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みんな大好きな白洲次郎さんの正体

1:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/04/12 (Wed) 07:19:45


白洲次郎 - Bing images
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白洲次郎 - Bing video
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プリンシパルのない日本 (1) Der Klang vom Theater (ドイツ~劇場の音と音楽)
http://kaorin27.blog67.fc2.com/blog-entry-575.html

みんな大好き白洲次郎さんである

https://blog-imgs-161.fc2.com/k/a/o/kaorin27/71YnG5Gi5VL_convert_20230411134127.jpeg

この人はオックスブリッジで「契約の社会」を体現した人である

プリンシパルとは日本語に訳しにくいとまず書いている
なぜなら「プリンシパル」の概念が日本には無いから置き換えの対象が無い。と言う結論に帰着せざるを得ない


「principal」をweb辞書で引くと
重要な、第一の、上位の人・立場などと出てくる
語源であるラテン語のprincepsが「元首」の意味を持つのでそんな表現をしているのだろうと思う


英国の社会には存在し、白洲さんの思い描くプリンシパルとは

原理・原則 

目に見える現象は移ろいゆくものだが、その上流には動かしてはいけない法則がある

感情や利害とは別次元で、人間として守らなければいけないもの、譲れないもの

こんな思いで著書に著さずにいられなかったのだと感じます
それ程、ご都合主義で感情的で利己的に日本社会が白洲さんの目には映っていたのでしょうか

7,8年前からでしょうか
ちょうどヴィニールレコードの人気が再燃した頃、レコードのカッティング・カーブは有名な「RIAA」だけでは無い
そんな話題が盛り上がって来ました

モノラル時代にプレスされたレコードを楽しんでいた人からすると「何を今更」って事で姦しい論争を遠巻きに生温く見守っていたものです

クラシックの主にメジャーレーベルのモノラル盤を聞いていた故か、実はあまり実感は無かったんですよね
RIAAの他にはffss columbia EURO78の3つもあれば大半のレコードをカバーできるから

もちろん当時のプリアンプにはEQ再生カーヴの切り替えが3、4種類あり、さらにこれで不足な時にはトーンコントロールをお使いなさい。と準備されていたものです


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テスト盤の試聴用のEMTは当たり前についている(モノラル時代のEMT-930)

一方、資金的に潤沢では無い=相当に有名なレーベルも=乱立していた米国ではもう訳の分からない状態で
マッキンのC-8型プリアンプの付録には数十種類のレーベルに対応したスイッチのポジション表が添付されている有様でした

Excerpt-from-C-8-EQ-chart-2_convert_20230411144456.jpg

これでもまだ一部です

欧州のレコード会社の設備に関しては、Neumannが圧倒的シェアを誇っていたのですからハードウェア的な制約からあまり録音カーブのバリエーションが生まれなかったのでしょうね
おそらく飛び抜けて高額なレンタル料金であった(その見返りに完全な保守管理が約束された)でしょうからマイナーな会社の中には使えない所もあったでしょう

川崎の好事家のお宅で「スカリー」のカッティング・レースを拝見したことがあります
Neumannのそれがメルセデスのガルウィングのスポーツカーとすると、スカリーの物はスーパーカブみたいでした
モーターのノイズを隔離する為でしょう、何重にもベルトを渡して駆動される様はさながらからくり人形のようで

莫大な生産規模のあるメジャーでは、いくらレンタル料金が高くとも機材の不具合による操業停止の方がよほど痛手になるので金額は問題なしです、映画館におけるWEやklangfilmの立場と同じです

さて、録音カーブの問題に戻ると
表向きには1954年の国際会議で、以降のレコード製作は「New Orthophonic」にしましょうとの約束になりました
(英国内では翌55年に規格化)
RCAのカーブが採用されたのは単純に大人の事情でしょうね、売上規模かな

世はLPモノラルの時代ですから、後期のモノラルLPはRIAAであるのがお約束です
その後、前後はありますが57ー58年頃にステレオレコードが出始めます

しかし、上述した通りレコード会社にも経済的事情がありますから、いくらお上が規格統一したって「コチトラ急に機材の入れ替えなんて出来ねえ」ってとこがあっても仕方がないかもしれません

そんな事情も鑑みると1954年以降にも一部はカット・カーブが混在し、主にロックやジャズのレコードコレクター達を惑わしたのも無理からぬことだろうと思って見ていたのです

ところがある時から、おかしな方向に風向きが変わります

ステレオになってから、それもメジャーでもRIAA以外のカーブが多数あるぞ!

