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太田博樹 _ 縄文人ゲノムから見た東ユーラシア人類集団の形成史

1:777 :

2023/02/18 (Sat) 19:31:00

縄文人ゲノムから見た東ユーラシア人類集団の形成史 l 太田博樹 敎授(東京大学大学院理学系研究科生物科学専攻)
2022/06/10
https://www.youtube.com/watch?v=ZiQovcBGp8k&t=1102s

東京大学ゲノム人類學硏究室の太田教授の日本人起源についての講義。縄文人のゲノムを通じて東ユーラシア人類集団の形成を分析した。日本人は16000年前から日本列島に存在した縄文人と3000年前の遼西から韓半島を経て日本に到来した弥生人の混合で形成された。
2:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/02/20 (Mon) 05:29:02

【落合陽一】「今までの“常識”って何だったんだ」 定説が覆りまくる人類史!謎のデニソワ人の発見、『絶滅と生存』分けた理由、『縄文人と弥生人』の新説、 最新ゲノム解析が明かす現代人への“遺言”とは?
2023/02/16
https://www.youtube.com/watch?v=86BT7_aggag

唯一生き残った人類。それが1属1種の存在として今、地球上に生息する我々、ホモ・サピエンスだ。しかし近年、大量の情報を持つ核DNAの解析が可能となったことから、遥か昔に絶滅したはずの別の人類「ネアンデルタール人」の遺伝子を現代人も受け継いでいると判明し、 その進化の過程はより複雑で多様である事がわかってきた。

今、飛躍的に進歩する古代DNA研究が、人類史の定説やこれまでの常識を大きく覆そうとしている。人類はどこからきたのか?私たちは一体何者なのか?10万部を突破した『人類の起源』の著者、国立科学博物館の篠田謙一館長を迎え、古代DNA研究の最前線と新たな「人類像」、そして日本人のルーツに、落合陽一が迫る。
3:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/02/20 (Mon) 16:26:42

ピロリ菌のゲノム解析から見たアジアにおける人類集団の近縁関係 l 斎藤成也 敎授(東京大, 国立遺伝学研究所 集団遺伝研究室 )l HONGIK FOUNDATION
2022/09/30
https://www.youtube.com/watch?v=IdiyRJbQfZw

日本列島人(ヤポネシア人)の起源と成立については、これまでヒトのミトコンドリアDNA、Y染色体DNA、そして常染色体ゲノム全体が調べられてきた。一方で、ヒトに随伴して移動するマウスのDNA研究も進められている。胃の中に生息するピロリ菌は外界では増殖できず、宿主特異性があるため媒介生物もいない。母から子に垂直感染するピロリ菌ゲノムの系統樹はヒトの移動を反映している。従来ピロリ菌は、ゲノム中のいくつかの遺伝子塩基配 列の情報を用いて、7系統に分類されてきた。日本本州の菌は中国・韓国と同じhspEAsia系統であり、この系統が持つ毒性の高い病原遺伝子(東アジア型CagA)が胃がんの発症率を高めていると言われてきた。ところが大分大学と琉球大学による研究で、沖縄には系統も病原性も異なる2つの系統(hspOkinawaとhpRyukyu)があることがわかった。前者は西~中央アジア株と近縁性があり、後者は東アジアと北アジアの中間的な性質を持ってい た。 これらの研究は私の研究室の鈴木留美子特任准教授が中心になっておこなわれた。
4:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/02/23 (Thu) 04:01:57

【核DNAから探る】日本列島人は、どこからやって来たのか?|斎藤成也
2020/02/21
https://www.youtube.com/watch?v=Tfc3J_GwbMc

詳しくはコチラ⇒https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2558&utm_source=youtube

日本に現在住んでいる私たちは、いったいどこからやってきたのか。国立遺伝学研究所教授の斎藤成也氏は、DNAの研究を通して、この問いに挑んでいる。まずは、人類の起源と、彼らがどのようにして日本に来て、他の地域にも広がったのかを聞いてみよう。(全11話中第1話)

出演者:斎藤成也(国立遺伝学研究所集団遺伝研究室 教授)
5:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/02/23 (Thu) 04:04:16

ヤポネシア人ゲノム研究のご紹介 斎藤成也 教授
2020/10/15
https://www.youtube.com/watch?v=ktoRnH6bu3k
6:777 :

2023/06/05 (Mon) 11:06:00

雑記帳
2023年06月03日
水ノ江和同『縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏』
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_3.html

https://www.amazon.co.jp/%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA%E3%81%AF%E6%B5%B7%E3%82%92%E8%B6%8A%E3%81%88%E3%81%9F%E3%81%8B-%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%A8%E6%96%87%E5%8C%96%E5%9C%8F-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E6%B0%B4%E3%83%8E%E6%B1%9F%E5%92%8C%E5%90%8C/dp/402263118X


 朝日選書の一冊として、朝日新聞出版より2022年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はまず、縄文文化の範囲が現在の日本国の領土とほぼ重なる、と指摘します。つまり、北方は宗谷海峡と択捉海峡まで、伊豆諸島では八丈島ので、九州では対馬島と沖縄県の久米島までとなります。縄文時代にこの範囲を越えて、周辺地域由来と考えられる遺物(考古資料)が日本列島で、逆に周辺地域で日本列島由来と考えられる遺物が発見された場合、「交流」として高く評価されてきました。しかし本書は、そもそも「交流」という用語を使うことに疑問を呈します。縄文時代において、縄文文化の範囲の内外で、それぞれ相手方と考えられる考古資料は必ずしも多くないので、弥生時代以降と同等の「交流」を想起させる用語を使うのは適切ではない、というわけです。本書は、縄文文化の範囲の内外で、それぞれ相手方と考えられる考古資料が発見されている事象を、「交流」ではなく「関係性」や「往き来」という用語で表現します。

 次に本書は、縄文時代における海を越えた「往き来」について、これまで高く評価されてきたものの、その理由や経路などについて、考古学的研究に不可欠な形式学的検討が不充分だった、と指摘します。本書はこうした問題意識から、縄文文化とその周辺地域の文化との関係性を重視し、おもに北海道とサハリン、および九州と朝鮮半島との考古学的な事実関係を検討します。なお。本書における縄文時代の時期区分は、草創期(16000~11000年前頃)→早期(11000~7500年前頃)→前期(7500~5500年前頃)→中期(5500~4200年前頃)→後期(4200~3200年前頃)→晩期(3200~2400年前頃)で、九州北部の玄界灘沿岸部のみ、2800~2400年前頃は弥生時代早期となります。なお、本書は、ユーラシア大陸東端部に位置する、現在のロシア極東から中国東部(東北と華北と華中と華南)を「大陸」と表記しています。

 縄文時代と縄文文化の開始については議論がありますが、本書は旧石器時代と縄文時代の違いとして、ナウマンゾウやヘラジカといった大型動物ではなく、シカやイノシシといった動きの速い小型動物を捕獲する飛び道具としての弓矢の出現、竪穴住居の建築などに必要な木材の伐採や加工を可能にした磨製石斧の普及、温暖化による食料獲得の安定化に伴う定住生活、やや遅れるものの魚介類の捕獲増加とそれに伴う貝塚の出現および急増を挙げています。縄文時代の終焉は北海道などを除いて弥生時代の始まりとなりますが、縄文土器と考えられていた「夜臼式土器」と大陸系磨製石器や木製農具が出土し、水田の跡が確認されたことから、縄文時代最終末期にはすでに稲作農耕が始まっていたのか、それとも弥生時代の開始が早まるのか、議論になりました。その後の研究の進展により、福岡県と佐賀県の玄界灘沿岸部意外ではこうした事例が認められず、玄界灘沿岸部に限定して「弥生時代早期」という時代区分の設定が提案されました。縄文文化の世界的な位置づけとしては、新石器時代に一般的に見られる本格的な農耕と牧畜はないものの、食料も含めて資源に恵まれ、多様な装飾品も見られることから、「森林性新石器文化」と位置づける見解もあります。なお、縄文時代には西日本より東日本の方が栄えていた、との見解が有力ですが、本書はこれが研究実績の差から無意識のうちに創出されている可能性を指摘します。

 本書は縄文時代における渡海について、縄文文化の島嶼部への拡散の考古資料を検証し、まず南島(元々は大隅諸島と吐噶喇列島と奄美群島を指し、その後は尖閣諸島と大東初頭以外の琉球列島の島々を指すようになります)を対象としますが、縄文文化が及ばない先島諸島は除外しています。南島は縄文時代には亜熱帯性海洋性気候で、動植物の生態は独特でした。南島では、本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」の縄文時代から古代に相当する期間は貝塚時代と呼ばれてきました。貝塚時代早期~中期は「本土」の縄文時代に位置づけられ、「本土」の弥生時代に相当するのは貝塚時代後期です。ただ、この貝塚時代が縄文文化に位置づけられるのか、20世紀後半に議論があり、今でも貝塚時代早期~中期を縄文時代と位置づけることは定着していないようです。本書は、日本列島の島嶼部には多様な縄文文化があることを指摘し、貝塚時代を多様な縄文文化の一つと位置づけます。九州島から沖縄本島までの距離は約530kmですが、好天時には島影を次々と目視でき、九州島から沖縄本島まで渡海できます。久米島から先島諸島の最東端である宮古島までの距離は約220kmなので、好天時でも島影を目視できないため、縄文時代の人々(縄文人)は先島諸島の存在を知ることができなかっただろう、と本書は推測し、じっさい先島諸島には縄文文化の痕跡はまったくない、と指摘します。縄文時代において日本列島内での航海はとくに前期中葉以降に盛んだったようで、黒曜石や貝の採取などが目的でしたが、沖ノ島などについては、現時点で渡海の目的は不明です。大陸と日本列島との間の経路については、北方のサハリンや朝鮮半島や東シナ海や沖縄や日本海といった経路が想定されてきましたが、本書は、これまで大陸から日本列島という一方通行のみに議論が偏り、その逆方向が軽視される傾向にあった、と指摘します。

 日本列島と大陸との関係で本書が重視する考古資料は玦状耳飾です。縄文時代早期末葉~中期中葉にかけて見られる玦状耳飾が日本列島の独自起源なのか、それとも大陸起源なのか、という議論は、縄文文化をアジア東部においてどう位置づけるのか、という問題とも関わってくるからです。これに関しては長い議論がありましたが、出現期の製作遺跡が北陸沿岸部に集中することから、対馬海流を介した中華地域からの伝来説が主流となります。さらに、中国でも起源地は江南なのか東北なのか、といった問題も議論されました。本書はこの長きにわたる議論について、日本列島全体での編年研究と、大陸との類似性に関して形式や年代や製作技法や伝来経路の検討が不充分で、日本列島に近接する現在のロシア極東や朝鮮半島との関係性については未検討と指摘し、改めてこれらの問題を検証します。玦状耳飾は縄文時代早期末葉に北海道から九州まで、まず環形が一斉に出現し、北陸で最も出土数が多く、製作遺跡も集中しますが、現時点で北陸が他地域に先行することを示す直接的証拠はない、と本書は指摘します。玦状耳飾が大陸から日本列島にどの経路で到来したかも、現時点で確定は困難なようです。

 上述のように、縄文文化の北方の境界は宗谷海峡と択捉海峡で、本書は北海道とサハリン、さらにはアムール川下流域(本書ではまとめて「ロシア極東」とされます)までを比較します。行政目的の発掘調査が多い北海道の考古資料は、ほぼ学術目的の発掘に限定されるロシア極東よりもはるかに多いものの、近年では比較研究が着実に進みつつあるようです。宗谷海峡を挟んで縄文時代の北海道とロシア極東との間のまとまった往き来が確認されているのは、縄文時代早期後葉の1回だけです。北海道の縄文文化の外来要素としては、東部で見られる縄文時代早期後葉の石刃鏃文化が注目されてきました。石刃鏃文化の構成要素には、環状石製品や篦状垂飾や小玉などの石製装身具と擦切石斧があります。現在では、以前には石刃鏃文化の構成要素と考えられた条痕文土器が、石刃鏃文化以前の北海道に存在することなど、北海道とサハリンのつながりが以前の想定よりも薄かった、との見解が有力になりつつあります。石刃鏃文化の集落構造が北海道西部および南部や東北と類似していることなどからも、石刃鏃文化は縄文時代早期後葉の一時期だけ北海道東部に伝来し、根づくことはなかった、というわけです。

 縄文文化の南西の境界は九州と朝鮮半島との間となります。縄文時代の九州と朝鮮半島との関係は、曽畑式土器と朝鮮半島の櫛目文土器との類似性や、結合式釣針が対馬海峡西水道を挟んで曽畑式土器の出現以降に、朝鮮半島の東および南海岸と西北九州に集中して分布することなどから注目され、結合式釣針は1970年代~1980年代には、縄文時代における漁撈民の「交流の証」とされました。その後、21世紀にはそうした見解の見直しが進みます。朝鮮半島には九州由来の考古資料が、九州には朝鮮半島由来の考古資料が少なく、相手側の考古資料の出土を過大評価してきたのではないか、というわけです。本書はこうした状況を、「交流」ではなく「往き来」と評価します。

 本書は、曽畑式土器の出現に朝鮮半島が関わっている可能性はきわめて低い(若しくはほぼない)と指摘しつつも、曽畑式土器には、土器の外面全体の文様や胎土への滑石の混入など、西日本の縄文土器や朝鮮半島の土器にも系譜をたどれない特徴があり、その出現系譜はまだ不明である、と問題を提起します。朝鮮半島南海岸では、在来の土器と明らかに異なる縄文土器が確認されてきており、九州の「縄文人」が持ち込んだ、と考えられてきました。しかし、よく調べると九州の縄文土器と似ているものの異なる土器も一定数存在しており、九州から朝鮮半島に到来した「縄文人」が、経時的に記憶が曖昧化していく中で製作した独自の縄文土器だろう、と推測します。本書はこうした土器を「九州系縄文土器」と呼びます。九州における朝鮮半島系の考古資料はほぼ対馬島に限られ、対馬島北西部では、朝鮮半島の新石器時代早期の隆起文土器などが多数を占め、縄文時代前期の西唐津式土器や曽畑式土器がごく少ない遺跡もあります。こうした朝鮮半島系土器の形式変化が連続的であることから、一定期間継続的に居住していた、と推測されます。しかし、対馬島におけるほぼ完全に朝鮮半島新石器時代系と言える遺跡は現時点で2ヶ所だけで、周辺の縄文時代遺跡からは、朝鮮半島系土器はほとんど出土していません。本書はこの考古学的証拠の解釈は難問としつつ、朝鮮半島には存在しない黒曜石の収集および搬出拠点として存在した可能性も指摘します。結合式釣針については、朝鮮半島では新石器時代の早期と前期(九州の縄文時代前期)に限定され、九州では縄文時代後期初頭~中葉にほぼ限られ、主体となる年代が異なることや、技術的な違いから、共通性の乏しさが指摘されています。本書は、九州の結合式釣針の起源が東日本にある、と推測しています。

 本書はこれらの知見を踏まえて、縄文時代における九州と朝鮮半島との関係は縄文時代早期末葉から後期中葉まで長期にわたるものの、断続的と指摘します。朝鮮半島で出土した最多の九州系縄文土器は、縄文時代後期初頭の坂の下式土器です。縄文時代後期初頭には、関東の称名寺式土器や関西の中津式土器の系統とされる磨消縄文と呼ばれる文様が、北海道南部から九州北部にまで分布し、九州では大珠や土偶や仮面形貝製品が出現するなど、大きな動きが見られ、西北九州に出現した鈴桶技法による黒曜石製の剥片鏃が朝鮮半島からも出土することから、画期となった縄文時代後期初頭において、日本列島の大きな動きの余波として、九州から朝鮮半島への往き来もそれ以前より活発になったのだろう、と推測します。ただ本書は、全体的には、九州と朝鮮半島との間の「往き来」の回数自体は決して多いとは言えないだろう、と指摘します。本書は、弥生時代以降の九州と朝鮮半島との関係の下地・前段階となる交流が縄文時代にもすでにあった、との潜在的意識が考古学者にあり、縄文時代の九州と朝鮮半島との「交流」が過大評価されてきたのではないか、と指摘します。確かに、縄文時代の九州と朝鮮半島との間に「往き来」は間違いなくあったものの、互いの文化に影響を及ぼすほどの「交流」には明らかに遠く及ばない、というわけです。

