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二・二六事件の映画化 _ 高倉健 吉永小百合『動乱』(1980年東映)

1:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/02/25 (Sat) 14:56:54

動乱  第1部 海峡を渡る愛/第2部 雪降り止まず
https://www.youtube.com/watch?v=ELnaqAgrGxw

皆様の日頃のご愛顧に感謝して、東映シアターオンラインでは、2月18日(土)19時から期間限定で傑作長編映画を無料配信します!

【作品名】
『動乱  第1部 海峡を渡る愛/第2部 雪降り止まず』(1980年公開)

【配信期間】
2023年2月18日(土)19:00~2023年2月26日(日)23:59まで

【解説】
昭和史の起点となった五・一五事件から二・二六事件までの風雲急を告げる動乱の中、寡黙な青年将校とその妻の愛と生きざまを、一大叙事詩として二部構成の雄大なスケールで綴った感動のドラマ。高倉健と吉永小百合の二大スターの初共演作としても話題を呼んだ傑作。

【ストーリー】
雪は知っていた。寡黙な愛ほど強く激しいーーことを。男が男であった、女が女であったーー時代とは。愛とは。
激動の昭和の時代に、男が男として、女が女として生きた姿を鮮烈に描いた超大作。物語の背景は、昭和7年から昭和11年。経済恐慌と凶作が重なり苦しみを強いられる庶民たち、皇道派と統制派に分裂する陸軍内部、昭和維新の声が高まる皇道派の青年将校たち、そして決起される二つのクーデター。昭和史の起点となった五・一五事件から二・二六事件までの風雲急を告げる動乱の中、時代の波に翻弄されながらも信念を貫き生きる寡黙な青年将校と、その妻との愛と生きざまを、一大叙事詩として二部構成の雄大なスケールで綴った感動のドラマ。仙台、朝鮮、山陰、雪の東京へと移り行く風景とともに、決して変わることのない“日本人の心”が浮き彫りにされていく。

【キャスト】
高倉健/吉永小百合/米倉斉加年/桜田淳子/永島敏行/にしきのあきら/小林稔侍/田中邦衛

【スタッフ】
監督:森谷司郎
脚本:山田信夫
2:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/02/25 (Sat) 19:45:48

『動乱』(どうらん)は、1980年1月19日に公開された日本映画。製作は東映・シナノ企画。第1部「海峡を渡る愛」、第2部「雪降り止まず」の2部構成。高倉健と吉永小百合の初共演が注目を集めた[2]。ビスタサイズ、映倫番号:19659。

昭和史の起点となった五・一五事件から二・二六事件までの風雲急を告げる時を背景に、寡黙な青年将校とその妻の生きざまと愛を描く[3][4]。脚本は『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』の山田信夫、監督は『聖職の碑』の森谷司郎、撮影は『天使の欲望』の仲沢半次郎がそれぞれ担当[5]。

あらすじ

第一部
宮城啓介の所属する隊で部下である溝口英雄が脱走した。家に帰っていないか実家を訪ねると姉の薫が借金の方として女郎屋に売られることを知る。近くで英雄が見つかったという報告を聞き現場に行く途中銃声が鳴り響いた。そこには拳銃自殺を促されるも死にたくないともみ合いとなり誤って殺された原田軍曹と銃を握ったままの英雄が立っていた。それから数か月後に英雄は銃殺刑、部隊は再編され啓介は朝鮮の国境警備の任に当たる。

ある夜、兵士宿舎の慰労に女郎屋がやって来た。生真面目な啓介は興味を示していなかったがその中に薫を見つけ思わず彼女を引き取る。

吹雪の日、匪賊との小競り合いで部下から撃ってきた銃弾が日本製だと訴える。日本軍が兵器の横流しを行っていたのだ。愕然としている啓介の元へ賊軍がまた攻めてきて弾丸が尽きた部隊は剣で突撃をかけ多くの戦死者を出した。啓介は軍に対する不信感と怒りで肩を震わせた。

第二部
舞台は日本に戻り、啓介は自分の家に薫を住まわせ、家には皇道派の青年将校が訪ねてきては軍の腐敗を愚痴り、向かいには憲兵曹長の島が絶えず見張りをしていた。

啓介は薫に鳥取旅行に連れていくが、薫は過去に相手をした将校に出会い彼女は羞恥の目に曝されながら旅行を終えた。

ある日、薫は上司に当たる皇道派の神崎の妻が双子の息子との幸せな光景を見て未だ籍を入れる所か抱こうともしない啓介に自分の体は汚れているから抱けないのかと訴える。

青年将校たちの不満は募る一方、啓介は決起に向かっていく。


スタッフ
監督:森谷司郎
脚本:山田信夫
音楽
プロデューサー:多賀英典
ディレクター:星勝

作曲:三枝成章
イマジネーション:小椋佳

主題歌「流れるなら」
キティレコード

劇中曲
ブラームス「弦楽六重奏曲第1番 変ロ長調 作品18 第2楽章 アンダンテ・マ・モデラート」


出演者
宮城啓介:高倉健
溝口薫:吉永小百合

以下、グループごとに記述

島憲兵曹長:米倉斉加年
高見葉子:桜田淳子
神崎忠之:田村高廣
宮城広介:志村喬
広津美次:佐藤慶(ナレーター兼任)
小松少尉:田中邦衛
三田村利政大将:金田龍之介
小林少佐:岸田森
朴烈全:左とん平
三角連隊長:小池朝雄
看守:川津祐介
溝口英雄:永島敏行
野上光晴:にしきのあきら
安部憲兵隊長:戸浦六宏
水沼鉄太郎少将:天津敏
神崎昌子:日色ともゑ
特別出演:阿部正弘、岩瀬恵保、数佐三郎、高木禮二、蛭田正、山口明
溝口錦造:久米明
笹井田巖:嵯峨善兵
原田軍曹:小林稔侍
柴田大佐:近藤宏
永井上等兵:織田あきら
島田少尉:遠藤征慈
安井大尉:新田昌玄
本間大尉:中田博久
三浦大尉:柏木隆太
伊沢大尉:辻萬長
白鳥大尉:和田周
立原中尉:神有介
岩崎中尉:滝川潤
片山中尉:岡幸次郎
熊谷中尉:斉藤真
瀬戸中尉:石原昭宏
石川中尉:森祐介
山崎中尉:森田秀
福田少尉:福田勝洋
安達中尉:安立義朗
鹿島義一郎大将:小堀阿吉雄
立石少佐:田中浩
山岡徹也
少佐:名和宏
牧野憲兵上等兵:森下哲夫
小森少尉:浜田晃
折口二等兵:青木卓
土山登士幸
看守長:和崎俊哉
地唄舞:吉村佳紘
下山千鶴
岩田喜美子
坂本和子:佐野美智子
進藤幸
摂裕子
和田瑞穂
古年兵:阿藤海、清水照夫、高月忠、沢田浩二、青木茂、山田茂、村添豊徳、大島博樹
伍長:亀山達也
通信兵:稲葉裕之
朴の配下:三重街恒二
将校:団巌
犬養毅首相:瀬良明
蔵相(高橋是清):野口元夫
内大臣(斎藤実):山本武
侍従長(鈴木貫太郎):稲川善一
海軍中尉:中屋敷鉄也、黒部進、安永憲司
清水一郎
河合絃司
梅沢実
女衒:佐川二郎
裁判長:相馬剛三
山浦栄
背広服の男:木村修
仲塚康介
秋山敏
山田光一
伊東二等兵:橋本成治
利水一仁
初年兵:大蔵晶、町田政則、赤石富和
木村栄
坂口幸徳
吉野恒正
田口和政
小松陽太郎
杉本隆
山崎義治
加藤豪一
海軍少尉:庄司喬
医者:高野隆志
士官候補生:宮地謙吾、高野晃大
小山昌幸
宮崎靖男
細谷有喜子
広京子
森愛
岡麻美
阿部里香子
染谷仁奈
アナウンサー:納谷悟朗
製作
企画
企画はのちの東映会長で、当時フリーのプロデューサーだった岡田裕介[6]。ただ本作で岡田裕介と共にプロデューサーを務めた坂上順は「『動乱』は岡田茂社長自らの企画」と述べている[7]。岡田裕介の東映での初プロデュース作は、1978年の『宇宙からのメッセージ』だが[8]、『宇宙-』は途中からの参加であるため、自身がはじめから企画した作品としては本作が東映での初プロデュース作[8][9]。