と、言い出したのです

まあ、市井の民がNETに落書きするだけなら苦笑するだけで済みますが
雑誌のライター的な者や、メーカーの人間までも書き始めては不穏な空気が広がります
「悪貨は良貨を駆逐する」誠に残念ながらこの世情をよく表しています
http://kaorin27.blog67.fc2.com/blog-entry-575.html


▲△▽▼


白洲 次郎(しらす じろう、1902年(明治35年)2月17日 - 1985年(昭和60年)11月28日)は、日本の実業家。貿易庁長官。兵庫県武庫郡精道村(現在の芦屋市)出身。

連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商工省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた。吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど多くの企業役員を歴任した。


生涯

生い立ち
白洲次郎は1902年(明治35年)2月17日、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に貿易商白洲文平・芳子夫妻の二男として生まれた[注 1]。白洲家は元三田藩の士族の出。後に兵庫県川辺郡伊丹町[3](現:伊丹市)に転居した。

精道尋常小学校、御影師範学校附属小学校高等科を経て、1914年(大正3年)兵庫県立第一神戸中学校に入学[4]。サッカー部・野球部に所属。アメリカ車ペイジ・オートモビル(Paige Automobile )のグレンブルックを父親から買い与えられており、級友等を同乗させている写真が残っている。このペイジ・グレンブルックは、現在は東京都町田市にある旧居武相荘(後述)で展示されている。

神戸一中時代には宝塚歌劇団の生徒と恋仲になった。同級生の友人には後に作家で文化庁長官となった今日出海、他に中国古典学の大家として、文化功労者になった吉川幸次郎がいる。

祖父である白洲退蔵がキリスト教伝道系学校の神戸女学院の創立に関わったことから白洲家には外国人女性教師が寄宿しており、彼女たちから直接英語を学んだ[5]。

イギリス留学
1919年(大正8年)神戸一中を卒業し、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに留学[6]。史学科の聴講生として西洋中世史、人類学などを学ぶ。莫大な仕送りを受けつつ、のちに7代目ストラフォード伯爵となるロバート・セシル・ビング(ロビン)と親交し、イギリス貴族のライフスタイルを知る[5]。

自動車は、ブガッティ・タイプ35やベントレー・3リットル(1924年)を所有。ロビンと終生の友となり、1925年冬ベントレーを駆ってジブラルタルまでのヨーロッパ大陸旅行(グランドツアー)を実行している。カメラはライカを所有していた[7]。次郎が所有していたベントレー・3リットルは、現在は埼玉県加須市にあるワク井ミュージアムに展示されている(なお白洲次郎のベントレーが現存している、とワク井ミュージアム館長に教えたのは、自動車評論家の小林彰太郎であり、小林の助言により館長は当時の所有者であった英国人と交渉を行い、この車が日本で保存されることになった[8])。またクレア・カレッジ内にある図書館には、SHIRASU COLLECTIONと称した白洲次郎を記念としたセクションがあり、日本関連書籍が並んでいる[9]。

帰国
1928年(昭和3年)、神戸市神戸区(のちの中央区)で父の経営していた白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産したため、留学を断念し、日本への帰国を余儀なくされた[10]。

1929年(昭和4年)、英字新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となった。伯爵・樺山愛輔の長男・丑二の紹介でその妹・正子と知り合って結婚に至り、京都ホテルで華燭の典を挙げた。婚姻届は兵庫県川辺郡伊丹町役場に提出されている。

結婚祝いに父から贈られたランチア・ラムダで新婚旅行に出かけた[11]。英字新聞記者を経て1931年セール・フレイザー商会に勤務し取締役となり、1937年(昭和12年)日本食糧工業(後の日本水産)取締役となった。セール・フレイザー商会は明治初期より横浜で貿易商をしていたセールとフレイザーが明治30年に合併し、機関車や兵器などの輸入と銀行業務を行なっていた会社で、社長のジョージ・セールは白洲のケンブリッジ留学時代の学友だった[5][12]。

この間、商談などで海外に赴くことが多く駐イギリス特命全権大使であった吉田茂の面識を得[10]、イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになった。またこの頃、牛場友彦や尾崎秀実とともに近衛文麿のブレーンとして行動する。近衛とは個人的な親交も深く、奔放な息子・文隆の目付役をしていたこともあった。


戦時下
第二次世界大戦勃発の翌年の1940年(昭和15年)、東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(のち東京都町田市能ヶ谷)の古い農家を購入し、鶴川村が武蔵国と相模国にまたがる場所にあったことから武相荘(ぶあいそう)と名付け、政治や実業の一線から離れて農業に励む日々を送った。

1943年(昭和18年)、疎開先の白洲のもとに召集令状が届くも、英国時代に関係を深めていた東部軍参謀長・辰巳栄一に嘆願して握り潰してもらう。戦後白洲と同じ吉田茂の側近となった辰巳であったが、2009年の米公文書記録管理局の機密解除の結果、CIA協力者として日本の軍事機密をアメリカ側に漏洩していたことが判明した[13][14][15]。

