777投稿集 2420522


DNAからみた縄文人と弥生人 神澤秀明(国立科学博物館)

1:777 :

2023/02/15 (Wed) 12:30:58

DNAからみた縄文人ㅣ神澤秀明 博士(日本 國立科學博物館)
2020/12/31
https://www.youtube.com/watch?v=05GzPwGZpZM

縄文時代は1万年以上の長期に渡り、その文化圏は北海道から沖縄まで達している。縄文人が日本人の基層集団であることは、これまでの形質人類学や現代人のDNA分析から示されてきた。特に、1991年に埴原和郎が形態的形質を基に提唱した「二重構造説」は、現代日本人と縄文人との遺伝関係の大筋を説明している(Hanihara, 1991)。その一方で、縄文人の起源と成立については統一した見解は得られておらず、その詳細は依然として明確ではない。

最近では縄文人の核ゲノムを直接分析し、現代人との系統関係や混血率の推定、東南アジアの新石器時代人のホアビン文化人と遺伝的な関係が示されている(Kanzawa-Kiriyama et al., 2017; McColl et al., 2018)。

我々は2019年に、北海道礼文島の船泊遺跡(3,500–3,800年前)から出土した縄文時代後期の女性人骨1体から高精度の核ゲノム配列を取得し、その遺伝子型を決定した。そこから、複数の人類学的形質の推定や、疾患関連の変異としてCPT1A遺伝子のPro479Leu非同義置換を検出した。

また、今回の高精度のゲノムを用いることで、大陸集団との分岐時期が26,000-38,000年前の後期旧石器時代まで遡ることを直接的に証明した。これは、縄文人の系統が遺伝的に長期に渡って大陸から遺伝的に孤立していたことを示している。興味深いことに、これまで縄文人の遺伝要素を受け継いでいるとされた日本列島人以外にも、ウルチ、韓国人、台湾先住民、フィリピン人が遺伝的に漢民族よりも船泊縄文人に近いことが示された。このことは、東ユーラシアのヒト集団がどのように形成されたのかを知る手がかりを提供するだろう。





ゲノムからみる弥生時代人 I 神澤秀明 博士(国立科学博物館)
2021/05/04
https://www.youtube.com/watch?v=Aed59M-oKqw

現在の古代DNA研究では、次世代シークエンサーが登場したことでゲノムを対象とした解析が精力的に行われている。我々の研究チームは、縄文時代人のゲノムに加えて、弥生時代人を中心としたゲノムデータも取得し、解析を進めている。

現代日本人の成立過程を説明する説として、1991年に埴原和郎が人骨の形態学的な研究に基づいて提唱した「二重構造説」がある。在地の縄文系集団と渡来系集団の混血によって成立したとするこの説は、現代人および縄文人のゲノムを解析した研究からも支持されている。しかしながら、両者の混血が、弥生時代以降の日本列島でどのように進んでいったのか、その詳細は依然として不明である。

そこで我々は、北部九州弥生人1体および西北九州弥生人2体のゲノムを解析した。それぞれの地域の人骨は、形態学的には渡来系および縄文系と捉えられてきたが、ゲノムからは、両地域の個体は既に混血が進んでいた。以上の結果は、これまで形態学で見られていた地域的特徴が、弥生時代中期以降に限って言えば、その程度の違いを見ていたことを示す。現時点ではゲノム分析数が限られるが、それでも膨大なゲノム情報であるため、弥生時代人の遺伝的実体の大枠が見えてきたと言えるだろう。
2:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/02/15 (Wed) 12:34:55

篠田謙一 古代ゲノム研究のおそるべき技術革新
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14052212

コーカソイドだった黄河文明人が他民族の女をレイプしまくって生まれた子供の子孫が漢民族
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14008392

世界最初の農耕文明を作った長江人の末裔の現在
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14034569

日本語のルーツは9000年前の西遼河流域の黍(キビ)農耕民に!
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金平譲司 日本語の意外な歴史
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ゲノムからみる弥生時代人 神澤秀明(国立科学博物館)
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縄文人と弥生人 「日本人の起源」論争
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5~7世紀(三国時代) の朝鮮人は現代朝鮮人と同じだった
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朝鮮人の起源
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朝鮮の無文土器時代人が縄文人を絶滅させて日本を乗っ取った
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007681

被差別同和部落民の起源 _ 朝鮮からの渡来人が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007586

天皇家は伊都国を本拠地として奴隷貿易で稼いでいた漢民族系朝鮮人
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007686

天皇家は2世紀に伊都国から日向・大和・丹後に天孫降臨した
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007799

神武東征 _ 当時世界最大の水銀生産地は奈良で、神武東征も水銀獲得の為だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007798

邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007801

アイヌ人は北海道縄文人の直系の子孫、アイヌ語は縄文人が話していた言葉
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007570

オホーツク文化人の起源とアイヌ人との関係
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007585

琉球人は沖縄の先住民なのか?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007597

ユダヤ人の Y-DNA _ 日本にはユダヤ人の遺伝子は全く入っていない
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007378

秦氏がユダヤ人だというのはド素人の妄想
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007812


▲△▽▼


近世アイヌ集団のmtDNA解析: 雑記帳
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_45.html

アイヌ民族が12世紀ごろ樺太から北海道に渡来した: 雑記帳
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_20.html

「縄文人」とアイヌ・琉球・「本土」集団との関係
https://sicambre.at.webry.info/201907/article_32.html

オホーツク文化人のハプログループY遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/201910/article_5.html

大西秀之「アイヌ民族・文化形成における異系統集団の混淆―二重波モデルを理解するための民族史事例の検討」
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_24.html

石田肇「北から移動してきた人たち」『人類の移動誌』第3章「日本へ」第4節: 雑記帳
https://sicambre.at.webry.info/201406/article_29.html
3:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/02/20 (Mon) 05:29:24

【落合陽一】「今までの“常識”って何だったんだ」 定説が覆りまくる人類史!謎のデニソワ人の発見、『絶滅と生存』分けた理由、『縄文人と弥生人』の新説、 最新ゲノム解析が明かす現代人への“遺言”とは?
2023/02/16
https://www.youtube.com/watch?v=86BT7_aggag

唯一生き残った人類。それが1属1種の存在として今、地球上に生息する我々、ホモ・サピエンスだ。しかし近年、大量の情報を持つ核DNAの解析が可能となったことから、遥か昔に絶滅したはずの別の人類「ネアンデルタール人」の遺伝子を現代人も受け継いでいると判明し、その進化の過程はより複雑で多様である事がわかってきた。

今、飛躍的に進歩する古代DNA研究が、人類史の定説やこれまでの常識を大きく覆そうとしている。人類はどこからきたのか?私たちは一体何者なのか?10万部を突破した『人類の起源』の著者、国立科学博物館の篠田謙一館長を迎え、古代DNA研究の最前線と新たな「人類像」、 そして日本人のルーツに、落合陽一が迫る。
4:777 :

2023/06/05 (Mon) 11:06:40

雑記帳
2023年06月03日
水ノ江和同『縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏』
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_3.html

https://www.amazon.co.jp/%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA%E3%81%AF%E6%B5%B7%E3%82%92%E8%B6%8A%E3%81%88%E3%81%9F%E3%81%8B-%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%A8%E6%96%87%E5%8C%96%E5%9C%8F-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E6%B0%B4%E3%83%8E%E6%B1%9F%E5%92%8C%E5%90%8C/dp/402263118X


 朝日選書の一冊として、朝日新聞出版より2022年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はまず、縄文文化の範囲が現在の日本国の領土とほぼ重なる、と指摘します。つまり、北方は宗谷海峡と択捉海峡まで、伊豆諸島では八丈島ので、九州では対馬島と沖縄県の久米島までとなります。縄文時代にこの範囲を越えて、周辺地域由来と考えられる遺物(考古資料)が日本列島で、逆に周辺地域で日本列島由来と考えられる遺物が発見された場合、「交流」として高く評価されてきました。しかし本書は、そもそも「交流」という用語を使うことに疑問を呈します。縄文時代において、縄文文化の範囲の内外で、それぞれ相手方と考えられる考古資料は必ずしも多くないので、弥生時代以降と同等の「交流」を想起させる用語を使うのは適切ではない、というわけです。本書は、縄文文化の範囲の内外で、それぞれ相手方と考えられる考古資料が発見されている事象を、「交流」ではなく「関係性」や「往き来」という用語で表現します。

 次に本書は、縄文時代における海を越えた「往き来」について、これまで高く評価されてきたものの、その理由や経路などについて、考古学的研究に不可欠な形式学的検討が不充分だった、と指摘します。本書はこうした問題意識から、縄文文化とその周辺地域の文化との関係性を重視し、おもに北海道とサハリン、および九州と朝鮮半島との考古学的な事実関係を検討します。なお。本書における縄文時代の時期区分は、草創期(16000~11000年前頃)→早期(11000~7500年前頃)→前期(7500~5500年前頃)→中期(5500~4200年前頃)→後期(4200~3200年前頃)→晩期(3200~2400年前頃)で、九州北部の玄界灘沿岸部のみ、2800~2400年前頃は弥生時代早期となります。なお、本書は、ユーラシア大陸東端部に位置する、現在のロシア極東から中国東部(東北と華北と華中と華南)を「大陸」と表記しています。

 縄文時代と縄文文化の開始については議論がありますが、本書は旧石器時代と縄文時代の違いとして、ナウマンゾウやヘラジカといった大型動物ではなく、シカやイノシシといった動きの速い小型動物を捕獲する飛び道具としての弓矢の出現、竪穴住居の建築などに必要な木材の伐採や加工を可能にした磨製石斧の普及、温暖化による食料獲得の安定化に伴う定住生活、やや遅れるものの魚介類の捕獲増加とそれに伴う貝塚の出現および急増を挙げています。縄文時代の終焉は北海道などを除いて弥生時代の始まりとなりますが、縄文土器と考えられていた「夜臼式土器」と大陸系磨製石器や木製農具が出土し、水田の跡が確認されたことから、縄文時代最終末期にはすでに稲作農耕が始まっていたのか、それとも弥生時代の開始が早まるのか、議論になりました。その後の研究の進展により、福岡県と佐賀県の玄界灘沿岸部意外ではこうした事例が認められず、玄界灘沿岸部に限定して「弥生時代早期」という時代区分の設定が提案されました。縄文文化の世界的な位置づけとしては、新石器時代に一般的に見られる本格的な農耕と牧畜はないものの、食料も含めて資源に恵まれ、多様な装飾品も見られることから、「森林性新石器文化」と位置づける見解もあります。なお、縄文時代には西日本より東日本の方が栄えていた、との見解が有力ですが、本書はこれが研究実績の差から無意識のうちに創出されている可能性を指摘します。

 本書は縄文時代における渡海について、縄文文化の島嶼部への拡散の考古資料を検証し、まず南島(元々は大隅諸島と吐噶喇列島と奄美群島を指し、その後は尖閣諸島と大東初頭以外の琉球列島の島々を指すようになります)を対象としますが、縄文文化が及ばない先島諸島は除外しています。南島は縄文時代には亜熱帯性海洋性気候で、動植物の生態は独特でした。南島では、本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」の縄文時代から古代に相当する期間は貝塚時代と呼ばれてきました。貝塚時代早期~中期は「本土」の縄文時代に位置づけられ、「本土」の弥生時代に相当するのは貝塚時代後期です。ただ、この貝塚時代が縄文文化に位置づけられるのか、20世紀後半に議論があり、今でも貝塚時代早期~中期を縄文時代と位置づけることは定着していないようです。本書は、日本列島の島嶼部には多様な縄文文化があることを指摘し、貝塚時代を多様な縄文文化の一つと位置づけます。九州島から沖縄本島までの距離は約530kmですが、好天時には島影を次々と目視でき、九州島から沖縄本島まで渡海できます。久米島から先島諸島の最東端である宮古島までの距離は約220kmなので、好天時でも島影を目視できないため、縄文時代の人々(縄文人)は先島諸島の存在を知ることができなかっただろう、と本書は推測し、じっさい先島諸島には縄文文化の痕跡はまったくない、と指摘します。縄文時代において日本列島内での航海はとくに前期中葉以降に盛んだったようで、黒曜石や貝の採取などが目的でしたが、沖ノ島などについては、現時点で渡海の目的は不明です。大陸と日本列島との間の経路については、北方のサハリンや朝鮮半島や東シナ海や沖縄や日本海といった経路が想定されてきましたが、本書は、これまで大陸から日本列島という一方通行のみに議論が偏り、その逆方向が軽視される傾向にあった、と指摘します。

 日本列島と大陸との関係で本書が重視する考古資料は玦状耳飾です。縄文時代早期末葉~中期中葉にかけて見られる玦状耳飾が日本列島の独自起源なのか、それとも大陸起源なのか、という議論は、縄文文化をアジア東部においてどう位置づけるのか、という問題とも関わってくるからです。これに関しては長い議論がありましたが、出現期の製作遺跡が北陸沿岸部に集中することから、対馬海流を介した中華地域からの伝来説が主流となります。さらに、中国でも起源地は江南なのか東北なのか、といった問題も議論されました。本書はこの長きにわたる議論について、日本列島全体での編年研究と、大陸との類似性に関して形式や年代や製作技法や伝来経路の検討が不充分で、日本列島に近接する現在のロシア極東や朝鮮半島との関係性については未検討と指摘し、改めてこれらの問題を検証します。玦状耳飾は縄文時代早期末葉に北海道から九州まで、まず環形が一斉に出現し、北陸で最も出土数が多く、製作遺跡も集中しますが、現時点で北陸が他地域に先行することを示す直接的証拠はない、と本書は指摘します。玦状耳飾が大陸から日本列島にどの経路で到来したかも、現時点で確定は困難なようです。

 上述のように、縄文文化の北方の境界は宗谷海峡と択捉海峡で、本書は北海道とサハリン、さらにはアムール川下流域(本書ではまとめて「ロシア極東」とされます)までを比較します。行政目的の発掘調査が多い北海道の考古資料は、ほぼ学術目的の発掘に限定されるロシア極東よりもはるかに多いものの、近年では比較研究が着実に進みつつあるようです。宗谷海峡を挟んで縄文時代の北海道とロシア極東との間のまとまった往き来が確認されているのは、縄文時代早期後葉の1回だけです。北海道の縄文文化の外来要素としては、東部で見られる縄文時代早期後葉の石刃鏃文化が注目されてきました。石刃鏃文化の構成要素には、環状石製品や篦状垂飾や小玉などの石製装身具と擦切石斧があります。現在では、以前には石刃鏃文化の構成要素と考えられた条痕文土器が、石刃鏃文化以前の北海道に存在することなど、北海道とサハリンのつながりが以前の想定よりも薄かった、との見解が有力になりつつあります。石刃鏃文化の集落構造が北海道西部および南部や東北と類似していることなどからも、石刃鏃文化は縄文時代早期後葉の一時期だけ北海道東部に伝来し、根づくことはなかった、というわけです。

 縄文文化の南西の境界は九州と朝鮮半島との間となります。縄文時代の九州と朝鮮半島との関係は、曽畑式土器と朝鮮半島の櫛目文土器との類似性や、結合式釣針が対馬海峡西水道を挟んで曽畑式土器の出現以降に、朝鮮半島の東および南海岸と西北九州に集中して分布することなどから注目され、結合式釣針は1970年代~1980年代には、縄文時代における漁撈民の「交流の証」とされました。その後、21世紀にはそうした見解の見直しが進みます。朝鮮半島には九州由来の考古資料が、九州には朝鮮半島由来の考古資料が少なく、相手側の考古資料の出土を過大評価してきたのではないか、というわけです。本書はこうした状況を、「交流」ではなく「往き来」と評価します。

 本書は、曽畑式土器の出現に朝鮮半島が関わっている可能性はきわめて低い(若しくはほぼない)と指摘しつつも、曽畑式土器には、土器の外面全体の文様や胎土への滑石の混入など、西日本の縄文土器や朝鮮半島の土器にも系譜をたどれない特徴があり、その出現系譜はまだ不明である、と問題を提起します。朝鮮半島南海岸では、在来の土器と明らかに異なる縄文土器が確認されてきており、九州の「縄文人」が持ち込んだ、と考えられてきました。しかし、よく調べると九州の縄文土器と似ているものの異なる土器も一定数存在しており、九州から朝鮮半島に到来した「縄文人」が、経時的に記憶が曖昧化していく中で製作した独自の縄文土器だろう、と推測します。本書はこうした土器を「九州系縄文土器」と呼びます。九州における朝鮮半島系の考古資料はほぼ対馬島に限られ、対馬島北西部では、朝鮮半島の新石器時代早期の隆起文土器などが多数を占め、縄文時代前期の西唐津式土器や曽畑式土器がごく少ない遺跡もあります。こうした朝鮮半島系土器の形式変化が連続的であることから、一定期間継続的に居住していた、と推測されます。しかし、対馬島におけるほぼ完全に朝鮮半島新石器時代系と言える遺跡は現時点で2ヶ所だけで、周辺の縄文時代遺跡からは、朝鮮半島系土器はほとんど出土していません。本書はこの考古学的証拠の解釈は難問としつつ、朝鮮半島には存在しない黒曜石の収集および搬出拠点として存在した可能性も指摘します。結合式釣針については、朝鮮半島では新石器時代の早期と前期(九州の縄文時代前期)に限定され、九州では縄文時代後期初頭~中葉にほぼ限られ、主体となる年代が異なることや、技術的な違いから、共通性の乏しさが指摘されています。本書は、九州の結合式釣針の起源が東日本にある、と推測しています。

 本書はこれらの知見を踏まえて、縄文時代における九州と朝鮮半島との関係は縄文時代早期末葉から後期中葉まで長期にわたるものの、断続的と指摘します。朝鮮半島で出土した最多の九州系縄文土器は、縄文時代後期初頭の坂の下式土器です。縄文時代後期初頭には、関東の称名寺式土器や関西の中津式土器の系統とされる磨消縄文と呼ばれる文様が、北海道南部から九州北部にまで分布し、九州では大珠や土偶や仮面形貝製品が出現するなど、大きな動きが見られ、西北九州に出現した鈴桶技法による黒曜石製の剥片鏃が朝鮮半島からも出土することから、画期となった縄文時代後期初頭において、日本列島の大きな動きの余波として、九州から朝鮮半島への往き来もそれ以前より活発になったのだろう、と推測します。ただ本書は、全体的には、九州と朝鮮半島との間の「往き来」の回数自体は決して多いとは言えないだろう、と指摘します。本書は、弥生時代以降の九州と朝鮮半島との関係の下地・前段階となる交流が縄文時代にもすでにあった、との潜在的意識が考古学者にあり、縄文時代の九州と朝鮮半島との「交流」が過大評価されてきたのではないか、と指摘します。確かに、縄文時代の九州と朝鮮半島との間に「往き来」は間違いなくあったものの、互いの文化に影響を及ぼすほどの「交流」には明らかに遠く及ばない、というわけです。

 本書は、縄文時代の日本列島において島嶼部への航海が活発だったことと、それとは対照的に、同じような距離の航海だったにも関わらず、日本列島とサハリンや朝鮮半島との関係がずっと低調だった要因として、「文化圏と言葉」を挙げています。日本列島全体では、さまざまな地域性が存在しながらも、同じ技術や約束事で縄文土器が作られており、その継承には言葉による説明が必要だった、と本書は指摘します。九州から南島、とくに沖縄本島に至る航海にはかなりの危険が伴いますが、時期による差はあれども、南島では断続的に九州の縄文文化が伝わり、影響を及ぼしていました。本書はその理由として、言葉によるある程度の意思疎通があった、と想定し、南島は大枠では縄文文化圏だった、と指摘します。一方、縄文時代において、北海道とサハリン、および九州と朝鮮半島では、言葉による意思疎通はほとんどできていなかった、と本書は推測します。この「文化圏と言葉」の関係性は、日本列島が海により隔絶していた旧石器時代には存在していた、と本書は推測します。「縄文人」は、日本列島の各島嶼部には、思疎通可能な共通の言葉を有している人々がいるものの、サハリンや朝鮮半島にはそうした人々がいないと知っていた、というわけです。一方、弥生時代以降に朝鮮半島から到来した稲作農耕文化は、目で見るだけでは伝わらないので、言葉の壁を超えて意思疎通できる通訳が現れた、というわけです。ただ本書は、こうした縄文時代の日本列島とその周辺地域との関係性で説明の難しい考古資料、具体的には玦状耳飾や結合式釣針や装身具文様があることも指摘し、今後の課題としています。


 以上、本書をざっと見てきました。本書は、縄文文化がほぼ現在の日本国の領土と重なり、その近隣地域、つまり北方ではサハリン、西方では朝鮮半島との間には文化的に大きな影響を残した相互作用はなく、「交流」ではなく「往き来」と評価すべきである、と主張します。これは、縄文文化がほぼ日本列島に限定され、かなり孤立した文化だったことを示しているように思います。縄文時代の北部九州と朝鮮半島南部は文化を共有する状況ではなく、対馬海峡で文化圏を区分できるのではないか、との見解を以前に読んでいたので(関連記事)、本書の見解にはとくに意外ではありませんが、具体的な検証が詳しく、用語の解説もあるので、私にとって本書は大当たりでした。私のような非専門家が縄文時代の日本列島と周辺地域との文化的関係を調べるさいに、本書は長く教科書的な役割を担うことになるでしょう。

 本書では古代ゲノム研究は取り上げられていませんが、改めて、遺伝と文化と民族を単純に相関させてはならいない、と痛感します。「縄文人」は、既知の現代人および古代人集団に対して一まとまりを形成する独特な集団で、時空間的に広範囲にわたって遺伝的には均質だった、と考えられます(関連記事)。この「縄文人」的な遺伝的構成要素をさまざまな割合でゲノムに有する個体は、ほぼ日本列島というか縄文文化の範囲に限定されていますが、例外が先島諸島と朝鮮半島南岸で(関連記事)、現在のロシア極東の沿岸部もその例外に含まれるかもしれません(関連記事)。

 上述のように、先島諸島には縄文文化の影響が及ばなかった、と本書は指摘していますが、先島諸島の紀元前9~紀元前6世紀頃の個体は、遺伝的にほぼ完全に「縄文人」と重なります。考古資料からは先島諸島に縄文文化の影響は見えないものの、言語や精神文化では強い共通性があった、と主張できるかもしれませんが、現時点でかなり苦しいことは否定できないでしょう。先島諸島にいつ「縄文人」的な遺伝的構成の集団が到来したのか、その集団は琉球諸島北部の貝塚時代の集団と言語も含めてどの程度の文化的共通性があったのか、現時点では推測が困難です。やはり、遺伝というかDNAと文化を安易に関連づけてはならないのでしょう(関連記事)。

 朝鮮半島南岸では、新石器時代に「縄文人」的な遺伝的構成要素をゲノムに有する個体が確認されており、その中には遺伝的にほぼ完全に「縄文人」と重なる個体も存在します。本書の見解を踏まえて、これをどう解釈すべきなのか、現時点では推測の難しいところで、「縄文人」的な遺伝的構成の集団の形成過程とも関わって、さまざまな可能性が考えられます(関連記事)。たとえば、「縄文人」的な遺伝的構成の集団が朝鮮半島南部で形成され、日本列島へと拡散した場合、朝鮮半島南岸の人類集団において新石器時代を通じて「縄文人」的な遺伝的構成要素が持続した可能性も、一旦消滅して縄文時代の日本列島から到来した可能性も考えられます。あるいは、「縄文人」的な遺伝的構成の集団は日本列島で形成されたものの、その主要な祖先集団の一部が朝鮮半島南岸に留まり、それ故に朝鮮半島南岸の新石器時代人類集団の中には、「縄文人」的な遺伝的構成要素とアジア北東部集団的な遺伝的構成要素でモデル化できる個体が存在するのかもしれません。この場合、遺伝的にほぼ完全に「縄文人」と重なる個体は、近い祖先の多くが縄文時代の日本列島に由来するのかもしれません。こうした問題については、そのうち一度まとめるつもりです。


参考文献:
水ノ江和同(2022)『縄文人は海を越えたか  言葉と文化圏』(朝日新聞出版)
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_3.html
5:777 :

2023/06/10 (Sat) 18:25:34

雑記帳
2023年06月07日
考古学的観点からの日本語と朝鮮語の起源
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_7.html

 考古学的観点から日本語と朝鮮語の起源を検証した研究(Miyamoto., 2022)が公表されました。本論文は考古学的観点から、アジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大の様相を検証しています。本論文は、日本語祖語と朝鮮語祖語の起源はマンチュリア(満洲)南部にあり、朝鮮半島には朝鮮語祖語よりも日本語祖語の方が早く流入し、その後で朝鮮半島に流入した朝鮮語祖語が日本語祖語をじょじょに駆逐し、一方で日本語祖語は弥生時代早期に日本列島に流入し、「縄文語」をじょじょに駆逐した、と推測しています。この記事では今後の参照のため、当ブログで取り上げていない本論文の引用文献も最後に記載します。「日本語」と「日琉語族」を適切に訳し分けた自信はないので、混乱があるかもしれませんが、本論文の趣旨からすると、まだ日本語と琉球諸語が分岐する前を主要な対象としているので、「日琉語族」と訳すべきところが多いかもしれません。また、考古学用語については、定訳があるのに変な訳語になっているものも少なくないかもしれません。近年の古代ゲノム研究と本論文の知見を合わせて、そのうちアジア東部の古代史をまとめよう、と考えています。以下、敬称は省略します。


●要約

 言語学的観点から、日本語祖語と朝鮮語祖語は、マンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分かれた、と想定されています。年代順では日本語祖語が朝鮮語祖語よりも先に到来した、という言語学的見解が意味するのは、日本語祖語がまず朝鮮半島に入り、そこから紀元前9世紀頃となる弥生時代早期に日本列島へと拡大した一方で、朝鮮半島南部における朝鮮語祖語の到来は紀元前5世紀頃の粘土帯土器(rolled rim vessel、Jeomtodae)文化と関連している、ということです。同じ土器製作技術を共有する偏堡(Pianpu)文化と無文(Mumun)文化と弥生文化の系譜は、日本語祖語の拡大を示唆します。

 一方、移民が遼東半島から朝鮮半島へと移動し、粘土帯土器文化を確立しました。この人口移動は恐らく、燕(Yan)国が東方へ領土を拡大する中での、社会および政治的理由に起因しました。粘土帯土器文化の朝鮮語祖語は後に朝鮮半島へと拡大し、次第に日本語祖語を追い払っていき、朝鮮語の前身となりました。本論文では、考古学的証拠に基づいてアジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大を検証し、とくに土器様式と土器製作技術の系譜に焦点を当てます。


●近年の研究動向

 先史時代における言語拡散がヒトの移住を伴う農耕の拡大と関連している、との見解は、コリン・レンフルー(Colin Renfrew)により初めて提唱されたよく知られた仮説であり(Renfrew1987)、インド・ヨーロッパ語族の拡大は農耕の拡散を伴っていた、と示唆されています。レンフルーは、故地がアナトリア半島南部中央にあった農耕民が、紀元前7000~紀元前6500年頃までにギリシアへと拡大した、と論証しました。この拡散は、農耕民がヨーロッパへと到達し、インド・ヨーロッパ語族の下位群を形成するまで続きました【現在では、後期新石器時代~青銅器時代にポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)からヨーロッパへと拡散した集団がインド・ヨーロッパ語族をもたらした、との見解が有力です(関連記事)】。レンフルーはさらに、移住してきた農耕民と在来の中石器時代の人々との間の3000年以上にわたる交流も論証しました。インド・ヨーロッパ語族がギリシアへ拡大した紀元前7000年頃から、ブリテン諸島へ拡大した紀元前4000年頃にかけてです(Renfrew1987、Reference Renfrew1999)。この仮説は「農耕・言語拡散仮説」と呼ばれることが多く、農耕余剰から生じた人口増加と結びついています。

 ピーター・ベルウッド(Peter Bellwood)も、アジア東部において同様に農耕の拡大は言語の拡大と関連している、と仮定しました(Bellwood2005)。この仮説によると、シナ・チベット語族は黄河中流域において雑穀に基づく農耕とともに起源がある一方で、長江中流地における稲作に基づく農耕民と関連するミャオ・ヤオ(Hmong-Mien)語族はアジア南東部へと移動し、オーストロアジア語族を形成しました。さらに、中国南部で稲作農耕を行なっていた人々が話していたタイ・チワン諸語は、アジア南東部でオーストロアジア語族の一部へと発展しました。さらに、オーストロネシア人は台湾からインドネシアとオセアニアへと南方へ拡大しました。

 一方で、以下の5語族は伝統的に、「アルタイ諸語」と分類されており、つまり日本語と朝鮮語とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族です。近年では、「トランスユーラシア語族」という用語がこれら5語族の記述に使われてきており、地理的には、東方では太平洋、西方ではバルト海と黒海と地中海まで広がっている巨大な語族を指します(Robbeets and Savelyev2020)。ユハ・ヤンフネン(Juha Janhunen)は、トランスユーラシア語族の故地は現在のモンゴル東部とマンチュリア南部と朝鮮半島に位置している、と提案しました(Janhunen and Karttunen2010)。マーティン・ロベーツ(Martine Robbeets)も、トランスユーラシア語族の拡散の背後にある原動力として、レンフルーやベルウッドなどの農耕拡散仮説を支持しています(Robbeets2020)。ロベーツは、大日本語族が遼東半島で話されており、朝鮮半島を経由して稲作農耕の拡大とともに日本列島へと伝えられた、と主張しました(Robbeets2020)。

 著者【宮本一夫、以下、著者で統一します】は対照的に、日本語祖語が朝鮮半島南部から稲作農耕の拡大とともに日本列島へと伝えられた一方で、遼東半島から朝鮮半島への日本語祖語の拡大は稲作農耕の拡大と関係していなかった、と提案しました(Miyamoto2016、Miyamoto2019b)。李濤(Tao Li)も、トランスユーラシア語族祖語、とくにツングース語族祖語の拡散の背後にある原動力としての農耕拡散仮説を批判しました。李濤は、トランスユーラシア語族祖語の拡散における農耕拡散仮説について、考古学的証拠には不確実性と限界がある、と主張しました(Li2020)。李濤も、ロシア極東への雑穀農耕の拡大とツングース語族祖語との間のつながりを示唆しました。(Li et al., 2020、Hudson and Robbeets2020)。

 最近、マーク・ハドソン(Mark J. Hudson)とマーティン・ロベーツは、遼東地区から朝鮮半島への大朝鮮語族祖語の拡大は、朝鮮半島中期新石器時代の紀元前3500年頃における雑穀農耕の拡大と関連していた、と提案しました(Hudson and Robbeets2020)。しかし、金壮錫(Jangsuk Kim)と朴辰浩(Jinho Park)は、雑穀の導入は新石器時代朝鮮半島の櫛目文(Chulmun)物質文化に影響を及ぼさなかったようであり、新石器時代における中国北東部(遼西および遼東地区)と朝鮮半島の土器様式は明確に異なっている、と述べました(Kim and Park2020)。

