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1:保守や右翼には馬鹿しかいない
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2023/04/19 (Wed) 15:36:36
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青森5人死亡 - YouTube
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2023.04.14
〈青森5人死亡火災〉「男の子が『ママ! ママ!』って必死に叫んでいた…」放火の疑い・92歳暴走老人の逆恨みか?「妻は病死、孫が自殺、一家離散、自宅は火事…なんで俺だけ…」80年にわたる遺恨とは
青森県六戸町犬落瀬五人役で13日未明、8人が住む木造2階建て住宅が全焼し、焼け跡から5人の遺体が見つかった。世帯主の左官業、十文字利美さん(68)ら4人は逃げ出すなどして無事だったが、義母を含む4人とは連絡が取れておらず、近くに住む親戚の男(92)が行方不明となっている。青森県警は亡くなったのは逃げ遅れた4人とこの男とみて身元の確認を急ぐとともに、現場近くに乗り捨てられていたこの男所有の軽乗用車に可燃性の液体入りのポリタンクがあったことなどから、放火の疑いがあるとみて調べている。
「助けられなかった…助けられなかったよ…」
調べでは、十文字さん宅は利美さんと妻(67)、妻の実母(88)、次女(39)とその夫(38)とその子供3人(16歳と13歳の男子、9歳の女児)の計8人家族。このうち連絡が取れないのは義母の和子さん(88)、妻・弘子さん(67)、次女・抄知さん(39)、孫の弥羽さん(9)の4人。行方不明の親戚は実母の兄のA(92)で、県警は放火の疑いがあるとみて14日、Aの車や自宅を家宅捜索した。
現場は町役場や総合体育館などにほど近い六戸町の中心部で、田畑と住宅の混在する地域。13日午前1時ごろに出火し、同8分に逃げ出した孫(13)が「家が燃えている」と119番通報した。その後、家屋に隣接する車庫や物置など計3棟を全焼し、同5時51分に鎮火した。火勢の強さから、灯油やガソリンなど可燃性の液体を使った放火の可能性が高いとみられる。
「13日、深夜1時過ぎに変な物音がするっていって娘が外を見に行ったら、騒がしく帰ってきて『火事だ!』って叫ぶから飛び起きて自分も外に出たんです。玄関を出た瞬間から熱くて、道まで出たらもう肌がひりつくくらい熱かったです。火は屋根の高さまであって黒い煙がモクモクと上がってました。
すぐ近くにお孫さんがいて『ママ! ママ!』って苦悶の表情で必死に叫んでました。男の子だから泣いてはいなかったけど、大声でひたすら家族を呼ぶ姿は見ていられなかったです。少しして、利美さんの娘の旦那さんが帰ってきたんですけど、遠くから自分の家が燃えてるのが見えたそうで急いで帰ってきたものの、火の状態を見て慌てていました。
1時半ごろ消防車が到着したんですが、その頃、少し落ち着いたお孫さんが『助けられなかった…助けられなかったよ…』と震えながら漏らしてました」(近所の住民)
近所の人の話によれば、十文字さん方は古くからの農家で、仲の良い大所帯として知られていたという。
「利美さんは男前で、婿養子に入ってきて農業もやりながら、それだけじゃ食えないので隣町の土建屋で働いていました。畑ではお米とにんじんやニンニクを育てていて、少し畑をいじってから仕事に行くこともあった働き者です。奥さんは明るくて、会えば絶対に話す気軽な人でした。娘さんも私みたいなお婆ちゃんと嫌がらず話してくれる楽しい子でしたよ。野菜の収穫時期には採れた野菜を使って家族みんなでBBQしていました」(近所の知人)
十文字一家とは80年くらい前から大きな溝があった
別の知人もこう証言する。
「十文字さんご夫婦はとても良いご夫婦で有名ですよ。町内会にも参加してるんですけど、人当たりがいいからみんなと仲良かったです。2人ともお孫さんを相当可愛がっていて、利美さんなんか女の子のお孫さんが生まれたら『やっと女の子の孫ができた、ずっと女の子の孫が欲しかったから嬉しい』ってみんなに言ってましたからね。4月9日の日曜日も、足の悪い和子さんはお留守番でしたけど、十文字さん一家全員で、田んぼの苗代作りをしてました。お孫さんたち3人ともワイワイ楽しそうにしてたのに、そんな光景はもう2度と見れないんですよね…」
子どもたちの母である次女の抄知さんのSNSからは仲睦まじい大家族の様子が伺える。
プロフィール写真のトップ画像は頻繁に更新され、子どもたちと共に満面の笑みを浮かべている。家族揃っての初詣の写真は2年連続で神社の前で撮影され、地元の祭りにももちろん参加。雪が積もれば“かまくら”を作り、バイク好きだった父・利美さんとの団欒写真も掲載されていた。
一方で行方不明になっている親戚の男性Aは、5年ほど前に薪ストーブによる失火が原因で自宅が燃えたために建て替えている。十文字さん一家とは財産分与で揉めていたという情報もある。
「Aは昔、大工と農家をやっていたんですが、年取って大工を辞めて、そのうち農家も趣味で自分の分だけ作るようになってました。大根、ナス、トマト、色々作ってましたよ。ご近所さんには余った野菜を配ったりもしていた。Aと十文字さん一家は最近もよく会ってはいたと思います。彼の白い軽トラが十文字さん宅に停まってるのをよく見かけましたから。歩いてすぐの距離だけど、毎回車で来てましたよ。去年も野菜を十文字さん一家にあげてたのですが、まさかこんなことになるほど関係が拗れてたなんて思いもしなかったです…」(前述の近所の住民)
親戚で交流も深かったAだが、十文字さん一家とは80年くらい前から大きな溝が生まれていたという。親戚の一人が匿名を条件に取材に応えた。
「あそこはもともと家庭が複雑なんです。Aと和子はきょうだいですが、Aが幼少期の頃に母親は十文字の家に後妻として嫁いでます。Aからしたら幼少期に母親をとられたかたちです。さらに和子もまた十文字家の嫡男と結婚しました。
Aは若いときは日雇いをやりながら農業をやっていました。奥さんとも仲良く、息子もいて幸せそうでしたよ。それが変わっていくのは、20年前です。Aも可愛がっていた孫は高校から東京に出ていたと思いますが、大学の時に自殺しました。それからですね、いつもニコニコしていたAが周りに当たり散らすようになったのは…。孫が亡くなって息子さんがどうしてるのかはわからないけど、その後奥さんも亡くなって、家族はバラバラになってAは一人になっちまった。一人で年金暮らし、昔からのことを思い返してひがんじまったんじゃないかな。『なんで俺だけが』って…」
焼け跡から見つかった5人の遺体は刃物などの外傷はなく、司法解剖の結果、死因は4人とも焼死。幼い子どもとみられる女性1人は遺体の損傷が激しく焼死の疑いがあるという。
取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班
https://shueisha.online/newstopics/124267
「ムラの掟をやぶった…」「住むにはムラの血が必要だ」放火の疑い・92歳老人が抱えてきた80年以上続く遺恨「氏神の祟りにあったと陰口を叩かれていた」《青森5人死亡火災》
オピニオン 月曜日
