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復活Vの照ノ富士は「全力士の鑑」 横綱審議会が高評価

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2023/05/30 (Tue) 07:11:06

照ノ富士 - YouTube
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復活Vの照ノ富士は「全力士の鑑」 横綱審議会が高評価
昨日 20:30
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%BE%A9%E6%B4%BB%EF%BD%96%E3%81%AE%E7%85%A7%E3%83%8E%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E3%81%AF-%E5%85%A8%E5%8A%9B%E5%A3%AB%E3%81%AE%E9%91%91-%E6%A8%AA%E7%B6%B1%E5%AF%A9%E8%AD%B0%E4%BC%9A%E3%81%8C%E9%AB%98%E8%A9%95%E4%BE%A1/ar-AA1bPKBv?ocid=Peregrine&cvid=80d3a557b23a4559b9d3a340624775db&ei=27

【大相撲五月場所(夏場所)千秋楽】表彰式で内閣総理大臣賞のトロフィーを手にする照ノ富士=両国国技館(撮影・土谷創造)

日本相撲協会の諮問機関、横綱審議委員会は29日、東京・両国国技館で定例会合を開いた。会合後に報道各社の取材に応じた山内昌之委員長(東大名誉教授)は、4場所連続休場明けで優勝を飾った横綱照ノ富士について「横綱としての責任を十分に果たし、横綱の存在感の大きさを合わせて示した。全ての力士にとって鑑、模範となる高い評価だった」と述べた。

全員が2桁勝利を挙げた4関脇にも言及。大関昇進が確実な霧馬山について「東西に大関ができるのは喜ばしいこと。敢闘精神を生かして横綱(昇進)レースに挑んでほしい」としたうえで、他の3関脇には「大関レースに参加して期待に応え、今度は横綱昇進レースへと焦点が移っていく形で大相撲が繁栄してほしい」と語った。




雑記帳
2023年05月29日
大相撲夏場所千秋楽

 今場所は番付発表後に逸ノ城関の引退が発表され、昨年(2022年)名古屋場所で優勝してからまだ1年も経っておらず、先場所は不祥事による処分のため降格していた十両で優勝していたので、本当に驚くとともに、2014年の新入幕の頃からずっと応援してきただけに、たいへん残念に思いました。逸ノ城関については近年色々と醜聞が報じられており、それがどれだけ実際にあったことなのか、私は的確に判断できませんが、その醜聞がかなりのところ事実だったとしても、逸ノ城関にはそこから立ち直ってもらいたかったものです。さらに、今場所6日目には新入幕の頃からずっと応援してきた栃ノ心関も引退を発表し、さらに落ち込んでしまいましたが、これで熱心に応援している力士がいなくなり、より公平にというか客観的に相撲を楽しめるところもあるように思います。

 今場所は、4場所連続で休場、直近3場所は全休していた横綱の照ノ富士関が、久々に出場しました。照ノ富士関は終始先頭に立ち、14日目に8回目の優勝を決め、千秋楽には貴景勝関に勝って14勝1敗で今場所を終えました。照ノ富士関は優勝したとはいえ、横綱昇進前後の強さを取り戻したとは言えない、と考えていますが、かなり復調したように思います。やはり、しっかりと休場したことがよかったのでしょう。照ノ富士関は、最初の大関時代には無理に出場して状態がさらに悪化したように思いますが、横綱は地位が下がらないだけに、思い切って休場することも可能なのでしょう。もちろん、横綱として一定以上の状態に戻るまで復帰できない、との判断もあったのでしょう。ただ、照ノ富士関はいつ引退しても不思議ではなく、今後、長期にわたって横綱不在になる可能性は低くないように思います。

 大関昇進のかかった霧馬山関は、勝っていても序盤の相撲内容が悪かったので、やや不安でしたが、次第に相撲内容がよくなり、11勝4敗で大関昇進を決めました。大関に昇進すると、その重圧から不振に陥る力士も少なくないように思いますが、今場所の序盤の相撲内容からは、霧馬山関も年に2場所か3場所二桁勝つくらいの並以下の大関になる可能性もあるとは思います。ただ、大関に昇進して自信をつけるとすると、並以上の大関になり、さらには横綱に昇進する可能性も低くはないと思います。

 今場所は霧馬山関も含めて関脇陣が好調で、盛り上がったように思います。豊昇龍関は11勝4敗として最近2場所で合計21勝、若元春関は10勝5敗として最近2場所で合計21勝となり、大栄翔関も10勝5敗として最近2場所で合計22勝なので、来場所はこの3関脇の中から大関昇進があっても不思議ではありません。今場所8勝7敗と何とか勝ち越して角番を脱した貴景勝関は、怪我が多く近いうちに大関から陥落する可能性も低くないだけに、日本相撲協会としては、さらに2人くらい大関に昇進してもらいたいところでしょうか。

 北青鵬関は終盤に5連敗して8勝7敗に終わりましたが、「規格外」の相撲内容で大きな注目を集めたように思います。私は、北青鵬関が新十両だった2021年秋場所の時点で将来の大関候補に挙げていましたが(関連記事)、研究されると上位で大勝ちするのはなかなか難しそうですし、何よりも怪我をしやすい取り口のように思うので、過度に期待はできないかな、と今では考えています。北青鵬関が今後どこまで昇進できるのか、師匠である宮城野親方(元横綱の白鵬関)の手腕も問われるように思います。幕内に復帰した朝乃山関は優勝争いに絡んで12勝3敗としました。朝乃山関の謹慎期間中に上位が力をつけてきたので、大関復帰は難しそうですが、関脇までは近いうちに戻れそうです。
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_29.html
2:777 :

2023/05/30 (Tue) 07:15:32

照ノ富士 春雄(てるのふじ はるお、1991年11月29日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身で伊勢ヶ濱部屋(入門時は間垣部屋)所属の現役大相撲力士、第73代横綱(2021年9月場所 - )。本名は杉野森 正山(すぎのもり せいざん)[3]。帰化前はガントルガ・ガンエルデネ(モンゴル語キリル文字表記:Гантулгын Ган-Эрдэнэ)。身長192cm、体重181kg、血液型はO型。大関昇進後に怪我や病気による負け越しや休場が続いて序二段まで陥落した後、そこから大関復帰・横綱昇進を果たした史上初の力士である。2021年(令和3年)8月4日に日本国籍を取得[4]。


略歴
2011年5月技量審査場所 - 初土俵
2011年7月場所 - 序ノ口
2011年9月場所 - 序二段
2011年11月場所 - 三段目
2012年1月場所 - 幕下
2013年9月場所 - 十両
2014年3月場所 - 幕内
2015年3月場所 - 新関脇(新三役)
2015年7月場所 - 新大関
2017年11月場所 - 関脇陥落
2018年3月場所 - 十両陥落
2018年7月場所 - 幕下陥落
2018年11月場所 - 三段目陥落
2019年3月場所 - 序二段陥落
2019年5月場所 - 三段目再昇進
2019年7月場所 - 幕下再昇進
2020年1月場所 - 十両再昇進(関取復帰)
2020年7月場所 - 幕内再昇進(幕内復帰)
2020年11月場所 - 返り三役(新小結)
2021年1月場所 - 関脇再昇進
2021年5月場所 - 大関再昇進(大関復帰)
2021年9月場所 - 新横綱


