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1:保守や右翼には馬鹿しかいない
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2023/01/08 (Sun) 17:02:45
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「中国」最古の鉄器が出土!場所は新疆ウイグル自治区。伝説の武器昆吾の剣は本当にあった!?鉄の民「狄」が中原諸国を圧倒した歴史
https://togetter.com/li/913898
最新の考古学の論文を紹介しつつ、文献や出土史料の記述に基づき、西アジアから東アジアへの先史時代シルクロードを通じた鉄器伝来の歴史と神話伝説を明らかにする。
巫俊(ふしゅん) @fushunia
(2015年9月9日のメモより)凄い論文を見つけた。鉄は腐りやすいので中国初期鉄器は謎だった。
2015-12-17 22:12:08
巫俊(ふしゅん) @fushunia
鉄は腐りやすいので中国初期鉄器は謎だった。しかし春秋時代の紀元前7~6世紀に画期があり、それまで中原諸国は新疆ウイグル自治区から技術移転した「鍛造の塊錬鉄」を使用していたが、この頃から「鋳鉄」へと移行していく。前7世紀の例は晋の遺跡。って晋の文公重耳が前7世紀後半ですよ!(
2015-12-17 22:12:24
巫俊(ふしゅん) @fushunia
論文「中央ユーラシア東部における初期鉄器文化の交流」(田中 裕子) このタイトルでグーグル検索すると、PDFで論文が読めます。
2015-12-17 22:12:56
巫俊(ふしゅん) @fushunia
たしか、春秋時代のことを書いた『国語』だったと思いますが、晋公に従っていた戎狄たちに、晋公が訓戒する場面があり、遠い向こうからやってきたお前たちが定着できたのは誰のおかげだ?(晋公のおかげだろ)、と言う話があったと思います(2015年12月17日、何の文献か、思い出せないまま)
2015-12-17 22:14:03
巫俊(ふしゅん) @fushunia
また、あとで調べようと思いますが、その台詞のなかにその地名も出てくるんです。漢代以降か何かの注釈では河西回廊あたりだった気がします。でも、まさか、そんなに遠いところから来たんじゃ無いだろうとというのが、近年の歴史学だったんですよね
2015-12-17 22:14:37
巫俊(ふしゅん) @fushunia
新疆から出土した最古の人工鉄は、紀元前1000年頃のもので、殷周革命の頃です。新疆と殷は遠距離交易(玉)が成立していますが、中国王朝が新疆に進出するのは1000年後の漢代から。つまり「新疆ウイグル自治区から中国の中原に技術移転した」なんて、さらっと考古学の人たちは書いてるけど
2015-12-17 22:15:13
巫俊(ふしゅん) @fushunia
新疆をふくまない「中国」では、鉄器は前9世紀〜前7世紀(西周末〜春秋時代前期)にかけて、はじめて広がっていく。しかもこの春秋前期までは、甘粛と陝西の中国西北地域の遺跡が中心。
2015-12-17 22:15:26
巫俊(ふしゅん) @fushunia
「中国」だと言いましたが、甘粛が中国に編入されるのも漢の武帝からです。秦の始皇帝もビビって手が出せなかったのが甘粛の遊牧国家・月氏です。
2015-12-17 22:15:45
巫俊(ふしゅん) @fushunia
ということは「陝西」しか残ってないけど、春秋前期の陝西は異民族の西戎の支配下にあり、西戎の部族長の養子になっていた秦公が陝西で自立しようともがいていた時期です。
2015-12-17 22:15:50
巫俊(ふしゅん) @fushunia
それどころか、黄河下流域の山西、河南、河北、山東にも異民族が進出していて、中原を荒らしまくっていたのが春秋前期です。春秋前期の終わりに晋の文公(母は狄族)が出てきて、やっと狄族の猛攻が終息します。
2015-12-17 22:16:06
巫俊(ふしゅん) @fushunia
それが思い当たる「神話」が司馬遷の『史記』にありまして、河南の許(許昌)には、昆吾(こんご)氏という人たちが居住していたとされ、楚の王室の遠祖の伯父だったとあります。
2015-12-17 22:16:20
巫俊(ふしゅん) @fushunia
