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完新世における人類の拡散 _ 農耕と言語はどのように拡大したのか

1:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/12 (Sun) 07:37:32

雑記帳
2023年03月12日
古代ゲノム研究に基づく完新世における人類の拡散
https://sicambre.seesaa.net/article/202303article_12.html

 古代ゲノム研究に基づく完新世における人類の拡散に関する概説(Stoneking et al., 2023)が公表されました。本論文は、『米国科学アカデミー紀要(Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America、略してPNAS)』120巻4号の過去12000年間(ほぼ完新世に相当します)の人類の進化に関する特集(関連記事)に掲載されました。本論文は、完新世における人類拡散の歴史を把握するのにたいへん有益だと思います。以下、敬称は省略します。



◎要約

 20年近く前、ジャレド・ダイアモンド(Jared Mason Diamond)とピーター・ベルウッド(Peter Bellwood)は、農耕民の人口拡大による農耕と大語族の関連する拡大についての証拠を再検討しました。それ以来、現代および古代の人口集団からのゲノムデータの取得と分析における進歩は、完新世におけるヒト拡散の知識を一変させました。本論文は、ゲノムの証拠に照らして完新世の拡散の概観を提供し、それが複雑な歴史だった、と結論づけます。人々の人口拡大と農耕の普及と特定の語族の普及の間のつながりが論証される場合でさえ、拡大集団と居住集団との間の接触結果はひじょうに多様です。この差異と複雑な歴史に影響を及ぼした要因と社会的環境の特定には、さらなる研究が必要です。



◎前書き

 植物の栽培化と動物の家畜化はヒトの進化における重要な発展で、それは、前例のない水準での人口増加と拡大や、感染症の負担を大きく増加させたからです。さまざまな動植物がいくつかの場所で個別に家畜化・栽培化され、それは完新世の開始となる11000~9000年前頃にはじまりました。狩猟採集から農耕への生活様式の移行は新石器時代として知られており、考古学的調査は農耕の起源と拡大を記録してきました。同様に、言語学者はこうだいな地理的領域にわたって拡大した語族を記録してきており、たとえば、バントゥー諸語【これまで当ブログでは「バンツー語族」と表記してきましたが、ピーター・ベルウッド『農耕起源の人類史』(京都大学学術出版会、2008年、原書の刊行は2005年)など日本語の専門書に倣って、今後は「バントゥー諸語」と表記します】やオーストロネシア語族やインド・ヨーロッパ(IE)語族です。これらの考古学的および言語学的調査は、これら大語族の拡大は農耕の拡大により促進された、との提案につながりました。

 重要な問題は、農耕と言語がどのように拡大したのか、ということです。それは自身の生活と言語をもたらした農耕民の移住によるものだったか(つまり、人口拡散)、あるいは近隣の農耕民から農耕と言語を採用した在来の狩猟採集民集団経由(つまり、文化拡散)でしたか?その答えが人口拡散の場合、在来の狩猟採集民集団の運命はどうなりましたか?在来の狩猟採集民集団は完全に置換されたのか、あるいは、少なくとも部分的には拡大する農耕民集団に同化したのでしょうか?考古学と骨格形態学と言語学に基づくさまざまな主張がこの問題に取り組んできましたが、最終的には、これは遺伝学の問題です。

 元々の農耕集団の故地を特定でき、これらの人々が拡大した領域の集団とは遺伝的に異なっていた、と仮定すると、次に遺伝学的調査が、現代人集団が農耕民に由来する祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)と先住民(農耕前)の祖先系統をどの程度有しているのか、明らかにできます。本論文では、「祖先系統」という用語が、人口集団への遺伝的寄与を一般的に指すために用いられ、「祖先系統」という用語に関する議論と誤用の問題は先行研究(関連記事1および関連記事2)で検討されています。ヨーロッパ全域における農耕とIE語族の拡大における文化拡大対人口拡大の役割に関する、カヴァッリ=スフォルツァ(Luigi Luca Cavalli-Sforza)とその同僚の独創性に富んだ研究に始まり、遺伝学的調査は、農耕および/もしくは語族の拡大についての同じ問題への取り組みに用いられてきました。

 しかし、遺伝学的調査には複雑さが伴いまするダイアモンドとベルウッドによってより詳細に議論されたように、これらは拡大する農耕民と狩猟採集民との間の連続変異的な混合を含んでおり、拡大の周辺に向かって農耕民の遺伝的寄与の減少をもたらします。一部の狩猟採集民集団は、文化的拡散により農耕を採用しました。農耕民が狩猟および採集に戻ることもあり、たとえば、農耕民が持ち込んだ家畜や栽培植物に適さない地域に入った場合です。拡大する人口集団からの遺伝子の取り込みが殆どないか全くなしの、居住集団による言語変化もあります。拡大後に、故地において農耕民により話されていた元々の言語の置換もあり、遺伝子と言語との間の不一致につながります。狩猟採集民の拡大もありました。追加の複雑化要因は、植民、および在来集団への関連する遺伝学と人口統計学と領域の影響です。そうした複雑さを考慮に入れられないと、農耕および/もしくは言語の拡大において、人口拡散と文化拡散の過程の役割に関して誤った結論につながります。

 本論文は、世界のさまざまな地理的地域の完新世におけるヒトの拡散についてゲノムの証拠を調べ、農耕と関連する提案された拡大に焦点を当てます。ダイアモンドとベルウッドの調査以降の20年近くのゲノム規模データの取得と分析の発展、とくに古代DNA解析の進歩は、そうした拡散と上述のさまざまな複雑化要因への新たな洞察を提供しつつあります。この展望の空間的制約を考えると、全ての拡散もしくは関連する文献を含められません。代わりに、本論文が主張したい点について最も重要な/興味深い拡散事象と考えられるものに焦点が当てられます。これらの拡散の地図は補足データで提供されますが、地図上の矢印は一般的に、データが実際に裏づけるよりも、拡大の経路について遥かに確実だと示唆していることに要注意です。



◎アフリカ

 化石と遺伝学と考古学の証拠は全て、現生人類(Homo sapiens)のアフリカ起源を強く支持します。ひじょうに深い人口集団の関係を、依然として現在のアフリカの狩猟採集民で見ることができますが、食料生産集団の拡大を反映する、広範な地域にわたる高水準の遺伝的均質性もあります(関連記事)。アジア南西部(中東)からの家畜化された動物は、まずアフリカ北部へと8000年前頃に広がり、じょじょに南進し、アフリカ東部に5000年前頃、アフリカ南部には2000年前頃に拡散しました(関連記事)。アフリカ西部とスーダン東部とエチオピア高地では、4000年前頃に始まる作物栽培のいくつかの中心地があったようです。以下は、完新世のアフリカにおける人類の拡散を示した補足図1です。
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●アフリカ北部および東部への牧畜/農耕の拡大

 アフリカ北部および東部における食料生産の拡大と関連する人口統計学的変化の可能性は、これらの地域から得られた古代DNAの利用可能性により大きく明らかになりました。サハラ砂漠以南のアフリカ祖先系統に加えて、15000年前頃までに、アフリカ北部の人々は近東祖先系統も有しており、アフリカへの逆遺伝子流動は牧畜もしくは農耕の導入に先行する、と示唆されます(関連記事)。新石器時代の前の祖先系統は前期新石器時代集団(7000年前頃)において継続していますが、後期新石器時代のアフリカ北部の人々(5000年前頃)は、イベリア半島から追加の遺伝子流動を受け取りました(関連記事)。したがって、新石器時代への移行は文化拡散と人口拡散の両方を含んでいたようですが、この広大な地域からのさらなる古代ゲノムが必要です。

 アフリカ東部では、得られた最初の古代ゲノム(4500年前頃)はユーラシア祖先系統の痕跡を明らかにしませんでしたが、中東の前期新石器時代農耕民と密接に関連する人口集団からアフリカ東部へのその後のユーラシアからの遺伝子流動の存在が確証され(関連記事)、これは以前には、現在の人口集団に基づいて特定され、3000年前頃と年代測定されました。後期石器時代と牧畜新石器時代と鉄器時代のアフリカ東部人41個体の最近の研究(関連記事)は、さらに2段階の混合を推測しました。それは、非アフリカ人遺伝的祖先系統(レヴァントもしくはアフリカ北部の集団と関連しています)と、在来のアフリカ北東部集団との間でアフリカ北東部において6000~5000年前頃に起きた混合と、この混合集団とアフリカ東部の狩猟採集民との間で4000年前頃に起きた混合です。したがって、この研究は食料生産者の数回の移動を裏づけ、採食民との混合が一般的だったことも示します。


●バントゥー諸語の拡大

 バントゥー諸語はニジェール・コンゴ語族内で比較的均質な枝を形成しますが、アフリカの人口の約30%によりサハラ砂漠以南のアフリカの大半で話されています。これらの言語の起源(最高の言語学的多様性と初期の分岐枝が見られるナイジェリア東部とカメルーン西部の境界周辺のグラスフィールド地域において)は、いくつかの農耕家畜化が起きた場所に大まかには位置していますが、バントゥー諸語拡大の最初の契機(5000~4000年前頃)は、農耕自体ではなく、アフリカ西部中央部における熱帯雨林の気候により起きた縮小だったかもしれません。バントゥー諸語拡大の初期段階は、土器および混合生計経済と関連しており、いくつかの動植物の家畜化と栽培化および鉄がその後の段階で組み込まれました。この拡大は比較的急速で、アフリカ南部に1800年前頃までに到達しました。