来歴

入門まで
17歳になるまでスポーツとは無縁であったが、巨体を生かしたいと考えていたガントルガ青年は、母国モンゴルにいた頃は横綱・白鵬の父であるジグジドゥ・ムンフバトに素質を見出され、柔道などを習っていた[5][6]。

2007年に母と日本に観光旅行をした折に、偶然相撲部屋関係者に声をかけられて連日稽古を見学したことで、大相撲の世界に魅了された[5][7]。その時は観光もせずに相撲部屋の稽古を毎日見学していたという[5]。学業成績も優秀で飛び級を認められ、17歳で技術大学に合格[5]。両親も技術者になることを望んだが、相撲留学を決断[7]。

2009年3月26日に来日して鳥取城北高校に編入し、高校3年次の全国高等学校総合体育大会相撲競技で、鳥取城北高校の団体メンバーの一人として優勝に貢献した。鳥取城北時代には後輩の逸ノ城とは違う怪力を持っていたことから石浦外喜義監督に「差されたら抱えろ」と教わった[8]。来日時点で平仮名やカタカナを書くことができ、日本語もある程度話せたという[9]。当初はレギュラークラスではない部員にぶつかり稽古や相撲の稽古で何度も転がされたが、悔し涙を流しつつ顧問のレンツェンドルジ・ガントゥクスに教えを乞うてまわしの取り方などを教わった[10]。

2010年のインターハイの準々決勝で埼玉栄高校と当たった時、石浦監督はそれまで補欠であったガントルガを出場させた。「ガナ、ここで勝たないと優勝はできないぞ。お前を使うぞ」といった石浦監督に「何でそんな心配するんですか? 大丈夫ですよ。」 と言ってのける強心臓ぶりを見せた[11]という。

入門から関取昇進まで
高校卒業を控えて2010年に間垣部屋に入門した。高校は中退したとの報道もある[12]。2011年1月場所前の新弟子検査を受けたが、興行ビザの取得が必要なため、初土俵は翌5月技量審査場所となった。5月技量審査場所で共に初土俵を踏んだ力士は、幕下15枚目格付出の千代大龍の他にも前相撲から取った常幸龍らがいる。初土俵を踏んでから関取に昇進する直前場所まで名乗っていた「若三勝」の四股名は、入門時の師匠である間垣親方(第56代横綱・2代目若乃花)が大関時代まで名乗っていた「若三杉」にちなんでいる。間垣部屋時代はちゃんこにも事欠き、様々な人から食料を譲り受けるなど苦難を経験した[13]。一部書籍によると、出稽古先でちゃんこを食べられなければ食事抜きになる日もあったほどであったという。

2011年7月場所で初めて番付に四股名が載って以降、序ノ口・序二段・三段目の各段を1場所で通過するなど順調な出世を見せ、新幕下で迎えた2012年1月場所も、関取経験者の出羽鳳を相手に豪快に吊り出して勝利するなど幕下でも実力十分なことを証明する5勝2敗の成績を修めた[14]。東幕下15枚目で迎えた同年7月場所では3勝4敗と入門以来初の負け越しを喫した。2013年3月場所限りで間垣部屋が閉鎖されて伊勢ヶ濱部屋に移籍すると、稽古環境が一気に充実したこともあって2場所連続で6勝1敗の成績を上げ、場所後の番付編成会議で9月場所での新十両昇進が決定した。新十両昇進と同時に四股名を師匠旭富士(9代伊勢ヶ濱)と照國(6代伊勢ヶ濱)の横綱2人にちなんだ「照ノ富士」と改める[14]。会見では「立合いが相撲の70%を占めると言われる。それを頭に入れて稽古してますが、まだまだ足りない。もっと頑張らないとだめです」と取り口についての課題を語った[15]。

関取昇進後
新十両として迎えた9月場所も勢いは止まらず千秋楽に鏡桜に勝って12勝3敗で鏡桜と相星となり、優勝決定戦でも鏡桜を破り十両優勝を果たした。前場所に遠藤が新十両優勝を果たしており、2011年11月場所の勢、2012年1月場所の千代大龍以来3度目の2場所連続新十両力士の優勝が記録された[14]。2014年1月場所は西十両筆頭で12勝3敗の好成績を挙げ、翌3月場所で新入幕を果たした。その3月場所は9日目に7敗目を喫したがそれ以降6連勝して8勝7敗と勝ち越した。5月場所は、場所前に蜂窩織炎を患い初日の朝に退院するという苦しい状況[16] だったが9勝6敗とまたしても勝ち越した。三役目前となる東前頭筆頭まで最高位を更新した同年9月場所は、初日の大関琴奨菊戦で自ら「あり得ないですよね」と意外性を認める立合い変化を行い、大関戦初挑戦にして白星[14]を挙げた。しかし2日目から6連敗とその後は振るわず場所成績は6勝9敗の負け越しに終わった[17]。

2015年1月場所は東前頭2枚目で8勝7敗の成績を修め、自身初の三賞(敢闘賞)を受賞した。

翌3月場所は新三役、小結の地位を通り越して関脇昇進を果たす[18]。モンゴルからの新三役(関脇)は、2014年11月場所の逸ノ城以来。初土俵以来所要23場所で新関脇は、1958年以降初土俵(幕下付け出しを除く)としては9位のスピード昇進となった。新関脇の3月場所は初日から7連勝し、13日目にはそれまで36連勝だった横綱の白鵬を破るなど13勝2敗で殊勲賞・敢闘賞を受賞した。新関脇での13勝は史上最多タイ記録で、過去には1940年5月場所の五ツ嶌・1950年9月場所の吉葉山・2005年9月場所の琴欧州がいる。

翌5月場所では12勝3敗で初の幕内最高優勝(平成生まれ初の優勝)を果たし、5月27日の番付編成会議および理事会において、満場一致で平成生まれ初の大関が誕生した。審判委員の一部からは「3場所前にはまだ平幕だったことが引っかかる」「もう一場所待つべきでは」との声もあったが、「直前場所での優勝は大きい」と北の湖理事長らが重視した結果、最終的に新大関への異論は出ずに決定した[19]。なお、三役2場所での大関昇進は年6場所制になった1958年以降では初めて。年6場所以前では1951年1月場所後に大関昇進の吉葉山以来64年ぶりとなった。

大関昇進後
2015年7月場所は新大関として初登場し初日から6連勝と好調だったが、7日目に豪栄道に敗れ初黒星。9日目稀勢の里に勝ち8勝1敗と勝ち越したが、その後11日目に白鵬、12日目に鶴竜の両横綱に敗れて優勝争いから脱落。千秋楽は大関角番脱出を賭ける7勝7敗の琴奨菊に立合いで変化されて勝ち越しを許し、結果11勝4敗の成績だった。元大関の鳴戸(琴欧洲)・二子山(雅山)・藤島(武双山)各親方らは、照ノ富士の新大関場所に「100点満点、十分の内容。大関昇進で多忙となる中、硬くなる初日に勝てたのは大きい。大関の責任は果たした」と称賛。但し玉ノ井親方(栃東)は「優勝を逃したので90点。今後も最後まで優勝戦線に加わって欲しい」と奮起を促していた[20]。