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e3%80%8c%e3%83%a0%e3%83%a9%e3%81%ae%e6%8e%9f%e3%82%92%e3%82%84%e3%81%b6%e3%81%a3%e3%81%9f%e2%80%a6%e3%80%8d%e3%80%8c%e4%bd%8f%e3%82%80%e3%81%ab%e3%81%af%e3%83%a0%e3%83%a9%e3%81%ae%e8%a1%80%e3%81%8c%e5%bf%85%e8%a6%81%e3%81%a0%e3%80%8d%e6%94%be%e7%81%ab%e3%81%ae%e7%96%91%e3%81%84%e3%83%bb92%e6%ad%b3%e8%80%81%e4%ba%ba%e3%81%8c%e6%8a%b1%e3%81%88%e3%81%a6%e3%81%8d%e3%81%9f80%e5%b9%b4%e4%bb%a5%e4%b8%8a%e7%b6%9a%e3%81%8f%e9%81%ba%e6%81%a8%e3%80%8c%e6%b0%8f%e7%a5%9e%e3%81%ae%e7%a5%9f%e3%82%8a%e3%81%ab%e3%81%82%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%81%a8%e9%99%b0%e5%8f%a3%e3%82%92%e5%8f%a9%e3%81%8b%e3%82%8c%e3%81%a6%e3%81%84%e3%81%9f%e3%80%8d%e3%80%8a%e9%9d%92%e6%a3%ae5%e4%ba%ba%e6%ad%bb%e4%ba%a1%e7%81%ab%e7%81%bd%e3%80%8b/ar-AA19XNzd
「今回の事件は92歳のお爺さんによる暴走で、その原因は『土地のトラブル』と報じられていますが、それでは実際のところは何も伝わらない。背景には根深い『掟』とムラ(集落)特有の事情があるのです」
十文字家は近隣の村に本家があり、分家が集落に移り住んできた
事件とは青森県六戸町犬落瀬で13日未明、8人家族の十文字利彦さん(68)宅が全焼し、焼け跡から5人の遺体が見つかった火災のことだ。5人の遺体は連絡のつかない義母の和子さん(88)と妻の弘子さん(67)、次女の抄知さん(39)、孫の弥羽さん(9)の家族4人と、近くに住む和子さんの兄のAさん(92)とみられるが、損傷が激しく身元の確認に時間がかかっている。
一方で火勢の強さなどから可燃性液体を使った放火の可能性が高く、現場近くにポリタンクを積んだAさんの軽乗用車が停めてあったことから青森県警はこの車を家宅捜索するなど捜査を進めている。
両家には、Aさんの母親が十文字家に後妻として嫁いだ約80年前から続く「遺恨」があったことは♯1で報じた通りだが、今回は関係者からさらに踏み込んだ証言が得られた。
冒頭の言葉に続いて関係者は「ここにはムラの掟に関わることを外の人間に話してはいけないという掟もあり、それがムラの人に知れたら間違いなく痛い目にあいます。私はそのことも熟知したうえで、よそに住んでいますから」と丁寧に取材に答えてくれた。
「そもそも十文字家は近隣の村に本家があって、分家がこの集落に移り住んできたんです。昔のことなのでなぜ許可されたのかは分かりませんが、この集落の人間の血がないとここには住めないんです。なのでこの集落の血を残していくためにAさんの母親に後妻として嫁いでもらい、さらに妹の和子さんも十文字家の嫡男の先代(利彦さんの義父)と結婚することになったのです」
幼少期に母親と妹を一度に“奪った”十文字家に対し、Aさんは複雑な感情を抱いていた。だが、ある意味この「政略結婚」はムラの掟に従って為された合理性があった。関係者が続ける。
「ムラに住むにはムラの血が必要だから、血を分けてもらうために一緒になった。忸怩たる思いがありながら、そこまではAさんも理解していたと思います。ところが十文字さんの次女はこの掟を破って、外の男を連れてきて結婚して村に住んだ。
今時の若い人でもよそ者と結婚するなら、ちゃんと村を出て暮らすんですけど、抄知さんはこの掟を破った。さらに最近では祭りの運営まで関わるようになっていました。、Aさんから見たら『血を分けてやった一族のくせに掟まで破って、本家ヅラしている。これでは自分の本家にも顔が立たなくなる』と怒り心頭だったわけです」
食べてはいけない時期に四つ足の動物を食べた
そして、報じられている「財産分与で揉めていた」という話も誤解だらけだという。
「田んぼの相続を巡って揉めていたというのも、そんな単純な話じゃないですよ。92歳の後継ぎもいないお爺さんが土地を寄越さないなんて、それなりの理由があるに決まっているじゃないですか。そもそも今回の火事で燃えてしまった家はもともとA家のものだったんです。でも妹の和子さんの結婚に伴い、その家を十文字一家に明け渡すことになった。つまりAさんは追い出されるような形で今の家に移った。
一方の十文字家はよそ者なので、ムラに持っていたのはあの家だけで、4世帯も住めば家も狭くなりますよね。そこでAさんの田んぼを潰して十文字家の家を建てるって話まで出ていたんですよ。Aさんからしたら自分は家も追い出されているのに、なんで後から来た十文字家のいいようにされなきゃいけないんだ、絶対に許せないと感じたはずです」
この集落にあって、Aさんの家は江戸時代から続く名門で、他にも主要な一族が血を受け継いで存続してきたという。関係者が続ける。
「仮にAさんが火をつけたのだとすれば、『これ以上、よそ者の十文字の血をムラに広めるわけにはいかない』という動機しか考えられない」
家とムラの伝統を守ることに必死だったAさんだが、その思いとは逆に村八分にされていたことがあったという。
「Aさんの奥さんが亡くなったり、孫が自殺したり娘が病気になったりと不幸が重なったときに、村の女性やAさんの分家たちは励ますどころか『Aがよくないことしたからこんな事が起こったんだ』と噂を広めたんですよ。掟のことを外部に話したんじゃないかとか、食べてはいけない時期に四つ足の動物を食べたせいで氏神の祟りが起こったとか。
5年前くらいにAさんの家が火事になったのも氏神の祟りだとみんな思ってますよ。そういう筋違いの恨みを買っていることもあって、Aさんは酒が入ると怒りっぽくなって『殺してけらあ!』とか激昂していたみたいです。自分はこんなに不幸で惨めなのに、なんで十文字家は栄えるんだという思いはあったでしょうね。ムラの女性たちが自分に理不尽な“祟り”の疑いをかけているのと同じように、Aさんにとっては十文字家が好き放題してきた祟りが自分に降りかかっていると思い込んだのかもしれません」
掟や祟りと聞くと、今は何世紀だと一笑に付すなかれ。今なお世界中で止まない戦争や紛争の原因は、信仰の違いではなかったか。だが、どのような事情であれ幼子含む4名の命が奪われる理由にはならない
取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班
2023.04.19
“ムラ”の「血と掟の因縁」を再燃させた92歳老人は事件10日前にもトラブルを起こしていた「本当は跡継ぎになる予定だった」「本家や分家の話をしつこくして…」《青森5人死亡火災》
「もう風化しかけてますけど、そんなしがらみで悲しい事件が起きるのなら完全になくなってほしいですね。いい町だと思うので」青森県六戸町犬落瀬で8人家族の住宅が全焼し、5人の焼死体が見つかった事件は、近くに住む親戚のAさん(92)が放火に関与した疑いがあるとみて青森県警が調べている。被害にあった十文字家とAさんとの間の80年余に及ぶトラブルや、ムラ(集落)の掟が背景にあった可能性を♯1、♯2で詳報したが、それらが凶悪犯罪の理由として正当化される道理など微塵もない。このムラは、はたして今なお不条理な「掟」で縛られているのか。事件の余韻が残る現場周辺を歩いてみた。
口癖は「火つけるぞ」
現場はJ R八戸駅から国道45号を通って車で30分ほどの距離。国道の両側には田畑が広がり、その奥に人家の立ち並ぶ集落がある。平地で自然災害や積雪の少ない六戸町は県内では温暖で住みやすい地域として知られ、人口は約1万人。犬落瀬は町内人口の半分以上を占める大字で、五人役など42の小字で構成されている。
