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1923年 関東大震災 直後の映像 逃げない群衆 猛烈な火災 救護活動…

1:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/02/22 (Wed) 10:37:02

【全編公開】1923年 関東大震災 直後の映像 逃げない群衆 猛烈な火災 救護活動…(2022年9月1日)
https://www.youtube.com/watch?v=kazzuD44SCA

大正12年、1923年9月1日午前11時58分に発生した関東大震災。
この映像は、未曽有の大災害が発生した直後の首都、東京を撮影したものです。
テレビ朝日が1980年代にフィルムを入手し、復元しました。
この動画では、何が映し出されているのか分かっていることを、説明していきます。
オリジナル・フィルムの映像から、同じ映像が繰り返し出てくる部分はカットして再編集しました。一部順番を入れ替えている以外、フィルムに残っていたシーンをすべて公開します。

きょう、9月1日はテレビ朝日系列、「スーパーJチャンネル」「報道ステーション」で99年前の映像を使った特集を放送する予定です。


映像には「字幕」が挿入され、場所や状況を説明しています。
編集されていて、音声はありません。

02:00
東京駅丸の内口から西の方向に煙が見えています。
現在の日本橋本石町(ほんごくちょう)、からも
大きな煙が見えています。

02:17
火災は、ほぼ丸2日、46時間にわたって続きました。
倒壊した家屋が多かった下町、浅草は
地震の直後に火災が発生した場所でした。

02:35
昼食の準備をする時間帯で多くの家に火の気があり、東京では77カ所から燃え広がったと言われています。
およそ10万5000人の死者を出した関東大震災でそのうちの9割が火災による犠牲者でした。

03:17
画面奥にそびえているのは凌雲閣、通称「浅草十二階」です。

03:28
上野広小路です。
右手に帝国博品館のドームが見えます。
カメラを反対、北側に向けると上野の山に避難する人々が。
帝國博品館は翌日焼け落ちます。

03:47
凌雲閣を近くから映します。
日本一、52mの高さを誇った塔は8階から上が崩落しました。

04:49
本所、深川は甚大な被害があった地域です。
隅田川右岸からの映像で、川の東側に
煙と火の手が上がっているのが見えます。

05:53
上野駅です。
立錐の余地もないほど、人で溢れています。
壊れた家屋と駅舎の向こうに、巨大な煙が立ち上ります。
もう線路の上にも人や大八車が入り込んでいます。

06:22
上野駅の北、日暮里駅周辺も避難する人で溢れています。

06:29
こちらは上野広小路です。
大八車に人、人、人。市電は身動きが取れなくなっています。

07:23
上野からの列車が出せず、避難者は線路上を日暮里駅目指して歩きます。
鉄道省は避難者や物資を輸送する列車を無料にしたこともあり、駅や列車は大変な混雑になりました。

07:50
このフィルムを撮影したのは、京都西本願寺の撮影隊です。全国で上映されました。

08:05
宮城前広場、現在の皇居前広場です。
広い敷地に被災者が過ごすためのテントがズラリと並んでいます。

バラックも建てられています。
右手に富士見櫓が見えます。
坂下門の周辺の場所も、被災者に提供されたようです。
桜田門の橋の上にもバラック。

08:55
東京駅の丸の内側のようです。やはりバラックが建てられています。

09:05
西本願寺の東京別院、築地本願寺は救護部を組織し、東京都内6カ所を拠点として被災者支援を始めます。
神田・明治会館の焼け跡にテントを設けて活動したのは第三班です。

09:27
第四班は日比谷公園を拠点としていました。
都心の緑地には大勢が集まり、掲示板にはたくさんの張り紙が貼ってあるのが分かります。
日比谷交差点側でしょうか。屋台も出ています。田舎志る古、ライスカレー、と読めます。

10:12
映像には本願寺救護班の具体的な活動が記録されていました。
仮設の骨組みが建てられる向かい側にテントが設置されています。

10:27
「麦湯をあげます」麦茶のことです。
「はがきをあげます」
「読経をしてあげます」
お寺ならではのサービスのほかに、
通信のサポートもしていたようです。

11:00
本所被服廠跡を僧侶らが訪れます。
陸軍の軍服工場跡地の広い敷地に避難してきた市民らが、炎に包まれおよそ4万人が命を落とした関東大震災でも最大の被害が出た場所です。炎が巨大な竜巻状になる“火災旋風”が発生したのです。
現在は東京都立横網町公園になっていて、関東大震災と東京大空襲の犠牲者を追悼する
慰霊堂が建てられています。

11:54
原型がわからないほどぐにゃりとねじ曲がってしまったのは現在の千代田区にある神田橋です。
橋を架けなおす工事が始まり、作業が進んでいます。仮設のものでしょうか。
細い橋を一列になって人が渡ってきます。
このフィルムの字幕では、工事には「工兵隊」が動員されたと説明しています。