2015年9月場所は横綱白鵬が3日目から途中休場となる中、初日から一人11連勝していた。しかし12日目の栃煌山戦で初黒星、翌13日目の稀勢の里戦で寄り倒された時、右膝を負傷。14日目の豪栄道戦に強行出場するもあっさり寄り切られ3連敗。それでも千秋楽結びの一番では、過去4戦4敗だった単独トップの横綱鶴竜を寄り切って初勝利。12勝3敗同士の優勝決定戦へもつれ込んだが、鶴竜に上手出し投げで敗れて2回目の幕内優勝はならなかった。場所後の精密検査で「右膝の前十字靱帯損傷・外側半月板損傷などで1か月の加療を要する」との診断書が下され、秋巡業は休場[21]。また翌11月場所、照ノ富士の綱獲りについて北の湖理事長は「優勝又は13勝以上ならともかく、12勝の優勝同点では軽過ぎる」と否定的な意見を表明した[22]。

2015年11月場所、右膝の怪我が完治しない中強行出場するも9日目の大関稀勢の里戦で4勝5敗と黒星が先行。その後は12日目・豊ノ島戦で敗れるも、13日目の横綱鶴竜戦で叩き込んで7勝6敗とし、翌14日目に日馬富士と優勝を争った横綱白鵬を大相撲の末寄り切り、ようやく勝ち越し。結果9勝6敗で取り終えたが、同2015年の年間最多勝(65勝25敗)は、白鵬(66勝12敗12休)に僅か1勝届かず初受賞を逃した。

2016年1月場所、4日目の碧山戦で寄り切りで勝った際に右肩を負傷した。5日目の旭秀鵬戦では右腕が全く使えないまま寄り切られ、苦悶の表情を浮かべる。翌6日目の栃煌山戦は不戦敗、右鎖骨骨折(全治不明)により自身初土俵以降初めての休場となった。1月18日には以前から傷めている左膝の内視鏡手術を決行。次の3月場所は、自身初の大関角番となった。

3月場所も膝の状態は完全ではなく、中日までに平幕相手に3敗を喫する苦しい場所となったが、12日目に鶴竜を下しなんとかカド番を脱出した。しかし、その後は3連敗で8勝7敗で取り終えた。

5月場所は膝の状態が3月場所よりも悪く、初日から2連勝した後は格下相手に踏ん張りが効かず6連敗となった。続けて2横綱にも敗れ、10日目にして次場所での2度目のカド番が決まった。その後も連敗は続き1968年秋場所の豊山以来、48年ぶりの大関1場所10連敗を記録した[23]。さらに翌日、大関の琴奨菊にも敗れ、大関としては69年ぶりとなる同一場所での11連敗を喫した。これは年6場所15日制定着後では初めての事態となった(不戦敗、休場を含まない場合)。15日制以前でも相撲協会広報部によると年2場所の47年11月場所に11日制で11戦全敗した大関名寄岩の例のみとのこと[24]。途中休場ありの一場所15日制の記録では年3場所の51年に春場所で途中3日間の休場を挟んで12連敗(12敗3休み不戦敗あり)した汐ノ海に次ぐ記録となった[25]。そして11連敗の翌日。大関豪栄道に押し出され、不戦敗、休場無しで汐ノ海と1946年11月場所~47年11月場所の名寄岩(休場あり)の2人の大関連敗歴代ワースト記録に並んでしまった[26][27]。連敗のまま迎えた千秋楽。関脇琴勇輝に押し出しで敗れ皆勤で大関歴代ワースト記録を更新する13連敗を記録してしまった。さらに大関の一場所皆勤13敗は2009年3月場所の千代大海に並ぶ歴代ワーストタイ記録になった[28]。照ノ富士は記者に「強い大関と言われたこともあるが、これで弱い大関とも言われる。ずっと負けていたら楽しくない」「こういう時でも応援してくれる人がいるのはうれしい。いい時もくる。来場所を見てください」と語っていた[29]。

2度目の角番で迎えた翌7月場所は初日に白星を記録し先場所からの連敗を止め、その後4連勝を記録した。しかし、その後3連敗を喫した[30]。その後、8日目に豪栄道に勝利し連敗を止めるが翌日から再び連敗。11日目から白鵬に勝利するなど連勝するも再び13日目[注 2]から連敗。14日目の敗戦後「しょうがない。できることをやって、できないものはいい」と現状を受け入れ、千秋楽に先場所敗れており、ここまで7勝7敗の同じく勝ち越しをかける魁聖との対戦を伝えられると「大丈夫」と自分に言い聞かせていた[32]。そして、迎えた千秋楽で魁聖に小股掬いで勝利し、大関の地位を保持した。照ノ富士は「今場所は長かった。来場所はけがを治してまた」と安堵の様子だった[33]。

9月場所は、初日に嘉風に黒星するもその後連勝し隠岐の海に敗れた(物言いはついたが軍配通り敗れた)。あと、再び連勝と4勝2敗で白星が先行していた。しかしその後7日目から長期連敗し、この場所で幕内全勝優勝を果たした豪栄道等に何も出来ずに負けるなど精彩を欠く相撲が目立ち、12日目に碧山に押し出しで敗れ6連敗で負け越しとなった。これにより来場所は自身3度目の角番となる[34]。また取組後、過去10戦全勝の碧山に何もできず負けたことについて「弱くなってるな、俺」と語った[35]。さらにそのまま連敗を続け、横綱鶴竜に寄り切りで敗れ8連敗で10敗目を喫し、結局千秋楽も立合い変化するも寄り切りで稀勢の里に敗れて9連敗の4勝11敗で場所を終えた。11月場所は2016年内で3度目の角番となるが、同一年内に角番を3場所経験するのは、2005年の魁皇と千代大海以来。[36] 10月14日の秋巡業豊橋場所では高安、錦木、貴ノ岩と22番取って6勝と不調で、特に高安には12連敗を喫した[37]。

迎えた11月場所初日は、嘉風につり出しで敗れ大関で2度目の10連敗を記録した。その翌日も敗れ11連敗まで記録は伸びてしまうが3日目に隠岐の海に勝利しようやく連敗を止め、その後復調し8日目には大関琴奨菊を危なげなく寄り切りで倒すなど6連勝する[38]。さらに翌日も魁聖に上手投げで勝利で7連勝。九州入り後は状態も上向き「思い切って相撲を取れている」と自信も見せ[39]、2敗をキープし優勝争いに絡むも全勝だった横綱鶴竜に敗れ連勝がストップ。翌日の豪栄道にも敗れ優勝争いから脱落するも12日目に横綱白鵬に勝利し勝ち越しを決め、角番を脱出した。だが、終盤3連敗しそのまま8勝7敗で場所を終えた。この年の勝ち越しは全て8勝7敗で年間通じての成績は33勝48敗9休勝率.407、11連敗以上2回と膝の故障に苦しめられた年となった。休場ありでの48敗はこの年もっとも黒星を記録した平幕の佐田の海の51敗に3敗差でこの年の大関では当然ワーストだった[40]。さらにこの年の勝ち星33勝は6場所全て幕内にいた力士では最小で照ノ富士は「つらく、苦しい年だった。大関から落ちてもおかしくない状態だった」と話した[41]。だが11月場所は力なく押し出される場面は少なく「これだけ相撲取れるんだから、前よりはちょっとずつ良くなっている」と膝の状態が上向いていることも証明した[42]。また、「12日目から熱が出た。病気とけがが一気に集まってきた。よくこんな体で耐えられたと感じる」と勝ち越してからは発熱などで怪我と共に二重の苦労があったことも明かしていた[43]。しかし、冬巡業は古傷の左膝半月板の状態が思わしくなく相撲を取れない状態で帰京を余儀なくされ「なかなか治らない。筋などを切っているのでなかなか力が入らない」とため息をついていた[44]。


