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石濱裕美子『物語チベットの歴史 天空の仏教国の1400年』

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2023/05/13 (Sat) 08:29:01

雑記帳
2023年05月13日
石濱裕美子『物語チベットの歴史 天空の仏教国の1400年』
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_13.html

https://www.amazon.co.jp/%E7%89%A9%E8%AA%9E-%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E5%A4%A9%E7%A9%BA%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%9B%BD%E3%81%AE1400%E5%B9%B4-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%9F%B3%E6%BF%B1%E8%A3%95%E7%BE%8E%E5%AD%90-ebook/dp/B0C4L2LW8L


 中公新書の一冊として、中央公論新社より2023年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はまず、チベット高原の地理を説明していますが、その平均標高は4100mで、改めてチベット高原の険しさを思い知らされます。ただ、本書が指摘するように、チベット高原は東方に行くほど低くなるので、東部では農耕も行なわれており、チベットの人口の大半は東方(東部のカム地域と東北部のアムド地域)に集中しています。チベット中央部に位置する古都のラサは、標高が富士山より少し低いくらいの高地に位置しているものの、緯度は日本列島の南西諸島と同じで、平地ではオオムギの栽培も可能です。チベットは高度差が大きく、動植物相が豊かなので、薬剤の宝庫として周辺地域から称えられてきました。本書が対象とする時代は、チベットが域外史料でも確認できるようになる7世紀以降で、基本的には古代チベット帝国(トゥプト、吐蕃)以降です。本書は、これ以降のチベットにおける仏教の影響の大きさを指摘し、仏教を中心にチベット史の展開を解説します。

 本書の趣旨からしていわゆる先史時代が省略されるのは当然でしょうが、チベット高原は人類進化史において、高地適応などの問題からたいへん注目されている地域で、その関心は更新世にまでさかのぼります。チベット高原の先史時代の概説(関連記事)は、現生人類(Homo sapiens)以外に、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)もチベット高原に存在したことを指摘します。現時点の証拠からは、人類が初めて進出した高地(標高2500m以上)はチベット高原で、それは現生人類ではなくデニソワ人だった、と考えられます。さらに、チベット高原では16万年以上前の人類の手と足の痕跡が確認されていますが、これを「芸術」と評価する見解も提示されています(関連記事)。チベット高原に現生人類が到来したのは4万年前頃と考えられますが、このチベット高原最初の現生人類集団が現代チベット人の祖先なのか否か、定かではありません。こうした問題の解明には古代ゲノム研究が役立つと期待され、古代チベット帝国期(関連記事)、さらには過去5100年間(関連記事)にさかのぼってチベット高原の人類集団のゲノムデータが報告されている役立つ報告されており、今後の研究の進展が期待されます。

 古代チベット帝国以前には、チベット高原には十数の小国が分立していたようです。その中で、7世紀にヤルルン渓谷を根拠地とするプゲル氏からソンツェン・ガムポ王が現れ、13歳で即位して中央チベットを掌握すると、その子孫の時代には西方と東北部も支配する帝国が形成されました。プゲル氏の王は「天から降り立った者」としてツェンポ号を名乗り、他地域の首長はジェ号を称してツェンポに敬意を払いました。古代チベット帝国では、父親が在世中に幼少期に即位した王が珍しくないことから、ツェンポは独裁者ではなく、外戚が政治に大きな役割を果たしたのだろう、と本書は指摘します。古代チベット帝国は唐とも姻戚関係を結びます。唐が安史の乱とその余波で混乱していた8世紀後半には、チベット帝国の版図は最大となり、配下に多民族を抱えて民族宗教(ボン教)では統合が不可能となったため、761年に仏教が国教化されます。チベット帝国は822年に唐と盟約を締結し、その碑文は現存しますが、本書は、唐とチベットが話し合いで国境を定め、友好的な関係樹立のために努力した、とこの盟約の意義を指摘します。