 本書は、縄文時代の日本列島において島嶼部への航海が活発だったことと、それとは対照的に、同じような距離の航海だったにも関わらず、日本列島とサハリンや朝鮮半島との関係がずっと低調だった要因として、「文化圏と言葉」を挙げています。日本列島全体では、さまざまな地域性が存在しながらも、同じ技術や約束事で縄文土器が作られており、その継承には言葉による説明が必要だった、と本書は指摘します。九州から南島、とくに沖縄本島に至る航海にはかなりの危険が伴いますが、時期による差はあれども、南島では断続的に九州の縄文文化が伝わり、影響を及ぼしていました。本書はその理由として、言葉によるある程度の意思疎通があった、と想定し、南島は大枠では縄文文化圏だった、と指摘します。一方、縄文時代において、北海道とサハリン、および九州と朝鮮半島では、言葉による意思疎通はほとんどできていなかった、と本書は推測します。この「文化圏と言葉」の関係性は、日本列島が海により隔絶していた旧石器時代には存在していた、と本書は推測します。「縄文人」は、日本列島の各島嶼部には、思疎通可能な共通の言葉を有している人々がいるものの、サハリンや朝鮮半島にはそうした人々がいないと知っていた、というわけです。一方、弥生時代以降に朝鮮半島から到来した稲作農耕文化は、目で見るだけでは伝わらないので、言葉の壁を超えて意思疎通できる通訳が現れた、というわけです。ただ本書は、こうした縄文時代の日本列島とその周辺地域との関係性で説明の難しい考古資料、具体的には玦状耳飾や結合式釣針や装身具文様があることも指摘し、今後の課題としています。


 以上、本書をざっと見てきました。本書は、縄文文化がほぼ現在の日本国の領土と重なり、その近隣地域、つまり北方ではサハリン、西方では朝鮮半島との間には文化的に大きな影響を残した相互作用はなく、「交流」ではなく「往き来」と評価すべきである、と主張します。これは、縄文文化がほぼ日本列島に限定され、かなり孤立した文化だったことを示しているように思います。縄文時代の北部九州と朝鮮半島南部は文化を共有する状況ではなく、対馬海峡で文化圏を区分できるのではないか、との見解を以前に読んでいたので(関連記事)、本書の見解にはとくに意外ではありませんが、具体的な検証が詳しく、用語の解説もあるので、私にとって本書は大当たりでした。私のような非専門家が縄文時代の日本列島と周辺地域との文化的関係を調べるさいに、本書は長く教科書的な役割を担うことになるでしょう。

 本書では古代ゲノム研究は取り上げられていませんが、改めて、遺伝と文化と民族を単純に相関させてはならいない、と痛感します。「縄文人」は、既知の現代人および古代人集団に対して一まとまりを形成する独特な集団で、時空間的に広範囲にわたって遺伝的には均質だった、と考えられます(関連記事)。この「縄文人」的な遺伝的構成要素をさまざまな割合でゲノムに有する個体は、ほぼ日本列島というか縄文文化の範囲に限定されていますが、例外が先島諸島と朝鮮半島南岸で(関連記事)、現在のロシア極東の沿岸部もその例外に含まれるかもしれません(関連記事)。

 上述のように、先島諸島には縄文文化の影響が及ばなかった、と本書は指摘していますが、先島諸島の紀元前9~紀元前6世紀頃の個体は、遺伝的にほぼ完全に「縄文人」と重なります。考古資料からは先島諸島に縄文文化の影響は見えないものの、言語や精神文化では強い共通性があった、と主張できるかもしれませんが、現時点でかなり苦しいことは否定できないでしょう。先島諸島にいつ「縄文人」的な遺伝的構成の集団が到来したのか、その集団は琉球諸島北部の貝塚時代の集団と言語も含めてどの程度の文化的共通性があったのか、現時点では推測が困難です。やはり、遺伝というかDNAと文化を安易に関連づけてはならないのでしょう(関連記事)。

 朝鮮半島南岸では、新石器時代に「縄文人」的な遺伝的構成要素をゲノムに有する個体が確認されており、その中には遺伝的にほぼ完全に「縄文人」と重なる個体も存在します。本書の見解を踏まえて、これをどう解釈すべきなのか、現時点では推測の難しいところで、「縄文人」的な遺伝的構成の集団の形成過程とも関わって、さまざまな可能性が考えられます(関連記事)。たとえば、「縄文人」的な遺伝的構成の集団が朝鮮半島南部で形成され、日本列島へと拡散した場合、朝鮮半島南岸の人類集団において新石器時代を通じて「縄文人」的な遺伝的構成要素が持続した可能性も、一旦消滅して縄文時代の日本列島から到来した可能性も考えられます。あるいは、「縄文人」的な遺伝的構成の集団は日本列島で形成されたものの、その主要な祖先集団の一部が朝鮮半島南岸に留まり、それ故に朝鮮半島南岸の新石器時代人類集団の中には、「縄文人」的な遺伝的構成要素とアジア北東部集団的な遺伝的構成要素でモデル化できる個体が存在するのかもしれません。この場合、遺伝的にほぼ完全に「縄文人」と重なる個体は、近い祖先の多くが縄文時代の日本列島に由来するのかもしれません。こうした問題については、そのうち一度まとめるつもりです。


参考文献:
水ノ江和同(2022)『縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏』(朝日新聞出版)
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_3.html
7:777 :

2023/06/11 (Sun) 09:56:41

雑記帳
2023年06月11日
日本列島の人類史に関する問題の整理
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_11.html

 最近、日本列島における4万年以上前の人類の存在の可能性や、日本語の起源などについて考えることがあったので、一度おもに古代ゲノム研究に基づいて関連する情報をまとめるとともに、遺伝学に基づく人類の進化や拡散に関する通俗的な見解について、普段から考えていることも整理します。最近の当ブログの記事は、論文を訳して時に私見も少し付け加えるだけで終わることが多く、自分なりに一度整理しないと、全体像をよく把握できないままになる、と考えたからです。言い忘れたことや欠落している視点は多々あるでしょうが、とりあえず現時点の見解をまとめます。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)との関係や、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)についてなど、他にも自分なりに情報をまとめて整理する必要のある問題が多いので、今後少しずつ進めていくつもりです。


●便宜的区分と古代ゲノム研究の通俗的解釈に関する問題

 分類・区分して程度の違いを見出す能力は現生人類でとりわけ発達しており(ネアンデルタール人やデニソワ人に現生人類と同等のそうした能力があった可能性も否定はできませんが)、鉄と銅の違いや鯛と河豚の違いや石材の違いなど、分類・区分は現生人類社会の基盤の一つになっています。重要なのは、そうした区分にどれだけの整合性・妥当性があるのか、ということだと思います。ただ結局のところ、時代や地理や文化や民族などの区分も含めて分類という行為は、現生人類の知的営みにおいてたいへん重要で実用的ではあるものの、あくまでも理解を助けるための手段という側面も多分にあります。現生人類の営みが多くの場合時空間的に連続していることを考えると、対象が現在であれ過去であれ、あくまでも便宜的措置であり、それを絶対視することなく、多くの前提・留保のもとに、ある程度割り切りつつも、慎重に区分してそれを使用していくしかないのでしょう。

 たとえばネットで検索すると、アイヌ民族・文化の成立は13世紀で、北海道の先住民は「縄文人(この記事では縄文文化関連集団という意味で用います)」であるとして、アイヌ文化・民族を縄文文化やその後継と考えられる続縄文文化や擦文文化およびその担い手の集団と明確に区別するような、通俗的見解が散見されます。これは便宜的な区分を絶対視してしまった見解で、現生人類にとって常に警戒すべき陥穽と言うべきでしょう。年表を見ると、アイヌ文化期は13世紀頃以降に始まる、とするものが多いようですが、これはあくまでも便宜的区分・名称であり、この頃に初めてアイヌ民族・文化が成立することを証明しているわけではありません。じっさい、考古学的文化に民族名を冠することは問題だとして、アイヌ文化ではなくニブタニ文化と呼ぶよう、提唱している研究者もいます(瀬川., 2019)。文化と民族の連続性と変容と断絶の評価は難しく、年表の字面だけ見て文化の断絶を想定するのは、論外だと思います。

 古代ゲノム研究の大衆的な受容にも問題があり、まず、古代ゲノム研究は統計的手法に依拠しており、「完全な証明」をできるわけではなく、あくまでも確率の問題ということです(放射性炭素年代測定法などの年代測定法も同様です)。この点を誤解している人はきわめて少ないかもしれませんが、A集団のゲノムはB集団関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)50%程度とC集団関連祖先系統50%程度でモデル化できる、というような知見を、B集団とC集団がA集団の祖先だと証明された、と認識している人は少なくないかもしれません。しかし、これはあくまでも、A集団のゲノムにおける祖先系統の割合が、BおよびC集団的な祖先系統により統計的に適切にモデル化できることを示しているだけで、B集団とC集団がA集団の直接的祖先であることを証明しているわけではありません。

 たとえば、現代日本人集団を現代朝鮮人関連祖先系統(91%)と縄文時代個体関連祖先系統(9%)の2方向混合としてモデル化できる、と示した研究(Wang CC et al., 2021)がありますが、もちろん、現代朝鮮人集団が現代日本人集団の祖先のはずはないので、現代朝鮮人集団のような遺伝的構成の集団が朝鮮半島には太古から存在し、現代日本人集団の主要な祖先になった、と考える人は少なくないかもしれません。その研究では、古代人集団を用いて、現代日本人集団は青銅器時代西遼河集団関連祖先系統(92%)と縄文時代個体関連祖先系統(8%)の2方向混合としてモデル化できる、とも推測されています。しかし、これは青銅器時代西遼河集団が現代日本人集団の直接的祖先であることを示しているのではなく、ある集団の直接的な祖先集団を見つけることが困難な古代ゲノム研究において、年代や文化や地理的分布(考古学的知見)も参照しつつ、代理となりそうな古代人集団で検証して、統計的に適切な結果を提示しているにすぎません。

 その意味で、古代ゲノム研究から特定の現代人集団の祖先集団を特定することは困難で、どれだけ近似値に近づけるかが問題となります(これは多くの学問に共通する問題かもしれませんが)。最近の研究(Robbeets et al., 2021)では、現代日本人集団は低い割合の縄文時代個体関連祖先系統と青銅器時代の高い割合の西遼河地域の夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体関連祖先系統の混合としてモデル化できる、と示されましたが(後述のように、この研究には批判もあります)、夏家店上層文化集団と縄文時代集団が現代日本人の直接的な祖先であることを証明しているわけではなく、それぞれの集団と遺伝的に類似した集団が現代日本人の直接的な祖先集団である可能性は高い、と示しているだけです。ただ、地理分布からして、「縄文人」集団が現代日本人の(影響は小さくとも)直接的な祖先集団である可能性は高そうです。古代ゲノム研究で示される特定の集団もしくは個体のゲノムにおける祖先系統とは、基本的に代理であることを踏まえねばならないでしょう。

 古代ゲノム研究で他に重要な問題となるのは、特定の文化や時代を表す集団が1個体で構成される場合も珍しくないことです。その1個体が特定の文化や時代の集団の遺伝的構成を適切に表している可能性はあるとしても、遺伝的多様性の高い集団ならば、それを適切に反映できませんし、他の地域もしくは集団から流入してきた外れ値個体であればなおさらです。この問題は古代ゲノム研究に今後ずっとついて回るでしょうから、とても無視できません。完新世の現生人類については、今後この問題をある程度回避できるかもしれませんが、ネアンデルタール人など非現生人類ホモ属では、ゲノム解析数の増加を完新世現生人類ほどにはとても期待できません。現生人類とネアンデルタール人の混合についても、非アフリカ系現代人集団の祖先と混合した集団が直接的に確認されているわけではなく、あくまでも代理の個体のうちどれが非アフリカ系現代人集団の祖先と混合したネアンデルタール人集団に近いのか、検証されているだけです(Mafessoni et al., 2023)。

 また上述の問題とも関わりますが、特定の文化や時代といった区分も便宜的なので、これを安易に個体もしくは集団の遺伝的構成と関連づけたり、特定の地域における人類集団の遺伝的連続性を前提としたりするのは危険です。この問題については、世界のいくつかの事例を以前に取り上げましたが(関連記事)、文化と遺伝というかDNAとの関連は多様で、遺伝的構成や片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)やY染色体ハプログループ(YHg)を、安易に特定の文化もしくは民族の分類と関連づけることは極めて危険です。これは、ネアンデルタール人が常染色体ゲノムでは現生人類よりもデニソワ人の方と明らかに近縁でありながら、mtDNAでもY染色体でもデニソワ人より現生人類の方と明らかに近縁であること(Petr et al., 2020)からも、強く示されています。

 種系統樹と遺伝子系統樹とは必ずしも一致しないので(Harris.,2016,第2章)、常染色体ゲノムの特定領域であれ、ミトコンドリアであれY染色体であれ、そのハプログループの比較で特定の集団(種、分類群)間の近縁関係を論じるのは危険です。たとえば、近縁なA・B・Cの3系統の分類群において、A系統がB系統およびC系統の共通祖先と分岐し、その後でB系統とC系統が分岐したとすると、B系統とC系統は相互に、A系統よりも形態が類似している、と予想されます。しかし、形態(もしくは表現型)の基盤となる遺伝子の系統樹が種系統樹と一致しない場合もありますから、B系統とC系統はどの形態(もしくは表現型)でもA系統とよりも相互に類似している、とは限りません。

 これと関連して、B系統においてある表現型と関連する遺伝子のあるゲノム領域において、遺伝的浮動もしくは何らかの選択により変異が急速に定着した場合、ある表現型ではB系統は近縁のC系統よりもA系統の方と類似している、ということもあり得ます。じっさい、チンパンジー属とゴリラ属とホモ属の系統関係において、種系統樹ではチンパンジー属とホモ属が近縁ですが、ニシローランドゴリラ(Gorilla gorilla gorilla)ではゲノム領域の約30%で、種系統樹と遺伝的近縁性とが一致しない、と推定されています(Scally et al., 2012)。つまり、この約30%のゲノム領域では、ホモ属(現代人)がチンパンジー属よりもゴリラ属の方と近縁か、チンパンジー属がホモ属よりもゴリラ属の方と近縁である、というわけです。

 この記事の主題に即して具体的に日本列島の事例を挙げると、先史時代の先島諸島です。先島諸島には縄文文化の影響が及ばなかった、と考えられており(水ノ江., 2022)、沖縄諸島が安定していた貝塚時代から農耕の開始やアジア東部大陸部の陶磁器など外来要素が突如出現し大きく変わったグスク時代に、これらの要素は先島諸島へと伝わり、奄美・沖縄諸島と先島諸島が初めて一つの文化圏になりました(高宮., 2014)。しかし先島諸島では、グスク時代のずっと前となる紀元前9~紀元前6世紀頃の個体において、遺伝的にほぼ完全に縄文時代個体と重なる複数の個体が確認されています(Robbeets et al., 2021)。考古資料には見えない言語など精神的文化の共有があったのか否か、遺伝的に大きく異なる他集団と共存していたのか否かなど、この事例が意味するところは現時点でよく分からず、日本列島においても文化もしくは民族とDNAとを安易に関連づけてはならない、と示しているように思います。


●4万年以上前

 日本列島では4万年前頃以降に遺跡が急増し(佐藤., 2013)、これ以降の人類の存在と、それが現生人類であることについては、ほぼ異論がないと思います。日本列島における4万年以上前(中期旧石器時代と前期旧石器時代と一般的には呼ばれています)の人類の存在で、2000年11月に発覚した旧石器捏造事件(関連記事)もあり、否定的な人が多いようにも思われます。そもそも、ヨーロッパ基準の前期→中期→後期(下部→中部→上部)という旧石器時代区分が、日本列島も含むアジア東部において適切に当てはまるのか、という問題もあるかもしれませんが、これについては私の知見があまりにも不足しているので、今回はこれ以上言及しません。

 捏造事件発覚後に、日本列島最古(127000~70000年前頃)と騒がれた(関連記事)島根県出雲市の砂原遺跡の石器については、そもそも石器なのか否か議論となっており(関連記事)、人類の痕跡を示している、との共通認識が考古学研究者の間で確立しているとはとても思えません。それ以外の4万年以上前かもしれない日本列島の遺跡は、岩手県遠野市の金取遺跡です。砂原遺跡の石器については、年代以前にそもそも石器なのか否か、議論になっているのに対して、金取遺跡の4万年以上前とされる石器については、石器であることを疑う見解はないようです(上峯., 2020)。したがって、日本列島に4万年以上前に人類は存在しなかった、と主張するならば、金取遺跡の4万年以上前とされる石器について、その年代が4万年前頃以降であることを証明しなければなりません。

 ただ、仮に4万年以上前に日本列島に人類が存在したとしても、おそらく世界でも有数の更新世遺跡の発掘密度を誇るだろう日本列島において、4万年以上前となる人類の痕跡がきわめて少なく、また砂原遺跡のように強く疑問が呈されている事例もあることは、仮にそれらが本当に人類の痕跡だったとしても、4万年前以降の日本列島の人類とは遺伝的にも文化的にも関連がないことを強く示唆します。仮に日本列島における4万年以上前の人類の存在を仮定するならば、中国で中期~後期更新世のデニソワ人かもしれないホモ属遺骸が複数発見されていることから(関連記事)、デニソワ人かもしれません。あるいは、絶滅したか現代人の主要な祖先ではないかもしれませんが、中国では10万年前頃の現生人類とされる遺骸が発見されているので、現生人類の可能性も考えられますが、その年代はずっと新しいのではないか、と議論になっています(関連記事)。