靖国神社奉納大相撲 土俵入りする照ノ富士関(2017年4月17日撮影)

靖国神社奉納大相撲 照ノ富士関の相手は玉鷲関(2017年4月17日撮影)
2017年1月場所も初日から連敗し、先場所からの連敗は5まで伸びてしまうが3日目に勝利しようやく連敗を止めるも翌日から再び連敗。その後再び連敗を止めるとそこから3連勝を記録した。だが、その後再び連敗し4連敗で12日目に負け越しが確定し、これにより来場所は自身4度目の角番となった。この場所は大関琴奨菊が角番で負け越しで大関陥落。自身も来場所角番となる負け越しについて照ノ富士は「何とも言えない。弱いから負けたんでしょう」と元気が無かった[45]。結局、その後も連敗は止まらず7連敗で4勝11敗で場所を終えた。大関11場所目で4回目の角番は最速記録[46]。

4度目のカド番で迎えた3月場所は初日から5連勝と好調で、6日目に高安に敗れるものの9日目に勝ち越して角番を脱出した。11日目には2015年9月場所以来となる二桁勝利を記録した。照ノ富士は「下がると怖い。無理してやっている」と打ち明け、地道にトレーニングなどを重ね「痛みはあるが、先場所より稽古できているし、動けている。我慢できている」と手応えを話していた[47]。さらにその後も白星を重ね、14日目には自己最多タイの13勝目を記録し、優勝に王手をかけた[48]。先場所の負け越しで大関から関脇へ陥落した琴奨菊の大関復帰を阻止した。千秋楽に、13日目に負傷している稀勢の里戦で勝てば11場所ぶり2回目の優勝という、絶対的に有利な立場にあったが、左への変化こそ堪えたものの捕まえきれないまま前に出たところに繰り出された突き落としの餌食になってしまい、優勝決定戦に持ち込まれた。さらに優勝決定戦、今度は立ち合いからすぐにもろ差しが決まって万全の態勢で一気に出るが、土俵際決死の小手投げを食らって叩きつけられてしまい、手負いの相手に連敗して逆転されるという悪夢のような展開で、すぐそこまで迫っていた優勝は手からすり抜けていった[49]。

照ノ富士は「この場所準優勝なら来場所綱取りになるのか?」と報道陣に聞いたりしていたが[50] 1月場所は4勝11敗の負け越しなど不安定な成績であったため、5月場所での綱取りの声は上がらなかった[51]。北村正任横審委員長も「内規は絶対的なものではない。準優勝、優勝で上げるなら横審はいらない。(成績が)安定しないと議論にならない」と長期的視点の必要性を説いている[52]。場所後の3月31日、14日目の相撲で変化をして勝ったことから「モンゴルへ帰れ」という野次を受けたことに関して日本相撲協会が日本政府から事実関係などの問い合わせを受けたことが、協会関係者の話で分かった。関係者によると、協会は、当該の野次を事実として確認するのは困難とした上で、円滑な競技進行や安全で平穏な観戦の確保を目的とした「観戦契約約款」に基づき、今後も来場者に対応していくと回答したという[53]。照ノ富士は優勝争いで古傷の左膝が悪化。場所後にモンゴルに帰国し治療とリハビリに専念し4月17日の東京・靖国神社奉納大相撲で春巡業に復帰した。また、膝の状態について「体調は徐々によくなっている。モンゴルでは入院して治療していた」「休んでも治らない。稽古しながら休まずに徐々に鍛えた方がいい。相撲取りなので」としていた[54]。

5月場所は初日から遠藤、玉鷲と連敗を喫した。2日目の取組後には「…。体の動き? 見ての通りだよ」と不調をアピール[55]。しかし、その後復調し8連勝するなど先場所から続く好調を維持し10日目には勝ち越しを記録した。その後も連勝を続け10連勝を記録した。しかし、この日の正代を破った際に古傷の左膝を痛めてしまう[56]。翌日の出場さえ危ない状況だったが12日目は栃煌山を右足一本で踏ん張って小手投げで逆転勝利し自己最多タイの11連勝。支度部屋では腫れた膝を出しながら「大丈夫。思いきって相撲が取れている」と話した[57]。だが、優勝争いしていた白鵬との直接対決で敗れ優勝を許してしまった。左膝の状態は悪化しているが「優勝争いをしていたから、最後まで取り続けないと」と言い、千秋楽も「当たり前」と出場を宣言していた[58]。また、「千秋楽はもうどうでもいい。優勝ないじゃん。優勝しないと意味ない? うん」と終戦を宣言していたが千秋楽は大関取りだった高安を小手投げで倒し結局この場所12勝3敗の優勝次点で終えた。2場所連続の12勝以上は大関取りだった2015年以来となった[59]。場所後に古傷の左膝の遊離軟骨を除去する内視鏡手術を受け、徐々に良くなっていると語っていた[60]。

7月場所は、稽古はおろか蹲踞もままならない状態で挑み[61]、初日から不調で連敗。3日目に勝利するも再び連敗。1勝4敗と苦しみ。5日目の4連敗中だった小結琴奨菊戦の敗北した取組で手術した左膝を再び痛めてしまい、6日目から休場した。6日目は正代戦は不戦敗。詳しい症状は左半月板損傷で約7週間の加療であり、来場所の出場さえ厳しいほどの重症であった。また、来場所は歴代ワースト8位、自身5度目の角番となる[62]。照ノ富士は入院し夏巡業は全休。治療に専念するという[63]。9月場所の出場は無理と見られていたが全休した夏巡業の間に「1日3度の治療と2度のトレーニング」を繰り返し、回復を進めた成果が出て「動ける体になってきた。膝もほぼ治ったし、この2年で一番いい」と明るく話し「優勝を目指して頑張る。順調に上げていきたい」と自信の様子を見せていた[64]。

9月場所は5度目のカド番を東大関2で迎えた。しかし、初日から連敗し不安視されている膝の状態などは良いとしながらも、怪我をする前の状態に戻ったことに体がなれていないなどと言っていた。結果が伴わない事態に「自分でも分からないですね。しっかりと一番一番やるだけです」と気合を入れた[65]。3日目にようやく白星をあげるが4日目から再び連敗。さらに5日目の取組で再び膝を負傷してしまう。土俵下でも左膝を曲げられず帰りも付け人に肩を貸してもらい、記者に照ノ富士は前に出たときに痛めた「膝がズレた」と呟いていた。今後の出場も「まずどうなってるか、みてからです」と悔しそうな表情だった[66]。翌日になっても膝の炎症がおさまらず「左膝半月板損傷で約2週間の加療を要する見込み」との診断書を提出し休場した。5日目を終えて1勝4敗で伊勢ケ浜親方は「昨夜は痛みが取れて出られると思ったが、朝になって歩けない。今の状態では再出場は無理ではないか」と話していた。6日目の正代戦は不戦敗となった[67]。その後、同場所9日目の時点で大関で2場所連続負け越しとなり、14場所務めた大関から陥落が決定した。角番制度となった1969年名古屋場所以降では2017年春場所の琴奨菊以来で17人目(20例目)[68]。

