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テレビドラマ 項羽と劉邦 King's War (2012年 中華人民共和国)

1:777 :

2023/01/08 (Sun) 11:10:43

テレビドラマ 項羽と劉邦 King's War (2012年 中華人民共和国)

監督:ガオ・シーシー(中国語版)
脚本:ワン・ハイリン、イエン・ガン

動画

項羽と劉邦 第1話 始皇帝巡幸 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=REFxQX4KKN8&t=11s

https://www.youtube.com/watch?v=gtUcqw61b-8
https://www.youtube.com/watch?v=Llv1Ed-_Z6M
https://www.youtube.com/watch?v=z7Z427iTT4M
https://www.youtube.com/watch?v=i17H4gHHvWE
https://www.youtube.com/watch?v=huOuyF-xq4Y

項羽と劉邦 King's War 第07話 項羽の恋【日本語吹替版】
https://www.nicovideo.jp/watch/sm37744528

https://www.youtube.com/watch?v=CbodpOsOvKg

項羽と劉邦 第9話 始皇帝死す
https://www.youtube.com/watch?v=gzkeT0XoZB0

https://www.youtube.com/watch?v=mocxwt59-JQ

項羽と劉邦 King's War 第11話 赤帝の子【日本語吹替版】
https://www.nicovideo.jp/watch/sm37746199

https://www.youtube.com/watch?v=dZy6ws7ards
https://www.youtube.com/watch?v=eFWaJBl_-tE

項羽と劉邦 King's War 第14話 皇帝の影【日本語吹替版】
https://www.nicovideo.jp/watch/sm37746630

https://www.youtube.com/watch?v=vYncgw8JI-U
https://www.youtube.com/watch?v=514w0NEwTqo
https://www.youtube.com/watch?v=aXZbYLb3F9Q
https://www.youtube.com/watch?v=y0ri9X6bxAo
https://www.youtube.com/watch?v=l6p-EweEhQg
https://www.youtube.com/watch?v=XdgT883250Q
https://www.youtube.com/watch?v=82xXD3fy-iI
https://www.youtube.com/watch?v=ZYEaZzt-Jw8
https://www.youtube.com/watch?v=LiTUqsUe24s
https://www.youtube.com/watch?v=Y2HvsVv2rk8
https://www.youtube.com/watch?v=ZpjetXN6CeQ
https://www.youtube.com/watch?v=6V-rKxsJnpY
https://www.youtube.com/watch?v=Kb2QjZjBTOk

項羽と劉邦 第28話 項梁逝く
https://www.youtube.com/watch?v=-1dJRFg73Ug

https://www.youtube.com/watch?v=CY1NRlnEOvc

項羽と劉邦 King's War 第30話 武安侯となる【日本語吹替版】
https://www.nicovideo.jp/watch/sm37752514

https://www.youtube.com/watch?v=jy-VTy-MDdA
https://www.youtube.com/watch?v=N4F-OrihmjI
https://www.youtube.com/watch?v=8PVWI6kOtAs
https://www.youtube.com/watch?v=q9NTGP45_mU
https://www.youtube.com/watch?v=0ck4pNNR2Lg
https://www.youtube.com/watch?v=SN70PR6ETiY
https://www.youtube.com/watch?v=6K_zmNddDFE

項羽と劉邦 第38話 胡亥、夭逝す
https://www.youtube.com/watch?v=ciyzaZluMXE

https://www.youtube.com/watch?v=MaCkwTxyVRU

項羽と劉邦 第40話 趙高誅殺
https://www.youtube.com/watch?v=Iilh_WNDMMQ

https://www.youtube.com/watch?v=hTS6bYR4LQg
https://www.youtube.com/watch?v=k2AYgcaRj-c
https://www.youtube.com/watch?v=VHoTpgAKxzA

項羽と劉邦 第44話 鴻門の会
https://www.youtube.com/watch?v=GZyEf-S14dE

https://www.youtube.com/watch?v=29gj78SGlwU
https://www.youtube.com/watch?v=nFbiuv1ADHo
https://www.youtube.com/watch?v=F6DyINwwU1U
https://www.youtube.com/watch?v=Yel1H1GvTGQ
https://www.youtube.com/watch?v=JHiOSnZq_6U
https://www.youtube.com/watch?v=zMlHIqVc1Z4
https://www.youtube.com/watch?v=cRL8Gy65dQg

項羽と劉邦 第52話 章邯、散る
https://www.youtube.com/watch?v=CnvwHGf7VEo

https://www.youtube.com/watch?v=5zBKi1Yal7k

項羽と劉邦 第54話 義帝暗殺
https://www.youtube.com/watch?v=EU0kNiK1Gkc

https://www.youtube.com/watch?v=f81BU4nOq8s
https://www.youtube.com/watch?v=rmWZdd5TRf0
https://www.youtube.com/watch?v=kOK37IOO4lA
https://www.youtube.com/watch?v=ut9Hl79E6Ag
https://www.youtube.com/watch?v=JK0gDnjTufc
https://www.youtube.com/watch?v=0AYx824XHjo
https://www.youtube.com/watch?v=-O6aGEMgnG0
https://www.youtube.com/watch?v=82ePExh-g3Q
https://www.youtube.com/watch?v=h3ucTfmn1Ug

項羽と劉邦 第64話 背水の陣
https://www.youtube.com/watch?v=3QUVIEMAa5w

https://www.youtube.com/watch?v=omgmxqD5bRw
https://www.youtube.com/watch?v=CfsQI59N5b4
https://www.youtube.com/watch?v=x5S85TpEt1k

項羽と劉邦 第68話 范増との別れ
https://www.youtube.com/watch?v=FJodJFV9NSs

https://www.youtube.com/watch?v=SUeawg5EZB0
https://www.youtube.com/watch?v=v5fQM6ter9c
https://www.youtube.com/watch?v=nPtob7mcPmM
https://www.youtube.com/watch?v=wysesCz19s8
https://www.youtube.com/watch?v=UIx8TTX3p9o
https://www.youtube.com/watch?v=NfTCu7aTlXk
https://www.youtube.com/watch?v=O7M_S3n-d9U
https://www.youtube.com/watch?v=am8PMDHrKUs
https://www.youtube.com/watch?v=qo7cH8E5esI

項羽と劉邦 第78話 垓下の戦い
https://www.youtube.com/watch?v=yrF8XTVY4bY

https://www.youtube.com/watch?v=Q_T7EGyzOYI
https://www.youtube.com/watch?v=itlYmk1n8Ro





『項羽と劉邦 King's War』(こううとりゅうほう キングズ ウォー、原題:楚漢伝奇)は、2012年の中国のテレビドラマ。総制作費35億円。全80話。

あらすじ
紀元前224年、楚の項燕が壮烈な戦死を遂げ、それを機に勢いづいた秦が天下を統一するところから始まる。始皇帝の時代、そして始皇帝の崩御とその後の政変、二世皇帝と趙高による暴政から中華全土で反乱が起き、その中から項羽と劉邦という2人の英雄が誕生する。やがて2人は強大な秦を滅ぼすが、次の王の座をめぐって激しく争う。その戦いに最終的に勝利した劉邦は皇帝となり、漢王朝を開くところまでが描かれている。

そして物語は、老いた劉邦と幼い孫の劉襄の会話で終わる。近いうちにこの世を去って一族の陵墓に入る定めの劉邦に対し、劉襄は「今度はお墓に住むの?と無邪気に尋ねる。

そして、宿敵項羽と盟友韓信に先立たれ、己もまた死期を悟った劉邦はこう答える。

「みんなそうだ、お前もいずれ住む・・・ここと、そんなに変わりはないのだ」

キャストに関して
『項羽と劉邦 King's War』で起用されたキャストは、同じくガオ・シーシー監督による2010年に放送された『三国志 Three Kingdoms』で起用されたキャストが非常に多い。


登場人物・キャスト



劉邦(演:チェン・ダオミン、声:野島昭生)
ドラマの主人公の1人。元の名は季。反秦軍を率いて秦を倒す。後に項羽と戦い、勝利して前漢の初代皇帝となった。
後先考えずに行動して張良や蕭何に諌められることも多いが、仲間や部下の失態にも自ら責任を負い、敵に対しても思いやりをもって接するが故に人望が厚く、機転に富んだ人物。

蕭何(演:ヤン・リーシン、声:桂一雅)
元は秦の役人であったが、劉邦の挙兵に参加。劉邦とは同郷で付き合いが長く、時には彼に厳しい諫言を贈る良き理解者。主に補給や内政を担当する。

張良(演:フォ・チン(中国語版)、声:板取政明)
韓の貴族。始皇帝暗殺を謀るも失敗。劉邦の軍師となり、反秦から楚漢戦争において適切な助言を行なう。

韓信(演:ドアン・イーホン、声:及川ナオキ)
元は項羽軍の兵士であったが、項羽が秦軍の捕虜を虐殺したことに反発して軍籍から離れる。蕭何に軍才を認められて漢の大将軍となる。

呂雉(演:チン・ラン、声:寺井沙織)
劉邦の正妻。劉盈と劉楽の母。後の漢の呂后。

曹氏(演:ユー・ミンジャー、声:大井麻利衣)
劉邦の愛人。劉肥の母。

戚夫人(演:タン・イェン、声:榊原奈緒子)
劉邦の側室。劉如意の母。

満(演:ヤン・シャオヤン、声:有賀由樹子)
戚夫人の叔母。

薄姫(演:シュー・ヤン、声:小松茜)
元は魏豹の寵妃だったが、魏滅亡により劉邦の側室となる。

樊噲(演:カン・カイ(中国語版)、声:加藤清司)
劉邦の弟分で犬肉業者。劉邦と共に各地を転戦。

盧綰(演:ワン・ジーシー、声:金子修)
劉邦の幼馴染。

周勃(演:チャン・チョンハォ、声:野川雅史)
劉邦の部下。

雍歯(演:ユウ・ヨン、声:藤原貴弘)
劉邦の部下だが傲慢な性格で離反し彼と争う。度重なる造反によって当初は処刑されるはずだったが、張良の諌めを聞いた劉邦の恩赦で小沛を追われる。

審食其(演:ウー・ガン、声:竜門睦月)
劉邦の部下。呂雉や劉太公と共に項羽に捕えられる。

陳平(演:チャン・ジンユェン、声:砂山哲英)
元は項羽の配下だったが、劉邦に仕えて参謀として貢献する。

酈食其(演:シー・ウェイジエン、声:西谷修一)
劉邦の部下で高陽の儒学者。斉を味方にするため入国して田広らを説得する。しかし韓信の裏切りにより激怒した田広に煮殺された。

蒯徹(演:ジー・チャンゴン、声:田坂浩樹)
韓信の軍師。

彭越(演:ワン・シンジュン、声:河合みのる)
劉邦の部下。魏の宰相。

曹無傷(演:ワン・ジュン)
劉邦の部下。項羽に内通したため殺された。

紀信(演:ポン・グオビン、声:水越健)
劉邦の部下。劉邦の身代わりを務め項羽に捕えられて焼き殺された。

周苛(演:ジョン・ジンユェン)
劉邦の部下。項羽に敗れて捕らえられる。項羽から惜しまれて厚遇を条件に仕官するように求められるが、死を望んで煮殺された。

周昌(声:井木順二)
劉邦の部下。周苛の従兄弟。

灌嬰(演:ルー・ヨン)
劉邦の部下。

王陵(演:ビィ・ハイフォン)
沛県の豪族。母を犠牲にして劉邦を助ける。

随何(演:ヤン・ユィチョン)
張良が見出した儒者で、英布を調略する。

嫻(演:郭柯彤)
夏侯嬰の許嫁。呂雉らと共に楚の陣営から脱走したが鍾離昧に弓で射殺された。

尾生(演:ワン・プー、声:矢野正明)
劉邦の部下。食糧を奪う際に誤って老人を殺害してしまったため、軍規に従って自害した。

呂太公(演:ジェン・ティエンヨン(中国語版)、声:佐々木敏)
呂雉と呂嬃の父。

呂沢(演:レン・ミンシォン、声:徳本英一郎)
呂雉の兄。劉邦の部下。

呂嬃(中国語版)(演:シュー・ジャンチュゥ)
呂雉の妹。樊噲の妻。

劉太公(演:リウ・ツーフォン、声:加地謙太)
劉邦の父親。項羽に捕えられる。

劉夫人(演:リュウ・ジンシー)
劉邦の母。

劉家の長男(演:楊軍)
劉邦の長兄。

劉家の次男(演:路国奇)
劉邦の次兄。

劉家の兄嫁(演:田玲)
劉邦の次兄の妻。

劉肥(演:廖見恒)
劉邦と曹氏の息子。後に斉王となる。

劉楽(演:小魚児)
劉邦と呂雉の娘。劉盈の姉。後の魯元公主。

劉盈(演:小西瓜、声:大津愛理)
劉邦と呂雉の息子。後の前漢の二代皇帝・恵帝。

劉如意(演:鄭偉(チョン・ウェイ))
劉邦と戚夫人の子。

劉襄
斉王となった劉肥の息子であり劉邦の孫。

蕭禄(演:劉小震)
蕭何の息子。





項羽(演:ピーター・ホー、声:内田夕夜)
ドラマの主人公の1人。秦を倒し、西楚の覇王を称する。
作中屈指の豪傑で、楚の天下統一に燃える一本気な性格ながら、敵や自分の意に沿わないものには苛烈きわまりない態度を取るため、范増をはじめとする部下の離脱や世間からの悪評を招く。それでも秦兵ら敵軍の捕虜たちの大量虐殺の際は表向きは世間に楚軍と敵対することの見せしめとして堂々としていたが、虞姫の前では本心を明かして涙するなど人間らしさも見せている。

范増(演:スン・ハイイン(中国語版)、声:中博史)
項羽の軍師。齢70を超える老人。劉邦の排除を項羽に進言する。しかし離間の策に嵌った項羽に疑われて憤死した。

虞姫(演:リー・イーシャオ(中国語版)、声:中道美穂子)
項羽の寵姫。

項伯(演:シュー・マオマオ、声:藤沼建人)
項羽の叔父。張良の親友。

英布(演:フー・ドン(中国語版)、声:咲野俊介)
驪山の囚人だったが章邯に見出されて秦軍の将となる。後に脱走して項羽軍の将となり、秦滅亡後は功労により王位を与えられた。

項荘(演:ツァイ・イーダー、声:水越健)
項羽の従弟。

項梁(演:ジュー・イェンピン、声:土師孝也)
項羽の叔父。項羽の育ての親でもあり、彼に兵法を説く。楚軍を率いて秦討伐を行なうが、章邯に敗れて戦死。

虞子期(演:ヤン・ズードゥオ、声:寸石和弘)
楚の将軍。虞姫の兄。

季布(演:リー・ユエン、声:宮本淳)
楚の将軍。元秦軍の一兵卒だったが、項梁たちに説得され楚軍に帰順する。

鍾離昧(演:イエ・ポン、声:綿貫竜之介)
楚の将軍。元秦軍の一兵卒だったが、項梁たちに説得され楚軍に帰順する。

龍且(演:ファン・ユィリン、声:徳本英一郎)
楚の将軍。

懐王(演:ジェン・チェンムー、 声:三浦圭介)
項梁が擁立した傀儡の楚王。後に項羽により義帝として祭り上げられ、最後は項羽の意を受けた鍾離昧に殺された。

緑衣(演:リー・フェァ、声:大井麻利衣)
虞姫の下女。

項狄(演:チィゥ・ユンフェ)
項羽の部下。虞姫の父を殺害した事が露見し趙に逃げたが自刃する。

宋義(演:イェン・ペイ)
楚の将軍。項羽に殺される。

宋襄(演:シャン・ユェ)
宋義の息子。

桓楚(演:ヤン・グァン)
楚の将軍。

余英(演:トン・リャン)
桓楚の弟。

若姜(演:コン・シャオロン)
咸陽で虞姫に助けられ義理の姉妹となる。項羽の政略で英布の妻となる。
蒲将軍(演:リー・ガン)
楚の将軍。

曹咎(演:ソン・リー)
楚の将軍。

武渉(演:ウェン・ハイフォン)
楚の外交官。韓信と同郷で項羽に斉に派遣される。

丁公(演:リー・ヤーティェン)
楚の将軍。劉邦を討ち取る寸前まで至るが見逃す。




始皇帝(演:ユー・ホーウェイ(中国語版)、声:家中宏)
秦の初代皇帝。巡幸中に重病になり、長男の扶蘇を世継とする遺詔を残して崩御する。

趙高(演:シュー・ウェングァン、声:野川雅史)
秦の宦官。始皇帝に寵愛されるが、死後は遺詔を改竄して胡亥を二世皇帝に擁立して実権を握る。政敵を殺し、敵と内通するなど傍若無人を繰り広げたが、自らが新たに擁立した子嬰に殺された。

李斯(演:リー・ジェンシン、声:栗田圭)
秦の丞相。始皇帝の死後、趙高に唆されて遺詔改竄に協力する。秦に対する反乱が起こると胡亥を諌めようとしたが、趙高の罠により捕らえられて一族もろとも死刑とされた。

胡亥(演:ユー・ビン、声:内田岳志)
秦の二世皇帝。始皇帝の末子。趙高の操り人形で反乱が起こる中で遊興を続けた。鉅鹿で秦軍が大敗すると実情を悟って趙高を詰問し自ら指揮を執ろうとするが、趙高の命令を受けた閻楽に自害を強要された。

子嬰(演:ワン・ロンホア、声:對馬大輝)
始皇帝の孫。扶蘇の子。晨曦の弟。胡亥の跡を継ぐ秦王として趙高に擁立される。劉邦に降伏し、最後は項羽により自害を強要された。

章邯(演:ツァオ・ウェイユィ、声:荒井勇樹)
秦の将軍。反秦の乱が起こると囚人を中心とした大軍を率いて反乱を鎮圧する。しかし項羽に敗れ、趙高に追い詰められて投降。秦滅亡後は雍王となるが、韓信に敗れて壮烈な戦死を遂げた。

司馬欣(演:ウー・シャオドン、声:株田裕介)
秦の将軍。章邯の副将。章邯と共に項羽に降伏。後に塞王となる。劉邦に1度は降伏するが、後に項羽に帰参。離間の策にはまった項羽に疑われて自害した。

晨曦(演:シャオスーチンガォワー、声:市川ひかる)
扶蘇の娘。子嬰の姉。章邯の妻。趙高の暗殺に失敗し自害する。

王離(演:ソン・ライユン、声:天田益男)
秦の将軍。
幼公主(演:ワン・ミン、声:幸田夢波)
子嬰の娘。晨曦に匿われて育てられる。子嬰と共に趙高を殺害した。

韓談(演:リウ・ヨン、声:菊池康弘)
秦の宦官。胡亥の自害を見送った後、子嬰と共に趙高暗殺に加わった。

扶蘇(演:イエ ・シャオミン、声:矢野正明)
始皇帝の長男。

趙成(演:コン・ポー)
趙高の弟。宮中の密偵を務める。

蘇角(演:リー・チョンフォン)
秦の将軍。

閻楽(演:チン・ユーグァン)
趙高の娘婿。趙高の命令で胡亥殺害を実行した。

叔孫通(演:リュウ・グァンホウ)
秦の重臣。

李斯の息子(演:スン・ァルチェン)
李斯と共に趙高により処刑される。

燭花(演:スン・ジャチー、声:大津愛理)
晨曦腹心の女官。

崇信(演:チャン・シンファ、声:徳本英一郎)
秦の宦官。趙高の暗殺に失敗し射殺される。

殷通(演:ワン・ウェイグォ、声: 中村浩太郎)
会稽郡の郡守。

公子高(演:ルォ・ミン)
始皇帝の公子。胡亥の兄。

淳于越(演:ワン・イー)
秦の儒者。

章平(演:リー・ゲン)
章邯の弟。

沛県県令(演:リー・イェンション)
南陽郡守(演:チョウ・イーイン)



田広(演:リン・フォン、声:辻親八)
斉王。田栄の子。田横の甥。

田横(演:グオ・ウェンシュエ、声:丸山壮史)
斉の宰相。田広の叔父。




趙歇(演:スー・マオ、声:相沢まさき)
趙王。

李左車(演:シー・イエンジン、声:長克巳)
趙の武将。後に漢に仕官。

張耳(演:チャン・シーチェン、声:菊池康弘)
趙の武将。陳余と反目して趙を追われ、漢の武将となる。

陳余(演:シュー・フォンニェン、声:岩崎ひろし)
趙の武将。張耳を追って趙の政権を握るが、韓信に敗れて戦死。

李良(演:ジゥ・ヨウウェイ、声:大川透)
趙の武将。趙王一族に侮辱されて謀反を起こす。後に秦に投降した。




魏豹(演:チョイ・カムコン、声:鏡優雅)
魏王。妻の薄姫に操られる。魏滅亡後は劉邦の部下となるが、項羽に内通しようとしたため周苛に殺された。

剛武侯(演:フー・ジンペイ、声:一ノ渡宏昭)
魏豹の部下。


その他

滄海君(演:ロン・ウー、声:高宮武郎)
張良と共に始皇帝の暗殺を企てる。

季桃(演:リュウ・ユウユウ、声:岡村悠加)
韓信に興味をよせる女性。

酈鳶(演:ミャオ・ルォイー、声:島形麻衣奈)
咸陽で韓信に嫁として助けられ買われる。

娥妹(演:ワン・ズートン、声:園崎未恵)
斉を平定した韓信の世話を担当した女性。


各話タイトル

第1話 始皇帝巡幸
第2話 楚人の誇り
第3話 劉邦、嫁を取る
第4話 水源抗争
第5話 焚書坑儒
第6話 故郷の馬
第7話 項羽の恋
第8話 韓信の股くぐり
第9話 始皇帝死す
第10話 二世皇帝即位
第11話 赤帝の子
第12話 蕭何からの手紙
第13話 項梁の決断
第14話 皇帝の影
第15話 沛公となる
第16話 鹿を指して馬と為す
第17話 李丞相の最後
第18話 項羽大将軍
第19話 章邯出撃
第20話 晨曦の想い
第21話 沛県を守れ
第22話 范増の策
第23話 2つの出会い
第24話 項梁軍に合流す
第25話 偽りの敗戦
第26話 襄城での虐殺
第27話 閉じ込められた姫君
第28話 項梁逝く
第29話 揺れる女たち
第30話 武安侯となる
第31話 虞子期との再会
第32話 懐王との約束
第33話 宋義の罪
第34話 高陽の儒学者
第35話 趙高暗殺計画
第36話 破釜沈船
第37話 鉅鹿の戦い
第38話 胡亥、夭逝す
第39話 降将 章邯
第40話 趙高誅殺
第41話 法三章
第42話 秦兵の反乱
第43話 咸陽からの撤退
第44話 鴻門の会
第45話 咸陽炎上
第46話 巴蜀の王
第47話 さらば項軍
第48話 酒蔵の密談
第49話 韓信大将軍
第50話 再び関中へ
第51話 家族の絆
第52話 章邯、散る
第53話 戚夫人の出産
第54話 義帝暗殺
第55話 彭城占拠
第56話 東からの奇襲
第57話 竜の腕輪
第58話 故郷への逃走
第59話 蕭何、劉邦を叱る
第60話 戻らぬ韓信
第61話 魏国陥落
第62話 九江王への使者
第63話 燃やされた旗
第64話 背水の陣
第65話 黄金四万斤
第66話 虞姫の誤解
第67話 項羽の疑心
第68話 范増との別れ
第69話 漢王の身代わり
第70話 釜茹でにされた儒学者
第71話 楚と斉の同盟
第72話 仮の斉王
第73話 劉邦、射られる
第74話 迫られる決戦
第75話 楚への寝返り
第76話 破られた盟約
第77話 韓信、出陣す
第78話 垓下の戦い
第79話 覇王別姫
第80話 漢の礎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E7%BE%BD%E3%81%A8%E5%8A%89%E9%82%A6_King%27s_War
2:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/08 (Sun) 17:20:59


金髪碧眼の白人だった秦始皇帝はモンゴロイドの中国人や中国の文化・伝統を完全にバカにしていた


秦始皇帝の皇子と皇妃か=肖像を復元、きさきには東アジア系と異なる特徴も
配信日時:2018年7月18日
https://www.recordchina.co.jp/b625867-s0-c30-d0142.html

秦始皇帝の皇子ときさきか=肖像を復元、きさきには非アジア系の特徴


秦・始皇帝(在位:紀元前259年~同210年)の皇子と皇妃との可能性が高い男女の肖像が復元された。


中国メディアの参考消息などによると、陝西省西安市にキャンパスを置く西北大学信息科学与技術学院が開発したソフトウェアを用いて、秦・始皇帝(在位:紀元前259年~同210年)の皇子と妃(きさき)と見られる男女の肖像が復元された。

始皇帝陵から出土した人骨に基づき、生前の肖像を復元した。女性の骨格は複数人分があったが、身分が高いと思われる女性の肖像を復元した。研究者らは始皇帝の妃の一人である可能性が高いと考えている。女性は20歳前後で、殺害されたと分かった。始皇帝の死に伴い、殉死させられたと見られている。

復元された女性は、目が大きく鼻筋もくっきりとしている。そのため、東アジア人ではない中央アジアまたはコーカソイド系(欧州人)の血が流れている可能性があるとの見方が出ている。

中央アジアでは古くから、コーカソイド系の人々が多く暮らしてきた。現在のウイグルなど多くの民族にもコーカソイド系の血が入っているとされる。また、新疆ウイグル自治区の楼蘭で発見された、紀元前19世紀ごろのものとされる女性のミイラもコーカソイド系の血が入っていたことが分かっている。始皇帝の妃の一人が、コーカソイド系だったとすれば、紀元前に中国の中心部にさらに近い地点にも、コーカソイド系の人々が存在していたことになる。

また、始皇帝の妃だったとすれば、同女性が当時「美女」と評価されていたことは、まず間違いないだろう。とすれば、コーカソイド系をほうふつさせる女性の容貌は、当時の人々の女性に対する審美眼を知る参考にもなりうるはずだ。

肖像が復元されたもう一人の男性は死亡当時30歳前後で、陶器、玉器、絹、青銅の剣、銀器、金など副葬品が大量に発見されたことから、身分が極めて高かったと見られている。しかし男性の上腕骨には矢じりが食い込んでおり、頭部や四肢が切断されていたことが分かった。そのため、男性は始皇帝の皇子など宮室の一員であり、始皇帝の死の直後に発生した大規模な粛清の中で殺害されたと考える研究者もいる。

用いられたソフトウェアは、ディープラーニングの手法を用いて解剖学上のデータを大量に学習して能力を蓄積し、骨格から肖像を復元する。頭髪や目の色などは推測するしかないが、西北大学信息科学与技術学院の李康准教授によると、肖像の復元について厳格な確認を繰り返しており信頼性は高い。すでに警察が犯罪捜査のために広く利用しているという。
https://www.recordchina.co.jp/b625867-s0-c30-d0142.html


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西周の滅亡と秦の正体 2012年4月30日 (月)
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-1134.html

 戎は通常西方の異民族を意味します。西周は魯や斉に命じて東夷・淮夷(日本人やベトナム人の祖先)を征伐して東方に領土を広げ、晋に命じて北方の遊牧民(匈奴・モンゴル人の祖先)を征伐して北方に領土を広げ、鄭に命じて南方のジャングルを開発させていました。


 西方侵略には周王が直接あたっていたらしいことが詩経の小雅からは窺われます。ここで周が対峙していたのは、西域のオアシス都市で、民族はトルコ系、もしくはインダス文明から流れてきたインド・ヨーロッパ語族でしょう。戎車とはペルシャやメソポタミアの珍しい馬車のことではないでしょうか。今で言えばロールスロイスやランボルギーに乗るような感覚だったのだと思います。

 西周の強さは、西方との貿易にあったのではないでしょうか。

 西周は犬戎に滅ぼされたことになっています。そして犬戎は北方の異民族とされています。しかし晋は西周が滅んだ後も北方の遊牧民に対して攻勢を維持しており、西周が滅びたのは北方の守りが崩れたのが原因ではないと私は思います。

 西周の首都鎬京が陥落したのは、幽王が寵姫の褒姒を喜ばせるために狼煙を上げすぎて、肝心なときに助けが来てくれなかったためと説話ではなっています。幽王は無表情な褒姒を何とか笑わせたいと思っていました。ある日敵襲来の狼煙を上げると、首都周辺の諸侯が慌てふためきながら王宮に集まりました。しかし後から誤報とわかり、諸侯はがっかりして領地に戻りました、この有様を見て褒姒が笑ったので、味をしめた幽王は虚報の狼煙を上げるようになったというのです。狼少年と同じです。

 狼煙というのは天気が良くて見通しがよい地域で発達した通信手段で、砂漠でよく使われていましたので、西周に直属していたのは砂漠のオアシス都市なのではないでしょうか。

 西周が滅びた跡地には秦が進出します。秦は最終的に中国を統一しました。秦という国も起源が不明で、春秋時代の中期から突如として登場します。登場したときには西方に広大な領土を既に持った大国でした。

 私が考えるに、西周を滅ぼしたのは秦であり、秦は西周の直轄地を丸々継承したのではないでしょうか。

 秦は西周が滅びたときに、逃亡した平王を助けたことで諸侯に任じられるのですが、幽王と平王は対立していましたので、おそらく平王は秦をそそのかして幽王を滅ぼさせたのでしょう。誰も幽王を助けなかったのは別に幽王が狼少年だからではなく、鎬京に攻めてきたのが他ならぬ幽王の臣下だったからでしょう。

 しかも秦の始皇帝は金髪碧眼だったという伝説があります。そして始皇帝は側近以外には絶対に自分の姿を見せませんでした。従来は、始皇帝が金髪碧眼だったのは、実の父親呂不韋が胡人だったから、そして始皇帝が人前に姿を現さなかったのは幼少期に人質としていじめられて人間不信に陥っていたからと言うことになっています。

 しかし、秦が元々タクラマカン砂漠のオアシス都市に住むコーカソイド出身であり、秦の王族と側近は砂漠からの移住以降も白人の血が色濃く残っていたとすれば、始皇帝が金髪碧眼だったのも理解ができます。

 そして、歴代の秦王が何故か本拠地に籠もっていて、中原の会盟に姿を現さず付き合いが悪かったことや、始皇帝が人に見られることを極度に嫌がったのは、自分たちが異民族であることを自覚しており、それを知られたら、領民から排斥されて国が崩壊するする可能性があったからではないでしょうか。

 宮殿奥に隠れて、極端に人目にさらされることを嫌う中国の皇帝の伝統は始皇帝に始まっているのですが、その理由は秦王朝が胡人(コーカソイド・白人)だったことにあるのではないでしょうか。
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-1134.html


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秦始皇帝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D

始皇帝(しこうてい、紀元前259年2月18日 - 紀元前210年9月10日[4][5])は、中国の初代皇帝(在位:紀元前221年 - 紀元前210年)。古代中国の戦国時代の秦の第31代君主(在位:紀元前247年 - 紀元前210年)。6代目の王(在位:紀元前247年 - 紀元前221年)。姓は嬴(えい)または趙(ちょう)、氏は趙(ちょう)、諱は政(せい)または正(せい)。現代中国語では秦始皇帝または秦始皇と表現する。

秦王に即位した後、勢力を拡大し他の諸国を次々と攻め滅ぼして、紀元前221年に中国史上初めて天下統一を果たした(秦の統一戦争)。統一後、王の称号から歴史上最初となる新たな称号「皇帝」に改め、その始めとして「始皇帝」と号した。

治政としては重臣の李斯らとともに主要経済活動や政治改革を実行した[6]。統一前の秦に引き続き法律の厳格な運用を秦国全土・全軍統治の根本とするとともに、従来の配下の一族等に領地を与えて領主が世襲して統治する封建制から、中央政権が任命・派遣する官僚が治める郡県制への地方統治の全国的な転換を行い、中央集権・官僚統治制度の確立を図ったほか、国家単位での貨幣や計量単位の統一[11]、道路整備・交通規則の制定などを行った。万里の長城の整備・増設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の造営といった世界遺産として後世に残ることになった大事業も行った。法家を重用して法による統治を敷き、批判する儒家・方士の弾圧や書物の規制を行った焚書坑儒でも知られる[12]。

統一後に何度か各地を旅して長距離を廻ることもしており、紀元前210年に旅の途中で49歳(数え年だと50歳)で急死するまで、秦に君臨した。

称号「始皇帝」

意味
周の時代およびその後(紀元前700年 - 紀元前221年)の中国独立国では、「大王」の称号が用いられていた。紀元前221年に戦国時代に終止符を打った趙政は事実上中国全土を統治する立場となった。これを祝い、また自らの権勢を強化するため、政は自身のために新しい称号「秦始皇帝」(最初にして最上位の秦皇帝)を設けた。時に「始皇帝」と略される[13]。

「始」は「最初(一番目)」の意味である[14]。「皇帝」の称号を受け継ぎ、代を重ねる毎に「二世皇帝」「三世皇帝」と名乗ることになる[15]。
「皇帝」は、神話上の三皇五帝より皇と帝の二字を合わせて作られた[16]。ここには、始皇帝が天皇神農黄帝の尊厳や名声にあやかろうとした意思が働いている[17]。
さらに、漢字「皇」には「光輝く」「素晴らしい」という意味があり、また頻繁に「天」を指す形容語句としても用いられていた[18]。
元々「帝」は「天帝」「上帝」のように天を統べる神の呼称だったが、やがて地上の君主を指す言葉へ変化した。そこで神の呼称として「皇」が用いられるようになった。始皇帝はどの君主をも超えた存在として、この二文字を合わせた称号を用いた[13]。
『史記』における表記
司馬遷が編纂した『史記』においては、「秦始皇帝」と「秦始皇」の両方の表記がみられる。「秦始皇帝」は「秦本紀」にて[1][19] や6章(「秦始皇本紀」)冒頭や14節[20]、「秦始皇」は「秦始皇本紀」章題にて遣っている[21][22]。趙政は「皇」と「帝」を合わせて「皇帝」の称号を用いたため、「秦始皇帝」の方が正式な称号であったと考えられる[23]。


生涯

生誕と幼少期
秦人の発祥は甘粛省で秦亭と呼ばれる場所と伝えられ、現在の天水市清水県秦亭鎮にあたる。秦朝の「秦」はここに通じ、始皇帝は統一して、郡、県、郷、亭を置いた[24] 。

人質の子
詳細は「奇貨居くべし」を参照
秦の公子であった父の異人(後の荘襄王)[25] は休戦協定で人質として趙へ送られていた[3]。ただ、父の異人は公子とはいえ、秦の太子[26] である祖父の安国君(異人の父。後の孝文王。曾祖父の昭襄王の次男)にとって20人以上の子の一人に過ぎず、また妾であった異人の生母の夏姫は祖父からの寵愛を失って久しく二人の後ろ盾となる人物も居なかった。

秦王を継ぐ可能性がほとんどない異人は、昭襄王が協定をしばしば破って軍事攻撃を仕掛けていたことで秦どころか趙でも立場を悪くし、いつ殺されてもおかしくない身であり、人質としての価値が低かった趙では冷遇されていた[27]。

そこで韓の裕福な商人であった呂不韋が目をつけた。安国君の継室ながら太子となる子を産んでいなかった華陽夫人に大金を投じて工作活動を行い、また異人へも交際費を出資し評判を高めた[12]。異人は呂不韋に感謝し、将来の厚遇を約束していた。そのような折、呂不韋の妾(趙姫)[3] を気に入って譲り受けた異人は、昭襄王48年(前259年)の冬に男児を授かった。「政」と諱を名付けられたこの赤子は秦ではなく趙の首都邯鄲で生まれたため「趙政」とも呼ばれた[注 2][28]。後に始皇帝となる[5][27][28]。

実父に関する議論
漢時代に成立した『史記』「呂不韋列伝」には、政は異人の実子ではなかったという部分がある。呂不韋が趙姫を異人に与えた際にはすでに妊娠していたという[3][29][30]。後漢時代の班固も『漢書』にて始皇帝を「呂不韋の子」と書いている[31]。

始皇帝が非嫡子であるという意見は死後2000年経過して否定的な見方が提示されている[14]。呂不韋が父親とするならば、現代医学の観点からは、臨月の期間と政の生誕日との間に矛盾が生じるという[32]。『呂氏春秋』を翻訳したジョン・ノブロック、ジェフリー・リーゲルも、「作り話であり、呂不韋と始皇帝の両者を誹謗するものだ」と論じた[33]。

郭沫若は、『十批判書』にて3つの論拠を示して呂不韋父親説を否定している[30][2- 1]。

『史記』の説は異人と呂不韋について多く触れる『戦国策』にて一切触れられていない。
『戦国策』「楚策」や『史記』「春申君列伝」には、楚の春申君と幽王が実は親子だという説明があるが、呂不韋と始皇帝の関係にほぼ等しく、小説的すぎる。
『史記』「呂不韋列伝」そのものに矛盾があり、始皇帝の母について「邯鄲諸姫」(邯鄲の歌姫[29])と「趙豪家女」(趙の富豪の娘[34])の異なる説明がある。政は「大期」(10カ月または12カ月)を経過して生まれたとあり[29]、事前に妊娠していたとすればおかしい。
陳舜臣は「秦始皇本紀」の冒頭文には「秦始皇帝者,秦荘襄王子也」(秦の始皇帝は荘襄王の子である)と書かれていると、『史記』内にある他の矛盾も指摘した[35]。

死と隣り合わせの少年
政の父・異人は呂不韋の活動の結果、華陽夫人の養子として安国君の次の太子に推される約定を得た。だが、曾祖父の昭襄王は未だ趙に残る孫の異人に一切配慮せず趙を攻め、昭襄王49年(紀元前258年)には王陵、昭襄王50年(紀元前257年)には王齕に命じて邯鄲を包囲した。そのため、趙側に処刑されかけた異人だったが、番人を買収して秦への脱出に成功した。しかし妻子を連れる暇などなかったため、政は母と置き去りにされた。趙は残された二人を殺そうと探したが巧みに潜伏され見つけられなかった[30]。陳舜臣は、敵地のまっただ中で追われる身となったこの幼少時の体験が、始皇帝に怜悧な観察力を与えたと推察している[35]。その後、邯鄲のしぶとい籠城に秦軍は撤退した。

昭襄王56年(紀元前251年)、昭襄王が没し、1年の喪を経て、孝文王元年(紀元前250年)10月に安国君が孝文王として即位すると、呂不韋の工作どおり当時子楚と改名した異人が太子と成った。そこで趙では国際信義上やむなく、10歳になった[36] 政を母の趙姫と共に秦の咸陽に送り返した。ところが孝文王はわずか在位3日で亡くなり、「奇貨」子楚が荘襄王として即位すると、呂不韋は丞相に任命された[30]。

即位
若年王の誕生と呂不韋の権勢
荘襄王と呂不韋は周辺諸国との戦いを通じて秦を強勢なものとした[30]。しかし、荘襄王3年(前247年)5月に荘襄王は在位3年という短い期間で死去し、13歳の政が王位を継いだ[37]。まだ若い政を補佐するため、周囲の人間に政治を任せ、特に呂不韋は相国となり戦国七雄の他の六国といまだ戦争状態にある秦の政治を執行した[14]。

秦王政6年(紀元前241年)、楚・趙・魏・韓・燕の五国合従軍が秦に攻め入ったが、秦軍は函谷関で迎え撃ち、これを撃退した(函谷関の戦い)[38]。このとき、全軍の総指揮を執ったのは、この時点で権力を握っていた呂不韋と考えられている[39]。

そして、呂不韋は仲父と呼ばれるほどの権威を得て、多くの食客を養い、秦王政8年(紀元前239年)には『呂氏春秋』の編纂を完了した[40]。

だが、呂不韋はひとつ問題を抱えていた。それは太后となった趙姫とまた関係を持っていたことである。発覚すれば身の破滅につながるが、淫蕩な彼女がなかなか手放してくれない[41]。そこで呂不韋は自分の代わりを探し、適任の男の嫪毐を見つけた[42]。あごひげと眉を抜き、宦官に成りすまして後宮に入った嫪毐はお気に入りとなり、侯爵を与えられた[41]。やがて太后は妊娠した。人目を避けるため旧都雍に移ったのち、嫪毐と太后の間には二人の男児が生まれた[41][42]。

秦王政9年(前238年)、政が22歳の時にこのことが露見する。政は元服の歳を迎え、しきたりに従い雍に入った[41]。『史記』「呂不韋列伝」では嫪毐が宦官ではないという告発があった[43] と言い、同書「始皇本紀」では嫪毐が反乱を起こしたという[35]。ある説では、呂不韋は政を廃して嫪毐の子を王位に就けようと考えていたが、ある晩餐の席で嫪毐が若王の父になると公言したことが伝わったともいう[42]。または秦王政が雍に向かった隙に嫪毐が太后の印章を入手し軍隊を動かしクーデターを企てたが失敗したとも言う[42]。結果的に嫪毐は政によって一族そして太后との二人の子もろとも殺された[41][42]。

事件の背景が調査され、呂不韋の関与が明らかとなった。しかし過去の功績が考慮され、また弁護する者も現れ、相国罷免と封地の河南での蟄居が命じられたのは翌年となった[36][41]。だが呂不韋の名声は依然高く、数多くの客人が訪れたという。

秦王政12年(前235年)、政は呂不韋へ書状を送った[41]。

君何功於秦。秦封君河南,食十萬戸。君何親於秦。號稱仲父。其與家屬徙處蜀!

秦に対し一体何の功績を以って河南に十万戸の領地を与えられたのか。秦王家と一体何のつながりがあって仲父を称するのか。一族諸共蜀に行け。
— 史記「呂不韋列伝」14[44]
流刑の地・蜀へ行ってもやがては死を賜ると悟った呂不韋は、服毒自殺した[14][42]。吉川忠夫は嫪毐事件の裏にあった呂不韋の関与は秦王政にとって予想外だったと推測した[41] が、陳舜臣は青年になった政がうとましい呂不韋を除こうと最初から考えていた可能性を示唆し、事件から処分まで3年をかけた所は政の慎重さを表すと論説した[35]。秦王政は呂不韋の葬儀で哭泣した者も処分した[35]。

専制
李斯と韓非
秦王政による親政が始まった年、灌漑工事の技術指導に招聘されていた韓の鄭国が、実は国の財政を疲弊させる工作を図っていたことが判明した。これに危機感を持った大臣たちが、他国の人間を政府から追放しようという「逐客令」が提案された[45]。反対を表明した者が李斯だった。呂不韋の食客から頭角を現した楚出身の人物で、李斯は「逐客令」が発布されれば地位を失う位置にあった。しかし的確な論をもっていた。秦の発展は外国人が支え、穆公は虞の大夫であった百里奚や宋の蹇叔らを登用し[45]、孝公は衛の公族だった商鞅から[46]、恵文王は魏出身の張儀から[47]、昭襄王は魏の范雎から[48] それぞれ助力を得て国を栄えさせたと述べた。李斯は性悪説の荀子に学び、人間は環境に左右されるという思想を持っていた[45]。秦王政は彼の主張を認めて「逐客令」を廃案とし、李斯に深い信頼を寄せた[49]。

商鞅以来、秦は「法」を重視する政策を用いていた[46]。秦王政もこの考えを引き継いでいたため、同じ思想を説いた『韓非子』に感嘆した。著者の韓非は韓の公子であったため、事があれば使者になると見越した秦王政は韓に攻撃を仕掛けた。果たして秦王政14年(前233年)に[36] 使者の命を受けた韓非は謁見した。韓非はすでに故国を見限っており、自らを覇権に必要と売り込んだ[50]。しかし、これに危機を感じた李斯と姚賈の謀略にかかり死に追いやられた[49]。秦王政が感心した韓非の思想とは、『韓非子』「孤憤」節1の「術を知る者は見通しが利き明察であるため、他人の謀略を見通せる。法を守る者は毅然として勁直であるため、他人の悪事を正せる」という部分と[51]、「五蠹」節10文末の「名君の国では、書(詩経・書経)ではなく法が教えである。師は先王ではなく官吏である。勇は私闘ではなく戦にある。民の行動は法と結果に基づき、有事では勇敢である。これを王資という」の部分であり[52]、また国に巣食う蟲とは「儒・俠・賄・商・工」の5匹(五蠹)である[52] という箇所にも共感を得た[49]。

韓・趙の滅亡
詳細は「秦の統一戦争」を参照
秦は強大な軍事力を誇り、先代の荘襄王治世の3年間にも領土拡張を遂げていた[30]。秦王政の代には、魏出身の尉繚の意見を採用し、他国の人間を買収してさまざまな工作を行う手段を用いた。一度は職を辞した尉繚は留め置かれ、軍事顧問となった[49]。

秦王政17年(前230年)、韓非が死んだ3年後、韓は陽翟が陥落して韓王安が捕縛されて滅んだ(韓の滅亡)[49]。

秦王政18年(前229年)、秦は王翦・楊端和・羌瘣に趙を攻めさせた。次の標的になった趙には、幽繆王の臣である郭開への買収工作がすでに完了していた。斉との連合も情報が漏れ、旱魃や地震災害[53][54] につけこまれた秦の侵攻にも、趙王が讒言で李牧を誅殺し、司馬尚を解任してしまい、簡単に敗れた。

秦王政19年(前228年)、趙王は捕虜となり、国は秦に併合された(趙の滅亡)[55]。生まれた邯鄲に入った秦王政は、母の太后の実家と揉めていた者たちを生き埋めにして秦へ戻った[55]。

趙王は捕らえられたが、その兄の公子嘉は代郡(河北省)に逃れ、亡命政権である代を建てた。

暗殺未遂と燕の滅亡
詳細は「荊軻」を参照
燕は弱小な国であった[56]。太子の丹はかつて人質として趙の邯鄲で過ごし、同じ境遇の政と親しかった。政が秦王になると、丹は秦の人質となり咸陽に住んだ。このころ、彼に対する秦の扱いは礼に欠けたものになっていた[55]。『燕丹子』という書によると、帰国の希望を述べた丹に秦王政は「烏の頭が白くなり、馬に角が生えたら返そう」と言った。ありえないことに丹が嘆息すると、白い頭の烏と角が生えた馬が現れた。やむなく政は帰国を許したという[55]。実際は脱走したと思われる[57] 丹は秦に対し深い恨みを抱くようになった[55][58]。


逃げる秦王政(左)と襲いかかる荊軻(右)。中央上に伏せる者は秦舞陽、下は樊於期の首。武氏祠石室。
両国の間にあった趙が滅ぶと、秦は幾度となく燕を攻め、燕は武力では太刀打ちできなかった[56]。丹は非常の手段である暗殺計画を練り、荊軻という刺客に白羽の矢を立てた[12][56]。

秦王政20年(前227年)、荊軻は秦舞陽を供に連れ、督亢(とくごう)の地図と秦の元将軍で燕に亡命していた樊於期の首を携えて政への謁見に臨んだ[55][56]。秦舞陽は手にした地図の箱を差し出そうとしたが、恐れおののき政になかなか近づけなかった。荊軻は、「供は天子の威光を前に目を向けられないのです」と言いつつ進み出て、地図と首が入る二つの箱を持ち進み出た[56]。受け取った秦王政が巻物の地図をひもとくと、中に隠していた匕首が最後に現れ、荊軻はそれをひったくり政へ襲いかかった。政は身をかわし逃げ惑ったが、護身用の長剣を抜くのに手間取った[56]。宮殿の官僚たちは武器所持を、近衛兵は許可なく殿上に登ることを秦の「法」によって厳しく禁じられ、大声を出すほかなかった。しかし、従医の夏無且が投げた薬袋が荊軻に当たり、剣を背負うよう叫ぶ臣下の言に政はやっと剣を手にし、荊軻を斬り伏せた[56][59]。

政はこれに激怒し、同年には燕への総攻撃を仕掛け、燕・代の連合軍を易水の西で破った。

そして、秦王政19年(前226年)、暗殺未遂の翌年に首都薊を落とした。荊軻の血縁をすべて殺害しても怒りは静まらず、ついには町の住民全員も殺害された[59]。その後の戦いも秦軍は圧倒し、遼東に逃れた燕王喜は丹の首級を届けて和睦を願ったが聞き入れられず、5年後には捕らえられた(燕の滅亡)[57][59]。

魏・楚・斉の滅亡
次に秦の標的となった魏は、かつて五国の合従軍を率いた信陵君を失い弱体化していた。

秦王政22年(前225年)、秦王政は王賁に魏を攻めさせ、その首都・大梁を包囲した。魏は黄河と梁溝を堰き止めて大梁を水攻めされても3か月耐えたが、ついに降伏し、魏も滅んだ(魏の滅亡)[59]。

同年、秦と並ぶ強国・楚との戦いに入った[60]。秦王政は若い李信と蒙恬に20万の兵を与え指揮を執らせた。緒戦こそ優勢だった秦軍だが、前年に民の安撫のため楚の公子である元右丞相の昌平君を配した楚の旧都郢陳で起きた反乱[61] と楚軍の猛追に遭い大敗した。秦王政は将軍の王翦に秦の全軍に匹敵する60万の兵を託し、秦王政24年(紀元前223年)に楚を滅ぼした(楚の滅亡)[57][62]。

最後に残った斉は約40年間ほとんど戦争をしていなかった。それは、秦が買収した宰相の后勝とその食客らの工作もあった。秦に攻められても斉は戦わず、后勝の言に従い無抵抗のまま降伏し滅んだ(斉の滅亡)[63]。秦が戦国時代に幕を引いたのは、秦王政26年(前221年)のことであり、政は39歳であった[63]。

統一王朝

現代になって兵馬俑近郊に建設された始皇帝像
皇帝
中国が統一され、初めて強大なひとりの権力者の支配に浴した。最初に秦王政は、重臣の王綰・馮劫・李斯らに称号を刷新する審議を命じた。それまで用いていた「王」は周の時代こそ天下にただ一人の称号だったが、春秋・戦国時代を通じ諸国が成立し、それぞれの諸侯が名乗っていた。統一を成し遂げた後には「王」に代わる尊称が求められた。王綰らは、五帝さえ超越したとして三皇の最上位である「泰皇」の号を推挙し、併せて指示を「命」→「制」、布告を「令」→「詔」、自称を謙譲的な「寡人」→「朕」にすべしと答申した。秦王政は答えて「去『泰』、著『皇』、采上古『帝』位號、號曰『皇帝』。他如議。」「始皇本紀第六」「泰皇の泰を去り、上古の帝位の号を採って皇帝と号し、その他は議の通りとしよう」(『史記Ⅰ本記』ちくま学芸文庫 小竹文夫・小竹武夫訳 P145)と、新たに「皇帝」の称号を使う決定を下した[13]。

五徳終始
始皇帝はまた戦国時代に成立した五行思想(木、火、土、金、水)と王朝交代を結びつける説を取り入れた。これによると、周王朝は「赤」色の「火」で象徴される徳を持って栄えたと考えられる。続く秦王朝は相克によって「火」を討ち滅ぼす「黒」色の「水」とされた。この思想を元に、儀礼用衣服や皇帝の旗(旄旌節旗)には黒色が用いられた[64]。史記の伝説では秦の始祖、大費(柏翳)が成功し、舜に黒色の旗を貰った、と有る。五行の「水」は他に、方位の「北」、季節の「冬」、数字の「6」でも象徴された[65][66]。

政治
始皇帝は周王朝時代から続いた古来の支配者観を根底から覆した[67]。政治支配は中央集権が採用されて被征服国は独立国の体を廃され[68]、代わって36の郡が置かれ、後にその数は48に増えた。郡は「県」で区分され、さらに「郷」そして「里」と段階的に小さな行政単位が定められた[69]。これは郡県制を中国全土に施行したものである[66]。

統一後、臣下の中では従来の封建制を用いて王子らを諸国に封じて統治させる意見が主流だったが、これは古代中国で発生したような政治的混乱を招く[68][70] と強硬に主張した李斯の意見が採られた[66]。こうして、過去の緩やかな同盟または連合を母体とする諸国関係は刷新された[71]。伝統的な地域名は無くなり、例えば「楚」の国の人を「楚人」と呼ぶような区別はできなくなった[69][72]。人物登用も、家柄に基づかず能力を基準に考慮されるようになった[69]。

経済など
始皇帝と李斯は、度量衡や通貨[11]、荷車の軸幅(車軌)、また位取り記数法[73] などを統一し、市制の標準を定めることで経済の一体化を図った[71][74]。さらに、各地方の交易を盛んにするため道路や運河などの広範な交通網を整備した[71]。各国でまちまちだった通貨は半両銭に一本化された[69][74]。そして最も重要な政策に、漢字書体の統一が挙げられる。李斯は秦国内で篆書体への一本化を推進した[70]。皇帝が使用する文字は「篆書」と呼ばれ、これが標準書体とされた[75]。臣下が用いる文字は「隷書」として、程邈という人物が定めたというが、一人で完成できるものとは考えにくい[76]。その後、この書体を征服したすべての地域でも公式のものと定め、中国全土における通信網を確立するために各地固有の書体を廃止した[69][70]。

度量衡を統一するため、基準となる長さ・重さ・容積の標準器が製作され各地に配られた。これらには篆書による以下の詔書(権量銘)が刻まれている[77]。

廿六年 皇帝盡并兼天下 諸侯黔首大安 立號為皇帝 乃詔丞相狀綰 法度量則 不壹嫌疑者 皆明壹之
始皇26年、始皇帝は天下を統一し、諸侯から民衆までに平安をもたらしたため、号を立て皇帝となった。そして丞相の状(隗状)と綰(王綰)に度量衡の法を決めさせ、嫌疑が残らないよう統一させた。
— 青銅詔版[77][78]
大土木事業


阿房宮図。清代の袁耀作。
咸陽と阿房宮
始皇帝は各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させ、また諸国の武器を集めて鎔かし十二金人(英語版)を製造した。これは地方に残る財力と武力を削ぐ目的で行われた[79]。咸陽城には滅ぼした国から娼妓や美人などが集められ、その度に宮殿は増築を繰り返した。人口は膨張し、従来の渭水北岸では手狭になった[79]。

始皇35年(前212年)、始皇帝は皇帝の居所にふさわしい宮殿の建設に着手し、渭水南岸に広大な阿房宮建設に着手した。ここには恵文王時代に建設された宮殿があったが、始皇帝はこれを300里前後まで拡張する計画を立てた。最初に1万人が座れる前殿が建設され、門には磁石が用いられた。居所である紫宮は四柱が支える大きなひさし(四阿旁広)を持つ[79] 巨大な宮殿であった[80]。

名称「阿房」とは仮の名称である[81]。この「阿房」は史記・秦始皇本紀には「作宮阿房、故天下謂之阿房宮(宮を阿房に作る。故に天下之を阿房宮と謂う)」とあり地名[82] であるが、学者は「阿」が近いという意味から咸陽近郊の宮を指すとも[79]、四阿旁広の様子からつけられたとも[79]、始皇帝に最も寵愛された妾の名[83] とも言う。

始皇帝陵 (驪山)
秦王に即位した紀元前247年には自身の陵墓建設に着手した。それ自体は寿陵と呼ばれ珍しいことではないが、陵墓は規模が格段に大きかった。阿房宮の南80里にある驪山(所在地:北緯34度22分52.75秒 東経109度15分13.06秒)が選ばれ始められた建設は、統一後に拡大された[84]。始皇帝の晩年には阿房宮と驪山陵の建設に隠宮の徒刑者70万人が動員されたという記録がある[85]。

木材や石材が遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで掘削した陵の周囲は銅で固められた。その中に宮殿や楼観が造られた。さらに水銀が流れる川が100本造られ、「天体」を再現した装飾がなされ、侵入者を撃つ石弓が据えられたという[84][86]。珍品や豪華な品々が集められ、俑で作られた官臣が備えられた[84]。これは、死後も生前と同様の生活を送ることを目的とした荘厳な建築物であり、現世の宮殿である阿房宮との間80里は閣道で結ばれた[84]。

1974年3月29日、井戸掘りの農民たちが兵馬俑を発見したことで、始皇帝陵は世界的に知られるようになった[87]。ただし、始皇帝を埋葬した陵墓の発掘作業が行われておらず、比較的完全な状態で保存されていると推測される[88]。現代になり、考古学者は墓の位置を特定して、探針を用いた調査を行った。この際、自然界よりも濃度が約100倍高い水銀が発見され、伝説扱いされていた建築が事実だと確認された[89]。

なお、現在は「始皇帝陵」という名前が一般的になっているが、このように呼ばれるようになったのは漢代以降のことであり、それ以前は「驪山」と呼ばれていた[90]。


秦代の長城。小さな点は戦国時代までにあったもの。大きな点が始皇帝によって建設された部分。後の王朝も改修や延長を行い現在に至る。

現代に残る霊渠
万里の長城
詳細は「万里の長城」を参照
中国は統一されたが、始皇帝はすべての敵を殲滅できたわけではなかった。それは北方および北西の遊牧民であった。戦国七雄が争っていたころは匈奴も東胡や月氏と牽制し合い、南に攻め込みにくい状態にあった。しかし、中国統一のころには勢力を強めつつあったので、防衛策を講じた。[80]。始皇帝は蒙恬を北方防衛に当たらせた[80]。そして巨大な防衛壁建設に着手した[54][91]。逮捕された不正役人を動員して建造した[92] この壁は、現在の万里の長城の前身にあたる。これは、過去400年間にわたり趙や中山国など各国が川や崖と接続させた小規模な国境の壁をつなげたものであった[80][93][94]。

霊渠
詳細は「霊渠」を参照
中国南部の有名なことわざに「北有長城、南有霊渠」というものがある[95]。始皇33年(前214年)、始皇帝は軍事輸送のため大運河の建設に着手し[96]、中国の南北を接続した[96]。長さは34kmに及び、長江に流れ込む湘江と、珠江の注ぐ漓江との間をつないだ[96]。この運河は中国の主要河川2本をつなぐことで秦の南西進出を支えた[96]。これは、万里の長城・四川省の都江堰と並び、古代中国三大事業のひとつに挙げられる[96]。

天下巡遊
中国を統一した翌年の紀元前220年に始皇帝は天下巡遊を始めた。最初に訪れた隴西(甘粛省東南・旧隴西郡)と北地(甘粛省慶陽市寧県・旧北地郡)は[97] いずれも秦にとって重要な土地であり、これは祖霊に統一事業の報告という側面があったと考えられる[98]。

しかし始皇28年(前219年)以降4度行われた巡遊は、皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした距離も期間も長いものとなった。これは『書経』「虞書・舜典」にある舜が各地を巡遊した故事[99] に倣ったものとも考えられる。始皇帝が通行するために、幅が50歩(67.5m)あり、中央には松の木で仕切られた皇帝専用の通路を持つ「馳道」が整備された[98]。


始皇帝の天下巡遊路
順路は以下の通りである[98]。

始皇28年(前219年、第1回):咸陽‐嶧山(山東省鄒城市)‐泰山(山東省泰安市)‐黄(山東省竜口市)‐腄(山東省煙台市福山区)‐成山(山東省栄成市)‐之罘(山東省煙台市芝罘区)‐瑯琊(山東省青島市黄島区)‐彭城(江蘇省徐州市)‐衡山(湖南省湘潭市)‐南郡(湖北省南部)‐湘山祠(湖南省岳陽市君山区)‐武関(陝西省丹鳳県)‐咸陽[100][注 3]
29年:咸陽‐陽武(河南省新郷市原陽県)‐之罘‐瑯琊‐上党(山西省長治市)‐咸陽[101]
始皇32年(前215年、第3回):咸陽‐碣石(河北省秦皇島市昌黎県)‐上郡(陝西省北部)‐咸陽[102]
始皇37年(前210年、第4回):咸陽‐雲夢(湖北省雲夢県)‐海渚(安徽省安慶市迎江区)‐丹陽(江蘇省南京市)‐銭唐(浙江省杭州市)‐会稽(浙江省紹興市)‐呉(江蘇省蘇州市)‐瑯琊‐成山‐之罘‐平原津(山東省徳州市平原県)‐沙丘(河北省邢台市広宗県)[103]
これら巡遊の証明はもっぱら『史記』の記述のみに頼っていた。しかし、1975-76年に湖北省孝感市雲夢県の戦国‐秦代の古墳から発掘された睡虎地秦簡の『編年紀』と名づけられた竹簡の「今二十八年」条の部分から「今過安陸」という文が見つかった。「今」とは今皇帝すなわち始皇帝を指し、「二十八年」は始皇28年である紀元前219年の出来事が書かれた部分となる。「今過安陸」は始皇帝が安陸(湖北省南部の地名)を通過したことを記録している。短い文章ではあるが、これは同時期に記録された巡遊を証明する貴重な資料である[104]。

封禅
第1回目の巡遊は主に東方を精力的に回った。途中の泰山にて、始皇帝は封禅の儀を行った。これは天地を祀る儀式であり、天命を受けた天子の中でも功と徳を備えた者だけが執り行う資格を持つとされ[105]、かつて斉の桓公が行おうとして管仲が必死に止めたと伝わる[106]。始皇帝は、自らを五徳終始思想に照らし「火」の周王朝を次いだ「水」の徳を持つ有資格者と考え[107]、この儀式を遂行した[108]。

しかし管仲の言を借りれば、最後に封禅を行った天子は周の成王であり[106]、すでに500年以上の空白があった。式次第は残されておらず[105]、始皇帝は儒者70名ほどに問うたが、その返答はばらばらで何ら参考になるものはなかった[108][109]。結局始皇帝は彼らを退け、秦で行われていた祭祀を基にした独自の形式で封禅を敢行した[105][108]。頂上まで車道が敷かれ、南側から登った始皇帝は山頂に碑を建て、「封」の儀式を行った。下りは北側の道を通り、隣の梁父山で「禅」の儀式を終えた[108]。

この封禅の儀は、詳細が明らかにされなかった[109]。排除された儒家たちは「始皇帝は暴風雨に遭った」など推測による誹謗を行ったが、儀礼の不具合を隠す目的があったとか[108]、我流の形式であったため後に正しい方法がわかったときに有効性を否定されることを恐れたとも言われる[105]。吉川忠夫は、始皇帝は泰山で自らの不老不死を祈る儀式も行ったため、全容を秘匿する必要があったのではとも述べた[108]。

神仙への傾倒

不死の妙薬を求めて紀元前219年に出航した徐巿の船。
泰山で封禅の儀を行った後、始皇帝は山東半島を巡る。これを司馬遷は「求僊人羨門之屬」と書いた[110]。僊人とは仙人のことであり、始皇帝が神仙思想に染まりつつあったことを示し[111]、そこに取り入ったのが方士と呼ばれる者たちであった[112]。方士とは不老不死の秘術を会得した人物を指すが、実態は「怪迂阿諛苟合之徒」[113] と、怪しげで調子の良い(苟合)話によって権力者にこびへつらう(阿諛 - ごまをする)者たちであったという[108]。

その代表格が、始皇帝が瑯琊で石碑(瑯琊台刻石)を建立した後に謁見した徐巿である。斉の出身である徐巿は、東の海に伝説の蓬萊山など仙人が住む山(三神山)があり、それを探り1000歳と言われる仙人の安期生(中国語版)を伴って帰還する[114] ための出資を求める上奏を行った。始皇帝は第1回の巡遊で初めて海を見たと考えられ、中国一般にあった「海は晦なり」(海は暗い‐未知なる世界)で表される神秘性に魅せられ、これを許可して数千人の童子・童女を連れた探査を指示した[111][115]。第2回巡遊でも瑯琊を訪れた始皇帝は、風に邪魔されるという風な徐巿の弁明に疑念を持ち、他の方士らに仙人の秘術探査を命じた[111]。言い逃れも限界に達した徐巿も海に漕ぎ出し、手ぶらで帰れば処罰されると恐れた一行は逃亡した。伝説では、日本にたどり着き、そこに定住したともいう[112][116]。

刻石
各地を巡った始皇帝は、伝わるだけで7つの碑(始皇七刻石)を建立した。第1回では嶧山と封禅を行った泰山そして瑯琊、第2回では之罘に2箇所、第3回では碣石、第4回では会稽である。現在は泰山刻石と瑯琊台刻石の2碑が極めて不完全な状態で残されているのみであり、碑文も『史記』に6碑が記述されるが嶧山刻石のそれはない[98]。碑文はいずれも小篆で書かれ、始皇帝の偉業を称える内容である[98]。

逸話
始皇帝の巡遊にはいくつかの逸話がある。第1回の旅で彭城に立ち寄った際、鼎を探すため泗水に千人を潜らせたが見つからなかったと『史記』にある[117]。これは昭王の時代に周から秦へ渡った九つの鼎の内の失われた一つであり、始皇帝は全てを揃え王朝の正当性を得ようとしたが、かなわなかった[104]。この件について北魏時代に酈道元が撰した『水経注』では、鼎を引き上げる綱を竜が噛みちぎったと伝える。後漢時代の武氏祠石室には、この事件を伝える画像石「泗水撈鼎図」があり、切れた綱に転んだ者たちが描かれている[104]。

『三斉略記』は、第3回巡遊で碣石に赴いた際に海神とのやりとりがあったことを載せている。この地で始皇帝は海に石橋を架けたが、この橋脚を建てる際に海神が助力を与えた。始皇帝は会見を申し込んだが、海神は醜悪な自らの姿を絵に描かないことを条件に許可した。しかし、臣下の中にいた画工が会見の席で足を使い筆写していた。これを見破った海神が怒り、始皇帝は崩れゆく石橋を急ぎ引き返して九死に一生を得たが、画工は溺れ死んだという[111]。

暗殺未遂
詳細は「始皇帝の暗殺未遂」を参照
始皇帝は秦王政の時代に荊軻の暗殺計画から辛くも逃れたが、皇帝となった後にも少なくとも3度生命の危機にさらされた[118]。

高漸離の暗殺未遂
詳細は「高漸離」を参照
荊軻と非常に親しい間柄だった高漸離は筑の名手であった。燕の滅亡後に身を隠していたが筑の演奏が知られ、始皇帝にまで聞こえ召し出された。ところが荊軻との関係が露呈してしまった。この時は腕前が惜しまれ、眼をつぶされることで処刑を免れた。こうして始皇帝の前で演奏するようになったが、復讐を志していた[119]。高漸離は筑に鉛塊を仕込み、それを振りかざして始皇帝を打ち殺そうとした。しかしそれは空振りに終わり、高漸離は処刑された[118][120]。この後、始皇帝は滅ぼした国に仕えた人間を近づけないようにした[118]。

張良の暗殺未遂
詳細は「張良」を参照
第2回巡遊で一行が陽武近郊の博浪沙という場所を通っていた時、突然120斤(約30kg[80])の鉄錐が飛来した。これは別の車を砕き、始皇帝は無傷だった[115]。この事件は、滅んだ韓の貴族だった張良が首謀し、怪力の勇士を雇い投げつけたものだった[115]。この事件の後、大規模な捜査が行われたが張良と勇士は逃げ延びた[42][118][121]。

咸陽での襲撃
始皇31年(前216年)、始皇帝が4人の武人だけを連れたお忍びの夜間外出を行った際、蘭池という場所で盗賊が一行を襲撃した。この時には取り押さえに成功し、事なきを得た。さらに20日間にわたり捜査が行われた[118][122]。

「真人」の希求
天下を統一し封禅の祭祀を行った始皇帝は、すでに自らを歴史上に前例のない人間だと考え始めていた。第1回巡遊の際に建立された琅邪台刻石には「古代の五帝三王の領地は千里四方の小地域に止まり、統治も未熟で鬼神の威を借りねば治まらなかった」と書かれている[123]。このように五帝や三王(夏の禹王、殷の湯王、周の文王または武王)を評し、遥かに広大な国土を法治主義で見事に治める始皇帝が彼らをはるかに凌駕すると述べている[104]。逐電した徐巿[112] に代わって始皇帝に取り入ったのは燕出身の方士たちであり、特に盧生は様々な影響を与えた[124]。

『録図書』と胡の討伐
盧生は徐巿と同様に不老不死を餌に始皇帝に近づき、秘薬を持つ仙人の探査を命じられた。仙人こそ連れて来なかったが、『録図書』という予言書を献上した。その中にある「秦を滅ぼす者は胡」[125] という文言を信じ、始皇帝は周辺民族の征伐に乗り出した[124]。

万里の長城を整備したことからも、秦王朝にとって外敵といえば、まず匈奴が挙げられた。始皇帝は北方に駐留する蒙恬に30万の兵を与えて討伐を命じた。軍がオルドス地方を占拠すると、犯罪者をそこに移し、44の県を新設した。さらに現在の内モンゴル自治区包頭市にまで通じる軍事道路「直道」を整備した[124]。

一方で南には嶺南へ圧迫を加え、そこへ逃亡者や働かない婿、商人ら[126] を中心に編成された軍団を派遣し[124]、現在の広東省やベトナムの一部も領土に加えた[54]。ここにも新たに3つの郡が置かれ、犯罪者50万人を移住させた[124]。

不老不死の薬
2002年に湖南省の井戸の底から発見された3万6000枚に及ぶ木簡の中に、始皇帝が国内各地で不死の薬を探すよう命じた布告や、それに対する地方政府の返答が含まれていた。この発見により布告が辺境地域や僻村にまでも通達されていたことが分かった。

地方政府の返答には「そのような妙薬はまだ見つかっていないが引き続き調査している」「地元の霊山で採取した薬草が不老不死に効くかもしれない」など当惑した様子がうかがわれる。[127]

焚書坑儒
焚書
始皇34年(前213年)、胡の討伐が成功裏に終わり開かれた祝賀の席が、焚書の引き金となった。臣下や博士らが祝辞を述べる中、博士の一人であった淳于越が意見を述べた。その内容は、古代を手本に郡県制を改め封建制に戻すべしというものだった[128]。始皇帝はこれを群臣の諮問にかけた[129] が、郡県制を推進した李斯が再反論し、始皇帝もそれを認可した[130]。その内容は、農学・医学・占星学・占術・秦の歴史を除く全ての書物を、博士官にあるものを除き焼き捨て、従わぬ者は顔面に刺青を入れ、労役に出す。政権への不満を論じる者は族誅するという建策を行い、認められた[131][132]。特に『詩経』と『書経』の所有は、博士官の蔵書を除き[注 4] 厳しく罰せられた[133]。

始皇帝が信奉した『韓非子』「五蠹」には「優れた王は不変の手法ではなく時々に対応する。古代の例にただ倣うことは、切り株の番をするようなものだ」と論じられている[134]。こういった統治者が生きる時代背景に応じた政治を重視する考えを「後王思想」と言い、特に儒家の主張にある先王を模範とすべしという考えと対立するものだった[133]。始皇帝自身がこの思想を持っていたことは、巡遊中の各刻石の文言からも読み取れる[135]。

すでに郡県制が施行されてから8年が経過した中、淳于越がこのような意見を述べ、さらに審議された背景には、先王尊重の思想を持つ集団が依然として発言力を持っていた可能性が指摘される[135]。しかし始皇帝は淳于越らの意見を却下した。『韓非子』「姦劫弑臣」には「愚かな学者らは古い本を持ち出してはわめき合うだけで、目前の政治の邪魔をする」とある[136]。この焚書は、旧書体を廃止し篆書体へ統一する政策の促進にも役立った[137]。

坑儒
始皇帝に取り入ろうとした方士の盧生は「真人」を説いた。真人とは『荘子』「内篇・大宗師」で言う水で濡れず火に焼かれない人物とも[138]、「内篇・斉物論」で神と言い切られた存在[139] を元にする超人を指した[116]。盧生は、身を隠していれば真人が訪れ、不老不死の薬を譲り受ければ真人になれると話した。始皇帝はこれを信じ、一人称を「朕」から「真人」に変え、宮殿では複道を通るなど身を隠すようになった。ある時、丞相の行列に随員が多いのを見て始皇帝が不快がった。後日見ると丞相が随員を減らしていた。始皇帝は側近が我が言を漏らしたと怒り、その時周囲にいた宦者らすべてを処刑したこともあった[140]。ただし政務は従来通り、咸陽宮で全て執り行っていた[141]。

しかし真人の来訪はなく、処罰を恐れた盧生と侯生は始皇帝の悪口を吐いて逃亡した。一方始皇帝は方士たちが巨額の予算を引き出しながら成果を挙げず、姦利を以って争い、あまつさえ怨言を吐いて逃亡したことを以って[142] 監察に命じて方士らを尋問にかけた。彼らは他者の告発を繰り返し、法を犯した者約460人が拘束されるに至った。始皇35年(前212年)、始皇帝は彼らを生き埋めに処し[143]、これがいわゆる坑儒であり、前掲の焚書と合わせて焚書坑儒と呼ばれる[116]。『史記』には「儒」とは一字も述べられておらず「諸生」[144] と表記しているが、この行為を諌めた長子の扶蘇[145] の言「諸生皆誦法孔子」[128] から、儒家の比率は高かったものと推定される[146]。

諫言を不快に思った始皇帝は扶蘇に、北方を守る蒙恬を監察する役を命じ、上郡に向かわせた[116]。『史記』は、始皇帝が怒った上の懲罰的処分と記しているが[128]、陳舜臣は別の考えを述べている。30万の兵を抱える蒙恬が匈奴と手を組み反乱を起こせば、統一後は軍事力を衰えさせていた秦王朝にとって大きな脅威となる。蒙恬を監視し抑える役目は非常に重要なもので、始皇帝は扶蘇を見込んでこの大役を任じたのではないかという。また、他の諸皇子は公務につかない限り平民として扱われていた[147] が、扶蘇は任務に就いたことで別格となっている。いずれにしろこの処置は秦にとって不幸なものとなった[80]。

坑儒について、別な角度から見た主張もある。これは、お抱えの学者たちに不老不死を目指した錬金術研究に集中させる目的があったという。処刑された学者の中には、これら超自然的な研究に携わった者も含まれる。坑儒は、もし学者が不死の解明に到達していれば処刑されても生き返ることができるという究極の試験であった可能性を示唆する[148]。

祖龍の死
不吉な暗示
『史記』によると、始皇36年(前211年)に東郡(河南・河北・山東の境界に当たる地域)に落下した隕石に、何者かが「始皇帝死而地分」(始皇帝が亡くなり天下が分断される)という文字を刻みつける事件が起きた[149]。周辺住民は厳しく取り調べられたが犯人は判らず、全員が殺された[150] 上、隕石は焼き砕かれた[28]。空から降る隕石に文字を刻むことは、それが天の意志であると主張した行為であり、渦巻く民意を代弁していた[118]。

また同年秋、ある使者が平舒道という所で出くわした人物から「今年祖龍死」という言葉を聞いた。その人物から滈池君へ返して欲しいと玉璧を受け取った使者は、不思議な出来事を報告した。次第を聞いた始皇帝は、祖龍とは人の先祖のこと、それに山鬼の類に長い先のことなど見通せまいとつぶやいた。しかし玉璧は、第1回巡遊の際に神に捧げるため長江に沈めたものだった。始皇帝は占いにかけ、「游徙吉」との告げを得た。そこで「徙」を果たすため3万戸の人員を北方に移住させ、「游」として始皇37年(前210年)に4度目の巡遊に出発した[118][150]。

