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明治から昭和にかけ 日本列島全体が禿山であった

1:777 :

2023/03/11 (Sat) 18:08:38

公太郎竹村の記事一覧 | 「新」経世済民新聞
https://38news.jp/author/takemura

竹村公太郎コラム | 「新」経世済民新聞
https://38news.jp/category/column

なぜ、家康は江戸で幕府を開いたのか?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14119763

明治から昭和にかけ日本列島全体が禿山であった
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▲△▽▼


東京大学の森林学の
太田猛彦教授の講演を聞く機会があった。
その講演会で配布されたレジメの図の一枚に、
眼が釘付けになってしまった。
それが(図―4)である。

https://38news.jp/column/24068


米国の歴史家コンラッド・タットマンが
日本の寺社仏閣を訪れ、
その記録文献を調査した成果である。
全国の寺社の創建と再建で、
どの時代に、どの地方から
木材を持ち出していたかの分布図を
『日本人はどのようにして
森を作ってきたのか(築地書館)』
で公表している。

この図の紫色の部分が問題であった。
この紫色の部分は、
1550年までに木々が
伐採されていた地方である。

1550年といえば戦国時代である。
その戦国時代に、
西は山口、南は紀伊半島、東は伊豆半島、
北はなんと能登半島まで伐採されていた。
つまり、戦国時代の舞台だった関西には、
すでに木がなく
禿山であったことを意味している。

講演の後、太田教授を待ち構えた。
「戦国時代の関西は、禿山だったのですか?」
と聞くと、そんなことも知らないのか、
という顔つきで
「戦国時代だけではなく
明治から昭和にかけても禿山になっている」
と教えてくれた。

その時代の禿山の写真も
あることを教えてくれた。
早速、その写真集を探し当てた。
その写真を見て驚いた。
 明治から昭和にかけ
日本列島全体が禿山であった。
その1つが(写真―1)の
京都の比叡山の写真である。

https://38news.jp/column/24068

あの神聖な比叡山が禿山になっていた。
なお、明治から昭和にかけて、
日本列島の全ての山々が
禿山であったことは
『全国植樹祭60周年記念写真集
(国土緑化推進機構)』で掲載されている。
(写真―2)は関ケ原に近い
滋賀県の野洲の山々である。



この写真は戦国時代のものではない。
しかし(図―4)を見れば、
戦国時代の関西地方には
木がなかったことが分かる。
関西のどの山も禿山であった。
https://38news.jp/column/24068



竹村公太郎コラム | 「新」経世済民新聞
https://38news.jp/category/column
2:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/11 (Sat) 18:11:56


わずか16年で消滅!?藤原京の謎!!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14051657

飛鳥地方に見られる日本の原風景
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/782.html

平城京から長岡京へ遷都する原因となった「祟り」の正体とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/123.html

桓武天皇の失敗と成功―日本列島のアイデンティティー―
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1052.html

天下制覇の上町台地の物語―信長が戦い、秀吉が利用した地形―
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1045.html
3:777 :

2024/06/08 (Sat) 13:58:12

2024年6月5日
【竹村公太郎】江戸、近代そして未来のエネルギー戦略(その1) ―江戸繁栄のエネルギー―
https://38news.jp/default/28504


日本のエネルギー自給率は
10%程度である。
人類文明の誕生と衰退は
エネルギーで語ることができる。
メソポタミア文明以降の人類史をみれば、
エネルギー自給率10%の文明は存続できない。
文明存続の条件のエネルギーを
日本はどうするか。

20年前、江戸東京博物館で
水運の特集をしていた。
仕事を切り上げ閉館の1時間前に
江戸・東京博物館飛び込んだ。
ここで江戸のエネルギー事情を
強く意識する発見をした。