大関陥落後
照ノ富士は来場所2017年11月場所に出場する場合は大関特例復帰の10勝以上を目指すことになり、八角理事長は「きっちり治せば2桁勝つ力はある。とにかく膝を治すこと。四股を踏んで鍛えることだ」と奮起を促した[69]。2017年10月19日に照ノ富士は秋巡業に合流。大関から陥落したことに「落ちたことはあんまり気にしていない。自信を持っていく」「休んでいても治らない。付き合ってやるしかない。やり続けたら自信にもなる。大丈夫やろ!」と話していた[70]。27日の松江場所では朝乃山と三番稽古を行った。途中、巡業部長の貴乃花からアドバイスも受けて「ありがたいです」と感謝したが、稽古では3勝4敗。最後の一番では左膝を気にし、貴乃花の「無理するな」との声掛けもあって稽古を終えた[71]。 2017年11月場所は初日いきなり黒星。勝利した北勝富士に「当たってこなかったですからね。相当膝が悪いんじゃ…。相手の心配してどうすんだって感じですけど」と心配されてしまっていた[72]。そのまま連敗は伸び4連敗で5日目から日本相撲協会に「左膝外側半月板損傷で全治4週間」との診断書を提出し休場した。照ノ富士の休場は3場所連続で通算4度目。二桁をあげれば特例大関復帰だったがこの場所での大関復帰はならなかった。師匠の伊勢ケ浜親方は「膝に水がたまっているし、しっかり治さないといけない。ああいう相撲で出ては駄目。本人も自覚している」と言っていた。5日目の対戦相手御嶽海は不戦勝となった[73]。結局、千秋楽まで出場せず負け越しとなり、平幕落ちが確定した。東前頭10枚目まで番付を落とした2018年1月場所でも身体の状態は悪く、初日、2日目と幕内下位の力士を相手に良いところなく敗れた。1月16日に「2型糖尿病、約1週間程度の療養を要す」との診断休場届を協会に提出し、3日目の大翔丸戦は不戦敗。照ノ富士の休場は4場所連続となる。4場所連続途中休場は幕内では史上初[74]。今回の休場理由は、膝の怪我ではなく体調不良によるものであり、再出場の可能性もある[75]。病状は2型の糖尿病であり、18日にはインフルエンザにまでかかってしまったという。伊勢ケ濱親方は「血糖値は下がっている。血糖値が安定していれば、出られる可能性がある」とも話していた[76]。11日目より再出場したが、12日目に大奄美に敗れた段階で、大受・雅山・把瑠都に続いて史上4人目となる元大関の十両陥落が確定的となってしまった。さらに13日目も敗北し、前年9月場所から続く連敗が自己ワーストの14連敗になってしまった。結局は千秋楽まで白星を挙げられず、8敗7休で終わった。大関陥落からわずか2場所での十両転落。直近4場所でわずか2勝と苦しむ照ノ富士にAbemaTVで解説を務めていた元旭天鵬の友綱親方は、「言葉がかけづらい。各部屋で千秋楽パーティがあるけれど、声をかける人もなんと言っていいか考えるのでは」と心配していた[77]。

十両陥落
3月場所は西十両5枚目で挑み、初日黒星。膝の負傷と糖尿病のため体の状態は相変わらず悪く医者からは「怪我はだいたい治っているが糖尿病で体が元に戻るまで半年と言われているけど、人の2倍、3倍努力して3、4か月で戻したい」と語っていた。皆勤したのは2017年の夏場所が最後であり、最後に白星を手にしたのは最後の大関を務めた2017年秋場所3日目の栃ノ心戦であった。半年も白星から遠ざかる状態だが本人は「落ちるところまで体が落ちて戻すのは時間がかかる。でも、前もそれで戻して準優勝できるまで戻った」と気力十分で気合を入れていた[78]。2日目の臥牙丸戦で白星をあげ、連敗は17でストップした。照ノ富士は「やっと勝ったあ」と笑顔だった[79]。しかし14日目の貴ノ岩戦で負け越してしまい、6勝9敗で終わった。14日目の貴ノ岩戦はかつての兄弟子の日馬富士の傷害事件の被害者であっただけに、取組の際には事件現場に居合わせていた照ノ富士自身に事件当時の記憶を思い出させ、照ノ富士は取組後に「相撲界に入って一番、嫌な相撲だった」とこぼすほどであった[80]。東十両8枚目で迎えた5月場所も3日目まで白星を手にすることができず4日目に左膝外側半月板損傷により休場、このまま十両残留目安の5勝を記録するため再出場しなければ幕下への陥落も避けられなくなり、元大関が幕下陥落なら昭和以降初(江戸時代の看板大関などのケースを除けば史上初)のケースで引退の声さえ出るようになってしまった。伊勢ケ浜親方は「先のことなんか分かりはしない。その時にならないと言えることじゃない」と話していた[81]。そして、怪我をおして11日目から再出場するも力なく敗れ十両残留目安の5勝を記録することが不可能になり幕下陥落が濃厚となった。結局この場所は再出場後も一勝もならずに9敗6休。不戦敗も含めて先場所から休場を挟んでの13連敗で場所を終えた。報道陣に「最後の一番だから全力でやらないとね。(15日終わり)気持ちいいよ」と語り、帰り際にはファンに「辞めないで」と声をかけられると「辞めるなんて言ってないよ」と話していた。伊勢ケ浜親方は「引退? そんなの全然ない」「状態を見ながら年齢的にもまだ若い。幕下に落ちたからと言って、辞めさせるとかにはならない」と最大限やらせて答えを出すと話し、前例がないことにも「関係ない。ここまで怪我をした人がいないだけ」と語りった。左膝の痛み、糖尿病に加え腎臓結石も患っている状態に「膝はだましだまし、腎臓はやってみないとわからない」と治療方針を示していた[82][83]。さらにこの時期にはC型肝炎の治療を継続して行っていることも明かしている[84]。後に照ノ富士はこの時期のことを「ケガで番付が落ちたと思われてるみたいですけど、けしてそうではないんです。膝のケガをしてからも大関を維持できていたから、ケガだけが原因じゃないんです。そこで糖尿病に罹ったり、C型肝炎にもなってしまった。あと腎臓結石も。どうしても力が出ないんですよ。元気な時なら、筋トレも稽古もやればやるほど良くなるのに、やればやるほど悪くなっていくんですから」と語っている[85]。番付が降下していた頃、医師からは「このままいったら2年近くで死にますよ」と宣告されていた[86]。