終戦連絡中央事務局
1945年(昭和20年)、東久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。GHQの要求に対して白洲はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた[16]。

昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたというエピソードが「マッカーサーを叱った男」として伝記等で流布されている[17]。しかし占領期のGHQ関連文書を保管するマッカーサー記念館の調査結果によると、1945年12月から1946年12月にかけての執務記録、面会予定表、ゲストブック、いずれにも白洲の名は無かったため、このエピソードの信憑性には疑義が呈されている[18]。

憲法改正
同年には憲法改正問題で、佐々木惣一京都帝国大学教授に憲法改正の進捗を督促する。1946年(昭和21年)2月13日、松本烝治国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)がGHQの拒否にあった際に、GHQ草案(マッカーサー案)を提示されている。GHQ草案の翻訳と日本政府案の作成に当たった白洲は2月15日にGHQ草案の検討には時間を要するとコートニー・ホイットニーに宛てて書簡[注 2]を出し時間を得ようとするが、これはGHQから不必要な遅滞は許されないと言明された。

同年3月に終連次長に就任。8月、経済安定本部次長に就任。1947年(昭和22年)6月18日、終連次長を退任した。

貿易庁長官
1945年(昭和20年)12月15日、商工省の外局として設立された貿易庁の長官に1949年(昭和24年)12月1日に就任する。汚職根絶などに辣腕を振るい、商工省を改組し通商産業省(のち経済産業省)を設立した。その辣腕ぶりから「白洲三百人力」と言われる。

同年、日本最大・最新鋭の日本製鐵広畑製鉄所(現:日本製鉄広畑製鐵所)が、日本側に返還されることになった。白洲は外貨獲得のためにイギリス企業に売却を主唱するも、永野重雄の反対によって頓挫した。永野は「(広畑製鐵所を)取れなかったら腹を切る。将来の日本経済のため、製鉄業を外国資本に任せられるか」と啖呵を切ったとされる。

白洲は「俺はボランティアではない」が口癖で、イギリス留学時代の人脈をフルに活用し、主としてイギリス企業とアメリカ企業の日本進出時に代理人を務めた。

サンフランシスコ講和会議全権団顧問
1950年(昭和25年)、連合国との講和問題で池田勇人蔵相や宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米し、ジョン・フォスター・ダレスと会談、平和条約締結の準備を開始した。


1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行した。外務省の説明によると、首席全権であった吉田茂は当初、英語で演説を行うつもりだったが、日本の「ディグニティ(尊厳)」のために、当日になって、急遽日本語で演説することとした[20]という。白洲によれば、この時受諾演説の原稿を外務省の役人がGHQの了解を得た上でGHQに対する美辞麗句を並べかつ英語で書いたことに白洲が激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、急遽日本語に書き直した。

原稿は随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30m、直径10cmにも及ぶ巻物となり、内容には奄美群島、沖縄並びに小笠原諸島等の施政権返還が盛り込まれた[21]。しかし、サンフランシスコ条約会議に、事務の元締めとして参加した西村熊雄条約局長は、受諾演説文は、日英両国語で作っていたこと、および、吉田は英語で演説するつもりだったが、シーボルド大使が西村熊雄に日本語で演説することを勧めたため、同僚や白州顧問等と相談したところ、皆、賛成であり、吉田にその旨伝えた、としている[22]。

1952年(昭和27年)11月19日から1954年(昭和29年)12月9日まで外務省顧問を務めた。吉田退陣後は政界入りを一部から望む声もあったが政治から縁を切り、実業界に戻った。

実業界へ復帰
吉田側近であったころからすでに公社民営化を推進しており、1949年(昭和24年)には日本専売公社が発足している。そして1951年(昭和26年)5月には、日本発送電の9分割によって誕生した9つの電力会社のうちの1つ、東北電力会長に就任した。また、9電力体制を作った「電力王・電力の鬼」松永安左エ門の私的シンクタンク・産業計画会議の委員に就任した。

就任の同年福島県の只見川流域が只見特定地域総合開発計画に指定されたことから1959年(昭和34年)に退任するまで、只見川流域の電源開発事業に精力的に動き奥只見ダムなどの建設を推進した。

また当時東北地方で開発可能な水力の4分の3を有していた只見川[23]の水利権を巡って、古くからの権利を主張して徹底抗戦してきた東京電力に対し、当時の野田卯一建設大臣を説得して、水利権を東北電力に切り替えるという超法規的措置を引き出した。これによって、東北電力繁栄の基礎が築かれた。

