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20世紀初頭以来、ポーランドは米英と手を組み、反ロシア政策を継続

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2023/03/10 (Fri) 00:10:28

2023.03.10XML
20世紀初頭以来、ポーランドは米英と手を組み、反ロシア政策を継続
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202303100000/

 ウクライナへ14両のドイツ製の戦車「レオパルト2」を引き渡しつつあるポーランドは歴史的に反ロシア感情が強い。昨年9月26日にロシアからドイツへ天然ガスを運ぶために建設されたパイプライン、ノード・ストリームとノード・ストリーム2が爆破された際、ポーランドのラデク・シコルスキー元外務大臣は「ありがとう、アメリカ」とツイッターに書き込んでいる。









 爆破の1分後にイギリスの首相だったリズ・トラスはiPhoneでアメリカのアントニー・ブリンケン国務長官へ「やった」というテキストのメッセージを送っていることからイギリスも関与していた可能性が高いが、調査ジャーナリストの​シーモア・ハーシュはアメリカ海軍のダイバーがノルウェーの手を借りて実行したと書いている​。

 ハーシュによると、アメリカのジョー・バイデン大統領は2021年後半にジェイク・サリバン国家安全保障補佐官を中心とする対ロシア工作のためのチームを編成、その中には統合参謀本部、CIA、国務省、そして財務省の代表が参加している。12月にはどのような工作を実行するか話し合ったという。そして2022年初頭にはCIAがサリバンのチームに対し、パイプライン爆破を具申している。

 2022年1月27日にビクトリア・ヌランド国務次官は、ロシアがウクライナを侵略したらノード・ストリーム2を止めると発言、2月7日にはバイデン大統領がノード・ストリーム2を終わらせると主張、記者に実行を約束した。こうした発言の背後には爆破計画があったわけだ。

 爆破計画の拠点として選ばれたのはノルウェー。イェンス・ストルテンベルグNATO事務総長の母国だ。ハーシュによると、3月にはサリバンのチームに属すメンバーがノルウェーの情報機関に接触、爆弾を仕掛けるために最適な場所を聞き、ボルンホルム島の近くに決まった。

 プラスチック爆弾のC4が使われたが、仕掛けるためにはロシアを欺くためにカムフラージュが必要。そこで利用されたのがNATO軍の軍事演習「​BALTOPS22​」だ。その際にボーンホルム島の近くで無人の機雷処理用の潜航艇を使った訓練が行われた。

 シコルスキー元外相は1980年代前半にオックスフォード大学へ留学し、その際に学生の結社「ブリングドン・クラブ」へ入っている。メンバーの多くはイートン校の出身、つまり富豪の子どもたちで、素行が悪いことで知られている。

 この結社が創設されたのは1780年で、シコルスキーと同じ1980年代のメンバーにはボリス・ジョンソン、デイビッド・キャメロン、ジョージ・オズボーン、トニー・ブレアといった後の政治家、そして金融界に君臨しているナット・ロスチャイルドも含まれている。

 帝政ロシアの有力貴族だったユスポフ家のフェリックスもクラブのメンバーだった。彼は1909年から13年にかけてオックスフォード大学で学んだが、その時にフェリックスブリングドン・クラブに入っているのだ。留学時代、フェリックスはクラスメートのオズワルド・レイナーと親しくなるが、この人物は後にイギリスの情報機関SIS(秘密情報局、通称MI6)のオフィサーになった。

 ユスポフ家が雇っていた家庭教師の中にはイギリス人もいた。その宮殿で教師の子どもとして1876年2月に生まれたスティーブン・アリーものちにMI6のオフィサーになる。ちなみにフェリックスが生まれたのは1887年3月である。

 フェリックスがオックスフォードでの留学を終えた翌年の1914年には第1次世界大戦が勃発するが、ロシアの支配層は戦争に反対する大地主と参戦を主張する資本家が対立していた。地主の主張を代弁していたのがグレゴリー・ラスプーチンで、そのバックにはアレクサンドラ皇后がいた。

 そうした中、ラスプーチンは腹を刺されて入院、その間にロシアは参戦を決めたが、退院後もラスプーチンは戦争に反対するのだが、1916年の後半に入るとフランス軍やイギリス軍は疲弊、ロシア軍を離脱させるわけにはいかない。

 その年にイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣、そのチームにはフェリックス・ユスポフと関係の深いステファン・アリーとオズワルド・レイナーも含まれていた。

 ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年10月の終わりから11月半ばにかけて6回にわたり運んだという。ユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 1916年12月30日にラスプーチンは暗殺されたが、殺害に使用された455ウェブリー弾はイギリスの軍用拳銃で使われていたもので、殺害現場にいた人の中でその銃弾を発射できる銃をもっていたのはレイナーだけだったという。

 そして1917年3月の「二月革命」でロマノフ朝は倒されるが、この時にボルシェビキの幹部は亡命中か刑務所に入れられていた。革命後に成立した臨時革命政府は戦争を継続、ドイツは両面作戦を続けなけらばんらない。

 そこでドイツは即時停戦を主張していたボルシェビキのウラジミル・レーニンキに目をつける。ドイツ外務省はボルシェビキの幹部32名を「封印列車」でロシアへ運んでいる。レーニンが帰国したのは1917年4月。ボルシェビキが実権を握ったのは11月の「十月革命」だ。

 レーニンはドイツとの戦争を終結させたものの、アメリカが参戦していたこともあってドイツは敗北するのだが、こうした経緯があるため、ドイツとソ連の関係は良かった。悪化するのはアドルフ・ヒトラーが率いるナチスが台頭してからだが、そのナチスにイギリスやアメリカの金融界は資金を提供していた。

 ドイツへ資金を流す上で重要な役割を果たした金融機関としてブラウン・ブラザース・ハリマンやディロン・リードが有名だ。ブラウン・ブラザース・ハリマンの重役の中にはW・アベレル・ハリマンやプレスコット・ブッシュも含まれていた。ハリマンとブッシュはドイツ企業との手形交換業務を行う名目で「ユニオン・バンキング(UBC)」を設立、ブッシュはその経営を任される。