●後期旧石器時代

 ここでは、4万年前頃から縄文時代の直前までを指します。4万年前頃以降に日本列島に到来した人類集団については、そもそも後期旧石器時代の人類遺骸がほとんど発見されていないため、推測困難です。この時期で最古級となる遺跡が、長野県佐久市の香坂山です。香坂山遺跡では、較正年代で36800年前頃と、日本列島では最古の石刃石器群が発見されており、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、略してIUP)に位置づけられています(国武., 2021)。上述のようにDNA(遺伝的構成)と文化とを安易に結びつけてはいませんが、IUPは遺伝的にはユーラシア東部系集団との関連が指摘されています(Vallini et al., 2022)。

 もう少し具体的に見ていくと、4万~3万年前頃には、現在の北京付近からアムール川流域とモンゴルまで、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体で表される集団が存在していたようです(Mao et al., 2021)。これを仮に田園洞集団と呼ぶと、田園洞集団はアジア東部大陸部沿岸にまで広く分布していたようですから、日本列島に到来した可能性も充分考えられます。ただ、現代人には殆ど若しくは全く遺伝的影響を残していないようですから(Mao et al., 2021)、4万~3万年前頃に日本列島に到来した現生人類集団は、縄文時代集団や現代日本人集団とは遺伝的につながっていないかもしれません。

 日本列島で発見された旧石器時代の人類遺骸は、そもそも本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」で発見された更新世の人類遺骸が皆無に近いので、ほぼ琉球諸島に限られています。沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡では、旧石器時代の6個体のmtDNAが解析され、mtHgはM7aとB4とRに分類されていますが、琉球諸島現代人のゲノム解析から、旧石器時代琉球諸島の人類集団は、琉球諸島現代人の祖先ではなさそうだ、と推測されています(松波., 2020)。他にmtDNAが解析された更新世琉球諸島の人類遺骸としては、沖縄県島尻郡八重瀬町の港川フィッシャー遺跡で発見された2万年前頃の港川1号があり、そのmtHgはMの基底部近くに位置する、と推測されています(Mizuno et al., 2021)。この個体がその後の琉球諸島、さらには日本列島の人類集団と遺伝的につながっているのか否かは、mtHgからは判断できません。


●縄文時代

 縄文時代は、草創期(16500~11500年前頃)→早期(11500~7000年前頃)→前期(7000~5470年前頃)→中期(5470~4420年前頃)→後期(4420~3220年前頃)→晩期(3220~2350年前頃)と一般的に区分されています(山田., 2019)。縄文時代の開始を、土器が出現した16500年前頃とするのか、生態系・石器組成の変化や竪穴住居の定着などに基づいて13000~11000年前頃とするのか、議論がありますが(関連記事)、草創期を旧石器時代から縄文時代への移行期とする見解もあります(山田., 2019)。

 現時点で解析されている縄文文化関連個体のゲノムデータからは、縄文時代の人類集団は時空間的に広範囲にわたって、既知の現代人および古代人集団と比較して一まとまりを形成し、遺伝的には比較的均一と考えられます(Cooke et al., 2021)。これは、縄文文化がほぼ現在の日本国の領土に限定されており、他地域との相互作用は低調だった、とする考古学的知見と整合的です(水ノ江., 2022)。ただ、mtHgでは地域差が指摘されており(篠田.,2019,P165-170)、核ゲノムでも地域差が示唆されています(Cooke et al., 2021)。とくにmtHgの地域差は、「縄文人」集団の形成過程を解明するうえで、重要な手がかりになるかもしれません。

 このように、「縄文人」集団は既知の現代人および古代人集団と比較して遺伝的に特異な存在と言えるかもしれませんが、ユーラシア東部系集団の変異内に収まっていますし、上述の田園洞集団のように、後期更新世~初期完新世にかけては現生人類でも、現代人への遺伝的影響が小さいか、ほぼ絶滅してしまった集団は世界各地で珍しくありませんでした(関連記事)。その意味で、現代ではほぼ日本列島にしてその遺伝的痕跡を残しておらず、それもアイヌ集団を除けば遺伝的影響がかなり小さいと考えられる「縄文人」集団も、現生人類の歴史では特別な存在とは言えないでしょう。むしろ、今後ユーラシア東部圏やオセアニアの人類史で問題となるのは、現代人の主要な祖先集団がいつどのような経路で現代の分布地域に到来したのか、ということだと思います。

 現時点で最古となるゲノム解析された縄文時代の個体は、愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡で発見された女性で、較正年代で8991~8646年前頃となります。この個体のゲノムはすでに典型的な「縄文人」的構成要素を示しており、遅くとも9000年前頃までには、「縄文人」的な遺伝的構成の集団が形成されており、日本列島に存在したのでしょう。ただ、早期の時点で日本列島全域の縄文文化関連集団がすでに遺伝的に比較的均一だったのかは不明です。

 「縄文人」的な遺伝的構成の集団がどのように形成されたのかは、不明です。これについては大きく二つに分けられ、一方は、「縄文人」的祖先系統がユーラシア東部現代人の主要な祖先集団(MAEE集団)の祖先系統と20000~15000年前頃に分岐した、とするものです(Cooke et al., 2021)。もう一方は、「縄文人」的祖先系統がユーラシア東部系の遺伝的に大きく異なる祖先系統との混合により形成された、というものです(Wang CC et al., 2021)。前者の場合、どこで分岐し、いつ日本列島に到来したのか、後者の場合、いつどこで混合して日本列島に到来したのか、あるいは日本列島で混合した場合、各集団はいつ日本列島に到来して混合したのか、という問題がありますが、現時点ではよく分かりません。以下は、後者の見解を図示したWang CC et al., 2021の図2です。
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 愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡の縄文文化関連個体(IK002)のゲノム解析結果を報告した研究(Gakuhari et al., 2020)は、遺伝的に古代北ユーラシア人(Ancient North Eurasian、略してANE)に分類される、シベリア南部のマリタ(Mal’ta)遺跡で発見された24000年前頃となる1個体(MA1)関連祖先系統からの遺伝子流動の痕跡がほとんど検出されなかったことから、「縄文人」が南回り(ヒマラヤ山脈以南)でユーラシア西方から日本列島へと到来した、と推測します。ANEはユーラシアの現代人でも東部より西部の方と近く、現代のアメリカ大陸先住民の主要な祖先の一部となりました(Sikora et al., 2019)。

 一方で、同じくANEに分類される、ヤナ犀角遺跡(Yana Rhinoceros Horn Site、略してヤナRHS)の31600年前頃の個体は、日本人や他のアジア南東部および東部現代人と遺伝的に比較して「縄文人」と有意に密接なので、ANEと「縄文人」との間の遺伝子流動が推測されています(Cooke et al., 2021)。これらの知見をどう解釈すべきか、難しいところですが、ヤナRHS個体とMA1との間に直接的な祖先・子孫関係はなさそうですから(Sikora et al., 2019)、MA1と異なるヤナRHS個体のゲノムの祖先系統の一部に、「縄文人」の祖先と共通するものがあるのでしょうか。この問題は、「縄文人」集団の遺伝的形成過程解明の手がかりになるかもしれません。

 結局のところ、「縄文人」集団がどのように形成されたのか、現時点では不明ですが、北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の縄文時代個体のゲノムデータを報告した研究(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)で、アジア東部大陸部の南方から北方までの沿岸集団と「縄文人」との遺伝的類似性が報告されていたことは注目されます。その後の研究(Wang CC et al., 2021)では、ロシア極東沿岸部のボイスマン(Boisman)遺跡の6300年前頃となる中期新石器時代集団(ボイスマン_MN)のゲノムが、モンゴル新石器時代集団関連祖先系統87%と「縄文人」関連祖先系統13%でモデル化されました。また朝鮮半島南岸の新石器時代の個体群のゲノムは、0~95%の「縄文人」関連祖先系統と、西遼河地域の紅山(Hongshan)文化個体関連祖先系統でモデル化できます(Robbeets et al., 2021)。

 上述のように、現在の考古学的知見では、縄文文化はほぼ現在の日本国の領土に限定されており、他地域との相互作用は低調だった、と考えられており、これらの地域で縄文文化が大きな影響力を有して根づいたとはとても言えないでしょうが、朝鮮半島南岸については、0.1%程度の推定割合ながら縄文土器が出土しており(水ノ江., 2022)、「縄文人」が九州から朝鮮半島南岸へと渡り、さらに朝鮮半島南岸の新石器時代の個体群のゲノムにおけるさまざまな割合の「縄文人」関連祖先系統から考えると、一定の遺伝的影響を残した可能性は高そうです。

 しかし、これら日本列島外の縄文時代相当期間の個体群のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統が、縄文時代の日本列島の個体からもたらされたものかどうかは、検討の余地があります。最近の研究(Huang et al., 2022)は、先行研究(Wang CC et al., 2021)と同じく「縄文人」祖先系統の形成を、遺伝的に大きく異なる2つの祖先系統の混合としてモデル化していますが、先行研究よりも複雑になっています。その研究では祖先系統の分岐について、ユーラシア東部系が、まず初期ユーラシア東部系と初期アジア東部系に分岐し、初期アジア東部系が南北に分岐して、南部系は南部(内陸部)系と沿岸部系(アジア東部沿岸部祖先系統)に分岐します。「縄文人」関連祖先系統は、アンダマン諸島のオンゲ人関連祖先系統に比較的近い初期ユーラシア東部祖先系統(54%)とアジア東部沿岸部祖先系統(46%)の混合とモデル化されています(Huan et al., 2022図4)。以下はHuang et al., 2022の図4です。
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 Huang et al., 2022では、ボイスマン_MNはアジア東部北部祖先系統(71%)とアジア東部沿岸部祖先系統(29%)の混合とモデル化されています。つまり、先行研究で推定されたボイスマン_MNのゲノムにおける13%程度の「縄文人」関連祖先系統は、「縄文人」から直接的もしくは朝鮮半島経由でもたらされたのではなく、「縄文人」のゲノムにおける一方の主要な祖先系統を、ボイスマン_MNも約30%と比較的高い割合で有していることに起因しており、ボイスマン_MNと「縄文人」との直接的な関連はなかったのかもしれません。これは朝鮮半島南岸新石器時代個体群にも言えて、これらの個体のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統は、日本列島の縄文時代の個体からもたらされたものではないかもしれません。

 ただ、ボイスマン_MNには外れ値個体(ボイスマン_MN_o)があり、ロシア極東沿岸のレタチャヤ・ミシュ(Letuchaya Mysh)の7000年前頃となる狩猟採集民1個体(レタチャヤミシュ_7000年前)とともに、そのゲノムの30%程度が「縄文人」関連祖先系統でモデル化できます(Wang K et al., 2023)。また、上述のように、朝鮮半島南岸新石器時代には、そのゲノムの95%を「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる個体が確認されており、具体的には、後期新石器時代の欲知島(Yokchido)遺跡の個体です(Robbeets et al., 2021)。これら一定以上の割合の「縄文人」関連祖先系統でゲノムをモデル化できる個体、とくに欲知島遺跡個体は、その地理的近さと、ひじょうに少ないものの縄文文化の考古資料が朝鮮半島南岸で発見されていること(水ノ江., 2022)から、日本列島の縄文時代の個体が朝鮮半島に到来して遺伝的影響を残した結果かもしれません。

 ただ、ロシア極東沿岸の2個体(ボイスマン_MN_oとレタチャヤミシュ_7000年前)のゲノムが30%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できることの意味は、よく分かりません。朝鮮半島南岸も関わる何からのつながりがあったのか、あるいはアジア東部大陸部の南方から北方までの沿岸集団と「縄文人」との遺伝的類似性が、更新世にまでさかのぼる複雑なもので、それも反映しているのかもしれません。この関連で注目されるのは、アムール川流域の11601~11176年前頃の1個体(AR11K)のYHgがDEに分類されていることです。現代人と古代人の分布頻度から、更新世のアムール川流域にYHg-Eの個体が存在したとは考えにくいため恐らくはYHg-Dで、少ない個体の中で見つかったことは、当時まだ日本列島以外のアジア東部大陸部沿岸にもYHg-Dが現在以上の頻度で存在したことを示唆しており、それは「縄文人」集団の形成過程とも関わってくるかもしれません。

 つまり、YHg-D1a2aは日本列島と(日本列島から流入した)朝鮮半島(南部もしくは南岸)にしか存在せず、「縄文人」の指標となるYHgとするような通俗的見解がネットでは散見されるものの、縄文時代の日本列島から朝鮮半島に渡り、弥生時代以降に日本列島へと「逆流」した系統や、アジア東部大陸部沿岸から朝鮮半島などを経て弥生時代以降に日本列島到来した系統など、現代日本人のYHg-D1a2aでは、直接的には「縄文人」に由来しない割合も一定以上あるのではないか、というわけです。これは、日本人のYHgの詳しい分析と、分布頻度および分岐推定年代の精緻化と、古代DNA研究による裏づけで証明されていかねばならず、現時点では思いつきにすぎないことも否定できません。


●弥生時代

 弥生時代の開始については、言語学的知見も踏まえた考古学的観点から、日本語系統(日琉語族)系統の流入との関わりが指摘されています(Miyamoto., 2022)。それによると、日本語祖語は偏堡(Pianpu)文化の紀元前2700年頃の遼西地区東部もしくはマンチュリア南部の遼河流域に起源があり、紀元前1500年頃に朝鮮半島北部~中央部のゴングウィリ(Gonggwiri)式土器を介して朝鮮半島南部の無文(Mumun)文化を形成し、この頃に磨製石器を伴う稲作など灌漑農耕が山東半島から遼東半島経由で朝鮮半島南部へと広がり、紀元前9世紀に九州北部へと広がり弥生文化の形成に至って、日本列島在来の「縄文語」系統を(北海道を除いてほぼ)やがて駆逐した、とされます(Miyamoto., 2022)。一方、朝鮮語祖語もマンチュリア南部とその周辺に起源があり、現在の北京付近に位置した、いわゆる戦国の七雄の一国である燕の東方への拡大に圧迫されて朝鮮半島へと移動し、その考古学的指標は紀元前5世紀頃の粘土帯土器(rolled rim vessel、Jeomtodae)文化になり、やがて朝鮮半島から日本語系統を駆逐した、と指摘されています(Miyamoto., 2022)。つまり、マンチュリア南部とその周辺から、まず紀元前二千年紀半ばに日本語系統が朝鮮半島へと到来し、その後で九州北部に広がったのに対して、朝鮮語系統は紀元前千年紀半ばに朝鮮半島へ到来した、というわけです。こうした言語学的知見も踏まえた考古学的見解が、古代ゲノム研究でも裏づけられるのかどうか、以下で整理します。

 弥生文化関連個体群の最大の遺伝的特徴は、その差異の大きさです。弥生文化関連個体群のゲノムは基本的に、MAEE集団(ユーラシア東部現代人の主要な祖先集団)から派生したアジア東部北方系(NEA)集団関連祖先系統と、「縄文人」関連祖先系統の混合でモデル化できますが、その割合が個体により大きく異なり、現代日本人集団の平均10%前後と同等か、それよりやや低いか、20%程度とやや多いか、40~50%程度と明らかに多いなどさまざまで(Robbeets et al., 2021)、弥生文化関連個体群の遺伝的不均質性はこうした差異を反映しています。さらに、弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)は、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成し(神澤他., 2021a)、これは、東北地方の弥生時代の男性個体も同様です(篠田.,2019,P173-174)。また、鳥取県鳥取市(旧気高郡)青谷町の青谷上寺地遺跡で発見された13個体も遺伝的差異を示しており、1ヶ所の遺跡でも遺伝的不均一性の相対的な高さが示されています(神澤他., 2021b)。つまり、弥生文化関連個体群のゲノムは基本的に、NEA集団関連祖先系統と「縄文人」関連祖先系統の混合でモデル化でき、現代日本人集団と同様にNEA集団関連祖先系統の割合が高い個体が多いものの、「縄文人」関連祖先系統の割合は10%程度から100%までさまざまとなり(0%の個体群が存在した可能性も考えられます)、それが弥生文化関連個体群の遺伝的不均質性を反映している、というわけです。あるいは、日本列島の人類史上、弥生時代は最も遺伝的不均質性の高い期間だったかもしれません。

 このNEA集団関連祖先系統はさらに区分されています。上述のように、朝鮮半島南岸の新石器時代個体群は、「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統でモデル化できますが、上述のように、このEAN集団関連祖先系統を紅山文化個体関連祖先系統とされています(Robbeets et al., 2021)。一方で、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団のゲノムは、高い割合の夏家店上層文化個体関連祖先系統と低い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる、と指摘されています(Robbeets et al., 2021)。これは、朝鮮半島南岸の新石器時代個体群が、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団の主要な祖先ではなかったことを示唆します。しかし、この研究については、競合する混合モデルを区別する解像度が欠けていて、紅山文化個体関連祖先系統と夏家店上層文化個体関連祖先系統は朝鮮半島と日本列島の古代人と遺伝的に等しく関連しており、家店上層文化個体関連祖先系統を選択的に割り当てられた集団は、家店上層文化個体関連祖先系統の代わりに紅山文化個体関連祖先系統でも説明できる、との批判があります(Tian et al., 2022)。