東北電力退任後は荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業(現マルハニチロ)、日本テレビ、英国ウォーバーグ証券(S. G. Warburg & Co.)の役員や顧問を歴任した。

晩年
軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長を務めゴルフに興じたほか、80歳までエンジンを2400ccに改造した1968年型ポルシェ911Sに乗り、三宅一生のショーにモデルとして出演もした。また、初代ソアラ(Z10型)のオーナーであり、その改善点を伝える形で没後の1986年1月に発売が開始されることとなった2代目トヨタ・ソアラのアドバイスなども行なっており、その際に上記のポルシェをトヨタに寄贈し参考にせよともしている。

死去
しかし1985年(昭和60年)11月に、妻の正子と伊賀・京都を旅行後、体調を崩し胃潰瘍と内臓疾患で入院、同年11月28日に急性肺炎のため東京都港区赤坂の前田外科病院で死去した、83歳没[1]。墓所は兵庫県三田市の心月院である。

妻の正子と子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあった。実はこの遺言書のフレーズは、白洲の父親が死去した際に残した遺言の内容とまったく同じであった。そして白洲の墓碑には正子が発案した不動明王を表す梵字が刻まれているだけで、戒名は刻まれていない。

なお、1987年11月に自動車雑誌「NAVI」で、白洲の生涯を扱った「日本国憲法とベントレー」(その後「白洲次郎の日本国憲法―隠された昭和史の巨人」として刊行)が連載されたこともあり、没後2年を経てにわかに白洲の生涯とその功績が注目されることとなった。


エピソード
白洲次郎に関する一次資料は、ほとんど現存しておらず、実像としての次郎は謎が多い人物である[24]。
華麗な経歴と整った相貌、英国流ダンディズムに基づいた彼特有の美学やライフスタイルに、謎の多い人物像も相まって、その存在は彼の死後ある種の伝説的なものとなった。日常的に英国の高級ブランドを着こなしていた一方で、ジーンズを日本で初めてファッションに取り入れた男とも言われるほど、ファッションセンスにも富んでいたことがうかがえた[25]。関連書籍や特集記事は多数出版されており、その多くは容姿や振る舞い、行動力に至るまで「外国人(白人)に勝るとも劣らない日本人」として描写されている[26]。
長野県の軽井沢は、戦前から戦後、そして最晩年に至るまで長らく通い続けた、白洲夫妻にとってお気に入りの土地であった[27][28]。別荘の隣に住んでいた河上徹太郎夫妻の知遇を得、親交を結んだほか[29]、細川侯爵家をはじめとする国内外の著名人らと、東京にいるときと同様に交流を持った。母校ケンブリッジ大学のラグビーチームが来日した際には、軽井沢に彼らを招待している[30]。また軽井沢ゴルフ倶楽部では、次郎は名物理事長として知られた[31]。東京からポルシェやランドローバーを飛ばしてクラブハウスに乗りつけると、プレーに来る会員たちのマナーに遠慮なく注意したという[32]。なかでも当時首相であった田中角栄とゴルフにまつわる”攻防”が繰り広げられたことは有名である(軽井沢ゴルフ倶楽部#エピソードを参照)。
山形県の蔵王温泉スキー場上ノ台ゲレンデ近辺には、次郎がスキーシーズンに使用した別荘「ヒュッテ・ヤレン」があり、保存・活用の会が発足している[33]。なお「ヒュッテ・ヤレン」の名称は、上手にスキーができない、”ひゅーっとやれん”(曲がれない)という、ユーモア、ジョークである[34]。
コーヒーはイタリアン・ローストで細かく挽いたものを好み、青山の紀ノ国屋でよく購入していた。顔なじみだったコーヒー売り場の店員は、白洲の訃報を伝える新聞記事で初めて素性を知り驚愕するとともに、「冗談好きで素敵なおじいさんだった」と後に取材に答えている[35]。
手先が器用で日曜大工が趣味の1つ。しゃもじや小物入れ、キャスターテーブルなど日用品をよく作っていた。これらは現在も武相荘に展示されている。2009年にマッカーサー記念館の倉庫から、白洲が設計しダグラス・マッカーサーに贈答された椅子と書簡が見つかった。書簡には「Your most obedient servant. Jiro Shirasu.(あなたの最も従順な下僕 白洲次郎)」と署名されていた[36]。
身長について、孫の白洲信哉は「次郎はいまのぼくと同じくらいでしたから、175cmほどでしょう。不思議なことに新しい伝記が書かれるたびに、どんどん背が伸びているんです。とうとう185cmまで伸びました。身内の間では、そのうち2mを越すんじゃないかって冗談を言っています」と述べている[37](尚、白洲自身がGHQに提出した身上書には身長:1m75cm、体重:65kgとある[38])。


