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1:保守や右翼には馬鹿しかいない
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2023/02/26 (Sun) 04:01:38
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雑記帳
2023年02月25日
橋場弦『古代ギリシアの民主政』
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岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2022年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は古代ギリシアの民主政を、後世に美化されたり誹謗されたりした図式ではなく、当時の文脈で読み解こうとします。対象となるのはおもにアテナイですが、広く古代ギリシア世界全体が取り上げられています。アテナイ以外にも民主政のポリスはあった、というわけです。また時間的には、アルカイック期(紀元前8~紀元前6世紀)と古典期(紀元前5~紀元前4世紀)だけではなく、ヘレニズム期(紀元前3~紀元前1世紀)とローマ期(紀元前1世紀以降)も取り上げられています。
古代ギリシアが多数のポリス(都市国家)から構成されていることは、現代日本社会でも有名だと思います。ギリシアではポリスが乱立しており、相互に争いながら平和と秩序を維持せねばならず、そうした課題を背景に民主政が成立していったわけですが、もちろん、現代日本社会でもよく知られているように、古代ギリシア世界の政体が民主政だけだったわけではなく、そうした課題への対応として、民主政以外の政体もあり得たわけです。本書は民主政を、古代ギリシア世界の必然でもアテナイのみの特異的例外でもなく、当時の文脈に位置づけようとします。
ポリスが最初から民主政だったわけではないことも、現代日本社会ではよく知られているでしょうが、ポリスはまず、門閥貴族が参政権を独占する貴族政から始まります。本書は、権威と平等の相克から民主政が形成されていった、との見通しを提示します。まず、すでに紀元前7世紀には貴族政が動揺し始めます。この頃、遠隔地交易が盛んになり、経済的格差が拡大し、一方で豊かになった平民は、紀元前7世紀に重装歩兵が戦力の中心になっていくと、国防の主力を担うようになり、参政権を独占する貴族に不満を抱くようになります。平民と貴族との対立の回避もしくは緩和策として、まず成文法の制定が個々見られます。それまで、裁判権を掌握する貴族が慣習法を都合よく解釈し、自己に有利な判決を下していました。最初期の成文法の多くはクレタ島で確認されています。ただ、成文法を制定したことで民主政への道が必然的に開かれるわけではなく、クレタ島では後世まで貴族政が続きました。
古代ギリシア世界において最初の民主政がいつどこで出現したのか、議論があり、アテナイに先行してキオスなどで成立した、との見解も提示されたものの、現在では否定的に考えられているそうです。本書は民主政の要件として、(1)参政権が広範囲の自由人に与えられていること、(2)1人1票の原則、(3)民会が最高意思決定機関であること、(4)役人の抽選制、(5)裁判権が市民団に与えられていること、を挙げます。その観点では、たとえばキオスでは民会がどの程度国家の意思決定に関わるのか、参政権を有する市民の範囲はどの程度なのか、などといったことが不明なので、アテナイ以前の民主政ポリスを証明できない、と本書は指摘します。
古代ギリシア世界において最初にアテナイで民主政が成立した理由として、本書はまずアテナイの広大な領域を挙げます。平均的なポリスの領域は25km²~100km²ですが、アテナイは2500km²でした。ミケーネ文化の崩壊後に大規模な住民移動などの激動を経なかったアテナイには、スパルタのような非征服民を軍国主義により支配する抑圧機構がなく、広い領土と多数の住民をいかに統合するのか、という難題を当初から抱えていました。アテナイでも、貴族と平民との対立にさいてして、紀元前6世紀初頭にまず成文法が制定されます。このソロンの改革で、負債が帳消しとなり、借財の抵当に市民の体を取ることが禁止されます。市民は農業収入に応じて4等級に区分され、出生ではなく財産により支配層が定義されました。経済力と参政権の不一致がある程度解消されたわけです。最下層の市民も民会に出席できるようになり、判決に不服な者は民会に上訴できるようになったので、民会で多数を占める下層市民は無視できない存在となりました。ただ本書は、ソロンの改革は支配層の再定義による貴族政の改良版にすぎなかった、とその限界も指摘します。
ソロンの改革により、新興貴族と旧来の貴族の対立が激化し、政治が混乱する中で、アテナイでは貴族の1人が民衆の支持を背景に政権担当者となり、この独裁政は僭主政と呼ばれます。すでにアテナイ以外では、紀元前7世紀後半から僭主が出現していました。アテナイの僭主として有名なペイシストラトスは比較的平穏な治世を実現しますが、後継者となったその息子のヒッピアスは恐怖政治を行なったため追放され、スパルタの介入もあって混乱する中、民衆は決起してスパルタ派を追放し、クレイステネスを指導者とします(紀元前507年)。クレイステネスの改革では、出自と貧富に関係なく全市民が平等に参政権を有するようになり、旧来の4部族制は廃止され、地域社会単位を基礎に人為的な10部族に再編され、旧来の貴族の地盤は切断されます。この地域社会単位である区で政治的経験を積むことにより、アテナイ市民は国政水準の政治に参加できた、と本書は評価します。民会は正式にポリスの意思決定機関となり、10部族により構成される軍は国家に直属しました。
