワクワクしている、現在形。古代史のロマンは続きます。





石棺は弥生後期有力者の墓 吉野ケ里初、副葬品なし
2023.06.14共同通信

 佐賀県は14日、吉野ケ里遺跡の「謎のエリア」で見つかった石棺墓の発掘作業を終えた。被葬者の身分や時代の特定につながる人骨や副葬品は見つからなかったが、墓の立地状況などから、同遺跡では初となる弥生時代後期の有力者の墓と結論付けた。石棺内には全面的に赤色顔料が塗られていた可能性が高いことも判明した。

 同日記者会見した山口祥義知事は「まだ発掘していくので期待してほしい」と述べた。県は、約4千平方メートルの発掘対象地域のうち、未着手の約4割についても今年9月から調査する方針。

 県によると、石棺墓は10枚の石と4枚のふた石だけで構成され、底は地面のままだった。
https://www.47news.jp/9456533.html


▲△▽▼


佐賀の風景 第28弾 『吉野ヶ里歴史公園~吉野ヶ里遺跡~』<国の特別史跡>(神埼市、吉野ヶ里町)
2021/09/12
https://www.youtube.com/watch?v=zfmQwKvGtPY&t=75s

脊振山地から南に張り出す舌状台地の上に吉野ヶ里遺跡はあります。ここに佐賀県の工業団地を造る計画が持ち上がる中、遺跡の価値が改めて認識され、昭和61年から本格的な文化財の発掘調査が行われました。その結果、我が国弥生時代最大規模の環壕集落であることが確認され、また魏志倭人伝に記された邪馬台国の様子を彷彿とさせる建物跡などが発見されたことにより、一躍全国の注目を集めました。
 平成4年に国営吉野ヶ里歴史公園として整備することが決定され、さらに国営公園区域の周辺に佐賀県の公園区域を設け、国と県が一体となった歴史公園として、平成13年4月からその一部が開園されました。
 歴史公園「環壕集落ゾーン」には、最盛期だった3世紀後半の吉野ヶ里遺跡の巨大環壕集落が復元され、祭祀をおこなった北内郭、その時代、ムラを治めた王の墓、南内郭には、弥生時代の日本の様子が記された中国の史書 魏志倭人伝の邪馬台国の記述にある「宮室、楼観、城柵厳かに設け」に合致する物見櫓と環濠などの遺構が復元され、日本の歴史を語る上で大変重要な遺跡であり歴史公園でもあります。



吉野ヶ里遺跡 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%90%89%E9%87%8E%E3%83%B6%E9%87%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1

吉野ヶ里歴史公園 - Google マップ
https://www.google.com/maps/place/%E5%90%89%E9%87%8E%E3%83%B6%E9%87%8C%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%85%AC%E5%9C%92/@33.3239366,130.3887596,17z/data=!3m1!4b1!4m6!3m5!1s0x3541ba01fcf6e05f:0x59dd48402b9d5234!8m2!3d33.3239366!4d130.3887596!16s%2Fm%2F02660bp?entry=ttu



平原遺跡 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1

箸墓 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%AE%B8%E5%A2%93

邪馬台国 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD
2:777 :

2023/05/31 (Wed) 05:46:12


公式サイト 吉野ヶ里歴史公園, 公園事務所
https://www.yoshinogari.jp/


吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵にある遺跡。国の特別史跡に指定されている。

およそ117ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落(環壕集落)跡で知られる。1986年(昭和61年)からの発掘調査によって発見された。現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園である。

遺構

佐賀県東部は標高1,000メートル前後の脊振山地を北端に、脊振山地南麓の丘陵地帯、佐賀平野、有明海へと移るにつれて標高が低く、南に開けた地形となっている。吉野ヶ里丘陵はこの脊振山地南麓の丘陵地帯の1つである。

吉野ヶ里遺跡の最大の特徴とされるのが集落の防御に関連した遺構である。弥生時代後期には外壕と内壕の二重の環濠ができ、V字型に深く掘られた総延長約2.5キロメートルの外壕が囲んでいる範囲は約40ヘクタールにもなる。壕の内外には木柵、土塁、逆茂木といった敵の侵入を防ぐ柵が施されていた。また、見張りや威嚇のための物見櫓が環濠内に複数置かれていた。大きな外壕の中に内壕が2つあり、その中に建物がまとまって立てられている。北の集落は北内郭、南の集落は南内郭と命名されている。

内郭の内外に建物の遺構が発見された。竪穴建物、高床建物は祭祀に携わるものやその側近が暮らしていたと考えられており、祭祀が行われる主祭殿、東祭殿、斎堂とともに内郭の中で見つかっている。また、食料を保管する高床倉庫、貯蔵穴、土坑、青銅器製造の跡なども発掘された。

多数の遺体がまとまって埋葬された甕棺、石棺、土坑墓は、住民や兵士などの一般の人の共同墓地だと考えられている。一方、遺跡の南部と北部にあわせて2つの墳丘墓(それぞれ「北墳丘墓」「南墳丘墓」と命名されている)があり、こちらは集落の首長などの墓ではないかと考えられている。発掘された甕棺の中の人骨には、怪我をしたり矢じりが刺さったままのもの、首から上が無いものなどがあり、倭国大乱を思わせる戦いのすさまじさが見てとれる。また、ガラス製の管玉などの装飾品が一緒に埋葬されたものも多く見つかっている。

多数の土器、石器、青銅器、鉄器、木器が出土している。勾玉や管玉などのアクセサリー類、銅剣、銅鏡、織物、布製品などの装飾品や祭祀に用いられるものなどがある。1998年には銅鐸が遺跡の周辺部で発見された[1]。九州北部で製造されたと推定されており、形状から福田型銅鐸とみられている。

出土した遺構や出土品には、九州北部をはじめとした日本各地のものと共通・類似した特徴を持ったものが見られるほか、中国大陸、朝鮮半島、南西諸島ともさまざまな面で共通性・類似性が見られる。

また、遺跡内にある3基の前方後方墳は、弥生時代の集落が消滅した跡に造られたと考えられている。


歴史

縄文時代
縄文時代後期には、吉野ヶ里丘陵の周辺部に人が生活していたと推定されている。

ここに人が生活し始めた大きな理由として、この地域が海と近かったことがあると考えられている。最終氷期が終わり温暖となった縄文時代前期には、縄文海進と呼ばれる海面上昇があり、有明海は吉野ヶ里丘陵の南端付近まで広がり、遺跡から2-3キロメートルほどの距離にあったと推定されている。

有明海は干満の差が平均で5-6メートルと大きく、また遠浅の干潟を持つ。この干満の差や筑後川などの河川を利用した水運に優れたこと、また貝やカニといった食料が豊富に得られたことなどの好条件が揃い、この地域に人の定住が始まったと考えられている。

弥生時代
紀元前4世紀頃には、吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成され始め、これが大規模な集落へと発展することになる。

前期には、吉野ヶ里丘陵のところどころに分散して「ムラ」ができ始める。また、南のほうの集落に環濠が出現する。

中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現する。集落が発展していくとともに、防御が厳重になっている。また、墳丘墓や甕棺が多く見られるようになる。大きな墳丘墓になると南北約46メートル、東西約27メートルの長方形に近い墳丘で、高さは4.5メートル以上あったと推定されている。頂上から墓壙を掘って14基以上の甕棺を埋葬しているものもあり、本州の他の地域でも見当たらない。

後期には、環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化し、3世紀ごろには集落は最盛期を迎える。北内郭と南内郭の2つの内郭ができ、文化の発展が見られる。甕棺の数などから推測しておよそ1,200人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では5,400人くらいの人々が住んでいたと推測される。

海岸線は次第に遠ざかり、この時代には神埼市千代田町や佐賀市諸富町付近にあった。筑後川の河口もまたその付近に移ったと推定され、遺構からは港のようなものがあったと推定されている。[2]吉野ヶ里丘陵は東西両岸を流れる城原川と田手川を通して、この港と交流を持ったと考えられている。

吉野ヶ里墳丘墓のルーツは、朝鮮半島を経由せずに中国江南もしくは山東半島から北部九州に直接伝わったとする研究がある[3]。

古墳時代
古墳時代の始まりとともに、吉野ヶ里遺跡の濠は大量の土器が捨てられ、埋め尽くされてしまう。集落はほぼ消滅して離散してしまう。このようなことは、近畿地方や各地の環濠集落も同じような経過を辿る。

また、高地性集落も消滅する。それは、戦乱の世が治まり、もう濠や土塁などの防御施設や高地性集落の必要性がなくなったからである。古墳時代になると吉野ヶ里遺跡の住居は激減し、丘陵の上は墓地として、前方後円墳や周溝墓などが築かれた。人々は、低湿地を水田に開拓出来るようになり、生活の基盤を平野に置くようになった。

律令制時代
奈良・平安の律令制時代には、神埼郡の役所的な性格の建物があったと推定されている。

律令制時代には土地の区画整理を条里制と言ったが、「吉野ヶ里」の「里」はその呼び名が今も伝わって残っているもので、旧神埼郡内には他にも「○○ヶ里」という地名が多く見られる。

近代以後
佐賀の乱の際は付近で激戦が展開された。昭和になると、弥生土器や甕棺墓などの遺物の出土が見られるようになり[4]、少数ながらもこの遺物や遺構を学術的に研究する動きが始まる。しかし、大きな盛り上がりを見せることはなかった。

工場団地造成計画
1970年代に、農地や果樹園造成、土採りによって遺跡の一部が壊される。また、このころから吉野ヶ里丘陵一帯の広い範囲で甕棺が出土するようになった。また、県立高校の移転改築の候補地になったが、広範囲にわたって遺物が出土していたため断念された。