最後の巡遊
末子の胡亥と左丞相の李斯を伴った第4回巡遊[151] は東南へ向かった。これは、方士が東南方向から天子の気が立ち込めているとの言を受け、これを封じるために選ばれた。500年後に金陵(南京)にて天子が現れると聞くと、始皇帝は山を削り丘を切って防ごうとした[152]。また、海神と闘う夢を見たため弩を携えて海に臨み、之罘で大鮫魚を仕留めた[152][153]。

ところが、平原津で始皇帝は病気となった。症状は段々と深刻になり、ついに蒙恬の監察役として北方にとどまっている[154] 長子の扶蘇に「咸陽に戻って葬儀を主催せよ」との遺詔を口頭で、信頼を置く宦官の趙高[155] に作成させ託した。

始皇37年(紀元前210年)[156]、始皇帝は沙丘の平台(現在の河北省邢台市広宗県[157])にて崩御[2][152][158]。伝説によると彼は、宮殿の学者や医師らが処方した不死の効果を期待する水銀入りの薬を服用していたという[89]。

死後
隠された崩御
始皇帝の崩御が天下騒乱の引き金になることを李斯は恐れ[56]、秘したまま一行は咸陽へ向かった[56][159][160]。崩御を知る者は胡亥、李斯、趙高ら数名だけだった[2][152]。死臭を誤魔化す為に大量の魚を積んだ車が伴走し[2][56]、始皇帝がさも生きているような振る舞いを続けた[56] 帰路において、趙高は胡亥や李斯に甘言を弄し、謀略に引き込んだ。扶蘇に宛てた遺詔は握りつぶされ、蒙恬ともども死を賜る詔が偽造され送られた[154][155][161]。この書を受けた扶蘇は自殺し、疑問を持った蒙恬は獄につながれた[161]。

二世皇帝
始皇帝の崩御から2か月後、咸陽に戻った20歳の胡亥が即位し二世皇帝となり(紀元前210年)[56]、始皇帝の遺体は驪山の陵に葬られた。そして趙高が権勢をつかんだ[162]。蒙恬や蒙毅をはじめ、気骨ある人物はことごとく排除され、陳勝・呉広の乱を皮切りに各地で始まった反秦の反乱さえ趙高は自らへの権力集中に使った[162]。そして李斯さえ陥れて処刑させた[163]。

しかし反乱に何ら手を打てず、二世皇帝3年(前207年)には反秦の反乱の一つの勢力である劉邦率いる軍に武関を破られる。ここに至り、二世皇帝は言い逃ればかりの趙高を叱責したが、逆に兵を仕向けられ自殺に追い込まれた[164]。趙高は二世皇帝の兄とも兄の子とも伝わる子嬰を次代に擁立しようとしたが、趙高は子嬰の命を受けた韓談によって刺し殺された。翌年、子嬰は皇帝ではなく秦王に即位したが、わずか46日後に劉邦に降伏し、項羽に殺害された[164]。予言書『録図書』にあった秦を滅ぼす者「胡」とは、辺境の異民族ではなく胡亥のことを指していた[164][165]。

『趙正書』の記述
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
趙正書
「趙正書」も参照
以上の始皇帝死去前後の経過は『史記』に基づくが、北京大学蔵西漢竹書の一つである『趙正書』にはこれと食い違う経過が記されている。大きな相違点の一つが胡亥即位の経緯で、『史記』は李斯・趙高の陰謀によるものとするのに対し、『趙正書』では、群臣が跡継ぎに胡亥を推薦し、嬴政がそれを裁可するという手続きを踏んだことになっている[166][167]。

人物
『史記』は、同じ時代を生きた人物による始皇帝を評した言葉を記している。尉繚は秦王時代に軍事顧問として重用された[49] が、一度暇乞いをしたことがあり、その理由を以下のように語った[35]。

秦王為人,蜂準,長目,鷙鳥膺,豺聲,少恩而虎狼心,居約易出人下,得志亦輕食人。我布衣,然見我常身自下我。誠使秦王得志於天下,天下皆為虜矣。不可與久游。
— 史記「秦始皇本紀」4[168]
秦王政の風貌を、準(鼻)は蜂(高く尖っている)、目は切れ長、膺(胸)は鷙鳥(鷹のように突き出ている)、そして声は豺(やまいぬ)のようだと述べる。そして恩を感じることなどほとんどなく、虎狼のように残忍だと言う。目的のために下手に出るが、一度成果を得れば、また他人を軽んじ食いものにすると分析する。布衣(無冠)の自分にもへりくだるが、中国統一の目的を達したならば、天下はすべて秦王の奴隷になってしまうだろうと予想し、最後に付き合うべきでないと断ずる[35][49]。

将軍・王翦は強国・楚との戦いに決着をつけた人物である。他の者が指揮した戦いで敗れたのち、彼は秦王政の要請に応じて出陣した。このとき、王翦は財宝や美田など褒章を要求し、戦地からもしつこく念を押す書状を送った。その振る舞いをみっともないものと諌められると、彼は言った[57][63]。

夫秦王怚而不信人。
— 史記「白起王翦列伝」11[62]
怚は粗暴を意味し、秦王政が他人に信頼を置かず一度でも疑いが頭をもたげればどのような令が下るかわからないという。何度も褒章を求めるのも、反抗など思いもよらない浅ましい人物を演じることで、秦のほとんどと言える兵力を指揮下に持つ自分が疑われて死を賜る命令が下りないようにしているのだと述べた。[57][63]。

方士の盧生と侯生が逃亡する前に始皇帝を評した言が残っている。

始皇為人,天性剛戾自用,起諸侯,并天下,意得欲從,以為自古莫及己。專任獄吏,獄吏得親幸。博士雖七十人,特備員弗用。丞相諸大臣皆受成事,倚辨於上。上樂以刑殺為威,天下畏罪持祿,莫敢盡忠。(中略)。天下之事無小大皆決於上,上至以衡石量書,日夜有呈,不中呈不得休息。貪於權勢至如此,(後略)
— 史記「秦始皇本紀」41
3:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/09 (Mon) 13:21:54

始皇帝は生まれながらの強情者で、成り上がって天下を取ったため、歴史や伝統でさえ何でも思い通りにできると考えている。獄吏ばかりが優遇され、70人もいる博士は用いられない。大臣らは命令を受けるだけ。始皇帝の楽しみは処刑ばかりで天下は怯えまくって、うわべの忠誠を示すのみと言う。決断はすべて始皇帝が下すため、昼と夜それぞれに重さで決めた量の書類を処理し、時には休息さえ取らず向かっている。まさに権勢の権化と断じた[116]。

后妃と子女
始皇帝の后妃については、史書に記載がなく不明。ただし、『史記』秦始皇本紀に、「始皇帝が崩御したときに後宮で子のないものがすべて殉死させられ、その数がはなはだ多かった」といっているため、多くの后妃があっただろうということは推測できる。

子女の数は明らかでない。『史記』李斯列伝には、始皇帝の公子は20人以上いたが、二世皇帝が公子12人と公主10人を殺したことを記す。名前の知られている子は以下のものがある。

扶蘇(長子)
胡亥(末子)
また、具体的な親族の血縁上の位置づけが不明な男子がいる。

子嬰 - 『史記』「六国年表第三」では、「胡亥の兄」とされる。一方、『史記』「秦始皇本紀」では「胡亥の兄の子」とされており、「兄」が誰の事なのかは記録されていない。また、『史記』「李斯列伝」では始皇帝の弟とされている。『史記』「李斯列伝」集解徐広の説では、「一本曰『召始皇弟子嬰,授之璽』」と記述され、始皇帝の弟の子の(嬴)嬰とする説がある。就実大学人文科学部元教授の李開元はこの説を支持し、嬴嬰を始皇帝の弟である嬴成蟜の子であると言う説を発表している。この場合、子嬰は始皇帝の甥、扶蘇と胡亥の従兄弟になる。また、李開元は成蟜が趙攻めの際に秦に叛いた際(成蟜の乱)、趙で生まれたのが子嬰であると言う。これが事実であれば、子嬰の生年は紀元前239年(秦王政8年)となり、紀元前206年に項羽によって処刑された際の年齢は34歳頃と思われる。つまり、「始皇帝の弟」、「始皇帝の子」、「始皇帝の孫」、「始皇帝の甥」という四つの説が並立しているのが現状である。
公子高 - 二世皇帝のとき、趙高より始皇帝に殉死させられた。
将閭 - 二世皇帝のとき、趙高より自殺させられた。同母弟2人がいたが、みな自殺した。
評価
暴虐な君主として
始皇帝が暴虐な君主だったという評価は、次の王朝である漢の時代に形成された[169]。『漢書』「五行志」(下之上54)では、始皇帝を「奢淫暴虐」と評する[170]。この時代には「無道秦」[171] や「暴秦」[172] 等の言葉も使われたが、王朝の悪評は皇帝の評価に直結した[173]。漢は秦を倒した行為を正当化するためにも、その強調が必要だった[174]。特に前漢の武帝時代以降に儒教が正学となってから、始皇帝の焚書坑儒は学問を絶滅させようとした行為(滅学)と非難した[174]。詩人・政治家であった賈誼は『過秦論』を表し、これが後の儒家が考える秦崩壊の標準的な根拠となった。修辞学と推論の傑作と評価された賈誼の論は、前・後漢の歴史記述にも導入され、孔子の理論を表した古典的な実例として中国の政治思想に大きな影響を与えた[175]。彼の考えは、秦の崩壊とは人間性と正義の発現に欠けていたことにあり、そして攻撃する力と統合する力には違いがあるということを示すというものであった[176]。

唐代の詩人・李白は『国風』四十八[177] で、統一を称えながらも始皇帝の行いを批判している。

阿房宮や始皇帝陵に膨大な資金や人員を投じたことも非難の対象となった。北宋時代の『景徳傳燈録』など禅問答で「秦時の轆轢鑽(たくらくさん)」[注 5] という言葉が使われる。元々これは穴を開ける建築用具だったが、転じて無用の長物を意味するようになった[178]。

封建制か郡県制か
始皇帝の評価にかかわらず、漢王朝は秦の制度を引き継ぎ[135]、以後2000年にわたって継続された[169]。特に郡県制か封建制かの議論において、郡県制を主張する論者の中には始皇帝を評価する例もあった。唐代の柳宗元は「封建論」にて、始皇帝自身の政治は「私」だが、彼の封建制は「公」を天下に広める先駆けであったと評した[169]。明の末期から清の初期にかけて活躍した王船山は『読通鑑論』で始皇帝を評した中で、郡県制が2000年近く採用され続けている理由はこれに道理があるためだと封建制主張者を批判した[169]。


始皇帝と臣下らの現代彫刻。西安市
近代以降の評価
清末民初の章炳麟は『秦政記』にて、権力を一人に集中させた始皇帝の下では、すべての人間は平等であったと説いた。もし始皇帝が長命か、または扶蘇が跡を継いでいたならば、始皇帝は三皇または五帝に加えても足らない業績を果たしただろうと高く評価した[169]。

日本の桑原隲蔵は1907年の日記にて始皇帝を不世出の豪傑と評し、創設した郡県制による中央集権体制が永く保たれた点を認め、また焚書坑儒は当時必要な政策であり過去にも似た事件はあったこと、宮殿や墳墓そして不死の希求は当時の流行であったことを述べ、始皇帝を弁護した[169]。

馬非百は 歴史修正主義の視点から伝記『秦始皇帝傳』を1941年に執筆し、始皇帝を「中国史最高の英雄の一人」と論じた。馬は、蔣介石と始皇帝を比較し、経歴や政策に多くの共通点があると述べ、この2人を賞賛した。そして中国国民党による北伐と南京での新政府樹立を、始皇帝の中国統一に例えた。

文化大革命期には、始皇帝の再評価が行われた。当時は、儒家と法家の闘争(儒法闘争)という面から中国史を眺める風潮が強まった。中国共産党は儒教を反動的・反革命的なものと決めつけた立場から、孔子を奴隷主貴族階級のイデオロギー(批林批孔)とし、相対的に始皇帝を地主階級の代表として高い評価が与えられた[169]。そのため、始皇帝陵の発見は1970年代当時の中国共産党政府によって大々的に世界に宣伝された[179]。

文字という側面から藤枝晃は、始皇帝は君主が祭祀や政治を行うためにある文字の権威を取り戻そうとしたと評価した。周王朝の衰退そして崩壊後、各諸侯や諸子百家も文字を使うようになっていた。焚書坑儒も、この状態を本来の姿に戻そうとする側面があったと述べた[75]。また、秦代の記録の多くが失われ、漢代の記録に頼らざるを得ない点も、始皇帝の評価が低くなる要因だと述べた[180]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D



金髪碧眼の白人だった秦始皇帝はモンゴロイドの中国人や中国の文化・伝統を完全にバカにしていた


秦の始皇帝は毎日30万字を読んでいた?―中国誌
Record China 2009年9月26日
https://www.recordchina.co.jp/b35606-s0-c30-d0000.html?utm_source=ise&utm_medium=ise

22日、中国誌・博覧群書は秦漢史の研究者として知られる王子今氏の寄稿を掲載した。王氏は秦の始皇帝は毎日約30万字を読む習慣があったと論じている。

写真は兵馬俑博物館。
https://www.recordchina.co.jp/pics.php?id=35606

2009年9月22日、中国誌・博覧群書は秦漢史の研究者として知られる王子今(ワン・ズージン)氏の寄稿を掲載した。王氏は秦の始皇帝は毎日約30万字を読む習慣があったと論じている。網易歴史が伝えた。

【その他の写真】

秦の始皇帝は中国を初めて統一した皇帝。陝西省西安市にある始皇帝陵や兵馬俑は有名な世界遺産だ。兵馬俑は6月から新たな発掘作業を始めており、国内外の多くの観光客を惹きつけている。

秦(紀元前778年―同206年)の時代、文字は竹簡(ちくかん)という竹で出来た札に書かれていた。前漢時代の歴史家、司馬遷(しばせん)の著書「史記」には、「始皇帝は事の大小に関わらず、すべて自ら決裁していた」とあるほか、1日に閲覧する量を決め、それが終わるまでは眠りにつかなかったとされている。「史記」に記されたその1日の量は「竹簡120斤(現在の約30kgに相当)」。

王氏はこれを台湾の学者が発表した論文を参照にして計算した。その論文によれば、当時の竹簡の平均的な重さは51kgで1枚につき38文字前後、合わせて53万文字前後が書かれていた。これに照らし合わせれば、「竹簡120斤」には約31万文字が書かれていた計算になるという。
https://www.recordchina.co.jp/b35606-s0-c30-d0000.html?utm_source=ise&utm_medium=ise
4:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/09 (Mon) 13:35:56

金髪碧眼の白人だった秦始皇帝はモンゴロイドの中国人や中国の文化・伝統を完全にバカにしていた



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6

秦(しん、拼音: Qín、紀元前905年 - 紀元前206年)は、中国の王朝である。周代・春秋時代・戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に史上初めて中国全土を統一、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間を秦朝、秦代と呼ぶ。姓は嬴(えい)、氏は趙[注 2]。統一時の首都は咸陽。

歴史

周代
紀元前905年に、周の孝王に仕えていた非子が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、大夫となり、秦の地に領地を貰ったのが秦邑(現在の甘粛省張家川回族自治県)であったという。

伝説上では嬴姓は舜の臣の伯益が賜ったとされている。それ以前の嬴氏は魯に居住していたとされる。

周朝の属国として、その後秦人と西戎は長くて残酷な戦いをした。紀元前822年に荘公の代で、西戎を破った功により領土が広がり、西垂(現在の陝西省眉県)の大夫になった。

春秋・戦国時代
春秋時代

春秋時代の諸国
襄公の受封
紀元前770年、周の幽王が申侯の反乱に遭い、侵攻した犬戎に鎬京が荒され、幽王と褒姒、太子の伯服(中国語版)が殺された[2][3]。この時、襄公は兵を率いて周を救うために戦った。申侯により平王が擁立されて洛邑に東遷した際も、周の洛邑東徙で周の平王を護衛したため、平王から諸侯に封じられ、岐山以西の地を賜り、伯爵となった。これ以降諸侯の列に加わる。紀元前762年に秦が最初に興った場所は犬丘(現在の甘粛省礼県)であったらしく、秦の祖の陵墓と目されるものがこの地で見つかっている。

早期の歴史
春秋時代に入ると同時に諸侯になった秦だが、中原諸国からは野蛮であると蔑まれていた。代々の秦侯は主に西戎と抗争しながら領土を広げつつ、法律の整備などを行って国を形作っていった。前762年、2代君主の文公は汧水・渭水の合流地点(秦)に行き、「昔、周の孝王が我が祖先の秦嬴をこの地に封じられたため、のちに諸侯になることができた」と言って吉凶を卜したところ、吉とあったので、邑をここに営んだ。紀元前714年には平陽へ遷都。紀元前677年には首都を雍(現在の陝西省宝鶏市鳳翔区の南東)に置いた。

覇者
穆公は百里奚などの他国出身者を積極的に登用し、巧みな人使いと信義を守る姿勢で西戎を大きく討って西戎の覇者となり、周辺の小国を合併して領土を広げ、隣の大国晋にも匹敵する国力をつけた。晋が驪姫による驪姫の乱で混乱すると、秦は恵公を後援し擁立した。恵公は背信を繰り返したので、これを韓原の地で撃破した(韓原の戦い)。更に恵公が死んだ後に恵公の兄の公子重耳を晋に入れて即位させた。この重耳が晋の名君の文公となり、その治世時には晋にやや押され気味になった(殽の戦い(中国語版)、彭衙の戦い)。紀元前628年の文公死後、再び晋を撃破して領土を奪い取った。これらの業績により、穆公は春秋五覇の一人に数えられる。紀元前621年、穆公が死んだ時に177名の家臣たちが殉死し、名君と人材を一度に失った秦は勢いを失い、領土は縮小した。

戦国時代

紀元前260年の戦国七雄
戦国時代には七雄の一つに数えられる。隣国の晋は内部での権力争いの末に韓・魏・趙の三国に分裂した(晋陽の戦い)。この内の魏が戦国初期には文侯により強勢となり、秦は魏により圧迫を受け、領土を奪われる(洛陰の戦い(中国語版))。紀元前383年、献公は櫟陽(中国語版)(れきよう、現在の陝西省西安市閻良区)に遷都した。

この状況に憤慨した25代孝公は広く人材を求め、頽勢を挽回することのできる策を求めた。これに応じたのが商鞅である。商鞅は行政制度の改革・什伍制の採用などを行い、秦を強力な中央集権体制に変えた(詳細は商鞅の項を参照)。この商鞅の変法運動に始まる秦の法治主義により国内の生産力、軍事力を高め徐々に他の六国を圧倒していった。紀元前350年に涇陽(現在の陝西省涇陽県)付近に城門・宮殿・庭園を造営して遷都し、都の名を咸陽と改めた。

その後、孝公の子の恵文王が紀元前324年に王を名乗る。強勢となった秦を恐れた韓・趙・魏・燕・楚の五カ国連合軍が攻めて来たが、樗里疾がこれを破った(函谷関の戦い)。紀元前316年に恵文王は巴蜀(中国語版)(現在の四川省)を占領し(秦滅巴蜀の戦い(中国語版))、この地の開発を行ったことでさらに生産力を上げ、長江の上流域を押さえたことで楚に対して長江を使った進撃を行えるようになり、圧倒的に有利な立場に立った。さらに謀略に長けた張儀を登用して、楚を引きずり回して戦争で撃破し(藍田の戦い)、楚の懐王を捕らえることに成功する。この強勢に恐れをなした魏と韓の王達をそれぞれ御者と陪乗にするほどにまで屈服させた。だが、恵文王の子の武王との確執により張儀が魏に亡命し、さらに韓との戦いで多くの兵を失ったうえに、自身は突如事故死し後継者争いが起きてしまい戦力が後退していってしまう。

紀元前298年、斉の宰相の孟嘗君が韓・魏との連合軍を組織し、匡章を統帥として秦に侵攻した(三国聯軍攻秦の戦い(中国語版))。秦が函谷関に追いつめられると趙・宋も加わり五国連合軍となったため、秦は使者を送って講和を求めた。この後、東では斉が伸張し、宋を併合するなど、周辺諸国を圧迫していった。紀元前288年には斉の湣王が東帝、秦が西帝と名乗るとした。この案は斉がすぐに帝号を取りやめたので、秦も取りやめざるを得なかったが、この時期は西の秦・東の斉の二強国時代を作っていた。しかし斉は強勢を警戒された上に周辺諸国から恨みを買い、孟嘗君が魏へ逃亡すると、燕の楽毅が指揮する五国連合軍により、都の臨淄が陥落(済西の戦い)。斉は亡国寸前まで追い詰められ、東の斉・西の秦の二強国時代から秦一強時代へと移行した。

恵文王の子で、武王の異母弟の昭襄王の時代に宰相の魏冄と白起将軍の活躍により、幾度となく勝利を収める。その時、魏より亡命してきた范雎を登用した昭襄王は、その提言を次々と採用した。まず、魏冄や親族の権力があまりにも大きくなっている現状を指摘され、魏冄らを退ける進言を受け入れた。次に范雎から進言されたのが有名な遠交近攻策である。それまで近くの韓・魏を引き連れて、遠くの斉との戦いを行っていたのだが、これでは勝利しても得られるのは遠くの土地になり、守るのが難しくなってしまう。これに対して遠くの斉や燕と同盟して近くの韓・魏・趙を攻めれば、近くの土地を獲得できて、秦の領土として組み入れるのが容易になる。この進言に感動した昭襄王は范雎を宰相とした。

紀元前260年に趙への侵攻軍を率いた白起は、長平の戦いで撃破した趙軍の捕虜40万を坑(穴埋めにして殺すこと)した。しかし大戦果を挙げた為、范雎から妬まれ、趙の都を落とす直前で引き返させられた。紀元前259年、将軍を王齕に替えて再び趙を攻めた秦軍は、趙の平原君のもとに援軍として現れた魏の信陵君と楚の春申君の活躍によって阻まれた(邯鄲の戦い(中国語版))。この為、大将に再任されようとした白起だったが、先の件から不信を持って王命を拒否した結果、死を賜った。

これと時を同じくして敵国の趙で人質生活を送る子楚(昭襄王の孫のひとり)を見つけた商人の呂不韋が、子楚に投資をし始める。孝文王(昭襄王の子)の後、荘襄王として即位できた子楚は、呂不韋の愛妾でもあった趙姫との間に、子を儲けた。それが政である。紀元前256年に楊摎の進軍を妨害した、東周と西周公は秦の支配下に入り、程なく赧王と文公が死んだため、完全に周は滅びその領地を接収したものの[4]、紀元前247年には魏の信陵君が率いる五カ国連合軍に攻め込まれた秦では、王齕と蒙驁の迎撃軍が敗退し函谷関まで撤退させられた(河外の戦い)。そこで信陵君に関する流言飛語を実践すると、魏の安釐王に疎まれた信陵君が国政の中枢から外されたため、秦は危機を脱することができた。

統一戦争
詳細は「秦の統一戦争」を参照
蓁の統一戦争による領土の拡大

始皇帝
紀元前247年、秦王政が13歳で即位するも、実質的な権力は商人の身から先代王の宰相となっていた相国呂不韋が握っていた。紀元前245年、魏と初陣。韓へも侵攻。紀元前241年、趙・楚・魏・韓・燕[注 3] の五カ国合従軍が攻めてきたが、函谷関の戦いで撃退した[5][6][7][8][9]。その後も王弟の長安君成蟜の反乱や母の趙姫と愛人の嫪毐の反乱が起きた[10]。紀元前238年に嫪毐の乱に連座して呂不韋が失脚し、政が実権を掌握した。

韓と趙の滅亡
紀元前236年、趙の鄴を王翦と桓齮・楊端和が落とし、統一戦争が始まった[注 4][11]。紀元前234年に桓齮が平陽の戦いで敵将扈輒を討ち取り趙兵10万人を斬首した[12][13]。紀元前233年、桓齮は再び出兵し宜安・平陽・武城の3城を取り、再び趙軍を破りその将を討ち取った[14]。同年、韓の公子(君主の子)である韓非との接見で、法を説かれた政は大いに感服した。しかし、その韓非を自害に追い込んだ李斯が丞相に任じられると、国力増強に貢献した。

しかし、肥下の戦いで桓齮は敗走し、一説では李牧に討たれた[15]。趙は秦に占領されていた土地を取り戻し、李牧は武安君に封じられた[16][17][18][19]。また、紀元前232年にも番吾の戦いでも李牧に敗れた。

紀元前230年、内史騰が韓を滅ぼした[20][21][22]。

紀元前229年、王翦の策により、李牧は誅殺され、司馬尚は更迭された[15][20][23][24]。

紀元前228年、趙を滅ぼした。逃げ延びた趙の大夫らは代の地で幽繆王の兄の公子嘉を擁立し代国とした[注 5][20][21][22]。

燕との戦いと、魏の滅亡
紀元前227年、燕の太子丹が刺客の荊軻を送りこんだ。政の暗殺に失敗し、難を逃れた政は激怒した。紀元前226年、燕を攻め滅亡寸前に追い込んだ。燕王喜らは遼東に逃亡した。

紀元前225年、魏の都の大梁を攻め、魏を滅ぼした[25][26][22]。これにより三晋はすべて滅んだ[22]。

楚と燕、斉の滅亡
同年、李信と蒙恬が楚に侵攻したが項燕の奇襲により、大敗した[27][28]。

紀元前223年、秦の将軍王翦が楚を滅亡させ[22]、紀元前222年に代と燕を滅ぼし[29][注 6][30][22]、紀元前221年には斉を滅ぼし中国を統一した[30][22]。

中華統一
「秦朝」も参照
秦王政は中華統一後、自ら皇帝を名乗ったが、これを中国で初めて称したことから、始皇帝(秦始皇)と呼ばれた[31]。この称号は、伝説上の聖王である三皇五帝からとったものとも言われるが、『史記』秦始皇本紀によると、大臣や博士たちが「古に天皇(てんこう、日本の天皇とは別)、地皇、泰皇が有り、その内で最も貴い泰皇を名乗りましょう」と勧めたが、政は「泰皇の泰を去り、古(夏・殷)の君主が名乗っていた帝を付し、皇帝と名乗ろう」としたものと有る。

始皇帝は度量衡・文字の統一[32]、郡県制の実施など様々な改革を行った[31]。また、匈奴などの北方騎馬民族への備えとして、それまでそれぞれの国が独自に作っていた長城を整備し万里の長城を建設、それに加えて阿房宮という増大な宮殿の建築も行った。万里の長城や阿房宮の建設には主に農民を使役させていた。なお焚書坑儒などの思想政策も断行したが[33]、ただでさえ過酷な労働と極度の法治主義に儒教弾圧まで加えたことで、全国の不満を高めてしまい、のちの反乱の芽を育てる原因となってしまう。

匈奴に対しては、蒙恬を派遣して、北方に撃退した。さらに、南方にも遠征し、現在のベトナム北部まで領土を広げた。このとき、南方には、南海郡(現在の広東省広州市)・桂林郡(現在の広西チワン族自治区桂林市)・象郡(現在のベトナム北部、前漢以降は日南郡と呼んだ)の三つの郡が置かれた。これは、中国王朝による南方支配の始まりでもある。


秦朝の行政区分
秦朝は全国を36郡に分け、中央政府が支配する領土を広げるごとに、新たな郡を次々に置いた。五嶺の南、南越を支配した領土には、南海・桂林及び象郡の3郡を、北に匈奴を攻めて陰山以南を切り取った地には九原郡(現在の包頭市南西)を置いた。

また不老不死に関心を持ち始めた始皇帝は国外への探索を命じるほどで、配下の中には徐福のように船で日本まで出向いたとされる者もいる。しかし必要とあらば自らも現地に赴くほどの過労や人体に有毒な水銀すら不老不死の薬と信じて服用していた始皇帝は、逆に自身の寿命を縮めてしまう。

混乱と滅亡

秦末の反乱
紀元前210年、始皇帝が死去した。巡幸中での始皇帝の死去を丞相李斯と共謀して隠したのが、身辺の世話をしていた宦官の趙高で、長男の扶蘇ら始皇帝の公子12人公女10人をはじめ、その臣下、血縁者数万人を処刑し、暗愚な二世皇帝を傀儡として、権力をほしいままにして暴政を布いた。始皇帝が死んだことでたがが緩み、翌年には陳勝・呉広の乱が勃発、全国に飛び火して、騒乱状態となった。

二世皇帝と趙高から討伐軍の将軍に抜擢された章邯は軍事的能力を発揮し、陳勝軍を撃破すると、さらにその後を受けた項梁軍も撃破した。しかし、項梁の甥の項羽との決戦に敗れ、捕虜となる。その後、投降した秦兵20万も咸陽に向かう途中で、造反の気配を見せたと誤解した項羽によって穴埋めに遭い、殺されてしまった。

その間、李斯を冤罪で殺害し権力を独占した趙高だったが、章邯の大敗と、さらには劉邦が咸陽近くにまで迫っていることを聞き、狼狽する。そこで二世皇帝に暴政の汚名を着せた上で暗殺し、子嬰を王に立てて民意の安定を図るも、子嬰らによって誅殺された。

紀元前206年、咸陽へ入城した劉邦に子嬰が降伏したことで、秦は滅亡した。劉邦から生命を保証された子嬰だったが、後から咸陽にやってきた項羽によって、一族もろとも殺害されてしまう。その上、阿房宮から美女や財宝を略奪されて、火をかけられた咸陽は廃墟となった。そして、項羽は秦の土地を三つに分けて、雍王(章邯が王となる)、塞王(司馬欣が王となる)、翟王(董翳が王となる)が王に封じられ、三秦と名付けられた。

政治
秦の制度の多くは漢によって引き継がれ、共通する部分は多い。漢の治世が前後で約400年も続いた理由の一つは、人民の反発を受けることなく秦の制度を踏襲できたことが挙げられる。

秦の成立は単なる中国統一と言うことに終わらず、皇帝号の創始・行政区分の確立・万里の長城の建築などの点で中国と呼ばれる存在を確立したという意味で非常に大きい。そのために秦以前のことを先秦時代と呼ぶこともある。

官制
秦の官制は前漢と同じく丞相(首相)・太尉(軍事)・御史大夫(監察・あるいは副首相)の三公を頂点とする三公九卿制である(詳しくは前漢を参照)。

地方制度では商鞅の改革時に全国を31(あるいは41)の県に細分し、それぞれに令(長官)と丞(副長官)を置いた。統一後に李斯の権限により、この制度をさらに発展させたのが郡県制である。県の上に上級の行政単位である郡を置き、郡守(長官)・丞(副長官)・尉(軍事担当)・監(監察官)をそれぞれ置いた。県の長官・副長官は変わらず令と丞である(区別して県令・県丞と呼ばれることもある)。統一すぐには旧制に倣った封建制の採用も考えられたことがあったが、李斯の反対により郡県制が採用され、全国に36の郡が置かれたと言う。この郡県制も基本的には漢によって引き継がれ、これ以降の中国の地方制度でも基本となっている。

法制
秦といえば商鞅により作られた法家思想による厳しい律令国家であるというイメージだが、実際にどのように法律が運用されていたかは資料が乏しく分からないことも多い。

漢の蕭何は劉邦に伴って咸陽に入城した際に秦の書庫から法律の書物を獲得し、後にこれを元として「律九章」と呼ばれる法律を作ったという。であるから漢初の法律は秦の法律を基本としていると考えて良いだろう。この「律九章」は盗・賊・囚・捕・雑・具・興・厩・戸の九律があったと『晋書』にはある。しかしこの記載が『漢書』にはないので、この記事自体を疑う声もあるが、ともあれ秦の法律に関する資料の一つである。

そして秦の法律に関する一次資料として『睡虎地秦簡』と呼ばれるものがある。これは1975年に湖北省雲夢県で発掘された秦の法官であったと思われる喜と言う人物の墓に入れてあった竹簡群で、秦の法律に関する事柄が記載されている。

経済
始皇帝は中国統一後に度量衡の統一、それまで諸国で使われていた諸種の貨幣を廃止して秦で使われていた半両銭への統一、車の幅の統一などを行った。

ただし、近年の研究や出土史料によれば、一般に言われる始皇帝によるとされる、度量衡の統一や過酷な法律については、再考の余地があるようである。ことに、始皇帝によって発行された統一通貨・半両銭は、秦が本来統治していた地域以外では、あまり出土しておらず、『史記』の記述によれば、始皇帝は通貨の鋳造・改鋳は行ってはおらず、それが行われたのは、二世皇帝の即位直後である。

文化
統一前の秦に関する資料として石鼓文(せっこぶん)・詛楚文(そそぶん)と呼ばれるものがある。

石鼓文は鼓の形をした石に文字が刻まれたものであり、現在は北京の故宮博物院に保存されている。発見されたのは陝西省鳳翔県と言われており、成立時期は穆公以前の時代と考えられている。その内容は宮中での生活や狩猟の様子などを韻文にして書かれている。


兵馬俑
詛楚文は秦の強敵であった楚を呪詛する内容であり、こちらは現在は失われているが、内容は写されて現在に伝わっている。

この二つに使われている書体は秦が独自に作ったものであり、この書体を石鼓文と呼んでいる。始皇帝は統一時に書体も改めて新しい篆書(てんしょ)と言う書体を流通させた。

思想的には法家が当然強いが、道家も強かったようである。この両者は思想的に繋がる部分があると指摘されており、『史記』で司馬遷が老子と韓非子を『老子韓非列伝』と一つにしてあることもこの考えからであろう。後に法家と道家を混交したような黄老の道と呼ばれる思想が前漢初期の思想の主流となっている。

世界遺産に登録されている始皇帝陵は、始皇帝が13歳の時から建築が開始されたもので、20世紀後半になって発掘され、今まで不明瞭だった秦の時代の文化が窺えるようになっている。

歴代君主

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5:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/09 (Mon) 13:36:32

趙高
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趙 高(ちょう こう、拼音: Zhào Gāo、? - 紀元前207年)は、秦の政治家。弟に趙成。

生涯
ウィキソースに『史記』秦始皇本紀の原文があります。
本節では主に『史記』における内容を元に記述するが、『趙正書』など他の資料では食い違う点も見られる(後述)。

始皇帝の寵臣
趙高は趙の遠縁の公族として生まれるも、幼少時に母親が罪を犯した。この時、趙高が宮刑に処されており、のち秦に宦官として仕えたという説が知られるが、これには疑問が呈されている(後述)。

実際に趙高が始皇帝にいつから仕えたのかは、『史記』秦始皇本紀に一切記されておらず、不明である。勤勉で法律に詳しいことから、始皇帝の末子の胡亥のお守役を拝命した。その後は晩年期の始皇帝にその才能を寵愛されることになり、始皇帝の身辺の雑務を全てこなした。

皇帝の操り手
始皇帝の五度目の行幸にも参加するが、始皇帝が行幸中に病死すると、丞相の李斯を強引に抱き込み、その遺言を書き換えて、太子の扶蘇を自決に追い詰め、末子の胡亥を即位させる(沙丘の変(中国語版))。

この時、遺言には扶蘇が葬儀を取り仕切るよう記されていた。すなわち実質上の後継指名である。これもあり、即位することを胡亥は躊躇ったが、その説得の際に趙高が放った台詞が「断じて行えば鬼神もこれを避く」である。

そして、自ら郎中令(九卿の一。宮門をつかさどる)に就任し、胡亥を丸め込み、宮中に籠らせて贅沢三昧の生活をさせ、自らは代わって政務を取り仕切って実権を握った。胡亥の傀儡ぶりは著しく、丞相李斯ですら趙高の仲介なくしては胡亥に奏上も適わなかった程であった。

政策は基本的には始皇帝の方針を引き継いだが、皇帝の権威、即ち自らの権威を高めることに腐心し、阿房宮の大規模な増築を進め、人民に過重な労役を課す。

また、蒙恬と秦の公子将閭や2人の弟たち・公子高など有力者や敵対者を悉く冤罪で処刑した。これにより悪臣などが増え、政治に対する不平不満は増大、始皇帝在位時は豊富であった人材も枯渇することとなり、恐怖政治を敷いたことと合わせて趙高は大いに人民から恨みを買うことになった。

秦帝国の滅亡と趙高の最期
天下に満ちた怨嗟は、陳勝・呉広の乱の挙兵をきっかけに、枯野へ火を放ったように一気に全土での反乱として現れた。事態を憂慮し、対策と改革が必要と考えた李斯と、現状保持に拘る趙高は対立を深め、ついに趙高は胡亥に讒言して、李斯を腰斬で処刑させ、自分が後任の丞相となった。その間にも反乱は広がり、主力軍でもある名将章邯が項羽に敗れた際も、趙高は増援を送るどころか敗戦の責任をなすりつけようとしたため、章邯は項羽率いる楚に20万の兵と共に降伏し、秦帝国の崩壊は決定的となった。

その間も胡亥は何も知らされていなかったが、都である咸陽のすぐ近くにまで劉邦の軍勢が迫ると趙高はさすがに隠し切れぬと思い、胡亥を弑する計画を練った。この際に群臣が自分のいうことを聞くかどうかで、ある事を試みた。

趙高が宮中に「珍しい馬がおります」と鹿を連れてきた。 胡亥は「丞相はどうかしたのか、これは鹿ではないか」と言ったが、「これは馬です。君らはどう思うか?」と黙り込む群臣に聞いた。趙高の権勢を恐れる者は馬と言い、屈しない者は鹿と言った。趙高はその場はちょっとした余興ということで納めたが、後日、鹿だと答えた官吏を、軒並み捕らえて処刑した。このエピソードが「馬鹿」の由来の一説である故事成語『指鹿為馬・鹿を指して馬となす』である。

二世3年(紀元前207年)8月、趙高は反対者を粛清したのち、謀反して胡亥を弑逆した(望夷宮の変)。趙高は胡亥の死体から玉璽を奪って身に帯びて、秦の帝位(もしくは王位)につこうとしたが、側近や百官は趙高に従わなかった。趙高は殿上に登ろうとしたが、宮殿は三度も崩壊しようとした。趙高は天が自分に味方せず、自分が支配者になることを秦の群臣が許さないことを理解した。この時、劉邦軍と密かに内通を画策していたが、劉邦からは全く相手にされていなかった。

同年9月、胡亥の後継として、人望の厚い子嬰[2] に玉璽を授けて秦王として即位させ、全てを胡亥のせいにすることで自身への非難をかわそうとする。だが、趙高は彼を憎悪する子嬰と韓談らによって、子嬰の屋敷に呼び出されて殺害され、一族も皆殺しにされた。

死後
趙高の死より、秦国内は大いに士気が高まったが、時既に遅く、既に関中へ劉邦軍が入っており、咸陽の目前に迫っていた。子嬰は観念して降伏し、ついに秦は滅亡した。

『史記』以外での記述
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
趙正書
「趙正書」も参照
『史記』と同時期である北京大学所蔵の前漢代の竹簡資料の一つである『趙正書』によると、趙高が始皇帝の遺言を書き換えた沙丘の変に関しての記述はなく、始皇帝は自ら後継者を胡亥に選んだ上で死去したとされている。またその最期に関しての記述も史記とは異なっており、項羽に降った章邯によって殺されたと記述されている。

後世における評価
趙高は秦帝国を私物化し、保身のため忠臣賢臣を謀殺するに足らず皇帝をも殺し、天下万民からも恨みを買い、帝国滅亡の原因となったため、悪臣の象徴として後世でも引き合いに出されている。唐の太宗は趙高を後漢の少帝弁を弑逆した董卓と並べて非難している。また、梁啓超は趙高を後漢の十常侍、唐の李林甫、宋の蔡京・秦檜・韓侂冑、明の魏忠賢とともに非難している。

日本でも『平家物語』において、漢の王莽、南朝梁の朱异、唐の安禄山とともに趙高が引き合いに出され、天下を私した結果滅んだ例として紹介されている。

趙高非宦官説
ウィキソースに『史記』蒙恬列伝の原文があります。
『史記』蒙恬列伝には、「趙高の昆弟数人、皆隠宮に生まる。」という記述がある。この記述について、注釈書の『史記集解』[3]・『史記索隠』は、ともに「隠宮」を宦官のことと解釈している[4][5]。また、「隠宮」という語は秦始皇本紀にも見え[6]、『史記正義』はそれを宮刑のことと解している[7]。こうした『史記』の注釈書(三家注)から、趙高が宦官であったという理解が広まることとなった[8]。

しかし、滝川亀太郎『史記会注考証』は中井積徳の文を引き、趙高には閻楽という女婿がいることから[1]、生まれてすぐに宦官になったわけではないとしている[9]。そうであれば、秦に官吏として仕える途中で罪を犯したか、もしくは連座により宮刑に処せられたと思われる。また、趙高は貧家に生まれ、多くの兄を養うために自ら宦官を志願して秦に仕えたのだとする説もある。[要出典]

その後、新たに出土した竹簡史料を根拠に、そもそも趙高が宦官でなかったとする説が唱えられている。馬非百(中国語版)は蒙恬列伝の「隠宮」は「隠官」の誤写であると指摘している。「隠官」という語は睡虎地秦簡・里耶秦簡・張家山漢簡に見え、刑期が満了した人が働く場所、またはその身分をいう。つまり、趙高は宮刑や去勢を受けたわけではなく、宦官ではなかったということになる[8][10]。鶴間和幸は、『史記索隠』・『史記正義』が作られた唐代には宦官の政治的弊害が大きかったため、趙高が宦官と理解されたという見解を示している[8]。
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6:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/09 (Mon) 13:46:39

胡亥
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胡亥(こがい、拼音: Húhài)は、秦朝の第2代皇帝。帝号は二世皇帝。現代中国語では秦二世とも称される。姓は嬴(えい)、氏は趙(ちょう)。始皇帝の末子。


生涯

二世皇帝に即位
始皇帝の末子であり、始皇帝から寵愛を受けていた。

胡亥の年齢は、『史記』始皇本紀では、二世元年(紀元前209年)の皇帝即位の年に21歳であり、紀元前230年生とするが、『史記』始皇本紀に附された『秦記』では同年12歳であり、紀元前221年生としている。

始皇帝には二十数人男子がいたとされる[4] が、また、姚氏は隠士が遺した章邯の書物にある「李斯は17人の兄を廃して、(胡亥)を二世皇帝として、今の王として擁立した」とする記録から、始皇帝の18番目の男子であると推測している[5]。

始皇37年(紀元前210年)10月、父の始皇帝が5回目の巡幸に出た際、左丞相の李斯は始皇帝がお供となり、右丞相の馮去疾が留守を任された時、胡亥は巡幸のお供となることを願い、始皇帝に許され、巡幸に同行することになった。

巡幸中に始皇帝は発病し、ますます病は重くなった。そこで、胡亥の長兄にあたる公子の扶蘇へ、皇帝の印を捺した「(始皇帝の)喪を(秦の都である)咸陽で迎えて、葬儀を行え」という内容の文書を作り、与えることにした。皇帝の印が捺された文書は封印がされ、中車府の令(長官)であり、符璽(皇帝の印)を扱う事務を行う趙高のところにあり、まだ、使者には授けられていなかった。

同年7月、始皇帝は巡幸中に、沙丘の平台宮で崩御した。左丞相の李斯はこの知らせを秘密裏にし、すぐには発表しなかった。同時に宦官の趙高は胡亥にこの事を伝え、「扶蘇様が即位すれば、他の公子にはわずかな土地も与えられません」と告げた。胡亥は「父が決めた事に、私が何を口を挟むことがあろうか」と答えたが、趙高はさらに帝位の簒奪を促し、「殷の湯王や周の文王は主(夏の桀王・殷の紂王)を誅し、天下の人々は殷の湯王や周の文王の義を称えました。小事に拘って大事を蔑ろにすれば、後に害が及ぶものです。ためらえば必ず後悔することになります」と述べた 。度重なる訴えについに胡亥は趙高の謀略に同意し、その後趙高は宰相の李斯をも説得し、謀略に引き入れた[4]。3人は始皇帝の詔を偽って胡亥自身は皇太子に即位し、長男の扶蘇と将軍の蒙恬には使者を送り、始皇帝の筆と偽って多数の罪状を記した書状を渡して、両名に死を賜った。

書状を受け取った扶蘇はすぐに自殺したが、蒙恬はこれを疑って再度の勅命を要求した。胡亥は蒙恬を許すことを望んだが、趙高はかつて蒙恬の弟である蒙毅が、自身を法に基づいて死罪にしようとしていたことを恨んでいたため「先帝(始皇帝)は長らく優れていた胡亥様をこそ、太子に立てようと望んでおられました。しかしこれに蒙毅が反対していたため、実現に至らなかったのです。これは不忠にして、主君を惑わすものです。誅殺するに越したことはありません」と唆した。胡亥はこれを聞くと蒙恬・蒙毅を投獄した[6]。胡亥が咸陽に着くと、始皇帝の死を発表し、太子である胡亥は即位し、二世皇帝となった。

蒙恬・蒙毅の処刑
同年9月、始皇帝を驪山に葬った。胡亥は始皇帝の後宮の女官らを、全て始皇帝に殉死させた。また始皇帝の棺をすでに埋めた後で、「工匠たちは(始皇帝の墓の)機械をつくったので、全員が埋蔵されたものを知っています。埋蔵されたものは貴重であり、埋蔵したものが外に漏れたら、大ごとになります」という進言を受けて、墓の中門と外門を閉めて、埋蔵に従事した工匠たちを全て閉じ込めて、二度と出られないようにした。さらに、墓の上に草や木を植え、山のように見せかけた。

胡亥は趙高を側近として信任した。趙高は、蒙恬兄弟を中傷して、その罪過を探し、弾劾した。胡亥の兄[7] である子嬰は、蒙恬兄弟をいたずらに処罰することを諫めたが、胡亥は聞き入れなかった。

また、時期は不明ながらこの頃、胡亥は趙高を召して「私は耳目に心地良いものや心から楽しいと思うものを全て極めつくした上で、宗廟を安んじて、天下万人を楽にして、長く天下を保ち、天寿を終えたいと望んでいる。このようなことを可能にする手立てはあろうか?」と尋ねた。趙高は「法を厳しく、刑罰を過酷にして、一族を連座させ、大臣を滅ぼし、(胡亥の)親族を遠ざけて、陛下(胡亥)が新しく取り立てたものをお側に置けば、枕を高くして楽しみを得らえるでしょう」と答えた。胡亥は同意して、法律を改めて、群臣や公子に罪あるものがいれば、趙高に引き渡して、糾問させた[4]。

胡亥は蒙毅に使者を遣わして「先主(始皇帝)は、(胡亥を)太子に立てようとしたのに、卿は反対した。丞相(李斯)は、卿が不忠であるとみなしている。罪は、宗族に及ぶほどであるが、朕(胡亥)は忍びないので、卿に死を賜う(自殺すれば、罪は宗族に及ばないという意味)」と言い渡した。蒙毅は弁明の機会を要求したが、使者はこの言葉に耳を傾けず蒙毅を殺害した。続いて、胡亥は蒙毅の兄の蒙恬にも使者を遣わし、蒙毅の罪を糾弾した。蒙恬は胡亥への諫言の後に罰を受ける事を要請したが、使者は「私は詔を受けて、法を将軍に執行しようとしているだけです。将軍の言葉を上(胡亥)にお伝えすることはできません」と答えた。蒙恬は毒薬を飲んで自決した。

公子らの粛清
胡亥は法令の作成の職務を趙高に依頼しており、ある時「大臣は私に服しておらず、官吏はなお力を持っている。諸々の公子に及んでは、必ず私と争う気でいる。どうすればよいのか?」と尋ねた。趙高は「群臣に相談せずに大いに武力を振るってください」と促し、胡亥はこれを受けて大臣や諸々の公子の粛清を実行した。公子12人は咸陽の市場で処刑され、公主10人は杜(地名)において車裂の刑に処された上に市場で晒し者とされ、財産は朝廷に没収された[4]。公子の一人であった高などは逃亡しようとしたが、一族が連座するのを恐れ、自ら始皇帝への殉死を訴え出た[4]。

同年4月、胡亥は始皇帝の開始した阿房宮の工事の再開を命じ、「今、阿房宮が完成しないままに放置したら、先帝の行いを過ちであったと咎める所業である」と述べた。また郡県に物資や食料の上納を命じ、豆や穀物、まぐさを徴発して咸陽に運ばせたため、咸陽の周囲300里は収穫した穀物を食べることすらできなくなったという。また、法令や誅罰は日々厳しさを増していき、道路の工事や租税の取り立てがますます重くなり、兵役や労役は止むことがなかった[4]。

陳勝・呉広の乱
同年7月、秦の朝廷への大規模な農民反乱である陳勝・呉広の乱が、南方の楚にて勃発する。反乱を起こした陳勝たちは陳を制して張楚の王を名乗り、また国内各地に武将を派遣して秦の官軍の攻略を命じ、反乱には数え切れないほどの農民が参加した。

胡亥は使者から反乱の事実を伝えられたが、これに怒って使者を獄に繋いだ。その上で諸々の学者や博士を召して「楚の守備兵(陳勝・呉広たち)が蘄を攻略し、陳に侵入したようだ。君たちはどう見るか」と尋ねた。多くの者は「これは反乱ですので、すぐに軍を出して討伐してください」と答えたが、学者の一人であった叔孫通は「ただの盗賊や泥棒ですので、郡の守尉がすぐに捕らえるでしょう。心配に及びません」と回答した。胡亥は叔孫通の言葉に同意し、全ての学者に対して改めて「反乱と捉えるか、盗賊と捉えるか」と答えさせた。胡亥は「反乱である」と答えた学者を取り調べさせ、「言うべきではないことを言った」との理由で投獄した。胡亥は、叔孫通に絹20匹と衣一組を賜い、博士に昇進させた。官舎に帰った叔孫通は、「危うく虎口を脱しそこねるところだった」と話して、すぐに朝廷から逃亡したという[8]。

同年9月[9]、陳勝の配下である周文の軍が、戯において数十万の兵を率いて陣を布いた。ここに至って胡亥は驚きを露わにし、群臣に「どうすればいいのか?」と諮った。少府の章邯は「盗賊はすでに接近しており、今から近くの県から兵を徴発しても間に合いません。驪山には多くの囚人がいますので、彼らに武器を与えて盗賊を攻撃させてください」と提案し、胡亥は章邯を将に任じて、周文を攻撃させた。章邯は周文を打ち破り、周文は敗走した。二世二年(紀元前208年)11月、章邯は重ねて周文を攻撃し、周文は死亡した。

この頃から、丞相の李斯はしばしば胡亥を諫めようとしていたが、胡亥は李斯が諫めることを許さず、逆に「私には私の考えがある。古代の聖人君子であった堯・禹らは、衣食住を質素とし、捕虜よりも重いほどの労役を自ら行ったが、これは愚か者の行為であり、賢君の行為ではない。賢君とは天下を己の思い通りに治めるものであり、自分を満足させることさえできないのに、天下を治めることができるだろうか」[4]と反論した。李斯は保身のために忖度して「堯や禹のやり方は間違っていました。君主が独断専行を行い、厳しい刑罰を実行すれば、天下の人々は罪を犯す事はないでしょう。賢君は嫌う臣下を廃し、好きな臣下を取り立てるものです。仁義の人、諫言を行う臣、節に死ぬ烈士を遠ざけるべきです。臣下への統制が厳格なものとなれば、天下は富み、君主の快楽はさらに豊かなものになるでしょう」と上書したので、胡亥はこれに喜んだという[4]。以降、胡亥は臣下への圧迫・刑罰がますます厳しくなり、民から重い税を取り立てるものが優秀な役人とされた。また民衆の中にあっても刑罰に処されたものは国民の半数にも達し、処刑されたものは日々市に積み上げられたという[4]。

丞相・李斯の刑死
この頃[10]、胡亥は、趙高から「陛下は若くして皇帝に即位されたばかりであるため、陛下に過ちがあれば、群臣たちに短所を示すことになります。天子が『朕』と称するのは、「きざし」という意味ですから、群臣に声も聞かせないことです」という進言を受ける。これ以降、胡亥は常に禁中にこもり、大臣たちは趙高を介してしか対面できなくなった。

丞相の李斯はこの措置に不満を持ったが、趙高は表向き李斯に「胡亥を諫めてほしい」と伝え、胡亥が酒宴を行っている時に限って李斯に上殿を要請したため、胡亥は李斯が酒宴の時に限って訪ねてくることに憤りを漏らした。すると趙高は「李斯は故郷の近しい陳勝たちと内通し、君主位の簒奪を狙っています」と讒言した。これを聞いた胡亥は、李斯への取り調べを開始した[4]。李斯は上書して「趙高には謀反の志があります」と訴えたが、胡亥は「趙高は忠義によって昇進し、信義によって今の地位にあるのだ。趙高の人柄は清廉で忍耐力があり、下々の人情に通じている。朕は趙高をすぐれた人物と思っている。君も彼を疑ってはいけない」と趙高を擁護した。李斯はなおも「そうではありません。趙高は元々、賤しい出身であり、道理を知らず、欲望は飽くことは無く、利益を求めて止みません。その勢いは主君(胡亥)に次ぎ、その欲望はどこまでも求めていくでしょう。ですから、私が危険であると見なしているのです」[4]と処断を求めたが、胡亥は李斯が趙高を殺すことに恐れを抱き、趙高にこの頃を告げた。趙高は「私が しねば、丞相は秦を乗っ取るでしょう」と答え。胡亥は李斯の身柄を趙高に引き渡すよう命じた[4]。

この年の9月には、陳勝に代わって反乱軍の首領となっていた項梁が、章邯に敗れて戦死している[11]。これに時期を近くして[12]、右丞相の馮去疾・左丞相の李斯・将軍の馮劫は胡亥を諫め、「関東の群盗らは数多く、未だに決起は止むことはありません。これは民が兵役や労役で苦しみ、賦税が大きいからです。しばらく阿房宮の工事を中止して、四方の兵役や輸送の労役を減らしてください」と訴えた。しかし胡亥は「『(古代の聖人である)尭や舜の生活が質素であり、苦役を行った。天子が貴いのは、意のままにふるまい、欲望を極めつくして、法を厳しくすれば、民は罪を犯さず、天下を制御することができる。天子であるにも関わらず、質素な生活と苦役を行い、民に示した舜や禹は手本にすることはできない』と韓非子は言っている」と反論した上、「朕(胡亥)は帝位につきながら、その実がない。私は(皇帝・天子の)名にふさわしい存在となることを望んでいる。君たちは先帝(始皇帝)の功業が端緒についたことを見ていたであろう。朕が即位して2年の間、群盗は決起し、君たちはこれを治めることができなかった。また、先帝の行おうとしていた事業(阿房宮の工事など)を止めさせようと望んでいる。先帝の報いることもできず、さらに朕にも忠義と力を尽くしていない。どうして、その地位にいることができるのか?」と言って、馮去疾・李斯・馮劫を獄に下して、余罪を調べさせた。馮去疾と馮劫は自殺し、李斯は禁錮させられた。

胡亥は、趙高に、李斯の罪状を糾明して裁判することを命じ、李由の謀反にかかる罪状について、糾問させた。李斯の宗族や賓客は全て捕らえられた。胡亥は使者を派遣して、李斯の罪状を調べさせたところ、李斯は趙高の配下による拷問に耐えられず、罪状を認めてしまった。胡亥は、判決文の上奏を見て、喜んで言った。「趙君(趙高)がいなければ、丞相(李斯)にあざむかれるところであった」。胡亥が取り調べようとしていた三川郡守の李由は、使者が着いた時には、項梁配下であった項羽と劉邦と戦い、戦死した後であった。趙高は李斯の謀反にかかる供述をでっちあげた[11]。

李斯に五刑[13] を加え、咸陽の市場で腰斬するように判決が行われた。李斯の三族も皆殺しとなった[11][14]。

この頃[15]、王離(王翦の子の王賁の子)に命じて、趙を討伐させる。王離は趙歇・張耳らの籠る鉅鹿を包囲した[16]。

鹿を謂いて馬となす
二世三年(紀元前207年)、胡亥は李斯に代わって趙高を中丞相に任命し、諸事は大小に関わらず全て趙高が決裁することとなった。この頃、秦の将軍の章邯は、朝廷に背いて王を名乗った趙歇の居城・鉅鹿の包囲に向かっていたが、同年12月、楚軍を率いる項羽が趙を救援し、鉅鹿を囲む秦軍を大破して秦軍の包囲を解いた。魏・趙・斉・燕の諸侯の軍は項羽に属することになった(鉅鹿の戦い)。翌年1月には楚軍の項羽率いる諸侯連合軍により、秦の将軍で王翦(始皇帝の中華統一に貢献し、項羽の祖父の項燕を戦死させた)の孫の王離が捕らえられ、さらに同年3月には同じく楚軍の劉邦が秦将の趙賁・楊熊らを破った。楊熊は滎陽へ敗走したが、胡亥は使者を派遣し、楊熊を処刑して見せしめとした[17]。

同年4月、項羽率いる楚軍は章邯を攻め、章邯はしばしば退却を取ったため、胡亥は使者を派遣して章邯を叱責した。章邯は副将の司馬欣を首都咸陽に派遣して援軍を要請しようとしたが、司馬欣は趙高に捕縛され処刑されそうになったため、司馬欣は咸陽から逃げ出した。そのため最終的に、章邯は司馬欣の勧めもあって楚軍に降伏し、項羽によって章邯は雍王に封じられた(鉅鹿の戦い)。

この頃から、趙高は胡亥の弑殺を企むようになり、その前段階として群臣たちの思惑を問い質そうとした。そこで趙高は鹿を用意し、「馬です」と称して胡亥に献上した。胡亥は「鹿の事を馬だと言うとは、丞相は何を間違えたのだ」と笑って答えたが、胡亥が左右の群臣たちに問うと、ある者は沈黙し、ある者は趙高に阿り従って「馬です」と言い、ある者はその通りに「鹿です」と言った。趙高は「鹿です」と答えた諸々の者たちを、密かに処罰したとされる。これが、いわゆる「指鹿為馬(鹿を指して馬となす)」の故事となる出来事であった。

望夷宮の変とその後
詳細は「望夷宮の変」を参照
この頃胡亥は、1匹の白虎が自分の馬車を轢く左の馬を食い殺してしまう、という夢を見て不安を感じ、夢占いの博士と相談した後に、咸陽宮から涇水周辺にある望夷宮へと移った。その後も趙高による謀反の計画は進行し、そしてついに同年の某日、趙高の娘婿の閻楽が「宮中に賊が入った」と称して兵士たちを率いて宮中に押し入り、胡亥の寝所にまで押し寄せ、胡亥の罪状を数え上げて「あなたは無道な君主であり、天下の者は皆あなたに背いている。あなたは自裁するべきである」と言い渡した。

胡亥は「丞相(趙高)に会うことはできないのか」と尋ねたものの聞き入れられず、さらに「(位を退くから、せめて)郡王にしてくれないか」と求めたが、閻楽は同意しなかった。胡亥はなおも「(それならさらにせめて)万戸侯にしてくれないか」と臨んだが、閻楽はこれにも同意しなかった。そして最後に胡亥は、「妻子ともども、平民百姓としてでも良いから生かしてほしい」と懇願した。しかし閻楽は「私は丞相の命を受け、天下の百姓に代わってあなたを死刑に処す。あなたは多くを話したが、敢えて丞相に報告することはない」と語った。胡亥は生き延びられない事を知り、自害させられた。これが『史記』始皇本紀に記された、胡亥の死の顛末である(望夷宮の変)。

また『史記』李斯列伝に記述された異説として、上述の「指鹿為馬」の事件の後に、胡亥は自分の気がおかしくなったのではないかと考え、占い師と相談した上で上林苑(皇帝の苑)に入って毎日遊びや狩りに熱中しており、ある時上林苑の中に立ち入った者があったため、胡亥は自らその者を射殺した[4]。趙高は胡亥を諫めて「天子が理由もないのに、無辜の人を殺したとは、上帝(天帝)が禁じていることです。祖霊も祀りをうけいれず、天はいまにも(胡亥に)災いをくだすでしょう。遠く咸陽宮を避けて、御払いをなさるべきです」と告げたため、胡亥は皇居から出て、望夷宮へと移ったという経緯であったとされる[4]。そしてその3日後に、趙高は服喪である白い衣を着せてた衛士を率いて望夷宮に入り、胡亥に「山東の群盗の兵が大勢来ました!」と告げた。胡亥は楼の上に登り、入ってきた喪服の兵士たちを見て恐れ慄き、趙高に脅された胡亥は自ら命を絶った、という経緯であったと記されている[4]。

趙高は胡亥から皇帝の玉璽を奪い取ったが、百官が従わなかったため、胡亥の兄[7] である子嬰に玉璽を渡し[4]、同年9月に同年9月、子嬰は正式に秦王に即位する。胡亥は庶民の礼式のみを以て、杜南の宜春苑の中に葬られた。

後世の風説と逸話
始皇32年(紀元前215年)、始皇帝の巡遊中に、方士である燕人の盧生が人を遣わして、海より持ち帰り、鬼神の事を記したものとして『録図書』という書物を奏上してきた時、秦を滅ぼす者は胡なり」という一文が記されていた。始皇帝はこのため、将軍の蒙恬に命じ、30万の軍を出動させて、北の胡人(匈奴)を討伐させ、河南の地(オルドス地方)を奪い取った。

後漢の学者である鄭玄はこの事を指して、「『胡』とは胡亥、秦の二世皇帝の名である。秦(始皇帝)は図書(録図書)を見て、それが人名であるとは思わず、北の胡人に備えてしまったのだ」と論じている[18]。

また、胡亥が咸陽城を漆で塗ろうとしたところ、優旃(秦に仕えた小人の芸人。冗談が巧みだったと伝わる)が「漆を塗るのは容易ですが、乾燥室が作れません」と冗談めかして諫めたため、胡亥が笑って、中止したという逸話がある[19]。

前漢時代に記されたと見られる『趙正書』では、病気が重くなり死の淵にあった始皇帝(ただし、『趙正書』では皇帝に即位せず、秦王)が、李斯と馮去疾が胡亥を後継とすることを提案し、始皇帝の同意を受け、胡亥は正式に秦王として即位している。『趙正書』において、胡亥は子嬰や李斯の諫言を聞かず、李斯を処刑し、趙高を用いて、趙高に殺されている[20]。

評価
前漢の政治家である賈誼は、その著書『過秦論』の中で、胡亥を次のように評価している。

「秦の二世皇帝(胡亥)が即位すると、天下の人は全て彼の政治に期待を込めた。もし、二世が並みの君主の行いをして、始皇帝の(苛政による)過ちを正して、封建制にもどし、礼制度を整え、罪人を開放し、法や刑罰を緩くして、労役や税を軽くし、民を救済して、行いを修め、各々が身を慎めるようにすれば、天下の民心は帰服したであろう。しかし、二世は無道の政治を行い、阿房宮の建造を行い、刑罰を厳しくし、賞罰は不適当で、労役や税を重くし、民が困窮しているのに、救おうとしなかった。反乱が起きても、秦の君臣は責任のがれをし、刑死するものが多く、皇帝・官吏・庶民まで安心して暮らすことができなくなった。胡亥が皇帝に即位して天下を治めながら、殺戮されてしまったのは、始皇帝から続いた民心が安定しない政治を正すことを(正すどころか、より厳しい政治を行うことで)誤ったからである」。

また、後漢の歴史家である班固は、胡亥のことを「胡亥は極めて愚かだった。驪山や阿房宮の工事を行い、『天下を有するものが(天子)が貴いとされるのは、意のままにふるまい、欲望を極めつくすからである』と言った。大臣が始皇帝の事業を中止したいと望んだら、(諫めた)李斯と馮去疾を処刑し、趙高を信任した。(胡亥の言葉は)人の頭を持ちながら、獣の鳴き声(のようなもの)だ! 悪を重ねなければ、空しく滅びることもなかったろうに! 帝位にとどまることができない状況でも、残虐な所業を行い、滅亡の時期を早まらせた。要害の国にいても、なお存続はできなかったのだ」と評している[21]。

『趙正書』では、「胡亥は諫言を聞かなかったために、即位して4年で殺されて、(秦)国は滅びてしまった」と評している[22]。

鶴間和幸は「(上述した通り、胡亥が12歳で即位して、15歳で死去したことを前提として)暗愚で無能な皇帝という評価を下すには若すぎる。むしろけなげに父始皇帝のあとを見届けた少年皇帝であった」と評している[23]。

年齢・家族等に関しての研究
日本の歴史学者である鶴間和幸は「『史記』のなかで、胡亥自身が趙高に向かって「朕は年少で(略)」とこぼす場面があり、趙高も胡亥に「いま陛下は春秋に富んでいる」といい(略)。古代では十代やそれ以下の年齢で皇帝に即位したときには、臣下は皇帝に向かって年少というのをはばかり、「春秋に富む」という婉曲的な表現を用いた。前漢では(略)少年皇帝に使用された表現で、21歳の青年皇帝にいうものではなかった」とみなし、胡亥が12歳(紀元前221年)で即位したことを前提にして論じている[24]。
日本の歴史学者である藤田勝久は胡亥の母について「少なくとも扶蘇とはちがう母の生まれで、趙のバックアップを受けたことは間違いない。なぜなら趙高は、戦国趙の一族でもあったし、始皇帝が亡くなった沙丘の平台は、戦国趙の離宮だったからである。そこで沙丘の陰謀には、かつての趙の勢力が控えており、そのため李斯はどうすることもできなかったのであろう」と論じている[25]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E4%BA%A5
7:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/09 (Mon) 18:18:54

金髪碧眼の白人だった秦始皇帝はモンゴロイドの中国人や中国の文化・伝統を完全にバカにしていた


紀元前の中国にギリシャ人陶工? 兵馬俑の調査で新たな見解
2016年10月13日
https://www.bbc.com/japanese/37628254

ギリシャ人の職人が兵馬俑の制作現場で働いていた可能性がある画像
http://ichef.bbci.co.uk/news/660/cpsprodpb/358B/production/_91770731_soldiers_getty624.jpg

画像説明,
ギリシャ人の職人が兵馬俑の制作現場で働いていた可能性がある

古代中国・秦の始皇帝の陵墓近くで発掘された「兵馬俑」の調査で、マルコ・ポーロが中国を訪れた13世紀よりも1500年以上前に中国と西洋文明が接触していたことが示唆された。

考古学者たちによると、等身大の兵馬俑の陶製像が古代ギリシャから発想得ていた可能性がある。紀元前3世紀の中国で、ギリシャの職人が地元の労働者を指導していたかもしれないという。

「東方見聞録」を書いた13世紀のベネチア商人マルコ・ポーロの旅が、詳しい記録が残るものとして最初の西洋による中国訪問だと従来は言われてきた。

これに対して、秦始皇帝陵博物院の李秀珍研究員は、「シルクロードが正式に開かれる前に、中国最初の皇帝と西洋との間に緊密な連絡があった証拠がある。従来考えられていたよりもずっと早い時期だ」と語った。

別の研究では、ヨーロッパ人だけが持つ種類のミトコンドリアDNAが中国最西部の新疆ウイグル自治区で見つかっており、始皇帝よりも前の時代に西洋人が同地域に定住していた可能性が示唆されている。

始皇帝は紀元前259年に生まれ、210年に没した

画像
http://ichef.bbci.co.uk/news/624/cpsprodpb/D1CB/production/_91770735__wiki_pd.jpg

画像説明,
始皇帝は紀元前259年に生まれ、210年に没した

兵馬俑は1974年に、始皇帝の陵墓から約1.5キロ離れた場所で農業従事者によって発見された。

しかし、陵墓が築かれる前に実物大の陶製像を作る習慣はなかった。より古い時代の発掘品には、高さ20センチ程度の単純な形の像しかない。

技術や形態の大々的な変化は、どうやって可能になったのか。その理由を解明しようとするなかで、李研究員は中国の外から影響があったという考えに行き着いた。

李研究員は、「我々は現在、発掘現場で見つかった兵士や曲芸師の像、ブロンズ像は、古代ギリシャの彫刻と芸術の影響を受けたものだと考えている」と語った。

ウィーン大学のルーカス・ニッケル教授は、始皇帝陵墓で最近見つかった曲芸師の像が、古代ギリシャからの影響説を支持していると話す。

兵馬俑をめぐる研究はBBCのドキュメンタリー番組で紹介される予定だ
画像説明,
兵馬俑をめぐる研究はBBCのドキュメンタリー番組で紹介される予定だ

始皇帝は、アレクサンドロス大王の遠征によって中央アジアにもたらされたギリシャの彫像の影響を受けたとニッケル教授は考えている。アレクサンドロス大王は紀元前323年に没し、その約60年後に始皇帝は生まれている。

ニッケル教授は、「ギリシャの彫刻師が(兵馬俑を制作する)現場にいて地元の人を訓練していたのかもしれない」と話す。

このほか研究者らは、始皇帝の陵墓の規模が当初考えられていたよりも巨大で、エジプトの「王家の谷」にあるピラミッドの200倍以上ある可能性を示す新たな証拠を発見している。

また、始皇帝の後宮で高位にあったとみられる女性の体が切断された後の骨や、石弓の矢が食い込んだ男性の頭蓋骨などを発見している。

この頭蓋骨は、始皇帝の長男、扶蘇の頭だと考えられており、始皇帝の死後に起きた権力闘争で殺害されたとみられている。

(英語記事 Western contact with China began long before Marco Polo, experts say)

https://www.bbc.com/japanese/37628254
8:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/09 (Mon) 18:29:06

秦の始皇帝陵を造営の労働者、大半が「南方の少数民族」だった=人骨のDNA鑑定で判明―陝西省
Record China 2009年8月12日
https://www.recordchina.co.jp/b34307-s0-c30-d0000.html

写真は秦の始皇帝陵。
https://www.recordchina.co.jp/pics.php?id=34307


2009年8月11日、陝西省西安市郊外にある秦の始皇帝陵で発見された人骨のミトコンドリアDNAを鑑定した結果、陵墓建設に従事した労働者の多くは南方から駆り出された少数民族であることが分かった。中国新聞網が伝えた。

【その他の写真】

復旦大学生命科学院現代人類学研究センターの張君(ジャン・ジュン)研究員らのグループが現代中国人のミトコンドリアDNAと比較したところ、人骨の大半は中国南方の少数民族のものであることが分かった。漢族のものも含まれていたが、北方少数民族のものは発見されなかった。鑑定を行った121体は全て15歳〜45歳の男性で、平均年齢は24歳。死因は過酷な労働によるものと見られている。生き埋めや拷問の形跡はなかった。伝染病の可能性もあるという。

前漢時代の歴史家、司馬遷による「史記・秦始皇本紀」などの歴史書でも「始皇帝は即位後、全国の広い範囲から大量の人員を召集し、陵墓建設の労役につかせた」と書かれており、今回の鑑定結果はこれを裏付けるものとなった。

なお、ミトコンドリアDNA鑑定では母系をたどることしかできない。父系をたどることができるY染色体のDNA分析とあわせて検証することで、さらに詳しい出身地を特定することができるという。(翻訳・編集/NN)
https://www.recordchina.co.jp/b34307-s0-c30-d0000.html
9:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/09 (Mon) 18:33:59

秦国の成立と滅亡、秦の統一戦争も解説
2022年9月2日
https://rekishi-shizitsu.jp/shinnotouitsusensou/#:~:text=%E5%9B%A0%E3%81%BF%E3%81%AB%E3%80%81%E7%A7%A6%E3%81%AE%E6%BB%85%E4%BA%A1%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%96%E5%B9%B4%E3%81%AB%20%E5%8A%89%E9%82%A6%20%E3%81%AB%E7%A7%A6%E3%81%AE%E9%A6%96%E9%83%BD%E5%92%B8%E9%99%BD%E3%82%92%E8%90%BD%E3%81%A8%E3%81%95%E3%82%8C%E3%80%81,%E9%A0%85%E7%BE%BD%20%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8A%E7%A7%A6%E7%8E%8B%20%E5%AD%90%E5%AC%B0%20%E3%81%8C%E6%96%AC%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E4%BA%8B%E3%81%A7%E6%BB%85%E4%BA%A1%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82


秦の年表 主な出来事

紀元前771年 秦が諸侯として認められる
紀元前624年 西戎の覇者となる
紀元前356年 商鞅の改革が始まる
紀元前260年 長平の戦い
紀元前221年 秦の天下統一
紀元前206年 秦の滅亡


秦の統一戦争と言えば、春秋戦国時代の末期に始皇帝(嬴政)が、韓・魏・趙・楚・燕・斉を滅亡させた戦いを思い起こす人が多いかと思います。

しかし、自分の中では、秦の統一戦争といえば、春秋戦国時代の初期に、周の平王を洛陽に入れた、秦の襄公の時代に遡ると考えています。

始皇帝は確かに、6国を滅ぼして、天下統一しましたが、始皇帝が即位した当時は、既に他の6国は弱体化していたわけです。

始皇帝は、弱体化した諸侯を、秦の圧倒的な武力で統一したのであり、始皇帝一代で秦を強国にして統一戦争に勝利したわけではありません。

キングダムのファンはガッカリするかも知れませんが、嬴政(えいせい)は最後の一押しで統一したという事実を、覚えて欲しいなと考えて記事にしました。

尚、春秋戦国時代の地図を見ると、秦と楚はかなりの領域を抑えている様に思うかも知れません。

しかし、秦や楚は肥妖な中原の地から外れていますので、土地の広さの割には生産力がない場合も多かったようです。

逆に、韓や魏などは、中原の地を抑えている為、領土は狭くても生産力が高かったなども話しもあります。

日本で言えば、出羽国が奥羽山脈の西側を全て押さえているのに、30万石しかなく、尾張国は小さいのに60万石近くあったのと似ているのでしょう。

ここでは、秦がどの様に誕生し、統一戦争を成し遂げていったのか解説します。

因みに、秦の滅亡は紀元前206年に劉邦に秦の首都咸陽を落とされ、項羽により秦王子嬰が斬られた事で滅亡しました。


尚、画像は上記の動画を使っておりますが、夏王朝から秦の統一まで視覚的に分かる様になっております。


伝説の時代

史記の秦本紀によれば、秦の祖先は五帝に一人である、顓頊の子孫だとあります。

顓頊の孫には、女脩がおり機織りをして生計を立てていました。

玄鳥(つばめ)が卵を落として行ったので、女脩が飲み込むと妊娠し大業を生む事になります。

大業は小典の娘である女華を娶り、大費を生みます。

大費は帝瞬の時代であり、大費は夏王朝の始祖とも言える禹を助けた事で功績がありました。

瞬は大費に嬴氏の姓を賜うた話があります。

これが嬴氏の始まりとされています。

ただし、この頃の嬴氏は諸侯として君臨していたわけではありません。


殷の時代
嬴氏の祖先としては、殷の紂王に仕えた蜚廉と悪来は有名です。

蜚廉は足が速く、悪来は怪力無双の者だった話があります。

ただし、蜚廉と悪来は親子で讒言を好み、最後は周の武王により殺害されています。

尚、三国志で曹操に仕えた典韋は「悪来」の異名を取りますが、典韋の力が余りにも強かった事から悪来と呼ばれたわけです。

蜚廉も悪来も亡くなりますが、蜚廉には季勝なる子がおり、季勝の子である孟増は周の成王に気に入られた話があります。

西周王朝の時代
秦の先祖としては、周の穆王の時代に造父がいた事は有名です。

造父は馬を巧みに扱い周の穆王を助けた話があります。

周の穆王が持っていた名馬である穆王八駿とも関係しているのでしょう。

周の穆王の時代は、各地に遠征した話があり、徐の偃王の乱にも造父が御者として参加した記録があります。

尚、造父は秦の祖というだけではなく、戦国七雄に数えられた趙の子孫でもあります。

秦は焚書坑儒などを行いましたが、趙の歴史書は残り司馬遷が手にする事が出来た話しもあります。

造父から別れた趙の子孫としては、趙衰がおり、春秋五覇の一人に数えられる重耳に仕えた事で有名です。

因みに、西周時代に秦は「秦侯」となり、西戎らと激闘を繰り広げられていたとも考えられています。

造父の時代に、秦は飛躍したとも言えるでしょう。

秦の襄公が諸侯に認められる

(上記の勢力図は紀元前770年)