 そもそも上述のように、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団のゲノムは、高い割合の夏家店上層文化個体関連祖先系統でモデル化できる、と指摘した研究(Robbeets et al., 2021)が示しているのは、現代日本人集団の主要な直接的祖先が夏家店上層文化集団だったことではなく、既知の古代人集団では夏家店上層文化集団が最適な代理となり得る、ということです。したがって、Tian et al., 2022の指摘から、現代日本人集団の主要な直接的祖先は、紅山文化集団や家店上層文化集団と類似しているものの異なる別の集団だった、と示唆されます。これは、上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解と親和的というか、少なくとも矛盾はしません。EAN集団関連祖先系統のより詳細で適切な区分と、それに基づく古代人および現代人の集団のゲノムの適切なモデル化には、時空間的により広範囲の、さらに多くの古代人のゲノムデータが必要になるでしょう。

 上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解との関連で注目されるのは、日本列島の弥生時代と古墳時代では、人類集団のゲノムが「縄文人」関連祖先系統とEAN集団関連祖先系統の混合(割合は異なります)でモデル化できることは同じであるものの、後者には違いが見られる、と指摘されていることです(Cooke et al., 2021)。つまり、EAN集団関連祖先系統でも、弥生時代の人類集団の場合には西遼河の中期新石器時代もしくは青銅器時代個体群関連祖先系統(アジア北東部祖先系統)により適切に表され、古墳時代の人類集団の場合には高い割合の黄河流域集団関連祖先系統(アジア東部祖先系統)と低い割合のアジア北東部祖先系統により適切に表されます。ただCooke et al., 2021では、これらの祖先系統がアムール川流域と西遼河地域と黄河流域との間の複雑な相互作用により形成された(Ning et al., 2020)、という大前提があります。弥生時代の人類集団に関しては、「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統との間の混合が3448±825年前、古墳時代の人類集団に関しては、「縄文人」祖先系統とアジア東部祖先系統の混合は1748±175年前と推定されています(Cooke et al., 2021)。

 これは、上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解と関連しているかもしれません。つまり、朝鮮半島における紀元前5世紀頃以降の朝鮮語系統の拡大と日本語系統の衰退を遺伝的に反映しているのが、アジア東部祖先系統の割合増加とアジア北東部祖先系統の割合低下で、それが日本列島の弥生時代と古墳時代の人類集団のゲノムにおけるEAN集団関連祖先系統の違いに示されているのではないか、というわけです。ただ、そうした変化が日本列島に反映されたのは弥生時代後期までさかのぼるかもしれませんし、弥生時代以降の朝鮮半島から日本列島への移住の波が、ある程度連続的で一定していたのか、一回もしくは複数回の大きなものだったのかは、もっと時空間的に広範囲の古代人のゲノムデータが多く分析されないと、推測は困難です。ただ、Cooke et al., 2021は、弥生時代の人類集団を、「縄文人」関連祖先系統の割合が高めの長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体(篠田他., 2019)で代表させており、下本山岩陰遺跡の2個体の前に、現代日本人程度の割合の「縄文人」関連祖先系統をゲノム有する個体が存在すること(Robbeets et al., 2021)も考慮して、弥生時代の人類集団の形成過程とその差異を検証しなければならないでしょう。


●古墳時代以降

 上述のように、弥生時代は人類集団の遺伝的差異が大きく、それはゲノムにおけるさまざまな割合の「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統により説明できます。Cooke et al., 2021は、現代「本土」日本人集団的な遺伝的構成が古墳時代に成立したことを指摘しますが、弥生時代よりは縮小していたかもしれないにしても、複数の研究から、古墳時代も人類集団の遺伝的差異が大きかった、と示唆されます。現代「本土」日本人集団と同じような割合の「縄文人」関連祖先系統をゲノムに有する個体としては、古墳時代前期となる香川県高松市の高松茶臼山古墳の男性被葬者(茶臼山3号、神澤他., 2021c)や、島根県出雲市猪目洞窟遺跡で発見された古墳時代末期(猪目3-2-1号)と奈良時代(猪目3-2-2号)の被葬者(神澤他., 2021d)が挙げられます。

 一方で、和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号(紀元後398~468年頃)および2号(紀元後407~535年頃)のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は、52.9~56.4%、2号が42.4~51.6%と推定されています(安達他.,2021)。後の畿内ではないものの近畿地方において、紀元後5~6世紀頃においても、このようにゲノムを現代「本土」日本人集団よりもずっと高い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる個体が存在することは、日本列島「本土」では古墳時代においても現代より人類集団の遺伝的異質性がずっと高かったことを示唆します。

 現代「本土」日本人集団の基本的な遺伝的構成の確立は、少なくとも平安時代まで視野に入れる必要があり、さらに言えば、中世後期に安定した村落(惣村)が成立していくこととも深く関わっているのではないか、と現時点では予測していますが、この私見の妥当性の判断は、歴史時代も含めた古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。ただ、現在は弥生時代や古墳時代よりも日本列島「本土」人類集団の遺伝的均質性は高くなっているでしょうが、それでも地域差はあり、それは弥生時代や古墳時代と同様に、「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統の割合の違いを反映しているのでしょう(Watanabe, and Ohashi., 2023)。

 この点で注目されるのは、古墳時代の日本列島と同時代の朝鮮半島との関係です。朝鮮半島の三国時代の伽耶に関して、その政治的中心地であった金海(Gimhae)の大成洞(Daesung-dong)にある支配者の大規模な3700m²にもなる埋葬複合施設で発見された、紀元後4~5世紀頃の8個体のゲノムが解析されました(Gelabert et al., 2022)。この8個体は遺伝的に、6個体から構成されるクレード(単系統群)1と2個体から構成されるクレード2に分類されます。クレード1のゲノムは、後期青銅器時代~鉄器時代黄河流域集団関連祖先系統(93±6%)と「縄文人」関連祖先系統(7±6%)でモデル化できます。クレード2のゲノムは、朝鮮半島中期新石器時代個体100%でモデル化できますが、中国北部集団関連祖先系統(70±8%)もしくは遼河流域青銅器時代集団関連祖先系統(66±7%)と、残りの「縄文人」関連祖先系統でモデル化できます。つまり、クレード2のゲノムは30%前後の割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できるわけです。

 Gelabert et al., 2022は、朝鮮半島南岸の紀元後4~5世紀頃の人類集団のゲノムに存在していた「縄文人」関連祖先系統について、朝鮮半島南岸において新石器時代から三国時代まで存続した可能性を指摘しますが、新石器時代以降のどこかの時点で途絶え、弥生時代や古墳時代の日本列島から改めてもたらされた可能性も検証に値するとは思います。これは、朝鮮半島において日本語系統の言語がいつ完全に消滅したのか、さらには伽耶諸国に対する「日本」というかヤマト王権の影響がいかなるものだったのか、という問題とも関わっているかもしれません。つまり、ヤマト王権と伽耶諸国との深い結びつきは、言語的近縁性に基づく根深いもので、日本列島で勢力を拡大したヤマト王権が朝鮮半島にまで影響力を及ぼした、と単純には解釈できないかもしれないことを示唆します。

 また、朝鮮半島南岸に新石器時代以降ずっと、ゲノムを一定以上の割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる人類集団が存在したとしたら、現代の日本列島「本土」集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は一定以上、朝鮮半島南岸新石器時代集団に由来するかもしれません。つまり、「縄文人」を縄文文化関連個体と規定すれば(この規定は無理筋ではないはずです)、現代の日本列島「本土」集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は、現在の推定(上述のように地域差はもちろんありますが、10%前後)よりずっと少なかったかもしれず、縄文時代と現代との間で日本列島の人類集団では遺伝的にほぼ全面的な置換が起きたことになります。まあ、現代日本人集団のゲノムにおける縄文人的構成要素の割合が平均して10%程度だとしても、全面的な置換に近い、と言えそうですが。

 一方、韓国の西部沿岸地域に位置する全羅北道(Jeollabuk-do)群山(Gunsan)市の堂北里(Dangbuk-ri)遺跡の紀元後6世紀半ば頃となる6個体のゲノム解析結果(Lee et al., 2022)は、これら6個体が西遼河地域青銅器時代集団関連祖先系統、もしくは追加の低い割合の中国南部の福建省の渓頭(Xitoucun)遺跡の後期新石器時代個体関連祖先系統でモデル化でき、「縄文人」関連祖先系統の統計的に有意な寄与が検出されませんでした。ただ、遺伝的な北方の代理を内モンゴル自治区の中期新石器時代個体群へと置き換えると、堂北里遺跡の6個体と韓国の蔚山広域市の現代人のゲノムにおける、少ないものの有意な量の「縄文人」関連祖先系統の寄与が検出されます。しかし、地理的および時間的近接性を考慮すると、西遼河地域青銅器時代集団が古代および現代の朝鮮人にとってより適切なモデルを提供している、と考えられます。つまり、遅くとも紀元後6世紀半ば頃には、「縄文人」関連祖先系統がほぼ検出されないような現代朝鮮人とよく似た遺伝的構成の集団が存在していたわけです。この集団の言語は恐らく朝鮮語系統だったでしょうが、当時の朝鮮半島の人類集団の遺伝的構成の地域差については、もっと多くの古代ゲノムデータが必要となり、朝鮮半島の人類集団における「縄文人」関連祖先系統の消滅時期も現時点では不明です。


●琉球諸島と北海道

 沖縄諸島に関しては、グスク時代の人類集団とそれより前の人類集団とでは形質的にかなり異なっており、近世集団は古墳時代集団や鎌倉時代集団に近い、との形質人類学の研究成果と、上述の、グスク時代に農耕の開始やアジア東部大陸部の陶磁器など外来要素が突如出現した、との考古学的知見から、貝塚時代末期以降に外部、おそらくは古代末期~中世初期以降の九州本島から沖縄諸島への人類の流入がかなりあったのではないか、と推測されています(高宮., 2014)。上述のように、奄美・沖縄諸島と先島諸島が初めて一つの文化圏となったのもこの頃で、先島諸島においては、紀元前千年紀の個体ではゲノムがほぼ完全に「縄文人」関連祖先系統でモデル化できましたが、近世には琉球諸島の現代人のような遺伝的構成(高い割合のNEA集団関連祖先系統と低い割合の「縄文人」関連祖先系統)の個体が確認されています(Robbeets et al., 2021)。

 琉球諸島の現代人集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は27%程度と推定されており(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)、古代末期~中世初期以降の九州本島から沖縄諸島へ到来した人類集団のゲノムが、20%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できるとすると、琉球諸島の現代人集団のゲノムは、古代末期~中世初期以降の九州本島集団関連祖先系統(80~90%)と貝塚時代集団関連祖先系統(10~20%)の混合としてモデル化できそうです。琉球諸語は貝塚時代集団の言語と古代末期~中世初期の九州本島集団の言語の混合により成立したのでしょうか、基本的には日本語系統に分類されることからも、日本(ヤマト)文化の影響が圧倒的に強かった、と推測されます。つまり、遺伝的にも文化的にも、近世以降の琉球諸島集団について縄文時代(というか貝塚時代)からの強い連続性を想定することは難しいように思います。

 現代アイヌ集団については、「縄文人」集団との強い遺伝的連続性がネットでもよく指摘されており、その根拠は、アイヌ集団のゲノムが66%程度と高い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できることです。しかし、上述のように、遺伝学的研究だけでアイヌ集団と「縄文人」集団との連続性を証明できるわけではなく、考古学など他分野の研究成果も踏まえて初めて、きわめて蓋然性の高い推測になっていることに注意すべきでしょう。また、アイヌ集団の遺伝的な地域差がどの程度あるのか、現時点ではよく分かりません。オホーツク文化関連個体の研究(Sato et al., 2021)から、アイヌ集団は遺伝的に、「縄文人」集団とオホーツク文化集団と日本列島「本土」集団の関連祖先系統の混合でモデル化できる、と提案されています。その関連祖先系統の割合は、ゲノムをほぼ「縄文人」関連祖先系統でモデル化できそうな続縄文文化もしくは擦文文化集団から49%、オホーツク文化集団から22%、日本列島「本土」集団から29%程度です。もちろん、上述のように、この割合には地域差があるかもしれません。

 オホーツク文化集団のゲノムは11%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化でき、上述のように弥生時代以降の日本列島「本土」集団のゲノムも少ない割合ながら一定以上の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できますから、アイヌ集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統のうち一定の割合(10~15%程度?)は、オホーツク文化集団および弥生時代以降の日本列島「本土」集団に由来する可能性が高そうです。もちろん、アイヌ集団の祖先と混合したオホーツク文化集団および弥生時代以降の日本列島「本土」集団にも地域差があったでしょうから、具体的な割合の推測は困難ですが。つまり、ネット上では、現代アイヌ集団のゲノムにおける「7割」という「高い割合」の「縄文人」要素を根拠に、「縄文人」集団から現代アイヌ集団への連続性を主張する見解も散見されるものの、そんな単純な話ではないだろう、というわけです。

 もちろん、上述のように、遺伝というかDNAと文化や民族とを安易に関連づけてはならないことが大前提で、DNAと文化とのさまざまな関連(関連記事)からも、遺伝的影響の大小と文化的影響の大小を安易に関連づけてはならないことが示唆されます。その上で、オホーツク文化が紀元後10世紀以降に擦文文化から人工物や生産・生業技術や居住パターンや生計戦略などの数々の要素を段階的に受け入れ、トビニタイ文化を経て最終的に擦文文化に吸収・同化されていき、少なくとも物質文化側面では、擦文文化そのものと区別がつかないものになったこと(大西., 2019)と合わせて考えると、縄文時代から続縄文時代経て擦文文化期へと続いた北海道を中心に分布した地域集団がオホーツク文化集団に対して優位に立ち、これを同化していった可能性が高そうです。つまり、アイヌ集団の言語は恐らく縄文時代の北海道の(特定の?)人類集団に由来し、その文化・民族性を縄文文化と切断する見解は妥当ではないだろう、というわけです。もちろん、アイヌ集団がオホーツク文化やアジア東北部大陸部の人類集団から大きな文化的影響を受けなかったわけではないでしょう。


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Harris EE.著(2016)、水谷淳訳『ゲノム革命 ヒト起源の真実』(早川書房、原書の刊行は2015年)
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Watanabe Y, and Ohashi J.(2023): Modern Japanese ancestry-derived variants reveal the formation process of the current Japanese regional gradations. iScience, 26, 3, 106130.
https://doi.org/10.1016/j.isci.2023.106130
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安達登、神澤秀明、藤井元人、清家章(2021)「磯間岩陰遺跡出土人骨のDNA分析」清家章編『磯間岩陰遺跡の研究分析・考察』P105-118
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大西秀之(2019)「アイヌ民族・文化形成における異系統集団の混淆―二重波モデルを理解するための民族史事例の検討」『パレオアジア文化史学:人類集団の拡散と定着にともなう文化・行動変化の文化人類学的モデル構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 21)』P11-16
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神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021a)「佐賀県唐津市大友遺跡第5次調査出土弥生人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P385-393
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神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021b)「鳥取県鳥取市青谷上寺遺跡出土弥生後期人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P295-307
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神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021c)「香川県高松市茶臼山古墳出土古墳前期人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P369-373
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神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一、斎藤成也(2021d)「島根県出雲市猪目洞窟遺跡出土人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P329-340
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国武貞克(2021)「中央アジア西部における初期後期旧石器時代(IUP期)石器群の追求と日本列島到来の可能性」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)』P11-20
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上峯篤史(2020)「存否問題のムコウ」『Communication of the Paleo Perspective』第2巻P24-25
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佐藤宏之(2013)「日本列島の成立と狩猟採集の社会」『岩波講座 日本歴史  第1巻 原始・古代1』P27-62
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篠田謙一(2019)『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』(NHK出版)
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篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2019)「西北九州弥生人の遺伝的な特徴―佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析―」『Anthropological Science (Japanese Series)』119巻1号P25-43
https://doi.org/10.1537/asj.1904231
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瀬川拓郎(2019)「アイヌ文化と縄文文化に関係はあるか」北條芳隆編『考古学講義』第2刷(筑摩書房、第1刷の刊行は2019年)P85-102
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高宮広土(2014)「奄美・沖縄諸島へのヒトの移動」印東道子編『人類の移動誌』初版第2刷(臨川書店)第3章「日本へ」第5節P182-197
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松波雅俊(2020)「ゲノムで検証する沖縄人の由来」斎藤成也編著『最新DNA研究が解き明かす。 日本人の誕生』第2刷(秀和システム)第5章
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水ノ江和同(2022)『縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏』(朝日新聞出版)
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山田康弘(2015)『つくられた縄文時代  日本文化の原像を探る』(新潮社)

https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_11.html
8:777 :

2023/06/16 (Fri) 23:09:29

「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
橘玲、人類学者・篠田謙一対談(後編)
https://diamond.jp/articles/-/306767

2022.7.26 4:10
「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説

化石となった人骨のゲノム(遺伝情報)を解析できるようになり、数十万年に及ぶ人類の歩みが次々と明らかになってきた。自然科学に詳しい作家・橘玲(たちばな・あきら)氏が、国立科学博物館の館長でもある遺伝人類学者・篠田謙一氏に、人類の歴史にまつわる疑問をぶつける特別対談。後編では、日本人の歴史に焦点を当てる。現在の日本人に連なるいにしえの人々は、いったいどこからやって来たのだろうか――。(構成/土井大輔)