 しかし、この盟約から間もなく、根強い反仏教勢力の抵抗もあり、9世紀半ばに古代チベット帝国は分裂します。古代チベット帝国の版図は広大で、インド・ネパール文化やヘレニズム文化や古代ペルシア文化や唐の漢文化(たとえば禅仏教)など、多様な文化の影響を受けましたが、11世紀以降にはそうした多様性が失われ、インド・ネパールの仏教文化一色に上書きされる、と本書は指摘します。これ以降、古代チベット帝国の歴史は仏教の思想や言語体系を通じて表現されるようになり、その諸王は軍事大国の王ではなく人々を導く菩薩の化身として描かれ、仏教と王朝の興亡が結びつけられた、と本書は指摘します。そうした言説で主役となったのは観音菩薩で、歴代のダライ・ラマも観音菩薩の化身と崇められました。

 古代チベット帝国の崩壊後、国家の保護を失った僧伽(僧団)は衰退し、分裂した王家の子孫による仏教復興策などにより、チベットにおいて仏教は再び興隆していきます。この過程で大きな役割を果たしたのが、11世紀にインドから到来したアティシャで、その著書『仏の境地への道を照らす灯火(ラムトン)』で提示された修行階梯は、後にチベット仏教の諸宗派に踏襲され、チベット仏教の骨格になった、と本書は指摘します。チベット仏教は、アティシャの前が前伝仏教(ガダル)、その後が後伝仏教(チダル)と呼ばれて区別され、後伝仏教から現代に続く四大宗派が成立していきます。一方で、後伝仏教より前の密教を奉じる宗派はニンマ派(古派)と呼ばれるようになります。こうして復興したチベット仏教は、13世紀に急速に拡大したモンゴル帝国でも受け入れられ、この頃にチベット仏教を特徴づける転生相続制が始まりました。転生相続制は、輪廻転生の苦しみの中で、そこから解脱するのではなくあえて留まって苦しむ者を菩薩が救済する、という菩薩思想に基づいて、亡くなった高僧の中陰(生死の中間状態)にある意識が、前世に縁のあった施主や弟子からの「復活希望」に応えて、死の直前に予言していた地に生まれ、それを施主や弟子が探して先代の地位を相続させる制度です。本書は、血縁相続と異なり、下から上にあがっていく転生相続制を、ある意味で民主的と評価しています。

 モンゴル帝国の衰退後、仏教諸派による覇権交代期間が続いたチベットでは、17世紀に新興のゲルク派が急速に発展して最大宗派となり、ゲルク派を代表する転生僧ダライ・ラマは、5世の代にチベットの最高権威者になりました。本書はこのゲルク派の成功について、宗祖ツォンカパ(1357~1419年)が完成させた包括的な哲学の力によるところが大きい、と評価します。ツォンカパは、あらゆる仏教思想や実践修行を、中観帰謬論証派の空理解に基づいて体系化し、その包括性から他宗派は次々と論破されていった、というわけです。また本書は、ゲルク派の布教力の強さには、仏教哲学の習熟度で決まる実力本位のピラミッド型の階層制度と、中央チベットの本山と地方の僧院をつなぐ連絡網にあった、と指摘します。

 ゲルク派を代表する転生僧であるダライ・ラマは、現代では14世とされていますが、これはツォンカパの直弟子の時代からの代数で、ダライ・ラマ1世の前世者の1人であるドムトンを組み込んだ転生譜では、釈迦の時代のインドからネパールに至る前世者を含めて現代は75世となります。先代の死後、即座に次代を組織的に探索し始めたのはダライ・ラマ2世の死後からで、ダライ・ラマの名称は3世から出現しました。この名称はモンゴルのアルタン=ハーン(1507~1581年)からダライ・ラマ3世(ソナム・ギャンツォ)に献じられた称号の一部で、転生系譜の通称となりました。