12:36
芝浦埠頭では水兵が活躍していました。
セーラー服の襟を立て、1人が1つ、肩に大きな荷物を担いで人海戦術での荷揚げです。
膨大な量の荷物が陸揚げされていることが分かります。
支援物資は全国から、そして海外からも届きました。
壊滅的な被害を受けた横浜を避けて芝浦に寄港した船もあったということです。

13:53
建ち並ぶ銀座の洋館は軒並み崩れて
見る影もありません。

14:10
男子学生が集まり、紙を折ったり束ねたりしているようです。
これは、京都の映像です。
京都の西本願寺本山では、義援金を集める活動が進められていました。
この募金活動は被災した子どもを対象にしていました。
「児童愛護袋」
この活動の発案者の女性らは、この動画の最後の方に登場します。
本願寺の機関紙「教会一瀾」には、児童愛護袋には210万枚の需要があったと
記載されています。
袋の調達が間に合わず、龍谷大学付属平安中学校の生徒を動員して紙に印刷したもので凌いだということです。先ほどの男子学生が折っていたのは、この児童愛護袋だったのでしょうか。
9月22日から1週間の活動で総額7000円近く、現在の金額で数千万円相当を集めて送ったということです。

16:09
女性らが布を縫っているようです。寺の大広間でしょうか、女性ばかりが集まり、熱心に手を動かしています。
こうして支援物資も大量に用意されました。

16:51
大阪の活動についての映像は、船着き場から始まります。
10人の女性には割烹着姿の人もいます。支援の一団は50人ほどいるでしょうか。
大阪でも仮設テントの支援拠点が設けられました。
慰問品の準備を進めています。支援物資は山積みになっています。運び出された荷物がどんどん車に積み込まれます。

18:26
大阪でも児童愛護袋の活動が展開されていたことが映像で分かります。
手渡された袋の封をしているようです。ぶら下げてある籠に入れていきます。募金のための長い行列ができています。
袋のデザインの詳細が分かる映像です。発起人4人の女性の名前が下に並んで記されています。

19:18
神戸の映像も港から始まります。
関東に向けて移動する救護班を追った映像でしょうか。
駅のホームです。機関車が入ってきました。
カメラの方向に向かってくるワゴンの正面に「鉄道省神戸駅」と読めます。
神戸から被災地までは列車で向かったようです。

20:44
ここからは東京の映像です。
京都から到着した救護班の活動の様子が撮られています。
医師や看護師らの記念撮影。30人ほどのチームです。

21:14
バラックを訪問診療します。医師1人に看護師が2人付いています。
移動には自動車が使われています。
担いでいる荷物の包みに「・・帝国大学医院」と書いてあるのが見えます。
京都帝国大学医学部付属医院から派遣されたのでしょうか。
自動車の正面には「築地本願寺617」のナンバー。車を手配したのは築地本願寺のようです。

22:11
仮設テントの下で、女性が鼻の治療を受けています。
テーブルの上には10本以上の薬の瓶が見えます。
ガーゼもふんだんに使われます。
こちらは聴診器での診察です。
待合いのスペースも設けられたようです。

日比谷公園で活動する第四班です。
「京都市救護班薬局」と看板が出ています。
紙と引き換えに薬が手渡されます。

23:08
場所が変わって、大きなテント。上野公園のようです。
公園の木々に紐を渡して洗濯物が干してあります。
誰かがバラックから出てきました。
次のバラックを訪れると、手にしている封筒のようなものを中の人に手渡しました。

23:54
テント前の看板には「避難者に限り、無料理髪」と書いてあります。
現在の東京国立博物館前のテントです。
法被姿の理容師が顔そりに散髪。子どもにバリカンをかける割烹着の女性理容師。お客さんには子どももいます。授乳しながら髪の手入れをしてもらう人も。
休憩所では飲み物を提供していました。
救護班の活動が、多岐にわたっていたことが分かる映像です。
仮設住宅でしょうか。木造の平屋の建設が進んでいます。

24:40
大通りのようですが、見渡す限り水浸しです。
行き交う人々も車も、水をかき分けて進みます。
火災による被害がよく知られる関東大震災ですが、川沿いの地域や東京湾岸の埋め立て地、干拓地で、液状化が発生しました。
映像からは、広い範囲が冠水したことが分かります。
この映像は隅田川の東側、現在の江東区・墨田区辺りだと見られます。
焼け落ちた街は地平まで、瓦礫だらけです。
画面左手から全焼した当時の両国国技館が見えてきました。
大通りには歩行者や自転車の往来があります。