『宇宙-』に参加する少し前に、父親の岡田茂東映社長から「東映もブロックブッキングを考えないといけないので、東映イメージに囚われないでいいから何か企画を考えろといわれた」と話している[9][10]。岡田は、父親の標榜する「"不良性感度"は得意でないし、自分は東宝の青春映画育ちでもあるし、デヴィッド・リーン作品に最も影響を受けていて、大作志向で10年に1本自分が作りたい映画を製作したい。それなら従来の東映カラーを破るものとして、生と死と愛、大きなドラマと取り組みたい」と考えた[6][9]。恩師でもある森谷司郎と飲み、「自身が一番こだわりのある二・二六事件を題材に映画を作りたい」という話をした[10][11]。女性がたくさん登場する原作を探し、澤地久枝原作の『妻たちの二・二六事件』(1972年)の映画化を最初に考えた[9][10][12]。『妻たちの二・二六事件』は群像のドキュメントで、決起した青年将校らの妻たちを作家が訪ね歩き、その肉声を記録したもの[13]。しかし、その人たちの多くは当時存命であったため、肖像権やプライバシーその他の問題でご破算になった[10][13]。出演者の中には、この『妻たちの二・二六事件』原作なら、と出演を承諾した者もいたといわれる[14]。

このため二・二六事件を題材に脚本を書いて欲しいと山田信夫に依頼[10]。「舞台は昭和初期であっても、現代の青春映画。時代背景として大きな事件を借りたが、狙いはリアリティのある女性もの」として企画した[10]。

プロットとして「現代は人々の生きざまが非常に多様になっているが、究極のテーマとしては、生きる、死ぬ、女を愛す、男を愛す、そういう感情以外にはない」その感情を象徴する日本人のひとつのパターンとして、二・二六事件に絡むひと組の男女を選び、それを演じる役者として、お客さんに信用のある高倉健と吉永小百合を絞り込んだ[9][15]。岡田は昔から高倉と吉永の大ファンでもあり、企画として考えた時、二・二六事件の暗い素材を考えると、ふたりの初共演という組み合わせでないと描き切れないと思い、両者が出演OKしなければ、企画は流すつもりでいた[9][10]。先に吉永に出演OKをもらったが[10][16]、「高倉さんが駄目と言ったら企画は流します」と吉永に伝えた[17]。森谷にも企画が成立したら監督を引き受けると了解も取り[10]、山田にも「高倉健・吉永小百合をイメージして脚本を書いて下さい。二人のピンチヒッターは考えていません」と伝えた[10]。しかし当時の高倉は1977年の『八甲田山』『幸福の黄色いハンカチ』の各映画賞の独占で、テレビドラマも含め、映画各社"高倉もの"という企画が目白押しで、出演オファーが殺到していた状態[11][18][19]。また高倉は『八甲田山』の撮影を終えたばかりで、「こういう悲劇的な作品に続けて出るのは気が進まない。死ぬのはつらい」などと言われ、高倉がなかなかOKしてくれず、何度も足を運び、実現するまで2年待った[17][20]。自分が断われば、企画が流れるとあって根負けし出演を承諾した[12]。

脚本
『妻たちの二・二六事件』は使えず、山田信夫のオリジナル脚本となった[9][13]。

登場人物は大半が架空の人物[11]。設定その他、フィクション部分も多い[11][21]。とはいえ、『妻たちの二・二六事件』に書かれたエピソードも使用されており、高倉健演じる宮城啓介と吉永小百合演じる溝口薫の下敷きになったのは磯部浅一、登美子夫妻と見られる[14]。

キャスティング
高倉健は前述のように出演オファーが殺到する状況であったが[18]、「ちょうど男と女の話にグンとウエイトがかかっているものをやってみたい」と思っていたこともあり[21]、吉永小百合との初共演ということもありで本作の出演を決めた[21]。高倉のギャラは日本映画では当時の最高額といわれた2500万円[22][注 1]。8か月に及ぶ長期間の撮影ということもあり高額になった[22]。とかくゼニカネにシビアといわれ[23]、契約交渉のたびに揉めていた高倉の長年のギャラ闘争が実った形となった[22]。

吉永小百合は脚本を読み、「以前からやりたかったイメージの役」と出演オファーを受けた[24][25]。吉永は東映初出演「東映撮影所はヤクザ映画イメージが強くてコワそう」とビビっていたが[25]、スタッフともすっかり溶け合い、以降、東映付いた[24]。吉永のギャラは50日間の撮影にも関わらず、600万円、吉永は自分の気に入った役柄以外はお断りと表明していたため、人気のわりにギャラは安かった[22]。また当時の映画会社には「主役が女優では客が来ない」という考えがあり、男性俳優に比べて女性俳優は全体的にギャラは安かった[22]。しかし女性俳優は男性俳優よりテレビドラマやCMが多かったため、人気女性俳優になれば、収入はあまり男性俳優と変わらなかった[22]。

ナレーターの佐藤慶は岡田裕介プロデューサーのキャスティング[26]。佐藤は初めてナレーターを務めた[26]。

主題歌
主題歌を担当した小椋佳は、小椋のファーストアルバム『青春~砂漠の少年』で、岡田裕介が語りとジャケット写真を担当してからの縁[27]。

製作記者会見
1979年3月5日、赤坂プリンスホテルグリーンホールで製作発表記者会見が行われた[28]。高倉健、吉永小百合、森谷司郎監督、岡田茂東映社長、福島シナノ企画代表取締役、岡田裕介プロデューサー、多賀英典音楽プロデューサー等が出席[28]。

提携
会見で岡田裕介プロデューサーは、提携シナノ企画を意識して「良心的な作品にしたい」と話した[28]。岡田茂東映社長は「東映はヤクザな会社だと思われていたらしいが今度やっと提携してもらえた」と声を弾ませた[28]。