地域の人たちの言う「ムラ」とはこの小字がいくつか集まった単位のことを指す。代々農業が受け継がれた地で水田のほか、近年、力を入れているのが、生産日本一ともいわれる大玉にんにくだ。
現場と同じ集落に住む40代の女性は、冒頭の言葉に続いてこう述べた。
「私は他所から嫁いできたんですけど、みなさん優しくしてくれるし、風習とか掟みたいなのを最近、言われたことはありません。近所にも他所から嫁いできた方がいらっしゃいますが、その方もそういう話はご存じなかったので、掟と言ってもかなり昔にあったもので、今では風化しかけてるものだと思います。昔からお住まいのお年寄りたちは気にしてたのかもしれないですけど、それを自分たちに押し付けたり、直接言われたことは一度もありません」
60代の飲食店店主の男性もこう語る。
「この辺りには掟や風習とかがあったみたいだけど、それを経験したのは、今80代くらいの世代じゃないかな。俺が結婚する時にはそんな話は全然聞かなかったよ。六戸町自体かなり小さい町だから、Aさんが厄介じいさんだったのは町中で有名だったけどね。怒りっぽくて、何かといろんな人とすぐ揉めて『火つけるぞ』が口癖だったけど、まさか本当に火をつけるとはね。
この辺は家も少ないから、町の選挙があると候補者が各家に挨拶をして回るんだけど、厄介に巻き込まれるのが嫌で、候補者連中もAさんの家には誰も訪問しなかったらしいよ」
ムラの血が入ったから、Aさんはもう必要なかった
現場近くに住む82歳の男性はこう証言する。
「Aさんが昔から十文字家と揉めてたのは本当なんだけど、その理由ってのが十文字の後継の問題なんだわ。十文字家が許しを得てこのムラに分家を作った頃は掟とかがちゃんとあったから、ムラの人と一緒にならなきゃダメだってことだった。だからAさんの母親がAさんと妹の和子さんを連れて後妻として嫁いだんだけど、本妻との息子もいたわけ。それがBさんっていう、後の和子さんの旦那さん。
実は、Aさんはムラの血を引く息子として、十文字家の後継になる予定だったんだよ。それが和子さんとBさんが結婚することになった。和子さんにはムラの血が入っているから、Aさんはもう必要ないってことで家を出る羽目になったんだ。相当揉めたみたいだし、Aさんは根には持ってただろうね。でも、そうしたムラの人同士の結婚話も、俺が大人になった頃にはもう聞かなくなった気がするな。その頃には外から来た人もいたからね」
ムラでは風化しかけていた「血」や「掟」のしがらみは、幼少期から複雑すぎる事情に翻弄され続けたAさんの胸の中では、年を追うごとにマグマのように煮えたぎっていったのかもしれない。
近くに住む70代の男性は、こう心情を慮った。
「Aさんは十文字家と距離があったけど、和子さんとは仲が良かったんだよ、実の兄妹だからね。和子さんも独り身のAさんを心配してか、よくAさんの家まで行ってお話してたからね。それが10年くらい前に和子さんが足を悪くしてからはあまり家から出られなくなったから、Aさんが十文字家に行くようになった。でもAさんは酒癖は悪いし、本家や分家の話をしつこくしたり、土地を巡って揉めてたりしてたから、そのうち和子さんに会いに行っても『来るな!』と門前払いをされるようになり、その度に言い合いをしてたんだよ」
男性は続けた。
「今回の火事が起きる1週間前くらいに、Aさんが自宅の裏庭でゴミを燃やしてたら火の粉が飛んだらしくて、すぐ横にある十文字さんの畑のビニールハウスに穴が空いたんだよ。それで十文字家の人たちと激しく揉めていた。色々溜まってたものが爆発しちゃったんだろうな。Aさんが若い頃は掟が厳しくて、母親と妹が嫁いでるのに、十文字家の女性はムラの外から婿を貰っていて掟に背いてることも気に入らなかったんだと思う。家柄とかの話で衝突することもあったらしいからね。
でも実際、そんな古い話を気にしてるのは80代とか90代の年寄りだけで、今では外からムラにきて住んでる人は結構いるし、その年寄りたちも直接言ってきたりしないよ。祟りだの、掟を破っただのと言われてたのも、ムラの人が半分冗談で言ってた印象だね。まあAさんはその掟で母親と妹を取られてるし、古い人だからかなり気にしてたかもしれないけど…」
子どもに声をかけたら通報されて警察沙汰になった
Aさんの胸中のマグマは、何年も前から噴火寸前だった。近くに住む51歳の男性はしみじみとこう語った。
「5〜6年前かな、Aさんがその辺を歩いてた子どもと話したくて声をかけたんだけど、人相も悪いし口調も荒いから怖がられて、学校に通報されて警察沙汰になったんです。そのときに俺が助け舟を出そうと警察に出向いたら、Aさんは俺が警察に通報したと勘違いして『お前が警察に言ったんだろ!殺すぞ!家燃やすぞ!』ってキレちゃって。もう年取って頭おかしくなったんだなと思って、それ以来あまり関わらなくなりました。
それにAさんは跡取りもいない年金暮らしだから、お金にも困ってたみたいで『にんにくを栽培するから畑を貸してくれ、協力してくれ』ってムラの人に言って回ってたんですよ。でもそれを言い出したのが80代になってからですよ。にんにく栽培なんてお金もかかるし良い物を作るのは難しいから、下手したら大赤字なわけです。それをもういつ死んでもおかしくない歳の人に任せられるわけないじゃないですか。そういういざこざもあってみんなから避けられていましたね」
19日に現場を訪れて献花した青森県警本部長は、こうコメントを残して去った。
「真相解明に向け全力を尽くします」
https://shueisha.online/newstopics/125124?page=3
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2:保守や右翼には馬鹿しかいない
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2023/04/19 (Wed) 15:43:48
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僻地の住人は何故 ムラの掟や祟り に振り回されるのか? _ 精神病の感染 フォリ・ア・ドゥ
フォリ・ア・ドゥ folie à deux
http://psychodoc.eek.jp/abare/folie.html
① 精神病の感染
果たして、精神病というのは伝染するものなのだろうか。
人の心を操る寄生虫が出てくる小説(ネタバレになるのでタイトルは言えない)を読んだことがあるが、実際に見つかったという話は聞かないし、たとえ存在したとしてもそれはあくまで寄生虫病であって、「伝染性の精神病」とは言いがたいような気がする。
実際には、たとえば梅毒のように伝染性の病気で精神症状を引き起こすものはあるけれど、純粋な精神病で細菌やウィルスによって感染する病気は存在しない。精神病者に接触しても、感染を心配する必要はないわけだ。
しかし、だからといって精神病は伝染しない、とはいえないのである。
精神病は確かに伝染するのである。細菌ではない。ウィルスでもない。それならなんなのか、というと「ミームによって」ということになるだろうか。
妄想を持った精神病者Aと、親密な結びつきのある正常者Bが、あまり外界から影響を受けずに共同生活をしている場合、AからBへと妄想が感染することがあるのだ。もちろんBはまず抵抗するが、徐々に妄想を受け入れ、2人で妄想を共有することになる。これを感応精神病、またはフォリアドゥ(folie a deux)という。Folie a deuxというのはフランス語で「ふたり狂い」という意味。最初に言い出したのがフランス人なので、日本でもフランス語で「フォリアドゥ」ということが多い。もちろん妄想を共有するのは2人には限らないので、3人、4人となれば"folie a trois"、"folie a quatre"と呼ばれることになる。なんとなく気取った感じがしてイヤですね。