秦が正式に諸侯になったのは、周の幽王が犬戎に殺害されてからです。

周の幽王は、褒姒を喜ばすためにオオカミ少年と化し偽りの狼煙を上げ続け、諸侯の信頼を失い申公や犬戎に攻められて、驪山(りざん)の麓で殺されています。

この時に、周の幽王の子である宜臼(ぎきゅう)は、母方の実家である申にいました。

周王朝の首都である鎬京は、犬戎に壊滅されてしまったわけです。

申の国に晋、衛、鄭、魯、秦などの国々が集まり、宜臼を周の副都であった洛陽に入れる事にしました。

宜臼を洛陽に入れるための、連合軍の中に秦の襄公もいました。

秦は、周王朝の配下の諸侯の一人ではありましたが、西方の野蛮な民族とも見られていた歴史があります。

秦の襄公は、ここで陣頭に立ち敵を蹴散らし、宜臼を洛陽に入れるのに大活躍したわけです。

これにより秦は正式な諸侯として、周王に認められています。

宜臼は、周の平王となりますが、周王としての力はほとんどなく、諸侯の争いを止める力も、ほとんど持ちませんでした。

ここに春秋戦国時代が始まるわけです。

尚、正確に言えば、周の王子である余臣も携王を名乗り、二王朝並立時代にもなったわけです。

携王には虢(かく)などの諸侯が味方しています。

私は、秦の襄公が諸侯に認められた事が、秦の統一戦争の始まりだと考えています。

その後の、秦は徐々に領土を拡大していく事になります。

穆公が覇者となる

(上記の勢力図は紀元前624年)

春秋戦国時代になると、覇者と呼ばれる有力な諸侯が出て来ます。

斉の桓公、晋の文侯などが代表的な人物です。

春秋五覇と呼ばれる人たちの時代になるわけですが、春秋五覇は書物によって、メンバーが変わってしまい一概に、誰が春秋五覇のメンバーだとは言えない部分もあります。

しかし、斉の桓公と晋の文侯だけは、必ず春秋五覇に入ります。

春秋五覇の中に、秦の穆公が入る事もあります。

秦の穆公は、戎を討ったりして、秦の領土を大きく広げています。

さらに、晋の重耳を援助したりもしているわけです。

しかし、重耳(文公)が晋の君主をしている間は、歴史の主役は重耳に譲っています。

穆公は領土も大きく広げましたし、百里奚(ひゃくりけい)、由余などの賢臣も登用しました。

しかし、秦の穆公が亡くなると、殉死者が100人以上出てしまい、その中には有能な臣下も多く含まれていたわけです。

その事から、秦は弱体化してしまいました。

その後も、秦は代が変わるごとに殉死者が多く出た為に、強国に発展する事が出来ませんでした。

秦の統一戦争を全体で考えれば、殉死が多かった事は、秦にとっては不利になったはずです。

当たり前ですが、後に秦は殉死を禁じています。

商鞅と法治国家

(上記の勢力図は紀元前338年)

秦は、穆公以降は、中華の中でも目立たない存在でした。

強国ではあったようですが、晋が韓・魏・趙に分裂して戦国時代が始まると、魏に圧迫され始めます。

魏の文侯は、呉起を用いて、秦の河西の土地を奪っています。

戦国時代の初期は、魏が最も強勢で秦は、領土を奪われてしまったわけです。

しかし、秦の孝公の時代に、商鞅が宰相となると、大改革を行い法治国家へと生まれ変わらせています。

さらに、商鞅は将軍となり、詐術は使いましたが、魏に大勝しています。

魏は斉にも敗れたために、最強国の座から滑り落ち、これ以降は秦に領土を奪われていきます。

商鞅の法治主義の考え方が、秦に根付き強国となっていくわけです。

商鞅は孝公がなくなると、跡を継いだ恵王に殺されてしまいますが、商鞅が作った法律は継承される事になります。

商鞅の変法と呼ばれたりする事もありますが、秦を強国にするのに、大いに役立ったわけです。

商鞅の政治は、韓非子、李斯、嬴政(始皇帝)なども多いに参考になった事でしょう。

キングダムでは、嬴政が法律で国を治めると言っていますが、史実では200年以上前に、商鞅がそういう事をやっている事になります。

張儀と合従連衡
秦の恵王の時代に、張儀が宰相になっています。

張儀は、合従連衡で有名な人物で、連衡を説いたわけです。

張儀は、諸侯に土地を割かせて秦を豊かにしています。

さらに、キングダム(春秋戦国時代を題材に書かれた漫画)では秦の六将の一人になっている司馬錯が蜀の地を得るなど、着実に領土を広げたわけです。

張儀は、かなり詐術も使った人物で、楚の懐王は特に振り回されています。

尚、合従の祖である蘇秦は、張儀とライバルにされる事もありますが、時代が違っているなど指摘される事も少なくありません。

恵王の時代に活躍した張儀ですが、秦の武王が即位すると、讒言されてしまい魏に出奔しています。

遠交近攻と白起の快進撃

(上記の勢力図は紀元前257年)

秦の昭王の時代になると、前半は魏冄(ぎぜん)が宰相になっています。

この時代は、魏冄は白起を用いて、韓・魏・趙・楚などから大きく領土を奪っています。

秦の昭王の前半は、秦と斉の二強時代になっています。

秦と斉で東帝・西帝を名乗った事もありました。

しかし、斉の湣王(びんおう)は、燕の昭王の恨みを買い外交で孤立し、楽毅率いる燕・秦・韓・魏・趙の合従軍に敗れています。

斉は燕に奪われた領地を、斉将田単が回復していますが、国力が大きく落ちてしまい、これ以降は秦の一強時代に突入します。

尚、戦国時代の中期は、趙は武霊王がいて胡服騎射を取り入れたり、廉頗が武将として活躍したり、藺相如が外交で秦の昭王を圧倒するどもありました。

他にも、戦国四君である孟嘗君が秦を攻めて、函谷関を抜くなどもあった時代です。

諸子百家と呼ばれる遊説家がいて、合従連衡など様々な説を言う人がいた時代でもあります。

秦の昭王の中期以降になると、范雎が宰相となり、遠交近攻を秦の基本戦略としています。

近隣の国を攻めて、遠くの国と同盟を結ぶ戦略です。

遠くの国と交わる事で、攻撃中の国の後方を脅かしてもらい、戦力を分散させる方向に秦はシフトしていきました。

范雎が宰相になっても、引き続き白起は将軍を続けています。

白起は、趙の趙括を長平の戦いで破り、趙兵40万を生き埋めにしてしまいました。

この後に、范雎が趙と講和を結んだ事で、白起と范雎は不和になっています。

秦の将軍である王齕が、趙の都邯鄲を囲み趙は滅亡寸前まで行きましたが、魏の信陵君、楚の春申君の援軍により、撤退を余儀なくされています。

尚、范雎ですが、自分が推挙した鄭安平や王稽が失敗した事で、宰相の印綬を秦の昭王に返す事になりました。

余談ですが、秦の昭王の後期に、周王朝を摎(きょう)が滅ぼしました。

これにより700年続いた周王朝が滅亡したわけです。

秦の昭王が亡くなると、秦の孝文王が即位しますが、服喪後に僅か3日で亡くなり、荘襄王が即位し、荘襄王も3年で亡くなっています。

荘襄王が死去した後に、秦王になったのが嬴政であり、後の始皇帝です。

秦王政(嬴政)が即位
秦王政(嬴政)は、即位しますが、子供だった事もあり政治は呂不韋が取り仕切っています。

呂不韋は、商人でしたが、荘襄王(嬴政の父親)を即位させるのに、絶大な功績があったからです。

この時代になると、戦国七雄と言っても、秦だけが圧倒的に強く、残りの六国は弱小国となっています。

嬴政は、嫪毐の乱などの内戦もありましたが、呂不韋が失脚し、国内がまとまると天下統一に邁進を始めています。

戦国四君の最後の一人である春申君は、合従軍(楚・趙・韓・魏・燕)を率いて、秦を攻めますが、函谷関の戦いで撃退されています。

同様に、龐煖(ほうけん)も蕞を攻めていますが、落とす事が出来ずに撤退しています。

春申君の函谷関の戦いも龐煖の蕞の戦いも結果を見れば失敗に終わった事になるのでしょう。

これが最後の合従軍であり、これ以降は秦が六国の領土を奪う為の戦いとなり、他国は次々に領地を奪い取られていくわけです。

この時代になると、秦に対抗できる将軍は、趙の李牧と楚の項燕位しかいませんでした。

韓が滅亡

(上記の勢力図は紀元前231年)

戦国七雄の中で、最初に滅亡したのが韓です。

秦の国費を戦争に向かわせないために、鄭国などの技術者を秦に入れた話などもあります。

韓の末期は秦の属国状態でもあり、秦に対して奉仕しなければ、いけない立場でした。

しかし、奉仕するにもお金がなくて、韓王の後宮の美女たちを全て、秦に売り払い、そのお金で秦に奉仕した話が残っています。

ただし、後宮の美女たちは、韓に売られた事で恨みを持ち、秦に対して韓を悪く言った話も残っています。

韓非子が法治国家に改革するように、韓王に進言しますが却下されています。

ただし、秦王政は韓非子が書いた書物を見ると大いに気に入り、策略を用いて韓非子を秦に連れてきました。

秦王政は韓非子を気に入り、国を任せようともしましたが、同門の李斯により毒薬自殺しています。

韓非子が死に3年後に、秦の内史騰が韓を攻めて、新鄭が陥落し滅亡しています。

その後に、韓の元貴族たちが、新鄭で反乱を起こしましたが、鎮圧されています。

韓の貴族が反乱を起こした年に、昌文君が死に、昌平君が出奔しているわけです。

韓の貴族の反乱と何かしら関係している可能性もあるでしょう。

尚、韓の宰相をしていた家から、張良が出ています。

張良は、陳平と共に漢の高祖劉邦の軍師となり、秦を滅ぼすのに大いに活躍しています。

余談ですが、張良、蕭何、韓信の三人が漢の劉邦の天下統一に最も役立った臣下となり、漢の三傑と呼ばれる事もあります。

趙の滅亡
秦は韓を滅ぼすと、ターゲットを趙に向けます。

趙は武霊王の頃がピークでしたが、恵文王の頃には廉頗、藺相如、趙奢、田単、楽毅などの優れた人材が多くいました。

他国のS級の優秀な人材も、趙に集まって来たような状態です。

しかし、孝成王の時代に長平の戦いで、白起に大敗し40万が生き埋めにされて国力を大きく落としました。

都である邯鄲も囲まれていますが、平原君などの活躍により凌いでいます。

趙の悼襄王の時代に、鄴(ぎょう)を秦に落とされてしまい、国土は大きく縮小しています。

ただし、趙には名将李牧がいて、桓騎(かんき)を破るなどの活躍もあったわけです。

李牧は宜安の戦い、肥下の戦い、番吾の戦いで秦軍を相手に連勝し、秦の首脳部を大いに悩ませる事になります。

その後、秦の王翦(おうせん)、楊端和(ようたんわ)、羌瘣(きょうかい)らが趙を攻めています。

趙の幽穆王は、秦軍を何度も破った、李牧と司馬尚に防がせています。

しかし、秦は幽穆王の寵臣である郭開を買収して、李牧と司馬尚が謀反を企んでいると、幽穆王に讒言したわけです。

これにより李牧は、幽穆王に殺されてしまい、司馬尚は庶民に落とされています。

代わりに、幽穆王は趙葱と顔聚を将軍に任命しますが、王翦に敗れて趙の都邯鄲は陥落しました。

ただし、趙嘉が代に逃れて、代王嘉となっています。

代も燕と共闘しましたが、燕が滅びた紀元前222年に滅ぼされています。

魏の滅亡

(上記の勢力図は紀元前227年の段階)

魏は、荘襄王の末年に、信陵君が魏・趙・韓・楚・燕の合従軍を率いて、黄河の外で秦の蒙驁(もうごう)を破っています。

信陵君がいれば、秦は天下統一など出来ないと考えて、魏の安釐王(あんきおう)と信陵君の離間策を取っています。

離間策が功を奏し、安釐王は信陵君を上将軍から解任してしまいました。

その後、信陵君が酒浸りで亡くなってしまうと、蒙驁に命じて魏の東部を奪っています。

この時に、秦は東郡を設置し、秦の領土は西の斉と隣接するまでになったとされています。

これにより魏は、秦に対抗できる要素を失ってしまうわけです。

その後、次々に領土を奪われて、最後は王賁(おうほん)が魏の首都である大梁を水攻めで落としています。

魏王仮が降伏した事で、魏は滅亡しました。

尚、秦末期に秦に背いた「魏咎、魏豹」は、魏の王族の子孫です。

さらに、漢の文帝(劉邦の子)の母親である薄太后は、魏王家の出身だと言われています。

楚の滅亡

(上記は紀元前223年の勢力図)

楚は、春秋時代からの大国です。

春秋五覇にも数えられる、楚の荘王の時代は中華で最強の国でした。

しかし、戦国時代に入ると、貴族の数が多かったり、国として統制が取れなかったようです。

魏から呉起が亡命してくると、楚の悼王は宰相に任じています。

呉起は、楚を改革して強国に変えようとします。

楚を法治国家にしようとしたわけです。

さらに、自らは将軍となり他国の領土を奪ったりもしています。

しかし、悼王が亡くなると、呉起は楚の貴族たちに殺されてしまいました。

秦は商鞅が死んでも、法律は残りましたが、楚は呉起が亡くなると、呉起の作った法律も消えてしまう事になります。

これにより楚は振るわなくなってしまったと言われています。

その後は、楚の懐王が張儀に騙されたり、頃襄王の時代に首都である郢を秦の白起により陥落されています。

孝烈王の時代に、春申君が宰相となり、一時的に復興した話もありますが、合従軍を率いて函谷関で破れると、孝烈王からも疎まれる様になりました。

孝烈王が亡くなった時に、春申君はかつて、食客であった李園に暗殺されています。

秦の李信と蒙恬が攻め込んでくると、項燕が将軍となり一度は破っています。

しかし、秦の王翦と蒙武が、60万の軍勢を引き連れて攻めてくると、項燕は王翦の策に嵌り大敗を喫しました。

項燕は、かつて秦にいて頭角を現した昌平君を楚王とし、抵抗しますが、王翦や蒙武を防ぐことは出来ませんでした。

これにより楚は、滅亡しています。

この時代は燕や斉は弱小国ですから、楚が滅亡した時点で、秦の統一は確実となりました。

秦の統一戦争も完全に終わりが見えて来た状態です。

ただし、秦の人々は楚にかなり恨まれるような事をしてしまったようで、「楚が三家になろうと、秦を滅ぼすのは楚なり」と言ったとされています。

実際に、秦が滅亡のきっかけとなる陳勝呉広の乱の陳勝や呉広は楚人ですし、漢帝国を作った劉邦も楚人です。

さらに、秦を滅ぼした項羽は、項燕の孫ですし、本当に秦を滅ぼしたのが楚となりました。

ただし、「秦を滅ぼすのは楚なり」は、後付けの話と言う説もあります。

燕の滅亡
燕は昭王の時代がピークでした。

名将楽毅の活躍で、斉を壊滅状態にしてしまったわけです。

しかし、楽毅が斉を滅ぼす直前で、燕の昭王が亡くなってしまい、恵王が即位します。

恵王は楽毅を嫌っていた事もあり、騎劫(きごう)に将軍を変えようとしました。

楽毅は身に危険を覚えて、趙に亡命しました。

その後、斉の田単が燕に攻勢をかけ、楽毅が奪った城を全て奪い返しています。

燕の恵王は、公孫操により暗殺されてしまい、武成王や孝王が続きますが、実績もよく分かっていません。

燕王喜の代になると、宰相の栗腹の進言により60万の大軍で趙を攻めますが、廉頗により大敗しました。

さらに、廉頗に燕の国都である薊を囲まれたり、散々な目にあっています。

後にも、李牧や龐煖に攻められた記述もあります。

嬴政(秦王)と燕の太子丹は、趙に人質時代に共に遊んだ仲だったのですが、太子丹が秦に人質に行くと嬴政は冷遇します。

これを恨みに思った太子丹は、勝手に帰国してしまいました。

その後、秦は趙を滅ぼすわけですが、秦の危害が燕に加わると恐れた太子丹は、荊軻を刺客とし、嬴政に送り付けたわけです。

荊軻は刺客となりますが、失敗して秦で命を落としています。

この話は、史記の刺客列伝にもあるお話です。

怒った嬴政は、大軍を燕に送り付けて滅ぼしているわけです。

最後は、遼東に逃亡した燕王喜を捕らえて燕を滅亡させました。

これが紀元前222年の話です。

これにより、秦は中国の北東も支配下に置き、秦の統一戦争は、あと一歩となったわけです。

残っている国は、斉しかありません。

斉の滅亡

斉は秦と友好を結び合従軍にも加わらなかった事で、他国に比べると平和でした。

キングダムでは、斉王建と秦王政の間で、秦斉秘密同盟があった事になっています。

しかし、実際に秦斉同盟があったのかは、史実に書いてないので分かりません。

司馬遷が書いた史記によると、秦が燕を滅ぼすと、斉は秦との連絡を絶ったと言う事になっています。

李信、蒙恬、王賁の3人が斉に攻め込むと、戦わずに降伏したようです。

特に抵抗する事もなく、斉は滅亡したとされています。

これにより、秦の統一戦争は完結したわけです。

秦は統一後わずか15年で滅亡

秦は6国を併合すると、秦王政(嬴政)は始皇帝となります。

中華が一つの国になった事で、始皇帝は六国でバラバラであった文字を小篆で統一しました。

他にも、度量衡の統一などを行い政治を円滑に行おうとしたのでしょう。

始皇帝は李斯を宰相として任じ、宦官の趙高なども可愛がっていたようです。

ただし、始皇帝は統一後も、法令を緩める事はなく、過酷な政治を行う事になります。

蒙恬に命じて万里の長城を作ったり、北方の匈奴に30万の大軍を送り打ち破っています。

さらに、阿房宮を作り人民を酷使したとされています。

それを諫めた長男の扶蘇は、北方の蒙恬の所に行かされる事になりました。

始皇帝は不老不死に憧れたりしたり、焚書坑儒を行うなど、暴走を始める事になります。

始皇帝も50歳を超えると体調が悪くなりますが、巡幸に向かい、その道中で崩御しています。

始皇帝は長男である扶蘇を、後継者にしようとします。

しかし、趙高、李斯、胡亥が結託して、偽書を作り胡亥が跡継ぎとなりました。

胡亥は二世皇帝になりますが、政治は趙高に任せっきりにして、自分は遊び惚けていたとされています。

趙高が秦の重臣の粛清を始めて、蒙恬、蒙毅、李斯などを誅しています。

さらに、秦の公子たちも殺害を始めて、趙高に逆らえる人物はいなくなったわけです。

しかし、始皇帝死後に陳勝呉広が反乱を起こすと、秦の政治に反発した者たちが次々と反乱を起こします。

鎮圧の為に、秦の章邯(しょうかん)が囚人兵を率いて、反乱軍を大いに破ります。

しかし、張耳や陳余がいる鉅鹿の戦いで、王離(王翦の孫)が、項羽に敗れると流れが完全に変わります。

その頃、秦の方では趙高が二世皇帝を殺害し、子嬰(しえい)を王位に就けようとしていました。

子嬰は、趙高をおびき出して誅殺しています。

子嬰は皇帝は名乗らずに、秦王を名乗りますが、時すでに遅く劉邦に武関を破られて降伏しています。

さらに、項羽が到着すると子嬰を処刑して、これにより秦は滅亡したわけです。

秦は天下統一後に、わずか15年で滅亡しました。

始皇帝が死んでからは、わずか4年で滅んだわけです。

それを考えれば、500年にも及ぶ秦の統一戦争は何だったんだ?となってしまいますが、これが史実だと言えます。

秦の統一戦争は時間が掛かりましたが、滅びるのは呆気なかったと言えるでしょう。

趙高が秦の蒙恬や李斯、蒙毅、公子たちを皆殺しにした事で、骨のある臣下がいなくなり、秦は滅亡を早めたと言えるでしょう。

戦国時代末期には、圧倒的な強さを誇っていた秦ですが、腐敗した秦では話にならなかったようです。

これが秦の統一戦争と滅亡の全貌となります。
https://rekishi-shizitsu.jp/shinnotouitsusensou/#:~:text=%E5%9B%A0%E3%81%BF%E3%81%AB%E3%80%81%E7%A7%A6%E3%81%AE%E6%BB%85%E4%BA%A1%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%96%E5%B9%B4%E3%81%AB%20%E5%8A%89%E9%82%A6%20%E3%81%AB%E7%A7%A6%E3%81%AE%E9%A6%96%E9%83%BD%E5%92%B8%E9%99%BD%E3%82%92%E8%90%BD%E3%81%A8%E3%81%95%E3%82%8C%E3%80%81,%E9%A0%85%E7%BE%BD%20%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8A%E7%A7%A6%E7%8E%8B%20%E5%AD%90%E5%AC%B0%20%E3%81%8C%E6%96%AC%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E4%BA%8B%E3%81%A7%E6%BB%85%E4%BA%A1%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
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11:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/10 (Tue) 14:47:53

秦の始皇帝(嬴政、秦王政)は、天下統一するも、最後は水銀を飲んで死亡!?
2022年12月11日
https://rekishi-shizitsu.jp/shikoutei/


秦の始皇帝(嬴政、秦王政)は、秦の統一戦争を完了させ、戦国七雄の国々を滅ぼして天下統一を成し遂げた人物です。

西周王朝が崩壊して以来、中華は春秋戦国時代に突入し、諸侯同士が争う時代に突入しました。

諸侯は合従連衡を繰り返しながらも淘汰されて行き、最後に天下統一したのが秦となります。

中華の地では、途中で春秋五覇と呼ばれる覇者が現れるなどもありましたが、500年以上続いた混乱を収束させたのが、秦の始皇帝だと言えるでしょう。

始皇帝の名前は「嬴政」であり、秦王政と呼ばれたりする場合もあります。

始皇帝の最後は、水銀を飲んで亡くなったとも考えられています。

ここでは秦王になる前を嬴政と呼び、秦王になってからは秦王政、皇帝に即位してからは始皇帝と呼ぶようにします。

始皇帝(嬴政)は原泰久さんが描く漫画キングダムで話題になった事で、知名度は急上昇しているはずです。

ここでは、史実と考えられる司馬遷が書いた史記をベースにして、様々な資料から話を進めていきます。


嬴政が生まれる前の秦

嬴政が即位する前の秦ですが、既に戦国七雄の他国を圧倒していた状態です。

秦は戦国時代初期に、秦の孝公が商鞅の変法を行い国内改革をしました。

商鞅は秦の恵文王の時代に、処刑されますが、その後も張儀、樗里疾、甘茂など名宰相が続いたわけです。

秦は恵文王、武王、昭王と続きますが名宰相が輩出される事になります。

秦の昭王の時代になると、魏冄や范雎などが宰相となり、将軍の白起が他国の兵を圧倒し、秦は大きく領土を拡げる事になります。

特に白起が趙の趙括を破り、40万の兵士を生き埋めにした長平の戦いは、圧巻だったわけです。

長平の戦いの翌年に、秦の王齕、王陵、鄭安平などが、趙の首都邯鄲を囲む事になります。

趙は苦しい立場となりますが、この邯鄲の城内で生まれたのが嬴政であり、後の始皇帝です。


嬴政の誕生
嬴政の父親は異人(後の荘襄王)であり、趙に人質に行っていたわけです。

異人は人質でしたが、容赦なく秦が趙を攻撃するため、趙からは人質に役目を果たさない異人を冷遇していました。

異人の人質は名ばかりで、実際には捨て駒の様な存在でした。

秦の王族にも関わらず、貧しい生活を送る異人に呂不韋が目を付け、秦の昭王の太子である安国君(嬴政の祖父)が寵愛する華陽夫人に異人を売り込んだわけです。

華陽夫人は、子が出来ない悩みがあった事で、異人を養子として認め、安国君は異人を後継者に指名する事になります。

呂不韋は邯鄲に戻りますが、異人が呂不韋の妾である趙姫を気に入り、呂不韋に譲って欲しいと言います。

呂不韋は苛立ちますが、ここで怒っては、今までの計画が台無しになる為、異人に趙姫を譲る事にします。

呂不韋が異人に趙姫を譲り12カ月後に誕生したのが、嬴政です。

尚、史記の呂不韋伝によれば、呂不韋が異人に趙姫を譲った時に、既にお腹に子があった事が記述されており、これが本当であれば始皇帝は呂不韋の子となるでしょう。

ただし、これらの事は世間の噂に過ぎないとも言われています。

因みに、嬴政は当時の暦だと1月1日の正月に生まれた事で、正月に因んで「正」が本当の名前だとする説も最近では有力になっています。

史記の始皇本紀では、正月に生まれたから「政」とした記録もあるわけです。

秦は氏が嬴で、氏が趙である事から、始皇帝は趙正であり、趙正書なる書物も発見されています。

趙で虐められる
邯鄲が趙に囲まれた時に、呂不韋の手引きにより父親の異人は、秦軍に逃げ込み邯鄲城内から脱出しています。

しかし、趙姫と嬴政は趙の首都の邯鄲に残り、異人だけが秦の咸陽に向かう事になったわけです。

趙姫と嬴政は趙の人々に殺されそうになりますが、趙姫の実家が豪家だった事で、難を逃れる事が出来ました。

異人は咸陽に到着すると、正式に華陽夫人の養子となり、秦の太子の後継者として認められる事になります。

異人が秦の後継者になった事で、秦は趙に仕送りをした事で、趙姫や嬴政の生活が楽になった話があります。

嬴政は、趙では虐められていた話しもあり、後年に邯鄲を占領した時の行動を見る限りでは、恨みを抱いていたのでしょう。

嬴政を虐めた趙の人々は、秦王となった嬴政に復讐される事になります。

因みに、人質生活の時に燕の太子丹も趙にいた話があり、嬴政と太子丹は一緒に遊んだ仲だった話があります。

燕の太子丹は義侠心を感じる部分もあり、嬴政に対して虐めたりはしなかった様に思います。

秦に戻る
秦では56年間も秦王を務めた昭王が紀元前251年に亡くなる事になります。

秦では安国君が即位し孝文王となったわけです。

孝文王が即位すると、華陽夫人の養子である子楚(異人)が正式に太子となります。

子楚が太子になった事で、秦は趙姫と嬴政を丁重に扱い秦に送り返しています。

これにより趙姫と嬴政は秦の首都である咸陽で暮らす事が出来る様になりました。

嬴政が太子となる
孝文王は服喪期間が終わると、僅か3日で亡くなってしまい、子楚が秦王に即位し荘襄王になっています。

荘襄王は即位すると、養母の華陽夫人を華陽太后、生母の夏姫を夏太后とし、呂不韋を宰相に任命しています。

さらに、嬴政を太子に指名し自らの後継者にしたわけです。

荘襄王から太子に指名された事で、嬴政は秦王の座が約束された事になります。

尚、嬴政の弟に成蟜がいますが、腹違いの弟だと言われています。

因みに、李斯列伝では、秦の最後の王である子嬰も始皇帝の弟になっています。

ただし、子嬰に関しては史記の始皇本紀や六国年表では、胡亥の兄の子と記述があります。

呂不韋の宰相時代
嬴政は秦王となりますが、子供であった為に呂不韋が政治を行う事になります。

秦王に即位
嬴政の父親である荘襄王は、紀元前247年に死去する事になります。

荘襄王が秦王だった期間は、3年ほどしかありません。

太子であった嬴政が秦王に即位しますが、僅か13才の子供だったわけです。

13才の子供に政治が出来るはずもなく、荘襄王の時代に続き呂不韋が宰相として政治を行う事になります。

秦王政(嬴政)は呂不韋の事を仲父と呼んだ話があります。

尚、嬴政が秦王になった時には、既に周王朝を滅ぼし、戦国七雄の国々を圧倒する国力があり、大きなミスをしなければ天下統一出来る様な状態でもありました。

それを考えると、嬴政は非常に良い時期に秦王に即位する事が出来たと言えるでしょう。

諸侯に侵攻する
秦王政は即位すると蒙驁、麃公、王齮らを将軍に任命した記述があります。

正確に言えば呂不韋が先代からの功臣である蒙驁、麃公、王齮らを引き続き重用したと言う事なのでしょう。

秦王政が即位した時に、晋陽で反乱が起きますが、蒙驁が鎮圧しました。

さらに、秦王政の2年には麃公が巻(地名)を攻めて3万人を斬り、秦王政の3年には蒙驁が韓を攻めて12の城を奪った記述があります。

王齮の活躍は不明ですが、秦は順調に他国を侵略し、領土を拡げて行ったわけです。

さらに、蒙驁が魏を攻めて20城を奪い東郡を設置する事になります。

東郡を設置した事で、秦と斉は国境を接し、合従の同盟を南北に分断した話があります。


この様に秦王政の即位当初は、順調すぎる程に領土を拡大していった事になります。

合従軍の逆襲
秦に次々に領土を奪われた諸侯(楚、趙、魏、燕、韓)らが団結し、紀元前241年に合従軍で秦を攻める事になります。

合従軍は楚の春申君と趙の龐煖が中心となり結成されています。

この合従軍が秦の統一戦争において、最大のピンチとなります。

合従軍は軍隊を二つに分けて、春申君が函谷関を攻撃し、龐煖が合従軍の精鋭を率いて蕞を攻撃した話があります。

蕞の位置が秦の咸陽から近い場所にある事で、春申君の軍は函谷関に出陣し囮となり、その間に龐煖が秦の首都である咸陽を落とす作戦だった様に思います。

しかし、函谷関の戦いでは春申君が敗れ去り、蕞の戦いは秦の奥深くで孤立する事を恐れた龐煖が撤退する事で、秦軍は合従軍を撃退する事に成功しました。

尚、合従軍が寿陵を占拠した話があり、寿陵は王様が生前から立て始めた自分のお墓を指す言葉である事から、龐煖は現在の始皇帝陵や兵馬俑の辺りを占拠した様に思います。


上記の地図を見れば分かりますが、1日で咸陽に到着する位置まで、龐煖は兵を進めていた事となり、合従軍は秦王政に取ってみれば最大のピンチだったとも言えるでしょう。

戦国時代は、蘇秦、孟嘗君、信陵君、楽毅なども合従軍を組織していますが、紀元前241年の合従軍戦が最後の合従軍となり、戦いに勝利した秦は天下統一を決定づけた様にも感じます。

尚、始皇本紀には、合従軍戦の後に春申君が失脚し、衛君角が野王に移った記述があります。

秦が東郡を完全に占拠した事の表れでもあるのでしょう。

成蟜の乱
紀元前239年(秦王政8年)に、秦王政の弟である長安君成蟜が、趙を攻撃する事になります。

しかし、成蟜は趙の屯留の民を使い、秦に対して反旗を翻しました。

これが成蟜の乱です。

秦王政は反乱を起こした成蟜に軍を向けると、成蟜を討ち取る事に成功しています。

尚、成蟜との戦いで、将軍の璧が亡くなった話も残っています。

弟である成蟜を秦王政は、どの様な気持ちで討ったのかは謎です。

呂不韋の失脚
秦で政治を行っていた呂不韋ですが、嫪毐と連座して失脚する事になります。

これにより秦王政の親政が始まる事になります。

嫪毐の乱
秦王政の母親である趙姫は、元は呂不韋の妾だったわけです。

荘襄王の死後に、呂不韋と趙姫の関係は復活し、肉体関係を持ったとされています。

しかし、趙姫は秦王の母親であり、呂不韋は秦の宰相で二人の関係は問題行動だったわけです。

呂不韋は趙姫との関係を清算したいと思い、巨根の嫪毐を宦官として後宮に入れる事になります。

ただし、嫪毐は去勢をせずに、偽の宦官として後宮に入りました。

趙姫は嫪毐に夢中となり、嫪毐は長信侯に任命され、さらには嫪国まで建国しています。

嫪毐は趙姫に気に入られた事で、呂不韋にも匹敵するほどの権勢を得る事になったわけです。

しかし、嫪毐が偽の宦官だと告発する者がおり、追い詰められた嫪毐は謀反を起こす事になります。

秦王政は昌平君と昌文君に嫪毐を鎮圧する様に命令し、嫪毐の軍を大いに破りました。

この戦いで昌平君や昌文君の采配が冴えわたったのか、嫪毐の兵士を数百人斬った話もあります。

尚、嫪毐との戦いで秦王政に味方した者は、厚い恩賞が送られ、宦官であっても従軍した者には、爵1級を与えた話があります。

嫪毐の乱は、秦王政の信賞必罰を徹底させた戦いとも言えるでしょう。

呂不韋を追放
嫪毐は車裂きの刑により処刑し、宗族は皆殺しの上で晒し首にされました。

しかし、嫪毐を後宮に送り込んだのは、呂不韋であり問題となります。

呂不韋は宰相を辞任させられ、河南の領地に移されますが、最後は秦王政の命令により、紀元前235年に蜀に移され、途中で服毒自殺により命を落としています。

尚、呂不韋は秦王政の下記の言葉で自殺を決意したともされています。

「君は秦においてどの様な功績があり、河南に10万戸の領地を得たのか。

秦において、どの様な血縁があり、仲父と称するのか。其方は蜀に移る様にせよ。」

呂不韋がいなければ、秦王政の父親である荘襄王は、秦王になれませんでしたし、嬴政も秦王に即位する事は出来なかったでしょう。

呂不韋の功績は小さくはないのに、秦王政の冷酷さを物語っている話とも言えます。

ただし、呂不韋の権力の大きさと、呂不韋が編集した呂氏春秋の内容を考えると、思想の違いが出た可能性もあるでしょう。

呂不韋は失脚しても、多くの人物が蟄居先の河南に訪れた話しもあり、秦王政が呂不韋を恐れた可能性もあります。

余談ですが、呂不韋の子孫が漢の高祖劉邦の皇后となる呂后であり、秦末期に劉邦が秦の首都咸陽を陥落させています。

呂不韋の子孫の旦那が、秦を降伏させたのは因縁を感じた次第です。

趙姫を許す
嫪毐の乱では、自分の母親である趙姫の行動も問題になります。

秦王政は、母親を咸陽から雍に移しました。

秦王政は趙姫に苛立ち「太后(趙姫)の事で諫める者は、死刑にする」と述べた話があります。

実際に、秦王政を諫めた20人ほどが処刑された様です。

ただし、秦王政も自らの母親を処刑する事は出来なかったのでしょう。

斉人の茅焦(ぼうしょう)は、次の様に秦王政に述べます。

茅焦「秦王様は天下統一を目指しておられます。しかし、母親である太后を外に移しました。

これは不孝の名にあたり、諸侯がこれを聞いたら秦に反旗を翻すかも知れません。」

秦王政は、茅焦に言葉に納得し、趙姫を再び咸陽に迎え入れ、南宮に住まわせています。

秦王政は合理主義であり、情に訴えるよりも、利益で訴えた方が動く人なのかも知れません。

秦王政の合理主義は、政策などにも反映しています。

逐客令
秦で灌漑工事を行っていた鄭国なる人物がいたわけです。

鄭国は韓の回し者であり、秦の財源を治水工事に使わせる事が狙いでした。

鄭国が韓のスパイだと発覚し、問題になります。

鄭国は自分のやっている灌漑工事は、秦の為になると説いた事で、許されますが、秦の宮廷で「他国人は危険だ」とする空気が流れます。

秦王政は他国人を追放する「逐客令」に同意し、秦から他国人を追い出す事にしました。

この時に李斯が、秦を強国にした商鞅、張儀、范雎らは他国人であったと述べた事で、逐客令は撤廃となっています。

尚、李斯は逐客令の撤廃だけではなく、韓を攻め取る様に述べており、韓王を恐れさせています。

秦を恐れた韓王が韓非子に、秦を弱めるにはどうすればいいのかと謀議した話があります。

尉繚の進言
始皇本紀によれば、尉繚(うつりょう)が秦王政に他国の大臣を買収し、戦いを有利に進める様に進言します。

尉繚は、30万金があれば、全ての諸侯の佞臣たちを買収出来るとも説いたわけです。

秦王政は尉繚が賢人だと認め、対等の礼を行った話があります。

ただし、尉繚は秦王政を「長く付き合える人物ではない」と考え、逃亡しようとしますが、秦王政が引き留めた話があります。

尚、李斯列伝によれば、李斯も秦王政に他国の大臣の買収を積極的に行う様に述べています。

始皇本紀の記述を採用するなら、尉繚が考案した事を李斯が実行したとも言えるでしょう。

離間策により、趙の郭開や悼倡后が買収され、斉でも后勝が買収に応じ、秦の為に動く事になります。

ただし、秦の離間策は尉繚や李斯が進言する前から行っており、魏の安釐王と信陵君を離間させ、信陵君が上将軍を解任されています。

尚、離間策は楚漢戦争においても、劉邦の参謀の一人である陳平が使っており、項羽と范増を離間させる事に成功しています。

趙との戦い
秦と趙が激しく戦う事になります。

鄴攻め
紀元前236年に、秦は趙の鄴を攻略する事になります。

これが秦の鄴攻めと呼ばれています。

秦が鄴を攻めた時に、龐煖(ほうけん)は趙の主力を率いて燕を攻撃中でした。

趙の軍が北にある燕を攻めた隙に、秦王政は王翦、桓齮、楊端和の三将に命じ漳水沿岸地域の城を落とし、鄴を攻略する事になります。

趙の悼襄王は、龐煖に急いで鄴の救援に向かわせますが、結局は間に合わず、鄴は陥落してしまいます。

鄴の陥落により趙は太行山脈の西の地域も失い、趙の領土が一気に半分になったとも言われています。

さらに、趙の首都の邯鄲の南にある鄴に秦の兵がいる事になり、趙にとってみれば喉元に刃を突き付けられた状態にもなったわけです。

平陽の戦い
紀元前234年に、秦将桓齮が趙の扈輒と平陽で戦っています。

これが平陽の戦いであり、桓齮は扈輒を破り10万の兵を斬るという大戦果を挙げています。

桓齮は平陽や武城を平定した事で、絶頂期にいたわけです。

桓齮により、趙は一気に滅亡かと思われましたが、李牧が立ちはだかる事になります。

宜安の戦い
秦王政は桓齮に命じて、さらに趙を攻撃させる事になります。

趙は扈輒が大敗した事で、趙の近辺で徴兵する事が出来なくなったのか、趙の北方にある代の司令官である李牧を大将軍に任命して反撃させる事にしました。

李牧と桓齮との間で、宜安の戦いが起きたわけです。

この時の李牧率いる趙軍は強く、桓齮は敗走する事になります。

桓齮が燕に逃亡した話もあり、桓齮と樊於期が同一人物とする説もあります。

李牧は、さらに肥下の戦いや番吾の戦いで秦軍を連続で破りました。

秦は李牧がいる限り、趙を攻略出来ないと悟ったのか、ターゲットを韓に移す事になります。

秦王政と韓非子
話しは戻りますが、紀元前234年の平陽の戦いで、桓齮が扈輒を破った頃に、韓非子が秦にやってきた話があります。

秦王政は韓非子が書いた書物を読んだ事で、感嘆し「この著者に語り合えるなら死んでも悔いはない」と述べたわけです。

李斯が共に荀子の所で学んだ、韓非子の書物だと言うと、秦は韓を攻撃し、和平の使者として韓非子が秦にやってきました。

秦王は韓非子を非常に気に入りますが、李斯が韓非子を妬んだ為か、韓非子は秦で亡くなっています。

韓非子は雲陽で亡くなったと伝わっています。

これにより、韓王は秦に恐れを抱き、秦の臣下になりたいと願った話しもあります。

韓はこの時点で、秦に対し風前の灯だった事が分かるはずです。

統一戦争
秦王政は戦国七雄の国々を滅ぼし天下統一する事になります。

韓の滅亡
紀元前231年に韓は南陽を秦に割譲しています。

秦は内史騰を仮りの南陽の太守としました。

内史騰は、翌年である紀元前230年に韓を攻撃し、韓王安が捕虜となり韓は滅亡しています。

尚、紀元前226年に韓の元貴族たちが大規模な反乱を起こしますが、秦軍により鎮圧されています。

因みに、紀元前226年は、秦の相国である昌平君が郢に移った年でもあります。

趙の滅亡
韓を滅ぼした翌年である紀元前229年に、王翦が上郡の兵を率いて井陘を降し、楊端和が河内の兵を率いて邯鄲を囲み、羌瘣が代を攻めた記録があります。

趙の幽穆王は、李牧と司馬尚に命じて、秦軍を防がせる事になります。

秦は尉繚と李斯の離間策が成功したのか、趙の大臣である郭開、韓倉と幽穆王の母親である悼倡后の買収に成功し、名将李牧を幽穆王に処刑させ、司馬尚は庶民に落しています。

趙の幽穆王は、趙葱と顔聚に趙軍を指揮させますが、秦軍に敗れ紀元前228年には邯鄲が落城しています。

趙の幽穆王は平陽で秦軍の捕虜になったわけです。

この時に、悼襄王の元太子である趙嘉が代に逃れ、代王嘉となっています。

代はまだ滅んでいませんが、紀元前228年の邯鄲の落城を以って趙の滅亡と考える人もいます。

尚、秦王政は幼い頃に邯鄲で育ちますが、虐められていた事もあり、自ら趙の邯鄲に乗り込んだ話があります。

秦王政は過去に自分を虐めた連中は、全て穴埋めにしてしまいました。

このエピソードは、秦王政の残虐ぶりが分かる話でもあります。

ただし、秦王政はハードに虐められていた可能性もあり、因果応報と言えるのかも知れません。

燕の首都を落とす
趙を滅ぼした王翦は、中山に駐屯し燕を攻める気配を見せます。

燕の太子丹は、趙の人質になった時に、秦王政と遊んだ仲でした。

しかし、燕の太子丹が秦に燕からの人質で行くと、秦王政は太子丹を冷遇する事になります。

秦で冷遇された太子丹は怒り、燕に無断で帰国してしまったわけです。

この事から太子丹は、秦王政に恨み荊軻を刺客として秦に派遣する事になります。

秦王政は宮廷で荊軻に殺されかけますが、何とか危機を脱出します。

しかし、燕が秦王政に刺客を送り付けた事で、秦王政は王翦に命じ秦を攻撃させたわけです。

弱小国の燕では、王翦の軍に対抗出来ずに、紀元前226年には燕の首都である薊が陥落し、燕の太子丹も討ち取られています。

燕の太子丹を討ち取ったのは、秦の将軍である李信だとも言われています。

燕王喜は遼東に精鋭を率いて逃げますが、燕も秦の圧力の前に風前の灯となります。

魏の滅亡
紀元前225年に、秦王政は魏を滅ぼす為に、王賁を派遣しています。

魏は戦国時代を通して秦と戦ってきましたが、この時の魏は秦の前に抵抗力を失っていました。

王賁は魏の首都である大梁に向け、黄河から水を引き、水攻めを行ったわけです。

王賁の水攻めにより、大梁城は破壊され、魏王仮は降伏する事になります。

魏王仮が降伏した事で、魏は滅亡する事になります。

楚の滅亡
楚は南方の大国として歴史ある国です。

秦王政は最初は李信と蒙恬に命じて、楚を攻撃させる事にします。

楚王負芻は、項燕を将軍とし城父で李信と蒙恬を破っています。

項燕が秦に向かっている話を聞くと、秦王政は王翦に楚軍と戦う様に依頼します。

紀元前224年に、王翦と蒙武は秦軍60万の軍勢を率いて、楚に向かい項燕を破り楚の都に進撃し、楚王負芻を捕虜にします。

翌年である紀元前223年に項燕は、秦の相国を務めた事がある昌平君を楚王に擁立し、王翦に立ち向かったわけです。

しかし、昌平君と項燕は、王翦と蒙武に敗れ楚は滅亡する事になります。

楚を滅ぼした時点で残っている国は、中華の隅の方にいる燕、代、斉のみであり、秦王政は天下統一に王手を掛けたと言えるでしょう。

楚を滅ぼした時に、秦では酒を許した話があり、既に祝賀ムードだったのかも知れません。

燕と代の滅亡
紀元前222年になると、秦王政は王賁や李信に命じ、燕と代の攻略をさせています。

王賁や李信は燕を破り燕王喜を捕虜にすると、返す力で代王嘉(趙嘉)を捕虜とします。

燕王喜と代王嘉が捕らえられた時点で、燕と代は滅亡したと言ってもよいでしょう。

燕も代も王翦の攻撃により、僅かな領地しか持っておらず、簡単に滅んだはずです。

燕と代を滅ぼした事で、中華の国は秦と斉の二国となります。

斉の滅亡
秦王政は、紀元前221年に王賁、李信、蒙恬に斉の攻略を命じています。

斉では宰相の后勝が秦に買収されるなど、斉の大臣達は秦の賄賂漬けだったわけです。

斉王建は戦わずに降伏し、斉は滅亡しています。

斉が降伏した事で、秦王政は天下統一する事になります。

周の幽王の時代に、西周王朝が崩壊してから500年以上も戦乱の時代が続きましたが、秦王政が遂に天下統一したわけです。

王達に寛大な秦王政
秦王政は、韓、魏、趙、楚、燕、斉の国を滅ぼしましたが、王を処刑した記録がありません。

史記などで幽閉した様な記述はありますが、王を処刑した記述がないのです。

それを考えると、秦王政は諸侯王に対して寛大だった様にも感じます。

この点は、三国志を終焉に導いた司馬炎が蜀の劉禅や、呉の孫晧を殺害しなかったのにも似ていると思いました。

ただし、始皇帝死後に斉では田儋、田栄、田横らが挙兵し、魏では魏豹が王を名乗ったりもしています。

それを考えると、捕えた王達は処刑しなかったかも知れませんが、恨みなどは買っていた可能性はあるでしょう。

始皇帝の誕生
秦王政は天下統一しますが、大業に適った帝号を定める様に命じます。

丞相の王綰、御史大夫の馮去疾、廷尉の李斯らは、泰皇と名乗る様に進言します。

しかし、秦王政は次の様に答えています。

秦王政「泰皇の「泰」を去り、上古の帝位の号を採って『皇帝』と名乗る事とする。」

これにより中国で初めて皇帝が誕生した事になります。

さらに、秦王政は二世皇帝、三世皇帝とする様にし、諡を廃止しています。

尚、秦王政は始皇帝の命は「制」とし、令を「詔」、自分の事は『朕』と呼ぶようになります。

皇帝の一人称の『朕』は歴代王朝に受け継がれる事になります。

始皇帝の改革
始皇帝は天下統一後に様々な改革を行っています。

始皇帝は改革を行う事で、スムーズな内政を目指したのでしょう

郡県制
天下統一後に、丞相の王綰が各地を安定させる為に、王を置く事を進言します。

王綰は封建制を敷くのがよいと考えたのでしょう。

それに対し李斯は、周の文王や武王は、一族や功臣を各地に封じたが時代と共に疎遠となり、争った事を例に出し反対します。

始皇帝も李斯の案に賛成し、天下を36郡に分けて郡県制を行う事になります。

地方に力を持たせずに、中央集権化を図った事になるわけです。

尚、秦は郡県制でしたが、漢は郡国制を行っています。

前漢では地方分権と、中央集権化の中間を行う事になります。

度量衡、文字、貨幣の統一
戦国七雄の諸侯の間では、重さや長さの単位や文字、貨幣などが国によってバラバラだったわけです。

度量衡と呼ばれる単位や文字、貨幣が国ごとに違うと、内政がスムーズに行かない為に、始皇帝は統一の企画を作ろうとしたわけです。

度量衡により、重さ、量、重さが統一され、文字は小篆を採用し、貨幣は秦で使われていた半両銭を全国に普及しました。

国によってバラバラだったものを統一した事で、中華という枠組みが完成したと考える人もいます。

万里の長城の建設
始皇帝の統一後の事業として、一番有名なのが万里の長城の建設でしょう。

万里の長城は、匈奴など北方の異民族(遊牧民)などの、侵入を防ぐ為に建設しました。

始皇帝が蒙恬に命じて、万里の長城を作らせたと伝わっています。

ただし、始皇帝や蒙恬が一から全部作ったわけではなく、戦後時代に既にあった秦、趙、燕の長城を繋げています。

尚、現代に残っている万里の長城は明代のものだと考えた方がよいでしょう。

万里の長城には「孟姜女」という話しがあり、万里の長城の強制労働に連れていかれた、男性が人柱として壁に埋められてしまい、妻が壁の前で泣くという話です。

この話は始皇帝の圧政の一つとして伝わっています。

因みに、2012年の調査で各時代の万里の長城の長さを足すと、2万1千キロになったとも伝わっています。

蒙恬の匈奴征伐
始皇帝は蒙恬に30万の大軍を預け匈奴征伐を行わせています。

蒙恬の匈奴征伐は成功し、匈奴を震撼させた話があります。

統一戦争で活躍した王翦、王賁、李信などは統一後の記録がありませんが、蒙恬だけは統一後も実績を挙げた記録があります。

尚、蒙恬が北方の動物の毛を集めて毛筆を作り、始皇帝に献上した話もあります。

毛筆を考え出したのが、蒙恬だとする説もあるわけです。

阿房宮の建設
始皇帝は咸陽に阿房宮の建設も行っています。

阿房宮は巨大な宮殿であり、後に楚の項羽が阿房宮を焼きますが、火は三カ月に渡って消えなかった話があります。

阿房宮は途方もない様な広さだったのでしょう。

夜になって阿房宮の窓を全て閉めようとすると、広すぎて朝になってしまった話しもある程です。

余談ですが、阿房宮が「アホ」の語源となった説もあります。

尚、秦では諸侯を倒す度に、その国の王宮と似た王宮を秦の咸陽に作った話があります。

そのため、阿房宮が大きくなりすぎてしまったとも考えられています。

霊渠
秦では戦国時代の末期に鄭国が灌漑工事を行い、函谷関で凶作が無くなった話があります。

鄭国が作った渠は鄭国渠と呼ばれたわけです。

統一後に始皇帝は灌漑工事を行い、霊渠と呼ばれる渠を建造しています。

秦は商鞅の改革以降、重農主義が取られているわけであり、国の食料を豊かにする為の政策だったのでしょう。

尚、古代では夏王朝の始祖である禹が灌漑工事を行い英雄になっていますし、戦国時代の初期にも西門豹が治水により実績を挙げています。

それを考えると始皇帝も民の食糧事情を安定させる為に、霊渠を作ったはずです。

街道整備
始皇帝は街道整備も行っています。

馳道
始皇帝は天下統一すると5回に渡り各地を巡行しています。

巡行する際に使われたのが、馳道(ちどう)と呼ばれる道路です。

馳道は幅が70メートルもあり、中央には始皇帝専用の通路が作られていた話があります。

始皇帝の街道整備は1万2千キロに及んだとも言われていますが、その半分が馳道だった話があります。

直道
天下統一後の始皇帝の脅威は、北方の遊牧民族である匈奴でした。

始皇帝は首都の咸陽から、北方の九原まで、円滑に軍隊を送り込む為の直道を作った話があります。

直道の建設にも蒙恬がかかわったとする話があります。

直道は、「山を崩し、谷を埋めた」とする記述がある事から、かなりの大工事だったはずです。

尚、始皇帝自信が直道を使ったのは、自分の死後に棺に入れられて、送られた時のみだったとも伝わっています。

その他の通路
秦の時代には、首都の咸陽から驪山までは甬道と呼ばれる道がありました。

甬道は道の両サイドに壁があり、始皇帝が通るのが見えない様になっていた話があります。

他にも、秦には復道と呼ばれるものがあり、二階層の通路になっていたとされています。

始皇帝陵及び兵馬俑
始皇帝は死後の世界に備え、広大な陵墓を建設した話があります。

陵の周囲を銅で固め、その中に王宮を築く事になります。

さらに敵を迎え撃つ為の仕組みや、兵の形をした人形である兵馬俑も用意しました。

兵馬俑の人形は、一体一体が表情が違うなど、かなり手の込んだ作りとなっています。

さらには、水銀が流れる川も百本作った話が伝わっているわけです。

水銀の川の話は伝説とも考えられていましたが、近年の研究で始皇帝陵には通常の100倍の濃度の水銀が検出されています。

これにより、実際に始皇帝陵には水銀の川があったのではないか?とも考えられています。

尚、始皇帝の陵墓は非常に良質な形で保存されており、ユネスコの世界遺産にも登録されています。

後述しますが、始皇帝は水銀の川を作るだけではなく、水銀を飲んだ事で寿命が縮まり最後を迎えた話しもあります。

始皇帝の強制労働や改革が秦を滅ぼしたのか
始皇帝の強制労働や改革が、秦を滅ぼしたとする話があります。

始皇帝は万里の長城や阿房宮の建造や街道整備、灌漑工事など、かなりの土木工事を行ったわけです。

生涯を土木工事に捧げたと言っても良いでしょう。

長い目で見れば、役立つものも数多くあったようですが、民を疲弊させたとも言われています。

ただし、近年の考え方として、万里の長城や阿房宮の建設、街道整備などは公共事業だった説もあります。

戦国七雄が争った時代は、多くの兵士が必要でした。

しかし、天下統一されてしまうと国内の戦争はなくなり、兵士が余るわけです。

余った兵士を始皇帝が万里の長城など、公共事業の仕事を与えたとする説となります。

始皇帝の土木工事は、強制労働で過酷だと思われがちですが、戦争に行くよりは圧倒的に生存率が高かったのではないか?とも考えられています。

始皇帝が行う土木事業などに参加すれば、衣食住は保証されたとも考えられており、思っている程は過酷ではなかったとする説も出ています。

エジプトのピラミッドにも公共事業説があり、同じように始皇帝の土木事業も公共事業だとも考えられる様になってきているわけです。

ただし、到着の期日に間に合わなかったら、処刑されるなどの厳しい法律が災いし、秦は滅びたとも言われています。

始皇帝死後に4年で秦は滅んでいる事もあり、秦の滅亡と始皇帝の改革や土木工事が全く無関係とは言えないでしょう。

始皇帝の巡行
始皇帝は天下統一後に、5回に渡り各地を巡遊した話があります。

始皇帝の巡行の目的は「地方の視察」「自らの権威を示す」「全国の山川の祭祀を行う」「不老不死の薬を見つける」です。

始皇帝の巡行には秦の李斯や高官も引き連れていき、巡行先でも始皇帝は政治の支持をしていた話があります。

始皇帝は泰山で封禅の儀 を巡行中に行っています。

尚、始皇帝は巡行中に張良に命を狙われた話があるわけです。

それを考えれば、絶対に安全な旅というわけでもなかったのでしょう。

因みに、始皇帝の巡行が秦を滅ぼしたとする説もあります。

天下統一した始皇帝がどの様な人物なのか、民衆は興味があり始皇帝が通る所を見ていたわけです。

民衆は始皇帝が魁偉な容貌を持った人物を予想しますが、実際の始皇帝は見た目が冴えないおじさんでした。

それを見た民衆は、ガッカリし自分でも皇帝になれるのではないか?と考えた人も出てきた話があります。

巡行は良い面もあれば、悪い面もあったのでしょう。

尚、始皇帝死後に楚漢戦争で争う項羽と劉邦が巡行中の始皇帝を見かけ、劉邦は「偉丈夫」だと評価し、項羽は「奴の位を乗っ取ってやる。」と述べた話があります。

封禅の儀
始皇帝の業績として、封禅の儀を行った話があります。

春秋戦国時代に覇者になり、諸侯同盟の長となった斉の桓公も封禅の儀を行おうとして、管仲に諫止された話があります。

春秋五覇にも必ず入る斉の桓公ですら、封禅の儀を行えない事を考えれば、始皇帝の権力の大きさが分かる気がします。

ただし、封禅の儀は帝王が行ったともされていますが、やり方が伝わっておらず、儒者に探させても分からなかった話があります。

それでも、始皇帝は泰山の山頂に登り天を祀り封禅の儀を行ったわけです。

始皇帝は封禅の儀を行い自らの徳を称えるために、泰山刻石を残しています。

泰山刻石は秦の公式の文体である小篆で書かれている事でも有名です。

焚書坑儒
始皇帝が暴君だと言える理由として焚書坑儒が挙げられます。

しかし、見方を変えれば仕方がいない部分もある様に感じます。

焚書
焚書より諸子百家の多くの書物が失われたとも言われています。

この当時ですが儒家による「先王の教えに従うべきだ」とする教えがあったわけです。

儒家たちは先王の教えに従い、封建制に戻すを願いました。

しかし、ここで封建制を行えば始皇帝が8年に渡り行った郡県制を無に帰す事になります。

始皇帝は臣下に議論はさせますが、議論が終わると古い思想の書物を焼いてしまったわけです。

この時に、始皇帝は良質な書物だけを残し、現実に沿わない古い思想は焼却しようと考えた話があります。

現実主義の始皇帝には、邪魔な思想が数多くあり、思想の統一という意味でも焚書を行ったともされています。

これが焚書坑儒の「焚書」です。

ただし、孫子、呉子、韓非子など諸子百家の書物は現在でも多く伝わっており、焚書は徹底した思想弾圧ではなかったとする説もあります。

坑儒
焚書坑儒の「坑儒」を考えると、儒者を弾圧した様に思うかも知れません。

当時の中華には「方士」と呼ばれる、瞑想や気功により仙人や不老不死を目指す集団がいたわけです。

盧生は、始皇帝に「真人」という存在を教え「水に濡れず、火に焼かれず、神の如き存在」だと伝えます。

盧生は身を隠して謹んでいれば、真人が訪れ不老不死の薬を譲り渡してくれると述べます。

始皇帝は盧生の言葉に従い行動をしますが、真人は一向に現れず、盧生は始皇帝に暴言を吐き逃亡する事になります。

始皇帝は方士らに巨額の予算を出していたわけであり、方士らは嘘をつき巨額の利益だけを貪っていたともされています。

方士らを調べると法律違反をした者が460名もおり、法律に沿って始皇帝は穴埋めにしたわけです。

これが「坑儒」であり、決して儒家だけが処罰されたわけではありません。

そもそろ、方士たちが詐欺的な行為をした為に、始皇帝の怒りを買い埋められてしまったとも考えられます。

不老不死と徐福
始皇帝は不老不死を目指し、臣下を困惑させた事は事実でしょう。

方士以外にも学者らに不老不死の研究をさせていたわけです。

また、国内に関しても不老不死の霊薬を探し出す様に通達した話があります。

日本でも有名な徐福などは、始皇帝の不老不死の願いを叶え、蓬莱の神薬を得るために、大海に向かった話があります。

ただし、徐福も帰還する事がありませんでした。

尚、伝説では徐福が日本にやってきて王になった話もあります。

因みに、徐福も不老不死の薬を始皇帝に献上する事は出来ていない事から、始皇帝をペテンにかけた事になります。

扶蘇の諫言
始皇帝の長子である扶蘇は、始皇帝の改革を緩める様に意見します。

扶蘇としてみれば、法律が厳し過ぎるとか、早急な改革は天下に混乱を引き起こすと考えたのでしょう。

しかし、始皇帝は扶蘇の言葉に耳を貸さず、扶蘇を上郡にいる蒙恬の所に飛ばしています。

これにより始皇帝を諫言出来る人がいなくなってしまったとも考えられています。

始皇帝は元々が独裁者的な人物ですが、扶蘇が近くにいなくなった事で、独裁色をさらに強めたはずです。

秦を滅ぼす予言
始皇帝の36年にあたる紀元前211年に隕石が落下し、次の様な言葉が書かれていました。

「始皇帝が亡くなり、土地が分れる。」

始皇帝は、この言葉に激怒し、周辺の住民に取り調べを行わさせた話があります。

しかし、住民の中で自分が書いたと名乗る者はなく、始皇帝は皆殺しにしてしまいます。

さらに、石を溶かして文字を消す、入念さも見せる事になります。

この話は始皇帝の暴君ぶりを現わした話にもなっていますし、見方を変えれば秦の滅亡を恐れている様にも感じました。

尚、この予言は成就され、始皇帝死後に次々に反乱が起こり、秦は滅亡する事になります。

始皇帝の最後は水銀が原因!?
始皇帝は出遊中に亡くなっています。

尚、始皇帝の最後ですが、水銀を飲んだ為に崩御した話もあります。

最後の巡遊
始皇帝は紀元前210年に5回目の巡遊を行う事になります。

この時には、始皇帝は49歳になっていて、既に体調が悪かった話もあります。

体調を崩していた始皇帝でしたが、巡行に出れば「吉」と占いに出た為に、巡行を行った説があります。

ただし、始皇帝が巡行中に亡くなり、趙高が暗躍する事を考えれば、巡行に出るのは「吉」ではなく「凶」だった事でしょう。

始皇帝は丞相の李斯、大臣の蒙毅、お気に入りの宦官のである趙高、末子の胡亥を連れて巡遊に出たとされています。

しかし、これが始皇帝の最後の旅となり、紀元前210年に始皇帝は崩御する事になります。

海神と戦う夢
始皇帝は巡行中に海神と戦う夢を見た話があります。

始皇帝は夢の内容を夢占いの博士に問うと、次の答えが返ってきます。

「水神は目で見る事が出来ません。大魚である蛟竜が現れるのが、その兆候です。

主上(始皇帝)は祈祷祭祀を謹んでいるのに、悪い神が現れました。

これを除く事が出来れば、善い神が現れる事でしょう。」

始皇帝は、この言葉を信じ、海上を行く者に大魚を捕える道具を持たせ、大魚が出たら始皇帝が自ら強弓を射ようとしますが、中々現れませんでした。

別の場所に移動すると、大魚が現れ魚を射殺した話があります。

しかし、始皇帝の一行が平原津まで行くと、始皇帝は病に倒れる事になります。

始皇帝の最後
始皇帝は病の回復を願いますが、病は重くなるばかりであり、一向に回復しなかったわけです。

始皇帝は側近の蒙毅を咸陽に向かわせ、山川の祈祷を行う様に指示します。

それでも病の回復はせず、始皇帝は死を覚悟する事になります。

史記によれば、始皇帝は長子の扶蘇に、自分の葬儀を行う様に璽書を作ります。

これが使者に渡される前に、始皇帝は崩御し、扶蘇を後継者に指名する璽書は、宦官の趙高が握っていたわけです。

これにより、趙高の陰謀が発動し、胡亥と李斯を説得し、胡亥を二世皇帝として即位させる事になります。

始皇帝は水銀を飲んだから死んだのか
始皇帝が水銀を飲んだから、死去したとする説があります。

水銀は当時は神秘的なものであり、不老不死の薬として使われていた話があるからです。

しかし、調べてみても始皇帝が水銀を飲んでいた記録はなく、あくまで想像に過ぎないと思われます。

始皇帝は始皇帝陵に水銀の川があった事から、水銀を特別視していた事は確かだと思われますが、本当の飲んでいたのかは不明です。

飲もうとしてみたが、とても飲めるものではなく、飲むのを諦めた可能性もあるでしょう。

始皇帝死後に4年で秦は滅亡
始皇帝が亡くなると、先にも述べた様に胡亥と趙高の暴政が始り、蒙恬、蒙毅、李斯、馮去疾などが処刑されています。

始皇帝時代に活躍した多くの大臣や公子達が、胡亥と趙高により殺害されているわけです。

こうした中で、陳勝呉広の乱が勃発し、さらに会稽では項梁・項羽が挙兵し、斉では田儋、田栄、田横らが挙兵する事になります。

秦では章邯や王離を派遣し、反乱軍の鎮圧を目指しますが、秦の宮廷では趙高が牛耳っており、一致団結して反乱軍を迎え撃つ事が出来なかったわけです。

そうした中で、鉅鹿の戦いで秦将王離が項羽に敗れ、章邯も殷墟で項羽に降伏し、函谷関の外は完全に反乱軍の手に落ちます。

趙高は胡亥に責任を追及される事を恐れ、謀反を起こし二世皇帝の胡亥を自刃させ、子嬰を秦王とします。

子嬰は趙高を暗殺しますが、劉邦は目の前に迫っており、子嬰は劉邦に降伏する事になります。

項羽が咸陽に到着すると、子嬰は斬られ秦は滅亡する事になります。

始皇帝も自分の死後に、秦が僅か4年で滅亡するとは思ってもいなかった事でしょう。

始皇帝の評価
始皇帝の評価ですが、非常に分かれるところではないかと感じています。

始皇帝は趙での生き埋めや焚書坑儒など、時折、残虐性を見せる事があります。

これらが暴君と言われる所以であり、冷徹なイメージを植え付けて評価を下げている様に思いました。

ただし、秦の後に楚漢戦争があり、項羽に勝利した劉邦が漢王朝を樹立しますが、漢王朝では秦の制度を参考にしている部分が多々あります。

漢王朝では九章律なる法律を蕭何が制定した話があります。

九章律の制定にあたり、蕭何は秦の法令を参考にして作ったとも考えられています。

始皇帝の改革は、非常に現実的ではあったが、早急にやり過ぎた事で、社会が始皇帝に追いつけなかったとの指摘もあるわけです。

それを考えれば、始皇帝は優れた政治家であったとも言えると思います。

それでも、始皇帝の死後に、秦は4年で滅亡している事もあり、政治力に疑問を呈す声もあります。

個人的には、始皇帝の中華という枠組みを作った点では、評価してもよいのではないか?と考えています。

ただし、不老不死に拘った辺りは減点の対象となるでしょう。

尚、長い戦乱を終わらせた王朝は短命に終わりやすいという話しがあります。

秦だけではなく、三国志の世界を終わらせた西晋、南北朝時代を終わらせた隋などです。

それを考えると、秦も歴史の法則から逃れる事は出来なかったと言えるのかも知れません。
https://rekishi-shizitsu.jp/shikoutei/
12:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/10 (Tue) 14:51:48

子嬰
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E5%AC%B0

子嬰(しえい)は、中国秦の最後の君主(在位:紀元前207年)。史料では、秦王子嬰または秦三世とも呼称される。

秦の皇族であったが、秦二世である胡亥を自殺に追い込んだ趙高に擁立され、秦王として即位した。その後、趙高を殺害し、劉邦に降伏して秦は滅んだ。後に項羽により、一族とともに殺された[1][2]。

生涯
『史記』「李斯列伝」では始皇帝の弟とされているが、『史記』「秦始皇本紀」では「胡亥の兄の子」とされており、「兄」が誰の事なのかは記録されていない。また、『史記』「六国年表第三」では、「胡亥の兄」とされる。

始皇37年(紀元前210年)7月、巡幸中に始皇帝が死去する。

始皇帝と巡幸をともにしていた胡亥・趙高・李斯が共謀して始皇帝の詔を偽り、胡亥が始皇帝の太子を名乗り、上郡にいた始皇帝の長子であった扶蘇が自害させられ、内史として秦の軍を率いていた蒙恬が捕らえられ、陽周の獄につながれた[3]。

その後、咸陽に帰った胡亥は二世皇帝に即位する。

胡亥の側近として信任されていた趙高は日夜、蒙恬とその弟である蒙毅を中傷して、その罪過を探し、弾劾していた。子嬰はそのことに関して、胡亥を諫めた[4]。「いけません。かつて、趙王遷(幽繆王)は良将の李牧を殺して顔聚を用い、燕王喜は荊軻の計略を用いて秦との盟約に背き、斉王建(田建)は代々の忠臣を殺して后勝の意見を用いました。この三人の君主は、皆、古来のやり方を変えて、国を失い、災いはその身まで及んだのです。蒙氏(蒙恬・蒙毅)は秦の大臣であり謀士であります。それなのに、主(胡亥)が一朝にして彼らを捨て去ろうと望んでおられるのであれば、私はよろしくないと考えております。私は、『思慮が足りないものは国を治めることができず、独りよがりなものは君主を保つことができない』という言葉を聞いております。忠臣を誅殺すれば、節操が無い人物(趙高のこと)を取り立てれば、朝廷のうちでは群臣たちがお互いを信じることができなくなり、外地では戦士たちの心が秦王朝から離れてしまいます。私はよろしくないと考えています」。しかし、胡亥は子嬰の言葉を聞き入れず、使者を送り、蒙恬・蒙毅兄弟に自害を命じた。蒙毅は殺され、蒙恬は自決した[3]。

二世元年(紀元前209年)7月、秦への大規模な反乱である陳勝・呉広の乱が起こる。

二世二年(紀元前208年)11月、秦の将である章邯は陳において陳勝を破る。

同年12月、敗走した陳勝は部下に裏切られ、城父にて殺された。

しかし、その後も反乱は止まず、李斯は胡亥に、阿房宮の工事を中止して、兵役・輸送の労役を減らすように諫めたが、捕らえられる。この時、子嬰はまたしても胡亥を諫めた[5]。「いけません。やり方や法令を変えて、忠臣を誅殺した上に、節操無い人(趙高のこと)を取り立てて、法を好き勝手につかさどらせて、不義を天下の人々に行使したなら、後々、その報いを受けることになります。私はそれを恐れます。大臣は外地に向かって様々に謀り、民は内地で(為政者を)怨んでおります。今、将軍の章邯は外地にいて、兵士たちは労苦していますが、物資を補給していません。外地には敵はいませんが、秦の内部に臣下たちの互いに争う意思が見られます。それゆえ、危うい状況なのです」。しかし、子嬰の諫めは、胡亥に聴かれず、李斯は処刑された[6][7]。

二世三年(紀元前207年)12月、秦に反乱を起こした楚軍の指揮を執る項羽が趙を救援し、鉅鹿を囲む秦軍を大破され、秦軍の包囲を解かれた。魏・趙・斉・燕の諸侯の軍は項羽に属することになり、戦況は反乱側の優位に大いに傾き、秦側の形勢は一気に不利となった(鉅鹿の戦い)。

同年7月、秦軍の主力の指揮を執る章邯が、項羽が指揮を執る楚軍に降伏する。

同年8月、函谷関より東の土地の民衆は、秦に対して反乱を起こし、諸侯に呼応した。さらに反乱軍が、秦の首都である咸陽へ向かってきていることも伝わってきた。

また、反乱軍の楚に属した劉邦が数万人を率いて、秦の咸陽を守る武関を攻めて、打ち破った。劉邦は使者を派遣して、趙高とひそかに意を通じ合わせてきた。

胡亥から処刑されることを恐れた丞相の趙高は、娘婿で咸陽令となっていた閻楽、弟の趙成と謀議した。「陛下(胡亥)は諫言を聞かず、この事態の急変の責任を我々一族に負わせようとしている。私はお上を替え、後継に公子である子嬰を立てたい。子嬰は仁篤あり、ひかえめな人柄で、民も皆その言をいただいている」。そこで、趙高は閻楽に命じて、クーデターを起こして、胡亥を自殺に追い込む(望夷宮の変)。

趙高は、閻楽からの復命を聞いて、秦の諸大臣と公子を全て召して、胡亥を誅殺したことを告げて言った。「秦は元々、王国であった。始皇の君(始皇帝)が天下を統一したため、帝と称したのだ。現在、六国が自立しており、秦の土地はますます小さくなっている。それで、帝を名乗っても名だけの空しいものとなる。そこで、かつてのように王と名乗るのがよい」。

同年9月、趙高は子嬰を秦王として擁立する。

子嬰は斎戒を行い、先祖の宗廟にまみえてから、玉璽を受けることとなった。子嬰は、斎戒をして5日経ってから、宦者[8] の韓談[9] 及び子嬰の二人の子と謀って言った。「丞相の趙高は、二世皇帝(胡亥)を望夷宮において殺害したが、群臣から誅されることを恐れて、偽って義を立てたふりをして、私を擁立したのだ。私は、趙高が楚(劉邦)と約束して、秦の宗室を滅ぼして関中の王になろうとしている、と聞いた。今、私に斎戒を行わせ、先祖の宗廟にまみえさせようとしているのは、宗廟の中で私を殺害しようと考えているのだ。私が病気と称して行かなければ、丞相(趙高)は必ず来るだろう。来た時に趙高を殺害しよう」。

趙高は使者を派遣して、子嬰に宗廟にまみえることを数度にわたって請うたが、子嬰は行かなかった。果たして、趙高は自ら子嬰のところに向かい「宗廟にまみえるのは重大な事です。王はどうして行かないのですか?」と子嬰に問い正したが、その直後、子嬰は斎戒を行うための宮中において、趙高を刺殺。趙高に連なる三族をも滅ぼし、咸陽において公表した。

この時、楚の将である劉邦は秦軍を破って、武関を突破していた。子嬰は兵を派遣し、劉邦の軍勢を嶢関において阻んだ。劉邦の参謀である張良は劉邦に進言した。「秦の兵はいまだ強く、軽くみるべきではありません。旗や幟を諸々の山の上に張りめぐらせて、疑兵の計をなしてください。その上で、酈食其に高価な宝を持たせて秦の将に与えてください」。劉邦は張良の進言に従うと、秦の将は果たして(秦に背いて)劉邦と連合して、一緒に西の咸陽に向かうことを望んだ。劉邦はこの願いを聞き入れようとしたが、張良がまた進言した。「今はただ独り、秦の将が秦に背く事を望んでいるだけです。恐らく士卒達は従わないでしょう。従わないときは必ず危機に陥ります。彼らの油断につけこみ、攻撃するのがいいでしょう」。そこで、劉邦は秦軍を攻撃した。これにより、秦軍は大破された[10]。

劉邦はさらに、秦の下嶢と藍田を攻め、張良の策により、戦わずに降伏させた。

高祖元年(紀元前206年)10月、劉邦の軍は覇上にまで迫った。劉邦は、使者を送って子嬰に降伏をうながした。子嬰は、首の組み紐をかけて、服喪につかう白い馬と簡素な馬車に乗り、天子の玉璽を奉じて、軹道という土地において、劉邦に降伏した。子嬰が即位してから、たった46日であった。