シナノ企画の観客動員力は実証ずみ[14][28][29]。岡田茂は「最高の動員体制を敷ける作品になる」と話した[30]。岡田は1973年に東宝が創価学会と提携して『人間革命』を製作して大ヒットさせたことに驚き[14][31][32]、これを"公明党方式"と名付け[33]、前売り券を組織にまとめ買いさせる商法を積極的に推進していった[34][35][36]。

このビジネスモデルは今日の東映作品にも引き継がれている[36]。深作欣二が岡田に『柳生一族の陰謀』(1978年)の企画を持ち込んだとき、「主役は萬屋錦之介でいける。何よりあそこは後援会がしっかりしてる」と即断し、まだ前売り券を大量に捌く手法が確立されていない時代に「萬屋の後援会が引き受けてくれたら、勝負はもらった」と閃いたことが「会社のトップとして大したもの」と深作を感心させた[37]。

岡田は『柳生一族の陰謀』の成功で、大作路線に舵を切った[38][39]。岡田は1979年1月の『映画ジャーナル』のインタビューで「映画界はこれから配給中心に回る。製作意欲のあるプロデューサー、それが企業内であろうと社外の独立プロデューサーであろうと配給・宣伝が組んで興行力のある作品を作ってゆくユナイト方式になる」と述べている[40]。

高倉健・吉永小百合の初共演で、最初から興行的レベルが高かったが[41]、シナノ企画との提携を得られ、公開前から興行保障を実現させた[14][28]。

製作費
直接製作費[注 2]2億8000万円[42]、間接製作費2億5000万円で[注 3]、計5億3000万円[42]。宣伝費は含まれない[42]。

約9億円と書かれた文献もある[28]。岡田裕介は10億円と話している[9]。

撮影
撮影は1979年2月から断続的に10月までの約8か月[21][43]。主たる撮影は6月中に終わり、同じ高倉が主演する松竹・山田洋次監督『遙かなる山の呼び声』が北海道で、1979年6月初旬にクランクインし[20][21]、以降、秋、冬とあり、夏と秋に少し撮影が重なる時期があった[21][44]。両作とも、四季を通じての撮影で、季節の変化をきっちり捉えて、撮影期間をたっぷり取り、製作費も充分に継ぎ込んだ[16][44][45]。吉永も1年かけて映画を撮るのは初体験で[16]、四季を追うため、何度か休みがあり、気持ちを引っ張っていくのが難しかったと述べている[46]。二・二六事件を扱うため、冗談を言いながらワイワイガヤガヤ作っていく性質の映画でなく、高倉も撮影は相当しんどかったと話した[20]。森谷監督も並行して『漂流』の準備を行った[47]。

ロケ記録
1979年2月北海道[24][48]。1979年3月、吉永が参加し、北海道サロベツ原野ロケ[49][50][51][52]。気温氷点下8℃。ここで吉永が自殺を謀るが果たせず、見せしめのためリンチされるシーンの撮影が行われた[50][52][53]。吉永は長襦袢一枚を纏い、4時間ロープで木に吊るされ、仮死寸前だったといわれたが[50]、このシーンはカットされた[52]。

北海道は他に旧旭川偕行社[54]、豊富温泉などでロケ[48]。その後北海道で雪のシーンを撮り、1979年4月半ばから5月下旬か6月まで東映東京撮影所でセット撮影[52]。朝鮮国境守備隊や朝鮮の料亭で高倉と吉永が再会するシーンなど[52]。5月下旬、桜田淳子が撮影に加わりセットのムードが華やかになる[52]。夏、静岡県大井川鐵道と浜岡砂丘でロケ[52]。SL列車が走る大井川鐵道新金谷駅を山陰本線八木駅に見立てて撮影[52]。線路脇に見物人が押しかける。

静岡ロケの後、東京撮影所でセット撮影に戻る[52]。

1979年10月、東北ロケ[16]。第二部の冒頭シーン[55]。シナリオでは東京近郊だったが「日本ならではの美しい秋の絵をいくつか重ねて主人公が登場する。抜けるような空と、燃えるような紅葉が必要」とする森谷監督の意向[55]。当初十和田湖半を予定していたが、狙い通りの紅葉がなく、八幡平赤川温泉に変更された[52]。俳優参加の撮影は10月半ばでクランクアップ[21][52]。

その後撮影隊は千葉県の海岸に向かい実景撮影。

興行
「トラック野郎シリーズ」第10弾『トラック野郎・故郷特急便』の成績があまりよくなく[56][57]、4日早めて公開を繰り上げた[56][57]。

作品の評価
興行成績
配給収入9億5000万円[1]。1980年配給収入ベストテン10位。

後の作品への影響
吉永小百合は日活の看板女優として活躍後、松竹や東宝に出演していたが、日活のイメージがあり、監督の森谷司郎も東宝イメージのため、日本映画の大作化で会社のカラーを無くしたハシリの映画でもあった[58]。また角川映画の影響が大きいが、1970年代の後半から岡田茂社長が「外部を起用しろ」と強い指示を出したため[58]、東映は本作も含め、1978年の『宇宙からのメッセージ』以降、宣伝も外部発注するようになり、ますます会社のカラーは失われた[58]。

吉永は本作で映画は約90本を重ね、継続して人気を保ってきたが、自分では「22歳から35歳くらいまでは何をやってもダメで、ずっとしんどかった」と話している[51][59]。本作の森谷監督と高倉が24時間1日中映画の話しかしないことにたいへん驚いたと語っている。「こういう人たちがまだ映画界に残ってたのか」とふたりの映画に賭ける情熱と、カメラの前以外でも主役である軍人らしくする高倉健の演技姿勢に感銘を受け、「もう一度、心を込めて一つずつ、映画をきちっとやってみようという気になった」と話している[12][51][60]。