 ブッシュが金融界で出世できた理由のひとつはエール大学でハリマンと同じように「スカル・アンド・ボーンズ」に入会したことのほか、結婚した相手のドロシーが金融界の大物であるジョージ・ハーバート・ウォーカーの娘だったことが挙げられる。

 ドロシーとプレスコットは1921年に結婚、24年にウォーカーが社長を務める投資銀行A・ハリマンの副社長に就任している。ユニオン・バンキングが創設されたのも1924年だ。1931年にブッシュはブラウン・ブラザース・ハリマンの共同経営者になった。この頃、アレン・ダレスは弁護士としてウォール街で仕事を始めている。ちなみに、ブッシュは1895年生まれだが、ダレスは93年生まれで、ふたりは親しくなる。

 ポーランドはロシア革命の前から反ロシアの運動があった。その中心だったユゼフ・ピウスツキは日露戦争が勃発した1904年に来日、彼の運動に協力するよう、日本側を説得している。1925年に彼らは「プロメテウス同盟」という地下組織を編成した。

 その当時、バルト海から黒海まで、つまり中央ヨーロッパをカトリックで統一しようという動きがあり、インテルマリウムが構想された。イギリスやフランスの情報機関から支援を受けていたのだが、そのインテルマリウムにもピウスツキは関係している。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 ウクライナの反ロシア派もプロメテウス同盟に加わったが、ポーランド主導の運動だったことから離反するウクライナの若者が増え、イェブヘーン・コノバーレツィなる人物が中心になってOUN(ウクライナ民族主義者機構)が組織される。OUNの中からステパン・バンデラ派が生まれた。

 ピウスツキの後、ポーランドの反ロシア運動を率いた人物はウラジスラフ・シコルスキー。ポーランド軍の将校はこの人物を中心にまとまり、イギリスと連携、ナチよりもコミュニストを敵視していた。(Christopher Simpson, “The Splendid Blond Beast”, Common Courage Press, 1995)

 第1次世界大戦後、ドイツとポーランドの間に領土問題が生じた。東プロイセンは飛び地になったのだ。その問題を解決するためにドイツ政府住民投票を提案する。ドイツへ回廊を返還する意見が多ければ返還、その際にドイツはポーランドに鉄道やバルト海へ通じる高速道路を渡すという内容だった。

 その案をポーランドは受け入れ、1939年3月21日に同国のジョセフ・ベック外相がドイツの首都ベルリンを訪問することになるのだが、ベックは姿を現さない。ロンドンへ向かったのだ。そして26日にポーランドはドイツに対して回廊を返還しないと通告する。

 ソ連はドイツの軍事侵攻に備えるため協力しようと各国に訴えたが、無視される。その計画が実現しなかった一因はポーランドの強い反ロシア感情にあったと言われている。

 そこで1939年8月23日にドイツとソ連は不可侵条約を締結した。ドイツ軍は9月1日にポーランドへ軍事侵攻、3日にイギリスとフランスはドイツに対して宣戦布告して第2次世界大戦が始まるったのだが、そこから半年ほどの間、本格的な戦闘は行われていない。いわゆる「奇妙な戦争」だ。戦争の準備をしていなかったドイツは動けなかったということだろう。

 その間、シコルスキーはパリへ脱出。1939年9月30日にそこで亡命政権を作り、翌年6月19日にウィンストン・チャーチルと会談、ポーランドがイギリスと一緒に戦うことを約束し、亡命政権はロンドンへ移動する。ソ連のNKVD(人民内務委員会)がポーランド軍将校を大量処刑したのは1940年の4月から5月にかけてとされている。

 ドイツ軍は1941年6月、ソ連に対する侵略戦争を開始した。バルバロッサ作戦だ。この作戦で東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は90万人だけだと言われている。この攻撃の準備には半年から1年は必要だったろう。

 ドイツ軍は1940年9月7日から41年5月11日にかけてロンドンを空襲し、4万人から4万3000名の市民が死亡したという。バルバロッサ作戦の準備をしていたであろう時期と重なる。イギリス攻撃の準備をソ連攻撃に転用したとは考えにくい。おそらく陽動作戦だったのだろう。

 1941年7月にドイツ軍はレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫った。この段階でアドルフ・ヒトラーは勝利を確信、ソ連軍は敗北して再び立ち上がることはないと10月3日に語った。ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 ところがそうした見通しは外れ、1942年1月にドイツ軍はモスクワでソ連軍に降伏、8月にはスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まる。当初はドイツ軍が優勢に見えたが、11月になるとソ連軍が猛反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲される。1943年1月にドイツ軍は降伏した。

 スターリングラードでの敗北でドイツの敗北は決定的になり、ソ連の敗北を期待していたイギリスは慌てる。しかも、このまま終わるとソ連がドイツに勝ったということになってしまう。

 ポツダム宣言は即時無条件降伏を要求しているが、「無条件降伏」という語句が出てきたのは1943年1月。フランクリン・ルーズベルト米大統領とウィンストン・チャーチル英首相がフランスのシャルル・ド・ゴールらとカサブランカで会談した際のことだ。この会談で無条件降伏が主張されなければ、早い段階でドイツは降伏していただろう

 イギリスはアメリカと会談、1943年7月に両国軍はシチリア島への上陸作戦を実行した。ハリウッド映画で有名になったノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月になってからだ。事実上、こうした作戦はコミュニスト主体のレジスタンスやソ連軍を念頭に置いている。

 フランクリン・ルーズベルト米大統領が急死した翌月、1945年5月にドイツは降伏。その直後にチャーチルはJPS(合同作戦本部)に対し、ソ連を攻撃するための作戦を立案するように命令し、「アンシンカブル作戦」が提出された。

 その作戦によると、攻撃を始めるのはその年の7月1日。アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていたが、この作戦は発動していない。参謀本部が5月31日に計画を拒否したからである。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 20世紀初頭以来、ポーランドの反ロシア政策は継続している。