劉邦配下の諸将には、子嬰の処刑を主張するものもいたが、劉邦は「降伏しているものを殺害することは不肖である」として、子嬰を役人にまかせて一族ともども身の安全を保証し、秦の宮室や府庫を封じた上で、軍を返して覇上に駐屯した[11]。

同年11月、劉邦は覇上に各地の父老や豪族を呼び寄せて、「私が(関中を落としたことによる功績をあげたため、先に楚の懐王と)諸侯との約束により、関中王となるであろう。関中王になった後は、法は三章のみ(人を殺すものは死罪、人を傷つけるものと人のものを盗んだものは罰する)とする。それ以外の秦の法は取り除くであろう」ことを約束した。劉邦は、使者を秦の役人とともに秦の土地であった郷や邑に送り、このことを宣言させた。秦の人々は大いに喜んで、劉邦が秦王になれないことを恐れた[11]。

劉邦は、章邯が項羽に降伏して、雍王に封じられたと聞き、項羽ら諸将が関中に来れば、関中王になれないことと考えて、函谷関に兵を守って項羽を防ぐことにした。しかし、函谷関に到着した項羽は、函谷関が閉じられていると知り、英布や各国の諸将とともに函谷関を打ち破った[11]。

同年12月、項羽率いる諸将の軍40万は函谷関を突破して、戯に到達した。劉邦の左司馬であった曹無傷は使者を項羽のもとに送り、「沛公(劉邦)は関中王になろうと望み、子嬰を相にして、珍宝は全て手にいれました」と告げさせた。項羽は劉邦と戦おうとしたが、おじの項伯からの説得により、劉邦は項羽に釈明し、項羽はこれを認めた(鴻門の会)。項羽は西進して、咸陽へと進軍した[11]。

同年1月、項羽は咸陽に入ると、従長(諸侯の合従連合軍の盟主)として、子嬰と秦の諸公子・宗族を全て処刑した。さらに、項羽は咸陽を略奪して、秦の宮室を焼き払い、子女を虜にした上で、珍宝・財貨を奪い取り、咸陽を略奪した諸侯に分けた。項羽は秦の後裔となるものを全て滅ぼし、秦の土地を三つに分けて、雍王(章邯が王となる)、塞王(司馬欣が王となる)、翟王(董翳が王となる)が王に封じられ、三秦と名付けられた。これで、秦王朝は滅んでしまった。

評価
司馬遷に『史記』において引用された、前漢の政治家である賈誼によって著された『過秦論』において、子嬰は次のように評価されている。

「(胡亥の死後)子嬰が即位したが、(各地で秦に対する反乱が起き、鎮圧できない理由を)悟ることはなかった。もし、子嬰に並の君主としての才能があり、中程度の人物の補佐を得ていれば、山東は戦乱になったといっても、秦の土地は全うして保つことができ、宗廟の祀りは(賈誼の生きていた時代までも)いまだ、絶えることはなかったであろう。子嬰は孤立して、親しい人物もおらず、危うくて弱く、補佐するものもなかった。三主(始皇帝・胡亥・子嬰)惑いながら、終身、(己の過ちを)悟ることがなかった。秦が滅びたのは当然なことである」

また、後漢の歴史家である班固は、子嬰のことを「子嬰は順次により、王位を継いだ。子嬰が小人だとしたら、つくべきである地位につくと悦びの余りに自分の守るべき分を忘れ、日々を安逸に過ごすであろうに、深くおもんばかり、子とともに権謀をなして、狡猾な大臣でありながら胡亥を弑逆した賊でもある趙高を討伐し、誅殺したのだ。しかし、趙高を討ち取ってからわずかな時間も与えられずに、楚(劉邦)の兵が関中に攻め込んできて、覇上にまで至った。子嬰は、帝者(後に漢の高祖となる劉邦を指す)に降伏した。秦の積み重ねられた衰退により、天下は瓦解していたのだ。周公旦のような人材ですらどうにもならなかったであろう。それを、わずかな間、王位についただけの孤立無援であった子嬰を(賈誼や司馬遷が)責めるのは誤りではないか。俗説に、『始皇帝が罪悪を起こし、胡亥がそれを極限にまで広げた』と伝えているのが、理にかなっている。また、小子(子嬰)を責めて、『秦の地は全うすることができたであろう』とするのは、時勢の変化に通じないものの考えである。私(班固)は、秦紀を読んで子嬰が趙高を車裂きにしたことを(記述している部分を)読む時に、子嬰の決断を壮健なものと感じたし、子嬰の志を哀れに感じている。子嬰の行動は、いかに生き、いかに死ぬべきかという意義が備わっているのだ」と、評価している[12]。

血縁関係
小説などでは、秦の最後の君主である子嬰は扶蘇の子であるといわれることがあるが、『史記』などの史書に裏付けがある話ではない。扶蘇と子嬰の父子関係を肯定するならば、趙高の誅殺に加わった子嬰の二人の子は扶蘇の孫で、始皇帝の曾孫となる。

『史記』「李斯列伝」集解徐広の説では、「一本曰『召始皇弟子嬰,授之璽』」と記述され、始皇帝の弟の子の(嬴)嬰とする説がある。就実大学人文科学部元教授の李開元はこの説を支持し、嬴嬰を始皇帝の弟である嬴成蟜の子であると言う説を発表している[13]。この場合、子嬰は始皇帝の甥、扶蘇と胡亥の従兄弟になる。また、李開元は成蟜が趙攻めの際に秦に叛いた際(成蟜の乱)、趙で生まれたのが子嬰であると言う[14]。これが事実であれば、子嬰の生年は紀元前239年(秦王政8年)となり、紀元前206年に項羽によって処刑された際の年齢は34歳頃と思われる。

『史記』「六国年表第三」では、「趙高反,二世自殺,高立二世兄子嬰」と記述され、子嬰は胡亥(二世皇帝)の兄であるとしている。

中井積徳は、子嬰が始皇帝の孫なら「公孫」と称し、公子と称すことができないことから、「兄子」の「子」の字を伝写するものが誤って増やしたのではと考え、さらに、子嬰の子供たちと趙高の謀殺を共謀することは年齢的に無理があることから、子嬰を「蓋し(思うに)二世(胡亥)の兄なり」として、扶蘇と胡亥の間の始皇帝の公子の一人、扶蘇の弟で、胡亥の兄とみなしている[15]。

ただし、『新釈漢文大系「史記一(本紀)」』の注釈においては、子嬰(公子嬰)を「二世胡亥の兄扶蘇の子」としている[16]。

鶴間和幸は、「子嬰は二世皇帝(胡亥)の兄の子であると秦始皇本紀はいい、李斯列伝では始皇帝の弟とする。『史記』のなかではこのような矛盾はいくらでもある。前者の説(胡亥の兄の子)の方が無難である」であると述べている[17]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E5%AC%B0
13:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/10 (Tue) 17:17:04

子嬰に秦滅亡の責任はない
2022年8月22日
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子嬰は最後の秦王であり、子嬰の代で秦は滅亡した事実があります。

しかし、個人的には、子嬰に秦の滅亡の責任はないと考えています。

胡亥や趙高が秦の内部をボロボロにし、危機的な状況を作り出し、状況を打破する為に、子嬰は趙高を暗殺したとも言えるでしょう。

子嬰は、趙高を暗殺し、秦王家に実権を戻しますが、劉邦が武関を抜き咸陽に迫っており、ボロボロになった秦では太刀打ちする事が出来なかったと考えるべきです。

今回は、子嬰がどの様な人物なのか解説します。


秦の王族

子嬰は、史記の「李斯列伝」では始皇帝の弟になっていますが、「始皇本紀」と「六国年表」では、胡亥の兄の子とされています。

始皇帝の子は、20人以上もいたわけですが、その中の誰の子なのかははっきりとしません。

尚、胡亥の兄と言えば扶蘇を思い浮かぶ人も多い事でしょう。

始皇帝の長子である扶蘇の子とも考えられますが、子嬰が扶蘇の子であるならば、秦の正統性を主張できる立場でもあり、胡亥や趙高が生かしておくはずはないと思います。

それを考えると、始皇帝の子の中で、名前が伝わっていない公子の子が子嬰になるのが打倒かなとも思いました。

ただし、李斯列伝のいう始皇帝の弟の可能性もあります。

始皇帝の弟と言えば、成蟜(せいきょう)が有名ですが、他にも弟がいた事になるでしょう。

尚、子嬰が秦の王族だという事は、どの説も一致しています。


胡亥を諫める
始皇帝死後に2世皇帝として即位した胡亥に子嬰が諫めた話があります。

蒙恬・蒙毅を救おうとする
始皇帝は巡遊中に沙丘で亡くなってしまいます。

史記によれば始皇帝は、扶蘇を後継者に指名しますが、趙高、胡亥、李斯が結託し胡亥を二世皇帝に即位させてしまいました。

胡亥と趙高は扶蘇を自刃させ、蒙恬と蒙毅は牢に閉じ込めたわけです。

趙高は過去に蒙毅に恨みがあった事で、蒙氏の一族を根絶やしにしようとします。

胡亥は扶蘇が自刃した事で、蒙恬と蒙毅を許そうとしますが、趙高は蒙恬、蒙毅を讒言し処刑しようと考えました。

ここで、子嬰が胡亥を次の様に諫めた話があります。

子嬰「趙の幽穆王は良将である李牧を殺害し、顔聚を代わりの将軍とし、斉王建は先代の忠臣を殺害し、后勝を重用した事で国を滅ぼしています。

蒙氏の兄弟は功臣であり、優れた人物でもあります。

陛下(胡亥)は、蒙氏の兄弟は一朝にして捨て去ろうとしますが、これは良くない事です。

忠臣を誅殺し節操のない者を取り立てたら、群臣の信頼は失われますし、外でも兵士らの信用は損なわれる事になります。」

しかし、二世皇帝の胡亥は子嬰の言葉を聞かず、蒙恬、蒙毅を処刑してしまう事になります。

尚、ここで名将であり、匈奴征伐で名をはせ、名将と呼ばれた蒙恬が亡くなってしまった事は、秦に対して大打撃となったはずです。

天下動乱に突入
胡亥は二世皇帝に即位しますが、始皇帝以上に政治が過酷だった話もあり、天下の期待を裏切る事になります。

こうした中で陳勝と呉広が共謀して反乱を起こしたわけです。

これが陳勝呉広の乱であり、これをきっかけに全国に反乱軍が湧いて来る事になります。

首謀者である陳勝と呉広は半年ほどで、秦の章邯が鎮圧しています。

しかし、会稽で項梁と項羽が挙兵し、斉には田儋、田栄、田横がいて、趙には趙歇、張耳、陳余らがいたわけです。

函谷関の外では、反乱軍が多くいたわけですが、秦の内部では胡亥は後宮に引き籠るなど、一致団結して反乱軍に当たる事はありませんでした。

この時の子嬰の記録はありませんが、危機感を持っていたのかも知れません。

李斯をフォロー
趙高は胡亥からは信頼されていましたが、丞相の李斯は邪魔だったわけです。

趙高は李斯を罪に陥れて、牢に入れる事になります。

趙正書では、李斯が胡亥の阿房宮建設の中止や、兵役や労役を軽くするように進めますが、胡亥により李斯は捕らえられた事になっています。

李斯が牢に入れられると、子嬰は次の様に諫言しています。

子嬰「今までの法令を変え忠臣を処刑し、節操のない人物を重用しようとしております。

このまま不義を行えば、報いを受ける事になります。今の秦は内外で分裂しており、民は為政者を恨んでおります。

章邯将軍は外で戦い兵士は苦労しておりますが、物資を補給出来ていません。

大臣達も互いに争う姿勢が見られ、非常に危険な状態なのです。」

子嬰はまたもや趙高の事を節操のない者として批判し、李斯の助命を願いますが、二世皇帝は李斯を処刑してしまいます。

趙正書の内容を見ても、章邯は苦戦し物資も届かず、苦戦している事が分かります。

胡亥の死
秦の宮廷では、趙高が丞相となり政務を執る様になると、粛清の嵐が吹き荒れる事になります。

秦の内部は、趙高により賢臣は殺され、趙高の意のままに動く連中だけとなっていったわけです。

函谷関の外では、劉邦が咸陽を目指し、項羽は王離率いる秦の精鋭部隊30万を鉅鹿の戦いで破った事で、秦は大打撃を受けています。

章邯は趙高に家族も処刑されていた事から、咸陽に戻る事も出来なくなり、殷墟で項羽に降伏しています。

函谷関の外では、秦はもはや反乱軍に対抗する戦力はなかったわけです。

こうした中で、趙高は胡亥から責任を追及される事を恐れ、謀反を起こし胡亥を誅殺する事を考えます。

この時に趙高は配下の閻楽と趙成に次の様に言った話があります。

趙高「陛下(二世皇帝胡亥)は、諫言を聞く耳を持たず、全責任を私に押し付けようとしている。

胡亥を誅殺し、子嬰を秦王に擁立しようと思う。

子嬰は、仁愛倹約の君子であり、民衆も子嬰に従っている。」

趙高は胡亥を殺害し、子嬰を秦王に立てる事にします。

胡亥は趙高の使者に命乞いをしますが、許されず自刃しています。

趙高を誅殺する
子嬰は趙高に秦王になる様に要請されますが、子嬰は趙高を苦々しく思っていたわけです。

子嬰は、趙高を誅殺する計画を立てる事になります。

趙高の内通
子嬰は趙高の要請により、秦王となります。

子嬰が秦の三世皇帝を名乗らなかったのは、既に秦は函谷関の外は領有していませんでしたし、皇帝を名乗ると反乱軍に敵視される事が原因と考えられています。

趙高は子嬰を秦王として即位させようとしますが、趙高自身は、武関に迫る勢いだった劉邦に内通した話があります。

既に、趙高は秦に見切りを付けていて、あわよくば劉邦と関中を二分し、自分が関中の王になろうと考えていました。

趙高は、王離や章邯が敗れた時点で、反乱軍に加担し、関中の王になろうと画策を始めたのかも知れません。

趙高を誅殺
趙高は子嬰に斎戒をさせ、宗廟を参拝させ玉璽を受け取る様に指示しました。

玉璽は一説によると、和氏の璧を使い造られたとも言われています。

子嬰の斎戒が始り5日が経過すると、子嬰は自分の子に向かい次の様に述べています。

子嬰「趙高は夷望宮で二世皇帝を殺害したから、群臣から非難を浴び誅殺される事を恐れて、儂を秦王に立てた。

趙高は既に、反乱軍の楚と内通し、関中の地を分けて王とするつもりである。

張高は儂に宗廟の参拝を行う様に言っておるが、行かなければ趙高は自ら儂の所にやって来るであろう。

趙高がやってきた所で、誅殺する事にしよう。」

子嬰が宗廟の参拝に行こうとしなかった為に、趙高は何度も使者を出しますが、子嬰が動く事はありませんでした。

痺れを切らした趙高は、自ら説得の為に子嬰の元を訪れますが、ここで子嬰は我が子を使って、趙高を暗殺しています。

さらに、子嬰は趙高の一族を誅殺し、秦王家に実権を戻しています。

趙高の死により、趙高の暴政は終わったわけですが、劉邦が咸陽に迫っており、秦は危機的な状況だったわけです。

尚、子嬰は秦王になった事で、秦王嬰と呼ばれる事もあります。

秦の滅亡
子嬰は秦が危機的な状況にある事は分かっていましたが、まだ秦には劉邦の軍勢を抑えるだけの余力があると判断し、交戦する事にしました。

しかし、反乱軍の勢いは強く、秦は滅亡する事になります。

嶢関の戦い
資治通鑑によれば、子嬰は劉邦の軍を防ぐ為に、嶢関に兵を配置し戦いを挑む事になります。

劉邦軍は連戦連勝の勢いに乗り、秦軍に攻撃を仕掛けようとしますが、軍師の張良が止めています。

張良は秦兵はまだまだ強く油断が出来ないと述べ、山上に旗を多く出し、大軍がいる様に見せかける様に進言しました。

大軍を秦に見せた後に、酈食其、陸賈を派遣し、秦将に和睦を求めたわけです。

秦の将軍も反乱軍の勢いと大軍を目にし、劉邦と和睦を結びます。

しかし、張良は秦の将軍が和睦に応じただけであり、秦の兵士は納得していないと判断し、劉邦に秦軍を急襲する様に述べたわけです。

劉邦は張良の進言を聴き入れ、不意に秦軍を襲い大破しています。

藍田南の戦い
劉邦の軍は武関を急襲して破り、藍田の南でも秦軍と劉邦の軍が戦った記録があります。

ここでも劉邦は旗差しものを多く使い大軍がいる様に見せかけ、通過する地方では略奪を禁じた為に、秦の人は劉邦の軍を喜んで向かい入れた話があります。

これを見ると函谷関の中でも、反乱軍が支持される様になった事が分かります。

秦軍は戦意を失い、劉邦は秦軍を急襲し大勝しています。

さらに、劉邦の軍は北方でも秦軍を破ったとあり、子嬰には降伏する以外に道は亡くなってしまったわけです。

この時に、子嬰は趙高が殺害してしまった「蒙恬がいてくれたら」と思った可能性もあるでしょう。

秦の滅亡は、始皇帝時代の有能な将軍である王翦、王賁、李信などの将軍が既に亡くなっていた事も響いたと思われます。

子嬰が即位した頃には、章邯の既に項羽に降伏していましたし、秦には骨のある将がいなかったとも言えます。

子嬰が降伏
劉邦は覇上に陣を移す事になります。

子嬰は首に軛を掛けて、伝国の玉璽や符節を函に入れ、劉邦に降伏したわけです。

子嬰がは趙高を誅殺してから、46日で劉邦に降伏したと伝わっています。

劉邦の諸将の中には、「子嬰を処刑するべきだ」とする声もあったわけです。

樊噲も子嬰を処刑する様に進言した話があります。

しかし、劉邦は次の様に述べています。

劉邦「既に降伏している者を殺害するのは不吉である。」

これにより子嬰は生かされる事になります。

子嬰が劉邦に降伏した事で秦は滅亡したと考える人もいます。

秦が諸侯になってから600年ほど続いたとされていますが、遂に秦も滅亡し、戦国七雄の歴史は幕を閉じる事になります。

子嬰の最後
劉邦が咸陽を占拠すると、樊噲や張良の進言もあり、秦の宮殿には留まらずに、覇上の陣に戻り宿営する事になります。

さらに、劉邦は「法は三法のみ」とし、略奪も禁止した事から、秦の民衆から支持された話もあります。

この時に、項羽は函谷関から秦の咸陽に向かっており、劉邦の左司馬である曹無傷は、項羽に褒賞を求めて次の様に述べています。

「沛公(劉邦)は、関中の王になる野心があり、宝物は悉く占有しております。」

これを見ると、子嬰が劉邦の配下として政治を行っている様にも見えますが、実際には劉邦は張良の進言により宝物を納めてはいません。

上記の発言は、曹無傷が項羽を炊きつける為の虚言だったのではないかと思われます。

項羽の大軍が函谷関を破り咸陽に近づくと、劉邦と項羽は鴻門で会談をする事になります。

これが鴻門之会であり、子嬰の運命を決める事になります。

鴻門之会では項羽の参謀である范増が、劉邦を殺害しようと企て、張良や項伯が劉邦を庇うことになるわけです。

樊噲の活躍や項羽配下の陳平が劉邦を見逃した事で、劉邦は無事に自陣に戻る事になります。

ただし、劉邦が項羽に完全に屈服した事で、子嬰の運命は決まったとも言えるでしょう。

項羽は咸陽の都に入ると、子嬰を処刑し、秦の都を廃墟と化してしまいます。

ここにおいて、秦は完全に滅亡する事になったわけです。

史記などでは、秦は項羽に滅ぼされたと記載があります。

秦の地は「雍」「翟」「塞」に三分割され章邯、董翳、司馬欣が王となり時代は、楚漢戦争に向かって行きます。

秦が滅亡した責任は子嬰にはない
国が滅亡すると、最後の皇帝なり王に責任が追及される事が多いです。

夏の桀王、殷の紂王、周の幽王辺りは、史書では悪く書かれており、国を滅ぼした原因とされています。

しかし、子嬰の場合はケースが違っており、胡亥と趙高が暴政を働き、秦はボロボロの状態でした。

既に劉邦は咸陽に迫っており、野球に例えれば9回ツーアウトで5-0で負けている状態で、バトンタッチされたのが子嬰だと言えるからです。

秦に関しては、前漢の賈誼による「過秦論」や史記でも色々と書かれていますが、秦滅亡の責任は子嬰にはないと考えるケースが大半と言えます。

子嬰の謎
子嬰が趙高から粛清されなかったのは、謎があります。

子嬰は趙高の事を「節操亡き者」とし、2回に渡り胡亥に述べているわけです。

子嬰は趙高を良く見てはいなかった事は確実ですが、何故か粛清される事がありませんでした。

胡亥や趙高は、秦の公子達も史書では、大半を殺してしまった事になっていますが、実際には誇張して書かれているのかも知れません。

それか、胡亥や趙高には、子嬰を殺せない理由があった可能性もあります。

子嬰は民衆に慕われていた話もあり、子嬰を殺害すると、世間が煩くなると考えた様にも思います。

他にも、子嬰の一族は強大な力を持っており、胡亥や趙高でも、罪を着せる事は出来なかったのかも知れません。

勿論、この辺りは記述がなく分かりませんが、趙高の事を容赦なく批判している子嬰が、趙高に粛清されなかったのは不思議に思いました。

趙高も自分を批判した事がある、子嬰を秦王に立てるのは危険だとは考えなかったのでしょうか。

この辺りは、かなり謎に感じています。
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2023/01/10 (Tue) 17:52:18

章邯
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章 邯(しょう かん、拼音: Zhāng Hán、? - 紀元前205年)は、秦の将軍。雍王。三秦の一人。弟に章平[注釈 1] がいる。

経歴
九卿の末席である少府を務めていた。

紀元前209年9月、陳勝・呉広の乱でかつて楚に仕えていた周文(周章)率いる反乱軍が函谷関を突破し、都の咸陽付近まで迫って来た時に、反乱軍の勢いと秦軍の少なさから始皇帝の陵墓で働いていた囚人20万人に武器を与え、これを反乱軍に当てるという策を献じ、自らその軍を率いた。戦功を挙げれば罪が許される囚人たちは決死の兵となり、周文の軍を打ち破り、周文を澠池で自決に追い込んだ。さらに内訌で呉広を殺害した田臧・李帰らを討ち取り、鄧説を破り、斉王田儋と元陳勝配下で魏の武将である周巿を臨済で戦死させ、魏王の魏咎を焼身自害させ、許にいた伍徐も撃破した。

さらに二世皇帝から援軍として送られた司馬欣・董翳と合わせて陳勝の本拠地である陳を攻撃し、紀元前208年には陳の西方で張賀の軍を破り、陳勝を敗走せしめた。その後、反乱軍を率いた項梁に対して章邯は、偽りの敗走を続けて侮らせ、項梁を死地に誘い込み、夜襲をかけて項梁を討ち取った。

その後、趙の反乱軍を攻略する際、最初に邯鄲の都を破壊した。ここに籠られたら攻略に数年を要するからであり、この報を聞いた張耳と陳余は青くなったという。次いで王離・蘇角・渉間に趙歇と張耳の籠る鉅鹿を包囲させた。だが紀元前207年、援軍にやって来た項羽の前に蘇角が戦死し、渉間が自決を遂げ、王離が捕虜となり反乱軍は勢いづき、さらに項羽は章邯軍の前まで一気に進軍し、秦軍は連敗を重ねた。章邯は司馬欣を都に送り皇帝に指示を請うが、逆に宮中の腐敗や趙高によってあらぬ罪を着せられ家族が処刑されたことを知った司馬欣に「功を立てても誅殺され、功を立てなくても誅殺される」と言われ、殷墟で将兵と共に項羽に降伏した。

この際、章邯・司馬欣・董翳の3名を項羽は鷹揚に助命したものの、3名に従った20万の秦兵は数で楚兵を圧倒しており、蜂起による楚軍の被害を憂慮した項羽の指示で、夜襲を受け坑殺された。3名は、後にこのことを知った秦の民から深く恨まれることになった。

楚軍に参加した章邯は秦が滅びると、「秦人の統治は秦人に任せるべき」との助言を范増から受けた項羽により、秦を3つに分割し、章邯を雍王に、司馬欣を塞王に、董翳を翟王に封じた。このことから彼らは「三秦」と呼ばれた。これは漢中の劉邦を監視し、巴蜀の辺境に死ぬまで封じ込める目的であったが、この人事は、万単位の同胞を殺戮されながら三秦はその張本人である楚の名代として舞い戻ってきたとして、秦人の憎悪をかき立てた。

その結果、紀元前206年秋8月に劉邦配下の上将軍韓信の部隊が関中に侵入した際にも、蜀の桟道を復興すると見せかけて、陳倉を暗に渡り(暗渡陳倉)、さらに秦人や、事前に韓信が手配した漢の忍びがこれを内密に手引きし、全く予期せぬ奇襲攻撃を受ける形になった。散関を守備する章邯の弟の章平は姚卬とともに好畤で迎撃して漢将紀信を討ち取るも[1]、結果的に敗れて好畤を包囲され、章平は姚卬とともに逃げ出した。廃丘にいた章邯は籠城して抵抗するが、水攻めに遭いわずかの手勢を率いて桃林に逃れた。翌紀元前205年になると、章邯は韓信の追撃を受けて自害して果てた。弟の章平も捕虜にされた。

その一方では、朱軫が章邯を捕らえた功績で都昌侯になったとあり、自害したという記述と食い違う部分がある[2]。また、林摯は章邯が立てた蜀郡の郡守を討ち取って平棘侯となったとある[2]。

さらに前漢の武帝時期の筆写にかかったとされる出土文献群の『北京大学蔵西漢竹書』中の『趙正書』は、『史記』秦始皇本紀の異伝を採録し、章邯が趙高を殺害したと記述されている[3]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%A0%E9%82%AF
15:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/10 (Tue) 17:53:43

秦の為に戦い秦人に恨まれた名将 章邯(しょうかん)
2018年3月17日
https://hajimete-sangokushi.com/2015/08/03/post-4969/


始皇帝が死ぬと、元々、人夫を運ぶ仕事だった陳勝(ちんしょう)達が蜂起して、100万を越える大反乱軍になります。

陳勝は、張楚の覇王と号して反秦を旗印にしました。

しかし、当時の秦で権力を握った宦官の趙高(ちょうこう)は、反乱軍など眼中になく、夢中で自分に反逆する秦内部の人間を殺すだけでした。

ほどなく、かつて楚に使えていた将軍周文(しゅうぶん)が咸陽に迫ります。

秦もここまでかと思った時、立ちあがったのが名将 章邯(しょうかん)でした。



秦を支えた章邯、大ピンチに趙高に直訴

章邯(しょうかん)は元々、武官でさえなく少府という九卿の末席にいる

官僚でしたが、周文が迫っている事で憂国の念を持ち

趙高に自分に反乱軍を討たせてほしいと直訴します。




内心、反乱軍を気にしていた趙高だが・・



趙高は、表面では何でもないようでしたが、

内心では反乱軍を恐れていました。



しかし、秦の有力な将軍は自分が殺しつくしていたので、

討伐に向かわせる将軍はいなかったのです。



章邯の申し出に趙高は応じて、章邯を将軍に任命しますが、

「軍勢は帝を守る為に一兵も裂けない」と言い放ちます。



ところが章邯には秘策がありました。




始皇帝の陵墓を造っていた囚人を反乱軍に当てる



「軍勢など、当てにしてはおりませぬ、、

ただ、先帝の陵墓を造り終え殺される運命の囚人を助命し

それがしにお与え下されば、それでよろしゅう御座る」



趙高は、どうせ殺すつもりの囚人なれば好きに使うがいいと

章邯に20万人の囚人を与えました。



章邯は、20万の囚人を前に演説します。



「聞けィ!!我が秦の都に反乱軍が迫っておる!

このままでは、秦は滅び、お前達の娘や妻は犯され、

男は殺され、家は焼かれ財産は奪われるだろう!!

お前達は、その罪により陵墓が完成した暁には処刑される運命だ。

だが!慈悲深い皇帝陛下のお許しにより、もし反乱軍を倒して、

秦の天下を盤石にしたら、お前達の罪は許される!



どうする?ワシと共に来るか?ここで死ぬか二つに一つだ!」



もう死ぬモノと諦めていた囚人20万は歓喜して、

章邯の軍勢に加わる事に同意します。



怒涛の囚人軍、周文を撃破し快進撃


反乱軍を倒せば自由の身になれると信じた囚人軍は、

周文の反乱軍に襲いかかり、これをあっと言う間に撃破します。



ここで章邯は、軍の組織を改編し、囚人の中でも統率力のある者を

抜擢して指揮官にして内部を統制しました。

これにより囚人軍は秦の正規軍に産まれ代わります。



ここから、秦軍は、反乱軍を討伐すべく各地を転戦します。

上司であった呉広(ごこう)を内紛で殺した、反乱軍の田臧(でんぞう)

李帰(りき)を討ち取り、鄧説(とうせつ)を破ります。



また、斉王を名乗って独立していた田儋(でんたん)と陳勝配下で

魏の武将である周市(しゅういつ)を臨済で戦死させ、さらに

魏王を名乗った魏咎(ぎきゅう)を焼身自害させます。



さらに許にいた伍徐(ごじょ)も撃破して勢いの衰えた反乱軍を

着々と片づけていきました。




秦より司馬欣・董翳が援軍に、章邯、陳勝を倒す


章邯の連戦連勝に、二世皇帝胡亥(こがい)は援軍として

司馬欣(しばきん)と董翳(とうえい)を派遣します。

章邯は、これらを纏めて、ついに反乱軍の本拠地である

陳を陥落させ陳勝は、本拠地を捨てて逃亡します。



陳勝は、これより間もなく、部下に愛想を尽かされて殺され、

ここに陳勝が起した反乱軍は壊滅しました。



章邯、反秦連合軍の項梁を戦死させる



しかし、陳勝の晩年には、すでに内部分裂が起きていました。

楚の項燕大将軍の子である項梁(こうりょう)は、甥の項羽(こうう)と共に、

兵を挙げ、楚の懐王の子孫を探して王位に就けて着々と勢力を拡大していました。



章邯は、項梁が度重なる戦勝で慢心していると見て取り、

わざと負けたフリをして、項梁を油断させます。



そして、一気に夜襲を掛けて項梁を討ち滅ぼしました。






章邯、張耳を鉅鹿城に包囲するも、項羽に撃破される
項羽 はじめての三国志002
次に章邯は、張耳(ちょうじ)と趙王が立て籠る鉅鹿城を包囲させます。

包囲には、蘇角(そかく)渉間(しょうかん)そして、

キングダムに登場する王賁(おうほん)の子である王離(おうり)も参加しました。



秦軍は、勢い盛んで反秦連合軍も鉅鹿城まで援軍に来るのですが

あまりの勢いに怖じ気づき、一歩も進まない有様でした。



ですが、反秦連合軍の急先鋒、項羽が鉅鹿城を救援にやってくると

状況が一変します。



秦軍は、蘇角が項羽に討たれ、渉間が自決し、王離が捕えられると、

一気に勢いを失い敗走を始めます。

それを遠くで見ていた反秦連合軍も、ここぞとばかりに攻撃を加え、

鉅鹿城は包囲を解かれ、秦軍はうって代わり、連戦連敗を続けます。





章邯、司馬欣を咸陽に送るが・・


進退極まった章邯は援軍を求めて部下の司馬欣を咸陽に派遣しますが、

彼がそこで見たものは、身に覚えのない罪と、

一族が既に趙高に殺されているという事実でした。



司馬欣は、命懸けで咸陽を脱出して章邯に告げます。



「万事休止です、あなたは功績を挙げても殺され、

失敗しても殺されます」



章邯は、ここに至って降伏を決意し項羽の軍門に下ります。






項羽、投降した秦兵二十万を一夜にして殺す



章邯は、降伏に際して、秦兵二十万の助命を条件にします。

項羽はこれを飲んだふりをしますが、楚の軍勢よりも遥かに多い

秦軍をそのままにしておくつもりはありませんでした。



ある日の夜、項羽は、秦の兵を崖に近い場所に宿営させてから

真夜中、いきなり銅鑼を鳴らして楚兵を襲いかからせます。



不意を突かれた秦兵は、唯一残された崖に向かい殺到、、

二十万人が、崖下に転落します。

項羽は駄目押しに岩を幾つも投入してトドメを刺しました。



章邯、司馬欣、董翳、三秦の王にしかし・・


章邯の降伏により秦は武力で立ち向かう力を無くし、咸陽は陥落

項羽は、ここで略奪の限りを尽くし、深く秦人に恨まれます。

天下を統一した項羽は、秦の領地を三分割し章邯、司馬欣、董翳

の秦人に統治を任せます。



人々は、これを三秦の王と言いましたが味方である秦の兵を

見殺しにして項羽に仕える3名を恨まない人はありませんでした。



章邯は、この頃には自暴自棄になり、毎日、酒びたりの生活を

送っていたと言います。




章邯、劉邦の奇襲の前に戦死



この三秦の王には、秦滅亡のもう一人の功労者である沛の劉邦を

巴蜀の土地に閉じこめ死ぬまで出さないという役割もありました。



ところが、秦の人民は章邯を恨んでいて命令を聞かず、

むしろ、劉邦に味方して劉邦が巴蜀を脱出するのを援助します。

当時、劉邦に下っていた韓信(かんしん)は大将軍として

先鋒を務めて章邯と戦い、これに連戦連勝します。



気力を失っていた章邯は勝てず、廃丘(はいきゅう)に籠り自殺しました。



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三国志ライターkawausoの独り言
kawauso 三国志


章邯は、始皇帝の死後、腐った大木と化した秦が倒れるのを

必死で支えた悲劇の名将です。



その軍略は文官にも関わらず卓越していて、反乱軍を次々に破り

一時的とは言え、秦の天下を回復しますが、

秦の権力を握る、趙高達のような奸臣はそのままだったので

僅かに秦の命脈を伸ばしたに過ぎませんでした。



特に、救うつもりだった秦の人民に項羽にへつらう

裏切り者と唾を吐かれた時の章邯の苦悩は思うに余りあります。

晩年は自暴自棄になり酒に溺れたという章邯の行動は、

果たして正しかったのか?それとも黙って秦が滅びるのを

待っていた方が良かったのでしょうか?
https://hajimete-sangokushi.com/2015/08/03/post-4969/
16:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/10 (Tue) 17:56:01

17:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/10 (Tue) 20:26:31

項伯
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E4%BC%AF

項 伯(こう はく、Xiàng Bó、? - 紀元前192年)は、中国の戦国時代末期から前漢初期にかけての政治家・武将。項燕の子で、兄弟[3] に項梁がいる。子は項睢(劉睢)。項羽の叔父であることや鴻門の会で劉邦を項荘から守ったことで知られる。[4][5]。後に劉姓を賜り劉 纏(りゅう てん)と改名した。


生涯
下相(現在の江蘇省宿遷市宿城区)の人。楚の名門・項家に生まれるも、紀元前223年に秦の始皇帝に派遣された将軍王翦によって楚が滅亡すると、国を追われた。下邳にいた際、任侠の行いをしていた張良と交際して、殺人を犯した時には匿われた[6]。

始皇帝の死後、兄弟の項梁と甥の項羽の会稽における挙兵に参加した[7]。

二世2年(紀元前208年)の項梁の死後は、項羽と行軍をともにし、二世3年(紀元前207年)における秦との戦いでは(鉅鹿の戦いなどで)諸侯とともに戦い、楚の左令尹(官名)となった[8]。

劉邦が咸陽に入り、秦王子嬰を降伏させて間もなく、高祖元年(紀元前206年)に入り、項羽が大軍を率いて函谷関を破り、関中に入ると両者の間に対立が生じた。項羽の腹心の范増は劉邦の殺害を項羽に進言し、項羽はそれを容れ、劉邦への攻撃を決断する。

項伯は、劉邦の食客・参謀である旧友の張良の身を慮り、夜間に馬を馳せて、当時覇上に駐屯していた劉邦の陣屋を訪れる。張良に会うと、細かく事情を説明し、「劉邦に従って一緒に死んではいけない」と言って、自分とともに逃亡することを勧める。張良は「(主君である)韓王成の命令で、劉邦を送ってきたのに、沛公(劉邦)の危急の事態を見捨てるのは不義です。沛公にはこの(項羽が今にも攻撃してきそうな事態であるという)ことを告げないわけにはいけません」と断る。また、却って項伯に劉邦と会うように強く勧めた。張良は劉邦のもとにいき、項伯と会うように説得し、劉邦は項伯が張良より年長であると聞き、兄として仕えることを決める。張良の説得を受け、項伯は劉邦と会見し、大杯の酒を捧げられ、健康と長寿を祝されて姻戚関係を結ぶことを誓約される。項伯は、劉邦から項羽への口添えを頼まれ、承諾する。また、劉邦に、次の日の早朝に鴻門にある項羽の陣屋に出頭して項羽に謝罪する事を勧める。劉邦はこれを了承した。

項伯は、その夜の項羽の陣屋に帰り、劉邦の言い分を項羽に報告する。項伯は、項羽に対して、「沛公が先に関中に入らなければ、公(魯公・項羽のこと)はどうして(関中に簡単に)入ることができたでしょうか。沛公には大きな功績があります。それなのに沛公を攻撃するのは不義です。ですから、よく待遇しておくに越したことはありません」と説得する。項羽は劉邦を攻撃しないことを許諾する[9]。

翌日、項伯の口利きにより、両者の会見が行われ、劉邦が項羽に謝罪する事で和解が成立し、両者和解の記念の酒宴となるも、この機を逃すべきでないとする范増は項羽の従弟の項荘に余興の剣舞にこと寄せて劉邦を殺す事を指示、この計略を覚った張良は、項伯に劉邦を守るよう合図を送り、項伯は項荘の相手役を演じ、さらに劉邦配下の樊噲がその場に乱入して劉邦を守った(鴻門の会)。

この後、劉邦は漢王となり、巴・蜀という僻地の王に封じられる。項伯は、張良から劉邦から賜った金100鎰[10]、珠玉2斗を贈られる。さらに、項伯は張良を通じて、劉邦から手厚い贈り物を受けて、その依頼によって、漢中の地を劉邦に与えることを項羽に請う。項羽は許諾し、劉邦は漢中の地を手に入れる[9][11]。

その後、劉邦が項羽討伐の兵を挙げた後も、項羽に仕え続ける。

高祖3年(紀元前204年)に離反した九江王英布が龍且に敗れ、劉邦のもとに逃れたときに九江に妻子を置いたままだったので、項羽の命で項伯の軍勢は九江を占領し、兵を収めた上で、英布の妻子を皆殺しにした[12]。

項羽は劉邦と広武において対峙していた時、彭越が梁の地で反して、楚軍の兵糧を絶ったために苦戦していた。そこで、項羽は人質にしていた劉邦の父である劉太公を高いまな板に載せて、劉邦に「今、すぐに降伏しなければ、劉太公を煮るぞ」と呼びかけた。劉邦は、「私は項羽とともに懐王に仕えて、その命令を受けていた。その時、(私と項羽は)義兄弟となることを約束した。すなわち、私の親父はお前の親父だ。どうしても、親父を煮たいというのなら、どうか、私に(親父の)吸い物を分けてくれ」と返す。項羽は怒り、劉太公を殺そうとしたが、項伯は「天下の事はまだどうなるか分かりません。かつまた、天下を取ろうとするものは家族を顧みません。(劉太公を)殺しても利益はなく、わざわいが増すだけです」と項羽に進言する。項羽は、項伯に従い、劉太公は殺さなかった。

その後は、項羽の勢力が衰えると楚漢戦争(垓下の戦い?)後に、項羽から離反して劉邦に帰順したようである。

劉邦は項氏の一族は殺すことはなく、項伯は劉邦から、かつての『鴻門の会』での功績と劉邦との姻戚関係を結ぶ約束、劉太公を救ったことなどにより、射陽侯に封じられる。同族の項它(平皋侯)と項襄(桃侯)・玄武侯(名は不明)もまた封じられた。

高祖6年(紀元前201年)正月、項它・項襄・玄武侯とともに劉姓を賜り、「劉纏」と改姓した。

死後と評価
恵帝3年(紀元前192年)に死去し、子の睢が跡を継いだが罪を犯したために国を除かれた[13]。

佐竹靖彦は、項羽と項伯らの関係を「項羽は(項伯ら)親族や姻戚という感情的に近しい連中の助言に頼ることになったが、かれらは項纏(項伯)をはじめとして、項羽を助けるよりは足を引っ張るほうに傾きがちであった」と評している[14]。

また、明代の通俗小説である『西漢通俗演義』の翻訳である『通俗漢楚軍談』では、項伯について、同時代の人々の噂話として、「なんと浅ましいことだ。項伯は長く項王(項羽)の家臣として、特に一族でも親しい親族であるのに、楚のために節に死ぬことせずに、喜んで漢の封爵を受けたばかりか、姓を劉氏に変えて平然として、人に恥辱があるということを知らない。(項伯は)本当に財を貪り、生命を盗む小人である」と批判している[15]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E4%BC%AF
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2023/01/10 (Tue) 20:27:03

項梁
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E6%A2%81

項 梁(こう りょう、拼音:Xiàng Liáng、? - 紀元前208年)は、中国秦代末期の武将・反乱指導者。陳勝・呉広の乱を引き継ぎ、秦に対する反乱を指揮したが、秦の章邯将軍に敗死した。項羽の叔父、楚の大将軍項燕の末子、項伯の兄弟[1]。自ら武信君と称した。項羽を養育したことでも知られる[2][3]。

生涯
下相(現在の江蘇省宿遷市宿城区)の人。項梁自身は櫟陽に住んでおり、ある罪に連座して秦に捕らえられたが、蘄県の獄掾をしていた曹咎に頼んで、櫟陽の獄掾でである司馬欣に手紙を送ってもらい、事なきを得た。のちに人を殺害して仇持ちとなったため、復讐を逃れて甥の項羽と共に江南地方の呉に逃れた。項梁はこの地の人々の信望を集めて、秦の賦役に対する人夫の割り当てや葬式を取り仕切るなど、顔役となった。またそれと同時に、後日を期してひそかに人材の見極めも行っていた。

二世元年(紀元前209年)9月、始皇帝が死に、陳勝らが挙兵して秦の支配体制が動揺すると、会稽郡守の殷通は項梁を呼び出した。殷通は、「先んずれば人を制すと言う。私も秦に対して反乱を起こすことに決めた」と言って、桓楚という有力者を探し出し、共に自分の旗下の将軍になる事を項梁に要請した。項梁は殷通に「桓楚の居場所は甥の項羽しか知らない」と言って項羽を郡庁舎に来させた。殷通の前に出た項羽は殷通を斬殺し、項梁は郡守の印を奪って自ら会稽郡守となった。なお、桓楚はこの挙兵後に項梁の配下に加わっている。

項梁は、前から知っていた主な役人を召して、大事を起こすことを伝えて、呉の地から兵を挙げて、8,000人の精鋭を得た。その上で、呉にいた豪傑を校尉・候・司馬に任じる。役に任じられない者が不満に思い申し出たが、「あなたは葬儀の時に与えた役割を果たせなかったため」と説明すると、皆、項梁に屈服した。項梁は会稽郡守を名乗り、項羽を裨將(副将)に任命し、諸県を従えた。

二世二年(紀元前208年)12月、陳勝が秦の章邯に敗北し、逃げる途中で部下の荘賈に殺害される。

同年端月[4]、広陵にいた召平[5] は呉に来て、陳勝の使いだと偽り、項梁を楚の上柱国に任命し、出兵を促した。項梁はこれを受け、8000の精兵を率いて出発した。

同年2月、途中の東陽県で陳嬰を加え、英布・蒲将軍などの軍を合わせて大軍となった項梁は、楚王を名乗っていた 景駒(楚の公族)とその腹心秦嘉と甯君を、彭城の東に攻めて敗走させる。

同年4月、追撃して胡陵で秦嘉を討ち取り、軍隊を降伏させた。景駒も梁(魏)の地で死んだ。この時、兵力は十数万人にもなった[6]。

項梁は胡陵に陣取り、栗県に進軍してきた秦軍を率いる章邯に対し、朱鶏石と余樊君を向けて戦ったが、余樊君は戦死し、朱鶏石は胡陵に敗走した。薛に進み、沛で挙兵していた劉邦も項梁に会いに来た。そこで、五大夫将を10人と兵士5,000人を増やして与える。劉邦は引き返し、豊を攻めた[7]。襄城に向けた項羽は、落城させて戻ってきた。項梁は陳勝が殺されたことを知り、各地の武将と薛において会合し、今後を相談した。劉邦も薛に集まってきた。

同年6月、反秦軍の領袖となった項梁は、居巣からやってきた范増の献言を入れて、楚の民の望むところに従い、旧楚の懐王の孫(玄孫とも)で羊飼いに身を落としていた心という人物を連れて来ると、祖父と同じ名前の懐王(後の義帝)として楚の王に擁立し、陳嬰を楚の上柱国に任じ、盱台を首都とした。項梁は武信君と名乗った。亢父に秦軍を攻める。

同年7月、斉国の田栄に、司馬の龍且を援軍に送り[8]、東阿を攻めていた秦軍を大いに打ち破った。しかし、田栄は斉王の田假を追い出し、田巿を王とし、田假は楚に亡命する。項梁は、秦軍を追撃し、斉軍とともに西に向かうことを願うが、田栄は「田假を殺すことが出兵の条件である」と答える。項梁が田假を殺すことを拒否したため、斉は援軍を送ることに同意しなかった。項梁は、兵を分けて、項羽と劉邦に城陽を攻めさせ、落城させる。二人は西進して、濮陽の東で秦軍を破る。秦軍が濮陽に兵をいれたため、二人は定陶を攻める。

同年8月、二人は定陶を落城させないままにして、西進して雍丘で秦を大いに破り、三川郡守の李由(秦の丞相李斯の長男)を討ち取る。二人は引き返して、外黄を攻めた。

項梁は外黄が落ちないうちに、東阿から定陶に向かい、秦軍を破る。項梁は秦を軽くみて、慢心するようになった。宋義に慢心を諌められたが、聞き入れなかった。宋義は項梁の軍から斉への使者として離れる途中で、斉の使者としてやって来た旧友の高陵君顕に出会い、彼が項梁の所に行く途中だと聞くと、項梁は必ず敗れるから行かないほうが安全だと忠告していた。

同年9月、秦は全兵力で章邯を増援しており、項梁は定陶において、枚(ばい)をくわえて夜襲をかけてきた[7] 章邯率いる秦軍に攻められて敗死した。

項羽と劉邦は、陳留を攻めていたが、項梁の戦死を聞き、兵士が恐れていると判断し、戦いの続行を断念して、呂臣の軍とともに、東に引き返した。章邯は、名将の項梁を討ち取り、楚国は恐れるにもはや足りないと判断し、趙国を攻めた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E6%A2%81
19:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/11 (Wed) 09:26:44

項羽
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E7%BE%BD

項 羽(こう う、Xiàng Yǔ)こと項 籍(こう せき、Xiàng Jí、紀元前232年 - 紀元前202年)は、秦末期の楚の武将。姓は項、名は籍、字が羽である。以下、一般に知られている項羽の名で記す[2][3]。

秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼし、一時“西楚の覇王[4]”(在位紀元前206年 - 紀元前202年)と号した。その後、天下を劉邦と争い(楚漢戦争)、当初は圧倒的に優勢であったが、次第に劣勢となって敗死した。

項羽は中国の歴史上最も勇猛といわれる将で、史家李晚芳は「羽之神勇、万古無二」といい、「覇王」という言葉は通常項羽を指す。


生涯

挙兵まで
項氏は代々楚の将軍を務めた家柄であり、項羽の祖父は楚の将軍項燕である。『史記』では本籍を下相としている。叔父の項梁に養われていた。

『史記』によれば、項羽は文字を習っても覚えられず[5]、剣術を習ってもあまり上達しなかった。項梁はそのことで項羽を怒ったが、項羽は「文字なぞ自分の名前が書ければ十分です。剣術のように一人を相手にするものはつまらない。私は万人を相手にする物がやりたい」と答えたので項梁は喜んで集団戦の極意である兵法を項羽に教えた。項羽は兵法の概略を理解すると、それ以上は学ぼうとしなかった[6][7][8]。

項梁に従い、呉に移住した。成人すると、身長が8尺2寸(1尺が23cm,1寸が2.3cmとして、身長約188.6 cm)の大男となり、怪力を持っており、才気は人を抜きんでていたこともあって、呉中の子弟はすでに項羽には一目置いていた。また、瞳が二つあったと伝えられる(重瞳)[9]。

反秦軍
秦末期、二世元年(紀元前209年)7月、陳勝・呉広の乱が起きると、同年9月、項羽は項梁に従って会稽郡の役所に赴いて、項梁に命じられて郡守である殷通の頭を斬り落とした。さらに、襲いかかってきた殷通の部下百人近くを一人で殺した。会稽の役人たちは項羽の強さに平伏し、項梁は会稽郡守となって造反軍に参加した。

その後、項梁は項羽に命じて、襄城を攻めさせ、項羽はやっと攻め落として、城兵を全て生き埋めにして凱旋した。

二世2年(紀元前208年)12月、陳勝が御者の荘賈によって殺害されると、同年6月[10]、項梁は范増から教えを請い旧王家の末裔・羋心を探し出してこれを「楚王」に祭り上げる。羋心は「懐王」を名乗り、大いに威勢を奮った。同年7月、項梁の命令で、項羽は劉邦とともに、城陽城を落とし、西に向かい、秦軍を濮陽の東で撃破した。二人は、定陶城を攻めたが、落とすことができず、さらに西に向かい、同年8月、雍丘において、秦の三川郡守である李由(李斯の長子)を討ち取る。引き返して、外黄を攻めたが、そこから去って陳留を攻めた。

しかし、陳留を攻めている時、同年9月、項梁は定陶で秦の章邯と戦い、戦死する。懐王は、盱台から彭城に移り、総大将となった。同年後9月[11]、懐王は、斉の使者に項梁の戦死を予言した宋義を楚軍を指揮する上将軍に任じ、項羽を次将にして魯公に任じる。章邯に攻められていた趙の救援は宋義が当たることになり、項羽は項梁の仇を討つため劉邦とともに関中を入ることを望んだが、懐王の老将たち[12] から、「項羽は勇猛ですが残忍で、以前、襄城で皆殺しを行い、通過する先々では残滅されないことはない」という反対があり、劉邦のみが関中に派遣され、西方の地を攻略することとなった[13]。

宋義は趙の張耳・陳余の救援要請を受けて趙の鉅鹿へ向かったが、進軍を安陽までで止めてしまい、46日間安陽に留まる。項羽は進軍すべきと宋義に直訴したが「秦が趙との戦いで疲弊したところを打ち破る」と言い、「狂暴で使命に従わないものは斬刑に処す」という項羽に対してあてこすった命令を全軍に出す。宋義は斉と和親するため、斉の宰相に就任しようと楚軍から離れていく息子の宋襄を送るための大宴会を開く。その一方で、兵は飢え、凍えて苦しんでいた。二世3年(紀元前207年)11月、項羽は、「秦が趙を打ち破れば、さらに強大になる。懐王は宋義を上将軍に任じ、国運を託しているのに、宋義は兵を憐れまず、子の出世という私事ばかり考えている。社稷の臣ではない」と言い、懐王の命令と偽り、宋義が斉と謀り反逆したとして、宋義が帰ってきたところを殺害する。諸将は項羽に従い、項羽を仮の上将軍とする。また、宋襄も追いかけて殺害した。懐王は、項羽を上将軍に任じ、項羽が趙救援の軍を率いることとなった。

項羽は北進を開始し、鉅鹿を包囲していた秦の章邯が率いる20万を超える大軍[14] と決戦を行い、大勝利を挙げる(鉅鹿の戦い)。この戦いで数に劣る楚の兵は皆一人で十人の敵と戦ったと伝えられる。同年12月、項羽の勇猛さと功績により各国の軍の指導者たちは項羽に服属し、項羽は各国諸侯の上将軍となり、諸侯の軍はその指揮下に入った。項羽はその後も章邯率いる秦軍を攻めて連戦連勝する。同年6月、章邯は配下の司馬欣や趙の陳余に降伏するよう進言を受け、項羽と盟約を結ぼうとする。この時の盟約は成立しなかったため、項羽はさらに章邯を攻撃して勝利して、章邯と盟約を結んだ。同年7月、章邯は降伏し、雍王に引き立てることで、戦いは終わった。降伏した20万人以上の秦兵を先鋒にして、新安に進ませた。

しかし、漢元年(紀元前206年)11月、暴動の気配が見えたため、新安において、夜襲を行い、章邯・司馬欣・董翳の3名を除いて、全て阬(穴に埋めて殺すこと)した[15]。

項羽は行く先々で秦の土地の平定を行い、同年12月、関中に入ろうとしたが、その時すでに、別働隊として咸陽を目指していた劉邦が関中に入っていた。劉邦は、項羽によって章邯が雍王になると聞き、劉邦が関中の王になれないと思い[13]、函谷関を兵で防ぎ、項羽の関中入りを拒否したため、項羽は関中に入れなかった。劉邦に関中入りを阻まれたことと、先に劉邦が咸陽を陥落させていたことを聞いて、項羽は大いに怒り、函谷関を攻撃して関中に入った[16]。また、劉邦の配下の曹無傷から「劉邦が関中の王となろうとして、元の秦王・子嬰を宰相にして、咸陽の財宝を自己の所有としました」と知らせたため、項羽は怒って、劉邦を攻め殺そうとした[17]。

劉邦は慌てて項羽の叔父の項伯を通じて和睦を請い、項羽と劉邦は酒宴を開いて和睦の話し合いを行い、劉邦は命拾いをした。これが有名な鴻門の会である。

西楚の覇王
項羽は劉邦を許した後、劉邦に降伏していた秦の最後の王である子嬰とその一族[18] を処刑して、咸陽を焼き払って財宝を略奪した。その後、ある論客から地の利が便利な咸陽を都とするように進言されたが、項羽はこれを聞き容れず、「富貴を得て、故郷に帰らないのは錦を着て、夜出歩くことと同じである。誰も知ってくれはしない」と語った。退出した論客は「人は『楚人とは沐猴(獼猴。猿の一種)が冠をつけているのと同じ(楚人沐猴而冠耳)』と申すが、まさにその通りである」と呟いたため、これを聞いた項羽は激怒して、その論客を捕らえて、釜茹でに処した[19]。

項羽は使者を彭城に使わして、懐王に報告を行うと、懐王は「始めの約(一番始めに関中に入った劉邦を関中の王になること)のようにせよ」と回答を行う。

同年正月、項羽も王になろうとして、秦を滅ぼすことに功績のあった諸将を王侯に任じた(十八王封建)。劉邦については、和解した上に、懐王の約に背きたくなく、諸侯に背かれることを恐れて、巴・蜀・漢中を与えて、漢王とした。項羽も自立して「西楚の覇王」と名乗り、楚の彭城(現在の江蘇省徐州市銅山区)を都と定めた[20]。また、懐王を尊んで「義帝」と呼んで楚王から格上げを行った。他の封建の詳細については楚漢戦争#戦争前の経緯参照[21]。

同年2月、遷都という名目で彭城から義帝を追い出し、長沙の郴県に移すことにした[22]。

同年4月、封建が終わると、項羽を含めた諸侯は領国に赴いていった。さらに留任させた韓王成を彭城に伴った。

楚漢戦争
同年5月、斉の王族・田栄が挙兵した。その後、封建に不満を抱く陳余や彭越が続々と項羽の封建した王に対して兵を起こす。

同年7月、項羽は、韓王成を侯に格下げして、殺してしまった。

同年8月、劉邦が挙兵し、関中に封じた章邯・司馬欣・董翳と交戦を行った。

紀元前205年10月、義帝の臣下は次第に背くようになり、項羽は、英布[23]・呉芮・共敖に命じて、その途中で暗殺させている[24]。

項羽は、かつて韓王成に仕え、劉邦に仕えていた張良から「劉邦は、懐王の約の通り、関中を得れば、東に進んで項羽と争う気はない」という書簡と斉(田栄)と梁(彭越)の謀反書を受け取ったため、同年正月、北上して斉を討伐する。城陽にて田栄を破り、田栄は平原まで逃亡して殺される。項羽はさらに北上して、北海まで進軍して、斉の城や家屋を焼き、田栄の降伏した兵士を生埋めにし、老弱や婦人をしばって捕虜とした。そのため、斉の人々は集まって抵抗して、田横が斉の兵を収めて城陽にて反抗した。項羽は田横と連戦したが、なかなか降伏させることができなかった。九江王に封じた英布にも救援要請を行ったが、病と称して拒否され、英布を恨むようになった。

また、三秦(関中)を平定し、洛陽にて義帝が殺害されたことを知った「漢王」劉邦は大義名分を得て、諸侯へ項羽の討伐を呼びかける[13]。これ以降の楚と漢の戦争を「楚漢戦争」と呼ぶ。

このときの諸侯に向けた檄文は以下のものであった。

「天下共立義帝,北面事之.今項羽放殺義帝於江南,大逆無道.寡人親為發喪,諸侯皆縞素.悉發関内兵,収三河士,南浮江漢以下,願従諸侯王撃楚之殺義帝者.(天下の人はともに義帝を立て、北面して仕えた。項羽が義帝を江南に放逐して殺したことは、大逆無道の行いである。私(劉邦)は自ら喪を発した。諸侯もみな喪服を着よ。関中の兵を全て発し、三河(河內、河東、河南)の兵を収め、南の方、江漢に浮かべて下っていき、諸侯王に従って、楚の義帝を弑した者(項羽のこと)を討つことを願う)」[13]

同年4月、劉邦は魏・趙などと連合して56万の大軍を率いて楚の彭城を占領するが、3万の精兵のみを率いて急行してきた項羽はこの大軍を一蹴し、20万余を殺戮する(彭城の戦い)。劉邦は敗走し、劉邦の父である劉太公や妻の呂雉は項羽の捕虜となった[25]。

淮南王である英布が漢につき、楚に反したため、項声と龍且に討伐を命じる。漢3年(紀元前204年)12月、龍且は淮南を攻撃して英布を打ち破り、英布は逃亡した。項伯を派遣し、淮南は占領する。[23]

同年4月、項羽は滎陽一帯に劉邦を追い込んだが(滎陽の戦い)、その間に、田横が田広を王として斉を手中にいれてしまった。諸侯は項羽に味方し、項羽は滎陽を攻め立てたが、劉邦側の陳平による内部分裂工作により、参謀にあたり亜父(父についで尊敬する人)とまで呼んでいた范増や、これまで共に闘ってきた鍾離眜・周殷・龍且の将軍らを疑うようになった。項羽は、范増の進言を聞き入れないようになり[26]、次第に范増の権限を奪ったため、范増は辞職を願い出、項羽はこれを認めた。范増は病死した[27]。

同年7月、劉邦は滎陽を脱出し、項羽はやっと滎陽を落とす。続いて成皋も包囲し、劉邦の脱出後に落城させるが[28]、彭越の後方撹乱行動によって西進を阻まれる。項羽は彭越を撃破するが、劉邦は成皋を奪回し、広武に陣地を布いた。項羽もまた、広武に赴き、劉邦と相対する。

項羽は、劉邦の父を人質にとり、劉邦に降伏をうながすが、劉邦に「項羽と兄弟となることを約束した。わしの父はお前の父である」と言われ、降伏を拒絶される。項羽は劉邦の父を殺そうとしたが、項伯に止められて断念する。

項羽と劉邦の対峙は続き、項羽の軍は次第に兵役と補給に疲れ果ててきた。項羽は劉邦と一騎打ちで戦乱の決着を求めるが、断られる。項羽は、楚軍の勇士に挑戦させるが、漢軍の楼煩に3度まで射殺される。項羽が自ら楼煩に挑戦すると、楼煩はその目を合わせると逃亡し、再度出てくることはなかった。

項羽は、劉邦と広武山の間にある澗水をへだてて語り合った。劉邦は、項羽の罪を数え上げた。その内容は以下のものであった。

「始與項羽倶受命懐王,曰先入定關中者王之,項羽負約,王我於蜀漢,罪一。項羽矯殺卿子冠軍而自尊,罪二。項羽已救趙,當還報,而擅劫諸侯兵入關,罪三。懐王約入秦無暴掠,項羽燒秦宮室,掘始皇帝冢,私收其財物,罪四。又彊殺秦降王子嬰,罪五。詐阬秦子弟新安二十萬,王其將,罪六。項羽皆王諸將善地,而徙逐故主,令臣下爭叛逆,罪七。項羽出逐義帝彭城,自都之,奪韓王地,并王梁楚,多自予,罪八。項羽使人陰弑義帝江南,罪九。夫為人臣而弑其主,殺已降,為政不平,主約不信,天下所不容,大逆無道,罪十也。吾以義兵従諸侯誅残賊,使刑餘罪人撃殺項羽,何苦乃與公挑戰!

(私が)はじめに項羽と一緒に「先に関中に入ったものを王とする」という懐王の命令を受けたのに、項羽が約束を破り、私を蜀漢の王とした。罪の第一である。

項羽は(懐王の命令を偽って)、卿子冠軍(宋義)を殺して、自分で上将軍という尊い地位についた。罪の第二である。

項羽が趙を救ったからには、(懐王の元に)もどって報告するべきである。しかし、(現実は)ほしいままに、諸侯や兵を脅して関中に入った。罪の第三である。

懐王は、「秦(の土地)に入ったら、暴虐・略奪してはいけない」と(項羽に)約したのに、項羽は秦の宮室を焼き、皇帝の墓を掘り、その財物を納めて自分のものとした。罪の第四である。

また、無理に降伏した秦王・子嬰を殺した。罪の第五である。

だまして、秦の子弟・20万人を生埋めにして、その将軍(章邯・司馬欣・董翳のこと)を王とした。罪の第六である。

項羽は(自分とともに戦った)諸将を皆、良い土地の王とし、元の君主を追い出して、臣下に争って(元の君主に)反逆させるように仕向けた。罪の第七である。

項羽は、義帝を彭城より追い出して、彭城を自らの都とし、韓王の土地を奪い、梁と楚(の土地を)併合して、多くを自分(の土地として)に与えた。罪の第八である。

項羽は、人を使って、義帝を江南において弑逆し、殺した。罪の第九である。

人臣でありながら、君主を弑殺し、降伏したものを殺し、不公平な政治を行い、盟約の主でありながら、まことではない。(項羽は)天下の許されないところであり、大逆無道である。罪の第十である。

私は、義兵をもって諸侯を従え、残虐な賊を誅するに、刑罰を受けた罪人を仕向けて項羽を打ち殺そうと考えている。何を苦しんで、君に挑み戦うことがあろうか![13]

項羽は、一騎打ちでの決着を劉邦に求めたが、劉邦は聞き入れなかった。項羽は隠し持った弩で劉邦を射た。劉邦は負傷して、成皋に逃亡した。

漢4年(紀元前203年)11月、項羽は漢に攻撃された斉の援軍として龍且を派遣するが、龍且は韓信と戦い、戦死する。また、彭越が楚に反して、梁の土地を占領し、項羽の軍勢の糧道を絶つ。項羽はそのため、大司馬の曹咎に打って出ないように注意した上で、成皋を任せて、彭越討伐に向かう。

項羽は東に向かい、外黄県が数日にわたり抵抗して降伏しなかったので、15歳以上の男子を全て、生埋めにしようとした。この時、外黄県令の舎人の子にあたる13歳の少年が、「外黄の人は、彭越に無理に脅されただけです。大王(項羽)が皆を生埋めにすれば、梁の土地は(項羽に生き埋めにされることを恐れて)降伏しないでしょう」と進言すると、項羽は同意して、外黄の人々を許した。これを聞いて(梁の土地は)みな争って降伏した。

しかし、成皋にいた曹咎は項羽の命令に反して城を出て漢軍を攻撃し、敗北した曹咎は自殺し、楚軍の財貨は全て奪われた[29]。項羽は引き返して滎陽の東で包囲されていた鍾離眜を救い、漢軍と対峙する。

項羽の軍勢は疲れ、兵糧も欠乏していることに対し、漢軍は軍勢が盛んで兵糧が多かった[30][31]。



四面楚歌

同年9月、項羽は、劉邦からの提案を受け、鴻溝を境に西側を漢の領地とし、東側を楚の土地とした上で、劉太公と呂雉を返還することで劉邦と盟約を結ぶことを承諾する。盟約は結ばれ、項羽は軍とともに東に帰る。この時、漢軍が盟約を破り、項羽の後背を襲った。項羽は、韓信と彭越の軍が合流していない漢軍を打ち破った。

劉邦は、韓信と彭越を再度誘い入れ、韓信・彭越・劉賈(劉邦の親族)が漢軍と合流。楚の大司馬の周殷も楚に反して漢軍につき、項羽のいる垓下に集まってきた。また、項羽の軍も陳において灌嬰・樊噲らに敗北する。[32]

漢5年(紀元前202年)12月、垓下では、韓信の兵力30万を始めとする諸侯連合軍に対し、項羽軍は10万ばかりであった。項羽は、一度は韓信を攻めて退けるが、左右から攻められ苦戦するところを再度韓信に攻められ、敗北する[13](垓下の戦い)[33]。項羽は垓下に拠ったが、兵は少なく、兵糧も尽きていた。この時に城の四方から項羽の故郷である楚の国の歌が聞こえてきた。これを聞いた項羽は「漢は皆已に楚を得たるか?是れ何ぞ楚人の多きや」と嘆いた。ここから四面楚歌の言葉が生まれた。項羽の兵は、漢軍が楚の地を全て得たものと考えた[13]。

その夜に項羽が本陣で酒を飲んだ時、虞美人[34] に送った詩が垓下の歌である。

「力は山を抜き,気は世を蓋う。時、利あらず、騅、逝かず。騅の逝かざるを奈何にす可き。虞や、虞や、若を奈何んせん!」

(私の)力は山を抜き、(私の)気は世を覆うほどである。(だが)時勢が味方せず、(愛馬の)騅も(疲れて)進まない。騅が進まないのに、どうしようか。虞よ、虞よ、お前をどうしたらよいか!