高倉は本作以降、1999年公開の『鉄道員(ぽっぽや)』まで、19年の間、東映映画に出演しなかった[61]。

批判
東映は本作公開と同じ1980年の夏、『二百三高地』を公開し、1982年に『大日本帝国』と『FUTURE WAR 198X年』を公開、戦争映画の右傾化が大きな問題になった[62]。山田和夫は、右傾化戦争映画の始まりとして『動乱』を挙げ、「戦争映画といえないかも知れませんが『動乱』は高倉健、吉永小百合という人気スターを主役にして、戦争に向かう日本の歴史というものを大きく歪めた映画として登場してきました。つまり、日本全体を侵略戦争に突っ走らせようとした軍国主義者、ファシストの行動を美化し、愛国者であるかのごとく描いたわけです。それはその年屈指の大作として作られ、愛のドラマとして大宣伝されました。そのため、従来その手の軍隊ものとか戦争映画には寄り付かなかった若い女性層も集めることに成功しました。『動乱』は若い世代の人たちが現代史についての知識に乏しく、学校でもほとんど教えられていない現状に付け込み、誤った歴史の見方を持ち込んできたのです。作り方、宣伝の仕方、歴史の知らない若い年齢層をターゲットにしていることなど、色々な意味で『動乱』はその後の流れを典型的に打ち出した最初の作品といえます」などと論じている[62]。
藤原彰は、「『動乱』は映画の中で戦争を美化し、歴史を偽造しようとすることが本格的にすすめられるようになった最初の映画だと思います。しかもそのやり方は、かつての新東宝のような剥き出しの軍国調ではなく、もっと巧妙です。一見したところ、戦争に疑問を投げかける言辞が出てきたり、悲惨な面にも目を向けたりしながら、戦争を知らない若い人たちの情感に働きかけるという手の込んだやり方をやっています。『動乱』は基本的な問題で大きな歴史の偽造をしています。何よりも反動的なクーデターであった二・二六事件が美化されています。映画では社会の不正を憤った青年将校たちが、貧しい農民の救済のために起き上がったという描き方をしていますが、しかし事件に参加した多くは、将軍の息子たちで、その他の人も軍内のエリートです。農民とは誰も関係がありません。実際は戦争準備の不十分さに苛立った軍人の立場から、より積極的に侵略戦争を進めていこうとする焦りの現れた右翼クーデターです。そういう事件を、まるで純情な青年将校の正義の決起のように描くのは基本的に間違っています。澤地久枝さんの『妻たちの二・二六事件』にも書かれていますが、青年将校たちは蜂起する一週間前に結婚した人や、事件の直前に結婚した人が多いんです。そういう一人の女性の運命を狂わせることに人間的な考慮を払わない、女性に対して優越感、蔑視感を持つ大変思い上がった人間を悲しい愛の物語に仕立て上げ、国家が軍備拡張に熱心でないと批判する青年将校たちの行動を美化して見せる映画です」などと論じている[63]。
増当竜也は「森谷の演出は熟練のスタッフたちの手助けもあって、技術的には申し分ないが、ポイントの定まらない脚本が全てを決定した」などと評している[64]。
山根貞男は、「錯誤極まりない。クライマックスの二・二六事件の描写がまるでなっていない。二・二六事件の具体的推移など、さっぱり分からない。いや、これは二・二六事件映画ではなく、男と女の愛を描く映画だと作者はいうかもしれない。だが、そのとき、メロドラマたることが隠れ蓑になってはしないか。ちゃんとしたメロドラマ映画であるためには、それの背景たる激動の時代、二・二六事件などの推移を描き出すべきではなかったか。実際、この映画はメロドラマとしても面白くない」などと評している[65]。
白井佳夫は、「『冬の華』『幸福の黄色いハンカチ』といった映画の高倉健は、シナリオが彼の寡黙な個性を上手く引き出すように書かれ、監督が彼の一種無骨な役者としての個性を魅力的に生かすような工夫を凝らしていたので、とてもユニークな人間味をスクリーンから発散させた。しかし、この人はしどころのない役で、スクリーンの中に登場させてしまうと、小細工の芝居の似合わぬ人なので、そのおおらかで素朴な個性が、まったく生きてこなくなってしまうことになる。二・二六事件という時代背景を描くドラマの構成が、何とも時代遅れの古めかしいパターンで一貫されていて、辟易させられてしまう上に、男と女の愛が、これまた現代の目で見ると絵空事にしか見えない、大時代なロマンチシズムで空転してしまっているので、健さんの魅力というものは、いっこうにスクリーンにクローズアップされてこないのである。工夫も細工もないシナリオと演出にのって高倉健と吉永小百合が呼吸を合わせて芝居に一生懸命になればなるほど、ただでさえ一本調子の作品のテンポが、さらにスローにペースダウンしてしまう。テレビドラマや外国映画の速いテンポやリズムになれた日本の観客たちは、このスローなテンポには、イライラしてしまうのではないだろうか。スリルもサスペンスも出てこない、いささか困った超大作で、正直に書くと、'80年の日本映画ワースト10にでも入りそうな映画である。大衆娯楽作りにおいて日本の映画会社の中で一頭地を抜いていた東映は、いまやどうなっているのだろう?という思いがしてくるのは、私だけではないはずである。ご同業映画評論家諸氏の中には、危機にある東映映画の同情心からか、『動乱』を絶賛なさった方もおられるが、そんな同情は東映のためにならない」などと評している[56]。


逸話
高倉と吉永、森谷監督は本作の後、しばらくして一緒に東宝の『海峡』の撮影に入った[46]。『海峡』の撮影が本作同様1年近くあり、合計2年間一緒にいた。高倉は監督とは食事をしない主義で、スタッフ全員で食事することもなく、吉永は高倉と二年の間、食事を共にした[46]。何故一緒に食事をしないのか、高倉に質問もしがたい感じで聞くことは出来なかったと吉永は話している。高倉はワインをグラス一杯だけは飲むが、それ以上は飲まないため、お酒が大好きな吉永は、自分だけ飲むわけにいかず、「健さんとの食事は非常に辛かった」と述べている[46]。高倉の出演作の助監督を本作も含め、何10本も務めた澤井信一郎は「健さんはまったく酒を飲まない」と話しており[66]、「高倉健は一滴の酒も飲めない」と書かれている文献もあるため[67]、それでも吉永に気を使ってワイン一杯を飲んだのかもしれない。
撮影中のある昼休み、キャストやスタッフはロケバスに駆け込んで昼食をとっている中、厳しい寒さの原野に立ったまま食事をする高倉を吉永は最初理解できず心配したが、同じ日の夜、昼と違って高倉がスタッフと話しているのを見て、彼は陸軍将校になりきるために外でぽつんと立っていたのだと気付き、役者としての強い姿勢に圧倒されたと語っている[68]。
二・二六事件関係者が存命中であった時期であり、その家族からの苦情により多くのカットが生じた[68]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95%E4%B9%B1_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
3:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/02/27 (Mon) 01:47:15

明治維新は田布施の 朝鮮人 による日本の乗っ取り
明治天皇も昭和天皇も天皇家ではなく李氏朝鮮の王族や両班階級の血筋だった

故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

熊毛郡田布施町 (00:00:21)
大室寅之佑 (00:03:48)
明治天皇の秘密 (00:03:55)
大正天皇には、子種がない(00:18:39)
西園寺八郎 (00:19:26)
昭和天皇の秘密 (00:21:34)
昭和天皇の父親は、西園寺八郎 (00:22:01)

田布施は李氏朝鮮の王族や両班階級が逃げてきた場所で、岸信介は李氏朝鮮の王の末裔です。

永田町における「朝鮮系」というのは李氏朝鮮時代の両班階級出身という意味です。以前、田布施の話をした時にも言いましたが、田布施は李氏朝鮮の王族や両班階級が逃げてきた場所で、岸信介は李氏朝鮮の王の末裔です。岸という名字も「李」を分解して木(き)と子(し)にしたから岸(きし)なんだという話をしたと思います。安倍さんは岸家の人なので、当然「朝鮮系」ですし、今井さんも安倍さんと遠い親戚なのでやはり「朝鮮系」。二階さんも同じく遠い祖先が李氏朝鮮系だったという区分けです。また、そういう人たちが集まったのが自民党の清和会です。清和会というのは、多くが「朝鮮系」の人々の集まりで、永田町では常識です。実際に、清和会の事務所は旧李王家邸で当時の赤坂プリンスホテルの一階にありました。李氏朝鮮最後の皇族であった李玖も清和会の支援を受け、2005年まで赤坂プリンスホテルで暮らしていました。