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2:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/10 (Fri) 00:19:33

イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(1860年11月18日 - 1941年6月29日)ピアニスト・作曲家
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14010649

ロシア革命はユダヤ人によるロシアの乗っ取り、レーニンはドイツのスパイだった
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ウォール街と戦った共産主義者 ルーズベルト大統領
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ヒトラーの共産主義との戦い
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/638.html

米英金融資本とナチスの緊密な関係
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1573.html

英米はドイツ軍がソ連に勝てないとわかる迄は、ウォール街のエージェントのヒトラーと戦う気は全く無かった
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/615.html

帝政ロシアの歴史
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/603.html

ユダヤ人を迫害するロマノフ朝はユダヤ人の不倶戴天の敵だった、ロシアの富を収奪しようとするユダヤ資本がロシア革命を起こさせた
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/496.html

茂木誠 _ 超日本史・ユダヤから紐解くロシア・ウクライナの歴史 - YouTube 動画
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/906.html

ロシア革命とは何だったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/795.html

革命は軍や警察が国家を裏切り市民側に就かないと成功しない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/574.html

ロシア革命を支援したユダヤ金融資本
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1110.html

帝政ロシアから大量のユダヤ移民がアメリカに逃げてきて共産主義者になっていった
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1214.html

「ロシア革命」を実行したユダヤ人とそれを支援したユダヤ人
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1025.html

ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html

アメリカの共産主義者の実態はユダヤ移民
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/366.html





3:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/20 (Mon) 21:57:28

2023.03.20XML
アングロ・サクソンの補完国としての役割を果たしてきたポーランドの大使の発言
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202303200002/

 ポーランドのジャン・エメリク・ロシシェフスキ駐仏大使の発言が話題になっている。​「ウクライナが独立を守れない場合、私たちは選択の余地なく、紛争への参加を余儀なくされる」​、つまりロシアと戦争を始めるというわけだ。

 この発言をポーランド大使館は否定しているようだが、アングロ・サクソンの補完国として生きてきたポーランドの大使ならありそうな話だとは言える。

 ポーランドは歴史的に反ロシア意識が強く、1904年には反ロシア運動の指導者だったユゼフ・ピウスツキが来日、運動へ協力するよう日本側の説得を試みている。反ロシア運動を強化するため、ポーランドでは1925年には「プロメテウス同盟」という地下組織も編成。ピウスツキの後、ポーランドの反ロシア運動で大きな影響力を持つのはウラジスラフ・シコルスキーだ。

 ポーランドはカトリック国だが、中央ヨーロッパをカトリックで統一しようという動きがあり、インテルマリウムが組織された。その組織はイギリスやフランスの情報機関から支援を受け、国家間の勢力争いと深く結びつく。この構想は今も生きていて、現在は「3SI(三海洋イニシアチブ)」と呼ばれている。

 1922年には中央ヨーロッパを統一する目的でPEU(汎ヨーロッパ連合)が創設された。その中心にはオットー・フォン・ハプスブルク、リヒャルト・フォン・クーデンホーフ-カレルギー、そしてウィンストン・チャーチルが含まれていた。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 クーデンホーフ-カレルギーの父親はオーストリア・ハンガリー帝国の外交官として1892年に来日、青山みつと結婚した人物で、イタリアの有力貴族であるバレリオ・ボルゲーゼと親しい。ボルゲーゼはファシストに近く、戦後もCIAと共同で秘密作戦に従事していた。

 第1次世界大戦で負けたドイツは領土を削られ、ドイツ本国と東プロイセンの間にポーランド領(ポーランド回廊)ができる。東プロイセンは飛び地になったのだ。この領土問題を解決しようとドイツはポーランドに働きかける。

 領土交渉が合意に近づき、1939年3月21日にポーランドのジョセフ・ベック外相がドイツのベルリンを訪問することになったのだが、ベックは姿を現さない。ロンドンへ向かったのだ。

 ロンドンではアドルフ・ヒトラーをどうするかを決めるため、各国の指導者が集まっていた。そして3月26日にポーランドはドイツに対し、回廊をドイツに返還しないと通告する。

 その年の8月11日にイギリスとソ連はドイツ問題で交渉を開始、ソ連の国防相(国防人民委員)と参謀総長はポーランドの反対が解決されれば、ドイツを封じ込めるために軍隊をドイツとの国境へ派遣する用意があると提案している。

 イギリスのテレグラフ紙によると、部隊の規模は120歩兵師団と16騎兵師団だが、イギリスの代表は交渉する権限がないという理由で回答を拒否。イギリスとの交渉に見切りをつけたソ連は1939年8月23日にドイツと不可侵条約を結ぶ(Nick Holdsworth, “Stalin ‘planned to send a million troops to stop Hitler if Britain and France agreed pact’, the Telegraph, 18 October 2008)のだが、これは「ミンスク合意」のようなもので、守られない。

 1939年9月1日にドイツ軍はポーランドへ軍事侵攻。チェコスロバキア侵攻のケースでは黙認したイギリス、フランス、オーストラリア、そしてニュージーランドが9月3日に宣戦布告して第2次世界大戦は始まったのだが、ドイツはそれから半年間、目立った戦闘を行なっていない。イギリスやフランスもドイツとの本格的な戦闘を始めない。「奇妙な戦争」の期間だ。ドイツはこの時点で大規模な戦争を始める準備をしていなかった可能性が高い。そしてバルバロッサ作戦へと進む。

 シコルスキーはパリへ脱出、1939年9月に亡命政権を作り、翌年6月にウィンストン・チャーチルと会談、ポーランドがイギリスと一緒に戦うことを約束、亡命政権はロンドンへ移動する。