江戸東京博物館

江戸東京博物館へは、
何度も行っている。
そのたびに、
見る対象は異なっている。
江戸の町並みだけを見たり、
江戸図だけを見たり、
庶民の生活を知るためだけに行ったり、
江戸城の構造を見るためだけに
行ったこともあった。
この博物館は広い。
漫然と見て回るのではなく、
時々のテーマを絞って見るのがこつである。

その時は、江戸の舟に絞っていた。
実物の小舟や大型ジオラマでは
川面や運河に、膨大な舟が浮かんでいた。
舟運が江戸市民を支えていたことに
改めて実感した。

博物館では
特別企画展が開催されていた。
その日は広重展であった。
広重は何度も見ている。
今回は閉館が迫っていたので、
上の空で見ながら歩いて行った。

博物館の出口に広重の
「大橋あたけの夕立」があった。
この絵も何度も見ているので、
さっと通り過ぎようとした。
通り過ぎようとした瞬間、
私の目に船、それもタンカーが
飛び込んできた。
驚いて足を止めてしまった。



広重の代表作「大橋あたけの夕立」


(図―1)が広重の
「大橋あたけの夕立」である。

「大橋」は現在の「新大橋」である。
対岸には将軍の船を保管する御船蔵があり、
将軍の安宅丸にちなんで、
この地は安宅(あたけ)と呼ばれた。
広重の代表作とされているが、
長い間、何故この絵が
広重の代表作なのか分からなかった。

広重は多くの鮮やかで
愉快な絵を描いている。
しかし、この絵は暗い。
美術品の鑑識眼はないと諦めていたので、
広重を引用するたびに
「広重を美術品ではなく、
写真として見る」
と割り切っていた。

江戸東京博物館の
「大橋あたけの夕立」中に
タンカーを見たが、
大川を行くのは、タンカーではない。
筏(いかだ)である。

大川は隅田川とも呼ばれる
今の荒川である。
秩父の山々から切り出した木材を、
筏にして、江戸まで流してきた。
その日は、頭が舟で一杯だったので、
その筏をタンカーと見てしまった。

見れば見るほど、
夕立の中に霞んで描かれている筏は、
タンカーのようだ。
事実、この筏は江戸に向かう
タンカーであった。
やはり広重は
貴重な江戸のエネルギー写真を
撮って残してくれていた。



江戸へ帰った家康

1600年の関ヶ原の戦いに勝った
徳川家康は、
1603年に征夷大将軍に任命されると、
さっさと京都を離れ
江戸へ戻ってしまった。

関ケ原が終わったとはいえ、
当時、豊臣家は大坂城に構え、
背後には毛利家、島津家が控えていた。
家康は天下を完全に制してはいなかった。

家康が完全な天下制覇を狙うなら、
一歩ゆずっても、
中部東海地方に
拠点を置くべきであった。
しかし、家康はあえて東へ、
それも箱根を越えて、
さらに関東の東端の江戸まで
戻ってしまった。
権力の中枢の関西から見れば、
家康は、度し難い田舎へ
引き篭もってしまった。

いったい、何故、
家康は江戸に帰ったのか?

この関東の地は、
エネルギーで大きな可能性を秘めていた。
家康は関東に
エネルギーの未来を見ていた。
エネルギーは森林であった。



関西の限界と未開の関東

米国の歴史学者
コンラッド・タットマンが作製した
「記念構造物のための木材伐採圏の変遷」
がある。


(図―2)がその図である。

寺社仏閣の建造物を建築するとき、
建造物の主要部材のため
巨木を伐採する。
その巨木の伐採場所は、
寺社や旧家に保存されている
縁起や古文書で特定できる。
それを丹念に調査し
作成した貴重な図である。
(「日本人はどのように森をつくってきたか」築地書房)

この図によれば、
平安遷都の西暦800年頃の伐採圏は、
奈良盆地から淀川流域に重なっている。
さらに、
戦国時代から安土桃山時代の頃には、
伐採圏は近畿地方から中部、
中国、四国へと一気に拡大している。