項羽が数回歌うと、虞美人も唱和した。項羽は落涙し、側近も泣き、仰ぎ見るものもなかった。

項羽は手勢八百余騎を率いて漢軍の包囲網を南へ突破する[35]。漢軍の灌嬰は騎兵五千で追撃した。項羽らが淮水を渡る時には手勢が百余騎にまで減っていた。陰陵県に着いた時に道に迷い、道を尋ねた田父に騙されて、沼沢の地に陥り、漢軍に追いつかれる。項羽は東に転じ、東城県に着いた。この時、28騎にまで減っていた。項羽は脱出できないと考え、従う騎兵たちに語った。

「私が兵を起こして8年。わが身は70余回戦った。(私が)当たった敵は破れ、討った相手は降伏し、いままで敗北したことはなかった。そして、覇王として天下を有したのだ。そうであるのに、今はこのように追い詰められている。これは、天が私を滅ぼそうとしているためであり、戦い方のせいではない(此天之亡我、非戦之罪也)。今日、まことに死を決した。願はくば、諸君のために決戦を行い、必ず三度勝とう。諸君のために、囲みをつぶし、(敵)将を斬って、(敵の)旗を倒すことで、諸君に天が私を滅ぼすのであり、戦い方のせいではないということを知らせよう」

項羽は28騎を4隊に分け、1隊を率いて四方に向かう。漢軍の一人の武将を斬り、包囲を突破する。さらに、漢軍の一人の都尉を討ち取り、百人近くを殺した。項羽の部下は2騎を失っただけであった。

項羽は長江を渡ろうとして、烏江(うこう、現在の安徽省和県烏江鎮)という所までやってきた。烏江の亭長に、

「江東は小さな所ですが土地は千里あり、万の人が住んでいます、彼の地ではまた王になるには十分でしょう。願わくは大王、早く渡ってください。今は私一人が船を出し、漢の軍は至っても渡ることはできないでしょう」

と言われたが、項羽は

「天が我を滅ぼすのに何故渡ろうか?私が江東の子弟八千人を率いてここから西へ出発し、今一人として帰る者が居ない。たとえ江東の父兄が哀れんで私を王にしようとも、私に何の面目があろう?たとえ彼らがそれを言わなくとも、どうして私一人が心に恥を感じずにいられようか」

と断った。項羽は自分の乗馬である騅を烏江の亭長に譲り渡し、従卒を下馬させ、漢軍を迎え撃ち、項羽みずから数百人の敵兵を討ち取った。この戦いで十数か所に傷を負った項羽は、追っ手の中に旧知の呂馬童がいるのを見つけると、

「漢は私の頭に千金と一万戸の邑を懸けていると聞く、旧知のお前にその恩賞をくれてやろう」と言って、自らの首を刎ねて死んだ。享年31。


死後

劉邦は項羽を殺した者に対して領土をかけていたので、項羽が死んだ時、王翳が頭をとり、その他の部分の死体に向かって兵士が群がり、死体を取り合い、殺し合う者が数十人にもなった。故に死体は五つに分かれた。劉邦はその五つの持ち主(楊喜・王翳・呂馬童・呂勝・楊武)に対して一つの領土を分割して渡した。漢軍の取った首級は8万人にのぼった[13][36]。

項羽が死ぬと、楚の土地は抵抗をみせるが、灌嬰・周勃ら派遣された漢の軍勢により平定されて漢に降伏する[32][37]。抵抗した中には、浙江を都にして王を名乗った壮息という人物もいた[38]。ただ、魯だけが降伏しなかったため、劉邦は全軍を率いて魯に赴き、項羽の首級を示すと、魯は降伏した。項羽が楚において魯公に封じられていたこともあり、最後まで抵抗した魯の地において、劉邦は魯公の礼を以て項羽を穀城に葬った。その際劉邦は、項羽の墓前で泣いてから去っていったという。

項一族のその後
項羽の死後、項伯(射陽侯)・項襄(桃侯)・項它(平皋侯)・玄武侯(名は不明)といった項一族は劉邦によって列侯に封じられ、劉姓を賜っている。

評価
司馬遷は『史記』の中で「項羽が勃興したことは何という速さだろう。項羽は土地も有していないのに、勢いに乗って民間の中から決起し、3年で秦を滅ぼし、天下を分けて王侯を封じて、覇王と名乗るまでになった。終わりこそ全うしなかったが、古今、いまだかつてなかった事業であった。(中略)(項羽は)自分のなすべきは覇王の業と考え、武力で天下を征服・管理しようとして、5年間で己の国を滅ぼし、自分自身も死んでしまった。それでも、死ぬ前にもまだ悟らず、自分を責めようとしなかった。『天が私を滅ぼすのだ。戦い方の過ちではない』と語ったのは、間違いの甚だしいものではないか」[39] と評価している。

ウィキクォートに項羽に関する引用句集があります。

京劇『覇王別姫』
項羽と同時代の人物であり、かつて項羽に仕え、後に劉邦についた韓信は、「項羽が叱咤すると、皆、恐れるが、すぐれた将に任せることができない。これは『匹夫の勇』である。また、人と会うと相手を敬い慈しみ、言葉づかいは穏やかで、病気の人には涙を流して食事を与えるが、手柄のある人に土地や爵位を授けることはできない。これは『婦人の仁』である」、「項羽が行き過ぎるところで、残滅されないことはなく、天下の人は大きな恨みを持ち、民衆はなつかず、ただその威と強さを恐れているだけである。覇王と名乗っているが、実は天下の人心を失っている」と評している[40]。

同じくかつて項羽に仕え、劉邦についた陳平は、「項羽の人柄は人に対して謙虚で敬い愛しするため、高潔で礼を好む士が数多くその元に向かう。しかし、功績を立てて土地や爵位を与えることを惜しむため、士はなつくことはない」、「項羽は人を信じることができず、愛し任せるのは、一族か妻の親族だけである。優れた人物がいても用いることができない」と評している[41]。

劉邦に仕えた随何は、「項羽は斉を討ち、自分で資材を背負って、兵士の先頭に立っている」と評している[42]。

劉邦は、「私は張良・蕭何・韓信という三人の人傑をうまく用いて天下を得ることができたが、項羽はただ一人の范増を用いることができなかった。これが、項羽が私に敗北した理由である」と評している[43]。

項羽の参謀として仕えた范増は、「他人にひどいことをすることに忍びない」と評している。

項羽は劉邦と対照的な性格とされ、それを示す逸話として項羽と劉邦がそれぞれ始皇帝の行幸に会った時の発言がよく取り上げられる。項羽は始皇帝の行列を見て「彼奴に取って代わってやるわ!」と言ったが、劉邦は「ああ、大丈夫たる者、ああならなくてはいかんな」と言ったと伝えられる[44]。

『史記』の中で、項羽の事項は第7巻・項羽本紀を立てられている。なお、この項羽本紀は『史記』の中でも特に名文の誉れが高く、日本の『平家物語』における木曾義仲の最期を描いた場面は、項羽本紀に於ける項羽の死の描写に影響を受けているといわれている。

司馬遷が、項羽の伝記を本紀に立てたのは、後世に異論があり、司馬貞は『史記索隠』において、「項王は崛起して雄を一朝に争う。たとひ西楚を号すと雖も、竟(つい)に未だ天子の位を践まず、本紀と称すべからず」と論じている。これに対し、『史記会注考証』(を編纂した瀧川龜太郎)は、項羽の伝記は本紀に立てることを肯定する張照や馮景の論を引用して、二説を是として、項羽本紀を立てたことを妥当としている[45]。

司馬遷は、項羽を歴代帝王の一人として認めたのではないが、『史記』の執筆者としては、当時の事情として、秦漢の間に項羽本紀の一遍を立てるのは、また当然と考えたのであろう[46]。

項羽が、天下を取ったか否かは意見が分かれている[47] が、現時点では世界史にて西楚は歴代王朝には名を連ねていない。

近年の項羽評価としては、漢文学者の吉田賢抗は、「鴻門の会では俎上の鯉の如く遇した劉邦と、遂に所を換えて垓下の一戦で敗れ去ったのには、一掬の涙を禁じ得ない。彼がしばしば言った如く、彼の豪勇と戦略は比類で、はるかに劉邦にまさり、漢軍を窮地に逐いこみながら、再三長蛇を逸したのは、その智謀において一籌を輸したとみるべきだろうか」としている[46]。

永田英正は、著書『項羽―秦帝国を打倒した剛力無双の英雄』において、「項羽は教養もあり、礼儀正しく、純情で正義感の強い男であったが、ひとたび腹を立て怒りを発すると自己を抑制することができず、残忍な行為にはしった」、「かれはまた気にいらないものは徹底的にしりぞけ、利を以て味方につけるという打算的な考えを持ちあわさず、さらには貴族の生まれからくるエリート意識が強烈で、すべて独断専行したために協力者を失い、民衆の心を失ってしまった」、「項羽の敗北は、いうなれば戦国武断主義の敗北であり、対する劉邦の勝利は新しい中国的合理主義の勝利であったとみることができる」と評している[48]。

また、佐竹靖彦は著書『項羽』において、 「皇帝劉邦に対する御前会議である『楚漢春秋』を根本史料とする『史記』は、項羽の敗北を導いたかれの性格的な弱さについて過剰な記述をのこしている」[49](ただし、同時に、「『史記』は中国史書のなかで、もっとも虚構の要素の少ない史書である」としている[50])、「歴史的に見たときに、項羽が果たした最大の功績は、この一千年にわたる西高東低の地政学的状況に終止符を打ったことだろう。(中略)東西の統合あるいは融合の形勢はいっそう深化するとともに、地政学的な重心もまたこれに対応して東遷した」[51]、「お互いに熱い心で結びついていた人びとが、やがて項羽から離れていき、かれが孤立したことは事実である。(中略)これらすべての問題の基礎にあるのは、弱冠24歳で蜂起した項羽の心に、楚国への愛、楚文化への愛、楚の民衆の愛のみがあって、これを周囲のさまざまな要素とのあいだに正しく位置づけることのできない狭さがあったという事実である」[52] としている。

項羽の短くも苛烈な生涯に多くの人々が魅了されてきたのも事実であり、京劇の「覇王別姫」は現在も人気の演目となっている。
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20:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/11 (Wed) 09:27:20

虞美人
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虞美人(ぐびじん、拼音:Yú Měi-rén、紀元前233年? - 紀元前202年?)は、秦末から楚漢戦争期にかけての女性。

生涯
項羽(項羽)の愛人[1]。正確な名前ははっきりしておらず、「有美人姓虞氏」(『漢書』巻31陳勝項羽傳第1[2])とも「有美人名虞」(『史記』巻7項羽本紀 第7[3])ともいわれ、「美人」も後宮での役職名(zh:中國古代後宮制度#秦朝参照)であるともその容姿を表現したものであるともいわれる。小説やテレビドラマでは項羽の妻として描かれ、虞を姓とし「虞姫」と紹介されているものが多い。

項羽との馴れ初めについては『史記』にも『漢書』にも一切記載されておらず、垓下の戦いで初めて「有美人姓虞氏 常幸從[2]」、「有美人名虞 常幸從 駿馬名騅 常騎之[3]」(劉邦率いる漢軍に敗れた傷心の項羽の傍にはいつも虞美人がおり、項羽は片時も彼女を放すことがなかった)と紹介されている。

なお、明代の通俗小説である『西漢通俗演義』(日本語訳『通俗漢楚軍談』)では、項羽の武勇を知った会稽塗山の近隣にある村の父老である虞一公が項羽を家に招き、娘である虞姫(虞美人)を項羽に娶せるために会わせた時を馴れ初めとする。虞一公によると、虞姫は、「聡明で貞淑であり、幼い時から書を読んで大義に通じている。母が虞姫を生むとき、部屋で五羽の鳳凰が鳴く夢を見たため、後に貴人となることと分かり、誰にも嫁がせなかった」であるとされる。項羽は、虞姫の美しい容姿を見て、婚姻を約束して、宝剣を渡していったん別れる。その後、吉日を選んで婚姻を結び、一族の虞子期を大将に取り立てている。また、『西漢通俗演義』では「虞后」と表記した部分があるため、虞姫は項羽の正室という扱いとなっているものと思われる。また、虞姫は作品の途中から参謀のように、項羽を諫め、諫めを聞かなかった項羽を許し、励ます武人の妻としての道義をわきまえた存在となっている[4][5]。

後に、劉邦軍により垓下に追い詰められ、四面楚歌の状態になって自らの破滅を悟った(思い込んだ)項羽は彼女に、

力拔山兮氣蓋世 (力は山を抜き 気は世を蓋う)
時不利兮騅不逝 (時利あらずして 騅逝かず)
騅不逝兮可奈何 (騅の逝かざる 如何すべき)
虞兮虞兮奈若何 (虞や虞や 若を如何せん)

— 垓下歌[6](垓下の歌)『史記』巻7項羽本紀 第7[3] 司馬遷、『漢書』巻31陳勝項羽傳第1[2] 班固
と歌い、垓下から脱出する[7]。

『史記』の引く『楚漢春秋』には虞美人の返歌が載せられている。

漢兵已略地, (漢兵、已に地を略し、)
四方楚歌聲。 (四方は楚の歌聲。)
大王意氣盡, (大王の意気は盡き、)
賤妾何聊生。 (賤妾、いずくんぞ生を聊んぜん。)

最期
『史記』および『漢書』ではその後の虞美人について一切記述されていない。

五代十国時代の閻選『虞美人』や孫光憲『虞美人』という詞では、項羽の死後も虞美人は生きていて、愛する項羽をいつまでも思い続けている[8]。

その一方で、北宋に編纂された『太平寰宇記』には敗走する項羽が虞美人を殺して鍾離県に埋葬したという記録が残る[9]。

また、北宋の曾鞏の作と伝わる『古文真宝』の前集に掲載された『虞美人草』という作品では虞美人は自殺したとされる[8]。

明代の『伝奇』と呼ばれる歌劇である『千金記』では、虞美人は、生きるために劉邦に仕えるように自分に言って聞かせる項羽に対し、自殺を願い出る。項羽は虞美人の自殺を了承し、青峰という宝剣を虞美人に渡す。虞美人は命を絶ち、項羽は虞美人の死を悲しみ、その最期を史書に残すように部下に命じる。虞美人は、自分の意思で貞操を貫く烈婦とされている。

明代の通俗小説である『西漢通俗演義』(日本語訳『通俗漢楚軍談』)では、劉邦の寵愛を受けて生き残るように勧め、置いて去ろうとする項羽に対し、男装をして項羽に同行とすると言って項羽から宝剣を借りいれ、「項羽から受けた恩を返していない」と言って自刎する。項羽は、虞美人の予期せぬ行動に驚き、嘆き悲しむ。

京劇である『覇王別姫』では、項羽を酒で慰めて励まし、項羽を落ち延びさせるために、足手まといにならないように自刎している[4]。

明代の『両漢開国中興伝志』でも項羽が虞美人を「酒色の徒だから殺すまい」と劉邦に預けようとすると、それを拒否して自害している。

渡辺精一は、虞美人の自殺云々についても、女性の貞節が口うるさく言われるようになった北宋時代からそのような話が出てくるようになったと推測している[8]。

自殺した虞美人の伝説はヒナゲシに「虞美人草」という異名がつく由来となった[10]。

墓所
虞美人の墓所については複数の記述が残っている[11]。

『史記』注「括地志」には、土地の古老の言い伝えによると濠州定遠県(現在の安徽省滁州市定遠県)東六十里に美人の塚があると記される。『蘇詩補註』巻五の引く『太平寰宇記』では定遠県の「南」六十里の場所にある高さ六丈の塚で、俗に「嗟虞墩(虞美人の嘆き塚の意)」と呼ばれている。『宋会要輯稿』には、泗州虹県(現在の安徽省宿州市泗県)の北境。『石湖詩集巻十二』注によると同じく虹県下馬鋪を北に三十七里の場所。『施註蘇詩』が引く「九域志」によると項羽が逃走中に迷った陰陵城(鍾離県西六十里、現在の安徽省滁州市定遠県永康鎮)の付近に墓所を建てたとする。

上記のいずれの説も垓下(現在の安徽省宿州市霊璧県)の北部か南部に隣接する場所にあたる。

虞美人の墓と伝えられる遺跡が、現在の定遠県の東50キロメートル先にあり、建物が建築されている。佐竹靖彦は、楚(項羽)政権の中枢を占めていた南楚九江郡出身の豪族たちの支配地に虞美人の墓と伝わる遺跡が存在しており、「項羽亡きあとも項羽を慕いつづけた人びとの里、項羽神話をつくり出した人びとの住む地域なのであって、そこに虞美人の墓と伝えられる遺跡がのこされていることは荒唐無稽なことではない」としている[12]。
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21:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/11 (Wed) 09:35:25

項羽(項籍)は最強の猛将。最後は史記でも屈指の名場面
2022年8月22日
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項羽(項籍)は史上最強の猛将とも呼ばれる人物です。

中国史上最強の武将は誰か?という話題になると、必ず候補に挙げられるのが項羽だと言えるでしょう。

項羽は史上最強とも呼べる武力を持ちながらも、劉邦に最後の最後で敗れた事でも有名です。

ただし、項羽の最後は史記でも屈指の名場面であり、項羽の最後は美しく描かれています。

今回は史記や漢書などの記述を元に、史実の項羽がどの様な人物だったのか解説します。

尚、項羽は『羽』が字であり、本来は項籍と呼ぶべきなのかも知れません。

しかし、ここでは多くの方が呼び慣れた項羽で統一したいと思います。

目次[表示]

項羽は項燕の孫
項羽の祖父は、戦国時代末期の楚の名将である項燕です。

項燕は奮戦しますが、最後は楚王に擁立した昌平君と共に最後を迎える事になります。

項羽の父親は項燕の子のうちの誰かなのですが、名前が伝わっていません。

もしかしてですが、項燕と秦の王翦が激突した時に、項羽の父親は討死してしまった可能性もある様に思いました。

他にも、秦は旧戦国時代の有力者に対して懸賞金を出して逮捕していた話しもあり、項羽の父親は逮捕されて処刑された可能性もあるでしょう。

項燕の子の中に、項梁なる人物がおり、項羽は項梁に育てられる事になります。


項羽が兵法を憶える
項羽は若かりし頃に、文字を習ったが大して覚えられませんでした。

項梁は項羽に机の上の事は向かないと思ったのか、剣術を学ばせる事にします。

しかし、剣術も項羽は興味を持たなかった様で、直ぐに飽きてしまいます。

長続きしない項羽に項梁は怒りますが、項羽は次の様に述べています。

項羽「文字は名前や名字が書ければ十分です。

剣術は一人を相手にするだけなので、習う程の価値はない。

私は万人を相手に出来る様な術を習いたいのです。」

項羽の話を聞いた項梁は、項羽に兵法を学ばせました。

項羽は兵法を学べると分かると喜び、兵法を粗方マスターしたわけです。

しかし、項羽は兵法を深く覚えようとはしませんでした。

個人的に、項羽が軍事に関して天才的だと思うのが、剣術に興味が無くても、後の戦いを見るに圧倒的に武芸に優れていた点です。

さらに、兵法もある程度の勉強をしただけで、必要最低限の要素などは覚えてしまったのでしょう。

項羽の戦いは直感的に判断する事が多い為か、項羽は兵法書を執筆出来る様な人ではないはずです。

しかし、必要最低限だけ覚えたと言うのは、頭でっかちになってしまった蜀の馬謖や趙括などに比べると、遥かにマシだったとも言えます。

ただし、項羽は兵法を芯まできちんと学ばなかった事で、後年に韓信の献策を受け入れる事が出来なかった可能性もあるでしょう。

始皇帝の遊行
項羽は項梁と共に、櫟陽にいましたが、項梁が罪を犯してしまいます。

項梁は曹咎(そうきゅう)や司馬欣に助けられますが、呉に逃亡する事になります。

項羽と項梁は呉で暮らしますが、始皇帝の最晩年の遊行を見る機会がありました。

始皇帝の行列を見ると、項羽は次の様に語った話があります。

項羽「奴に取って変わりたいものだ。」

この時に、項梁は慌てて項羽の口をおおい「そんな事を言えば、一族皆殺しにされるぞ。」と注意した話があります。

ただし、史記の項羽本紀によれば、項羽の始皇帝への言動を聞いた項梁は、項羽を奇傑だと評価しています。

奇しくも後年にライバルとなる劉邦の始皇帝の行列を見ており、次の様に語った話もあります。

劉邦「男たるもの、あの様で無ければならぬ。」

項羽と劉邦の言動は、お互いの性格を現わしているとも考えられ、対比される事が多いです。

優れた身体能力
史記には項羽の身体に関する記述があり、身長は八尺であり、高身長だった事が書かれています。

さらに、鼎を持ち上げる事が出来る程の怪力であり、才気があったと記録されています。

これらの記述から項羽は極めて高い身体能力があった事が分かります。

武芸を大して学ばなくても、身体能力の高さで人を圧倒する事も出来たのでしょう。

項羽の戦いの強さの源は、自らの身体能力の高さにあったのかも知れません。

三国志に登場する小覇王と呼ばれた孫策や、父親の孫堅も身体能力が極めて高かった話があります。

名将のパターンの一つに身体能力の高さがあり、長時間に渡って軍隊を指揮したりできるだけの体力がある事も、名将の一つの条件になるのでしょう。

ただし、全ての名将と呼ばれている人物が体力が高かったわけではなく、南北朝時代の韋叡(いえい)の様に体が弱く、儒者の格好で軍を指揮した例もあります。

項梁の挙兵
始皇帝死後に胡亥が即位し、宦官の趙高が実権を握る様になると、世の中の秦に対する不満が噴出します。

こうした中で、陳勝呉広の乱が勃発し、反乱は瞬く間に全国に拡がったわけです。

会稽太守の殷通は「先んずれば人を制す」の言葉に従い、項梁と桓楚の二人を将軍とし、反秦の挙兵をしようと考えます。

この時に、項梁と殷通は面会しますが、項梁は項羽に命じて殷通を殺害してしまいました。

項梁の行動に驚いて騒いだ者もいましたが、項羽が数十人撃ち殺したとあります。

これを見ても、項羽の度胸と腕力は天下一品のものだった事が分かるはずです。

項梁は兵を集めて挙兵し、項羽は項梁の副将となりました。

挙兵した時の項羽の年齢は24歳だったと伝わっています。

まとまりがない反乱軍
陳勝の決起から始まった反秦運動ですが、纏まりが全くない状態でした。

陳勝が武臣、張耳、陳余らに趙を攻略させれば、武臣は趙で独立し、武臣が韓広に燕を攻略させれば、韓広が燕で独立と言った具合です。

他にも、周市が魏咎を魏王に擁立したり、斉では田儋らが王を名乗っています。

同盟は結びながらも纏まりが無かったのが、反秦連合軍だったと言えるでしょう。

こうした中で、周文(周章)が函谷関を抜き、秦の都に迫りますが、囚人兵を率いた秦の将軍である章邯に敗れています。

陳勝も章邯に破れ、陳勝は部下の荘賈に殺害されています。

しかし、陳勝が亡くなった情報は項梁陣営に伝わるのが遅く、項梁は召平により、楚の上柱国に任命されました。

こうした中で、項梁の軍の中に項羽はおり、快進撃を続ける事になります。

襄城攻め
項梁の軍は挙兵すると、各地から兵が集まり大勢力となります。

自分に従わない勢力である秦嘉に擁立された景駒を討つ等、項梁の軍は確実に勢力を拡大させます。

こうした中で、項羽が自ら兵を率いて襄城を攻撃しました。

襄城は堅固に守り、項羽は中々降す事が出来なかったわけです。

しかし、襄城が陥落すると項羽は敵を全て穴埋めにしてしまいます。

項羽は多くの者を穴埋めなどで殺害しており、襄城での穴埋めは序章に過ぎません。

項羽は襄城を陥落させた事を、項梁に報告したとあります。

因みに、史記の高祖本紀には『劉邦が項梁に従って、一カ月余りで項羽が襄城を陥落させ帰還した。』とする記述があります。

劉邦が項梁の陣営に加入したのは、項羽が襄城を攻めている最中だったのでしょう。

項羽と劉邦が出撃
項羽と劉邦は項梁の配下で共闘する事になります。

楚の懐王
項梁の元に行方不明となっていた陳勝が本当に亡くなったとする情報が入ってきます。

項梁は諸将を集めて会議を開き、范増の進言により、楚王の後裔を探し出し、楚王に即位させる事にします。

項梁は羊飼いをしていた楚の懐王の孫である「心」を見つけ、祖父と同様に楚の懐王を名乗らせています。

戦国時代の楚の懐王が秦で亡くなったのが、紀元前296年なので、80年以上も経っている状態です。

その為、項梁が擁立した楚の懐王は既に、高齢だったとも考えられています。

楚の上柱国には陳嬰がなり、項梁は武信君と号しました。

項梁が楚の最高官である上柱国にならなかったのは、項梁が懐王と一緒に後方にいれば、軍事が停滞すると考えたからでしょう。

後述しますが、項羽としてみれば楚の懐王を擁立したのは、項梁であり項家のお陰だと考えていた様です。

尚、項梁は楚の懐王がいる首都を盱眙に定めました。

項羽と劉邦
項梁は項羽と劉邦に命じて、成陽を攻めさせています。

項羽と劉邦は成陽を落とすと、西では濮陽を陥落させています。

さらに、項羽と劉邦は雍丘と落とし、秦の丞相である李斯の長子が守る、李由を斬るなど大いに秦軍を破りました

項梁も自ら兵を率いて、章邯を破るなど大戦果を挙げています。

この時に、楚軍は絶好調であり各地で秦軍を破ったわけです。

項梁の死
項梁の軍は好調であり、項梁に驕りの心が見え始めます。

宋義は項梁を諫めますが、聞き入れられる事はなく、宋義は斉への使者として出されます。

章邯は項梁を急襲するチャンスを伺っており、定陶を急襲し項梁を斬る事に成功しました。

章邯は項梁を討ち取ると、趙を平定すべく北に向かいます。

項梁は項羽の父親代わりでもあり、項梁の死は項羽にとって、衝撃は大きかったはずです。

項梁は唯一項羽を制御できる人物でもあり、項梁の死は項羽にとっても不幸な出来事だった事は間違いないでしょう。

項梁が生きている間は、項羽は戦いに集中すればよく、最も活躍出来た時代の様にも思います。

尚、項梁が死ななかったら、項羽は有能な将軍として生涯を終えていた可能性もある様に思います。

兵を東に戻す
項羽と劉邦は、項梁の死を聞くと、次の様に述べた話があります。

「武信君が敗れた事で、士卒は恐れを抱いたであろう。」

項羽と劉邦は呂臣の軍と東に向かい、呂臣は彭城の東、項羽は彭城の西、劉邦は碭に駐屯しました。

快進撃を続けていた項羽と劉邦ですが、項梁の死により軍を東に戻さなければならなくなったとも言えます。

楚軍に思わぬ所で、土がついたとも言えるでしょう。

軍を二つに分ける
楚の懐王は項梁が敗れると、都を盱眙から彭城に移しています。

楚の懐王はここで退いてしまったら、秦軍に必ず敗れると判断したのか、前線に近い彭城に遷都したわけです。

楚の懐王は軍を二つに分ける決断をします。

一軍は劉邦が率いる事になり西行し、秦の首都である咸陽を目指します。

もう一つの軍を宋義を上将軍とし、次将に項羽、末将に范増を命じました。

宋義の軍は卿子冠軍と号し、項羽が魯公に任命されています。

楚の懐王は士気を高める為に、次の様に言いました。

「最初に関中に入った者を関中の王とする。」

秦の都を最初に落とした者を関中の王にすると、懐王は宣言したわけです。

ただし、劉邦は秦の咸陽を直接目指す事になりますが、宋義や項羽の軍は趙への救援を命じられました。

つまり、宋義や項羽は関中へ行くには、遠回りが必要であり、楚の懐王による項羽らに対する嫌がらせと考える人もいます。

項羽は襄城の戦いで住民を穴埋めにした事もあり、楚の懐王が項羽の残虐性を危惧したとする説もある様です。

項羽は宋義の下で、趙を目指す事になります。

宋義を斬る
宋義の軍は北上して、趙を目指します。

安陽に到着すると、宋義は軍を停止させ46日間も滞在しました。

宋義の言い分としては、秦と趙を戦わせておき、秦軍が疲弊を待ち軍を北上させると述べたわけです。

しかし、実際には自分の子である宋襄を斉の大臣にするなど、政治工作を行っています。

項羽は本気で趙を救いたいと思っていた様で、兵士の士気が下がり始めていた事もあり激怒します。

項羽は遂に宋義の所まで行き、宋義を斬り捨ててしまいます。

さらに、項羽は宋襄にも追手を出し、宋襄を斬る事にも成功しました。

項羽は宋義の軍を奪い、桓楚を楚の懐王に派遣し事後報告を行います。

楚の懐王は項羽を上将軍に任命しています。

項羽は上将軍になると、兵を率いて北上し趙に向かいます。

鉅鹿の戦い
項羽の最大の見せ場と言ってよいのが、鉅鹿の戦いだと言えます。

圧倒的な秦軍
項羽は鉅鹿に到着しますが、秦の正規軍を率いた王離が鉅鹿の城を包囲していました。

この時の王離の軍は圧倒的であり、趙へ援軍に来た諸侯らは、救援の軍を出せず見守るのがやっとだったわけです。

鉅鹿の城では趙歇と張耳が窮地に陥りますが、張耳と刎頸の交わりを結んだ陳余や張耳の子である張敖ですら、傍観する事しか出来ませんでした。

さらに、王離は章邯に兵糧の補給を命じています。

諸侯が戦おうとしない中で、項羽だけは秦軍と積極的に戦おうとします。

項羽の祖父である項燕は、王離の祖父である王翦に破れ、楚は滅亡しました。

それを考えると、項羽が王離を敵視してもおかしくはないでしょう。

さらに言えば、自分の育ての親である項梁を殺害した秦軍を相手に闘志を燃やしていた可能性もあります。

自ら河を渡る
項羽は手始めに英布と蒲将軍に2万の兵を授け、鉅鹿の城への救援としました。

しかし、英布と蒲将軍は大した戦果を挙げる事が出来なかったわけです。

趙の首脳部の一人である陳余は項羽に自ら兵を率いて渡河し、秦軍と戦う様に要請します。

ここにおいて、項羽は自ら楚軍の兵を率いて、秦軍に決戦を挑む事になります。

決死の姿勢を見せる
項羽は楚軍の本隊を率いて渡河すると、船を沈め三日分の食料を残して捨ててしまいました。

項羽は秦軍に対して、決死の姿勢を見せたわけです。

韓信が後に井陘の戦いで、背水の陣を見せる事になります。

韓信の背水の陣は、陳余が正面突撃を好む事を知っており、勝てる計算の中で背水の陣を行ったはずです。

しかし、この時の項羽は策があったわけではなく、持っていたのは覚悟だけだった様に感じます。

尚、項羽が挑んだ秦軍は秦の正規軍であり、30万の兵士もさることながら、武装度でも楚軍を圧倒していた事でしょう。

圧倒的な強さを見せる
項羽の軍は秦軍に突撃を掛けます。

この時の楚軍は圧倒的な強さを見せており、楚兵一人で秦兵十人と戦ったとあります。

趙へ援軍に来ていた諸侯は、圧倒的な楚軍の強さの前に、動く事も出来ず見守ったとあります。

項羽の軍は秦将蘇角を斬り、渉間は焼身自殺し、大将の王離は捕虜となりました。

楚軍の圧倒的な強さを見せつけ大勝したわけです。

項羽が諸侯の盟主となる
項羽の圧倒的な強さを見た諸侯らは、項羽に平伏しています。

これにより、項羽は文句なしで諸侯の盟主となり大軍を率いる事になりました。

ただし、項羽が趙への救援に行っている間に、劉邦は武関を抜き関中に乱入し、秦を降伏させています。

しかし、劉邦が関中に入れたのは、項羽が秦の正規軍30万を完膚なきまでに破った事も大きかった様に思います。

王離が敗れた事で、秦軍の主力は壊滅しましたが、章邯がまだ残っていました。

章邯を破る
項羽は章邯を討つべく軍を進めています。

この時に、章邯は秦の宮廷では趙高が実権を握っており、功を立てれば妬まれて処刑され、戦いに敗れれば罪により処刑される事を知ります。

こうした中で、項羽の軍に押され、章邯はじりじりと後退を始めます。。

陳余は章邯に手紙を送り、秦は白起や蒙恬など名将を殺す国だと述べ盟約を促しました。

章邯は配下の始成を送り、項羽と盟約しようと考える様になります。

こうした中で、項羽は章邯の軍に攻撃を掛けて、漳水の南や汙水の湖畔で秦軍を破っています。

しかし、章邯は戦いに敗れながらも軍を纏め、敗走しなかったのか粘りを見せたわけです。

章邯と盟約
項羽は章邯が粘った事もあり、軍糧が少なくなり、諸将を集めると次の様に述べています。

項羽「軍糧が少なくなってきているから、章邯と盟約を結ぼうと思う。」

項羽の諸将も賛成した事で、項羽と章邯は殷墟で盟約を結ぶ事になりました。

盟約が終わると、章邯は趙高の事を項羽に話し涙を流したとあります。

この時の章邯の苦悩はかなり深かったのでしょう。

項羽は体育会系の人でもあり、章邯の様な涙を流す様な人物は嫌いではなかったはずです。

項羽にとってみれば、章邯は叔父である項梁を殺害した憎き相手だったはずですが、章邯の戦いぶりを見るうちに見方が変わってきた可能性もあるでしょう。

項羽は章邯を雍王に命じ楚軍の中に置き、秦兵は章邯配下の司馬欣に指揮させる事にしました。

尚、項羽が章邯を関中の雍王に任じるのは、楚の懐王が言った「最初に関中に入った者が関中王」とする言葉に反しており、この時には項羽は楚の懐王に忠誠心は無かったとする説もあります。

秦軍二十万を穴埋め
章邯が降伏した事で、秦軍20万も項羽の配下となりました。

しかし、楚では秦人に対する恨みが多くあり、楚人は秦人を奴隷の様に使い、小さな事でも侮辱したわけです。

秦人は楚人に対して、恨みを持ち、多くが次の様に語り合います。

「章邯将軍は我らを偽って諸侯に身を投じた。

このまま上手く行き、函谷関に入り秦を滅ぼせればよいが、もし出来なかったら諸侯は我らを捕え東に帰るであろう。

そうすれば秦の首脳部は、我らの一族を皆殺しにするはずである。」

降伏した秦兵は楚兵からのストレスもあり、不穏な空気が流れたわけです。

秦兵は20万もおり、暴動でも起こされれば、項羽らの命も危うい状態でした。

こうした中で、項羽は英布や蒲将軍を陣営に呼び、次の様に決断しました。

項羽「秦の吏卒は数は多いのに心服していない。

関中に入ってから命令に背くような事があれば、事態は急変するはずである。

今のうちに秦の兵士は皆殺しにしてしまい、章邯と司馬欣、董翳の三人だけを秦に入れるのが良いと思う。」

項羽は秦兵を夜中に急襲し、新安城の南で穴埋めにしたとも伝わっています。

別説としては、項羽軍には秦兵を養うだけの兵糧を持っておらず、秦兵と楚兵の間で殺し合いまで起きてしまい、仕方なく決断したとする話もあります。

他にも、項羽は穴埋めではなく、武器を奪った秦の兵士を崖に布陣させ、夜中に楚兵が急襲し崖に突き落としたとする説もあります。

項羽が多くの秦兵を殺戮の対象にしてしまった事は間違いないのでしょう。

ただし、後の事を考えれば、ここで項羽が秦兵20万を殺してしまったのは悪手だったとも言えます。

尚、秦兵20万が殺されてしまった事件は、章邯にとってはトラウマ級の出来事だった事でしょう。

秦の滅亡
史記には、秦は項羽が滅ぼしたと記録があります。

しかし、実質的には劉邦が子嬰を降伏させた時点で、秦は滅亡したとも言えます。

函谷関を破る
項羽は函谷関に辿り着きますが、この時に劉邦は既に秦王子嬰を降伏させていました。

さらに、劉邦は函谷関を守備し、項羽を関中に入れるのを拒否したわけです。

項羽は劉邦に態度に怒り、英布に命じて函谷関を攻撃しています。

函谷関は落ち項羽軍は関中に突入しました。

二人の内通者
項羽が函谷関を破ると、劉邦の左司馬である曹無傷が項羽に内通しました。

曹無傷は劉邦が子嬰を宰相とし、秦の財宝を全て奪ったと告げたわけです。

項羽は翌朝に、劉邦を攻撃する事を決めて、鴻門に陣を置きます。

項羽の軍師である范増も劉邦を危険視しており、早めに片付けた方がよいと献策しました。

しかし、項羽の一族である項伯は、劉邦の軍師である張良に世話になった事があり、項伯が劉邦に内通する事になります。

この時に項羽の軍勢は40万いたとする話がありますが、劉邦軍は10万しかおらず戦力的には項羽に及ばなかったわけです。

劉邦は項伯を介して、項羽に詫びを入れる事になります。

鴻門之会
項伯は項羽の前に行くと、「劉邦を許すべきだ。」と述べます。

劉邦も翌朝に、項羽に詫びると述べていると話し、項羽は劉邦と会見する事になります。

これが鴻門之会です。

鴻門之会では、范増が項羽に劉邦を討たせようとしますが、項羽は劉邦を敵とみておらず、討とうとはしませんでした。

范増は項荘に劉邦を討たせようとしますが、項伯が劉邦を庇った事で、劉邦を討つ事が出来なかったわけです。

劉邦配下の樊噲(はんかい)の活躍もあり、劉邦は命拾いしました。

鴻門之会が終わると、項羽の軍師である范増は、劉邦を処刑しなかった項羽の甘さに対し、次の様に述べています。

范増「ああ小僧らは共に計るに足りない。

項羽の天下を奪う者は、必ずや沛公(劉邦)となるであろう。

一族は劉邦の虜になんってしまうはずだ。」

范増の言葉からは無念さが漂ってきます。

項羽にとってみれば、鴻門之会で劉邦を討たなかった事で、自ら禍根を残したとも言えるでしょう。

秦王朝の終焉
項羽の軍が咸陽に入る事になりました。

項羽は降伏した秦王子嬰を処刑し、秦の宮室を焼いた話があります。

項羽本紀によれば、秦の宮室は三カ月に渡って火が消えなかったとされています。

秦の始皇帝が作った阿房宮など、とてつもない広さであり、全て焼くのに時間が掛かったとも言われています。

項羽が秦の王宮を焼いたとする説ですが、項羽を暴君として見せかけるための話であり、実際は項羽は宮殿を焼いていないとする説もあります。

先にも述べた様に、史記には秦王朝を滅ぼしたのは項羽だと記載があります。

関東に都を置く
項羽は関中に都を置く事をしませんでした。

一般的には項羽が故郷に錦を飾りたいと考え、関中に都を置かなかったと言われています。

しかし、個人的には別の原因があった様に思います。

関中に都を置く様に勧められる
ある人が項羽に、次の様に進言した話があります。

「関中は山河を隔てており、四方は塞がれています。

関中の土地は肥えていますし、関中に首都を置けば、天下の覇者となる事が出来るはずです。」

項羽に関中のどこかの都市を首都とする様に進言した事になるでしょう。

秦が天下統一出来た理由の一つとして、関中の守りの固さがあったはずです。

商鞅が宰相をやっていた、秦の孝公の時代に函谷関は出来たとも言われていますが、戦国時代を通して、函谷関が抜かれたのは孟嘗君が合従軍を率いて秦を攻めた時くらいでしょう。

守備の固さで言えば、関中は強固であり、天然の要塞でもあったはずです。

しかし、項羽は関中を首都とはしませんでした。

故郷に錦を飾る
項羽は焼け野原になってしまった秦の宮殿を見て、故郷を想い関東に帰ろうとした話があります。

項羽は次の様に述べたとも言われています。

項羽「富貴になったのに故郷に帰らないのは、錦を着て夜道を歩くようなものである。

誰にも知って貰えない。」

項羽は偉くなって、故郷に錦を飾りたいと願ったとする話があります。

この話を聞いた人の中で、次の様に述べた人がいました。

「人は『楚人は猿が衣冠を着けただけ』と言うが、果たして本当であった。」

つまり、故郷に錦を飾りたい為に、関中に都を置くのは稚拙だと言いたかったのでしょう。

項羽はこの話を聞くと、言った人物を探し出し煮殺しています。

項羽が関中に都を置かなかった理由
項羽が関中に都を置かなかった理由ですが、一般的には故郷に錦を飾りたかった為だとされています。

しかし、実際には項羽が関中に都を置くのは、現実的ではなかったとする説もあるわけです。

項羽は章邯が降伏した後に、秦兵20万を穴埋めにしています。

これらの行為は秦人の恨みを買う行為である事は間違いないでしょう。

項羽が秦人に恨まれている状態で関中を支配してしまったら、反乱が勃発するなど問題が多く出ると感じました。

実際の所なのですが、「故郷に錦を飾りたい。」と考えたのは、項羽よりも楚兵だったのではないでしょうか。

項羽が関中を首都にしてしまったら、項羽は秦人から恨みを買われている為、多くの楚兵を関中に残さなくてはならなくなります。

そうなると、楚兵はいつになっても、故郷に帰る事が出来なくなってしまうわけです。

陳平の言葉によれば、項羽は人柄が恭敬で人を愛すると評した言葉があり、兵士達が故郷に帰りたいとする言葉を無視できなかった様にも思いました。

個人的には、項羽が関中に都を置かなかったのは、故郷の人々に自慢したかったわけではなく、自分に付き従ってくれた兵士を無視できなかったからだと感じています。

懐王との確執
項羽は秦を滅ぼすと、楚の懐王に秦を滅ぼした事や忠誠を尽くす事を伝えます。

しかし、楚の懐王は次の様に述べています。

懐王「最初の約束の通りにせよ。」

楚の懐王は「最初に関中王に入った者を関中王とする。」と宣言していました。

その為、楚の懐王は関中王には最初に関中に入った、劉邦が関中王になるべきだと考えたのでしょう。

しかし、楚の懐王は劉邦にはまっすぐに関中に向かわせる配慮をしましたが、宋義、項羽、范増のグループには趙を救援させた上で、関中を目指させたわけです。

懐王の劉邦に対する配慮は、迂回ルートを取らされた、項羽にとってみれば不平等だと感じていたのでしょう。

項羽は懐王を尊び義帝としましたが、自らも王になりたいと考え、次の様に述べています。

項羽「天下に初めて兵乱が起きた時に、仮に諸侯を立てて秦を討った。

甲冑を身にまとい武器を手に取り、戦争を行い身を野外に晒すのは3年に及んだ。

秦を滅ぼし天下を平定したのは、諸将の諸君や儂の功績である。

義帝には何の功労もない。楚の懐王は地を分けて王とするべき人であろう。」

項羽の言葉を解釈すれば、義帝は諸侯の長をするのではなく、一地方を治めるべきだと述べた事になります。

諸将も「それがよい。」と賛同した事で、項羽は封建を行い「王」や「侯」を定めたわけです。

秦を滅ぼした後には、項羽には義帝を奉る気が無かった事が分かります。

義帝のやり方は項羽にとって不利な部分もあった事で、義帝と項羽の間で確執が生まれていたのでしょう。

項羽十八諸侯
項羽は地を分けて、自分も含めて18人を王としています。

一般的には項羽の封建は戦国時代に逆戻りさせただけだと考える人もいます。

尚、項羽の論功行賞は不平等であり、不満が噴出したとする話もあります。

西楚の覇王・項羽
項羽は関東の九郡の王となり、西楚の覇王と号しています。

項羽は九郡の王となり、彭城を首都に定めました。

この時から、項羽は義帝の下から完全に独立したとも言えます。

尚、項羽は西楚の王となりますが、そうなると東楚はあるのか?と考える人もいるはずです。

あくまで想像ですが、楚には義帝がおり、義帝が「楚」及び「東楚」だった事で、項羽は西楚になったように思います。

後述しますが、義帝は早い段階で項羽に殺害されており、国が残らなかったのでしょう。

漢中王・劉邦
関中に一番乗りした劉邦は漢中王に任命しています。

漢中王に劉邦を任命するにあたって、項羽は次の様に述べています。

「巴蜀の地は道が険しく、秦で兵禍を避けた者は皆が蜀にいる。

巴蜀の地も関中である。」

これにより劉邦は漢中王になったわけです。

しかし、実際の巴蜀の地は罪人の流刑地であった事で、劉邦は激怒し項羽に戦いを挑もうとも考えました。

劉邦の参謀である蕭何が諫めた事で、劉邦は漢中王となり南鄭を首都にします。

雍王・章邯
章邯は秦の将軍ではありましたが、殷墟で項羽と盟約を結び降伏し雍王に任命されていました。

そのまま章邯は雍王に任命されたのでしょう。

項羽は章邯を雍王に任じ、廃丘を首都にしています。

塞王・司馬欣
司馬欣は過去に、獄吏をしており項梁を助けた事がありました。

そうした事もあり、項羽は司馬欣に対して好感もあったのでしょう。

司馬欣は塞王に任じられ、咸陽より東で黄河に至る地域を治めさせる事になります。

項羽は司馬欣を櫟陽を首都にする様に命じています。

翟王・董翳
董翳は章邯に楚に降伏する様に、進言した人物とも言われています。

そうした事情もあり董翳には上郡を与え、翟王に任命しました。

董翳は都を高奴としました。

三秦
雍王章邯、塞王司馬欣、翟王董翳の3人で関中の地を分割し王としたわけです。

秦人には秦の土地を治めさせるのがよいと考え、章邯、司馬欣、董翳を三秦の王とした話もあります。

項羽や范増が劉邦を警戒し、関中に出て来れない様に封じ込める為に、章邯、司馬欣、董翳の三人を配置したとも言われています。

しかし、章邯、司馬欣、董翳の配下にいた秦兵20万を項羽が生き埋めにしており、章邯、司馬欣、董翳らは秦人から評判が悪かった話もあります。

関中で評判が良かったのは関中での略奪を禁止した劉邦になりますが、劉邦を関中に入れるのは危険すぎると判断したのでしょう。

苦肉の策が章邯、司馬欣、董翳を三秦に配置する事だった様に思います。

西魏王・魏豹
項羽は魏王であった魏豹を河東の王とし、西魏王を名乗らせています。

魏豹の兄である魏咎は、秦の章邯に敗れた時は民衆の命を引きかえに焼身自殺しています。

魏咎が亡くなった事で、魏豹が遺志を継いでいました。

魏咎や魏豹は戦国七雄の魏王家の末裔でもあり、魏は河東を領有していた事もあった事から、西魏王としたのでしょう。

尚、劉邦の側室となり、文帝を生んだ薄姫は魏王家の出身でもあります。

項羽は魏豹に平陽に都させています。

河南王・申陽
項羽は鉅鹿で秦軍を破ってから、項羽の軍に趙の張耳が加わりました。

張耳のお気に入りの家臣で、瑕丘侯の申陽がおり、申陽は河南を制圧した功績があったわけです。

さらに、申陽は項羽率いる楚軍を黄河まで迎えた事もあり、項羽は申陽を河南王としました。

項羽は申陽には洛陽を都として定めさせています。

韓王成
韓王成は、過去に張良が項梁に「韓王家の子孫で王に立った者がいない。」と述べた事で、韓王に任命されています。

項羽の十八諸侯の封建では、韓王成は陽翟を首都に定めています。

ただし、韓王成の配下である張良が劉邦と親しかった事もあり、韓王成は早い段階で禍が降りかかる事にもなります。

殷王・司馬卬
趙将であった司馬卬は、河内を平定し多くの功績があった事で、殷王に任じられています。

項羽は司馬卬を河内の王として、朝歌を首都に定めさせています。

余談ですが、司馬卬は戦国時代に李牧と共闘し、秦軍と戦った事もある司馬尚です。

さらに言えば、三国志の勝者と言われた司馬懿は司馬卬の子孫となります。

代王・趙歇
趙王であった趙歇は、代に移されて代王となりました。

項羽が趙を救った後に、趙歇も軍に同行しようとしますが、張耳が引き留めています。

代は匈奴と国境を接するなど重要拠点ではありましたが、僻地となります。

それを考えれば、趙歇は左遷されたとも言えます。

因みに、趙歇は戦国七雄の趙王家の子孫でもあります。

常山王・張耳
趙の丞相であった張耳は、項羽に従って関中に入りました。

張耳は刎頸の交わりを結んだ陳余とは、仲違いし刎頸の交わりは解消しましたが、賢人として名高かった事もあり、常山王になっています。

ただし、張耳は主君である趙歇が代の僻地に移封させられた事もあり、常山王となっても褒められたものではなかったはずです。

主君である趙歇を僻地に追いやり、自分が豊かな地の王になったとも言えるでしょう。

九江王・英布
当陽君の英布は項羽軍の中でも、軍功で言えば常にトップでした。

項羽は英布を九江王とし、六に都させています。

英布は九江王となりますが、項羽に対しては恩賞問題で不満を抱えていたとも考えられています。

ここから先の英布は、項羽の言う事を聞かない様になっていきます。

衡山王・呉芮
呉芮は番君とも呼ばれ百越の民族を率いて、諸侯の軍を助け関中に入りました。

項羽は呉芮の功績を認め衡山王とし、邾を首都に定めています。

尚、楚漢戦争終了後に多くの諸侯が粛清されますが、呉芮だけは漢王朝でも比較的長く王として君臨しています。

呉芮は英布に娘を嫁がせた事でも有名です。

因みに、呉芮配下の梅鋗は十万戸侯に封じられています。

臨江王・共敖
共敖は楚の義帝の柱国であり、兵を率いて南郡を討っています。

共敖の功績を評価した項羽は臨江王としました。

項羽は共敖を江陵を首都にする様に命じています。

遼東王・韓広
韓広は趙から独立して燕王となった経緯があります。

趙が鉅鹿で秦軍に攻められて窮地に陥った時に、韓広は臧荼を援軍の将として差し向けています。

臧荼は項羽と共に関中に入り、燕王に任命されました。

これにより韓広は中国の隅でもある、遼東の僻地に移されてしまったわけです。

韓広は無終を都にする様に命じられました。

燕王・臧荼
臧荼は韓広配下の武将でしたが、項羽と共に関中に入った事で燕王となります。

臧荼は項羽から薊を都にする様に命じられます。

項羽は燕王の韓広よりも、韓広が派遣した臧荼の方を高く評価する事になります。

膠東王・田市
田儋の子で田栄に擁立された斉王田市は、膠東王に任命されています。

項羽が諸侯を封建する前は、斉は一つの国でしたが、三分割される事になります。

田市は項羽の命令に従おうとしますが、田栄は項羽に反抗的であり、これが後に斉に災いをもたらす事になります。

斉王・田都
田都は田市の配下でしたが、田栄の意向に反し、鉅鹿の戦いで項羽に合流しました。

田都は項羽と共に、関中に入った事で斉王に任じられています。

斉の田氏の中で、最も項羽に好意的な所を評価されたのでしょう。

項羽は田都に斉の中心地でもある、臨淄を首都にする様に命じました。

済北王・田安
田安も田都と同様に、田市の配下でしたが、項羽の軍に加わり戦功を挙げています。

項羽が趙の救援に駆け付けた時は、済北の数城を落とし項羽に降っています。

項羽は田安を博陽を首都にする様に指示しました。

尚、済北王になった田安は戦国七雄の最後の一人であり、秦の李信、王賁、蒙恬らに降伏した斉王建の孫でもあります。

項羽に不満を持つ者たち
項羽は諸侯を封じたわけですが、平等に欠けた論功行賞だったとも言われ、多くの諸侯が不満を持ったとされています。

項羽に従い函谷関に入った者を優遇したのも不満が出る原因だったとされています。

項梁に従わなかった斉の実力者である田栄を封じなかったり、賢人と言われた陳余も南皮の三県に封じて侯にしただけでした。

さらに、彭越は1万以上の軍勢を保持しながらも、恩賞を貰う事が出来ずに、どこにも帰属する事が出来ない状態だったわけです。

こうした中で、項羽が事件を起こす事になります。

義帝の殺害
項羽の論功行賞が終わると、諸将は領国に向かう事になります。

項羽も自分の領国に向かいますが、義帝に使者を送り、次の様に述べています。

「古来より帝王は方千里の土地におり、いつも川の上流の地方にいたものである。」

項羽は義帝を長沙の郴県に移そうとしました。

項羽が強引に義帝を長沙に移そうとする事に対し、諸侯の間で不穏な空気が流れます。

項羽は義帝が自分に逆らおうとする者達のシンボルになる事を恐れたのか、呉芮と共敖に命じて義帝を殺害してしまいます。

尚、黥布列伝によれば、義帝を殺害したのは英布配下の者となっており、実際には誰が義帝を殺害したのか分からない状態です。

先にも述べた様に、義帝は既に高齢だった可能性が高く、数年のうちに亡くなった可能性も高いと指摘する専門家もいます。

それを考えると、項羽が義帝を殺害する行為は悪手だったとも言えるでしょう。

天下が乱れる
項羽は諸侯を封建しますが、天下が平和になったわけではありません。

今度は諸侯同士で戦う事になります。

韓王成の殺害
項羽は十八の諸侯を定めますが、その中に韓王成がいました。

韓王成は戦国時代の韓王室の末裔ですが、軍功が無かったわけです。

項羽は韓王成を封地には向かわせずに、彭城に連れて行き殺害しています。

因みに、劉邦の軍師である張良は韓王室再興の為に動いており、項羽に対して恨みを抱いた事でしょう。

項羽は韓王成を処刑すると、呉の令であった鄭昌を韓王としました。

臧荼の勢力拡大
項羽は韓広を僻地の遼東に移し、臧荼を燕王としました。

しかし、臧荼は韓広の将軍であった人物であり、韓広にとって見れば納得出来る事ではなかったわけです。

韓広は遼東行きを拒み、臧荼は韓広を攻撃しました。

韓広は戦いに敗れ、臧荼は燕と遼東を合わせた地域の王となります。

田栄が斉王となる
斉の実力者である田栄は、項羽が田市を膠東に移し、斉の将軍だった田都を斉王にしたと聞くと激怒します。

田栄は田都を攻撃し、田都は項羽の元に逃げる事になります。

しかし、田市は項羽を恐れ膠東に自分から移ってしましました。

田栄は田市にも激怒し、田市を殺害し、自ら斉王に即位します。

項羽にとってみれば、田栄が斉王になるのは、見過ごす事は出来なかったはずです。

田栄も項羽に従う気はなく、項羽が任命した済北王の田安も攻撃し殺害しました。

さらに、田栄は彭越に将軍の印綬を授け、梁の地で項羽に背かせています。

項羽は斉を三分割しましたが、結果として田栄が唯一の斉王となったわけです。

陳余が張耳を討つ
南皮にいた陳余は、張同と夏説に命じ斉王田栄の元に向かわせました。

張同と夏説は田栄を説き伏せ、田栄は陳余に兵を貸し与えています。

陳余は常山王の張耳を攻撃し、張耳は呆気なく敗走したわけです。

陳余は代王になっていた、趙歇を趙王として復位させています。

趙歇は陳余の行動に義を感じたのか、陳余を代王に任命しました。

敗れた張耳は劉邦を頼る事になります。

劉邦が関中に進撃
劉邦は関中に進撃します。

関中では、章邯が奮戦しますが、劉邦は短期間のうちに関中の大部分を平定してしまいました。

劉邦が西で背いた事で、項羽は東の田栄と合わせて東西に敵を作った事になります。

この時の項羽が劉邦にどこまで警戒心があったのかは不明ですが、項羽の最大の敵は劉邦となります。

彭越が蕭公角を破る
項羽は諸侯同士で勝手に争ったり、背いたりした事で激怒します。

項羽は韓王とした鄭昌に、劉邦に対し備えさせ、蕭公角には彭越を討たせています。

しかし、彭越は軍隊を指揮するのが巧みであり、蕭公角は呆気なく敗れています。

尚、彭越はゲリラ戦を繰り返し、楚軍の糧道を断つなど苦しめて行きます。

陳平が劉邦陣営に移る
殷王の司馬卬が反旗を翻すと、項羽は陳平を討伐に向かわせます。

陳平は見事に司馬卬を討伐する事に成功しました。

しかし、司馬卬は漢に攻められると呆気なく降伏してしまい、項羽は責任を陳平にあるとしたわけです。

陳平は項羽に処刑されてしまうと考えて、劉邦の元に走る事になります。

劉邦は魏無知の推薦もあり、陳平を配下に加える事になります。

張良と並ぶ軍師とされた陳平を、項羽は使いこなす事が出来ず、劉邦の配下としてしまいました。

韓信も項羽の元にいた過去があり、項羽の欠点として人材を使いこなす事が出来なかったとも言えるでしょう。

尚、楚漢戦争終了後に劉邦は「項羽は范増一人ですら使いこなせなかったが、自分は張良、蕭何、韓信を使いこなす事が出来た。」と勝因を述べています。

項羽の斉討伐
項羽は自ら斉を討伐する決断をします。

張良の手紙
劉邦は張良に命じて、韓の地を従えさせると、項羽に次の手紙を送っています。

「漢王は本来の封職(関中)を得る事が出来なかったので、関中を得ようとしたのです。

漢王は約束通りに関中を得る事が出来れば、東に向かって出ようとはしないでしょう。」

張良は劉邦が函谷関の東を望まないとした上で、「趙と斉は結託して楚を滅ぼそうとしている。」と述べたわけです。

これにより項羽は、東の田栄討伐に向かう事になります。

この時に項羽は九江王の英布に出撃命令を出します。

しかし、英布は病気と称し、部下に数千の兵を率いさせただけでした。

この事から、項羽と英布の間で溝が出来る事になります。

田栄の死
項羽は斉の城陽に行き、田栄と決戦を挑む事になります。

この時の項羽軍は強く田栄の軍を破りました。

田栄は平原に逃亡しますが、平原の民は田栄を殺害しています。

この時に、項羽は城郭や民家を焼き払い、田栄の降伏した捕虜を穴埋めにしてし、老弱婦女を捕虜にしています。

項羽は北海まで行った話があり、斉では広範囲に及んで虐殺した事になるはずです。

田横の反撃
項羽の虐殺に対して、田栄の弟である田横が立ち上がる事になります。

田横は敗残兵を集め城陽で反旗を翻しました。

項羽は田横と戦いますが、田横は粘り勝利を挙げる事が出来なかったわけです。

項羽は斉で虐殺を行ってしまった事で、斉人は戦いに敗れれば、殺されると思い一致団結して楚軍と戦ったのでしょう。

秦末期から楚漢戦争において、項羽が率いる楚の精鋭と正面から戦い、倒せなかったのは田横だけだったとも伝わっています。

田横も優れた人物だと言えます。

劉邦が彭城を落とす
項羽が田横と戦っている隙に、劉邦は諸侯の軍を集めて、項羽の本拠地である彭城を陥落させています。

この時の劉邦の軍は、魏豹、韓王信、陳余、司馬卬、申陽、董翳、司馬欣らが参戦しており、56万もの大軍だったとされています。

項羽は英布に彭城を守備する様に伝えた話しもありますが、この時も英布は動きませんでした。

劉邦は彭城を落とすと、楽勝ムードであり大宴会を始めてしまいます。

項羽が彭城へ帰還
項羽は劉邦が彭城を制圧した話を聞くと、烈火の如く怒り劉邦軍を襲撃しようと考えます。

しかし、項羽の目の前には、田横率いる斉軍がおり、項羽は全軍を彭城に向かわせる事ができませんでした。

項羽は自ら3万の精鋭を指揮し彭城に戻り、残りの兵は斉軍への抑えとしています。

項羽は魯から胡陵に行き彭城を目指しています。

尚、彭城の戦い後に、楚軍が完全に斉からいなくなると、田横は田栄の子である田広を斉王に擁立しました。

彭城の戦い
項羽は3万の兵士で、劉邦軍56万を破る大戦果を挙げます。

劉邦の油断
劉邦は56万もの大軍を手にしていた事から、項羽に対して油断していました。

56万もの大軍を劉邦が手に入れた時点で、普通の相手であれば劉邦の天下となっていたのでしょう。

しかし、項羽は史上最強の猛将と呼ばれた人物であり、楽に天下を取らせてくれる相手ではなかったわけです。

劉邦は美女や財宝を手に入れ、毎日の様に大宴会を催していました。

そこに項羽が夜明けと共に、攻撃を仕掛ける事になります。

劉邦は56万もの大軍を有しながらも油断しており、項羽に為すすべなく敗れています。

この時の項羽軍の強さは圧倒的であり、逃げる漢軍を追撃した事で、睢水の流れが止まったとも伝わっています。

劉邦を追撃
劉邦は項羽に逃げる時に、自分の車に魯元公主と劉盈を載せていました。

しかし、項羽軍に追いつかれる事を恐れた劉邦は、魯元公主と劉盈を車から投げ捨て、御者の夏侯嬰が拾う事が三度もあったとされています。

劉邦は逃げる事に成功しましたが、劉邦の正室である呂雉と父親の劉太公は項羽に捕らえられています。

項羽は呂雉と劉太公を捕え軍中で監禁しました。

項羽が劉邦に大勝すると、諸侯は再び項羽に味方する様になったと伝わっています。

韓信が別動隊を率いる
劉邦は張良の進言により、大将軍の韓信に別動隊を率いて、劉邦に反旗を翻した諸侯の討伐を命じています。

さらに、戦巧者の彭越を味方にしたいと考えていました。

張良は楚軍の英布が項羽と仲違いしている事を知っており、英布も味方に付けようと考えます。

劉邦軍の戦略としては、項羽の本隊と劉邦が戦い、その間に韓信が諸侯を平定する作戦となります。

名将韓信の快進撃は、この辺りから始まったと言えるでしょう。

滎陽の戦い
項羽と劉邦は滎陽で戦う事になります。

蕭何の補給
劉邦は呂后の兄である呂沢の力を借りて、滎陽に逃げています。

滎陽に逃げた時の、劉邦軍はボロボロでしたが、関中にいた蕭何は劉邦の為に援軍を送りました。

蕭何が派遣した援軍により、劉邦軍は息を吹き返す事になります。

漢軍と楚軍は滎陽の南にある京や索で戦うと、漢軍が勝利したとあります。

ここで漢軍は、楚に対する連敗を何とか止めたわけです。

項羽は滎陽よりも西に進撃する事は出来ませんでした。

范増の進言
蕭何が兵站を繋げた事で、劉邦は危機を脱しますが、項羽が劉邦軍の甬道を断つ事になります。

劉邦は項羽に甬道を断ち切られた事で、兵糧が不足し苦しい立場となります。

この時に劉邦は項羽に和睦を願い、滎陽よりも東を楚に割譲すると言ったわけです。

項羽は劉邦と和睦を結ぼうと考えますが、項羽の軍師である范増は、次の様に述べています。

范増「今の漢軍は与しやすい相手です。

現在の状況で滎陽の西を取らなければ、後で必ず後悔する事になるでしょう。」

項羽は范増の進言を聴き入れて、滎陽を囲み劉邦を苦しめます。

尚、これが范増の最後の進言となります。

范増と袂を分かつ
劉邦は陳平の策を入れて、項羽と范増を離間する作戦に出ます。

項羽の使者が来た時に豪勢な接待を行い「范増殿の使者かと思った。」と述べます。

漢側では項羽の使者だと分かると、急に粗末な食事を出したわけです。

子供だましのような手ですが、項羽は范増を疑う様になります。

項羽は范増の権限を奪うと、范増は怒り楚軍から離脱しました。

范増は彭城に向かいますが、途中で背中に腫瘍が出来てしまい命を落とす事になります。

項羽が亜父とまで呼び、項羽が唯一認めた知者である范増はこの世を去ります。

范増の離脱により、項羽の側近で知者がいなくなってしまったとも言えるでしょう。

ここから先の項羽は戦いに勝っても、苦しい状況が続く事になります。

滎陽城を降す
項羽は范増の死を知ってか、厳しく劉邦を攻め立てます。

この時に、紀信が劉邦の身代わりとなり、楚軍を油断させる事に成功します。

劉邦は楚軍の隙をついて、数十騎を引き連れて逃亡しました。

項羽は紀信に劉邦の事を問うと、紀信は既に逃亡したと答えます。

項羽は紀信を焼き殺しました。

この時に項羽は周苛(周昌の兄)も捕えていますが、周苛は項羽を罵った事で処刑されています。

滎陽の戦いは項羽の勝利となりますが、項羽は劉邦を取り逃がしてしまったわけです。

英布の離反
項羽は英布に対して、不満を抱いていました。

項羽は英布を九江王としたのに、病気と称し命令に従わないからです。

しかし、項羽から離反する者が多く、項羽は英布の事を高く評価していた事で、攻撃対象にしなかったわけです。

劉邦は張良の進言もあり、英布に隨何を派遣し、英布の懐柔を図ります。

隨何が上手くやった事で、英布は劉邦の味方となります。

項羽は英布に対し、項声と龍且を派遣しました。

項声と龍且は英布を撃破し、英布と隨何は劉邦の元に逃亡しています。

優勢に戦いを進めるも・・・。
劉邦は成皋に逃げますが、持ちこたえる事が出来ずに、韓信の陣に行き軍を奪いました。

この時の韓信は鄭昌、魏豹、陳余らを破り多くの地を平定し、李左車の進言を聴き入れて、燕も降しています。

項羽は劉邦を相手に優勢に戦いを進めましたが、項羽に味方した諸侯が、次々に韓信の軍事力の前に敗れ去っていたわけです。

項羽自身は劉邦を追い詰めますが、全体的に見れば韓信の軍事力により、劉邦が有利となっていきます。

劉邦は兵を補給すると再び項羽に戦いを挑み、韓信には斉を攻略する様に命じています。

彭越に討つ
項羽は彭越に後方を脅かされた事から、彭越を討つ事になります。

軍糧を焼かれる
項羽は成皋を抜くと、西進しようとします。

劉邦は兵を繰り出し、項羽の西行を阻止しようとしました。

この時に、漢に味方した彭越が黄河を渡り、楚軍を東阿で討ち、楚の将軍となっていた薛公を破っています。

項羽は自ら彭越を討とうと考えます。

ここで劉邦は河南に行こうとしますが、鄭忠が諫めた事で考えを改め、劉賈に命じて河内に防壁を作り彭越を援助しました。

これにより楚軍は軍糧を焼かれる事態となります。

13歳の子供の助言を着きれる
項羽は自ら彭越を討ちに行きます。

この時に、項羽は曹咎に命じて、「決して戦わない様に」と言いつけて劉邦への備えとしています。

項羽は東に向かい陳留・外黄を攻めました。

外黄は抵抗が激しく数日に渡り持ちこたえたわけです。

外黄は漸く城が下ると、項羽は外黄の民衆を穴埋めにしようと考えます。

この時に外黄の舎人の子で13歳の者が項羽に対して、次の様に意見しました。

「彭越は強く軍隊によって外黄を脅かし、外黄の民は畏れ大王(項羽)が来るのを待っていたのです。

大王が民を穴埋めにしてしまうのであれば、民衆は大王を頼りにする事が無くなってしまいます。

民衆を穴埋めにしてしまったら、外黄の東から梁に至る地域は、全ての城で降伏する者がいなくなってしまいます。」

項羽は13歳の子供の進言を聴き入れて、外横の民を許しました。

これにより睢陽から東の地域は、争って項羽に降ったとあります。

13歳の子供の機転が、外横の民を救ったとも言えるでしょう。

子供の名前は伝わっていませんが、普通で考えれば多くの民衆を救った英雄であり、神童と呼んでもよい人物となるはずです。

項羽も范増を失ってから、范増に匹敵する様な参謀を求めており、人の意見に耳を傾けたのかも知れません。

項羽は多くの城を降し彭越の軍を蹴散らしますが、彭越を討ち取る事は出来ませんでした。

項羽は彭越を討ち取る事が出来なかった事から、再び苦難を招く事になります。

曹咎、司馬欣の最後
項羽は要害である成皋を曹咎に任せていましたが、漢は曹咎を挑発しました。

曹咎は挑発に我慢する事が出来ず、出撃し汜水を渡河します。

劉邦軍は汜水を渡河している最中の曹咎を攻撃し大勝しました。

この戦いで漢軍は楚軍の財貨を悉く手に入れたとあるので、楚軍は苦しい立場となっていったはずです。

楚軍は項羽が率いると異常な程に強いのですが、項羽がいない楚軍は指揮官が有能でないのか敗れる事が多いと言えます。

尚、成皋での戦いでは、曹咎だけではなく司馬欣も自刃して果てています。

韓信の斉攻略
劉邦の別動隊となった韓信は斉も平定させる事になります。

韓信が龍且を大破
劉邦は斉を攻略する様に韓信に命じます。

その後に、劉邦は酈食其を使者として派遣し、田広、田横を説得し斉は漢に降伏します。

しかし、蒯通が韓信をけしかけた事で、韓信は斉の不意を衝き無防備な斉を大破しました。

斉の田広と田横は騙されたと考え、酈食其を煮殺し、田広、田横らは高密に逃亡し項羽に援軍要請します。

項羽は龍且を派遣し、斉への援軍としました。

しかし、龍且は周蘭の進言を退け短期決戦を挑み、韓信に大敗しています。

漢の韓信や灌嬰、曹参の活躍もあり斉を平定し、項羽は20万の軍勢を失う大打撃を食らったわけです。

この時点で項羽は天下の大半を敵に回しており、彭越には糧道を断たれるなど、かなり苦しい立場となっています。

韓信に独立を勧める
韓信は斉王となりますが、項羽は武渉を派遣し韓信に独立を促しています。

武渉は「劉邦は信義のない人物」と述べて、項羽が滅びれば韓信も捕らえられて処刑されると忠告します。

武渉は韓信が独立し、項羽、劉邦、韓信で天下三分の計を提唱しました。

しかし、韓信は項羽が自分を冷遇した事を憶えており、逆に劉邦は斉王にしてくれたと恩義を感じていたわけです。

韓信は武渉には断りを入れています。

韓信配下の蒯通も韓信に独立を促しますが、韓信は結局は承諾しませんでした。

尚、韓信は武渉や蒯通の言った通り、項羽が滅んだ後に劉邦、呂后、蕭何らにより処刑される事になります。

広武山の戦い
項羽と劉邦は広武山で戦う事になります。

広武山で対峙
劉邦は項羽がいない隙に成皋を奪還すると、成皋の北にある広武山に陣する事になります。

劉邦は敖倉の穀を軍糧とした話があります。

項羽は成皋で曹咎が敗れた話を聞くと、直ぐに兵を率いて成皋に向かいました。

項羽が成皋に向かっている事を知ると、滎陽の鍾離眜を攻めていた漢軍も恐怖し、滎陽の包囲を解き広武山に移動しています。

項羽と劉邦は広武山で対峙する事になります。

疲弊する楚軍
広武山の戦いの頃のなると、彭越が再び後方に現れて梁の地を荒したわけです。

彭越により項羽は兵站を上手く繋げる事が出来ず、食料が不足してきます。

さらに、最強と言われた項羽の本隊も東西奔走し、疲労が濃くなっていたのでしょう。

それに対し、劉邦の軍は多くの兵糧を持っており、有利な状況でもあったわけです。

人質作戦
項羽はかなり苦しい状況であり、人質作戦を行う事になります。

項羽は捕らえてあった劉邦の父親である劉太公を前に出し、次の様に述べています。

項羽「今すぐに降伏しなければ、お前の父親である劉太公を煮殺す事になる。」

これに対し、劉邦は次の様に述べています。

劉邦「儂とお前は楚の懐王の元で北面して臣下となり、義兄弟の契りを結んだ。

儂の父親はお前の父親でもある。

お前の親父を煮るのであれば、儂にも羹を
22:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/11 (Wed) 09:36:53

劉邦「儂とお前は楚の懐王の元で北面して臣下となり、義兄弟の契りを結んだ。

儂の父親はお前の父親でもある。

お前の親父を煮るのであれば、儂にも羹を一つ貰いたいものだ。」

劉邦は降伏を拒否し、項羽は激怒し、劉太公を煮殺そうとしますが、項伯が次の様に述べています。

項伯「天下の事はまだ先が見えない状態です。

天下を制する者は家族に害を与えてはならず、劉太公を殺しても利益は無く、禍を増すだけである。」

項羽は項伯の進言を聴き入れて、劉太公を殺害するのを取りやめました。

尚、項伯は劉邦の軍師である張良と親しく、項羽よりも劉邦よりの人物だったとも考えられます。

項伯の言っている事も最もですが、項羽よりも劉邦に気を遣った事から出た言葉なのかも知れません。

項羽が劉邦に一騎打ちを挑む
項羽と劉邦は睨み合いが続き、膠着状態となります。

広武山の戦いでは、劉邦が堅固な要害の地を抑えている為に、項羽も迂闊に攻撃する事が出来なかったのでしょう。

さらに、項羽の背後には彭越が暴れ回っており、楚軍の兵站を遮断していました。

項羽軍は兵糧が少なくなり、劉邦は戦わずに守ってさえいれば、勝てる状態になっていたはずです。

こうした中で、項羽は劉邦に次の様な提案をしています。

項羽「天下の者が長く苦しんでいるのは、儂と其方(劉邦)の両人がいるからである。

儂は其方と一騎打ちを行い、けりを付けたいと思う。

天下の民を苦しめたくはない。」

項羽は劉邦に一騎打ちを提案したわけです。

これに対し、劉邦は次の様に返しています。

劉邦「儂は一騎打ちではなく、知力で戦いたいと思う。

武芸で戦うなど思ってもいない。」

項羽は一騎打ちの提案を劉邦に断られています。

三国志演義の世界であれば、一騎打ちは多く行われていますが、実際の戦闘では一騎打ちはほぼ起きません。

さらに、項羽と劉邦が武芸で戦った場合は、項羽が圧勝すると思われ、劉邦が一騎打ちを拒否するのは当然の事だと言えます。

項羽は絶対に拒否される提案を劉邦にしたとも言えるでしょう。

項羽にとってみれば、劉邦を臆病者だと宣言し、短期決戦に持ち込みたかったとも言えます。

項羽自ら敵を挑発
項羽は配下の壮士に、劉邦軍を挑発する様に命じます。

漢軍には弓が得意な楼煩人がおり、劉邦は楼煩人に命じ、楚軍の壮士が前に出て来る度に射殺しました。

項羽は劉邦の行為に怒り、自ら甲冑を身にまとい戟を持ち、漢軍を挑発します。

漢軍は本物の項羽だと気づかずに、楼煩人を前に出し射殺しようとします。

しかし、項羽は目をいからせて声を発すると、楼煩人は弓矢を射る事が出来なくなります。

楼煩人は城壁の中に入ってしまい、二度と出て来る事はありませんでした。

項羽は自らの気合いで楼煩人を退けたと同時に、自らの勇気を見せつけた事にもなるでしょう。

劉邦は楼煩人を下がらせた壮士を調べると、項羽本人だという事が分かり、驚いた話があります。

劉邦を負傷させる
項羽と劉邦は広武山の谷間を隔てて、向かい合って話を交わす事になります。

項羽が自ら壮士となり、漢を挑発した話を聞き、劉邦の方としても逃げ腰でいるわけにも、行かなくなってしまったのかも知れません。

項羽は劉邦に戦いを望みますが、劉邦は項羽の様々な罪状を述べ「お前など刑を受けた罪人に撃たせれば十分。」とし、自ら戦おうとはしませんでした。

項羽はこの時に、隠し持っていた弓で劉邦を狙うと、矢は劉邦に直撃し、劉邦は負傷し自らの陣に退く事になります。

項羽の焦り
項羽は人質を取ったり、劉邦に一騎打ちをするなど、子供だましの様な手を使ったと思うかも知れません。

しかし、実際の所、魏、趙、燕、斉などを韓信に平定され、兵站も彭越に断たれるなど、項羽は厳しい状況に追いやられていました。

この時の項羽は天下の大半を敵に回している様な状態と言えます。

弓矢で劉邦を狙ったのも、苦肉の策でもあり、項羽軍は疲弊していたわけです。

それに対し、漢軍は豊富な食料があり、士気も高かったと言えるでしょう。

項羽と劉邦が和睦
項羽の軍は糧道も断たれ疲労も濃くなるばかりでしたが、ここで劉邦が陸賈を項羽の陣に派遣しています。

劉邦は陸賈を通じて、劉太公の返還を願いますが、項羽は聞きませんでした。

劉邦は侯公を派遣し、次の様な取り決めを提案します。

「漢と盟約を結び天下を二分し、鴻溝よりも西を漢の領土とし、東を楚の領土とする。」

項羽は納得し、劉邦の父親である劉太公や妻子を返還しました。

尚、項羽と盟約を取り付けた侯公は平国君としましたが、身を隠した話があります。

劉邦陣営では劉太公や劉邦の妻子が帰ってくると、万歳を唱えました。

しかし、項羽にとってみれば大事な人質を失ってしまう結果にもなっています。

人質を返すのであれば、自分が安全圏に入ってから返還すべきだったとも言えるでしょう。

劉邦の裏切り
劉邦と項羽の間で盟約が成立した事で、項羽は包囲を解いて東に帰ります。

劉邦も西に帰ろうとしますが、劉邦配下の張良と陳平は次の様に述べています。

「今の漢は天下の大半を保有しています。

諸侯は漢に味方し、楚軍は兵は疲弊し食料も少なくなっているのです。

これは天が楚を滅ぼそうとしています。

楚軍の疲れに乗じて天下を取るのが上策です。

今の状態で楚を討たないのは、虎を養って自ら禍根を残す事になります。」

劉邦は張良と陳平の策を採用し、楚軍を背後から襲い掛かる決断をします。

戦国時代末期に項羽の祖父にあたる項燕は、秦の王翦に撤退中に背後から攻撃を受けて軍が壊滅した話があります。

同じ様に項羽も劉邦に背後から攻撃されてしまったわけです。

ただし、項羽は項燕ほどは簡単に敗れず、奮戦する事になります。

項羽の反撃
劉邦は楚軍を追撃し、陽夏の南に行き軍を止めます。

劉邦の考えでは、韓信と彭越の軍と合流して、項羽を討とうとしたわけです。

戦巧者の韓信と彭越の軍の合流を考える辺りは、劉邦が如何に項羽を警戒していたかが分かります。

しかし、約束の期日までに韓信と彭越は来ませんでした。

項羽は逆に劉邦に大して反撃して来ると、劉邦は大敗して城壁の中に入り塹壕を深くして守る事になります。

疲弊した楚軍と言えど、項羽が指揮すれば、まだまだ強く簡単には勝たせてはくれなかったわけです。

劉邦は張良の進言を入れて、韓信と彭越に多くの地を割く約束をしました。

項羽が追い詰められる
韓信や彭越は貰える土地が確定すると、直ぐに兵を集めて劉邦の軍に合流しました。

さらに、劉賈の軍も寿春で英布と合流し、城父を抜く事になります。

この時になると、楚の大司馬である周殷までも、劉邦に味方し六を降しています。

劉邦軍は終結し、垓下で項羽を囲む事になったわけです。

垓下の戦い
項羽は劉邦に勝ち続けましたが、最後に垓下の戦いで破れる事になります。

四面楚歌
項羽は垓下の城で防戦する事になります。

これが垓下の戦いです。

史記によれば垓下で包囲された項羽の軍は食料は尽きており、兵も疲弊していたとあります。

漢軍は垓下の城を幾重にも囲み包囲しました。

この時に、張良の策で夜に垓下の城に向けて、楚の歌を流しています。

項羽は垓下の城の四方から楚の歌が流れて来た事を知り、次の様に語っています。

項羽「漢は既に楚の地まで平定してしまったのか。なんと楚人の多い事か。」

これが四面楚歌であり、張良の目的は項羽の心を折る事だったはずです。

垓下の歌
項羽は帳の中に行くと、虞美人と共に酒を飲みます。

虞美人は垓下の戦いでしか記録がありませんが、項羽の愛妾であり戦場にも連れて来ていたのでしょう。

さらに、項羽の愛馬は騅(すい)と呼ぶ名馬であり頭によぎります

騅は三国志演義で言う所の、呂布や関羽の愛馬となった、赤兎馬の様なものだったはずです。

項羽は意気消沈したのか、次の詩を作り歌う事になります。

力は山を抜き 気は世を蓋うも

時に利あらず 騅逝かず

騅の逝かざるは 如何すべき

虞や虞や なんじを如何せん

項羽はこの歌を数回歌い、虞美人が唱和しました。

楚漢春秋によれば、虞美人は次の歌を項羽に返した事になっています。

漢兵すでに地を略し 四方楚歌の声

大王意気尽き 賎妾何んぞ生に聊んぜん

項羽は涙を流し、左右の者も皆が泣き、誰も顔を上げるものがいなかったとあります。

この時点で項羽は自分の死と、最後の決戦を覚悟した様に思います。

史記や漢書だと虞美人が、この後にどうなったのかの記録はありません。

ただし、物語では虞美人が自害するパターンが多いと言えます。

項羽の脱出
項羽は垓下の城から脱出を決意し、夜のうちに800人を引き連れて、南方から脱出を試みます。

項羽は囲みを破り無事に包囲を脱出する事になります。

夜が明けると漢軍は、灌嬰に五千の兵を率いさせて項羽を追撃させました。

項羽が淮水を渡る頃になると、項羽に付き従っていた者は100余人ほどだったと言います。

項羽は途中で道に迷い農夫に道を聞くと、「左に行くのが良い。」と言われ、左の道に行きます。

しかし、農夫は項羽に嘘の情報を伝えており、大沢にはまり漢軍に追いつかれてしまいます。

項羽の最後
項羽の最後の戦いと項羽の死を解説します。

配下28人
項羽は東に向かい東城に辿り着きますが、この時に項羽に従っている者は、僅か28騎だったと伝わっています。

項羽の28騎に対し、漢軍は数千の兵で項羽を討ち取ろうとします。

項羽は脱出出来ないと悟り、配下の者に次の様に述べています。

項羽「儂は挙兵してから8年が経った。

自ら七十以上の戦いに参加し、敗れた事は一度もなく天下の主となった。

ここにおいて困窮するのは、天が儂を滅ぼすのであり戦いに罪があったわけではない。

今日は死を覚悟しておる。

儂はお前たちの為に、囲みを破り、敵将を討ち取り敵の旗を打ち倒してくれよう。

諸君らに天が儂を滅ぼすのであり、戦いに罪がない事を知らしめてくれよう。」

項羽は部下達に意気込みを示したわけです。

項羽の突撃
漢軍は項羽の28騎を数千の兵で囲みますが、項羽は部隊を4つに分けて円陣を組み四方に突撃する様に指示ました。

さらに、項羽は配下の者達に、次の様に述べています。

項羽「儂は公らの為に、かの一将軍を討ち取って見せよう。」

項羽は言い終わると、山東で会い三カ所に分かれる事を約束します。

項羽が大声を出し突撃すると、漢軍は次々になぎ倒され、項羽は本当に漢の将軍を一人討ち取ってしまったわけです。

楊喜を一喝
項羽は漢軍に突撃を掛けると、漢の将軍である楊喜が項羽を追撃します。

項羽は楊喜を目を見開いて一喝しました。

楊喜は人馬もろとも驚き、数理も後ずさりしたとあります。

項羽は目的地に到着し、最後まで付き従った部下達と合流し、三カ所に分かれて突撃を行います。

圧倒的な強さを見せる
漢軍は再び項羽を包囲しますが、項羽は自ら突撃を仕掛け、またもや漢の指揮官を一人討ち取りました。

さらに、項羽は100人以上を斬り、戦場で暴れまくったわけです。

項羽は再び配下の者達を集めますが、数を数えたら26騎だった話があります。

項羽の最後の28騎は、項羽だけではなく圧倒的な強さを誇っていた事になるでしょう。

数千の兵と戦っても、2騎しか損なわれなかった事になります。

項羽は「どうだ」と誇ると、残った兵は「大王の仰る事は全て本当でした。」と答えています。

最後の最後まで項羽の覇気が衰えていない事も分かるはずです。

項羽が死を覚悟
項羽は東に向かい、烏江から揚子江を渡ろうとします。

烏江の亭長は船を用意しており、項羽に次の様に述べています。

亭長「江東の土地柄は狭いと言えますが、方数千里あり民衆の数も十万は下りません。

江東は王になるには、十分な土地のはずです。

願わくば迅速に江をお渡りください。

船を持っているのは、私だけであり、漢軍が来ても渡る事は出来ません。」

亭長は項羽に江東に逃げて、王になる様に勧めます。

しかし、項羽は笑って次の様に述べています・

項羽「天が儂を滅ぼそうとするのに、儂一人が渡れるはずもない。

それに、儂は江東で挙兵した時に、子弟八千人と江を渡ったのに、生還者は一人もいないのだ。

江東の者たちが儂を憐れみ王としてくれたとしても、儂は父兄に合わせる顔もない。

江東の父兄たちが何も言わなかったとしても、儂は一人自分の心に恥じを感じずにはいられないのだ。」

項羽は生き延びる事が出来たのに、死を選んだと言えます。

さらに、項羽は亭長に愛馬の騅を与え、配下の者達にも馬から降り徒歩になる様に命じました。

項羽の死
項羽は徒歩で漢軍に突撃を掛けると、一人で数百人を殺したと伝わっています。

項羽が兵を指揮するのが上手いだけではなく、個人の武勇でも超一流だと言う事が分かります。

ただし、項羽はこの時に十カ所を超える傷を負ったとあります。

項羽は戦っている最中に、ある人物を見つけると、次の様に述べています。

項羽「お前は呂馬童ではないか。」

呂馬童は振り返ってみると、項羽であり、呂馬童は王翳(おうえい)に向かい、次の様に叫びます。

呂馬童「これが項王だ。」

項羽は呂馬童に対して、次の様に述べています。

項羽「儂の聞いた所によれば、漢は儂の首に千金と万戸の邑を褒賞としていると聞く。

儂はお前の為に、恵んでやりたいと思う。」

項羽は次の瞬間には、自らの首を斬ったわけです。

王翳が項羽の頭を取り、他の兵士らは項羽の屍を手に入れようと殺到し、数十人の死者が出た話があります。

項羽の遺体は楊喜、呂馬童、呂勝、楊武で分け合った話があります。

遺体を合わせてみると、項羽の死体だと確認が取れたわけです。

項羽の遺体を取った王翳、楊喜、呂馬童、呂勝、楊武で万戸の邑を5つに分けた話があります。

一世一代の英雄と言われた覇王項羽は、最後は戦争で果てたと言えるでしょう。

戦場を死に場所に選ぶ所が、西楚の覇王と呼ばれた項羽らしいとも感じています。

魯が降伏
項羽は過去に魯公に封じられた事がありました。

楚の地は全て漢の支配下となりますが、魯だけは漢に降るのを拒んだわけです。

劉邦は天下の兵を集めて魯を討とうとしますが、魯人は項羽への節義を守り死のうとしました。

そこで、漢では項羽の首を持ち、魯人に示すと、魯の人々も漢に降ります。

これにより劉邦の天下統一は成し遂げられたとも言えるでしょう。

項羽を葬る
楚の懐王(義帝)が最初に項羽を魯に封じた事と、魯が最も最後に漢に降った事で、劉邦は魯公の礼を以って項羽を穀城に葬ります。

劉邦は項羽の為に、喪を発し、項羽の葬儀の時には劉邦は涙を見せたと言います。

劉邦は項羽の一族で残った項伯、項襄、項它、玄武侯らを許し、項羽の一族は殺害しなかった話があります。

劉邦は項氏で残った者には、劉氏の姓を与え重用しました。

劉邦はどの様な気持ちで、項羽の一族を許したのかは不明ですが、劉邦なりの最強のライバルであった項羽に対する何らかの気持ちがあったのかも知れません。

項羽の評価
項羽の評価ですが、司馬遷は項羽本紀の本文では、項羽に対して同情的で美しく描いています。

しかし、太史公曰くの部分になると、項羽の「天が我を滅ぼすのであり、我に罪はない。」の言葉を痛烈に批判しています。

史記の蒙恬列伝でも、本文では蒙恬を持ち上げ同情的に描きながらも、最後の部分だと批判しているわけです。

司馬遷は項羽に対して、二面的な評価をしたのでしょう。

項羽を見ていると、よく言えば純粋、悪く言えば単純であり、脇が甘い部分が多い様に思います。

広武山の戦いで、劉邦の父親である劉太公を返してしまい、背後を責められるなどは脇が甘いと言えるでしょう。

さらに言えば、張良や陳平の策に掛かった四面楚歌や、范増との離間の計などは項羽の単純さを現わしている様に思います。

しかし、項羽は兵を用いれば史上最強とも呼べる武将であり、中国史上最強の猛将と考える人も多い様に思いました。

因みに、項羽のライバルである劉邦は三国志の劉備に似ているとも言われています。

劉邦が天下が取れて、劉備が天下を取れなかった理由は、最大のライバルである項羽と曹操の差にある様に感じています。

劉邦もライバルが項羽ではなく、曹操の様な人物であれば、天下は取れなかった可能性もあるでしょう。

劉邦は韓信の言葉で「将の将たる人物」と評価されていますが、韓信の言葉を使えば項羽も韓信と同様に「兵の将たる人物」だったはずです。

それにしても、史記の項羽本紀にある項羽の最後は史記でも屈指の名場面であり、美しく描いたとも言えるでしょう。

司馬遷も項羽に対する、何らかの強い思い込みが無ければ、あそこまでの名文は掛けなかった様に思います。
https://rekishi-shizitsu.jp/kouu/
23:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/11 (Wed) 09:38:07