 著者も、先史時代のアジア北東部には農耕発展の4段階があった、と仮定しました(Miyamoto2014、Miyamoto2015a、宮本., 2017、Miyamoto2019a)。第1段階は、紀元前3300年頃となる、マンチュリア南部から朝鮮半島およびロシア極東への雑穀農耕の拡大を含んでいました。第2段階は、紀元前2400年頃となる山東半島から遼東半島への水田稲作の拡大でした。第3段階は、石庖丁と平型凸刃石斧(flat plano-convex stone adze)を含む新たな磨製石器と関連する、灌漑農耕の拡大でした。第3段階には、湿田(イネ)と乾田(雑穀やコムギなど)で構成される第三の農耕体系の導入がありました。この灌漑農耕も、山東省から遼東半島を通って朝鮮半島へと紀元前1500年頃に広がりました。最後に、第4段階は、日本の九州北部への灌漑農耕の拡大を含んでおり、紀元前9世紀頃に始まります(宮本., 2018)。アジア北東部における農耕拡大の4段階の発展過程に関するこの理論は、一部の農耕民が気候状態の寒冷化によりもたらされた人口圧に起因して、穀物を栽培するために、狩猟採集民社会の土地に移動し、穀物を栽培した、という理由に基づいています。

 本論文で著者は、考古学的証拠に基づいてアジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大を再検証し、とくに土器様式の系譜と製作技術に焦点を当てます。農耕の拡大は、朝鮮半島南部から九州北部への農耕の拡大を除いて、必ずしも日本語祖語と朝鮮語祖語の拡散と関連していなかった、と著者は提案します(Miyamoto2016、Miyamoto2019b)。


●日琉語族と朝鮮語の研究史

 日琉語族と朝鮮語はアルタイ諸語に分類される、とみなす言語学者もいます(Ruhlen1987)。編年体系では、これらは比較的浅い言語であり、日琉語族と朝鮮語は大ツングース語族から分岐した、というわけです(Unger2009)。朝鮮語と日本語との間の背後にある言語学的相互作用は、日琉語族(日琉語族祖語)がまだ朝鮮半島の一部で話されている時に起きました(Janhunen2005)。高句麗の地名データからは、日琉語族と同語族の言語が朝鮮半島で話されていた、と示唆されます。さらに、紀元後8世紀以前の地名に含まれる日本語起源の地名は通常、鴨緑江(Yalu River)の中央部および北部地域、とくに高句麗地区に分布しています(Endo2021)。したがって、日琉語族は元々朝鮮半島で用いられていた、と仮定されていますが、朝鮮半島南端の人々の一部だけが日琉語族を話していた、と示唆した学者もいます。

 李濤と長谷川寿一は、日本語の59の言語変種から得られた語彙データに基づくベイズ系統分析を用いて、日本語祖語の祖語について2182年前頃と推定しました(Lee and Hasegawa2011)。日本語は朝鮮半島で話されていたので、日本語は朝鮮半島の無文文化と日本列島の弥生文化の両方で話されていた、と考えられています(Whitman2011)。さらに、文献学者は、日本語が人口拡散を通じて弥生時代最初期において朝鮮半島から日本列島へと拡大した、と考えています(Whitman2011、Vovin2013、Unger2014、Hudson et al., 2020)。したがって恐らく、日本語は紀元前9世紀頃から紀元後3世紀頃までの弥生時代に、日本列島で話されていたのでしょう。

 マーシャル・アンガー(Marshall Unger)は、日本語祖語と朝鮮語祖語もその1系統である大ツングース語族の故地が山東省から遼寧省に至る渤海湾周辺地域だったならば、ツングース語族祖語話者が北方と北東、最終的にはシベリア東部へと移動した一方で、朝鮮語祖語話者は分岐してマンチュリア南部へと移動したことを意味する、と提案しました。マーシャル・アンガーは、日本語祖語話者が水田稲作の知識を朝鮮半島へともたらし、朝鮮語話者は朝鮮半島へと移動し、日本語祖語話者を追い払った、とも結論づけました(Unger2014)。朝鮮語は細形短剣(朝鮮式短剣)文化の出現とともに、遼寧省から朝鮮半島へと広がった、と考えられています(Whitman2011)。

 マーティン・ロベーツなどは、雑穀農耕の拡大とともに、大日本語祖語が遼東半島から朝鮮半島に至る地域で紀元前3500~紀元前1500年頃に話されていた、と仮定します。日本語祖語は半島日本語(Para-Japonic)から分岐し、九州へと拡大して紀元前900年頃に農耕を伴う弥生文化になりました(Robbeets et al., 2020)。マーティン・ロベーツの解釈は、日本語と朝鮮語の祖先話者が紀元前四千年紀に渤海沿岸と遼東半島にいた可能性を示唆しています。マーティン・ロベーツはベイズ推定を用いて、日本語と朝鮮語が紀元前1847年頃に分岐した、と示唆しています(Robbeets, and Bouckaert., 2018)。朝鮮半島南部の新羅は、その言語が中世および現在の朝鮮語の直接の祖型で、全ての先行言語を遅くとも紀元後7世紀までには置換しました。

 日本語祖語と朝鮮語祖語に関する言語学的研究によると恐らく、日本語祖語は朝鮮半島で話されており、朝鮮語祖語はその後でマンチュリア南部においてトランスユーラシア語族から分岐し、朝鮮半島へと拡大したのでしょう。日本語祖語は恐らく、稲作農耕とともに弥生時代に日本列島へと拡大したものの、日本語中央方言(Central Japanese)が紀元後4世紀~紀元後7世紀となる古墳時代と飛鳥時代に古朝鮮語(恐らくは百済語)から強い影響を受けた、と示唆する言語理論が存在します(Unger2009)。これは、弥生文化の開始が朝鮮半島南部の無文文化に強い影響を受け、この地域からの一部の移民が九州北部へと移動した、と考えられているからです(Miyamoto2014、Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a、Hudson et al., 2020)。日本語祖語が弥生文化の開始期に移民とともに朝鮮半島南部から九州北部へと広がったならば、日本語祖語は無文文化の人々により話されていた、と推測できます。


●考古学的文脈における言語の拡散に関する問題

 九州北部の「縄文人」と「弥生人」の形質人類学的差異はひじょうに明確で、九州北部の「弥生人」は大陸部の(無文文化)の人々と身体が類似しています(中橋., 1989、Hudson et al., 2020)。朝鮮半島南部からの移民が九州北部において先住の「縄文人」と混合し、その結果生まれた「弥生人」は、次第にこの地域で優勢になりました(田中・小澤., 2001)。紀元前9世紀~紀元前6世紀となる弥生文化の早期には、これらの人々は灌漑農耕の一形態である水田で稲を栽培していました。これらの人々は、新たな石庖丁などの新たな磨製農耕石器、支石墓などの埋葬慣行、朝鮮半島南部の無文文化に属する壺様式である、壺(necked jar)や祖型板付壺土器など様々な土器様式を発展させました。さらに、環状集落と木棺埋葬が夜臼式2期に出現しました。

 九州北部における縄文文化と弥生文化の移行期は3段階に区分でき、縄文時代晩期黒川期から、板付式土器の出現をもたらした弥生時代早期板付1式までとなります(表1)。弥生時代早期の夜臼式1期となる弥生文化の出現は、宇木汲田貝塚で発見された炭化したイネ粒に基づいて、紀元前9世紀~紀元前8世紀頃となる較正年代で紀元前842~806年頃(4点の標本の中央値データ)と年代測定されています(宮本., 2018)。これらの段階は、朝鮮半島南部の無文文化からの移民と、九州北部の「縄文人」との間の遺伝的混合過程を表している、と考えられています(田中・小澤., 2001)。以下は本論文の表1です。
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 縄文時代黒川期の紀元前13世紀~紀元前11世紀頃の寒冷化の最初の期間(宮本., 2017)に、朝鮮半島南部と九州北部との間に短期間の接触があります。田中良之は、朝鮮半島のコンヨル(Konyol)式土器を模倣した黒川式土器の縁の下の点の並びや、貫川遺跡で見つかった石庖丁などの考古学的証拠に基づいて、一部の移民が黒川期に朝鮮半島南部から九州北部へと到来した、と提案しました(田中., 1991)。これは、紀元前1200年頃のより寒冷な気候条件とも関連しています(宮本., 2017)。土器の走査電子顕微鏡(Scanning Electron Microscope、略してSEM)ケイ素分析から得られた証拠により示唆されているように、イネはこれ以前ではなくとも、恐らくはこの時点までに九州に広がっていました。

 黒川式縄文土器は、瀬戸内東部(内海地域もしくは近畿)地域に起源があり、九州北部へと次第に西方へ広がった(縁帯無文土器文化とは異なる)帯文深鉢(banded deep bowl)の拡大を通じてしだいに夜臼式土器へと変わっていき、縄文時代晩期の黒式土器を弥生時代早期の夜臼式土器に置換しました。夜臼式土器は2種類の連続で構成されます。それは、縄文土器様式に基づく深鉢と、無文文化に基づく壺です(Miyamoto2016、宮本., 2017)。夜臼式1期(紀元前9世紀~紀元前8世紀)と夜臼式2期(紀元前7世紀~紀元前6世紀)には、無文文化が朝鮮半島の異なる2ヶ所から拡大しました。夜臼式1期には、南江(Namgang River)から唐津と糸島平野まで広がり、夜臼式2期には、ナグトンガン川(Nagtonggang River)から福岡平野にまで広がりました(Miyamoto2016、Miyamoto2019a)。夜臼式2期は、その最初の場所である福岡平野の板付式土器(弥生時代前期)の発達に先行します。したがって、紀元前6世紀~紀元前5世紀頃には、無文土器に影響を受けた板付式壺が、夜臼式期の縄文土器の深鉢を置換しました。以下では、「移行」期は夜臼式1期および2期を指します。夜臼式は水田稲作の存在のため弥生時代と見なされていますが、完全にそろった弥生文化は板付1式まで固定されませんでした。九州北部における縄文時代と弥生時代早期との間の移行期は、推定300年間です(宮本., 2017)。

 土器の様式と系譜だけではなく、土器製作技術も、弥生時代と縄文時代では異なります。夜臼式1期無文土器文化の影響を通じて壺が追加されましたが、縄文土器の深鉢が縄文時代と弥生時代の移行期には依然として使われていました。板付式壺は弥生時代前期の板付式1期に確立しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。この時点で、土器製作技術は全体的に、縄文時代から変化しました(家根., 1984、家根., 1997、三阪., 2014)。縄文土器に用いられた比較的薄い粘土の平塊(slab)とは対照的に、弥生土器の製作には比較的に広い粘土の平塊が用いられました(図1)。弥生土器の平塊は、その前の平塊の外面に付着されますが、縄文土器の平塊は土器の内面に重ねて付着されました。弥生土器の表面は、木片の端を用いて滑らかにされていましたが、縄文時代晩期にはこの作業を行なうために貝殻が用いられました(図1)。弥生土器は地上にてさほど精巧ではない粘土窯で焼成されましたが、縄文土器は野外で焼成されました(小林他., 2000)。弥生土器の新たな土器技術のこの4点の特性は、縄文土器と弥生土器との間に明確に存在しました。弥生土器の新たな土器技術のこの4点の特性は、無文土器から採用されました。土器製作の新技術が、無文文化により最初に影響を受けた夜臼式ではなく、縄文時代と弥生時代との間の移行期後の板付式で完全に確立されたのは、興味深いことです。縄文時代と弥生時代との間の移行期後の板付式土器は、最終的には新たな土器製作技術の4特性から構成されました。以下は本論文の図1です。
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 縄文時代から弥生時代への移行では、土器様式を超えたさせなる文化的変化も明らかです(表1)。水田や新様式の土器や新形態の磨製石器が、黒川期後の夜臼1期の福岡平野で見つかっています(Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a、Fujio2021)。その後、環濠集落が夜臼式2期に確立しました。木棺のような新たな埋葬習慣が、夜臼式2期と板付式1期の頃に始まりました(Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a)。文化的特性は、夜臼式1期と夜臼式2期の期間に経時的に追加されました。支石墓は夜臼式1期には確立していませんでしたが、その分布は九州北西部を含む唐津と糸島平野に集中していました。しかし、木棺が朝鮮半島から福岡平野にもたらされ、次に夜臼式2期に福岡平野から他地域へと広がりました。副葬品として木棺には磨製石器短剣が伴いました。支石墓と木棺との間の導入と分布の時期の違いは、朝鮮半島での磨製石器短剣の種類による分布地域の違いとともに、朝鮮半島からの文化の二重起源を示唆します(Miyamoto2016、Miyamoto2019a)。したがって、弥生文化は無文文化の二重拡散で確立しました(表1)。板付1式の時までに、灌漑農耕社会が形成されました(宮本., 2017、Fujio2021)。

 弥生文化の確立とともに、板付式土器が生まれたことは、日本列島における独立した農耕社会の発展を意味しました。九州北部における弥生文化の新たな農耕民は瀬戸内海と近畿地方に移動し、そこでは新たな農耕民と先住の「縄文人」が再び混合しました。考古学的証拠は、土地の無文文化と対応する日本語祖語文化が朝鮮半島南部から九州北部へとどのように広がったのか、という問題への答えを提供します。前節では、黒川期に九州北部にイネがどのように広がったのか、水田を伴う稲作は夜臼式期にどのように急増へと広がったのか、説明されました。無文文化に影響を受けた支石墓や磨製石器や土器様式を含む文化的変化が、夜臼式1期に出現しました。したがって、定義上、弥生文化は紀元前9世紀~紀元前8世紀となる夜臼式1期に始まった、と言うことができます。

 したがって、この知見から、日本語祖語は夜臼式1期に無文文化からの移民とともに九州北部へと広がった、と言うことができますか?無文文化に影響を受けた壺など新たな土器の種類は、九州北部において夜臼式1期に出現しました。しかし、夜臼式1期における多数の新たな種類の壺や他の縄文様式の土器壺は、縄文土器の製作技術を用いて製作されました。無文土器文化と同じ土器製作技術を用いて製作された、壺や板付式壺を含めて弥生式土器は、板付1式期に出現し、その年代は紀元前6世紀~紀元前5世紀です(宮本., 2018)。著者の見解は、日本語祖語がこの時点で九州北部において「縄文語」を置換した、というものです。

 「縄文人」は夜臼式1期に、栽培穀物保存のための壺と調理用の縄文式深鉢を製作した少数の無文文化移民とともに、九州北部に移住しました(田中・小澤., 2001)。こうした人々は、縄文土器製作技術を用いて、農耕生活のために無文文化の壺を模倣した、と考えられています。しかし、板付1式期には無文文化の土器様式と製作技術が変化しました著者は、「縄文人」が九州北部で「縄文語」を置換した日本語祖語を介して、新たな土器様式と製作技術を教えられたのではないか、と提案します。その後、弥生時代前期には、新たな板付式土器様式と製作技術が福岡平野を中心とする九州北部から、九州北西部と瀬戸内海地域と近畿地域を含む西日本にまで広がりました。この場合、一般的には「縄文人」の子孫とされる九州北西部の「弥生人」でさえ、板付式土器がそうであるように、同じ弥生土器を製作できた、と注目するのは興味深いことです。

 形質人類学的分析は、九州北西部の「弥生人」に属する人骨を、「縄文人」と同じと同定してきました(中橋., 1989)。最近のDNA研究では、紀元後1~紀元後2世紀の弥生時代末と年代測定された九州北西部の長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体では、「縄文人」と「渡来系弥生人」両方のゲノムを有している、と示されています(篠田他., 2019、関連記事)。しかし、別のDNA研究では、九州北西部の佐賀県唐津市大友遺跡の初期「弥生人」は依然として「縄文人」だった、と示唆されています(神澤他., 2021、関連記事)。九州北西部の初期「弥生人」は遺伝的に無文文化人と異なりますが、無文文化の土器製作技術に基づいて弥生土器を製作できました。これは、九州北西部の初期「弥生人」が、日本語祖語を介して、弥生土器の製作技術について学ぶことができたからです。


●日本語祖語の拡散理論についての考古学的説明

 日本語祖語が弥生文化の開始において九州北部へと拡大し、板付1式期に「縄文語」を完全に置換した、との仮説が正しければ、問わねばならない問題は、どのようにどこから、無文土器文化に相当する日本語祖語文化が朝鮮半島に入ったのか、ということです。この問題を解決するため、初期農耕の拡大とは無関係な文化的接触を説明する、土器製作技術への焦点が選択されます。

 弥生土器と朝鮮半島南部の無文土器との間には、おもに以下の4点の特性の観点で、同じ土器製作技術が存在しました。それは、(a)広い粘土平塊、(b)その前の平塊の外面に付着する平塊、(c)木片の端で土器表面を滑らかにすること、(d)地面であまり精巧ではない粘土窯での焼成です。朝鮮半島南部の無文土器文化は、初期と前期と後期の3段階に区分されます(表2)。初期は、縁帯(band-rim)土器により特徴づけられ、前期はガラクドン(Garakdon)様式とコンヨル様式、つまりヘウナムリ(Heunamri)式と駅三洞(Yeoksamdong)式の土器により示され、後期はヒュアムリ(Hyuamri)式と松菊里(Songgunni)式で構成されます。以下は本論文の表2です。
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 三阪一徳は、朝鮮半島の新石器時代土器と無文土器との間の土器製作技術を分析しました(Misaka2012)。その分析によると、土器製作技術における4点の特性は、初期から後期まで無文土器文化を通じて見られました(図2)。対照的に、新石器時代土器の製作技術にはそうした4点の特性がありません。新石器時代土器と無文土器との間のそうした違いは、縄文土器と弥生土器との間に存在したものと同じです。この場合、初期の土器である縁帯土器は、系譜的に他地域の土器から広がったに違いありません。土器のSEMケイ素分析から、朝鮮半島における稲作は無文文化土器初期の縁帯土器期に始まった、と示唆されます(Son et al., 2010)。金壮錫と朴辰浩は、稲作農耕民の移住は中国北東部から朝鮮半島への言語拡散をもたらした、と示唆しました(Kim, and Park., 2020)。したがって、無文土器の製作様式がどのようには最初に始まったのか、注意を払う必要があります。以下は本論文の図2です。
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 朝鮮半島南部における最初の無文土器は、紀元前1500年頃以降の最初期無文土器文化における縁帯土器です。縁帯土器は、朝鮮半島北部~中央部のゴングウィリ(Gonggwiri)土器と関連している、と考えられており(Ahn J2010、Bae2010)、それは、土器の模様と他の側面では家屋計画の類似性のためです。したがって、ゴングウィリ式土器は、最初期の無文土器の縁帯土器と関連している、と考えられています。無文文化は朝鮮半島南部に起源があるものの(Miyamoto2016、宮本., 2017)、比較的広い粘土平塊、外側から付着される粘土平塊、木片の端で滑らかにされることや粗放的な粘土窯での焼成など、無文土器の土器製作技術の起源は新石器時代櫛目文土器では確認されませんでした。

 朝鮮半島北西部では、マンチュリアの遼東地区における偏堡文化の影響(図3-3)が、ナムケヨン(Namkyeong)の櫛目文土器と結びつき、無文文化におけるパエングニ(Paengni)式土器を形成しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。偏堡文化は、前期と中期と後期の3段階に区分されます(Chen and Chen1992)。偏堡文化の初期(図3-1~3)は、土器編年によると、遼西地区の東側に分布しています。しかし、シャオズフシャン(Shaozhushan)文化の中期層の呉家村(Wujiacun)期は、偏堡文化の分布の周辺に位置する遼東地区に分布します(図3-4)。偏堡文化の中期および後期は呉家村期文化を置換し、遼東地区と朝鮮半島北西部に広がりました(図3-5)。偏堡文化は朝鮮半島北西部の櫛目文土器に影響を与え、櫛目文土器の系列に壺の新様式を加えました。以下は本論文の図3です。
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 偏堡文化により影響を受けた壺(図3-3)は、朝鮮半島西部における新石器時代末期の櫛目文土器ナムケヨン1および2式で構成されます。この事象は、紀元前2400年頃のアジア北東部における農耕化の第二段階とも一致しました(図4)。対照的に、朝鮮半島北部~中央部では、偏堡文化の影響(図3-1および2)は、鴨緑江中流と上流のシムグウィリ(Simgwiri)遺跡の1号住居で、ゴングウィリ式土器を生み出しました(図4)。このゴングウィリ式土器は、朝鮮半島南部では無文土器の最初期の縁帯土器へと発展しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。以下は本論文の図4です。
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 日本人の学者により1941年に発掘された、遼東半島の上馬石(Shangmashi)貝塚で発見された土器の製作技術に焦点が当てられました(Miyamoto2015b)。分析結果は、以下のような土器製作技術の4点の特性の存在を示します。それは、(a)比較的広い粘土平塊を用いての平塊製作、(b)内面ではなく外面への粘土平塊の付着、(c)木端で滑らかにすること、(d)地面でのあまり精巧ではない粘土窯での焼成です。土器製作技術のこれらの4点の特徴が、新石器時代から前期鉄器時代までの編年体系で偏堡文化期にのみ限られているのは、たいへん興味深いことです(表3)。木端で粘土表面を滑らかにすることは、偏堡文化ではひじょうに多く見られます。偏堡文化における、木端で粘土表面を滑らかにすることと、あまり精巧ではない粘土窯を用いての焼成技術も、上馬石遺跡を除いて他の遺跡でも認められます。これらの結果から、偏堡文化はゴングウィリ式土器を介して朝鮮半島南部の無文土器文化における新たな土器製作技術の出現とつながっている、と示唆されます(図4)。以下は本論文の表3です。
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 朝鮮半島の無文土器は、隣接地域の土器様式が、偏堡文化によるこれらの地域への拡散過程と影響を介して、偏堡文化の土器様式へと変化した時に確立しました。したがって、偏堡文化土器で用いられた新たな土器製作技術は、ゴングウィリ式土器への偏堡文化の影響を介して無文土器へともたらされました。このように、土器製作技術の観点で同じ4点の特性を有する土器様式が、朝鮮半島北部のゴングウィリ式土器を介して、遼東半島の偏堡文化から朝鮮半島南部の無文文化へと広がりました。そこから、朝鮮半島南部の無文文化と同じ4点の特性を有するこの土器様式が、西日本の弥生文化に広がりました。これら4点の特性を有する同じ系譜の土器様式の拡大は、言語、つまり日本語祖語を媒介しての同じ情報の広がりを示唆します(図5-1)。以下は本論文の図5です。
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 しかし、偏堡文化と縁帯土器との間のこれら土器様式の変化は、約1000年の長い時間を要し、無文土器文化の始まりは朝鮮半島南部で紀元前1500年頃でした。この頃に、磨製石器を伴う稲作など灌漑農耕が山東半島から遼東半島経由で朝鮮半島南部へと広がりました。したがって、朝鮮半島南部における無文土器文化の確立は、二重の状況で構成されました。それは、アジア北東部における農耕化の第2段階の偏堡文化などを基盤に形成されたものの、アジア北東部農耕化の第3段階における生計活動の変化により確立しました。

 日琉語族はどこに起源があったのでしょうか?日琉語族は稲作農耕の影響により彩られていませんでした。日琉語族にはイネに特化した語彙が含まれていなかった、と考えられています(Whitman2011)。日琉語族にイネに特化した語彙がなかった理由は、日琉語族の起源が恐らくは遼西東部にあったからです。雑穀農耕を伴う初期偏堡文化は、おもに遼西地区東部に分布しています(図3-4)。土器製作技術の分析から、無文土器は偏堡文化に由来した、と示唆されるので(Miyamoto2016)、日琉語族も偏堡文化に起源があった、と提案されます(図5-1)。

 無文文化はその後、紀元前1500年頃に、山東半島から遼東半島を経た稲作農耕社会により影響を受けましたが、無文文化集団は日本語祖語を話し続けた、と考えられます。これは、アジア北東部における農耕化の第3段階でのことです。日琉語族が同じ頃にアジア北東部における農耕化の第4段階での稲作拡大と同じ頃に無文文化経由で九州北部へと広がったならば、縄文時代と弥生時代との間の移行は、伝統的な「縄文語」と日琉語族との間の言語における移行と同じである、と提案できます。このように、少数の無文文化の人々が九州北部へと移住し、「縄文人」と混合した場合、日琉語族も九州北部へと拡大した、と考えられます。さらに、九州北部における在来の「縄文語」と日琉語族との間の移行は、夜臼式土器1期から板付1式土器期への土器様式における移行と同じくらいの時間を要した、と推測されます。「縄文語」は、上述のように人々が無文文化集団により話されていた日琉語族で新たな土器技術を学んだので、同じ過程を経て日琉語族により置換された、とも考えられます。


●朝鮮語祖語の拡散の論についての考古学的説明

 上馬石貝塚遺跡の分析(Miyamoto2015b)も、土器様式が紀元前千年紀半ばに変化したことを示唆します。紀元前6世紀~紀元前5世紀となる尹家村(Yinjiacun)文化青銅器時代の長首壺(Long-necked pot)と粘土縁壺(clay-rimmed jar)は、遼西地域から遼東地域にかけて分布していました。この新たな土器は遼東半島から朝鮮半島南部へと到来し、初期鉄器時代の粘土帯土器へと発展して、遼東半島の人々が朝鮮半島へと南方へ移住したことを示します(Miyamoto2016、宮本., 2017)。

 移民が遼東半島から朝鮮半島へと移住し、粘土帯土器文化を確立した理由は、より寒冷な気候条件だったからではありませんでした。むしろ、好まれる理論は、北京地域に位置する燕国が燕山(Yanshan)山脈を越えて東方へ侵入したので、当時の社会における社会的および政治的要因だった、というものです(宮本., 2017、宮本., 2020)。燕は遼西地区東部の首長と政治的に接触し、紀元前6世紀と紀元前5世紀には燕国の覇権を押し付けました。尹家村文化第2期における遼西東部から遼東半島への人々の東方への移動は、遼東半島から朝鮮半島への別の移住の契機となりました。この過程で、尹家村文化第2期は朝鮮半島へと広がり、紀元前5世紀頃となる青銅製細形短剣を含む、粘土帯土器文化の確立につながりました。この時点で、農耕集落は考古学的記録から消えました(Ahn2010)。遼西東部に起源があるこの粘土帯土器文化は、明確には水田稲作とは関連していないものの、雑穀およびコムギ農耕と関連しています。

 一方、マーク・ハドソンとマーティン・ロベーツは、朝鮮語大語族祖語は日本語祖語の前に遼東半島から朝鮮半島へ雑穀農耕とともに紀元前3500年頃に拡大した、と主張しました(Hudson, and Robbeets., 2020)。しかし、櫛目文土器と農耕用石器を有する雑穀農耕は、紀元前3500年頃に盛上文(Yunggimun)土器文化に代わって、朝鮮半島の北西部と中西部から南部へと広がりました(Miyamoto2014、宮本., 2017)。農耕用石器を伴う雑穀農耕は、紀元前五千年紀に遼西から遼東半島および朝鮮半島西部へと広がりました(Li et al., 2020)。さらに、土器様式は小珠山(Xiaozhushan)文化火葬土器を有する遼東半島と櫛目文土器を有する朝鮮半島との間で明確に異なります(Kim, and Park., 2020)。したがって、遼東半島から朝鮮半島への言語拡散の理論が、紀元前四千年紀における朝鮮半島南部への農耕用石器を伴う櫛目文土器の拡大と考古学的に関連していた、と考えるのは困難です。

 朝鮮語がこの移住とともに朝鮮半島へと広がり、細形短剣文化を形成した、と考えられています(Whitman2011)。遼西東部地区から朝鮮半島へのこの文化的影響は、中国の戦国時代における燕国によりもたらされた継続的な領土の脅威のため逃げてきた人々を伴う、朝鮮語祖語の拡大を示唆します(宮本., 2017、宮本., 2020)。この文化は、マンチュリアの遼東地区の涼泉(Liangquan)文化もしくは尹家村文化第2期に起源があり、拡大しました。初期鉄器時代は朝鮮語の広がりと関連しているので、朝鮮語の起源地も遼東地区東部にあった、と仮定されます(図5-2)。粘土帯土器文化は、三国時代へと直接的に変わっていく先三国時代文化期に、類似の形態へと発展しました。三国時代の新羅の言語は、確実に朝鮮語です(Robbeets2020)。したがって、朝鮮語祖語は粘土帯土器文化期に話されていました。粘土帯土器文化は、系譜的に無文文化とつながりませんでした。

 このように、日本語祖語は粘土帯土器文化初期に朝鮮語祖語により置換された、と推測されます。日本語祖語は朝鮮半島で話されており、弥生文化の開始期に日本列島へと広がりました。一つの言語の別の言語への置換は、朝鮮語祖語が中国北東部から朝鮮半島へと朝鮮前期鉄器時代に広がった、というマーシャル・アンガーの見解と一致します(Unger2014)。一方、金壮錫と朴辰浩は、朝鮮語祖語が細形短剣とともに入ってきた、というジョン・ホイットマン(John Whitman)の提案(Whitman2011)に疑問を呈しています(Kim, and Park., 2020)。遼寧式短剣を有する中国北東部の遼西および遼東の粘土帯土器文化は、細形短剣が独自に発展した朝鮮半島へ拡大しました(宮本., 2020)。その後、粘土帯土器文化は、中国の燕国と先三国時代となる漢代の楽浪(Lelang)郡より影響受けて、鉄器を製作しました。したがって、粘土帯土器文化の人々が三国の直接的な祖先で、朝鮮語祖語を話していた、との仮定が合理的です


●まとめ

 言語学的研究では、日本語祖語と朝鮮語祖語がマンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分岐した、と示唆されています(Unger2014、Robbeets et al., 2020)。日本語祖語はまずマンチュリア南部から朝鮮半島へと、次に弥生文化の開始期に九州北部へと広がりました。朝鮮語祖語はその後でマンチュリア南部から朝鮮半島へと広がり、次第に日本語祖語を追い払いました。

 偏堡文化と無文文化と弥生文化の土器は、さまざまな年代にわたって相互に系譜的に関連している、と提案されており、とくに、以下の4点の特性を示す、同じ土器製作技術があります。それは、広い粘土平塊、その前の平塊の外面に付着させる平塊、木片の端で土器表面を滑らかにすること、地面でのあまり精巧ではない粘土窯での焼成です。これらの同じ土器製作技術は、言語を介して継承された、と考えられています。これが、偏堡文化と無文文化と弥生文化の系譜系列が日本語祖語の拡大を示唆している理由です。したがって、偏堡文化の日本語祖語は紀元前2700年頃の遼西地区東部もしくはマンチュリア南部の遼河流域に起源があり、紀元前1500年頃に朝鮮半島北部のゴングウィリ式土器を介して朝鮮半島南部の無文文化へと広がりました(図5-1)。

 日本語祖語は灌漑稲作農耕の拡大とともに紀元前9世紀に九州北部に到達し、紀元前6世紀~紀元前5世紀の九州北部の板付式土器期に「縄文語」を完全に置換しました。過程として、この言語置換は約300年間にわたって起きました。この場合、人々はその遺伝的構成の観点では必ずしも変化しませんでした。板付式土器を伴う日本語祖語話者は福岡平野から到来して西日本へと移住し、西日本では弥生時代前期に日本語がしだいに在来の「縄文語」を置換しました(図5-1)。紀元前3世紀頃に始まる弥生時代中期の跡には、弥生文化は東日本に依然として存在していた縄文土器伝統とは急速に異なっていきました。それにも関わらず、日本語祖語は紀元後2世紀~紀元後3世紀となる弥生時代後期から古墳時代の開始までに、これらの地域で在来の「縄文語」をじょじょに置換していった、と考えられています。

 紀元前6世紀と紀元前5世紀に、中国の東周時代(春秋時代)の燕国は、燕山山脈を越えてその領域を拡大し、遼西地区において首長に政治的に影響を及ぼしました。この時から、尹家村文化第2期の移民が紀元前5世紀に遼西東部から遼東を経て朝鮮半島へと向かい、そこで粘土帯土器を確立しました。粘土帯土器自体は、遼東半島の紀元前二千年紀の双砣子(Shuangtuozi)文化期の第2および第3段階に始まりました。遼西東部から朝鮮半島南部への粘土帯土器の広がりは、朝鮮語祖語の経路を示唆します(図5-2)。