 遺伝学的研究は、アフリカ大陸の遠く離れた地域のバントゥー諸語話者集団が、人口拡大について予測されるように、類似の遺伝的特性と顕著な遺伝的均質性を示すものの、他の言語を話すその近い地理的隣人はより高水準の分化を示す、と論証してきました。バントゥー諸語話者集団の祖先系統はほぼアフリカ西部に由来しますが、バントゥー諸語話者がナイル・サハラ語族やアフロ・アジア語族話者集団と接触したアフリカ中央部熱帯雨林やカラハリ砂漠やアフリカ東部など、狩猟採集民が依然として居住する地域では例外があります。

 遺伝学的証拠は、バントゥー諸語話者集団の拡大経路にも情報をもたらし、バントゥー諸語が熱帯雨林を通った後にアフリカの東部と南部に向かって2つの移住経路に分岐する、「後期分岐」モデルが現在利用可能なデータを最良に説明する、と示します(関連記事)。そしてインド洋沿岸では、遺伝学的結果は、モザンビークやマラウイ(関連記事)の居住人口集団との最小限の混合を含むか混合を全く含まない、南北の拡散を裏づけます。

 対照的にアフリカ南部では、バントゥー諸語話者集団はかなりの量の在来の(コイサン関連)祖先系統を示し(カラハリ砂漠の採食および牧畜集団で特定されました)、コイサン諸語話者集団はかなりの量のバントゥー関連祖先系統を示しており、これらの集団間のかなりの相互作用が示唆されます。これらの相互作用は強く性別で偏っており、バントゥー諸語話者集団ではおもにコイサン関連の母系が、コイサン諸語話者集団ではおもにバントゥー関連の父系が見られます。さらに、性別の偏りの強度はアフリカ南部において北方から南方にかけて増加し、集団間の接触に影響を及ぼす変化する社会的状況が示唆されます。

 アフリカ西部では、考古学的および遺伝学的証拠から、バントゥー諸語の拡大は単一の人口拡大ではなく、むしろ複数の拡大段階により特徴づけられ、コンゴの熱帯雨林における1600~1400年前頃と推測されている人口崩壊を伴っていた、と示唆されます。西方バントゥー諸語集団はアフリカ中央部熱帯雨林の狩猟採集民と広範に混合してきており、アフリカ南部のように性別の偏りの同様の兆候を示します。対照的に、熱帯雨林の南側のサバンナと草原の生息地に現在居住している集団は、おもにバントゥー関連祖先系統を有しています。


●アフリカ東部からアフリカ南部への牧畜の拡大

 考古学的証拠から、牧畜(ヒツジの飼育)はアフリカの東部から南部へと農耕到来前となる2000年前頃にもたらされた、と示唆されます。先行研究ではさらに、牧畜はアフリカ東部のサンダウェ語と関連しているかもしれないコエ・クワディ語族とともに拡大した、と提案されました。しかし、ナマ人(Nama)は現在牧畜を行なっている唯一のコエ・クワディ語族集団で、コエ・クワディ語族話者集団の生活様式におけるかなりの変化が示唆されます。

 複数の遺伝学的研究は、アフリカ南部集団において、通常は牧畜の拡大に起因するアフリカ東部関連祖先系統の痕跡を見つけてきました。しかし、コエ・クワディ語族話者集団は、せいぜい少量のアフリカ東部祖先系統を有しているにすぎず、このアフリカ東部祖先系統は他のアフリカ南部集団でも見られ、牧畜移民が在来の狩猟採集民と広範に混合し、両方向で遺伝子流動があったことを示唆します。

 古代ゲノムは以前として不足していますが、利用可能なデータは、アフリカ東部祖先系統がアフリカ南部に達し、バントゥー諸語話者集団の到来前にコイサン関連祖先系統と混合した、と示唆する現代の人口集団からの推測を確証します(関連記事)。とくに、アフリカ東部祖先系統は、2000年前頃の南アフリカ共和国で発見された狩猟採集民では欠けているものの、アフリカ西部関連祖先系統を欠いている南アフリカ共和国西ケープ州の牧畜民の状況では1200年前頃の1個体において明らかです(関連記事)。



◎ヨーロッパ

 ヨーロッパには現生人類が少なくとも45000年前頃(関連記事)には居住しており【ただ、複数の先行研究から、45000年以上前となるヨーロッパの最初期現生人類は現代ヨーロッパ人とは遺伝的に直接的つながりがほとんどない(関連記事)、と示唆されます】、ヨーロッパ全域にわたる現代人および古代人両方のDNAの広範な調査が、新石器時代への移行と草原地帯牧畜民の青銅器時代移住の影響への洞察を明らかしてきました。以下は、完新世のヨーロッパとアジア中央部および南部における人類の拡散を示した補足図2です。
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●新石器時代への移行

 ヨーロッパの新石器時代の遺跡は土器とさまざまな栽培化された植物と家畜化された動物により特徴づけられ、それは恐らく全て、アナトリア半島から近東へと広がる地域で11000年前頃に始まりました。ヨーロッパの新石器時代の起源がこの地域にあることは明らかですが、全ての側面が完全な「新石器時代一括」として到来したのか、むしろさまざまな時期および/もしくはさまざまな場所からヨーロッパを通じて拡大したのかは、議論になっています。

 新石器時代はヨーロッパでは、まず10000~9000年前頃にキプロス島とギリシアとバルカン半島に出現します。放射性炭素年代の広範な標本に基づくと、農耕は2つの主要な経路を通じて拡大した可能性が高そうです。それは、アルプス山脈の南側の地中海沿いと、アルプス山脈の北側のドナウ川回廊です。地中海に沿って、農耕の拡大はカルディウム土器(Cardial Ware)と関連しており、これは7500年前頃までにイベリア半島に到達しました。

 アルプス山脈の北側では、線形陶器(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)文化がトランスダニュービア(Transdanubian)地域からヨーロッパ中央部と西部を通って、海岸に到達する前に停止しました。約1000年後、新石器時代はブリテン諸島(恐らくは異なる侵入経路で)とスカンジナビア半島南部に到達し、スカンジナビア半島南部では新石器時代は漏斗状ビーカー文化(Trichterbecherkultu、Funnel Beaker Culture、略してTRB)土器と関連していたものの、ブリテン諸島の新石器時代にはLBKおよびTRB両要素があります。

 4800年前頃、TRB文化はスウェーデン南部および西部の考古学的記録からほぼ消え、農耕の顕著な衰退と、円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture、略してPCW)のより海洋的な狩猟経済に置換された証拠があります。小規模な農耕の証拠の痕跡はありますが、完全に農耕的な社会はその1000年後まで復活せず、1000年前頃までフィンランドを完全に占めることはありませんでした。バルト海地域とウクライナとヨーロッパ東部平原では、新石器時代の祭祀よの拡大は農耕ではなく土器と関連しており、農耕はこれらの地域では7000~5000年前頃に現れ、その起源についてはヨーロッパ南東部とアナトリア半島および/もしくはポントス・カスピ海地域(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)が提案されています。

 ヨーロッパには多くの古代DNAデータがあり(関連記事)、これらは農耕技術の拡大と一致するヨーロッパにおけるアナトリア関連祖先系統の出現を確実に裏づけ、農耕拡大が文化拡散ではなくおもに人口拡散だったことを確証します。エーゲ海地域はアナトリア半島北西部とギリシア北部を含み、ほとんどのヨーロッパ人口集団の農耕民祖先系統の供給源ですが、ギリシア南部はコーカサスからのより大きな寄与を示し、これは青銅器時代のミノアおよびミケーネ文化でも明らかです(関連記事)。

 初期の研究は、この地域の最初の農耕民における狩猟採集民祖先系統を殆ど若しくは全く見つけませんでしたが、最近では、古代ゲノムの人口統計学的モデル化で、ヨーロッパに侵入してきたアナトリア半島農耕民はそれ以前の遺伝子流動によりヨーロッパ狩猟採集民からの祖先系統を有していた、と明らかになりました(関連記事)。ヨーロッパへの農耕民の西方への拡散は、在来人口集団との経時的にさらなる漸進的な混合を伴っており、その後の世代では狩猟採集民祖先系統量が増加しました。

 しかし、混合の兆候は広がっているものの、時空間的に異なります。一部の遺跡は何百年もの相互作用なしに農耕民と共存した狩猟採集民の飛び地の証拠を示し、たとえばドイツのハーゲンのブレッターヘーレ(Blätterhöhle)遺跡やスウェーデンの遺跡やポーランドの遺跡(関連記事)ですが、他の遺跡は最初期農耕民共同体においてさえ混合の証拠を示します(関連記事)。ブリテン諸島では、居住人口集団は、イベリア半島新石器時代集団と関連する混合した農耕民と狩猟採集民の祖先系統を有する人口集団により、完全に置換されました(関連記事)。イベリア半島の初期新石器時代は、経時的にじょじょに増加した、他地域よりも狩猟採集民の遺伝的寄与が大きかったことにより特徴づけられます(関連記事1および関連記事2)。

 スカンジナビア半島では、新石器時代農耕民は狩猟採集民からのかなりの遺伝的寄与を示しますが、狩猟採集民における農耕関連祖先系統は低水準でしかなく、狩猟採集民が拡大する農耕集団にほぼ組み込まれたことを示唆します(関連記事)。バルト海東部地域とウクライナとロシア西部では、新石器時代は5000年前頃までヨーロッパ中央部農耕民からの実質的な遺伝子流動なしに進み、狩猟採集民は他地域よりも長く存続しました。したがって、ヨーロッパにおける侵入してきた農耕民と在来の狩猟採集民との間の相互作用には、かなりの地域差があります。