AとBの間には親密な結びつきがなければならないわけで、当然ながらフォリアドゥは家族内で発生することが多いのだけど、オウム真理教などのカルト宗教の場合も、教祖を発端として多数の人に感染した感応精神病と考えることもできるし、以前書いたことのあるこっくりさんによる集団ヒステリーも広義の感応精神病に含めることもある。
この感応精神病、それほどよくあるものでもないが、昔から精神科では知られた現象で、森田療法で知られる森田正馬も1904年に「精神病の感染」という講演をしている(この講演録が日本での最初の文献)し、その後も今に至るまでいくつもの論文が発表されている。
② 宇宙語で会話する夫婦
まずは精神医学1995年3月号に掲載されている堀端廣直らによる「Folie a deuxを呈し“宇宙語”で交話する一夫婦例」というものすごいタイトルの論文から紹介してみよう。
鍼治療の仕事を営む夫婦の話である。
夫婦は「温和で物静かな夫婦」とみられていたが、1986年8月中旬から、妻の方が「宇宙からの通信」を受け始めた。その内容は「病気はこうしたら治る」「宇宙から素晴らしい人がやってくる」といったものだった。また、それと同時に近所の人々によって嫌がらせをされるといった被害妄想も感じるようになった。
そして約1ヶ月後には夫も同様の被害妄想をもつようになり、宇宙からの通信を受け始めたのだという。妄想が感染したのだ。二人は治療を求める客に対して「あなたは価値のない人間だから」などといって断るようになる。昼間から戸を締め切り夜は部屋の電灯を一晩中ともして「宇宙からの使者を待つ」生活をして周囲から孤立していった。
そして約二年後のこと。今度は夫の方から「宇宙語」と称する言葉をしゃべりはじめ、半年後には妻も同調して二人は「宇宙語」で会話するようになったのだという。近所に抗議に行ったり通行人を怒鳴り追いかけるときにも「宇宙語」を発して近所の人々を驚かすこともあった。
宇宙語は中国語やスペイン語に似た言葉のように聞こえたとのこと。子供が3人いたが、感化されることもなく宇宙語も理解できなかった。
1991年、妻が通行人に暴力をふるう行為があったので妻のみが入院。妻は、医師に対して「宇宙語を喋るのがなぜいけないのか。人間のレベルが高くなったからしゃべるのだ」と反論し、同席した夫と宇宙語で会話。しかし入院翌日からは落ち着きが見られ話も通じるようになった。
入院3週間後より夫との面会を許可したが、笑顔で落ち着いた様子で宇宙語は話さなかったという。退院してからは「あのときは自分は一生懸命だったのです。今となっては過去のことです。通らねばならない過程だったと思います」と冷静に振り返ることができたという。
これは春日武彦『屋根裏に誰かいるんですよ。』にも紹介されている症例だが、おそらくこれは「愛」の物語だ。フォリアドゥの成立条件に「2人の親密な結びつき」がある以上、フォリアドゥの物語は、多くの場合、愛についての物語なのである。
この症例で興味深いのは、もともとの妄想の発端は妻だったのにも関わらず、「宇宙語」を話し始めたのは夫の方からだというところ。最初妻が妄想を語り出したとき、当然夫はとまどったことだろう。その時点で病院に連れて行ったり誰かに相談したりすることもできたに違いない。しかし、結局夫はそれをせず、妻の妄想世界を受け入れる。それはつまり、二人の間にはそれほどまでに深い結びつきがあったということだ。それから二年後、夫は、世界を与えてくれた妻に対し「宇宙語」を伝え、さらに二人の世界を広げるのである。
「宇宙語」はつまり、夫から妻へのプレゼントだったのかもしれない。
③ 行者と女工
もうひとつ、篠原大典「二人での精神病について」(1959)という古い文献に載っている事例も紹介してみよう。72歳の女行者と25歳の女工の話だ。
まずは行者の方である。老婆は若い頃から信心に凝り、夫や子を捨てて住みこみ奉公をし、金がたまると神社仏閣を遍路するという生活を繰り返していた。いつのころからか病人をまじないし、狸がついているなどというので、昭和31年夏、I病院に入院させられた。病室の隅にお札やお守りで祭壇をつくり大声で祈り、ときどき気合いをかけたりしていた。
医師には「お稲荷さんもこの病院は嫌だといっておりますわ。いろんなことがありますが、いうと気狂いだといわれますさかい」と言っていた。
一方、女工は18歳で母を亡くし、継母とはうまくいかず、郷里を出て工場を転々とし、苦労を重ねていた。入院1ヶ月前、3年間つきあっていた男性から別れ話を持ち出された。
その後、ほかの人が彼女には無断で男から手切れ金を取ったり、すぐあとで別の男から結婚を申し込まれるなどの事件が重なり、発病。「不動さんの滝に打たれていると自然に首が振れだし、止まらなくなりました。不動さんが私に乗り移り問答できるようになりました。故郷に帰れとお告げがあったので荷物をまとめていると、手切れ金の噂をする声が聞こえてきました」。彼女は昭和31年秋に入院した。
1年後にこのふたりは同じ病棟で移る。すると2人はすぐさま一日中話し込み、ともに祭壇を拝み、女工は行者のお経を写すようになる。
このころ、女工は「私の病気の原因を知っていて治してくれたのです」「不思議な風が私をおさえつけもがいているときに○○さん(行者の名前)のお守りで楽になりました」と話している。
女工は、男に裏切られて以来始めて、信頼できる人に出会ったのである。このころの2人はまさに教祖と信者の関係であった。
しかしその関係は長くは続かなかった。いったんは救われたものの、行者の方が「腹の中にいる生き物がはらわたを全部食ったらおまえは死ぬ」「人を犯す霊がお前についている」などと女工を脅すようなことをいうようになり、女工は行者に不信を抱くようになる。
彼女は行者とは別に祈るようになったが、するとますます行者は怒る。結局3週間で2人は争い分かれてしまった。女工は言う。「○○さんは私を計略にかけたのです。○○さんは身寄りがないから私を治して退院させ、退院した私に引き取ってもらおうとしたのです」
その後1ヶ月して面会させたが、語り合わずまた争うこともなかった。行者はその後も変化はなく、女工は症状が消え3ヶ月して退院、故郷に帰っていった。
孤独な2人の、出会いと別れの物語である。
④フォリアドゥの治療
この例でもわかるように、実はフォリアドゥには、鉄則といってもいい非常に簡単な治療法がある。それは、2人を引き離すこと。
もちろん最初に妄想を抱いた人物(発端者)は、多くの場合入院させて薬物などによって治療する必要があるが、影響を受けて妄想を抱くようになった人物(継発者)は、発端者から引き離されただけで治ってしまうことが多いのだ。
ただし、引き離す、という治療法は多くの場合有効だが、そうすれば絶対に治るとはいえない。
私がまだ研修医だったころのことだ。隣の家の朝鮮人が機械で電波を送ってくる、という妄想を抱いて入院しているおばあさんの治療を先輩医師から引き継いだことがある。
「自分が治してやろう」という意気込みは精神科ではむしろ有害なことも多い、ということくらいは知っていたが、まだ駆け出しだった私には、どこかに気負いがあったのだと思う。必死に薬剤を調整してみてもいっこうに妄想は改善しない。
万策尽き果てた私が、永年同居生活を送っている兄を呼んで話をきいてみると、なんと、彼の方も「隣の家の朝鮮人からの電波」について語り出したではないか。2人は同じ妄想を共有していたのだった。
これはフォリアドゥだ! 私は、珍しい症例に出会ったことと、そして先輩医師が気づかなかった真実にたどりついたことに興奮し、さっそく「鉄則」の治療法を試みた。兄の面会を禁止したのである。
しかしこれは逆効果だった。面会を禁止してもおばあさんの妄想はまったく改善せず、それどころか2人とも私の治療方針に不信を抱くようになり、治療はまったくうまくいかなくなってしまったのだ。
私は2人を一緒に住まわせるのはまずいと考え、兄のところ以外に退院させようと努力したのだが、2人とも態度を硬化させるばかりであった。
1.