26:38
築地本願寺です。到着されたのは貞明皇后、大正天皇の皇后、です。
震災発生からおよそ3カ月後の11月30日のことでした。
芝公園に設置された臨時病院にお見舞いに行かれた後、午後1時に被災者支援をしていた築地本願寺に到着されました。
同行しているのは大森鐘一皇后宮大夫です。
この職に就いてすでに7年、それ以前は官僚や知事、議員を歴任しました。
本願寺が経営する託児所や学校の子どもたちが皇后陛下を迎えます。
幟に上野尋常小学校、築地本願寺託児所…
本願寺が関連する教育施設が数多くあったことが分かります。

28:29
眼鏡をかけた着物の女性は大谷きぬ子(「きぬ」は糸偏に壬)氏です。
教育者で仏教婦人会の総裁でもありました。
皇后陛下のご質問に答えているのは、この大谷きぬ子氏です。
西本願寺の大谷光明氏の妻であるきぬ子氏ですが、実は京都 九条家の5女で、貞明皇后の妹です。2人の姉は大谷光瑞氏と結婚しています。両家は深い姻戚関係にありました。
皇后陛下の本願寺への行啓が実現した背景には、大谷きぬ子氏の働きかけがあったと記録が残っています。
皇后陛下のご視察が終わり、本願寺を出発されます。
この後も病院などへの慰問に向かわれました。

31:21
子どもたちが列になって歩いてきます。
奥の建物の看板には「日比谷幼稚園」と書いてあります。

31:49
こちらの2人の女性、大谷きぬ子氏と、背が高いのは大正三美人と称された、人気の歌人、九条武子氏です。
2人は義理の姉妹に当たり、全国で行われた「児童愛護袋」の活動の発起人、4人のうちの2人です。
子どもたちはお遊戯を披露しているようです。
・・・記事の続き、その他のニュースはコチラから!
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp
2:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/02/22 (Wed) 10:41:34

1923年(大正12年)9月1日 関東大震災
・関東大震災で死者/行方不明者は10万5000人以上、その損害総額は55億円から100億円だと言われている。

・JPモルガンから復興費用を借り、それ以降天皇一族は JPモルガンのエージェントになる

 多くの企業が苦境に陥り、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残った。しかもこの当時、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だった。

 日本政府は復興資金を調達するために外債の発行を決め、森賢吾財務官が責任者に選ばれたが、その相手はウォール街のJPモルガン。このJPモルガンと最も緊密な関係にあったと言われている人物が地震直後の9月2日に大蔵大臣となった井上準之助だ。

 JPモルガンの総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、実際に指揮していたのはトーマス・ラモント。そのJPモルガンは3億円の外債発行を引き受け、1924年に調印する。その後、JPモルガンは電力を中心に日本へ多額の融資を行い、震災から1931年までの間に融資額は累計10億円を超えた。

 それ以降、この金融機関は日本の政治経済に大きな影響力を持つようになり、日本に対して緊縮財政の実施と金本位制への復帰を求め、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。緊縮財政で景気が悪化するだけでなく、日本から金が流出して不況は深刻化して失業者が急増、農村では娘が売られる事態になった。

 こうした政策を推進した井上は「適者生存」を信奉していた。強者総取り、弱者は駆逐されるべき対象だとする新自由主義的な考え方をする人物だったとも言えるだろう。当然、失業対策には消極的で、労働争議を激化させることになる。

 アメリカでは1932年に大統領選挙があり、ウォール街を後ろ盾とするハーバート・フーバーがニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗北する。巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認め、植民地やファシズムに反対するという立場を表明していた大統領が登場することになったのである。そうした事態に危機感を抱いたJPモルガンをはじめとするウォール街の大物は1933年から34年にかけてクーデターを準備した。

 新自由主義的な政策に反発する声は日本でも強く、1930年に浜口雄幸が銃撃されて翌年に死亡、32年には血盟団が井上準之助と団琢磨を暗殺、また五・一五事件も引き起こされた。井上はJPモルガンと緊密な関係にあったが、団はアメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者で、アメリカの支配層と太いパイプがあった。

 ルーズベルトが大統領に就任する前年、ジョセフ・グルーがアメリカ大使として来日している。グルーのいとこはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻。その当時からグルーは政財官界だけでなく、日本の皇室に太いパイプを持っていた。

 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。
 1941年12月7日に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入、翌年の6月にグルーは離日するが、その直前に商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。

 こうした流れと並行して日本の治安体制が強化されていく。1922年に「過激社会運動取締法」が提出されたが、当時でも内容が問題となって廃案になる。そうした政策を可能にしたのが関東大震災だ。
 地震の2年後に治安維持法が制定され、1928年3月15日には日本共産党関係者らが大量に検挙される。大半の人は勾引状など正式手続きを経ずに逮捕された。この後、特高警察は組織を拡大、思想検察制度が発足していく。