1970年代後半に佐賀県によって調査が計画されたが、事前調査に追われて実施に至らなかった。

1980年代に入って、企業誘致の為に佐賀県は吉野ヶ里丘陵南部に工場団地の開発を計画する。その際文化財発掘のための事前調査を1983年(昭和58年)から始める。1986年(昭和61年)の本格調査によって、約59ヘクタールもの広範囲に遺跡が広がっていることが判明し、県は工場団地計画を縮小する。

本格的な発掘

発掘中の現場(2000年)。発掘は長期に亘り続いている。
考古学者の佐原真をはじめとして、県や市民団体による啓発活動が高まりを見せ、1989年(平成元年)2月23日、一部の報道機関によって大々的な報道が始まる。ちなみに、この前日の2月22日が「吉野ヶ里遺跡で大規模な環濠集落が発見された日」とされている。これにより連日全国から大勢の見学者が訪れるようになり、同年3月には県は遺跡と重複する地域の開発を中止する。

その後1990年(平成2年)5月に史跡、1991年(平成3年)4月に特別史跡に指定され、1992年(平成4年)には閣議によって国営歴史公園の整備が決定する。

報道がなされた当初は邪馬台国に関係する遺跡ではないかとも見方もあり、一部で九州王朝説も取り上げられた。現在は、九州北部にあった複数の「クニ」の1つに過ぎないのではないかという見方もされている。

なお、2006年(平成18年)4月6日に日本100名城(88番)に選定されている。

吉野ヶ里遺跡とその周辺部の117ヘクタールが公園として整備されることが決定されている。公園としての整備が決定した後、公園となる部分の最終調査を経て、遺跡の状態を損なわないように盛土によって保存し、その上に復元や植樹を行い公園整備を行った。整備計画区域内にはまだ発掘を終えていない部分が多数残っており、発掘が完了したところから順次整備が進められ公園を拡張している。2001年の開園当初は47.3ヘクタールだったが、2017年7月現在は計画の9割にあたる104ヘクタールが公園として利用されている。

都市公園法に基づく国営公園部分と県営公園部分があるが、管理運営は国及び県からの共同での代行(指定管理者)という形で一般財団法人公園財団が受託し[7]、公園内に「吉野ヶ里公園管理センター」を設置して行っている。また、整備は国土交通省の出先機関である九州地方整備局 国営海の中道海浜公園事務所 歴史公園課と県の出先機関である神埼土木事務所がそれぞれの整備計画に基づいて行っている。なお、発掘調査関係は佐賀県教育委員会の管理となっている。

吉野ヶ里歴史公園で実際に復元されているのは、環濠、竪穴建物、高床建物、物見櫓、柵、逆茂木、高床倉庫、墳丘墓などである。多くは柱の跡や木材が遺構として残っており、これをもとに復元されている。遺構の保護やさらなる発掘のため、もともとあった場所から異なる場所に復元されたものもあるが、盛り土をして遺構を保護した上で真上の同じ場所に復元されたものもある。

また、遺跡の周辺部では、遠くからも分かる目印として物見櫓が立てられているところもある。公園の南端はJR九州の長崎本線に接しており、同線の吉野ケ里公園駅と神埼駅の間では列車内から物見櫓等の建造物を遠望することができる。

出土品の多くが、公園内にいくつかある施設内に保管され、展示が行われている。実際に手で触ることができるものもある。

公園では、「弥生人の声が聞こえる」をテーマに整備・情報発信を行っている。年に十数回イベントが企画され、古代の文化や生活の体験ができるほか、多くの店も並ぶ。テーマのように、弥生人の生活を再現したイベントや企画が多く、勾玉などの装飾品の試作、当時の衣服の試作・試着、古代米の育成、当時の食事体験などの参加型のものが多数ある。

広い公園内は、レストランや売店のある入り口ゾーンおよび、それぞれ趣旨の異なる3つのゾーンに大きく区分されている。「環濠集落ゾーン」では多数の遺構が復元されており当時の様子を垣間見ることができるほか、出土した土器や装飾品などを陳列した展示室、発掘や土器復元を見学できる施設、体験工房などが設けられている。「古代の原ゾーン」は主にレクリエーションを行うゾーンで、広場・水辺や遊具、野外炊事コーナー、赤米などの古代米を栽培する水田などが設けられている。「古代の森ゾーン」は整備中のゾーンで、官衙跡の復元、古代植物の栽培、キャンプ場などが計画されている。

12月31日および、1月の第3月曜日とその翌日が休園日であるのを除き、原則として毎日開園している。開園時間は9時から17時までで、6月から8月までは18時まで延長されている。

維持管理や整備の資金源等を目的として、入園料や駐車料金を徴収している。中学生以下の割引、65歳以上の割引、団体割引、身体障害者割引が設定されているほか、年間パスポート、無料開放日もある。また、一部の体験イベントは有料となっている。


日吉神社
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓の西側から東へ約150mの位置に日吉神社がある[8]。この日吉神社はもとは吉野ヶ里遺跡の小高い丘陵上(吉野ヶ里丘陵地区I・IV・IX区の中心)に存在した[9]。この丘陵上の神社敷地内では甕棺墓の石蓋とみられる板石や弥生土器片などの散布が確認されており、甕棺墓を中心とする遺構が多く埋蔵している可能性が高いとされ、本区域から東に約100m離れた位置にある墳丘墓(ST1001)との関係性なども指摘されていた[9]。また、この神社敷地内を含めた一帯は「日吉城」と推定される山城跡でもある[9]。

しかし、日吉神社が鎮座していたことから神社敷地内では発掘調査が全く行われず、神社敷地内は史跡指定地には含まれているものの、国営吉野ヶ里歴史公園区域には含まれていない状況だった[9]。

2022年に北墳丘墓の西側から東へ約150mの位置に土地を造成して本殿と拝殿を建て、鳥居や鈴を引き継ぎ、2022年9月18日に移転新築工事の落成式が行われた[8]。2023年5月29日、4月末にこの未発掘だった区域で邪馬台国時代のものとみられる石棺墓が新たに見つかったことを、佐賀県が会見を開き発表した[10]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E3%83%B6%E9%87%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1
3:777 :

2023/05/31 (Wed) 05:51:53

日本語のルーツは9000年前の西遼河流域の黍(キビ)農耕民に!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14019324

金平譲司 日本語の意外な歴史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14020106

DNAからみた縄文人と弥生人 神澤秀明(国立科学博物館)
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14088258

縄文人と弥生人 「日本人の起源」論争
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14058699

朝鮮人の起源
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14036232

朝鮮の無文土器時代人が縄文人を絶滅させて日本を乗っ取った
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007681

被差別同和部落民の起源 _ 朝鮮からの渡来人が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007586

天皇家は伊都国を本拠地として奴隷貿易で稼いでいた漢民族系朝鮮人
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007686

天皇家は2世紀に伊都国から日向・大和・丹後に天孫降臨した
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007799

神武東征 _ 当時世界最大の水銀生産地は奈良で、神武東征も水銀獲得の為だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007798

邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007801

ここまで分かった! 「古代」謎の4世紀
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14080144

5~7世紀(三国時代) の朝鮮人は現代朝鮮人と同じだった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14059584

考古学から見た新羅, 百済, 大加耶の対倭交渉 -5世紀前半代を中心にㅣ 高田貫太
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14092198
4:777 :

2023/05/31 (Wed) 05:56:44

邪馬台国が奈良県以外では有り得ない理由


2008.9.28
邪馬台国の会 【特別講演会】 柳田康雄先生  伊都国と邪馬台国
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm

1.伊都国と邪馬台国  柳田康雄先生


私は伊都国とは深い関わりがある。平原遺跡を始め数多くの遺跡の発掘に携わり、平原遺跡の巨大鏡を始め120枚以上の鏡を発掘した。

平原遺跡については発掘後20年以上になるが、ようやく報告書を刊行することができた。

今日は、これらの経験を踏まえて、邪馬台国に入る直前までの北部九州(福岡、佐賀)の状況について解説する。

■ 弥生時代のクニと国の出現

弥生時代の集落を村とすると、それを束ねているのを考古学で、カタカナで「クニ」 という。そして、この「クニ」が「国」に発展する。

現在、発掘が進んでいる早良(さわら)平野に、弥生中期の初め(紀元前200年前後)に 出現した遺跡があり、朝鮮半島の青銅器がはじめて副葬品として現れる。

そのなかの吉武高木遺跡は青銅器が副葬される率が高い。なかには、1人で銅剣、銅戈4本を持ち、小さいが「多鈕細文鏡」という鏡を持ち、勾玉を持つものがある。

銅剣を1本もっている集落が周辺にいくつか散らばっている。 この地域ではこのような銅剣は合計15~16本出ているので、これは、吉武高木遺跡を中心に付近の村を統率した「クニ」が出現していたと考える。

弥生時代初期からある板付遺跡は福岡平野の拠点集落であるが、ここには弥生中期の初めに銅剣、銅矛7本が出てくる墳墓が出現する。しかし福岡平野の他の地域からは出てこない。

少し後の弥生中期の中ごろ以後、春日平野の須玖岡本遺跡に青銅器が集中する。青銅器を作る工房も集中する。ここでは銅鏡30枚、銅剣、銅矛が8~10個出土した甕棺が出現する。

福岡平野は、中期のはじめから前半は板付遺跡中心に発展するが、中頃をすぎるとすべてが須玖岡本遺跡に集中する。 博多駅の近くの比恵から、那珂を経て春日市の須玖遺跡に至るそれぞれ100ヘクタール級の広さの地域に遺跡が途切れなく存在する。

発掘は大字、小字ごとにやっているので、その単位で遺跡の名前が付けられているが、この地域の遺跡は連続した遺跡であり、環濠を設けることなしに繋がっている。

30ヘクタールほどの吉野ヶ里が最大の環濠集落といわれているが、伊都国では三雲地域を発掘した時にすでに40ヘクタールの広さがあり、井原鑓溝遺跡の調査で、60ヘクタールにもなる遺跡であることがわかった。考古学では環濠集落でないと拠点集落と言わない風潮があるのはおかしい。