●草原地帯からの青銅器時代の移住

 古代DNA研究の出現九会には、現代の人口集団に基づく多くの研究が、ヨーロッパの人口集団における農耕民対狩猟採集民の祖先系統の相対的寄与を推測しようと試みました。そのさいに、さまざまなデータセット、手法、農耕民対狩猟採集民の祖先系統の代理を用いて、農耕民祖先系統の推定値は15%未満から70%以上の範囲でした。古代DNA研究はこの議論を解決しただけではなく、さらに、楚家財が一般的には以前には想像されていなかった、祖先系統の第三の供給源が現代ヨーロッパの人口集団において10~50%の頻度で存在する、と示しました(関連記事)。この祖先系統はポントス・カスピ海草原のヤムナヤ(Yamnaya)牧畜民で最大化され、まずヨーロッパではバルト海地域に5000年前頃に出現し(関連記事)、ヨーロッパ西部への拡大にはさらに1000年を要しました(関連記事)。

 この大規模な移住はヨーロッパ中央部および東部では縄目文土器複合(Corded Ware Complex、略してCWC)の拡大と関連しているかもしれず、その年代は4900~4400年前頃で、CWC遺跡個体はヤムナヤ的祖先系統を最大で75%有しています(関連記事)。しかし、最近の研究では、バルト海地域東部における最初の出現後、ヨーロッパ全域にわたる草原地帯祖先系統の大規模な拡大は、農耕民祖先系統をかなりの割合で有する人口集団により媒介された、と示されてきました。この祖先系統は後期新石器時代の球状アンフォラ文化(Globular Amphora Culture、略してGAC)にさかのぼり、GACはその中心的地域ではCWCに先行します。

 鐘状ビーカー文化(Bell Beaker culture、略してBBC)はイベリア半島において4800年前頃(CWCと同じ頃)以降に出現し、その後はヨーロッパ西部全域で見られ、東方ではポーランドへと伸び(したがって、CWC遺跡群と重なります)、シチリア島とサルデーニャ島とアフリカ北部を含みます。BBC遺跡群と関連する個体群は、その祖先系統に顕著な地域差があります(関連記事)。ヨーロッパ中央部では、BBC個体群はその祖先系統の50%が草原地帯にたどれます。ブリテン諸島のBBC個体群は、おもにヨーロッパ中央部祖先系統で構成され、それは既存の新石器時代祖先系統を最大90%まで置換しました。

 イベリア半島のBBC個体群はほぼ完全に草原地帯祖先系統を欠いており、その後の標本は草原地帯関連祖先系統を控えめな量でしか示しません。これらの結果から、BBCの拡大は単一の移住人口集団により媒介されたのではなく、文化拡散による在来集団の採用もあった、と示唆されます。さらに、草原地帯からの移住の影響はヨーロッパ南部、つまりはバルカン半島とミケーネ期ギリシア(関連記事)においてかなり小さいものでした。

 表面的には、ヨーロッパへのおよびヨーロッパ全域にわたる新石器時代アナトリア関連および青銅器時代草原地帯関連の移住は、人口拡大の古典的モデルと一致しているようです。両者はヨーロッパの祖先系統に大きな影響を及ぼしたので、かなりの数の人々を含んでおり、比較的短期間(草原地帯関連の移住では約1000年、新石器時代の拡大では約3000年)に起きました。しかし、両者は時期と寄与した祖先系統の量において地域的な差異のパターンと追加の複雑さ(農耕民の最初の拡大後の狩猟採集民祖先系統の復活や、農耕民関連祖先系統をともに有する草原地帯関連祖先系統の可能性の拡大など)を示し、これらの移住には人口拡散の単純なモデルが示唆する以上のものがある、と示唆されます。


●インド・ヨーロッパ語族

 ヨーロッパ全域のインド・ヨーロッパ(IE)語族の起源と拡大はひじょうに興味深く、2つの主要な仮説が提案されてきました。アナトリア半島仮説では、IE語族はアナトリア半島に起源があり、その後に9500~8000年前頃に始まって農耕とともにヨーロッパへと拡大した、とされます。草原地帯仮説では、IE語族は黒海とカスピ海の北側の草原に起源があり、その後に、6500~5500年前頃に始まり、ウマの家畜化と車輪つき荷車と荷馬車の開発の結果としてヨーロッパへと拡大した、とされます。

 ユーラシアの青銅器時代の古代DNA解析は草原地帯仮説を支持しているようですが(関連記事1および関連記事2)、いくつかの問題が残っています。草原地帯祖先系統の最高の割合はヨーロッパ北東部において、ウラル語族言語を話す人口集団において見られますが、ヨーロッパ南部の多くのIE語族言語を話す地域は草原地帯祖先系統がかなり少なく、おそらくはその後の移住を反映しています。さらに、家畜化されたウマから得られた古代DNAは、ヨーロッパへの草原地帯祖先系統の拡大がウマにより促進されたのではない(関連記事)、と示唆するものの、ヤムナヤ文化によるウマの搾乳の証拠があります(関連記事)。したがって、IE語族には単純なモデルにより説明できるよりも複雑な歴史があったようです。おそらく、一部のIE語族言語は農耕民により、その他のIE語族言語は牧畜民により広がったか、或いは、恐らく一部のIE語族言語は人口拡散により、その他のIE語族言語は文化拡散により広がったのでしょう。



◎アジア中央部および南部


●新石器時代と農耕の拡大

 イランが農耕発展にとっと重要地域だったことを示唆する豊富な考古植物学的遺骸にも関わらず、東方のアジア中央部と南方のアジア南部への農耕拡大は、ヨーロッパへの農耕拡大よりも調査がずっと少なかったです。古代DNA研究からは、新石器時代イランは遺伝的に新石器時代アナトリア半島と分岐しているものの、6000年前頃以降、かなりの割合のアナトリア半島農耕民関連祖先系統がイランに現れ、アナトリア関連祖先系統の減少のアジア中央部へと伸びる遺伝的勾配がある、と示唆されており、これはイラン高原とアジア中央部へのアナトリア半島農耕民の東方への移住を示唆します(関連記事1および関連記事2)。この移住は、家畜化されたヤギの拡散と一致しますが、キルギスタンにおける8000年前頃の家畜化されたヒツジの存在を説明できず、複数および/もしくはそれ以前の拡大を示唆します。

 アジア南部の農耕は、まずインダス渓谷の西側の現代のパキスタンのメヘルガル(Mehrgarh)新石器時代遺跡で現れ、年代は8500年前頃です。パキスタンの他の新石器時代集落から、7000~6000年前頃の農耕民は北方および東方へと移動し始め、4600~3900年前頃に栄えたインダス渓谷文明(Indus Valley Civilization、略してIVC)に特徴的な農耕に基づく恒久的集落が出現し始めた【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本論文の「Civilization」を「文明」と訳します】、と示されます。インド全域の何千もま遺跡の発見は、IVCの考古学的境界を越えての農耕の拡散を記録します。

 アジア南部で見られるような高温多湿の環境に由来する標本からDNAを回収することは困難なので、これまで、古代DNAはIVCの単一個体のゲノム(関連記事)に限定されています。この個体は間接的に4800~4300年前頃と年代測定され、アジア南部の現代人およびイランとアジア中央部の一部の新石器時代前の個体と祖先系統を共有していますが、アナトリア半島農耕民関連祖先系統を欠いています。ヨーロッパとは対照的に、農耕は明らかにアナトリア半島からの人々の移住を経由してアジア南部へと拡大しませんでしたが、単一個体から得られた結果に過度に重点を置くことには要注意です。

●アジア中央部および南部への草原地帯からの移住

 ヨーロッパのように、アジア中央部および南部への草原地帯からの移住は複雑な歴史を示します。草原地帯からの最初の東方への拡大は、アファナシェヴォ(Afanasievo)文化のアルタイ・サヤン地域における出現で、その年代は5300~4500年前頃です。アファナシェヴォ文化の人々は、遺伝的にヤムナヤ文化の人々と密接です。アジア中央部では、草原地帯祖先系統の最初の証拠は4000年前頃に始まるバクトリア・マルギアナ考古学複合(Bactrio Margian Archaeological Complex、略してBMAC)に由来し、拡大する草原地帯祖先系統は、トランス・ウラル地域のシンタシュタ(Sintashta)考古学複合と関連しているようです(関連記事)。したがって、古代DNAは(少なくとも)2回の異なる東方への移住を示唆します。

 さらに、4000~3500年前頃には、アジア中央部からの移住がアジア南部へと草原地帯祖先系統をもたらし、IVCの人々と混合し、アジア南部現代人の祖先構成要素に最大30%ほど寄与しました(関連記事)。そして、ヨーロッパとは異なり、家畜化されたウマから得られた古代DNAにより、家畜化されたウマは草原地帯から東方への拡大に関係しており、と、IE語族の拡大(IE語族の主要な枝の一つで、アジア中央部と南部の一部で見られます)にも関係しているかもしれません。



◎アジア東部および南東部本土

 アジア東部にはヒト居住の長い歴史があり、少なくとも45000年前頃にさかのぼります(関連記事)。完新世には、中国の黄河と淮河と長江の周辺のさまざまな地域が、9000~8000年前頃にはじまるイネやキビやアワの栽培化の重要な中心地でした。考古学的証拠は農耕の南部宇への2つの主要な流れを示唆しており、一方はアジア南東部本土(Mainland Southeast Asia、略してMSEA)で、もう一方は台湾となり、こちらは最終的にはオーストロネシア語族の拡大として継続しました。

 MSEAでは、言語学的状況はより複雑で、それは、MSEA全体に拡大して多様化した5つの主要な語族があるからで、その課題はこの拡大に影響を及ぼした力と過程を理解することです。以下は、完新世のアジア東部および南東部本土における人類の拡散を示した補足図3です【ただ、この図では示されていませんが、古代ゲノム研究(関連記事1および関連記事2)から、新石器時代以降に長江流域から黄河流域への一定以上の人口移動があった、と推測されます】。
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●農耕の拡大