発言集
「吾々(われわれ)の時代にこの馬鹿な戦争をして、元も子もなくした責任をもっと痛烈に感じようではないか。日本の経済は根本的な立て直しを要求しているのだと思う」[39]
「憲法にしろ色々の法規は、米国でさえ成立不可能な様なものをどしどし成立させ益々得意を増していった。一寸夢遊病者の様なもので正気かどうかも見当もつかなかったし、善意か悪意かの判断なんてもっての外で、ただはじめて化学の実験をした子供が、試験管に色々の薬品を入れて面白がっていたと思えばまあ大した間違いはなかろう」[40]
「自分は必要以上にやっているんだ。占領軍の言いなりになったのではない、ということを国民に見せるために、あえて極端に行動しているんだ。為政者があれだけ抵抗したということが残らないと、あとで国民から疑問が出て、必ず批判を受けることになる」(日本国憲法制定を巡ってのGHQとの攻防の折、宮澤喜一に対して)
「この憲法は占領軍によって強制されたものであると明示すべきであった。歴史上の事実を都合よくごまかしたところで何になる。後年そのごまかしが事実と信じられるような時がくれば、それはほんとに一大事であると同時に重大な罪悪であると考える」[41]
「プリンシプルとは何と訳したらよいか知らない。原則とでもいうのか。日本も、ますます国際社会の一員となり、我々もますます外国人との接触が多くなる。西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたき込まれたものらしい。」[42]
「新憲法のプリンシプルは立派なものである。主権のない天皇が象徴とかいう形で残って、法律的には何というのか知らないが政治の機構としては何か中心がアイマイな、前代未聞の憲法ができ上ったが、これも憲法などにはズブの素人の米国の法律家が集ってデッチ上げたものだから無理もない。しかし、そのプリンシプルは実に立派である。マッカーサーが考えたのか幣原総理が発明したのかは別として、戦争放棄の条項などその圧巻である。押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか」[41]
「私は、“戦後”というものは一寸やそっとで消失するものだとは思わない。我々が現在声高らかに唱えている新憲法もデモクラシーも、我々のほんとの自分のものになっているとは思わない。それが本当に心の底から自分のものになった時において、はじめて“戦後”は終わったと自己満足してもよかろう」[41]
「占領下の日本で、GHQに抵抗らしい抵抗をした日本人がいたとすれば、ただ二人――一人は吉田茂であり、もう一人はこのぼくだ。吉田さんは、そのことが国民の人気を得るところとなりずっと表街道を歩いたが、もう一人のぼくは別に国民から認められることもなく、こうして安穏な生活を送っている。けれども一人くらいはこういう人間がいてもいいとおもい、別にそのことで不平不満を感じたこともないし、いまさら感ずる年でもないと思っている」[43]
「税金がふえて、我々の生活が今よりぐっと苦しくなっても、なお外国の軍隊を国内に駐留させるよりもいいというのが国民の総意ならば、安保など解消すべし」[42]
「今の政治家は交通巡査だ。目の前に来た車をさばいているだけだ。それだけで警視総監にはなりたがる。政治家も財界のお偉方も志がない。立場で手に入れただけの権力を自分の能力だと勘違いしている奴が多い」[44]
第三者による白洲次郎評
前出のように、白洲次郎についての一次資料は少ないとされる。死の数年前、何日かにわたって古いかばんを持ち出し、中の書類を次々に火にくべていたという。長女の桂子が「何を燃やしているの?」と尋ねるとそれには答えず、「こういうものは、墓場まで持っていくもんなのさ」と言って、焼却炉から立ち上る煙をじっと見上げていたという[45]。

ここでは第三者による批判的な白洲次郎評を挙げる。

「白洲さんは悪い人じゃないけど、女にもて過ぎたのがいかんですね」- 鹿内信隆[46]
「流暢な英語で、人を見下して話すところは、好きになれませんでした。」- ヘンリー・スコット・ストークス(ニューヨーク・タイムス東京支局長)[47]
「吉田側近として活躍していた昭和20年代後半は、評判が悪かったという。高く評価されるようになったのは、吉田氏同様、死後しばらく経(た)ってからだった」- 乾正人[48]
島地勝彦は、戦争の際は率先して最前線に立つことが王室や貴族の子弟の義務だが、白洲次郎は戦時中に徴兵を忌避をした点で紳士道に反すると評価している[49]。