「西戎は、昆吾の剣、火浣布を献ず、その剣は長さ尺有咫あり、錬鋼赤刃なり。 これを用うれば、玉を切ること泥を切るがごとし」って話もありまして
2015-12-17 22:16:35
巫俊(ふしゅん) @fushunia
この論文によると、「鍛造の塊錬鉄」と「鋼」(はがね)が同時期に中国に入ってきたとあります。中国には、これより以前の段階の人工鉄が無いので、ある程度完成した技術がセットで入ってくるとのことです
2015-12-17 22:16:46
巫俊(ふしゅん) @fushunia
楚の遠祖の伝説ということで、今まで研究者はこの話を「歴史」の中には入れようとはしていなかったんですが、「夏王朝の諸侯の昆吾伯」として文献に記録されているこの人たちは、西周末の大移動で新しい定住地を探して来た人たちのことで、
2015-12-17 22:17:09
巫俊(ふしゅん) @fushunia
河南周辺などで他の集団と通婚して、「陸終氏」という、擬似家族グループをつくったみたいです。そのなかに楚もちょっと関わったことがあって、楚(湖北)の北の河南の「陸終の子孫の昆吾たちの伝説」を借りて楚の系図に仕立てたと思われます。
2015-12-17 22:17:24
巫俊(ふしゅん) @fushunia
鉄剣が出土したのは、新疆ウイグル自治区のハミ(漢代の伊吾)の前11世紀のヤンブラク古墳群からです。中国共産党の「西部大開発」政策を受けて、資本が投下されたことで、このところ出土が相次いでいるようです。
2015-12-17 22:17:41
巫俊(ふしゅん) @fushunia
今のところ、紀元前1000年を超えそうな鉄器は、このハミのほか、天山山脈の北のイリ地方(漢代の烏孫)で出土しています。ハミ(伊吾)のすぐ北にも匈奴の庭というべきバルクル盆地の草原があるので、この鉄器は西の草原世界(南シベリアふくむ)からやってきたのではないかと見られています。
2015-12-17 22:17:54
巫俊(ふしゅん) @fushunia
投下された資本のケタが違うからだと思いますが、ロシアや旧ソ連領では紀元前1000年にさかのぼる鉄器が出土していないので、ヒッタイトの鉄とどんな風につながってるかは、謎のままのようでした
2015-12-17 22:18:10
巫俊(ふしゅん) @fushunia
今まで、どうして、春秋時代のはじめの中国はこんなに悲惨な状況になっていたのか分からなかったんですが、何のことは無い。鉄器をつくることが出来る異民族が新疆から甘粛、陝西から更に洛陽周辺などに浸透してきていて、中原諸国は圧倒されていただけだったんですね。
2015-12-17 22:18:39
巫俊(ふしゅん) @fushunia
白楽天の唐詩に「昔聞く 被髪伊川の中 辛有(しんゆう)之を見て戎有るを知る」がありますが、辛有という人は「国語」という春秋時代の文献に出てくる西周末の周の学者で、洛陽の近くの伊水でざんばら髪の人たちが水浴び祭りをしているのを見て、異民族が大移動して移住してくることを悟ったという人
2015-12-17 22:19:20
巫俊(ふしゅん) @fushunia
2012年1月に発表された「清華大学所蔵戦国竹簡」釈文によると、紀元前7世紀に「赤テキ王ボウ虎」という牧畜民・赤狄(せきてき)族の王があらわれ、漢の河内郡朝歌県にあった衛国を粉砕して一度滅ぼしました。
2015-12-17 22:32:40
巫俊(ふしゅん) @fushunia
「春秋の五覇」として有名な斉の桓公ですが、この赤テキ王ボウ虎には手が出せず、斉の桓公は黄河の東に逃げてきた衛の生存者を収容して、その地に新しく衛の国を建てることで精一杯でした。
2015-12-17 22:36:09
巫俊(ふしゅん) @fushunia
孔子が手を加えて今日まで伝わっているという歴史書『春秋』や、その注釈書の『春秋左氏伝』(左伝、三国志の関羽が愛用した故事で有名)にも同様のことが記述されていますが、その相手をただ「狄人」とだけ書くことで、印象を弱めようと、印象操作が加えられていました。
2015-12-17 22:40:07
巫俊(ふしゅん) @fushunia
西周から春秋時代の「衛」という国は、20世紀に甲骨文字が出土した殷王朝の王都の「殷墟」周辺を統治するために置かれた国です。つまり、こうして浮かび上がってきた春秋時代前期の「狄」というナゾの王権は、数百年前に滅亡した殷王朝の故地を領有していたことになりますね。※殷墟遺跡は墓地のみ
2015-12-17 22:48:08
巫俊(ふしゅん) @fushunia