巨木が切り出されると、
その後、人々が山に入り込み、
建材用や燃料用に立木を伐採していく。
人々は立木がなくなるまで伐採し、
森林は消失していく。

平安遷都から
800年間が経った戦国時代、
関西圏の森林再生能力を
はるかに超えていた。
戦国時代、大名たちは
次々と壮大な城を築き、
戦闘用の砦を造っては、
戦いで燃やしていた。
秀吉は天下を取ると、
全国の大名に木材の提供を求めたと
伝わっている。
そのことからも、関西では
森林が消失していたことが理解できる。
家康は戦国の世を戦いながら、
関西の森林の荒廃を眼にしていた。

関ケ原から10年遡る1590年、
秀吉は北条氏の小田原城を開城させた。
その年、秀吉は家康を、
小田原よりさらに東の江戸へ
移封させられた。
湿地に囲まれた
江戸に移封された仕打ちに
家康の武将達は
激怒したと伝わっている。

しかし、家康は武将たちをなだめ、
鷹狩と称して関東中を
歩き回わりだした。
その中で、利根川、渡良瀬川そして
荒川流域の手付かずの森林を目撃していた。
緑が目に染みる森林の関東は
腰を据える拠点としてふさわしかった。
フィールドワーカーの家康は
日本最大の油田を発見したといえる。

1603年、征夷大将軍となった家康が、
京都を背にして江戸に戻ったのは、
文明存続に不可欠なエネルギー面からみれば
必然であった。
家康はこの関東の森林のみではなく
日本全土のエネルギー戦略を立てていった。



家康のエネルギー全国戦略

木々が伐採され、
禿山となった関西を見ていた家康は、
利根川や荒川流域があったとはいえ
油断しなかった。
江戸で木材を消費し続ければ、
関東の森林はいつかは消失する。
関東の森林の枯渇は
江戸幕府の衰退を招く。

家康は日本列島全土の
エネルギー覇権の戦略を立てた。
全国の主要な山林地帯を「天領」とした。
筑後川、吉野川、紀ノ川、木曽川などの
上流域を直轄領として、
山間部を管理する体制を敷いた。
特に重要な紀ノ川には、
御三家の紀伊・徳川が構えた。
木曽川には尾張・徳川が構えた。



(図―3)は江戸幕府が森林を管轄した
主要な河川流域。

これら天領の山間部には、
金銀銅などの鉱物資源と、
豊富な森林エネルギー資源が存在した。
木々を勝手に伐採することは許されず、
伐採は管理され
計画的に行われることとなった。

さらに、徳川幕府は
日本列島全土のエネルギーを
収集するシステムも確立した。



江戸への集積システム

全国のエネルギーを
江戸へ集積させるシステムは
「水運」であった。

日本海側の北海道から東北、
下関、瀬戸内海、大坂の
北前船ルートが確立し、
太平洋側の仙台から銚子、
利根川、江戸へのルートが誕生し、
発展していった。

全国の各地の物産はもちろん、
山々で伐採された木材が船底に積まれ、
次々と江戸に集積された。日
本列島全土のエネルギーが、
江戸へ集積される
システムが形成された。


(図―4)は広重が描いてくれた
江戸と往来する多くの船である。 

18世紀、19世紀を通して、
江戸は世界最大の100万都市へと
発展していった。
毎日、毎日、全国各地から、
江戸にエネルギーが注入され続けた。

広重の大橋の夕立に描かれている筏は、
やはり、タンカーであった。
秩父の山地から切り出された
森林エネルギーのタンカーであった。
21世紀の現代、
中近東から毎日運び込まれる
石油タンカーと同じである。

中近東から石油・天然ガスが
東京に注入されるように、
江戸時代、日本各地から
膨大な森林エネルギーが
江戸に注入された。
江戸は大量のエネルギーを飲み込む、
貪欲な大都会であった。
その江戸が飲み込むエネルギーを、
広重は、この夕立に霞む隅田川に描いていた。