 こうした政策を推進した内務官僚、思想検察、特高警察などの人脈は第2次世界大戦後も支配システムの中枢として機能した。そうした戦後日本のあり方を決めたジャパン・ロビーの中心にはジョセフ・グルーがいて、その背景にはウォール街が存在していた。
 明治維新から日本の支配層はシティやウォール街、つまりアングロ・サクソンの支配層に従属することで自らの権力と富を得てきた。

3:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/02/22 (Wed) 10:45:12

関東大震災での朝鮮人虐殺 東京都人権部が映像作品を上映禁止に
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14075972

89年前、朝鮮人虐殺あった /関東大震災/牲者追悼式平和への決意
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/707.html

関東大震災後の朝鮮人虐殺は警視庁官房主事の正力松太郎が意図的に流したデマが原因で起きた
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/221.html
4:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/02/22 (Wed) 10:49:35

関東大震災でウォール街の影響下に入った日本(その1)

 1923年9月1日に相模湾を震源とする巨大地震が関東地方を襲った。死者/行方不明者は10万5000人以上、その損害総額は55億円から100億円だという。当然のことながら金融機関もダメージを受けた。


 そこで政府は被災地関係の手形で震災以前に銀行割引したものを1億円限度の政府補償を条件として日本銀行が再割引したのだが、銀行は地震に関係のない不良貸付、不良手形をも再割引したため、手形の総額は4億3000万円を上回る額になり、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残った。しかもこの当時、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だった。


 そうした中、復興資金を調達するため、日本政府は外債の発行を決断し、森賢吾財務官が責任者に選ばれた。交渉相手に選ばれた金融機関がアメリカのJPモルガン。このJPモルガンと最も緊密な関係にあったと言われている人物が地震直後の9月2日に大蔵大臣となった井上準之助。1920年の対中国借款交渉を通じ、JPモルガンと深く結びついていた。


 当時、JPモルガンを指揮していたトーマス・ラモントは3億円の外債発行を引き受け、1924年に調印する。その後、JPモルガンは電力を中心に日本へ多額の融資を行い、震災から1931年までの間に融資額は累計10億円を超えている。


 日本に対して大きな影響力を持ったラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求め、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。1899年から1902年にかけての南アフリカ戦争で世界の金を支配することにイギリスは成功、金本位制を最小した国々の通貨を支配できる立場になった。JPモルガンはイギリスの巨大金融資本の影響下にあった金融機関だ。


 金解禁(金本位制への復帰)の結果、1932年1月までに総額4億4500万円の金が日本から流出、景気は悪化して失業者が急増、農村では娘が売られるなど一般民衆には耐え難い痛みをもたらすことになる。そうした政策の責任者である井上は「適者生存」、強者総取り、弱者は駆逐されるべき対象だとする考え方をする人物だった。当然、失業対策には消極的で、労働争議を激化させることになる。こうした社会的弱者を切り捨てる政府の政策に不満を持つ人間は増えていった。


 その1932年にアメリカでは大統領選挙があり、巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトがウォール街を後ろ盾とする現職のハーバート・フーバーを選挙で破って当選する。


 そのルーズベルトは大統領に就任する17日前、つまり1933年2月15日にフロリダ州マイアミで開かれた集会で銃撃事件に巻き込まれた。ジュゼッペ・ザンガラの撃った弾丸はルーズベルトの隣にいたシカゴ市長に命中、市長は死亡した。群衆の中、しかも不安定な足場から撃ったので手元が狂い、次期大統領を外したと考える人も少なくない。


 次期大統領を狙っていた可能性があるわけで、背後関係などをきちんと捜査する必要があったのだが、何も事情を聞き出せない、あるいは聞き出さないまま、ザンガラは3月20日に処刑されてしまった。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809010000/


▲△▽▼


関東大震災でウォール街の影響下に入った日本(その2)

 本ブログでは何度も書いてきたが、ルーズベルトが大統領に就任するとJPモルガンをはじめとするウォール街の勢力がクーデターを計画する。スメドリー・バトラー海兵隊少将によると、1934年の夏に「コミュニズムの脅威」を訴える人物が訪ねてきた。


 その訪問者はJPモルガンと関係が深く、いわばウォール街からの使者。ドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしてルーズベルト政権を倒そうとしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領をプロパガンダで攻撃し、50万名規模の組織を編成して恫喝、大統領をすげ替えることにしていたという。


 バトラーの知り合いだったジャーナリスト、ポール・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出している。


 バトラーとフレンチは1934年にアメリカ下院の「非米活動特別委員会」で証言し、モルガン財閥につながる人物がファシズム体制の樹立を目指すクーデターを計画していることを明らかにした。ウォール街の手先は民主党の内部にもいて、「アメリカ自由連盟」なる組織を設立している。活動資金の出所はデュポンや「右翼実業家」だったという。


 バトラー少将は計画の内容を聞き出した上でクーデターへの参加を拒否、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分はそれ以上を動員して対抗すると告げる。ルーズベルト政権を倒そうとすれば内戦を覚悟しろ、というわけである。