 日本語祖語と朝鮮語祖語両方の故地は考古学的証拠に基づくと同じで、両者は近い語族です。しかし、アジア北東部における両言語間の拡散の時間的違いは約1000年で、両言語の広がりは、九州北部の弥生時代開始期におけるアジア北東部の農耕の4番目の拡大を除いて、農耕の人口拡散とは無関係でした。考古学的説明に基づく日本語祖語と朝鮮語祖語のこの拡散仮説は、日本語祖語と朝鮮語祖語がマンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分岐した、という言語学的仮説(Unger2014、Robbeets et al., 2020)を必ずしも妨げません。むしろ、拡散仮説は言語学的仮説を支持します。


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https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_7.html
6:777 :

2023/06/11 (Sun) 09:53:26

雑記帳
2023年06月11日
日本列島の人類史に関する問題の整理
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_11.html

 最近、日本列島における4万年以上前の人類の存在の可能性や、日本語の起源などについて考えることがあったので、一度おもに古代ゲノム研究に基づいて関連する情報をまとめるとともに、遺伝学に基づく人類の進化や拡散に関する通俗的な見解について、普段から考えていることも整理します。最近の当ブログの記事は、論文を訳して時に私見も少し付け加えるだけで終わることが多く、自分なりに一度整理しないと、全体像をよく把握できないままになる、と考えたからです。言い忘れたことや欠落している視点は多々あるでしょうが、とりあえず現時点の見解をまとめます。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)との関係や、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)についてなど、他にも自分なりに情報をまとめて整理する必要のある問題が多いので、今後少しずつ進めていくつもりです。


●便宜的区分と古代ゲノム研究の通俗的解釈に関する問題

 分類・区分して程度の違いを見出す能力は現生人類でとりわけ発達しており(ネアンデルタール人やデニソワ人に現生人類と同等のそうした能力があった可能性も否定はできませんが)、鉄と銅の違いや鯛と河豚の違いや石材の違いなど、分類・区分は現生人類社会の基盤の一つになっています。重要なのは、そうした区分にどれだけの整合性・妥当性があるのか、ということだと思います。ただ結局のところ、時代や地理や文化や民族などの区分も含めて分類という行為は、現生人類の知的営みにおいてたいへん重要で実用的ではあるものの、あくまでも理解を助けるための手段という側面も多分にあります。現生人類の営みが多くの場合時空間的に連続していることを考えると、対象が現在であれ過去であれ、あくまでも便宜的措置であり、それを絶対視することなく、多くの前提・留保のもとに、ある程度割り切りつつも、慎重に区分してそれを使用していくしかないのでしょう。

 たとえばネットで検索すると、アイヌ民族・文化の成立は13世紀で、北海道の先住民は「縄文人(この記事では縄文文化関連集団という意味で用います)」であるとして、アイヌ文化・民族を縄文文化やその後継と考えられる続縄文文化や擦文文化およびその担い手の集団と明確に区別するような、通俗的見解が散見されます。これは便宜的な区分を絶対視してしまった見解で、現生人類にとって常に警戒すべき陥穽と言うべきでしょう。年表を見ると、アイヌ文化期は13世紀頃以降に始まる、とするものが多いようですが、これはあくまでも便宜的区分・名称であり、この頃に初めてアイヌ民族・文化が成立することを証明しているわけではありません。じっさい、考古学的文化に民族名を冠することは問題だとして、アイヌ文化ではなくニブタニ文化と呼ぶよう、提唱している研究者もいます(瀬川., 2019)。文化と民族の連続性と変容と断絶の評価は難しく、年表の字面だけ見て文化の断絶を想定するのは、論外だと思います。

 古代ゲノム研究の大衆的な受容にも問題があり、まず、古代ゲノム研究は統計的手法に依拠しており、「完全な証明」をできるわけではなく、あくまでも確率の問題ということです(放射性炭素年代測定法などの年代測定法も同様です)。この点を誤解している人はきわめて少ないかもしれませんが、A集団のゲノムはB集団関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)50%程度とC集団関連祖先系統50%程度でモデル化できる、というような知見を、B集団とC集団がA集団の祖先だと証明された、と認識している人は少なくないかもしれません。しかし、これはあくまでも、A集団のゲノムにおける祖先系統の割合が、BおよびC集団的な祖先系統により統計的に適切にモデル化できることを示しているだけで、B集団とC集団がA集団の直接的祖先であることを証明しているわけではありません。

 たとえば、現代日本人集団を現代朝鮮人関連祖先系統(91%)と縄文時代個体関連祖先系統(9%)の2方向混合としてモデル化できる、と示した研究(Wang CC et al., 2021)がありますが、もちろん、現代朝鮮人集団が現代日本人集団の祖先のはずはないので、現代朝鮮人集団のような遺伝的構成の集団が朝鮮半島には太古から存在し、現代日本人集団の主要な祖先になった、と考える人は少なくないかもしれません。その研究では、古代人集団を用いて、現代日本人集団は青銅器時代西遼河集団関連祖先系統(92%)と縄文時代個体関連祖先系統(8%)の2方向混合としてモデル化できる、とも推測されています。しかし、これは青銅器時代西遼河集団が現代日本人集団の直接的祖先であることを示しているのではなく、ある集団の直接的な祖先集団を見つけることが困難な古代ゲノム研究において、年代や文化や地理的分布(考古学的知見)も参照しつつ、代理となりそうな古代人集団で検証して、統計的に適切な結果を提示しているにすぎません。

 その意味で、古代ゲノム研究から特定の現代人集団の祖先集団を特定することは困難で、どれだけ近似値に近づけるかが問題となります(これは多くの学問に共通する問題かもしれませんが)。最近の研究(Robbeets et al., 2021)では、現代日本人集団は低い割合の縄文時代個体関連祖先系統と青銅器時代の高い割合の西遼河地域の夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体関連祖先系統の混合としてモデル化できる、と示されましたが(後述のように、この研究には批判もあります)、夏家店上層文化集団と縄文時代集団が現代日本人の直接的な祖先であることを証明しているわけではなく、それぞれの集団と遺伝的に類似した集団が現代日本人の直接的な祖先集団である可能性は高い、と示しているだけです。ただ、地理分布からして、「縄文人」集団が現代日本人の(影響は小さくとも)直接的な祖先集団である可能性は高そうです。古代ゲノム研究で示される特定の集団もしくは個体のゲノムにおける祖先系統とは、基本的に代理であることを踏まえねばならないでしょう。

 古代ゲノム研究で他に重要な問題となるのは、特定の文化や時代を表す集団が1個体で構成される場合も珍しくないことです。その1個体が特定の文化や時代の集団の遺伝的構成を適切に表している可能性はあるとしても、遺伝的多様性の高い集団ならば、それを適切に反映できませんし、他の地域もしくは集団から流入してきた外れ値個体であればなおさらです。この問題は古代ゲノム研究に今後ずっとついて回るでしょうから、とても無視できません。完新世の現生人類については、今後この問題をある程度回避できるかもしれませんが、ネアンデルタール人など非現生人類ホモ属では、ゲノム解析数の増加を完新世現生人類ほどにはとても期待できません。現生人類とネアンデルタール人の混合についても、非アフリカ系現代人集団の祖先と混合した集団が直接的に確認されているわけではなく、あくまでも代理の個体のうちどれが非アフリカ系現代人集団の祖先と混合したネアンデルタール人集団に近いのか、検証されているだけです(Mafessoni et al., 2023)。

 また上述の問題とも関わりますが、特定の文化や時代といった区分も便宜的なので、これを安易に個体もしくは集団の遺伝的構成と関連づけたり、特定の地域における人類集団の遺伝的連続性を前提としたりするのは危険です。この問題については、世界のいくつかの事例を以前に取り上げましたが(関連記事)、文化と遺伝というかDNAとの関連は多様で、遺伝的構成や片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)やY染色体ハプログループ(YHg)を、安易に特定の文化もしくは民族の分類と関連づけることは極めて危険です。これは、ネアンデルタール人が常染色体ゲノムでは現生人類よりもデニソワ人の方と明らかに近縁でありながら、mtDNAでもY染色体でもデニソワ人より現生人類の方と明らかに近縁であること(Petr et al., 2020)からも、強く示されています。

 種系統樹と遺伝子系統樹とは必ずしも一致しないので(Harris.,2016,第2章)、常染色体ゲノムの特定領域であれ、ミトコンドリアであれY染色体であれ、そのハプログループの比較で特定の集団(種、分類群)間の近縁関係を論じるのは危険です。たとえば、近縁なA・B・Cの3系統の分類群において、A系統がB系統およびC系統の共通祖先と分岐し、その後でB系統とC系統が分岐したとすると、B系統とC系統は相互に、A系統よりも形態が類似している、と予想されます。しかし、形態(もしくは表現型)の基盤となる遺伝子の系統樹が種系統樹と一致しない場合もありますから、B系統とC系統はどの形態(もしくは表現型)でもA系統とよりも相互に類似している、とは限りません。

 これと関連して、B系統においてある表現型と関連する遺伝子のあるゲノム領域において、遺伝的浮動もしくは何らかの選択により変異が急速に定着した場合、ある表現型ではB系統は近縁のC系統よりもA系統の方と類似している、ということもあり得ます。じっさい、チンパンジー属とゴリラ属とホモ属の系統関係において、種系統樹ではチンパンジー属とホモ属が近縁ですが、ニシローランドゴリラ(Gorilla gorilla gorilla)ではゲノム領域の約30%で、種系統樹と遺伝的近縁性とが一致しない、と推定されています(Scally et al., 2012)。つまり、この約30%のゲノム領域では、ホモ属(現代人)がチンパンジー属よりもゴリラ属の方と近縁か、チンパンジー属がホモ属よりもゴリラ属の方と近縁である、というわけです。

 この記事の主題に即して具体的に日本列島の事例を挙げると、先史時代の先島諸島です。先島諸島には縄文文化の影響が及ばなかった、と考えられており(水ノ江., 2022)、沖縄諸島が安定していた貝塚時代から農耕の開始やアジア東部大陸部の陶磁器など外来要素が突如出現し大きく変わったグスク時代に、これらの要素は先島諸島へと伝わり、奄美・沖縄諸島と先島諸島が初めて一つの文化圏になりました(高宮., 2014)。しかし先島諸島では、グスク時代のずっと前となる紀元前9~紀元前6世紀頃の個体において、遺伝的にほぼ完全に縄文時代個体と重なる複数の個体が確認されています(Robbeets et al., 2021)。考古資料には見えない言語など精神的文化の共有があったのか否か、遺伝的に大きく異なる他集団と共存していたのか否かなど、この事例が意味するところは現時点でよく分からず、日本列島においても文化もしくは民族とDNAとを安易に関連づけてはならない、と示しているように思います。


●4万年以上前

 日本列島では4万年前頃以降に遺跡が急増し(佐藤., 2013)、これ以降の人類の存在と、それが現生人類であることについては、ほぼ異論がないと思います。日本列島における4万年以上前(中期旧石器時代と前期旧石器時代と一般的には呼ばれています)の人類の存在で、2000年11月に発覚した旧石器捏造事件(関連記事)もあり、否定的な人が多いようにも思われます。そもそも、ヨーロッパ基準の前期→中期→後期(下部→中部→上部)という旧石器時代区分が、日本列島も含むアジア東部において適切に当てはまるのか、という問題もあるかもしれませんが、これについては私の知見があまりにも不足しているので、今回はこれ以上言及しません。

 捏造事件発覚後に、日本列島最古(127000~70000年前頃)と騒がれた(関連記事)島根県出雲市の砂原遺跡の石器については、そもそも石器なのか否か議論となっており(関連記事)、人類の痕跡を示している、との共通認識が考古学研究者の間で確立しているとはとても思えません。それ以外の4万年以上前かもしれない日本列島の遺跡は、岩手県遠野市の金取遺跡です。砂原遺跡の石器については、年代以前にそもそも石器なのか否か、議論になっているのに対して、金取遺跡の4万年以上前とされる石器については、石器であることを疑う見解はないようです(上峯., 2020)。したがって、日本列島に4万年以上前に人類は存在しなかった、と主張するならば、金取遺跡の4万年以上前とされる石器について、その年代が4万年前頃以降であることを証明しなければなりません。

 ただ、仮に4万年以上前に日本列島に人類が存在したとしても、おそらく世界でも有数の更新世遺跡の発掘密度を誇るだろう日本列島において、4万年以上前となる人類の痕跡がきわめて少なく、また砂原遺跡のように強く疑問が呈されている事例もあることは、仮にそれらが本当に人類の痕跡だったとしても、4万年前以降の日本列島の人類とは遺伝的にも文化的にも関連がないことを強く示唆します。仮に日本列島における4万年以上前の人類の存在を仮定するならば、中国で中期~後期更新世のデニソワ人かもしれないホモ属遺骸が複数発見されていることから(関連記事)、デニソワ人かもしれません。あるいは、絶滅したか現代人の主要な祖先ではないかもしれませんが、中国では10万年前頃の現生人類とされる遺骸が発見されているので、現生人類の可能性も考えられますが、その年代はずっと新しいのではないか、と議論になっています(関連記事)。


●後期旧石器時代

 ここでは、4万年前頃から縄文時代の直前までを指します。4万年前頃以降に日本列島に到来した人類集団については、そもそも後期旧石器時代の人類遺骸がほとんど発見されていないため、推測困難です。この時期で最古級となる遺跡が、長野県佐久市の香坂山です。香坂山遺跡では、較正年代で36800年前頃と、日本列島では最古の石刃石器群が発見されており、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、略してIUP)に位置づけられています(国武., 2021)。上述のようにDNA(遺伝的構成)と文化とを安易に結びつけてはいませんが、IUPは遺伝的にはユーラシア東部系集団との関連が指摘されています(Vallini et al., 2022)。

 もう少し具体的に見ていくと、4万~3万年前頃には、現在の北京付近からアムール川流域とモンゴルまで、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体で表される集団が存在していたようです(Mao et al., 2021)。これを仮に田園洞集団と呼ぶと、田園洞集団はアジア東部大陸部沿岸にまで広く分布していたようですから、日本列島に到来した可能性も充分考えられます。ただ、現代人には殆ど若しくは全く遺伝的影響を残していないようですから(Mao et al., 2021)、4万~3万年前頃に日本列島に到来した現生人類集団は、縄文時代集団や現代日本人集団とは遺伝的につながっていないかもしれません。

 日本列島で発見された旧石器時代の人類遺骸は、そもそも本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」で発見された更新世の人類遺骸が皆無に近いので、ほぼ琉球諸島に限られています。沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡では、旧石器時代の6個体のmtDNAが解析され、mtHgはM7aとB4とRに分類されていますが、琉球諸島現代人のゲノム解析から、旧石器時代琉球諸島の人類集団は、琉球諸島現代人の祖先ではなさそうだ、と推測されています(松波., 2020)。他にmtDNAが解析された更新世琉球諸島の人類遺骸としては、沖縄県島尻郡八重瀬町の港川フィッシャー遺跡で発見された2万年前頃の港川1号があり、そのmtHgはMの基底部近くに位置する、と推測されています(Mizuno et al., 2021)。この個体がその後の琉球諸島、さらには日本列島の人類集団と遺伝的につながっているのか否かは、mtHgからは判断できません。


●縄文時代

 縄文時代は、草創期(16500~11500年前頃)→早期(11500~7000年前頃)→前期(7000~5470年前頃)→中期(5470~4420年前頃)→後期(4420~3220年前頃)→晩期(3220~2350年前頃)と一般的に区分されています(山田., 2019)。縄文時代の開始を、土器が出現した16500年前頃とするのか、生態系・石器組成の変化や竪穴住居の定着などに基づいて13000~11000年前頃とするのか、議論がありますが(関連記事)、草創期を旧石器時代から縄文時代への移行期とする見解もあります(山田., 2019)。

 現時点で解析されている縄文文化関連個体のゲノムデータからは、縄文時代の人類集団は時空間的に広範囲にわたって、既知の現代人および古代人集団と比較して一まとまりを形成し、遺伝的には比較的均一と考えられます(Cooke et al., 2021)。これは、縄文文化がほぼ現在の日本国の領土に限定されており、他地域との相互作用は低調だった、とする考古学的知見と整合的です(水ノ江., 2022)。ただ、mtHgでは地域差が指摘されており(篠田.,2019,P165-170)、核ゲノムでも地域差が示唆されています(Cooke et al., 2021)。とくにmtHgの地域差は、「縄文人」集団の形成過程を解明するうえで、重要な手がかりになるかもしれません。

 このように、「縄文人」集団は既知の現代人および古代人集団と比較して遺伝的に特異な存在と言えるかもしれませんが、ユーラシア東部系集団の変異内に収まっていますし、上述の田園洞集団のように、後期更新世~初期完新世にかけては現生人類でも、現代人への遺伝的影響が小さいか、ほぼ絶滅してしまった集団は世界各地で珍しくありませんでした(関連記事)。その意味で、現代ではほぼ日本列島にしてその遺伝的痕跡を残しておらず、それもアイヌ集団を除けば遺伝的影響がかなり小さいと考えられる「縄文人」集団も、現生人類の歴史では特別な存在とは言えないでしょう。むしろ、今後ユーラシア東部圏やオセアニアの人類史で問題となるのは、現代人の主要な祖先集団がいつどのような経路で現代の分布地域に到来したのか、ということだと思います。

 現時点で最古となるゲノム解析された縄文時代の個体は、愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡で発見された女性で、較正年代で8991~8646年前頃となります。この個体のゲノムはすでに典型的な「縄文人」的構成要素を示しており、遅くとも9000年前頃までには、「縄文人」的な遺伝的構成の集団が形成されており、日本列島に存在したのでしょう。ただ、早期の時点で日本列島全域の縄文文化関連集団がすでに遺伝的に比較的均一だったのかは不明です。

 「縄文人」的な遺伝的構成の集団がどのように形成されたのかは、不明です。これについては大きく二つに分けられ、一方は、「縄文人」的祖先系統がユーラシア東部現代人の主要な祖先集団(MAEE集団)の祖先系統と20000~15000年前頃に分岐した、とするものです(Cooke et al., 2021)。もう一方は、「縄文人」的祖先系統がユーラシア東部系の遺伝的に大きく異なる祖先系統との混合により形成された、というものです(Wang CC et al., 2021)。前者の場合、どこで分岐し、いつ日本列島に到来したのか、後者の場合、いつどこで混合して日本列島に到来したのか、あるいは日本列島で混合した場合、各集団はいつ日本列島に到来して混合したのか、という問題がありますが、現時点ではよく分かりません。以下は、後者の見解を図示したWang CC et al., 2021の図2です。
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 愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡の縄文文化関連個体(IK002)のゲノム解析結果を報告した研究(Gakuhari et al., 2020)は、遺伝的に古代北ユーラシア人(Ancient North Eurasian、略してANE)に分類される、シベリア南部のマリタ(Mal’ta)遺跡で発見された24000年前頃となる1個体(MA1)関連祖先系統からの遺伝子流動の痕跡がほとんど検出されなかったことから、「縄文人」が南回り(ヒマラヤ山脈以南)でユーラシア西方から日本列島へと到来した、と推測します。ANEはユーラシアの現代人でも東部より西部の方と近く、現代のアメリカ大陸先住民の主要な祖先の一部となりました(Sikora et al., 2019)。

 一方で、同じくANEに分類される、ヤナ犀角遺跡(Yana Rhinoceros Horn Site、略してヤナRHS)の31600年前頃の個体は、日本人や他のアジア南東部および東部現代人と遺伝的に比較して「縄文人」と有意に密接なので、ANEと「縄文人」との間の遺伝子流動が推測されています(Cooke et al., 2021)。これらの知見をどう解釈すべきか、難しいところですが、ヤナRHS個体とMA1との間に直接的な祖先・子孫関係はなさそうですから(Sikora et al., 2019)、MA1と異なるヤナRHS個体のゲノムの祖先系統の一部に、「縄文人」の祖先と共通するものがあるのでしょうか。この問題は、「縄文人」集団の遺伝的形成過程解明の手がかりになるかもしれません。

 結局のところ、「縄文人」集団がどのように形成されたのか、現時点では不明ですが、北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の縄文時代個体のゲノムデータを報告した研究(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)で、アジア東部大陸部の南方から北方までの沿岸集団と「縄文人」との遺伝的類似性が報告されていたことは注目されます。その後の研究(Wang CC et al., 2021)では、ロシア極東沿岸部のボイスマン(Boisman)遺跡の6300年前頃となる中期新石器時代集団(ボイスマン_MN)のゲノムが、モンゴル新石器時代集団関連祖先系統87%と「縄文人」関連祖先系統13%でモデル化されました。また朝鮮半島南岸の新石器時代の個体群のゲノムは、0~95%の「縄文人」関連祖先系統と、西遼河地域の紅山(Hongshan)文化個体関連祖先系統でモデル化できます(Robbeets et al., 2021)。

 上述のように、現在の考古学的知見では、縄文文化はほぼ現在の日本国の領土に限定されており、他地域との相互作用は低調だった、と考えられており、これらの地域で縄文文化が大きな影響力を有して根づいたとはとても言えないでしょうが、朝鮮半島南岸については、0.1%程度の推定割合ながら縄文土器が出土しており(水ノ江., 2022)、「縄文人」が九州から朝鮮半島南岸へと渡り、さらに朝鮮半島南岸の新石器時代の個体群のゲノムにおけるさまざまな割合の「縄文人」関連祖先系統から考えると、一定の遺伝的影響を残した可能性は高そうです。

 しかし、これら日本列島外の縄文時代相当期間の個体群のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統が、縄文時代の日本列島の個体からもたらされたものかどうかは、検討の余地があります。最近の研究(Huang et al., 2022)は、先行研究(Wang CC et al., 2021)と同じく「縄文人」祖先系統の形成を、遺伝的に大きく異なる2つの祖先系統の混合としてモデル化していますが、先行研究よりも複雑になっています。その研究では祖先系統の分岐について、ユーラシア東部系が、まず初期ユーラシア東部系と初期アジア東部系に分岐し、初期アジア東部系が南北に分岐して、南部系は南部(内陸部)系と沿岸部系(アジア東部沿岸部祖先系統)に分岐します。「縄文人」関連祖先系統は、アンダマン諸島のオンゲ人関連祖先系統に比較的近い初期ユーラシア東部祖先系統(54%)とアジア東部沿岸部祖先系統(46%)の混合とモデル化されています(Huan et al., 2022図4)。以下はHuang et al., 2022の図4です。
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 Huang et al., 2022では、ボイスマン_MNはアジア東部北部祖先系統(71%)とアジア東部沿岸部祖先系統(29%)の混合とモデル化されています。つまり、先行研究で推定されたボイスマン_MNのゲノムにおける13%程度の「縄文人」関連祖先系統は、「縄文人」から直接的もしくは朝鮮半島経由でもたらされたのではなく、「縄文人」のゲノムにおける一方の主要な祖先系統を、ボイスマン_MNも約30%と比較的高い割合で有していることに起因しており、ボイスマン_MNと「縄文人」との直接的な関連はなかったのかもしれません。これは朝鮮半島南岸新石器時代個体群にも言えて、これらの個体のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統は、日本列島の縄文時代の個体からもたらされたものではないかもしれません。

 ただ、ボイスマン_MNには外れ値個体(ボイスマン_MN_o)があり、ロシア極東沿岸のレタチャヤ・ミシュ(Letuchaya Mysh)の7000年前頃となる狩猟採集民1個体(レタチャヤミシュ_7000年前)とともに、そのゲノムの30%程度が「縄文人」関連祖先系統でモデル化できます(Wang K et al., 2023)。また、上述のように、朝鮮半島南岸新石器時代には、そのゲノムの95%を「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる個体が確認されており、具体的には、後期新石器時代の欲知島(Yokchido)遺跡の個体です(Robbeets et al., 2021)。これら一定以上の割合の「縄文人」関連祖先系統でゲノムをモデル化できる個体、とくに欲知島遺跡個体は、その地理的近さと、ひじょうに少ないものの縄文文化の考古資料が朝鮮半島南岸で発見されていること(水ノ江., 2022)から、日本列島の縄文時代の個体が朝鮮半島に到来して遺伝的影響を残した結果かもしれません。

 ただ、ロシア極東沿岸の2個体(ボイスマン_MN_oとレタチャヤミシュ_7000年前)のゲノムが30%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できることの意味は、よく分かりません。朝鮮半島南岸も関わる何からのつながりがあったのか、あるいはアジア東部大陸部の南方から北方までの沿岸集団と「縄文人」との遺伝的類似性が、更新世にまでさかのぼる複雑なもので、それも反映しているのかもしれません。この関連で注目されるのは、アムール川流域の11601~11176年前頃の1個体(AR11K)のYHgがDEに分類されていることです。現代人と古代人の分布頻度から、更新世のアムール川流域にYHg-Eの個体が存在したとは考えにくいため恐らくはYHg-Dで、少ない個体の中で見つかったことは、当時まだ日本列島以外のアジア東部大陸部沿岸にもYHg-Dが現在以上の頻度で存在したことを示唆しており、それは「縄文人」集団の形成過程とも関わってくるかもしれません。

 つまり、YHg-D1a2aは日本列島と(日本列島から流入した)朝鮮半島(南部もしくは南岸)にしか存在せず、「縄文人」の指標となるYHgとするような通俗的見解がネットでは散見されるものの、縄文時代の日本列島から朝鮮半島に渡り、弥生時代以降に日本列島へと「逆流」した系統や、アジア東部大陸部沿岸から朝鮮半島などを経て弥生時代以降に日本列島到来した系統など、現代日本人のYHg-D1a2aでは、直接的には「縄文人」に由来しない割合も一定以上あるのではないか、というわけです。これは、日本人のYHgの詳しい分析と、分布頻度および分岐推定年代の精緻化と、古代DNA研究による裏づけで証明されていかねばならず、現時点では思いつきにすぎないことも否定できません。


●弥生時代

 弥生時代の開始については、言語学的知見も踏まえた考古学的観点から、日本語系統(日琉語族)系統の流入との関わりが指摘されています(Miyamoto., 2022)。それによると、日本語祖語は偏堡(Pianpu)文化の紀元前2700年頃の遼西地区東部もしくはマンチュリア南部の遼河流域に起源があり、紀元前1500年頃に朝鮮半島北部~中央部のゴングウィリ(Gonggwiri)式土器を介して朝鮮半島南部の無文(Mumun)文化を形成し、この頃に磨製石器を伴う稲作など灌漑農耕が山東半島から遼東半島経由で朝鮮半島南部へと広がり、紀元前9世紀に九州北部へと広がり弥生文化の形成に至って、日本列島在来の「縄文語」系統を(北海道を除いてほぼ)やがて駆逐した、とされます(Miyamoto., 2022)。一方、朝鮮語祖語もマンチュリア南部とその周辺に起源があり、現在の北京付近に位置した、いわゆる戦国の七雄の一国である燕の東方への拡大に圧迫されて朝鮮半島へと移動し、その考古学的指標は紀元前5世紀頃の粘土帯土器(rolled rim vessel、Jeomtodae)文化になり、やがて朝鮮半島から日本語系統を駆逐した、と指摘されています(Miyamoto., 2022)。つまり、マンチュリア南部とその周辺から、まず紀元前二千年紀半ばに日本語系統が朝鮮半島へと到来し、その後で九州北部に広がったのに対して、朝鮮語系統は紀元前千年紀半ばに朝鮮半島へ到来した、というわけです。こうした言語学的知見も踏まえた考古学的見解が、古代ゲノム研究でも裏づけられるのかどうか、以下で整理します。

 弥生文化関連個体群の最大の遺伝的特徴は、その差異の大きさです。弥生文化関連個体群のゲノムは基本的に、MAEE集団(ユーラシア東部現代人の主要な祖先集団)から派生したアジア東部北方系(NEA)集団関連祖先系統と、「縄文人」関連祖先系統の混合でモデル化できますが、その割合が個体により大きく異なり、現代日本人集団の平均10%前後と同等か、それよりやや低いか、20%程度とやや多いか、40~50%程度と明らかに多いなどさまざまで(Robbeets et al., 2021)、弥生文化関連個体群の遺伝的不均質性はこうした差異を反映しています。さらに、弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)は、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成し(神澤他., 2021a)、これは、東北地方の弥生時代の男性個体も同様です(篠田.,2019,P173-174)。また、鳥取県鳥取市(旧気高郡)青谷町の青谷上寺地遺跡で発見された13個体も遺伝的差異を示しており、1ヶ所の遺跡でも遺伝的不均一性の相対的な高さが示されています(神澤他., 2021b)。つまり、弥生文化関連個体群のゲノムは基本的に、NEA集団関連祖先系統と「縄文人」関連祖先系統の混合でモデル化でき、現代日本人集団と同様にNEA集団関連祖先系統の割合が高い個体が多いものの、「縄文人」関連祖先系統の割合は10%程度から100%までさまざまとなり(0%の個体群が存在した可能性も考えられます)、それが弥生文化関連個体群の遺伝的不均質性を反映している、というわけです。あるいは、日本列島の人類史上、弥生時代は最も遺伝的不均質性の高い期間だったかもしれません。

 このNEA集団関連祖先系統はさらに区分されています。上述のように、朝鮮半島南岸の新石器時代個体群は、「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統でモデル化できますが、上述のように、このEAN集団関連祖先系統を紅山文化個体関連祖先系統とされています(Robbeets et al., 2021)。一方で、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団のゲノムは、高い割合の夏家店上層文化個体関連祖先系統と低い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる、と指摘されています(Robbeets et al., 2021)。これは、朝鮮半島南岸の新石器時代個体群が、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団の主要な祖先ではなかったことを示唆します。しかし、この研究については、競合する混合モデルを区別する解像度が欠けていて、紅山文化個体関連祖先系統と夏家店上層文化個体関連祖先系統は朝鮮半島と日本列島の古代人と遺伝的に等しく関連しており、家店上層文化個体関連祖先系統を選択的に割り当てられた集団は、家店上層文化個体関連祖先系統の代わりに紅山文化個体関連祖先系統でも説明できる、との批判があります(Tian et al., 2022)。

 そもそも上述のように、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団のゲノムは、高い割合の夏家店上層文化個体関連祖先系統でモデル化できる、と指摘した研究(Robbeets et al., 2021)が示しているのは、現代日本人集団の主要な直接的祖先が夏家店上層文化集団だったことではなく、既知の古代人集団では夏家店上層文化集団が最適な代理となり得る、ということです。したがって、Tian et al., 2022の指摘から、現代日本人集団の主要な直接的祖先は、紅山文化集団や家店上層文化集団と類似しているものの異なる別の集団だった、と示唆されます。これは、上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解と親和的というか、少なくとも矛盾はしません。EAN集団関連祖先系統のより詳細で適切な区分と、それに基づく古代人および現代人の集団のゲノムの適切なモデル化には、時空間的により広範囲の、さらに多くの古代人のゲノムデータが必要になるでしょう。