今考えれば私の方針の間違いは明らかである。私は、妄想が残ったままであろうと、彼女を兄のところに退院させるべきであった。それが彼女の幸せであるのならば。私は「鉄則」にこだわるあまり、老人の住居侵入妄想はなかなか修正しにくいことを忘れてしまい、そして何よりも、永年2人だけで暮らしてきた兄に突然会えなくなった彼女のつらさに考えが及ばなかったのであった。
⑤古いタイプの感応精神病 ← 幸福の科学信者はこのケース
続いて、古いタイプの感応精神病の例を紹介してみよう。最近の感応精神病は「宇宙語」の例のように、都会の中で孤立した家族で発生することも多いのだが、かつては圧倒的に迷信的な風土の村落で発生することが多かった。例えばこんな例がある。
昭和29年、四国の迷信ぶかい土地の農家での話である。あるとき、父親が幻覚妄想が出現し興奮状態になった。そのさまを熱心にそばで見ていた長男は2日後、父親に盛んに話しかけていたかと思うと、次第に宗教的誇大的内容のまとまりのない興奮状態に発展し、互いに語り合い感応し合いながら原始的憑依状態を呈するに至った。
父親は妻、娘など一家のもの6人を裏山に登らせ裸にさせて祈らせ、大神の入来を待った。長男は家に残り夢幻様となって家に放火。一同は燃え崩れる我が家を見ながら一心に祈りつづけた。父親、長男以外も一種の精神病状態にあった。
悲惨な話だが、どこかゴシック・ホラーの世界を思わせないでもない。
これがさらに拡大すると、村落全体が感染するということもある。
青木敬喜「感応現象に関する研究(第1報)」(1970)という論文に載っている例だが、これはフォリアドゥというよりむしろ、以前書いたこっくりさんの例のようなヒステリー反応とみなすのが適当かもしれない。
昭和11年、岩手県北部にある戸数40程度の集落での話である。
発端となったのは35歳の農家の妻Aである。昭和11年5月、夫の出稼ぎ留守中、頭痛や喉頭部の違和感を感じるようになり、また身体の方々を廻り歩くものがあるような感じがするようになった。あちこちの医者を回ったがなんともないといわれるのみで一向によくならない。
どうも変だと家人がいぶかしんでいる間に、患者はときどき「鳥が来る。白いネズミのようなものが見える」などといったり、泣いたり騒いだりするようになった。家人はこれは変だと患者の着物を見ると、動物のものらしい毛がついている。これはイズナに違いない、と12キロほと離れた町の祈祷師Kに祈祷してもらったところ、たちまち発作状態となり、さらに発作中に自分は集落の祈祷師Tのもとから来たイズナであると言い出したのである。
その後もこの患者は発作を繰り返すようになり、多いときには一日のうちに数回起こすようになった。
さてAの近所に住む農家の妻BとCも、昭和11年5月頃から喉の違和感を覚えるようになる。12月にはBの夫がBに毛が付着しているのを発見している。BとCは例の祈祷師Kのもとを訪れ祈祷してもらったところ、祈祷中に2人は急に騒ぎ出し、「Tから来たイズナだ。Tで育ったものだ」と言い出す。
こうして昭和12年4月までの間に続々と同様の患者がこの集落に発生、ついにその数は10名にのぼった。事件は集落をあげての大騒ぎとなり、「集落は悪魔の祟りを受けた。なんとかして悪魔を滅ぼさねば集落は滅んでしまう」と不安と緊張が集落にみなぎるにいたる。
こうしたなか、本当にTの祈祷のせいなのか確かめようじゃないか、という動きになり、昭和12年8月20日午後3時ごろ、集落の共同作業所に患者10名を集め、集落の各戸から1名ずつ、合計四十数名の男たちの立ち会いのもと、TとKのふたりの祈祷師の祈祷合戦が繰り広げられることになった。
まず疑いをかけられているTが祈祷をするが患者は何の変化も示さない。次にKが祈祷すると、約10分くらいして患者たちはほぼ一斉に異常状態となり、「Tから来たTから来た」と叫ぶもの、「お前がよこした」と激昂してつかみかかるもの、「命をとれといわれたが恨みのないものの命をとることができないからこうして苦しむのだ。苦しい苦しい」と泣き喚くもの、ものもいえず苦しげにもがいているものなど憑依状態となり、まったく収拾のつかない大騒ぎとなった。
このため、これは確かにTの仕業に違いないと集落のものは確信を抱き、Tに暴行を加え、T宅を襲って家屋を破壊した上、村八分を宣言したのである。
さらにその約1ヶ月後のことである。集落の各戸から1人ずつ男たちが出揃ったところで副区長が「イズナが出ないようにするにはイズナ使いの家に糞便をふりかければイズナは憑くことができないという話をきいた。どうであろう」と提案した。
すると、一同は一も二もなく賛成し、そのまま四十数名が暴徒と化し、大挙してT宅に押しかけ、雨戸を叩き壊して座敷になだれ込み、糞便をかけ、Tをはじめ家族の者を殴打、重傷をおわせてしまった。
これまたものすごい事件である。ただ、「宇宙語」の家族は隣にいてもおかしくないように思えるが、こちらはわずか60年前の事件とは思えないくらい、私には縁遠く思える。
集落全体が外部から遮断された緊密な共同体だった時代だからこそ起こった事件なのだろう。こうした共同体が減ってきた今では、このような憑依型の感応精神病はほとんど見られなくなっている。
⑥ 家庭内幻魔大戦
さて今度はまた篠原大典「二人での精神病について」(1959)から。家庭内の騒動が、宇宙的規模での善悪の戦いにまで発展していってしまうという、興味深い物語である。
昭和31年5月、Kという呉服商が相談のため京大精神科を訪れた。
彼の話によれば、昭和23年に妻と長女、三女が彼と口論をしたあと家出。しばらくして帰宅したが帰宅後はことごとく彼と対立、離婚訴訟を起こした上、妻と長女は前年から二階の一室にこもり、ときどき外出して彼の悪口を言い歩くが、一見正常に見えるから始末に困るという。なお、別居中の義母も妻とは別に彼を悪者扱いしているという。
そこでこの論文の著者らはただちに母と娘を閉鎖病棟に収容した。現在の常識からすればこれくらいのことでなぜ、と思えるが、当時はそういう時代だったのだろう。入院後も2人が協力して反抗してくるのでただちに分離したという(「鉄則」の通りである)。
さて母子の入院後、2人の部屋からは数十冊にも及ぶ膨大なノートが発見される。そのノートには、驚くべき母子共通の妄想体系が詳細に記されていたという。その記述によればこうだ。
宇宙外にある「大いなるもの」から一分子が月に舞い降り、さらに地球に来て母の肉体に宿った。太陽を経て地球にきた分子は長女に、ある星を経て来た分子は三女に宿った。彼女らは肉体は人間の形をしているが、魂は大いなるものの一部であり、月や太陽の守護のもとに人類を救済する使命をもち、「宇宙外魔」の援助を受けて彼女らをおびやかす悪の根源である夫Kを撃滅せねばならない!