 シコルスキーの側近のひとりだった人物がユセフ・レッティンゲルだが、この人物はヨーロッパをイエズス会の指導の下で統一しようと活動していた。大戦後の1952年にはオランダのベルンハルト(ユリアナ女王の夫)へ接近し、「ビルダーバーグ・グループ」を創設する。さらに、アメリカのハリー・トルーマン政権やドワイト・アイゼンハワー政権につながった。レッティンゲルはイギリスの対外情報機関MI6のエージェントでもあった。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202303200002/
4:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/04/10 (Mon) 08:34:53

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ポーランドがウクライナで戦闘を長期化させ、国を破壊するのは領土拡大が目的か
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202304100000/

 ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は4月5日にポーランドを訪問、同国のアンジェイ・ドゥダ大統領と会談した。ドゥダはゼレンスキーに対して軍事支援の継続を約束、今後、保有する全てのMig-29を提供する用意があると語り、両国の間から国境をなくすとも話している。

 ポーランドは日露戦争の前から反ロシア感情が強く、反ロシア運動の中心的な存在だったユゼフ・ピウスツキが1904年に来日し、彼の運動に協力するよう、日本側を説得している。その運動は1925年に「プロメテウス同盟」という地下組織を生み出した。

 ロシアでは十月革命でボルシェビキ体制が成立すると、東部と南部へロシアの領土を割譲している。西部はカトリックの影響下にあり、反ロシア感情が強いため、東方正教会の影響下にある地域を譲る形にしたのだろう。それ以降、ウクライナにはふたつの国が存在している。アメリカのネオコンはネオ・ナチを使い、キエフでクーデターを実行して東部と南部からロシア語を話す東方正教会の信者を排除、「民族浄化」しようとしたのだ。

 ポーランドは16世紀から18世紀にかけて、リトアニアと「ポーランド・リトアニア連邦」を構成、その領土が最も広かった1600年当時の復活を夢見る人びとがポーランドにはいた。この連邦はバルト海と黒海に挟まれ、カトリック教徒が多い。そしてカトリックの帝国を作ろうという動きとつながった。これが「インテルマリウム」だ。この構想はアメリカやイギリスの支配層が19世紀から計画している世界制覇戦略と利害が一致、ナチスとも連携する。

 ナチスをウォール街やシティ、つまり米英の金融資本が支援していたことは本ブログでも繰り返し書いてきた。そのナチスが支配するドイツは1941年6月に軍の約4分の3をソ連へ侵攻させるが、ソ連軍の激しい抵抗にあう。1942年8月にスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まるが、11月にドイツ軍25万人は完全包囲され、43年1月に降伏。

 それまで動かなかったイギリスとアメリカはその月に動く。イギリスのウィンストン・チャーチル首相とアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領がモロッコのカサブランカで協議、シチリア島上陸作戦が決まったのだ。この作戦は1943年7月に実行されるが、これは対ドイツ戦ではなく、対ソ連戦の始まりだ。ハリウッド映画で有名になったノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月になってからである。

 1942年の冬にドイツのSS(ナチ親衛隊)はアメリカとの単独講和への道を探りはじめ、実業家のマックス・エゴン・フォン・ホヘンローヘをスイスにいたOSS(戦略事務局)のアレン・ダレスの下へ派遣している。そこからダレスはドイツ側との接触を繰り返したが、これは大統領に無断で行われていた。

 ダレスたちは1945年初頭にカール・ウルフというナチ親衛隊の高官でハインリッヒ・ヒムラーの側近だった人物に隠れ家を提供した。ウルフはハインリッヒ・ヒムラーの側近で、ナチ親衛隊の高官。北イタリアにおけるドイツ将兵の降伏についての秘密会談も行われている。そして始まったのが「サンライズ作戦だ。(Christopher Simpson, “The Splendid Blond Beast”, Common Courage, 1995 / Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)

 1945年に大戦が終わると、ジョバンニ・バティスタ・モンティニというローマ教皇庁の高官がナチスの大物にバチカン市国のパスポートを提供し、逃走を助けはじめた。この高官は後にローマ教皇パウロ6世と呼ばれるようになった。

 逃走のために作られたルートが「ラットライン」だが、このルートを1947年から動かしていたのはアメリカの第430CICのジェームズ・ミラノ少佐。ミラノに逃走支援工作を任された人物がポール・リオンズ中尉で、リオンズの接触した相手がインテルマリウムのクルノスラフ・ドラガノビッチ神父だ。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 その間、「プロメテウス同盟」はポーランド人のグループとウクライナ人のグループで分裂、ポーランド側はウラジスラフ・シコルスキーが率い、ウクライナ側ではOUN(ウクライナ民族主義者機構)が組織された。OUNの中で暴力志向の強い人びとはステパン・バンデラを中心に集まる。いわゆるOUN-Bだ。ネオコンが2013年11月から14年2月にかけてのクーデターで使ったグループはOUN-Bの流れだ。

 ポーランドのドゥダ大統領はアメリカやイギリスの政府と同じようにウクライナでの戦闘を長期化させようとしてきた。それはウクライナの破壊を意味するが、その先にウクライナの併合を見ていると推測する人もいる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202304100000/
5:777 :

2023/06/16 (Fri) 01:02:49

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ロシアや中国を侮り、自分たちは驕るアメリカの未来は暗い
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202306160000/

 アメリカは自国で行われている野球のリーグ戦における優勝決定戦を「ワールド・シリーズ」と称している。また自国の略称を「US」とも表記する。アメリカ人にとって「世界」とはアメリカであり、アメリカは「我々」だということなのだろう。

 その傲慢なアメリカだが、1970年代から「衰退」が言われるようになった。その衰退を誤魔化すために始められたのが新自由主義、つまり金融マジックだ。

 1970年代にCIAはアフガニスタンでソ連をトラップにかける計画が始まる。その中心がズビグネフ・ブレジンスキー。ジミー・カーター大統領がブレジンスキーの考えた秘密工作を承認したのは1979年7月だが、その月の2日から5日にかけてエルサレムでアメリカとイスラエルの情報機関に関係する人びとが「国際テロリズム」に関する会議を開いた。