画像は、天理参考館の中国出土品コーナーの表示よりお借りしました。撮影可とのことで写真を撮らせてもらったものです。 pic.twitter.com/vnZxSnOO7J
2015-12-17 23:29:08
【まとめ】3800年前に西アジアのアナトリアで出現した「鉄」は、インドヨーロッパ語族の草原の民によってはるか東方へと運ばれ、3000年前には中国の西域地方に出現した。彼らはコーカソイド、つまり白人でした。
2800年前、中国(西周王朝)の貴族は強敵であり交易相手である西方から来た人たち「西戎」から、贈答品として高級武器の「鉄剣」を受け取っていた(出土した)。しかし、その西周王朝はしだいに戦争に勝てなくなり、ついに内乱で分裂して紀元前771年に滅亡する。
その頃から、ざんばら髪で水浴びをする西方民族が洛陽周辺の谷や平地に移住してきて、「狄(てき)」と呼ばれ、人口を増やしていった。彼らは小麦農耕にも従事する牧畜の民で、かんたんな城郭をもつ集落をつくって居住していた。「騎馬遊牧民」との関係はというと、文化的には同じだが、騎馬遊牧民が牧草しか生えない土地で発展していくのに対し、彼らは中国内地に移住していった。当時の「中国」とは都市国家のことで、中国都市の外には蛮夷の勢力がたむろしていた。
彼らは鍛鉄を使う「鉄の民」で、中原諸国を席巻したが、晋の文公重耳が「尊王攘夷」をかかげ、東周王朝の近畿地方からついに「狄」を駆逐する。紀元前7世紀に中国都市の側が大量生産が可能な「鋳鉄」を発明し、はじめて対抗可能になったことが背景にありそう。しかし、その晋の文公も母親は狄の首長の娘であり、春秋中期の「アメリカ」的覇権国の晋も補助戦力として「狄」を必要としていた。
この「狄」が融合して生まれたのが、秦漢時代の中国人である。つまり、のちの五胡(浸透王朝)からモンゴルまでの征服王朝を例にしなくても、最初の時点から「胡漢融合」(周狄融合)していたというのが、新しい事実。
【追記】 ↓ さっそくご教示を頂きました
Archer @Archer12521163
@fushunia 戎狄への訓戒は『左伝』襄公14年の范宣子が戎子駒支に発言したものですね。その中にある「瓜州」を杜注が敦煌に比定しています
2015-12-18 00:27:08
某作家の裏方かも 長島芳明 @nagasimayosiaki
ヒッタイト族の流れ? 稲作などの農業はDNA解析でルーツが分かるが、鉄器は出土品だもんな。なんにせよ、ロマンがあるぜ!
2015-12-18 00:32:04
Archer @Archer12521163
あの話で重要なのは戎子駒支が『詩』を引用していること、范宣子が「言語漏洩」つまり戎子駒支のせいで秘密が漏れていると発言していることなんやな。戎が周系諸侯と言語や文化をある程度共有していることが語られている
2015-12-18 00:40:07
Archer @Archer12521163
で、もちろん瓜州=敦煌説は顧頡剛あたりから否定されている。あの時代にそんなところまで晋秦はおろか他の諸侯も到達していない(なお顧頡剛の瓜州=陰地説も否定されている)
2015-12-18 00:46:04
やかた @yakata22
日本の稲作も、ある程度完成された技術段階で日本に伝播するけれど、中国も鋼に関しては同じような情況なのか。(^_-)
2015-12-18 01:31:08
やかた @yakata22
まあオリエントのヒッタイトが、鉄器のカリスマ創始者だもんな。
あの地域は本当に凄い。触れる度に、人類文明の曙を感じてしまう。
2015-12-18 01:33:32
やかた @yakata22
もしそうなら、蛮族の野蛮バーサク攻撃に苦しめられたのではなく、先進的な鉄器製造技術にあの「中原の文明人」達が圧倒されていた訳で、大分事情が違ってきますねえ(゚ω゚)>RT
2015-12-18 17:48:14
KAMO nang-bang @dead_san
うおー、昆吾の剣かー。 .@fushunia さんの「「中国」最古の鉄器が出土!場所は新疆ウイグル自治区。伝説の武器昆吾の剣は本当にあった!?鉄の民「狄」が中原諸国を圧倒..」をお気に入りにしました。 togetter.com/li/913898
2015-12-18 15:15:29
tenpurasoba @tenpurasoba4
>RT 基礎技術の来た道や伝播の歴史は見えないところをつなげて行く壮大な冒険のような感じがしていつもわくわくします!