森林エネルギーによって
江戸は世界一の巨大都市を謳歌していった。
しかし江戸開府から260年後、
幕末の日本は
文明滅亡の断崖絶壁に 立っていた。
(つづく)
https://38news.jp/default/28504
4:777 :

2024/07/27 (Sat) 01:07:01

【竹村公太郎】江戸、近代そして未来のエネルギー戦略(その2) ―江戸文明崩壊の絶壁―
2024年7月12日
https://38news.jp/default/28864


江戸繁栄のエネルギー体制 

文明の興亡はいつも
エネルギーと結び付いていた。
最古の文明のメソポタミヤ文明は
人類最初の物語
「ギルガメッシュ叙事詩」
を生みだした。
その物語は、
人間が森を伐採するために
森を守る妖怪を倒す
というものであった。

人類とエネルギーの葛藤は
時空間を隔ても変わりはない。
日本の文明も全く同じであった。

1603年、征夷大将軍となった家康が、
京都を背にして江戸に戻ったのは、
膨大な未開の森林を求めたからであった。
家康は関東の森林のみではなく
日本全土のエネルギー戦略を立てた。

戦国時代、
禿山となった関西を見ていた家康は、
関東には利根川や
荒川流域があったとはいえ
油断しなかった。
江戸で木材を消費し続ければ、
関東の森林はいつかは消失する。
関東の森林の枯渇は
江戸幕府の衰退を招く。

家康は日本列島全土の
エネルギー覇権の戦略を立てた。
全国の主要な山林地帯を
「天領」とした。
筑後川、吉野川、紀ノ川、木曽川などの
上流域を直轄領として、
山間部を管理する体制を敷いた。
特に重要な紀ノ川には、
御三家の紀伊・徳川が構えた。
木曽川には尾張・徳川が構えた。

さらに、日本列島全土の
森林木材を収集するシステム
「水運」も構築した。
日本海側の北海道から大坂、
江戸への北前船ルートを確立し、
太平洋側の仙台から
江戸へのルートを誕生させ発展させた。



(図―1)が江戸時代の
日本列島の水運地図である。

全国の各地の物産はもちろん、
全国の山々で伐採された木材が、
船底に積まれて次々と江戸へ注入されていった。



膨張する江戸文明

徳川家康が150年の戦国の世を制し、
江戸幕府の統治が進んだ。

三代将軍家光は鎖国を大名たちに強いた。
この鎖国によって、
日本人の力は外へ向わず、
国内の国土開発へ向った。
各地で河川改修が行われ、
雨のたびに水が溢れていた湿地は
農耕地へと生まれ変わり、
干潟は埋め立てられ
新田となっていった。

新たな耕作地が3.5倍になり
米の収穫が上がると、
1200万人だった人口は、
江戸中期には3000万人に膨れ上がった。
江戸文明の急激な膨張であった。



(図―2)は、農地と人口の増加で
文明の膨張を示している。

日本の人口が
3000万人に急増しただけでない。
大消費都市・江戸も
爆発的に膨張していった。
全国からの流入が続き、
江戸中期には50万人を越え、
1800年代には100万人を超す
世界最大の都市となっていた。

江戸文明の規模が
拡大しただけではなかった。
江戸時代の物流、
交流も膨れ上がった。



交流規模の拡大

徳川家光以後、
300諸侯といわれる大名たちは、
2年ごとに江戸と国許を往復する
参勤交代を強いられた。
何百人という規模の大名行列や
お伊勢参りの民衆が、
街道をひっきりなしに移動していた。