日本人のルーツは?
縄文人のDNAから考える
橘玲氏(以下、橘) 日本人の話題に入りたいと思います。6万年ほど前に出アフリカを敢行した数千人のホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人やデニソワ人などの旧人と各地で出会い、交わりながらユーラシア大陸を東に進んでいきます。その東端にある日本列島に到達した人たちが縄文人になるわけですが、主要なルートは朝鮮半島経由とシベリア経由と考えていいんでしょうか。

篠田謙一氏(以下、篠田) ほぼその通りですね。5万年くらい前、人類は東南アジアから海岸伝いに北に上がってくるんです。そのころは中国大陸の海岸線が今より広がっていて、朝鮮半島も台湾も大陸の一部でした。日本列島は孤立していますけれど、今より大陸との距離は近かったんですね。


大陸で数万年間かけて分化していった集団が、北方からであったり朝鮮半島経由であったり、複数のルートで日本列島に入ってきた。それがゆるやかに結合することで出来上がったのが縄文人だと考えています。

 私たちは北海道の縄文人のDNAを多く解析したんですけども、そこには(ロシア南東部の)バイカル湖周辺にあった遺伝子も多少入っているんです。もしかすると、ユーラシア大陸を北回りで東にやって来た人たちの遺伝子も、東南アジアから来た人たちと混血して、日本に入ってきたのではないかと考えています。

橘 中国も唐の時代(618年~907年)の長安には、西からさまざまな人たちが集まっていたようですね。

篠田 大陸は古い時代からヨーロッパの人たちと遺伝的な交流があったと思いますよ。例えばモンゴルは、調べてみるととても不思議なところで、古代からヨーロッパ人の遺伝子が入っています。陸続きで、しかも馬がいる場所ですから、すぐに遺伝子が伝わっていくんです。

橘 ということは、長安の都を金髪碧眼(へきがん)の人たちが歩いていたとしても、おかしくはない。

篠田 おかしくはないですね。ただ、それが現代の中国人に遺伝子を残しているかというと、それはないようですけれども。

弥生人の定説が
書き換えられつつある
橘 日本の古代史では、弥生時代がいつ始まったのか、弥生人はどこから来たのかの定説が遺伝人類学によって書き換えられつつあり、一番ホットな分野だと思うのですが。

篠田 そう思います。

「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
弥生時代以降の日本列島への集団の流入(『人類の起源』より)
https://diamond.jp/articles/-/306767?page=2


橘 篠田さんの『人類の起源』によれば、5000年くらい前、西遼河(内モンゴル自治区から東に流れる大河)の流域、朝鮮半島の北のほうに雑穀農耕民がいて、その人たちの言葉が日本語や韓国語の起源になったというのがとても興味深かったんですが、そういう理解で合っていますか?


篠田 私たちはそう考えています。1万年前よりも新しい時代については、中国大陸でかなりの数の人骨のDNAが調べられているので、集団形成のシナリオがある程度描けるんです。その中で、いわゆる渡来系といわれる弥生人に一番近いのは、西遼河流域の人たちで、黄河流域の農耕民とは遺伝的に少し異なることがわかっています。

橘 黄河流域というと、今でいう万里の長城の内側ですね。そこでは小麦を作っていて、西遼河の辺りはいわゆる雑穀だった。

篠田 まあ、中国でも小麦を作り始めたのはそんなに昔ではないらしいんですが、違う種類の雑穀を作っていたんでしょうね。ただ陸続きで、西遼河も黄河も同じ農耕民ですから、全く違ったというわけではなくて、それなりに混血して、それが朝鮮半島に入ったというのが今の説なんです。

 さらに誰が日本に渡来したのかっていうのは、難しい話になっています。これまではいわゆる縄文人といわれる人たちと、朝鮮半島で農耕をやっていた人たちは遺伝的に全く違うと考えられてきたんですね。それがどうも、そうではなさそうだと。

 朝鮮半島にも縄文人的な遺伝子があって、それを持っていた人たちが日本に入ってきたんじゃないかと。しかもその人たちが持つ縄文人の遺伝子の頻度は、今の私たちとあまり変わらなかったんじゃないかと考えています。

橘 「日本人とは何者か」という理解が、かなり変わったんですね。

篠田 変わりました。特に渡来人の姿は大きく変わったと言ってよいでしょう。さらに渡来人と今の私たちが同じだったら、もともと日本にいた縄文人の遺伝子は、どこに行っちゃったんだという話になります。

 両者が混血したのだとすれば、私たちは今よりも縄文人的であるはずなんですけども、そうなっていない。ですから、もっと後の時代、古墳時代までかけて、より大陸的な遺伝子を持った人たちが入ってきていたと考えざるを得なくなりました。

橘 なるほど。西遼河にいた雑穀農耕民が朝鮮半島を南下してきて、その後、中国南部で稲作をしていた農耕民が山東半島を経由して朝鮮半島に入ってくる。そこで交雑が起きて、その人たちが日本に入ってきたと。


篠田 日本で弥生時代が始まったころの人骨は、朝鮮半島では見つかってないんですけども、それより前の時代や、後の三国時代(184~280年)の骨を調べると、遺伝的に種々さまざまなんです。縄文人そのものみたいな人がいたり、大陸内部から来た人もいたり。遺跡によっても違っていて。

橘 朝鮮半島というのは、ユーラシアの東のデッドエンドみたいなところがありますからね。いろいろなところから人が入ってきて、いわゆる吹きだまりのようになっていた。

篠田 しかもそれが完全には混じり合わない状態が続いていた中で、ある集団が日本に入ってきたんだろうと考えています。

橘 その人たちが初期の弥生人で、北九州で稲作を始めたのが3000年くらい前ということですね。ただ、弥生文化はそれほど急速には広まっていかないですよね。九州辺りにとどまったというか。

篠田 数百年というレベルでいうと、中部地方までは来ますね。東へ進むのは割と早いんです。私たちが分析した弥生人の中で、大陸の遺伝子の要素を最も持っているものは、愛知の遺跡から出土しています。しかもこれは弥生時代の前期の人骨です。だから弥生時代の早い時期にどんどん東に進んだんだと思います。

 ただ、九州では南に下りるのがすごく遅いんです。古墳時代まで縄文人的な遺伝子が残っていました。

橘 南九州には縄文人の大きな集団がいて、下りていけなかったということですか。

篠田 その可能性はあります。今、どんなふうに縄文系の人々と渡来した集団が混血していったのかを調べているところです。おそらくその混血は古墳時代まで続くんですけれども。

 当時の日本列島は、ある地域には大陸の人そのものみたいな人たちがいて、山間とか離島には、遺伝的には縄文人直系の人がいた。現在の私たちが考える日本とは全然違う世界があったんだろうと思います。平安時代に書かれた文学なんかは、きっとそういう世界を見たと思うんです。

橘 すごくロマンがありますね。

篠田 今の私たちの感覚では、わからないものなのかなと思いますね。

弥生人の渡来に
中国の動乱が関係?
橘 中国大陸の混乱が、日本列島への渡来に影響したという説がありますよね。3000年前だと、中国は春秋戦国時代(紀元前770~紀元前221年)で、中原(華北地方)の混乱で大きな人の動きが起こり、玉突きのように、朝鮮半島の南端にいた人たちがやむを得ず対馬海峡を渡った。

 古墳時代は西晋の崩壊(316年)から五胡十六国時代(439年まで)に相当し、やはり中原の混乱で人々が移動し、北九州への大規模な流入が起きた。こういったことは、可能性としてあるんでしょうか。

篠田 あると思います。これまで骨の形を見ていただけではわからなかったことが、ゲノム解析によって混血の度合いまでわかるようになった。今やっと、そういうことがゲノムで紐解ける時代になったところです。

 古墳を見ても、副葬された遺物が当時の朝鮮半島直輸入のものだったり、あるいは明らかに日本で作ったものが副葬されたりしてさまざまです。その違いが埋葬された人の出自に関係しているのか、ゲノムを調べれば解き明かすことができる段階になっています。

橘 イギリスでは王家の墓の古代骨のゲノム解析をやっていて、その結果が大きく報道されていますが、日本の古墳では同じことはできないんですか。

篠田 それをやるには、まず周りを固めることが先かなと思いますね。「ここを調べればここまでわかるんですよ」というのをはっきり明示すれば、やがてできるようになると思います。


政治的な思惑で
調査が進まないプロジェクトも
橘 古墳の古代骨のゲノム解析ができれば、「日本人はどこから来たのか」という問いへの決定的な答えが出るかもしれませんね。中国大陸から朝鮮半島経由で人が入ってきたから、日本人は漢字を使うようになった。ただ、やまとことば(現地語)をひらがなで表したように、弥生人が縄文人に置き換わったのではなく、交雑・混血していったという流れなんでしょうか。

篠田 そう考えるのが自然だと思います。弥生時代の初期に朝鮮半島から日本に直接入ってきたんだとしたら、当時の文字が出てきているはずなんです。ところがない。最近は「硯(すずり)があった」という話になっていて、もちろん当時から文字を書ける人がいたのは間違いないんですが、弥生土器に文字は書かれていません。一方で古墳時代には日本で作られた剣や鏡に文字が書かれています。

橘 日本ではなぜ3世紀になるまで文字が普及しなかったのかは、私も不思議だったんです。

篠田 弥生時代の人たちは稲作を行い、あれだけの土器、甕(かめ)なんかも作りましたから、大陸から持ち込んだ技術や知識は絶対にあったはずなので。いったい誰が渡来したのか、その人たちのルーツはどこにあったのかっていうところを解きほぐすことが必要だと思っています。

「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
篠田謙一氏の近著『人類の起源』(中央公論新社)好評発売中!
橘 古墳時代に文字を使うリテラシーの高い人たちが大量に入ってきて、ある種の王朝交代のようなものが起きて、『古事記』や『日本書紀』の世界が展開する。縄文から弥生への二段階説ではなく、縄文・弥生・古墳時代の三段階説ですね。

篠田 そうしたことが、おそらくこれからゲノムで読み取れるんだろうなと思います。

 弥生時代、最初に日本に入ってきた人というのは、現在の我々とは相当違う人だったというのが現在の予想です。それを知るには当時の朝鮮半島の状況、弥生時代の初期から古墳時代にかけてどうなっていたのか、人がどう動いたのかをちゃんと調べる必要があるんですが、難しいんですよ。いろいろと政治的な問題もあって。

橘 国家や民族のアイデンティティーに絡んできますからね。

篠田 現地の研究者との間では「この人骨を分析しましょう」という話になるんですけれども、上からOKが出ないわけです。「今この人骨を渡すのは困る」と。それでポシャったプロジェクトがいくつかあって。なかなか進まないんです。

橘 政治の壁を突破して、ぜひ調べていただきたいです。朝鮮半島は「吹きだまり」と言いましたが、日本こそユーラシア大陸の東端の島で、北、西、南などあらゆる方向から人々が流れ着いてきた吹きだまりですから、自分たちの祖先がどんな旅をしてきたのかはみんな知りたいですよね。

篠田 ここから東には逃げるところがないですからね。

 次に「日本人の起源」というテーマで本を書くのであれば、 5000年前の西遼河流域から始めようと思っているんです。

 朝鮮半島で何が起こったかわからないので今は書けないんですけれども、そこでインタラクション(相互の作用)があって、今の私たちが出来上がったんだというのがおそらく正しい書き方だと思うんですよね。

橘 それは楽しみです。ぜひ書いてください。
9:777 :

2023/12/08 (Fri) 20:14:08

雑記帳
2023年12月08日
『フロンティア』「日本人とは何者なのか」
https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_8.html

 表題のNHK衛星放送の番組を視聴しました。NHKのニュースサイトにて概要は紹介されていましたが、古代DNA解析による日本人起源論とのことで、どのような情報が得られるのか、注目していました。近隣の現代人集団と比較して現代日本人集団に特異的な特徴として、「縄文人(縄文文化関連個体群)」の要素がある、と強調されていました。確かに、近隣の現代人集団と比較しての、日本列島「本土(日本列島のうち本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする地域)」の現代人集団の遺伝的独自性の多くはそこにあるでしょうから、この番組が「縄文人」の起源を中心とした構成になっていたのは、納得のいくところもあります。

 「縄文人」の起源についておもに解説していたのは太田博樹氏で、「縄文人」が遺伝的にはアジア南東部の古代狩猟採集民だったホアビン文化(Hòabìnhian)関連個体と類似している、と太田氏は指摘します。太田氏は、ホアビン文化の担い手はアフリカからユーラシア南岸を東進してアジア南東部へと到達し、その集団(もしくは遺伝的にひじょうに類似した集団)がアジア南東部沿岸を北上して、「縄文人」の祖先になったのだろう、と推測します。このホアビン文化関連集団と沿岸部の集団との混合の痕跡が見られないことから、「縄文人」の祖先がアフリカからアジア東部へ初めて到達した集団で、「フロンティア精神が旺盛だった」だった可能性を指摘します。

 当然、これは現生人類(Homo sapiens)に限定した見解で、アジア東部にはアフリカ起源の非現生人類ホモ属がそれ以前から存在していたわけです。ただ、「縄文人」の遺伝的起源がどうであれ、アジア東部に最初に拡散した現生人類集団は、アジア東部現代人の直接的祖先ではなさそうな、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体に代表される集団(仮に田園洞集団と呼びます)だった可能性が高そうで、田園洞個体と類似した遺伝的構成の3万年以上前の遺骸がモンゴルとアムール川流域で確認されていること(Mao et al., 2021)からも、「縄文人」の祖先がアジア東部に拡散した最初の現生人類集団とはとても確定できないように思います。

 覚張隆史氏は、現代「本土」日本人集団の形成過程に、「縄文人」と弥生時代にアジア東部大陸部から到来した集団(アジア北東部集団)的な遺伝的構成要素だけでは説明できず、古墳時代(もしくは弥生時代後期)以降にアジア東部大陸部から到来した集団(アジア東部集団)的な遺伝的構成要素の遺伝的影響が大きかった、と指摘します(Cooke et al., 2021)。覚張氏も関わったこの研究(Cooke et al., 2021)は、太田氏も関わった、ホアビン文化関連個体のゲノムデータを報告した研究(McColl et al., 2018)で推測された、「縄文人」をホアビン文化関連個体的集団と台湾のオーストロネシア語族話者先住民であるアミ人(Ami)的な集団との混合とする見解を否定しています。

 一方で、Cooke et al., 2021は弥生時代の人類集団を、「縄文人」的な遺伝的構成要素の割合が高めな長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることが問題で、太田氏も関わった研究(Robbeets et al., 2021)では、「縄文人」的な遺伝的構成要素の割合が現代「本土」日本人と同程度かやや低めの個体が、下本山岩陰遺跡の2個体よりも前に存在した、と示されています。こうした見解の対立は、一般向けの番組としては複雑すぎるということか、この番組ではとくに言及されず、「縄文人」はアジア東部に最初に拡散した(現生人類)集団の子孫で、1万年以上の孤立を経た、と説明されていました。これと関連して、山田康弘氏も考古学的観点から縄文文化が日本列島以外との交流の低調な、比較的孤立した文化だったことを指摘していました。最近の考古学者による一般向けの縄文時代関連書籍でも、縄文文化の孤立性が指摘されていました(水ノ江., 2022)。

 篠田謙一氏は、現代日本人と比較して大きな多様性があり、それが中世まで続いた可能性を指摘します。篠田氏の近年の見解から補足すると、日本列島「本土」集団は現代と比較して弥生時代の方が遺伝的にずっと多様で、それは中世まで続いたかもしれない、ということなのでしょう。篠田氏は、日本列島「本土」現代人集団の形成の解明は世界中の人々の起源と移動の解明につながり、日本列島「本土」現代人集団の形成がこれまで考えられていたよりもずっと複雑だった可能性を指摘し、示唆に富んだ発言だったように思います。

 番組の冒頭ではタイ南部の狩猟採集民マニ人(Maniq)が取り上げられていましたが、それは、マニ人とホアビン文化集団との文化的および遺伝的近縁性から、「縄文人」の「親戚」とも言えるから、という理由でした。マニ人は、ホアビン文化関連個体的な遺伝的構成要素(約62%)と、残りの、オーストロネシア語族話者集団の主要な祖先集団ときわめて近縁と考えられる、福建省の前期新石器時代の個体的な遺伝的構成要素の混合と推測されています(Göllner et al., 2022)。その意味で、マニ人はホアビン文化集団と遺伝的に近いわけですが、それを言えば、現代人ではアンダマン諸島のオンゲ人(Onge)の方がホアビン文化集団と遺伝的に近いことになりそうです(Göllner et al., 2022)。

 上述の太田氏なども関わった研究(McColl et al., 2018)やその後のアジア東部現代人の形成に関する古代ゲノム研究(Wang et al., 2021)を踏まえると、「縄文人」はホアビン文化関連個体的な遺伝的構成要素と福建省の前期新石器時代の個体的な遺伝的構成要素の混合と推測されており、その点でマニ人と類似しているとも言えます。この番組はその点も踏まえてマニ人を冒頭で取り上げたのかもしれませんが、マニ人とホアビン文化集団との関連のみが取り上げられていたので、どうもよく分かりませんでした。全体的に、第一線の複数の研究者に取材し、興味深い構成ではありましたが、研究者間の見解の相違はとくに言及されず、古代ゲノム研究では新情報もとくになかったのは、やや残念でした。