須玖岡本遺跡はわずかな丘陵にはいるので、平野に面したところだけに環濠がある。環濠の内側の春日丘陵の地域は100ヘクタール以上にもなる一つの単位集落と思われる。

比恵那珂遺跡は弥生終末には、側溝を持つ幅6~7mの縦貫道路遺溝が出てくる。比恵遺跡では幅20mの運河が出てくる。

吉野ヶ里、池上曽根、唐子鍵を取り上げて弥生都市について議論されることがあるが、この地域の遺跡と比べるとこれらの遺跡は規模が小さく、どんぐりの背比べである。

弥生中期の段階で首長墓が出てくる。弥生中期の終わりに、いままでは朝鮮半島との 交流ばかりであったが、福岡平野の首長墓から中国の鏡が出てくる。

これは全部前漢時代の 鏡である。三雲南小路遺跡からは1号甕棺と2号甕棺の合計で57枚の前漢鏡が出土した。

三雲南小路の1号甕棺は、金銅製の埋葬用の飾り金具(下図の8)が発見されている。これは、皇帝が王侯クラスに下げ渡した物で、1号甕棺が王墓であることを示している。


2号甕棺は22枚の小型鏡が出ているが、ペンダントや勾玉が多数出ていることや、武器がないことから女性の墓と考えられている。

なお、昔に発掘されたもので、金ぴかなものなど価値のありそうなものは持ち去られたりして申告されていない可能性がある。 このようなことも考慮しないと、出土物についての研究では誤る可能性がある。


井原鑓溝遺跡は江戸時代に発掘され、鏡の鈕が21個あったことから少なくとも21面の鏡があったとされる。鉄刀や鉄の鎧なども発見されていることから王墓級の墓である。ただし、大型鏡がない。


最近の発掘では、井原鑓溝遺跡から割竹型の木棺墓が発見され鏡やガラス玉が多数出土している。割竹型木棺は4世紀の前期古墳からしか出ないと言われていたが、伊都国では弥生時代後期のはじめから出る。

九州では甕棺が注目されるが、甕棺と同時に木棺がある。大阪の場合は河内湖があって、木材が水に浸かって残るので発見しやすい。しかし九州では大地の中だと木棺が腐ってしまうので発見しにくい。しかし、最近は技術の進歩で木棺が分かるようになった。

このように、弥生中期後半から後期の初めにかけて、北部九州は鏡をはじめとした副葬品をもった墳墓が大量に増える。しかしそれは伊都国だけである。福岡の奴国と言われているところからはほとんど出て来ない。

後漢からもらった金印が志賀島から出土したが、委奴国と彫られた金印の文字を「倭の奴国」と読んで福岡平野の国とすると、鏡が奴国から大量に出ないのはおかしい。金印の読み方はいくつか提案されているが、「倭の奴国」とは読まないのではないか。

吉野ヶ里からは鏡のかけらは出てくるが鏡が出て来ない。吉野ヶ里は福岡に持ってくれば普通の遺跡。福岡では土地の値段が高いので吉野ヶ里のような大規模な発掘はできないのが残念。現在の吉野ヶ里は宣伝などで過大に評価されている。そのため考古学者はそっぽを向いている。

■ 平原遺跡

平原遺跡の1号墓は王墓である。寺沢薫氏などの近畿の一部の考古学者も王墓と認めるようになった。

王墓もランクがある。鏡の大小や数だけでなく、いろいろな要素で決まる。

王墓には鏡がなければいけない。4世紀までの初期の前方後円墳の副葬品は鏡が主体である。

鏡を副葬品の主体とする墳墓は、弥生時代では三雲南小路遺跡と須玖岡本遺跡、平原遺跡だけである。

棺の主軸近くにある柱跡と、少し離れたところにある大柱の跡を結ぶ線を延長すると、日向(ひなた)峠に向かっている。

10月20日ごろの収穫の時期に日向峠から日が昇るので、何か関係があるかも知れない。

墓には長さ3mの刳抜式木棺があり、大量の朱が蒔かれていた。

頭と足の付近で大量に見つかった鏡の破片のうち、頭付近の破片は全て元の鏡に復元できた。

墓坑のコーナに柱穴の跡があり、木槨があった可能性がある。ホケノ山古墳と同じよう、副葬品は木槨の上から落ちてきているように見える。


出土した前漢鏡(上図左)は直径16センチもあり、この型式の鏡としては中国でもトップクラスのもので、楽浪郡でも見つかっていない。平原の王が中国の外臣の中でも上位として扱われた証拠であろう。

この鏡は、カドが丸くなっていて、周りがすり減っている。前漢末に作られたものが、平原の王の時代まで伝世されたものと思われる。

また、直径21センチの方格規矩四神鏡(上図右)は、京都大学の岡村秀典氏の編年では、漢鏡4期から5期の鏡で、1世紀前半から中頃のものとされる。

しかし、後漢の始めの鏡とすると、銘文は鏡の上から始まるのだが、この鏡では下側から始まっているのはおかしい。

また、後漢の鏡では四の文字を横棒四本で現すのが特徴であるのに、ここでは四の文字を用いている。

つまり、この鏡は岡村氏の言うような中国の鏡ではなく、日本で作られた製鏡である。

平原からは40枚の鏡が出土しているが、直径46.5cmの超大型内向花文鏡や、直径27cmの内向花文鏡も中国にはなく、製鏡と思われる。

平原王墓から、楽浪郡などでも出土するガラス耳(じとう:ピアス)が出てくる。

耳は女性の墓からしか出ないので、平原王墓の被葬者は女性であると判断できる。

耳は時代が降るに従って端部の広がりが少なくなり管玉のようになる。

平原出土の耳は端部の広がりがほとんど無く、後漢の終わり頃のものと考えられている。発掘主任の原田大六氏はこれを琥珀の管玉としていた。

平原王墓からは、ガラス連玉、ガラス小玉、細型ガラス管などが多数出てくる。

右図上段左の連玉は直径5ミリ長さ2センチほどのものだが、高度な技術で作られており、内側は薄い空色で外側が紺色の二重構造になっている。

平原王墓を始め伊都国の地域からは、加工途中のものを含め大量のガラス玉や小玉が出てきており、この地域が高い技術でガラス飾りや玉を製作していたことがわかる。

三雲の弥生終末の遺跡からファイアンス(ガラスの釉薬をかけた焼きもの)が出てきている。

ファイアンスは地中海地域が起源で、エジプト・メソポタミアや中国にもあるので、海のシルクロード経由で南方からもたらされた物である。

伊都国地域のガラス玉の技術も南方から海を経由して入ってきたものであろう。

■ 弥生終末から古墳時代

福岡市の那珂八幡古墳は九州で最も古い時期の前方後円墳である。前方部がやや長めだがその形から纏向型前方後円墳であろう。

このような古墳は小さいものを含め、福岡県には多数あるが、唐津を除くと佐賀県にはない。

弥生時代の福岡県の王墓・首長墓を、副葬品の数などの要素から5段階のランクを付けて表に整理してみた。

この表を見ると弥生後期では圧倒的に伊都国の地域に権力が集中していることがわかる。

北部九州の地域では、弥生王墓から初期の前方後円墳に権力が繋がっているのである。

近畿地方でもこのような表を作って検討して欲しい。近畿で前方後円墳が発生したとするなら、福岡地域のように弥生時代から繋がっていないとおかしい。

近畿地方の前方後円墳は、主体部の構造や副葬品については九州の影響を受け、円形に突出部がでた輪郭のデザインは吉備から東瀬戸内の要素である。

近畿の古墳は、独自に発展したものではなく、これらの地域の影響を受けて出来たものである。

弥生終末と古墳出現の時期はAD200年頃と考える。卑弥呼は2世紀の終わりごろ共立されたとすれば、その墓は古墳が出現した近畿の大和であり、卑弥呼の邪馬台国は古墳時代の近畿の大和にあったと考えられる。

考古学者の中には、邪馬台国は弥生時代にあったと考える人がいる。邪馬台国が弥生時代から存在したとすれば、首長墓のある伊都国しかその候補はない。

平原が卑弥呼の墓ではないかという話があるが、そうは考えていない。平原の被葬者は卑弥呼と親子関係なのではないか。

2.柳田先生の論点                             安本美典先生


邪馬台国論争そのものは、いずれ別の機会に行いたいと思うので、今回は論点の整理をしてみたい。

■ 考えの一致する部分と異なる部分

柳田先生は著書『伊都国を掘る』のなかで、原田大六氏の発言を引用して「考古学的事象は日本の原始・古代に関するかぎり、古事記や日本書紀の「神代」神話をさけて通ることは出来ない。」と述べているが、これについてはまったく同感である。

また、「これまで、多くの研究者が平原王墓を無視してきたが、そのために邪馬台国問題や古代国家形成で避けて通れない古墳出現期の諸問題の研究に多くの時間がかかった。今後は、古墳出現期の研究に対して、平原王墓を正面から評価し、その研究に取り組んで欲しい。」とする考えについても賛成である。

邪馬台国に関連する部分では、柳田先生の考えは「伊都国東遷説」ともいえるような内容である。すなわち、邪馬台国は大和朝廷の一時期の姿であり、大和朝廷は九州で発生し、邪馬台国時代以前に畿内に移ったと考えておられる。邪馬台国は畿内にあったことになる。

いっぽう、安本先生は、九州勢力が畿内に移ったのは邪馬台国時代の後であり、邪馬台国は九州にあったとする。

北九州勢力が畿内に移ったとする点では、柳田先生と安本先生の考えは同じであり、中山平次郎や和辻哲郎が述べていた「北九州の弥生文化と大和の古墳文化の連続性」や「大和の弥生文化を代表する銅鐸と、古墳文化の非連続性」は、このような考えと整合するものである。

