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デタラメなアメリカの裁判制度

1:保守保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/04/06 (Thu) 06:23:56

恐ろしいアメリカの裁判制度

  アメリカの裁判は日本人の想像を超えるほど怖い司法制度である。何しろ、小陪審(Petit Jury / Jury Trial)に坐る陪審員が、どんな知識や思想を持つ人物なのか明らかにされないからだ。事件の性質にもよるが、検察官や弁護士の力量で殺人や強姦が「黒」から「白」に変わることもあるし、政治的嗜好や人種的動機で有罪が無罪になることもある。1994年に話題となった「O.J.シンプソン事件」がこの典型例で、陪審員の人種や性格によって殺人犯が無罪になってしまうのだ。それゆえ、被告人が黒人か白人かで、陪審員の選び方も違ってくる。

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(左 : O.J. シンプソンとニコール・ブラウン夫人 / 右 : 法廷で無実を主張するO.J. シンプソン)

 また、知的所有権の裁判では、陪審員の“学力”や“知能”、“理解力”、“判断力”、“一般教養”などが問われてしまう。それゆえ、被告側の弁護士が頭を抱えてしまうことも多い。日本人ならよく知っているけど、特許侵害を訴えられたセガ・エンタープライズやミノルタの悲劇は、素人の陪審員がもたらす弊害の典型だ。アメリカ人の知的レベルは、ピンからキリまで多種多様だ。物理学の博士号を持つ人から平凡な会社員、生真面目だがおっちょこちょいの商店主、底抜け馬鹿の庶民まで選り取り見取り。黒人やヒスパニックの陪審員になると一層不安で、中学生どころ小学生の算数さえ解らぬ者が少なくない。ましてや、高度な技術を基にする工業製品に関する知識なんか、ほぼゼロ。中学校の理科で行われる化学の実験ですらチンプンカンプン。小学校の掛け算や割り算が出来れば上出来、といった人もゴロゴロいる。

  こんな塩梅だから、セガやミノルタが裁判で負けたのも当然だ。基礎的な科学知識を持たず、ハリウッド映画の知識だけで判断する者が陪審員となれば、公平な裁判などちっとも期待できない。たいていのアメリカ人は理系科目に疎いから、審査になると偏見と感情に従ってしまい、「ズル賢い東洋人がアメリカ人の発明を盗み、それを使って大儲けしたんだ!」と勘ぐってしまうのだ。となれば、陪審員の評決は、同国人たる原告側(アメリカ人)に有利となる。1992年、ハネウェル社と争ったミノルタは、1億2千750万ドルを支払う破目になった。同じく特許侵害で訴えられたセガも負けてしまい、原告であるジャン・コイネルという“発明家”に3千300万ドルを支払うことになった。

  当初、被告となったミノルタやセガの日本人社員は、アメリカ人の弁護士を雇って「他人のアイデアを盗んだ」という“濡れ衣”を晴らそうとしたが、法廷での努力は無駄に終わってしまった。予想通り、陪審員に選ばれたアメリカ人は凡人だった。彼らにとって、カメラのオートフォーカス技術やゲーム・ソフトの仕組みは、手品のトリックよりも難解だ。中学校の理科や数学でさえ、どれくらい理解できるのか怪しい連中なんだから、ハイテク製品の説明は最初から無理。第一、専門用語を英語で説明しても、聞く方からすればギリシア語より難しい。日本人の技術者は頭を抱えてしまい、「こんな奴らが判断するのかよぉ~」と嘆いてしまったとか。日本の庶民なら、「専門家を集めて判断すべし」と考えてしまうが、イングランドの法制度を引き継ぐアメリカでは、本家と同じく、制度への信頼が揺るぎない。ただし、その信頼感は第18世紀ないし第20世紀前半のままとなっている。

「フェア・プレー」の元祖

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(左 : パブリック・スクールに通うイギリス人の子供 / 右 : 「イートイギリス人のイギリス人の生徒 )