 ダライ・ラマ政権が成立したのは5世(1617~1682年)の時代で、17世紀のチベットでは、中央チベット東部のラサを根拠地とするゲルク派と、西部のシガツェを根拠地とするカルマ=カギュ派の関係が悪化し、それぞれの施主であるモンゴル人王公やツァン王の武力を背景に、大規模な軍事衝突が繰り返されていました。ダライ・ラマ5世(ガワン・ロサン・ギャンツォ)はオイラト(西モンゴル)のホシュート部のトロバイフの支援を得て、ダライ・ラマ5世はチンギス=ハンの末裔ではないホシュート部にハーン号を授けたため(グシ=ハーン)、チンギスの末裔ではないオイラトの王公がダライ・ラマ政権に付くことになりました。一方、ハーン号の資格を有していたチンギスの末裔は、ダライ・ラマに敬意を払いつつも、ダライ・ラマ政権とは距離を置くようになります。

 グシ=ハーンが中央チベットをダライ・ラマ5世に布施した1642年時点では、軍事権はグシ=ハーン、行政権は摂政にありましたが、しだいにダライ・ラマの権威のみが成長を続け、ついに他の二者はダライ・ラマからの任命を待つ存在へと地位が地位化します。本書はこの一因として、三者のうちダライ・ラマにのみ観音菩薩やソンツェン・ガムポ王といった開国の聖者たちの物語が備わっていたことを挙げます。ダライ・ラマ5世は、ダライ・ラマ3世および4世や自分の伝記を上梓し、観音菩薩がチベット人を救うために王や高僧などさまざま姿で地上に現れた、と記述することで、チベットは古代から現代に至るまで観音菩薩の導きの下にあった、という歴史観が強化・拡散され、観音菩薩の化身たるダライ・ラマの権威は盤石になっていきます。

 ダライ・ラマ5世はチベット仏教徒であるモンゴル人やマンジュ(満洲)人の王公に対して、仏教に基づいた政治である「政教一致(チュースィー)」を実現するよう、勧奨します。本書は、「チュースィー」には漢語に表現する概念がなく、場当たり的に漢語訳が用いられたため、漢文史料ではこの時代を動かしていた原理を知ることはできない、と指摘します。このようにチベットに限らずダライ・ラマの権威が拡大していくと、ラサには各地からもたらされる布施が集積し、山西省やイスラム教徒やアルメニアなどの商人が往来し、経済活動が活発化します。

 ユーラシア東部の広範な地域で覇権を確立したダイチン・グルン(大清帝国)も、マンジュ人の皇族は当初よりチベット仏教に敬意を払っていましたが、領域を拡大するにつれて、近隣勢力への対応が高圧的になっていき、チベットの有力3宗派(ゲルク派とカギュ派とサキャ派)の高僧にも首都の北京に出廷するよう、招請します。ダライ・ラマ5世は一度これを断った後で、1649年に北京に赴くと清朝に伝えると、ダライ・ラマに対する清朝の書簡は丁寧調から命令調へと変わります。ダライ・ラマ5世は1652年に順治帝と会見し、翌年、清朝から称号を授かりますが、このうち前半は明の永楽帝が1407年にカルマ=カギュ派の主宰者に授けた称号の一部で、後半は1587年にアルタン=ハーンがダライ・ラマ3世に授与した尊号であり、清朝は明朝およびモンゴルとチベットとの関係を単純に合わせて継承したのだろう、と推測し、冊封に実効的な君臣関係があるか否かについて、個々の事例の検討が必要になる、と指摘します。本書は、ダライ・ラマ5世もグシ=ハーンも清朝皇帝宛の書簡でこの称号を用いておらず、グシ=ハーンは一貫してダライ・ラマ5世から授かった護教法王号を使用し続けていることから、チベット側には清朝の臣下に降った意識はなかった、と指摘します。

 ダライ・ラマ5世の没後、ダライ・ラマ6世の不行状と廃位、ジュンガルのラサ占領と清朝に対する敗北を経て、清朝がラサを制圧した後、雍正帝は国家財政立て直しのためチベットから清軍を撤退させたものの、グシ=ハーンの末裔の内乱に乗じて東北チベットを制圧し、チベットにおける清朝の優位が確立します。清朝は当時最大の脅威だったジュンガルに対抗するため、ラサに清朝官僚を常駐させます。雍正帝の時代には、東北チベットの制圧などでチベットと清朝の関係は悪化しますが、次代の乾隆帝はチベットとの信頼関係の回復に務め、乾隆帝は仏教徒に対しては中華皇帝でもハーンでもなく、「文殊菩薩が化身した転輪聖王」として君臨した、と本書は指摘します。1750年、清朝のチベット駐在大臣(駐蔵大臣)がチベットの新たな支配者となったギュルメ・ナムゲルを殺害したことで、激昂した民衆に殺されると、1751年に清朝はダライ・ラマの親政を認めます。

