777投稿集 2605045


満洲の起源

1:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/02/11 (Sat) 17:22:02

雑記帳
2023年02月11日
小峰和夫『満洲 マンチュリアの起源・植民・覇権』
https://sicambre.seesaa.net/article/202302article_11.html

https://www.amazon.co.jp/%E6%BA%80%E6%B4%B2-%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90%E3%83%BB%E6%A4%8D%E6%B0%91%E3%83%BB%E8%A6%87%E6%A8%A9-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B0%8F%E5%B3%B0-%E5%92%8C%E5%A4%AB/dp/4062920387



 講談社学術文庫の一冊として、2011年2月に講談社より刊行されました。本書の親本『満洲 起源・植民・覇権』は1991年に御茶の水書房より刊行されました。電子書籍での購入です。本書はまず、満洲の定義が困難であることを指摘します。満洲はダイチン・グルン(大清帝国)において発祥地と考えられており、つまりは後にマンジュ(満洲)と呼ばれるジュシェン(女真)人の故地でもあったわけです。満洲は、大清帝国が中華を制圧して以降、その住民の大半は「漢人」移住者により占められようになり、その風土や景観は変貌していきます。日本が満洲と関わるようになった20世紀初頭には、外見的には満洲は中華の延長にすぎない地になっていました。一方でその頃には、満洲には植民開拓地としての独自の地域的特性が生まれつつあり、元々の満洲人と大清帝国期に多数到来した漢人に加えて、モンゴル人やロシア人や日本人や朝鮮人も移住するようになりました。本書は、満洲を一つのまとまりのある地域として把握し、その固有の歴史と風土を明らかにしていきます。

 明代にさかのぼると、満洲はおもにツングース系狩猟民の地で、未開発の森林原野が広がっていました。ただ、満洲にはツングース集団とともに、モンゴル系集団と漢人系集団もおり、それぞれおもに狩猟と遊牧と農耕で生計を立てていました。満洲起源の高句麗や渤海や金や大清といった王朝は、いずれもツングース系集団により創建されました。モンゴル系集団はおもに満洲の西部地域(内モンゴル自治区東部)に、漢人系集団はおもに遼東と遼西に住み、定住型の集約農耕の限界を越えて北上するのは、18世紀以降でした。明はモンゴル対策で満洲を支配下に置こうと考えますが、明の支配は土着社会の内部にまで浸透せず、有名無実とも言えました。明はジュシェン(女真)を、海西と建州と野人の大きく3集団に区別していました。このうち、漢字文化圏の影響を最も強く受けていたのは海西女真でした。明との朝貢貿易によりジュシェン社会は大きく変容していき、朝貢貿易をめぐってジュシェン内の対立は激化します。これは、ジュシェンを対モンゴルの盾としたいものの、自身にその武力が向けられことを恐れていた明にとって、好都合でした。しかし、満洲の経済的発展によりジュシェンにも統一の動きが見られるようになり、ついには遼東と遼西以外の満洲はほぼジュシェンが支配するに至ります。大清帝国の始祖となったヌルハチは、明の権威を利用しながら建州女真を統一します。これには、16世紀末に日本が朝鮮に侵攻してきて(文禄・慶長の役)、その軍備が莫大だったため、明の遼東防備が手薄になった事情もありました。明は台頭してきたヌルハチを強く警戒するようになり、明の経済封鎖に窮したヌルハチは、明との本格的な対決を決断します。この戦いはヌルハチの代には決着がつかず、ヌルハチの孫のフリン(順治帝)の代になって、明は李自成の乱で滅亡し、大清が南下して中華の地を制圧するに至ります(大清帝国)。

 大清帝国は、満洲(女真)人が漢人の文化風習に影響を受け、その特性が失われることを警戒し、明末清初の争乱で満洲が荒廃し、その再建策による移民などで漢人が増加すると、18世紀には漢人移住の抑制策を打ち出しますが、それでも漢人の移住を止めることはできませんでした。一方で、漢人の移住により満洲が経済的に発展したことも確かで、満洲と中華の一体化が進んでいきました。その背景には、大清帝国治下の中華の地における人口増加がありました。18世紀末以降、大清帝国の統治が弱体化するなか、ヨーロッパ勢力、とくにロシアの大清帝国への侵出が本格化し、満洲は本格的に「国際経済」に組み込まれていきます。やがて、日本が近代化により台頭し、ヨーロッパでは大きな影響を有さなかった満洲の大豆が、日本ではその生活習慣もあって広く受け入れられました。この「国際化」の過程で満洲は移住開拓地として発展していき、日清戦争から日露戦争の期間に貿易が飛躍的に発展します。満洲は、日露戦争によりロシアの勢力が後退し、辛亥革命により大清帝国が滅亡して、すでに漢人の移民とその子孫が多数派を占めるなか、実質的に漢人による中国の一部となります。しかし、中国がそのまま満洲を順調に支配できたわけではなく、日露戦争後に本格的に満洲に侵出してきた日本が満洲における有力な政治勢力として台頭し、ついには傀儡国家として満洲国を建てました。しかし、日本が第二次世界大戦において敗れたことにより、満洲は以後、中国の一地方として歩むことになります。
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