骨組みの所で意見が異なるのは、北九州勢力が近畿地方に移動する時期の違いである。


■ 洛陽焼溝漢墓出土鏡の時期について

洛陽の焼溝漢墓の鏡の年代の、日本での紹介のされ方がおかしい。洛陽焼溝漢墓の鏡の年代は平原遺跡の年代にも関係する重要なことである。

下表は、奥野正男氏の『内行花文鏡とその製鏡』(季刊邪馬台国32号)による。ただし、後漢晩期の年代幅は、もとの報告書に基づき安本先生が訂正。

平原遺跡から、長宣子孫内行花文鏡が出土している。長宣子孫鏡は、焼溝漢墓では、第六期に最も多く出土する鏡である。

奥野氏は、第六期を後漢晩期として、後147~160という年代幅を与えていたが、もとの報告書では、西暦190年の年号が記された入れ物から第六期の鏡が出土した記録があり、第六期は少なくとも190年まで時代を広げるべきである。

柳田先生は、平原遺跡を西暦200年ごろと見ておられるので、長宣子孫鏡が洛陽で190年ごろに使用されていたことと年代的には整合することになり、平原の年代についての柳田先生の見解に納得できる。

ところが、京都大学の岡村秀典氏は、平原遺跡でも出土した長宣子孫鏡を漢鏡5期とし、紀元75年頃の鏡としている。平原を200年ごろとする柳田先生とは、100年以上年代が異なっているのはおかしなことである。


3.対談                         柳田康雄先生 VS 安本美典先生


■ 平原遺跡について

安本: 副葬品から考えると平原遺跡を卑弥呼の墓と考えてもおかしくない。しかし、『魏志倭人伝』には、卑弥呼の墓は径100余歩と記されている。魏の尺度では100余歩は100m以上になるが、平原遺跡全体に土を持った墳丘としたとき100m以上になる可能性はあるのか?

柳田: 14m×10mくらいの方形周溝で区切られているので、まったく無理である。周溝があると言うことは、掘った土を盛り上げるので、もともとは墳丘があったはずだが、100m以上にはなり得ない。

安本:女性の墓か?

柳田: 弥生時代で一番大きな素環刀太刀が出てきているが、女性の墓からしか出土しない耳(じとう:ピアス)が出土しており、女性に間違いない。

また、女性の墓とされている三雲南小路2号墳と同じように、小型の鏡に色を付けて模様を塗り分けていることからも女性の墓といえる。

■ 三角縁神獣鏡と庄内式土器の初現

安本:柳田先生の著書に「現在のところ布留式土器より古い土器が伴い、確実に質のよい三角縁神獣鏡を副葬しているのは九州の前方後円(方)墳のみである。」という文章がある。これを素直に理解すれば、三角縁神獣鏡が出てくるのは、畿内より、九州の方が早いということになるが・・?

柳田: 土器で見ると、庄内式土器の一番新しい物と三角縁神獣鏡がいっしょに出るので、三角縁神獣鏡は九州の方が先に出現したといえる。

■ 庄内式土器

安本: 庄内式土器が畿内で発生したことを疑っている。九州の方が早いのではないか?

柳田: 庄内式土器は圧倒的な量が近畿から出る。古い庄内式土器は九州では少ないが三雲遺跡で若干出てくる。しかし、近畿の人はこれを新しいと言う。私も土器の編年についてはみっちりやってきたがどこが新しいというのか良く判らない。私が見ると古いのもあるのだが数は圧倒的にすくないのは確か。

庄内以前の土器は単体で九州に流れてくるが、庄内式土器からは高坏や壺がセットで出現する。ここに大きな違いがあるので庄内式土器から古墳時代に移る。

九州の古墳では、那珂八幡古墳などから庄内式土器の新しい物は出てくるが、古いものは出ない。しかし、近畿と違って、庄内式土器の新しいものと三角縁神獣鏡がいっしょに出てくる。

■ ホケノ山古墳

安本:庄内式土器や画文帯神獣鏡を出土したホケノ山古墳から、布留Ⅰ式相当の小型丸底土器がでている。柳田先生も、土器の底部の形態変化は平底→凸レンズ状平底→とがり気味丸底→丸底という変化の方向であることを述べておられる。従って、小型丸底土器を出土するこの古墳は、かなり新しいのではないか?

『ホケノ山古墳調査概報』には、布留式相当の小型丸底土器と庄内式土器が同時期に使用された可能性が高いと記されている。そうすると、ホケノ山の庄内式土器の年代は、かなり新しい布留式土器の時代になるのではないか。

柳田: 当事者ではないので、確定的なことを言えない。一時、ホケノ山古墳は新しい布留式土器の時代との話もあったが、今年の2月の勉強会では、また古いとされているようである。

一般的に言えば、古い土器と新しい土器がいっしょに出たら新しい土器で年代を考えるのだが、発掘担当者などによる最近の勉強会では、ホケノ山のものは布留式土器の古いものが見つかったと解釈しているようである。

また、見つかった銅鏃は、普通にみれば布留式土器に伴う銅鏃であるが、これも、古い銅鏃という解釈をしているようだ。報告書をまとめる人たちは、古墳の年代を3世紀なかごろ以前と考えているようだ。

■ 伊都国と女王国の位置関係

安本: 『魏志倭人伝』には、女王国は伊都国の南にあることが、3回も書かれている。伊都国が糸島半島の国だとすると、その南の筑後平野は女王国の有力な候補であり、甘木や朝倉地域を邪馬台国の有力候補と考えている。

ところが、柳田先生の資料に「佐賀平野・筑後平野・筑豊地域などは邪馬台国の候補地どころか卑弥呼を共立した国にも含まれない」と書かれているので、甘木や朝倉は候補地ではないのか?

柳田: 考古学の立場で考えているので、初期の前方後円墳が出現していて、三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡が出ているところは候補地になる。

大願寺方形周溝墓、神蔵(かんのくら)古墳のある甘木・朝倉地域は、初期の前方後円墳が出現しているし三角縁神獣鏡も出ているので、候補地に含まれる。

文献学者は安本先生のような見方をする九州説の人が多いが、朝倉以南の筑後平野では、前方後円墳から三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡を出すところがないので、この地域が女王国だということは考古学的には証明出来ない。

■ 三種の神器

安本: 三種の神器が出てくる遺跡は須玖岡本遺跡、平原遺跡、三雲遺跡と言われたが、 すぐ南の東小田峰遺跡から璧がでているので、璧を玉と考え、剣、鏡も出土しているので、 三種の神器が出ているといえるのではないか?

柳田: 玉というのは勾玉ではないのか?

安本:璧という字は下に玉がついているので・・・

柳田:ははは、それなら認めます。(^_^)

璧を持っている三雲南小路や須玖岡本は最高ランクであるが、かけらを加工したものがその次に準じると國學院雑誌にはっきり書いた。

東小田峰遺跡では4分割以上したものを丸く再加工して璧に見せようとしている。更に璧のかけらを再加工して勾玉に見せようとしたものもあるので、東小田峰遺跡の例も勾玉と同レベルと考えて良い。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm  
5:777 :

2023/05/31 (Wed) 05:57:48

イト国からヤマトへー柳田康雄の説
2008-10-22
https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519938952.html



○福岡大学市民カレッジ、《邪馬台国を訪ねて 2》の第1回が、先日福岡市で開催された。表題は、その際の講師である柳田康雄氏の講義の題をそのまま利用させてもらった。その方が説明するのに分かり易いと判断したからである。

○もっとも、事前の案内では、「伊都国から邪馬台国へ」となっている。だから、本来の意図は、邪馬台国は伊都国から派生したものとするのであろう。今回の講師である柳田康雄氏の講義を聴いていて、その通りであることが分かった。

○「伊都国から邪馬台国へ」を「イト国からヤマトへ」と変更する理由について、資料の中で、氏は
   『魏志』倭人伝の世界は古墳時代であるから伊都国・奴国と表現するが、2世紀末以前の弥生時代
  では、「イト国」・「ナ国」としている。
とことわっている。古墳時代なら、伊都国・奴国であり、弥生時代なら「イト国」・「ナ国」とするのだそうである。

○最近、大和朝廷も、「ヤマト政権」と区別して表記するものが多くなっている。大和朝廷とヤマト政権では、随分概念が違うのだそうだ。それと同様に、「伊都国から邪馬台国へ」と「イト国からヤマトへ」も概念が違うのだろう。どうも学者先生の言葉は、煩雑で、煩わしくて仕方がない。

○要するに、イト国からヤマト国家が発生したことが言いたいのではないか。そして、その時代が弥生時代であることが言いたいらしい。だから、古墳時代である『魏志』倭人伝の時代には、ヤマト国家が成立していたという説である。『魏志』倭人伝が記載する倭国大乱の時に、ちょうど、イト国が東に進出し、ヤマト国家となったというのである。

○その理由として、柳田康雄氏は鏡の存在を指摘する。イト国から大量に出土した大型の鏡は、まさしく王のものにほかならない。だから、大型鏡が大量に出土したイト国こそが権力の中心地であり、古墳時代に大量の鏡が出土する近畿はイト国の後継者に過ぎないと言う仮説である。

○学者の妄想はすごいと言わざるを得ない。第一、『魏志』倭人伝には、邪馬台国は既出しているのである。それをわざわざヤマトとすること自体に不自然さを感じる。第二に、伊都国は邪馬台国とは同時に出現している全く別の国家である。そういうふうにきちんと『魏志』倭人伝は記録している。だから、伊都国と邪馬台国とは、全く別のものである。それを同一視すると言うか、イト国からヤマトへと発展したことなど、妄想以外のなにものでもない。