 18世紀後半以降、西洋列強のアジアへの侵出により、清朝やモンゴルは弱体化し、チベットもその影響を受けます。1856~1857年にグルカ人がチベットに侵略してきた時には、18世紀末とは異なり、清朝はチベットに援軍を派遣しませんでした(当時は太平天国の乱の最中でした)。その結果、ラサに駐在する清朝官僚の影響力は低下していきます。この混乱の時期に、ダライ・ラマの夭折が目立ち始めます。そうした中で、1876年に転生を認められたのが、ダライ・ラマ13世でした。この頃、チベットは高地でイギリスとロシアの二大国の間に位置していたことから、探検家にとって重要な目標地になっていました。周辺諸国の王室が次々とイギリスに外交権を奪われていくなか、チベット政府が欧米列強からの入国を禁止していたことや、仏教の聖地という神秘的印章も、チベットへの探検熱を煽りました。

 清朝が衰退し、チベット政府はイギリスとロシアの間で難しい判断を迫られます。本書は、チベット政府と侵攻してきたイギリス軍のやり取りから、チベット政府にとって地駐蔵大臣は判断を仰ぐ相手ではなく、状況改善を図るための一手段にすぎなかった、と指摘します。イギリス軍が侵攻してきたためダライ・ラマ13世はラサから脱出し、ロシアの支援を求めるも期待できなくなったと判断すると、1908年には北京に移動し、光緒帝および西太后とも会見しましたが、両者があいついで死去したため、清朝との断交を決意し、1909年末に一旦ラサに帰還します。この時、ダライ・ラマの権威は清朝皇帝ではなくインド(聖地)の仏に由来することが強調され、印璽の文字から満洲文字と漢字が消え、インドのランツァ文字が加わりました。その直後に四川軍がラサに侵攻してきたため、ダライ・ラマ13世はインドに亡命します。清朝はその末期にチベットの実効支配化を進めようとしますが、ダライ・ラマ13世は1911年の辛亥革命の勃発とともにラサにいた占領軍の排除を始めて、1913年1月にラサに帰還します。この間のダライ・ラマ13世の大移動は、国際政治の観点からは否定的に把握されがちではあるものの、チベット仏教界視点では、ダライ・ラマを直接的に見た仏教徒が熱狂し、信仰を新たにするとともに、地域や民族を超えた連帯感が醸成され、ダライ・ラマ13世に随行した王公たちは、辛亥革命やロシア革命後に各地の民族主義を牽引する指導者になり、ダライ・ラマ13世は知見を広めた、と本書はその肯定的側面も指摘します。

 ダライ・ラマ13世はラサ帰還後の1913年2月13日の布告で、中国とチベットの歴史的関係は「高僧とそれを後援する施主(チューヨン)」の関係であり、主従関係ではない、と繰り返し、四川軍によるチベット侵略でこの伝統的な関係は壊れたため、清朝の滅亡とともに中国との関係は終わった、と宣言しました。この布告は独立宣言と通称されることが多いものの、「独立」という言葉にはいずれかの国の支配下に入っていた、という意味合いがあるため適切ではない、との意見もあるそうです。チベット側には、1906年から始まる四川軍の東チベット侵攻と1909~1911年のラサ占領期間を除けば、チベットが歴史的に中国の支配下にあった、との認識はなく、この布告は中華民国に対する断交宣言と称する方が妥当だと、本書は指摘します。ダライ・ラマ13世は近代化とともに綱紀粛正を進め、庶民からの支持を得ましたが、当然、既得権層からの反発もありました。ダライ・ラマ13世は伝統文化の復興も進め、仏教経典の刊行を企図し、その死後に完成しました。