(図―3)は、10万石クラスの
備後国福山の阿部藩の大名行列であり、
100万石クラスの大名は
千人を超える規模となった。

宿場では旅人たちが風呂に入り、
暖を取り、朝夕の食事を摂った。
宿場町は燃料の大消費地となった。
食材は旅の途中で入手できたが、
燃料の木は重たくてかさばる。
そのため、節約する旅人が自炊する宿も、
燃料の薪(たきぎ)は宿主が旅人へ売った。
安宿の代名詞「木賃宿(きちんやど)」も
ここからきた。

江戸の文明規模、
特に江戸の膨張と交流の膨張には、
多くの食糧と燃料が必要であった。
食糧は新田開発でどうにか対応できた。
しかし、燃料の森林を
簡単に増すわけにはいかない。
燃料を海外から注入しなかった
鎖国下の日本社会は
森林を次々と伐採する以外になかった。

文明が膨張して、その規模が
エネルギー供給能力を超えれば、
いつかエネルギーは枯渇していく。
日本文明の膨張は
森林の再生限界を超え、
森林の衰退を招いていった。

森林の衰退は、
それほど遅くはなかった。
江戸中期には
その森林の衰退は始まっていた。



文明拡大と森林伐採

天竜川流域の下伊那地域は、
豊かな森林地帯であった。
徳川家康は天下を取ると、
この地を支配していた
豊臣勢を他所に移封させた。
天竜川流域を徳川幕府の天領とした。

天竜川流域は、
江戸への木材供給の
第一級の基地となった。
この天竜川の木材供給のデータを、
米国歴史家のコンラッド・タットマンは
「日本人はどのように森をつくってきたか」
(築地書房1998年)
で記載している。

それによると、1600年代から
天竜川の木材は供給されている。
1680年には木材供給量は
16万本であったが、
1700年には33万本の
ピークを示している。
その後、1720年には23万本に減じ、
1750年には4万本へ激減し、
1770年には1万本にも達していない。
それ以降、江戸後期には、
天竜川からの木材供給の記録は消えている。



(図―4)でその変遷を示した。



広重の記録                                  

本連載の第1回で
江戸繁栄の秘密を広重の
「大橋あたけの夕立」で述べた。



(図―5)が、
その「大橋あたけの夕立」である。

この絵の激しい夕立に目を奪われて、
つい見落としてしまうのが
遠くの川面を進むタンカーである。
もちろん、大川を行くのは、
タンカーではない。
筏(いかだ)である。


広重は江戸繁栄を表す絵として
(図―6)も描いている。
凄まじい木材が毎日、
毎日江戸に注入されていった。

注入された木々は
燃料だけに使用されたのではない。
船、住居、農具と
多くの材料として使用された。


北斎は(図-7)で
製材している作業現場を描いている。
この絵の奥に描かれている
江戸の町並みは全て木材であった。

しかし、木々だけに頼っていた日本は、
森林枯渇という事態に
追い詰められていった。

広重はその江戸時代の
エネルギー危機も記録していた。



東海道五十三次・二川(ふたがわ)

東海道新幹線は
「海」が付く名前なのに、
海をしっかり見られる場所は
浜名湖だけだ。
この浜名湖の広い清々した光景は、
東海道新幹線の貴重な光景だ。

東京から名古屋に向かって
浜名湖を過ぎると、
愛知県の三河に入り
渥美半島の根元の台地を走って行く。
緑豊かな二川(ふたがわ)
あたりを過ぎ去り、
新幹線は豊橋の市街地を抜け
名古屋に向ってスピードを上げて行く。

広重はこの三河の二川で、
おかしな光景を描いている。

広重の東海道五十三次は
面白い場面が多いが、
特に33番目の二川宿は印象深い。



(図―8)が、
東海道五十三次の
「二川・猿ヶ馬場」である。

名物の柏餅の茶屋の前を
3人の瞽女(ごぜ)が行く。
瞽女(ごぜ)とは、
三味線を弾いて各地を巡る
盲目の女性たちのことである。

三人の瞽女(ごぜ)たちが
三者三様に描かれ、
おしゃべりをしながら
楽しそうに歩いている。
社会的弱者がこのように
屈託なく旅をしていた。
日本は何と治安のよい国であったのか
と感心してしまう。