 考古学者は、アジア東部における農耕が、在来の狩猟採集民と混合および/もしくは同化した農耕民の移動による拡大(「二層」仮説)と、それに対する、文化拡散および/もしくは内在的発展(「地域的連続性」仮説)の程度について議論してきており、前者(二層仮説)を支持する合意が高まりつつあります。古代DNAは二層仮説を強く裏づけます。ラオス(8000~7800年前頃)とマレーシア(4400~4200年前頃)のホアビン文化(Hoabinhian)狩猟採集民が、最初の植民を反映しているかもしれないアジア南部および南東部の現代の先住民集団と最も密接に関連している一方で、4000年前頃以降のMSEAの新石器時代個体群は、ホアビン文化狩猟採集民と中国からの初期農耕民の混合としてモデル化できます(関連記事1および関連記事2)。

 これら新石器時代個体群は、MSEAのオーストロアジア語族話者集団と祖先系統を共有しており、農耕がオーストロアジア語族言語の拡大と関連しているかもしれない、と示唆されます。古代DNA解析は、6000年前頃に始まる黄河流域からの農耕民の西方への移住も示唆しており、この移住はチベット人と漢人の両方に祖先系統をもたらしたので、シナ・チベット語族の拡大と関連しているかもしれない、と提案されています(関連記事)。

 刺激的な仮説は、朝鮮語と日本語とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族によは全て共通の起源があり(「トランスユーラシア」大語族)、前期新石器時代に【現在の】中国北東部から移住してきた農耕民により拡大した、と主張します(関連記事)。しかし、他の研究は「トランスユーラシア」大語族の存在に疑問を呈しています(関連記事)。いずれにしても、アジア東部においては農耕拡大と関連する人口拡大の強い兆候があります。


●MSEAへのその後の拡散

 青銅器時代文化と関連し、鉄器時代および歴史時代へと続くMSEA個体群の2000年前頃以降の古代DNAは、新石器時代個体群には存在しない追加のアジア東部関連祖先系統を示します(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。現在のMSEA人口集団の構造の多くは、これら推測される移住の結果として形成されました。それは、この時点以降の古代の個体群が、同じ地域の現代のMSEA人口集団と遺伝的により密接に類似しているからです。

 現在のMSEAは、主要な5語族(オーストロアジア語族、タイ・カダイ語族、シナ・チベット語族、ミャオ・ヤオ語族、オーストロネシア語族)を代表とする広範な言語学的多様性により特徴づけられます。上述のように、オーストロネシア語族はイネと雑穀の新石器時代拡大と関連しており、現在の散在的分布はおそらく、他の言語を反す人々のその後の侵入を反映しています。タイ・カダイ語族とオーストロネシア語族との間の言語学的つながりが提案されてきており、古代人および現代人両方の標本に基づく遺伝学的研究は、タイ・カダイ語族祖語とオーストロネシア語族祖語の集団間の祖先のつながりの可能性を確証します(関連記事)。

 シナ・チベット語族は中国北部に起源があり、おそらくは3000年前頃にMSEAへの拡大が始まりましたが、ミャオ・ヤオ語族はおそらく中国南部で生じ、タイ・カダイ語族と同じ頃に拡大しました。MSEAには僅かなオーストロネシア語族(、マライック諸語とモーケン語とチャム語)があり、恐らくは、オーストロネシア語族話者のMSEA集団へと遺伝的祖先系統をほとんど寄与しなかった、2500~2000年前頃のボルネオ島からの移住に起源があります。

 したがって、単一の語族が広範な地理的地域に拡大し、優占した世界の他地域と比較して(たとえば、バントゥー諸語やIE語族やオーストロネシア語族など)、MSEAは複数の語族全てが数千年以内に由来して拡大した、という点でひじょうに異なります。食料生産が重要な側面だった、と提案されてきましたが、それ以上の何かが、これら異なる語族を多かれ少なかれ同時に拡散させ得たに違いないようです。じっさい、ベトナムとタイの現代の人口集団かに得られたゲノム規模データの包括的な研究は、拡大、さまざまな語族の言語を話す集団間の広範な接触、孤立、言語変化の可能性がある事例を含む、複雑な歴史を記録します。MSEAの古代DNAのより詳細な研究が、この複雑な歴史にさらなる光を当てるはずです。



◎アジア南東部島嶼部とオセアニア

 完新世のこの地域における人口移動は、おもに台湾から南方および東方にアジア南東部島嶼部(ISEA)への、およびニューギニア北部海岸沿いの農耕拡大により促進されました。それは、遠オセアニア(リモートオセアニア)への長距離公開のための洗練された航海術の発展、海洋民集団とマダガスカル島の集落の出現をもたらした海上交易網の台頭です。トランス・ニューギニア語族の拡大と関連する、ニューギニア高地における植物の初期の独立した栽培化もあります。以下は、完新世のISEAおよびオセアニアにおける人類の拡散を示した補足図4です。
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●台湾からのオーストロネシア語族の拡大

 ISEAの完新世の植民は、台湾から農耕とオーストロネシア語族言語をもたらした人々の拡大と関連しています(関連記事)。オーストロネシア語族は世界で最大かつ最も広がった語族の一つで、地球のほぼ半分を網羅しており、台湾とアジア南東部と近および遠オセアニアとマダガスカル島を含みます。オーストロネシア語族は明らかに台湾から拡大しており、それは、複数の言語の分枝が台湾でのみ見られる一方で、全ての非台湾諸語のオーストロネシア語族言語がマレー・ポリネシア語派という単一の分枝に属するからです。

 台湾から5000~4000年前頃以降にフィリピンを通って南方にインドネシアへと人々が拡散し、西方にMSEAへと、東方にニューギニアおよびその近隣の諸島へと拡散し続けた、言語学と考古学と遺伝学(関連記事1および関連記事2)における強い兆候があります。この人口拡散は、混合した現代人および古代人のゲノムにより証明されているように(関連記事)、先住民集団を完全には置換しませんでした。これは人口拡散によるのうこうと言語の拡散の古典的ちょうこうですが、話はもっと複雑です。古代DNAは、オーストロネシア語族の拡大に先行する可能性が高いものの、それについて考古学的もしくは言語学的証拠がない、ワラセア(インドネシア東部の島々)におけるMSEA関連祖先系統をの存在を示唆します。


●オセアニアへの長距離航海

 ISEAを通って近オセアニア(ニューギニアとその近隣の島々)へのオーストロネシア語族の移動は、洗練された漕艇技術を必要としないだろう、島伝いの公開と相互に見える渡航により達成された可能性が高そうですが、マラリア諸島から得られた古代DNAの証拠は、3500年前頃にさかのぼるフィリピンからの2000km以上の概要を横断する直接的移住を裏づけます(関連記事1および関連記事2)。オーストロネシア人はおそらく、ニューギニアの海岸に沿ってインドネシア東部から航海を続け、ビスマルク諸島に3400年前頃に到達しました。ニューギニアにおけるオーストロネシア関連祖先系統は沿岸部と沖合の島々に限られており、ニューギニア高地にオーストロネシア人が侵入した証拠はありません(関連記事)。

 遠オセアニア(長距離航海でのみ到達可能なミクロネシアとポリネシアを含むニューギニアの北方と東方の島々)へのオーストロネシア人のさらなる拡大は、確実に洗練された漕艇技術が必要でした。オーストロネシア人は遠オセアニアの島々を通って急速に移動し、トンガとサモアに2900年前頃に到達し、最も遠い島々(ハワイとニュージーランド)には過去1000年以内に到達しました。現代の人口集団の初期の諸研究では、ポリネシア人は80%程度のオーストロネシア人関連祖先系統と20%程度のパプア人関連祖先系統を有している、と示唆されました。さらに、この混合はひじょうに性別の偏りがあり、おもにオーストロネシア人は母系の祖先系統ですが、パプア人はほぼ父系の祖先系統でした。

 しかし、最初の古代DNA研究は驚くべきことに、2900~2500年前頃のバヌアツとトンガの個体群はパプア人関連祖先系統を殆ど若しくは全く有していない、と明らかにしました(関連記事)。その後の諸研究では、パプア人関連祖先系統がその後におもに男性を媒介した継続的な移住により拡大した、と示されました(関連記事)。他の研究はポリネシア(関連記事)およびヨーロッパ人との接触前に到来したアメリカ大陸先住民(関連記事)祖先系統からの逆移住を示唆しますが、後者は現代人の標本にのみ依拠しており、これまで古代DNAからの裏づけは得られていません。全体的に、遠オセアニアの植民は1回の、失敗の中の「宝籤」的成功という固定観念の代わりに、遺伝学的データは、近オセアニアとの繰り返しの接触を含む、遠オセアニア全域にわたる複数回の拡散と大規模な交易網考古学的証拠を裏づけます。


●マダガスカル島と海洋民

 オーストロネシア人は太平洋の広大な場所に植民しただけではなく、1300~1100年前頃にマダガスカル島に到達した最初の人々でもありました【持続的な居住ではなかったかもしれませんが、マダガスカル島では1万年前頃と6000年前頃の人類の痕跡(関連記事)が報告されています】。さらに、マダガスカル語はボルネオ島南東部のボルネオ諸語とまとまり、ゲノム規模集団も、マダガスカル語祖語話者の起源はボルネオ島南東部の可能性が高く、アフリカ大陸から到来したバントゥー諸語話者と混合した、と示します(関連記事)。