 ダライ・ラマ13世はチベットを独立国として承認するよう、各国に要請しますが、イギリスの仲介で1913年10月13日にインドのシムラで開かれた会議の結果、中国側の主張が半ば認められチベットの東側が内チベットとして中国領に、その西側が外チベットとされ、チベット全域は中国の宗主権下にあるものの、中国は外チベットを併合せず、その「自治」を認める、とのシムラ条約が締結されました。近年のシムラ条約に関する研究では、条文にて「自治」を意味するチベット語の「ランツェン」は、現代では「自強」や「自立」や「独立」と訳されますが、ダライ・ラマが対外的にチベットと中国は別の国だったことを示す時に一貫して用いられており、チベット側は「独立」の意味を込めて、シムラ条約を受け入れた、と指摘されているそうです。同じく1913年には、チベットと互いを独立国として承認しあったモンゴルも、露中宣言により中華民国の宗主権を受け入れさせられました。中華民国は最終的にシムラ条約の調印を拒否し、東チベットと中国の国境問題は曖昧なまま放置され、東チベットへの派兵により支配を既成事実化しよとする中国側と、ダライ・ラマ政権との間で武力衝突が頻発したものの、列強の侵略や内戦により弱体化していた中国はチベットを支配できず、1950年までチベットは「事実上の独立」状態を保ちします。ダライ・ラマ13世は1932年に、後に「遺言」と呼ばれる文章を残し、その直後に急逝します。ダライ・ラマ13世はこの「遺言」で、軍備も怠らないよう指示するとともに、共産主義への警戒心を述べました。

 ダライ・ラマ13世の死後、1940年にダライ・ラマ14世がラサで正式に即位し、その苦難の歴史が始まります。1950年10月には、前年に成立したばかりの中華人民共和国の人民解放軍による中央チベットへの侵攻が始まり、中国側は「帝国主義勢力からチベットを解放する」と呼号しましたが、当時のチベット周辺に「帝国主義勢力」なるものは存在しておらず、もしいるとしたら中華人民共和国だった、と本書は指摘します。中国軍がラサに迫る中で、チベットではダライ・ラマ14世の親政を望む声が高まり、ダライ・ラマ14世は15歳の若さで摂政から政治権力を継承しました。国連では中国のチベット侵略を取り上げる動議が提出されたものの、パキスタンとの軍事衝突のため中国との対立を避けようとしたインドが反対し、採択されませんでした。中国によるチベット侵略の少し前に朝鮮戦争が始まっていたことも、チベット問題が国際的に傍観される一因となりました。その結果チベットは、1951年5月に、中国への併合を認めた17ヵ条協議に調印する事態に陥りました。この17ヵ条協議では、チベットの現行政治制度に中央は変更を加えないとか、チベット人民の宗教信仰と風俗習慣を尊重し、寺院を保護するとか、中央は改革を強制しないとか、現状維持がやくされていたものの、1950年以前に中国軍に占領されていたチベットの東部と東北部は17ヵ条協議の対象外となり、僧院が破壊され、僧侶が還俗させられました。その結果、チベット人と漢人の衝突が頻発し、ダライ・ラマ14世は1957年にインドを訪れたさいに、2人の兄から亡命を進められましたが、断ってチベットに帰還します。