 イスラエルからは軍の情報機関で長官を務めた4名を含む多くの軍や情報機関の関係者が参加、アメリカからもジョージ・H・W・ブッシュ元CIA長官(後の大統領)やレイ・クライン元CIA副長官など情報機関の関係者が参加していた。そこから「テロの黒幕はソ連」というプロパガンダが始まる。

 カール・バーンスタインによると、1982年6月7日にロナルド・レーガン米大統領とローマ教皇のヨハネ・パウロ2世はバチカンで50分間にわたって会談、ソ連圏の解体を早めるための秘密工作を実行することで合意した。バチカンを舞台にしたポーランド工作にはポーランド出身のズビグネフ・ブレジンスキーが重要な役割を果たしたとされている。(Carl Bernstein, “The Holy Alliance,” TIME, Feb. 24, 1992)

 この会談の3週間ほど前、レーガン大統領はNSDD 32を出し、ソ連を「無力化」するために経済的、外交的、そして秘密工作を使うことを承認している。(Robert Parry, “Secrecy & Privilege”, The Media Consortium, 2004)

 ポーランドでは1980年9月に反体制労組の「連帯」が創設された。この組織はアメリカの情報機関CIAの支援を受けていたが、その事実を労組側も隠していなかった。

 NEDなどを経由してCIAの資金が流れ込んでいたほか、当時のポーランドでは入手が困難だったファクシミリのほか、印刷機械、送信機、電話、短波ラジオ、ビデオ・カメラ、コピー機、テレックス、コンピュータ、ワープロなどが数トン、ポーランドへアメリカ側から密輸されたという。(Carl Bernstein, “The Holy Alliance,” TIME, Feb. 24, 1992)

 連帯の指導者だったレフ・ワレサも自伝の中で、戒厳令布告後に「書籍・新聞の自立出版所のネットワークが一気に拡大」したと認めている。(レフ・ワレサ著、筑紫哲也、水谷驍訳『ワレサ自伝』社会思想社、1988年)

 工作資金を送る重要なルートとして、イタリアの大手金融機関であるアンブロシアーノ銀行、そしてバチカン銀行(IOR/宗教活動協会)も知られている。送金にはローマ教皇庁や西側の労働組合が持つ銀行口座も利用されていた。

 しかし、こうした不正融資の実態が発覚、アンブロシアーノ銀行は倒産し、ロベルト・カルビ頭取は1980年5月に逮捕され、翌年の6月にロンドンのブラックフライアーズ橋で変死体として発見された。

 バチカン銀行の不正融資で中心的な役割を果たしたのはシカゴ出身のポール・マルチンクス頭取。ローマ教皇パウロ6世(ジョバンニ・バティスタ・モンティニ)の側近として知られている。

 パウロ6世はモンティニ時代からCIAと緊密な関係にあった。CIAでパウロ6世/モンティニと最も強く結びついていた人物はジェームズ・アングルトン。この人物は父親の代からアレン・ダレスの側近だ。

 そのパウロ6世は1978年8月に死亡、アルビーノ・ルチャーニが新教皇に選ばれ、ヨハネ・パウロ1世を名乗った。若い頃から社会的な弱者に目を向けていた人物で、CIAとの関係はなかったと見られているが、1978年9月、つまり在位1カ月余りで急死してしまう。

 そして登場してくるのがポーランド出身のカロル・ユゼフ・ボイティワだった。1978年10月に次の教皇となり、ヨハネ・パウロ2世と呼ばれるようになる。そしてポーランド工作に深く関与していく。

 このヨハネ・パウロ2世は1981年5月に銃撃されている。引き金を引いたモハメト・アリ・アジャはトルコの右翼団体「灰色の狼」に所属していたが、この団体はトルコにおける「NATOの秘密部隊」の一部と言われている。この事件では3名のブルガリアが起訴されたが、1986年3月に無罪の判決が言い渡された。

 1989年1月にはジョージ・H・W・ブッシュがアメリカ大統領に就任し、91年12月にソ連は消滅する。ブッシュたちはソ連を崩壊させるために「ハンマー作戦」を実行したと言われている。

 1991年12月にソ連が消滅するとネオコンはアメリカが「唯一の超外国」になったと認識、92年2月にDPG(国防計画指針)草案という形で世界制覇計画を作成。その時の大統領はジョージ・H・W・ブッシュ、国防長官はディック・チェイニー、国防次官はポール・ウォルフォウィッツ。DPG草案はウォルフォウィッツが中心になって書き上げられた。そこでこの世界制覇計画は「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれている。

 目的のひとつは新たなライバルの出現を防ぐことにあり、警戒する地域には旧ソ連圏、西ヨーロッパ、東アジア、西南アジアが含まれる。ドイツと日本をアメリカ主導の集団安全保障体制に組み入れ、「民主的な平和地域」を創設するともしている。

 ネオコンは1992年2月に国防総省のDPG草案という形で世界制覇プラン、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」が作成する。他国や庶民を無視して行動できると思い込んだのである。日本をこのドクトリンに従わせ、アメリカの戦争マシーンに組み込むため、ジョセイフ・ナイは1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を発表した。

 このドクトリンをベースにしてネオコン系シンクタンクPNACは2000年に「アメリカ国防の再構築」を発表、それに基づき、ジョージ・W・ブッシュ政権は軍事政策を作成している。

 その政策が現実になるのは2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃されてからだ。

 CIAは2002年に対イラク工作を始めているが、その年の11月に中東全域のCIA支局長がロンドンのアメリカ大使館に集められ、IOG(イラク作戦グループ)から対イラク戦争は決定済みであり、嫌なら辞めろと脅されたという。そして2003年3月にアメリカ主導軍がイラクを先制攻撃した。(James Risen, “State of War,” Free Press, 2006)

 イラク戦争はネオコンの思惑通りに進まず、泥沼化するが、まだアメリカが「唯一の超大国」だと信じていた。フォーリン・アフェアーズ誌の2006年3/4月号に掲載された論文はそうした心情を表していると言えるだろう。この雑誌は外交問題評議会(CFR)が発行している定期刊行物で、記事には支配層内部の雰囲気が影響している。