これはインターネットで検索したって出てきません。しかし、日本の支配者層にとっては常識中の常識です。
https://tocana.jp/2020/08/post_168418_entry_2.html

鬼塚英昭さんは本を沢山書いていて、その結論をビデオで紹介しているんですね:

鬼塚英昭さんの著書
https://www.amazon.co.jp/%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/e/B004LVD7MC/ref=dp_byline_cont_book_1


【田布施システム】朝鮮系に乗っ取られた日本の裏歴史! 歴代首相を生み出す謎の村「田布施」を専門家が徹底解説!
https://tocana.jp/2019/12/post_130392_entry.html
https://tocana.jp/2020/09/post_171763_entry.html


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日本の近代史

明治:1868年10月23日(明治元年9月8日)から1912年(明治45年)7月30日まで
大正:1912年(大正元年)7月30日から1926年(大正15年)12月25日まで
昭和:1926年(昭和元年)12月25日 から 1989年(昭和64年 1月7日)まで

江戸幕府を英米の支援で倒した田布施の朝鮮人による日本乗っ取りとアジア侵略

1868年1月3日(慶応 3年12月9日) 王政復古の大号令 ・戊辰戦争 → 明治維新

・山口県田布施部落の朝鮮人が徳川幕府を倒し英米の傀儡政権を作る。

・明治維新から後の日本を支配している人びとはアングロ・サクソン、つまりイギリスやアメリカの支配層と密接な関係にある。19世紀後半からアングロ・サクソンは日本を中国侵略の拠点と見なしてきたのだ。

 その頃、イギリスは中国(清)との貿易赤字に苦しんでいた。そこでイギリスは麻薬のアヘンを清に売りつけ、それを清が取り締まると戦争を仕掛けた。1840年から42年までのアヘン戦争や56年から60年にかけてのアロー戦争(第2次アヘン戦争)である。この戦争でイギリスは勝利、広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いなどを中国に認めさせた。

 しかし、これらの戦争は基本的に海で行われ、イギリス軍は内陸部を占領できなかった。それだけの戦力がなかったのだ。海上封鎖はできても中国を占領することは不可能。そこで日本に目をつけ、日本はイギリスの思惑通りに大陸を侵略していく。

 このイギリスを日本へ行き入れたのが長州と薩摩。イギリスを後ろ盾とする両国は徳川体制の打倒に成功、明治体制(カルト的天皇制官僚国家)へ移行していく。

明治維新以降、日本はイギリスやアメリカ、つまりアングロ・サクソン系国が描く長期戦略の強い影響下にあり、そうした国々が日本へ技術を提供、資金を供給してきた理由もそこにある。彼らは日本列島を東アジア侵略の拠点、日本人を傭兵と考えてきたとしか考えられない。イギリスが自力で中国を制圧する戦力がないことはアヘン戦争を見ても明白だ。

アジア侵略のため、明治政府は日本人にアジア蔑視の感情を植えつけた。


ジェームズ斉藤 : 田布施システム
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天皇一族はバイシュン業者
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人間の屑 福沢諭吉のした事
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1868年(明治1年)3月 神仏分離令・廃仏毀釈・神社合祀令

・神仏習合の禁止・日本の仏教と神道を弾圧、六部・虚無僧・山伏・梓巫女・憑祈祷・狐下しを禁止、神社を統廃合した。日本人は無信仰・無神論の民族に変わった

1868年(明治1年)10月23日 慶応から明治に改元

・北海道への和人大量入植 → アイヌ人をジェノサイド
・千島列島の乗っ取り → 千島アイヌを色丹島の強制労働所に集めて絶滅させる

1894年(明治27年)7月25日 日清戦争
1895年(明治28年)4月17日 台湾が清朝から日本に割譲された。
1897年(明治30年)1月21日 台湾阿片令公布

・台湾のアヘン漸禁政策 → アヘンを専売化し、濫用防止の名の下に、大規模なアヘンの密売を主宰することで日本軍資金を調達した。

・欧米との貿易開始 → 日本人女性50万人を騙してバイシュン婦として海外に売り飛ばした
1900年初頭から天皇の命令の下、「海外に行けば良い仕事があり、豊かな生活が出来る」という宣伝が日本全国で大々的に行われた。
大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は「健全な女性をバイシュン婦」として「売却」する事で、欧米のバイシュン業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員であれば10数年分の給与を手に入れていた。

1902年(明治35年)1月30日 日英同盟
1904年 (明治37年) 2月10日 日露戦争
1910年(明治43年)8月29日 朝鮮併合

・朝鮮の農民から農地を取り上げ、作物を日本へ飢餓輸出、朝鮮女性を性奴隷 にする。

・19世紀以来、日本はアメリカやイギリスの手先となってきた。日本列島は大陸を侵略するための拠点であり、日本人は事実上の傭兵だ。

 イギリスは1840年から42年にかけて中国(清)に戦争を仕掛けた。アヘン戦争だ。1856年から60年にかけても同じ構図の戦争、第2次アヘン戦争(アロー戦争)が行われている。イ

 アヘン戦争で勝ったイギリスだが、内陸部を占領するだけの戦力がない。そこで彼らは日本に目をつけた。

 アメリカやイギリスの私的権力は明治維新以来、日本に大きな影響を及ぼしてきた。イギリスの外交官として日本にいたアーネスト・サトウやアメリカの駐日公使だったチャールズ・デロングや厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドルたちはいずれも日本に大陸を攻撃させたがっていた。

 ルジャンドルはアメリカへ戻る途中に日本へ立ち寄り、デロングと大陸侵略について話し合う。デロングは日本の外務省に対してルジャンドルを顧問として雇うように推薦、ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任して外務卿だった副島種臣の顧問になり、台湾への派兵を勧めた。その直前、1872年9月に明治政府は「琉球藩」をでっちあげて琉球を併合、74年5月に台湾へ軍事侵攻した。

1875年9月に明治政府は李氏朝鮮の首都を守る要衝の江華島へ軍艦を派遣して挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功、さらに無関税特権を認めさせ、釜山、仁川、元山を開港させている。
 朝鮮では1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も軍隊を出して日清戦争につながる。
 当時、朝鮮では高宗の父にあたる興宣大院君と高宗の妻だった閔妃と対立、主導権は閔妃の一族が握っていた。閔妃がロシアとつながることを恐れた日本政府は1895年に日本の官憲と「大陸浪人」を使って宮廷を襲撃して閔妃を含む女性3名を殺害、その際に性的な陵辱を加えたとされている。その中心にいた三浦梧楼公使はその後、枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。