○かつて、三角縁神獣鏡をあたかも卑弥呼の鏡であるかのように喧伝し、同笵鏡論をことごとくしく唱えた人々がまたもや、同じ轍を踏むような気がしてならない。三世紀の発掘物を展示・例示して、それがまるで、邪馬台国や卑弥呼のものであるかのような表現を用いるのは、明らかに詐称であろう。北九州や近畿で出土したそれらのものは、確かに邪馬台国や卑弥呼と同時代のものかも知れないが、邪馬台国や卑弥呼とは、明らかに無関係の代物である。なぜなら、そこに邪馬台国が存在するはずがないからだ。学者であれば、願望と事実とは明確に区別すべきであろう。邪馬台国のものであって欲しいと言う願望と、単なる三世紀の遺物とでは、全く認識が違う。それが混同されて発表されている。

○今回の、柳田康雄氏の講義資料の冒頭に、次のようにある。

   『魏志』倭人伝は、日本古代史のなかで最も有名な史料である。しかし、すべてが正確に記述され
  ているとはいえないために権威ある学者の諸説だけではなく、学問に値しない奇説が横行している所
  以である。

○『魏志』倭人伝は、本当に『すべてが正確に記述されているとはいえない』のであろうか。意外に『魏志』倭人伝は正確である。私は、むしろ、三世紀に、あれだけ正確に日本のことを記録していることに驚異を覚える。『魏志』倭人伝を正確に読みさえ出来れば、ちゃんと邪馬台国に到着出来る。それは、対馬や壱岐国、末廬国、伊都国、奴国、不弥国にしたところで同様である。それから先が正確に読めないのは、むしろ読者の能力の問題に過ぎない。

○伊都国や奴国、不弥国までは、きちんと着いているのである。なぜ、そこから先に到達し得ないのか。それは中国の史書の読み方を知らないからに過ぎない。読者が不学なのである。何も努力しないで中国の史書が簡単に読めると言う考え方自体が間違っている。編者と言うか、著者は、おそらく三世紀最大の歴史家であろう陳寿である。作者の能力をを疑う前に、自分の能力を疑うのが筋であろう。誡言として、宮崎市定の言葉を贈りたい。

   このように『史記』においては何よりも、本文の意味の解明を先立てなければならないが、これは
  古典の場合已むを得ない。古典の解釈は多かれ少なかれ謎解きであって、正に著者との間の知恵比べ
  である。そしてこの謎解きに失敗すれば、すっかり著者に馬鹿にされて了って、本文はまっとうな意
  味を伝えてくれないのである。(「宮崎市定全集」第5巻『自跋』)

○宮崎市定ほどの大学者でも、中国の史書に悪戦苦闘しているのである。もっと謙虚になって『魏志』倭人伝を正確に読むことを心掛けるべきであろう。そうしない限り、妄論奇説ばかりが氾濫する結果となることは明らかだ。

○考古学者があれこれと邪馬台国を語る時代は、残念ながらもう終わった。邪馬台国はすでに発見されている。それを知りたければ、ブログ「魏志倭人伝を読む」・「邪馬台国の虚像と実像」を読めば明らかである。魏志倭人伝からしか、邪馬台国は出現しない。そんなことは考古学者にも分かっているはずだ。人の土俵で面白、可笑しく相撲を取ることは、いい加減止めるべきだろう。魏志倭人伝も邪馬台国も考古学の範疇外である。もちろん、良識ある考古学者がほとんどで、一部の考古学者に過ぎないのだろうが。
https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519938952.html
6:777 :

2023/05/31 (Wed) 08:20:58

吉野ヶ里では門のような鳥居の上に、木で作った模型の鳥がとまっている

鳥居から鳥が消えた日
2016年5月5日
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1336

神社と鳥居はワンセットになっている。

日本の神社になぜ鳥居が有るのかは、私なりの見解が有り、このHPにも書いた。
鳥居は神を封じ込める結界
http://artworks-inter.net/ebook/?p=162

日本の場合、畏敬すべき神の存在がメインなのだが、タブーとしての神に仕立て上げた存在も有る。

祟り神や怨霊神がそうである。

そのための鳥居や結界も存在する。



しかし、それは神道が形式化され整備されてからの事であり、それ以前の神道は各地さまざまな形で、その土地やその種族にあわせたものとして存在していた。

古代の神道は、古事記や日本書紀の記述に無い、日本の土着の神の存在の証明でも有る。



学問的呼び名で言うと原始神道というらしい。

これは、魔術的な不可思議なものではなく、先祖崇拝や祈祷や占いなどである。

鳥居の形にいろいろ有るのは、原始神道と現在までの神道の融合のせいも有るだろう。

また、神仏習合のせいもあるかと思われる。



しかし、人と神を分ける結界という考え方は同じようだ。



弥生時代の鳥居

先日吉野ヶ里にいった際、復元された弥生時代を見てそこに鳥居があるのを発見した。

壱岐の原の辻遺跡復元集落と同じような鳥居である。

門のような鳥居の上に、木で作った模型の鳥がとまっているのだ。

吉野ヶ里歴史公園
遺跡というのは、発見された時は穴ぼこだらけの土地である。

そこにあるものを、今までの研究に照らし合わせて復元する。

だから、復元模型は研究者たちの思い入れや、想像が入るのですべてを丸のみにして、信じるわけにはいかない。

だから、鳥居風の門の上に、木の模型の鳥があったのも、研究者たちの演出だと思っていた。



吉野ヶ里遺跡の職員の人に、何気なく木の模型の鳥の話しをした所、出土品として木の模型の鳥があったとの事でびっくりしたのだ。

鳥形木製品
恥ずかしながら、日本の鳥居のことばかりやっていたので、アジアに広がっている鳥のトーテムの事は、頭から消え去っていた。





穀霊信仰と鳥に対する崇拝
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

韓国のソッテという鳥のトーテム
http://satehate.exblog.jp/16749464/

ソッテ
鎌倉から、こんにちは
ソッテ(鳥竿)という木の鳥が居ます。
http://blog.kamakura-seoul2005.com/?eid=1062236

s-ソッテ(鳥竿)


壱岐の鳥居
(長崎県壱岐市芦辺町 原の辻遺跡) 撮影アートワークス

縄文や弥生といった時期には、当然神社と鳥居はないのだが、鳥居の起源として色んな説がある。

弥生時代に稲作が始まったと教科書では書いているが、稲作は縄文時代からおこなわれていた。

弥生時代に盛んになったのは、水田という手法が広まったという事である。



穀霊信仰と鳥に対する崇拝
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。吉野ヶ里歴史公園
鳥竿
日本野鳥の会関係のサイトには、「この鳥竿は、アジアの稲作地特有の風習で、優良な稲作地を探すときの目安として朝、鳥が多く集まるところに設置されたのが始まりといわれています」とあります。

確かに、鳥と稲作は深い関係があり、信仰の対象である事は間違いない。

日本神道の結界としての鳥居とつながっていると思うが、この時点ではもっと範囲の広い信仰の対象だった。

朝鮮のソッテだけではなく、中国の少数民族にも鳥竿は見られる。



特に有名なのは中国のミャオ族である。



芦笙柱(トン・カー
(杉浦康平アジア図像の世界 11 http://www.kousakusha.co.jp/RCMD1/rcmd_11.html)

鳥越憲三郎 説
倭族の一部が日本列島に移住し、また他の倭族と分岐していったとした。分岐したと比定される民族には、イ族、ハニ族 (古代での和夷に比定。またタイではアカ族)、タイ族、ワ族、ミャオ族、カレン族、ラワ族などがある。これらの民族間では高床式建物、貫頭衣、注連縄などの風俗が共通するとしている。

それ以外にも多数の説があり面白い本も多い。

ミャオ族歌手 阿幼朶
(ミャオ族歌手 阿幼朶)



朝鮮では鳥竿だが、他の地方ではトーテムポール風に変化しているものもある。



鳥への信仰は同じなのだが、インド仏寺のトラナ、中国の牌楼、朝鮮の紅箭門など門としてつながっていったと思われる。

インド仏寺のトラナインド仏寺のトラナ



s-朝鮮の紅箭門朝鮮の紅箭門



日本にも朝鮮半島のチャンスンと同じものが神社に残っている。

高麗神社(埼玉県日高市)
第1駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられた。
http://blue-angels.my.coocan.jp/jinja/koma/komajinja.htm