しかし、この絵はなにか変だ。
見ていて落ち着かない。
長い間それに気が付かなかったが、
背景に描かれた二川の
異常な光景であった。
絵の背景はポツンポツンと
背の低い松が生えているだけだ。こ
の荒涼とした光景は、
現在の三河の
緑豊かな姿とは天と地の差がある。



荒涼とした東海道の山々

二川の絵に気が付いて、
改めて広重の東海道五十三次の
背景に注意を払って見ると、
荒涼と描かれた場所は二川だけではない。
神奈川、保土ヶ谷、平塚、大磯、
小田原、箱根、岡部、大井川、舞坂、
日坂、白須賀などの山も丘もみな
パラパラと松の木が生えているだけである。
松の木は灯火のための
松脂(まつやに)が獲れたので、
松の木を切るのはタブーであった。

26番目の日坂宿の中山峠などは、
極端な禿山となっている。
二川は本陣がある宿場町だったので、
原っぱは馬場としても利用できただろう。
しかし、中山峠などは
単に荒廃した山でしかない。



(図―9)が、
東海道五十三次の
26番目の日坂の中山峠である。

21世紀の現在、
東海道新幹線から見る山は、
どこも鬱蒼(うっそう)と
緑が茂っている。
ゴルフ場以外に原っぱなどない。
ゴツゴツした岩肌もない。
広重が中山峠の険しさを誇張して
岩肌を描いたなら分かる。
しかし、東海道をこのように描いたのは、
誇張にしては異常である。
広重が描いた江戸末期の東海道は
松の木がところどころに残された
貧相な風景が広がっていたのである。



日本列島の森林荒廃

江戸末期、日本列島の山々の
丘の木々は伐採され、
無惨な姿をさらしていた。
森林を伐採し尽くすと
斜面は大雨のたびに侵食され、
栄養分の表層土壌は流れ去り、
山々の回復力は失われ荒廃していった。

厳しく管理された天領の天竜川でさえ、
森林の衰退と山地の荒廃を招いた。
ましてや、天領でない土地や街道筋は
次から次へと伐採され、
山々は禿山となっていった。

後に、鎖国が解け
神戸港に入港した外国人たちは、
六甲の禿げ山の凄まじい光景に
息を呑んだと伝わっている。
それは神戸の山々だけではなかった。
九州、四国、中国、近畿、
中部、関東、北陸、東北と
あらゆるところで、森林は伐採され、
山の斜面は崩壊し、
土石流となって流失していった。

明治に入り、
オランダから土木技術者たちが
治水指導で来日した。
彼らが指摘したことは、
まず山の土砂流出を
止めることであった。
そのために、砂防ダムを建設し、
斜面崩壊を防止する治山工事を行う。
その指導は全国各地で
繰り返し行われた。



(写真―1)は
滋賀県大津市の
大正年代の治山事業である。

実は、日本史が大きく転換するときには、
いつも森林消失という事態が
深く関わっていた。

8世紀末、
奈良盆地は森林を失ったため、
桓武天皇は平城京から
淀川流域の平安京へ遷都した。

17世紀初頭、西日本一帯の森林は
消失していたため、
徳川家康は関西を背にして、
広大な森林を持つ
利根川の江戸に幕府を開いた。

日本文明は、森林消失の危機に
都を移すことで
どうにか凌(しの)いできた。

江戸末期、日本列島の
全体の森林が荒廃してしまった。
そのため、日本文明は
日本列島の中で
都を移す得意技を封じられていた。

日本文明はエネルギーの枯渇という
絶体絶命の崖淵に立たされていた。

日本文明崩壊の危機、
この危機を救う救世主が登場した。

黒船であった。
(つづく)
https://38news.jp/default/28864

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