 日本は1902年にイギリスと同盟協約を締結、04年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃して日露戦争が始まる。その際、日本に戦費を用立てたのはロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフだ。
 1905年5月にロシアのバルチック艦隊は「日本海海戦」で日本海軍に敗北するが、戦争が長引くと日本は持たない。そこで登場してくるのが「棍棒外交」のセオドア・ルーズベルト米大統領。講和勧告を出したのだ。9月に講和条約が調印され、日本の大陸における基盤ができた。
 日本政府の使節としてアメリカにいた金子堅太郎は1904年にハーバード大学でアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説し、同じことをシカゴやニューヨークでも語っていた。日露戦争の後、ルーズベルトは日本が自分たちのために戦ったと書いている。こうした関係が韓国併合に結びつくわけだ。

アメリカやイギリスの手先として日本は琉球と台湾を含む封鎖線を作り上げた。その南にあるフィリピンをアメリカは1898年に植民地化、その際に住民を虐殺している。アメリカにとって、このフィリピンも大陸を侵略する拠点であり、独立を容認しない。

英米金融資本のエージェントだった戦前の日本は英米の利権を守る為に朝鮮を併合した
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1914年 (大正 3年) 7月28日 第一次世界大戦
1917年 (大正 6年) 3月 8日 ロシア二月革命
1917年 (大正 6年)10月25日 ロシア十月革命
1918年 (大正 7年) 3月 4日 スペインかぜ


・大正デモクラシー
日本で1910年代から1920年代(概ね大正年間)にかけて起こった、政治・社会・文化の各方面における民本主義の発展、自由主義的な運動、風潮、思潮。

・大正ロマン(大正浪漫)
大正時代の雰囲気を伝える思潮や文化事象を指して呼ぶ。
大正時代の個人の解放や新しい時代への理想に満ちた風潮と和洋折衷の先進的な文化に対し、明治末まで文学・美術界で流行していたロマン主義(明治浪漫主義)を拡大してかぶせて、また甘美で抒情的でロマンチックであるという憧れをもって、後世このように呼ばれるようになった。

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1923年(大正12年)9月1日 関東大震災
・関東大震災で死者/行方不明者は10万5000人以上、その損害総額は55億円から100億円だと言われている。

・JPモルガンから復興費用を借り、それ以降天皇一族は JPモルガンのエージェントになる

 多くの企業が苦境に陥り、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残った。しかもこの当時、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だった。

 日本政府は復興資金を調達するために外債の発行を決め、森賢吾財務官が責任者に選ばれたが、その相手はウォール街のJPモルガン。このJPモルガンと最も緊密な関係にあったと言われている人物が地震直後の9月2日に大蔵大臣となった井上準之助だ。

 JPモルガンの総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、実際に指揮していたのはトーマス・ラモント。そのJPモルガンは3億円の外債発行を引き受け、1924年に調印する。その後、JPモルガンは電力を中心に日本へ多額の融資を行い、震災から1931年までの間に融資額は累計10億円を超えた。

 それ以降、この金融機関は日本の政治経済に大きな影響力を持つようになり、日本に対して緊縮財政の実施と金本位制への復帰を求め、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。緊縮財政で景気が悪化するだけでなく、日本から金が流出して不況は深刻化して失業者が急増、農村では娘が売られる事態になった。

 こうした政策を推進した井上は「適者生存」を信奉していた。強者総取り、弱者は駆逐されるべき対象だとする新自由主義的な考え方をする人物だったとも言えるだろう。当然、失業対策には消極的で、労働争議を激化させることになる。

 アメリカでは1932年に大統領選挙があり、ウォール街を後ろ盾とするハーバート・フーバーがニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗北する。巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認め、植民地やファシズムに反対するという立場を表明していた大統領が登場することになったのである。そうした事態に危機感を抱いたJPモルガンをはじめとするウォール街の大物は1933年から34年にかけてクーデターを準備した。

 新自由主義的な政策に反発する声は日本でも強く、1930年に浜口雄幸が銃撃されて翌年に死亡、32年には血盟団が井上準之助と団琢磨を暗殺、また五・一五事件も引き起こされた。井上はJPモルガンと緊密な関係にあったが、団はアメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者で、アメリカの支配層と太いパイプがあった。

 ルーズベルトが大統領に就任する前年、ジョセフ・グルーがアメリカ大使として来日している。グルーのいとこはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻。その当時からグルーは政財官界だけでなく、日本の皇室に太いパイプを持っていた。

 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。
 1941年12月7日に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入、翌年の6月にグルーは離日するが、その直前に商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。

 こうした流れと並行して日本の治安体制が強化されていく。1922年に「過激社会運動取締法」が提出されたが、当時でも内容が問題となって廃案になる。そうした政策を可能にしたのが関東大震災だ。
 地震の2年後に治安維持法が制定され、1928年3月15日には日本共産党関係者らが大量に検挙される。大半の人は勾引状など正式手続きを経ずに逮捕された。この後、特高警察は組織を拡大、思想検察制度が発足していく。

 こうした政策を推進した内務官僚、思想検察、特高警察などの人脈は第2次世界大戦後も支配システムの中枢として機能した。そうした戦後日本のあり方を決めたジャパン・ロビーの中心にはジョセフ・グルーがいて、その背景にはウォール街が存在していた。
 明治維新から日本の支配層はシティやウォール街、つまりアングロ・サクソンの支配層に従属することで自らの権力と富を得てきた。


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世界大恐慌と第二次世界大戦の時代

1927年(昭和2年)3月 昭和金融恐慌

1929年10月24日 Black Thursday → 世界大恐慌

1929年(昭和4年) 昭和恐慌
1929年(昭和4年)10月にアメリカ合衆国で起き世界中を巻き込んでいった世界恐慌の影響が日本にもおよび、翌1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた、戦前の日本における最も深刻な恐慌。

1931年(昭和 6年)9月18日 柳条湖事件 → 満州事変
1932年(昭和 7年)3月1日 満洲国建国
満州の農民から農地を取り上げケシを栽培、麻薬商売で ぼろ儲け

1932年(昭和 7年)1月28日 第一次上海事変

1932年(昭和 7年)5月15日 五・一五事件
1936年(昭和11年)2月26日 二・二六事件
政府の新自由主義政策に憤った共産主義者の将校が革命を起こすが、味方だと思っていた昭和天皇に裏切られる

1937年(昭和12年)7月7日 盧溝橋事件 → 支那事変
1937年(昭和12年)8月13日 第二次上海事変
1937年(昭和12年)12月 南京大虐殺
1941年(昭和16年)12月8日 真珠湾攻撃 → 太平洋戦争

・大東亜共栄圏 → 満州でケシ栽培、chousen の工場で麻薬製造、中国・東南アジアで麻薬を売って ぼろ儲けする体制

・南京大虐殺・慰安婦強制連行・731部隊の人体実験 → 昭和天皇直々の命令でやったので陸軍や外務省では止められなかった

・中国・東南アジア侵略 → 食料を強制調達して日本に送り現地で1000万人以上餓死させる。 現地女性を性奴隷 にする

・近衛上奏文 → 日本陸軍の軍人の殆どが共産主義者で、ソ連の対日開戦に合わせて共産革命を起こそうとしている、と警告

・太平洋戦争 → 日本陸軍による共産革命を防ぐ為にアメリカと八百長戦争をやって、アメリカ軍に日本を占領して貰った
・大空襲・原爆投下 → 共産主義者を武器・食料無しで最前線へ送り、本土の共産主義者も大空襲・原爆投下で革命を起こす気力を無くさせた