 1958年の大躍進政策の大失敗により、中国全土で飢餓が発生し、中央チベットには東チベットの混乱を逃れてきた難民が殺到し、ラサの情勢は不穏化していきます。そうした情勢で、1959年に中国側がダライ・ラマ14世を儀仗兵なしでの観劇に招待すると、ラサではダライ・ラマ14世が中国に拉致されるか暗殺されるのではないか、とのうわさが広がり、ラサ住民が中国軍と対峙するなど、情勢はますます不穏化します。ダライ・ラマ14世は、両者の衝突を回避するため亡命しようと考えて、同年3月17日にラサを離れ、その3日後に中国軍とチベット人が衝突し、中国はこの「反乱」に加担した人々を殺害・逮捕・監禁しました。亡命チベット社会では、3月10日が「チベット蜂起記念日」とされています。ダライ・ラマ14世はインド国境近くのルンツェ=ゾンに到達し、17ヵ条協議の破棄を宣言して、臨時政府を説利します。ダライ・ラマ14世は国境越えの許可をインド政府に求めましたが、インドの初代首相ネールは、チベット難民の受け入れに尽力したものの、外交的にはチベットに冷淡でした。インドは1954年の中国との協定で、チベットは中国の内政問題として扱われる、と認めていました。インドは1959年と1961年に国連総会でのチベット問題決議案で棄権しましたが、中国との関係が悪化すると、1962年にはチベット問題に関する動議に賛成します。ダライ・ラマ14世がインドに亡命すると、多くのチベット人もインドに向かい、その中には、中国が階級敵として迫害したチベット政府の高官や僧侶だけではなく、非識字の農民や牧畜民もおり、中国が「解放」しようとしたチベット人も中国軍を歓迎していなかった、と本書は指摘します。

 ダライ・ラマ14世の亡命に伴い、中国はチベット占領の宣伝を、従来の「帝国主義からの解放」から「封建領主から農奴を解放する」に変更しました。本書は、そもそもチベットにはマルクスが云う「農奴」は存在したのか、と疑問を呈します。中国はチベット語の「ミセー」を「農奴」と訳しましたが、人口希薄なチベットは常に小作人の不足に苦しんでおり、ミセーは待遇の悪い雇用主からすぐに逃亡し、ラサに行って飲食業に従事することもあったので、農奴の定義から外れる、というわけです。中国政府はチベット人の子供を中国本土に送って社会主義教育を受けさせた後で、「幹部」としてチベットに戻して社会改革を主導させ、子供を差し出そうとしなかったチベット人は「再教育」のため収容所に送られました。ダライ・ラマの侍医は、飢えが蔓延し、中国が支配している点で、収容所の内外に大して変わりはなかった、と証言しているそうです。こうした状況で少なからぬチベット人がゲリラとなって中国軍(人民解放軍)と戦いましたが、ダライ・ラマ14世は一貫して、武力闘争よりも寛容を学ことの方がはるかに有益である、と主張しました。アメリカ合衆国はチベットのゲリラを支援していましたが、ベトナム戦争末期の中国との接近により支援を打ち切りました。

 ダライ・ラマが不在のチベットで、中国はパンチェン・ラマ10世をチベット自治区準備委員会長に擁立しますが、パンチェン・ラマ10世は中国の傀儡とはならず、1962年に中国のチベット統治を批判して失脚します。1966年に始まった文化大革命により、チベットは大被害を受けます。文化大革命の被害はチベットに限らず中国全土に及んだ、との言説はチベットの被害を矮小化しおり、チベット人の被害は漢人をはるかに上回る、と本書は指摘します。文化大革命において、チベット語の使用や民族衣装の着用は禁止され、チベット文化の中心だった僧院は破壊され、僧侶は還俗を強制されるなど、チベット文化が否定されたからです。本書は文化大革命期におけるチベット文化の破壊を、1959年から続く中国の一連のチベット弾圧政策の延長線上に位置づけます。

 チベット難民社会においては、チベット仏教の伝統をいかに維持するのかが問題になりました。ダライ・ラマ14世は僧院社会の再建と俗人への近代教育にまず取り組みましたが、ここでゲルク派の教育体系が役立った、と本書は評価しています。ゲルク派の僧院では、弟子はまず基本的な経典の暗唱が義務づけられ、その後で師から解釈を学び、議論により内容を進化させるので、僧院と経典を失っても、人が残っていれば伝法は可能というわけです。この時期、欧米の若者の間ではチベット仏教など東洋思想を対抗文化と考える人々が現れ、チベット仏教は世界中に伝わっていきます。ダライ・ラマ14世は僧侶にはチベット文化の核となる仏教の伝統維持を命じましたが、チベット社会の長期的存続を見据えて、俗人には民主化を求め、1963年3月10日には世界人権宣言に則ったチベット憲法を発布し、民主制国家への移行を宣言しました。それまでチベットでは、政治と宗教の権力がダライ・ラマに集中していたため、ダライ・ラマの老化や死去により、次のダライ・ラマが執政可能な年齢になるまで20年近い空白が生じ、重要な問題が先送りにされており、中国のチベット侵攻を許した一因になった、との反省があったわけです。ただ、チベット人は観音菩薩の化身であるダライ・ラマの庇護を失うことに耐えられず、何度か慰留されたダライ・ラマ14世は、2011年に政治の最高権力者を民主的に選ばれた首相に委譲しました。