 上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解との関連で注目されるのは、日本列島の弥生時代と古墳時代では、人類集団のゲノムが「縄文人」関連祖先系統とEAN集団関連祖先系統の混合(割合は異なります)でモデル化できることは同じであるものの、後者には違いが見られる、と指摘されていることです(Cooke et al., 2021)。つまり、EAN集団関連祖先系統でも、弥生時代の人類集団の場合には西遼河の中期新石器時代もしくは青銅器時代個体群関連祖先系統(アジア北東部祖先系統)により適切に表され、古墳時代の人類集団の場合には高い割合の黄河流域集団関連祖先系統(アジア東部祖先系統)と低い割合のアジア北東部祖先系統により適切に表されます。ただCooke et al., 2021では、これらの祖先系統がアムール川流域と西遼河地域と黄河流域との間の複雑な相互作用により形成された(Ning et al., 2020)、という大前提があります。弥生時代の人類集団に関しては、「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統との間の混合が3448±825年前、古墳時代の人類集団に関しては、「縄文人」祖先系統とアジア東部祖先系統の混合は1748±175年前と推定されています(Cooke et al., 2021)。

 これは、上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解と関連しているかもしれません。つまり、朝鮮半島における紀元前5世紀頃以降の朝鮮語系統の拡大と日本語系統の衰退を遺伝的に反映しているのが、アジア東部祖先系統の割合増加とアジア北東部祖先系統の割合低下で、それが日本列島の弥生時代と古墳時代の人類集団のゲノムにおけるEAN集団関連祖先系統の違いに示されているのではないか、というわけです。ただ、そうした変化が日本列島に反映されたのは弥生時代後期までさかのぼるかもしれませんし、弥生時代以降の朝鮮半島から日本列島への移住の波が、ある程度連続的で一定していたのか、一回もしくは複数回の大きなものだったのかは、もっと時空間的に広範囲の古代人のゲノムデータが多く分析されないと、推測は困難です。ただ、Cooke et al., 2021は、弥生時代の人類集団を、「縄文人」関連祖先系統の割合が高めの長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体(篠田他., 2019)で代表させており、下本山岩陰遺跡の2個体の前に、現代日本人程度の割合の「縄文人」関連祖先系統をゲノム有する個体が存在すること(Robbeets et al., 2021)も考慮して、弥生時代の人類集団の形成過程とその差異を検証しなければならないでしょう。


●古墳時代以降

 上述のように、弥生時代は人類集団の遺伝的差異が大きく、それはゲノムにおけるさまざまな割合の「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統により説明できます。Cooke et al., 2021は、現代「本土」日本人集団的な遺伝的構成が古墳時代に成立したことを指摘しますが、弥生時代よりは縮小していたかもしれないにしても、複数の研究から、古墳時代も人類集団の遺伝的差異が大きかった、と示唆されます。現代「本土」日本人集団と同じような割合の「縄文人」関連祖先系統をゲノムに有する個体としては、古墳時代前期となる香川県高松市の高松茶臼山古墳の男性被葬者(茶臼山3号、神澤他., 2021c)や、島根県出雲市猪目洞窟遺跡で発見された古墳時代末期(猪目3-2-1号)と奈良時代(猪目3-2-2号)の被葬者(神澤他., 2021d)が挙げられます。

 一方で、和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号(紀元後398~468年頃)および2号(紀元後407~535年頃)のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は、52.9~56.4%、2号が42.4~51.6%と推定されています(安達他.,2021)。後の畿内ではないものの近畿地方において、紀元後5~6世紀頃においても、このようにゲノムを現代「本土」日本人集団よりもずっと高い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる個体が存在することは、日本列島「本土」では古墳時代においても現代より人類集団の遺伝的異質性がずっと高かったことを示唆します。

 現代「本土」日本人集団の基本的な遺伝的構成の確立は、少なくとも平安時代まで視野に入れる必要があり、さらに言えば、中世後期に安定した村落(惣村)が成立していくこととも深く関わっているのではないか、と現時点では予測していますが、この私見の妥当性の判断は、歴史時代も含めた古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。ただ、現在は弥生時代や古墳時代よりも日本列島「本土」人類集団の遺伝的均質性は高くなっているでしょうが、それでも地域差はあり、それは弥生時代や古墳時代と同様に、「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統の割合の違いを反映しているのでしょう(Watanabe, and Ohashi., 2023)。

 この点で注目されるのは、古墳時代の日本列島と同時代の朝鮮半島との関係です。朝鮮半島の三国時代の伽耶に関して、その政治的中心地であった金海(Gimhae)の大成洞(Daesung-dong)にある支配者の大規模な3700m²にもなる埋葬複合施設で発見された、紀元後4~5世紀頃の8個体のゲノムが解析されました(Gelabert et al., 2022)。この8個体は遺伝的に、6個体から構成されるクレード(単系統群)1と2個体から構成されるクレード2に分類されます。クレード1のゲノムは、後期青銅器時代~鉄器時代黄河流域集団関連祖先系統(93±6%)と「縄文人」関連祖先系統(7±6%)でモデル化できます。クレード2のゲノムは、朝鮮半島中期新石器時代個体100%でモデル化できますが、中国北部集団関連祖先系統(70±8%)もしくは遼河流域青銅器時代集団関連祖先系統(66±7%)と、残りの「縄文人」関連祖先系統でモデル化できます。つまり、クレード2のゲノムは30%前後の割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できるわけです。

 Gelabert et al., 2022は、朝鮮半島南岸の紀元後4~5世紀頃の人類集団のゲノムに存在していた「縄文人」関連祖先系統について、朝鮮半島南岸において新石器時代から三国時代まで存続した可能性を指摘しますが、新石器時代以降のどこかの時点で途絶え、弥生時代や古墳時代の日本列島から改めてもたらされた可能性も検証に値するとは思います。これは、朝鮮半島において日本語系統の言語がいつ完全に消滅したのか、さらには伽耶諸国に対する「日本」というかヤマト王権の影響がいかなるものだったのか、という問題とも関わっているかもしれません。つまり、ヤマト王権と伽耶諸国との深い結びつきは、言語的近縁性に基づく根深いもので、日本列島で勢力を拡大したヤマト王権が朝鮮半島にまで影響力を及ぼした、と単純には解釈できないかもしれないことを示唆します。

 また、朝鮮半島南岸に新石器時代以降ずっと、ゲノムを一定以上の割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる人類集団が存在したとしたら、現代の日本列島「本土」集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は一定以上、朝鮮半島南岸新石器時代集団に由来するかもしれません。つまり、「縄文人」を縄文文化関連個体と規定すれば(この規定は無理筋ではないはずです)、現代の日本列島「本土」集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は、現在の推定(上述のように地域差はもちろんありますが、10%前後)よりずっと少なかったかもしれず、縄文時代と現代との間で日本列島の人類集団では遺伝的にほぼ全面的な置換が起きたことになります。まあ、現代日本人集団のゲノムにおける縄文人的構成要素の割合が平均して10%程度だとしても、全面的な置換に近い、と言えそうですが。

 一方、韓国の西部沿岸地域に位置する全羅北道(Jeollabuk-do)群山(Gunsan)市の堂北里(Dangbuk-ri)遺跡の紀元後6世紀半ば頃となる6個体のゲノム解析結果(Lee et al., 2022)は、これら6個体が西遼河地域青銅器時代集団関連祖先系統、もしくは追加の低い割合の中国南部の福建省の渓頭(Xitoucun)遺跡の後期新石器時代個体関連祖先系統でモデル化でき、「縄文人」関連祖先系統の統計的に有意な寄与が検出されませんでした。ただ、遺伝的な北方の代理を内モンゴル自治区の中期新石器時代個体群へと置き換えると、堂北里遺跡の6個体と韓国の蔚山広域市の現代人のゲノムにおける、少ないものの有意な量の「縄文人」関連祖先系統の寄与が検出されます。しかし、地理的および時間的近接性を考慮すると、西遼河地域青銅器時代集団が古代および現代の朝鮮人にとってより適切なモデルを提供している、と考えられます。つまり、遅くとも紀元後6世紀半ば頃には、「縄文人」関連祖先系統がほぼ検出されないような現代朝鮮人とよく似た遺伝的構成の集団が存在していたわけです。この集団の言語は恐らく朝鮮語系統だったでしょうが、当時の朝鮮半島の人類集団の遺伝的構成の地域差については、もっと多くの古代ゲノムデータが必要となり、朝鮮半島の人類集団における「縄文人」関連祖先系統の消滅時期も現時点では不明です。


●琉球諸島と北海道

 沖縄諸島に関しては、グスク時代の人類集団とそれより前の人類集団とでは形質的にかなり異なっており、近世集団は古墳時代集団や鎌倉時代集団に近い、との形質人類学の研究成果と、上述の、グスク時代に農耕の開始やアジア東部大陸部の陶磁器など外来要素が突如出現した、との考古学的知見から、貝塚時代末期以降に外部、おそらくは古代末期~中世初期以降の九州本島から沖縄諸島への人類の流入がかなりあったのではないか、と推測されています(高宮., 2014)。上述のように、奄美・沖縄諸島と先島諸島が初めて一つの文化圏となったのもこの頃で、先島諸島においては、紀元前千年紀の個体ではゲノムがほぼ完全に「縄文人」関連祖先系統でモデル化できましたが、近世には琉球諸島の現代人のような遺伝的構成(高い割合のNEA集団関連祖先系統と低い割合の「縄文人」関連祖先系統)の個体が確認されています(Robbeets et al., 2021)。

 琉球諸島の現代人集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は27%程度と推定されており(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)、古代末期~中世初期以降の九州本島から沖縄諸島へ到来した人類集団のゲノムが、20%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できるとすると、琉球諸島の現代人集団のゲノムは、古代末期~中世初期以降の九州本島集団関連祖先系統(80~90%)と貝塚時代集団関連祖先系統(10~20%)の混合としてモデル化できそうです。琉球諸語は貝塚時代集団の言語と古代末期~中世初期の九州本島集団の言語の混合により成立したのでしょうか、基本的には日本語系統に分類されることからも、日本(ヤマト)文化の影響が圧倒的に強かった、と推測されます。つまり、遺伝的にも文化的にも、近世以降の琉球諸島集団について縄文時代(というか貝塚時代)からの強い連続性を想定することは難しいように思います。

 現代アイヌ集団については、「縄文人」集団との強い遺伝的連続性がネットでもよく指摘されており、その根拠は、アイヌ集団のゲノムが66%程度と高い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できることです。しかし、上述のように、遺伝学的研究だけでアイヌ集団と「縄文人」集団との連続性を証明できるわけではなく、考古学など他分野の研究成果も踏まえて初めて、きわめて蓋然性の高い推測になっていることに注意すべきでしょう。また、アイヌ集団の遺伝的な地域差がどの程度あるのか、現時点ではよく分かりません。オホーツク文化関連個体の研究(Sato et al., 2021)から、アイヌ集団は遺伝的に、「縄文人」集団とオホーツク文化集団と日本列島「本土」集団の関連祖先系統の混合でモデル化できる、と提案されています。その関連祖先系統の割合は、ゲノムをほぼ「縄文人」関連祖先系統でモデル化できそうな続縄文文化もしくは擦文文化集団から49%、オホーツク文化集団から22%、日本列島「本土」集団から29%程度です。もちろん、上述のように、この割合には地域差があるかもしれません。

 オホーツク文化集団のゲノムは11%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化でき、上述のように弥生時代以降の日本列島「本土」集団のゲノムも少ない割合ながら一定以上の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できますから、アイヌ集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統のうち一定の割合(10~15%程度?)は、オホーツク文化集団および弥生時代以降の日本列島「本土」集団に由来する可能性が高そうです。もちろん、アイヌ集団の祖先と混合したオホーツク文化集団および弥生時代以降の日本列島「本土」集団にも地域差があったでしょうから、具体的な割合の推測は困難ですが。つまり、ネット上では、現代アイヌ集団のゲノムにおける「7割」という「高い割合」の「縄文人」要素を根拠に、「縄文人」集団から現代アイヌ集団への連続性を主張する見解も散見されるものの、そんな単純な話ではないだろう、というわけです。

 もちろん、上述のように、遺伝というかDNAと文化や民族とを安易に関連づけてはならないことが大前提で、DNAと文化とのさまざまな関連(関連記事)からも、遺伝的影響の大小と文化的影響の大小を安易に関連づけてはならないことが示唆されます。その上で、オホーツク文化が紀元後10世紀以降に擦文文化から人工物や生産・生業技術や居住パターンや生計戦略などの数々の要素を段階的に受け入れ、トビニタイ文化を経て最終的に擦文文化に吸収・同化されていき、少なくとも物質文化側面では、擦文文化そのものと区別がつかないものになったこと(大西., 2019)と合わせて考えると、縄文時代から続縄文時代経て擦文文化期へと続いた北海道を中心に分布した地域集団がオホーツク文化集団に対して優位に立ち、これを同化していった可能性が高そうです。つまり、アイヌ集団の言語は恐らく縄文時代の北海道の(特定の?)人類集団に由来し、その文化・民族性を縄文文化と切断する見解は妥当ではないだろう、というわけです。もちろん、アイヌ集団がオホーツク文化やアジア東北部大陸部の人類集団から大きな文化的影響を受けなかったわけではないでしょう。


参考文献:
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Harris EE.著(2016)、水谷淳訳『ゲノム革命 ヒト起源の真実』(早川書房、原書の刊行は2015年)
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https://doi.org/10.1016/j.isci.2023.106130
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安達登、神澤秀明、藤井元人、清家章(2021)「磯間岩陰遺跡出土人骨のDNA分析」清家章編『磯間岩陰遺跡の研究分析・考察』P105-118
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大西秀之(2019)「アイヌ民族・文化形成における異系統集団の混淆―二重波モデルを理解するための民族史事例の検討」『パレオアジア文化史学:人類集団の拡散と定着にともなう文化・行動変化の文化人類学的モデル構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 21)』P11-16
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神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021a)「佐賀県唐津市大友遺跡第5次調査出土弥生人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P385-393
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神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021b)「鳥取県鳥取市青谷上寺遺跡出土弥生後期人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P295-307
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神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021c)「香川県高松市茶臼山古墳出土古墳前期人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P369-373
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神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一、斎藤成也(2021d)「島根県出雲市猪目洞窟遺跡出土人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P329-340
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国武貞克(2021)「中央アジア西部における初期後期旧石器時代(IUP期)石器群の追求と日本列島到来の可能性」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)』P11-20
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上峯篤史(2020)「存否問題のムコウ」『Communication of the Paleo Perspective』第2巻P24-25
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佐藤宏之(2013)「日本列島の成立と狩猟採集の社会」『岩波講座 日本歴史  第1巻 原始・古代1』P27-62
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篠田謙一(2019)『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』(NHK出版)
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篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2019)「西北九州弥生人の遺伝的な特徴―佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析―」『Anthropological Science (Japanese Series)』119巻1号P25-43
https://doi.org/10.1537/asj.1904231
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瀬川拓郎(2019)「アイヌ文化と縄文文化に関係はあるか」北條芳隆編『考古学講義』第2刷(筑摩書房、第1刷の刊行は2019年)P85-102
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高宮広土(2014)「奄美・沖縄諸島へのヒトの移動」印東道子編『人類の移動誌』初版第2刷(臨川書店)第3章「日本へ」第5節P182-197

松波雅俊(2020)「ゲノムで検証する沖縄人の由来」斎藤成也編著『最新DNA研究が解き明かす。 日本人の誕生』第2刷(秀和システム)第5章
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水ノ江和同(2022)『縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏』(朝日新聞出版)
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山田康弘(2015)『つくられた縄文時代 日本文化の原像を探る』(新潮社)

https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_11.html
7:777 :

2023/06/16 (Fri) 23:10:25

「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
橘玲、人類学者・篠田謙一対談(後編)
https://diamond.jp/articles/-/306767

2022.7.26 4:10
「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説

化石となった人骨のゲノム(遺伝情報)を解析できるようになり、数十万年に及ぶ人類の歩みが次々と明らかになってきた。自然科学に詳しい作家・橘玲(たちばな・あきら)氏が、国立科学博物館の館長でもある遺伝人類学者・篠田謙一氏に、人類の歴史にまつわる疑問をぶつける特別対談。後編では、日本人の歴史に焦点を当てる。現在の日本人に連なるいにしえの人々は、いったいどこからやって来たのだろうか――。(構成/土井大輔)


日本人のルーツは?
縄文人のDNAから考える
橘玲氏(以下、橘) 日本人の話題に入りたいと思います。6万年ほど前に出アフリカを敢行した数千人のホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人やデニソワ人などの旧人と各地で出会い、交わりながらユーラシア大陸を東に進んでいきます。その東端にある日本列島に到達した人たちが縄文人になるわけですが、主要なルートは朝鮮半島経由とシベリア経由と考えていいんでしょうか。

篠田謙一氏(以下、篠田) ほぼその通りですね。5万年くらい前、人類は東南アジアから海岸伝いに北に上がってくるんです。そのころは中国大陸の海岸線が今より広がっていて、朝鮮半島も台湾も大陸の一部でした。日本列島は孤立していますけれど、今より大陸との距離は近かったんですね。


大陸で数万年間かけて分化していった集団が、北方からであったり朝鮮半島経由であったり、複数のルートで日本列島に入ってきた。それがゆるやかに結合することで出来上がったのが縄文人だと考えています。

 私たちは北海道の縄文人のDNAを多く解析したんですけども、そこには(ロシア南東部の)バイカル湖周辺にあった遺伝子も多少入っているんです。もしかすると、ユーラシア大陸を北回りで東にやって来た人たちの遺伝子も、東南アジアから来た人たちと混血して、日本に入ってきたのではないかと考えています。

橘 中国も唐の時代(618年~907年)の長安には、西からさまざまな人たちが集まっていたようですね。

篠田 大陸は古い時代からヨーロッパの人たちと遺伝的な交流があったと思いますよ。例えばモンゴルは、調べてみるととても不思議なところで、古代からヨーロッパ人の遺伝子が入っています。陸続きで、しかも馬がいる場所ですから、すぐに遺伝子が伝わっていくんです。

橘 ということは、長安の都を金髪碧眼(へきがん)の人たちが歩いていたとしても、おかしくはない。

篠田 おかしくはないですね。ただ、それが現代の中国人に遺伝子を残しているかというと、それはないようですけれども。

弥生人の定説が
書き換えられつつある
橘 日本の古代史では、弥生時代がいつ始まったのか、弥生人はどこから来たのかの定説が遺伝人類学によって書き換えられつつあり、一番ホットな分野だと思うのですが。

篠田 そう思います。

「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
弥生時代以降の日本列島への集団の流入(『人類の起源』より)
https://diamond.jp/articles/-/306767?page=2


橘 篠田さんの『人類の起源』によれば、5000年くらい前、西遼河(内モンゴル自治区から東に流れる大河)の流域、朝鮮半島の北のほうに雑穀農耕民がいて、その人たちの言葉が日本語や韓国語の起源になったというのがとても興味深かったんですが、そういう理解で合っていますか?


篠田 私たちはそう考えています。1万年前よりも新しい時代については、中国大陸でかなりの数の人骨のDNAが調べられているので、集団形成のシナリオがある程度描けるんです。その中で、いわゆる渡来系といわれる弥生人に一番近いのは、西遼河流域の人たちで、黄河流域の農耕民とは遺伝的に少し異なることがわかっています。

橘 黄河流域というと、今でいう万里の長城の内側ですね。そこでは小麦を作っていて、西遼河の辺りはいわゆる雑穀だった。

篠田 まあ、中国でも小麦を作り始めたのはそんなに昔ではないらしいんですが、違う種類の雑穀を作っていたんでしょうね。ただ陸続きで、西遼河も黄河も同じ農耕民ですから、全く違ったというわけではなくて、それなりに混血して、それが朝鮮半島に入ったというのが今の説なんです。

 さらに誰が日本に渡来したのかっていうのは、難しい話になっています。これまではいわゆる縄文人といわれる人たちと、朝鮮半島で農耕をやっていた人たちは遺伝的に全く違うと考えられてきたんですね。それがどうも、そうではなさそうだと。

 朝鮮半島にも縄文人的な遺伝子があって、それを持っていた人たちが日本に入ってきたんじゃないかと。しかもその人たちが持つ縄文人の遺伝子の頻度は、今の私たちとあまり変わらなかったんじゃないかと考えています。

橘 「日本人とは何者か」という理解が、かなり変わったんですね。

篠田 変わりました。特に渡来人の姿は大きく変わったと言ってよいでしょう。さらに渡来人と今の私たちが同じだったら、もともと日本にいた縄文人の遺伝子は、どこに行っちゃったんだという話になります。

 両者が混血したのだとすれば、私たちは今よりも縄文人的であるはずなんですけども、そうなっていない。ですから、もっと後の時代、古墳時代までかけて、より大陸的な遺伝子を持った人たちが入ってきていたと考えざるを得なくなりました。

橘 なるほど。西遼河にいた雑穀農耕民が朝鮮半島を南下してきて、その後、中国南部で稲作をしていた農耕民が山東半島を経由して朝鮮半島に入ってくる。そこで交雑が起きて、その人たちが日本に入ってきたと。


篠田 日本で弥生時代が始まったころの人骨は、朝鮮半島では見つかってないんですけども、それより前の時代や、後の三国時代(184~280年)の骨を調べると、遺伝的に種々さまざまなんです。縄文人そのものみたいな人がいたり、大陸内部から来た人もいたり。遺跡によっても違っていて。

橘 朝鮮半島というのは、ユーラシアの東のデッドエンドみたいなところがありますからね。いろいろなところから人が入ってきて、いわゆる吹きだまりのようになっていた。

篠田 しかもそれが完全には混じり合わない状態が続いていた中で、ある集団が日本に入ってきたんだろうと考えています。

橘 その人たちが初期の弥生人で、北九州で稲作を始めたのが3000年くらい前ということですね。ただ、弥生文化はそれほど急速には広まっていかないですよね。九州辺りにとどまったというか。

篠田 数百年というレベルでいうと、中部地方までは来ますね。東へ進むのは割と早いんです。私たちが分析した弥生人の中で、大陸の遺伝子の要素を最も持っているものは、愛知の遺跡から出土しています。しかもこれは弥生時代の前期の人骨です。だから弥生時代の早い時期にどんどん東に進んだんだと思います。

 ただ、九州では南に下りるのがすごく遅いんです。古墳時代まで縄文人的な遺伝子が残っていました。

橘 南九州には縄文人の大きな集団がいて、下りていけなかったということですか。

篠田 その可能性はあります。今、どんなふうに縄文系の人々と渡来した集団が混血していったのかを調べているところです。おそらくその混血は古墳時代まで続くんですけれども。

 当時の日本列島は、ある地域には大陸の人そのものみたいな人たちがいて、山間とか離島には、遺伝的には縄文人直系の人がいた。現在の私たちが考える日本とは全然違う世界があったんだろうと思います。平安時代に書かれた文学なんかは、きっとそういう世界を見たと思うんです。

橘 すごくロマンがありますね。

篠田 今の私たちの感覚では、わからないものなのかなと思いますね。

弥生人の渡来に
中国の動乱が関係?
橘 中国大陸の混乱が、日本列島への渡来に影響したという説がありますよね。3000年前だと、中国は春秋戦国時代(紀元前770~紀元前221年)で、中原(華北地方)の混乱で大きな人の動きが起こり、玉突きのように、朝鮮半島の南端にいた人たちがやむを得ず対馬海峡を渡った。

 古墳時代は西晋の崩壊(316年)から五胡十六国時代(439年まで)に相当し、やはり中原の混乱で人々が移動し、北九州への大規模な流入が起きた。こういったことは、可能性としてあるんでしょうか。

篠田 あると思います。これまで骨の形を見ていただけではわからなかったことが、ゲノム解析によって混血の度合いまでわかるようになった。今やっと、そういうことがゲノムで紐解ける時代になったところです。

 古墳を見ても、副葬された遺物が当時の朝鮮半島直輸入のものだったり、あるいは明らかに日本で作ったものが副葬されたりしてさまざまです。その違いが埋葬された人の出自に関係しているのか、ゲノムを調べれば解き明かすことができる段階になっています。

橘 イギリスでは王家の墓の古代骨のゲノム解析をやっていて、その結果が大きく報道されていますが、日本の古墳では同じことはできないんですか。

篠田 それをやるには、まず周りを固めることが先かなと思いますね。「ここを調べればここまでわかるんですよ」というのをはっきり明示すれば、やがてできるようになると思います。


政治的な思惑で
調査が進まないプロジェクトも
橘 古墳の古代骨のゲノム解析ができれば、「日本人はどこから来たのか」という問いへの決定的な答えが出るかもしれませんね。中国大陸から朝鮮半島経由で人が入ってきたから、日本人は漢字を使うようになった。ただ、やまとことば(現地語)をひらがなで表したように、弥生人が縄文人に置き換わったのではなく、交雑・混血していったという流れなんでしょうか。

篠田 そう考えるのが自然だと思います。弥生時代の初期に朝鮮半島から日本に直接入ってきたんだとしたら、当時の文字が出てきているはずなんです。ところがない。最近は「硯(すずり)があった」という話になっていて、もちろん当時から文字を書ける人がいたのは間違いないんですが、弥生土器に文字は書かれていません。一方で古墳時代には日本で作られた剣や鏡に文字が書かれています。

橘 日本ではなぜ3世紀になるまで文字が普及しなかったのかは、私も不思議だったんです。

篠田 弥生時代の人たちは稲作を行い、あれだけの土器、甕(かめ)なんかも作りましたから、大陸から持ち込んだ技術や知識は絶対にあったはずなので。いったい誰が渡来したのか、その人たちのルーツはどこにあったのかっていうところを解きほぐすことが必要だと思っています。

「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
篠田謙一氏の近著『人類の起源』(中央公論新社)好評発売中!
橘 古墳時代に文字を使うリテラシーの高い人たちが大量に入ってきて、ある種の王朝交代のようなものが起きて、『古事記』や『日本書紀』の世界が展開する。縄文から弥生への二段階説ではなく、縄文・弥生・古墳時代の三段階説ですね。

篠田 そうしたことが、おそらくこれからゲノムで読み取れるんだろうなと思います。

 弥生時代、最初に日本に入ってきた人というのは、現在の我々とは相当違う人だったというのが現在の予想です。それを知るには当時の朝鮮半島の状況、弥生時代の初期から古墳時代にかけてどうなっていたのか、人がどう動いたのかをちゃんと調べる必要があるんですが、難しいんですよ。いろいろと政治的な問題もあって。

橘 国家や民族のアイデンティティーに絡んできますからね。

篠田 現地の研究者との間では「この人骨を分析しましょう」という話になるんですけれども、上からOKが出ないわけです。「今この人骨を渡すのは困る」と。それでポシャったプロジェクトがいくつかあって。なかなか進まないんです。

橘 政治の壁を突破して、ぜひ調べていただきたいです。朝鮮半島は「吹きだまり」と言いましたが、日本こそユーラシア大陸の東端の島で、北、西、南などあらゆる方向から人々が流れ着いてきた吹きだまりですから、自分たちの祖先がどんな旅をしてきたのかはみんな知りたいですよね。

篠田  ここから東には逃げるところがないですからね。

 次に「日本人の起源」というテーマで本を書くのであれば、5000年前の西遼河流域から始めようと思っているんです。

 朝鮮半島で何が起こったかわからないので今は書けないんですけれども、そこでインタラクション(相互の作用)があって、今の私たちが出来上がったんだというのがおそらく正しい書き方だと思うんですよね。

橘 それは楽しみです。ぜひ書いてください。
8:777 :

2023/06/26 (Mon) 15:26:47

Brown Bag Seminar No.033 Kazuo Miyamoto 「近年の日本語・韓国語起源論と農耕の拡散」
KyushuUniv
2023/01/24
https://www.youtube.com/watch?v=a4hLPynYKug
9:777 :

2023/12/10 (Sun) 16:42:44

雑記帳
2023年12月10日
ゲノムデータから推測される南琉球諸島の人口史
https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_10.html

 古代人および現代人のゲノムデータから南琉球諸島の人口史を推測した研究(Cooke et al., 2023)が公表されました。本論文は、おもに2021年の研究(Cooke et al., 2021)で提示された、日本列島「本土(日本列島のうち本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする地域)」のアイヌ集団以外の現代人集団の3層の遺伝的構造に基づいて、南琉球諸島の人口史を推測しています。本論文の見解は、最近提示された沖縄諸島と宮古諸島の現代人の遺伝的起源を解明した研究(Koganebuchi et al., 2023)と整合的だと思います。ただ、2021年の研究(Cooke et al., 2021)は、弥生時代の人類集団を長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることや、古墳時代の人類集団を一部の個体に代表させていることが問題で(関連記事)、今後は時空間的にずっと広範囲の弥生時代以降の人類のゲノムデータを考慮しつつ、日本列島の人類集団の遺伝的歴史を解明していく必要があるでしょう。


●要約

 日本人集団の遺伝的起源の3構造では、現在の人口集団は主要な3祖先の子孫である、と述べられています。それは、(1)在来の縄文時代狩猟採集民、(2)農耕の弥生時代に到来したアジア北東部構成要素、(3)ヤマト王権の古墳時代におけるアジア東部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の主要な流入です。しかし、日本列島のさまざまな地域で観察された遺伝的異質性は、このモデルの適用性と適合性の評価の必要を浮き彫りにします。本論文は、日本の他地域と比較して独特な文化と歴史的背景を有する、南琉球諸島の歴史時代のゲノムを解析します。本論文の分析は、この地域において3構造が最適と裏づけ、「本土」日本人よりも顕著に高い推定割合の縄文祖先系統が見られます。それぞれの大陸由来祖先が直接的に大陸からの移民によりもたらされた日本列島「本土」とは異なり、すでに3系統の祖先を有する人々が、グスク時代の出現と一致する11世紀頃に南琉球諸島に移住し、先史時代の人々と混合しました。これらの結果は、日本列島の最南端における3構造モデルを再確認し、その構造が多様な地理的地域において出現した多様性を示します。


●研究史

 古代ゲノム配列データは、世界中の現在の人口集団の起源に関する理解を強化し、頻繁に変えてきました(Liu et al., 2021)。そうした地域の一つは日本列島で、先史時代および原史時代のゲノム解析が、現在の人口集団の起源について三者モデルを裏づけました(Cooke et al., 2021)。この枠組みでは、現在の日本人の祖先系統は主要な3供給源に由来します。それは、(1)日本列島外とはほとんど接触せず、数千年間日本列島全域に暮らしていた、在来の狩猟採集民である縄文時代の人口集団、(2)弥生時代(3000年前頃以降)に水田稲作農耕とともに日本列島に到来した、中国北部【北東部】のアムール川流域の古代の個体群で観察されたアジア北東部構成要素、(3)初期ヤマト王権の形成と関連している、古墳時代(1700年前頃以降)に到来した現在のアジア東部の人口集団(漢人など)と類似した祖先系統の大きな流入です。

 日本人集団の起源についてさまざまなモデルが、遺伝学と考古学と言語学の証拠に基づいて以前に提案されてきましたが、元々は頭蓋顔面データに基づいて体系化された「二重構造」仮説が最も広く知られており、続いています。この二重構造モデルでは、全ての日本人集団は祖先系統の主要な2供給源の漸進的な混合の子孫で、それは、当初の縄文時代の人々と、弥生時代におけるアジア北東部からのその後の移民です。二重構造モデルでは、北海道のアイヌ集団と日本列島最南端の琉球諸島の人々との間の形態学的類似性は縄文時代の人々に起因しており、その後の大陸部の供給源人口集団からの祖先系統は殆ど若しくは全くなかった、と述べられています。遺伝的異質性は、日本「本土」とこれら地理的に異なる地域の人口集団間でも観察されます。さらに、縄文時代の個体群は現在の琉球諸島住民や北海道のアイヌ集団の方と、日本列島の他地域の住民とよりも高い遺伝的類似性を有しています(Gakuhari et al., 2020、Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)。それでも、これらの観察は、大陸部祖先系統の起源ではなく、日本全域の縄文祖先系統の差異を説明できるだけです。