 興味深いことに、フィリピンとマレーシアとインドネシアの特定の集団により話されているサマ・バジャウ諸語は、同様にボルネオ諸語に属します。これらは、その舟に暮らしていた歴史と強い海洋志向のため海洋民と呼ばれる人口集団を含みます。サマ・バジャウ諸語とマダガスカル語の分布はそれぞれ、マレー・インド海上国家だったシュリーヴィジャヤ王国の1000年前頃の拡大が契機となった、ボルネオ島のバリト地域の人々の東方と西方への移動を反映しているかもしれません。対照的に、インドネシアの海洋民のゲノム規模研究はスラウェシ島起源を示唆しており、この地域における近隣集団間の相互作用と文化的変化の複雑な歴史に起因する、言語と遺伝的祖先系統の異なる起源があったかもしれない、と示唆されます。海洋民およびマダガスカル人との接触の可能性についていさらなる研究が必要ですが、これらは農耕とは関連していない長距離拡散だったようです。


●ニューギニア高地における農耕の拡大

 ニューギニア高地は植物の栽培化の独立した初期の場所で、7000~6700年前頃までさかのぼるタロイモとバナナの栽培の明確な証拠と、早くも1万年前頃までさかのぼるタロイモの耕作の兆候があります。ニューギニアにおける農耕の拡大は、ニューギニア島で話される約850の言語のほぼ半分を構成するトランス・ニューギニア(TNG)語族の拡大が伴っていたかもしれません。パプアニューギニア(PNG)全域にわたるゲノム規模の差異の包括的研究は、農耕の影響とTNG諸語の拡大を反映しているかもしれない、高地の人口構造の形成と1万年前頃の拡大の証拠を見つけました。

 しかし、PNG高地人は農耕関連拡散の強い証拠を伴う地域(たとえば、オーストロアジア語族話者もしくはバントゥー諸語話者人口集団を含みます)で典型的なものよりもずっと高水準の人口分化を示し、推定される農耕関連拡大が極端な孤立とボトルネック(瓶首効果)と浮動に続いたか、高地において顕著な拡大がなかった、と示唆されます。古代DNAデータは、現代のPNG人口集団(とくに、TNG集団に対する非TNG集団)の追加の比較と同様に、ニューギニアの遺伝的構造に対する農耕の影響のさらなる解明に役立つでしょう。



◎アメリカ大陸

 南北のアメリカ大陸から構成されるアメリカ大陸は、現生人類により植民された最後の大陸で、最初の植民が18000~16000年前頃に収束する考古学的および遺伝学的証拠があります。現在の証拠は、数千年における太平洋海岸沿いのアラスカからチリ南部までの急速な緯度の拡大を示します(関連記事)。しかし、アメリカ大陸全域にわたる広範なヒト居住の考古学的証拠は、完新世にやっと始まります。植物はメソアメリカやアンデス地域やアマゾン地域(関連記事)のさまざまな場所で栽培化されましたが、主要な拡散事象は農耕もしくは他の技術的あるいは行動的革新とのみ関連していたわけではないようです。以下は、完新世のアメリカ大陸における人類の拡散を示した補足図5です。
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●北アメリカ大陸

 考古学的証拠は、農耕が明らかに役割を果たさなかった、2つの主要な北極圏全体のヒトの拡散の存在を裏づけます。最初の拡散は5000年前頃に起きた古イヌイットの人々を含んでおり、先ドーセット(Pre-Dorset)やサカク(Saqqaq)やインデペンデンス1(Independence I)のようないくつかの文化と関連しています。4000年前頃に暮らしていた古イヌイットから得られたゲノムデータは、この個体がそれ以前の拡散とは無関係にシベリアからの人口拡散に由来し、現在のどのアメリカ大陸先住民人口集団とも関連していない、と示します(関連記事)。

 古イヌイットは1500年前頃に考古学的記録から消滅し、現代のイヌイットおよびイヌピアト(Iñupiat)の遺伝的および文化的祖先であるチューレ(Thule)文化の人々に置換されました(関連記事)。チューレ文化の人々は1000年前頃までにアラスカ沿岸において考古学的記録に初めて現れ、犬ぞりとウミアク(大型の開けた獣皮を張った舟)の助けを得て、急速にグリーンランドに到達しました。チューレ文化個体群から得られたゲノム証拠は、チューレ文化個体群が他の北アメリカ大陸集団と広範に混合したことを示します(関連記事)。


●メソアメリカ

 トウモロコシはアメリカ大陸において、ヨーロッパ人が到来した時には多くの社会で主食でした。考古学的証拠から、メキシコ南部から中央部における少なくとも8700年前頃の栽培化の後、トウモロコシは広範に拡大し、アメリカ合衆国南西部に4500年前頃までに、南アメリカ大陸沿岸には早くも7000年前頃に到達した、と示唆されます(関連記事)。しかし、トウモロコシ農耕がおもに文化拡散の過程としてメソアメリカから北方へと拡大したのかどうか、或いは、トウモロコシ農耕がアメリカ合衆国南西部にユト・アステカ語族祖語(Proto-Uto-Aztecan、略してPUA)を話すメソアメリカの農耕民の長距離移住を通じてもたらされたのかどうかについて、見解の相違があります。この見解の相違は、PUAの提案された故地、または、PUAが、南方へ拡散しながらトウモロコシ農耕を作用した北方の採食民なのか、あるいは代わりに北方へ拡大した初期の南方農耕民だったのかどうか、という点をめぐって展開しています。問題を複雑にするのは、一部の農耕集団が、農耕に適さない環境に拡大したため、採食に戻ったかもしれないことです。

 遺伝学的研究はこれまで、これらのさまざまな見解を解決できず、それは、古代DNAの保存状態の悪さのため、遺伝学的研究が現代の人口集団にほぼ限定されているからです。現代の人口集団であっても、一部の現在のアメリカ大陸先住民集団のそうした研究に参加することへの尤もな嫌悪のため、顕著な標本抽出の間隙があります。メキシコの人口集団から得られたゲノム規模データのこれまでで最大の研究は、現在の集団の遺伝的構造が、人口統計学と文化と地理の事象により影響を受けてきた、と示します。たとえば、アリドアメリカ(つまり、メキシコ北西部とアメリカ合衆国南西部)とメソアメリカの人口集団間の分岐時間は9900~4000年前頃と推定されており、メソアメリカにおいて定住農耕が始まった頃です。しかし、ゲノム規模の多様性パターンと遺伝的構造は、言語学的帰属よりもむしろ地理の影響を反映しています。さらに、アリドアメリカとメソアメリカ全域にわたるミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体の差異の対照的パターンは、男女の異なる人口史を示唆します。したがって、トウモロコシ農耕もしくはPUA語族の広がりと関連する遺伝的拡大の強い兆候はありません。


●南アメリカ大陸

 南アメリカ大陸には、大きな文化的および言語学的多様性があり、広大な地理的領域に拡散したいくつかの語族が含まれ、つまりアンデス山脈沿いのケチュア語(Quechua)と、アマゾン低地全域にわたるアラワク(Arawakan)語族やトゥピ語(Tupian)やカリブ語(Cariban)です。しかし、これらの広範な拡散は、小さく局所的な語族の完全な置換につながらず、斑状的な言語学的景観をもたらしました。アンデス山脈とアマゾン地域は、10000~8500年前頃に始まった植物栽培化の重要な中心地と考えられていますが、その拡大と広範な南アメリカ大陸の語族の多様化は、やっと4000~1000年前頃に起きた、と推測されています。

 したがって、初期農耕は主要な南アメリカ大陸の語族の大規模な拡散の原因ではありませんでした。植物の栽培化がヒトの食性の重要な割合を占めるまで数世紀を要しましたが、それは恐らく、人口拡大がさらなる技術革新と作物生産性の増加を必要としたからでしょう。気候変化もそうした拡散に影響を及ぼしたかもしれず、中期~後期完新世の移行期(4200年前頃)には、南アメリカ大陸は降雨量の増加を経て、熱帯雨林はサバンナを犠牲にして拡大しました。

 遺伝学的研究はこれまで現代の人口集団のみに基づいており、一部の語族の拡散への洞察をいくつか提供し始めています。たとえば、アラワク語族はアメリカ大陸において最も広がった語族で、ヨーロッパ人の到来時には、アラワク語族は、中央アメリカ大陸、カリブ海諸島から南はアルゼンチン北部まで、アンデス山麓から東は南アメリカ大陸東部にまで存在しました。アラワク語族は伝統的に河川沿いの園芸民で、サラドイド・バランコイド(Saladoid-Barrancoid)土器伝統と関連しており、アマゾン地域とアンデス地域とカリブ海地域の広範な領域をつないだ交流網において中心的役割を果たしました。しかし、片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)の研究からは、アマゾン地域北西部のアラワク語族集団は、より遠方のアラワク語族集団とよりも、近隣の非アラワク語族集団の方と密接に関連している、と示唆されており、遺伝学と言語学との間の関係の不一致が示唆されます。

 同様に、トゥピ語族は南アメリカ大陸において言語学的に最も多様で、アラワク語族とほぼ同じくらい地理的に広がっています。その提案された故地はアマゾン地域南西部で、そこから東方と北方に拡大しました。しかし、アラワク語族と同様に、トゥピ語族集団は、より遠方のトゥピ語族集団とよりも、近隣の非トゥピ語族集団の方と遺伝的に密接です。同じことはアンデス地域の高地および低地のケチュア語話者についても当てはまりますが、この2地域のケチュア語集団間には遺伝的つながりもあります。

 全体的に、アマゾン地域におけるアラワク語族とトゥピ語族の拡大と、近隣の東方の低地へのアンデス高地からのケチュア語の拡大は、文化拡散もしくは、元々の人口拡大の遺伝的兆候を消し去った、拡散してきた人々とその近隣集団との間の広範な最近の混合によるものだったようです。じっさい、異なる言語を話す集団間の広範な混合があり、ほとんどの南アメリカ大陸集団の強い父系的社会構造を反映している可能性が高そうです。現在の全体像は、ヨーロッパの植民地化の影響によりさらに複雑になっています。古代DNA研究は、拡大と混合の兆候の解明に多くの情報をもたらすでしょう。