 「縄文人」の起源や縄文時代以降の日本列島の人口史については当ブログで最近まとめており(関連記事)、それ以上のことは現在の私の見識では言えませんが、「縄文人」の起源については、恐らく太田氏の見解の方が実際の人口史に近いように思います。以前の研究で、縄文文化関連個体とユーラシア東部沿岸集団との類似性が報告されましたが(Yang et al., 2020)、これも踏まえると、「縄文人」の起源については、2021年の研究(Wang et al., 2021)よりもさらに複雑なモデルを提示した、2022年の研究(Huang et al., 2022)が現時点では最も妥当なように思われます。以下は、Huang et al., 2022の図4です。
画像

 Huang et al., 2022では、「縄文人」祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)が大きくことなる祖先系統間の混合により形成された、と以下のように推測されています。ユーラシア東部系が、まず初期ユーラシア東部系と初期アジア東部系に分岐し、初期アジア東部系が南北に分岐して、南部系は南部(内陸部)系と沿岸部系(アジア東部沿岸部祖先系統)に分岐します。「縄文人」関連祖先系統は、アンダマン諸島のオンゲ人関連祖先系統に比較的近い初期ユーラシア東部祖先系統(54%)とアジア東部沿岸部祖先系統(46%)の混合とモデル化されています。もちろん実際の人口史はこのモデル通りではなく、もっと複雑なのでしょうし、初期ユーラシア東部祖先系統をもたらした集団が、南方から日本列島へと北進したとも限らず、その解明には古代ゲノム研究の進展および考古学など他分野との学際的研究が必要でしょう。


参考文献:
Cooke NP. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419
関連記事

Göllner T. et al.(2022): Unveiling the Genetic History of the Maniq, a Primary Hunter-Gatherer Society. Genome Biology and Evolution, 14, 4, evac021.
https://doi.org/10.1093/gbe/evac021
関連記事

Huang X. et al.(2022): Genomic Insights Into the Demographic History of the Southern Chinese. Frontiers in Ecology and Evolution, 10:853391.
https://doi.org/10.3389/fevo.2022.853391
関連記事

Mao X. et al.(2021): The deep population history of northern East Asia from the Late Pleistocene to the Holocene. Cell, 184, 12, 3256–3266.E13.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.04.040
関連記事

McColl H. et al.(2018): The prehistoric peopling of Southeast Asia. Science, 361, 6397, 88–92.
https://doi.org/10.1126/science.aat3628
関連記事

Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature, 599, 7886, 616–621.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04108-8
関連記事

Wang CC. et al.(2021): Genomic insights into the formation of human populations in East Asia. Nature, 591, 7850, 413–419.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03336-2
関連記事

Yang MA. et al.(2020): Ancient DNA indicates human population shifts and admixture in northern and southern China. Science, 369, 6501, 282–288.
https://doi.org/10.1126/science.aba0909
関連記事

水ノ江和同(2022)『縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏』(朝日新聞出版)
関連記事

https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_8.html
10:777 :

2023/12/17 (Sun) 14:00:54

【最新人類史】縄文人と渡来人の混血比率/東アジア人の分岐と混血の歴史/黄河集団と長江集団の起源/縄文人は朝鮮半島にも住んでいた/縄文人と繋がるホアビン人とオンゲ族とは/Y染色体ハプログループDの謎
https://www.youtube.com/watch?v=x4x5lVOjL_Y&t=2s

LEMURIA CH/レムリア・チャンネル
2023/12/04



東アジア人類集団人の形成過程に関する研究はヨーロッパに比べ遅れていましたが、 ここ数年で東アジアでも古代DNAデータが揃いつつ有り、多くの研究成果が報告されています。
今回は近年の研究で明らかになってきた東アジア人の起源について解説していきます。

参考書籍

人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」
https://amzn.to/416LMkx
Kindle版
https://amzn.to/3S7C2CK

交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史
https://amzn.to/3WLzvie
Kindle版
https://amzn.to/3RcJyvD
11:777 :

2023/12/26 (Tue) 14:53:33

雑記帳
2023年12月26日
縄文時代の人類集団の遺伝的構造と非縄文文化圏への遺伝的影響
https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_26.html

 縄文時代の人類集団の遺伝的構造と非縄文文化圏への遺伝的影響に関する研究(Jeong et al., 2023)が公表されました。本論文は、新たな縄文時代の人類(縄文人)のゲノムデータを報告しているわけではありませんが、既知の「縄文人」や「縄文人」的な遺伝的構成の古代人のデータを再検証し、「縄文人」集団の遺伝的構造を明らかにするとともに、非縄文文化圏の「縄文人」的な遺伝的構成の個体の起源を推測しています。ただ、こうした縄文文化圏外の「縄文人」的な遺伝的構成要素を有する個体が、実際に「縄文人」の子孫であるとは限らない可能性も考慮しておくべきでしょう(関連記事)。本論文の見解は、今後「縄文人」や日本列島およびユーラシア東部大陸部の時空間的に広範囲の古代人のゲノムデータの蓄積により、さらに洗練されていくのではないか、と期待されます。また本論文からは、ゲノムや片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)と文化(および自己認識や帰属意識)とを安易に結びつけてはいけないことも改めて窺えるように思います。


●要約

 「縄文人」は日本列島の先史時代の住民で、16500~2300年前頃にかけて日本列島に居住していました。「縄文人」の古代ゲノムとゲノム規模データの最近の蓄積は、「縄文人」の遺伝的特性および現在の人口集団への寄与に関する理解をかなり深めてきましたが、時間にして14000年間、距離にして2000kmにわたる縄文時代の日本列島における「縄文人」の遺伝的歴史は、ほとんど調べられていないままです。本論文は、刊行されている「縄文人」23個体と「縄文人」的な個体群の古代のゲノム規模データ間の遺伝的関係の分析に基づく「縄文人」の遺伝的歴史を解明する、複数の調査結果を報告します。第一に、9000年前頃となる四国の縄文時代早期個体は残りのその後の縄文時代個体に対して共通の外群を形成し、西日本における人口置換が示唆されます。第二に、琉球諸島の宮古島や朝鮮半島南岸の欲知島(Yokjido、Yokchido)で見つかった、縄文時代の考古学的状況外の遺伝的に「縄文人」的な個体群は、四国の縄文時代後期の1個体と最も近い遺伝的類似性を示し、時空間的にその起源を絞り込みます。本論文は、日本列島内外の「縄文人」の動的な歴史を浮き彫りにし、古代の「縄文人」のゲノムの大規模な調査を必要とします。


●研究史

 「縄文人」は、日本列島に16500~2300年前頃に居住していた集団です。「縄文人」はその生計戦略においておもに狩猟と採集と漁撈に依存していましたが、定住生活様式を発展させ、土器を製作して使用し、この土器はその縄目文から縄文土器と命名されました。縄文土器の様式の時間的変化に基づいて、縄文時代は草創期(16500~10500年前頃)と早期(10500~7000年前頃)と前期(7000~5500年前頃)と中期(5500~4500年前頃)と後期(4500~3250年前頃)と晩期(3250~2500年前頃)に区分されてきました。

 「縄文人」の起源と遺伝的歴史は、「縄文人」自体の理解だけではなく、日本列島の現在の人口集団の遺伝的多様性の理解でも、学術的に強い関心を集めてきました。たとえば、日本列島の北端地域のアイヌは、日本列島中央部の(本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする)「本土」日本人とよりも、日本列島最南端の琉球諸島民の方と遺伝的に近く、それは、アイヌが「本土」日本人よりも「縄文人」関連の祖先からより高い割合の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を継承したからです。

 「縄文人」に関するほとんどの考古遺伝学的研究はおもにミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)を対象としており、mtHg-N9b1およびM7aがそれぞれ北方の「縄文人」と南方の「縄文人」で代表的と分かったので、「縄文人」における内部の人口分化が示唆されています(関連記事)。過去数年間で、ついに「縄文人」の古代ゲノムもしくはゲノム規模データが報告されてきており、高解像度で「縄文人」の人口構造と遺伝的歴史を調べる機会が提供されます(関連記事)。とくに、最近の研究では、5000年間(8800~3800年前頃)を網羅する「縄文人」9個体のゲノムが報告されており、長期的で均質な「縄文人」の遺伝的特性が確証されました(関連記事)。

 最近刊行された「縄文人」のゲノムは、「縄文人」の起源と現在の人口集団における遺伝的遺産についての主要な問題について、大きな進歩をもたらしました。たとえば、「縄文人」の遺伝子プールは大陸部の近隣人口集団と異なっており、それは、「縄文人」が現在の人口集団により適切に表されない深く分岐したユーラシア東部系統と強い遺伝的つながりを有していたからです(関連記事)。「縄文人」と他のアジア東部人口集団との間の分離は、「縄文人」の小さな有効人口規模(1000人未満)で25000~20000年前頃と推定されました(関連記事)。また、日本人の起源に関する、伝統的な二重構造モデルの拡張版である三重構造モデルが、古代の縄文時代と弥生時代と古墳時代の個体群の遺伝的比較に基づいて最近提案されました(関連記事)。

 興味深いことに、考古学的研究は、「縄文人」と遺伝的に関連する個体群を報告してきましたが、縄文時代の考古学的な文化および縄文時代の考古学的状況の範囲外で見つけてきました(関連記事)。これには、琉球諸島南部の島々(たとえば、宮古諸島や八重山諸島)や朝鮮半島南岸が含まれます。しかし、これらの研究は「縄文人」の共通起源、および「縄文人」と非「縄文人」との間の比較におもに焦点を当ててきましたが、「縄文人」内の人口史はほぼ調べられていないままです。

 本論文では、「縄文人」関連個体群の刊行されているゲノムもしくはゲノム規模データの詳細な再分析を行ない、そうした個体間の関係に焦点を当てました。これらは合計23個体で、縄文時代早期~縄文時代後期までの範囲で、全体的に均質な「縄文人」遺伝子プール内の豊富な動態についての証拠を提供します。具体的には、四国の縄文時代早期の1個体は日本列島全域のその後の縄文時代個体群に対して外群を形成し、この地域における人口置換が示唆されます。伝統的な縄文文化地域外の遺伝的に「縄文人」的な個体群の起源を、縄文時代中期/後期の西日本(中国と関西と四国と九州が含まれます)に絞り込むこともできます。


●資料と手法

 日本列島およびその近隣地域の既知の古代人のゲノムデータが編集され、祖先系統の情報をもたらす124万(1233013)の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)一式で、ゲノム規模の遺伝子型データが得られました。これら古代人のデータは、既知の他の古代人および現代人のゲノムデータと統合され、現代人のゲノムデータでの主成分分析(principal component analysis、略してPCA)に、古代の個体群が投影されました。「縄文人」関連個体間の近縁性は、常染色体のSNPで計算された不適正遺伝子型塩基対率(pairwise genotype mismatch rate、略してPMR)に基づいて推定されました。

 検証対象の2集団間の共有される遺伝的浮動を測定するために、コンゴの熱帯雨林狩猟採集民であるムブティ人を用いて、外群f₃統計が計算されました。ムブティ人はf₄統計でも外群として用いられました。「縄文人」関連集団内の人口構造を理解するため、f₄形式(ムブティ人、縄文人1;縄文人2、縄文人3)の全ての組み合わせが計算されました。「縄文人」集団間の遺伝的対称性検証、もしくは世界規模の人口集団での追加の混合供給源を探すために、f₄形式(ムブティ人、世界規模の集団;縄文人1、縄文人2)が計算されました。

 hapROHを用いて、124万のSNP一式のうち40万以上のSNPを網羅する「縄文人」個体の同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)が調べられました。ROHは両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にあると推測され、人口集団の規模と均一性を示せるとともに、ROH区間の分布は有効人口規模と1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。各「縄文人」のゲノムの疑似半数体遺伝子型呼び出しと、参照として1000人ゲノム計画3期のハプロタイプデータが用いられました。


●刊行されている「縄文人」関連個体群のゲノム規模データ

 本論文では、刊行されている古代の「縄文人」もしくは「縄文人」的な23個体のゲノム規模データが用いられました(図1、表1)。これら23個体のうち17個体は、縄文時代の考古学的状況と直接的に関連する日本の本州もしくは四国の「縄文人」です。残りの6個体は「縄文人」的な遺伝的特性を有しているものの、縄文文化と直接的に関連しない考古学的状況に由来します。このうち6個体は琉球諸島の宮古島にある長墓遺跡で発見され(長墓_2800年前および長墓_4000年前)、残りの1個体は大韓民国慶尚南道統営(Tongyeong)市にある欲知島(Yokjido、Yokchido)遺跡で発見されました(欲知島_4000年前)。この23個体では近い関係の親族は検出されなかったので、分析にはこの23個体全てが含められました。この23個体は、遺跡と年代の情報に基づいて11の分析集団に分割されました(図1、表1)。

 使用されたこれらの個体のうち、2個体には低品質のため目印をつけました。一方の欲知島個体(TYJ001)は軽度の汚染(ミトコンドリア捕獲データに基づくと6%の汚染)の可能性があり、もう一方の最古の長墓遺跡個体(NAG016、長墓_4000年前)は重度の汚染があり、低網羅率(1233013のSNPのうち27652が網羅されました)でした。未知の汚染物質が現在の個体群にもはや存在しない「縄文人」起源である可能性は先験的に低そうなので、この2個体は汚染が定性的方法で検証に影響を及ぼさないだろう分析の部分集合に含められました。「縄文人」との遺伝的類似性を有すると報告された朝鮮半島南岸の追加となる先史時代4個体も使用されました。それは、大韓民国釜山(Busan)市の獐項(Janghang)遺跡の新石器時代墓地の2個体(獐項_6700年前)と、統営市の煙台島(Yeondae-do、Yŏndaedo)貝塚遺跡の2個体(煙台島_7000年前)です(関連記事)。以下は本論文の図1です。
画像

 PCAが実行され、現在のユーラシア人口集団との比較で「縄文人」関連個体群の遺伝的特性が視覚的に要約されました。「縄文人」関連個体全体の均質な遺伝的特性を報告した先行研究と一致して、「縄文人」関連個体群は他の人口集団から分離された緊密で明確なクラスタ(まとまり)を形成します。このクラスタから逸れる2個体は長墓遺跡で発見され(NAG012とNAG016)、両者とも低網羅率で、一方(NAG016)は重度の汚染があります。

 「縄文人」関連個体群内での詳細な遺伝的階層化を調べるため、「縄文人」と欲知島および長墓遺跡の個体群のみでPCAが実行されました。この分析では、欲知島遺跡と長墓遺跡の個体と他の「縄文人」個体群からの分離が観察されます。欲知島および長墓遺跡の個体群を除いて、PCAを日本列島「本土」の「縄文人」個体群のみに適用すると、西日本の「縄文人」と東日本(中部と関東)の「縄文人」と北海道との間の分離が観察されます。

 ほとんどの「縄文人」関連個体の低網羅率の性質を考慮して、個体間のPMRの計算により、各「縄文人」関連集団内での遺伝的多様性の水準が測定されました。さまざまな「縄文人」集団間のPMR値(平均で0.191)は全体的類似しており、漢人や日本人などアジア東部現代人よりずっと低く、「縄文人」メタ個体群(metapopulation、アレルの交換といった、ある水準で相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群の集団)内の全体的な遺伝的多様性現象を示唆します。興味深いことに、長墓_2800年前個体群はより減少したPMR値(平均で0.154)を示しており、長墓_2800年前に特有の強い人口ボトルネック(瓶首効果)が示唆されます。ROH断片の分布は、類似のパターンを提供します。つまり、「縄文人」関連個体群は全体的にROH断片の蓄積を示しており、これは遺伝的多様性現象の痕跡で、長墓遺跡個体群は他のほとんどの「縄文人」個体よりも多いROH断片を有する傾向にあります。


●縄文時代早期個体はその後の全ての「縄文人」個体にとって共通の外群です

 「縄文人」関連集団における人口構造を調べるため、f₃形式(ムブティ人;縄文人1、縄文人2)の外群f₃統計を用いて、「縄文人」関連集団の各組み合わせ間の遺伝的類似性がまず測定されました。アフリカ中央部の熱帯雨林の狩猟採集民人口集団であるムブティ人が外群として用いられ、汚染のため長墓_4000年前と欲知島_4000年前を除いて、「縄文人」関連11集団のうち9集団に分析が適用されました。この2集団を含めると、一貫して他の組み合わせよりも低い外群f₃値が示されました。四国の縄文時代早期の1個体、つまり9000年前頃となる愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡個体(JpKa)は、他の「縄文人」個体と比較的低い遺伝的類似性を示します。すべての組み合わせのうち、本州西部の縄文時代早期の1個体、つまり5600年前頃となる岡山県倉敷市の船倉貝塚個体(JpFu)と、四国の縄文時代後期の1個体、つまり3800年前頃となる愛媛県南宇和郡愛南町御荘の平城貝塚個体(JpHi)の組み合わせが最高の値を示します。