 古代ゲノムデータに基づいて提案された三者モデルは、二重構造モデルと比較すると、サイモンズゲノム多様性計画(Simons Genome Diversity Project、略してSGDP)に含まれる現在の日本人弧隊の遺伝的祖先系統に有意により適合する、と示されました(Cooke et al., 2021)。しかし、日本列島「本土」を越えて遺伝的に異なる人口集団におけるこの枠組みの適用性はまだ検証されておらず、それは、現代人の参照データセットが現時点では、日本列島の真の異質性を反映してない、「本土」日本人の小さな部分集合に限定されているからです(GenomeAsia100K Consortium., 2019、Mallick et al., 2016)。この3方向混合モデルが日本列島の多様な地域でどのように変わるのか評価することは、日本列島の人口集団の起源における違いと日本列島内の最近の歴史を示唆できるかもしれません。

 沖縄県宮古島市にある長墓遺跡の150年前頃となる歴史時代の4個体の配列データの最近の刊行(Robbeets et al., 2021)は、南琉球諸島に暮らす最近の人口集団の祖先の特性の調査を可能としました。南琉球諸島は、先行研究により強調されているように、例外的な島嶼の地理と歴史と文化で認識されています。南琉球諸島には、日本列島「本土」、さらには琉球諸島北部とさえ異なる独特な特徴があります。注目すべき一つの側面は長期間の先史時代で、それはグスクとして知られている独特な地域文化が出現する11世紀まで続きました。この長期の島嶼的および文化的孤立は、日本列島の大半に広がっていた弥生文化や古墳文化や他の歴史時代の文化の欠如に起因するかもしれません。結果として、南琉球諸島のゲノムデータは、日本人の起源の文脈における三者モデルおよびその形成過程の適用性と変動性調査の貴重な機会を提示します。本論文では、琉球諸島の歴史時代の人口集団のデータを用いて三者構造が再調査され、その祖先特性が「本土」日本人集団と比較されます。


●分析結果

 沖縄県の宮古諸島の宮古島の北半島にある長墓貝塚および岩陰遺跡(図1)で発掘された骨格遺骸から、最近の歴史時代(historic、略してH)の4個体(NAG007、NAG035、NAG036、NAG039)が標本抽出されました(Robbeets et al., 2021)。まず、対での外群f₃分析が実行され、他の古代および現在の日本人標本との遺伝的類似性が確認されました。この分析は、縄文時代と弥生時代と他の時代(古墳時代や歴史時代や現在など)の日本列島の標本のクラスタを明確に定義します。つまり、第三のクラスタ内では、歴史時代の個体群はさらに他の標本と分離意され、それは、古墳時代および現代の人口集団よりも縄文時代の個体群の方と高い遺伝的類似性に起因します。その後、これらの個体はまとめて「長墓_H(歴史時代)」という単一の人口集団にまとめられ、qpAdmを用いて、古代もしくは現在の日本列島の人口集団のどれも、祖先系統の単一の供給源としてモデル化に成功できない、とさらに論証され、これら長墓遺跡の歴史時代の住民は縄文時代集団の直接的祖先だった、との提案された見解は除外されました。これらの結果は、長墓遺跡の個体間の祖先組成における日本列島「本土」住民との違いを示唆しています。以下は本論文の図1です。
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 長墓_Hの三者構造の適合性を評価するため、3つの異なる祖先構成要素による遺伝的構成がモデル化されました。それは、縄文時代の12個体(Cooke et al., 2021、Gakuhari et al., 2020、Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、McColl et al., 2018)、アジア北東部(Northeast Asian、略してNEA)祖先系統を表す、北方のアムール川地域の高水準の祖先系統を有する中国で発見された古代人2個体(Ning et al., 2020)、つまり西遼河(West Liao River、略してWLR)の青銅器時代(Bronze Age、略してBA)の外れ値(outlier、略してo)個体(WLR_BA_o)および、ハミンマンガ(Haminmangha、略してHMMH)遺跡の中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)個体(HMMH_MN)と、アジア東部祖先系統を表すSGDPパネルから得られた現在の漢人です(Mallick et al., 2016)。三者モデルは長墓_Hにうまく適合し(裾確率は0.591)、その内訳は、縄文祖先系統26.7±4.9%、NEA祖先系統30.5±10.3%、アジア東部祖先系統42.8±7.5%です(図1)。興味深いことに、長墓_Hにおいて縄文祖先系統の割合は古墳時代(13.1±3.5%)もしくは現代日本人(15.0±3.8%)と比較して約2倍です(Cooke et al., 2021)。

 長墓_H人口集団での三者構造のモデル化の成功は、二重構造仮説可能性を除外しません。長墓_Hにおける3方向混合モデルの適合性を包括的に評価するため、三者構造内の2方向混合(つまり、縄文とNEA、縄文とアジア東部、アジア東部とNEA)の仮定的状況の可能性の適合も検証されました。これらのモデルのうち2つ(縄文とNEA、NEAとアジア東部)は完全に却下されましたが(p<0.05)、縄文とアジア東部の二重構造では充分と分かりました(p=0.061)。どのモデルが最適なのか結論づけるため、検証された三者モデルと各2方向モデルとの間のそれぞれの比較について、入れ子になったモデルでp値が計算されました(表1)。その結果、三者モデルが入れ子になったモデルの全てよりも有意にデータと適合する、と分かりました。これは、三者構造が歴史時代の琉球諸島人口集団の起源を説明するのに最適なモデルという明確な証拠です。

 南琉球諸島の独特な歴史的および文化的背景を考えると、この地域における三者構造の形成過程は日本列島「本土」とは異なっていたかもしれません。古代ゲノム解析は以前に、この地域の先史時代個体群が遺伝的には縄文時代個体群だった、という証拠を提供しました(Robbeets et al., 2021)。したがって、大陸部祖先系統は、2つの追加の非縄文構成要素をすでに有していた人々によりもたらされた可能性が高そうです。この仮説を検証するため、縄文時代の個体群と古墳時代もしくは現代日本人の個体群との間の2方向混合モデルにより、長墓_Hがモデル化されました(表2)。以下は本論文の表2です。
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 検証された全モデルは長墓_Hの遺伝的祖先系統に適合し、この混合モデルは古墳時代もしくは現代の日本人集団どちらかの単一の祖先系統モデルよりも有意でした。これらの結果から、図1で示されるように、長墓_Hの遺伝的構成の説明には追加の縄文祖先系統が必要になる、と示唆されます。DATESを用いて、この混合は975年前頃(もしくは11世紀)に起きた、とさらに推定され、この年代は先史時代(つまり無土器時代)末およびグスク時代の開始と一致します。本論文の分析は、三者構造の形成においてさまざまな地域がさまざまな歴史を有しており(図2)、それが日本列島全域のゲノム差異に寄与したかもしれない、という見解を裏づけます。以下は本論文の図2です。
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●考察

 琉球諸島で暮らす人口集団は繰り返し、日本列島の他地域に暮らす集団とは遺伝的な異なる、と示されてきました。それにも関わらず、広範な混合モデル化を通じて、日本人集団の起源について三者構造が南方地域の歴史時代の個体群の人口においてうまく維持されている、と論証されます。日本列島「本土」の人口集団の代表で以前に観察されたように(Cooke et al., 2021)、このモデルは、琉球諸島人口集団が縄文時代個体群の直接的な子孫と仮定する、長年の「二重構造」の枠組みよりも有意に適合します。この結果から、縄文時代後の移民による主要な遺伝的寄与、つまり最初は弥生時代におけるアジア北東部祖先系統、その後の古墳時代におけるアジア東部祖先系統は、日本列島「本土」に限定されず、遠く日本列島の最南端に到達した、と示唆されます。しかし、これら大陸部祖先系統は以前には、異なる人口集団から別段階で日本列島「本土」に到達した、と示されましたが(Cooke et al., 2021)、南琉球諸島にはそのずっと後の段階で、すでに三者構造を有しており、南琉球諸島の先史時代集団と混合した単一の祖先人口集団によりもたらされたようです(図2)。

 外群f₃分析では、長墓_H人口集団は古墳時代もしくは現代の日本列島「本土」個体群よりも、縄文時代個体群と高水準の遺伝的浮動を共有している、と示されました。長墓_H人口集団はその後、26.7±4.9%の縄文祖先系統を有している、と示され(図1)、これは古墳時代(13.1±3.5%)もしくは現代(15.0±3.8%)の日本列島の個体群で観察された縄文祖先系統(Cooke et al., 2021)の約2倍です。追加の縄文組成を組み込んだこの人口集団のモデルは同様に、古墳時代もしくは現代の日本人祖先系統のみに基づくモデルよりも適合する、と分かりました。これらの結果は、縄文時代個体群と琉球諸島現代人との間の高い遺伝的類似性に関する以前の調査結果(Gakuhari et al., 2020、Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)と一致します。本論文は、南琉球諸島における縄文祖先系統の過剰をもたらした混合過程のより詳細な全体像を提供します。

 考古学的記録は、宮古諸島を含めて琉球諸島の南部が、日本列島「本土」もしくはさらに北琉球諸島と比較して、独特な変化を経てきた、という見解を裏づけます。先史時代の北琉球諸島と縄文文化との間で示唆される文化的かながりはありますが、これらのつながりは南琉球諸島では、その独自の物質文化の発展のためさほど明らかではありません。しかし、長墓遺跡の先史時代(3600~2600年前頃)個体群の遺伝学的分析(Robbeets et al., 2021)は、この地域における縄文祖先系統の存在を確証しました。

 日本列島「本土」の生活様式は、3000年前頃以降に急激な変化を遂げ始め、まず採食から稲作農耕へ、その後で1700年前頃以降に国家形成へと至りました。対照的に南琉球諸島では、無土器文化として知られている完全に異なる文化が2500年前頃に出現し、これはこの地域の先史時代の最終段階を示しました。この文化は貝殻の手斧と土器の製作もしくは利用の欠如により特徴づけられ、約1700年間存続しました。その結果、縄文時代以降の日本列島「本土」で起きた文化的変容は11世紀まで南琉球諸島に影響を及ぼさず、11世紀にグスク文化が始まり、多数の人々が北琉球諸島から南琉球諸島へと移住しました。無土器文化がどこから到来したのか、縄文時代個体群的な先史時代の人々が無土器文化期に南琉球諸島に居住し続けたのかどうか、まだ不明ですが、縄文祖先系統と日本列島「本土」祖先系統との間の混合が起きた年代の本論文の推定値は、この人口移動の時期【11世紀】と一致します。この結果から、日本列島全域の三者構造の形成過程には地域的差異があった、と示唆されます。以下は本論文の要約図です。
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 この研究は、南琉球諸島の宮古島の4個体から構成される人口集団に限定されていますが、琉球諸島が遺伝的に均質な地域ではなく、宮古諸島自体も均質ではない、と注意することは重要です。時空間的により密な標本抽出が、琉球諸島全域の遺伝的特性に関して移住の真の影響を理解するのに必要です。そうしたデータが利用可能になった時には、この人口集団と、日本列島全域の他の歴史時代および現在の人口集団との間の三者分類において、どのような類似性もしくは違いが存在するかもしれないのか、評価するのはとくに興味深いことでしょう。この研究は、さまざまな地域における人口集団の起源の理解を変える、古代ゲノムの力を改めて示しています。この研究は、確立された結論と関連する新たなデータが利用可能になった時に、古代ゲノムに基づいてなされた調査結果と提案された見解の再調査の利点も示します。


参考文献:
Cooke NP. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419
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Cooke NP. et al.(2023): Genomic insights into a tripartite ancestry in the Southern Ryukyu Islands. Evolutionary Human Sciences, 5, e23.
https://doi.org/10.1017/ehs.2023.18

Gakuhari T. et al.(2020): Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations. Communications Biology, 3, 437.
https://doi.org/10.1038/s42003-020-01162-2
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GenomeAsia100K Consortium.(2019): The GenomeAsia 100K Project enables genetic discoveries across Asia. Nature, 576, 7785, 106–111.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1793-z
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Kanzawa-Kiriyama H. et al.(2019): Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science, 127, 2, 83–108.
https://doi.org/10.1537/ase.190415
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Koganebuchi K. et al.(2023): Demographic history of Ryukyu islanders at the southern part of the Japanese Archipelago inferred from whole-genome resequencing data. Journal of Human Genetics, 68, 11, 759–767.
https://doi.org/10.1038/s10038-023-01180-y
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Liu Y. et al.(2021): Insights into human history from the first decade of ancient human genomics. Science, 373, 6562, 1479–1484.
https://doi.org/10.1126/science.abi8202
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Mallick S. et al.(2016): The Simons Genome Diversity Project: 300 genomes from 142 diverse populations.
https://doi.org/10.1038/nature18964
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Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2
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Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature, 599, 7886, 616–621.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04108-8
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https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_10.html
10:777 :

2023/12/11 (Mon) 13:56:51

【最新研究】東アジア人(モンゴロイド)の形成史と寒冷地適応/縄文人は朝鮮半島にも住んでいた/黄河集団と長江集団の起源/Y染色体ハプログループDの謎/縄文人と繋がるホアビン人(ホアビニアン)とオンゲ族
LEMURIA CH/レムリア・チャンネル
https://www.youtube.com/watch?v=x4x5lVOjL_Y2023/12/04


東アジア人類集団人の形成過程に関する研究はヨーロッパに比べ遅れていましたが、ここ数年で東アジアでも古代DNAデータが揃いつつ有り、多くの研究成果が報告されています。
今回は近年の研究で明らかになってきた東アジア人の起源について解説していきます。

参考書籍

人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの 「大いなる旅」
https://amzn.to/416LMkx
Kindle版
https://amzn.to/3S7C2CK

交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史
https://amzn.to/3WLzvie
Kindle版
https://amzn.to/3RcJyvD
11:777 :

2023/12/18 (Mon) 16:54:31

雑記帳
2023年12月17日
弥生時代の日本列島の人類集団の成立と展開
https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_17.html

 考古学と古代ゲノムの研究も踏まえて弥生時代の日本列島の人類集団の成立と展開に関する概説(藤尾.,2023)が公表されました。本論文は、私がほとんど把握できていない朝鮮半島の考古学的研究や、当ブログでまだ取り上げていない日本列島の古代DNA研究が取り上げられており、私にとってたいへん有益で、補足しつつ詳しく見ていきます。本論文は、弥生時代の人類集団の遺伝的起源および構成とその時空間的差異の現時点での研究の進展を把握するのに最適で、この問題に関心の日本語を読める人々にはお勧めの概説です。


●要約

 本論文は、朝鮮半島では新石器時代島嶼よりアジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を有さない人類集団が南岸に存在していた、との知見(Robbeets et al., 2021)に基づいて、朝鮮半島との関連で、日本列島における弥生時代の人類集団の遺伝的構成の起源および構成とその時空間的差異を概観します。朝鮮半島新石器時代集団は遺伝的に、アジア東部沿岸古代人集団的な遺伝的構成要素を有する集団(朝鮮半島系)と、有していない集団(西遼河系)など、前期から多様と考えられます。本論文は、多様な遺伝的構成の朝鮮半島青銅器時代集団と、そうした集団が水田稲作を九州北部に伝えた場合の弥生時代人類集団について、以下の4通りを想定します。それは、
(1)渡来系弥生時代集団I:西遼河系+在来(縄文)系の遺伝的構成で、具体的には福岡県安徳台遺跡(篠田他.,2020)や鳥取県青谷上寺地遺跡(神澤他.,2021a)など弥生中期~後期の遺跡です。
(2)渡来系弥生時代集団II:朝鮮半島系(西遼河系+古代アジア東部沿岸系)の遺伝的構成で、具体的には弥生時代前期後半の愛知県朝日遺跡ですが、在来(縄文)系弥生時代集団との遺伝的混合はほぼ認められません。
(3)在来系弥生時代集団:渡来系弥生時代集団IもしくはII+在来(縄文)系弥生時代集団の遺伝的構成で、具体的には長崎県下本山遺跡(篠田他.,2019a)や熊本県大坪貝塚(神澤他.,2023)など、弥生時代後期以降の遺跡で、いわゆる「西北九州弥生人」です。
(4)在来(縄文)系弥生時代集団:縄文時代集団(縄文人)と同じ遺伝的構成で、具体的には佐賀県唐津市大友遺跡(神澤他.,2021b)や愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡(Gakuhari et al., 2020)です。


●研究史

 朝鮮半島新石器時代の獐項遺跡個体の核ゲノムでは、後期旧石器時代(上部旧石器時代)にアジア南東部からアジア東部沿岸を北上した古代アジア東部沿岸集団と、アジア東部大陸部北方の新石器時代集団の混合と2019年に示されました(篠田他.,2019)。古代アジア東部沿岸集団とは、後期旧石器時代にアジア南東部からアジア東部沿岸を北上してきた現生人類(Homo sapiens)で、アジア東方の沿岸部や島嶼部に存在し、朝鮮半島の新石器時代集団や「縄文人」の共通の祖先と本論文では把握されています【この問題については「私見」の項目で後述します】。

 この遺伝的構成は弥生時代前期後半以降に見られる「渡来系弥生人」と呼ばれている集団と類似しているため、アジア東部北方系と古代アジア東部沿岸集団の遺伝的構成要素を有する青銅器文化集団が「渡来系弥生人」の候補の一つとして想定され、在来(縄文)系弥生時代集団と混合しなくとも「渡来系弥生人」集団は成立する、と予想されました。遺伝的混合がなければ、弥生時代初期に移住してきた青銅器文化集団は自ら水田稲作を行ない、その子孫も、「在来(縄文)系弥生人」と混合しなくとも、日本列島への渡来から400年ほどで伊勢湾沿岸地域まで到達したことや、遠賀川系甕単純の甕組成の一因を説明できるのではないか、というわけです。

 その直後の2021年11月に刊行された研究(Robbeets et al., 2021)では、古代アジア東部沿岸集団の遺伝的構成要素を有さない、西遼河流域の紀元前4500~紀元前3000年頃となる紅山(Hongshan)文化集団と同じ遺伝的構成要素でモデル化できる個体が、韓国全羅南道の新石器時代(非較正で紀元前6300~紀元前3000年頃)の安島(Ando)遺跡で確認され、韓国慶尚南道の欲知島(Yokchido)遺跡で発見された後期新石器時代個体は、獐項遺跡個体よりも古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素の割合が高い、と示されています。Robbeets et al., 2021では、古代アジア東部沿岸集団を千葉市六通貝塚の縄文時代個体群に代表させ、朝鮮半島南岸新石器時代の一部の個体を「縄文人」との遺伝的混合と解釈していますが、朝鮮半島新石器時代に「縄文人」の遺伝的影響が強くのこるほどの事態が想定される考古学的な証拠は存在しないので(水ノ江.,2022)、本論文においては「縄文人」ではなく古代アジア東部沿岸集団と表現されます【この問題については「私見」の項目で後述します】。

 Robbeets et al., 2021の調査結果は、縄文時代前期同時代の朝鮮半島南部には、著者【藤尾慎一郎氏】が想定していた古代アジア東部沿岸集団と中国北部系新石器時代集団との混合割合の異なる集団だけではなく、中国北部新石器時代直系集団【安島遺跡個体に代表されます】まで存在していたことを意味するので、朝鮮半島新石器時代集団の核ゲノムでの遺伝的多様性はきわめて多様だった、と示唆されます。朝鮮半島青銅器時代人類のゲノムデータは、網羅率の低いTaejungni遺跡の1個体(紀元前761~紀元前541年頃)しかないので詳しい分析は困難です(Robbeets et al., 2021)。

 三国時代になると、伽耶の政治的中心地であった金海(Gimhae)の大成洞(Daesung-dong)にある大規模な埋葬複合施設で発見された紀元後4~5世紀頃の8個体(Gelabert et al., 2022)や、金海柳下里貝塚で発見された人類遺骸や、5世紀の高霊池山洞44号墳の人類遺骸や、5~7世紀の永川完山洞古墳群で見つかった人類遺骸にも、中国北部系と古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的混合の痕跡が確認されており【韓国の西部沿岸地域の群山(Gunsan)市の堂北里(Dangbuk-ri)遺跡の6世紀半ばの6個体のゲノムについては、縄文系の遺伝的構成要素が示されていません(Lee et al., 2022)】、青銅器時代の朝鮮半島にもそうした遺伝的構成の人類集団が存在していた可能性は高そうです。そのため、上述のような「渡来系弥生人」の成立に関する単純な想定はもはや困難です。

 そこで本論文は、獐項遺跡以外の朝鮮半島南部の新石器時代の遺跡から出土した人類遺骸の遺伝的構成と文化について説明したうえで、その子孫である青銅器時代集団と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合のなかから、「渡来系弥生人」や「西北九州弥生人」がどのようにして成立するのか、再度検討します。


●朝鮮半島新石器時代集団の遺伝的構成と文化

 ここでは、朝鮮半島の安島貝塚と欲知島遺跡と獐項遺跡が対象です。図1には、本論文で取り上げられる朝鮮半島の新石器時代と日本列島の縄文時代~古墳時代の遺跡の分布が示されています。朝鮮半島の3ヶ所の新石器時代遺跡(安島貝塚と欲知島遺跡と獐項遺跡)は、いずれも朝鮮半島本土ではなく、その沖合の島嶼部に位置します。ここで取り上げられる日本列島の遺跡の大半は縄文時代および弥生時代となりますが、種子島の2ヶ所の遺跡(上浅川遺跡と広田遺跡)は古墳時代となります。図1の遺跡を示す灰色は、核ゲノム解析は行なわれていないものの、ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析では古代アジア東部沿岸集団系(縄文系)と示された遺跡を表しています。以下は本論文の図1です。
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 図1では、核ゲノムが解析されている個体については、「縄文人」と「在来(縄文)系弥生人」の縄文系、西遼河新石器時代集団的な遺伝的構成の中国北部系、西遼河系と古代アジア東部沿岸集団系の混合である朝鮮半島新石器時代系、青銅器時代集団と「在来(縄文)系弥生人」の混合である渡来系、「渡来系弥生人」と「在来(縄文)系弥生人」の混合である西北九州系に分類されています。朝鮮半島新石器時代では、安島個体が中国北部系、欲知島個体と獐項個体が朝鮮半島新石器時代系です。上浅川遺跡と広田遺跡の個体は、古墳時代となりますが、縄文系に分類されます。

 環朝鮮海峡地域とよばれる地域は1980年代より、朝鮮半島沿岸から九州北部および西北部も含めた地域に共通する漁撈具の存在が知られています。それは、大型の魚類を釣る西北九州型結合式釣針やオサンリ型釣針、突き刺して獲る石銛などです。新石器時代集団や「縄文人」は魚を求めて季節的にこの地域を移動していたと推測されるので、航海中に立ち寄った港で中国の玦状耳飾りや佐賀県伊万里市にある腰岳の黒曜石を入手し、各地の産物と交換していたと考えられます。これは高倉洋彰氏の指摘する漁撈民型交流です。こうした漁撈活動を担っていた朝鮮半島側の個体の核ゲノムが、一部ながら解析されています。

 安島貝塚は韓国麗水市の沖合の安島にある前期新石器時代の墓地遺跡で、合計5 体の人骨が調査されました。1 号墓は20 代女性と30 代男性の2 体の合葬墓、2 号墓と3 号と4 号墓は1 個体ずつ葬られ、いずれも基本的に仰臥伸展葬です。人骨に抜歯は認められませんでしたが、潜水漁を行なう人によく見られる外耳道骨腫が確認されています。一方で、シベリアのようなアジア大陸の北方域の人びとによく見られる下顎隆起、「渡来系弥生人」の特徴であるエナメル質感形成(2・3 号)や上顎切歯シャベル型(2・3 号)が見られます。1号人骨の20代女性のゲノムは、紀元前4700~紀元前2900年ごろの河北省北部から内モンゴル自治区東南部および遼寧省西部にみられた紅山文化集団的な遺伝的構成要素で完全にモデル化されています(Robbeets et al., 2021)。紅山文化集団のゲノムは、仰韶(Yangshao)文化集団的な遺伝的構成要素とアムール川流域を表すジャライノール(Jalainur)遺跡個体的な遺伝的構成要素との混合でモデル化されており(Robbeets et al., 2021)、本論文では中国北部系と分類されます。以下本論文では、篠田謙一に従って、中国北部系は西遼河系と呼ばれます。

 上述のように、欲知島個体と獐項個体が朝鮮半島新石器時代系に分類され、安島個体とあわせると、縄文時代前期に該当する年代には、古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的構成要素を有さず、西遼河系の遺伝的構成要素を有する集団が朝鮮半島南岸にまだ到達していた、と示されます。日本列島では、西遼河系の遺伝的構成要素で完全にモデル化できる(混合していない)個体は見つかっていません。安島貝塚と欲知島遺跡と獐項遺跡の個体の核ゲノムから、朝鮮半島では前期新石器時代から人類集団は遺伝的に多様だった、と予想されます。

 20~60 代の男女(親族関係は不明)が葬られた安島貝塚から出土した遺物には中国系の玦状耳飾、縄文系の轟式土器や石匙や結合式釣針、佐賀県腰岳産の大量の黒曜石片などがあり、黒曜石の出土数は朝鮮半島において一遺跡としては多い方で、剝片数は220 点です。また、タマキガイ科の貝で作られた貝釧を装着した人類遺骸が見つかるなど、九州西北部の縄文文化との共通性が見られます。安島貝塚の状況は、西遼河系の遺伝的構成要素を有する個体が存在する一方で、縄文系の道具を有している人がいる点で、文化的にも多様です。安島貝塚の集石付近で見つかった骨片や貝殻を対象に放射性炭素(¹⁴C)年代測定が行なわれていますが、土壙墓出土人骨自体の¹⁴C年代測定は行われておらず、2008 年以前の測定なので較正曲線はIntCal04で、較正年代は7430~6620年前頃でした。安島貝塚出土人骨では、日本列島と朝鮮半島において現時点では唯一のゲノムを西遼河系で完全にモデル化できる個体が見つかっており、一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)データに基づく主成分分析(principal component analysis、略してPCA、図4)に投影すると華北の現代中国人集団に入り(篠田謙一氏の指摘)、韓国の現代人よりも中国の現代人―にきわめて近くなります。以下は本論文の図4です。
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 韓国統営市沖合の欲知島には前期新石器時代墓地遺跡があり、2ヶ所の土壙墓から3個体の人骨が見つかっています。1 号墓には壮年の背が高い男性が葬られており、大腿骨の筋付着部がよく発達していて頑丈なことから男性と判断され、上顎右第1小臼歯も見つかっています。2 号墓は、壮年~熟年の男性と20歳前後の女性との合葬墓です。男性については側頭骨と尺骨が2体分検出されており、左側に顕著な外耳道骨腫が見られ、潜水を生業としていたことが明らかです。女性については側頭骨と四肢骨が見つかっており、華奢な感じとされています2個体の核ゲノム解析の結果、2個体とも西遼河系と古代アジア東部沿岸集団系の混合である朝鮮半島新石器時代系、西遼河系の割合は2個体間で異なっていました。欲知島遺跡では、西唐津海底式の特徴を持つ縄文土器、シカの骨や角で作られた骨角器、佐賀県腰岳産の黒曜石で作られた打製石鏃、イノシシ形土製品など九州西北部の縄文系遺物などが発見されており、九州西北部の縄文文化と密接に交流していたことが窺えます。

 洛東江三角州の西南海上の釜山特別市加徳島獐項遺跡は、前期新石器時代の墓地です。土壙墓などから人骨48体が出土し、発見された隆起線文土器や押引文土器から縄文時代前期と同年代の前期新石器時代に比定されています。山田康弘氏によると、加徳島獐項遺跡の人類遺骸は形態的に「縄文人」と異なるようで、墓壙が弥生時代の甕棺墓に見られるような列状に並んでいるなど、縄文文化には見られない特徴があります。2号および8号人骨の¹⁴C年代は6300年前頃です。加徳島獐項遺跡2号および8号のmtDNAは日本列島において弥生時代以降に見られるハプロタイプで、核ゲノム解析から、西遼河系新石器時代集団的な遺伝的構成要素と古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素の混合で、現代日本人と類似しているものの、典型的な現代韓国人とは異なる、と示されました。また、2号と8号のゲノムにおける混合割合は異なっており、遺伝的多様性が窺えます。

 加徳島獐項遺跡個体から、朝鮮半島南部では弥生時代開始の3000年以上前から、西遼河系新石器時代集団的な遺伝的構成要素と古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素の混合が見られる、と分かります。これについて篠田謙一氏は、まず旧石器時代からアジア東部太平洋沿岸の島嶼部や沿岸部には「縄文人」や朝鮮半島の新石器時代集団などを含む代アジア東部沿岸集団に遺伝的に分類できる個体群が存在しており、その後、大陸から隔離されていた「縄文人」は、大陸内部の新石器時代集団と遺伝的に混合しなかったものの、陸続きである朝鮮半島の新石器時代集団と大陸内部の新石器時代集団との間では早くから遺伝的混合が進み、遅くとも6300年前頃には現代日本人と同程度まで混血が進んでいた個体も存在した、と指摘していますこの問題については「私見」の項目で後述します】。

 南岸に限定されますが、これら朝鮮半島新石器時代個体群の遺伝的構成は、西遼河系新石器時代集団的な遺伝的構成要素と古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素で示され、前者のみの個体(西遼河系)と、前者と後者のさまざまな割合での混合の個体(朝鮮半島新石器時代系)とが確認されています。朝鮮半島では完全な古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素でモデル化できる個体はまだ確認されていませんが、日本列島と同様に存在しても不思議でありません。一方で、西遼河系の個体は日本列島では縄文時代のみならず弥生時代でも見つかっておらず、存在していたのか否かも不明です。この西遼河系新石器時代集団的な遺伝的構成を日本列島にもたらした集団と関連で注目されるのが、朝鮮半島の青銅器時代遺跡です。


●朝鮮半島青銅器時代後期の慶尚北道達城平村里遺跡

 洛東江の上流域に位置する慶尚北道達城平村里の青銅器時代中期~後期の集落・墓地遺跡では、考古学的に弥生文化の祖型と言えるような痕跡が見つかっています。集落域は北側のI地区にあり、青銅器時代中期の孔列文土器の段階で、壁際に小さな柱を隙間なく並べて支えられた壁と複数の炉があり、間口が狭く細長い長方形の住居を特徴とします。南側のII地区にある墓地(石棺群と土器棺群)の時期は青銅器時代後期で、かつて先松菊里類型といわれていた段階です。合計28 基の石棺と3基の土器棺などが検出され、28個体の人骨が出土しました。本論文では、代表的な3号石棺と20号石棺が取り上げられます。

 3号石棺は長側壁を短側壁で挟み込む形(報告書では石軸形)になっており、長さは167cm、幅は49cmで、ほぼ全身の骨が屈葬で埋葬されていました。上腕骨の長さから身長は173cmと推定されています。歯は全体的にエナメル質の摩滅が多いことから30~34歳と推定されています。磨製石剣1本と磨製石鏃9本が、左腹付近に散在するような状況で見つかっています。20号石棺は3号と同じ石軸形の石棺で、長さは150cm、幅は52cmです。ほぼ全身の骨が出土しており、推定身長は3号石棺出土人骨と同じく173 cmです。磨製石剣1本が右腰付近、磨製石鏃12本が左足下に、切先を下に向けて副葬されていました。腸骨の¹⁴C年代(4590±60年前)は、考古学的な年代よりもかなり古く出ています。