  そもそも、陪審員制度はジェントリー階級の賜物(たまもの)である。事件を審議する者が、質的に変化すれば制度に異常が出てくるのも当然で、誰が陪審員になっても妥当な判決が出ると期待するのは間違いだ。イギリス人が自国の慣習法であるコモン・ロー(common law)や立憲君主政(constitutional monarchy)に自信を持ったのは、国家の支柱を勝手気ままな世襲貴族や単細胞の労働者でなく、知識と胆力に優れたジェントリー(gentry / 紳士)と荘園の地主で地元の名士たるスクワイアー(squire / 郷士は元々騎士の従者)が担ったからである。陪審員制度は「同等の者による判断」が基本となっているが、出自や教養、階級、文化、信仰、民族がバラバラなアメリカで実践すれば、そのメリットはデメリットに変化しかねない。場合によっては、却って混乱を招くこともある。健全な精神が健全な肉体に宿るように、妥当な裁判は、健全な審判に基づく。

  確かに、紳士や郷士と呼ばれイギリス人でも、完全無欠の判事じゃないだろう。彼らは物理学や生物学、医学、工学の専門家とは言えないが、一般のイギリス人はこのような名士が下す判断に信頼を置いている。なぜなら、イギリス紳士が検討して下した判決なら、おおよそ妥当で理に適っている、と言えるからだ。もちろん、法廷に招かれた法理学者や哲学者が難解な専門用語を使えば、1人のイギリス人を言いくるめることは出来よう。だが、12名の紳士を纏めて騙すことは出来ない。これが伝統的なイギリス人の矜持で、社会全般に染み渡った信念だ。

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(左 : ヴィクトリア朝時代における英国の法廷 / 右 : 現代アメリカの法廷に出席する陪審員)

 こうした前提を踏まえた上で、現在のアメリカ合衆国を観てみれば、法廷に呼ばれる陪審員には眉を顰めたくなる人物が多い。なぜなら、選出された陪審員の思想や教養、資質、能力などは謎だらけで、「公平な判断を下せるのか?」、「事件を正確に理解することが出来るのか?」、「被告や原告に対する贔屓や偏見は無いのか?」といった点が疑問になってくるからだ。特に、シカゴやニューヨーク、ボルティモア、ワシントンD.C.、サンフランシスコ、ロサンジェルスといった都市部では、選ばれる者にリベラル派の民衆党員が多いし、学識や知能で劣る黒人や南米人、西歐人とは違った価値観を持つアジア人、最近では中東アジアや北アフリカ出身のムスリム移民、および帰化人の子孫など、西歐系白人とは懸け離れた公民が少なくない。左巻きのユダヤ人が、「ヘイト・クライム事件」の陪審員になったら最悪だ。

  こうした非アングロ・ケルト系の国民、つまり西歐文化に属さない有色人種のアメリカ人は、イギリスの伝統文化やイギリス人的気質を受け継いでいるとは思えない。確かに、非西歐系のアメリカ人でも、学校の勉強や世間との交流を通して、イギリス人的価値観や遵法精神を共有することは出来よう。だが、大半のアメリカ人は家庭の躾で人格が形成されるから、親の価値観や信仰などで善悪の判断をする。それゆえ、躾の悪い家庭で育てば、アングロ・サクソン人の倫理道徳から外れた不良が、続々と輩出されることになるだろう。

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(左 : 白人だけの陪審員裁判 / 右 : 黒人差別が緩和された時代の陪審員選出 )

  これは「人種差別」になってしまうから、西歐系のアメリカ白人は口にしないけど、下層階級の黒人家庭では、“お行儀の悪い”子供が多い。黒人の悪ガキどもは、人前でも平気で四文字言葉(卑猥な表現)を口にするし、激情に駆られた行動を取ってしまう。不法入国の親を持つヒスパニックの子供も似たり寄ったりで、嘘や不正に対する抵抗感が驚くほど少ない。貧しい家庭の若者だと、イカサマをしてもいいから、得をしたいと考えてしまうのだ。アジア系の子供は複雑で、家庭の躾が良くても、“真のアメリカ人”には中々なれない。支那人やベトナム人の子供は幼い頃から「チンク(Chink)」とか「グック(gook)」と呼ばれ、“疎外感”を抱きながら成長する。たとえアメリカで生まれ育っても、自分を「本当のアメリカ」とは思えないし、学校で米国史を習っても、それは「自国史」ではなく「外国史」のままである。