 外群f₃の結果と縄文時代早期個体の存在に触発されて、「縄文人」の人口構造に関すして競合する二つの仮説が明示的に比較されました。それは、(1)JpKaの最古の「縄文人」個体がその後の「縄文人」個体全てにとって共通の外群を形成するか、(2)西日本の「縄文人」集団(JpKaとJpFuとJpHi)が5000年間にわたる人口継続性を示す、というものです(図2)。以下は本論文の図2です。
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 この二つの仮説を区別するため、「縄文人」関連集団の全ての三者の組み合わせで、f₄形式(ムブティ人、縄文人1;縄文人2、縄文人3)のf₄統計が計算されました(図3)。仮説(1)では、f₄(ムブティ人、JpKa;縄文人2、縄文人3)は全ての組み合わせ(縄文人2と縄文人3)でゼロと予測され、それは、JpKaがその後の全「縄文人」集団にとって共通の外群だからです。対照的に、仮説(2)では、JpKaはその後の西日本「縄文人」集団(JpFu/JpHi)の方と他の「縄文人」よりも近いので、f₄(ムブティ人、JpKa;縄文人2、縄文人3)は「縄文人3」を西日本のその後の「縄文人」集団(つまり、JpFuとJpHi)とすると、有意に正になると予測されます。同様に、f₄(ムブティ人、JpFu/JpHi;JpKa、縄文人3)は仮説(1)では正となり、仮説(2)では負となるでしょう。以下は本論文の図3です。
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 f₄(ムブティ人、JpKa;縄文人2、縄文人3)については、「縄文人」集団28通りの組み合わせのうち1組だけが|Z|>3となり、それはf₄(ムブティ人、JpKa;北海道礼文島の船泊貝塚の3700年前頃の個体、JpFu)=3.187でした(図3A)。さらに、f₄(ムブティ人、縄文人1;JpKa、縄文人3)は多くの組み合わせにおいて有意に正で(縄文人1と縄文人3)、一般的にその値は正となる傾向があり、仮説(2)よりも仮説(1)の方が選ばれます。

 2番目の統計であるf₄(ムブティ人、JpFu/JpHi;JpKa、縄文人3)はほぼ|Z|<3となり、どちらの仮説の予測とも一致しません。f₄(ムブティ人、縄文人1;JpKa、JpFu/JpHi)によるJpKaおよびJpFu/JpHiとの他の「縄文人」集団の類似性を比較すると、結果は統計的に有意ではないものの、ほぼ正です。縄文時代前期のJpFuは近隣地域のより古い個体であるJpKaとの部分的な遺伝的つながりを有しているかもしれない、と推測されますが、この混合仮説の家司的検定は、統計的検出力を高めるために、より多くの古代人のゲノムを必要とするかもしれません。したがって、最古の「縄文人」個体であるJpKaは、西日本の「縄文人」を含む利用可能な「縄文人」集団にとって、共通の外群を表しているかもしれません。

 最後に、同じ分析が2番目に古い(6000年前頃)縄文時代前期の本州中央部北方となる富山県富山市の小竹貝塚遺跡個体群(JpOd)に適用されました。JpKaを含む場合以外では全ての「縄文人」の組み合わせにおいて、平均標準誤差3以内でf₄(ムブティ人、JpOd;縄文人2、縄文人3)の観察によりJpOdと非対称的に関連する「縄文人」の組み合わせは見つからず、f₄(ムブティ人、JpOd;JpK、縄文人3)は東日本(中部と関東と北海道が含まれます)のその後の全ての「縄文人」集団で平均標準偏差3超です。


●西日本の縄文時代後期個体と「縄文人」関連個体群の遺伝的類似性

 遺跡と地域は直接的に考古学的な縄文文化と関連していないものの、「縄文人」的な遺伝的特性を示した、長墓遺跡(長墓_2800年前)と欲知島貝塚遺跡(欲知島_4000年前)の個体群のあり得る起源が調べられました。その結果、四国の縄文時代後期個体(JpHi)が長墓_2800年前と最も近い集団と分かり、f₄(ムブティ人、長墓_2800年前;他の縄文人、JpHi)はほぼ有意に正(Z=2.5~4.9)でした(図4A)。本州西部のより古い縄文時代前期個体であるJpFuは長墓_2800年前と2番目に密接に関連しているものの、その違いは統計的に有意ではなく、f₄(ムブティ人、長墓_2800年前;他の縄文人、JpFu)はJpHi(Z=-2.5)を除いて平均標準誤差は0.1~2.3でした。より古い長墓遺跡個体(長墓_4000年前)の明確な「縄文人」との類似性を考えると、「縄文人」関連集団は4000年前頃までにはすでに長墓遺跡に存在したでしょう。まとめると、JpFu/JpHiと関連している西日本の縄文時代後期人口集団は、南琉球諸島の「縄文人」関連人口集団の供給源だった可能性が高そうです。以下は本論文の図4です。
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 同様に、JpHiと長墓_2800年前は欲知島_4000年前との最も近い「縄文人」関連集団と分かり、f₄(ムブティ人、欲知島_4000年前;縄文人、JpHi /長墓_2800年前)は平均標準誤差が2.3~5.4で、f₄(ムブティ人、欲知島_4000年前;長墓_2800年前、JpHi )は平均標準誤差が0.1でした(図4B)。先行研究は、朝鮮半島南岸の先史時代集団(煙台島_7000年前と獐項_6700年前)における「縄文人」祖先系統の寄与を報告しました(関連記事)。同じ分析を繰り返すと、JpHiがそうした朝鮮半島南岸集団と最も近い「縄文人」関連集団のようだ、と分かり、f₄(ムブティ人、煙台島_7000年前;他の縄文人、JpHi)は平均標準誤差が1.2~2.7でしたが、小さな標本規模と低網羅率のため、検定はどれも統計的に有意でありません(つまり、Z<3)。

 要約すると、それぞれ4000年前頃と2800年前頃に観察される朝鮮半島南部および琉球諸島への「縄文人」関連集団の拡散は、西日本起源である可能性が高そうで、これらの地域の地理的近さと一致する、と示唆されます。これらの地域においてそれ以前(つまり、朝鮮半島南部の獐項_6700年前および煙台島_7000年前と、宮古島の長墓_4000年前)の個体で見られる「縄文人」祖先系統は、同じ供給源に由来していたかもしれませんが、現時点で利用可能なゲノムデータはさまざまな「縄文人」供給源間を区別する解像度が不足していることに要注意です。これらの地域や日本列島全体での将来の古代ゲノムの標本抽出は、これらの地域における「縄文人」祖先系統の時間窓と真の供給源を絞り込むのに役立つでしょう。


●考察

 日本列島に14000年以上居住してきた「縄文人」の起源と歴史は、考古学者と遺伝学者により長く調べられてきました。考古遺伝学における最近の進歩は、数十個体の古代の「縄文人」のゲノムの解読により大きな躍進を遂げました。これらの研究は「縄文人」の独特な遺伝的起源とその全体的に均質な遺伝的特性を明らかにしましたが、「縄文人」における遺伝的多様性と関係の再構築にはさほど焦点を当てませんでした。本論文は、これまでに利用可能な「縄文人」のゲノムの編集に基づく包括的な方法で、経時的な「縄文人」の人口構造を調べます。

 四国の縄文時代早期個体(JpKa)は西日本と東日本両方のその後の「縄文人」集団にとって共通の外群を形成するものの、西日本の近隣地域のその後の集団と剰余の類似性がある、と分かりました。対称性を破る「縄文人」集団の唯一の組み合わせはJpFuと船泊貝塚の個体で、これはJpKaとJpFuとの間のこの剰余の類似性に起因するかもしれません。あるいは、これは船泊個体特有の遺伝的つながりに起因するかもしれません。つまり、オホーツク海周辺のつながりで、f₄形式(ムブティ人、世界規模の集団;船泊、JpKa)のf₄統計による、現在の世界規模の人口集団のうちアジアのエスキモーと樺太島のウリチ人(Ulchi)がJpKaとよりも船泊個体の方と近い、という観察により示唆されます。先行研究は北海道のアイヌとオホーツク海周辺の人口集団との間の動揺のつながりを報告しましたが(関連記事)、この兆候は両者間のより最近の遺伝的交流に起因するかもしれません。

 次に古い「縄文人」集団である縄文時代前期のJpOdは対照的に、東日本のその後の全ての「縄文人」との明確な遺伝的類似性を示します。節約的な仮定的状況は、東方の「縄文人」集団が西方へと拡大し、9000~5000年前頃の広い時間的範囲内のある時点(つまり、JpKaとJpFuとの間)で在来の西方「縄文人」集団を部分的に置換した、というものです。「縄文人」ゲノムの時空間的に疎らな標本抽出のため、本論文の調査結果の代表性が保証されないかもしれないことに要注意です。

 「縄文人」は日本列島外の人口集団から強く孤立している、と仮定されてきたことが多いものの、最近の考古学的研究は、紀元前千年紀後半における「【渡来系】弥生人」との主要な接触に先行する、大陸部人口集団との長期の接触を浮き彫りにしています。これらの研究は、大陸部から縄文時代の日本列島への、栽培化された植物(たとえば、アズキやダイズ)や青銅器製品など物質文化の出現を報告しました。興味深いことに、最近の考古遺伝学的研究は、縄文時代の考古学的状況外の古代の個体群における「縄文人」的な遺伝的特性を報告しており(関連記事)、南琉球諸島の宮古島や朝鮮半島南岸の欲知島の遺跡が含まれます。両遺跡における「縄文人」的な個体は、西日本の縄文時代後期の1個体(3800年前頃のJpHi)と最も強い遺伝的類似性を有しています。

 両地域(宮古島と朝鮮半島南岸)では、「縄文人」祖先系統の最初の出現はJpHiの年代よりずっと古いものの、両地域のより古い個体、つまり宮古島の4000年前頃の個体(長墓_4000年前)や朝鮮半島南岸の7000~6500年前頃の個体(獐項_6700年前と煙台島_7000年前)はゲノムデータが低品質なので、特定の「縄文人」集団との類似性を正確に示すことはできません。したがって、これら初期人口集団に寄与した「縄文人」集団の時空間的な起源は曖昧なままです。「縄文人」、とくに日本列島「本土」最西端となる九州の縄文時代前期/中期のゲノムのさらなる標本抽出が、ユーラシア大陸部との「縄文人」の外向きの遺伝的つながりを再構築するための情報の、重要な断片を提供するでしょう。


参考文献:
Jeong G. et al.(2023): An ancient genome perspective on the dynamic history of the prehistoric Jomon people in and around the Japanese archipelago. Human Population Genetics and Genomics, 3, 4, 0008.
https://doi.org/10.47248/hpgg2303040008

https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_26.html
12:777 :

2023/12/27 (Wed) 22:15:02

雑記帳
2023年12月27日
現代日本人男性におけるY染色体ハプログループ
https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_27.html

 現代日本人男性におけるY染色体ハプログループ(YHg)の最新版と頻度分布を報告した研究(Inoue, and Sato., 2023)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。YHgへの関心は現代日本社会でも比較的高いようで、YHgを特定の文化もしくは民族の分類と関連づけて、人類進化史や現生人類(Homo sapiens)の移動を論じる傾向が強いようですが、これはきわめて危険だと思います。たとえば、YHg-D1a2aを日本列島や「縄文人」と排他的に関連づける傾向はかなり強く、あたかも「確定した事実」として大前提とする見解は珍しくないように思いますが、そうとは限らない可能性も考慮しておくべきでしょう(関連記事)。とくに、現代人のYHgの分布と頻度に基づいて現生人類集団の移動経路やその年代を推定することは、古代DNA研究の裏づけなしに安易に行なうべきではないと思います。現時点では率直に言って、本論文の推測や想定を大前提とすべきではないと考えています。以下、敬称は省略します。


●要約

 日本人男性は、YHgのC1a1とC2とD1a2aとD1a2a-12f2bとO1b2とO1b2a1a1とO2a2b1とO2a1bに属しています。注目すべきことに、各YHgの地域頻度は均一です。ゲノム配列決定技術の最近の発展により、YHgの系統樹は毎年更新されています。したがって本論文では、現代日本人男性のYHgの更新と、その地域分布の調査が目的とされました。日本の7都市(長崎と福岡と徳島と大阪と金沢と川崎と札幌)の日本人男性1640個体の標本を用いて、YHgのC1a1とC2とD1a2aとD1a2a-12f2bとO1b2とO1b2a1a1が最新の系統樹に基づいて更新されました。

 YHg-C1a1はおもにC1a1a1aとC1a1a1bの下位群に分類され、C1a1a1bは他の地域よりも徳島と大阪でより一般的でした。YHg-C2はおもにC2aとC2b1a1aとC2b1a1bとC2b1a2とC2b1bの下位群に分類され、その頻度は徳島と大阪では異なりました。YHg-D1a2a-12f2bはD1a2a1a2b1a1aとD1a2a1a3の下位群に分類されましたが、有意な頻度差は観察されませんでした。YHg-O1b2はO1b2a1a2a1aとO1b2a1a2a1bとO1b2a1a3の下位群に分類され、長崎と金沢で頻度差がありました。YHg-O1b2a1a1はおもにO1b2a1a1aとO1b2a1a1bとO1b2a1a1cの下位群に分類されましたが、有意な頻度差は観察されませんでした。本論文の調査結果から、近畿地方の遺伝子流動はヒトの移住に起因する、と示唆されます。


●研究史

 ヒトのY染色体は、約5000万塩基対と106個のタンパク質コード遺伝子から構成されます。Y染色体には、X染色体と相同な疑似常染色体領域(pseudo-autosomal region、略してPAR)と男性特有の領域(male-specific region on the human Y chromosome、略してMSY)があり、ヘテロクロマチンとユークロマチンから構成されています。Y染色体は父親から息子へと同じように受け継がれ、それは、Y染色体のPARのみがX染色体のPARと組換えられるからです。したがって、現代人のY染色体は男性の集団遺伝学の研究にとって優れた情報源であり、それは、祖先のDNAが元々の形態で子孫に伝えられるからです。

 Y染色体は複数の変異の組み合わせに基づいて、ハプログループと呼ばれるさまざまな一群に分類されます。2001年の研究はまずヒトY染色体の配列を報告し、その後の多くのDNA多型の識別につながりました。47zとSRY 465における多型が日本で報告されてきました。2002年の研究ではY染色体の世界規模の分類が要約され、男性の世界的な系統樹が孝徳され、ヒトの世界規模の進化の研究が促進されました。埴原和郎は、日本の人類学における作業仮説である「二重構造モデル」を提案しました。広く受け入れられているこのモデルでは、現代日本人集団の形成は在来の「縄文人」系統と移住してきた「弥生人」系統の混合の結果である、と示唆されています。

 在来の「縄文人」はアジア南東部に起源があり、樺太や千島列島から日本列島へ、および長江もしくは台湾周辺から北方へ渡海して朝鮮半島へと移動し、居住の範囲を沖縄から北海道へと広げました(40000~3000年前頃)。稲作と農耕技術を取り入れたアジア北東部から到来した「弥生人」は朝鮮半島を経由して九州北部から日本列島へと移動し、九州と四国と本州に拡大しました(紀元後3世紀の3000年前頃【紀元後3世紀ではなく、紀元前3世紀もしくは紀元前千年紀の間違いかもしれません】)。これらの調査結果は、遺伝的に独特な日本人集団における地理的勾配を示唆します。

 2014年の研究は、7都市(長崎と福岡と徳島と大阪と金沢と川崎と札幌)から収集された2390点の標本におけるYHgを分析し、日本人男性における地理的勾配の可能性が識別されました。その研究で明らかになったのは、日本人男性は8系統のYHg(C1、C3、D2*、D2a1、O2b*、O2b1、O3a3c、O3a4)に分類できるかもしれない、ということです。しかし、YHg頻度における有意な地域差は報告されてきませんでした。

 最近の技術的進歩は、日本人集団の全ゲノム配列決定を促進しました。遺伝子系譜学国際協会(International Society of Genetic Genealogy、略してISOGG)は毎年、遺伝子系譜の研究の系統樹を更新し、YHgはそれに応じて変更されます。たとえば、C1はC1a1、C3はC2、D2*はD1a2a、O2b*はO1b2、O2b1はO1b2a1a1、O3a3cはO2a2b1、O3a4はO2a1bです。本論文では、日本人男性におけるYHg(以前にCとDとO1b2に分類されたYHg)のより詳細な決定と、現代日本人男性集団における系統樹の構造の解明が目指されました。


●資料と手法

 2014年の研究で報告されたYHg調査のための長崎と福岡と徳島と大阪と金沢と川崎と札幌に居住する日本人男性から収集された2390点の標本のうち、1640個体に相当する残余のDNA標本が本論文では用いられました。表1には、各都市の分析に使用されたYHgの数がまとめられています。この研究は、徳島大学倫理委員会の承認を得ました。全参加者は研究への参加前にインフォームド・コンセントが提供されました。