 土器棺では、壺棺1基と日常の甕を転用した甕棺2基が出土しています。安在晧氏は、壺棺が焼成前に丹を塗った丹塗磨研土器で有明海沿岸の弥生早期に見られる長胴壺と類似していることと、甕棺は松菊里式の甕を利用したもので甕の外面に縦方向の刷毛目調整が施されている点に注目しています。安在晧氏は、もともと松菊里型甕を棺として再利用する手法は朝鮮半島の中西部地方が起源で、これまで朝鮮半島東南部の嶺南地域ではあまり知られていなかったものの、近年少しずつ見つかりつつあることから、松菊里文化の拡散と関係があると考えています。棺の埋置方法には、直立と斜めと横置きがあり、これに石の蓋を組み合わせると、壺棺は石蓋直置、甕棺は石蓋斜置と横置の3種類が認められます。排水や防湿目的で、底部に穴を空けた状態の土器棺が6~8m間隔で分布しています。

 石棺墓の副葬品は磨製石剣と磨製石鏃と玉の組み合わせです。紀元前9世紀(夜臼IIa式)の福岡市雑餉隈遺跡の木棺墓に見られるものと、玉や副葬小壺を除けば共通しています。雑餉隈遺跡では人骨が残っていなかったので正確な副葬箇所は不明ですが、磨製石剣と磨製石鏃が切っ先を脚下に向けて束ねるようにまとめて納められている点に違いが認められる程度です。また磨製石剣の石材も共通しており、玉はヒスイで、半円形と穀玉があります。奥歯の外側にあたる頬の部分から出土しているので、耳飾りのような垂飾品の一部と考えられています。

 紀元前7世紀の青銅器時代後期に比定されている平村里遺跡のある洛東江の上流域は、以前より九州北部で出土する丹塗磨研壺の故地という見解がある地域だけに、紀元前7世紀(板付IIa式併行)と同年代だったとしても、「渡来系弥生人」の故郷との関連が予想されます。しかし、壺棺や甕棺に使われている土器を見ると、比率を除くと、弥生時代早期の夜臼単純段階と同年代の土器との共通性が認められます。とくに甕は外反せずに直行する口縁部を有しており、口唇部に直接刻目を施すなど、玄界灘沿岸地域で夜臼I式に伴う板付祖型甕と共通します。さらに、刷毛目調整を縦方向に施すという点まで共通しています。基本的に刷毛目調整を施さない朝鮮半島青銅器時代後期の甕とは明らかに異なっています。


●「渡来系弥生人成立」の推測

 著者【藤尾慎一郎氏】の以前の見解は表6にまとめられています。それによると、「渡来系弥生人」と類似する遺伝的構成の集団が弥生時代早期以降に出現すると想定するのがA説で、縄文時代にいたと想定するのがB説です。現在までに「縄文人」の核ゲノムは150個体分ほど解析されていますが、「渡来系弥生人」に類似する遺伝的構成の個体は見つかっていないので、基本的にはA説が妥当です。ただ、福岡県芦屋町山鹿遺跡で見つかっている長頭の個体群のような、「渡来系弥生人」と類似する形質の個体群の存在を縄文時代に想定する見解は以前からあり、岡山県倉敷市中津貝塚から見つかった縄文後期末~晩期初頭の人骨には、「渡来系弥生人」の特徴の一つであるシャベル状切歯が見られたので、現段階では「渡来系弥生人」と類似する遺伝的構成の個体が縄文時代に存在した可能性を完全に否定することはできない、と予想されます。さらに、朝鮮半島南部には縄文時代前期と同年代から「渡来系弥生人」と類似した遺伝的構成の個体(獐項遺跡)が見つかっているので、そうした遺伝的構成の個体が九州西北部で見つかる可能性を否定できませんが、大量に見つかることも考えにくいでしょう。以下は本論文の表6です。
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 このように、B説を完全には否定できないものの、大枠ではA説が妥当と考えられます。A説は、水田稲作開始期に海を渡って九州北部に到来した人々、つまり「渡来人」が、到来後すぐに「縄文人」の直系である「在来(縄文)系弥生人」と混血することで「渡来系弥生人」が成立するA-1説(移住・混血説)と、渡来直後には混血せず、しばらく経ってから混血することで「渡来系弥生人」が成立するA-2説(混血説)に分かれます。A-1説は金関丈夫氏以来の移住・混血説ですが、A-2説は、福岡県三国丘陵を舞台とした田中良之氏や片岡宏二氏、朝日遺跡(篠田他.,2021)を舞台に石黒立人氏らが想定していた、移住当初は混血しないという見解です(この場合は遠賀川系土器を使用する集団の移住)です。

 A-1説は、「渡来人」の遺伝的構成によりaとbに分かれ、「渡来人」が古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を有していない場合(a)と有している場合(b)で、aは松下孝宰氏がかつて想定したような山東半島の新石器時代集団などがあり、bは未確認で分析は行なわれていませんが、朝鮮半島系新石器時代集団の系統の朝鮮半島青銅器時代集団を想定できます。著者の以前の見解はRobbeets et al., 2021の公表前にまとめられており、西遼河系(中国北部系)の存在自体が前提になかったので、山東半島新石器時代人集団などを念頭に推測されていました。しかし、仮に山東半島から渡来してきた集団がいたとしても、「在来(縄文)系弥生人」と関わった可能性を支持する考古学的な証拠は弥生開始期の土器にみられる叩き技法ぐらいで、石器などに見られる特徴から推測して可能性が高いのは、朝鮮半島青銅器時代集団が日本列島に渡来してきて、「在来(縄文)系弥生人」と関わった想定です。朝鮮半島において青銅器時代に中国系であることを示す人骨は具体的に知られていませんでしたが、たとえばそうした集団が渡来後に「在来(縄文)系弥生人」とあまり遺伝的に混合せずに東方へ移動したならば、朝日遺跡13号人骨のように、「在来(縄文)系弥生人」とほとんど混合していないことを示す遺伝的構成要素の「渡来系弥生人」が成立するだろう、と予想されました。

 次に、「渡来系弥生人」と類似した遺伝的構成の朝鮮半島系新石器時代集団の系統が渡来してきたならば、遺伝的に混合せずとも安徳台遺跡個体のような「渡来系弥生人」が出現し、「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合したならば、「西北九州弥生人」のような遺伝的構成の集団が成立します。現時点では、いずれも日本列島への到来後しばらく経過してから遺伝的に混合するA-2説に相当します。このように朝鮮半島新石器時代系集団が日本列島に到来した「渡来人」の場合は、あまり遺伝的に混合せずとも「渡来系弥生人」と類似した遺伝的混合となり、遺伝的に混合すると西北九州弥生人が生まれるので、やや複雑な事例です。

 また朝鮮半島新石器時代系「渡来人」の場合は、「渡来人」と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合が起こった時期も重要です。まだ形質だけを指標に想定していた20世紀には、福岡県三国丘陵では前期後半、朝日遺跡では前期後半の新段階と、いずれも、その地で水田稲作が始まった時ではなく、しばらく経過してから遺伝的混合が始まる、と考えられてきました。それは、これ以前の時期の「渡来系弥生人」の骨が見つかっていなかったからです。「在来(縄文)系弥生人」と朝鮮半島新石器時代系「渡来人」との遺伝的混合の有無や、遺伝的に混合した場合の時期については、弥生時代の人類遺骸の核ゲノム解析を継続していけば、いずれ明らかになるでしょう。松下孝宰氏が「渡来人」の故郷として想定した山東半島にしても、朝鮮半島新石器時代系の青銅器時代集団にしても、想定に用いたのは新石器時代個体の遺伝的構成だけに、青銅器時代に水田稲作を持ち込んだ青銅器時代後期集団の遺伝的構成の特定は困難ですが、上述のように三国時代にも新石器時代に確認されている遺伝的構成の系統を受けついだ個体が認められている以上、青銅器時代集団にも存在していた可能性は充分にあるでしょう。

 こうした想定に基づいて、新たな知見(Robbeets et al., 2021)を踏まえて表6を改めたのが表7と図9です。まず、縄文時代の日本列島について「渡来系弥生人」と類似する遺伝的構成の集団の有無で区別するのは旧説と同じで、存在しなかったのがA説、存在したのがB説です。ただ、B説はまだ証明できていないので、さらに検討されるのはA説だけです。A説は、「渡来人」のゲノムの遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な構成要素が含まれないのか(a)、含まれるのか(b)によってaとbに分かれ、さらにそれぞれが「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合していないのか(1)のか、したのか(2)により分かれるので、合計4通りを想定できます。旧説では獐項個体のような朝鮮半島新石器時代集団的な遺伝的構成要素を有する「渡来人」と「在来(縄文)系弥生人」が遺伝的に混合すれば、「西北九州弥生人」の成立を想定でき、混合しなければ青谷上寺地遺跡にも見られるような「渡来系弥生人」の存在を想定できてしまったので、そうした不具合が解消されました(図9)。以下は本論文の表7です。
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 A-a-1説では、「渡来人」の遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を含まない西遼河系の青銅器時代集団が渡来し、「在来(縄文)系弥生人」(図1の青色)と遺伝的に混合しなかった事例、つまり西遼河系の遺伝的構成要素のみの「渡来人」は現時点で見つかっていませんし、そうした遺伝的構成の個体は朝鮮半島南部の青銅器時代でも明らかになっていません。安在晧氏が達城平村里遺跡の墓地の分析を踏まえて想定したように、九州北部に水田稲作を伝えたのが、山東半島付近の叩き技法を用いる土器製作者だとしたら、そうした集団の遺伝的構成はA-a-1説で想定されているものだったかもしれません。以下は本論文の図9です。
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 A-a-2説では、「渡来人」の遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を含まない西遼河系の青銅器時代集団人が日本列島に到来し、「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合すれば、安徳台遺跡個体のような「渡来系弥生人I」(図1の紫色)が成立します。現時点では、朝鮮半島南部の青銅器時代でさえこうした遺伝的構成の個体は確認されていませんが、紀元前1世紀の安徳台遺跡や紀元後2世紀の青谷上寺地遺跡などで多数の「渡来系弥生人I」が確認されています。遺伝的構成からはその上限がまだ紀元前1世紀となりますが、形質からみると「渡来系弥生人」は紀元前7世紀の福岡市雀居遺跡で見つかった前期中頃(板付IIa式)の人骨が最古級なので、この段階まではさかのぼるかもしれません。対象となる雀居遺跡出土人骨などの核ゲノム解析が期待されます。

 A-b-1説では、「渡来人」の遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を含む朝鮮半島新石器時代系の「渡来人」が日本列島に到達しても、「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合があまりなければ、在来(縄文)系の遺伝的構成要素の割合がひじょうに少ない、「渡来系弥生人II」が誕生します。現時点では朝鮮半島南部の青銅器時代でさえこうした遺伝的構成の個体はまだ確認されていませんが、紀元前6世紀の朝日遺跡13号人骨に代表されます。こうした遺伝的構成の集団が朝鮮半島南部から直接的に伊勢湾沿岸地域に到来した可能性は低いので、まず九州北部に到来した後でしばらくして東方へ移動してきたとすれば、その上限年代は、九州北部では水田稲作開始年代の紀元前10世紀後半までさかのぼるかもしれません。

 A-b-2説では、「渡来人」の遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を含む朝鮮半島新石器時代系の「渡来人」が日本列島に到達しても、「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合すれば、形質的には「縄文色」の強い、いわゆる「西北九州弥生人」が誕生します。現時点では、紀元前後の長崎県下本山遺跡の人骨が最古級です、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)M7aの人類遺骸は、紀元前3世紀の熊本市笹尾甕棺や福岡県行橋市長井遺跡で見つかっているので、紀元前3世紀までさかのぼるかもしれません。

 著者はこれまで、A-a-2説で「渡来系弥生人I」の成立を考えてきましたが、現時点では「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合した相手である西遼河系の「渡来人」は、青銅器時代の朝鮮半島南部でも弥生時代の西日本でも見つかっていません。それに対して新たに確認されたのがA-b-1説で、まだ朝鮮半島南部の青銅器時代に朝鮮半島新石器時代人系の青銅器時代個体は見つかっていませんが、上述のように三国時代の人類遺骸の核ゲノム解析結果(Gelabert et al., 2022)からは、青銅器時代の朝鮮半島に存在した可能性は高そうです。ただ、朝鮮半島新石器時代系集団と朝日遺跡13号人骨ではPCA(図4)のY軸上にズレが見られることや、神澤秀明氏の指摘からは、まだ解決したとは言えない状況です。獐項個体の遺伝的構成要素がそのまま日本列島にもたらされているとしたら、現代日本人のゲノム上にある縄文由来のDNA断片は組換えによりもっと断片化されているはずであるものの、そうはなっていないので、獐項個体に代表される朝鮮半島新石器時代系集団の現代日本人における影響はそこまで大きなものではなかったと考えられる、と神澤秀明氏は指摘しています。

 核ゲノムから判断すると、「渡来系弥生人IおよびII」の形成過程は以上のように推測されますが、これではとくに弥生時代開始期に見られる考古学的な事象を充分に説明できないことも確かです。それは、土器や石器などの水田稲作関連の道具に当初から見られる九州北部独自の在地的変容です。朝鮮半島青銅器文化の文物と完全に同じではない土器や石器の存在をどう説明するのか、という問題です。たとえば、九州北部玄界灘沿岸地域の弥生時代早期の甕形土器の組成では、青銅器時代後期系のいわゆる板付祖型甕は10%程度しかなく、残りの90%は砲弾型と屈曲型の突帯文土器です。また下條信行氏が指摘するように、大陸系磨製石器や石庖丁に見られる在地的変容の問題もあります。弥生時代開始期個体の核ゲノムは、佐賀県大友遺跡から出土した「在来(縄文)系弥生人」しか分かっておらず(神澤他.,2021b)、渡来系弥生人にいたっては、II型が板付IIb式に併行するI期中段階の朝日遺跡に存在していたことしか分かっていません。

 渡来人の集団居住地と言えるような遺跡が弥生時代開始期の玄界灘沿岸地域で見つかっていないため、「在来(縄文)系弥生人」との共住もしくは日常的な接触交流、さらにはやや極端な言い方ではあるものの、青銅器文化集団による「在来(縄文)系弥生人」への強制力などを想定しない限り、在地的変容をみせる文物が存在する理由の説明は困難です。したがって、考古学的には稲作開始の当初から交流があったことを前提に、遺伝的な混合があったのか否かを知るためには、まず形質的に最古級の「渡来系弥生人」と報告されている福岡市雀居遺跡第7次調査の2号土壙墓から出土した成年女性の抜歯のある人骨の核ゲノム解析の必要があります。この成年女性が渡来系弥生人IなのかIIなのか、それとも「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合した「西北九州弥生人」なのかによって、少なくとも弥生時代前期中頃の人類の遺伝的構成を知ることができます。


●「西北九州弥生人」の成立過程

 旧説では、これまで「西北九州弥生人」とよばれてきた個体群に、遺伝的には「縄文人」と分類できる個体(弥生時代早期の大友遺跡)から、「在来(縄文)系弥生人」と「渡来系弥生人」が遺伝的に混合した個体(2000年前頃の下本山岩陰遺跡)まであり、下本山岩陰遺跡の2個体については「在来(縄文)系」と「渡来系」の遺伝的構成要素の割合が異なっていて、その分布は熊本県や鹿児島県や西日本など、西北九州に限定されない可能性があることや、その出現時期は現時点状では紀元前後が最古級であるものの、弥生時代中期前葉の紀元前3世紀まではさかのぼる可能性があること、さらに、朝鮮半島新石器時代系の青銅器時代集団が日本列島に到来し、弥生時代早期に「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合した場合でも成立するかもしれない、と指摘されました。これら九州西北部に限定されない、朝鮮半島新石器時代系集団と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合個体の広範な分布からは、「西北九州」というような地域を限定する呼び方の妥当性、出現時期、混合度合いなどについて今後、核ゲノムデータが増えていけば自ずと整理されるでしょう。本論文は、いわゆる「西北九州弥生人」という用語ではなく、「在来系」の遺伝的構成要素が主で、「渡来系」の遺伝的構成要素が従であるという意味で、「在来系弥生人」と仮称し、これがどのような過程で成立したのか、推定しました。

 渡来系弥生人Iは、古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的構成要素を有していない朝鮮半島の西遼河系青銅器時代集団が「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合すれば成立し、「渡来系弥生人II」は、古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的構成要素を有している朝鮮半島系青銅器時代集団が、さほど「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合しなくても成立します。「在来(縄文)系弥生人」と西遼河系青銅器時代集団との遺伝的混合によって「渡来系弥生人I」が成立することについて異論はありません。著者は、の時期が弥生時代早期前半のうちだろう、と考えてきました。朝鮮半島の青銅器時代集団が血縁集団単位で日本列島に到来し、「在来(縄文)系弥生人」がおもな生活の舞台としていなかった平野の下流域に入植し、水田を拓いて、水田稲作を行なうことになりましたが、木製農具や石斧類や石庖丁を作るにしても、素材として適した石材や木材のありかに関する情報を持つ「在来(縄文)系弥生人」との協調関係のもと情報交換が必要であることや、水田造成および環壕掘削に必要な労働力不足を補うためにも、また近親婚防止の点からも、「在来(縄文)系弥生人」が必要とされたことや、その対象となるのは好奇心旺盛な「在来(縄文)系弥生人」の若い世代であることなどが、未開拓領域理論(採集狩猟民の地理空間に農耕民が入ってくると、すでに両者の接触を想定するモデルで、採集狩猟民の一部が両者を結びつけ、結果的に地域全体に農耕が拡大する、と想定されます)で説明されてきました。

 ただ、当時は遺伝学との統合がほとんど進められていなかったので、青銅器時代集団と「在来(縄文)系弥生人」の遺伝的混合で「渡来系弥生人」が誕生することや、「西北九州弥生人」は「渡来人」と遺伝的に混合していない「縄文人」直系集団と理解されていました。しかし、核ゲノム解析結果を踏まえると、そのような単純なものではありませんでした。まず、「渡来人」自身、古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的構成要素を有していない「西遼河系渡来人」と、有している「朝鮮半島系渡来人」の二者が存在し、前者が「在来(縄文)系弥生人」と混血すると「渡来系弥生人I」が成立するものの、後者が「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合すると「西北九州弥生人」と言われてきたような「在来系弥生人」が成立することや、さほど遺伝的に混合せずとも「渡来系弥生人II」が成立することも分かりました。

 現時点では、朝鮮半島系の「渡来系弥生人II」が紀元前6世紀には存在しているのに対して、西遼河系との遺伝的混合である「渡来系弥生人I」は最古級でも紀元前後までしか確認できていません。どちらが先に成立していたのかは分かりませんが、前期新石器時代の朝鮮半島南部に西遼河系も朝鮮半島系も存在していたことを考えると、水田稲作を伝えた青銅器時代集団のなかには、当初から複数遺伝的構成要素の血縁集団が存在し、「在来(縄文)系弥生人」と混血した個体群もいれば、あまり遺伝的に混合しなかった個体群も存在した、ということでしょう。もちろん、1血縁集団のなかにさえ、複数の遺伝的構成要素を有する個体が存在した可能性も否定できません。「渡来系弥生人」の核ゲノム解析はまだ少なく、研究の端緒に入ったばかりなので、今後の調査と分析が期待されます。


●まとめ

 本論文は、旧説に基づき、2021年11月に刊行された研究(Robbeets et al., 2021)を踏まえて、「渡来系弥生人」や「西北九州弥生人」とよばれてきた集団の成立過程について再度検討してきました。その結果、以下の6点が想定されます。

(1)新石器時代の朝鮮半島南部には、縄文時代早期~前期と同年代の7000年前頃から、さまざまな遺伝的構成要素の集団が存在していました。古代アジア東部沿岸集団の遺伝的構成要素を有していない、中国北部由来の西遼河系(安島貝塚個体)、西遼河系と古代アジア東部沿岸集団が遺伝的に混合した朝鮮半島系(獐項遺跡個体や欲知島遺跡個体)、未確認ではあるものの、古代アジア東部沿岸集団の直系集団です。こうした集団と盛んに交流していた九州西北部の「縄文人」の核ゲノムには、後世に遺伝的影響を及ぼすほど新石器時代集団と遺伝的に混合した個体が存在したことを示す考古学的な証拠は得られていません。したがって、縄文時代の頃において、朝鮮半島南部と日本列島の集団の遺伝的構成は基本的に異なっていたと考えられ、両者の間には後世に遺伝的な影響を残すような混合なかったことが前提に考えられました。

(2)考古学的には青銅器時代後期になって朝鮮半島南部の青銅器時代集団が渡海して日本列島へと到来し、水田稲作を生産基盤とする遼寧式青銅器文化を九州北部にもたらした、と考えられています。また朝鮮半島については、青銅器時代後期時代個体の核ゲノム解析は行なわれていませんが、三国時代の個体群の遺伝的構成要素から考えて、新石器時代前期に存在した多様な遺伝的構成要素が青銅器時代に引き継がれていると考えられるため、「渡来系弥生人」や「西北九州弥生人」など各種「弥生人」の成立事例が4通り想定されました。

(3)「渡来系弥生人」には、「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合して成立する安徳台遺跡個体や青谷上寺地遺跡個体のような「渡来系弥生人I」と、遺伝的混合がさほど見られない朝日遺跡のような「渡来系弥生人II」が見られました。「渡来系弥生人I」は西遼河系の遺伝的構成要素を有する個体群が移住して「在来(縄文)系弥生人」と混合した結果形成され、金関丈夫氏以来想定されていました。ただ、西遼河系は青銅器時代の朝鮮半島南部でも弥生時代の日本列島でもまだ確認されていません。「渡来系弥生人II」は朝鮮半島系集団が移住はするものの、「在来(縄文)系弥生人」とはさほど遺伝的に混合せず、これまで想定されていませんでした。

(4)いわゆる「西北九州弥生人」には、佐賀県唐津市大友遺跡8号支石墓出土人骨のように「在来(縄文)系弥生人」遺伝的構成要素を100%継承している個体から、「渡来系弥生人」の遺伝的構成要素を一定量含む個体までが存在し、後者の時期は現時点で、紀元前後の下本山遺跡個体が最古級です。ただ、西日本の「縄文人」が有するmtHg-M7aを有する弥生時代個体は、弥生時代中期前半の福岡県行橋市長井遺跡や熊本市笹尾遺跡で見つかっているので、いわゆる「西北九州弥生人」は紀元前3世紀までさかのぼる可能性があります。おそらく「渡来系弥生人」が水田稲作とともに拡散することによって、西北九州に限らず各地で「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合が起こる、と考えられます。したがって、特定の地域名である「西北九州」を冠するのは適当ではなく、「在来系弥生人」との呼称が相応しいと考えられます。

(5)形態学的には、「渡来系弥生人」と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合は、水田稲作開始期ではなく、しばらく経ってから始まると考えられてきましたが、その根拠は、すべての土器型式の存続期間が均等であることを前提とした弥生短期編年下における人口増加率模擬実験だったり、在来(縄文)系弥生文化の土器と遠賀川系土器との折衷土器の成立時期であったり、縄文系第二の道具である土偶や石棒などの出現時期(春日井市松河内遺跡など)だったりしました。しかし、すべての土器型式の存続期間が均等でないことを前提とする弥生長期編年下ならば、水田稲作開始と同時に遺伝的混合が始まっていたとしても、一型式100年ほどの長い存続期間を考えれば、当初人口は増えません。また田中良之氏が三国丘陵で指摘しているように、弥生時代前期後半の板付IIb式頃から遺伝的混合が増え始めることを考えると、遺伝的混合の開始時期はとくに限定されない、と推測されます。後世に遺伝的影響を及ぼすようになる混合の開始が板付IIb式以降であることを考えると、形態学的観点から言われてきた遺伝的混合の開始時期と、基本的に同じ結果となりました。

(6)上述の(5)から考えると、水田稲作開始当初から西遼河系青銅器時代集団の「渡来人」と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合が始まっていれば、「渡来系弥生人I」の数が急激に増えなくて、土器と石器に在地的変容が起こることは矛盾なく説明できます。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は日本列島の弥生時代の人類集団の遺伝的構成とその形成過程について、考古学的研究も踏まえつつ、現時点での遺伝学的証拠に基づいて推測しています。本論文の注目点の一つは、「古代アジア東部沿岸集団」の想定です。本論文が指摘するように、Robbeets et al., 2021は朝鮮半島南岸の複数の新石器時代の複数個体のゲノムについて、0~95%の「縄文人」的な遺伝的構成要素とそれ以外の紅山文化集団的な遺伝的構成要素との混合でモデル化しています。他の研究でも、アジア東部北方沿岸部のボイスマン(Boisman)遺跡の6300年前頃となる中期新石器時代個体群が、モンゴル新石器時代集団的な遺伝的構成要素(87%)と「縄文人」的な遺伝的構成要素(13%)の混合でモデル化されています(Wang et al., 2021)。

 これらの研究からは、「縄文人」がアジア東部北方沿岸に渡海し、遺伝的痕跡を残したようにも見えます。しかし本論文は、朝鮮半島新石器時代に「縄文人」の遺伝的影響が強くのこるほどの事態が想定される考古学的な証拠は存在しないと指摘し、朝鮮半島南岸の複数の新石器時代の複数個体の遺伝的構成要素として、「縄文人」ではなく「古代アジア東部沿岸集団」を想定しています。ただ、縄文文化が朝鮮半島南岸に定着したとはとても言えないとしても、縄文土器の分布から、「縄文人」が九州から朝鮮半島南岸に渡った可能性は高そうで(水ノ江.,2022)、その意味では、朝鮮半島南岸の複数の新石器時代の複数個体のゲノムの一部が「縄文人」的な遺伝的構成要素と想定しても大過はないようにも思います。ただ、本論文で引用されている神澤秀明氏の見解から推測すると、6300年前頃の獐項遺跡個体により表される集団が、現代日本人の遺伝的構成に大きく寄与した可能性はきわめて低そうです。

 ここで重要なのは、これらの個体の遺伝的構成要素のモデル化は既知の古代人もしくは現代人個体(あるいは集団)を用いており、直接的な祖先集団を証明しているわけではない、ということです。そこで問題となるのは、ボイスマン遺跡の中期新石器時代個体群のゲノムが、「縄文人」的な遺伝的構成要素なしでもモデル化できることです。この場合、モンゴル新石器時代集団に代表されるアジア東部北方的な遺伝的構成要素(71%)とアジア東部南方沿岸部的な遺伝的構成要素(29%)の混合とモデル化されており、「縄文人」はアジア東部南方沿岸部的な遺伝的構成要素(46%)とアンダマン諸島のオンゲ人集団と相対的に近い初期ユーラシア東部集団的な遺伝的構成要素(54%)の混合でモデル化されています(Huang et al., 2022)。Huang et al., 2022では、ユーラシア東部系集団が、まず初期ユーラシア東部系と初期アジア東部系に分岐し、初期アジア東部系が南北に分岐して、南部系は南部(内陸部)系と沿岸部系(アジア東部南方沿岸部)に分岐した、と推測されています。つまり、ボイスマン遺跡の中期新石器時代個体群のゲノムは、「縄文人」的な遺伝的構成要素を含んでいるのではなく、「縄文人」と比較的近い過去に祖先集団を共有していたらか、とも解釈できるわけです。

 同様のことは、現代日本人の平均よりもやや多い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素でモデル化された朝鮮半島南岸の煙台島(Yŏndaedo)遺跡と長項(Changhang)遺跡の前期新石器時代個体(Robbeets et al., 2021)にも言えます。以前の研究で「縄文人」とユーラシア東部沿岸集団との類似性が報告されたこと(Yang et al., 2020)も踏まえると、Huang et al., 2022のモデルは現時点で最も実際のユーラシア東部の人口史に近いかもしれません。その意味で、本論文が朝鮮半島南岸の新石器時代個体のゲノムの一部を、「縄文人」的ではなく「古代アジア東部沿岸集団」的な遺伝的構成要素として把握したのは、Robbeets et al., 2021よりも適切かもしれません。ただ、朝鮮半島南岸の欲知島遺跡の後期新石器時代個体とボイスマン遺跡の中期新石器時代の外れ値の1個体は、それぞれ95%(Robbeets et al., 2021)と30%(Wang et al., 2023)程度の「縄文人」的な遺伝的構成要素でモデル化できるので、とくに欲知島遺跡の後期新石器時代個体については、日本列島からの「縄文人」の直接的到来と遺伝的影響(95%よりはずっと少ない割合としても)を想定すべきかもしれません。

 本論文で提示される日本列島の弥生時代の人類集団の遺伝的構成は多様で、弥生時代の人類集団の遺伝的多様性(関連記事)が改めて示されています。さらに言えば、弥生時代には青谷上寺遺跡のように1ヶ所の遺跡で遺伝的多様性を示す事例も確認されています(神澤他.,2021a)。また、種子島では日本列島の多くの地域が古墳時代を迎えても、「縄文人」的な遺伝的構成要素のみでモデル化できる個体が存在していたようで、日本列島における現在のような遺伝的構成が古墳時代でもまだ確立していなかったことを示唆しています。弥生時代以降の日本列島における遺伝的構成要素として、「縄文人」的なものとともに西遼河系的なものを想定する本論文の見解との関連で注目されるのは、古墳時代に弥生時代とは異なる遺伝的構成要素が日本列島にもたらされ、それが現代日本人集団では大きな影響を有している、と推測した研究(Cooke et al., 2021)です。Cooke et al., 2021では、現代日本人集団の主要な遺伝的構成要素は「縄文」と「アジア北東部」と「アジア東部」で、縄文時代には「縄文」のみが存在し、弥生時代に「アジア北東部」が、古墳時代に「アジア東部」がもたらされた、と推測されています。

 一方で、これら主要な3種類の遺伝的構成要素について、「縄文」と「アジア北東部」および「アジア東部」との違いと比較して、「アジア北東部」と「アジア東部」の違いはずっと小さくなっています。本論文で弥生時代の人類集団の祖先としてモデル化されている西遼河地域の人類集団について、経時的な遺伝的構成の変化が指摘されていることも踏まえると(Ning et al., 2020)、弥生時代、さらには古墳時代以降の日本列島の人類集団の遺伝的構成の起源と形成過程はかなり複雑だったとも考えられ、解明は容易ではなさそうです。アジア北東部の完新世人類集団の遺伝的構成は、地理を反映して一方の極(北方)にアムール川流域、もう一方の極(南方)に黄河流域があり、西遼河地域はその中間的特徴と経時的変容を示します(Ning et al., 2020)。これはその後の研究(Robbeets et al., 2021)でも改めて示されていますが、黄河流域新石器時代集団的な遺伝的構成要素の割合は、紅山文化から夏家店下層(Lower Xiajiadian)文化では高くなり、その後の夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化では低下しています。

 西遼河もしくはその周辺地域で夏家店上層文化以降も同様の遺伝的変容が起きたならば、弥生時代以降の日本列島、さらには後期新石器時代以降の朝鮮半島における人類集団の遺伝的構成の変容は、単調なものではなく複雑なものだった可能性が高そうです。Cooke et al., 2021では、弥生時代集団は現代日本人集団の平均よりずっと高い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素と残りのアジア北東部的な遺伝的構成要素で、古墳時代集団はアジア東部的な遺伝的構成要素の大きな割合の流入によりモデル化されており、古墳時代に現代日本人集団の遺伝的構成が形成された、と推測しています。一方で、Cooke et al., 2021が弥生時代集団の代表としたのは、「縄文人」的な遺伝的構成要素の割合が現代日本人集団の平均よりずっと高い下本山岩陰遺跡の2個体で、本論文でも取り上げられている、下本山岩陰遺跡の2個体よりずっと低い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素でモデル化できる安徳台遺跡個体は検証されていません。