序二段への陥落
2018年6月25日に7月場所の番付が発表、東幕下6枚目にしこ名が掲載され正式に幕下への陥落が決定した。大関経験者、幕内最高優勝経験者が幕下に陥落するのはこれが初めて。また、この日に東京都内の病院で両膝の手術を受けた。師匠の伊勢ヶ濱親方(63代横綱・旭富士)は再起を目指す意向を明言しているが、この手術により7月場所を全休することを表明した[87]。そのため9月場所は東幕下47枚目まで番付を落とし、自身の持っていた元大関の最低地位の記録を大幅に更新する形となった。更にその9月場所も初日からの休場を表明[88]。元大関・幕内最高優勝経験者の幕下陥落で既に前代未聞のところ、9月場所も全休したため、翌11月場所では三段目(西27枚目)へと陥落してしまった。その11月場所でも全休を表明。次の2019年1月場所での復帰を見据えて治療とトレーニングを行っていたが[89]、その西三段目88枚目まで番付を落とした2019年1月場所でも全休(休場は5場所連続、全休は4場所連続)することになり、翌3月場所で西序二段48枚目へと陥落した。序二段陥落は大関はおろか三役経験者としても初めて。四股などの基本運動は再開しており、伊勢ヶ濱親方は「関取に上がるためにやっている。万全の状態にしないといけない」と話している[90]。

3度目の膝の手術をした頃は洋式トイレに自力で座れないほどの状態であったといい、そのような状態から師匠に引退を申し出ることも5、6回あったという[91]。 2019年の正月に誉富士に挨拶した際、相撲を辞めてモンゴルに帰郷して仕事を探すことを伝えたが、伊勢ヶ濱に説得されて現役続投を選んだ。「辞めるにしても辞めないにしてもまずは病気を治せ」とアドバイスを受けた。応援してくれる周囲の人々のためにも相撲を取り続けようと思ったという[91]。土俵で相撲を取る稽古は1日10番しか取れない体調だが、関取復帰に向けてウエイトトレーニング、ウォーキングで体力を作り、摂生に努めた[92]。序二段まで陥落したが、付け人は免除してもらい、大関時代に付け人だった力士が雑用を手伝ってくれた[91]。本人は「もう1回、自分がどこまで通用するのか試したい」「そうか、番付を上げて行く楽しみを、もう一度味わえるじゃないか」という考えで相撲に励むことにした。番付が下がったことで、大関時代にチヤホヤしてくれた一部のタニマチは離れて行ったが、残ったタニマチは「どんなに番付が下がろうと応援するよ」と、変わらず支援を続けてくれた[93]。3月場所から土俵復帰し、4日目の2番相撲は同じ元幕内の天風であることからニュースになった。その天風との取組では、天風が出たところを小手投げで転がして連勝をもぎ取った[94]。因みに幕内経験者同士が序二段で対戦するのは、昭和以降史上初[95]。その後、4番相撲となった7日目の寺尾翔戦に勝利し、4連勝で2017年5月場所以来の勝ち越しを決めた[96]。5番相撲では復調を確認しようと35秒の長い相撲を試し、危なげなく白星[97]。6番相撲は速攻相撲を心掛けて4秒で白星を決めたが、稽古が満足にできておらず「腰が下りていない」と本人は振り返った[98]。元大関であるにも関わらず序二段まで番付を下げてもなお現役続投を選んだ背景には年寄名跡取得へ帰化申請中という事情があるとする報道もある[99]。最終的に7戦全勝で締めくくり、狼雅との優勝決定戦に臨んだが、敗れて優勝を逃した[100]。東三段目49枚目で臨んだ翌5月場所は、中日の4番相撲で大翔成に逆転で押し出される黒星はあったが、他は全て勝って6勝1敗で取り終えた。東幕下59枚目へと番付を戻した7月場所では、11日目の6番相撲で、3月場所の優勝決定戦で敗れた狼雅を極め出しで破って雪辱を果たすなど、4日目の2番相撲に大野城に敗れた以外は全て勝って6勝1敗で場所を終えた。9月場所は東幕下27枚目で、初日から6連勝で来たが、13日目の7番相撲で幕内経験者千代の国との6戦全勝対決に敗れ、幕下優勝はならなかった。

再入幕と復活優勝
11月場所4日前の11月6日にはそれまで1年以上できなかった相撲を取る稽古を行っていた。時津風部屋での出稽古で幕内の豊山、錦木、正代を10番取って10連勝と絶好調をアピールし、さらに「(東京)オリンピック前に幕内に上がりたいんだ」と抱負を語った[101]。11月場所は西幕下10枚目で7戦全勝優勝となり幕下優勝を飾った。さらに来場所の関取復帰を決めた。日本相撲協会は11月27日の番付編成会議で照ノ富士の10場所ぶりの関取復帰を決定した。大関経験者、幕内経験者、幕内最高優勝経験者の序二段からの関取復帰はいずれも史上初[102]。三役以上経験者が三段目以下に陥落してから十両に復帰する事例自体もこの場所で同時に再十両を達成した千代鳳を含めて常幸龍以来3人目[103]。照ノ富士は「新十両が決まったときよりうれしい」と再十両を決めた感想を述べ[104]、さらに「改めて気が引き締まる。応援してくださる方々の期待に応えられるように頑張りたい」と決意のコメントを残した[105]。2020年1月8日の時津風部屋への出稽古では北勝富士、正代、豊山らと相撲を取り、計7番取って6勝1敗。本人は「昔感じたことが最近、復活している」と復調を感じ取っていた[106]。

2020年1月場所初日の千代鳳戦は、大相撲史上初となる「三段目以下に陥落してから十両に復帰した三役以上経験者同士の対戦」であったが、極め出しで白星を獲得している。十両での白星は自身として662日ぶり[107]。この場所は中日で勝ち越しを決め、16場所ぶりとなる関取の地位での勝ち越しとなった[108]。そして13日目に十両優勝を決めたが、その後は連敗し13勝2敗で終えた。

3月場所では、5日目まで順調に白星を積み上げ、6日目に土が付くが10勝5敗と終え、2場所連続で2ケタ勝利とし幕内復帰を確実にした。

5月場所は新型コロナウイルス感染拡大により中止となり、7月場所前の7月9日、部屋の宝富士と翠富士を相手に20番ほど相撲を取った。それまでしばらくの間20番も相撲を取る稽古を1日に行ったことはなく、復調をアピールする結果となった。本人は「こういう時期だからこそ、乗り越えてきた自分だから言えることもある。みんなに我慢ということを相撲でちょっとずつ伝えていきたい」と日刊スポーツの取材に応じた[109]。

7月場所は幕尻の東前頭17枚目で迎え幕内復帰後初の場所となり9日目で勝ち越しを決め、11日目に十両を含め3場所連続2ケタ勝利となる。13日目、新大関の朝乃山との1敗対決を制し単独トップに立つ。14日目に正代に敗れるが、朝乃山も照強に敗れたことにより単独トップのまま千秋楽を迎え、御嶽海に勝ち、5年振り2回目の幕内最高優勝を果たした。元大関の平幕優勝は魁傑以来44年振り史上2人目、再入幕場所での優勝は同年1月場所の徳勝龍以来史上2人目、幕尻優勝[注 3]は同年1月場所の徳勝龍以来史上3人目、30場所ぶりの優勝は琴錦に次ぐ歴代2位のブランク優勝、過去に幕内最高優勝した力士が十両以下に陥落後再び幕内最高優勝したのは史上初の快挙となった。

大関再昇進
東前頭筆頭で迎えた9月場所は2連敗スタートだったが、3日目に朝乃山を破ってからは7連勝。10日目の黒星を挟んで、11日目に勝ち越しを決めたところまでは優勝争いに絡んでいた。しかし、12日目に阿武咲に寄り倒されて優勝争いから脱落し、その翌日の13日目から左膝の変形性関節症のため休場した[110]。