◎まとめ

 この簡潔な調査は、完新世のヒト拡散の複雑さを浮き彫りにします。拡大の強い遺伝的兆候は、農耕といくつかの語族の拡大をつなぐ(たとえば、バントゥー諸語やオーストロアジア語族)、と確認できるものの、ここでも、拡大する農耕民と先住の狩猟採集民との間の相互作用の結果には顕著な異質性があり、たとえば、一方には、バントゥー諸語話者集団の拡大によるマラウイとモザンビークにおける農耕前の集団の完全もしくはほぼ完全な置換があり、もう一方には、アフリカ南部におけるバントゥー諸語話者集団とコイサン諸語話者集団との間の広範な混合があります。

 世界の他地域では、拡大と農耕との間のつながりはより希薄で(たとえばアメリカ大陸)、それは恐らく、広範な拡大後の混合もしくは他の複雑さのためでしょう。古代DNAの調査は、世界の一部におけるこれら複雑な要因のいくつかや、現代の人口集団の調査では検出されなかった拡大の特定を促進しており、とりわけ、IE語族をヨーロッパおよび/もしくはアジア南部と中央部にもたらしたかもしれない、草原地帯からの青銅器時代の移住の影響です。MSEAはとくに複雑な地域で、過去数千年の間に少なくとも5以上の異なる語族がMSEAへと拡大しました。これらの多様な語族が生き残り、拡散できたのはどのような状況だったのでしょうか?

 世界の多くの地域における古代DNA解析はDNAの残存と関連する問題に妨げられていますが、さらなる技術的進歩が完新世の拡散への新たな洞察をもたらすだろう、と期待できます。一方で、現代の人口集団のより包括的な研究と、ゲノムデータの計算解析のさらなる発展が、有益でしょう。さらに、農耕と言語の拡大においてそうした多様な結果がある理由を理解するための、完新世の拡散の歴史の大きな複雑さの背景にある社会文化的状況の調査には、明らかな必要性があります。


参考文献:
Stoneking M. et al.(2023): Genomic perspectives on human dispersals during the Holocene. PNAS, 120, 4, e2209475119.
https://doi.org/10.1073/pnas.2209475119


https://sicambre.seesaa.net/article/202303article_12.html

2:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/12 (Sun) 07:41:46

篠田謙一 古代ゲノム研究のおそるべき技術革新
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14052212

ヨーロッパ人の起源
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007381

インド・イラン語派やバルト・スラブ語派のアーリア人の Y染色体は R1a
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007379

ケルト人、バスク人やゲルマン系アーリア人の Y染色体は R1b
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007380

イエスのY染色体ハプログループは J2
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007464



ヨーロッパY-DNA遺伝子調査報告

 3-1. Y-DNA調査によるヨーロッパ民族
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-1.htm

 3-2. Y-DNA「I」   ノルマン度・バルカン度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-2.htm

 3-3. Y-DNA「R1b」  ケルト度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-3.htm
       
 3-4. Y-DNA「R1a」  スラブ度・インドアーリアン度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-4.htm

 3-5. Y-DNA「N1c」  ウラル度・シベリア度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-5.htm
 
 3-6. Y-DNA「E1b1b」 ラテン度(地中海度) 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-6.htm
  
 3-7. Y-DNA「J」   セム度・メソポタミア農耕民度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-7.htm

 3-8. Y-DNA「G」   コーカサス度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-8.htm

15-4. アイスマンのY-DNAはスターリンと同じコーカサス遺伝子の「G2a」
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-4.htm
 
3-9. Y-DNA「T」   ジェファーソン度 調査 
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-9.htm  

3-10. Y-DNA「Q」   異民族の侵入者フン族の痕跡調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-10.htm

1-11. ユダヤ人のY-DNA遺伝子は日本列島の構成成分となっているのか?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-11.htm

1-15. コーカサスはバルカン半島並みの遺伝子が複雑な地域
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-15.htm

1-14. ギリシャはヨーロッパなのか?? 地中海とバルカン半島の遺伝子は?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-14.htm

1-13. 中央アジアの標準言語テュルク語民族の遺伝子構成はどうなのか?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-13.htm

1-17. 多民族国家 ロシアのY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-17.htm

1-9. 多民族国家 アメリカのY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-9.htm

1-18. 多民族国家 インドのY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-18.htm

1-16. 多民族国家 中国のY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-16.htm

3:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/12 (Sun) 07:44:05

氷河時代以降、殆どの劣等民族は皆殺しにされ絶滅した。
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14008921

コーカソイドは人格障害者集団 中川隆
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/380.html

白人はなぜ白人か _ 白人が人間性を失っていった過程
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/390.html

この戦闘民族やばすぎる。ゲルマン民族の謎!!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14046224

アングロサクソンの文化
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007474
4:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/12 (Sun) 07:46:00

太田博樹 _ 縄文人ゲノムから見た東ユーラシア人類集団の形成史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14088967

コーカソイドだった黄河文明人が他民族の女をレイプしまくって生まれた子供の子孫が漢民族
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14008392

ヨーロッパのフン族の祖先は古代モンゴルの匈奴でアーリア人だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007377

世界最初の農耕文明を作った長江人の末裔の現在
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14034569

日本語のルーツは9000年前の西遼河流域の黍(キビ)農耕民に!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14019324
5:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/04/26 (Wed) 09:27:21

雑記帳
2023年04月26日
『イヴの七人の娘たち』の想い出とその後の研究の進展
https://sicambre.seesaa.net/article/202304article_26.html

 2001年に刊行されたブライアン・サイクス(Bryan Clifford Sykes)氏の著書『イヴの七人の娘たち』は、このような一般向けの科学啓蒙書としては異例なほど世界的に売れたようで、私も購入して読みました(Sykes.,2001)。近年時々、『イヴの七人の娘たち』は日本でも一般向けの科学啓蒙書としてはかなり売れたようではあるものの、今となってはその見解はとてもそのまま通用しない、と考えることがあり、最近になって、そういえば著者のサイクス氏は今どうしているのだろう、と思って調べたところ、ウィキペディアのサイクス氏の記事によると、2020年12月10日に73歳で亡くなったそうです。まだ一般向けの啓蒙書を執筆しても不思議ではない年齢だけに、驚きました。

 『イヴの七人の娘たち』などで提示されているサイクス氏の見解が今ではとても通用しないことはウィキペディアのサイクス氏の記事でも指摘されており、イギリス人の起源に関するサイクス氏の理論の多くはほぼ無効になった、とあります。もちろん、同書のミトコンドリアDNA(mtDNA)に関する基本的な解説の多くは今でも有効でしょうし、20世紀の研究史の解説は今でも有益だと思います。本書により、初期のDNA解析による人類進化研究の様相を、研究者間の人間関係とともに知ることができ、この点で読み物としても面白くなっています。

 ただ、同書の主張の、現代ヨーロッパ人の遺伝子プールの母体を作り上げたのは旧石器時代の狩人で、新石器時代の農民の現代ヨーロッパ人への遺伝的寄与は1/5程度だった、との見解は今では無効になった、と確かに言えそうで、ヨーロッパのほとんどにおいて、狩猟採集民の遺伝的構成要素は新石器時代の拡大の結果としてヨーロッパ初期農耕民的な遺伝的構成要素にほぼ置換されました(Olalde, and Posth., 2020、関連記事)。ただ、新石器時代のヨーロッパにおいて、アナトリア半島起源の農耕民と在来の狩猟採集民が混合していったことも確かで、またその混合割合については時空間的にかなりの違いがあったようです(Arzelier et al., 2022、関連記事)。

 また、現代ヨーロッパ人の形成に、旧石器時代~中石器時代の狩猟採集民と新石器時代にヨーロッパへ到来した農耕民だけではなく、後期新石器時代~青銅器時代にかけてユーラシア草原地帯からヨーロッパへ到来した集団も強い影響を及ぼした、と指摘した2015年の画期的研究(Haak et al., 2015、関連記事)で、現代ヨーロッパ人の核ゲノムに占める旧石器時代狩猟採集民の割合がかなり低い、と示されていました(Haak et al., 2015図3)。以下はHaak et al., 2015の図3です。
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 もっとも、『イヴの七人の娘たち』が根拠としたのはミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)で、これは時代的制約からも当然であり、サイクス氏の怠慢ではありません。ただ、そのmtHgについても、ヨーロッパ中央部では旧石器時代人のmtHgは現代人に20%程度しか継承されていない、と2013年の時点で推測されていました(Brandt et al., 2013)。以下は、後期中石器時代から現代までのヨーロッパ中央部のmtHg頻度の推移を示したBrandt et al., 2013の図3です。
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 このように、『イヴの七人の娘たち』の見解が大きく間違っていたのは、当時はまだmtDNAでも解析された古代人の数は少なく、同書がほぼ現代人のmtDNAハプログループ(mtHg)の分布頻度と推定分岐年代に依拠していたからです。やはり、現代人のmtDNA解析から古代人の分布や遺伝子構成を推測することは危険で、古代DNA研究の裏づけが必要になる、と改めて思います(Schlebusch et al., 2021、関連記事)。もっとも、古代DNA研究がこれだけ進展した現在では、現代人のmtDNA解析結果だけで古代人の分布や遺伝子構成を推測する研究者はほぼ皆無だとは思いますが。