  政治学者のサミュエル・ハンチントン(Samuel P. Huntington)や歴史家のデイヴィッド・ハケット・フィッシャー(David Hackett Fischer)は、西歐文明に属するアメリカ合衆国を強調していた。左翼陣営からは「右翼」と称されるサミュエル・フランシスやケヴィン・マクドナルドも、アングロ・サクソン文化を根底とするアメリカ社会を主張しており、密かに賛同するアメリカ白人は意外と多い。今にちのアメリカでは、「ズル文化(cheating culture)」が社会の隅々に至るまで蔓延しているが、嘗てのアメリカでは、イギリス人や入植者達が尊重する「フェア・プレー(fair play)」の精神が活きていた。ところが、異質な移民の大量流入で、イギリス的國體が大きく変わる事態が生じてしまった。今では、ロー・スクールに通って弁護士を目指す若者は、“発見される法(jus)”すなわち“古来からの法(ancient law)”ではなく、如何にして“法の抜け穴(loophole)”を見つけるか、に躍起となっている。

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(左 : サミュエル・ハンチントン / デイヴィッド・ハケット・フィッシャー / サミュエル・フランシス / 右 : ケヴィン・マクドナルド )

  大企業の顧問弁護士やロビイストになった元学生は、どんな“制定法(legislation)”を作れば最大の利益を得ることが出来るのかを考えているんだから、大学は「法の番人」じゃなく「法の匪賊」を養成しているようなものだ。彼らにとっては、目に見える利益とならない「フェア・プレー」なんかどうでもいい。高額報酬をもたらすテクニックの方に関心がある。損益をもたらしかねない「フェア・プレー精神」なんかは有害で、そんなのは真っ平御免だ。現実のアメリカでは、ビル&ヒラリー・クリントン夫妻のように、悪徳弁護士になって権力者の地位に登り詰めるのが“アメリカン・ドリーム”となっている。また、政界と財界を股に掛けて大富豪になったら、家族経営の「財団」を拵えて、節税(脱税)と蓄財(瀆職)に励むのが定番となっている。

  日本人でもよく耳にする、この「フェア・プレー」という言葉は、なかなか翻訳しづらい用語である。一応、フランス語やドイツ語、イタリア語、スペイン語に訳せるが、微妙なところが伝わらないから、イギリス人は翻訳を諦めるそうだ。各民族には特有の言葉や言い回しがある。例えば、ドイツ人が言う「ゲミュートリッヒカイト(Gemütlichkeit)」は翻訳すことが難しく、強いて訳せば「人柄の良さ」とか「軽快、愉快さ」と言えるが、いまいちピンとこない。我々が普段口にする「しぶい」とか「かわいい」「こころ」も同じで、こういった日本語は英訳しても意味が曖昧のままだ。

  ある民族の言葉が別の民族の語彙にあっても、その意味や行動様式は各国で異なる。東歐人や南歐人は一般的に「フェア(公平・潔い)」を尊ぶ民族じゃないから、「チョロマカシ」の方が普通である。ケニアやウガンダの黒人は、たとえイギリス語で教育されても、その精神はアフリカ人のままであるから、「フェア・プレー」と聞いても、イギリス人のようには反応しないだろう。

  暗黒大陸に住む支那は、もっと絶望的だ。そもそも彼らには「公正意識」自体が存在しないのだ。支那人の教育では、詐欺師をも騙せるくらい狡猾になるのが勉学の神髄となっている。あの犯罪大国で馬鹿正直に規則を守ったら、どんな酷い目に遭うのか判らない。だから、フェア・プレーなんて自殺行為と同じだ。法律も朝令暮改が普通で、社会正義を貫くためのルールじゃない。他人を蹴落とすための方便というのが相場だ。支那人の子供は幼い頃から、「約束は破るためにある」「騙される方が悪い」「馬鹿を装って相手を油断させろ」といった薫陶を受けているので、二枚舌どころか百枚舌が当たり前となっている。これだから、シナ大陸に進出した日系企業は、洟(はな)垂れ小僧にも騙されてしまうのだ。

Anthony Glyn 001(左 / アンソニー・グリン卿)
  「フェア・プレー」については、有名なイギリス人作家のアンソニー・グリン卿(Sir Anthony Glyn)が述べている。小説や随筆を書いたアンソニー卿は、二代目のダヴソン準男爵(2 nd Baronet Davson)で、本名は「アンソニー・ジェフリー・レオ・サイモン・ダヴソン(Anthony Geoffrey Leo Simon Davson)」という。「グリン」というペンネームは祖母の家族名から借りたそうだ。彼は名門のパブリックスクールに通い、母校のイートン(Eaton)を卒業すると、軍人の道を歩いたそうだ。彼はウェイルズの連隊を率いる陸軍大尉にまでなった。