2015-12-18 22:48:19
にるば@一日目西う32b @nirvanaheim
鉄器の技術を有するイラン系遊牧民が東遷したことでヒッタイトめいて中原諸民を圧倒した、というのが周代の狄の存在感のバックグラウンドであると。
2015-12-18 18:28:08
巫俊(ふしゅん) @fushunia
@nirvanaheim ご感想を頂きまして、ありがとうございました。東遷してきたのはケルト語やラテン語の方に近い言葉トカラ語を話す人たちで、この頃イラン系は中央アジアに進出したばかりのようです。日本語の剣(けん)、はちみつの蜜、獅子がトカラ語由来の漢語になります。
2015-12-18 23:57:04
イラン系(インドヨーロッパ語族サテム語派)が東方に拡散してくるより前に、インドヨーロッパ語族ケントゥム語派と呼ばれる人たちがヨーロッパと中国に拡散移動しており、「狄」のルーツのひとつはこちらです。
https://togetter.com/li/913898?page=2
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2:保守や右翼には馬鹿しかいない
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2023/01/08 (Sun) 17:13:10
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中国の製鉄技術史
https://www.isc.meiji.ac.jp/~sano/htst/History_of_Technology/History_of_Iron/History_of_Iron_China01.htm
「中国(漢民族)の場合のみは、すでに戦国時代(紀元前400ー200年頃)に、鍛鉄とならんで銑鉄(鋳造用の鉄)を生産し、各種の鋳鉄製品を製作していた。・・・・革命後の考古学による多くの発掘によって、おびだたしい数の斧・鎌・鋤・包丁・鍬などの農工具が出土し、しかもその大半が鋳鉄製品であることが実証されるようになった。続く漢代に入ると、鉄は国家による専売制の下で、銅よりもはるかに安い価格で、ますます大量に生産されるようになる。」大橋周治『鉄の文明』岩波書店、1983年,p.10
戦国時代(B.C.476-221年)に始まった中国における鉄の鋳造技術 ---- その技術的源泉は、古代中国の青銅器の鋳造技術(紀元前18世紀)
古代ヨーロッパでは、青銅器は鍛造されていた。しかし古代中国では新石器時代の末期頃から鋳造で製造されていた。
「中国古代の金属製造技術は、「鋳造」に始まったことに最大の特徴がある。このことはその後の中国の金属文化のすべてに大きな影響を及ぼしている。欧州古代においては、青銅器は青銅器時代の晩期においても、鍛造で製造された。しかし、中国においては全く異なり、新石器時代の末期から、青銅器は鋳造で製造された。この鋳造技術が一応の確立をみたのは、夏(か)時代(商時代の前、B.C.約1766年)である。商時代初期からほとんどすべての青銅器は鋳造で製造され、商時代は鋳造技術の最盛期となった。現代人が驚くような複雑なものや大型のものも多数製造された。一般に中国は「鋳造の故里」といわれているが、これは中国で鋳造技術が創始され、高度に発展したことやその技術が後世に継承されたことを指すものである。周知のように、鋳造は鍛造よりも生産効率が高いが、高温度まで上げられる熔解炉などの設備と優れた技術者が必要である。古代の文献にも、「鉱石から銅を精錬し、鋳型に鋳込むことができるようになって、初めて金属文化が開花した」とあり、中国古代の金属文化の特徴とルーツを鋳造技術に求めることが多い。」華覚明(中国科学院自然科学史研究所教授)の講演記録「中国古代金属文化の技術的特徴」(田口勇『鉄の歴史と化学』裳華房,1988年,pp.24-25 所収)
↓
↓
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鉄の鋳造技術は、ヨーロッパではA.D.14世紀頃からであるの対して、中国ではそれよりも千数百年前の戦国時代(B.C.476-221年)頃に始まった。