劉邦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E9%82%A6

生年 前247年 または 前256年
没年 前195年6月1日
『史記集解』が引用した皇甫謐によると、秦の前256年に生まれ、在位12年に62歳で崩じたとされている。しかし、『漢書』高帝記の注釈では53歳で崩じたと伝えている。

劉 邦(りゅう ほう、簡体字中国語: 刘邦、拼音: Liú Bāng)は、前漢の初代皇帝。

沛県の亭長(亭とは当時一定距離ごとに置かれていた宿舎のこと)であったが、反秦連合に参加した後に秦の都咸陽を陥落させ、一時は関中を支配下に入れた。その後項羽によって西方の漢中へ左遷され漢王となるも、東進して垓下に項羽を討ち、前漢を興した。正式には廟号が太祖(たいそ)、諡号が高皇帝(こうこうてい)であるが、通常は高祖(こうそ)と呼ばれることが多い。

生涯
出生
戦国時代末期に楚の領域だった泗水郡沛県豊邑中陽里(現在の江蘇省徐州市豊県)で、父の劉太公と母の劉媼の間の男児として誕生した[4]。長兄に劉伯、次兄に劉喜が、異母弟に劉交がいる。『史記』によれば劉媼が劉邦を出産する前、沢の側でうたた寝をしていると、夢の中で神に逢い、劉太公は劉媼の上に龍が乗っている姿を見た。その夢の後に劉邦が生まれたという[5]。また、諱の「邦」は『史記』では記されておらず、現在に残る文献で一番古いものでは後漢の荀悦『漢紀』に記され、『史記』『漢書』の注釈でそれを引用している[6]。出土史料から諱が「邦」であったことはおそらく正しいと思われる。また、字の「季」は「末っ子」のことである[7]。

その頃の幼馴染に盧綰と樊噲がおり[8][9]、共に後の反秦活動に参加している。特に盧綰は、盧綰の父親と劉太公が親友付き合いをしており、また盧綰が劉邦と同じ日に生まれたことから、2人も幼少時から親しくして育った[10]。中国の主要王朝の創始者としては、後年の明の朱元璋と並ぶ庶民出身者であるが、家族が次々餓死して一家離散した朱元璋ほどの極貧な生まれではなかったとされる。ただし、中年期までろくな定職も持たずに過ごし[11]、まともな読み書きも身につけないままであった。その一方で、遊び人なりに多くの人に好かれていたことは、蜂起後に彼の大きな財産となっている。

任侠生活
反秦戦争に参加する前の劉邦はいわゆる親分肌の侠客であり、家業を厭い、酒色を好んだ生活をしていた。幼い頃の劉邦は、魏の公子である信陵君を慕い、彼の食客だった外黄県令の張耳を訪ねて親交を深めた[12]。その後、魏が秦により滅亡すると、張耳は姓を変えて陳に忍び込み、劉邦も故郷に戻った。後日、劉邦は帝位についてから大梁を通るたびに信陵君の墓に祭祀を行うことで尊敬を表した[13]。縁あって沛東に位置する泗水の亭長(警察分署長)に就いたが、任務に忠実な官人ではなかった。沛の役人の中に後に劉邦の覇業を助けることになる蕭何と曹参もいたが、彼らもこの時期には劉邦を高くは評価していなかったようである。しかしなぜか人望のある性質であり、仕事で失敗しても周囲が擁護し、劉邦が飲み屋に入れば自然と人が集まり満席になるので、この店は劉邦のツケ払いの踏み倒しを黙認していたと伝えられる[14]。

史記によればある時、劉邦は夫役で咸陽に行ったが、そこで始皇帝の行列を見て「ああ、大丈夫たる者、あのように成らなくてはいかんなあ」と語ったという[15]。またある時、単父の有力者の呂公が仇討ちを避けて沛へとやって来た[16]。名士である呂公を歓迎する宴が開かれ、蕭何がこの宴を取り仕切った。沛の人々はそれぞれ進物に金銭を持参して集まったが、あまりに多くの人が集まったので、蕭何は進物が千銭以下の人は地面に座ってもらおうと提案した。そこへ劉邦がやってきて、進物を「銭一万銭」と呂公に伝えた[17]。あまりの金額に驚いた呂公は、慌てて門まで劉邦を迎え、上席に着かせた。蕭何は劉邦が銭など持っていないのを知っていたので、「劉邦は前から大風呂敷だが、実際に成し遂げたことは少ない(だからこのことも本気にしないでくれ)」と言ったが、呂公は劉邦を歓待し、その人相を見込んで自らの娘を娶わせた[18]。これが呂雉である。

妻を娶ったものの劉邦は相変わらずの侠客であり、呂雉は実家の手伝いをし、2人の子供を育てながら生活していた。史記によればある時、呂雉が田の草取りをしていたところ、通りかかった老人が呂雉の人相がとても貴いと驚き、息子と娘(後の恵帝と魯元公主)の顔を見てこれも貴いと驚き、帰ってきた劉邦がこの老人に人相を見てもらうと「奥さんと子供たちの人相が貴いのは貴方がいるためである。あなたの貴さは言葉にすることができない」と言い、劉邦は大いに喜んだという[19]。『史記』には他にもいくつかの「劉邦が天下を取ることが約束されていた」との話を載せている。ただ、それらの逸話の中で劉邦は赤龍の子であるとする逸話は、漢が火徳の帝朝と称することに繋がっている。

反秦連合へ
陳勝・呉広の乱と挙兵
ある時、劉邦は亭長の役目を任ぜられ、人夫を引き連れて咸陽へ向かっていたが、秦の過酷な労働と刑罰を知っていた人夫たちは次々と逃亡した。秦は法も厳しく、人夫が足りなければその引率者が責任を取らされる、とやけになった劉邦は浴びるように酒を飲んだ上、酔っ払って残った全ての人夫を逃がした。そして、行くあてがないと残った人夫らと共に沼沢へ隠れた。すると噂を聞きつけた者が子分になりたいと次々と集まり、劉邦は小規模な勢力の頭となった。

紀元前209年、陳勝・呉広の乱が発生し、反乱軍の勢力が強大になると、沛の県令は反乱軍に協力するべきか否かで動揺、そこに蕭何と曹参が「秦の役人である県令が反乱しても誰も従わない。人気のある劉邦を押し立てて反乱に参加するべきだ」と吹き込んだ[20]。一旦はこれを受け入れた県令であったが、劉邦の元に使者が向かった後に考えを翻し、沛の門を閉じて劉邦を締め出そうとした[21]。劉邦は一計を案じて、絹に書いた手紙を城の中に投げ込んだ(当時の中国の都市は基本的に城塞都市である)。その手紙には「今、この城を必死に守ったところで、諸侯(反乱軍)がいずれこの沛を攻め落とすだろう。そうなれば沛の人々にも災いが及ぶことになる。今のうちに県令を殺して頼りになる人物を長に立てるべきだ」と書いてあり、それに応えた城内の者は県令を殺して劉邦を迎え入れ、長老らは新たな県令に就く事を求めた[22]。劉邦は最初は「天下は乱れ、群雄が争っている。自分などを選べば、一敗地に塗れることになる。他の人を選ぶべきだ」と辞退したが、蕭何と曹参までもが劉邦を県令に推薦したので、劉邦はこれを受けて県令となった[23]。以後、劉邦は沛公と呼ばれるようになる。

沛公となった劉邦は蕭何や曹参・樊噲らと共に地元の若者2000~3000人らを率いて武装集団を結成し、秦に服属する胡陵・方与などの周囲の県を攻めに行き、故郷である豊の留守を雍歯という者に任せたが、雍歯は旧魏の地に割拠していた魏咎の武将の周巿に誘いをかけられて寝返ってしまった[24]。怒った劉邦は豊を攻めるが落とすことができず、仕方なく沛に帰った。当時、陳勝は秦の章邯の軍に敗れて逃れたところを殺されており、その傘下に属した戦国時代の楚の公族の末裔である景駒という人物が、同じく陳勝軍の甯君と秦嘉という者に陳勝に代わる王に擁立されていた。劉邦は豊を落とすためにもっと兵力が必要だと考えて、景駒に兵を借りに行った[25]。

紀元前208年、劉邦は甯君と共に秦軍と戦うが、敗れて引き上げ、新たに碭(現在の安徽省宿州市碭山県)を攻めてこれを落とし、ここにいた5、6千の兵を合わせ、さらに下邑(現在の安徽省宿州市碭山県)を落とし、この兵力を持って再び豊を攻めた[26]。

豊を取り返した劉邦であったが、この間に豊などとは比べ物にならないほどに重要なものを手に入れていた。張良である。張良は始皇帝暗殺に失敗した後に、旧韓の地で兵士を集めて秦と戦おうとしていたが、それに失敗して留(沛の東南)の景駒の所へ従属しようと思っていた[27]。張良自身も自らの指導者としての資質の不足を自覚しており、自らの兵法をさまざまな人物に説いていたが、誰もそれを聞こうとはしなかった。ところが劉邦は、出会うなり熱心に張良に言葉を聞き入り、張良はこれに感激して「沛公はほとんど天性の英傑だ」と劉邦のことを褒め称えた[28]。これ以降、張良は劉邦の作戦のほとんどを立案し、張良の言葉を劉邦はほとんど無条件に聞き入れ、ついには天下をつかむことになる。劉邦と張良の関係は、君臣関係の理想として後世の人に仰ぎ見られることになる。その頃、景駒は項梁によって殺され、項梁は薛の地にて各地の諸将を招集し、陳勝の死を確認した上で、反秦勢力の新たな頭領として今後の計画に関する会盟を執り行った。また旧楚の懐王の孫にあたる熊心という人物を探し出して楚王の位に即け、祖父と同じ懐王の号を与えて名目上の君主として擁立した。この会盟には劉邦も参加し[29]、項梁の勢力へと参入する事となる。そして項梁より新たに5000人の兵と10名の将を得て、ようやく豊の地を奪還する事に成功した[30]。

項梁は何度となく秦軍を破ったが、それと共に傲慢に傾いて秦軍を侮るようになり、章邯軍の前に戦死した。劉邦たちは遠征先から軍を戻し、新たに反秦軍の根拠地に定められた彭城(現在の江蘇省徐州市)へと集結した[31]。項梁を殺した章邯は軍を北へ転じて趙を攻め、趙王趙歇の居城の鉅鹿を包囲したため、趙は楚へ救援を求めてきていた。そこで懐王は宋義・項羽・范増を将軍として主力軍を派遣し、趙にいる秦軍を破った後、咸陽へと攻め込ませようとし、その一方で劉邦を別働隊として西回りに咸陽を衝かせようとした。そして懐王はこうした行軍の条件に差を設けた上で、「一番先に関中(咸陽を中心とした一帯)に入った者を、その地の王としよう」と約束した[32]。

関中入り
劉邦は西に別働隊を率いて行軍し、剛武侯の軍の兵4000を奪った後、魏の将軍の皇欣・申徒・武蒲らと合同して昌邑を攻めたものの、これを落とす事はできず、高陽(現在の河南省開封市杞県)へと向かった[33]。ここで劉邦は儒者の酈食其の訪問を受ける。劉邦は大の儒者嫌いで、酈食其に対しても、足を投げ出してその足を女たちに洗わせながら面会するという態度であった。しかしこれを酈食其が一喝すると、劉邦は無礼を詫びて酈食其の進言を聞いた[34]。酈食其は「近くの陳留は、交通の要所であり秦軍の食料も蓄えられているのでこれを得るべきである。城主は反秦軍を脅威に思っているが、民衆からの復讐を恐れているので、降るに降れない。降っても身分を保証すると約束して頂ければ、帰順させるよう説得する」と言った。劉邦はこれを採用し、陳留の県令は説得に応じて降り、交通の要所と大量の兵糧を無血で手に入れた。さらに劉邦はその兵力を合わせて進軍し、大梁を攻め落とした。次いで韓に寄り、寡兵で苦戦していた韓王成と張良を救援して、楊熊率いる秦軍を駆逐し、韓を再建した。そしてその恩義をもって、張良を客将として借り受ける[35]。

さらに南陽郡を攻略し、郡守の呂齮を撃破して、呂齮が宛(現在の河南省南陽市宛城区)に逃げ込んだために張良の助言でこれを包囲した[36]。呂齮の舎人である陳恢の説得に応じて、これを降伏させると、呂齮に殷侯の爵位を封じて宛の地を守らせ、[37]。そして魏の人物である甯昌を秦に派遣するが、この間に項羽の軍が章邯率いる秦の主力軍を撃破し(鉅鹿の戦い)[38]、秦の内部では動揺が走った。始皇帝の死後、秦の朝廷では宦官の趙高が二世皇帝胡亥を傀儡として専横をふるっていたが、この敗戦が胡亥に伝われば自分が責任を取らされると考え、胡亥を弑殺した上で、反乱軍を率いる劉邦に対して、関中を二分して王になろうという密書を送った[39]。劉邦はこれを偽者だと思い、自らの軍をもって武関の守将を張良の策によってだまし討ちにし、これを破って武関を突破した[40]。

さらに藍田にて再び秦軍と対峙し、大量の旗を掲げて見せ掛けの兵数を増やし、兵達による略奪を禁じたため、秦の民衆は喜び、反乱軍は再び勝利を収めた[41]。史記の張良の伝である「留侯世家」では、武関の撃破の次の戦いは別の拠点である嶢関の攻略戦であり、張良の策によりまず秦の将軍を降伏させた後で、城内に残る兵士達は士気が高くなおも降伏はしないと見越し、騙し討ちで制圧して嶢関を突破した後に、逃げる兵達を追って藍田にて交戦したとされる[42]。

劉邦の軍はやがて覇上(現在の陝西省西安近郊の河川・覇水の周辺の地名)にまで迫った[43]。秦の朝廷ではこの頃、胡亥を暗殺した趙高によって皇族の子嬰が新たに擁立されるも、子嬰は逆に趙高を暗殺し、自らは皇帝ではなく秦王を名乗っていた。子嬰は白装束に首紐をかけた姿で劉邦の軍の前に現れ、皇帝の証である玉璽などを差し出して降伏した[44]。部下の間には子嬰を殺してしまうべきだという声が高かったが、劉邦は「懐王は儂の寛容さに期待を持ったからこそ、儂をここに派遣したのだ。加えて降伏した者に手を掛けるのは不吉だ」と話し、子嬰を官吏に落とすのみで許した上で、咸陽に入城した[45]。

漢王劉邦
入城した劉邦は宮殿の中の女と財宝に目がくらみ、ここに留まって楽しみたいと思ったが、部下の樊噲と張良に諫められると一切手を付けず、覇上へと引き上げた[46]。そして関中の父老(村落のまとめ役)を集め、秦の時代の事細かな上に苛烈な法律を「人を殺せば死刑。人を傷つければ処罰。物を盗めば処罰」の三条のみに改めた「法三章」による統治を宣言した。この施策に関中の民は歓喜し、牛・羊の肉や酒などを献上しようとしたが、劉邦は「我が軍の食料が十分だから断るのではない。民に出させるに忍びないのだ」とこれを断った。これを聞いた民衆の劉邦人気は更に大きく高まり、劉邦が王にならなかったらどうしよう、と話し合うほどとなったとされる[47]

その頃、東から項羽が関中に向かって進撃してきていた。劉邦はある人の「あなたが先に関中に入ったにもかかわらず、項羽が関中に入ればその功績を横取りする。関を閉じて入れさせなければあなたが関中の王のままだ」というを進言を聞いて、関中を守ろうとして関中の東の関門である函谷関に兵士を派遣して守らせていた[48]。劉邦が関中入りできた最大の要因は、秦の主力軍の相手を項羽が引き受けたことにあり、それなのに劉邦は既に関中王になったつもりで函谷関を閉ざしていることに激怒した項羽は、英布に命じてこれを破らせた[49]。項羽の軍師范増は、劉邦が関中で聖人君子の如く振る舞ったのは天下を狙う大望有るゆえと見て、殺すべきと進言。先の激怒もあって、項羽は40万の軍で劉邦を攻めて滅ぼしてしまおうとした。劉邦の部下である曹無傷は、これに乗じて項羽に取り入ろうと「沛公は関中の王位を狙い、秦王子嬰を宰相として関中の宝を独り占めにしようとしております」と讒言した[50]ので、項羽はますます激怒した。

項羽軍は劉邦軍より兵力も勇猛さも圧倒的に上であり、劉邦はこの危機を打開しようと焦っていたが、ちょうどその時、項羽の叔父である項伯が劉邦軍の陣中に来ていた。項伯はかつて張良に恩を受けており、その恩を返すべく危機的状況にある劉邦軍から張良を救い出そうとしたのである。しかし張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びることを断り、項伯を劉邦に引き合わせて何とか項羽に弁明させて欲しいと頼み込んだ。項伯の仲介が功を奏し、劉邦と項羽は弁明のための会合を持つ。この会合で劉邦は何度となく命の危険があったが、張良や樊噲の働きにより虎口を脱した。項羽は劉邦を討つ気が失せ、また弁明を受け入れたことで討つ名目も失った。これが鴻門の会である。陣中に戻った劉邦は、まず裏切者の曹無傷を処刑してその首を陣門に晒した。

その後、項羽は咸陽に入り、降伏した子嬰ら秦王一族や官吏4千人を皆殺しにし、宝物を持ち帰り、華麗な宮殿を焼き払い、さらに始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出している。劉邦の寛大さと対照的なこれらの行いは、特に関中の人民から嫌悪され、人心が項羽から離れて劉邦に集まる一因となっている。

項羽は彭城に戻って「西楚の覇王」を名乗り、名目上の王である懐王を義帝と祭り上げて辺境に流し、その途上でこれを殺した。紀元前206年、項羽は諸侯に対して封建(領地分配)を行う。しかしこの封建は非常に不公平なもので、その基準は功績ではなく、項羽との関係が良いか悪いかに拠っていたため多くの不満を買い、すぐ後に次々と反乱が起きるようになる。劉邦にも約束の関中の地とはいえ、咸陽周辺ではなくその西側の一地方であり奥地・辺境である漢中および巴蜀が与えられた(当時「関中」には統一以前の秦の領土を指す意味もあった)。このとき劉邦を「左に遷す」と言ったことから、これが左遷の語源になったと言われている。さらに劉邦の東進を阻止するために、関中は章邯ら旧秦軍の将軍3人に分割して与えられた。

当時の漢中は、流刑地とされるほどの非常な辺境であった。そこへ行くには「蜀道の険」と呼ばれる、人一人がやっと通れるような桟道があるだけで、劉邦が連れていた3万の兵士は途中で多くが逃げ出し、残った兵士も東に帰りたいと望んでいた。

項羽との対決
この時期に劉邦陣営に新たに加わったのが韓信である。韓信は元は項羽軍にいたが、その才能がまったく用いられず、劉邦軍へと鞍替えしてきたのである。最初は単なる兵卒や下級将校であったが、やがて韓信の才能を見抜いた蕭何の推挙により、大将軍となった。その際に韓信は、「項羽は強いがその強さは脆いものであり、特に処遇の不満が蔓延しているため東進の機会は必ず来る。劉邦は項羽の逆を行えば人心を掌握できる」と説いた。また、「関中の三王は20万の兵士を犠牲にした秦の元将軍であり、人心は付いておらず関中は簡単に落ちる。劉邦の兵士たちは東に帰りたがっており、この帰郷の気持ちをうまく使えば強大な力になる」と説いた。劉邦はこの進言を全面的に用いた。

そして韓信の予言通り、項羽に対する反乱が続発し、項羽はその鎮圧のため常勝ながら東奔西走せざるを得なくなる。項羽は劉邦にも疑いの目を向けたが、劉邦は張良の策によって桟道を焼き払って漢中を出る意志がないと示し、更に項羽に対して従順な文面の手紙を出して反抗する気がないように見せかけていた。これで項羽は安心し、反乱を起こしていた斉の田栄を討伐に向かった。

それを見た劉邦は、桟道以前に使われていた旧道を通って関中に出撃し、一気に章邯らを破って関中を手に入れ、ここに社稷を建てた。

一方、遠征先の斉でも、項羽は相変わらず城を落とすたびにその住民を皆殺しにする蛮行を繰り返したため、斉の人々は頑強に抵抗した。このため項羽は斉攻略にかかりきりになり、その隙に乗じた劉邦はさらに東へと軍を進め、途中の王たちを恭順・征服しながら項羽の本拠地・彭城を目指した。

大敗
紀元前205年、劉邦は味方する諸侯との56万と号する連合軍を引き連れて彭城へ入城した。入城した漢軍は勝利に浮かれてしまい、日夜城内で宴会を開き、女を追いかけ回すという有様となった。一方、彭城の陥落を聞いた項羽は自軍から3万の精鋭を選んで急いで引き返し、油断しきっていた漢軍を散々に打ち破った。この時の漢軍の死者は10万に上るとされ、川が死体のためにせき止められたという(彭城の戦い)。劉邦は慌てて脱出したが、劉太公と呂雉が楚軍の捕虜となってしまった。この大敗で、それまで劉邦に味方していた諸侯は一斉に楚になびいた。

劉邦は息子の劉盈(後の恵帝)と娘(後の魯元公主)と一緒に馬車に乗り、夏侯嬰が御者となって楚軍から必死に逃げていた。途中で追いつかれそうになったので、劉邦は車を軽くするために2人の子供を突き落とした。あわてて夏侯嬰が2人を拾ってきたが劉邦はその後も落とし続け、そのたびに夏侯嬰が拾ってきた。

劉邦は碭で兵を集めて一息ついたものの、ここで項羽に攻められれば防ぎきれないことは明らかだったので、随何に命じて楚軍の英布を味方に引き込むことに成功したが、英布は楚の武将の龍且と戦って破れ、劉邦軍と合流した。劉邦は道々兵を集めながら軍を滎陽に集め、周囲に甬道(壁に囲まれた道)を築いて食料を運び込ませ、篭城の用意を整えた。この時期、劉邦の幕僚に謀略家・陳平が加わっている。

その一方、別働隊に韓信を派遣し、魏・趙を攻めさせて項羽を背後から牽制しようとした。また元盗賊の彭越を使い、項羽軍の背後を襲わせた。

紀元前204年、楚軍の滎陽攻撃は激しく(滎陽の戦い)、甬道も破壊されて漢軍の食料は日に日に窮乏してきた。ここで陳平は項羽軍に離間の計を仕掛け、項羽とその部下の范増・鍾離眜との間を裂くことに成功する。范増は軍を引退して故郷に帰る途中、怒りの余り、背中にできものを生じて死亡した。

離間の計は成功したものの、漢の食糧不足は明らかであり、将軍の紀信を劉邦の影武者に仕立てて項羽に降伏させ、その隙を狙って劉邦本人は西へ脱出した。その後、滎陽は御史大夫の周苛、樅公が守り、しばらく持ちこたえたものの、項羽によって落とされた。

西へ逃れた劉邦は関中にいる蕭何の元へ戻り、蕭何が用意した兵士を連れて滎陽を救援しようとした。しかし袁生が、真正面から戦ってもこれまでと同じことになる、南の武関から出陣して項羽をおびき寄せる方がいいと進言した。劉邦はこれに従って南の宛に入り、思惑通り項羽はそちらへ向かった。そこで項羽の後ろで彭越を策動させると、こらえ性のない項羽は再び軍を引き返して彭越を攻め、その間に、劉邦も引き返してくる項羽とまともに戦いたくないので、北に移動して成皋(現在の河南省鄭州市滎陽市)へと入った。項羽は戻ってきてこの城を囲み、劉邦は支えきれずに退却した。

夏侯嬰のみを供として敗走していた劉邦は、韓信軍が駐屯していた修武(現在の河南省焦作市修武県)へ行って、韓信が陣中で寝ているところに入り込み、韓信の軍隊を取り上げた。さらに劉邦は韓信に対して斉を攻めることを命じ、曹参と灌嬰を韓信の指揮下とした。また盧綰と従兄弟の劉賈を項羽の本拠地である楚へ派遣し、後方撹乱を行わせた。

韓信はその軍事的才能を遺憾なく発揮し、斉をあっさりと下し、楚から来た20万の軍勢と龍且をも討ち破った。ただ斉を攻める際に手違いがあり、斉に漢との同盟を説きに行った酈食其が殺されるということが起きている。

再び敗れる
紀元前203年、劉邦は項羽と対陣して堅く守る作戦をとっていたが、一方で項羽の後ろで彭越を活動させ、楚軍の兵站を攻撃させていた。項羽は部下の曹咎に「15日で帰るから手出しをしないで守れ」と言い残して出陣し、彭越を追い散らしたが、曹咎は漢軍の挑発に耐えかねて出陣し、大敗していた。漢軍は項羽が帰ってくると再び防御に徹し、項羽が戦おうと挑んでもこれに応じなかった。

その頃、韓信は斉を完全に制圧し、劉邦に対して鎮撫のため仮の斉王になりたいとの使者を送ってきた。これを聞いた劉邦は怒って声を荒らげそうになったが、それを察知した張良と陳平に足を踏んで諫められ、もし韓信が離反してしまえば取り返しがつかないことを悟り、韓信を正式な斉王に封じた。

漢楚両軍は長い間対峙を続け、しびれを切らした項羽は捕虜になっていた劉太公を引き出して大きな釜に湯を沸かし「父親を煮殺されたくなければ降伏しろ」と迫ったが、劉邦はかつて項羽と義兄弟の契りを結んでいたことを持ち出して「お前にとっても父親になるはずだから殺したら煮汁をくれ」とやり返した。次に項羽は「二人で一騎討ちをして決着をつけよう」と言ったが、劉邦は笑ってこれを受けなかった。そこで項羽は弩の上手い者を伏兵にして劉邦を狙撃させ、矢の1本が胸に命中した劉邦は大怪我をした。これを味方が知れば全軍が崩壊する危険があると考え、劉邦はとっさに足をさすり、「奴め、俺の指に当ておった」と言った。その後劉邦は重傷のため床に伏せたが、張良は劉邦を無理に立たせて軍中を回らせ、兵士の動揺を収めた。

一方、彭越の後方攪乱によって楚軍の食料は少なくなっていた。もはや漢も楚も疲れ果て、天下を半分に分けることを決めて講和した。この時、劉太公と呂雉は劉邦の下に戻ってきている。

天下統一
項羽は東へ引き上げ、劉邦も西へ引き上げようとしていたが、張良と陳平は退却する項羽の軍を攻めるよう進言した。もしここで両軍が引き上げれば楚軍は再び勢いを取り戻し、漢軍はもはやこれに対抗できないだろうというのである。劉邦はこれを容れて、項羽軍の後方を襲った。

劉邦は同時に、韓信と彭越に対しても兵士を連れて項羽攻撃に参加するように要請したが、どちらも来なかった。劉邦が恩賞の約束をしなかったからである。張良にそれを指摘された劉邦は思い切って韓信と彭越に大きな領地の約束をし、韓信軍と彭越軍を加えた劉邦軍は一気に膨張した。項羽に対して有利な立場に立ったことで、その他の諸侯の軍も雪崩をうって劉邦に味方し、ついに項羽を垓下に追い詰めた。

追い詰めはしたものの、やはり項羽と楚兵は勇猛であり、漢軍は連日大きな犠牲を出した。このため張良と韓信は無理に攻めず包囲しての兵糧攻めを行い、楚軍を崩壊させた。項羽は残った少数の兵を伴い包囲網を突破したが、楚へ逃亡することを潔しとせず、途中で漢の大軍と戦って自害した(垓下の戦い)。遂に項羽を倒した劉邦は、いまだ抵抗していた魯を下し、残党たちの心を静めるために項羽を厚く弔った。

紀元前202年、劉邦は群臣の薦めを受けて、ついに皇帝に即位した。

論功行賞をした際、戦場の功のある曹参を第一に推す声が多かったが、劉邦はそれを退けて蕭何を第一とした。常に敗れ続けた劉邦は、蕭何が常に用意してくれた兵員と物資がなければとっくの昔に滅び去っていたことを知っていたのである。また韓信を楚王に、彭越を梁王に封じた。張良にも3万戸の領地を与えようとしたが、張良はこれを断った。また、劉邦を裏切って魏咎に就くなど、挙兵時から邪魔をし続けながら、最後はまたぬけぬけと漢中陣営に加わり、功こそあれど劉邦が殺したいほど憎んでいた雍歯を速やかに什方侯にした。これは、論功行賞で不平を招いて反乱が起きないための張良の策で、他の諸侯に「あの雍歯が賞せられたのだから、自分にもちゃんとした恩賞が下るだろう」と安心させる効果があった。

劉邦は最初洛陽を首都にしようと考えたが、劉敬が長安を首都にする利点を説き、張良もその意見に賛同すると、すぐさま長安に行幸し首都に定めた。

劉邦が家臣たちと酒宴を行っていた時、劉邦は「皆、俺が天下を勝ち取り、項羽が敗れた理由を言ってみよ」と言った。これに答えて高起と王陵が「陛下は傲慢で人を侮ります。これに対して項羽は仁慈で人を慈しみます。しかし陛下は功績があった者には惜しみなく領地を与え、天下の人々と利益を分かち合います。これに対して項羽は賢者を妬み、功績のある者に恩賞を与えようとしませんでした。これが天下を失った理由と存じます」と答えた。

劉邦は「お前達はわかっておらぬな。俺は張良のように策を帷幕の中に巡らし、勝ちを千里の外に決する事は出来ないし、蕭何のように民を慰撫して補給を途絶えさせず、民を安心させる事は出来ないし、韓信のように軍を率いて戦いに勝つ事は出来ない。だが俺はこの張良・蕭何・韓信という3人の英傑を見事に使いこなす事が出来た。反対に項羽は范増1人すら使いこなす事が出来なかった。これが俺が天下を勝ち取った理由だ」と答え、その答えに群臣は敬服した。

粛清
その年の7月、燕王臧荼が反乱を起こし、劉邦は親征してこれを下し、幼馴染の盧綰を燕王とした。その中で劉邦は次第に部下や諸侯に猜疑の目を向けるようになった。特に韓信・彭越・英布の3人は領地も広く、百戦錬磨の武将であり、最も危険な存在であった。

ある時「韓信が反乱を企んでいる」と讒言する者があった。群臣たちは韓信に対する妬みもあり、これを討伐するべきだと言ったが、陳平は軍事の天才・韓信とまともに戦うのは危険であると説き、だまして捕らえることを提案した。劉邦はこれを受け入れて、巡幸に出るから韓信も来るようにと言いつけ、匿っていた鍾離眜の首を持参した韓信がやって来たところを虜にし、楚王から格下げして淮陰侯にした。

紀元前201年、匈奴に攻められて降った韓王信がそのまま反乱を起こした。劉邦はまた親征してこれを下した。紀元前200年、匈奴の冒頓単于を討つため、さらに北へ軍を動かした。しかし、冒頓単于は弱兵を前方に置いて、負けたふりをして後退を繰り返したので、追撃を急いだ劉邦軍の戦線が伸び、劉邦は少数の兵とともに白登山で冒頓単于に包囲された。この時、劉邦は7日間食べ物がなく窮地に陥ったが、陳平の策略により冒頓単于の妃に賄賂を贈り、脱出に成功した(白登山の戦い)。その後、劉邦と冒頓単于は匈奴を兄・漢を弟として毎年貢物を送る条約を結び、以後は匈奴に対しては手出しをしないことにした。

紀元前196年、韓信は反乱を起こそうと目論んだが、蕭何の策で捕らえられ、誅殺された。この時、劉邦は遠征に出ていたが、帰って韓信が誅殺されたことを聞かされるとこれを悲しんだ。

同年、彭越は捕らえられて蜀に流されるところを呂雉の策謀により誅殺され、一人残った英布は反乱を起こした。劉邦はこの時体調が優れず、太子(恵帝)を代理の将にしようかと考えていたが、呂雉らにこれを諫められ、親征して英布を下した。この遠征から帰る途中で故郷の沛に立ち寄って宴会を行い、この地の子供120人を集めて「大風の歌」を歌わせた。

大風起こりて雲飛揚す(大風起兮雲飛揚)
威海内に加わりて故郷に帰る(威加海内兮歸故郷)
いずくむぞ猛士を得て四方を守らしめん(安得猛士兮守四方)
そして沛に永代免租の特典を与え、沛の人たちから請われて故郷の豊にも同じ特典を与えた。

晩年
英布戦で受けた矢傷が元で、さらに病状が悪化し、紀元前195年に呂雉に対して、今後誰を丞相とするべきかの人事策を言い残して崩御した。

この際、自らの死期を悟った劉邦は、「死後どうすればよいのか」と問う呂雉に対し、「(丞相・相国の)蕭何に任せておけばよい。その次は曹参が良かろう」と言う。

さらに何度も「その次は?」と聞く呂雉へ「その次は王陵が良いだろうが、愚直すぎるので陳平を補佐とするとよい。だが陳平は頭が切れすぎるから、全てを任せるのは危ない。社稷を安んじるものは必ずや周勃であろう」と言った。

そして、なおも「その次は?」と聞く呂雉に「お前はいつまで生きるつもりだ。その後はお前にはもう関係ない」と言っている。

死後、太子の劉盈が即位したが(恵帝)、実権は全て呂雉に握られ、強大な諸侯は全て劉邦に粛清されており対抗できる者もなく、呂氏の時代がやって来た。呂雉の死後、周勃と陳平により呂氏は粛清され、恵帝の異母弟の代王劉恒(文帝)が迎えられ、文景の治の繁栄となる。

人物
劉邦は鼻が高く、立派な髭をしており、いわゆる龍顔、顔が長くて鼻が突き出ている顔をしていたという。また、太股に72の黒子があった。72とは1年360日を五行思想の5で割った数で、当時ではかなりの吉数である。

劉邦の影響
中国史上最初の皇帝始皇帝は以後の中国にとって悪例として残り、その後の混乱を収めた劉邦は好例として「皇帝(英雄)とはかくあるべき」という理想を、後世の多くの人々の心に形作ることになる。例えば明の朱元璋は李善長より「高祖のごとくすれば、天下はあなたのものになる」と進言され、これを受け入れている。

特に劉邦と張良の関係に代表される、有能な部下を全面的に信頼してその才を遺憾なく発揮させる点は、後の世にもたびたび引き合いに出された。

中国
西晋滅亡後の混乱期(五胡十六国時代)において後趙を建国し皇帝を名乗った石勒は、過去の人物らを評して「劉邦に会ったら(その部下となって)韓信や彭越と先陣を競うだろう。光武帝劉秀に会ったなら、互いに中原の鹿を追い(天下を争い)雌雄を決するだろう。大丈夫たる者、磊磊落落、日月が明るく輝くように物事を行うべきであって、曹操や司馬懿らのように孤児や寡婦を欺き、狐のように媚びて天下を取るような真似は絶対にできない」と評している[51]。
日本
飛鳥時代の天武天皇は壬申の乱にて大友皇子を破り親征を開始するに当たって、赤の色を積極的に用いたと推測されるが、これは自身を劉邦になぞらえる気持ちがあったとも推測されている[52]。
后妃と子女
【漢王朝系図】(編集)
皇后 呂雉(のちに光武帝により皇后位・諡号を剥奪される)
魯元公主
劉盈(恵帝)
妾 曹氏
劉肥(斉悼恵王)
夫人 戚氏
劉如意(代王→趙隠王)
姫・皇太后 薄氏(子の即位により皇太后となる。また光武帝により皇后位・諡号を追贈される)
劉恒(代王→文帝)
姫 趙氏
劉長(淮南厲王)
生母の氏名が不詳の子
劉恢(淮陽王→梁王→趙共王)
劉友(中国語版)(河間王→淮陽王→趙幽王)
劉建(中国語版)(燕霊王)
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24:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/11 (Wed) 09:40:32

劉邦は民衆から成り上がり漢帝国を築いた人物
2022年8月22日
https://rekishi-shizitsu.jp/ryuuhou/

劉邦は前漢を建国した人物であり、楚漢戦争で項羽を破った人物としても有名です。

中国の長い歴史の中でも、民間人から皇帝に昇りつめ天下統一したのは、劉邦と朱元璋の二人だけだと言えます。

楚漢戦争終了後の劉邦は匈奴との戦いで冒頓単于に大敗していますし、功臣を次々に処刑するなど暗さが見えます。

しかし、劉邦も死の間際となり、最後だと悟ると、再び劉邦本来の力を取り戻した様に感じました。

今回は秦末期から楚漢戦争の英雄である劉邦が、史実ではどの様な人物なのか解説します。

尚、劉邦と言えば項羽に何度も負けて、戦下手のイメージがある様に思いました。

実際には項羽が強すぎるだけであり、劉邦の用兵は上手い方ではないかと考えています。

劉邦は自分が項羽を破った理由として、張良、韓信、蕭何の3人を使いこなす事が出来たからと述べています。

しかし、劉邦が項羽に勝つ事が出来たのは、項羽に何度負けても、心が折れなかったからだとも考えられるはずです。

目次[表示]

赤龍の子
劉邦は沛県出身の民間人であり、劉太公と劉媼の間に3男として生まれた話があります。

劉邦の出生神話があり、劉邦の母親である、劉媼が大きな沢の畔で休んでいると、神にあった夢を見ました。

この時に天地が暗闇となり、激しく雷が起こり、劉太公が駆けつけると蛟竜が劉媼の上にいます。

劉媼は身籠り生まれたのが、劉邦だったとされています。

この蛟竜が赤龍だったとも言われていおり、劉邦は赤龍の子や漫画のタイトルにもなった「赤龍王」とも呼ばれる様になります。

お気づきの方もいるかと思いますが、劉邦の父親である劉太公や劉媼は本名ではない可能性もあります。

劉太公の「太公」は年長者を現わす言葉ともされ、劉媼の「媼」はおばさんを指す言葉ともされているからです。

尚、劉邦と言う名前も本当の名前かも定かではなく、司馬遷が書いた史記では劉邦という名前は出て来ません。

史記での劉邦は「沛公」「劉季」「高祖」などで呼ばれています。

劉邦の名前が登場するのは、漢書からですが、「邦」は国という意味があり、建国者の名が「邦」では、偶然が重なり過ぎていると、劉邦の本名ではないとする説もあります。

因みに、劉邦の兄は劉伯、二番目の兄は劉喜、異母弟に劉交がいます。


劉邦の生い立ち
劉邦の誕生秘話や青年時代の劉邦を解説します。

特徴のある身体
史記によれば、劉邦は生まれつき鼻が高く、額は龍の様で髭は美しく、左の股に72のほくろがあったとされています。

72は1年360日を五行説の5で割った数であり、非常に縁起が良い数字だとされていました。

ほくろの話は、劉邦は吹聴していただけとする説もあり、本当かどうかは分かりません。

ただし、これらの記述を考えると、劉邦は今でいうイケメンであり、劉邦の魅力に関しては外見的な要素も多分に含まれたいたのでしょう。

酒と色を好む
劉邦は酒と色を好んだとあります。

劉邦は王媼と武負の酒屋に出かけては、ツケで酒を飲んでいた話があります。

普通であれば「ツケ」で飲むのは嫌がられますが、劉邦が酒場に行くと、なぜか店が繫盛する事で、王媼と武負は劉邦がツケで飲むのを許していました。

劉邦は親分肌で人気があり、劉邦の周りには自然と人が集まったのでしょう。

尚、王媼と武負は劉邦が店にくれば酒が売れる事から、年末になると劉邦の借金を帳消しにした話があります。

劉邦の飲んだ分を差し引いても、劉邦が来る事で酒場は繫盛したのでしょう。

尚、劉邦は遊侠の徒でもあり、ならず者たちからも慕われていた様です。

劉邦が亭長になる
劉邦は成人になると、亭長になった話があります。

この時の同僚には、後の前漢王朝で丞相となる蕭何や曹参がいました。

この頃の蕭何や曹参は、劉邦の事を全く評価していなかった話がありますが、初期の段階で蕭何や曹参がいたのは、劉邦にとってみればかなりの幸運です。

三国志の劉備で言えば、諸葛亮がいきなり、張角が引き起こす黄巾の乱の前に劉備配下になった様なものだとも言えるでしょう。

尚、亭長時代の劉邦は失敗があっても、周りの人間がかなりフォローしてくれたようです。

ここでも、劉邦の人間力が発揮されています。

因みに、劉邦が就任した亭長は宿場を警護する役職であり、治安維持を行ったりもします。

亭長は地元の顔役が務める事が多い役職だった話もあり、地元のならず者達から慕われている劉邦には適性があると思われたのでしょう。

始皇帝の巡行
劉邦が民間人だった時代に、始皇帝の巡行をみた話があります。

当時の劉邦は自分が英雄だと吹聴していた話があり、「始皇帝に処刑されては溜まらん。」と隠れていました。

しかし、始皇帝を見ると、次の様に述べています。

「大丈夫たるもの。あの様で無ければいかん。」

劉邦は始皇帝が堂々と巡行している所を見て、感じる部分があったのでしょう。

尚、後年に劉邦のライバルとなる項羽が始皇帝を見た時は「奴(始皇帝)に、とって変わってやる。」と漏らした話があり、劉邦の言葉と対比されます。

項羽の覇気の強さを現わす話でもありますが、劉邦の方が項羽よりも年上であり、熟練の思考を持っている様にも感じます。

呂雉を妻とする
劉邦は呂雉を妻にする事になります。

余談ですが、後に呂雉(呂后)は中国三大悪女の一人に数えられる人物となります。

呂公が沛にやって来る
亭長時代の劉邦に、単父(地名)の有力者である呂公がやってきた話があります。

呂公が沛に来ると、多くの者が歓迎し挨拶に来る事になります。

呂公の受付を県の官吏である蕭何がやっており、諸大夫に「千銭以下の貢物の物は、堂下に座る様に。」と述べました。

この時に、劉邦は何を思ったのか「1万銭を持ってきた。」と言い、奥に入っていったわけです。

劉邦がお金が無い事は多くの人が知っており、劉邦自身も1銭も持っていませんでした。

劉邦の人相
呂公は人相を見る事を好み、劉邦を一目見るや驚きます。

呂公は劉邦を丁重に奥に導き、上座に座らせようとしました。

蕭何は呂公に「劉邦はホラ吹きだ。」と述べますが、呂公は気にせず、劉邦を上座に座らせたわけです。

劉邦も諸客を侮っており、堂々と振る舞って酒を飲んだ話があります。

宴もたけなわとなるや、呂公は劉邦に目配せをします。

劉邦も呂公の合図を感じ取り、わざとゆっくりと酒を飲みました。

呂公の娘を妻とする
呂公は劉邦の元にやってくると、次の様に述べています。

呂公「私は若い頃から人相を見る事を好み、多くの人の人相をみましたが、あなたに及ぶ人は一人もいませんでした。

私の娘を掃き掃除のはしためとして、貰っては下さいませぬか。」

呂公の娘は沛の県令が貰う予定だった事もあり、劉邦自身も驚いたはずです。

呂公の妻は、劉邦に娘を嫁がせると聞くと猛反対しますが、呂公は次の様に言って周りを説得しました。

呂公「こればかりは、女・子供に分かる事ではない。」

呂公の直感が娘を劉邦に嫁がせるのが最善と判断したのでしょう。

劉邦も呂公の娘を妻として迎えました。

呂公の娘が呂雉であり、後の恵帝(劉盈)と魯元公主を生む事になります。

さらに、呂雉の妹の呂嬃を樊噲に娶らせました。

余談ですが、呂公は戦国時代の秦で宰相をやった呂不韋の子孫だと言われています。

呂不韋は荘襄王を秦王に即位させますが、秦王政(始皇帝)の代になると、嫪毐(ろうあい)の乱で連座し、蜀に流され服毒自殺しています。

富貴を予言される
劉邦が亭長をしていた時代に呂雉が草刈りをしていると、老父が通りかかり飲み物が欲しいと言います。

呂雉が飲み物を与えると老父は「あたなは天下を取る貴相がある。」と述べ、劉盈(恵帝)を見ると「あなたが貴くなれるのは、この子のお陰です。」と言いました。

老父は去りますが、この話を呂雉が劉邦にしたわけです。

劉邦は老父に興味を持ち、追いかけて行き、老父を見つけると自分の人相を見て貰う事にしました。

老父「先ほどの夫人やお子さんは、非常に優れた貴相がありましたが、貴方様は格別です。」

これに劉邦は喜び、自分が裕福になった時は、老父にお礼をする事を約束します。

しかし、劉邦が富貴になった時には、老父の行方が分からなかった話があります。

職務放棄
劉邦は沛県の仕事で始皇帝陵を建設する為の、夫役の労働者を驪山に送り届ける仕事を任されました。

この仕事は過酷な為か、役人たちは劉邦に選別として三百銭を贈り、蕭何だけは五百銭を贈った話があります。

しかし、始皇帝陵の仕事は過酷で有名だった為か、人夫達が次々に逃亡してしまったわけです。

劉邦は、このまま行くと咸陽に到着する頃には、全員が逃亡してしまうのではないか?と悟ります。

秦の刑罰は厳しく、劉邦自身も刑罰に対象になってしまう事もあり、豊邑の西沢まで来ると、次の様に述べます。

劉邦「お前らはどこにでも立ち去るがよい。儂も逃げる事とする。」

劉邦は職務放棄してしまったわけです。

それでも、劉邦に人望があったせいか、10人ほどが劉邦に付き従う事を願い、劉邦と行動を共にする事になります。

劉邦が逃げてしまった事で、とばっちりを受けたのが呂雉であり獄に繋がれてしまいます。

しかし、獄吏で劉邦と仲が良かった任敖がおり、任敖が乱暴された呂雉を助けた話があります。

白帝と赤帝
劉邦は逃亡すると、酒を飲み夜道を歩いていました。

劉邦の集団で先に行った者が、この先に大蛇がいると伝えてます。

劉邦の従者は先に進むのを嫌がりますが、劉邦は構わず前に進むと大蛇がおり、劉邦は剣で大蛇を真っ二つにし、前に進みました。

劉邦は酒が回ってきたせいか、その先で寝てしまうと、従者たちが劉邦を追いかけて来て、斬られた大蛇の前に、涙を浮かべた老婆がいる事に気が付きます。

涙を流す老婆は劉邦の従者に次の様に述べています。

老婆「私の子は白帝の子で蛇に姿を変えここにいたのですが、赤帝の子がやってきて斬り捨ててしまったのです。」

劉邦の従者は老婆の話を信用せず、鞭で討とうとしますが、老婆は姿が消えてしまった話があります。

劉邦に追いついた従者達が、老婆との経緯を話すと劉邦は喜び、大蛇を斬った事を誇った話があります。

尚、秦の襄公や献公は白帝を祀った話があり、秦は金徳を持つ事になり、五行説では金は赤に弱く、劉邦が秦を討ち破るという予言にもなっている話です。

劉邦の雲気
始皇帝は「東南の方に天子の気がある。」と述べ、自らが東南に巡行し、天子の雲気を鎮めようとしました。

劉邦は始皇帝の雲気の話を聞くと、自分が殺されるかもしれないと逃げ隠れする事になります。

劉邦は様々な場所に逃げ隠れしますが、呂雉はいつも劉邦の場所を見つける事が出来きました。

劉邦は「なぜ自分の場所が分かったのか?」と呂雉に聞くと、呂雉は次の様に答えています。

「あなたのおられる場所には、いつも雲気があり、そこに行けばいつもいる事が分かったからです。」

この様な話もあり、劉邦には神秘的な力があると、沛県の多くの者が劉邦を従う様になった話があります。

ただし、劉邦と呂雉の雲気の話は、劉邦と呂雉で事前に打ち合わせておいた説もあります。

当時は迷信が人々に大きな影響を与えていた時代であり、劉邦や呂雉もそれらを利用したのでしょう。

始皇帝の死
紀元前210年に始皇帝が崩御します。

この時に、始皇帝は巡行中であり、首都の咸陽にいなかった事もあり、政治的な混乱が発生します。

宦官の趙高が暗躍し、李斯が加担した事で長子の扶蘇は自刃し、末子の胡亥が二世皇帝として即位しました。

二世皇帝は秦の公子の多くを処刑し、趙高は蒙恬や蒙毅を殺害し、さらには丞相の李斯や馮去疾なども処刑しています。

秦の宮廷は趙高が取り仕切り、混乱を見せ中華は混乱期に入っていきます。

始皇帝の死は劉邦にとっても転機となるわけです。

劉邦の旗揚げ
秦に対する不満は高ぶっており、こうした中で陳勝呉広の乱が勃発します。

農民出身の陳勝と呉広が扶蘇と項燕を名乗り、秦に対して反旗を翻した事が導火線となり、多くの者が挙兵する事になります。

こうした中で、劉邦が沛で挙兵する事になります。

県令となる
陳勝呉広の乱は瞬く間に全国に拡がり、陳勝は陳で張楚を建国しました。

沛の県令は反乱軍に殺される事を恐れ、陳勝らに合流しようと考えますが、主吏の蕭何と獄吏の曹参は次の様に述べます。

「あなたは秦の役人ですから、沛の子弟を率いようとしても、子弟は言う事を聞かないでしょう。

秦の法令を犯し外に逃げている者達を集めれば、数百人は集める事が出来ます。

その力を以って人民を脅かせば、皆が言う事を聞くでしょう。」

沛の県令は樊噲に命じて劉邦を呼ばせると、既に劉邦の徒党は数百人になっていた話があります。

しかし、県令の気が変わり秦に背く事をやめ蕭何と曹参を殺害しようとしました。

蕭何と曹参は劉邦の陣に逃げ、県令は城門を閉じて固く守りますが、劉邦は矢文を使い城内で反乱を起こさせ県令を殺害させています。

この時に蕭何や曹参は、劉邦に県令になる様に伝えています。

劉邦は固辞し別の者が県令になる様に伝えますが、蕭何や曹参が強く勧めた事で劉邦が沛県の県令になったわけです。

蕭何や曹参が県令にならなかったのは、天下はまだどう転ぶか分からず、沛の責任者になるのはリスクがあり過ぎると感じたからだと言われています。

尚、史記ではこの時から、劉邦は沛公を呼ばれる事になります。

赤色の軍
劉邦は沛公となるや黄帝や蚩尤を祀り、旗は赤色を用いた話があります。

劉邦は先に白帝の子とする蛇を斬っており、自分が赤帝の子であるとし、赤色を尊んだとされています。

尚、この時の劉邦軍には既に蕭何、曹参、樊噲、盧綰、夏侯嬰、周勃などがいました。

劉邦軍は初期段階から、後に天下に名を現わす人物がいた事が分かります。

別の言い方をすれば、これらのメンバーは劉邦に従った事で天下の将相になったとも言えます。

劉邦は三千人ほどの軍となって胡陵や方与を攻め、還って豊邑を守った話があります。

挙兵した劉邦の軍は幸先よく、事が運んだと言えるでしょう。

この頃に、会稽では項梁と項羽も挙兵し北上を始めました。

因みに、項梁は秦の王翦や蒙武と最後まで昌平君と共に戦い抜いた項燕の子であり、楚では非常に求心力が高かった人物です。

雍歯に裏切られる
張楚を建国した陳勝は各地に軍を派遣する事になります。

しかし、陳勝が送り出した将軍たちは趙で武臣が独立し、燕で韓広が独立するなど纏まりに欠ける事になります。

陳勝配下の周章は函谷関を破り、秦の都咸陽を目指しますが、囚人兵を率いた章邯に敗れました。

この頃に劉邦は秦の「平」という人物と城の外で戦い打ち破っています。

劉邦は雍歯に豊邑を守らせ、自らは薛を攻略し亢父を取り、方与に向かうなど連戦連勝だったわけです。

陳勝も周市を方与に差し向けています。

周市は劉邦軍の豊邑を守備する雍歯に侯にする約束をし、寝返らせる事に成功しました。

周市は魏咎を擁立し、魏王とし自らは魏の相となっています。

劉邦は雍歯が裏切った事を知ると、豊邑に戻り雍歯を攻撃しますが抜く事が出来ず苦戦しました。

そうこうしているうちに、劉邦が病気となり沛に戻る事になります。

この時に劉邦は雍歯を酷く恨んだ話もあり、豊邑での事はかなりのトラウマになっていた様です。

劉邦にとってみれば青天の霹靂でありショックが大きかったのでしょう。

張良との出会い
劉邦は回復すると、楚の皇族出身の景駒という人物に6千の兵を借りる事になります。

この時に留(地名)で張良に出会い、劉邦は張良を大いに気に入ります。

張良も兵を集めた事がありましたが、百人ほどしか集まらなかった事もあり、将軍には向いていないと悟っていたのでしょう。

張良は自らの考えを多くの人に進言しましたが、聴き入られる事はなく、劉邦だけが張良の言葉に耳を傾けたわけです。

早い段階で劉邦が張良を得る事が出来たのも、かなりの幸運だと言えます。

楚軍に加わる
劉邦は項梁の軍に加わる事になります。

項梁配下時代の劉邦の実績を解説します。

項梁の軍に加わる
この頃は秦の章邯があちこちで、反乱軍を打ち破り、劉邦も章邯と戦い敗れています。

反乱の首謀者であった陳勝も章邯に破れ、命を落としました。

こうした中で、項梁は薛で会合し、今後の方針を決めようとします。

項梁の会合に劉邦も百余騎を従えて参加すると、項梁は劉邦の力を認め、劉邦に5千の兵と五大夫の将を10人ほど与えた話があります。

楚の軍師となる范増も薛に訪れ項梁の配下になった事で、秦を滅ぼす為の役者は薛に集結したとも言えるでしょう。

余談ですが、項羽は劉邦に会うと何故か気に入り義兄弟の契りを結んだ話があります。

劉邦は項羽と義兄弟になるのを嫌がっていたが、しぶしぶ義兄弟になったともされています。

劉邦は項梁に与えられた兵を率いて、豊邑を攻撃し抜く事に成功しました。

項羽も襄城を攻撃し陥落させています。

尚、項梁は陳勝の死を知ると、楚の懐王の孫である羋心を探し出し、楚王に擁立し盱台を首都とし項梁は武信君と号します。

この頃の情勢
劉邦が項梁の軍に加わった頃の情勢は、秦の将軍である章邯が猛威を振るっており、魏を滅ぼし魏王魏咎と周市が亡くなり、援軍に来た斉の田儋も討ち取っています。

章邯の軍は戦えば必ず勝ち、連戦連勝で勢いに乗っていたわけです。

斉の田栄が守る東阿も章邯に攻められ窮地に陥っていました。

しかし、項梁が東阿に援軍に行くと、無敵の章邯軍を破り追い払う事に成功しています。

章邯に思わぬ所で、土が付いたと言えるでしょう。

それでも、章邯は態勢を立て直し再び戦う事になります。

項羽と劉邦が共闘
後に楚漢戦争で戦い続ける、項羽と劉邦ですが、項梁の配下だった頃は共闘した話があります。

親分肌の劉邦と武闘派の項羽という、似ている様で違う二人が共に戦ったわけです。

項梁は秦軍を破ると、項羽と劉邦に命じて城陽を攻めさせて陥落させています。

さらに、項羽と劉邦は城陽の東の敵をも打ち破りました。

劉邦は濮陽や定陶を攻めますが、落とす事が出来ず、項羽と共に西方に行き雍丘で秦軍を大いに破っています。

雍丘の城下での戦いで、項羽と劉邦は李由を討ち取る大戦果を挙げています。

李由は秦の丞相である李斯の息子であり、秦にとって重要人物でもありました。

項梁の死
項梁も2度に渡り秦軍を破り、驕る様子があり宋義が諫めた話があります。

秦の章邯は定陶で項梁を急襲し、大いに打ち破り項梁も戦死しました。

楚の実質的な責任者である項梁の死は、楚軍にとって衝撃は大きかった事でしょう。

項羽と劉邦は陳留を攻撃中でしたが、項梁の死を聞くと彭城まで戻る事になります。

項梁が見識が高い人物と評される事もあり、項梁が戦死しなければ、劉邦も天下を取る事が出来なかったのかも知れません。

尚、項梁を討ち取った章邯は、楚は崩壊に向かうと判断し、北で鉅鹿を包囲している秦の王離の援軍に向かう事になります。

関中を目指す
楚の懐王(羋心)は最初に関中に入った者を関中王にすると宣言し、劉邦は関中を目指して戦う事になります。

劉邦は多くの城を降伏させながら咸陽を目指します。

関中王への道
楚の懐王は、項梁が討ち死にした話を聞くと、盱台から彭城に遷都しています。

楚の懐王は強気にも、将兵たちを引き締めるために、前線に近い彭城を首都としました。

懐王「まっさきに函谷関に入り、関中を平定した者を関中王とする。」

この時の秦軍は圧倒的に強く、楚の懐王の言葉に反応した者は項羽しかいなかった話があります。

項羽は項梁を秦軍が殺害した事を恨んでおり、劉邦と共に西行して秦を討つ事を願ったわけです。

しかし、懐王の諸将は項羽の残虐性を危惧し、劉邦を関中に向かわせる様に進言しました。

楚の懐王も項羽を上将軍とせず、宋義を上将軍とし次将に項羽、末将に范増を任じ趙の鉅鹿を救援させています。

この時の鉅鹿は趙歇、張耳、陳余が秦軍を戦っていましたが、王離が率いる秦の正規軍30万の前に絶望的な戦いを強いられています。

楚の懐王や側近たちは、殺戮を繰り返す項羽よりも劉邦に関中を制圧して欲しいと願ったのでしょう。

尚、項梁に張良が横陽君成を韓王にする様に進言し許された事で、張良は劉邦陣営から離脱し、一時的に韓王成に従っています。

酈食其が配下となる
秦の首都咸陽を目指した劉邦軍ですが、張良がいなくなった事で精彩を欠いたのか、秦軍の城を抜けないなどの状況が発生します。

劉邦は昌邑で彭越と会い共に秦軍を攻めますが、不利な戦いを強いられてもいます。

劉邦は剛武侯の兵4千を奪い昌邑に攻撃を掛けますが、ここでも昌邑を抜けずに、劉邦は兵を西方の高陽に向かう事にしました。

ここで儒家の酈食其が「沛公(劉邦)は、温厚な長者である。」と述べ面会を求めます。

劉邦は儒家が大嫌いで、儒家の冠に小便を入れた事もあるほどでした。

酈食其がやってくると、劉邦は女性に足を洗わせながら酈食其と話をしようとします。

酈食其は怒り、劉邦の態度の悪さを指摘すると、劉邦は酈食其を面白い奴だと思ったのか、詫びて上座に引き入れます。

酈食其は陳留を降伏させ、交通の要所と大量の食料も手に入れる事になります。

劉邦は酈食其を広陽君とし、酈食其の弟である酈商を将軍として、劉邦は開封を攻めますが、ここでも劉邦は城を抜く事が出来ませんでした。

張良と合流
劉邦軍は酈食其の活躍もありましたが、迷走からは抜け出せておらず、秦軍と勝っては負けてを繰り返していました。

この時に、張良も韓王成を補佐し、韓の故地を攻撃し、数城を得ていますが、張良は単独で秦軍と戦う事になり、結局は奪い返されています。

こうした中で、劉邦は洛陽を南下し、韓王成を助けています。

ここで劉邦は韓王成に頼み込み張良を借りる事になります。

劉邦は自分には張良がいないとダメだと悟っていたのでしょう。

破竹の勢いの劉邦軍
劉邦は関中王になりたくて、宛を無視して関中に進軍しようとすると、張良が次の様に進言しました。

張良「劉邦様は急いで関中に進軍しようとしますが、秦兵は多数おり、宛城を無視すると後ろを塞がれる可能性があります。」

これにより劉邦は宛城を夜のうちに何重にも包囲しました。

南陽の太守は絶望し自刃しようとしますが、配下の陳恢が止め、陳恢は劉邦に面会する事になります。

陳恢「宛は大都であり、郡県は数十もの城を連ねております。宛や南陽の諸城には食料も物資も大量にあるのです。

しかし、吏人達は降ったら殺されると思っているので城を固く守り堅守を布いています。

劉邦様が投降した郡守達を許し、郡の守備を命じ、郡の兵士らと共に西を目指すのならば、争って劉邦様に味方する事でしょう。」

劉邦は陳恢の言葉を受け入れ、宛の守を殷侯とし、陳恢には千戸を与えた話があります。

これにより劉邦軍に降伏する者が続出し、劉邦軍は破竹の勢いで咸陽を目指す事になります。

劉邦が丹水まで来ると、高武侯鰓や襄侯王陵も降りました。

劉邦は兵を移して胡陽を攻撃し、番君呉芮の別将である梅鋗に会っています。

劉邦は梅鋗と共に、析と酈を攻略しました。

劉邦は敵を破っても略奪をしなかった事で、秦の民に喜ばれた話があります。

余談ですが、劉邦と共に戦った梅鋗の先祖は、殷の紂王に殺害された梅伯の子孫とされています。

この頃に項羽は、趙の趙歇、張耳、陳余の救援に赴き、秦の正規軍30万を擁する王離の軍を叩きのめし、章邯を殷墟で降伏させています。

項羽も咸陽を目指しますが、項羽軍は劉邦の寛容さがなく、敵を屠りながら前に進んだ為に、進軍速度が遅くなったとする話もあります。

秦の滅亡
劉邦は武関から関中に進撃し、秦を降伏させる事になります。

これにより秦は滅亡しました。

趙高を懐柔
史記の高祖本紀によれば、劉邦は魏人の甯昌を使者として秦に派遣した話があります。

史記の始皇本紀にも劉邦が秦に使者を派遣した話があり、これにより劉邦と趙高がコンタクトを取ったのではないか?と考えられています。

この頃になると秦の内部では、趙高が胡亥を殺害しており、趙高は劉邦に関中を二つに分けようと持ち掛けた話もあります。

しかし、劉邦は趙高の言葉を信じずに、武関方面から関中に進撃しました。

劉邦は函谷関からの進撃は守りが固く困難だと感じ、武関方面から咸陽を目指す事になったわけです。

この頃になると、趙高も子嬰に殺害され、子嬰が秦王に即位しています。

秦軍を撃破
史記の高祖本紀だと劉邦は武関に入る前に、秦の将軍を酈生と陸賈を使者とし懐柔した話があります。

その上で武関を急襲し抜く事に成功しました。

さらに、秦軍と藍田の南で戦い疑兵の旗幟を使い秦軍を破ります。

劉邦軍は関中でも略奪を禁じた事で、秦の人民は戦意を失い、劉邦はこれに乗じて秦軍を大いに破る事になります。

劉邦軍は北方でも秦軍を破った事で、秦軍は壊滅し、劉邦軍に太刀打ち出来ませんでした。

秦の滅亡
劉邦の兵は、遂に覇上に到着し、ここにおいて秦王子嬰は降伏を願い出る事になります。

この時の子嬰は素車を白馬に引かせ、自らは軛をかけ、皇帝の玉璽と符節を函に封じて、軹道亭の傍らで降伏しました。

劉邦軍の中には「子嬰を殺害すべき」とする声もありましたが、劉邦は次の様に述べています。

劉邦「楚の懐王が私を関中に向かわせたのは、自分が寛容な判断を降せると願ったからである。

そもそも、降伏した者を処刑するのは不義である。」

劉邦は子嬰を官吏に渡し監守させましたが、処刑は行っていません。

史記などでは、項羽が子嬰を処刑した事で秦の滅亡とする記述もありますが、実質的には劉邦が子嬰を降伏させた時点で、秦の滅亡と言えるでしょう。

尚、秦は天下統一後わずか16年で滅亡した事になります。

樊噲と張良の諫言
劉邦は子嬰を処刑する事はありませんでしたが、秦の後宮の美女や財宝には興味を持ちます。

劉邦は秦の阿房宮の宮殿などで宴を楽しもうと考えますが、樊噲が諫めました。

樊噲が諫めても劉邦は聞く耳を持ちませんでしたが、張良が劉邦を諫めると劉邦は聞き入れ、軍を覇上に戻し駐屯させています。。

劉邦は美女や財宝には手を付けなかったわけです。

蕭何の功績
劉邦軍が咸陽に一番乗りした時に、蕭何だけは丞相府に行き図籍を集め全て保管した話があります。

これにより蕭何は、天下の要害や戸籍数や地域ごとの財力などを把握する事になります。

劉邦が天下を取る事が出来た要因の一つに、蕭何の兵站の上手さがありますが、秦の戸籍や地図を保管した事が大きいとされています。

蕭何は実戦に参加しなくても、策謀を練る事が出来なくても、政治に関しては一級品の人材だと言えるでしょう。

法は三章のみ
劉邦は秦を降伏させると、「法は三章のみ」と定めた話があります。

秦では商鞅の改革以降は、過酷な法治主義を行っており、劉邦は法律を大幅に緩めた事になります。

劉邦の定めた三章は次の通りです。

・人を殺せば死刑

・人を傷つければ処罰

・物を盗めば処罰

秦の民衆は長年に渡り、秦の法律に苦しめられていた事もあり、劉邦の簡素な法律は喜ばれた話があります。

秦の人々は劉邦に食料などを提供しますが、劉邦は「食料に困っているわけではない。」と受け取る事はありませんでした。

関中で劉邦は略奪もしなかった事で、人々から支持されたわけです。

秦の人民も劉邦が関中王になる事を望んだ話があります。

鴻門之会
項羽も関中に向かっており、項羽と劉邦の間で鴻門之会が行われています。

教科書にも登場する項羽と劉邦の会談である、鴻門之会を解説します。

函谷関を守る
関中を平定した劉邦に、ある人が次の様に述べます。

「関中の富は天下の10倍はあり、要害の地でもあります。項羽は章邯を雍王とし、関中の王に任命しました。。

項羽が関中に入ったら、劉邦様はこの地を保つ事が出来なくなるでしょう。

函谷関に兵を置き守りを固め、項羽を函谷関に入れてはなりませぬ。」

劉邦は、この言葉に従い函谷関を守備させています。

項羽が函谷関まで辿り着くと、劉邦が既に咸陽を落とし、函谷関を守っていると知ります。

項羽は激怒し、当陽君の黥布(英布)に攻撃を命じ、函谷関を突破しました。

曹無傷の寝返り
項羽が函谷関を落とした事を知ると、劉邦の左司馬である曹無傷が項羽に「劉邦は関中で王となろうとしており、子嬰を宰相とし珍宝を悉く領有した。」と連絡を入れてきます。