  アンソニー卿は『ブリテン人の血(The Blood of a Britishman)』という随筆本の中で、「フェア・プレー」について語っていた。この言葉は、「ブリテン人の子供達が何処でも、すなわち、アスコットにある授業料が高くて優等生が集まる寄宿舎学校から、大都会にある地元の小学校に至るまで、常に繰り返して口にする言葉である。教室に、廊下に、運動場あるいは遊技場で、この言葉が木霊(こだま)する」*そうである。

  *註/ Anthony Glyn, The British : Portrait of a People, (New York : Putnam's Sons), 1970 , pp.204-205. ちなみに、英国版では『The Blood of a Britishman』という書名となっている。また、一般的に「ブリテン人」と言えば、イギリス人やスコット人、アイリス人、ウェイルズ人を含めた総称で、日本人が思い描く「イギリス人」とは限らない。ついでに言うと、筆者は形容詞の「イギリス」を固有名詞(国名)として使わないことにしている。なぜなら、所謂「英国」は、「イングランド」か「ブリテン連合王国」と呼んだ方が適切と思っているからだ。

  専制支配に馴れた民族と違い、ブリテン人は「法による統治(rule of law)」を尊ぶ。なぜなら、人間の支配に屈すると、いつ何をされるのか前もって判らないからだ。歴史を通して形成され、知性による設計物でない慣習法は、王侯貴族や貧乏人を問わず、誰に対してもほぼ公平で、恣意的な動きが無い。もし、あることをすれば罰せられると誰にでも解っていれば、庶民はそれに抵触せぬよう注意して生活するだろう。だが、近代では左翼の「人定法(positive law)」が流行し、無理筋の法律が議会で可決されている。つまり、議員を操る官僚や富豪が「立法(legislation)」を利用して、自らの利益を謀っているということだ。(lawと legislationについては別の機会で説明したい。)

  独裁者のもとで暮らす庶民は、いつ暴君の気まぐれで処罰されるか判らないから不安だ。たとえ法文が明記されていても、勅任判事が法の解釈を変えれば、国民の生命や財産は危うくなる。支配者から寵愛される者が無罪となり、邪魔者が屁理屈で有罪となれば、法があっても無法地帯と変わりがないだろう。だから、法が君主であれば安心だ。イングランドでは国王といえども法のもとにある。しかも、国王は武力を持つ貴族に支えられ、古来からの慣習に縛られるから、君民の契りを無視して勝手な振る舞いをすれば、側近の公爵とか伯爵の叛逆を招く。民族や宮廷の「しきたり」というのは実に根強い。

  チューダー朝やスチュアート朝の君主は高圧的であったが、教科書で言われているような「絶対君主」じゃなかった。もし国王がコモン・ローや王国の伝統、すなわちイングランドの國體(constitution)を無視すれば、紳士や商人の強い反対に遭ってしまい、翼をもがれた鷲のようになってしまう。王権神授説にこだわったチャールス1世は、議会に兵隊を差し向けたからプロテスタントの諸派を激怒させてしまい、最終的に斬首刑となってしまった。アンソニー卿によると、ブリテンでは天主(God)でさえ、誠心誠意、フェアに振る舞うことが要求されるという。(上掲書、p.205.)

  ギリシア神話だと、不正をはたらく神様は珍しくないが、ズルをする神様なんてブリテン人では考えられない。偉い神様だってルールに従うべし、というのがブリテン人の常識だ。それゆえ、ブリテン人がフランス流の「朕は国家なり(L'État c'est moi.」という言葉を聞けば虫唾が走るそうだ。(上掲書、p.207.)一方、フランス人は矢鱈とデモクラシーを強調するが、その国家が繁栄するのは絶大な権力を持つ国王が君臨する時、というから面白い。例えば、「アウグストス」と呼ばれたフィリップ2世(Philippe Auguste)、法律顧問(レジスト)を従えてローマ教皇に対抗した「美王」のフィリップ4世(Philippe le Bel)、「太陽王(le Roi Soleil)」で有名なルイ14世、フランスの「偉大さ(grandeur)」を口癖にしたシャルル・ド=ゴール大統領。これに加え、皇帝になった独裁者のナポレオン・ボナパルトを挙げれば判るだろう。

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(左 : フィリップ・オーギュスト / 美王フィリップ4世  / 太陽王のルイ14世  /  右 : シャルル・ド=ゴール将軍 )