家系

白洲家
白洲家は、摂津国三田藩(現・兵庫県三田市を中心とした地域)の儒学者の家柄。曽祖父は白洲文五郎、曽祖母は播磨国小野藩(現・兵庫県小野市)一柳氏の家老黒石氏の娘・里子[51]。祖父は三田藩儒の白洲退蔵(文政12年7月15日(1828年8月15日[51])、現在の兵庫県三田市屋敷町にて出生)。退蔵は明治維新後は鉄道敷設などの事業を興し、一時横浜正金銀行の頭取も務めた[51]。また現在の元町、三宮といった神戸港周辺の神戸市の都市開発や神戸ホーム(神戸女学院大学の前身)の創立にも尽力した。

父・白洲文平はハーバード大学卒業後、三井銀行、鐘淵紡績(カネボウ、現・クラシエ)を経て綿貿易で巨万の富を築き豪放磊落な人柄で「白洲将軍」と呼ばれた。

子孫
長男(第一子):白洲春正 - 元東宝東和社長
二男(第二子):白洲兼正
孫:白洲信哉 - 兼正の長男、母は小林秀雄の長女・明子。元内閣総理大臣・細川護熙の公設秘書でアートプロデューサー、エッセイスト、株式会社ジパング代表取締役
長女(第三子):白洲(現・牧山)桂子 - 旧白洲邸・武相荘館長


略年譜
1902年(明治35年) - 2月17日、現在の兵庫県芦屋市にて誕生。
1914年(大正3年) - 神戸一中入学。
1919年(大正8年) - 神戸一中卒業後、イギリスに渡航。
1924年(大正13年) - ケンブリッジ大学に聴講生として留学。
1928年(昭和3年) - 白洲商店倒産。この頃、帰国。
1929年(昭和4年) - ジャパン・アドバタイザー入社。11月19日、正子と結婚。この頃、正子の父を通じて吉田茂と知り合う。
1931年(昭和6年) - 2月5日、長男春正誕生。セール・フレイザー商会入社、取締役となる。この頃から頻繁に渡欧。
1937年(昭和12年) - 日本食糧工業(後の日本水産)取締役就任。やがて取締役外地部長となる。この頃、近衛文麿と知り合う。
1938年(昭和13年) - 1月3日、次男兼正誕生。
1940年(昭和15年) - 6月3日、長女桂子誕生。
1942年(昭和17年) - この頃、日本水産を退職し帝国水産理事就任。この頃、南多摩郡鶴川村(現在の町田市)にて農家を購入。
1943年(昭和18年) - この頃、鶴川村へ転居(=武相荘)。
1945年(昭和20年) - 終戦連絡事務局参与に就任。
1946年(昭和21年) - 2月、日本国憲法制定作業に参加。3月1日、終戦連絡事務局次長に就任、高等官一等となる。12月、経済安定本部次長に就任。この頃、読売争議に介入。
1947年(昭和22年) - 終戦連絡事務局次長を退任。
1948年(昭和23年) - 12月、貿易庁長官に就任。
1949年(昭和24年) - 5月24日、貿易庁長官退任。翌25日、通商産業省設立。この頃、日本製鐵広畑製鉄所の外資売却問題騒動。
1950年(昭和25年) - 4月25日、吉田茂首相の特使として訪米。この頃、アメリカ大使就任の話が出るが頓挫。この頃、旧日本軍播磨造兵廠払い下げ問題。この頃、日本輸出入銀行設立に奔走。
1951年(昭和26年) - 5月1日、東北電力会長就任。9月8日、サンフランシスコ講和条約調印に立ち会う。この頃、「日本のラスプーチン」など白洲バッシング多数。
1952年(昭和27年) - 軽井沢ゴルフ倶楽部常任理事就任。11月19日、外務省顧問に就任。吉田首相の特使として欧米視察。
1953年(昭和28年) - 2月、吉田首相の特使としてヨーロッパ視察。吉田の命を受けてチャーチルに面会しようとしたが果たせず。
1955年(昭和30年) - 旧日本軍四日市燃料廠払い下げ問題。
1959年(昭和34年) - 4月10日、東北電力会長退任。
1966年(昭和41年) - 東京赤坂に転居。
1982年(昭和57年) - 2月、軽井沢ゴルフ倶楽部理事長に就任。
1985年(昭和60年) - 11月28日、死去。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B4%B2%E6%AC%A1%E9%83%8E
2:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/04/12 (Wed) 07:28:17


吉田とセットで語られる白洲次郎はケンブリッジ留学時代にMI6にリクルートされています。彼はそもそもウォーバーグ財閥のウォーバーグの隠し子だと言われていて顔立ちもハーフみたいですからね。遺言にも「葬式無用、戒名不要」と世間の注目を嫌うスパイの葬られ方を選んでいます。そんな感じなので、確かに外国の勢力は多いですね。




【重要】菅義偉の黒い正体 ― スパイ、田布施システム、MI6、小渕恵三との繋がり…ジェームズ斉藤が暴露
2020.09.27
https://tocana.jp/2020/09/post_171763_entry.html


 大方の予想通り、菅義偉氏が第99代内閣総理大臣となった。長らく官房長官をやっていただけに順当な人事とも言われるが、もともと地味で表にもあまり出てこない人だっただけに、国民にはいまひとつどんな政権になるのか見えてこない。マスコミは「集団就職から総理へ」など、苦労人の印象をこぞってつけようとしているが、某国現役エージェント、ジェームズ斉藤に確認してみると、かなり裏のある人だったことが発覚! 菅総理の恐ろしい裏の顔を徹底的に暴露! 