 YHgはISOGGにより公開されている系統樹に基づいて決定されました。YHg-D2a1の遺伝標識はISOGGにより以前に削除されました。したがって本論文では、YHg-D2a1はD1a2a-12f2bと定義されました。YHgの分岐遺伝標識はポリメラーゼ連鎖反応(polymerase chain reaction、略してPCR)制限断片長多型、TaqMan PCR、サンガー配列決定を用いて決定されました。この研究で用いられた全てのプライマーセットとアニーリング温度と酵素制限と遺伝子型決定手法は、補足表S1~S3に掲載されています。

 都市間のYHg多様性を比較するため、Arlequinの3.5.2.2版が用いられ、集団間の遺伝的分化の指標として、2集団の遺伝的分化の程度を表す固定指数(Fixation index、略してFₛₜ)が計算されました。集団間の差がないという帰無仮説下で、順列数は 100 に設定され、有意水準は0.05に設定されました。各YHg頻度は対でのFₛₜ値の帰無分布を導く統計的計算のため、入力ファイルとして用いられました。YHgの分岐の推定年代は、YFullのデータベースのY染色体系統樹の11.04版用いて得られました。


●YHg-C

 YHg-C1a1(以前のC1)に属する110個体の下位系統が、ISOGGにより公開されている系統樹に基づいて分析されました。C1a1は下位系統3群に分類され、それはC1a1a(1.8%)とC1a1a1a(73.6%)とC1a1a1b(24.5%)です(図1A)。これら3向けの地域辺鄙の評価から、C1a1a1aとC1a1a1bは徳島と大阪の間で異なっている、と明らかになりました。C1a1a1aの頻度は、徳島(56.5%)および大阪(54.5%)と比較すると、長崎(90.0%)と福岡(100%)と金沢(90.0%)と川崎(78.9%)と札幌(66.7%)でより高くなっていました。

 対照的に、C1a1a1bの頻度は、徳島(43.5%)および大阪(45.5%)と比較して、長崎(0%)と福岡(0%)と金沢(10.0%)と川崎(21.1%)と札幌(28.6%)でより低くなっていました(図1B)。7都市の人口間の多様性を比較するため、YHg-C1a1系統の頻度に基づいてFₛₜ値の対での比較が実行されました。その結、は徳島と長崎(Fₛₜ=0.229)、徳島と金沢(Fₛₜ=0.207)、大阪と長崎(Fₛₜ=0.261)、大阪と金沢(Fₛₜ=0.249)の間で有意な差(P<0.05)が示されました(表2)。以下は本論文の図1です。
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 次に、YHg-C2に属する130個体でハプログループ分析が実行されました。YHg-C2は以下の6系統の下位群に区分され、それは、C2a(14.6%)、C2b1(0.8%)、C2b1a1a(36.9%)、C2b1a1b(4.6%)、C2b1a2(24.6%)、C2b1b(18.5%)です(図1A)。地域比較から、YHg-C2の下位系統であるC2aとC2b1a1aとC2b1a2とC2b1bは大阪で頻度の差異を示す、と分かりました。YHg-C2aの頻度は長崎(6.7%)と福岡(0%)と徳島(11.8%)と金沢(15.6%)と川崎(9.5%)と札幌(20.0%)で大阪(42.9%)より低い、と示されました。

 さらに、YHg-C2b1a2の頻度は、長崎(13.3%)と福岡(25.0%)と徳島(11.8%)と川崎(19.0%)と札幌(23.3%)で大阪(42.9%)と金沢(37.5%)より低い、と示されました。対照的に、YHg-C2b1a1aは長崎(53.3%)と福岡(50.0%)と徳島(35.3%)と金沢(34.4%)と川崎(47.6%)と札幌(30.0%)で一般的に観察されましたが、大阪(0%)では観察されませんでした。YHg-C2b1bは長崎(26.7%)と福岡(25.0%)と徳島(29.4%)と金沢(9.4%)と川崎(23.8%)と札幌(16.7%)で一般的に観察されましたが、大阪(0%)では観察されませんでした。Fₛₜ値大阪と長崎(Fₛₜ=0.249)、大阪と福岡(Fₛₜ=0.200)、大阪と徳島(Fₛₜ=0.139)、大阪と川崎(Fₛₜ=0.192)の間で有意に異なっていました(表2)。


●YHg-D

 YHg-D1a2aは以下の13系統の下位群に区分され、それは、D1a2a1(0.3%)、D1a2a1c(2.2%)、D1a2a1c1(4.1%)、D1a2a1c1a(8.9%)、D1a2a1c1a1(4.7%)、D1a2a1c1a1a(3.5%)、D1a2a1c1a1b(1.9%)、D1a2a1c1a1b1(19.0%)、D1a2a1c1b(1.3%)、D1a2a1c1b1(8.5%)、D1a2a1c1c(6.6%)、D1a2a1c2(5.7%)、D1a2a2(32.3%)です(図2A)。男性3人がYHg-D1a2aに含められました(0.9%)。地域比較から、これら13系統の下位群では、D1a2a2の頻度が、徳島(45.5%)および大阪(55.6%)と比較して、長崎(14.7%)と福岡(23.5%)と金沢(33.3%)と川崎(29.3%)と札幌(32.1%)で低かった、と示されました(図2B)。Fₛₜ値は、徳島と長崎(Fₛₜ=0.037)、大阪と長崎(Fₛₜ=0.081)、大阪と福岡(Fₛₜ=0.073)の間で有意に異なっていました(表2)。以下は本論文の図2です。
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 次に、YHg-D1a2a1-12f2b(旧称はD2a1)に分類される380個体のハプログループが分析されました。YHg-D1a2a1-12f2b以下の11系統の下位群に区分され、それは、D1a2a1a2b(12.9%)、D1a2a1a2b1(0.5%)、D1a2a1a2b1a(1.6%)、D1a2a1a2b1a1(6.8%)、D1a2a1a2b1a1a(21.1%)、D1a2a1a2b1a1a1(15.8%)、D1a2a1a2b1a1a1a(13.7%)、D1a2a1a2b1a1a3(7.6%)、D1a2a1a2b1a1a9(4.2%)D1a2a1a2b1a1b(2.4%)、D1a2a1a3(13.4%)です(図3A)。これら11系統の下位群から、YHg-D1a2a1a2b1a1a1の頻度が福岡で高かったのに対して、YHg-D1a2a1a2b1a1a1aの頻度が大阪で高かった、と明らかになりました(図3B)。しかし、そのFₛₜ値は有意には異なっていませんでした(表2)。以下は本論文の図3です。
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●YHg-O1b2

 YHg-O1b2(旧称はO2b*)に属する214個体のハプログループが分析されました。YHg-O1b2は以下の9系統の下位群に区分され、それは、O1b2a(4.7%)、O1b2a1a(4.7%)、O1b2a1a2a(0.5%)、O1b2a1a2a1(24.3%)、O1b2a1a2a1a(28.0%)、O1b2a1a2a1b(0.5%)、O1b2a1a2a1b1(14.0%)、O1b2a1a3(16.4%)O1b2a1b(0.5%)です(図4A)。男性14人がYHg-O1b2に含められました(6.5%)。地域比較から、これら10系統では、O1b2a1a2a1の頻度が金沢よりも長崎(31.3%)と福岡(37.5%)の方で高かった、と示されました。Fₛₜ値は長崎と金沢()の間で有意に異なっていました(Fₛₜ=0.042)。以下は本論文の図4です。
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 次に、YHg-O1b2a1a1(旧称はO2b1)に属する490個体で詳細なハプログループ分析が実行されました。YHg-O1b2a1a1以下の3系統の下位群に区分され、それは、O1b2a1a1a(34.3%)、O1b2a1a1b(23.9%)、O1b2a1a1c(10.4%)です(図4A)。男性154人のみがYHg-O1b2a1a1に含まれ、これら4YHgの地域頻度で有意な違いは観察されませんでした(図4C)。そのFₛₜ値も有意な違いを示しませんでした(表2)。


●考察

 YHg-DおよびCに分類される人々は、それぞれ日本列島に20000年前頃と12000年前頃に到来した、と示唆されており、これは二重構造モデルと一致します。YHg-C系統はおもにC1とC2下位群に分類されてきましたが、本論文では、さらに分岐している、と示されました。

 YHg-Cはアジア東部とシベリアに広がっており、オセアニアとヨーロッパとアメリカ大陸において低頻度で観察されてきました。現代人の祖先がアフリカを去り、西方と北方と南方の3経路でユーラシア大陸を横断した、と考えられています。特定の下位ハプログループが、かく地域で特定されました。YHg-C1a1は日本列島に限定されており、日本列島に到来する前に分岐した、と考えられています。YHg-C2はC2aとC2b に分岐し、C2aはアジア中央部とアジア北東部と北アメリカ大陸なおいて一般的で、C2bは中国とモンゴルと朝鮮半島において一般的であり、YHg-C2bの一部は日本列島に到達しました。日本列島に固有のYHg-C1a1系統の姉妹群であるYHg-C1a2は、ヨーロッパにおいて低頻度で見られます。対照的に、初期の分岐系統であるYHg-C1bはインド南岸とオーストラリアとインドネシアで見られます。

 日本列島におけるYHg-C1系統の主要な下位群は、おもに徳島と大阪で見られるC1a1a1aと、おもに長崎と福岡と金沢と札幌で見られるC1a1a1bです。Fₛₜ値は徳島と長崎および金沢、大阪と長崎および金沢の間で有意な違いを示しました。YHg-C1a1は日本列島な固有で、C1a1a1aとC1a1a1bに分岐しなかったC1a1a が札幌と長崎において低頻度で見られ、日本列島に均等に分布しているYHg-C1a1は、男性がおもに徳島と大阪から移住したさいに下位系統のYHgに分岐した、と示唆されます。日本列島における主要なYHg-C2系統の下位群には、C2aとC2b1a1とC2b1a2とC2b1bが含まれ、その全てが大阪においてYHg頻度の差異を示します。Fₛₜ値は大阪とその周辺地域(長崎と福岡と徳島と川崎)との間で顕著な違いを示しており、人口の分岐および移住が大阪を中心に起きた、と示唆されます。YHg頻度の差異は大阪でのみ観察されました。大阪は日本で最大級の都市の一つなので、この調査結果から、現代の遺伝子流動が大阪において高頻度で起きている、と示唆されます。

 世界中のY染色体配列のデータベースであるYFullのY染色体系統樹(11.04版)に基づくと、一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)の分岐は、C1a1では45300年前頃(95%信頼区間では49400~41300年前)、C2では48800年前頃(95%信頼区間では51300~46400年前)に起きた、と推定されます。他の下位ハプログループの推定分岐年代は、C1a1a1aとC1a1bでは4500年前頃(95%信頼区間では5500~3600年前)、C2aでは34100年前頃(95%信頼区間では37000~31300年前)、C2b1a1とC2b1a2では10300年前頃(95%信頼区間では11200~9400年前)、C2b1bでは11000年前頃(95%信頼区間では12000~10000年前頃)です。「縄文人」系統は日本列島に遅くとも2万年前頃には広がり始め、下位YHgの分岐が日本列島内で起きたことを示唆しています。

 YHg-Dは、日本列島に加えてチベット高原やアンダマン諸島やアフリカの特定地域で確認されてきており、YHg-D1a2aは日本列島で最もよく特徴づけられているハプログループです。YHg-D2がナイジェリアなどアフリカの一部地域のみで観察されたのに対して(関連記事)、YHg-D1はユーラシアへとY区大師、アジア中央部とチベット高原において一般的なD1a1と、日本列島で見られるD1a2に分岐しました。YHg-D1a2aの姉妹系統であるD1a2bは、アンダマン諸島において最も一般的なYHgです。

 本論文では、YHg-D1a2aは、D1a2a1c1やD1a2a1c2やD1a2a2を含めていくつかの下位系統群に分類される、と確証されました。YHg-D1a2a2が徳島と大阪において他の地域よりも高頻度で観察されるのに対して、他のYHg-D1a2aは全地域で均等に分布していました。YHg-D1a2a系統は日本列島に固有なので、この下位系統の分岐は日本列島内で起きたかもしれず、日本全国で均一に分布していました。YHg-D1a2a2の不均一な分布は、徳島と大阪が人口移動と人口分岐の出発点であること、および/もしくはその後で日本列島に到来したYHg-O系統の台頭に起因する残りの地域の拡大のためかもしれません。

 YHg-D1a2a-12f2b系統はいくつかの下位系統群と3クラスタを形成し、それはD1a2a1a2b1a1aとD1a2a1a2b1a1bとD1a2a1a3です。これらのYHgにおいて有意な地域差は観察されませんでした。YHg-D1a2aとYHg-D1a2a-12f2bは同時に日本列島に入ってきたかもしれませんが、いくつかのYHgが日本列島に均等に分布しているのに対して、他のYHgは頻度の偏りを示しました。

 Y染色体系統樹によると、D1a2a1とD1a2a2の推定分岐年代が21200年前頃(95%信頼区間では23100~15000年前)なのに対して、D1a2a1aとD1a2a1cの推定分岐年代は17600年前頃(95%信頼区間では20300~15000年前)です。YHg-D1a2aは45200年前頃(95%信頼区間では48500~42000年前)までに分岐し、日本列島でのみ観察されており、YHg-D1a2a系統が日本列島で広範囲に分岐した、と示唆されます。

 YHg-Oはアジア東部において最大のハプログループで、4000年前頃に日本列島に到来した、と示唆されました。その祖先系統のYHg-NOはアフリカから去った後に北方経路でユーラシアへと拡大し、YHg-OとYHg-Nに分岐しました。YHg-Oは広くO2とO1に分類され、O2は中国北部の黄河流域で繁栄し、O1は中国南部の長江流域で繁栄しました。YHg-O1b2はYHg-O1から派生し、日本列島と中国と満洲と朝鮮半島では一般的な系統なので、朝鮮半島経由で日本列島へと北方へ移動したかもしれません。ほとんどの現在の中国の漢人を構成するYHg-O2の一部は、O2a1bとO2a2b1に分岐した後で日本列島に到達したかもしれません。

 YHg-O1b2系統は3クラスタを形成し、それはO1b2a1a1aとO1b2a1a1bとO1b2a1a1cなどの位系統です。YHg-O1b2a1a1系統も3クラスタを形成し、O1b2a1a1aとO1b2a1a1bとO1b2a1a1cなどがあります。地域によるYHg頻度の顕著な違いは検出されず、日本列島におけるYHg-O1b2の主要な下位系統の分岐は現代日本人男性では均一で、恐らくは朝鮮半島およびその周辺地域経由でのYHg-O1b2a1a1系統の分岐に起因する、と示唆されます。

 Y染色体系統樹による推定分岐年代は、O1b2では28000年前頃(30400~26000年前)、O1b2a1a1では5500年前頃(6500~4600年前)です。「弥生人」系統が遅くとも4000年前頃には日本列島に拡大し始めたことを考慮すると、特定されたO1b2a1a1aとO1b2a1a1bとO1b2a1a1cとO1b2a1a2a1aの推定分岐年代は3400年前頃(95%信頼区間では4500~2500年前)です。これらの調査結果から、YHg-O1b2は準直線的に分岐し、日本列島への流入後に均一に拡大した、と示唆されます。

 まとめると、本論文の結果から、YHgのC1a1とC2とD1a2とD1a2-12f2bとO1b2とO1b2a1a1の各系統をそれぞれ3と6と14と11と10と4の下位YHgに更新することが可能となりました。さらに、各YHgについて頻度の集中したいくつかのクラスタ(まとまり)の存在が確証されました。日本列島に固有のYHg-C1a1とC2とD1a2はその頻度で顕著な違いを示しており、日本列島内の系統分岐と人口移動がおもに徳島と大阪の周辺で起きた、と示唆されます。YHg-CおよびD系統については、以前には報告されなかった、日本人男性集団の多様性において違いが検出されました。日本人男性は、二重構造のより大きな枠組み内にあるものの、人口変化や遺伝的浮動やさまざまな遺伝子の流入に気五する遺伝的構造の多様性を保持してきた、と考えられています。DNA解析では最近、日本人男性は朝鮮半島とアジア東部大陸部から古墳時代以降(3世紀以降)に移動し、オホーツク文化人も北方から北海道に移動した、と明らかになっており、3段階モデル理論につながっています。将来の研究は、YHg-O2の日本人の下位系統の特定とさまざまな地域におけるその頻度の調査により、日本人男性の多様性をさらに解明すべきでしょう。


参考文献:
Inoue M, and Sato Y.(2023): An update and frequency distribution of Y chromosome haplogroups in modern Japanese males. Journal of Human Genetics.
https://doi.org/10.1038/s10038-023-01214-5

https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_27.html
13:777 :

2024/02/26 (Mon) 17:00:08

【最新研究】縄文人のルーツがついに判明?南方ルートの証拠が発見されました!
世界ミステリーch
2024/02/10
https://www.youtube.com/watch?v=wTIfd6P6wnI

縄文人はどこからきたのか?謎が多い縄文人のルーツが最新の研究によって新しい発見が見えてきました。タイの山間部の奥に住むマニ族という民族が縄文人ととても近い人々ということが分かったのです。今回は縄文人のルーツ、そして今の日本人のルーツについて解説していきます!

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