故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

太平洋戦争は共産革命を恐れた昭和天皇が英米支配層と組んで起こした八百長戦争だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14016737

昭和天皇を震え上がらせた共産主義の恐怖とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/754.html

関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1055.html

2・26事件は共産主義者の青年将校が起こしたクーデターだった
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/222.html

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戦前から戦後10年くらいの日本は人口が増えすぎ、食料不足が大問題になっていました。日本軍が朝鮮占領したのも満州や中国を占領したのも、根源的には「食料を増産するため」だったのはあまり知られていない。
人口が増えた割りに食糧増産は進まなかったので、朝鮮を占領したが、却って増えた人口を日本が養わねばならなくなった。そこで満州を占領して食糧増産しようとしたが、今度は満州で人口が増えてしまい、日本が満州の人を養わねばならなくなった。
大日本帝国は最初から最後まで食糧不足に悩まされ、内地でも外地でも戦地でも食料が不足した。

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1945年(昭和20年)8月15日 玉音放送によりポツダム宣言受諾及び日本の降伏を国民に公表

・特殊慰安施設協会(RAA)設置 → 35万人の日本駐留米軍の為に、仕事の無い日本女性に女性事務員募集と偽り 7万人の慰安婦を集めた。当時の大蔵省主計局長池田勇人(後の総理大臣)が日本勧業銀行に指示を出して資金を提供した。
朝鮮戦争が始まると横浜、大阪(のち奈良)、小倉の三カ所に日本人慰安婦を集めた米軍管理の「センター」を設置した。
4:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/02/27 (Mon) 01:53:58

2・26事件は共産主義者の青年将校が起こしたクーデターだった


2・26事件の背景

1923年9月に起こった関東大震災の復興資金をJPモルガンに頼って以来、日本はアメリカの巨大金融資本の強い影響下に入った。


 ウォール街の住人たちは反ルーズベルト政権のクーデター計画でも金本位制への復帰を強く求めていたが、日本政府に対しても同じことを要求、受け入れられた。JPモルガンに言われるまま、浜口雄幸政権は緊縮財政も推進する。その時に大蔵大臣を務めていたのが井上準之助だ。

 この結果、不況はますます深刻化し、東北地方では娘の身売りが増えて大きな社会問題になっている。こうした経済政策を推進した浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には井上が本郷追分の駒本小学校で射殺されている。

戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあった。ところが1933年から45年4月にルーズベルト大統領が急死するまでそのウォール街はホワイトハウスで主導権をニューディール派に奪われていた。ルーズベルトの死で日米主従関係は本来の姿に戻ったと言える。ウォール街が天皇制を存続させようとしたのは当然だ。その体制によって彼らは日本を支配していたからだ。それを攪乱させたのが血盟団や二・二六事件の将校たちだった。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904020000/

第2次世界大戦の前、JPモルガンの強い影響下にあった日本では新自由主義的な経済政策が採用され、庶民の生活水準は悪化し、東北地方では娘の身売りが増えた。欠食児童、争議なども社会問題になっている。こうした貧富の差を拡大させる政策を推進したのが浜口雄幸内閣だ。


 そうした政策に反発する人も少なくなかった。その結果、浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には大蔵大臣だった井上準之助が本郷追分の駒本小学校で射殺され、その翌月には三井財閥の大番頭だった団琢磨も殺された。井上は当時、日本でも最もJPモルガンに近いとされていた人物。団もウォール街と緊密な関係にあった。


 その年の5月には五・一五事件が引き起こされ、1936年2月には二・二六事件だ。血盟団にしろ、二・二六事件の将校にしろ、娘を身売りしなければならないような状況を作った支配層への怒りが行動の背景にはある。


 井上が殺された1932年に駐日アメリカ大使として日本へやってきたジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて緊密な関係にある。このことは本ブログで繰り返し書いてきた。グルーのいとこがジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚していたのである。しかもグルーの妻の曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーである。


 グルーは秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていたが、中でも親しかったのは松岡洋右。戦争が始まり、離日する直前にグルーが岸とゴルフしたことも有名な逸話だ。安倍晋三の祖父は大戦前からアメリカの支配層と親しかったのである。


 戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあったわけだが、1933年から45年4月にかけての期間はウォール街と敵対関係にあったニューディール派がホワイトハウスで主導権を握った。ニューディール派の中心的な存在がフランクリン・ルーズベルト大統領だ。


 ルーズベルトが急死するとウォール街がホワイトハウスを奪還、ドイツのナチは救出され、日本の天皇制官僚システムは存続することになる。戦争責任も曖昧なまま幕引きになった。


 しかし、連合国の内部には天皇制官僚システムを破壊するべきだと考える人も少なくなかった。日本軍と直接戦ったイギリスやオーストラリア、そしてソ連。日本が降伏した直後はアメリカが日本をコントロールできる状態だったが、時間を経ればそうした国々の軍人や官僚が日本へやってきて民主化を要求、天皇制の廃止も主張する可能性が高い。それに留まらず、天皇の戦争責任は必ず問われる


 大戦後、日本占領の中枢だったGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の中にも天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張した将校が多かったのだが、焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。ビッターは闇ドルにも手を出していた人物で、CIAのエージェントだったと見られている。靖国神社とCIAには何らかの関係があるのだろう。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)


 ウォール街は日本を支配するシステムとして大戦前から天皇制官僚システムを使っていた。それを戦後も存続させるため、戦争責任の追及と民主化の推進という儀式を早く終わらせる必要があった。


 そこで1946年1月に戦争犯罪を裁くとして極東国際軍事裁判(東京裁判)を設立、48年11月に判決が言い渡されている。その年の12月23日に東条英機、広田弘毅、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章が処刑されているが、これは「民主化」を演出するセレモニーにすぎない。本来なら処罰されて当然であるにもかかわらず被告席にいない人がいた。


 そして新たな憲法が制定される。その憲法は第1条から第8条で天皇制の存続を定めている。「象徴」という修飾語をつけてはいるが、天皇制の存続を謳っている。「戦争の放棄」を定めたその後、第9条だ。


 戦後日本の進む方向を決めたジャパンロビーの中心にはジョセフ・グルーがいた。内務官僚、思想検察、特別高等警察といった戦前日本の治安体制の中枢は戦後も要職に就いている。「国体」は護持されたのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904230000/


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金の亡者だった昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由

ねず氏は、天皇は自分の統帥権が犯され、統帥権が奪われようとすることには敏感に反応するのであって、統帥権を断固維持しようと腐心する。これは天皇家の歴史的本能だ、という。

2・26事件は為替相場を不当に操作して儲けるために起こさせたものだった.
2・26事件が起きると、当然のことながら日本の国家信用が落ちて、為替や株価が暴落した.