家庭内幻魔大戦というか、家庭内セーラームーンというか、とにかくそういう状態なのである。ここで、仮に母を月子、長女を陽子、三女を星子と呼ぶことにし(実際、論文にそう書いてあるのだ)、2人が書いた手記をもとに、この妄想体系が完成されるまでの経過をたどってみる(以下斜体の部分は手記の記述による)。
Kは苦労人で丁稚奉公のあと、月子と見合い結婚すると暖簾をわけてもらい東京で呉服店を開いた。一方月子は貿易商の長女で甘やかされて育ったせいもあり、派手でだらしなく浪費癖があり、夫とは常に対立していた。2人の間には4人の子どもが生まれる。長女陽子、長男、次女、三女星子の4人である。
長女陽子は自然が好きな子どもだったが、人間は嫌いで、幼稚園の頃は太陽の絵ばかり描いていた。「父は些細なことで怒り赤鬼のようになって母を叩き、耐えている母をみて母の尊いこと」を知った。
父と母の争いにまきこまれ、成績があがらず落胆し、学校も家庭も憎み、「よく裏庭に出て月や星を仰いで」いた。5年生のときにH市に疎開、終戦までの1年間は父のいない楽しい生活を送ったが、終戦後父もH市で商売を始め、再び母との争いに巻き込まれることになった。
しかも、中学から高校にかけては父の命令で、妹たちとは別に祖母のいる離れで寝なければならなかった。祖母は向かい合っていても何を考えているかわからない人で、「父が悪事を企んでいる」と真剣な顔で陽子に告げるのであった。
この祖母も分裂病だったと思われる。陽子の手記によれば「父から物質的恩恵を受けながら父を愛せませんでした。そのことを深刻に苦しみましたが、誰も理解してくれませんでした。知らず知らず孤独を好み、しかし一方では自分が頼りなく誰かに頼らねば生きていられませんでした」。そして高校1年のときある事件が起き、それ以来彼女ははっきりと父を敵とみなすようになるのである。
その事件については陽子の母月子の手記をもとに見ていこう。
昭和25年、月子と陽子はKの弟の家で軽い食中毒を起こす。このとき月子の心に最初の疑惑が生じる。
昭和27年、月子は夫の甥が陽子の部屋に無断ではいるのを発見し、夫に告げるが「夫は全然取り合わないのである。私は夫の仮面を見たような気がした」。
昭和28年1月、陽子は腎臓疾患にかかり、月子は離れで陽子を看病するが、Kが離れに出入りしたあとは必ず容態が悪化することに気づいた。
「ここに至っては夫が陽子に危害を加えていることは明らかである。私は夫と甥に警戒の目を向けた。家の中は自ら疑心暗鬼、一家をなさず私と陽子対夫と甥の目に見えない対立が生じ、間に入ったほかの子どもたちはおろおろするばかりである」。
長男は中毒事件までは母についていたが以後父に従い、次女は最初から父の側、三女星子はほとんど母についていたが、終始母に批判的であったという。
28年3月、月子は飼い犬のえさのことで夫とひどい口論をしたときに夫に「何か一種の妖気を感じた。私は今までの夫にないものを見たのだ。以後奇怪な事件は連続して起こっていった。私たちは身体に異常を感ずるが、くやしいことにその根源を科学的に実証できなかった。しかし害を加えられるところにとどまることはできない」
彼女たち3人は家を出て警察などに訴えまわり、3ヶ月後に帰宅した。
「家に帰ると陽子は身体がしびれて動けぬという。奇怪だ。しかしある夜、私はその正体の一部を見た。私が陽子を看病していると、といっても病気ではない。見守っていると、はなれとの境目の板塀の節穴からさっと私たちに向かって青白い閃光が走った。私も陽子もしびれるような異常を感じた。相手は見えざる敵である。あるときは右隣、あるときは左隣から来た」
やがて29年になる。「私は陽子を連れて二階に引きこもることにした。疑いを持った人とともに生活することは無意味だからである。そしてこの不可解な事件をどう解決するかということに専念した」
家出前後の事情は娘陽子の手記にも書かれている。
「腎臓炎になってから不思議なことが次々と起こり、布団が非常に重く感じられ、時計の音が大きく響きました」
「父が薬を飲ませたとき、味が妙だと思いましたが、あとで毒を入れられたのでそれで病気が治らなかったのだとわかりました」
「父に殺されるといったのは私で、家を出ようといったのは母です」
「隣の家から光線が出て2人とも気持ちが悪くなったこともあります」
「H先生(遠縁にあたる絵の先生で、彼女の片想いの対象)に何度も危険を訴え、殺されたら裁判所に訴えてくれと頼みました」。
笑っちゃいけないのだが、月子の手記がなんだか妙にB級ホラーサスペンスタッチなのがおかしい。母子と父の戦いはいったいどうなるのか。
昭和29年になると、母月子と長女陽子は2人で2階で暮らすようになる。陽子の手記によるとこうだ。
「母と2階で生活し、父が来ると追い返し塩を撒きました」
「私が買い物に出て家の周りのことを母に伝え、対策を考えてはノートで敵を攻撃しました」
「ノートで敵を攻撃」というのがどういうことかというと、つまり呪文による攻撃なのである。母のノートには「神不可抗、我等と敵魔外魔との反発源を白光通像の中へ密着入せよ」などとあり、娘のノートには
「さしもかたき暗黒の魔星、四方に砕けて、たちまち無くなれり。彼方より尊き神の御光、仰げ白光たえなる神を」とあった。
また、「敵撃滅敵撃滅敵撃滅……」という呪術的文句も延々と繰り返されていたという。ここにきて、事態は家庭内呪術戦争の様相を呈する。
昭和30年、ついに2人は「大いなるもの」と接触する。