「青銅器の鋳造技術は、その後の戦国時代(B.C.476-221年)には鉄を対象に適用され、鉄の鋳造技術としてさらに発展した。対象が鉄に変わったことによる技術的ギャップは、現在、想像するよりも容易に試行錯誤することによって乗り越えることができたと考えられる。鉄になった場合の最大の問題点は、多分脆さをカバーすることではなかったかと考える。その技術開発にはかなりの時間を要したが、可鍛鋳鉄などの発明はその解決の1つであった。」
華覚明(中国科学院自然科学史研究所教授)の講演記録「中国古代金属文化の技術的特徴」(田口勇『鉄の歴史と化学』裳華房,1988年,p.225 所収)より
華覚明氏は、『世界治金発展史』、『中国治鋳史論集』などの著書でもよく知られた中国古代治金史研究の権威者
中国で、鋳鉄が「生鉄」、練鉄が「熟鉄」(熟すとは、重要な成分が失われることを意味する)という言葉で呼ばれることにも、古代中国における鋳鉄技術の存在が示唆されている。
R.K.G.テンプル『中国の科学と文明』河出書房新社、pp.85-88
ニーダム『東と西の学者と工匠』上巻,p.84,pp.165-166,197-208
中国古代の製鉄法の図
図のようにフイゴを使用して鋳鉄が製造されていた。
宗応星『天工開物』(1637)
(大橋周治『鉄の文明』岩波書店、1983年,pp.10-11)。
漢王朝における鋳鉄事業の国家独占(B.C.119年)と鋳鉄製品の普及
「最初、鋳鉄は民間の投機家が独占し、彼らはそれによって裕福になった。しかし、漢王朝はBC119年にすべての鋳鉄所を国営化し、皇帝がその製造を独占した。当時は、全国に46の国営鋳鉄所があり、政府の役人が鋳鉄製品の大量生産を管理していた。/古代中国における鋳鉄の普及には、多くの副次的な効果が伴った。農業の分野では鉄製の鍬やその他の道具とともに、鋳鉄製の犂先が開発された。小刀、斧、のみ、鋸、および突きぎりもすべて鉄製のものが手にはいるようになった。食物は鋳鉄の鍋釜で料理できるようになり、玩具まで鉄のものができた。」R.K.G.テンプル『中国の科学と文明』河出書房新社、p.73
中国における製鉄過程での石炭(11世紀)・コークス(13世紀)使用
11世紀頃には製鉄に石炭を利用、1270年頃にはコークスを高炉燃料に利用(原善四郎『鉄と人間』p.95)
https://www.isc.meiji.ac.jp/~sano/htst/History_of_Technology/History_of_Iron/History_of_Iron_China01.htm
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3:保守や右翼には馬鹿しかいない
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2023/01/08 (Sun) 17:14:43
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鉄器時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3
鉄器時代は、デンマークのクリスチャン・トムセンが提唱した歴史区分法の1つ。主に利用されていた道具の材料で時代を、石器時代、青銅器時代、鉄器時代と3つに区分する三時代(時期)法を採用し、鉄器時代はその中の最後の時代に相当する。
定義
鉄器時代の定義としては、青銅を利用した青銅器の代わりに鉄を利用した鉄器が主要な道具として使われている事が条件となっている。
この分類法は先ヨーロッパ史を前提にして提唱されている。ヨーロッパ、中東、インド、中国などの地域では時代区分することが可能だが、例えば日本やサハラ以南アフリカにおいては青銅器と鉄器が同時に伝わり、石器時代から青銅器時代を飛び越えていきなり鉄器時代に入るため、全世界的に万能な区分法とは言えない。
鉄の精製技術
初期の製鉄は炉内に木炭と鉱石を層状に装入して鞴(ふいご)で空気を送って燃焼させ、一酸化炭素が鉄と結合している酸素を奪って二酸化炭素となり金属鉄になる。この化学反応に必要な温度は400から800度ほどで、温度が低ければ固体のまま還元されて酸素を失った孔だらけの海綿状の鉄になり、硬いものの上で赤熱のまま打ち叩いて不純物を絞り出し、鉄原子どうしをくっつけ直すことで純粋な鉄にすることができる。これが「鍛える」という操作である。更に炭に包んで炭素分を加えて鍛えることで「鋼」が精製できる。
鉄器時代の特徴