もし、天皇があらかじめ為替や株価でも儲けを企図し、シナリオを書かせていたとしたら、事件で暗殺される「重臣」たちが青年将校らによって殺されることも計算のうちに入っていた、あるいは気に入らない「重臣」を消すために事件を起こさせたとも考えられる。

青年将校らにとっては、いわば天皇親政によって昭和維新を断行するのだと夢見ていたのだろうが、実際の天皇はそういう人ではなかった。つまり天皇は飾り物にされ、周囲の奸臣・奸官に取り巻かれているから正しい政治が行われないと善意に解釈していたが、そうではなくいわば奸凶は天皇自身だったのである。

 2・26事件がおきると、天皇はその40分後には情報を得て、ただちに彼らを反乱軍と断じ、鎮圧を命令している。決起した将校らにしてみれば、天皇にまさかの裏切りにあったのである。しかし、この天皇の裏切りは、「将校らにしてみれば」なのであって、私は彼ら将校は天皇・財閥側が仕掛けたワナにハマっただけではないかと思う。
天皇は、決起将校らを私利私欲に基づくものと激怒したが、当の将校らは無私の心で決起した心づもりだから、まるで話がかみあわない。むしろ、天皇のほうが、私利私欲で自分の資産の運用だけの思惑で動いていたのだ。

なにしろ、戦前の天皇家は世界一の金持ちとも言われるほどの天文学的資産家であった。天皇は、大財閥や主要銀行、大企業などの大株主であったから、国家から予算として年額150万円を支給されていたとは別に、その配当は巨額なものであった。

だから戦争をやれば、こうした大企業が巨利を得ることになり、それがそのまま皇室の持ち株への巨額配当となって返ってくる仕掛けだった。事変=戦争を起こし、植民地で搾取すればするほど皇室の懐が潤う仕掛けである。

だから天皇家は、日本が満州事変、支那事変、大東亜戦争へと打って出ることに反対しなかった。2・26事件の将校を断罪するなら、なんで満州事変や支那事変を主導した軍部を断罪し止めなかったのだ? 

それは昭和天皇が、立憲君主ではなく、実は専制君主であったからであり、実際、戦争に反対するどころか積極的に戦争を押し進めた。

大東亜戦争中は、なんと宮中に大本営を置き、作戦を指揮し、認可していたのが真相である。

2・26事件のときだけ政治的に介入し鎮圧を命じて、あとのときはすべて「君臨すれども統治せず」を貫きとおし、終戦のときだけ仕方なく決断したなんてことがありようか。
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825
 


2・26事件が起きることを天皇はあらかじめ知っていたのではないか。財閥から情報が入っていたに違いないのである。というよりも、そもそも天皇と財閥(とその代理人)が2・26事件を仕掛けたと見るべきではなかろうか。

事件発生から終息までの2日間もちゃんと前もって計算されていたのであるまいか。仕掛けた闇の勢力は当然、真崎らがどう動くか、どう終息させるかも読んでいたか、指示していたに違いない。

 クーデターが起きれば為替も株も暴落するのは、あらかじめわかりきった話である。それをあえて事前にわかっていながら反乱を阻止しなかったこの不自然さ。反乱を起こす予定の将校らには財閥から資金が流れていたし、将校らには官憲が張っていたのだ。彼ら将校は六本木第一師団司令部(防衛庁跡地)前の中華料理屋でしきりに会合(飲食?)を開き、談論風発をやって、決起、決起と気勢をあげていた。それが官憲に筒抜けにならないわけがなかろう。それなのに、将校が事件直前に弾薬庫から実包(実弾)を運び出しても黙って通過せているのだから、こんな見え見えの策謀はない。
皇室も財閥も「クーデターによって為替の相場を下落させて、売買の操作によって利を求めるドル買い事件にすぎなかった」この2・26事件を、すべて芝居でやらせたのではなかったか。

つまり、すべては財閥と天皇の書いたシナリオに従っていただけで、すべては企画された事件だったのではあるまいか。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/6863442c2632a11902486caa91a0cb55

昭和天皇は、自分の恋(つまり後の良子(ながこ)香淳皇后との恋)を成就させるために、右翼勢力の力を借りた。そのために右翼の台頭を許してしまい、かえってみずからの統帥権をその右翼壮士らに脅かされる事態になったので、その動きを壊滅させるために、右翼の首領で日本政治に隠然たる力を行使していた頭山満を使って2・26事件を起こさせ、一気に理屈をこねる右翼を壊滅させたと鬼塚氏は見る。

そして自らの統帥権をしっかりと把持すると、いよいよユダヤ国際金融資本の陰謀に乗せられて、支那大陸へ、東南アジアへと戦争を仕掛けていくのである。


 昭和11年2月が2・26事件であり、翌年8月には第二次上海事変が起きて、一気に支那事変が拡大していく。

これを見れば、あきらかに天皇や財閥が、支那へ戦争を仕掛ける意図をもって、事前に2・26事件を起こしたらしいことが見てとれる。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2


本来であれば、忘れ去られてしかるべき歴史的事件が、今もなお、
「昭和史最大の謎」として話題になるところは、2・26事件のす
ごさでしょう。

1年半前に我々がとりあげた鬼塚英昭さんの「日本のいちばん醜い日
」は8・15クーデター未遂事件は、天皇側が仕組んだ偽造クーデ
ターと考えています。そしておそらく2・26事件も。

また、8・15事件のシナリオを書いて、細かな演出をしたのは塚
本誠憲兵中佐だと紹介しています。

驚くことに、8・15クーデター事件の背後で暗躍していた塚本誠
中佐は、2・26事件のときも背後にいました。

塚本は当時、上海で憲兵をしていましたが、昭和「11年11月に(大阪
の留守宅で)三男が生まれた」とありますから、昭和11年2月ごろ日
本にいたようです。おそらく上海をベースにしながら、偽クーデターが起きるように日本にちょくちょく帰って煽って歩いていたのではないかと思われる。

記述のない前日まで日本で暗躍して、当日はアリバイ作りのために上海にいたのではないかと思われます。鬼塚さんは2・26も8・15も、天皇側が仕組んだ偽クーデターと考える。 またシナリオと演出は塚本誠憲兵中佐だとバーミガニの記述を紹介。

「塚本は、1934年に陸軍大学における北進派即ち征露派の陰謀を暴露するのに
、宮廷の密偵を助けたことで、天皇の注意を惹いた。彼はそれから1935年の間
じゅう、大阪で皇叔東久邇宮の下で様々な秘密計画に携わった。その1つは(略)
永田軍務局長の殺人であった。」
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/220305.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/220216.htm


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関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1055.html

近衛上奏文
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1126.html

昭和天皇を震え上がらせた共産主義の恐怖とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/754.html

共産主義の時代
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/613.html

昭和天皇はウォール街のエージェントだったので、共産主義者のルーズベルト大統領と対立して対米戦争を起こした
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/614.html

ウォール街やシティと戦った共産主義者のフランクリン・ルーズベルト
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1037.html

昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/578.html

寺島英弥 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1128.html

天皇一族は反日売国奴でアメリカ金融資本のエージェントだった
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/105.html

関東大震災とJPモルガン
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/278.html

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