 クーデター派の内部にはバトラーへ声をかけることに反対する人もいたようだが、この軍人は名誉勲章を2度授与された伝説的な人物で、軍隊内で信望が厚く、クーデターを成功させるためには引き込む必要があった。


 1935年にはニューディール派以上のウォール街を批判していたヒューイ・ロング上院議員が暗殺されている。彼は当初、ルーズベルト政権を支持していたが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になることをウォール街が恐れたことは想像に難くない。ロングが大統領になれなくても、ニューディール派の政策を庶民の側へ引っ張ることは明らかだった。


 一方、日本ではウォール街とつながっていた人物が殺されている。ひとりは1930年に銃撃されて翌年に死亡した浜口雄幸、32年には血盟団が井上準之助と団琢磨を暗殺、また五・一五事件も実行された。団はアメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者で、アメリカの支配層と太いパイプがあった。


 1932年にアメリカ大使として来日したジョセフ・グルーのいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻で、自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。日本の皇室はウォール街と深く結びついていたとも言える。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 ルーズベルト政権と対立関係にあったJPモルガンは関東大震災から戦後に至るまで日本に大きな影響力を維持していた。大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809020000/


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2018.09.13
米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その1)

 ロシアのウラジオストックで2015年から毎年開催されているEEF(東方経済フォーラム)はウラジミル・プーチンの外交戦略において重要な意味を持っている。アメリカは東アジアの軍事的な緊張を高めようとしているが、それに対抗してロシアは緊張を緩和、地域の経済発展につなげようとしているのだ。プーチンの戦略に中国や韓国は賛成、連携している。この3カ国に朝鮮も加わった。

 今年のEEFは9月11日から13日に開かれているが、そこで朝鮮は自国の鉄道と韓国に鉄道を結びつけることに前向きな姿勢を見せた。ロシアには以前からシベリア横断鉄道を延長して朝鮮半島を南下させようという計画がある。その計画とリンクしていることは間違いないだろう。


 この鉄道計画はロシアから天然ガスや石油を輸送するパイプラインの建設計画、そして中国の一帯一路とも関係している。大英帝国の時代からアングロ・サクソンの基本戦略はユーラシア大陸の周辺部分から内陸部を締め上げていくというもの。物資の輸送が海運中心だった時代は効果的な戦略だったが、そうした戦略を高速鉄道やパイプラインは揺るがせている。


 現在、東アジアでアメリカの戦略に従っている数少ない国のひとつが日本。その日本に対し、プーチンは前提条件なしで平和条約を結ぼうと日本側へ提案したという。ソ連/ロシアと中国の制圧を長期戦略の中心に据えているアメリカは日本がソ連/ロシアや中国と友好関係を結ぶことを許さない。プーチンも当然、そうしたことを熟知している。アメリカの政策で疲弊している日本へのちょっとしたメッセージだ。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809120000/


米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その2)


 アメリカは東アジアでも軍事的な緊張を高めようとしてきた。2009年に総理大臣となった鳩山由紀夫は東シナ海を「友愛の海」にしようと提案したが、これはアメリカ支配層を激怒させたことだろう。その後、日本ではマスコミが鳩山を攻撃、鳩山は2010年に首相の座から引きずり下ろされた。


 そして登場した菅直人内閣は中国との関係を破壊する。2010年に「日中漁業協定」を無視して石垣海上保安部は中国の漁船を尖閣諸島の付近で取り締まったのだ。それ以降、日本は中国に敵対する国になった。


 こうした政策は日本の企業に打撃を与える。中国は日本企業にとって重要なマーケットだったからだ。アメリカの中東政策は石油価格を暴騰させる可能性があるのだが、これも日本にとっては大問題。ロシアという中東より低コストで安定的なエネルギー資源の供給源が日本の近くに存在するが、ロシアとの関係を深めることをアメリカ支配層は許さないだろう。


 こうしたアメリカの政策は一貫したもの。1955年6月に鳩山一郎内閣はソ連と国交正常化の交渉を始めた。その一方、重光葵外務大臣(副総理)は同年8月に訪米してジョン・フォスター・ダレス国務長官と会談、「相互防衛条約」の試案を提示した。


 その試案の中で「日本国内に配備されたアメリカ合衆国の軍隊は、この条約の効力発生とともに、撤退を開始」、「アメリカ合衆国の陸軍及び海軍の一切の地上部隊は、日本国の防衛6箇年計画の完遂年度の終了後おそくとも90日以内に、日本国よりの撤退を完了するものとする」としている。


 日本とソ連は「歯舞、色丹返還」で領土問題を解決させる方向で動き始めたのだが、ダレス米国務長官は激怒、2島返還でソ連と合意したらアメリカは沖縄を自国領にすると恫喝したという。沖縄は歴史的に独立国であり、その意味でもアメリカの姿勢は傲慢だ。