 キアー・リーバーとダリル・プレスはその論文の中で、​アメリカが近いうちにロシアと中国の長距離核兵器を先制第1撃で破壊する能力を持てる​としている。ロシアと中国は取るに足りない存在だと信じていたわけだ。

 その後、アメリカは侵略戦争を続ける。リビア、ウクライナの体制も軍事的に倒されたが、シリアは倒されていない。ウクライナでは東部や南部の反クーデター派が抵抗、ロシア軍の支援を受けてキエフのクーデター体制やアメリカ/NATOを窮地に追い込んでいる。

 COVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)騒動を利用、「ワクチン」というタグの付けられた遺伝子操作薬で人類を改造、さらに管理する計画が進められていると考える人もいる。

 これもアメリカ/NATOが簡単にロシアや中国を倒せるという前提で成り立っているが、その前提が崩れている。アメリカ/NATOの権力者が今後も世界を支配できるなら自分たちが行ってきた犯罪的な行為を封印できるだろうが、支配者の座から陥落した場合、資産や地位を失うだけでなく責任を問われることになるだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202306160000/
6:777 :

2023/07/23 (Sun) 09:12:31

2023.07.23XML
露大統領がポーランドに警告した背景
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202307220000/

 ウラジミル・プーチン露大統領は7月20日、「ベラルーシへの侵略開始はロシアへの侵略開始を意味する」と発言、ポーランドの動きに注目していることを明らかにした。ポーランドがドニエプル川以西のウクライナ領占領を計画しているとロシア政府は見ているようだ。

 ポーランドは昔から反ロシア運動が存在、侵略も行なっている。決して「かよわい子羊」ではない。そうした運動を率いていたユゼフ・ピウスツキは日露戦争が始まった1904年に来日、25年には「プロメテウス同盟」という地下組織を編成した。

 ピウスツキの後、ポーランドの反ロシア運動を率いたウラジスラフ・シコルスキーはドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻した1939年9月にパリへ脱出して亡命政権を名乗り、翌年6月にはイギリスのウィンストン・チャーチルと会談、ポーランドがイギリスと一緒に戦うことを約束している。亡命政権はロンドンへ移動した。

 シコルスキーの側近のひとりだったユセフ・レッティンゲルは大戦の前からヨーロッパをイエズス会の指導の下で統一しようと活動していた人物で、戦争が終わった後の1952年にオランダのベルンハルト(ユリアナ女王の夫)に接近し、その人脈を利用してアメリカのハリー・トルーマン政権やドワイト・アイゼンハワー政権につながった。そして設立されたのが「ビルダーバーグ・グループ」だ。

 プロメテウス同盟には当初、ウクライナのナショナリストも参加し、「OUN(ウクライナ民族主義者機構)という団体が生まれ、その中の強硬派がステパン・バンデラの周辺に集まる。2013年11月から14年2月にかけての暴力的クーデターでビクトル・ヤヌコビッチ政権を倒したのはバンデラの信奉者たち、いわゆるネオ・ナチだ。ネオ・ナチは2004年以降、バルト3国にあるNATOの訓練施設で軍事訓練を受けたと言われ、ポーランド外務省は2013年9月にクーデター派の86人を大学の交換学生を装って招待、ワルシャワ郊外にある警察の訓練センターで4週間にわたり、暴動の訓練を受けたと伝えられている。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、昨年2月24日にロシア軍がミサイルでウクライナに対する攻撃を始めた直後、ウクライナ軍は壊滅的な打撃を受けている。ドンバスへの軍事侵攻を行うために部隊を集結させていたため、一気に叩かれてしまったと言われている。その時点でウォロディミル・ゼレンスキー大統領はイスラエルのナフタリ・ベネット首相を仲介役としてプーチン大統領と停戦交渉を始めている。そうした交渉をアメリカやイギリスが潰したことも書いてきた通り。

 その後、アメリカ/NATOはウクライナへ武器弾薬を供給、軍事情報を提供、昨年夏頃にはNATOが指揮していたとも言われているが、十分な訓練をしないまま前線へ送り出され、「玉砕戦法」を強いられた。アメリカ/NATOはウクライナ人の命を軽視しているので可能な戦法だ。

 ロシア軍の地上部隊として活動してきたワグナー・グループはソレダルに続いてバフムート(アルチョモフスク)を制圧、エフゲニー・プリゴジンは5月20日にアルチョモフスクの「解放」を宣言、その際にセルゲイ・スロビキン上級大将とミハイル・ミジンチェフ上級大将に謝意を表している。

 6月4日にウクライナ軍は「反転攻勢」を始めたが、​フォーブス誌によると、6月8日にウクライナ軍の第47突撃旅団と第33機械化旅団は南部の地雷原を横断しようとした試みて壊滅的なダメージを受けた​。その後も無謀な攻撃を繰り返し、反転攻勢の失敗は明確になる。

 そして6月23日、ロシアの連邦保安庁(FSB)はワグナー・グループを率いるエフゲニー・プリゴジンの捜査を開始したと発表される。その日、プリゴジンはワーグナー・グループの部隊を率いてロストフ・オン・ドンへ入り、ロストフ・オン・ドンからモスクワへ向かうように命令したとされている。

 この話が流れると、​マイケル・マクフォール元駐露大使やアン・アップルバウムのようなワシントンの「専門家」はプーチン政権の崩壊を妄想し、大騒ぎだった​が、展開が奇妙だということは本ブログでも書いてきた。

 そこで、ロシア軍は「マスキロフカ」、つまり欺瞞作戦を行なっているのではないかという仮説が出てきた。例えば、西側の情報機関からプリゴジンに何らかのアプローチがあり、誘いに乗ったふりをしたというストーリー。ワグナー・グループを動かし、西側がロシア国内に作ったネットワークを動かして実態を調べようとしたのかもしれない。