高麗神社


吉野ヶ里の門の上の鳥は、これらの流れを考えて作られたのだろう。

精霊門ハニ族(アカ族)の精霊門

http://ameblo.jp/hex-6/entry-12020355977.html
中国の雲南省に住むハニ族(アカ族)の精霊門を参考にしたとおもわれる。

特に印象的なものは神武天皇の絵画である。

もちろん書かれたのは江戸時代だとおもうが、弓の上に止まっている八咫烏(やたがらす)の絵は、鳥竿(ソッテ)を持っているといっても、誰も疑わないだろう。

神武天皇


日本には鳥竿やトーテムポールは直接伝わっていないが、鳥信仰は色んなものに変化していったのと推測される。

鳥信仰の門が、神社の鳥居と結びつくのはそれほど違和感がないと思える。



神社だけではなくお寺にも鳥居がある。これは神仏習合の影響である。



日本というのはつくづく不思議な国だと思われる。

日本以外の所から色んなものが伝わっているのだが、すべてを日本流に変化させているのだ。

ジャパンフィルターと呼んでも良い。

これは現代でも大いに作用している。



ここからが本題である。



鳥信仰の鳥居なのに、日本に定着するとその鳥の模型がなくなってしまっている。

吉野ヶ里歴史公園にあった、鳥の模型が乗っている門がなくなっているのだ。

そして、その代わりにセットになったものがある。



注連縄である。



これはどういうことなのだろうか。

稲作はどんどん広がっていて、九州から東北地方までも広がっている。

考えられる理由はただ一つしか無い。



鳥信仰を持っていない稲作の民の台頭である。

鳥の模型が無くなった代わりに登場したのが注連縄である。

現在鳥居に注連縄がはっているものも多い。



注連縄の原点は『蛇』
http://www.ne.jp/asahi/anesaki/ichihara/kyuukei/simenawa/simenawa.htm

鳥居に巻き付く蛇しめ縄(熊野神社・所沢市西新井町)鳥居に巻き付く蛇しめ縄(熊野神社・所沢市)

shimenawa_torii


蛇と注連縄
6-1 鳥居

http://www.741.cc/Bonhu/kami06.htm



星宮神社
星宮神社

くらら日記  栃木県下野市下古山 星宮神社

http://blog.livedoor.jp/clala_koubou/archives/2013-07-21.html



鳥から蛇に変っていったのだ。



鳥信仰は、その土地に住む原住民が長い間培ってきた信仰でもあり、稲作や穀物の生育と鳥との関係が信仰を生んだと思われる。

つまり、長い農耕の歴史が空や鳥を信仰の対象にしてきたのだ。

ところが、日本は1万5千年とも言われる長い縄文の時代があった。

農耕一筋ではなく、狩猟と農耕という独特のサイクルを持って、長期間平和に暮らしてきた。

農耕というと穏やかなイメージがあるが、水田というのは山を崩し土地を開墾して自然破壊を繰り返していくライフスタイルなのだ。

さらに、水田は新技術として日本中を駆け抜けていく。

稲作の鳥信仰は薄れていったのだ。

もちろん鳥という天空と地面をつなぐ神秘的な生き物に対する信仰は消えていないが、日本には古くから蛇信仰がある。

稲作の大敵でもあるネズミの天敵というのもその理由の一つだろう。

それ以外にも

蛇の形体が男根を思わせること
蝮などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃のもとに倒す強さ
脱皮により生まれ清まる再生力

有名な説に「蛇 (講談社学術文庫)吉野 裕子」がある。

吉野氏によれば、田んぼに立っているかかしは蛇のことだという。

蛇の力と神社がいつか寄り添って、日本中に広まっていったのだろう。

蛇の怖さは、縄文人たちはよく知っている。

そしてその生命力も計り知れない。



蛇信仰は鳥居とセットとなって広がっていった。

その事実からいえることは、稲作を伝えた人達の主導権を奪った人達が日本の主流になったという事である。



それが縄文人と言われる日本在住の民たちである。

縄文人は別に単一の種族ではない。

長い間混血を繰り返し、日本に定住していた民だ。

この民たちが動き出したのだ。



ジャパンフィルターが稼働したのである。



渡来倭族たちの新技術を吸収し、日本風にアレンジさせて進化させた。

水田に適した熱帯ジャポニカを品種改良して東北の寒冷地でも収穫が出来るように進化させたのである。

漢字が日本に入ってきたが、ジャパンフィルターを稼働させ、ひらがな、カタカナを生み出した。

仏教は日本の仏教へと変化させ、神仏習合を生み出し日本教を生み出した。

江戸から明治に移る時、無血革命という離れ業を実現し日本を外国から守った。

戦後、欧米の技術が入ってきたが、物まね、イエロー・モンキーといわれながら、世界一のトランジスタラジオを生み出した。

数え上げればキリがない。



古代新技術の到来は、現日本人にとって渡来人に土地を奪われていくことと同じだったのだ。

渡来人たちは、別に親切で日本にやってきたのではない。

征服者の顔を持っているのだ。

色んな理由で日本にやってきた渡来人のいいなりになるわけにはいかない。

だから、ジャパンフィルターが稼働した。



空白の4世紀というのがある。

倭国が歴史に記載されない時代だ。

邪馬台国の時代、まだ縄文の生活様式が残っている。

そのご大和朝廷が本格的に動き出す時は水田稲作は全国に広まっている。

空白の4世紀とは弥生時代とかさなっている。



日本はなぜ、世界の歴史に登場しなかったか。

それは、鎖国をしていたからである。



これは、江戸時代の鎖国と同じ状況だ。

外国の新しい風にさらされていた日本は、数ある選択肢の中から国を閉じることを選んだのだ。

世界の常識から見れば、とんでもない選択だったはずだ。

しかし、鎖国を実行して国力を充実させる道を選んだ。

日本の4世紀、邪馬台国から大和朝廷に脱皮して行くには、海外との交易をなるべくさけて、国内の体制を固める必要があったのだ。

これは、中国大陸などの情勢を察知して働いたジャパンフィルターだと確信する。



そしてこの時期、鳥の鳥居から蛇の鳥居となり、本格的な日本水田稲作の道が切り開かれたのである。



荒唐無稽といわれればそれまでの話しだが、多数の渡来人の説が幅をきかせる中

日本語という言語が変らなかった事実を説明できる説はこれしか無い。





チベット、中国、モンゴルなどの様々な人種と文化が日本にやってきて化学反応を起こし、ハイブリットな日本人が出来上がった。



日本人の故郷は何処かといわれれば、世界中だといえる。

それが気障なら、日本人の故郷はここ日本列島だというのが正解だ。

https://artworks-inter.net/ebook/?p=1336
7:777 :

2023/06/06 (Tue) 10:27:14

【報ステ】邪馬台国“論争”に「一石投じる」世紀の発見?吉野ケ里遺跡『石棺墓』開封(2023年6月5日)
2023/06/06
https://www.youtube.com/watch?v=c35K_ODA2JM

邪馬台国の場所を明らかにする、世紀の発見になるかもしれません。佐賀県の『吉野ケ里遺跡』で見つかっていた、有力者のものとみられる“石棺墓”の蓋(ふた)が5日に開かれました。

古代の集落が「ムラ」から「クニ」へ発展する兆しがみえる、吉野ケ里遺跡。去年、300年前の江戸時代から立っていた神社を移転したところ、その下に新たな古墳がありました。

卑弥呼がいた邪馬台国は、魏志倭人伝にも記載されていますが、その場所が九州か近畿か、その他なのか、結論は出ていません。

佐賀県文化財保護・活用室、白木原宜室長:「土の方に赤いのがうっすら見えましたので、弥生時代で赤色顔料を用いるとなると、高貴というか有力者の墓が多いのかな。誰でも彼でも真っ赤っかということはありませんから」

これまで吉野ケ里遺跡では見つかっていなかった“弥生時代後期”の可能性があるといいます。

“石棺墓”は、4枚の石蓋で閉じられていました。内側は長さ192センチ、幅40センチ。「×」などの刻みが表面に見られなかった1枚は、裏側からたくさんの印が見つかりました。埋葬された人の顔の位置にあたり、何らかの意味がありそうです。

白木原宜室長:「それが邪馬台国の時代であれば、論争に一石を投じることになるのでは」

そもそも、最有力は奈良の纒向遺跡でしたが、30年ほど前、卑弥呼の居館をしのばせる物見櫓(ものみやぐら)跡などが相次いで見つかったことで、佐賀が「邪馬台国時代のクニの中心地」ではないかとフィーバーになりました。

ロマンを抱いてきた佐賀県民は…。

佐賀県民:「めっちゃうれしいなと思いました。佐賀は『魅力ない』って言われているけど、めっちゃあるし『過去に栄えてた』って言われてたら、すごくうれしい」

佐賀県民:「小学生とかに教える際に『佐賀はすごかったんだよ』と教えられたら、すごくいい」

佐賀県民:「(Q.佐賀説が有力になるのでは)ぜひあってほしい、絶対。それで見に来るとか、この辺が(経済的に)潤うとかはどうでもいい。俺はもう大好きだから、卑弥呼がここであってほしい」

発見に沸く佐賀県に、奈良県からは冷静な反応も…。

桜井市立埋蔵文化財センター、橋本輝彦所長:「赤い塗料は水銀朱だと思うのですが(弥生時代の墓では)よく使われる塗料」

魏志倭人伝にある「卑弥呼の墓」の記載からも、奈良説を押します。

橋本輝彦所長:「3世紀の段階で、大型の前方後円墳がすでに出現している。ヤマトの方が可能性が高いのでは。今回のものだけで、九州説・近畿説に大きな影響を与えることは、中から金印とか、極端な話“卑弥呼”と書いた物が出てこない限り、なかなか難しいのかなと」

石蓋には密閉するための粘土が付着していましたが、流入した土が予想よりつまっていました。今後、土を掘り下げて副葬品を探します。

佐賀県・山口祥義知事:「蓋に白い粘土が付着していた。ずっと残されていたから、盗掘されていない。これは非常によかった。全容判明は、来週の半ばごろまでには。乞うご期待」


■『邪馬台国』はどこに…“論争”に影響は
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もし邪馬台国や卑弥呼につながるような副葬品が見つかれば、邪馬台国がどこにあったのか、今までの論争に大きく影響する可能性があります。

国営吉野ケ里歴史公園が運営する『弥生ミュージアム』によると、邪馬台国の場所については、諸説唱えられています。中国の歴史書『魏志倭人伝』には、魏から邪馬台国へのルートが書かれています。

朝鮮半島から、いくつかの国を経由して『不弥国(ふみこく)』に至るまでは大きな異論はありません。ただ、問題はこの先、邪馬台国までの道のりです。

魏志倭人伝では、不弥国から先について、このように書かれています。

「南のかた投馬国に至る。水行二十日(水路で20日)」
「南、邪馬台国に至る。水行十日、陸行一月(水路で10日・陸路で1カ月)」

「水路で10日、さらに陸路で1カ月」なのか、「水路なら10日、陸路で1カ月」かは分かりません。いずれにせよ、南の方角であれば“九州説”と言えますが、距離をそのまま足していくと、邪馬台国は九州南の海上になる可能性があります。