 こうした恫喝はあったが、鳩山首相は1956年10月、河野一郎農相をともなってモスクワを訪問、鳩山首相とニコライ・ブルガーニン首相(ソ連閣僚会議議長)は日ソ共同宣言に署名して12月に発効した。それにタイミングを合わせるように鳩山は引退する。


 鳩山一郎の辞任を受けて行われた自民党総裁選でアメリカは岸信介を後押しするが、中国やソ連との交流を促進しようとしていた石橋湛山が勝つ。その石橋は2カ月後に病気で倒れ、首相臨時代理を務めることになったのが岸。翌年の2月に岸は首相に選ばれた。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809130000/


米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その3)

 明治維新から後の日本を支配している人びとはアングロ・サクソン、つまりイギリスやアメリカの支配層と密接な関係にある。19世紀後半からアングロ・サクソンは日本を中国侵略の拠点と見なしてきたのだ。


 その頃、イギリスは中国(清)との貿易赤字に苦しんでいた。そこでイギリスは麻薬のアヘンを清に売りつけ、それを清が取り締まると戦争を仕掛けた。1840年から42年までのアヘン戦争や56年から60年にかけてのアロー戦争(第2次アヘン戦争)である。この戦争でイギリスは勝利、広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いなどを中国に認めさせた。


 しかし、これらの戦争は基本的に海で行われ、イギリス軍は内陸部を占領できなかった。それだけの戦力がなかったのだ。海上封鎖はできても中国を占領することは不可能。そこで日本に目をつけ、日本はイギリスの思惑通りに大陸を侵略していく。勿論、イギリスやその後継者であるアメリカの支配層(巨大資本)の利益に反することを日本が行えば「制裁」されることになる。


 イギリスは他国を侵略するため、傭兵を使ったり第3国に攻撃させたりする。例えば、インドを支配するためにセポイ(シパーヒー)と呼ばれる傭兵を使い、アラビア半島ではカルトのひとつであるワッハーブ派を支配が支配するサウジアラビアなる国を樹立させ、パレスチナにイスラエルを建国させている。


 このイギリスを日本へ行き入れたのが長州と薩摩。イギリスを後ろ盾とする両国は徳川体制の打倒に成功、明治体制(カルト的天皇制官僚国家)へ移行していく。


 このイギリスの主体は金融界、いわゆるシティ。1923年の関東大震災で日本政府は復興資金の調達をアメリカのJPモルガンに頼るが、この銀行の歴史をたどるとシティ、より具体的に言うとロスチャイルドへ行き着く。アメリカの金融界はウォール街とも呼ばれるが、そのウォール街でJPモルガンは中心的な立場にあった。


 このウォール街を震撼させる出来事が1932年に起こる。この年に行われた大統領選挙でニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選したのだ。ニューディール派は巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を認め、ファシズムに反対するという看板を掲げていた。巨大企業の金儲けを優先させ、労働者から権利を奪い、ファシズムを支援するウォール街とは考え方が正反対だった。圧倒的な資金力を持つウォール街の候補、現職のハーバート・フーバーが敗北したのは、言うまでもなく、それだけ庶民のウォール街への反発が強かったからだ。


 1933年から34年にかけてウォール街はニューディール政権を倒すためにクーデターを計画、この計画はスメドリー・バトラー海兵隊少将によって阻止された。こうしたことは本ブログで繰り返し書いてきたとおり。庶民の反発はニューディール派より巨大資本に批判的だったヒューイ・ロング上院議員への人気につながるのだが、このロングは1935年に暗殺された。


 ロングは当初、ルーズベルト政権を支持していたのだが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になったなら、ウォール街を含む支配層は大きなダメージを受けることになり、内戦を覚悟でクーデターを実行することになっただろう。


 そうしたウォール街の強い影響を受けていたのが関東大震災以降の日本。JPモルガンと最も親しかった日本人は井上準之助だった。アメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者、団琢磨もアメリカ支配層と強く結びついていた。このふたりは1932年、血盟団によって暗殺された。


 この年、駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと関係が深い。つまり、彼のいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻で、グルー自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 第2次世界大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。グルーと親しかった岸信介。その孫にあたる安倍晋三が戦前レジームへの回帰を目指すのは、日本をウォール街の属国にしたいからだろう。


 それに対し、ロシアと中国は関係を強めている。ドナルド・トランプ政権は軍事的にロシアを脅しているが、それに対し、プーチン政権は9月11日から15日にかけてウラル山脈の東で30万人が参加する大規模な演習ボストーク18を実施。​その演習に中国軍は3200名を参加させている​。経済面で手を差し伸べる一方、軍事的な準備も怠らない。