鉄器の原料となる砂鉄や鉄鉱石などは青銅器の原料である銅鉱石やスズ鉱石にくらべて偏在が少なく、世界の多くの地域において容易に入手が可能なものであった。このため、鉄器製造が可能になると世界各地でその土地の原料によって製鉄が試みられるようになり、金属器の増産をもたらした。また鉄は加工が容易なうえに強度が強く、武器や農具などの原料として適していたため、製法が伝わった地域においてはどこも青銅に代わって鉄を金属器の中心に据えるようになった。ただし青銅も全く使われなくなったわけではなく、青銅器は祭器や装飾品などに使用されるようになっていった。鉄の農具や武器が量産されるようになると、農作物などの生産量が増大して富の蓄積が一層進み、また各地の王がより強力な軍事力を保持するようになっていった。やがて蓄積された富と武力は周辺地域の統合へと向かい、オリエントにおいては初の統一帝国であるアケメネス朝ペルシア帝国が成立し、インドにおいても十六大国などの王朝群が成立したのちそのうちのひとつであるマガダ国が強大化してマウリヤ朝によって統一され、中国においても春秋戦国時代を経て秦王朝による中国統一が成し遂げられ、それに続く漢王朝(前漢・後漢)によって中国の統一状態が固定化されるなど、各地で強大な統一王朝が成立するようになった。また、これら先進地帯においては社会の複雑化が進んだため、思想体系の確立も進み、哲学史的に「枢軸時代」と呼ばれる、紀元前500年ごろの世界同時の思想的一大変動が起きることとなった。このほか、青銅器時代においては国家を形成していなかったヨーロッパや中央アジアのステップ地帯、サハラ以南アフリカや日本などにおいても、鉄器の普及による富の増大と偏在は権力の集中を促し、国家が成立していくようになった。
鉄器の発明と伝播
鉄の利用は鉄器時代の開幕よりもはるかに古く、紀元前3000年ごろにはすでにメソポタミアで鉄は知られていた。ただしもっとも初期には融点が高いために鉄鉱石から鉄を精錬することはできず、もっぱら隕鉄を鉄の材料としていた。その後、エジプトなどでも出土例がみられるが、精錬の難しさや隕鉄の希少性などから利用は多くなく、武器や農具としての利用は青銅を主としていた。
最初の鉄器文化は紀元前15世紀ごろにあらわれたヒッタイトとされている。ヒッタイトの存在したアナトリア高原においては鉄鉱石からの製鉄法がすでに開発されていたが、ヒッタイトは紀元前1400年ごろに炭を使って鉄を鍛造することによって鋼を開発し[1]、鉄を主力とした最初の文化を作り上げた。ヒッタイトはその高度な製鉄技術を強力な武器にし、オリエントの強国としてエジプトなどと対峙する大国となった。その鉄の製法は国家機密として厳重に秘匿されており、周辺民族に伝わる事が無かった。しかし前1200年のカタストロフが起き、ヒッタイトが紀元前1190年頃に海の民の襲撃により滅亡するとその製鉄の秘密は周辺民族に知れ渡る事になり、エジプト・メソポタミア地方で鉄器時代が始まる事になる。カタストロフによってオリエントの主要勢力はほぼ滅亡するが、その後勃興した、あるいは生き残った諸国はすべて鉄器製造技術を備えていた。同様のことはエーゲ海地方においても起きた。紀元前1200年ごろにギリシアの北方から製鉄技術を持つドーリア人が侵入し、ミケーネ文明の諸都市やその構成員であったアイオリス人やイオニア人を駆逐しながらギリシアへと定住した。この時代は文字による資料が失われていることから暗黒時代と呼ばれるが、一方でアイオリス人やイオニア人を含む全ギリシアに鉄器製造技術が伝播したのもこの時代のことである。
東アフリカと南アフリカにおける初期鉄器時代の時期
いったん拡散が開始されると、製鉄技術はかなりの速度で旧大陸の各地に伝播していった。アフリカにおいては、紀元前5世紀ごろにはナイジェリア中央部のジョス高原にノク文化が成立したが、この文化は溶鉱炉による鉄の精練を行っていた。また同時期、スーダンのメロエにおいても大量の製鉄が行われていた。このアフリカへの製鉄の伝播ルートとしては、メロエからアフリカ全土へと製鉄法が伝えられたという説と、メロエと西アフリカに同時期に別ルートで製鉄法が伝えられ、それが伝播していったとの説、それに西アフリカで独自に製鉄法が開発されたとの説がある[2]。かつては第一の説が有力であったが、西アフリカにおける製鉄開始の年代がかなり古いと考えられることや、メロエと西アフリカの製鉄法がまったく異なることから現在では有力説とは言えない。また、サハラ以南アフリカにおいては青銅器は鉄器とともに拡散しており、単独の青銅器時代がなく石器時代から直接鉄器時代に移行したのも特色である。また、紀元前1500年ごろから急速な移動と拡大を続けていたバントゥー系民族にも鉄器製造技術は受容され、紀元前3世紀ごろにはヴィクトリア湖畔に達した[3]。この地域はバントゥー系民族の第二次拡散の中心地であり、ここから東アフリカや中部アフリカ、南部アフリカへと鉄器文明は急速に拡大した。