ジェームズ斉藤(以下、ジェームズ) 下馬評通り、菅さんが総理になりましたね。早速日経の世論調査が出てましたが、支持率74%はさすがに異常です。発足したばかりで何日も経っていない政権を10人中7人以上が支持するのはありえないです。さすがは取材権を餌にアメとムチを駆使して、マスコミに菅グループと呼ばれる御用ジャーナリストを養成している菅さんらしい老獪さです。今後日本の主要メディアは壊死するでしょう。

──いきなり辛口ですね。菅さんって一見地味な方ですが、実際どういう人なんですか?

ジェームズ はっきり言えば怖いですよ。まず、彼のお父さんの菅和三郎さんですけど、謎多き人物で、公開情報のほとんどがフェイクです。私の情報源である永田町のドンの方々の話によると、和三郎氏は●●●●の調査部出身です。これはググっても出てきません。

──えっ! ●●●●の調査部って!

ジェームズ そうです。バリバリの諜報機関です。特に、菅総理のお父さんが所属した時期は第二次世界大戦の真っ最中で、関東軍肝入りの特務機関の頃でしたから、世界最高レベルのエージェントばかり揃っていました。ゾルゲ事件の尾崎秀実や大川周明なんかもいましたので。ただ、日本が戦争で負けたあとは、秋田で暮らし始めたんです。

──秋田で!?

ジェームズ そうです。日本の政治家の中枢がそうであるように(詳しくはこちらの記事を参照)、菅さんのお父さんも朝鮮半島の人ですから。正確に言うと日本統治下の朝鮮で生まれているので日本の臣民とも言えますが。菅総理の名前菅義偉が朝鮮名みたいなのもそういう理由です。これで「すが・よしひで」と読むのは珍しいですからね。また、菅和三郎氏も「和」という、「清和会」の由来にも通じる朝鮮系が好む漢字を使っています。しかもあえて音読みとなっているので、朝鮮系であることはほぼ間違いないところです。

──ということは今回の総理も、例の永田町独特の朝鮮系の人ということなんですね。

ジェームズ いえ、朝鮮系は朝鮮系なんですけど、安倍(晋三)さん、今井(尚弥)さん、二階(俊博)さんみたいな人たちとは違います。彼らは李氏朝鮮の両班出身で、要は貴族です。彼らの祖先が渡日した時期も古く、ほとんどが豊臣秀吉の朝鮮出兵時に日本に連れられてきた人たちです。一方、菅総理は戦後日本に来た家系なのでかなり新参者です。

 だからこそ、お父さんは切った張ったの世界でのし上がれる特務機関に入っていったんだと思います。そこで人脈を作った。そして諜報活動の経験が功を奏してか、新天地秋田ですぐにイチゴ栽培の事業に成功し、後に地方議員にもなり、地元の「ドン」になっていきます。

 ですから、菅総理はそこそこの名望家の出ということになるのですが、永田町でいう「両班朝鮮系」ではありませんので、そっちのグループには入れません。じゃあ、何系かという最初の派閥が宏池会の小渕派なんです。この小渕(恵三)さんと最初につながったというのが菅総理らしいんです。実は、小渕さんは菅総理と一緒の諜報系の人なんですよ。


──諜報系? あのブッチホンの小渕さんがですか? 

ジェームズ まあ、小渕さん自身が諜報機関の人というわけではないですけど、小渕さんの叔父さんが陸軍中野学校出身で台湾どで活動していた人だったんです。なので、小渕さんは叔父さんの薫陶を受け、その知識と人脈を外交に活かしていました。例えば、エリツィン大統領が病気になった時には病状を確かめるために官房機密費を使って、あの大物三重スパイの佐藤優さんをモスクワに送ったりもしています。ですから、小渕さんと菅総理というのはインテリジェンスの世界でつながっていたんですよ。この二人は、親しい身内に諜報組織の人間がいたという点で、戦後の総理の中でも際立った存在です。