 明治維新から日本の支配層はシティやウォール街、つまりアングロ・サクソンの支配層に従属することで自らの権力と富を得てきた。そうした従属関係が日本経済を窮地に追い込んでいる。この矛盾に日本の支配システムがいつまで耐えられるだろうか?(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809130001/

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2018.09.21 自民党総裁選という茶番

 自民党の次期総裁を決める同党国会議員による投票が9月20日に行われ、安倍晋三首相が石破茂を破って3選が決まったという。茶番としか言い様がない。安倍に限らないが、日本の総理大臣は基本的にアメリカ支配層の傀儡にすぎず、彼らの意向に反する人物が選ばれれば強制的に排除される。安倍も石破もそうした類いの人間ではない。


 アメリカ支配層の戦略は国内におけるファシズム化と国外における侵略。本ブログでは何度も書いてきたが、アメリカの巨大金融資本は遅くとも1933年の段階でアメリカにファシズム政権を樹立させようとしていた。そこで、1932年の大統領選挙で勝利したフランクリン・ルーズベルトを排除するためにクーデターを計画、これはスメドリー・バトラー海兵隊少将の告発で明るみに出ている。


 ウォール街からナチス政権下のドイツへ資金が流れていたことも知られているが、そうしたパイプ役のひとりがジョージ・ヒューバート・ウォーカー。ロナルド・レーガン政権での副大統領を経て1989年に大統領となるジョージ・H・W・ブッシュの母方の祖父にあたる。


 アメリカの好戦派がソ連に対する先制核攻撃を作成した1950年代、彼らは地下政府を編成する準備をしている。「アイゼンハワー10」と呼ばれる人びとによって権限を地下政府へ与えることになっていたのだ。


 その延長線上にFEMA、そしてCOGがある。COGは緊急事態の際に政府を存続させることを目的とした計画で、ロナルド・レーガン大統領が1982年に出したNSDD55で承認され、88年に出された大統領令12656によってその対象は「国家安全保障上の緊急事態」へ変更された。(Andrew Cockburn, “Rumsfeld”, Scribner, 2007)


 1991年12月にソ連が消滅するとネオコンはアメリカが唯一の超大国にあったと認識、92年2月には国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランを作成する。旧ソ連圏だけでなく西ヨーロッパ、東アジアなどの潜在的なライバルを潰し、膨大な資源を抱える西南アジアを支配しようとしている。中でも中国が警戒され、東アジア重視が打ち出された。


 このDPG草案が作成された当時の国防長官はリチャード・チェイニーだが、作成の中心になったのは国防次官だったポール・ウォルフォウィッツ。そこで、ウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。この長官と次官はネオコンのコンビで、2001年に始まるジョージ・W・ブッシュ政権ではそれぞれ副大統領と国防副長官を務めた。


 唯一の超大国になったアメリカは国連を尊重する必要はないとネオコンは考え、単独行動主義を打ち出す。アメリカの属国である日本に対しても国連無視を強制、1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」が作成されてから日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれていった。日本人を侵略戦争の手先として利用しようというわけだ。勿論、その延長線上に安倍内閣は存在する。


 安倍は「戦後レジーム」を嫌悪、「戦前レジーム」へ回帰しようとしているらしいが、この両レジームは基本的に同じ。戦後レジームとは民主主義を装った戦前レジーム。関東大震災以降、日本はJPモルガンを中心とするウォール街の影響下にあり、その構図は戦後も続いている。JPモルガンが敵対関係にあったニューディール派のルーズベルト政権は1933年から45年4月まで続くが、この期間は日本の支配者にとって厳しい時代だった。


 1932年に駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて関係が深い。いとこであるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガン総帥の妻なのだ。


 グルーは皇室とも深いパイプを持っていた。結婚相手のアリス・ペリー・グルーの曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリー。ジェーン自身は少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通い、そこで後の貞明皇后と親しくなったという。


 グルーの人脈には松平恒雄、徳川家達、秩父宮雍仁、近衛文麿、樺山愛輔、吉田茂、牧野伸顕、幣原喜重郎らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。


 松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 安倍晋三が目指す戦前レジームとはアメリカの巨大金融資本が日本を支配する体制にほかならない。彼がアメリカ支配層に従属しているのは当然なのだ。戦前レジームへの回帰とアメリカ支配層への従属は何も矛盾していない。これを矛盾だと考える人がいるとするならば、その人は歴史を見誤っているのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809210000/

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元徴用工への損害賠償を認めた韓国での判決が日本軍による略奪へ波及するか?
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811040000/
2018.11.05 櫻井ジャーナル

 元徴用工が新日鉄住金に損害賠償を求めた訴訟で、韓国の大法院は10月30日に同社への支払を命じた。大法院は日本の最高裁に相当、これで合計4億ウォンの支払いを命じたソウル高裁の判決が確定した。日本政府は徴用工の問題は1965年の日韓請求権協定で「完全かつ最終的に解決している」という立場だが、個人の請求権は消滅していないと大法院は判断したのだ。かつて、日本政府もこの事実を認めていた。1965年当時の韓国大統領は1961年5月の軍事クーデターを指揮した朴正熙である。