 さらに、ヨーロッパ中央部については、mtDNA解析から、初期農耕民は在来の採集狩猟民の子孫ではなく移住者だった、との見解がすでに2009年の時点で提示されていましたが(Bramanti et al., 2009、関連記事)、私は間抜けなことに、『イヴの七人の娘たち』を根拠に、現代ヨーロッパ人と旧石器時代のヨーロッパ人との遺伝的連続性を指摘する論者との議論が注目される、と述べてしまいました。当時の私の主要な関心は現生人類(Homo sapiens)のアフリカからの拡散におけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)などユーラシアの先住の非現生人類ホモ属との相互作用と、現生人類が多少の遺伝的影響を受けつつも非現生人類ホモ属をほぼ完全に置換した理由で、アフリカから世界各地に拡散した後の現生人類の動向にはさほど関心はなく(関連記事)、ネアンデルタール人滅亡後のヨーロッパの人類史について最新の研究を追いかけようという意欲が低かったので、この程度の認識でした。

 さらにBramanti et al., 2009を取り上げた『ナショナルジオグラフィック』の記事では、移住者と考えられる初期農耕民と先住の採集狩猟民だけでは現代ヨーロッパ人の遺伝的構成は説明できない、とも指摘されています。これは上記の、現代ヨーロッパ人の形成に、旧石器時代~中石器時代の狩猟採集民と新石器時代にヨーロッパへ到来した農耕民だけではなく、後期新石器時代~青銅器時代にかけてユーラシア草原地帯から到来した集団も関わっていたことを報告した2015年の画期的研究とも通ずるたいへん示唆的な指摘で、アフリカから世界各地に拡散した後の現生人類の動向にはさほど関心はなかった当時の私でも、一応はブログで言及したくらいですが、その意味するところを深く考えていませんでした。見識と能力と関心が欠如していると、重要な示唆でも見逃したり受け流したりしてしまうものだ、と自戒せねばなりません。

 また上記のサイクス氏のウィキペディアの記事によると、サイクス氏は2006年に刊行された著書で、イングランドにおけるアングロ・サクソン人の遺伝的寄与はイングランド南部でさえ20%未満だった、と推測したそうです。ただ、昨年(2022年)の研究(Gretzinger et al., 2022、関連記事)では、確かにイングランド南部ではヨーロッパ大陸部からの外来の遺伝的影響は低めであるものの、中央部および東部では高く、全体的には平均76±2%に達するので、アングロ・サクソン時代にはヨーロッパ大陸部からの人類の移住は多かった、と推測されました。その後イングランドでは、さらなる外来からの遺伝的影響があり、アングロ・サクソン時代の外来の遺伝的影響は低下したものの、イングランドの現代人の遺伝的構成は、イングランド後期鉄器時代集団的構成要素が11~57%、アングロ・サクソン時代の外来集団的構成要素が25~47%、フランス鉄器時代集団的構成要素が14~43%でモデル化できる、と指摘されています。

 さらに言えば、イングランドでは、新石器時代の農耕民の遺伝的構成要素はアナトリア半島起源の初期農耕民(80%)と中石器時代ヨーロッパ狩猟採集民(20%)でモデル化でき、銅器時代~青銅器時代にかけて大規模な遺伝的置換があり(約90%が外来要素)、中期~後期青銅器時代にも大規模な移住があり、鉄器時代のイングランドとウェールズではその遺伝的影響が半分程度に達した、と推測されています(Patterson et al., 2022、関連記事)。このように、イングランドの人類集団では中石器時代以降、何度か置換に近いような遺伝的構成の変化があり、とても旧石器時代から現代までの人類集団の遺伝的連続性を主張できません。

 ヨーロッパでは旧石器時代の人類のDNA解析も進んでおり、最近の研究(Posth et al., 2023、関連記事)からは、旧石器時代のヨーロッパにおいて人類集団の完全に近いような遺伝的置換がたびたび起きていた、と示唆されます。以前にまとめましたが(関連記事)、現生人類がアフリカから世界中に拡散した後で、絶滅も含めて置換は頻繁に起きていたと考えられるので、特定の地域における1万年以上前にわたる人類集団の遺伝的連続性を安易に前提としてはならない、と思います。そのまとめ記事でも述べましたが、これはネアンデルタール人など非現生人類ホモ属にも当てはまり、絶滅や置換は珍しくなかったようです。


参考文献:
Arzelier A. et al.(2022): Neolithic genomic data from southern France showcase intensified interactions with hunter-gatherer communities. iScience, 25, 11, 105387.
https://doi.org/10.1016/j.isci.2022.105387
関連記事

Bramanti B. et al.(2009): Genetic Discontinuity Between Local Hunter-Gatherers and Central Europe’s First Farmers. Science, 326, 5949, 137-140.
https://doi.org/10.1126/science.1176869
関連記事

Brandt G. et al.(2013): Ancient DNA Reveals Key Stages in the Formation of Central European Mitochondrial Genetic Diversity. Science, 342, 6155, 257-261.
https://doi.org/10.1126/science.1241844

Gretzinger J. et al.(2022): The Anglo-Saxon migration and the formation of the early English gene pool. Nature, 610, 7930, 112–119.
https://doi.org/10.1038/s41586-022-05247-2
関連記事

Haak W. et al.(2015): Massive migration from the steppe was a source for Indo-European languages in Europe. Nature, 522, 7555, 207–211.
https://doi.org/10.1038/nature14317
関連記事

Olalde l, and Posth C.(2020): African population history: an ancient DNA perspective. Current Opinion in Genetics & Development, 62, 36-43.
https://doi.org/10.1016/j.gde.2020.05.021
関連記事

Patterson N. et al.(2022): Large-scale migration into Britain during the Middle to Late Bronze Age. Nature, 601, 7894, 588–594.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04287-4
関連記事

Posth C. et al.(2023): Palaeogenomics of Upper Palaeolithic to Neolithic European hunter-gatherers. Nature, 615, 7950, 117–126.
https://doi.org/10.1038/s41586-023-05726-0
関連記事

Schlebusch CM. et al.(2021) : Human origins in Southern African palaeo-wetlands? Strong claims from weak evidence. Journal of Archaeological Science, 130, 105374.
https://doi.org/10.1016/j.jas.2021.105374
関連記事

Sykes B.著(2001)、大野晶子訳『イヴの七人の娘たち』(ソニー・マガジンズ社、原書の刊行は2001年)

https://sicambre.seesaa.net/article/202304article_26.html
6:777 :

2023/11/19 (Sun) 07:59:57

雑記帳
2023年11月18日
川幡穂高『気候変動と「日本人」20万年史』
https://sicambre.seesaa.net/article/202311article_18.html

https://www.amazon.co.jp/%E6%B0%97%E5%80%99%E5%A4%89%E5%8B%95%E3%81%A8%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%80%8D20%E4%B8%87%E5%B9%B4%E5%8F%B2-%E5%B7%9D%E5%B9%A1-%E7%A9%82%E9%AB%98/dp/4000615300

 岩波書店より2022年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は気候変動の視点からの人類進化史で、近年飛躍的に発展した古代DNA研究の成果も多く取り入れられています。本書はまず、現在の有力説にしたがって、現代人の究極の起源地がアフリカにあることを指摘します。本書では、現生人類の起源は化石および分子生物の証拠から20万年前頃とされていますが、この年代はもっと古くなる可能性が高そうです(関連記事)。本書はさらにさかのぼって、霊長類系統の分岐、さらには類人猿(ヒト上科)系統における分岐に、環境変化が関わっていたことを指摘します。類人猿系統における人類系統の分岐の背景には、寒冷化による降雨量減少と、それによる樹木の散在する環境への変化がありました。なお本書では、人類の使用した最古の石器はホモ・ハビリス(Homo habilis)の出現前にさかのぼる、とされていますが、これをオルドワン(Oldowan)石器と同じとしているのは間違いで、330万年前頃となる最古の石器はオルドワンではありません(関連記事)。

 現生人類のアフリカからレヴァントへの拡散について、本書は12万年前頃以降を取り上げていますが、それ以前にさかのぼる可能性は高そうです(関連記事)。また本書は、スフール(Skhul)遺跡やカフゼー(Qafzeh)遺跡で発見されたこれらレヴァントの初期現生人類(Homo sapiens)の遺伝子は現代ヨーロッパ人と異なっていた、と指摘しますが、スフールおよびカフゼー遺跡の現生人類遺骸のDNA解析にはまだ成功していないと思います。本書は、現代と比較して、この頃の地球全体の平均気温が1~2度、深層水の温度が0.4度高かった、と指摘します。12万年前頃の間氷期最盛期を過ぎると、気温はじょじょに低下し、8万年前頃には初夏の気温が2度ほど下がります。これにより、レヴァントから現生人類は追い払われ、南下してきたネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が占拠した、と本書は推測しますが、レヴァントにおけるネアンデルタール人と現生人類の相互作用については、今後の研究の進展を俟つべきかもしれません。74000年前頃となるトバ山大噴火が現生人類の人口を激減させた可能性は以前から指摘されており、本書でもこの見解が採用されていますが、現時点では説得力に欠けるように思います(関連記事)。

 本書では、現生人類のほとんどは出現後約14万年間、誕生地周辺で生活していた、と想定されていますが、現在では、現生人類の起源地に関してアフリカの特定地域のみではなく全体を視野に入れねばならない、との見解の方が有力だと思いますし(関連記事)、最近の遺伝学的研究(関連記事)からも、出現後の現生人類集団が14万年間も誕生地周辺で生活していた可能性は低いように思います。本書は、アデン湾のアラビア半島付近の堆積物試料の分析から復元された過去216000年間の気候変動に基づいて、非アフリカ系現代人の共通祖先の出アフリカの頃が湿潤だったことを指摘します。他には、20万年前頃と13万~12万年前頃も湿潤で、それぞれ現生人類の誕生およびレヴァントへの拡散と対応している、と本書は指摘します。ただ、上述のように現生人類の出現はもっとさかのぼる可能性が高そうですし、レヴァントでは18万年前頃の現生人類の存在が確認されています(関連記事)。