ヨーロッパにおいては、地中海沿岸のイタリア半島中部には紀元前1100年ごろからヴィラ・ノーヴァ文化が栄え、紀元前750年ごろからこの文化が都市を形成してエトルリアの諸都市が成立した。中央ヨーロッパにおいては青銅器文明後期の段階にあったハルシュタット文化が紀元前800年ごろに鉄器を受け入れ、紀元前450年ごろからはかわってラ・テーヌ文化が栄えるようになった。インドにおいての鉄器時代は古く、紀元前1200年ごろには開始されたと考えられている。ウクライナから中央アジアの草原地帯においては紀元前800年ごろからスキタイが勢力を持つようになるが、スキタイは鉄器技術を持っていた。
中国においては、殷代の遺跡において既に鉄器が発見されているものの、これはシュメールなどと同じくそれほど利用されていたわけではなく、主に使用されていたのはあくまでも青銅器であった。本格的に製鉄が開始されたのは春秋時代中期にあたる紀元前600年ごろであり、戦国時代には広く普及した。鉄器の普及は農具などの日用品から広がり、武器は戦国時代まで耐久性のある青銅器が使われ続けた。例えば、秦は高度に精錬された青銅剣を使っている。
一方の東アジア北部では中国よりも早くに鉄器が伝わり、沿海州では紀元前1000年頃に鉄器時代を迎えている。
日本の鉄器時代
「鉄器」も参照
日本で発掘された最も古い鉄器は、弥生時代初期(紀元前10世紀頃)のものとされ、福岡県糸島市二丈町の石崎曲がり田遺跡で出土した鋳造板状鉄器である[4]。石崎曲がり田遺跡は1979年の発掘調査により、稲作の始まりを裏付ける土器群や石器、竪穴住居、支石墓、甕棺墓などが発掘され、従来考えられていたよりもさらに古い時期からわが国で鉄器が使用されていた可能性が高まった。
日本は、弥生時代に青銅器と鉄器がほぼ同時に流入しており、『魏志(「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条)』などによればその材料や器具はもっぱら輸入に頼っており、日本で純粋に砂鉄・鉄鉱石から鉄器を製造出来るようになったのはたたら製鉄の原型となる製鉄技術が朝鮮半島から伝来し、確立した6世紀の古墳時代に入ってからとの考えが一般的であった。製鉄遺跡は中国地方を中心に北九州から近畿地方にかけて存在する。7世紀以降は関東地方から東北地方にまで普及する。日本においては鉄器と青銅器がほぼ同時に伝来したため、耐久性や鋭利さに劣る青銅器は祭器としての利用が主となり、鉄器はもっぱら農具や武器といった実用の道具に使用されることとなった。
鉄器時代の訪れなかった地域
鉄器は旧大陸のオリエント地域で出現し、そこから世界各地へと伝播していったため、この地域と接触のない文化においては鉄器製造技術は伝播せず、鉄器時代を迎えることはなかった。代表的な無鉄器文明としては、新大陸のすべての文明が挙げられる。アステカ帝国やマヤ文明に代表されるメソアメリカ文明も、インカ帝国に代表されるアンデス文明も、青銅器の利用すら装飾品としての利用にとどまり、金属加工レベルとしては金石併用時代にとどまっていて、製鉄技術を開発することはなかった[5]。南北アメリカ大陸に鉄器が到達するのは15世紀末のヨーロッパ人の大西洋横断を待たねばならず、その後も両文明は滅亡まで鉄器製造技術を手に入れることはなかった。鉄器を装備したスペイン人の一隊によって両文明が滅ぼされたのち、やってきたヨーロッパからの植民者たちによってはじめて新大陸に鉄器は普及することとなった。また、太平洋に広がったポリネシア人の文明も、小島嶼群という地域特性上、鉄鉱石の鉱脈がほぼ存在しなかったために金属を手に入れることができず、ヨーロッパ人との接触まで新石器時代の技術レベルにとどまった[6]。
時代区分
石器時代 - (銅器時代・金石併用時代)- 青銅器時代 - 鉄器時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3