 また、古墳時代については、和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号(紀元後398~468年頃)および2号(紀元後407~535年頃)のゲノムにおける「縄文人」的な遺伝的構成要素の割合は、52.9~56.4%、2号が42.4~51.6%と推定されています(安達他.,2021)。後の畿内ではないものの近畿地方において、紀元後5~6世紀頃においても、このようにゲノムを現代日本人集団よりもずっと高い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素でモデル化できる個体が存在することは、日本列島では古墳時代においても現代より人類集団の遺伝的異質性がずっと高かったことを示唆しています。

 これらを踏まえると、西遼河もしくはその周辺地域において経時的な人類集団の遺伝的構成の変容があり、それが朝鮮半島、さらには日本列島にも波及し、Cooke et al., 2021が想定したように、日本列島において弥生時代以降に到来した人類集団の遺伝的構成は、時期により大きな違いがあった可能性も考えられます。朝鮮半島における人類集団の遺伝的構成の変容について確証はありませんが、網羅率が低く信頼性に欠けるとはいえ、青銅器時代のTaejungni個体のPCAでの位置づけ(Robbeets et al., 2021)から推測すると、朝鮮半島において紀元前千年紀に人類集団の遺伝的構成の大きな変容が起きた可能性も考えられ、それは、朝鮮半島において朝鮮語系統の言語が紀元前5世紀頃に到来した、と推測する言語学も踏まえた考古学的知見(Miyamoto., 2022)とも整合的かもしれません。また、本論文でも他の研究(Gelabert et al., 2022)でも、三国時代の人類集団にも存在した古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素(他の研究では「縄文人」的な遺伝的構成要素)は、朝鮮半島南岸において新石器時代からずっと継続していた、と推測されていますが、こうした遺伝的構成要素が一旦朝鮮半島で失われ、弥生時代もしくは古墳時代以降に日本列島からもたらされた可能性もあるとは思います。

 本論文が依拠した研究(Robbeets et al., 2021)については、弥生時代以降に日本列島にもたらされた遺伝的構成要素について、夏家店上層文化集団でモデル化としているものの、競合する混合モデルを区別する解像度が欠けていて、紅山文化個体的な遺伝的構成要素と夏家店上層文化個体的な遺伝的構成要素は朝鮮半島および日本列島の古代人と遺伝的に等しく関連しており、夏家店上層文化個体的な遺伝的構成要素を選択的に割り当てられた集団は、その代わりに紅山文化的な遺伝的構成要素でも説明できる、と批判されています(Tian et al., 2022)。

 こうした批判も踏まえると、弥生時代以降の日本列島の人類集団の遺伝的構成の起源と形成はかなり複雑だった可能性が高そうです。弥生時代の比較的早い段階で日本列島に到来した人類集団は、西遼河もしくはその周辺地域起源で、朝鮮半島から日本列島に到来したのでしょうが、その後に朝鮮半島では西遼河もしくはその周辺地域起源の異なる遺伝的構成の集団が到来し、在来集団と遺伝的に混合しつつ拡散し、一部が日本列島に到来したのではないか、と現時点では考えています。つまり、弥生時代早期に朝鮮半島から日本列島に到来した人類集団と、古墳時代、もしくは弥生時代のある時点以降に日本列島に到来した人類集団とでは遺伝的構成が異なっており、それが現代日本人集団の遺伝的構成に反映されているのではないか、というわけです。この仮説の検証には、今よりも多くの一定以上の品質の日本列島と朝鮮半島と西遼河地域も含めて中国の広範な地域の古代ゲノムデータが必要となるでしょう。


参考文献:

Cooke NP. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419
関連記事


Gakuhari T. et al.(2020): Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations. Communications Biology, 3, 437.
h
12:777 :

2023/12/26 (Tue) 14:54:16

雑記帳
2023年12月26日
縄文時代の人類集団の遺伝的構造と非縄文文化圏への遺伝的影響
https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_26.html

 縄文時代の人類集団の遺伝的構造と非縄文文化圏への遺伝的影響に関する研究(Jeong et al., 2023)が公表されました。本論文は、新たな縄文時代の人類(縄文人)のゲノムデータを報告しているわけではありませんが、既知の「縄文人」や「縄文人」的な遺伝的構成の古代人のデータを再検証し、「縄文人」集団の遺伝的構造を明らかにするとともに、非縄文文化圏の「縄文人」的な遺伝的構成の個体の起源を推測しています。ただ、こうした縄文文化圏外の「縄文人」的な遺伝的構成要素を有する個体が、実際に「縄文人」の子孫であるとは限らない可能性も考慮しておくべきでしょう(関連記事)。本論文の見解は、今後「縄文人」や日本列島およびユーラシア東部大陸部の時空間的に広範囲の古代人のゲノムデータの蓄積により、さらに洗練されていくのではないか、と期待されます。また本論文からは、ゲノムや片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)と文化(および自己認識や帰属意識)とを安易に結びつけてはいけないことも改めて窺えるように思います。


●要約

 「縄文人」は日本列島の先史時代の住民で、16500~2300年前頃にかけて日本列島に居住していました。「縄文人」の古代ゲノムとゲノム規模データの最近の蓄積は、「縄文人」の遺伝的特性および現在の人口集団への寄与に関する理解をかなり深めてきましたが、時間にして14000年間、距離にして2000kmにわたる縄文時代の日本列島における「縄文人」の遺伝的歴史は、ほとんど調べられていないままです。本論文は、刊行されている「縄文人」23個体と「縄文人」的な個体群の古代のゲノム規模データ間の遺伝的関係の分析に基づく「縄文人」の遺伝的歴史を解明する、複数の調査結果を報告します。第一に、9000年前頃となる四国の縄文時代早期個体は残りのその後の縄文時代個体に対して共通の外群を形成し、西日本における人口置換が示唆されます。第二に、琉球諸島の宮古島や朝鮮半島南岸の欲知島(Yokjido、Yokchido)で見つかった、縄文時代の考古学的状況外の遺伝的に「縄文人」的な個体群は、四国の縄文時代後期の1個体と最も近い遺伝的類似性を示し、時空間的にその起源を絞り込みます。本論文は、日本列島内外の「縄文人」の動的な歴史を浮き彫りにし、古代の「縄文人」のゲノムの大規模な調査を必要とします。


●研究史

 「縄文人」は、日本列島に16500~2300年前頃に居住していた集団です。「縄文人」はその生計戦略においておもに狩猟と採集と漁撈に依存していましたが、定住生活様式を発展させ、土器を製作して使用し、この土器はその縄目文から縄文土器と命名されました。縄文土器の様式の時間的変化に基づいて、縄文時代は草創期(16500~10500年前頃)と早期(10500~7000年前頃)と前期(7000~5500年前頃)と中期(5500~4500年前頃)と後期(4500~3250年前頃)と晩期(3250~2500年前頃)に区分されてきました。

 「縄文人」の起源と遺伝的歴史は、「縄文人」自体の理解だけではなく、日本列島の現在の人口集団の遺伝的多様性の理解でも、学術的に強い関心を集めてきました。たとえば、日本列島の北端地域のアイヌは、日本列島中央部の(本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする)「本土」日本人とよりも、日本列島最南端の琉球諸島民の方と遺伝的に近く、それは、アイヌが「本土」日本人よりも「縄文人」関連の祖先からより高い割合の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を継承したからです。

 「縄文人」に関するほとんどの考古遺伝学的研究はおもにミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)を対象としており、mtHg-N9b1およびM7aがそれぞれ北方の「縄文人」と南方の「縄文人」で代表的と分かったので、「縄文人」における内部の人口分化が示唆されています(関連記事)。過去数年間で、ついに「縄文人」の古代ゲノムもしくはゲノム規模データが報告されてきており、高解像度で「縄文人」の人口構造と遺伝的歴史を調べる機会が提供されます(関連記事)。とくに、最近の研究では、5000年間(8800~3800年前頃)を網羅する「縄文人」9個体のゲノムが報告されており、長期的で均質な「縄文人」の遺伝的特性が確証されました(関連記事)。

 最近刊行された「縄文人」のゲノムは、「縄文人」の起源と現在の人口集団における遺伝的遺産についての主要な問題について、大きな進歩をもたらしました。たとえば、「縄文人」の遺伝子プールは大陸部の近隣人口集団と異なっており、それは、「縄文人」が現在の人口集団により適切に表されない深く分岐したユーラシア東部系統と強い遺伝的つながりを有していたからです(関連記事)。「縄文人」と他のアジア東部人口集団との間の分離は、「縄文人」の小さな有効人口規模(1000人未満)で25000~20000年前頃と推定されました(関連記事)。また、日本人の起源に関する、伝統的な二重構造モデルの拡張版である三重構造モデルが、古代の縄文時代と弥生時代と古墳時代の個体群の遺伝的比較に基づいて最近提案されました(関連記事)。

 興味深いことに、考古学的研究は、「縄文人」と遺伝的に関連する個体群を報告してきましたが、縄文時代の考古学的な文化および縄文時代の考古学的状況の範囲外で見つけてきました(関連記事)。これには、琉球諸島南部の島々(たとえば、宮古諸島や八重山諸島)や朝鮮半島南岸が含まれます。しかし、これらの研究は「縄文人」の共通起源、および「縄文人」と非「縄文人」との間の比較におもに焦点を当ててきましたが、「縄文人」内の人口史はほぼ調べられていないままです。

 本論文では、「縄文人」関連個体群の刊行されているゲノムもしくはゲノム規模データの詳細な再分析を行ない、そうした個体間の関係に焦点を当てました。これらは合計23個体で、縄文時代早期~縄文時代後期までの範囲で、全体的に均質な「縄文人」遺伝子プール内の豊富な動態についての証拠を提供します。具体的には、四国の縄文時代早期の1個体は日本列島全域のその後の縄文時代個体群に対して外群を形成し、この地域における人口置換が示唆されます。伝統的な縄文文化地域外の遺伝的に「縄文人」的な個体群の起源を、縄文時代中期/後期の西日本(中国と関西と四国と九州が含まれます)に絞り込むこともできます。


●資料と手法

 日本列島およびその近隣地域の既知の古代人のゲノムデータが編集され、祖先系統の情報をもたらす124万(1233013)の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)一式で、ゲノム規模の遺伝子型データが得られました。これら古代人のデータは、既知の他の古代人および現代人のゲノムデータと統合され、現代人のゲノムデータでの主成分分析(principal component analysis、略してPCA)に、古代の個体群が投影されました。「縄文人」関連個体間の近縁性は、常染色体のSNPで計算された不適正遺伝子型塩基対率(pairwise genotype mismatch rate、略してPMR)に基づいて推定されました。

 検証対象の2集団間の共有される遺伝的浮動を測定するために、コンゴの熱帯雨林狩猟採集民であるムブティ人を用いて、外群f₃統計が計算されました。ムブティ人はf₄統計でも外群として用いられました。「縄文人」関連集団内の人口構造を理解するため、f₄形式(ムブティ人、縄文人1;縄文人2、縄文人3)の全ての組み合わせが計算されました。「縄文人」集団間の遺伝的対称性検証、もしくは世界規模の人口集団での追加の混合供給源を探すために、f₄形式(ムブティ人、世界規模の集団;縄文人1、縄文人2)が計算されました。

 hapROHを用いて、124万のSNP一式のうち40万以上のSNPを網羅する「縄文人」個体の同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)が調べられました。ROHは両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にあると推測され、人口集団の規模と均一性を示せるとともに、ROH区間の分布は有効人口規模と1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。各「縄文人」のゲノムの疑似半数体遺伝子型呼び出しと、参照として1000人ゲノム計画3期のハプロタイプデータが用いられました。


●刊行されている「縄文人」関連個体群のゲノム規模データ

 本論文では、刊行されている古代の「縄文人」もしくは「縄文人」的な23個体のゲノム規模データが用いられました(図1、表1)。これら23個体のうち17個体は、縄文時代の考古学的状況と直接的に関連する日本の本州もしくは四国の「縄文人」です。残りの6個体は「縄文人」的な遺伝的特性を有しているものの、縄文文化と直接的に関連しない考古学的状況に由来します。このうち6個体は琉球諸島の宮古島にある長墓遺跡で発見され(長墓_2800年前および長墓_4000年前)、残りの1個体は大韓民国慶尚南道統営(Tongyeong)市にある欲知島(Yokjido、Yokchido)遺跡で発見されました(欲知島_4000年前)。この23個体では近い関係の親族は検出されなかったので、分析にはこの23個体全てが含められました。この23個体は、遺跡と年代の情報に基づいて11の分析集団に分割されました(図1、表1)。

 使用されたこれらの個体のうち、2個体には低品質のため目印をつけました。一方の欲知島個体(TYJ001)は軽度の汚染(ミトコンドリア捕獲データに基づくと6%の汚染)の可能性があり、もう一方の最古の長墓遺跡個体(NAG016、長墓_4000年前)は重度の汚染があり、低網羅率(1233013のSNPのうち27652が網羅されました)でした。未知の汚染物質が現在の個体群にもはや存在しない「縄文人」起源である可能性は先験的に低そうなので、この2個体は汚染が定性的方法で検証に影響を及ぼさないだろう分析の部分集合に含められました。「縄文人」との遺伝的類似性を有すると報告された朝鮮半島南岸の追加となる先史時代4個体も使用されました。それは、大韓民国釜山(Busan)市の獐項(Janghang)遺跡の新石器時代墓地の2個体(獐項_6700年前)と、統営市の煙台島(Yeondae-do、Yŏndaedo)貝塚遺跡の2個体(煙台島_7000年前)です(関連記事)。以下は本論文の図1です。
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 PCAが実行され、現在のユーラシア人口集団との比較で「縄文人」関連個体群の遺伝的特性が視覚的に要約されました。「縄文人」関連個体全体の均質な遺伝的特性を報告した先行研究と一致して、「縄文人」関連個体群は他の人口集団から分離された緊密で明確なクラスタ(まとまり)を形成します。このクラスタから逸れる2個体は長墓遺跡で発見され(NAG012とNAG016)、両者とも低網羅率で、一方(NAG016)は重度の汚染があります。

 「縄文人」関連個体群内での詳細な遺伝的階層化を調べるため、「縄文人」と欲知島および長墓遺跡の個体群のみでPCAが実行されました。この分析では、欲知島遺跡と長墓遺跡の個体と他の「縄文人」個体群からの分離が観察されます。欲知島および長墓遺跡の個体群を除いて、PCAを日本列島「本土」の「縄文人」個体群のみに適用すると、西日本の「縄文人」と東日本(中部と関東)の「縄文人」と北海道との間の分離が観察されます。

 ほとんどの「縄文人」関連個体の低網羅率の性質を考慮して、個体間のPMRの計算により、各「縄文人」関連集団内での遺伝的多様性の水準が測定されました。さまざまな「縄文人」集団間のPMR値(平均で0.191)は全体的類似しており、漢人や日本人などアジア東部現代人よりずっと低く、「縄文人」メタ個体群(metapopulation、アレルの交換といった、ある水準で相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群の集団)内の全体的な遺伝的多様性現象を示唆します。興味深いことに、長墓_2800年前個体群はより減少したPMR値(平均で0.154)を示しており、長墓_2800年前に特有の強い人口ボトルネック(瓶首効果)が示唆されます。ROH断片の分布は、類似のパターンを提供します。つまり、「縄文人」関連個体群は全体的にROH断片の蓄積を示しており、これは遺伝的多様性現象の痕跡で、長墓遺跡個体群は他のほとんどの「縄文人」個体よりも多いROH断片を有する傾向にあります。


●縄文時代早期個体はその後の全ての「縄文人」個体にとって共通の外群です

 「縄文人」関連集団における人口構造を調べるため、f₃形式(ムブティ人;縄文人1、縄文人2)の外群f₃統計を用いて、「縄文人」関連集団の各組み合わせ間の遺伝的類似性がまず測定されました。アフリカ中央部の熱帯雨林の狩猟採集民人口集団であるムブティ人が外群として用いられ、汚染のため長墓_4000年前と欲知島_4000年前を除いて、「縄文人」関連11集団のうち9集団に分析が適用されました。この2集団を含めると、一貫して他の組み合わせよりも低い外群f₃値が示されました。四国の縄文時代早期の1個体、つまり9000年前頃となる愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡個体(JpKa)は、他の「縄文人」個体と比較的低い遺伝的類似性を示します。すべての組み合わせのうち、本州西部の縄文時代早期の1個体、つまり5600年前頃となる岡山県倉敷市の船倉貝塚個体(JpFu)と、四国の縄文時代後期の1個体、つまり3800年前頃となる愛媛県南宇和郡愛南町御荘の平城貝塚個体(JpHi)の組み合わせが最高の値を示します。

 外群f₃の結果と縄文時代早期個体の存在に触発されて、「縄文人」の人口構造に関すして競合する二つの仮説が明示的に比較されました。それは、(1)JpKaの最古の「縄文人」個体がその後の「縄文人」個体全てにとって共通の外群を形成するか、(2)西日本の「縄文人」集団(JpKaとJpFuとJpHi)が5000年間にわたる人口継続性を示す、というものです(図2)。以下は本論文の図2です。
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 この二つの仮説を区別するため、「縄文人」関連集団の全ての三者の組み合わせで、f₄形式(ムブティ人、縄文人1;縄文人2、縄文人3)のf₄統計が計算されました(図3)。仮説(1)では、f₄(ムブティ人、JpKa;縄文人2、縄文人3)は全ての組み合わせ(縄文人2と縄文人3)でゼロと予測され、それは、JpKaがその後の全「縄文人」集団にとって共通の外群だからです。対照的に、仮説(2)では、JpKaはその後の西日本「縄文人」集団(JpFu/JpHi)の方と他の「縄文人」よりも近いので、f₄(ムブティ人、JpKa;縄文人2、縄文人3)は「縄文人3」を西日本のその後の「縄文人」集団(つまり、JpFuとJpHi)とすると、有意に正になると予測されます。同様に、f₄(ムブティ人、JpFu/JpHi;JpKa、縄文人3)は仮説(1)では正となり、仮説(2)では負となるでしょう。以下は本論文の図3です。
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 f₄(ムブティ人、JpKa;縄文人2、縄文人3)については、「縄文人」集団28通りの組み合わせのうち1組だけが|Z|>3となり、それはf₄(ムブティ人、JpKa;北海道礼文島の船泊貝塚の3700年前頃の個体、JpFu)=3.187でした(図3A)。さらに、f₄(ムブティ人、縄文人1;JpKa、縄文人3)は多くの組み合わせにおいて有意に正で(縄文人1と縄文人3)、一般的にその値は正となる傾向があり、仮説(2)よりも仮説(1)の方が選ばれます。

 2番目の統計であるf₄(ムブティ人、JpFu/JpHi;JpKa、縄文人3)はほぼ|Z|<3となり、どちらの仮説の予測とも一致しません。f₄(ムブティ人、縄文人1;JpKa、JpFu/JpHi)によるJpKaおよびJpFu/JpHiとの他の「縄文人」集団の類似性を比較すると、結果は統計的に有意ではないものの、ほぼ正です。縄文時代前期のJpFuは近隣地域のより古い個体であるJpKaとの部分的な遺伝的つながりを有しているかもしれない、と推測されますが、この混合仮説の家司的検定は、統計的検出力を高めるために、より多くの古代人のゲノムを必要とするかもしれません。したがって、最古の「縄文人」個体であるJpKaは、西日本の「縄文人」を含む利用可能な「縄文人」集団にとって、共通の外群を表しているかもしれません。

 最後に、同じ分析が2番目に古い(6000年前頃)縄文時代前期の本州中央部北方となる富山県富山市の小竹貝塚遺跡個体群(JpOd)に適用されました。JpKaを含む場合以外では全ての「縄文人」の組み合わせにおいて、平均標準誤差3以内でf₄(ムブティ人、JpOd;縄文人2、縄文人3)の観察によりJpOdと非対称的に関連する「縄文人」の組み合わせは見つからず、f₄(ムブティ人、JpOd;JpK、縄文人3)は東日本(中部と関東と北海道が含まれます)のその後の全ての「縄文人」集団で平均標準偏差3超です。


●西日本の縄文時代後期個体と「縄文人」関連個体群の遺伝的類似性

 遺跡と地域は直接的に考古学的な縄文文化と関連していないものの、「縄文人」的な遺伝的特性を示した、長墓遺跡(長墓_2800年前)と欲知島貝塚遺跡(欲知島_4000年前)の個体群のあり得る起源が調べられました。その結果、四国の縄文時代後期個体(JpHi)が長墓_2800年前と最も近い集団と分かり、f₄(ムブティ人、長墓_2800年前;他の縄文人、JpHi)はほぼ有意に正(Z=2.5~4.9)でした(図4A)。本州西部のより古い縄文時代前期個体であるJpFuは長墓_2800年前と2番目に密接に関連しているものの、その違いは統計的に有意ではなく、f₄(ムブティ人、長墓_2800年前;他の縄文人、JpFu)はJpHi(Z=-2.5)を除いて平均標準誤差は0.1~2.3でした。より古い長墓遺跡個体(長墓_4000年前)の明確な「縄文人」との類似性を考えると、「縄文人」関連集団は4000年前頃までにはすでに長墓遺跡に存在したでしょう。まとめると、JpFu/JpHiと関連している西日本の縄文時代後期人口集団は、南琉球諸島の「縄文人」関連人口集団の供給源だった可能性が高そうです。以下は本論文の図4です。
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 同様に、JpHiと長墓_2800年前は欲知島_4000年前との最も近い「縄文人」関連集団と分かり、f₄(ムブティ人、欲知島_4000年前;縄文人、JpHi /長墓_2800年前)は平均標準誤差が2.3~5.4で、f₄(ムブティ人、欲知島_4000年前;長墓_2800年前、JpHi )は平均標準誤差が0.1でした(図4B)。先行研究は、朝鮮半島南岸の先史時代集団(煙台島_7000年前と獐項_6700年前)における「縄文人」祖先系統の寄与を報告しました(関連記事)。同じ分析を繰り返すと、JpHiがそうした朝鮮半島南岸集団と最も近い「縄文人」関連集団のようだ、と分かり、f₄(ムブティ人、煙台島_7000年前;他の縄文人、JpHi)は平均標準誤差が1.2~2.7でしたが、小さな標本規模と低網羅率のため、検定はどれも統計的に有意でありません(つまり、Z<3)。

 要約すると、それぞれ4000年前頃と2800年前頃に観察される朝鮮半島南部および琉球諸島への「縄文人」関連集団の拡散は、西日本起源である可能性が高そうで、これらの地域の地理的近さと一致する、と示唆されます。これらの地域においてそれ以前(つまり、朝鮮半島南部の獐項_6700年前および煙台島_7000年前と、宮古島の長墓_4000年前)の個体で見られる「縄文人」祖先系統は、同じ供給源に由来していたかもしれませんが、現時点で利用可能なゲノムデータはさまざまな「縄文人」供給源間を区別する解像度が不足していることに要注意です。これらの地域や日本列島全体での将来の古代ゲノムの標本抽出は、これらの地域における「縄文人」祖先系統の時間窓と真の供給源を絞り込むのに役立つでしょう。


●考察

 日本列島に14000年以上居住してきた「縄文人」の起源と歴史は、考古学者と遺伝学者により長く調べられてきました。考古遺伝学における最近の進歩は、数十個体の古代の「縄文人」のゲノムの解読により大きな躍進を遂げました。これらの研究は「縄文人」の独特な遺伝的起源とその全体的に均質な遺伝的特性を明らかにしましたが、「縄文人」における遺伝的多様性と関係の再構築にはさほど焦点を当てませんでした。本論文は、これまでに利用可能な「縄文人」のゲノムの編集に基づく包括的な方法で、経時的な「縄文人」の人口構造を調べます。

 四国の縄文時代早期個体(JpKa)は西日本と東日本両方のその後の「縄文人」集団にとって共通の外群を形成するものの、西日本の近隣地域のその後の集団と剰余の類似性がある、と分かりました。対称性を破る「縄文人」集団の唯一の組み合わせはJpFuと船泊貝塚の個体で、これはJpKaとJpFuとの間のこの剰余の類似性に起因するかもしれません。あるいは、これは船泊個体特有の遺伝的つながりに起因するかもしれません。つまり、オホーツク海周辺のつながりで、f₄形式(ムブティ人、世界規模の集団;船泊、JpKa)のf₄統計による、現在の世界規模の人口集団のうちアジアのエスキモーと樺太島のウリチ人(Ulchi)がJpKaとよりも船泊個体の方と近い、という観察により示唆されます。先行研究は北海道のアイヌとオホーツク海周辺の人口集団との間の動揺のつながりを報告しましたが(関連記事)、この兆候は両者間のより最近の遺伝的交流に起因するかもしれません。

 次に古い「縄文人」集団である縄文時代前期のJpOdは対照的に、 東日本のその後の全ての「縄文人」との明確な遺伝的類似性を示します。節約的な仮定的状況は、東方の「縄文人」集団が西方へと拡大し、9000~5000年前頃の広い時間的範囲内のある時点(つまり、JpKaとJpFuとの間)で在来の西方「縄文人」集団を部分的に置換した、というものです。「縄文人」ゲノムの時空間的に疎らな標本抽出のため、本論文の調査結果の代表性が保証されないかもしれないことに要注意です。

 「縄文人」は日本列島外の人口集団から強く孤立している、と仮定されてきたことが多いものの、最近の考古学的研究は、紀元前千年紀後半における「【渡来系】弥生人」との主要な接触に先行する、大陸部人口集団との長期の接触を浮き彫りにしています。これらの研究は、大陸部から縄文時代の日本列島への、栽培化された植物(たとえば、アズキやダイズ)や青銅器製品など物質文化の出現を報告しました。興味深いことに、最近の考古遺伝学的研究は、縄文時代の考古学的状況外の古代の個体群における「縄文人」的な遺伝的特性を報告しており(関連記事)、南琉球諸島の宮古島や朝鮮半島南岸の欲知島の遺跡が含まれます。両遺跡における「縄文人」的な個体は、西日本の縄文時代後期の1個体(3800年前頃のJpHi)と最も強い遺伝的類似性を有しています。

 両地域(宮古島と朝鮮半島南岸)では、「縄文人」祖先系統の最初の出現はJpHiの年代よりずっと古いものの、両地域のより古い個体、つまり宮古島の4000年前頃の個体(長墓_4000年前)や朝鮮半島南岸の7000~6500年前頃の個体(獐項_6700年前と煙台島_7000年前)はゲノムデータが低品質なので、特定の「縄文人」集団との類似性を正確に示すことはできません。したがって、これら初期人口集団に寄与した「縄文人」集団の時空間的な起源は曖昧なままです。「縄文人」、とくに日本列島「本土」最西端となる九州の縄文時代前期/中期のゲノムのさらなる標本抽出が、ユーラシア大陸部との「縄文人」の外向きの遺伝的つながりを再構築するための情報の、重要な断片を提供するでしょう。


参考文献:
Jeong G. et al.(2023): An ancient genome perspective on the dynamic history of the prehistoric Jomon people in and around the Japanese archipelago. Human Population Genetics and Genomics, 3, 4, 0008.
https://doi.org/10.47248/hpgg2303040008

https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_26.html
13:777 :

2023/12/27 (Wed) 22:15:27

雑記帳
2023年12月27日
現代日本人男性におけるY染色体ハプログループ
https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_27.html

 現代日本人男性におけるY染色体ハプログループ(YHg)の最新版と頻度分布を報告した研究(Inoue, and Sato., 2023)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。YHgへの関心は現代日本社会でも比較的高いようで、YHgを特定の文化もしくは民族の分類と関連づけて、人類進化史や現生人類(Homo sapiens)の移動を論じる傾向が強いようですが、これはきわめて危険だと思います。たとえば、YHg-D1a2aを日本列島や「縄文人」と排他的に関連づける傾向はかなり強く、あたかも「確定した事実」として大前提とする見解は珍しくないように思いますが、そうとは限らない可能性も考慮しておくべきでしょう(関連記事)。とくに、現代人のYHgの分布と頻度に基づいて現生人類集団の移動経路やその年代を推定することは、古代DNA研究の裏づけなしに安易に行なうべきではないと思います。現時点では率直に言って、本論文の推測や想定を大前提とすべきではないと考えています。以下、敬称は省略します。


●要約

 日本人男性は、YHgのC1a1とC2とD1a2aとD1a2a-12f2bとO1b2とO1b2a1a1とO2a2b1とO2a1bに属しています。注目すべきことに、各YHgの地域頻度は均一です。ゲノム配列決定技術の最近の発展により、YHgの系統樹は毎年更新されています。したがって本論文では、現代日本人男性のYHgの更新と、その地域分布の調査が目的とされました。日本の7都市(長崎と福岡と徳島と大阪と金沢と川崎と札幌)の日本人男性1640個体の標本を用いて、YHgのC1a1とC2とD1a2aとD1a2a-12f2bとO1b2とO1b2a1a1が最新の系統樹に基づいて更新されました。

 YHg-C1a1はおもにC1a1a1aとC1a1a1bの下位群に分類され、C1a1a1bは他の地域よりも徳島と大阪でより一般的でした。YHg-C2はおもにC2aとC2b1a1aとC2b1a1bとC2b1a2とC2b1bの下位群に分類され、その頻度は徳島と大阪では異なりました。YHg-D1a2a-12f2bはD1a2a1a2b1a1aとD1a2a1a3の下位群に分類されましたが、有意な頻度差は観察されませんでした。YHg-O1b2はO1b2a1a2a1aとO1b2a1a2a1bとO1b2a1a3の下位群に分類され、長崎と金沢で頻度差がありました。YHg-O1b2a1a1はおもにO1b2a1a1aとO1b2a1a1bとO1b2a1a1cの下位群に分類されましたが、有意な頻度差は観察されませんでした。本論文の調査結果から、近畿地方の遺伝子流動はヒトの移住に起因する、と示唆されます。


●研究史

 ヒトのY染色体は、約5000万塩基対と106個のタンパク質コード遺伝子から構成されます。Y染色体には、X染色体と相同な疑似常染色体領域(pseudo-autosomal region、略してPAR)と男性特有の領域(male-specific region on the human Y chromosome、略してMSY)があり、ヘテロクロマチンとユークロマチンから構成されています。Y染色体は父親から息子へと同じように受け継がれ、それは、Y染色体のPARのみがX染色体のPARと組換えられるからです。したがって、現代人のY染色体は男性の集団遺伝学の研究にとって優れた情報源であり、それは、祖先のDNAが元々の形態で子孫に伝えられるからです。

 Y染色体は複数の変異の組み合わせに基づいて、ハプログループと呼ばれるさまざまな一群に分類されます。2001年の研究はまずヒトY染色体の配列を報告し、その後の多くのDNA多型の識別につながりました。47zとSRY 465における多型が日本で報告されてきました。2002年の研究ではY染色体の世界規模の分類が要約され、男性の世界的な系統樹が孝徳され、ヒトの世界規模の進化の研究が促進されました。埴原和郎は、日本の人類学における作業仮説である「二重構造モデル」を提案しました。広く受け入れられているこのモデルでは、現代日本人集団の形成は在来の「縄文人」系統と移住してきた「弥生人」系統の混合の結果である、と示唆されています。