クレイステネスの改革により貴族は政治指導者としての地位を失ったわけではありませんが、民衆はもはや貴族に従順ではなくなりました。本書はこれを、事実上のアテナイ民主政誕生と評価します。民衆はアテナイという「想像の共同体」に統合されて軍事力は高まり、近隣のポリスやペルシア帝国(ハカーマニシュ朝)との戦いで活かされます。ペルシア戦争において海戦では下層市民の貢献が大きく、ペリクレスが指導者だった時代にアテナイの民主政は国力とともにさらに充実していき、文化も栄えます。ただ、ペリクレスはアテナイの市民権の要件を父がアテナイ市民であることから、両親ともにアテナイ市民であることに改めており、その意図については長く議論され、まだ決着していないそうです。
国家意思を決定するアテナイ市民の民会は、紀元前4世紀後半には定例会だけで月に2~3回開催されており、定足数の規定は明確ではないものの、5000~6000人程度の参集で市民全体(最盛期で5万~6万人、少ない時では20000~25000人程度)の総意に等しいと考えられていたようです。民主政を実務面で支えたのは、年間250日ほど開催された評議会で、国家財政を一元的に管理するとともに、役人の監督指導や処罰、公共事業の基本計画案作成など、行政的な役割を担いしました。評議会の定員は500人で、1年で交替となり、生涯に2回までしか選ばれませんでした。有名な陶片追放については、有力者同士の対立の解決を民衆に委ね、どちらか一方を穏便に政界から退去させることで政争が内乱に激化するのを防ごうとした、との見解が現在では有力なようです。
ペロポネソス戦争はアテナイにとって大きな試練となり、民主政の中断もありました。ペロポネソス戦争中のアテナイの迷走を根拠に、アテナイの民主政を衆愚政と批判する歴史観は根強くあります。ただ本書は、ペリクレスの方針により城壁内にアテナイ市民が退避し、人口密度が異様に高まったことや、それによる疫病など、戦争中はアテナイ市民の心理状態に悪影響を及ぼす状況だったことを指摘します。つまり、一過性の情動により判断が迷走したのではないか、というわけです。また本書は、衆愚政史観の根拠とされてきたトゥキュディデスの『戦史』について、トゥキュディデスはペロポネソス戦争において将軍として遠征して失敗し、死刑判決を受けましたが、その時アテナイ政治の主導権を握っていたクレオンに恨みを抱き、ペリクレスとの対比でクレオンを「デマゴーグ」として悪し様に描いたのではないか、と指摘します。本書は、ペロポネソス戦争中とその後の寡頭派によるクーデタを乗り越えて再建されたアテナイの民主政の強靭さを指摘します。本書は、紀元前399年のソクラテスの処刑もアテナイの民主政再建の文脈で解釈しており、ソクラテスは寡頭派と近く、その弟子には民主政への敵対者が多かった、と指摘します。
ペロポネソス戦争後のギリシア世界では、ペルシアの援助を得ての諸国間の争いが絶えず、ペロポネソス戦争により覇権を掌握したかに見えたスパルタはテバイに敗れ、テバイの覇権も10年程で終わり、復興したアテナイはかつてのデロス同盟より緩やかな海上同盟を結成しますが、同盟国に離反され、海上での覇権を掌握することは二度とありませんでした。しかし、こうしたギリシア世界のポリス間の抗争による混乱はあったものの、アテナイの民主政は成熟し、民会の回数も以前より増え、市民の政治意欲は衰えませんでした。本書は、役職を市民としての名誉(ティメ)と考える価値観が民主政を支えており、すでに民主政か寡頭政かを問う選択は現実的ではなくなっていた、と評価します。
ギリシア世界全体でも、民主政の最盛期はペロポネソス戦争の後に訪れ、寡頭政や僭主政が大きな割合を占めるものの、ギリシア世界全体では1/3ほどのポリスが民主政だった、と本書は推測します。アテナイの次に有力だった民主政ポリスは、隣国のスパルタと宿敵の関係にあったアルゴスです。アルゴスは、紀元前494年のスパルタとの戦いに敗れて大打撃を受け、戦力補充のため農奴身分の住民に市民権を与え、紀元前460年代に民主政が成立しました。アルゴスもペロポネソス戦争中にスパルタに敗れて寡頭政となったこともありますが、半年で民主政に回帰しました。ペロポネソス戦争後のギリシア世界において民主政が最盛期を迎えたのは、寡頭政の代表的ポリスであるスパルタが衰退したことと関係しているようです。このように、アテナイ以外にもギリシア世界で民主政ポリスは多かったものの、アテナイの勢力圏外のシラクサで民主政が採用されたように、アテナイが民主政を押しつけたわけではありません。しかし本書は、アテナイの民主政を多くのポリスが主体的に選択していったことを強調し、アテナイがギリシア世界における民主政拡散の中心地だった、と指摘します。
ギリシア世界のポリスの自立性は、マケドニアの拡大により軍事や外交の決定権を奪われていきますが、それでもポリスは市民生活の基盤であり続け、ヘレニズム期にはむしろポリスの地理的範囲が大きく拡大した、と本書は評価します。アテナイは、アレクサンダー死後の紀元前323年に独立を求めて決起しますが、マケドニアに敗北し、民主政は廃止されます。しかし、民主政が定着していたアテナイでは、その後もたびたび独立と民主政回復を求めて決起し、ローマ軍に占領される紀元前1世紀前半まで、少なくとも4回民主政が復活しています。しかし、政治参加が富裕層に偏っていく傾向は否定できませんでした。本書は、アテナイの民主政の終焉年代の具体的な特定は困難と指摘します。