 ワグナー・グループが創設される際、ロシア軍参謀本部の第1副本部長を務めているウラジーミル・ステパノビッチ・アレクセーエフ中将が背後にいたと言われ、しかも今年5月4日からミハイル・ミジンチェフ上級大将が副司令官を務めている。セルゲイ・スロビキン上級大将も関係していた。

 プリゴジンと同じようにロシア軍第58統合軍を指揮していたイワン・ポポフ少将もセルゲイ・ショイグ国防相やワレリー・ゲラシモフ参謀総長を批判、解任されたと噂されていたが、実際はシリアに派遣され、ロシア軍の軍事作戦を指揮しているという。

 こうしたロシア軍の将軍やプリゴジンは何の咎めも受けていないようだが、別のロシア軍幹部16人が粛清されたという未確認情報が流れている。アメリカ/NATOがロシアに築いたネットワークをあぶり出す作戦だった可能性もあるだろう。

 バラク・オバマ政権が行った2014年のクーデターはウクライナで内戦を引き起こしただけでなく、ロシアと中国を接近させ、両国は戦略的な同盟国になっている。

 ロシアと中国を分断させようと努力していたひと世代前の好戦派、例えば​ヘンリー・キッシンジャー​や​ズビグネフ・ブレジンスキー​はネオコンのクーデターで自分たちの戦略が崩れたと考えたようだ。軌道修正しなければならないということだが、自分たちを優秀だと信じているらしいネオコンは力で押し切ろうとしてきた。その結果、彼らは追い詰められたネズミと同じように、厳しい状況に陥っている。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202307220000/
7:777 :

2023/09/15 (Fri) 20:38:57

06年11月7日 (11年1月29日 記述を追加)
ポーランド・・・(韓国人のメンタリティとの共通性)
https://kinoufuzenkazoku.hariko.com/06-11/06-11-07.htm

このメールマガジンでは韓国の問題を取り上げることが多くあります。
別に民族問題云々を申し上げているわけではありません。韓国人はダメダメ家庭の具体的な特質を、実に多く持っている・・・だから、ダメダメの例示としては最適である。そんな観点です。

もちろん、世界には多数の国があり、韓国と同じようなダメダメな特質を多数持っている国も多くある・・・それは簡単に予想できること。
ダメダメ家庭の特徴は、会話不全と、当事者意識の欠如と、強い被害者意識と言えます。
それらが、色々な形で合わさって、ダメダメの具体的な諸相になっている。

今回は、韓国と同じようにダメダメの特質を強く持っている国として、ヨーロッパのポーランドを取り上げます。

と言っても、私個人はポーランドには行ったことはありません。前回の文章において、ちょっと言及したアメリカの作家ウィリアム・スタイロンの小説「ソフィーの選択」の中で、アメリカ南部と、ポーランドの類似点を描写した箇所があります。
その類似点が、まったく持って、韓国とも共通、つまり典型的なダメダメ家庭の特質そのものなんですね。

アメリカ南部も、ポーランドもダメダメと言うことなんでしょう。

かなり長くなりますが、スタイロンが描写したポーランドとアメリカ南部の共通点を小説「ソフィーの選択」から抜き出してみましょう。
それに、せっかく、図書館から借りた本が、まだ手元にあるわけだし・・・

と言うことで、以下引用です。

『国の魂、内奥深く荒らされた陰鬱な心、苦悩の中から形成されたその心が、逆境と貧困と敗北からなるアメリカ旧南部のそれと類似しているのだ。・・・退屈なほど一定の間をおいて「よそ者」に規則正しく踏みにじられ、搾取されてきたポーランドは、南部と同じく貧困にさいなまれた農民的な封建社会だ。古い昔からの屈辱に対抗する一つのとりでが精神的な誇りである点も旧南部と共通している。家系や家名への誇り、それに概して作為的な貴族や身分への誇りがあることも記憶すべきだろう。敗北して、ポーランドもアメリカ南部も熱狂的な愛国主義を生んだ。その他にも、馬や軍事的な肩書きへの情熱、女性を支配下におきたいという欲望、民話を語る伝統、火酒の恵みに耽溺することなども共通だ。それに意地の悪い冗談の対象になることなども・・・
・・・どちらも、何世紀に渡ってすべてを包含する精神分裂病の悪夢を生み出してきた。ポーランドもアメリカ南部でも、残忍と憐怒、偏狭と理解、敵意と友愛、搾取と犠牲、焼き焦がすような憎悪とやるせない愛情と言った相対するものを、同時に作り出してきた・・・』
(「ソフィーの選択」前巻 346ページから)

いや~呆れるほど、韓国についての描写と共通しているでしょ?もちろん、北朝鮮とも実に共通しています。
これらの心情なり行動を一言で言ってしまうと、こんな感じかな?

『習慣化された自己弁護』

「ワタシは悪くない!」
そのような自己弁護がもはや習慣化されてしまっている。「悪いのは全部○○のせいだ!」なんて言葉が、もはや何も考えずに出てくる。
そしてその犯人認定したものを、いじめることによって、「こいつのせいで、私はタイヘンなことに!!」「ワタシはかわいそうな被害者なんだ!」と自己確認の儀式とすることになる。

しかし、そうやって、自己弁護ばかりが上手になってしまったので、ますます「敗北」に慣れてしまう。そうやって「敗北」に安住して、ますます自己弁護。
いじめることが、自己弁護につながるので、どうしても、やり方がどんどんと残酷になってしまう。
自己弁護に浸って、自分で考えることをしないので、どうしても既存のカテゴリー分類だけでものを見る。だから人種差別が起こりやすい。アメリカ南部の人種差別はいうまでもないことですが、ポーランドのユダヤ人差別も有名ですよね?第2次大戦前のドイツにいたユダヤ人は、ポーランドから逃げてドイツに行ったという側面もあるくらい。それに、まあ、韓国人の人種差別については言うまでもないほどでしょう。