 現生人類のアフリカから世界各地への拡散については、出アフリカ現生人類の肌の色は当初、黒褐色だった、と本書では指摘されていますが、アフリカの現代人の肌の色は多様で、明るい色の肌と関連している遺伝的多様体の中には100万年前頃に出現したと考えられているものもあるので(関連記事)、出アフリカ時点での現生人類集団の肌の色についてはまだ断定できないように思います。本書では出アフリカの拡散経路として、ユーラシア南岸とヒマラヤ山脈の南北の3通りが提示されており、ユーラシア南岸もしくはヒマラヤ山脈の南側の経路の現生人類の最古級の痕跡は37000年前頃とされていますが、今年になってラオスで発見された現生人類遺骸は6万年以上前にさかのぼる、と報告されています(関連記事)。

 本書では、日本列島における人類最古の痕跡は島根県出雲市の砂原遺跡の12万年前頃の石器とされており、4万年以上前の人類の痕跡として岩手県遠野市の金取遺跡も挙げられており、その担い手は非現生人類ホモ属だろう、と指摘されています。ただ、砂原遺跡の石器についてはそもそも石器なのか、考古学者の間で議論になっていますし、金取遺跡の石器群は本物の石器のようですが、9万年前頃までさかのぼるとしても、その担い手が現生人類である可能性も考えられます(関連記事)。本書は、9万年前頃には現生人類はまだ出アフリカを果たしていなかった、と指摘しますが、それはあくまでも非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカで、非アフリカ系現代人と遺伝的にほとんど若しくは全くつながっていない現生人類集団が7万年以上前にアフリカからユーラシアに拡散した可能性は、上述のラオスの事例からも否定できないでしょう。

 日本列島への現生人類の拡散経路としては、本書では北海道と対馬と沖縄の3通りが挙げられており、主要かつ最古の経路としては、遺跡の年代および場所と海路の距離から対馬と推測されています。縄文時代について本書では、その開始は土器出現(16500年前頃)以降、その終焉は2900年前頃とされています。本書は、調理および保存の点で土器の画期性を強調します。現生人類拡散後の日本列島の気候変動については、北部では一般的な最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)よりもやや遅く、16500年前頃が最寒期と推定されています。この点も含めて、著者の専門分野と関わってくる気候変動の再構築に関して、本書から有益な知見が多く得られます。この日本列島北部の最寒期の前後において、ナウマンゾウが23000~20000年前頃までに、マンモスが16000年前頃までに絶滅します。本書は、これら大型動物が温暖化により絶滅したわけではないとしても、当時の低人口密度では人類による狩猟が原因の絶滅とも考えにくく、絶滅原因は謎としています。

 日本列島はこの最寒期の後に温暖化を迎え、陸上生態系も大きく変わり、日本列島全体を覆っていた亜寒帯針葉樹林から、西日本~関東にかけては温暖帯常緑広葉樹林が、西日本の内陸~中部および東北にかけては温帯落葉広葉樹林が広がります。なお本書では、現代日本人で見られるY染色体ハプログループ(YHg)D1a2aが縄文時代からずっと日本列島に存在した、と想定していますが、その一定の割合が弥生時代以降に日本列島に到来した可能性も想定すべきである、と私は考えています(関連記事)。縄文時代には8200年前頃となる完新世で最大の寒冷化が起き、これは短期間(150~160年間)だったものの、地球規模と確認されています。本書では縄文時代の遺跡として有名な三内丸山は本書で大きく取り上げられており、その放棄が4200年前頃の2.0度ほどの気温低下をもたらした寒冷化と対応していることも指摘されています。この寒冷化の原因は、夏季アジアモンスーンの変調によりジェット気流の中心軸が南下し、南の温暖で湿潤な大気が日本列島北部まで北上できなかったことにある、と本書は推測します。平均気温2.0度の差は、緯度方向では約230km、標高では300mほどの違いに相当し、三内丸山での食料確保が難しくなったのではないか、と本書は推測します。ただ、遺跡の数に基づく近年の研究では、当時の人々が周辺地域に分散しただけで、人口が急減したわけではない、と指摘されているそうです。

 本書は、現代日本人の主要な祖先集団が縄文時代にはユーラシア大陸部に存在したことから、現在の中国を中心にユーラシア大陸部の気候変動も取り上げています。これと関連して、イネの遺伝子解析から日本の水稲が朝鮮半島より中国の系統に近いことや、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と日本列島も含めてアジア東部の現代人で優勢なYHg-Oの人々にデニソワ人の遺伝的痕跡がほとんど見られないことから、YHg-Oの祖先集団はデニソワ人とは別の場所に存在した、と本書では述べられていますが、かなり問題があると思います。日本のイネがどこからもたらされたのかは、紀元前の日本列島と朝鮮半島のイネの遺伝的多様性が現在よりもずっと高かったことから、時空間的に広範囲の古代のイネのDNAを解析する必要がありますし(関連記事)、アジア東部現代人には現代パプア人よりずっと少ないとはいえ明確にデニソワ人との混合が認められ、それはパプア人の祖先と混合したデニソワ人集団とは異なるデニソワ人集団に由来する、と推測されているからです(関連記事)。

 縄文時代晩期以降に日本列島にもたらされた稲作文化の究極的な起源地である長江下流域では、4200年前頃に良渚文化が崩壊しますが、これは急激な大寒冷化に起因していたようです。数百年間程度の空白を経て同じ地域に出現した馬橋文化については、稲作農耕技術が良渚文化より劣り、狩猟と漁撈の比重が高まったことから、良渚文化の担い手とは異なる集団が他地域から移住してきて築いた、と本書は推測しますが、これに関しては今後古代ゲノム研究の裏づけが必要になると思いますし、そもそも寒冷化に良渚文化の担い手が対応したことも想定できるでしょう。上述の三内丸山遺跡の放棄とともに、4200年前頃の世界的な気候変動と主要な文化の衰退・崩壊が現在注目されているそうです。この世界的な気候変動とともに、現在の中国では4000年前頃には全土の53%が森林だったのに対して、3000年前頃には森林の被覆度は25%程度に減少し、その後もますます低下していったそうです。なお、本書では夏から殷(商)への「王朝交代」は禅譲と伝えられてきた、とありますが、恐らくこれは夏以前の伝承と混同しており、文献では夏が殷により武力で倒されたとあります。

 日本列島への稲作到来の契機として本書が指摘するのは、紀元前1050~紀元前400年頃にかけての寒冷継続期で、温度は約0.7度低下したそうです。ただ、本書が指摘するように、日本列島における水稲栽培やそれと関連した文化の伝播は、時空間的差異が大きいようです。本書では、プラント・オパール分析を根拠に、イネ自体は縄文時代中期から存在した、とされていますが、イネやアワやキビなどユーラシア東部大陸系穀物の確実な痕跡は、日本列島では縄文時代晩期終末をさかのぼらない、との見解が現在では有力だと思います(関連記事)。本書は稲作の到来とともに、長江から北方に逃れた人々が日本列島に到来した可能性を指摘しますが、その根拠はYHgで、確かに長江流域集団が北進して日本列島に到来した可能性はあるものの、そうだとしても、古代ゲノム研究の進展を踏まえると、その遺伝的影響は小さいようです(関連記事)。

 古墳時代について本書では、かつての寒冷期説とは異なり、比較的温暖だった、と指摘されています。この古墳時代が終焉する6世紀末~7世紀前半にかけては、小規模な寒冷期だったようです。唐王朝の衰退は乾燥化の進展と関連づけられていますが、これも世界規模での温暖・乾燥化の一環だった、と本書では指摘されています。本書は同時代の文献が残る時代の日本列島も対象としていますが、平城京において前代の飛鳥時代とは異なり鉛や銅による重金属汚染が起きていた、と著者たちの土壌分析により明らかになったそうで、長岡京や平安京への遷都は都市汚染も一因だったのではないか、と本書は推測します。奈良盆地の地形勾配は緩やかで排水が悪く、汚物の処理に人々は苦慮していた、というわけです。日本列島では820~1150年にかけて寒冷化していき、ヨーロッパにおける950~1250年頃の温暖化とは対照的だったようです。ユーラシア大陸部では、13世紀前半の温暖化がモンゴル帝国の勢力拡大をもたらしたようです。日本列島では、14~16世紀に寒冷化の中で農業技術や集落形態の変容などにより農業生産が増加した、と指摘されています。


参考文献:
川幡穂高(2022)『気候変動と「日本人」20万年史』 (岩波書店)

https://sicambre.seesaa.net/article/202311article_18.html
7:777 :

2023/12/11 (Mon) 14:28:59

ヨーロッパ人と東アジア人は同一集団の子孫~2022年の研究で明らかになったアフリカ人、東西ユーラシア人の分岐と人種の成立過程~
LEMURIA CH/レムリア・チャンネル
2023/02/18
https://www.youtube.com/watch?v=pzLQVY-xOmQ&t=120s

古代の化石に残るDNAを解析する技術の進展により、化石の形態では分からなかったホモ・サピエンスの進化の過程が明らかになってきました。
アウストラロピテクス、ホモ・エレクトゥス、ホモ・ハイデルベルゲンシス、ホモ・アンテセソール(ホモ・アンテセッサー)、ネアンデルタール人、デニソワ人などの絶滅人類とホモ・サピエンスとの関係についても従来の説が次々と塗り替えられています。
今回はホモ・サピエンスの進化と人種の形成過程について最新の研究を交え解説していきます。

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