さらに、項羽の軍師である范増も劉邦に天子の気があると言い、項羽に劉邦軍を攻撃する様に述べています。

項羽は激怒し、士卒に十分な食事をさせ、翌朝に劉邦軍を攻撃させると決断しました。

この時の項羽は40万の大軍であり、劉邦は半分の20万の軍勢を集めるのがやっとだった話もあります。

張良と項伯
項羽軍にいた項伯は、過去に劉邦の軍師である張良に助けられた事がありました。

項羽が劉邦の軍に攻撃を仕掛ける事を知ると、項伯や友人の張良の元に行き「共に逃げよう。」と誘います。

ここで、張良は逃げ出す事をせず、劉邦に項伯を面会させたわけです。

劉邦は張良の話を聞くと慌てて、項伯と面会し、項伯には婚姻を約束し、項羽へのとりなしを願います。

項伯は項羽に劉邦のとりなしを行い、劉邦は明朝に項羽に詫びを入れる事になったわけです。

鴻門之会で九死に一生を得る
明朝に劉邦は数百騎を連れ、項羽の陣に謝罪に行く事になります。

劉邦は項羽に臣下の礼を取り、項羽に謝罪しました。

項羽は劉邦の言葉に満足し、劉邦を讒言したのは曹無傷だと述べます。

この時に項羽配下の范増は、劉邦の暗殺を狙っており、項羽が劉邦に危害を加えるつもりはなくても、非常に危険な状態だったわけです。

范増は項荘に剣舞を舞い劉邦を刺殺する様に指示します。

しかし、項伯も剣舞を舞い、樊噲や張良が機転を利かせた事で、劉邦は死地を脱出する事になります。

この時の范増の怒りは大きく、劉邦からの贈り物である玉斗を破壊してしまった話がある程です。

鴻門之会では劉邦は、九死に一生を得たと呼べる状態だったのでしょう。

尚、項羽としてみれば、ここで劉邦を殺しておかなかった為に、天下人から転落する事になります。

項羽の論功行賞
項羽は咸陽に入ると秦の都を焼き払い、諸侯を分封します。

劉邦も漢中王となりますが、不満だった話があります。

義帝との約束
項羽は西進し咸陽に入ると、子嬰を殺害し秦の宗族も殺害しました。さらに、民衆を屠り宮殿を焼き払った話があります。

項羽は諸侯を分封しようとしますが、楚の懐王は「最初の約束の様にせよ。」と項羽に命令しました。

懐王は劉邦を関中王にする様にと命じたわけです。

項羽は自分を趙に向かわせた上で、秦の咸陽に行くように命じた事を恨んでいました。

項羽は義帝(懐王)を形の上では尊びましたが、言う事を聞く気はなく、項羽は楚の懐王にも制御出来ない存在になっていたわけです。

漢中王
項羽は義帝との約束を反故にしましたが、諸将の手前、約束を全く無視するわけにも行かなかった話があります。

そこで項羽は、次の様に述べています。

項羽「巴蜀の道は険阻であり、秦から移住した人々も多く住んでいる。漢中の地もまた関中である。」

これにより項羽は漢中王に劉邦を封じました。

正確に言えば、巴、蜀、漢中の地が劉邦の封地となり、漢中王と呼ばれ、国名は漢中を略して「漢」となった話があります。

後述しますが、劉邦は項羽の待遇に不満を持った様です。

尚、劉邦が与えられた漢中は、中華の中心である中原から見て、左側にあった事から「左遷」という言葉が生まれたとする話があります。

項羽は関中の地を3つに割り、塞王に司馬欣、擁王に章邯、翟王に董翳としました。

さらに、西魏王に魏豹、河南王に申陽、韓王に韓成、殷王を司馬卬とし、常山王に張耳、代王に趙歇、衡山王に呉芮、臨江公に共敖とし、

燕王に臧荼、遼東王に韓広、膠東王に田市、斉王に田都、済北王に田安、九江王に英布とし、自らは西楚の覇王と名乗る事になります。

項羽の論功行賞により18の諸侯が誕生したわけです。

しかし、斉の有力者である田栄が項梁を助けなかった為に、王になれなかったり、陳余も項羽に従って関中に入らなかった為に王になれませんでした。

項羽の論功行賞は不平等が大きく、諸侯は反発した話があります。

劉邦の怒り
先に述べた様に劉邦は関中王にされますが、怒り心頭だった話が資治通鑑にあります。

劉邦は項羽への攻撃を考え周勃、灌嬰、樊噲の三将も挙兵に賛成した話があります。

蕭何が劉邦を次の様に諫めています。

蕭何「漢中王にされたのは許せない事ですが、死ぬよりはマシでしょう。

今の劉邦様では項羽に及ばず100戦すれば100敗する事は確実です。

殷の湯王や周の武王らは、一人の元に屈し万乗の上に伸びる事が出来ました。

劉邦様は漢中に赴き、民を養い賢人を招き、巴蜀の富で国力を増幅させるべきです。

その上で三秦の地を征服すれば天下を得る事も出来ましょう。」

蕭何の言葉に納得した劉邦は漢中に向かう事になります。

漢中に向かう
項羽の命令により、劉邦は漢中の地に向かう事になります。

劉邦に従った者の中には、梅鋗の様に侯に封じられた事で離脱した者もいました。

ただし、劉邦が漢中に行く事が決まると、劉邦に従った兵は半数以下になった話もあり、劉邦の求心力がかなり低下した事が分かります。

項羽はこの時に士卒3万人を劉邦に従わせ、漢中に送った話があります。

楚兵や諸侯の兵の中で劉邦に従う事を希望した者達と共に、劉邦は杜南から蝕中に入った話があります。

張良は襃中まで劉邦を見送り、棧道(木で造った橋)を焼き払う様に進言しました。

張良が棧道を焼き払うのを進めた理由としては、諸侯が攻めて来るのを抑えるためと、項羽に反旗を翻す意思がない事を示す為だと伝わっています。

張良の頭の中では、項羽に劉邦を危険人物だと悟られない様にする必要があると考えたのでしょう。

さらに、張良は天下はまだまだ乱れるし、劉邦が天下人になる可能性も十分にあると考えたはずです。

天下が乱れる
項羽の論功行賞に対して、各地で不満が噴出し天下が乱れる事になります。

韓王成は軍功が無かった事で、項羽は不満を感じており、韓王成を国に行かせませんでした。

さらに、韓王成を自分の本拠地である彭城に連れて行き殺害しました。

張良は韓王室の復興を目指していたわけであり、項羽に対し恨みを抱いた事でしょう。

さらに、項羽が燕王に命じた臧荼が燕に行くと、元の燕王である遼東王の韓広と戦いとなり、臧荼が打ち破っています。

臧荼は燕と遼東を領有する事になったわけです。

斉では田栄が田市を膠東に遷し、田都を斉王に立てた事を知り激怒し、田栄は斉の総力を以って田都を攻撃し敗走させています。

ただし、田市が項羽を恐れ膠東に遷ろうとした事で、田栄の怒りを買い、田市は殺害されています。

田栄は済北王の田安も破った事で、田栄が斉王となり斉の地を治める事になります。

田栄は功績があったのに褒賞を授けられなかった彭越に将軍の印を預け、楚の地で反乱を起こしました。

項羽は蕭公角に兵を預け、彭越の討伐に向かわせますが、蕭公角は彭越に大敗しています。

張耳と陳余は過去に刎頸の交わりを結んでいましたが、鉅鹿の戦い以降は憎しみ合う間柄となっています。

陳余は田栄に兵を借りて、自分の領地である南皮の兵と共に張耳を攻撃しました。

張耳は大敗し劉邦の元まで逃亡しています。

陳余は元の趙王であった趙歇を趙王に戻し、趙歇は陳余の功績を認め代王としています。

項羽は18の諸侯を分封しましたが、反発もあり、国に入れなかった人物までいた程です。

こうした中で、劉邦も力を蓄え動き出す事になります。

韓信を将軍に任ずる
劉邦が巴蜀の地に入ると、韓信も楚を離脱し劉邦配下の連敖(接待係)になっています。

韓信はある時に、罪を犯して処刑される事になりますが、夏侯嬰の目に留まり許されています。

夏侯嬰は韓信の能力を認め劉邦に推挙しますが、劉邦は韓信を重く用いず、蕭何の配下としました。

蕭何は韓信と語り合ってみると、能力の凄さに驚き、劉邦に再三に渡って推挙しますが、劉邦は重く用いる事はなかったわけです。

時が立つと劉邦陣営の多くの者が逃げ出し、韓信も逃亡してしまいます。

蕭何は驚き韓信を追い連れ戻すと、劉邦を説得し韓信を将軍に任じたわけです。

ここにおいて大将軍韓信が誕生しました。

韓信を大抜擢した事に多くの者が驚いた話があります。

尚、韓信は張良や蕭何と並ぶ漢の三傑に数えられる人物となります。

用兵の天才と言ってもよい人物でしょう。

因みに、韓信と韓王信は同名ではありますが、別人なので注意が必要です。

劉邦が東進を決意
韓王信が劉邦に次の様に述べた話があります。

韓王信「項王(項羽)は諸将で功績のあった者を王としましたが、漢王(劉邦)様だけが、南鄭におられます。

これは左遷と同じであり、軍吏や士卒たちは皆が山東の出身なので故郷に帰りたがっています。

その矛に乗じて動けば大功を立てる事も出来るのです。

天下が完全に定まってしまえば、人々は安寧を求め動こうとはしないでしょう。

東進する事を決断し、天下に覇を争うべきです。」

韓王信は劉邦に東進する事を進言したわけです。

尚、先ほどの韓王信の言葉は、漢書だと韓信の言葉となっていますが、史記だと韓王信になっており、漢書の韓信の記述が間違いではないか?と考えられています。

三秦の平定
劉邦は関中に侵攻し、雍王章邯と陳倉で戦いますが、劉邦軍が勝利を収めています。

章邯は態勢を立て直し、好畤で劉邦を迎撃しますが、再び敗れています。

章邯は廃丘に籠りますが、結局は孤軍奮闘となり、最後は自刃しました。

項羽は田栄を討伐する為に、斉におり章邯に援軍を送る事が出来なかった話もあります。

さらに言えば、過去に章邯は殷墟で項羽に降伏しますが、項羽が秦兵20万を生き埋めにしてしまった事で、章邯と配下の司馬欣、董翳らは秦人から恨まれていたともされています。

これにより劉邦は易々と章邯を倒す事が出来たわけです。

尚、塞王司馬欣と翟王の董翳は劉邦に降伏しました。

劉邦は、隴西、上郡、北地にも兵を出し攻略する事に成功しています。

劉邦は、これにより三秦を平定し、関中を完全に手中に収めたと言ってもよいでしょう。

さらに、劉邦は項羽が韓王成の後釜として、韓王にした鄭昌も破っています。

劉邦は韓王信を韓王に任命しました。韓王信は劉邦が任命した初の諸侯王となります。

劉邦の勢いは止まらず、河南王の申陽、西魏王の魏豹、殷王の司馬卬も漢に降りました。

司馬卬が漢にあっさりと降った為に、陳平は項羽の怒りを恐れ魏無知を頼りとし、劉邦の配下となります。

こうした中で、陳余に敗れた張耳も劉邦軍に加わる事になります。

劉邦軍は瞬く間に勢力を拡大したわけです。

劉邦の元に人材が集まる
この頃に劉邦は、薛歐と王吸を武関から出し王陵を味方とし、劉太公(劉邦の父)と呂后を沛から迎えさせています。

項羽との決戦を視野に入れた劉邦は、自分の家族を手元に置いておきたかったのでしょう。

しかし、項羽は夏陽で劉太公や呂后との合流を阻止した話があります。

先に述べた様に、項羽は韓王成を封地に向かわせず、侯に落とした後に、殺害しました。

これにより韓王成の配下である張良は項羽を恨み、劉邦に合流したわけです。

張良は今までは立場上は韓の配下であり、劉邦の客将でしたが、ここから先は正式に劉邦の臣下となります。

さらに、劉邦陣営には韓信、曹参、周勃、樊噲、陳平、蕭何など人材の宝庫だったわけです。

義帝の死
劉邦の軍勢は勢いに乗りますが、董公が義帝(楚の懐王)の死を劉邦に告げる事になります。

劉邦は項羽が理由を付けて、義帝を長沙の郴県に遷し、衡山王呉芮、臨江公共敖、九江王黥布らに義帝を殺害した事を知ります。

義帝の死を知った劉邦は、喪に服し三日間の謹慎を行い、天下の諸侯に使者を送り、次の様に述べています。

「天下の者が義帝を天子とし、北面して仕えたのである。義帝を江南に追いやり殺害した項羽は大逆無道である。

私は義帝の為に、諸侯王らと共に、楚の義帝を殺害した者(項羽)を討ちたいと思う。」

項羽を非難した劉邦は、諸侯らと共に楚の首都である彭城を攻撃する事になります。

彭城の戦い
劉邦は彭城で項羽と戦いますが、歴史的な大敗北を喫する事になります。

劉邦軍56万が項羽軍3万に敗れた彭城の戦いを解説します。

張良の書簡
張良は項羽に次の様な書簡を送っています。

「漢王(劉邦)は先に蜀を失ったので、関中の地を得ようとしたのです。項王が約束を守ってくれるなら、あえて東に進む事はありません。

本当に危険なのは、斉であり趙と共に楚を滅ぼそうとしております。」

張良の手紙を見た項羽は西にいる劉邦に兵を差し向ける事もなく、東の斉に自ら兵を率いて討伐に向かいます。

この時に項羽は九江王の黥布にも出陣要請しましたが、黥布は自らは病気だと言い部下に数千の兵を率いて、項羽に援軍を派遣しただけでした。

これにより、項羽と黥布の心に隙が生まれる事になります。

張耳の首
劉邦は項羽の本拠地である彭城に狙いを定めますが、趙にも彭城を攻撃する様に要請します。

趙の実権を握っていた陳余は「劉邦の元にいる張耳の首を持って来れば援軍要請に応じる」と述べます。

これに対し、劉邦は罪人の中で張耳に似た人物の首を斬り、陳余の元に送る事にしました。

劉邦のやった事は詐欺ですが、これにより趙の軍勢も彭城に向かって進撃する事になります。

劉邦が彭城を奪う
項羽が田栄を討つために、東方に向けて出陣します。

項羽は田栄を討つ事に成功しますが、田栄の弟である田横が田広を斉王に擁立し、兵士をまとめ抵抗を続けました。

項羽は田横に完勝する事が出来ずに手こずります。

劉邦は項羽が斉に向けて出陣し、首都の彭城がガラ空きになった事を知ると、劉邦は陳余、魏豹、司馬卬、申陽らの諸侯と共に彭城を攻撃します。

この時の劉邦軍は諸侯の軍が集まった事で、56万もの大軍となり圧倒的兵力で彭城を奪う事に成功しました。

劉邦ら諸侯連合が彭城に兵を向けた事を知った項羽は、黥布に彭城を守る様に命令しましたが、黥布は動かなかった話があります。

これにより、項羽と黥布の仲は益々悪くなっていったわけです。

黥布が項羽の命令に従わなかった理由は、項羽が分封を行った時に、恩賞が不平等であり少なかった事が原因とされています。

項羽は黥布を九江王にしましたが、領地が狭く黥布は不満だったのでしょう。

家族との再会
劉邦は彭城を占拠すると、項羽により捕えられていた劉太公や呂后、魯元公主、劉盈ら家族と再会した話があります。

ただし、この時は劉邦には既に寵愛する側室である戚夫人がいた話があります。

戚夫人は劉邦に寵愛された事で、呂后の恨みを買い、後に不幸な最後を迎える事になります。

しかし、劉邦としては父親や家族を項羽から取り戻し、一安心したと言えるでしょう。

劉邦の油断
劉邦は諸侯連合とはいえ、56万もの大軍がいた事で、すっかりと油断してしまった話があります。

秦が滅亡した時に、秦の宮殿にあった財宝や美女は彭城に移されていた様で、劉邦は財宝や美女に目が眩んでしまいます。

この時に、劉邦の傍に張良がいなかったらしく、劉邦も諫めを聞く事はありませんでした。

諸侯も56万もの兵に油断し、美女や財宝を目にし心が曇ります。

連合軍の諸将は必然と連日の大宴会を催した話があります。

劉邦や諸侯の兵士らもすっかりと油断してしまったわけです。

普通で考えれば劉邦が56万もの軍勢を得た事で、項羽は詰みなのですが、項羽は逆境を跳ね返す事になります。

さらに、56万の大軍が諸侯連合であり、劉邦の作戦も一本化出来ずに、纏まりが悪かった話があります。

項羽が劉邦を急襲
項羽は劉邦が彭城を占拠し、黥布が彭城を守らなかった事を知ると、斉から引き上げ彭城に向かい進撃しました。

この時の項羽は西方から夜間に、劉邦軍を攻撃した話があります。

彭城にいる劉邦が率いる諸侯連合は、項羽が西から攻めて来る事を予想しておらず、不意を衝かれます。

劉邦軍は大軍でありましたが、油断していた事もあり大混乱となります。

大軍が故に一旦崩れてしまうと、立て直しが出来ずに、諸将は次々と打たれ劉邦も彭城から外に脱出する事になります。

劉邦は56万もの大軍を活用する事が出来ずに大敗し、逃げた漢兵が一斉に睢水に入った事で、睢水の流れが止まってしまった逸話もある程です。

劉邦は猛将項羽の前に歴史的大敗北を喫し、逃亡しなければならない状態となります。

この時に、趙の陳余は張耳が生きている事を知り漢に背き、魏豹も後に漢の背くなど、多くの諸侯が劉邦を離れ項羽に味方しました。

さらに、呂后や劉太后などの家族も再び項羽に捕らえられてしまった話があります。

子供を投げ捨てて逃亡
劉邦は夏侯嬰の兵車に乗り脱出する事にしました。

楚軍は劉邦の首を狙っている事は確実であり、劉邦として漢軍は曹参や周勃に任せて、自らは逃げる事に専念した様です。

史記の樊酈滕灌列伝によれば、夏侯嬰は劉邦の子である劉盈(後の恵帝)と魯元公主を見つけ、兵車に乗せています。

しかし、楚軍の追撃が急であり、夏侯嬰や劉邦が兵車を急がせ過ぎた事で、馬が疲れてしまい楚兵に追いつかれそうになります。

この時に劉邦は劉盈と魯元公主の二人を、馬車から蹴落とそうとしたわけです。

夏侯嬰は劉盈と魯元公主が、劉邦に蹴落とされそうになると、拾い上げる様にしてかばい、最後は二人の子を抱きかかえたままで兵車を走らせました。

劉邦は夏侯嬰の態度が気に入らず、10度余り夏侯嬰を斬ろうとした話があります。

しかし、劉邦は夏侯嬰を斬る事はせず、夏侯嬰も追手を振り切り、劉盈と魯元公主を豊邑まで送り届ける事に成功したわけです。

現代人の感覚からすれば、「劉邦は酷い奴だ。」と思うかも知れませんが、当時は儒教が盛んであり儒教では子供よりも親の方が大事だとされており、史記を書いた司馬遷も劉邦の態度に、とやかく言ってはいません。

ただし、恵帝や魯元公主を守り抜いた、夏侯嬰は忠臣と言ってもよいでしょう。

尚、劉邦自身は正気を取り戻した時に、56万の兵士を置いて逃げ去った事になり、自分の事を「情けない。」と思ったのかも知れません。

黥布、彭越、韓信を活用
劉邦は張良の進言により、黥布、彭越、韓信の三将を活用していきます。

張良の進言
項羽に敗れた劉邦は張良に向かい、次の様に発言しました。

劉邦「儂は項羽に破れ関東の地は断念しようと思う。

関東の地を断念する代わりに、儂と功業を共にする者はいないだろうか。」

これに対し、張良は次の様に述べています。

張良「九江王の黥布は楚の猛将ですが、項羽とは折り合いが悪く上手く行っていません。

彭越は過去に斉王田栄と共に楚に反旗を翻しています。

また、漢王(劉邦)様の配下の中では、韓信将軍だけが一方を託す事が出来ます。

関の東の地を断念するのであれば、黥布、彭越、韓信を派遣する事が出来れば、楚軍を破る事が出来ます。」

劉邦は張良の言葉を最もだと感じ、黥布に随何を派遣する事になります。

黥布を寝返らせる
劉邦は黥布を寝返らせる為に、随何を派遣しました。

随何は巧みに黥布を説得した事で、黥布は項羽を裏切り劉邦に味方する事にしました。

ただし、項羽が龍且と項声を黥布討伐にやると、黥布は破れ九江の地を失います。

黥布は随何と共に間道を通り、劉邦の本営まで訪れました。

この時に劉邦は配下の者に足を洗わせたままで、黥布に引見します。

黥布は劉邦の態度の悪さに愕然としますが、劉邦は黥布の為に豪勢な宿舎を用意しており、劉邦と同レベルの暮らしが出来る様に配慮してあったわけです。

黥布の配下の者達も優遇し、黥布を淮南王としました。

これ以降の黥布は劉邦軍として戦う事になります。

彭越が楚の後方を脅かす
彭越は元は漁業をしたり、時には群盗となり生計を立てていた者です。

秦末期に彭越は各地で戦い、秦が滅亡した時には1万以上の兵を有していました。

彭越は秦を滅ぼすのに協力した功績があるのに、項羽は彭越に恩賞を与えなかったわけです。

これにより彭越は項羽に対し恨みを抱き、劉邦は彭越の力を認め、彭越を魏の相としています。

彭越は劉邦の器の広さに感謝し、劉邦軍の遊撃隊として、楚軍の後方に現れ、幾度も楚の糧道を断っています。

ゲリラ戦においては、最強を誇る彭越も劉邦に味方したわけです。

項羽は戦いを優勢に進めながらも、彭越が後方に現れて糧道を断った事で、何度も引き返す羽目になります。

国士無双と呼ばれた韓信
韓信は劉邦と別行動を起こす事になりました。

劉邦が項羽の本隊をぶつかり、韓信の軍は、項羽に味方した諸侯を討つ作戦です。

劉邦は項羽に負け続けますが、韓信が魏豹を破り、井陘の戦いでは趙の陳余を破るなどの活躍をしています。

劉邦が負け続けても、韓信が各地で勝ち続けた事で、全体的に見れば戦況は劉邦が有利となっていきます。

韓信、張良、蕭何を漢の三桀と呼んだりしますが、最大の功績は韓信にあったと考える人も少なくありません。

滎陽の戦い
劉邦自身は滎陽で態勢を立て直そうとします。

蕭何が関中から援軍を劉邦に寄越した事で、劉邦は京と策の間で楚軍を破る事になります。

ただし、劉邦が派遣した韓信は各地で敵を撃破しますが、劉邦は項羽の本隊を相手に大苦戦する事になります。

滎陽を包囲される
滎陽の戦いでは、劉邦は最初は滎陽の南に軍を駐屯させ、甬道を黄河に繋げ敖倉の食料を運んでいました。

しかし、項羽は何度も漢の甬道を攻撃した事で、劉邦軍は食料が欠乏し、滎陽で項羽の軍に囲まれたわけです。

劉邦は窮地に陥り、項羽に滎陽以西を漢の領地とする様に、項羽に和睦を求めました。

項羽は劉邦の和議を退けています。

項羽が和議に応じなかったのは、范増が劉邦を危険視しており、討ち取れる時に討ち取っておいた方がよいと判断した為でしょう。

范増の死
劉邦配下の策士である陳平は、劉邦に項羽と范増の仲を裂くように進言します。

劉邦は陳平に金四万斤を預け、項羽と范増・鍾離眜・龍且・周殷らを反間させたわけです。

項羽は范増を疑い、范増は項羽に別れを告げ、楚軍から離脱し故郷に帰る事になります。

尚、范増は故郷に帰る途中で、背中に 腫瘍が出来てしまい命を落としました。

これにより項羽陣営では、精彩を欠くようになり、戦いに勝っても有利な状況を作り出せなかった話があります。

范増の死により項羽軍の迷走が始まったとも言えるでしょう。

滎陽から撤退
項羽軍から范増は離脱しましたが、劉邦は 滎陽の城を囲まれ、依然として不利な状況でした。

劉邦軍は食料が完全に切れた事で、夜半に女子を東門から出しています。

これに甲冑を被る者が二千ほど後に続き、劉邦に成り代わった武将の紀信も続きます。

この集団に楚兵が四方から攻撃を仕掛けている隙に、劉邦は西門から逃げたわけです。

この戦いで紀信は討死し多くの女性が犠牲になりますが、劉邦は無事に関中まで逃げる事に成功しました。

関中に入ると蕭何が再び兵士や物資を劉邦に補給する事になります。

尚、劉邦は自分が去った後の滎陽の城を周苛、樅公、魏豹、韓王信に守らせますが、魏豹は劉邦に背き韓信に敗れた事で、漢に帰順しており、周苛と樅公は魏豹を殺害しています。

滎陽の戦いは、最終的には項羽は勝利しますが、范増を失い劉邦を取り逃がす結果となっています。

尚、周苛と樅公は抵抗を続け、項羽に楽に勝たせる事は無かったようです。

袁生の進言
劉邦は関中で兵士や物資を補給すると、函谷関から再び関東に出ようとします。

ここで袁生が劉邦に次の様な進言をしました。

袁生「漢と楚は1年ほど、滎陽で戦いましたが、漢は常に不利な状態でした。

この度の漢王様(劉邦)は、武関から出撃すべきです。

劉邦様が武関から出撃すれば、項羽は南に兵を移動させる事でしょう。

その時に、劉邦様は塁壁を高く積み上げて守り、暫くの間は成皋と滎陽の間で兵を休ませるべきです。

その隙に北方を遠征している韓信に、河北や趙の兵を集めさせ、燕や斉と連合した上で再び項羽軍と戦えばよいでしょう。

この策であれば楚は守る所が多く兵を分散させる事となり、漢は休息できるはずであり、次に楚と戦えば漢が勝利出来るはずです。」

劉邦は袁生の策に従う事にしました。

彭越の活躍
劉邦は黥布と共に出撃し、宛と葉の間
25:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/11 (Wed) 09:41:45

彭越の活躍

劉邦は黥布と共に出撃し、宛と葉の間に兵を繰り出し、城壁を固くして守備に専念しました。

項羽は軍を繰り出して、劉邦が籠る城を落とそうとしますが、手を焼く事になります。

こうしている間に、彭越が睢水を渡り楚軍の項声と薛公と戦い大勝しています。

項羽は糧道を彭越に断たれた事で、自ら兵を率いて彭越を討ったわけです。

彭越は項羽に敗れますが、その間に劉邦は北上し軍を成皋に移しました。

周苛と樅公は滎陽を守っていましたが、ここにおいて項羽に城を抜かれた話があります。

周苛と樅公は処刑され、韓王信が捕虜になった話があります。

周苛と樅公も粘りましたが、結果だけを見れば項羽の勝利だと言えるでしょう。

ただし、滎陽を落としても項羽は漢軍に翻弄されており、楚軍は疲弊して行く事になります。

項羽は劉邦がいる成皋を包囲しますが、劉邦は夏侯嬰と二人だけで成皋の玉門から抜け出し、黄河を渡り韓信の陣に向かう事になります。

尚、韓王信は項羽の降伏しますが、後の項羽から逃亡し漢に帰順しています。

韓信の兵権を奪う
この時の韓信は魏豹を破り、趙の陳余や趙歇を撃破した事で勢いに乗り修武に駐屯していました。

劉邦は韓信の陣を訪れると、韓信の寝床に行き印綬を奪った話があります。

尚、劉邦がいた滎陽と韓信がいた修武は距離的には、それほど遠くなかった話もあり、楚軍を背後から衝かなかった韓信に対し、この時点から既に劉邦は不信感があったとする説もあります。

韓信の軍には張耳もいましたが、突然現れた劉邦の姿を見て、さぞかし驚いた事でしょう。

ここで劉邦は配置換えを宣言し、趙王に任命した張耳には趙の鎮定を忙し、韓信には斉を平定する様に命令しました。

韓信と張耳には寡兵しか与えず、韓信軍の兵の大半は劉邦が握る事になります。

韓信の方でも劉邦の行動に対して、不信感を抱いた事でしょう。

韓信が斉を取る
韓信は劉邦の命令により斉を取る為に、東に向かいますが、劉邦は別に酈食其を派遣し、斉を降伏させています。

斉王田広や宰相の田横は武装解除しますが、蒯通の進言を受けた韓信が無防備な斉を攻撃し大勝しています。

斉王田広は敗残兵をまとめると、楚に対し援軍要請をしました。

項羽は龍且と周蘭を派遣しています。

韓信率いる漢軍と斉楚連合軍の間で、濰水の戦いが勃発しますが、楚軍の総大将である龍且が韓信を舐めていた部分があり、韓信の軍が大勝しました。

龍且は灌嬰の軍に討ち取られ、副将の周蘭は曹参により捕えられています。

斉の地は韓信により平定される事になります。

楚は龍且が韓信に敗れた事で、20万の軍勢を失った事になり、大損害を被った事になるでしょう。

この時点では、漢と楚の形勢は逆転したはずです。

楚の後方を脅かす
劉邦の方では、修武で韓信から兵を奪い補給が完了すると、項羽と再び戦おうとします。

ここで劉邦配下である鄭忠が塁を高くし、塹壕を深く掘り、楚軍と戦わずに防御に徹する様に進言します。

鄭忠の進言を聴き入れた劉邦は守りを固め、その間に盧綰と劉賈に士卒2万と騎兵数百を与え、項羽の後方である楚の地に向かわせています。

盧綰と劉賈は彭越に協力し、楚の後方を荒らしまわり、燕郭の西で楚軍を破り梁の地にある十余城を降しました。

この時に項羽は大司馬の曹咎に「決して戦わない様に」と命じ、項羽は自ら彭越らの討伐に向かう事になります。

漢軍は曹咎を挑発しますが、曹咎は応じませんでした。

そこで漢軍は人を出して楚軍を侮辱すると、曹咎は我慢が出来ず兵を率いて汜水を渡りますが、士卒が渡り切らないうちに漢軍は曹咎を急襲し大勝しています。

項羽は海春侯曹咎が敗れた事を知ると、再び兵を率いて戻ってきました。

この時に、漢軍は鍾離眜がいる滎陽の攻撃中でしたが、項羽が戻ってくると陣を退け広武山に移動しています。

項羽は彭越らの討伐が出来なかった事もあり、後方に不安を抱えた状態です。

広武山の戦い
広武山において劉邦は項羽と対峙しますが、これが天下分け目の戦いとなります。

項羽の罪
劉邦と項羽は広武山の谷間を挟み共に語った話があります。

ここで項羽は劉邦に単身で決戦を行おうと持ち掛けます。

それに対して、劉邦は10の罪を項羽に突きつけました。

・楚の懐王は最初に関中に入った者を関中王にすると言ったのに、項羽は従わずに自分(劉邦)を漢中王にした。

・卿子冠軍(宋義)を王命と偽り殺害し、項羽が自ら大将軍になった。

・項羽は趙を援けた後は、戻って楚の懐王に報告すべきなのに、勝手に諸侯の兵を強制し函谷関に入った。

・関中に入ってからは、楚の懐王は暴掠するなと言ったのに、項羽は秦の宮殿を焼き始皇帝陵から財物を奪い自分の物とした。

・秦の降伏した子嬰を勝手に処刑した。

・秦の兵士20万を偽って穴埋めにし、章邯らを王とした。

・項羽は自分の部下の諸将を上地の王とし、元の主君を僻地に移し、臣下に反逆を起こさせた。

・項羽は義帝を放逐し、自らは彭城を首都とする国を建国し、韓王を殺害し韓、梁、楚の地を合わせた王となり、自ら広大な領地を取った。

・項羽は人をやり義帝を殺害した。

・臣下なのに主君を誅殺し、降伏した者も処刑し、政治も不平等を極め、誓いを破り不義を犯した大逆無道な人物である。

言い終わると、劉邦は次の様に述べます。

劉邦「儂は義兵を率いて諸侯を従えているのである。

刑罰を受けた罪人にお前を撃たせれば十分であり、なぜ儂が自ら好んでお前と決戦する必要がある。」

劉邦の話を聞いた項羽は激怒する事になります。

劉邦が負傷
項羽は劉邦の言葉を聞き終わると、強弓で劉邦を狙い、劉邦を射た話があります。

劉邦は項羽の弓を胸で受けてしまい、大けがを負う事になります。

ここで劉邦は強がり「戎が矢を指に当てた。」と強がった話があります。

しかし、実際の劉邦は項羽に受けた傷により、床に臥せた状態で起き上がれなくなります。

ここで劉邦が項羽に弱みを見せるわけにはいかないと判断した張良は、劉邦に行軍して軍を労い士卒を安堵させる様に願います。

劉邦は重症でしたが、張良の意見を聴き入れ、行軍しますが、怪我が悪化した事で劉邦は成皋で安静する事にしました。

傷が癒えると劉邦は再び広武山に戻り、項羽軍と対峙する事になります。

この間にも、関中の蕭何は劉邦の軍に続々と援兵や物資を送り続けた話があります。

しかし、項羽の軍は背後に彭越、盧綰、劉賈らがおり、後方をおびやかした事で苦しくなっていきます。

斉王韓信が誕生
斉を平定した韓信は、蒯通の進言もあり、劉邦に斉王の位を望みます。

ここで劉邦が激怒し韓信を攻めようとしますが、張良や陳平が諫止しました。

張良や陳平は、韓信が項羽に味方する事を恐れ、韓信の要求を入れる様に劉邦を説得しています。

劉邦は張良を使者として韓信の元に派遣し、韓信を斉王に任命したわけです。

項羽の方でも武渉を派遣し、項羽に味方する様に促しています。

蒯通は項羽に味方とし、天下を韓信、劉邦、項羽で分ける天下三分の計を提案しますが、韓信は聞き入れる事はありませんでした。

韓信は自分を斉王にしてくれた劉邦に対して、恩義も感じていたのでしょう。

ただし、劉邦が韓信に対する不信感が募るばかりだった様です。

項羽の提案
彭越は楚軍の糧道を断ち、斉王になった韓信も楚軍を討った事で、項羽は窮地に陥ります。

斉の生き残りである田横も彭越に従いました。

項羽は劉邦に人質である劉太公や呂后ら妻子の返還と、鴻溝以西を割譲し漢の領土とし、天下を二分しようと劉邦に持ち掛けます。

劉邦は項羽の提案を受け入れた事で、人質の劉太公と呂后が帰ってきました。

劉邦軍では万歳が起きた話があります。

項羽追撃戦
劉邦軍は和睦を破棄し、項羽軍を追撃する事になります。

しかし、項羽も奮戦し楽には勝たせてはくれません。

項羽軍を追撃
項羽は軍を解き東に還り、劉邦も西に帰ろうとしました。

ここで、張良や陳平が次の様に進言しています。

「今の楚軍は疲れており、今の楚軍なら破る事が出来ます。

講和を破棄し、項羽の軍を追撃すべきです。」

張良と陳平の言葉に従い、劉邦は項羽を追撃し、韓信や彭越の軍と合流し、項羽を討つ事にしました。

陽夏で韓信と彭越の軍と合流し、項羽を討つ予定でしたが、韓信や彭越は一向に現れません。

領地の約束
韓信と彭越が来なかった事で、劉邦は焦ります。

さらに、項羽が反撃を行い劉邦の軍は敗れてしまいました。

劉邦は項羽をあと一歩の所まで追い込みながらも、彭越と韓信がやってこない事で、勝利を得られなかったわけです。

項羽の反撃にあった劉邦は陽武の城に退却する事しか出来ませんでした。

ここで劉邦の軍師である張良が次の様に述べています。

張良「楚軍をあと一歩で破る事が出来るのに、韓信と彭越の領地が定まっておりませぬ。

劉邦様が韓信や彭越に土地を分ける事が出来れば、韓信や彭越は直ぐにでもやってきます。

陳よりも東の海に当たるまでの地域を韓信に与え、睢陽から北の穀城に至るまでの地域を彭越に与え梁王としてください。

そうすれば、直ぐにでも韓信と彭越はやってくるはずです。」

張良の言葉を実行すると、韓信と彭越の二人は大軍を率いて援軍に来た話があります。

ただし、褒美を約束せねば従わない態度は、劉邦にとってみれば不信感があり、統一後に韓信と彭越は危険人物として扱われる事になります。

垓下の戦い
項羽に対して、百戦百敗したと言われる劉邦がたった1度の勝利を得た事で天下人になります。

垓下の戦いを解説します。

劉邦軍が大軍となる
韓信や彭越だけではなく、劉賈や黥布も到着しました。

さらに、楚の大司馬である周殷も項羽を裏切り漢に味方しています。

これにより、劉邦軍は圧倒的な大軍となったわけです。

さらに、劉邦は斉王韓信に指揮を執らせる万全の体制を布いて最後の決戦に挑んでいます。

項羽と韓信の戦い
ここにおいて、項羽と韓信の名将同士の戦いとなります。

この時に、韓信の指揮する兵士の数は30万に対し、項羽が指揮する軍は10万だったと伝わっています。

ただし、項羽の軍は疲労困憊であり、気力で戦っている様な状態でした。

最初に韓信が軍を進めて項羽と戦いますが、韓信は項羽の軍に押されて後退します。

万全の項羽軍であれば、後退した漢軍を一気に敗れたのかも知れませんが、疲労が強く突破力がなかったわけです。

韓信は左右に配置した孔将軍と費将軍に左右から項羽軍を挟撃し、韓信の本隊が前に出た事で漢軍の勝利が決まりました。

項羽は自ら兵を指揮した場合は、負け知らずだったわけですが、垓下の戦いでは、遂に敗れ去ります。

四面楚歌
項羽は城に籠りますが、張良は城の四方から楚の歌を流す事になります。

項羽は楚の漢の軍に攻略され、多くの楚兵が漢軍に加わったと悟ります。

項羽の軍では逃亡兵が相次ぎ、戦える状態では無くなってしまいました。

項羽は愛妾である虞美人の前で歌を歌い、劉邦軍の包囲から脱出を試みる事になります。

項羽の最後
項羽は劉邦軍の包囲を破ると、最後の最後まで戦い抜きます。

項羽に最後まで従った兵は、僅か28騎ですが、項羽は漢軍に28騎で突撃を掛ける事になりました。

項羽と配下の28騎は、散々に漢軍を破り、項羽が再び数を数えた時には、2騎減っているだけだった話があります。

しかし、項羽は昔なじみの呂馬童が漢軍として戦っている所を見つけると、自刃して果てる事になります。

項羽の死体には、漢兵が群がり数十人の使者が出ました。

劉邦は項羽を魯公の号を以って、穀城で丁重に葬った話があります。

項羽の最後は泣ける部分ではありますが、虞美人との別れのシーンから見ても名場面となっています。

史記を書いた司馬遷は敗者を美しく描く傾向があります。

ただし、司馬遷は評の部分では項羽を批判している状態です。

劉邦が皇帝に即位
項羽が亡くなると、諸将らは劉邦に皇帝になる様に要請しました。

劉邦は「自分は帝位の昇る資格がない。」と答えますが、群臣らは劉邦が皇帝になる事を望みます。

劉邦は3度辞退しましたが、4度目で承諾し、氾水の北岸で皇帝に即位しています。

ここにおいて、劉邦は史上初の農民から皇帝にまで昇りつめた人物となります。

最初にも述べましたが、中国の長い歴史の中で、一般人から皇帝にまで昇りつめて天下統一したのは、劉邦と明の朱元璋だけです。

韓信を楚王に移す
統一後の劉邦は諸侯王を定める事になります。

劉邦は韓信に対して、次の様に述べています。

「義帝が亡くなってから、楚には治めるべき君主がいない。

斉王韓信は楚の風俗に慣れている。」

劉邦は韓信を斉王から楚王に移しています。

劉邦は斉王には自分の長子であり、卑賎の身であった頃に妾であった曹氏の子・劉肥を斉王として70余城を与えています。

韓信は楚王となり故郷に錦を飾る事になりますが、斉に比べて楚は城の数も少なかった事で、不満だったとも考えられています。

劉邦は韓信に下邳を楚の都として定める様に指示しました。

諸侯王を定める
劉邦は皇帝になると、下記の様な諸侯王を定めた話があります。

・楚王韓信(首都は下邳)

・梁王彭越(首都は定陶)

・韓王信(首都は陽翟)

・衡山王呉芮(首都は臨湘)

・燕王臧荼

・淮南王黥布

・趙王張敖

統一後の劉邦は諸侯を定めましたが、呉芮以外の諸侯王は全て滅びるか王の位を剥奪されています。

尚、劉邦は統一直後の時点では、漢帝国の首都は洛陽に定めています。

因みに、臨江王の共尉は、項羽が封建した共敖の子ですが、項羽が滅んでからも漢に降伏しなかった事で、劉邦は盧綰と劉賈を派遣し、共尉を洛陽で殺害しました。

共尉は寡兵で奮闘し、数カ月の期間を耐え抜いた話があります。

論功行賞
劉邦は統一後に論功行賞を行いますが、蕭何、曹参、周勃の様な功臣は処遇が直ぐに決まりますが、論功行賞が進展しなかった話があります。

この時に劉邦は張良の進言により、劉邦が最も憎んでいる雍歯を什方侯に任じました。

劉邦が雍歯を什方侯に任じた事は、効果覿面であり多くの臣下が「雍歯でさえ重用されるなら心配はいらない。」と考え反乱を未然に防いだ話があります。

張良が機転を利かせた事で、漢王朝は安定していく事になります。

天下取りの秘訣
劉邦は天下統一後に、洛陽の南宮で酒宴を催し、臣下たちに「儂がどうして天下を取れたか。項羽がどうして天下を失ったか。遠慮なく述べてみよ。」と問うた話があります。

これに対して、王陵は次の様に答えています。

王陵「陛下(劉邦)は人を馬鹿にするような態度をとる事があり侮りますが、項羽は仁慈で人を愛します。

しかし、陛下は功績を挙げた者や降伏した者に対し、地を分け土地を与えますが、項羽は功績を立てた者を憎み、賢者を疑い功績があっても人に下賜する事を知りません。

これが陛下が天下を取り、項羽が天下を失った理由です。」

それに対し、劉邦は次の様に答えています。

劉邦「公らは一を知って二を知らない。謀を帷帳(とばり)の中に巡らし、勝利を千里の外に決するのは、儂は子房(張良)に及ばない。

国家を鎮め人民を撫し、糧道の確保においては、儂は蕭何に及ばない。

百万の軍を率い必ず勝つ事においては、儂は韓信に及ばない。

張良、蕭何、韓信は人傑であるが、儂はよく使う事が出来る。これが儂が天下を取った理由である。

項羽は一人の范増すら用いる事が出来なかった。これが項羽が儂に敗れた理由である。」

劉邦は人材を使いこなす事が出来たから、項羽に勝つ事が出来たと言ったわけですが、楚漢戦争においての劉邦の戦い方を見れば、的を得ていると言えるでしょう。

項羽が楚軍を率いれば、必ずと言ってよい程に勝つ事が出来ましたが、項羽が率いない楚軍は極めて勝率が低いと言えます。

項羽と劉邦を見るに、自分の力を生かす以上に、組織の人材を生かす事が大事だという例になる様に感じます。

長安に遷都
劉邦は洛陽を長く都とするつもりでしたが、劉敬が「関中を首都に定めるのが最善である。」と述べます。

劉邦は劉敬の言葉を群臣に議論させています。

劉邦配下の多くの大臣が関東の出身だった事で、洛陽には堅固さがあるから、洛陽を首都にした方が良いと述べます。

ここで張良が洛陽の土地が狭い事を指摘し、関中の防御の固さや輸送の便が良い事を述べます。

劉邦は張良の言う事を聞きいて、長安を漢王朝の首都としました。

因みに、劉邦が建国した前漢は王莽が簒奪し皇帝の昇り滅びるまで、一貫して長安が首都だった話があります。

後漢王朝を建国した劉秀は洛陽を首都にしますが、後漢末期の混乱時に董卓が洛陽から長安に遷都しています。

長安は唐などの後世の王朝でも首都になるなど、中国の有力都市として発展しました。

燕王臧荼を討伐
異性の諸侯王の一人である燕王臧荼が漢に反旗を翻し、代を攻撃した情報が入ってきます。

劉邦は自ら親征し、燕王臧荼を討伐しました。

臧荼は捕らえられて、劉邦に処刑されています。

劉邦は燕王に盧綰を任命しています。

盧綰は劉邦と同じ沛の出身であり、同じ日に生まれた竹馬の友でもあり、盧綰に軍功があった事で燕王に任命しやすかったのでしょう。

ただし、盧綰は後に劉邦に対して、反旗を翻し匈奴の地に逃亡する事になります。

尚、臧荼の反乱は代にも影響を及ぼし、代は樊噲が平定しました。

韓信の楚王剥奪
韓信は楚漢戦争で最大の功績があったとも言われています。

しかし、韓信は過去に斉王の位を劉邦にねだるなど、劉邦は韓信を疑っていたわけです。

そうした中で、韓信は楚の将軍であった鍾離眜を匿い、謀反を起こすという情報が入ってきます。

劉邦の諸将らは韓信に対し武力討伐を望みますが、軍師の陳平は戦場での駆け引きは、劉邦は韓信には及ばないと諭します。

陳平は劉邦が雲夢に遊幸すれば韓信がやってくると述べ、力士を使い韓信を捕える様に進言しました。

韓信は鍾離眜の首を持参し、劉邦の元に現れますが、劉邦は韓信を捕えて長安に護送しています。

劉邦は韓信から楚王の位は剥奪しましたが、軍功が多かった事から処刑するのは忍びないと考え、淮陰侯とし軍事指揮権などは取り上げています。

因みに、楚の地は二分され劉賈を荊王とし、劉邦の弟である劉交を淮東王に任命しています。

将の将たる器
韓信は淮陰侯に落とされましたが、ある時、劉邦と会話をしていたわけです。

劉邦は韓信に「自分が、どれ位の兵を操れる事が出来るか?」と聞くと韓信は「せいぜい10万」と答えます。

それに対して、韓信は「自分は兵士が多ければ多い程に上手くやれる。」と言います。

劉邦が「ならばお前(韓信)が儂の虜になったのはなぜか?」と尋ねると、韓信は次の様に答えています。

韓信「陛下(劉邦)は兵の将たる器ではありませんが、将の将たる器を持っております。

私が陛下の虜になってしまったのは、その為です。」

自分の中では、韓信が劉邦に言った「将の将たる器」と言うのは、劉邦にとって最高級の賛美となる様に思います。

尚、韓信も淮陰侯で満足できる人物ではなく、謀反を企てる様になります。

冒頓単于に破れる
楚漢戦争で項羽と劉邦が争っているうちに、北方では冒頓単于が隆盛を極め大勢力となっていたわけです。

韓王信は劉邦とのすれ違いもあり、匈奴に味方し、漢を攻撃しました。

劉邦は自ら32万の大軍を率いて、冒頓単于の討伐に向かった話があります。

この当時は韓信、彭越、黥布などの武断派の武将もいましたが、彼らに兵を与えるのは危険だと判断したのか、劉邦が自ら匈奴討伐に乗り出したのでしょう。

劉邦は冒頓単于の策に引っ掛かり、白登山で冒頓単于の40万の大軍に包囲されています。

劉邦は冒頓単于の妃である閼氏に賄賂を贈り、陳平の策もあり窮地を脱出しました。

ただし、漢は匈奴の弟分の国となり、毎年、貢物を匈奴に送るという屈辱的な条件で和平を結ぶ事になります。

尚、劉邦は匈奴に勝てない事を悟り、金で安全を買ったとも言われています。

漢と匈奴の力関係が逆転するのは、漢の武帝の時代に、衛青や霍去病、李広などの将軍が現れるのを待たねばなりません。

因みに、代の地は樊噲が平定し、劉邦の兄の劉仲が代王となったわけです。

ただし、代の地は匈奴の地に近い事から不安定であったのか、劉仲は代を棄てて洛陽に逃亡しています。

劉邦暗殺未遂事件
劉邦の娘である魯元公主は、趙王の張敖(張耳の子)に嫁いでいました。

劉邦は匈奴討伐の帰りに趙によりますが、張敖に対して驕慢な態度を取ったわけです。

趙の丞相である貫高や配下の趙午は、劉邦の態度が許せず、劉邦を殺害する様に張敖に進言しますが、張敖は劉邦に恩を感じており、取り合いませんでした。

しかし、貫高や趙午の腹の虫は治まらず、柏人で劉邦を暗殺しようと企みます。

劉邦は柏人で滞留する予定でしたが、胸騒ぎを憶え柏人を通り過ぎた事で、貫高や趙午の禍から逃れる事が出来た話があります。

後に貫高の劉邦暗殺計画が露見し、劉邦は張敖や貫高らを捕えています。

貫高が命を賭して「劉邦暗殺計画は自分達が勝手にやったのであり、張敖様は無関係。」と述べた事で、張敖は許される事になります。

この時の貫高は拷問をし過ぎて肌が痛み拷問する場所が無くなってしまった話しもある程です。

劉邦は貫高も忠義の臣として認め許しますが、貫高は張敖の無罪が確定した事で満足し自刃した話があります。

未央宮の建造
劉邦が匈奴討伐から長安に戻ってくると、蕭何が壮麗な宮殿である未央宮を建造していました。

劉邦は不機嫌になり「匈奴との戦いに苦しんでいるのに、立派な宮殿を建ててどうするつもりじゃ。」と述べます。

蕭何は次の様に述べます。

蕭何「天下がまだ定まっていないからこそ、壮麗な宮殿を造る必要があるのです。

この宮殿を見れば諸侯は漢の力を思い知り、謀反を起こそうなどとは思わない事でしょう。

さらに、後世の子孫にこれ以上の壮麗な宮殿を造らせない為に、立派な宮殿を建てたのです。」

劉邦は蕭何の言葉に満足し、喜んだ話があります。

武断派を処分
劉邦の天下統一に大きな功績がある韓信、彭越、黥布の3人が劉邦により命を落とす事になります。

韓信の最後
韓信は楚王から淮陰侯に降格されますが、欲求不満だったのでしょう。

韓信は陳豨に代の地で反乱を起こす様に依頼し、陳豨が謀反を起こし劉邦が討伐に向かうと韓信が謀反を起こす予定でした。

劉邦は韓信が思った通り、郭蒙や周勃らと陳豨討伐に向かいます。

ここで韓信が都で謀反を起こそうとしますが、計画は蕭何や呂后に知られてしまい、韓信は捕らえられて処刑されています。

劉邦は陳豨を破り代を平定すると、自分の子である劉恒(文帝)を代王としました。

劉邦は韓信の死を知ると、一方では喜び、一方では憐れんだ話があります。

尚、過去に韓信に独立を進めた蒯通も、劉邦により処刑されそうになりますが、弁舌を駆使し切り抜けた話があります。

韓信の死は劉邦にとっては複雑が想いがあったのでしょう。

彭越の死
彭越は劉邦の陳豨討伐に出陣する様に命令されていました。

しかし、彭越は病と称して、部下を派遣しただけで済ませたわけです。

劉邦は彭越の態度に怒り、彭越を問責する使者を派遣しました。

彭越は劉邦に詫びを入れに行こうとすると、配下の扈輒が謀反を起こす様に進言します。

扈輒の言葉を聞いた彭越は、劉邦の元に出かける事もなく、病気と称して何もしませんでした。

劉邦は彭越が謀反を起こそうとしている情報をキャッチすると先手を取り、彭越を不意打ちで捕えています。

劉邦は彭越を庶民に落し蜀に住ませようとしますが、途中で呂后に会います。

呂后は彭越の前では救いの手を差し伸べると言い、劉邦の前では彭越は危険人物だと言い処刑する様に進言しました。

これにより彭越は処刑され、彭越の宗族も皆殺しにされ滅んでいます。

黥布が反旗を翻す
黥布は韓信、彭越が処刑された事を知ると、不安になり劉邦に反旗を翻す事になります。

武断派の3人の中では、黥布だけが兵を率いて劉邦と戦う事になります。

劉邦は自ら兵を率いて、黥布討伐に向かいました。

この時に黥布は項羽とよく似た陣形を使い、劉邦を刺激した話があります。

劉邦と黥布の軍は激戦となりますが、最後は劉邦軍が勝利しています。

劉邦は武断派の最後の一人である黥布も滅ぼしました。

尚、黥布との戦いで劉邦は負傷し、その傷が元で崩御する事になります。

劉邦の最後の相手は黥布だったと言えるでしょう。

故郷に錦を飾る
劉邦は黥布討伐が終わると、生まれ故郷である沛を訪れた話があります。

劉邦は沛宮で酒宴を設けて、人々を集め無礼講の酒盛りをしています。

劉邦はこの時に、沛の児童百二十人を集めて歌を教え、宴たけなわになるや、筑を鳴らし次の様に歌った話があります。

大風起こって雲は飛揚す

威は海内に加わって故郷に帰る

いずくに猛士を得て四方を守らん

高祖はさらに舞いを披露すると、沛の人々と昔を語り合い涙を流した話があります。

劉邦は沛の賦税を免除し、劉邦が育った豊邑の賦税も免除しました。

この時に、劉邦は沛侯劉濞を呉王とした話があります。

余談ですが、劉濞は漢の景帝の時代に、呉楚七国の乱の首謀者となります。

沛の父兄らは劉邦に長く沛に留まる様に伝えますが、劉邦は「自分は従者が多いから、長く留まれば皆の迷惑になる。」と言い長安に戻った話があります。

秦の始皇帝が生まれ故郷である趙の邯鄲にやってきた時は、恨みのある者達を穴埋めにしてしまった話があります。

それに対し、劉邦は故郷の人々と無礼講の酒盛りをしたわけであり、始皇帝と比べると根が明るかったのではないか?と思えてなりません。

始皇帝を祀る
劉邦は「始皇帝、楚の隠王陳勝、魏の安釐王、斉の湣王、趙の悼襄王は子孫がいない。」と述べます。

楚の隠王陳勝、魏の安釐王、斉の湣王、趙の悼襄王の墓守として、十戸を与えた話があります。

戦国七雄の国々を滅ぼした始皇帝は別格だと判断したのか、二十戸を与える事にしました。

臣下の中では魏の信陵君に五戸を与えています。

信陵君は戦国四君の一人であり、最強と呼ばれた秦軍を2度破った人物で、劉邦が尊敬していた話しもあります。

尚、劉邦は晋の文侯重耳も君主の手本にした話がありますが、重耳に関しては特に配慮した話はありません。

劉邦は、陳豨や趙利の反乱に加担した者も許しています。

この時の劉邦は黥布戦の傷が悪化したのか、死期を悟ったのか殊勝な行いが目立ちます。

盧綰討伐
劉邦は長安に戻りますが、審食其から「燕王盧綰に謀反の兆しがある。」と告げられます。

劉邦は傷が悪化しており自ら討伐に向かう事が出来ず、樊噲を盧綰討伐に向かわせました。

樊噲が出陣すると、劉邦に讒言する者がおり、劉邦は樊噲を斬り周勃が将軍になる様に命令を出します。

劉邦の命令を受けた陳平と周勃は、樊噲の陣に行き樊噲を捕えて、周勃が将軍となり燕征伐軍を引き継ぐ事になりました。

陳平や周勃は樊噲を斬る様に命令されていまいたが、樊噲が劉邦の古い友人だと言う事を考慮し、樊噲を捕えて都に送っただけとしています。

尚、盧綰討伐が完成する前に劉邦は死去し、劉邦の死を聞いた盧綰は匈奴に投降しています。

劉邦と同じ日に生まれた竹馬の共である盧綰も匈奴に身を投げる事になったわけです。

盧綰は劉邦であれば詫びれば許して貰えると考えていた様ですが、劉邦が崩御した事で絶望したのでしょう。

後継者問題に終止符を打つ
劉邦は病が重たくなると、自分の後継者を劉盈から寵愛する戚夫人の子である劉如意に変更しようとします。

劉邦が後継者を変えようと思っていたのは、昔からだった様で周昌が何度も諫めた話があります。

劉邦は病が重くなってくると、いよいよ後継者を劉盈から劉如意に変えようとしました。

この時に張良が反対しても聞かず、太傅の叔孫通が命がけで諫めた事で、劉邦は「戯れを言っただけだ。」と述べますが、内心では太子を変えたいと思っていたとされています。

張良が劉邦が尊敬する東園公、甪里先生、綺里季、夏黄公を招き、太子である劉盈の配下とした事で、劉邦は「虎に翼が生えた」と判断し、太子の変更が出来ない事を悟ります。

これにより、劉邦の後継者問題は完全に決着したわけです。

戚夫人は自分の子が皇帝になれない事を知ると、すすり泣き劉邦が歌った話があります。

尚、劉邦は劉如意を趙王とし、趙堯の進言もあり、周昌を趙の宰相に任命しています。

劉邦は周昌を使って、劉如意を守ろうとしました。

劉邦の最後
劉邦ですが、統一後は粛清を行ったり、暗さが目立ちますが、亡くなる直前になると昔の力が蘇ってきた様に感じます。

再び名君としての資質が浮かび上がってきます。

医者を断わる
劉邦の容体は徐々に悪化していきました。

漢書高帝紀によると、呂后は名医を呼び寄せ劉邦を診察すると、医師は「治る」と言いますが、劉邦は次の様に言い放っています。

「私は布衣の身でありながら、三尺の剣を持ち天下人になった。

これが天命ではないと言うのか。

命は天にあり扁鵲(伝説の名医)がいたとしても、治す事は出来ない。」

劉邦は医者の治療を断わり、黄金五十斤を与えて去らせています。

この時には、劉邦も完全に死期を悟ったのでしょう。

劉邦の遺言
死を覚悟した劉邦に呂后が次の様に問います。

呂后「陛下が100歳まで生き相国の蕭何が亡くなったら、誰に変らせるべきでしょうか。」

劉邦は呂后の問いに対し「曹参」を指名する事になります。

呂后が曹参の次は、誰に政治を任せるべきかと聞くと、次の様に答えています。

「曹参の後は王陵に任せるのがよい。ただし、王陵は愚直過ぎるから陳平に補佐させるのが良いだろう。

陳平は知恵はあり過ぎる程だが単独で任せるわけにはいかない。

周勃は重厚少文だが、劉氏を安定させるのは周勃となるであろう。」

呂后は、周勃の後を聞きますが、劉邦は「それ以降は、汝の知る所ではない。」と述べています。

劉邦の預言は的中し、劉邦の死後に呂氏が力を持ちますが、陳平や周勃の活躍により、劉氏を守る事に成功しています。

劉邦は天下統一後は粛清をしたり、太子を変えようとした暗さが目立ちますが、最後の最後で力を取り戻し、人を見る目が蘇ったというべきでしょう。

劉邦の死
劉邦は夏四月甲辰(二十五日)に長楽宮で崩御した話があります。

劉邦の死は紀元前195年となります。

劉邦は漢書高帝起、資治通鑑は劉邦は53歳で崩御したと書かれています。

しかし、帝王世紀では62歳で亡くなった説と63歳で亡くなった説が紹介されています。

劉邦が崩御すると恵帝が即位しますが、実権は母親である呂后が握る事になり、呂氏の天下がやってきました。

しかし、呂后の死後に陳平や周勃が呂氏を排斥し、劉邦の子の一人である劉恒が文帝として即位します。

呂后は劉邦の子や愛妾、功臣などを粛清の対象としましたが、劉恒の母である薄姫は劉邦から寵愛されておらず、劉恒も僻地の代の王であった事から、呂氏に睨まれる事もなかったわけです。

文帝が即位した事で劉氏は安定し、前漢は全盛期に向かって行く事になります。

文帝の時代に周勃が亡くなった事で、劉邦時代の功臣たちも文帝の時代に、は全員が世を去った事になるでしょう。

劉邦の評価
劉邦は人望の人と言われています。

武力も知力も政治力も際立った者を持っておらず、人望だけで天下を取ったと言われています。

軍事に関しても項羽に負け続けたりして、名将と呼べる程の実力はないはずです。

しかし、劉邦は天下を取っており、誰も相手にしなかった様な張良や韓信を見出したのは、優れた眼力を持っていたというべきでしょう。

尚、劉邦は三国志の劉備に似ていると言われる事があります。

劉邦が天下を取れて劉備が天下を取れなかった理由ですが、相手の悪さがあるとも感じました。

劉邦の相手が曹操だとしたら、項羽の様な単純さがなく人材を愛すべき人なので、劉邦が天下を取れたのかは分かりません。

それを考えると、劉邦は運にも恵まれた部分が大きい様に思いました。

それでも、劉邦は民衆から成りあがった人物であり、支持基盤も小さく天下を取るには、不足している資源も多かったはずです。

秦末期に一斉に天下取りのレースが始り、多くの者が名乗り出ては消えたわけですが、最後に残った劉邦は偉大な人物だと言えるでしょう。
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26:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/11 (Wed) 09:43:53

蕭何
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%AD%E4%BD%95

蕭 何(しょう か、昭襄王50年(紀元前257年) - 恵帝2年7月5日(紀元前193年8月16日))は、秦末から前漢初期にかけての政治家。劉邦の天下統一を輔けた、漢の三傑の一人。

経歴

楚漢戦争
劉邦と同じく泗水郡沛県豊邑の出身で、若い頃から役人をしていた。下役人であったがその仕事ぶりは真面目で能率がよく、評価されていたという。なお曹参や夏侯嬰はこの時の部下にあたる。

単父の豪族の呂公が敵討ちを避けて沛県に移ってきた。県令は歓迎する宴を開き、接待のすべてを蕭何に任せた。参加した人があまりに多すぎたため、蕭何は持参が千銭以下の者は地面に座って貰おうと考えていたところに劉邦が来て、「一万銭」と言った。これを呂公に取り次ぐと、呂公は玄関まで出向いて迎え入れた。蕭何は「劉邦は昔から大ぼら吹きだが、成し遂げたことは少ない(だからこのことも本気にされませんよう)」と言ったが、劉邦の人相を非常に評価した呂公は構わず歓待した。このように、このころは劉邦をあまり高く評価していなかったが、後に劉邦は「豊を立つ時、蕭何だけが多く銭を包んでくれたのだ」と語っており、目をつけてはいたようである。

秦末の動乱期になると、反乱軍の優勢さに秦政府から派遣されていた県令が動揺、そこに曹参等と共に「秦の役員である県令では誰も従わない。劉邦を旗頭にして反乱に参加すべき」と進言。一旦は受け入れられたものの県令は気が変わって劉邦を城市に入れなかったため、沛県城でクーデターを起こし県令を殺害、劉邦を後釜の県令に迎えた。以降、劉邦陣営における内部事務の一切を取り仕切り、やがて劉邦が項梁・項羽を中心とした反秦陣営に加わり各地を転戦するようになると、その糧秣の差配を担当してこれを途絶させず、兵士を略奪に走らせることがなかった。また、劉邦が秦の都咸陽を占領した時には、他の者が宝物殿などに殺到する中、ただ一人秦の歴史書や法律、各国の人口記録などが保管されている文書殿に走り、項羽による破壊の前に全て持ち帰ることに成功した。これが漢王朝の基礎作りに役立ったと言われている。

紀元前206年、秦が滅亡し、劉邦が漢王に封建されると、蕭何は丞相に任命され、内政の一切を担当することになる。

それからまもなく夏侯嬰が韓信を推挙してきた。その才能に感じ入った蕭何も劉邦に推挙し、韓信は召し抱えられたが、与えられた役職が閑職だったために逃げ出すという事件を起こす。韓信を引き留めるため蕭何は自ら追いかけ、「今度推挙して駄目であれば、私も漢を捨てる」とまで言って説得する。そして劉邦に韓信を大将軍に就かせるよう推挙した[1]。劉邦はその進言を受け入れ、大将軍に任命する。韓信は家柄も名声も無く、元は楚の雑兵で、漢でも単なる一兵卒だった。当然ながら最大級の大抜擢であり、このことからも劉邦の蕭何への信頼の厚さが伺える。

劉邦が軍勢を率いて関中に入ると、蕭何もこれに従い関中に入る。楚漢戦争が激化し、劉邦が戦地に出て関中を留守にすると、王太子の劉盈を補佐しながらその留守を守った。関中においてもその行政手腕は遺憾なく発揮され、関中から戦地に向けて食糧と兵士を送り、それを途絶えさせることなく劉邦を後方から支え、しかも関中の民衆を苦しめることもなく、名丞相として称えられた。紀元前202年、楚漢戦争が劉邦陣営の勝利に終わると、戦功第一には、戦地で戦い続けた将軍らを差し置いて蕭何が選ばれた。劉邦も、蕭何の送り続けた兵糧と兵士がなければ、そして根拠地である関中が安定していなければ、負け続けても何度も立て直すことはできず、最終的に勝利することもできなかったことを理解していたのである。

漢の相国
劉邦が皇帝となり、前漢が成立すると、蕭何は戦功第一の酇侯に封じられ、引き続き丞相として政務を担当することとなり、長年打ち続いた戦乱で荒れ果てた国土の復興に従事することとなった。紀元前196年に、呂后から韓信が謀反を企てていることを知ると、密談を重ねて策謀を用いて誘い出しこれを討った。韓信は国士無双と称された程の名将であり、慎重でもあったが、蕭何だけは信用していたために油断したのである。この功績により、臣下としては最高位の相国に任命され、「剣履上殿[2]」「入朝不趨[3]」「謁賛不名[4]」等の特権を与えられた。

しかし、この頃から劉邦は蕭何にも疑惑の目を向け始めた。これについては楚漢戦争の頃からその傾向があったため、蕭何もそれを察し、戦争に参加出来る身内を全員戦場へ送りだし、謀反の気が全く無いことを示していた。しかし、劉邦は皇帝となってからは猜疑心が強くなり、また韓信を始めとする元勲達が相次いで反乱を起こしたことで、蕭何に対しても疑いの目を向けたのである。長年にわたって関中を守り、民衆からの信望が厚く、その気になればいとも簡単に関中を掌握できることも、危険視される要因になった。蕭何は部下の助言を容れて、わざと悪政を行って(田畑を買い漁り、汚く金儲けをした)自らの評判を落としたり、財産を国庫に寄付することで、一時期投獄されることはあったものの、何とか粛清を逃れることに成功した。

劉邦の死の2年後、蕭何も後を追うように亡くなり、文終侯と諡されて、子の哀侯蕭禄が後を継いだ。蕭何の家系は何度も断絶しているが、すぐに皇帝の命令で見つけ出された子孫が侯を継いでいる(後述)。

死に際して後継として曹参を指名している。のちに曹参は、政務を怠っていると非難されたとき、「高祖と蕭何の定めた法令は明瞭明白で世を治めており、変える必要がありません。我々はあまり細々とした変更をせず、それをただ守れば良いのです」と時の皇帝に述べ、皇帝もその言葉に納得している。

漢王朝において、臣下としての最高位である「相国」は一部の例外を除いて蕭何と曹参以外には与えられず、「それだけの功績のものがいない」として任ぜられることがなかった。

子孫
哀侯蕭禄は6年で逝去し、子がなかったので呂后は彼の弟の蕭同[5] を継がせたが、紀元前179年に蕭同は罪を得て、爵位を奪われた。そこで、蕭何の末子の筑陽侯蕭延を継がせた。定侯蕭延は2年で亡くなり、その子の煬侯蕭遺が継いだ。彼は1年で亡くなり、子がないためにその弟の蕭則が継いだ。20年後に酇侯蕭則は罪を得て、所領を没収された。

しかし、景帝は詔を下して「大功臣の蕭何の家系を断絶するのは忍びない」として、蕭則の弟の蕭嘉を武陽侯として封じて再興された。彼は7年で逝去し、その子の蕭勝が継いだ。彼は武帝の時期の21年で罪を得て、所領を没収された。しかし、武帝も父同様に詔を下して、蕭則の子の共侯蕭慶を酇侯に封じた。彼は3年で亡くなり、その子の蕭寿成が継いだ。10年で彼は罪を得て、所領を没収された。

宣帝の時期に、詔を発して蕭何の子孫を探し出して、その子孫である釐侯蕭喜を酇侯に封じて三度再興させた。彼は3年で亡くなり、その子の質侯蕭尊が継いだ。彼は5年で亡くなり、その子の蕭章が継いだが、子がなく兄弟の蕭禹が継いだ。王莽が漢を簒奪して新を樹立すると、王莽は蕭禹を酇郷侯に改めて封じた。王莽が後漢の光武帝によって滅ぼされると、酇郷侯も断絶した。

明帝と章帝は詔を下して、蕭何を祀らせた。和帝の時期に、詔を下して、蕭何の子孫を探し当てて、見つけ出して領地を与えた。このように蕭何の子孫は前漢・後漢にまで繁栄した。

さらに、南朝の斉を建国した蕭道成は蕭何の24世の子孫、蕭道成の族子である梁を建国した蕭衍も蕭何の25世の子孫であると称していた。

評価
司馬遷は史記の蕭相国世家にて、「蕭何は秦の時代では小吏にすぎず、平凡で優れた能力はなかった。漢がおこると高祖(劉邦)の余光に頼り、留守の役をつとめ秦の憎悪を利用して、新しい時代を作った。韓信、英布が粛清されたが、蕭何の勲功は光輝き、地位は群臣の上に置かれ、名声は後世まで流れ、閎夭、散宜生と言った周王朝の功臣達と功績を争うようになった」と評している。[6]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%AD%E4%BD%95
27:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/11 (Wed) 09:44:34

張良
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E8%89%AF

張 良(ちょう りょう、紀元前251 - 紀元前186年)は、秦末期から前漢初期の政治家・軍師。字は子房[1]。諡は文成。劉邦に仕えて多くの作戦の立案をし、劉邦の覇業を大きく助けた。蕭何・韓信と共に漢の三傑とされる。劉邦より留(現在の江蘇省徐州市沛県の南東)に領地を授かったので留侯とも呼ばれる。子には嗣子の張不疑と少子の張辟彊がいる。

生涯
始皇帝暗殺未遂
祖父の張開地(中国語版)が韓の昭侯・宣恵王・襄王の相国を務め、父の張平は釐王・桓恵王の相国を務めるなど、張良は韓の名族の生まれであった[2][3]。父の張平が死んでから20年が経った韓王安九年(紀元前230年)、内史騰率いる秦軍10万の攻撃を受け韓王安は捕虜となり、韓は滅亡した[4]。その時にはまだ張良は年若く、官に就いていなかった[2]。祖国を滅ぼされた張良は韓のため復讐を誓い、弟が死んでも葬式を出さず、全財産を売り払って秦王に仇を報ずる客士を求めた[2]。

張良は淮陽郡で礼を学び、東へ旅をして倉海君という人物に出会い、その人物と話し合って屈強な力士を借り受けた[5]。始皇帝が巡幸の途中で博浪沙(現在の河南省新郷市原陽県の東)を通った所を狙い[5]、重さ120斤(約30kg[6])という鉄槌を投げつけ、始皇帝が乗った車を潰す計画であった。しかし鉄槌は副車に当たってしまって暗殺は失敗に終わり、張良たちは逃亡した[5]。

始皇帝は自らを暗殺しようとした者に怒り、全国に触れを回して捕らえようとした。そこで張良は偽名を使って下邳(現在の江蘇省徐州市の東の邳州市)に逃れ[5]、任侠の徒となった[7]。なお、この下邳で身を隠していた頃に、人を殺して逃亡中であった項伯(項羽の叔父)を匿まっている[7]。

黄石公

張良と黄石公(頤和園)
詳細は「黄石公」を参照
ある日、張良が橋の袂を通りかかると、汚い服を着た老人が自分の靴を橋の下に放り投げ、張良に向かって「おい若いの、下りて靴を取ってこい」と言いつけた[8]。張良は頭に来て殴りつけようかと思ったが、相手が老人なので我慢して靴を取って来た。すると老人は足を突き出して「わしにその靴をはかせよ」と言う[8]。張良は「すでに拾ってきてやったんだから」と考え、跪いて老人に靴を履かせた[8]。老人は笑って去って行ったが、その後で戻ってきて「若いの、教えられそうだなあ!後5日たっての早朝、わしとここで会え」と言った[8][9]。

5日後の朝、日が出てから張良が約束の場所に行くと、既に老人が来ていた。老人は「老人と約束しながら遅れるとは何事だ。立ち去れ」と言い「また5日の後早朝に会おう」と言い残して去った[10]。5日後、張良は鶏鳴の時刻に家を出たが、既に老人は来ていた。老人は再び「遅れるとは何事だ。立ち去れ」と叱り「あと5日したらもう一度早く来い」と言い残して去って行った。次の5日後、張良は夜中から約束の場所で待った。しばらくして老人がやって来た。老人は満足気に「こうでなくてはならん」と言い、張良に一編の書物を渡して「これを読めば王者の師となれる。10年経ったら興隆し、13年後におまえはわたしに会うだろう。済北の穀城山の麓にある黄石がわしなのだ」と言い残して消え去ったという[10]。授かった書は太公望の兵法書で、張良は不思議に思いながらもこの書を繰り返し誦読した[10][9]。

劉邦の下で
秦二世元年(紀元前209年)7月、陳勝・呉広の乱が起こると、張良も若者を100人余り集めて乱に加わろうとした[11]。その頃、陳勝の死後楚王に擁立された楚の旧公族の景駒が留にいたのでこれに従おうとしたが、途中で数千の兵を率い下邳西方を攻略中の劉邦と出会った[11]。劉邦は張良を厩将(武官の一種)に取り立て、張良はしばしば太公望の兵法を劉邦に説いた[11]。

張良はそれまでも何度か大将たちに出会っては自らの兵法を説き、自分を用いるように希望していたが、聞く耳を持つ者はいなかった。しかし劉邦は張良の言うことを素直に聞き容れ、その策を常に採用し、実戦で使ってみた。これに張良は「沛公(劉邦)はほとんど天授の英傑というべきだ」と感嘆し、劉邦に従うことを決めた[12][11]。

劉邦はその後、項梁の下に入って一方の軍を任されるようになる。項梁は新しい旗頭として懐王(後の義帝)を立てた。そこで張良は韓の公子であった横陽君の韓成を韓王に立てるように項梁に進言した。項梁もこれを認めて成を韓王とし、張良をその申徒(『史記集解』に拠れば司徒のこと)に任命した。その後、張良は韓王成と共に千人ほどの手勢を引き連れて旧韓の城を攻めて占領するが、すぐに兵力に勝る秦によって奪い返された。正面から当たる不利を悟った張良は遊撃戦に出た[13]。

劉邦が洛陽から南の轘轅に出陣した際、これに合流して旧韓の城を十数城攻め取り、秦の楊熊軍を撃破した[14]。

その後、劉邦は韓王成を陽翟の守備に留め、張良と共に南下して宛を攻め下し、西進して武関に到達した[14]。続いて劉邦は兵2万をもって嶢関を攻めようとしたが、張良は「秦兵を軽んじてはなりません」とこれを思いとどまらせ「私の聞くところでは、秦の将軍(嶢関の守将)は屠殺を業とする者の子であります。商を事とするもの共は、利益で動かし易いのです」「まずは人をやって5万人の食糧を用意させ、旗や幟を山の上に張りめぐらせる疑兵の計をなし、酈食其に重宝をもたせてやって、秦の将軍にくらわせてください」と献策した[15]。果たして秦将は寝返り、劉邦に対して共に咸陽を攻めようと提案までしてきた。劉邦はこれを聞き入れようとしたが、張良は「秦に叛こうとしているのは将ただ一人だけで、恐らく士卒達は従わないでしょう。従わないならば必ずや危険な存在となるので、この隙に乗じて秦軍を撃つべきです」と説いた。劉邦は張良の進言のとおり嶢関を攻めて大いに破り、逃げる兵を追って藍田で再び戦い、これを遂に敗走させた[14][16]。こうして劉邦軍は秦の首都咸陽に辿り着き、秦王子嬰は劉邦に降伏した[14]。

鴻門の会
詳細は「鴻門の会」を参照
関中に入った劉邦は、秦王の子嬰の降伏を受けて秦の首都咸陽に入城した。帝都のきらびやかさに驚いた劉邦はここで楽しみたいと思い、樊噲にここを出て郊外に宿営しようと諫められても聞こうとしなかった。そこで張良は「秦が無道を行なったので、沛公は咸陽に入城できました。それなのにここで楽しもうとするのは秦と同じでしょう」と劉邦を諫め、「忠言は耳に逆らえども行いに利あり、毒薬[17] は口に苦けれども病に利あり、と申します」と再び諌言した。劉邦はその諌言を素直に受け容れ、咸陽を出て覇上に軍を戻した[18]。

その頃、東で秦の大軍を打ち破った項羽は、東の関である函谷関に迫っていたが、既に劉邦が関中に入り、自分を差し置いて関中の王のようにしていると聞いて激怒し、函谷関を打ち破って関中へ入り、劉邦を攻め殺そうとした[19]。

その日の夜、旧友の項伯が項羽の陣営から張良の下にやって来て「私と一緒に逃げよう」と誘った。だが張良は「私は韓王のために沛公を送って来たのです。今、こういう状況だからといって逃げるのは不義です」と言って断り、事の次第を劉邦に伝えた[20]。劉邦は項伯と姻戚関係を結ぶ約束をし、項羽に対して釈明をしてもらえるよう頼み込んだ[21]。項伯の釈明により、項羽と劉邦は会談を行うことになった。これが鴻門の会である。鴻門の会で劉邦は命を狙われたが、張良や樊噲の働きによって危機を逃れている。