11月場所は東小結の地位で迎える。照ノ富士は新三役が関脇であり、そのまま大関に昇進した後、大関陥落後に関脇から小結を通り越して平幕に落ちているため小結に在位するのは自身初となる。この場所も好調で千秋楽に大関貴景勝を破って13勝2敗で取り終え、貴景勝との優勝決定戦に臨んだ。決定戦では敗れて優勝を逃した。同時に殊勲賞も逃したが技能賞を受賞している。

2021年1月場所は東関脇の地位で迎える。序盤は3勝3敗とやや不振だったがその後は盛り返した。10日目に隆の勝に敗れた以外は白星を重ねて11勝4敗で取り終え、前場所に引き続き技能賞を受賞した。

2021年3月場所は2度目の大関昇進を懸けた「大関取り」の場所となった。12日目に9勝目を挙げて、「三役で直近3場所33勝」の昇進目安に到達したが、直前場所が9勝で昇進した前例はないため、伊勢ヶ濱審判部長は昇進に関して「相撲が全部終わってから」と話すにとどめた[111]。その後も白星を重ねて12勝3敗で取り終え、4場所ぶり3度目の優勝を果たした。関脇以下の地位での3度の優勝は史上初。場所後の大関復帰も確実にした。特例なしでの大関復帰は魁傑以来44年ぶり。序二段陥落からの大関復帰は史上初の快挙となった。[112] 取組後は「ホッとしてます」「うれしいの一言です」と表情を崩す場面もあった[113]。師匠が審判部長を務めるだけに贔屓で大関昇進させてもらったと思われたくないという気持ちがあったようであり、本人は「師匠の顔に泥をぬることは絶対に許さないという気持ちだった」とこの場所にかける思いを千秋楽一夜明け会見で明かした[114]。

江東区の部屋で行われた昇進伝達式では、口上を「謹んでお受けいたします」とシンプルに述べた。日本相撲協会公式YouTubeチャンネルでの生配信では約2000人の視聴者に見守られ、両膝の古傷により伝達式直前から正座の体勢を何度か取り直す照ノ富士を心配する視聴者のコメントもあった。式典には部屋付きの安治川や宝富士ら部屋の関取衆も集まった。乾杯の音頭も取られたが、新型コロナウイルス感染予防のためか、照ノ富士ら関係者がグラスに口をつけることはなかった[115]。式典後の会見では「前回と気持ちは変わらない。やるからには上を目指したいので」と1度目の大関昇進時同様横綱昇進を目指していることを示し、師匠の伊勢ヶ濱も「膝という爆弾抱えている。留意していけばまだまだいけると思っている」と期待を寄せた[116]。

大関の地位に戻った2021年5月場所は西大関2枚目の地位で迎える。初日から10連勝をするが、11日目に妙義龍の髷を掴んで反則負けで初黒星を喫する。その後12日目・13日目は白星を重ねるが、14日目に遠藤に、千秋楽は貴景勝に敗れ12勝3敗となり貴景勝に並ばれるも優勝決定戦では貴景勝を破り、前場所に引き続き優勝し、自身初の2連覇を達成した。また、大関復帰場所での優勝は史上初となった[117]。なお、師匠でもある伊勢ヶ濱審判部長は翌2021年7月場所は綱取りになると明言した[118]。場所終了後、同月24日に行われた横綱審議委員会の定例会後には矢野弘典委員長がマスコミの取材に応じ、「どん底まで落ちて、よくここまで戻ってきたなという称賛の言葉があり、ファンの心をつかんだと思う。優勝のインタビューも浮かれたところが全くなく、好感が持てたと私自身は思う」と称賛し、「相撲自体もいい相撲であってほしい。ただ勝てば良いというものではない。目の肥えたファンの皆さんがうなるような相撲を見せていただきたい」と7月場所での活躍に期待を寄せた[119][120]。

綱取り、横綱として
7月場所では6場所連続休場明けの白鵬と共に絶好調で、初日から13連勝とし、13日目終了時点で優勝次点以上の成績が確定。伊勢ヶ濱審判部長から昇進条件を達成したとの見解が示され、史上初の序二段陥落からの横綱昇進を決定的なものとした[121][122][123]。さらに14日目も勝利を収め、千秋楽では白鵬との全勝対決に臨むこととなったが、白鵬に敗れ初黒星となり14勝1敗で3連覇を逃した[注 4]。白鵬との結びの一番を振り返り「見ている通り自分が弱かっただけ」と話したが、審判部が打ち出し後、八角理事長に横綱昇進を審議する臨時理事会の開催を要請した[124]。千秋楽翌日の7月19日に開かれた横綱審議委員会の定例会合で照ノ富士の横綱推薦が委員の満場一致で決定。事実上、横綱昇進が決定した[125]。モンゴル出身としては2014年の鶴竜以来、7年ぶり5人目の横綱誕生であり、外国出身としては7人目で、大関陥落経験者の横綱昇進は1979年7月場所後の三重ノ海剛司以来42年ぶり2人目となる。 2021年7月21日、第73代横綱昇進を決定した。新横綱は令和では初めてとなり、平成生まれでも初の横綱となった[126]。 照ノ富士は昇進伝達式において「謹んでお受けいたします。不動心を心がけ、横綱の品格、力量の向上に努めます」と口上を述べた。また、土俵入りは師匠の伊勢ヶ濱親方(元横綱・旭富士)と同じ不知火(しらぬい)型を選んだことを明らかにした[126]。

2021年8月4日付の官報に於いて照ノ富士の日本国籍取得が告示された[127]。外国出身横綱の日本国籍取得は、アメリカ出身の曙と武蔵丸、モンゴル出身の白鵬と鶴竜に続き5人目となる[128]。同日の電話取材に対し、名字は師匠の伊勢ケ浜と同じ「杉野森」であることを公表したが、名前については当初「親方とおかみさんと相談して決めた名前がありますので。国籍の関係のことで自分は分からないので。先に自分の口から言ってもという感じですね」と話し、明らかにはしなかった[129]。27日、下の名前が「正山(せいざん)」であることを明かした。伊勢ヶ濱は、「正」はおかみの淳子夫人が同親方の本名からもらってはどうかと提案したといい、「山」については「私事でいろいろな思いがあるので」と言い、明かさなかった[130]。

綱打ち・土俵入りの練習についての報道は、うっかりすると見落とすほど小さな扱いと伝わる[131]。19日、芝田山広報部長は23日に予定されていた明治神宮での奉納土俵入りを、新型コロナウイルスの影響により延期することを発表した[132]。24日、横綱推挙式と奉納土俵入りが明治神宮で無観客にて行われ、日本相撲協会公式YouTubeチャンネルで視聴者が照ノ富士の土俵入りを見守った。露払いは照強、太刀持ちは宝富士が務めた[133]。この時、三つ揃えの化粧廻しは伊勢ヶ濱が現役時代に使用し、かつて部屋の先輩横綱の日馬富士も使用していたものを使用した[134]。伊勢ヶ濱はこの日の土俵入りを「67点くらい(笑)」「はは、体が大きいし、横綱土俵入りが似合いますね」と評した[135]。9月場所前の番付発表会見では同じモンゴル出身の先輩横綱・白鵬に「勝って恩返ししたい」と特別な思いを示した[136]。伝達式の口上として使った「品格」という言葉については「品格は自分の生き方で証明していきたい」と答えた[137]。