ポーランドも・・・周囲には大国がひしめいている。
ドイツ,ロシア,スウェーデン、かつてのオーストリア・・・
韓国も、北朝鮮も・・・言うまでもないこと。

「戦争しても、どうせ負けちゃうんだ!」と諦めきっているから、何も考えないし、何も準備しない。そうして見事に敗北して、「内部の敵」を探してリンチ。
「何もかもコイツのせいだ!」

そんな姿を見ていた周囲の人は・・・
『やっぱりアイツらは、ダメなヤツ!』

何でもポーランド人は、周囲の国から、「侮蔑」のまなざしで見られるそうですが、こんなことをやっていたら、そりゃ軽蔑されますよ。

日本人は、ヨーロッパの国々の違いなんてよくわかりませんが、やっぱりヨーロッパの中でも「格」が上の国と、格が下の国があるんでしょうね。これは単に人口とか、面積の問題ではなく、国民の品格のレヴェルという意味で・・・

ポーランド人は「ポラ公」(polack)なんて言われたりするそうですが・・・そんな言い方がいいわけがありませんが、そんな言い方をされるのを本人たちが呼び込んでいる・・・そんなもの。
そしてダメダメな人間は、自身に浴びせられたそんな侮蔑を、自分が受けた被害と捉え、逆上するばかり。逆上して、やっぱり、内部の敵をリンチして憂さを晴らす。そんなことばかりだから、周囲からますます相手にされなくなる。

小さい国でもスイスとかチェコだったら、侮蔑を向けられることはありませんよね?チェコはボヘミアだからボヘミアンなんて言い方がありますが、ボへミアンは、ちょっと違う意味だし・・・
チェコはそれこそボヘミアン・カラスなど工芸品もさかんで、首都のプラハは・・・私は、行ったことはないけど・・・きれいな街らしい。しかし、ポーランドには何があるの?
東欧の小さな国の中でも、様々な特徴がある・・・日本人には分かりませんが、そんな中ならダメダメについて考えるヒントもあるんでしょうね。

韓国の問題だって、韓国の事情から考えるよりも、ダメダメ家庭の一般的な特質から考えていった方が理解しやすいわけです。ダメダメな心は、どこにもあるわけですし、誰だって程度問題は別として、持っているわけです。

ちなみに、「ソフィーの選択」でのソフィーがポーランド人です。その恋人であるネイサンがユダヤ人です。このネイサンはやたらアタマがよく教養がある人ですが、ユダヤ人らしく不幸自慢の傾向がある。
「オレは、ユダヤ人だから、自分が苦痛や苦難の権威だと思っている。」なんて言葉も出てきます。自分が一番不幸な人間だから、他者の不幸には頓着しない・・・そんな傾向も持っている。

苦痛とか、苦難とか・・・そんな言葉からしか自分自身を考えられない・・・それって、やっぱりダメダメの典型でしょ?
こんな2人だからこそ、「入れ込み」「入れ込まれ」で、ドメスティック・ヴァイオレンスになり、やがて心中することになってしまう。

「ソフィーの選択」におけるソフィーもネイサンも、頭脳は明晰な人ですが、双方とも「自分が何をしたいのか?」が、明確ではない。
だからこそ、不幸を呼び込んでしまうことになる。そして、呼び込んだしまった不幸の原因を探し、報復する。
そんな報復活動に満足しているがゆえに、ますます「自分としてはこれをしたい!」という発想を持つことがない。
まず、「自分はこれをしたい!」って、掲げることは、誰だってできることでしょ?

しかし、心理的に抑圧してしまっていると、敵や犯人を設定し、報復活動をすることがアイデンティティになってしまう。つまり、対抗心に依存するようになってしまうわけです。
そして、心理的に抑圧してしまっていると、敵を設定するにも、自分でしっかり考えることなく、安直なカテゴリー分類に頼ってしまう。

それこそ、ポーランドではユダヤ人が、敵認定されたわけですし、
アメリカ南部は黒人が、敵認定されたわけです。
そして、韓国では、日本人が敵認定されているんでしょう。
そして、報復行為をすることで、自分たちこそ被害者であり、「悪いのは全部○○のせいだ!」と確認する儀式とするわけです。

別のところでも取り上げておりますが、11年でのサッカーの国際大会で、韓国人選手が、日本人を侮蔑するパフォーマンスを行ったとのことですが、つまり、彼らとしては、それだけ「敵認定」や「犯人認定」に依存しているんですね。
「うまくいかないのは全部○○のせいだ!」と、いつでも言えるようにしておかないと、言い訳ができないことになり、心理的に不安になってしまう。
だからこそ、その侮蔑のパフォーマンスも日本人に向けたものではなく、同胞である韓国人に向けたものになっているわけです。

自己弁護というのは、誰かに分かってほしいというものではなく、自分を納得させればそれでいい。
しかし、そんな姿が、周囲から侮蔑を呼んでしまうのは、本来なら子供でも分かること。
しかし、そんな侮蔑を受けるが故に、ますます「敵認定」や「犯人認定」に依存してしまう。
そんな姿は、ポーランドや、アメリカ南部や、韓国だけでなく、それこそ学校などのイジメの周辺でも見られたりするでしょ?

(終了)
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発信後記

「ソフィーの選択」の作者の死によって、この私も体の調子が悪くなってしまいましたが、改めて思うのが、「文章を書くことは、体に負担になるんだなぁ・・・」と言うこと。

こんなメールマガジンの文章でも、切り口はどうする?導入はどうする?緩急はどうする?エピソードはどうやって入れる?等々・・・色々と考えることがあります。
まあ、読む分には、そんなことまで読んでおられる方はいらっしゃらないでしょうが、書く側は色々と考えるわけ。

しかし、書くために色々と考えるので、文章を読むに際しても、「よく読める」ことになる。
「あっ?これはあのことね・・・」「この人は、もっとも重要な問題から逃避しているねぇ」なんて読んでいてスグにわかる。
よくわかるから、なおのこと体に負担になってしまう・・・
えっ?別に不幸自慢しているわけではありませんよ。
人間にはそれぞれ使命がある、ということです。
R.11/1/29
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