「『ご自身の世界に一度顔を出してください』と太陽から聞こえたり、大いなるものから『来たければおいで』と知らせてくれました。
体がしびれたとき、目を閉じるとダイヤモンドのようにきらきら光るものが見え、母に話したら大いなるものだといいました」。
きのう書いたとおり、困り果てた父親が精神科を訪れたのが昭和31年5月。そして2人は入院することになる。
入院3日目より陽子は「壁の後ろから父に命令されたものが電波をかける」と訴え、母の名を叫びながらノートにも
「お母さんお月さんはありますね」
「お母さんを離れては私はありません」
「お母さんの心は私の心、一心同体とお母さんは言いましたね」
などと書いた。母と会わせると抱き合って
「月と太陽が……あいつと宇宙外魔が……」と語り合っていた。
入院第1週から月子は「私の伝記」を書き始める。これが今まで引用してきた手記である。
第2週、娘は
「新しい素晴らしい世界ができる。その主となるのは私」
「地球も宇宙も月も捨ててしまう」
「月も太陽も出ない。宇宙を逆転させて、しめたといったのは誰だ」
と緊張病性興奮をきたし、父と面会させると
「あれは亡霊です人間ではありません」と逃げ出した。
主治医はつとめて妄想を肯定するように対応したが、すると彼女は主治医とH先生(きのうの記述にも出てきた、陽子が片想いしている絵の先生である)を人物誤認し、
「太陽は自由だった。太陽に飛んでいきたい。しかし地上にも幸福はある。それはH先生」
と書いている。この頃から興奮は鎮まり、第3週から手記を書き始めている。
母の症状はなかなか改善しなかったが、第6週には娘は父の住む家に外泊、父は案外やさしい人だといい、逆に母を説得さえするようになった。「入院はいやだったが、病気が治りかえって自由になった」と書いている。第8週に母はなんら改善されずに退院。第10週に娘も母と別居し父と暮らす約束で退院した。
しかし、話はここでは終わらない。陽子は1ヶ月ほど父と生活したが、H市の母のもとに手伝いに行ったのをきっかけに、ふたたび母と二階の一室で暮らすようになる。ときどき帰る父と母の緊張、H先生への恋を母に禁止されたことなどが誘引となり、10ヶ月後、再び陽子の症状は悪化してしまう。
昭和32年4月、陽子は京都にH先生に似ているというある俳優の撮影を見に来ていたが、その俳優が殺されるシーンになると不安になり、ハンドバッグから持ち物を出し、次々と太陽にすかし池に投げ込んだ。かけつけた父を罵りますます興奮するので、主治医が呼ばれて行った。
「よい月が出ているから安心しなさい」と主治医が言うと一応鎮まり、
「二次元と三次元の世界のどちらを選ぶべきですか」と質問したという。
かくして陽子は再入院。第1週には
「人間なんか信用できないから地球に未練はない。あの汚らわしいやつ。人間のできそこない、あいつは絶対に許されない。神でもないのに神のつもりでいるのだ。あいつは物質的恩恵を与えたつもりでいるけれど、太陽によって成り立った物質はあいつのものとはいわせぬ」
「私の元の世界は宇宙の外にある。お母さんが帰らなければ私だけH先生を連れて帰ってしまう」
などと話していたが、2週目以降はやや現実的になり、母親と離れることの不安やH先生への思いを語るようになっていった。
入院2ヶ月後にLSDを服用させて妄想を発現させたところ(驚くべきことに、昔はそういう治療法があったのである)、1時間後強迫的に笑い出し、
「ケセラ・セラの歌は私がお母さんに頼っていたことに対する警告だと思います。お母さんを捨ててH先生と結婚します」
といい、2、3時間後には「先生! オールマイティになってください」と主治医に寄りかかる。一人で立たないといけないと突き放すと不安がつのり
「空に飛びたい。元の世界に帰る」と机の上に乗って飛ぼうとする。
しかし飛べずに興奮し始め、
「過去も現在もなくなってしまえ」
と叫びながら主治医にH先生になってくれと懇願する。主治医がうなずくと次第に静まっていったという。
念のため言っておくが、これは今じゃとても考えられない荒っぽい治療法である。 ともかく、入院4ヶ月目に陽子は退院。以来京都で父と暮らし洋裁学校に通うようになったという。
論文の著者はこう結んでいる。「母からH先生へ、そして主治医へ、退院の頃には主治医から父へと陽子の依存性は次々と移され、その程度も弱まり遂には精神的独立を決意するに至っている。かくて主治医を通じて父との新しい人間的結合を生じ、母から分離したのである」。
つまり主治医は、陽子の分離不安をいったん自分で引き受けることによって治療を成功させたわけなのだけど、これも下手をすれば主治医が妄想に取りこまれないとも限らないわけで、けっこう危険を伴なう治療法だと思うんだけどなあ。ま、結果よければすべてよしですが。
⑦ フォリアドゥと家族
さて最後にちょっと違った視点からフォリアドゥを見てみよう。共同生活をしている家族などの中で狂気が伝染していくというのは、確かに気味の悪い現象ではあるのだけれど、ある意味、感染して同じ狂気を共有するようになった人は幸せといえよう。
抵抗をやめて吸血鬼(or屍鬼orボディスナッチャーorボーグ)になってしまえば楽になるのと同じようなものだ。
それでは、狂うことができなかった家族はどうなるのだろう。
家族を正気に戻すために戦う? 家族を捨てて逃げる?
映画ならともかく、現実にはどちらもよほどの覚悟がないとできそうにない。それに、もし、戦うことも逃げることもできない無力な子どもだとしたら?