 在来の「縄文人」はアジア南東部に起源があり、樺太や千島列島から日本列島へ、および長江もしくは台湾周辺から北方へ渡海して朝鮮半島へと移動し、居住の範囲を沖縄から北海道へと広げました(40000~3000年前頃)。稲作と農耕技術を取り入れたアジア北東部から到来した「弥生人」は朝鮮半島を経由して九州北部から日本列島へと移動し、九州と四国と本州に拡大しました(紀元後3世紀の3000年前頃【紀元後3世紀ではなく、紀元前3世紀もしくは紀元前千年紀の間違いかもしれません】)。これらの調査結果は、遺伝的に独特な日本人集団における地理的勾配を示唆します。

 2014年の研究は、7都市(長崎と福岡と徳島と大阪と金沢と川崎と札幌)から収集された2390点の標本におけるYHgを分析し、日本人男性における地理的勾配の可能性が識別されました。その研究で明らかになったのは、日本人男性は8系統のYHg(C1、C3、D2*、D2a1、O2b*、O2b1、O3a3c、O3a4)に分類できるかもしれない、ということです。しかし、YHg頻度における有意な地域差は報告されてきませんでした。

 最近の技術的進歩は、日本人集団の全ゲノム配列決定を促進しました。遺伝子系譜学国際協会(International Society of Genetic Genealogy、略してISOGG)は毎年、遺伝子系譜の研究の系統樹を更新し、YHgはそれに応じて変更されます。たとえば、C1はC1a1、C3はC2、D2*はD1a2a、O2b*はO1b2、O2b1はO1b2a1a1、O3a3cはO2a2b1、O3a4はO2a1bです。本論文では、日本人男性におけるYHg(以前にCとDとO1b2に分類されたYHg)のより詳細な決定と、現代日本人男性集団における系統樹の構造の解明が目指されました。


●資料と手法

 2014年の研究で報告されたYHg調査のための長崎と福岡と徳島と大阪と金沢と川崎と札幌に居住する日本人男性から収集された2390点の標本のうち、1640個体に相当する残余のDNA標本が本論文では用いられました。表1には、各都市の分析に使用されたYHgの数がまとめられています。この研究は、徳島大学倫理委員会の承認を得ました。全参加者は研究への参加前にインフォームド・コンセントが提供されました。

 YHgはISOGGにより公開されている系統樹に基づいて決定されました。YHg-D2a1の遺伝標識はISOGGにより以前に削除されました。したがって本論文では、YHg-D2a1はD1a2a-12f2bと定義されました。YHgの分岐遺伝標識はポリメラーゼ連鎖反応(polymerase chain reaction、略してPCR)制限断片長多型、TaqMan PCR、サンガー配列決定を用いて決定されました。この研究で用いられた全てのプライマーセットとアニーリング温度と酵素制限と遺伝子型決定手法は、補足表S1~S3に掲載されています。

 都市間のYHg多様性を比較するため、Arlequinの3.5.2.2版が用いられ、集団間の遺伝的分化の指標として、2集団の遺伝的分化の程度を表す固定指数(Fixation index、略してFₛₜ)が計算されました。集団間の差がないという帰無仮説下で、順列数は 100 に設定され、有意水準は0.05に設定されました。各YHg頻度は対でのFₛₜ値の帰無分布を導く統計的計算のため、入力ファイルとして用いられました。YHgの分岐の推定年代は、YFullのデータベースのY染色体系統樹の11.04版用いて得られました。


●YHg-C

 YHg-C1a1(以前のC1)に属する110個体の下位系統が、ISOGGにより公開されている系統樹に基づいて分析されました。C1a1は下位系統3群に分類され、それはC1a1a(1.8%)とC1a1a1a(73.6%)とC1a1a1b(24.5%)です(図1A)。これら3向けの地域辺鄙の評価から、C1a1a1aとC1a1a1bは徳島と大阪の間で異なっている、と明らかになりました。C1a1a1aの頻度は、徳島(56.5%)および大阪(54.5%)と比較すると、長崎(90.0%)と福岡(100%)と金沢(90.0%)と川崎(78.9%)と札幌(66.7%)でより高くなっていました。

 対照的に、C1a1a1bの頻度は、徳島(43.5%)および大阪(45.5%)と比較して、長崎(0%)と福岡(0%)と金沢(10.0%)と川崎(21.1%)と札幌(28.6%)でより低くなっていました(図1B)。7都市の人口間の多様性を比較するため、YHg-C1a1系統の頻度に基づいてFₛₜ値の対での比較が実行されました。その結、は徳島と長崎(Fₛₜ=0.229)、徳島と金沢(Fₛₜ=0.207)、大阪と長崎(Fₛₜ=0.261)、大阪と金沢(Fₛₜ=0.249)の間で有意な差(P<0.05)が示されました(表2)。以下は本論文の図1です。
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 次に、YHg-C2に属する130個体でハプログループ分析が実行されました。YHg-C2は以下の6系統の下位群に区分され、それは、C2a(14.6%)、C2b1(0.8%)、C2b1a1a(36.9%)、C2b1a1b(4.6%)、C2b1a2(24.6%)、C2b1b(18.5%)です(図1A)。地域比較から、YHg-C2の下位系統であるC2aとC2b1a1aとC2b1a2とC2b1bは大阪で頻度の差異を示す、と分かりました。YHg-C2aの頻度は長崎(6.7%)と福岡(0%)と徳島(11.8%)と金沢(15.6%)と川崎(9.5%)と札幌(20.0%)で大阪(42.9%)より低い、と示されました。

 さらに、YHg-C2b1a2の頻度は、長崎(13.3%)と福岡(25.0%)と徳島(11.8%)と川崎(19.0%)と札幌(23.3%)で大阪(42.9%)と金沢(37.5%)より低い、と示されました。対照的に、YHg-C2b1a1aは長崎(53.3%)と福岡(50.0%)と徳島(35.3%)と金沢(34.4%)と川崎(47.6%)と札幌(30.0%)で一般的に観察されましたが、大阪(0%)では観察されませんでした。YHg-C2b1bは長崎(26.7%)と福岡(25.0%)と徳島(29.4%)と金沢(9.4%)と川崎(23.8%)と札幌(16.7%)で一般的に観察されましたが、大阪(0%)では観察されませんでした。Fₛₜ値大阪と長崎(Fₛₜ=0.249)、大阪と福岡(Fₛₜ=0.200)、大阪と徳島(Fₛₜ=0.139)、大阪と川崎(Fₛₜ=0.192)の間で有意に異なっていました(表2)。


●YHg-D

 YHg-D1a2aは以下の13系統の下位群に区分され、それは、D1a2a1(0.3%)、D1a2a1c(2.2%)、D1a2a1c1(4.1%)、D1a2a1c1a(8.9%)、D1a2a1c1a1(4.7%)、D1a2a1c1a1a(3.5%)、D1a2a1c1a1b(1.9%)、D1a2a1c1a1b1(19.0%)、D1a2a1c1b(1.3%)、D1a2a1c1b1(8.5%)、D1a2a1c1c(6.6%)、D1a2a1c2(5.7%)、D1a2a2(32.3%)です(図2A)。男性3人がYHg-D1a2aに含められました(0.9%)。地域比較から、これら13系統の下位群では、D1a2a2の頻度が、徳島(45.5%)および大阪(55.6%)と比較して、長崎(14.7%)と福岡(23.5%)と金沢(33.3%)と川崎(29.3%)と札幌(32.1%)で低かった、と示されました(図2B)。Fₛₜ値は、徳島と長崎(Fₛₜ=0.037)、大阪と長崎(Fₛₜ=0.081)、大阪と福岡(Fₛₜ=0.073)の間で有意に異なっていました(表2)。以下は本論文の図2です。
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 次に、YHg-D1a2a1-12f2b(旧称はD2a1)に分類される380個体のハプログループが分析されました。YHg-D1a2a1-12f2b以下の11系統の下位群に区分され、それは、D1a2a1a2b(12.9%)、D1a2a1a2b1(0.5%)、D1a2a1a2b1a(1.6%)、D1a2a1a2b1a1(6.8%)、D1a2a1a2b1a1a(21.1%)、D1a2a1a2b1a1a1(15.8%)、D1a2a1a2b1a1a1a(13.7%)、D1a2a1a2b1a1a3(7.6%)、D1a2a1a2b1a1a9(4.2%)D1a2a1a2b1a1b(2.4%)、D1a2a1a3(13.4%)です(図3A)。これら11系統の下位群から、YHg-D1a2a1a2b1a1a1の頻度が福岡で高かったのに対して、YHg-D1a2a1a2b1a1a1aの頻度が大阪で高かった、と明らかになりました(図3B)。しかし、そのFₛₜ値は有意には異なっていませんでした(表2)。以下は本論文の図3です。
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●YHg-O1b2

 YHg-O1b2(旧称はO2b*)に属する214個体のハプログループが分析されました。YHg-O1b2は以下の9系統の下位群に区分され、それは、O1b2a(4.7%)、O1b2a1a(4.7%)、O1b2a1a2a(0.5%)、O1b2a1a2a1(24.3%)、O1b2a1a2a1a(28.0%)、O1b2a1a2a1b(0.5%)、O1b2a1a2a1b1(14.0%)、O1b2a1a3(16.4%)O1b2a1b(0.5%)です(図4A)。男性14人がYHg-O1b2に含められました(6.5%)。地域比較から、これら10系統では、O1b2a1a2a1の頻度が金沢よりも長崎(31.3%)と福岡(37.5%)の方で高かった、と示されました。Fₛₜ値は長崎と金沢()の間で有意に異なっていました(Fₛₜ=0.042)。以下は本論文の図4です。
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 次に、YHg-O1b2a1a1(旧称はO2b1)に属する490個体で詳細なハプログループ分析が実行されました。YHg-O1b2a1a1以下の3系統の下位群に区分され、それは、O1b2a1a1a(34.3%)、O1b2a1a1b(23.9%)、O1b2a1a1c(10.4%)です(図4A)。男性154人のみがYHg-O1b2a1a1に含まれ、これら4YHgの地域頻度で有意な違いは観察されませんでした(図4C)。そのFₛₜ値も有意な違いを示しませんでした(表2)。


●考察

 YHg-DおよびCに分類される人々は、それぞれ日本列島に20000年前頃と12000年前頃に到来した、と示唆されており、これは二重構造モデルと一致します。YHg-C系統はおもにC1とC2下位群に分類されてきましたが、本論文では、さらに分岐している、と示されました。

 YHg-Cはアジア東部とシベリアに広がっており、オセアニアとヨーロッパとアメリカ大陸において低頻度で観察されてきました。現代人の祖先がアフリカを去り、西方と北方と南方の3経路でユーラシア大陸を横断した、と考えられています。特定の下位ハプログループが、かく地域で特定されました。YHg-C1a1は日本列島に限定されており、日本列島に到来する前に分岐した、と考えられています。YHg-C2はC2aとC2b に分岐し、C2aはアジア中央部とアジア北東部と北アメリカ大陸なおいて一般的で、C2bは中国とモンゴルと朝鮮半島において一般的であり、YHg-C2bの一部は日本列島に到達しました。日本列島に固有のYHg-C1a1系統の姉妹群であるYHg-C1a2は、ヨーロッパにおいて低頻度で見られます。対照的に、初期の分岐系統であるYHg-C1bはインド南岸とオーストラリアとインドネシアで見られます。

 日本列島におけるYHg-C1系統の主要な下位群は、おもに徳島と大阪で見られるC1a1a1aと、おもに長崎と福岡と金沢と札幌で見られるC1a1a1bです。Fₛₜ値は徳島と長崎および金沢、大阪と長崎および金沢の間で有意な違いを示しました。YHg-C1a1は日本列島な固有で、C1a1a1aとC1a1a1bに分岐しなかったC1a1a が札幌と長崎において低頻度で見られ、日本列島に均等に分布しているYHg-C1a1は、男性がおもに徳島と大阪から移住したさいに下位系統のYHgに分岐した、と示唆されます。日本列島における主要なYHg-C2系統の下位群には、C2aとC2b1a1とC2b1a2とC2b1bが含まれ、その全てが大阪においてYHg頻度の差異を示します。Fₛₜ値は大阪とその周辺地域(長崎と福岡と徳島と川崎)との間で顕著な違いを示しており、人口の分岐および移住が大阪を中心に起きた、と示唆されます。YHg頻度の差異は大阪でのみ観察されました。大阪は日本で最大級の都市の一つなので、この調査結果から、現代の遺伝子流動が大阪において高頻度で起きている、と示唆されます。

 世界中のY染色体配列のデータベースであるYFullのY染色体系統樹(11.04版)に基づくと、一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)の分岐は、C1a1では45300年前頃(95%信頼区間では49400~41300年前)、C2では48800年前頃(95%信頼区間では51300~46400年前)に起きた、と推定されます。他の下位ハプログループの推定分岐年代は、C1a1a1aとC1a1bでは4500年前頃(95%信頼区間では5500~3600年前)、C2aでは34100年前頃(95%信頼区間では37000~31300年前)、C2b1a1とC2b1a2では10300年前頃(95%信頼区間では11200~9400年前)、C2b1bでは11000年前頃(95%信頼区間では12000~10000年前頃)です。「縄文人」系統は日本列島に遅くとも2万年前頃には広がり始め、下位YHgの分岐が日本列島内で起きたことを示唆しています。

 YHg-Dは、日本列島に加えてチベット高原やアンダマン諸島やアフリカの特定地域で確認されてきており、YHg-D1a2aは日本列島で最もよく特徴づけられているハプログループです。YHg-D2がナイジェリアなどアフリカの一部地域のみで観察されたのに対して(関連記事)、YHg-D1はユーラシアへとY区大師、アジア中央部とチベット高原において一般的なD1a1と、日本列島で見られるD1a2に分岐しました。YHg-D1a2aの姉妹系統であるD1a2bは、アンダマン諸島において最も一般的なYHgです。

 本論文では、YHg-D1a2aは、D1a2a1c1やD1a2a1c2やD1a2a2を含めていくつかの下位系統群に分類される、と確証されました。YHg-D1a2a2が徳島と大阪において他の地域よりも高頻度で観察されるのに対して、他のYHg-D1a2aは全地域で均等に分布していました。YHg-D1a2a系統は日本列島に固有なので、この下位系統の分岐は日本列島内で起きたかもしれず、日本全国で均一に分布していました。YHg-D1a2a2の不均一な分布は、徳島と大阪が人口移動と人口分岐の出発点であること、および/もしくはその後で日本列島に到来したYHg-O系統の台頭に起因する残りの地域の拡大のためかもしれません。

 YHg-D1a2a-12f2b系統はいくつかの下位系統群と3クラスタを形成し、それはD1a2a1a2b1a1aとD1a2a1a2b1a1bとD1a2a1a3です。これらのYHgにおいて有意な地域差は観察されませんでした。YHg-D1a2aとYHg-D1a2a-12f2bは同時に日本列島に入ってきたかもしれませんが、いくつかのYHgが日本列島に均等に分布しているのに対して、他のYHgは頻度の偏りを示しました。

 Y染色体系統樹によると、D1a2a1とD1a2a2の推定分岐年代が21200年前頃(95%信頼区間では23100~15000年前)なのに対して、D1a2a1aとD1a2a1cの推定分岐年代は17600年前頃(95%信頼区間では20300~15000年前)です。YHg-D1a2aは45200年前頃(95%信頼区間では48500~42000年前)までに分岐し、日本列島でのみ観察されており、YHg-D1a2a系統が日本列島で広範囲に分岐した、と示唆されます。

 YHg-Oはアジア東部において最大のハプログループで、4000年前頃に日本列島に到来した、と示唆されました。その祖先系統のYHg-NOはアフリカから去った後に北方経路でユーラシアへと拡大し、YHg-OとYHg-Nに分岐しました。YHg-Oは広くO2とO1に分類され、O2は中国北部の黄河流域で繁栄し、O1は中国南部の長江流域で繁栄しました。YHg-O1b2はYHg-O1から派生し、日本列島と中国と満洲と朝鮮半島では一般的な系統なので、朝鮮半島経由で日本列島へと北方へ移動したかもしれません。ほとんどの現在の中国の漢人を構成するYHg-O2の一部は、O2a1bとO2a2b1に分岐した後で日本列島に到達したかもしれません。

 YHg-O1b2系統は3クラスタを形成し、それはO1b2a1a1aとO1b2a1a1bとO1b2a1a1cなどの位系統です。YHg-O1b2a1a1系統も3クラスタを形成し、O1b2a1a1aとO1b2a1a1bとO1b2a1a1cなどがあります。地域によるYHg頻度の顕著な違いは検出されず、日本列島におけるYHg-O1b2の主要な下位系統の分岐は現代日本人男性では均一で、恐らくは朝鮮半島およびその周辺地域経由でのYHg-O1b2a1a1系統の分岐に起因する、と示唆されます。

 Y染色体系統樹による推定分岐年代は、O1b2では28000年前頃(30400~26000年前)、O1b2a1a1では5500年前頃(6500~4600年前)です。「弥生人」系統が遅くとも4000年前頃には日本列島に拡大し始めたことを考慮すると、特定されたO1b2a1a1aとO1b2a1a1bとO1b2a1a1cとO1b2a1a2a1aの推定分岐年代は3400年前頃(95%信頼区間では4500~2500年前)です。これらの調査結果から、YHg-O1b2は準直線的に分岐し、日本列島への流入後に均一に拡大した、と示唆されます。

 まとめると、本論文の結果から、YHgのC1a1とC2とD1a2とD1a2-12f2bとO1b2とO1b2a1a1の各系統をそれぞれ3と6と14と11と10と4の下位YHgに更新することが可能となりました。さらに、各YHgについて頻度の集中したいくつかのクラスタ(まとまり)の存在が確証されました。日本列島に固有のYHg-C1a1とC2とD1a2はその頻度で顕著な違いを示しており、日本列島内の系統分岐と人口移動がおもに徳島と大阪の周辺で起きた、と示唆されます。YHg-CおよびD系統については、以前には報告されなかった、日本人男性集団の多様性において違いが検出されました。日本人男性は、二重構造のより大きな枠組み内にあるものの、人口変化や遺伝的浮動やさまざまな遺伝子の流入に気五する遺伝的構造の多様性を保持してきた、と考えられています。DNA解析では最近、日本人男性は朝鮮半島とアジア東部大陸部から古墳時代以降(3世紀以降)に移動し、オホーツク文化人も北方から北海道に移動した、と明らかになっており、3段階モデル理論につながっています。将来の研究は、YHg-O2の日本人の下位系統の特定とさまざまな地域におけるその頻度の調査により、日本人男性の多様性をさらに解明すべきでしょう。


参考文献:
Inoue M, and Sato Y.(2023) : An update and frequency distribution of Y chromosome haplogroups in modern Japanese males. Journal of Human Genetics.
https://doi.org/10.1038/s10038-023-01214-5

https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_27.html
14:777 :

2023/12/30 (Sat) 17:49:14

渡来人が四国に多かった謎の理由? 日本人ルーツ !!
2023/12/13
https://www.youtube.com/watch?v=3JhQuV8DfuQ
15:777 :

2024/01/19 (Fri) 19:53:28

"未来へのバイオ技術"勉強会「ゲノム歴史学」斎藤 成也 氏(国立遺伝学研究所) (2023年12月5日開催)「ヤポネシアゲノムの全容と今後~現代人のゲノム解析を中心に」
2023/12/20
https://www.youtube.com/watch?v=GSGABrc93_k

「ヤポネシアゲノムの全容と今後~現代人のゲノム解析を中心に」
斎藤 成也 氏(大学共同利用機関法人情報・システム研究機構  国立遺伝学研究所
        ゲノム・進化研究系 特任教授(ヤポネシアゲノムPJ領域代表))
16:777 :

2024/02/26 (Mon) 17:00:42

【最新研究】縄文人のルーツがついに判明?南方ルートの証拠が発見されました!
世界ミステリー ch
2024/02/10
https://www.youtube.com/watch?v=wTIfd6P6wnI

縄文人はどこからきたのか?謎が多い縄文人のルーツが最新の研究によって新しい発見が見えてきました。タイの山間部の奥に住むマニ族という民族が縄文人ととても近い人々ということが分かったのです。今回は縄文人のルーツ、そして今の日本人のルーツについて解説していきます!
17:777 :

2024/03/02 (Sat) 09:16:38

雑記帳
2024年03月02日
藤尾慎一郎『弥生人はどこから来たのか 最新科学が解明する先史日本』
https://sicambre.seesaa.net/article/202403article_2.html

https://www.amazon.co.jp/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%8B%E3%82%89%E6%9D%A5%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%EF%BC%8D%E6%9C%80%E6%96%B0%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%8C%E8%A7%A3%E6%98%8E%E3%81%99%E3%82%8B%E5%85%88%E5%8F%B2%E6%97%A5%E6%9C%AC%EF%BC%8D-%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%96%87%E5%8C%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E8%97%A4%E5%B0%BE%E6%85%8E%E4%B8%80%E9%83%8E-ebook/dp/B0CW19Y4BM


 歴史文化ライブラリーの一冊として、吉川弘文館より2024年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、おもに考古学の観点から弥生時代を検証し、近年飛躍的に発展しつつある古代ゲノム研究にもかなりの分量を割いていることが特徴です。まず、弥生時代の前提として、日本列島において穀物栽培がまず始まったのは現在の島根県や福岡県であり、その最初の年代は縄文時代晩期最終末~弥生時代早期なので、縄文時代後期および晩期に穀物を対象とした農耕はなかった、と指摘されています。プラント・オパールや籾痕土器を根拠に縄文時代中期まで稲作がさかのぼる、との見解も以前に提示されましたが、プラント・オパール自体の年代測定の難しさや、後世のプラント・オパールの混入を否定できないことや、籾の圧痕による肉眼観察での種同定の難しさなどから、日本列島において縄文時代に穀物農耕は晩期最終末を除いてなかった、との見解が現在では有力になっています。一方で、縄文時代には1万年前頃からダイズやアズキなどの一種の栽培化が行なわれていたことも指摘されています。ただ、縄文時代には、そうしたマメ類は社会を質的に転換させるほど生産されてはいなかったようです。

 本書でまず詳しく解説されているのは、著者も関わった弥生時代開始年代の繰り上がりに関する議論です。この研究成果が公表されたのは2003年5月でしたが、その数年前に刊行された寺沢薫『日本の歴史02 王権誕生』(講談社)では、玄界灘地域への水稲農耕の伝播は紀元前400年頃で、その前の紀元前8世紀頃に畑稲作や支石墓が朝鮮半島から九州に伝わった、とされています。弥生時代の指標とされる水田稲作の開始は紀元前10世紀までさかのぼる可能性がある、との発表には高い関心が集まり、一般向けに大きく報道されました。この弥生時代の開始は紀元前10世紀頃までさかのぼるかもしれない、とする仮説に対しては、当初から厳しい批判が寄せられ、2010年代半ばの時点でも完全に否定する見解が提示されていました(岩永., 2013)。

 この論争は2010年代後半に、酸素同位体比年輪年代法の登場と、宮本一夫氏による弥生時代早期の炭化米を試料とした放射性炭素(¹⁴C)年代測定に大きな影響を受けました。これにより、紀元前5~紀元前4世紀頃を弥生時代開始年代とする、弥生時代後期華夷施設(弥生短期編年)はほぼ否定され、弥生時代の紀元前10世紀~紀元前9世紀頃となる早期開始説(弥生長期編年)説が主流になっていきます。ただ、弥生時代の開始年代について、著者も含めて歴史民俗博物館(歴博)主体の紀元前10世紀後半説と、宮本氏などの紀元前9~紀元前8世紀説の違いは残っています。歴博説では、水田稲作の開始から環濠集落や戦いなど農耕社会成立を示す指標の出現まで3世代ほど要することになりますが、宮本氏などの説では、水田稲作の開始と農耕社会の成立は同時になります。本書は、水田稲作開始などの経済的変化と農耕社会の成立が同時に見られるのが、論争のある九州北部沿岸地域を除くと、現時点では近畿や東海から「渡来系弥生人」が移住したかもしれない中部高地と関東南部だけになる、と指摘します。また本書は、酸素同位体比年輪年代法が、弥生時代前期初頭以降の歴博の編年と整合的であることを指摘します。この新たな弥生時代開始の年代観を前提とすると、日本列島において水田稲作が始まった頃は、過去3000年間で最も寒冷だったそうです。

 本書の古代ゲノム研究への言及は、著者の昨年の論文(藤尾., 2023)をほぼ踏襲していると思いますが、本書は一般向けなので、藤尾., 2023の方がより専門的になっています。縄文時代から弥生時代への移行が人類集団の変容や置換を伴っていたのか、そうだとしてどの程度だったのかについては、本書でも簡潔に言及されていますが、近代黎明期から1990年代頃までの広い視野で検証した新書もあります(坂野., 2022)。本書は、弥生時代前期後半の愛知県朝日遺跡のゲノム解析された個体から、縄文時代晩期末以降に日本列島に到来した集団と縄文時代以来の日本列島在来集団との遺伝的混合が、水田稲作の開始期ではなく、しばらく経過してからと推測され、それは在来系土器の割合が紀元前6世紀以降に少しずつ増えることと整合的なのではないか、と指摘します。

 ただ、本書も指摘するように、弥生時代前期までの人類のゲノム解析数は少なく、今後の研究の進展が期待されます。本書でも改めて、弥生時代の日本列島の人類集団の遺伝的多様性が指摘されており、少なくとも一定以上は考古学とも相関しているようです。年代的にも地理的にも比較的近接している、伊勢湾沿岸地域の愛知県の朝日遺跡と伊川津遺跡では、それぞれ遠賀川系土器と条痕文系土器が使用されており、核ゲノムが解析された個体では、前者が「縄文人」との遺伝的混合をさほど示さない「渡来系」、後者が他の「縄文人」と一まとまりを形成する、と分かりました。現時点での古代ゲノム研究を自分なりの理解で述べた私見については、著者の昨年の論文(藤尾., 2023)を取り上げた記事で述べました。

 上述のように、日本列島において穀物栽培がまず始まったのは現在の島根県や福岡県であり、その最初の年代は縄文時代晩期最終末以降ですが、水田稲作が始まった玄界灘沿岸地域ではなく、九州東北部から中国西部にかけての地域で、土器の様式構造や社会の質的変化をもたらしたわけではなく、多様な食料獲得手段の一つにすぎなかったようです。この水田稲作よりわずかにさかのぼる穀物栽培の担い手や伝播形態は、まだよく分かっていません。弥生時代早期前半となる紀元前10世紀後半に玄界灘沿岸地域で灌漑式水田稲作が始まり、日本列島各地に穀物栽培が広がっていきます。灌漑式水田稲作ではなく、紀元前11世紀に奥出雲で始まった網羅的な生業構造の一環としての穀物栽培は、アワやキビやイネも含んでいたかもしれず、紀元前9世紀後半~紀元前8世紀前葉にかけて、中国や四国から関東にかけて広がった可能性があるようです。これら網羅的な生業構造下での穀物栽培では、社会的側面が質的に変化せず、縄文時代晩期の文化伝統が祭祀的側面も含めて、やや変容しつつ継続していきます。

 一方で水田稲作は、紀元前7世紀には西日本のほとんどの地域で行なわれていたようです。ただ、同じ地域でも水田稲作に適した土地とそうではない土地があるわけで、水田稲作民とアワやキビを栽培する狩猟採集民は共存していたのではないか、と本書は推測し、その土器指標として、前者については遠賀川系、後者については突帯文系の長原式を挙げています。選択的な生業構造での水田稲作を選択した前者と、網羅的な生業構造の中で採集や狩猟や漁撈やアワとキビの栽培などを行なっていた後者、と本書は把握しています。後者では、縄文時代以来の土偶祭祀や石棒祭祀が継続されていました。ただ、こうした生業構造の違いが常に集団間の遺伝的差異を伴っていたのか否かについて、本書は今後の遺伝学的研究の進展を俟つ、としています。本書は、穀物栽培段階を経ずに定型化した灌漑式水田稲作が始まった地域と、網羅的な生業構造の一環としての穀物栽培の後に水田稲作が始まった地域との違いとして、前者では外部から完成した生業構造の導入事例が多いのに対して、後者では発展段階的な農耕の定型化過程が見られる、と指摘します。

 東北地方北部で紀元前4世紀前葉と意外に早く水田稲作が始まったことは、比較的よく知られているように思います。これは日本海側の津軽地域ですが、それ以前の穀物栽培の痕跡はまだ確認されていません。ただ、この津軽地域の初期水田稲作の代表的な遺跡である砂沢では、生業面で水田が選択されただけで、それ以外では縄文時代晩期から続く既存の道具が用いられています。木製農具はなく、石庖丁ではなく剥片石器で穂摘み(収穫)が行なわれている、というわけです。杭や矢板を用いた用水路や畦畔は設置されず、高低差を利用した自然の水の流れで水が引き込まれており、石材の供給体制も縄文時代晩期と変わりません。祭祀も含めて社会面では「弥生時代的」要素は完全に欠落しており、縄文時代の土偶祭祀が継続しており、本州と四国と九州において、津軽は水田稲作と土偶祭祀がともに行なわれていた唯一の地域です

 本書は、北海道と琉球諸島を除く日本列島の農耕受容について、以下のように4通りに分類しています。それは、(A)灌漑式水田稲作が突然始まった玄界灘沿岸地域、(B)穀物栽培の後で灌漑式水田稲作が始まった西日本と伊勢湾沿岸地域、(C)穀物栽培の後で農耕文化複合を経て灌漑式水田稲作が始まった中部高地や関東、(D)Cが農耕文化複合のまま灌漑式水田稲作が始まった利根川以北です。これらの担い手の遺伝的構成はたいへん注目され、BとCとDでは紀元前10世紀後半以降もある時期までは、「縄文人」的な遺伝的構成要素で完全にモデル化できる集団が残っていたのではないか、と予測され、今後の研究の進展が期待されます。

 弥生時代はかつて、当初から鉄器を使用しており、水田稲作と鉄器の使用が同時に始まる世界で唯一の先史時代文化と位置づけられていましたが、弥生時代開始の根問題が紀元前10世紀後半までさかのぼり、弥生時代早期から前期末までの約600年間は、鉄器のない石器時代と明らかになりました。しかし本書は、水田稲作の開始を単なる生産経済の始まりとして経済的側面で把握するだけではなく、遼寧式青銅器文化の生産基盤として始まったのかどうか、考察することにより、縄文時代的な生業構造の延長上で栽培可能なアワやキビを対象とした穀物栽培とは一線を画した、西日本における紀元前4世紀前葉(弥生時代前期末)以前の約600年間を、世界史の枠組みで把握することが可能になる、と指摘します。本書は、石器が主流で、わずかに青銅器の再加工品が存在する前期末までの弥生時代の数百年間について、朝鮮半島で政治的に劣勢にあった集団が日本列島に到来したため、青銅器が本格的に流通しなかった可能性を指摘します。玄界灘沿岸地域で青銅器を保有する層が登場するのは、紀元前4世紀後半(弥生時代中期初頭)以降です。本書はこうした特徴を示す弥生時代早期~前期末を、世界史において初期青銅器時代段階と把握できる、との見解を提示します。


参考文献:
岩永省三(2013)「東アジアにおける弥生文化」『岩波講座 日本歴史  第1巻 原始・古代1』P101-134
関連記事

坂野徹(2022)『縄文人と弥生人 「日本人の起源」論争』(中央公論新社)
関連記事

寺沢薫(2000)『日本の歴史02 王権誕生』(講談社)

藤尾慎一郎(2023)「弥生人の成立と展開2 韓半島新石器時代人との遺伝的な関係を中心に」『国立歴史民俗博物館研究報告』第242集P35-60
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/2000021
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藤尾慎一郎(2024)『弥生人はどこから来たのか  最新科学が解明する先史日本』(吉川弘文館)

https://sicambre.seesaa.net/article/202403article_2.html

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