──なんか、インテリジェンスな首相って聞くとカッコいい感じもしますが。

ジェームズ いや、それは映画や小説の世界の話で、実際はかなりドロドロですよ。その辺のことはあとで話しますが、菅総理はそういう出身だということです。これが意味することは本来、永田町の中ではメインストリームには上がってこれない、ということです。なにしろ、日本の政治家としての出世には両班であることが第一条件ですから。しかも、両班であれば誰でもOKではないんです。両班の中にも序列があって、足の引っ張り合いやいがみ合いがしょっちゅうおきてますから。それで思い出しましたが、昔、宏池会の林芳正さんと清和会の安倍さんがケンカになったことがあって、「お前は同じ両班でも俺より下だろう」とか言ってたらしいですよ。ホント、どこの国の話なのかと思いますが(笑)。

──まったくです。ちなみに、そのケンカは安倍さんが勝ったんですよね、李氏朝鮮の王家ですから。

ジェームズ いえいえ、勝ったのは林さんです。李氏朝鮮の王家であっても直系と傍流ってあるじゃないですか? それで見ると林さんのほうが直系に近いらしいんですよ。だから、安倍さん対林さんのケンカは林さんが勝ったみたいですよ。しかし、日本の政治ではこれが重要なんです。なぜなら、普通に実力勝負だと上にいけば行くほど似たりよったりで優劣がつかないんです。例えば、組閣になったときにどっちを大臣にするんだって場面で実力は一緒となったら、バックグラウンドで決めるしかないんです。つまり、両班かどうか? 両班同士であれば、どの階級の両班なのか? なんです。これが日本の政治の実態です。


──永田町にはいまどのくらい両班階級がいるんですか? 

ジェームズ かなり多いですよ。この前話しました安倍さん、二階さんもそうですし、岸田(文雄)さんもそうです。小泉純一郎、進次郎親子も鹿児島の旧田布施出身(田布施システムについてはコチラを参照)ですからそうですし、清和会の創設者の福田赳夫、康夫親子も釜山系の両班です。一方、宏池会の岸田さんは北系の両班なので、釜山よりは上なんですよ、林さんもここですね。

──もともと李氏朝鮮って北にあったんで、北出身のほうがヒエラルキーは上だと。

ジェームズ 中華の世界観では、北が特別な意味を持ち、北を制するものが政治権力を支配します。したがって、北系のほうが格は断然上です。ただし、宏池会は清和会のような朝鮮系というわけではないです。宏池会を作ったのは池田勇人ですから、吉田茂の流れです。

──そうするとイギリス系ですか?

ジェームズ そうですね。どちらかというと。吉田茂の義理のお父さんは大英帝国のジャーディン・マセソンという横浜にあった商社の支店長で、イギリスのユダヤ利権を継承していましたから。11歳だった吉田茂に当時で60億円ぐらいの遺産を残しています。もともとこの家系は幕末に暗躍した武器商人グラバーの財務下請けをやっていて、坂本竜馬とかああいうのが営業ですね。伊藤博文は転売屋というイメージです。一言で言えば、せどりですね(笑)。吉田とセットで語られる白洲次郎はケンブリッジ留学時代にMI6にリクルートされています。彼はそもそもウォーバーグ財閥のウォーバーグの隠し子だと言われていて顔立ちもハーフみたいですからね。遺言にも「葬式無用、戒名不要」と世間の注目を嫌うスパイの葬られ方を選んでいます。そんな感じなので、確かに外国の勢力は多いですね。

──日本人の勢力はないんですか?

ジェームズ もちろんありますが…●●●系ですね。日本の政治の世界は朝鮮系が多く、次いで●●●系が多いです。普通の日本人の勢力でいうと、ごくたまに麻生太郎さんのような旧貴族系日本人がいる程度という構成です。

──日本の政治が日本のためにやっているように見えない理由がわかりますね。  


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明治天皇も昭和天皇も天皇家ではなく李氏朝鮮の王族や両班階級の血筋だった
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明治天皇も昭和天皇も天皇家の血筋ではなかった
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漢民族系朝鮮人の天皇一族による極悪非道の世界侵略の歴史
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人間の屑 福沢諭吉のした事
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大東亜共栄圏というのは中国・東南アジアで麻薬を売ってぼろ儲けする体制の事だった
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日本が朝鮮併合したのも満州や中国を植民地化したのも食料を増産するためだった
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明治維新は田布施の 朝鮮人 による日本の乗っ取り
明治天皇も昭和天皇も天皇家ではなく李氏朝鮮の王族や両班階級の血筋だった

故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

【田布施システム】朝鮮系に乗っ取られた日本の裏歴史! 歴代首相を生み出す謎の村「田布施」を専門家が徹底解説!
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日本の有名政治家の出自が集中する「田布施」_ 戦後の総理大臣の75%が世襲政治家
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みんな大好きな白洲次郎さんの正体
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