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黒田基樹『お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像』

1:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/25 (Sat) 08:49:20

雑記帳
2023年03月25日
黒田基樹『お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像』
https://sicambre.seesaa.net/article/202303article_25.html


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 朝日新書の一冊として、朝日新聞社より2023年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。徳川家康を主人公とする今年(2023年)の大河ドラマ『どうする家康』でも恐らくは重要人物として登場しているだろうお市の方について、正直なところさほど関心が高かったわけではありませんが、私にとって著者は、西洋史の本村凌二氏および東洋史の岡本隆司氏とともに、著者買いしている歴史学の研究者なので(著者は他にも多数一般向けの本を執筆しているので、半分どころか1/3も読めていないでしょうが)、その信頼感から読んでみました。

 現在確認されている当時の史料でお市の方の生前にその名を記しているのは1点だけで、改めて前近代において女性が男性と比較して圧倒的に史料に残りにくかったことを痛感します。その史料は1582年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)9月11日に京都の妙心寺で開催された織田信長の百日忌法要のさいのもので、「大功徳主某信女」とあります。お市の方の死去(1583年4月24日)からほぼ半年後に作成された「柴田合戦記」では、お市の方は「小谷の御方」と記されています。

 お市の方の本名とされる「市」は、同時代もしくは近い時期の史料ではまだ確認されていません。ただ、お市の方の次女である初(常高院)に養育された京極家の家臣の川崎正利の孫で、江戸城大奥の老女(大年寄)だった渓心院の覚書の写本(成立は1676~1695年頃)では、「いち」とされており、これも含めて他の史料から、お市の方は織田信長の妹だった、と確認されます。お市の方の名前の「いち」が漢字で「市」なのか、確証はありませんが、早いものでは江戸時代前期末の史料に「市」とあります。

 お市の方の年齢に言及している史料は「柴田勝家公始末記」だけで、1547年生まれとなりますが、本書は信用性にやや疑問を呈しています。お市の方と浅井長政との結婚時期について、江戸時代の史料でも1559年と1561年と1564年と1568年があり、戦後には1563年と1567年が別に提示され、確定していません。本書は、和田惟政書状から、お市の方と浅井長政との結婚は1567年と推定しています。お市の方の子供がいつ生まれたのかも議論がありましたが、長女の茶々(淀殿)は1569年、次女の初は1571年、三女の江は1573年生まれと確定しています。浅井長政の長男の万福丸の成年は『信長公記』から1564年とされており、お市の方の実子ではなかったことになりますが、嫡男とされているので、お市の方と養子縁組した、と本書は推測します。お市の方が1547年生まれとすると、結婚は21歳、第一子出産が23歳となり、当時としては遅いので、お市の方は再婚だった、とも推測されていました。本書は他の戦国大名の事例から、お市の方の成年は1550年頃と推定しています。お市の方は織田信秀の娘の中でも最年少で、結婚適齢期には信長が国外勢力との外交関係を積極的に展開するようになっていたので、国外勢力の浅井長政と結婚したのだろう、と本書は推測します。

 お市の方の母は不明ですが、信長の母(報春院)とは別人だろう、と本書は推測します。織田信秀は1552年3月3日に死去したので、当時3歳だったお市の方は異母兄の信長の庇護下で育ったと考えられます。上述のようにお市の方は1567年に浅井長政と結婚しますが、江戸時代の史料には、お市の方が信長の養女として浅井長政に嫁いだ、とするものもあります。本書は、信長の嫡出子とされていた信雄や五徳が存命だったにも関わらず、信長の百日忌法要をお市の方が主催したことなどから、お市の方は単なる信長の庶出の妹ではなく、養女だった可能性は高いものの、そうではなかったとしても、報春院と養子縁組して嫡出子の立場になっていた可能性がある、と推測します。