  話を戻す。現代のアメリカ国民が大学や高校、中学で、どんな哲学や法学、歴史の授業を受けているのか正確に分からない。だが、アフリカ系やヒスパニック系、アジア系の陪審員が「フェア・プレーの精神で日常生活を送っているのか?」と言えば甚だ怪しい。英国のクリケットに興じるパキ人だって、私生活は別物かも知れないぞ。ブリテンに住むジャマイカ人やアラブ人だって、どれくらいアングロ・サクソン化されているのか判らないから、NYに住む黒人や南米人ともなれば更に疑問である。ブルックリンやハーレムの黒人なんかは、不正行為を屁とも思わない奴らだから、公平無私の精神でトランプ前大統領を吟味したとは思えない。アンソリー・グリン卿は「フェア・プレー」について、以下のように述べている。

  ブリテン人はユーモアのセンスを誇るが、それと同じくらいフェア・プレーの精神を自慢している。これはブリテンの国民性を形成する神髄の一つというもので、ブリテン人が世界中の政治思想や統治制度に貢献できたのも、この確信、すなわち公平な精神を知る国民は、おおよそ何事についても正しく判断できるという信念の故であった。プラトンが言う賢明な支配者とか、偉大なる立法者などという理想は、決してブリテン人には馴染まない。それよりも、庶民かせ有する智慧の方がよっぽど信用できるし、長い目で見れば、こちらの方が遙かに健全だ。国王と協議するために各都市から招集された二名の都市公民の方が、大司教や大法官よりも優れた助言をする。世界中にある議会は、こうした素朴な発想から誕生したものだ。おそらく、十二人の善良な国民の方が、知識人で経験豊富な裁判官よりも、公平な判断を下せると期待できよう。また、世界中にある陪審員制度もこのシンプルな考えから生まれたものである。普通の人が持つ常識(common sense)や慣習法(common law)への信頼は、決して揺らぐことはない。(上掲書、p.211.)

  一般的に、アメリカは法治社会で、何かトラブルが起これば、即、裁判沙汰になるという。例えば、会社勤めの男性が、女子社員にちょっと卑猥な冗談を言えば、直ちに「セクハラ事件」となってしまうから、アメリカ人は普段の生活でも気が抜けないし、地雷を避けながら勤務しているようなものだ。

  しかし、こうした訴訟社会には遣り手の弁護士が現れる。「三百代言」と呼ばれるインテリ吸血鬼は、法外な手数料を要求する代わりに、誰も気づかなかった法の抜け穴を発見し、僅かな網の目をマンホールくらいに拡大する。有能な弁護士は、様々な判例を持ち出して罪を軽くすることも出来るし、時には証拠や証人を貶して無罪を勝ち取ることもある。アメリカでは狡猾で優秀な者が大金を稼ぐ。20代でも億単位の報酬が転がり込んでくるので、賢い大学生は3K職場の軍隊に入らず、ロー・スクーに駆け込んでしまうのだ。昔、米国での営業経験を持つ「ソニー(Sony)」の盛田昭夫(もりた・あきお)会長は、「優秀な学生が地道な製造業に行かず、一攫千金の弁護士を目指してしまう」と述べていた。

  大陪審で選ばれた者が、如何なる人物で、どのような思想の持ち主か判らない。また、彼らがどのような書状を読んで起訴を決めたのか、その理由も明らかではないから、トランプ裁判の行方は今のところ手探り状態だ。しかし、今回のイチャモン裁判は、まともなアメリカ国民、すなわち憲法を重視する国民が肯定する審議じゃない。トランプ支持派が言うように「魔女狩り(witch hunt)」の類いだ。つまり、最初からトランプを有罪にするために仕組まれた茶番劇という側面が強い。

  とにかく、現在のアメリカ合衆国は共産党が存在しない全体主義国のようだ。選出される政治家が操り人形で、彼らのスポンサーが黒幕となり、ワシントンの政治を実質的に牛耳っている。だいたい、社会の公正を守るはずの法が、政治の道具にされているんだから、カタギのアメリカ白人は、建国の父祖と一緒に泣きたくなるだろう。ジョージ・ワシントンやトマス・ジェファソンだけじゃなく、憲法制定に携わったジェイムズ・マディソンやジョン・ジェイ、アレグザンダー・ハミルトンも墓場の中で失望しているはずだ。歴史好きのアメリカ人なら、「東ローマ帝國(ビザンツ帝國)の滅亡を連想させる共和国の衰退だ」、と嘆くんじゃないか?
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