一方、距離がほぼ合致するのは“近畿説”ですが、方角は南ではなく東です。一説には方角を間違えて記載したのではないか、という話もあります。


(Q.九州説・近畿説、それぞれ補強する材料は)

“近畿説”については、『纏向遺跡』周辺を中心に、銅鏡が多数、出土しています。卑弥呼が魏から銅鏡をもらったとされているので、補強する材料の一つになります。2009年には、卑弥呼の時代とされる大型の建物が発掘されています。纏向遺跡の中にある『箸墓古墳』には、土器に付着した炭化物から、240~260年に作られたものと推定されています。これは卑弥呼が亡くなった年代と一致します。

“九州説”については、『漢委奴国王の金印』が志賀島で発掘されて以降、有力な情報はありませんでしたが、吉野ケ里遺跡で大規模集落などが見つかり、論争に拍車がかかりました。そして5日、石棺の土から赤い顔料が発見され、これが有力者の墓ではないかと注目されています。


(Q.近畿か九州か分かるとどうなるのか)

弥生ミュージアムによると、邪馬台国の場所が近畿か九州かによって、日本の古代国家がどのような道筋でつくられたか、その歴史にも大きく影響するということです。
8:777 :

2023/06/07 (Wed) 17:54:19

【話題のニュース】邪馬台国論争決着か 吉野ヶ里遺跡の墓の発掘調査で新たな謎も
2023/06/05
https://www.youtube.com/watch?v=O5-cIEE2Ykw

邪馬台国論争に決着がつくのでしょうか?佐賀県・吉野ヶ里遺跡の「謎のエリア」と呼ばれる場所で、新たな墓が発見されました。6月5日に、その墓のふたが開けられ、内部から赤い顔料が見つかりました。

5日午前10時から、佐賀県の吉野ヶ里遺跡で新たな墓の発掘調査が始まりました。

■発掘調査の様子
「そのままいいですよ。」

最大で約200キロある3枚の石のふたが、重機で持ち上げられました。この瞬間に集まった報道陣は約70人です。なぜ、これほど注目されるのでしょうか。

弥生時代の大規模な集落跡で知られる吉野ヶ里遺跡は、歴史書『魏志倭人伝』に記された邪馬台国と特徴が似ていたことから、『邪馬台国九州説』の根拠とされてきました。しかし、遺跡からは邪馬台国が存在したとされる弥生時代後期の有力者の墓は見つかっておらず、「邪馬台国がどこにあったのか」という謎は、いまだ解き明かされていません。

■佐賀県・山口知事
「邪馬台国時代の可能性が高い。いま、われわれは非常に興奮してときめていて、これからどうなるんだろうという気持ちが高ぶっています。」

ことし4月、弥生時代後期、邪馬台国の時代の有力者の可能性がある墓が見つかりました。見つかったのは、これまで神社があったために手つかずだった、「謎のエリア」と呼ばれる場所です。

■中村安里アナウンサー
「今回、新たに見つかった墓は、この丘の上で発見されました。」

これまでに吉野ヶ里遺跡で見つかった墓の中で、最も高い場所に単独で見つかったなどの特徴から、佐賀県は有力者の墓である可能性が高いと見ています。今回、墓の中から、それを裏付ける副葬品が見つかるかが注目されていました。

■中村安里アナウンサー
「重機を使ってゆっくり持ち上げられます。見えてきた中をのぞいて見ますと、こちらから土しか確認できません。」

墓の中は土砂で埋まっていましたが、墓は粘土で密閉された跡が残っていて、佐賀県は「盗掘はされていない」と見ています。

■佐賀県文化財保護・活用室白木原宜室長
「非常にわずかですけど、赤色顔料・朱なんでしょうけど、赤色顔料が少々見えました。石棺の中が赤く塗られている可能性がある。」

赤い顔料は、身分の高い人物の墓に塗られていることが多いということです。

そして、新たなナゾも浮かび上がってきました。ふたのうち2枚には、外側の表面に「×」のような線が無数に刻まれていましたが、残り1枚の外側には何もありませんでした。

■中村安里アナウンサー
「そして3枚目の石蓋が持ち上げられました。そして写真に収めていますので、何か裏面に模様があるのかもしれません。」

残る1枚には、内側の面に線が刻まれていました。

■白木原室長
「バッテンをつけてからふたをしているということになりますので、そういった当時の葬儀のあり方といいますか、呪術的なこともふくめた死者に対する扱い方、葬儀の仕方を考えていくうえでヒントになるかもしれません。」

邪馬台国論争に決着をつける世紀の大発見となるのか、佐賀県は6月5日から約1週間かけて内部を調査することにしていて、埋葬された人の骨や副葬品が見つかるか注目されます。

9:777 :

2023/06/14 (Wed) 21:23:36

石棺は弥生後期有力者の墓 吉野ケ里初、副葬品なし

19時31分共同通信
 佐賀県は14日、吉野ケ里遺跡の「謎のエリア」で見つかった石棺墓の発掘作業を終えた。被葬者の身分や時代の特定につながる人骨や副葬品は見つからなかったが、墓の立地状況などから、同遺跡では初となる弥生時代後期の有力者の墓と結論付けた。石棺内には全面的に赤色顔料が塗られていた可能性が高いことも判明した。

 同日記者会見した山口祥義知事は「まだ発掘していくので期待してほしい」と述べた。県は、約4千平方メートルの発掘対象地域のうち、未着手の約4割についても今年9月から調査する方針。

 県によると、石棺墓は10枚の石と4枚のふた石だけで構成され、底は地面のままだった。
https://www.47news.jp/9456533.html
10:777 :

2023/06/18 (Sun) 07:45:32

えええ
11:777 :

2023/06/24 (Sat) 10:01:26

連載37 城野遺跡/帰ってきた弥生人 第5章③ “特報!吉野ヶ里遺跡の石棺墓発見にあたって”
2023-06-09
https://ameblo.jp/jounoiseki/entry-12806891273.html


城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-

第5章 遺跡保存への道のり③

“特報!吉野ヶ里遺跡の石棺墓発見にあたって”



先日6月5日に、佐賀県吉野ヶ里遺跡でみつかった弥生時代の石棺の蓋石が開けられて大々的な全国ニュースになりました【写真1】。考古学ファンや邪馬台国ファンならだれもが知っているこの情報に、私も非常に関心を寄せています。



このブログは本来、第5章「遺跡保存への道のり」の3回目にあたるのですが、急きょ変更して、この問題を取り上げて私なりの位置づけと皆さんのお考えをお聞きできればと思います。もっとも、最近はブログアップも滞っており、急きょには当たりませんが…。(2023年6月7日寄稿) ※写真は一部新聞・テレビで各社が報道したものを使っています。



【写真1】吉野ヶ里遺跡石棺の蓋石はずし作業

100㎏近くある蓋石を重機で吊り上げて外している。





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吉野ヶ里石棺は蓋石を外したあと、中に土砂がいっぱい詰まっていて、その上面からは水銀朱と思われる赤色顔料が検出されたということでしたね【写真2】。私はこの映像を見たとき、14年前に2基並んだ城野遺跡の箱式石棺の蓋石を開ける場面を思い出しました【写真3】。といっても、本連載18“方形周溝墓の発見”(2021.4.10公開)でお伝えしたように、のっぴきならない用事で私自身その時その場面には立ち会えませんでしたが、他の職員に頼んでビデオカメラには記録されていました。



【写真2】吉野ヶ里遺跡の石棺蓋石を開けた状態

中は土砂でほぼ埋まっていた。白く見えるのは白色粘土か。この状態では側石や木口石があるのかはっきりしない。





【写真3】城野遺跡の石棺の蓋石をはずす作業風景

クレーン車を使って、蓋石に縄をかけている。南棺の蓋石が少し持ち上がった状態







まず、吉野ヶ里の石棺蓋石ですが、長さが230㎝、幅が約60㎝あり計4枚の石が並んで置かれています【写真4】。城野の蓋石のほうは一方(南棺)が1枚石で長さ185㎝、幅68㎝、もう一方(北棺)は2枚の石からなり、長さ152㎝、幅76㎝をはかります。ただし北棺の蓋石の1枚は据え置く際に割れたようで、割れ口を粘土でふさいで、小さな破片を挟み込んでいました【写真5】。



【写真4】吉野ヶ里遺跡の石棺墓蓋石全景

3枚の大きな石と、破片のような小さな石が並んだり、詰められたりしている。





【写真5】城野遺跡の北棺の蓋石

中央斜めに割れたため、粘土で目貼りしている。また、すき間には薄い破片を詰め込んでいる。







吉野ヶ里の蓋石については映像で見た感じですが、各石の割れ口がとてもシャープでエッジが鋭い印象を受けました。よって、もともと1枚の平たい石を遺跡に持ち込み、蓋石を作るために4つに分割したのではないでしょうか。この石は報道によると佐賀県多久市付近でみつかる安山岩ではないかとのことですので、旧石器時代から石器を作るのに使われている石材を弥生人も利用していたことになります。



一方城野遺跡の蓋石の石材は玢(ひん)岩で、紫川でも拾えるし小倉南区蒲生あたりの岩山に分布すると石の専門家から聞いています。この石は弥生時代に木を伐採する石斧の材料に使用されています。



さて、吉野ヶ里遺跡では蓋を開けると土砂(石棺の中を覆う土=覆土(ふくど))がほぼ全体を埋めていましたが、これは城野遺跡でも同じような状況でした。ただ、吉野ヶ里の場合は城野ほど入念に目貼り粘土で石の隙間をふさいではいなかったみたいなので、なおさら多くの土砂が入り込んだと考えられます。この土砂がフカフカと柔らかいのは、雨水などで流された細かい粒子の土が水と一緒に石棺の隙間から中に入り込んだためです。土が柔らかくスプーンでも掘れるので、おそらくこのブログがアップされる頃には石棺の内部はきれいに掘りあがった状態になっているのではないでしょうか。