新横綱として迎えた9月場所初日の横綱土俵入りを見た八角理事長は「落ち着いていました。優勝や優勝争いをしてきて、先場所も優勝決定戦のようなもの。相撲の自信が(そのまま土俵入りにも)表れている」「堂々としていた」と評した[138]。花田虎上は「本来は、もう少しゆっくりせり上がるところですが、毎日やれば相当の負担になるから、そこは大目に見てもいいと思います」とコメント[139]。この場所は13日目の取組後に八角理事長が疲労や膝の故障の影響を察知する事態となった[140]が、最終的には13勝2敗で自身2場所ぶり5度目の幕内最高優勝を果たし、優勝インタビューでは「取組前に1差で迫っていた妙義龍が敗れた時は」と聞かれた際に「最悪3番でも相撲とる気持ちでいました。できることをやったと思います」と答えた[141]。優勝に際し、年内にも第1子が誕生予定であることが明かされた[142]。優勝一夜明け会見では、白鵬の引退報道に対して「まだ(報道を)見ていないので」と言及を避けた[143]。

横綱審議委員会は場所後の9月27日夕に行われたの定例会で八角理事長から9月場所での力士たちの戦いぶりなどについて報告を受け、定例会後に記者会見した矢野弘典委員長は照ノ富士について「新横綱として立派に土俵を務め、しかも優勝、日頃の心がけが実ったと高く評価できる。品格と強さ併せ持つ横綱として精進し、土俵の内、外問わず、模範となる力士になってほしい」[144]「たいへん強い決意と深い思いを抱いて横綱になった人。序二段から戻って想像の出来ない苦労があったと思う。不屈の精神、我慢、努力、忍耐を経てきたと思う」と新横綱での優勝を称え、これまでの精進ぶりについて高く評価した[145]。

11月場所は横綱在位2場所目にして東横綱(1人横綱)となった。番付上の1人横綱は7月場所の白鵬以来で、史上10人目(白鵬が2度あるため、のべ11人目)となった[146]。この場所は2日目に、先場所に自身初となる金星配給を許した相手である大栄翔に掬い投げで勝利し、自身初となる幕内での九州場所の連勝スタートを切った。対戦時には「特に自分の相撲を取りきることしか考えていなかった。ずっと一つのことやってきてますから、それを貫いてやるだけ」と雑念は捨てていた[147]。その後も白星を重ねて4場所連続となる中日勝ち越しを決めると、10日目にそれまで全勝で並んでいた貴景勝が1敗に後退し、自身がこの日に勝利したことで単独トップとなった[148]。その後も全勝を守り、14日目に1人1敗で追う平幕の阿炎との対戦が組まれ、勝てば優勝が確定する状況となった[149]。翌14日目の阿炎戦では押し倒しで勝利し、初日から14連勝として2場所連続6回目の優勝を決めた。新横綱場所からの連覇は1962年1月場所の大鵬以来59年ぶり史上2人目、千秋楽を待たずして優勝を決めるのは自身初となった[150]。優勝インタビューでは「基本的に毎場所違う感じがあるのでその中でやることは変わらない。一生懸命やるだけ。ちゃんと、一日一番っていう気持ちで、全部受けて立つ気持ちでやりました」とコメント[151]。
翌日千秋楽で貴景勝に押し出しで勝利して29歳最後の日、令和3年最後の一番で全勝優勝(平成生まれ初の全勝優勝)を果たした。千秋楽のNHKアナウンサーの佐藤洋之による優勝インタビューで佐藤は「30歳はどういう相撲にしたいですか?」と聞くと照ノ富士は「先のことを考えてもしょうがない、できることをやるだけです」とコメント、更に佐藤は「聞き方を変えて令和4年はどういう相撲にしたいですか?」と聞くと照ノ富士は「2ケタ優勝を目指します」とコメントした[152]。一夜明け会見では「やり遂げた後の気持ちよさを味わいたいから、普段から自分に厳しくやってきたのがよかった」と心境を語り、この場所初顔の阿炎との対戦に臨んだ気持ちを「突き押しがどんなものか。久しぶりに相撲を取ってみたいという気持ちになった」と余裕十分に振り返った[153]。この会見では、優勝回数2桁に到達することを今後の目標に掲げた[154]。29日の横審の定例会合で矢野弘典委員長が「横綱らしい相撲を展開した。日頃の精進が実ったのではないかと思う。相当、強い自覚を持っていると感じている。強いだけではなく品格も含めて相撲界のリーダーになってほしい」と期待を込めた。一方で矢野委員長は「追い掛ける方が、もう一つだった。これから伸びていく力士たちには、もっと強くなってほしい」と注文を付けた[155]。8代尾車は「この1年を振り返ってみると、白鵬の引退という大きなことがあった。その中でも照ノ富士は着々と復活し、相撲内容が変わり、飛躍の年になった。今場所も一人横綱で土俵を守ってくれた。もし彼の復活がなかったらと思うと、ぞっとする」と場所後に2021年の大相撲を振り返っていた[156]。12月24日の、2022年1月場所番付発表会見では「今年の勢いを来年でも保つように」とコメント[157]。この場所は優勝すれば1919年5月場所の栃木山以来103年ぶりとなる新横綱からの3場所連続優勝となることから報道でも注目を浴びた[158]。 2022年1月場所では6日目に平幕の玉鷲に敗れ前年9月場所13日目より続いていた連勝記録が23でストップした。その後は9日目まで全勝の関脇御嶽海を星一つの差で追いかけ、10日目に御嶽海が敗れ一敗で並走となった。12日目には御嶽海が敗れたことにより一時的に単独トップに立ったが自身も小結明生に敗れたことにより、二敗で追走していた平幕の阿炎と並んで3人が優勝争いのトップとなる展開となった。14日目には13日目に三敗へ後退した阿炎に敗れ三敗となり御嶽海に単独トップを許した。千秋楽では勝てば幕内では1996年11月場所以来となる優勝決定巴戦に出場という大きな一番となったが、御嶽海に敗れてしまい優勝を逃した。 2022年3月場所では初日に新三役・新小結の豊昇龍を下し力の差を見せつけるも5日目まで終えて3勝2敗、6日目より途中休場となった。休場中は自身として初めて客目線になって相撲観戦に没頭し、ずっと気を張っていた中での休養であったためリフレッシュできたとのこと[159]。

5月場所前の合同稽古は最終日の4月24日のみ参加したが、稽古中に左足を気にするそぶりを見せた[160]。5月6日、野見宿禰神社で奉納土俵入りを行った。本来は横綱昇進後の最初の東京場所前に奉納土俵入りを行うが、新型コロナウイルス感染拡大の影響によりこの5月場所前となった。師匠でもある伊勢ヶ濱審判部長は、照ノ富士について「先場所の場所前よりはいい気がしますね。とりあえず相撲を取れる状態になった。元々、爆弾を抱えている。普段通りやるしかない」と話した[161]。この2022年5月場所は中日で3敗となったが、その後勝ち続けて12勝3敗で優勝した。

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