 お市の方が嫁いだ近江の浅井家は、京極家を擁立しつつ六角家に従属する国衆で、浅井長政は六角家の家臣(平井定武)の娘を妻としていましたが、妻と離縁して六角家から離反し、六角家が美濃の一色(斎藤)家と結んだため、その対抗として越前の朝倉家と結びます。この関係は対等ではなく、明らかに朝倉家が上位で、浅井家は朝倉家に従属しており、長政の長男の万福丸は朝倉家の本拠の一乗谷に人質として居住していました。本書は、1561年には浅井家は朝倉家に従属していた、と推測しています。長政が朝倉家に従属しながら織田信長と同盟を結んだのは、織田家が美濃を制圧して隣接する政治勢力となり、六角家に対抗するためだろう、と本書は推測します。同盟を結んだ時点での力関係から、織田家は浅井家に対して上位にあり、信長が足利義昭を奉じて上洛したさいに長政も動員されたことから、長政が信長に従属している、と信長も長政も認識していただろう、と本書は推測します。戦国大名領国の境目地域の国衆が、互いに友好関係にある上位の戦国大名2家に従属することは、当時珍しくありませんでした。ただ、織田家と浅倉家との間に直接的な友好関係は成立しておらず、あくまでも足利義昭を通じての関係でしかありませんでした。

 1570年1月に信長は朝倉義景に上洛を命じ、事実上従属を迫り、同年4月には朝倉家に従属する若狭の敦賀武藤家討伐を名目に出兵し、越前へと進軍し、織田家と朝倉家は敵対関係に陥ります。ここで長政は織田家と朝倉家のどちらを選択するのか迫られ、直ちに織田家と将軍家から離反し、朝倉家への支援を決めます。こうして浅井家と織田家は敵対関係となりますが、当時、実家と婚家が敵対関係になったからといって、女性が離婚することはほとんどなく、お市の方がこの時点で離婚しなかったのはとくに不思議ではなく、むしろ敵対関係になったからこそ、婚姻関係による交渉が機能した、と本書は指摘します。この時、お市の方が信長に両端を縛った小豆袋を送り、長政の離反を知らせた、との有名な逸話がありますが、これは江戸時代半ば以降の史料に見え、当時の慣習や観念からも疑わしい、と本書は指摘します。

 1573年8月、朝倉家が織田家に滅ぼされ、孤立無援となった浅井家は、長政の父の久政が同月29日、長政が翌月1日に自害し、滅亡します。お市の方は3人の娘とともに小谷城から退去し、実家の庇護を受けることになります。本書は「渓心院文」から、お市の方は婚家に殉ずるつもりだったものの、長政に説得されて退去したのだろう、と推測します。本書の推定では、この時点でお市の方は24歳です。この頃のお市の方の動向に言及している同時代の史料は確認されておらず、本書は後世の史料から、まず叔父の織田信次に引き取られ、信次が1574年に戦死した後は、信長の庇護を受けて岐阜城に居住した、と推測します。

 1582年6月2日の本能寺の変で明智光秀の謀叛により信長とすでに家督を譲られていた信忠が死亡し、光秀が羽柴秀吉などに討たれた後に開かれたに同月27日に清須城で開かれた織田家重臣の会議の結果、お市の方は重臣の柴田勝家と結婚することになります。この時、勝家は長浜を領地としますが、これは、「小谷の御方」と称されたお市の方が旧小谷領の名目的な継承者と考えられていたからではないか、と本書は推測します。前田利家の家老だった村井長頼の子の村井重頼(1582~1644)による晩年の頃と思われる覚書と、江戸時代中期頃の成立と考えられる「祖父物語」では、羽柴秀吉と柴田勝家がともにお市の方に想いを寄せており、織田信孝の計らいでお市の方は勝家と結婚した、といったことが記されています。本書は、これを江戸時代の低俗な憶測と指摘し、勝家とお市の方との結婚は、勝家と織田一族との姻戚関係を形成するためではないか、と推測します。「清須会議」はじっさいには、柴田勝家と羽柴秀吉と惟住(丹羽)長秀の有力3家老による協議で、秀吉が信長の五男(秀勝)を養嗣子とし、長秀が信長の庶兄である信広の娘を妻にして、嫡男の長重は信長の娘(報恩院殿)を妻としていたのに対して、勝家は織田一族との姻戚関係がなく、秀勝より下の信長の息子はまだ元服前で、信長の未婚の娘は結婚年齢に達しておらず、信長の妹ではお市の方が最も若くまだ33歳だった、というわけです。