マケドニアの拡大以後も、民主政はアテナイだけではなく小アジア沿岸諸国などでも存続しました。しかし、紀元前2世紀後半までにはギリシア世界はおおむねローマの直接統治下に置かれ、民主政が急速に衰えていきます。紀元前86年、第一次ミトリダテス戦争でローマに対して反乱を起こしたアテナイはローマ軍に敗れ、過酷な戦後統治の中で民会は形骸化していきます。それでも、ローマの属州都市にすぎなくなったアテナイは、自らの政治体制を「デモクラティア」と呼び続け、民会は少なくとも紀元後220年まで続いたことが確認されています。アテナイで民会がいつ廃止されたのかは、不明です。
本書は最後に、古代ギリシア世界の民主政が後世にどのように語られたのか、検証します。古代ギリシア世界の民主政は普通の人々が積み重ねた経験であり、体系的な政治理論を残さなかったので、その記憶が急速に失われたのに対して、民主政を批判したプラトンやアリストテレスの論は、その後で長きにわたって権威ある古典として継承された、と本書は指摘します。歴史的現実としての民主政が忘れ去られるとともに、「衆愚政」との評価が残ったわけです。ローマ帝国を含めて、前近代の支配体制のほとんどは君主や貴族による垂直型の強権支配で、古代ギリシア世界の民主政のような市民同士の対等で自由な関係に基づく水平型の支配は稀な例外でした。ルネサンス期にギリシアの古典が賞賛されるようになっても、民主政には嫌悪感が抱かれました。古典を読み解けるような人々は当時の支配層なので、民主政は危険に思われたわけです。18世紀の啓蒙思想でさえ、古代ギリシア世界の民主政には冷淡でした。市民革命で理想とされたのも、ローマ共和政であってアテナイ民主政ではありませんでした。エドマンド・バーク(Edmund Burke)のようなフランス革命に否定的な論者も、アテナイ民主政を最悪の専制と評価しました。
19世紀になると、民主主義を古代ギリシア世界の民主政の評価と切り離す傾向が現れ、直接民主政は近代国家に不向きで、代表制による間接民主政が最善と論じられるようになります。奴隷制に立脚するとして古代ギリシア世界の民主政を批判する論調は、マルクス主義に始まりました。20世紀に出現した社会主義国や大衆社会を危険視する立場からは、アテナイ民主政が群集支配の典型として批判されました。本書は、フランス革命の「革命的民衆」もマスメディアに誘導される「孤独な群集」も古代ギリシア世界には存在しなかったのに、反革命論者はそれを古代アテナイの民主政に投影した、と指摘します。本書は、民主主義が普遍的な価値として体制の違いを超えて認められるようになったのは、「ファシズムと民主主義との戦い」に連合軍が勝利した第二次世界大戦後のことだった、と評価しています。本書は、近代民主主義と古代ギリシア世界の民主政の違いとして、前者の基本が「代表する」ことにあるのに対して、後者は「あずかる」若しくは「分かちあう」ことにある、と指摘します。
21世紀には、民主主義を最初に発明したのは古代ギリシア人ではない、という論調が強くなります。住民が集会での熟議により意思を決定する政治様式は、古代のエジプトやメソポタミアやインドや中国など世界各地に見られ、民主主義を古代ギリシア世界だけの遺産と考えるのは西欧中心主義的な偏見である、というわけです。しかし本書は、民主政とは単なる集団的意思決定だけではなく、市民団自らが権力者で、少なくとも理念上は王や両者のような上位権力があってはならず、これは他の古代世界にはないギリシアに固有の特徴だった、と評価します。本書は、現代人が民主主義について語るさいの、ギリシア人の経験に負っている重みを指摘します。
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2:保守や右翼には馬鹿しかいない
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2023/02/26 (Sun) 04:37:17
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ヨーロッパ人の起源
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インド・イラン語派やバルト・スラブ語派のアーリア人の Y染色体は R1a
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1-14. ギリシャはヨーロッパなのか?? 地中海とバルカン半島の遺伝子は?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-14.htm
エーゲ海の民族の古代ゲノム研究
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氷河時代以降、殆どの劣等民族は皆殺しにされ絶滅した。
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2024/10/01 (Tue) 12:49:10
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【ギリシア】なぜ衰退した?日本人が知らない問題だらけの歴史! 栄光の時代は古代だけ
世界史解体新書 2024/09/30
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