あと注目されるのは、2枚の蓋石上面に短い直線を彫り込んだ模様というか図形が刻まれていたということです【写真6】。ただ頭部側とみられる一番大きな蓋石にはそうした模様がなく、蓋を開けた後、裏面に×印のような模様がみられたということでした。そこで先ほど述べたように本来1枚の石だったと仮定した場合の作業手順を以下のように考えました。



【写真6】吉野ヶ里石棺の蓋石上面に刻まれた図形のような模様

一番右の大きな蓋石には上面に模様はなく、裏面に×印ほかいくつかの模様がみられたという。







①まず石を割る前に全体に線刻模様を施した ②石を割る際、頭部側にしたい幅広の蓋石の分割に失敗し、細かい破片が飛び散ってしまった ③そのため、そのまま蓋を並べるのに支障をきたした ④そこで蓋石を裏返しにして並べざるを得なかった ⑤隙間の空いた部分には飛び散った破片を詰めて塞ぎ、あらかじめ掘った石棺サイズに対して少し長さが足らなかったため、足元の木口側にも破片を置いた、というシナリオはどうでしょうか。



②に関して、ニュースの映像を見た限りでは、この線刻が隣り合う蓋石の端ぎりぎりまで伸びているように見えたこと、破片にも同じような線刻が見えたことから、線刻模様を施したあとに石を分割したと考えました。



ここで、問題となるのは④、⑤でしょう。なぜ蓋石をひっくり返して置かねばならなかったのか、佐賀県の解釈のように頭部側の蓋石の裏にこうした模様を描くことで呪術的な意味を込めたのかもしれませんが、これに関してはこれらの蓋石が同一素材で接合関係にあるのかどうか、によりますので、遅かれ早かれ解決できることと思います。



次に赤色顔料の問題ですが、今回蓋石下の赤色顔料は所々にまばらに観察できる程度の少量です。しかも埋まった土砂の上面で見つかっているので、これは故意にそこに撒いたものではなく、蓋石に塗られていた赤色顔料の一部が年月の経過とともに剥がれ落ちた状況を示しています。ですから、土砂を掘り下げていく途中でも蓋石から剥がれ落ちた赤色顔料がみつかるものと思います。



一方、城野の場合は掘る前から2つの石棺蓋石の隙間から真っ赤な顔料が見えており、というよりあふれ出しており、まったくその使い方が異なっています。しかも両方の石棺の蓋裏にも赤色顔料が多量に塗られ、石棺内部には惜しげもなくそれを流し込んでいました。私の試算ではその量は70kgにも達します。さらにそれらは中国産の水銀朱ですからまさに驚くしかありませんでした【写真7】。今後、赤色顔料の量と質、産地について吉野ヶ里でも入念に調べられることと期待しているところです。なお、城野遺跡の方形周溝墓で囲われた箱式石棺の発掘調査については、動画「朱塗り石棺の謎」「城野遺跡実録80分」で配信しています。下記にも添付していますので、ぜひご覧ください。



【写真7】城野遺跡の箱式石棺

二つの石棺内部は真っ赤な水銀朱で満たされていた。左の石棺(南棺)には幼児の頭骨と歯、玉のネックレス、鉄製の刀子がみつかっている。





■動画「城野遺跡 朱塗り石棺の謎」(2017年1月公開 約14分)

城野遺跡の発掘調査を担当した佐藤浩司氏が九州最大級の方形周溝墓で発見された箱式石棺2基の発掘調査にあたり、「世紀の発見かもしれない」と2ヵ月半、約3時間撮り続けた唯一のビデオ記録を城野遺跡の全体像がわかるように約14分に編集したものです。↓をクリックしてご覧ください。

https://youtu.be/QxvY4FBnXq0



■動画「城野遺跡実録80分『弥生墓制の真の姿』」(2022年6月公開 約80分)

上記ビデオ記録を約80分にカットしたものです。撮影当時の佐藤氏のコメントとともに発掘現場の声や音もはいっており、発掘調査の歴史的瞬間の感動がよみがえります。↓をクリックしてご覧ください。

https://youtu.be/qafp00zCTzQ?t=10





最後に、城野遺跡の箱式石棺は周囲を溝に囲まれた方形周溝墓の中に築かれていましたが【写真8】、吉野ヶ里の場合はどうも周溝がみつかっていないようです。



【写真8】城野遺跡の方形周溝墓

中央の2基の箱式石棺はコの字形の周溝で囲まれていた。







吉野ケ里遺跡のかつての調査で最も有名になった墳丘墓は弥生中期が主体で、今回発見の石棺墓の南東側約80mに位置していますが、調査の途中で当時の香月知事により、その重要性から保存の方向がとられたため細部まで掘り下げていないので、周溝があったのかどうかはわかりません。しかし報告書によると、この墳丘墓への墓参道状の溝が墓の南北で見つかっており、これを方形周溝の一部ととらえると、その幅は70m以上になります。この墳丘墓自体が45m×26mの巨大なものですから、このくらいの周溝があってもおかしくはないと考えています。ですので、今回発見の石棺墓も周溝で囲うのではなく、土を盛り上げただけの区画墓のようなものだったかもしれません。



今回の石棺墓は報道段階で弥生後期のもの、しかも石棺墓と考えられているので、時代を決める根拠となる土器片が見つかっているのかもしれませんし、墓の内部が側石、木口石で囲まれた石棺の形をしているのが確認できているのかもしれませんが、蓋石を除けた際の映像をみると、側石がないようにも見えます。そうなると石棺墓ではなく、地面を長方形に掘って、蓋石をのせただけの石蓋土坑墓の可能性も捨てきれません。とすれば後期ではなく中期の墓かもしれないのです。この墓以外、周辺に後期の墓が見つかっていないのは不自然だからです。どちらにせよ、この疑問もあと数日で解決することですね。



もうひとつ、この石棺墓の発見時の構造が2段掘りになっていないことに違和感を覚えています。



通常後期の箱式石棺は城野遺跡もそうですが、墓坑という大きめの穴を掘って、床面を2段に仕上げその下段に箱式に側石、木口石を組んで蓋石をのせるのです【図1】。佐賀県地域ではそのように作らないのかは私にはわかりませんが、この墓が後期のものなら、2段掘りで築き方形周溝で囲むのではないか、それがないのは、後世の削平つまり日吉神社を作る際の造成などで当時の地表がかなり削られているのではないかと思うわけです。おそらく1m近くは削平を受けているのではないでしょうか。これについても今後の調査で明らかになると思います。



【図1】城野遺跡箱式石棺墓の断面図

吉野ヶ里遺跡の石棺は赤線より下がみつかっているようで、上層はかなり削平を受けていると考えられる。







長々と、推測を交えて現段階での吉野ヶ里遺跡の石棺墓についてその問題点や展望を述べてきました。なにせ現地を見ていないので、すべて外れていたらご勘弁願います。また事態が急変したら、このブログで取り上げるかもしれませんので、その時はよろしくお願い致します。



ところで、ニュース映像では佐賀県の山口知事がスライドを使ってかなり詳しく石棺の説明をしていましたね。しかし実際に携わった調査担当者の話が聞けなかったのは残念に思いました。





【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 

1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、北九州市立大学非常勤講師、日本考古学協会会員



■日本考古学協会の要望書

日本最大規模の考古学研究者団体である日本考古学協会は国、県、市に対し「現状を保存し、史跡として整備、活用」を求める要望書を3回も提出しました。ぜひお読みください。



<2011.2.25要望書> ※城野遺跡の全貌が判明したころ

 http://archaeology.jp/maibun/yobo1012.htm



<2016.1.8再要望書> ※北九州市が保存を断念したことを知ったころ

 http://archaeology.jp/maibun/yobo1508.htm



<2016.7.20再々要望書> ※すぐ近くにある重留遺跡から出土した祭祀用の広形銅矛が国の重要文化財(広形銅矛では全国唯一)に指定後

 http://archaeology.jp/wp-content/uploads/2016/08/160802.pdf



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城野遺跡/帰ってきた弥生人 目次

-城野遺跡発見の一部始終をたどる- ※日付は掲載日



第1章 城野遺跡発見の経緯と経過(3回)

     城野遺跡はどのように発見され、どのように取り扱われてきたのか?

      ☛ ①2020/8/2 ②2020/8/10 ③2020/8/17

第2章 発掘調査の内容(20回)

     発掘調査により、どのようなことが明らかになったのか?

      ☛ ①2020/8/24 ②8/31 ③9/9 ④9/18 ⑤9/27 ⑥10/8

       ⑦11/7 ⑧11/20 ⑨12/5 ⑩12/18 ⑪12/30 

       ⑫2021/1/25 ⑬2/15 ⑭3/26 ⑮4/10 ⑯5/1 ⑰6/3

       ⑱6/26 ⑲7/16 ⑳8/6

第3章 注目すべき事実(7回)

     城野遺跡は弥生時代の北九州の歴史にとって、何が重要なのか?

      ☛ ①2021/8/30 ②9/30 ③11/6 ④11/28 ⑤2022/1/8

       ⑥2/7 ⑦6/25

第4章 立ち退かされた弥生人(4回)

     ここで暮らした弥生人たちは、どこへ?

      ☛①2022/7/31 ②9/6 ③10/28 ④12/13

第5章 遺跡保存への道のり(3回)

     発掘担当者の悩みと苦しみ

      ☛①2023/1/31 ②5/6 ③6/9※特報(今回)

第6章 立ち上がる市民と城野遺跡(6回)

     守ることと伝えること…

第7章 立ちはだかる壁(4回)

最終章 帰ってきた弥生人(3回)

     新たな歴史の誕生
https://ameblo.jp/jounoiseki/entry-12806891273.html

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