 第2次世界大戦後、韓国も日本と同じようにアメリカ支配層の影響下にあったが、イギリスの戦略を引き継いだアメリカの目は中国、そしてソ連/ロシアに向けられている。イギリスの基本戦略とも言うべきハルフォード・マッキンダーの論文が発表されたのは1904年だが、侵略して略奪するという基本方針はその遙か前から行われてきた。

 イギリスが侵略の手を東アジアまで伸ばしてきたのは19世紀。1840年から42年にかけてのアヘン戦争、56年から60年にかけてのアロー戦争(第2次アヘン戦争)は象徴的な出来事だった。

 こうした戦争でイギリスは中国(清)に勝利したが、内陸部を制圧する力はなかった。当時の主な輸送集団は船であり、主要な港を押さえられたことは清にとって大きな痛手だったが、占領されたわけではない。

 占領のための地上軍として機能したのは日本軍だ。現在の中東でアル・カイダ系武装集団、ダーイッシュ(イスラム国、IS、ISIS、ISILとも表記)が果たしている役割と似ている。だからこそ、米英の支配層は戦費を融資、技術的な支援をした。外交的にも助けている。あの強欲な米英支配層がこうしたことを行ったのは、その先に自分たちの利権があったからにほかならない。

 日本は東アジアを侵略した際、組織的に財宝を略奪している。その財宝の多くはフィリピンに集められ、そこから日本へ運ばれるが、戦況が悪化してフィリピンから日本へ運べなくなると、フィリピンに隠す工作を始めた。その隠された財宝は後に山下兵団の財宝と呼ばれるようになる。

 もっとも、山下奉文が日本軍第14方面軍の司令官に就任したのは1944年9月のことで、財宝の集積作業は終盤にさしかかっていた。作業を指揮していたのは本間雅晴、田中静壱、は黒田重徳のころだ。ちなみに、田中静壱は関東軍憲兵隊の司令官だったことがあるが、そのときに細菌戦用兵器を開発するための生体実験にかかわっている。

 1945年8月当時、田中の副官だった塚本清(素山)は略奪したダイヤモンドを日本へ運んだひとりと言われ、敗戦後はアメリカ軍と緊密な関係を持っていた。1961年には創価学会の顧問に就任している。

 日本が降伏した後、その隠された財宝のありかを調べる責任者がエドワード・ランズデール。表面的には軍人だが、実際はOSS、戦後はCIAの幹部だ。朝鮮戦争が休戦になった直後にジョン・フォスター・ダレス国務長官はNSC(国家安全保障会議)でベトナムにおけるゲリラ戦の準備を提案、それを受けてCIAはSMM(サイゴン軍事派遣団)を編成、その団長をランズデールが務めている。その後、キューバに対する破壊活動などを指揮した。

 ランズデールの下で日本人に対する取り調べを行っていたのが情報将校だったサンタ・ロマーナ。このロマーナが親しくしていた女性がイメルダ。ロマーナはイメルダをフェルディナンド・マルコスに紹介、ふたりは結婚する。マルコスは財宝の一部を掘り出して大金持ちになり、大統領になったといわれている。

 そのマルコスのライバルだったベニグノ・アキノ元上院議員が1983年8月にマニラ国際空港で射殺され、社会が不安定化する。アキノへはNEDを通じてCIAのカネが流れ込んでいた。

 アメリカ軍は1986年2月にマルコスを拉致して国外へ連れ出した。その背後ではCIAが蠢いていたのだが、その工作で中心的な役割を果たしたと言われているのがアドナン・カショーギ、リチャード・アーミテージ、ポール・ウォルフォウィッツなど。アドナン・カショーギはジャマル・カショーギの伯父にあたる。

 フィリピン国外へマルコスが連れ出されると、財宝の分け前をよこせという裁判が起こされる。弁護士がでっち上げ事件で攻撃されたりしたが、それでも裁判の過程で財宝に関する情報が明るみに出てきた。

 日本軍が盗んだ財宝は金の百合と呼ばれているが、これとドイツがヨーロッパで盗んだ金塊、いわゆるナチ・ゴールドをアメリカ支配層は一体化させた。いわゆるブラック・イーグルだ。その一部は1960年頃から日本の支配層が運用しているとも言われている。

 この秘密資金は日本やドイツが盗み、アメリカが横取りしたものである。個人の請求権は存在するということになると、この秘密資金を返せという個人の要求が出てきても不思議ではない。


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日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」

太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895~1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。
http://mayo.blogzine.jp/blog/2008/07/post_3bbd.html

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