 文化大革命の終結後、中国はチベット「解放」が多くのチベット人に感謝されていないことを悟り、宥和政策へと転換します。1980年5月、中国共産党の胡耀邦総書記はチベットを訪問し、その惨状を見て、チベット政策の過ちを認め、文革官僚を内地に引き揚げさせるとともに、破壊された僧院の再建を許可しました。これを受けてダライ・ラマ14世は1987年9月21日、アメリカ合衆国下院の人権問題小委員会において、チベットは独立国であるものの、中国がチベットに実質的な自治を与えるならば、独立要求を取り下げる、と表明します。チベットではこれに呼応して抗議デモが勃発し、中国政府はデモを弾圧します。しかし、胡耀邦が1987年に失脚し、1988年12月にチベット自治区の最高責任者が宥和的だった伍精華から胡錦濤へと変わり、1989年1月にパンチェン・ラマ10世が急逝すると、チベット人と中国政府を橋渡しする人物が政治の表舞台から消え、1989年3月5日のチベットでのデモに対して、胡錦濤は戒厳令を出します。同年6月4日の天安門事件と、同年末のダライ・ラマ14世へのノーベル平和賞授与以降現在まで、チベットで宥和政策は行なわれていません。

 現在までのこの間、チベットでは経済の内地化など同化政策が続き、本書は、チベットにおいて経済は「発展」したものの、成功したのは少数のチベット人で、大多数のチベット人は低賃金と物価上昇と二級市民としての扱いに苦しんだ、と指摘します。この間、中国政府による教育を忌避したチベット人の親が、子供をインドに送り込むことも珍しくありませんでした。一方欧米では、対抗文化としてチベット文化に親しんだ世代の成長もあり、チベット文化が学術だけではなく大衆娯楽にも浸透しましたが、中国経済の成長に伴い、大衆娯楽の代表格であるハリウッドでは、チベットやダライ・ラマの姿が消えていきます。政治的には、2010年代になってアメリカ合衆国が対中警戒路線へと傾斜しましたが、中国によるチベット抑圧を緩和させているのか、私には疑問が残ります。

 以上、本書の内容をざっと見てきました。本書のとくに近現代史の叙述については、中華人民共和国の体制教義的言説の枠組みで語られるチベット史との乖離が著しい、と言えるかもしれません。しかし、本書の見解に錯誤や誇張もあるかもしれませんし、私の見識では妥当な判断のできない問題も多いでしょうが、基本的には本書で提示される見解の方がはるかに妥当で、それは今後数十年から百年かけて証明されていくのではないか、と私は予測しています。ただ、その前にまず何よりも、中国共産党政権によるチベット人への抑圧が多少なりとも改善されることを願わずにいられませんが、現状では悪化こそすれ改善されるようには思えません(中国共産党政権に言わせれば、チベットは「経済発展」しているのでしょうが、それが抑圧していないことを証明するわけではありません)。この問題で私にできることはひじょうに限られており、できることもほぼ自己満足にすぎないでしょうが、中華人民共和国の体制教義的言説の枠組みで語られるチベット史への違和感を時に表明していくことは続けていこう、と考えています。
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_13.html
2:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/05/13 (Sat) 08:30:57

チベット人の起源
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14097619

チベット人の高地適応能力、絶滅人類デニソワ人から獲得か
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/497.html


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