家族は狂気を共有することを強要するだろう。暴力も振るうかもしれない。狂うこともできない子どもは家族からの虐待に耐えつつ、ただひとり孤立するほかあるまい。狂気に陥っている集団の中では、正気を保っている人物こそが狂人なのである。
これは、狂気に感染した家族よりもはるかに悲惨なんじゃないだろうか。しかし、どういうわけか、これまでの文献は、感染した家族には興味を示すのに、狂気に陥らなかった家族についてはほとんど触れていない。「宇宙語」の論文でも、感染しなかった子どものことはほとんど書かれていないし、「家庭内幻魔大戦」の論文でもそうだ。無視しているといってもいいくらいである。
このへん、精神医学という学問の偏りがよく現れていますね。派手な精神病症状には興味を示すくせに、狂気を耐え忍んできた人の心にはまったく無関心。今でこそPTSDなどが話題になってきているけれど、つい最近までの精神医学はこんな具合だったのだ。
フォリアドゥそのものではなく「狂えなかった家族」に焦点をあてた文献はあまりないのだが、それでも皆無というわけではない。酒井充らによる『いわゆる被虐待児症候群の事例化』(社会精神医学1987年12月)という論文から事例を引いてみる。
発端者は母親であったらしく、結婚前の18歳ごろから
「近所の人たちが自分のことをバカにして笑っている」
とくってかかるなどの行動があったという。21歳で結婚するが、しだいに夫も妄想を共有するようになり、次男Kが生まれた頃には、夫婦そろって近隣といざこざを起こし転居を繰り返していた。
次男のKは4歳のときに幼稚園に入園したが、両親はKが保母に不当にいじめられているという被害妄想を抱き、中途退園させてしまう。またその頃父から「家族は家族だけでやっていくから、もう二度と外の人とは遊ぶな」と言われ、子どもたちは外出を禁じられるようになる。
6歳でKは小学校に入学するが、やはり父は担任の家に電話してどなりつけたり、教育委員会に抗議に行ったりしていた。まもなく両親はKの登校を禁止。Kが登校しようとすると、両親、ときには兄も加わってベルトで鞭打つ、金槌で殴りつける、煙草の火を押しつける、鉄パイプで眼を突くなどの身体的虐待が加えられた。そのため、小学3年生以降はほとんど学校に出席できなくなった。
他の兄弟は親に従ったがKだけは抵抗したため、Kは親の言うことを聞かない子として、兄に行動を監視され、他の家族員から仲間はずれにされていた。Kは自宅内で一人で教科書や本を読みながら過ごすようになる。
12歳、中学校に進学したが一日も出席できず、学校から自宅に届けられた教科書で勉強し、父に命じられて自宅の敷地内の草取りをしたり、自宅内で飼っている豚の世話をしたりしていた。
この頃から、両親の近隣に対する被害妄想はますます強くなり、両親は自宅周囲をトタン板で囲い、月に一、二度のリアカーでの買い出し以外外出をしなくなる。
外出のときには両親はカメラやテープレコーダーを持ち歩き、「いやがらせの証拠」を探していたという。その際にもKは外出を許されず、父から訪問者の声の録音を命じられていた。
15歳ごろより、Kはマンガ家になりたいと思うようになり、マンガの添削教育を受け始める。しかし両親は「マンガなど描くのはやめろ。豚の世話をしろ」と反対し、Kの描いたマンガを破き、届いた郵便物を焼き捨てる。反抗すると、両親はKに暴力を加えた。
Kは両親の妨害を避けるため、自宅の隅に家具やガラクタを積み上げて「バリケード」を築き、その中に閉じこもってマンガを描くようになった。Kの態度に父は逆上、バリケードに灯油をぶちまけて火をつけ、自宅は全焼、Kは右半身に火傷を負い、翌日外科病院に入院した。
入院したKは病院で植皮術を受ける。しかし、手術痕の回復に従い、問題行動が始まった。看護婦の体に触る、夜間徘徊して眠らない、注射・服薬を拒否するなどの行動を繰り返し、病院側から治療半ばにして退院させられてしまう。
病院は通院治療を勧めたが、父は「一旦家から離れた者は家族ではない」といって、Kを父の信奉する宗教施設に預けた。
しかしKはそこでも問題行動を起こし、自宅に帰された。両親はやむなくKを家に置くことを許したが、やはり自宅外への外出を禁じたため、Kは再びバリケード内にこもった生活を続けることになった。
痛ましい話である。Kにとってはまさに地獄のような家だったに違いない。15歳で入院し、家から離れたときになぜきちんと助けを求めなかったのかと不思議に思う人もいるかもしれないが、それは無理な話だろう。
それまで家族以外との接触がほとんどなかったKには、他者とうまくコミュニケーションをとることができなかったのだろう。
さてこのあと、Kは意外な方法で地獄からの脱出を図る。
17歳頃になると、Kは両親が話しかけても「あなたは誰でしゅか」などと幼児語しか話さなくなり、昼夜かまわず奇声を発するようになった。
また布団の上や鍋の中に大小便をしたり、糞尿を身体をなすりつけて転げまわるなどの異常行動が徐々に激しくなり、両親も対応に困り、翌年11月、救急車で精神病院に入院することになった。
入院したKは、主治医の質問も待たず一方的に喋りだし、
「親から離れて入院できたのは本当にラッキーでした。でも僕は本当のことは言いません。狂気を装っているんです。催眠療法してもだめでしょう」
とうれしそうな表情で話した。入院前の異常行動については
「親が鉄パイプで殴ったり、僕のものを燃やしたりするのが鬱積して、精神病の方へ出ちゃったんです」
「虐待ばかりで学校へも行かせてくれず、訴訟ばかりしている親に反抗して、家から脱出したいと思って、親の方から僕を嫌いにさせようとして狂うふりをしたんです」という。
また「これは父にやられた、ここは母にやられた」と体中の傷痕や火傷痕についてしきりに説明した。
病棟では他の患者や看護婦に一方的に話しかけ、苦情が出るほどだった。また自分の要求が通らないと大声でわめきちらし、逆に強く注意されるとその場で土下座して謝ったりと、周囲の人たちとどのように接したらよいのかわからない様子だった。
両親への憎悪は強く、「もう自宅には戻りたくない。親戚に連絡して引き取ってもらいたい」と要求。入院が長引くにつれ、
「自分の親は被害妄想狂です。だから僕ではなく親のほうを入院させて下さい」と攻撃的な口調で退院を要求した。
一方両親は、入院時「一生退院させない」と言って面会にも現れなかったが、月に2、3回の手紙は必ず送って来た。
Kは両親が「被害妄想狂」である証拠として、主治医に手紙の一部を見せた。手紙は、警察や近隣、福祉事務所などへの被害的内容が主で、当初は病院に対して好意的だったが、徐々に
「病院も警察とグルになって一家をバラバラにしようとしている」
と被害妄想の対象になっていった。そして、それとともにしだいにKの退院を認めてもいいとも書くようになっていった。
翌年7月、突然父が病院を訪れ、Kを自宅に引き取りたいと申し入れ、即日退院となった。その後もKは以前のように自宅に閉じこもった生活を続けているようだが詳細は不明だという。
こうして、Kは結局地獄の家に帰ってしまうのである。おいおい、そりゃないだろ、と思うのは私だけではないはずだ。
Kが本当に狂気に陥っていたのか、それとも本人の言う通り狂気を演じていたのか、この論文でははっきりとした結論は出していない。
それでも、Kは、両親の狂気に対して、それを上回る狂気という奇策によって脱出を図り、必死に助けを求めてきたわけだ。そんなKを、父親に言われるままにあっけなく自宅に引き取らせてしまっていいんだろうか。いくらなんでもこの結末はないだろう。
確かにこの患者は未成年でもあることだし、普通は親が退院させたいと言えば、法的には退院させるほかはない。たとえ親の方がおかしいと思おうが、この両親を無理矢理入院させるわけにはいかない。でも、このような場合には何かほかの方法があったんじゃないかなあ(例えば親戚に介入してもらうとか)。
この論文は、「今後はさらに、本事例児のみならず、他の兄弟の発育についても、慎重に経過を追う必要があると思われる」と結ばれているのだが、本当にそれだけでいいのか?
その後この家族がどうなったのか、気になって仕方がないのだが、残念ながら続報は発表されていない。
http://psychodoc.eek.jp/abare/folie.html
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3:保守や右翼には馬鹿しかいない
:
2023/04/20 (Thu) 14:56:36
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ああ