 お市の方が上述の信長の百日忌法要を主催したのは、信孝と秀吉の対立が深まり、勝家も秀吉を警戒するようになって、秀吉への対抗心を強めていき、お市の方が夫に協力したからだろう、と本書は推測します。秀吉が1582年10月15日に、養嗣子の秀勝を喪主として、勝家抜きで信長の葬儀を執行したことから、勝家と秀吉の対立は決定的となります。織田家当主の三法師(織田秀信)は信孝に庇護されており、勝家は信孝と結んでいたので、織田家中で優勢に立っていた秀吉には名分が欠けていました。そこで秀吉は、長秀や池田恒興と結んで、信雄を三法師に替えて当主とします。勝家と秀吉は1582年11月2日に一旦和睦しますが、翌月には抗争が開始され、秀吉は信孝を岐阜城に攻め、信孝は秀吉に三法師を引き渡し、人質を差し出します。この間、雪のため勝家は秀吉の侵攻に対応できませんでした。

 年が明けて1583年1月、信孝・勝家と通じて北伊勢の滝川一益が挙兵し、これに対処すべく秀吉が翌月10日に北伊勢に侵攻すると、勝家が同月28日に近江北部へ先鋒を出陣させ、1583年3月には勝家と秀吉が北近江で対峙します。そこへ、翌月に岐阜城の信孝が勝家に呼応して挙兵し、秀吉が岐阜城へと向かったところ、同月20日に勝家は賤ヶ岳の羽柴軍を攻撃しますが、秀吉は翌日には引き返して柴田軍に勝利します(賤ヶ岳合戦)。勝家は本拠の北庄城まで敗走し、助命嘆願も受け入れられなかったことから死を覚悟して、お市の方に退去するよう命じた、と「柴田合戦記」にあります。上述のように、お市の方は浅井家滅亡のさい、婚家に殉ずるつもりだったものの、夫の長政に説得されて退去しており、これを悔いていたようなので、娘3人を秀吉に引き渡し、夫の勝家に殉じました(1583年4月24日)。お市の方の3人の娘が勝家に殉じなかったのは、勝家と養子縁組を結んでおらず、浅井長政の娘として認識されていたからだろう、と本書は推測します。お市の方は美人だった、との認識が現代日本では一般化していますが、「渓心院文」から、お市の方は当時より美人と認識されていただろう、と本書は指摘します。

 お市の方の長女の茶々は羽柴秀吉の別妻となり、2人の息子(鶴丸と秀頼)を産みました。秀吉の正妻は寧々(高台院)で、別妻として、茶々と松の丸殿(京極高次の妹)・三の丸殿(織田信長の娘)・加賀殿(前田利家の娘)の少なくとも4人がいましたが、茶々は妊娠した点で他の別妻とは異なる格別な存在だった、と本書は指摘します。茶々のみが秀吉の子供を産んだことから、実父は秀吉ではない、との憶測が古くから根強くありますが、本書は、徳川家康の次男(結城秀康)や徳川秀忠の四男(保科正之)が当初は子供と認知されなかったように、子供としての認知について正妻の承認権は強く、寧々は茶々にのみ秀吉の子供を産むことを認めた、と本書は指摘します。茶々が秀吉の別妻となった時点で、すでに松の丸殿と加賀殿は秀吉の別妻になっていたと考えられますが、秀吉の嫡男の母親として、他の大名家と同格の京極家や前田家の出身者は相応しくなく、織田一族の茶々ならば相応しいと考えられた、というわけです。この問題については、本書の見解に直ちに納得できたわけではないので、今後も関連書籍を読んで考えていくつもりです。


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