楚漢戦争

明月峡古桟道

『鶏鳴山の月』(月岡芳年『月百姿』)項羽の陣に向け楚の曲を笙で奏でる張良(四面楚歌)
漢元年(紀元前206年)正月、項羽は根拠地の彭城(現在の徐州市)に帰り、反秦戦争の参加者に対する論功行賞を行った[22]。これにより劉邦は漢王(巴蜀・漢中の王)となる。劉邦が巴蜀へ行くに当たり、張良は桟道を焼くように進言した[23]。桟道とは、蜀に至る険しい山道を少しでも通り易くするために、木の板を道の横に並べたものである。とりあえずの危機は去ったものの、劉邦はまだ項羽に警戒されており、何かの口実で討伐されかねなかった。道を焼いて通行困難にすることで謀反の意思がないことを示し、同時に攻め込まれたり間者が入り込めないようにしたのである。

劉邦が巴蜀へ去った後、張良は韓王成の下へ戻る。だが、項羽は韓王成が劉邦に味方したことを不快に思い、成を手許にとどめて韓に戻らせようとしなかった。そこで張良は項羽に「漢王は桟道を焼いており、大王に逆らう意図はありません。それより斉で田栄らが背いています」との手紙を出し、項羽はこれで劉邦に対する疑いを後回しにして、ただちに田栄らの討伐に向かった[24]。

だが結局、項羽は韓王成を韓へは返そうとせず、最後には范増の進言で彭城で韓王成を処刑した[25]。范増はかねてから劉邦を脅威に思っており、もし劉邦が東進してくれば恩義のある韓がまず協力するだろうと見たのである。

このために張良は官職を辞して、間道を通じて逃亡して、すでに東進した劉邦の下へと帰った[25]。劉邦はその後関中の三秦(章邯、董翳、司馬欣)を降し、張良を成信侯にして、東進し項羽の本拠地・彭城を占領するが、項羽の軍に破られて逃亡し[25]、滎陽(河南省滎陽市)で項羽軍に包囲された(滎陽の戦い)[26]。

包囲戦の途中、儒者酈食其が「項羽はかつての六国(戦国七雄から秦を除いた)の子孫たちを殺して、その領地を奪ってしまいました。大王がその子孫を諸侯に封じれば、みな喜んで大王の臣下になるでしょう」と説き、劉邦もこれを受け容れた。その後、劉邦が食事をしている時に張良がやって来たので、酈食其の策を話した。張良は「(こんな策を実行すれば)陛下の大事は去ります」と反対し、劉邦が理由を問うと、張良は劉邦の箸をとって次のように説明した。

昔、湯王や武王が桀や紂の子孫を諸侯に封じたのは、彼らを制する力があったからです。今、大王に項羽を制する力がありますか? これが一つ目の理由です。
武王は殷に入ると賢人商容の徳を褒め、捕えられていた箕子を釈放し、比干の墓を修築しました。大王にこのようなことができますか? これが二つ目の理由です。
武王は財を放って困窮の者を援けました。大王にはできますか? これが三つ目の理由です。
武王は殷を平定すると、武器を捨てて戦をしないことを天下に示しました。今、大王にこれができますか? これが四つ目の理由です。
武王は戦に使う馬を華山の麓に放ち、戦が終わったことを天下に示しました。今、大王にこれができますか? これが五つ目の理由です。
武王は兵糧を運ぶ牛を桃林に放ち、輸送が必要ないことを天下に示しました。今、大王にそれができますか? これが六つ目の理由です。
かつての六国の遺臣たちが大王に付き従っているのは、何か功績を挙げていつの日か恩賞の土地を貰わんがためです。もし大王が六国を復活させれば、みな大王の下を去り故郷へと帰って、それぞれの主君に仕えるようになるでしょう。大王は誰と天下を争うおつもりですか? これが七つ目の理由です。
「もし、その六国が楚に脅かされ、楚に従うようになってしまったら、大王はどうやって六国の上に立つおつもりですか? これが八つ目の理由です。
劉邦は食べていた食事を吐き出し、「豎儒(じゅじゅ、儒者を馬鹿にする言葉。酈食其のこと)に大事を潰されるところだった!」と慌てて策を取り止めた[27]。

紀元前203年、韓信が斉を平定すると「鎮撫のため斉の仮王になりたい」と劉邦に使者を送ってきた。韓信からの援軍を期待していた劉邦は「股夫が国を無心してきおった」と怒り書状を投げ捨てたが、張良は劉邦の足を踏みつけ「もし、要求を認めず韓信に反旗を翻されては我々に勝ち目はありません。それに、彼の功績を考えれば真っ当な要求であり認めるべきです」と述べた。すると劉邦も冷静さを取り戻し「功績をあげたのだから、小さい事を言わず仮王ではなく真王となれ」と韓信の斉王即位を認めた。

同年、劉邦と項羽は滎陽の北の広武山で対陣したが、食糧が尽きたので、和睦して互いにその根拠地へと戻ることになった。

ここで張良は陳平と共に、退却する項羽軍の後方を襲うよう劉邦に進言した。項羽とその軍は韓信と彭越の活躍もあって疲弊しているが、戻って回復すればその強さも戻ってしまう。油断している今を置いて勝機はない、と見たのである。劉邦はこれを受け入れ、韓信と彭越の2人の武将も一緒に項羽を攻めるように命令した。しかし、韓信と彭越はやって来ず、劉邦は固陵で項羽軍に敗れた。

劉邦が援軍の来ない理由を問うと張良に「韓信・彭越が来ないのは恩賞の約束をしていないからです」と答えた。劉邦は「彼らには十分禄は出している。韓信は斉王に彭越は魏の相国にしてやった」と言うも、張良は「確かに韓信は斉王の肩書きを与えましたが、正式に斉の地を与えたわけではありません。彭越も魏の相国ですが魏王豹が叛いてからは何の権限もありません。にも拘わらず補給路を断つなどの活躍をしましたが、新たな肩書きの一つでも与えましたか? 彭越は肩書こそ我が漢軍の将ですが、先にも言った通り実態はありません。彼は(同じく実態のない)斉国の将の肩書も持っており、元斉王の田横やその臣達が彼の下に亡命しております。もし、韓信が斉軍を動かしたら、その留守を狙い田横が『彭越を斉の正式な将軍にする』と言って抱え込み斉へ攻め込むかもしれません。斉国を預かる韓信からしてみれば万が一に備える必要があり、軍を動かす事は出来ません。彭越に正式な漢の役職を与え抱え込み、韓信に更なる恩賞を約束すれば、喜んで援軍に参りましょう。彼らも漢楚が争っているからこそ価値があるとわかっているので、争いが終わってしまえば自分たちはどうなるかと不安なのです」と返した。

なおも納得ができない劉邦が「では、恩賞が少ないからと言って我々を見捨て、漢が滅びればどうなる? 彼らも滅びてしまうではないか。それに天下が定まらない状況で恩賞など出せるか」と問うと、張良は「彼らは漢が滅びるとは思っていません。功績と恩賞が見合っていないと思っているのです。大王は彼らの価値を何もわかっていません。先の戦で大王は天下の半分をお取りになりました。それは一体誰のおかげですか? 大王の『恩賞は天下が定まってから』というお考えはよく理解できますが、天下の人々には『劉邦は天下の半分を取りながら恩賞を出し惜しんでいる』としか見えません。私は大王が物を惜しんでいないのはよく存じております。しかし、天下の人々にもそう見えなければ意味がありません。だから彼らも、恥じることも悪びれることもなく動かなかったのです」と答えた。

これに劉邦も納得し、両者に対して戦後も韓信を斉王に、彭越を梁王に封じる約束をし、喜んだ両者の軍を合わせて項羽軍を垓下に包囲し、項羽を討ち取った(垓下の戦い)。

天下統一後
遂に項羽を滅ぼした劉邦は皇帝に即位し(漢の高祖)、臣下に対して恩賞を分配し始めた。張良は野戦の功績は一度もなかったが、「謀を帷幄のなかにめぐらし、千里の外に勝利を決した」と高祖に言わしめ、3万戸を領地として斉の国内の好きな所に選べといわれた。しかし張良は「陛下は私の計を用いて下さり、幸いにも的中しました。私に功があったとは思いません」と辞退して「私は下邳で身を起こし、留で陛下とお会いしました。これは天が私を陛下に授けたのです。陛下と初めてお会いした留をいただければ、それで充分です」と答え、留に封ぜられ、留侯となった[28]。

高祖は功績が多大な家臣を先に褒賞し、後の者はそれから決めようとしていた。ところが広い庭のあちらこちらで、臣下らが数人集まって密談をしているところを目撃した[29]。高祖が張良に、彼らは何を話しているのかと尋ねたところ、張良は「彼らは謀反を起こす相談をしているのです」と答えた。驚いた高祖が理由を問うと、「今までに褒賞された人は、蕭何や曹参など陛下の親しい者ばかりです。天下の土地全てでも彼ら全てに与えるだけはなく、彼らも忠義などではなく恩賞を求めて仕えてきたのです。彼らの中には嘗て我々と敵対した者、過去罪を犯した者、不手際を起こした者、様々な事情から陛下に嫌われている者など、後ろめたい事を抱えている者も多くございます。故に陛下に過去の罪を掘り返され、誅殺されるのではないかと恐れ、ならば謀反を起こそうかと密談しているのです」と答えた。高祖が対策を問うと、張良は「功績はあるが陛下が一番憎んでおり、それを皆が知っているのは誰ですか」と聞いた。高祖は「雍歯だ。昔に裏切られ大いに苦しませられ、殺したいほど憎い。それを知らぬものは天下広しといえど居ないだろう(だが功績があるから我慢している)」と答えた。張良は「ならば雍歯に先に恩賞を与えれば、皆は安心しましょう」と進言した。高祖がそれを受けて宴会を開き、その場で「雍歯よ。その功績に報いるため、お前を什方侯に封じる」と恩賞を発表すると、皆は「あの陛下に憎まれている雍歯ですら賞されたのだから、自分は心配する必要もない」と安堵し、あちこちの密談はぴたりと止んだ[30][31]。

劉敬(婁敬)が関中を都とするよう進言した際、疑問を抱いた劉邦が大臣らに意見を求めたところその多くは洛陽を勧めたが、張良は洛陽は堅固ではあるが土地が痩せていて四方より攻撃を受けるため「武を用いるに有利な国ではありません」とその短所をあげ、関中は沃野千里、西北南は天険に守られ、黄河・渭水の水運を利用して諸侯が安定しているときは物資を京師(長安)に集め、諸侯に変があるときは流れを下ることができる「金城千里、天成府庫の国」だとして劉敬の案に賛成し、劉邦は都を関中に定めた[32][33]。

晩年
張良は生まれつき多病であったため、道教の導引術を行い、穀物を断ち、門を閉ざして一年以上外出をしなかった[34]。


『商山四皓図屏風』狩野尚信、ボストン美術館所蔵
このころ劉邦は、既に皇太子に立てられていた正室呂雉の子の劉盈(後の恵帝)を廃し、代わって側室戚氏の子の劉如意を皇太子にしたいと考え、重臣らの諫言も耳を傾けなかった[35]。危機感を抱いた呂雉は、長兄の呂沢(中国語版)を留に派遣させて、張良に助言を求めた。張良は、劉邦がたびたび招聘に失敗した高名な学者たち、東園公(中国語版)、甪里先生(中国語版)、綺里季(中国語版)、夏黄公(中国語版)を劉盈の師として招くように助言し、これらの学者たちは劉盈の師となった[35]。なおこの4人はみな鬚眉(しゅび)が皓白(こうはく)の老人であったので、商山四皓と呼ばれている。

高祖はたびたび招聘しても応じなかった彼らが劉盈の後ろにいることに驚き、何故か尋ねた。彼らは「陛下は士を軽んじ、よく罵倒されました。わたくしたちは、義理にもその恥辱を受けられませんので、恐れて隠れておりました。ところが、ひそかに聞きますと、太子のお人柄は、仁孝恭敬で、士を愛され、天下の人びとは頸を長くして、太子のために死を欲しない者はないとかのご評判であります。それ故に、わたしたちも出て来たのでございます」と答えた。劉邦は「羽や翼がもう出来あがったからには動かし変えることはできない」と戚夫人に告げ、廃嫡を諦めた[35][36]。

呂雉は張良に恩義を感じており、特殊な呼吸法で体を軽くしようとしていることを聞いて「人生は一回しかなく、短く儚いものなのです。なぜ留侯(張良)はご自身を苦しめられるのですか?」といさめて、張良に無理してでも食事を摂らせたので、張良は仕方なく呂雉の言うとおりに食事を摂った。

高祖の死の9年後の紀元前186年に死去し、文成侯と諡された。子の張不疑が後を継いだ[37]。

末裔
死後、留侯の地位を継いだ張不疑は文帝5年(紀元前175年)に不敬罪で侯を免じられ、領地を没収された[38]。その後、『漢書』「高恵高后文功臣表」によると、張不疑の玄孫である張千秋(中国語版)が、宣帝時代に賦役免除の特権を賜った[39]。また『後漢書』「文苑伝」によると張良の後裔に文人の張超が出た[40]。このほか、益州の人で、後漢の司空張晧、その子で広陵太守の張綱、その曾孫で蜀の車騎将軍の張翼らが張良の子孫を称している(『後漢書』張王種陳列伝[41]・『三国志』張翼伝[42])。

また、張良の末裔を称する明の北京使官の張由の子の張忠が政争を逃れ朝鮮に亡命しようとして平戸に漂着し、大内氏に医師として仕えた[43]。その子の張元至は毛利輝元に仕えて側近となり、その家老にまで出世した。戦国時代以降で、帰化人が大名権力の中枢を担った例は全国的にも稀である。しかし、毛利家内部の権力闘争の結果、元至は輝元からその嫡子の毛利秀就の乳母との密通の疑いをかけられ、切腹させられた。後に張家は復興され、張元貞・張元令らが毛利家に仕えた。

人物・評価

円山応挙筆 『張良図』[44]
劉邦は「夫れ籌策(ちゅうさく。はかりごと)を帷帳の中に運(めぐ)らし、勝ちを千里の外に決するは、吾子房に如かず」と張良を評し、韓信、蕭何と併せ「此三者は皆人傑なり」と称えた[45]。このため司馬遷は、張良の風貌について「其の人計ず(かならず)魁梧奇偉なり(背が高く逞しく立派なのであろう)」と想像していたが、ある時その姿絵を見たところ「状貌、婦人好女の如し(その姿はまるで美しい女性のようであった)」という[46][47]。

その智謀は後世でも讃えられ、南宋末期の儒学者黄震は「漢室を天下既得の後に維持する所以にして、凡そ良が一謀一画、漢の得失安危に繋らざるはなし。良は又、三傑の冠たり」としている[48]。三国時代の曹操は「王佐の才」といわれた荀彧を迎え入れたとき「我が子房が来た」と喜んだ[49]。

張良は日本でも古くから優れた軍師として知られ、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した黒田官兵衛などは2代将軍徳川秀忠をして「今世の張良なるべし」と評された[50]。黄石公の落とした沓を拾い兵法書を授かる張良の説話(子房取履譚)などは御伽草子、能や幸若舞曲の題材となった[51]。 江戸時代を通じて張良の名前は庶民にも知られるようになり、円山応挙や浮世絵師歌川国芳・月岡芳年などによって肖像画も多く描かれるようになった。
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2023/01/11 (Wed) 09:45:07

韓信
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韓 信(かん しん)は、中国秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付けた。張良・蕭何と共に漢の三傑の一人。

なお、同時代に戦国時代の韓の王族出身の、同じく韓信という名の人物がおり、劉邦によって韓王に封じられているが、こちらは韓王信と呼んで区別される[1]。

生涯

生い立ち
淮陰(現在の江蘇省淮安市淮陰区)の人[2]。貧乏で品行も悪かったために職に就けず、他人の家に上がり込んでは居候するという遊侠無頼の生活に終始していた。こんな有様であったため、淮陰の者はみな韓信を見下していた。とある亭長の家に居候していたが、嫌気がした亭長とその妻は韓信に食事を出さなくなった。いよいよ当てのなくなった韓信は、数日間何も食べないで放浪し、見かねた老女に数十日間食事を恵まれる有様であった[2]。韓信はその老女に「必ず厚く御礼をする」と言ったが、老女は「あんたが可哀想だからしてあげただけ。お礼なんていいわよ」と語ったという。

ある日のこと、韓信は町の若者に「てめえは背が高く、いつも剣を帯びているが、実際には臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ。できないならば俺の股をくぐれ」と挑発された。韓信は黙って若者の股をくぐり、周囲の者は韓信を大いに笑ったという。その韓信は、「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の得もなく、それどころか仇持ちになってしまうだけだ」と冷静に判断していたのである。この出来事は「韓信の股くぐり」として知られることになる[3]。

秦の始皇帝の没後、陳勝・呉広の乱を機に大規模な動乱が始まると、紀元前209年に韓信は項梁、次いでその甥の項羽に仕えて郎中(華北では中郎(中佐))となったが、たびたび行った進言が項羽に用いられることはなかった。

劉邦配下として
紀元前206年、秦の滅亡後、韓信は項羽の下から離れ、漢中に左遷された漢王劉邦の元へと移る。しかし、ここでも連敖(接待係)というつまらぬ役しかもらえなかった。

ある時、韓信は罪を犯し、同僚13名と共に斬刑に処されそうになった。たまたま刑場に劉邦の重臣の夏侯嬰がいたので、「漢王は天下に大業を成すことを望まれないのか。どうして壮士を殺すような真似をするのだ」と訴え、韓信を面白く思った夏侯嬰は、韓信を助命し劉邦に推薦した。

劉邦はとりあえず韓信を治粟都尉(兵站官)としたが、韓信に対してさほど興味は示さなかった。自らの才能を認めて欲しい韓信は、漢軍の兵站の責任者である蕭何と何度も語り合い、蕭何は韓信を異才と認めて劉邦に何度も推薦するが、劉邦はやはり受け付けなかった。

この頃の漢軍では、辺境の漢中にいることを嫌って将軍や兵士の逃亡が相次いでいた。そんな中、韓信も逃亡を図り、それを知った蕭何は劉邦に何の報告もせずにこれを慌てて追い、追いつくと「今度推挙して駄目だったら、私も漢を捨てる」とまで言って説得した。ちょうど、辺境へ押し込まれたことと故郷恋しさで脱走者が相次いでいた中であったため、劉邦は蕭何まで逃亡したかと誤解し、蕭何が韓信を連れ帰ってくると強く詰問した。蕭何は「逃げたのではなく、韓信を連れ戻しに行っていただけです」と説明したが、劉邦は「他の将軍が逃げたときは追わなかったではないか。なぜ韓信だけを引き留めるのだ」と問い詰めた。これに対して、蕭何は「韓信は国士無双(他に比類ない人物)であり、他の雑多な将軍とは違います。(劉邦が)この漢中にずっと留まるつもりならば韓信は必要ないが、漢中を出て天下を争おうと考えるのなら韓信は不可欠です」と劉邦に返した。これを聞いた劉邦は、韓信の才を信じて全軍を指揮する上将軍に任命して、軍権を委ねることにした。

韓信はこの厚遇に応え、劉邦に漢中の北の関中を手に入れる策を述べた。即ち、

項羽は強いが、その強さは弱めやすいものである(婦人の仁、匹夫の勇:実態の伴わない女のやさしさ、取るに足らない男の勇気)。劉邦は項羽の逆を行えば天下を手に入れられる。
特に処遇についてかなり不公平であり、不満が溜まっている。進出する機会は必ず訪れる。
兵士たちは故郷に帰りたがっており、この気持ちは大きな力になる。
関中の三秦の王は20万の兵を見殺しにした元将軍たちであり、人心は離れている。その逆に劉邦は、以前咸陽で略奪を行わなかったなどの理由で人気があるため、関中はたやすく落ちる。
と説いた。劉邦はこれを聞き大いに喜び、諸将もこの大抜擢に納得した。

劉邦はこの年の8月に関中攻略に出兵、油断していた章邯を水攻めで撃破して、桃林で自害に追い詰め、さらに司馬欣・董翳も撃破した。そして関中を本拠地として、韓王の鄭昌を降して項羽との対決に臨んだ。

その頃、各地で項羽の政策に反発する諸侯による反乱が相次ぎ、項羽はその対応(特に斉)に手を焼いていた。紀元前205年、その隙を突いて、劉邦は総数56万と号する諸侯との連合軍を率いて親征し、項羽の本拠地・彭城を陥落させた。しかし連合故に統率が甘く更に油断しきっていたため、斉から引き返して来た項羽軍の3万に奇襲され大敗。劉邦は命からがら滎陽に逃走した(彭城の戦い)。韓信も敗戦した漢の兵をまとめて滎陽で劉邦と合流し、追撃してきた楚軍を京・索の中間周辺で迎撃。楚軍をこれ以上西進させなかった。

躍進
体勢を立て直した劉邦は、自らが項羽と対峙している間に韓信の別働軍が諸国を平定するという作戦を採用した。まずは、漢側に就いていたが裏切って楚へ下った西魏王の魏豹を討つことにし、劉邦は韓信に左丞相の位を授けて、副将の常山王張耳と将軍の曹参とともに討伐に送り出した。

魏軍は渡河地点を重点的に防御していた。韓信はその対岸に囮(おとり)の船を並べてそちらに敵を引き付け、その間に上流に回り込んで木の桶で作った筏(いかだ)で兵を渡らせて魏の首都・安邑(現在の山西省運城市夏県の近郊)を攻撃し、魏軍が慌てて引き返したところを討って魏豹を虜にし、魏を滅ぼした。魏豹は命は助けられたが、庶民に落とされた。

その後、北に進んで代(山西省北部)を占領し、さらに趙(河北省南部)へと進軍した。この時、韓信は河を背にした布陣を行う(背水の陣:兵法では自軍に不利とされ、自ら進んで行うものではなかった)。20万と号した趙軍を、狭隘な地形と兵たちの死力を利用して防衛し、その隙に別働隊で城砦を占拠、更に落城による動揺の隙を突いた、別働隊と本隊による挟撃で打ち破り、陳余を泜水で、趙王歇を襄国で斬った(井陘の戦い)。続いて、趙の将軍であった李左車を探し出して捕らえ、上座を用意して李左車を先生と賞し、これからのことを相談した。李左車は「『敗軍の将は兵を語ってはならず、亡国の臣は国家の存続を計ってはならない』と聞きます。私は敗軍の将、亡国の臣です」と初め自分の考えを述べることに躊躇したが、韓信は「趙が敗れたのは、先生の策を入れなかった趙王と陳余にあり、先生にあるのではありません。もし先生の策が用いられていれば、私はここに居ないでしょう」と更に賞した。これに李左車は「『智者も千慮に一失有り。愚者も千慮に一得有り』とあります」と愚者の策であると前置きした上で、「次に進むとすれば燕ですが、このままでは敗れます。兵が疲労しきっているからです。まずは趙兵の遺族を慰撫し、その返礼と十分な休息を兵に与えます。燕は趙軍を少数の兵で下した漢軍を非常に恐れており、趙兵の遺族を使者として送り、利を説けば降るでしょう。降らなければ、休息十分な兵を向ければよいのです」と燕を下す策を与えた。そしてその策に従い、労せずして燕(河北省北部)の臧荼を降伏させた。紀元前204年、鎮撫のために張耳を趙王として建てるように劉邦に申し出て、これを認められた。

この間、劉邦は項羽に対して不利な戦いを強いられ、韓信は兵力不足の劉邦に対して幾度も兵を送っていた。しかし、それでも苦境にあった劉邦は、楚に包囲された成皋から脱出し黄河を渡ると、夏侯嬰らとともに韓信たちがいた修武(現在の河南省焦作市修武県の西北)へ赴いた。その際、幕舎で寝ている韓信の所に忍び込んで、その指揮権を奪った。韓信は、起き出して仰天した。劉邦は張耳ら諸将を集めて、韓信を趙の相国に任じて曹参とともに斉を平定するように命じた。

ところが劉邦は、韓信を派遣した後で気が変わり、儒者の酈食其を派遣して斉と和議を結んだ。紀元前203年、韓信は斉に攻め込む直前であったが、既に斉が降ったと聞いて軍を止めようとした。この時、韓信の軍中にいた弁士蒯通は「(劉邦から)進軍停止命令は未だ出ておらず、このまま斉に攻め込むべきです。酈食其は舌だけで斉を降しており、このままでは貴方の功績は一介の儒者に過ぎない酈食其より劣る(斉は70余城を有し、韓信の落とした50余城より多い)と見られることでしょう」と進言し、韓信はこの進言に従って斉に侵攻した。備えのなかった斉の城は次々と破られ、怒った斉王の田広は酈食其を釜茹でに処して高密に逃亡した。

斉は楚に救援を求め、項羽は将軍龍且と副将周蘭に命じて20万の軍勢を派遣させた。龍且は周蘭から持久戦を進言されたが、以前の「股夫」の印象に影響され、韓信を侮って決戦を挑んだ。韓信も龍且は勇猛であるから決戦を選ぶだろうと読み、広いが浅い濰水という河が流れる場所を戦場に選んで迎え撃った。この時、韓信は決戦の前夜に濰水の上流に土嚢を落とし込んで臨時の堰を作らせ、流れを塞き止めさせていた。韓信は敗走を装って龍且軍をおびき出し、楚軍が半ば渡河した所で堰を切らせた。怒涛の如く押し寄せた奔流に龍且の20万の軍勢は押し流され、龍且は灌嬰の軍勢に討ち取られ、周蘭も曹参の捕虜となった。

斉を平定した韓信は、劉邦に対して斉の鎮撫のため斉の仮の王となりたいと申し出た。劉邦は、自分が苦しい状況にあるのに王になりたいと言ってきた韓信に身勝手であると激しく反発したが、張良と陳平に認めなければ韓信は離反し斉王を自ら名乗って独立勢力となると指摘され、一転、懐柔のために「仮の王などとは言わずに、真の王となれ」と韓信に伝え、斉王韓信を認めた。韓信は旧戦国の七雄のうち大国の斉を領有し、河北の趙、燕を支配する大王となり西楚、漢、斉の三国が鼎立する局面となった。王となった韓信に項羽も恐れを感じ始め、武渉という者を派遣した。武渉は韓信に「劉邦は見逃してやっても(鴻門の会のこと)攻めてくるような義理のない信頼できない人物でありますから、貴方にとって従わない方が良い主君です。漢と別れ、楚と共に漢に対するべきです」と説いた。韓信は項羽に冷遇されていたことを恨んでおり、一方で劉邦には大抜擢され斉王に封じられたことを恩義に思っていたため、これを即座に断った。その後、蒯通から「天下の要衝である斉の王となった今、漢、楚と天下を三分し、両者が争いに疲れた頃に貴方が出てこれをまとめれば、天下はついてきます」と天下三分の計を献策された。韓信は大いに悩んだが、謀反とは異なる「一勢力としての独立」という発想に得心が行かず、「漢王様は自らの衣を私に与え、車に同乗させてくれ、更には大将軍に任じてくれた。裏切ることができようか」と結局は劉邦への恩義を選び、これを退けた。絶望した蒯通は後難を恐れ、狂人の振りをして出奔した。

絶頂期
その頃、楚漢の戦いは広武山での長い持久戦になっており、疲れ果てた両軍は一旦和睦してそれぞれの故郷に帰ることにした。しかし劉邦はこの講和を破棄し、撤退中の楚軍に襲いかかった。韓信も加勢の要請を受けるが、これを黙殺したために劉邦は敗れる。焦った劉邦は張良の進言により、韓信に対して三斉(斉、済北、膠東)王として改めて戦後の斉王の位を約束し、再び援軍を要請した。ここに及んで韓信は30万の軍勢を率いて参戦した。これを見て諸侯も続々と漢軍に参戦する。漢軍は垓下に楚軍を追い詰め、垓下を脱出した項羽は冬12月に烏江(現在の安徽省馬鞍山市和県烏江鎮)で自決し、5年に及んだ楚漢戦争はようやく終結した(垓下の戦い)。

紀元前202年、項羽の死が確認されると、劉邦は「本来楚王となるべき義帝には嗣子が居ない。韓信は楚出身であり、楚の風土・風習にも馴染んでいる」[4] として韓信を斉王から楚王へと移した。これは項羽亡き後の楚王であり、また楚には韓信の故郷があるため、名誉であり栄転であった。しかし一方で、城の数では七十余城から五十余城に減った。

故郷の淮陰に凱旋した韓信は、飯を恵んでくれた老女、自分を侮辱した若者、居候させていた亭長を探して呼び出した。まず、老女には使い切れないほどの大金を与えた。次いで、かつての若者には「あの時、その方を殺すのは容易かったが、それで名が挙がるわけでもない。我慢して股くぐりをしたから今の地位にまで登る事ができたのだ」と言い、中尉(治安維持の役)の位につけた。亭長には「世話をするなら、最後までちゃんと面倒を見よ」と戒め、わずか百銭を与えた。

転落
劉邦はよく韓信と諸将の品定めをしていた。後述のように韓信は劉邦によって捕縛されることになるのだが、その後、劉邦が韓信に「わしはどれくらいの将であろうか」と聞くと、韓信は「陛下はせいぜい十万の兵の将です」と答えた。劉邦が「ではお前はどうなんだ」と聞き返したところ、「私は多ければ多いほど良い(多々益々弁ず。原文は「多多益善」)でしょう」と答えた。劉邦は笑って「ではどうしてお前がわしの虜になったのだ」と言ったが、韓信は「陛下は兵を率いることができなくても、将に対して将であることができます(将に将たり)。これは天授のものであって、人力のものではありません」と答えた。

紀元前201年、同郷で旧友であった楚の将軍・鍾離眜を匿ったことで韓信は劉邦の不興を買い、また異例の大出世に嫉妬した者が「韓信に謀反の疑いあり」と讒言したため、これに弁明するため鍾離眜に自害を促した。鍾離眜は「漢王が私を血眼に探すのは私が恐ろしいからです。次は貴公の番ですぞ」と言い残し、自ら首を撥ねた。そしてその首を持参して謁見したが、謀反の疑いありと捕縛された。韓信は「狡兎死して良狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵され、敵国敗れて謀臣亡ぶ。天下が定まったので、私もまた煮られるのか?」と范蠡の言葉を引いた。劉邦は謀反の疑いについては保留して、韓信を兵権を持たない淮陰侯へと降格させた。

韓信はそれ以降、病と称して長安の屋敷でうつうつと過ごした。ある時、舞陽侯の樊噲の所に立ち寄ると、韓信を尊敬する樊噲は礼儀正しく韓信を“大王”、自らを“臣”と呼んで最大限の敬いを見せたが、韓信は「生き長らえて樊噲などと同格になっている」と自嘲した。

最期
歳月は流れ、陳豨(中国語版)が鉅鹿郡守に任命された。韓信を尊敬していた陳豨は、出立にあたり長安の韓信の屋敷に挨拶にやってきた。韓信は陳豨に、あまりの冷遇にもはや劉邦への忠誠はなく、私が天下を取るまでだと言い放ち、一計を授けた。劉邦の信頼が篤い陳豨が謀叛すれば、劉邦は必ず激怒して自ら討伐に赴き、長安は空になる。しかし鉅鹿は精兵のいる要衝であるから、容易には落ちないだろう。そしてその隙に自分が長安を掌握する。反乱の頻発に現れているように天下には不満が渦巻いているので、諸国も味方に就くだろう、というのである。

紀元前196年の春、果たして陳豨は鉅鹿で反乱を起こした。信頼する陳豨の造反に激怒した劉邦は、韓信の目論見通りに鎮圧のために親征し、都を留守にした。韓信は、この機会に長安で反乱を起こし、囚人を解放してこれを配下とし、呂后と皇太子の劉盈(のちの恵帝)を監禁して政権を奪おうと謀った。ところが、韓信に恨みを持つ下僕樂說がこれを呂后に密告したため、[5]計画は事前に発覚した。呂后に相談された相国の蕭何は、韓信を普通に呼び出したのでは警戒されると考え、一計を講じる。適当な者を劉邦からの使者に仕立て「陳豨が討伐された」と報告をさせ、長安中に布告を出した。たちまち噂は広まり、長安在住の諸侯は祝辞を述べるために次々と参内した。韓信は計画が頓挫したと合点し、病気と称して自邸に引篭もっていたが、蕭何は「病身であることは知っているが、自身にかけられた疑いを晴らすためにも、親征成功の祝辞を述べに参内した方が良い」と招いた。そして韓信は何の疑いもなくおびき出され、捕らえられてしまう。事にあたっては用意周到に計画し、慎重さにも抜かりのなかった韓信だったが、自分を大いに買って引きとめ、大将軍に推挙してくれた蕭何だけは信用していたため、誘いに乗ってしまったのである。そして韓信は劉邦の帰還を待たずに長安城中の未央宮内で斬られ、死ぬ間際に「蒯通の勧めに従わなかったことが心残りだ」と言い残した。韓信の三族も処刑された。

死後
韓信の死後、陳豨の討伐を終えて帰ってきた劉邦は、最初は韓信が死んだことに悲しんだものの、韓信の最期の言葉を聞いて激怒し、蒯通を捕らえてこれを誅殺しようとした。しかし蒯通が(当時は劉邦の部下ではなく、韓信の部下だから、韓信の為を思って献策したと)堂々と抗弁したため、助命してこれを解放した。

評価
司馬遷は「韓信は貧しくて母親の葬儀をできなかったが、その墓に広潤な土地を選んで将来(そこに人が集い、街となり)墓守を置けるようにした。韓信は無位無官の民であった頃から一般人と志が異なっていた。実際に韓信の母の墓を訪ねると、本当にその通りであった。もし韓信が道を学んで謙譲であり、自分の功績を誇らず、能力をほこらなかったならば、漢の王室に対する韓信の勲功は、周公・召公・太公望が周王朝に対して成し遂げた勲功と比較されるほどのもので、子々孫々にわたって讃えられたのは間違いない。韓信は無難な道に務めずに、天下が既に定まってから反逆を企んでしまったのだから、一族が絶滅させられてしまったのも仕方ないことであろう」と評している。[6]

韓信を題材とした作品
韓信の生涯を扱ったものとして、中国のテレビドラマ『項羽と劉邦・背水の陣』(原題:淮陰侯韓信、1991年、演:チャン・フォンイー)がある。また、中国映画『項羽と劉邦 鴻門の会』(原題:王的盛宴、2012年、演:チャン・チェン)でもメインキャラクターの1人として登場する。

その他
台湾では韓信が麻雀とサイコロの発明者であるという俗説があるため、韓信を「賭博の神」・「財神」として崇めることもある[7][8]。
前述の通り、韓信の三族は処刑されているが、明代の来元成が記した「樵書」によると、韓信の3歳の息子が蕭何に匿われて、韋と姓を改め、南越の趙佗のもとに逃亡したとの話がある。広西韋氏は、韓信の子孫を自称している。
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29:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/11 (Wed) 10:31:25

コーカソイドが作った黄河文明は長所は一つも無いが戦争だけは強かった
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コーカソイドだった黄河文明人が他民族の女をレイプしまくって生まれた子供の子孫が漢民族
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14008392

コーカソイドは人格障害者集団 中川隆
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/380.html

白人はなぜ白人か _ 白人が人間性を失っていった過程
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/390.html

異教徒は「人間」ではないので殺してもいい
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/798.html

項羽と劉邦の国「楚」、楚は長江の国では無かったことが明らかに!?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14078641

中国の鉄器時代
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14078637

中国の酒の歴史
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▲△▽▼


I think; therefore I am! 漢文
http://www.maroon.dti.ne.jp/ittia/#ChineseSentences

I think; therefore I am! 諸文章
http://www.maroon.dti.ne.jp/ittia/#SomeSentences

史記/戦国策 漢文
http://www.maroon.dti.ne.jp/ittia/ShikiPP/ShikiPP.html



儒教
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/440.html

道教
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/455.html

後漢はシルクロード交易で黄金を枯渇するほど流出させてしまい衰退した
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皇帝たちの中国 第2章 第1回「漢民族が10分の1に激減し遊牧民がやってきた」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】
2018/07/10
https://www.youtube.com/watch?v=1G9aXDTGR3A

皇帝たちの中国 第2章 第2回「北魏は漢人の国ではない」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】
2018/07/17
https://www.youtube.com/watch?v=YlqD7EV_mUQ

誰も知らなかった皇帝たちの中国 (WAC BUNKO)
岡田 英弘 : http://amzn.asia/bJO9Lhv

宮脇淳子 皇帝たちの中国史 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%B7%B3%E5%AD%90+%E7%9A%87%E5%B8%9D%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8F%B2

宮脇淳子 中国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%B7%B3%E5%AD%90+%E4%B8%AD%E5%9B%BD

宮脇淳子 皇帝たちの中国 
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/139.html

これを聞けば中国がよく分かります _ 宮脇淳子 「真実の中国史」講義 
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/170.html  

岡本隆司『悪党たちの中華帝国』
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柿沼陽平『古代中国の24時間 秦漢時代の衣食住から性愛まで』
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性生活に没頭しすぎたあまり寿命まで縮めてしまう「中国皇帝たちの淫らな性生活」
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テレビドラマ 始皇帝烈伝 ファーストエンペラー (2007年 中華人民共和国)
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テレビドラマ 項羽と劉邦 King's War (2012年 中華人民共和国)
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テレビドラマ 三国志 Three Kingdoms (2010年 中華人民共和国)
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曹植『洛神の賦』
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陳好(チェン・ハオ)_ 中国の絶世の美女というのはこの程度
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中国後漢末期の伝説の天才医学者 華佗
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30:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/12 (Thu) 21:14:02

范増
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%83%E5%A2%97

范 増(はん ぞう、拼音: Fàn Zēng、紀元前277年 - 紀元前204年)は、秦末期の楚の参謀。居巣(現在の安徽省合肥市巣湖市)の人。『史記』によると項羽からは亜父(あふ、あほ[1]、父に亜ぐの意)と呼ばれ敬愛されたが、劉邦側からの権謀術数により、最終的には項羽から離れて死んだ[2][3]。

略歴
誰にも仕えずに暮らしていた[4]。また、奇策を立てることを好んだ[5]。 二世元年(紀元前209年)、陳勝・呉広の乱がおき、項梁が会稽で挙兵していた。

二世二年(紀元前208年)、陳勝は秦との戦いで戦死する。項梁は陳勝の行方不明後に楚王を名乗った景駒と景駒を擁立した秦嘉を「無道である」として、彭城に侵攻して打ち破る。秦嘉は戦死し、景駒は逃亡した。

同年4月、項梁は秦との戦闘を行い、途上で陳勝の死を聞いて、薛に諸将を集めて今後の事を図った。

范増は、既に70歳になっていたが、彼の元を訪れて「陳勝の敗北は当然のことです。秦が六国(魏・趙・韓・斉・楚・燕)を滅ぼした時、楚は最も罪が無かったのに、懐王は秦に入ったら帰してもらうことはありませんでした。楚の人は今でもこのことを憐れんでいます。だから、楚の南公[6][7] も『例え楚が三戸になろうとも、秦を滅ぼすのは必ず楚であろう』と言ったのです。陳勝は初めに決起しましたが、楚王の子孫を立てずに、自ら王となったため、勢いは長続きしませんでした。あなた(項梁)は江東で決起しています。楚で蜂起した将たちが争ってあなたに就くのは、あなたの家柄が代々の楚の将軍であるから、楚王の子孫を王に立てるであろうと考えているからです」と進言する。

項梁はこれを採用して羋心(後の義帝)を探し出し、同年6月、祖父と同じ懐王を名乗らせて擁立した。

同年9月、項梁が秦の章邯軍によって戦死する。懐王羋心は彭城に都を移した。

同年後9月[8]、懐王羋心は、宋義を上将軍とし、項羽を次将とし、范増を末将に任じられ、秦に攻められている趙の救援に向かう楚軍を率いた。その他の諸将は宋義に属した。

また、沛公劉邦は別働隊を率いて関中入りを目指した。この時、懐王より「最初に関中に入った者を関中王とする」との約束が交わされた。

二世三年(紀元前207年)11月、項羽は途中で宋義と対立し、これを斬って軍の指揮権を掌握し、章邯軍を打ち破って関中へ向かう。

漢元年(紀元前206年)10月、咸陽にいた秦王子嬰は、関中にまで進軍していた劉邦に降伏していた。

同年12月、劉邦は函谷関を封じて項羽に抵抗し、項羽は函谷関を打ち破り、関中に侵入した。また、劉邦の左司馬である曹無傷から、「劉邦が関中王になろうとしている」と注進が行われていた。項羽は、新豊の鴻門に軍を置き、劉邦と戦闘を行うことを決意した。

この時、劉邦が咸陽で略奪などを行わなかったことが喧伝されており、このとき范増は、「沛公(劉邦)が山東にいる時は、財貨と美女を好んでいました。ところが関中に入ったら、財を奪うことも女性を寵愛することもしなかったのです。これは劉邦の志が小さいものでない証です。私が(気を占うことできる)人に劉邦の気を見せたところ、その気は龍や虎となり五色のあやとなっています。これは天子の気です。すぐに攻撃すべきです。機会を逃してはいけません」、劉邦を殺すよう項羽に進言した。項羽も最初は激怒して劉邦を殺そうとしていたが、叔父の項伯のとりなしにより、劉邦と面談することにした。有名な「鴻門の会」である。

この会の途中で、范増は幾度も項羽らに劉邦暗殺を行うように示唆したが、項羽が決断できず、項荘を使って劉邦の暗殺を図る。しかし、張良や項伯や樊噲などに妨げられ、結局劉邦を生きて帰らせてしまう。会の後で、范増は暗殺すべき劉邦をむざむざ生かした項羽の判断を悔しがり「豎子、ともに謀るに足らず!」(小僧とは一緒に謀を行うことができない!)と叫び、劉邦から贈られた玉斗を地面に置いて、剣を抜いて突き壊してしまった(豎子とは項羽を指す)。

同年1月、項羽が秦を滅亡させて諸将を封建する際には、「劉邦は危険だ」と考えて、秦では流された人が住む地であり、道が険しい巴・蜀の地へ追いやった(これが左遷の故事となる)。しかし、劉邦は、配下の張良から項伯に手厚い贈り物を渡し、漢中をもらえるように(項羽に進言することを)要請する。項羽はこれを許したため、劉邦は漢中の地を手に入れてしまう[9]。

同年8月、劉邦は韓信を得ると関中へ攻め入って章邯らを滅ぼし、楚漢戦争が激化。范増も項羽を支え続けた。

漢三年(紀元前204年)[10]、項羽は滎陽と敖倉をつなぐ甬道を攻撃し、漢軍は兵糧が乏しくなって講和を項羽に求めてきた。項羽は同意しようとしたが、范増は「漢を相手どるのに全く容易い状況です。今、許して滅ぼさねば、後で必ず後悔しましょう」と進言する。項羽は同意して、范増とともに劉邦の籠る滎陽を囲み、滎陽の包囲戦(滎陽の戦い)を行う。

劉邦の配下の陳平は、「楚を乱せる可能性はあります。項羽の硬骨の臣は、亜父(范増)・鍾離眜・龍且・周殷といった数人に過ぎません。大王(劉邦)が数万斤の金をだしてくだされば、反間の計を行い、項羽の君臣の間に疑心を起こさせましょう。項王(項羽)の人柄は疑い深く、讒言を信じるでしょう。必ず内部で責めあうでしょう。その時、漢軍が兵をあげて楚軍を攻めれば、必ず勝てるでしょう」と進言する。劉邦は陳平の進言を受け入れ、4万斤の金を与えて離間計に仕掛けた[11]。陳平は、間者を楚軍に放ち、「鍾離眜たち諸将は項王の将となって功績が多いのに、土地を与えられて王になることはできないだろう。だから漢に与して項氏を滅して王となろうとしているのだ」と流言を起こさせた。項羽は鍾離眜らを疑いだした[12]。

項羽の疑いが深まるところに、項羽の使者が滎陽を訪れた時、豪華な食事が出されたが、劉邦はいつわって驚いてみせ「私は亜父(范増)の使者だと思ったのに、項王(項羽)の使者だったのか」と語り、食事を持ち去り、使者に粗末な食事を食べさせた。使者はこのことを項羽に報告すると、項羽は范増が漢と内通していることを疑った。

范増は、滎陽を急激に攻めて陥落させようとして、項羽に進言するが、項羽は同意しなかった[12]。項羽は次第に范増の権限を奪っていった。范増は項羽に疑われていることを聞いて怒って言った。「天下の事は大いに定まりました。君王みずからおやりになればいいでしょう!骸骨を賜りたい(「辞職することを許して欲しい」の意味)。私は無官へと還ります!」。項羽は范増の辞職を許諾した。

范増は彭城へと向かったが、その途中で背中に膿が溜まる病気にかかり死んでしまった。裴駰の『史記集解』の引用する『皇覧』によると、「范増の墓は、(『皇覧』が書かれた当時の)廬江郡巣県の城郭の東にある。居巣(范増の故郷)の県の役所には范増の井戸があり、官吏も民も居巣の役所において范増を祭る。県の長官がはじめて政務にあたる時は、皆、范増を祭った後に政務にあたった。後にさらに城郭の東に祠が造られ、今に至るまで祀(まつ)られている」と記されている[13]。

死後と評価
范増の死後に項羽は滎陽を攻めて落としたものの、劉邦には逃げられてしまう。

最終的に項羽は、范増の死から2年後の漢5年(紀元前202年)に垓下の戦いで大敗して、烏江で自害することになった。

范増は、項羽に亜父と呼ばれ敬愛されたが、最後は離れることになる。范増の進言を聞かなかった項羽は劉邦によって身を滅ぼすこととなり、范増の危惧は的中した。

劉邦は皇帝就任時、「自分は張良・蕭何・韓信を使いこなせたが、項羽は范増ひとりすら上手く使いこなせなかった。これが項羽の滅亡した原因である」と語った。

この一方で、佐竹靖彦は、著書『項羽』において、「たしかに、かれ(范増)は硬骨漢であり、信頼に値する人間であった。肉親さえ信じられない楚の陣営のなかで、かれは項羽が心から信頼することのできる人物として、重要な役割を果たしていた。しかし、かれに本当に軍師としての才能があったか否かはかならずしも明らかではない。『史記』のなかで、あるいは『史記』がもとづいた『楚漢春秋』のなかで、范増はつねに第一級の軍師としてあつかわれているが、実際に史料について見ると、今回の事件(滎陽の戦いにおける范増の辞任に至る事件)を除けば、かれが重要な建言をしたのは項梁に対して楚の懐王を擁立するように勧めたことだけである。(中略)この件を除くと、范増はつねに「劉邦はやがて天子になることが定められている人間であるから、いまやっつけなければ、あとで後悔することになります」という言葉を繰り返すだけの木偶の坊として描かれている。すなわち『史記』あるいは『楚漢春秋』のなかでは、かれはたんに劉邦王朝の出現が天命による必然であるとする預言者としてあつかわれているのである」と評している[14]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%83%E5%A2%97
31:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/14 (Sat) 07:52:16

あげkkk
32:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/16 (Mon) 12:47:52

項羽と劉邦 King's War~薄姫
https://ameblo.jp/awushu/entry-11926884836.html

今更なのですが、今日はBSフジでやっている中国ドラマ
「項羽と劉邦 King's War」について書いてみようと思います。

http://www.bsfuji.tv/kingswar/

さて、今日は魏豹の婦人
「薄姫」です。


あんまり美人じゃないですね。
でもこの人、美人であってはいけないのかもしれません。
最初、こんな人まで出るのか、なんて思いましたが、実はこの人、重要なキャスティングボードを握っていたんですね。
もっとも、薄姫が重要になるのは、劉邦が死んでずっと後の話ですが。

ドラマでは庶民の出、と言っていましたが、史実では母親が魏王室の血胤だったと思います。
「薄姫」の「姫」は「ひめ」という意味ではなく、「姫姓(魏王室の姓は姫)」という意味なのです。
たぶん。

それはそうと。
ドラマでは魏王・魏豹の夫人として登場します。
史実では劉邦が旗揚げした当時の魏王は魏咎なのですが、ドラマではわかりやすく魏豹が最初から魏王です。
魏豹は「酒と女に溺れる人物」「役立たずの魏豹」などと酷評されるとおり、すがすがしいほどの無能っぷりを見せつけてくれます。
そのくせ中途半端に野心があって、それに見合った才覚もなく臣下にも恵まれず、身の程をわきまえない魏豹に、薄姫はたびたび助言を与えます。

魏豹も薄姫の機嫌を損なわないよう、薄姫の言うことをよく聞き、何かあれば薄姫に意見を求めます。
そのため「魏豹は婦人の言いなり」と陰口を叩かれていますが、薄姫の知恵はあくまで「生き延びたければこういうことをしてはだめ」といった、処世術です。

魏が漢に攻め滅ぼされたあと、魏豹の見苦しい態度に愛想をつかせた薄姫は劉邦の後宮に入ります。

さて、ここからは史実でのお話。

この人劉邦から寵愛を受けることはなく、甲斐甲斐しく働く姿を憐れんだ劉邦から一度だけ寝所に召され、その後もほとんど顧みられることはありませんでしたが、そのわずか一回で妊娠し、男子を産みます。
この人、美人であってはいけないのかもしれません。

のち、劉邦の世継ぎを巡る争いが起き、呂雉によって戚夫人や諸公子が迫害を受けた際も、目立たなかった薄姫親子はその迫害の対象とはなりませんでした。
この人、美人であってはいけないのかもしれません。
そして呂雉の死後、旧臣たちによって呂一族が誅殺された後、呂雉による迫害を免れた薄姫の子・恒が三代目皇帝に立てられ、薄姫は皇太后として迎えられます。
この劉恒こそが、漢王朝に安定をもたらした名君・文帝です。
はるかのち、後漢の光武帝は呂雉から高祖皇后の称号を剥奪し、薄姫を皇后とします。
歴史上、薄姫は「薄皇后」と呼ばれることとなります。

劉邦の後継者を巡る女の争いの最終勝者は、呂雉でも戚夫人でもなく、この薄姫だったのです。

戚夫人が我が子を太子に、と猛烈にアピールして呂雉と争い、敗れて悲惨な最期を迎えたのに対し、薄姫は争わずにいたからこそ生き残り、生き残ったからこそ勝者となったのです。


なにはともあれ。

「三国志 Three Kingdoms」を楽しめた方には「項羽と劉邦 King's War」も楽しめるのではないか、と思います。

物語はすでに佳境に入ってしまっていますが、興味のある方は今からでもいかがでしょうか?
https://ameblo.jp/awushu/entry-11926884836.html


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薄姫
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%84%E5%A7%AB

薄姫(はくき、? - 景帝前2年4月25日(前155年6月9日))は、中国の秦末から前漢前期にかけての人物。高祖劉邦の側室で、文帝の生母である。薄は姓で、諱は伝わっておらず、単に薄氏あるいは薄太后(はくたいごう)と呼ばれることが多い。会稽郡呉県の人[1]。

生涯
薄氏の母の魏氏は、魏の王族の生まれだったが、魏の滅亡後に呉県出身の薄某(名は不詳)と関係を持ち、娘の薄氏が生まれた。父の薄氏は山陰で死亡したと伝えられ、文帝が即位した後は霊文侯に追封された[2]。

成人後、西魏王魏豹の後宮に側室として迎えられるが、この時彼女の人相を占った許負は彼女を見て「あなた様は天子をお生みなさるでしょう」と言ったと伝わる。

項羽方に寝返った魏豹が劉邦に敗れて捕らえられると、薄氏は劉邦の後宮に側室として迎えられることとなった。薄氏は同僚となった側室の女官たちに「誰が寵愛を受けることになってもお互いを忘れずにいましょう」と言い合っていたが、自身が劉邦から寵愛されることはなく、もっぱら機織などの雑用に従事し、周囲の笑い者となった。それを知った劉邦は不憫に思い、彼女を自身の寝所に召し入れた。そののち薄氏は妊娠し、高祖4年(前203年)に劉恒(後の文帝)を産むが、以後も薄氏が劉邦の寵愛を得ることは少なかった。

劉恒が代王に封じられると、自身も代王太后として、弟の薄昭・代国の丞相として高祖から附けられた傅寛らとともに任国に赴いた。そのため、高祖の没後に実権を握った呂后による、高祖の側室や彼女らの産んだ皇子たちへの迫害にも巻き込れずに済んだ。

高后8年(前180年)、呂氏一族が陳平・周勃・劉章らのクーデターにより皆殺しにされ(呂氏の乱)、代王劉恒が皇帝に迎えられると、薄氏も皇太后として長安に迎えられる。

文帝4年(前176年)、地方へ赴任させられた周勃に謀反の兆しがあるとの伝えが届き、文帝は周勃を牢に入れた。その話を聞いた薄太后は文帝を呼びつけ、文帝に対して頭巾を投げつけ「周勃将軍は呂氏を打倒する際に皇帝の璽を預かり、北軍を統率していながら反乱しなかったのに、どうして小県にいるだけの今になって謀反を起こしましょうか?」と叱りつけた。その後、周勃は牢から出され、復職した。また文帝13年(前167年)、文帝自ら指揮して匈奴を討つと言いだし、家臣が諫めても聞かなかったが、薄太后が諫めると撤回している。文帝自ら薄太后の毒味役を務めたとも伝えられ、類を見ない親孝行の皇帝であると、『二十四孝』に記されることとなった。

皇太后となって以後も薄氏は、呂后のように権力をみだりに振るうことなく、周囲の尊敬を一身に集めた。薄昭が勅使を殺害した責任を問われ自殺させられたことと、文帝に先立たれたことを除けば平穏無事に過ごし、景帝前2年(前155年)4月に生涯を閉じた。

後漢が成立した後、光武帝は呂后から皇后の位と高皇后の諡号を剥奪し、自身の直接の先祖でもある薄氏に高皇后の諡号を追贈した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%84%E5%A7%AB


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中国列女伝 薄姫(1)
http://erikaishikoro.blog.fc2.com/blog-entry-824.html#end

薄姫(はくき)は暗い生い立ちと、苦難に満ちた人生を送ったが、
明るさを失うことなく謙虚に懸命に生き、名君、文帝を生んだ。


 魏王本家に生まれる

魏という国は、戦国期に中原を支配した国である。
王族の姓は姫(き)、後に国名に従って魏と改めた。
しかし戦国末になると西で国境を接する秦が肥大化し、北は趙、東は斉、南は韓と楚に接し、韓と並んで最も防御しにくい国となってしまった。

秦は度々魏に侵攻し、紀元前293年には魏兵24万人を殺し、紀元前274、273年には魏兵19万人が殺された。
王族の信陵君魏無忌(ぎ・ぶき)が必死に魏を支えたが、彼の死の十数年後の紀元前225年に魏は滅ぼされた。

秦は魏王の一族を庶民に落とした。このとき庶民に落とされた魏の本家には、甯陵君魏咎(ぎきゅう)・その弟魏豹(ぎほう)、そして薄姫の母がいた。

まだ秦の始皇帝が健在の頃、呉から来た旅人が魏家に泊まった。旅人の姓は薄であった。
薄という姓は『史記』『漢書』『三国志』ともに殆んど登場せず、庶民だった可能性が高い。

この薄という男は魏家の娘に勝手に手を出し、妊娠させてしまった。
もっとも、娘が妊娠したと気付いた時にはもう薄という男は故郷に帰ってしまっていた。
しばらくして薄は会稽で死に、会稽山の北に葬られた。

一方、薄の子を身篭ってしまった魏家の娘は子どもをおろすわけにもいかず、実家で赤子を生んだ。

これが薄姫である。


 大いなる苦難

秦の始皇帝と二世胡亥は人民を搾取し、労役に駆り立てた。
人々は疲れ果て、各地で大規模な反乱が起きた。
最大規模だったのが陳渉の反乱だった。

魏家の長、元の甯陵侯魏咎は陳渉の下に馳せ参じ、魏咎は魏王に任命された。
しかし、章邯率いる秦軍が魏咎の籠る臨済(りんさい:後の陳留)を包囲すると、魏咎は人民の為に降伏条件を取りまとめさせ、条約が決まると自決した。

このとき弟の魏豹・薄姫の母は城外へ逃れた。魏豹は項羽の傘下に入り、数千の兵を与えられた。
魏豹はよくやった。魏の二十余城を降し、魏王に立てられた。
項羽が覇王となり諸侯に行賞した際、魏豹は西魏王に封じた。

しかし漢王に封ぜられた劉邦が反旗を翻し三秦を攻め落とすと、魏豹は国を挙げて漢に帰順した。
劉邦と共に項羽留守中の彭城を攻めたが、超人的武勇の項羽が救援に駆けつけ漢連合軍は大敗北を喫し、陽まで退却した。
このとき、魏豹は親を看護するとの名目で帰国を申請し、本国に帰るとすぐさま黄河の渡しを破壊し漢に叛き項羽と通じた。

魏豹が栄達したのを見、薄姫の母は娘を魏豹の後宮に入れようと考え、許負という占いの名手に娘の人相を診てもらった。
許負は、「この娘は天子を生むに違いありません。」と占い、薄姫の母は大いに喜び、娘を無理矢理後宮へ送り込んだ。

魏豹は占いの噂を聞き、薄姫を寵愛した。
しかし、この寵愛は長くは続かなかった。
魏王魏豹は韓信・曹参らに惨敗し、逮捕されてしまったのである。
魏咎の後宮にいた女性もみな逮捕された。
薄姫は奴隷の身分に落とされ、

漢宮中の機織り(はたおり)部屋に入れられて強制労働させられる羽目に陥ってしまった。
暗い出生を背負い、母には後宮に無理矢理入れられ、挙句の果てには奴隷に・・・。
「いったい、私の人生って何なのだろう・・・」

薄姫は自分の運命の悲しさに、機織り部屋で幾晩も幾晩も泣いたであろう。
そして、薄姫の苦難は十ヶ月目を迎えた・・・


 劉邦の後宮へ

薄姫が奴隷となり機織り部屋にぶち込まれてから十ヶ月が過ぎようとしていた。
その間、魏豹は殺され、薄姫の母も病死した。
薄姫は身寄りも無くなってしまった・・・。

ある日、魏咎の後宮にいた女性が機織り部屋で奴隷になっている、という噂を聞きつけた劉邦がひょっこり機織り部屋にやってきた。

劉邦は、接した女性の数は数え切れないほどの女好きであったため、薄姫を一目見て「奴隷の身分から解放しわしの後宮に入れよ。」と命じた。
薄姫は遂に苦難の日々に別れを告げ、晴れて自由の身となり劉邦の後宮に入った。

しかし、劉邦はすっかりこのことを忘れてしまい、その日の夜は違う女性を侍らせた。その日だけではない。
劉邦はスッカリ薄姫のことを忘れ、一年以上放っておかれたのである。

一方、薄姫はそれなりに幸せな日々を送っていた。
漢王劉邦の後宮には、薄姫の幼馴染の管夫人と趙子児がいたからである。
三人はよく昔話で盛り上がった。

趙子児 「そういえば私たち、誰かが先に出世してもお互い忘れずに仲良くしましょうね、って約束しあったわね。」
薄姫 「そうそう、そんな約束したわねぇ。ふふ。あなた達二人は先に漢王さまの後宮に入って美人(女官の位)になったけど、約束通りまためぐり会えて仲良くなれてよかったわ。」

こうして薄姫は楽しい日々を過した。
奴隷の頃とは雲泥の差であったことは言うまでも無い。
しかし、劉邦は薄姫の部屋を訪れることはなかった。
忘れていたのである。

ある日、管夫人と趙子児が二人で薄姫と昔かわした約束について談笑していた。

趙子児 「薄姫っていまいちパッとしないわねぇ。一度も漢王さまが来ていないというし・・・。」
管夫人 「そうねぇ。カワイイんだけど、顔が漢王さまの好みじゃないのよね。それにしても、出世したのは私たちで、薄姫は全然駄目ね。昔の約束は私たちのためにあったのかしら。」
趙子児 「そうねぇ。あははは。でもあんまり言うと薄姫が可哀想よ。」

このとき、劉邦が偶然二人のそばを通りかかり、この話しを立ち聞きしていた。
劉邦は薄姫に興味を示し、二人に薄姫のことを詳しく聞いた。
劉邦は、薄姫の生い立ちや母に酷い仕打をされたことや奴隷になったことを聞き、心中痛ましく感じ薄姫を可哀想に思った。

そこで劉邦は、その日の夜は薄姫を召し出して寝所に侍らそうと思った。
こうして、遂に薄姫は劉邦の寵愛を受けることとなったが・・・
http://erikaishikoro.blog.fc2.com/blog-entry-824.html#end




中国列女伝 薄姫(2)
http://erikaishikoro.blog.fc2.com/blog-entry-825.html

薄姫(はくき)は暗い生い立ちと、苦難に満ちた人生を送ったが、
明るさを失うことなく謙虚に懸命に生き、名君、文帝を生んだ。

 劉邦の子を生む

薄姫は不思議な夢を見た。
寝ている自分のオナカの上に青い竜が乗っている夢を見たのである。
不思議だなぁと思っていると、夜半に突然劉邦から呼び出された。

宦官に先導され劉邦の寝室へ行くと、劉邦がだらしない格好で寝そべっていた。
劉邦 「おっ、お前が薄姫か。なかなかカワイイじゃないか。まあ、こっちへ来い。」
薄姫 「・・・・・・・・・。(恐る恐る近づく)」
劉邦 「趙子児と管夫人からお前のことを聞いたぞ。いままでたいそう苦労してきたらしいな。でもこれからはわしの後宮で楽をするといい。」

薄姫 「・・・実は・・・その・・・・・・。」
劉邦 「ん?何だ?どんなことでも話してよいぞ。」
薄姫 「実は、わたくし昨日不思議な夢を見ましたの。」
劉邦 「ほほー。どんな夢だ?」
薄姫 「・・・わたくしのおなかの上に青い竜が乗った夢を見たのです。」


劉邦 「はっはっは!!!そうかそうか。それはな、お前が出世して尊くなるしるしだ。今からわしがお前の為にその夢のしるしをあげよう。ははは。」

こうして薄姫は劉邦に幸された。
そして、たった一度だけの寵愛で身篭った。
薄姫は男の子を出産し、恆(こう)と名付けられた。
薄姫は劉邦の子を出産したあと、劉邦に幸されることは稀であった。

劉邦は幼い我が子に会いに来るものの、薄姫の部屋で寝泊りすることはなく、恆と遊ぶと帰っていった。

実はこの頃、劉邦は戚姫という美貌の女性にゾッコンで、薄姫などは眼中に無かったのだ。
しかし薄姫は気にする様子も無く、幸せに暮らしていた。
子を授かった喜びでいっぱいだったのである。

薄姫にしてみれば、以前の人生と比べると今はまるで天国のようであったろう。
子を授かり、劉邦からは莫大な下賜品があり、周りの人に祝福された。
しかし辛苦を舐めてきた薄姫は、
「つけあがってはいけない。調子に乗ってはいけない。」と懸命に自分を諌めていただろう。
苦労人は大抵、とんでもなくヒネクレ曲がるか、謙虚になるか、どちらかである。
どうやら薄姫は後者のようである。

そして薄姫は辛い時に人から優しくされたことを思い出し、すべての人に優しく接した。
こうして薄姫はすべての人から愛され、幼い劉恆も共に愛された。
この薄姫の人柄が、自身と子の劉恆を救うことになる。


 母性は偉大なり

劉邦が項羽を倒し天下を平定すると、功臣粛清が始まった。
代王の韓王信が殺されたとき、劉邦は群臣に誰を代王にするか質問した。
相国蕭何や燕王盧綰は薄姫の息子の劉恆を推した。

「皇子の恆どのは賢明で温厚です。どうか代王に立ててくださいますように。」
こうして薄姫の息子は代王となった。
しかし、薄姫自身は劉邦の後宮に残った。

この時代、後宮の女性は天子の私有物扱いをされており、後宮の女性は勝手に後宮から出ることはできなかったからである。


劉邦の妻たち


その後数年して高祖劉邦が死んだ。紀元前195年であった。
主人が死ぬと女性達は後宮から出ることができたが、劉邦の正妻呂后は嫉妬深く残忍な性格だった為、劉邦に寵愛された後宮の女性をことごとく拘束して幽閉した。

劉邦の寵愛を一身に受けた戚姫にいたっては、手足は断ち切られ、眼球はくり抜かれ耳も潰され、喉は薬で焼かれ喋れないようにされた。
そして挙句の果てにはその死体は便所に放り込まれた。
恵帝はこれを見て病気になり死んだという。

しかし薄姫だけは後宮から出ることを許された。

劉邦の子を持ったのに呂后にまったく嫉妬されなかったのは、薄姫が後宮の主である呂后に謙虚に仕えていたからである。
(殆んど劉邦に接しなかったということもあるが・・・。)

めちゃめちゃな殺され方をした戚姫は、劉邦の寵愛をかさに着て、呂后の一人息子を廃して自分の子を後継ぎにして欲しいと劉邦にお願いしたりしていた。
要するに、呂后と権勢を争ってしまったのである。
戚姫は呂后の人間性を見抜けなかったと言えるだろう。

こうして薄姫は息子の劉恆と共に代へと向かうことができた。
これも薄姫の温厚な性格のお蔭であった。

劉恆が代王になって17年経ったとき、呂后がなくなり呂一族は誅殺された。
大臣の陳平・周勃らは後継者を誰にしようか考えていたが、外戚の専横を恐れて決めかねていた。
が、劉氏の長老株であった琅邪王の劉沢らが、
「代王の劉恆は性格が温厚な上に、母の薄姫も仁愛善良であり、呂氏のような外戚の専横を恐れることはないであろう。」
と主張したため、代から劉恆を迎えて天子の位についてもらうことにした。

こうして劉恆は皇帝になり、薄姫は皇太后となった。

一度は奴隷となりどん底を見た女性が、国母にまでのぼりつめたのである。
これも、すべて薄姫の性格のおかげである。
そして、薄姫の息子に対する教育が間違っていなかったからこそ、劉恆は温厚賢明に成長し、讃えられたのである。

「母性は偉大なり」


 別れ

薄姫は皇太后となると、早くに亡くなった父を追尊して霊文侯とし、父の墓のある会稽郡に墓守のための部落300戸を置いた。
母は櫟陽(れきよう:長安の北)に葬られていたが、父と同じく墓守のための部落300戸を置き、法律どおり祭祀を行った。

また薄姫は、「自分が高位にのぼったのは母方が戦国魏の王族であったからだ。」と思い、また、「父を失った私を育ててくれた魏一族に報いたい。」とも思い、残っていた魏氏を召し出して労役免除の恩典を与え、親疎の差によって恩賞を授けた。

父方の薄一族にはこのような恩典があたえられなかったようだが、薄姫の弟、薄昭を侯に任命した。
この弟は異母弟なのかどうか・・・よくわからない。
が、血縁者が少ない薄姫にとってはかけがえの無い肉親であったことには違いないだろう。

こうやって見てみるとわかるが、薄姫の親族で政治的実権を持った人がいない。
自分の一族に恩賞を与えたり、両親を祀ったりはしているものの、権力の中枢に近づける人は母方の魏家・父方の薄家ともに一人もいないのである。

薄姫は前代の呂一族の悲惨な末路を見て、「外戚に実権を持たせると、つけあがり天下を混乱に陥れる。」と、肌で感じていたのだろう。

前漢・後漢を通じて、賢夫人としてまず名前が挙がるのは、後漢光武帝の陰皇后、明帝の馬皇后であろう。
だが、薄姫も賢夫人として負けてはいない。
薄姫自身が権力を振るうことは一度もなく、息子の文帝の相談役に終始した。

ただ、息子の身に関わることだけには口出しした。
例えば、誰を皇后とするか決めるときがそうだった。
薄姫は、「皇太子の母を皇后に立てるのがよいでしょう。」と息子に薦め、その意見が採用された。

また、文帝自身が総大将となり匈奴を討つと言い張って群臣を困らせたとき、薄姫が止めに入って息子を説得し、やっと親征は中止された。
ただそれだけであった。

薄姫と劉恆がまだ代にいた頃、薄姫が病になり三年間臥せっていたことがあった。
劉恆は母の側に寝起きし、垢だらけになっても風呂にはいろうともしなかった。
そんな親孝行な文帝劉恆は母薄姫を置き去りにして紀元前157年に死んだ。
老いた薄姫の心は、息子との永遠の離れの悲しみで満たされただろう。

そしてその二年後、
別れと出会いを繰り返し、人一倍悲しみと喜びを味わった薄姫もこの世を去った。
薄姫の墓は文帝の陵の側に造られた。
http://erikaishikoro.blog.fc2.com/blog-entry-825.html

33:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/17 (Tue) 21:36:13

陳平
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%B9%B3

陳 平(ちん ぺい、拼音: Chén Píng、? - 紀元前178年)は、中国秦末から前漢初期にかけての政治家・軍師。

当初は魏咎・項羽などに仕官するものの長続きせず、最終的には劉邦に仕え、項羽との戦い(楚漢戦争)の中で危機に陥る劉邦を、さまざまな献策で救った。その後、劉邦の遺言により丞相となり、呂后亡き後の呂氏一族を滅ぼして劉氏の政権を守るという功績を立てた。

生涯
『史記』では世家、『漢書』では伝が立てられている。

陽武戸牖郷(こゆうきょう、現在の河南省開封市蘭考県)の人。生まれつき背が高く、美しい容姿をしていた。若いときは兄の陳伯(諱不明・陳家の長男の意味)の元で勉学に励んでいた。陳伯は裕福ではなかったが積極的に陳平を支援し、滅多に作業を手伝わせる事は無かった。ある日、勉学ばかりに精を出し家業を手伝わない陳平に対して兄嫁が文句を言うと、陳伯は怒ってこの嫁を離縁したという。

成人した陳平は葬儀等を勤勉に手伝い、やがて地元の有力者の未亡人である張氏[1] の目にとまる。張氏には5回も夫と死に別れている孫娘がおり、新たな嫁ぎ先を探していたが気味悪がられ手を上げる者が居なかった。陳平はこの娘を娶ろうと考え、貧しい家で暮らしながらも門外に貴族が乗る馬車の轍を多く付けて広く人物と交わりがあるように装った。これらを看視していた張氏は陳平の志の高さを見込んで、息子の張仲を説得して、数日後に孫娘を陳平に嫁がせた。結婚後に金回りが良くなるとそれを元に交際を広め、社の祭りで宰領役になった際には祭肉を迅速・公平に分配し名声を高めたが陳平は「こんな物ではなく天下を与えられれば、たちどころに裁いてみせるのだが」と言って嘆息したという。

陳勝・呉広の乱が勃発すると、若者らを引き連れ魏王になっていた魏咎に仕えるようになるが、進言を聞いてもらえず、周りの讒言により逃亡する。次に項羽に仕えて、謀反を起こした殷王・司馬卬を降伏させた功績で都尉となったが[2]、司馬卬が東進してきた劉邦にあっさり降ったため、怒った項羽は殷を平定した将校を誅殺しようとした。身の危険を感じた陳平は項羽から与えられた金と印綬を返上し、そのまま再び出奔した。

その道中、陳平は河を渡る際に、その立派な容姿を見た船頭から「実は名のあるものに違いない。ならば金や財宝も持っているはずだ」と思われ、船上で襲われそうになった。それに気づいた陳平は、突如裸になり自ら船を漕ぎ始め、無一文であると先に示し襲われることを防いだ。

劉邦の名参謀として
修武にたどり着いた陳平は旧知の魏無知のつてで劉邦に面会する。劉邦もその話し合いで陳平を気に入り、即日項羽時代と同じく都尉に任じ、劉邦の乗る馬車に陪乗させ、軍を監察させた。

この厚遇ぶりに古参の将軍達は不満を抱き非難したが、劉邦は受け付けなかった。しかし彭城の戦いで劉邦軍の規律が緩んでいたため大敗。その後、周勃や灌嬰らから「陳平は魏に仕えて用いられず、魏を去って楚に仕えて用いられず、楚を去って漢に流れ着いた、節度や信義の無い輩です。故郷では兄嫁と密通していて、今は賄賂を取って地位を上下させています」など品行の無さを訴えられる。度々の讒訴に劉邦も陳平を疑い、魏無知に問い質すと「私が推挙したのは陳平の才であり、徳ではありません。今、漢は楚との攻防中という差し迫った状況でありますから、いにしえの有徳の士のような者を得たとしても何にもならないと思い、今すぐ必要な奇謀の士を推挙したのです」と返答された。また陳平からも「魏咎は私の策を用いませんでした。失望した私は楚に行きましたが、項羽は一族などの意見しか聞きませんでした。更に項羽は私を罰しようとしたため、失望した私は漢王様が人をよく用いると聞いて漢に来たのです。しかし裸同然で漢に仕えたため(自分の金が無く、職務を遂行するために)金品を受け取らなければどうにもなりませんでした。私の計略が採用するほどで無ければ、ただちに金品と官位を返上し暇乞いします」と弁明されたため、劉邦は納得して謝罪し、改めて護軍中尉に任じ全軍を監督させた。これ以降、古参の将軍たちは何も言わなくなった。

まもなく劉邦は項羽に追われ、滎陽城に籠城することになった(滎陽の戦い)。不利な状況の中で陳平は、項羽が疑り深い性格であるため部下との離間が容易にできると進言し、劉邦もその実行に4万金もの大金を陳平に与え自由に使わせた。そして「范増・鍾離眜・龍且・周殷といった項羽の重臣たちが、功績を上げても項羽が恩賞を出し渋るため、漢に協力して項羽を滅ぼし王になろうとしている」との噂を流し、項羽はそれを信じて疑うようになった。特に腹心である范増に対しては、楚の使者が漢へ派遣された際に、はじめ范増の使わした使者として豪華な宴席に招き、范増と仲が良いかのように振る舞った。そして使者が項羽の使者であると聞くと、すぐさま粗末な席に変えさせた。このため項羽はさらに諸将を疑うようになって范増は失脚することになり、故郷に帰る途中で憤死した。こうして陳平は、楚最大の知謀の才を戦わずして排除した。

しかし、滎陽の包囲は変わらず、ついには食料が尽きてしまった。ここで陳平は偽物の漢王を城の外へ出し、敵の降伏に楚兵が喜び油断したところを城の反対側から脱出する策(金蝉脱殻の計)を出し、その偽漢王に紀信を、滎陽に残る守りには周苛・樅公を「彼らなら死を厭わないでしょう」と納得させるように、劉邦に進言した。同時に自分がかつて仕えたことがある魏咎の弟(従弟とも)である魏豹を残して、彼の裏切りに備えて周苛たちに邪魔だと思わせ始末させることにした。この策は実行され、見通した通り、紀信は楚を足止めさせ周苛たちは魏豹を殺害して項羽の攻めにもよく持ちこたえた末、ついに落城して3人とも処刑された。引き換えに脱出に成功した劉邦は、関中へ戻って体制を立て直すことができた。

さらに韓信が斉王を名乗ろうと願い出た際には、「今こんなに苦しい時に王になりたいなど、なんと恩知らずだ」と憤る劉邦の足を踏んで「韓信を斉王に認めなければ、独立されて楚と結ばれ、漢の危機となります」と張良とともに劉邦を諭して納得させた。また広武山で項羽と和議を結んだ際には、和議を破って疲弊した項羽軍に攻め込むべきであると張良とともに進言し、最終的な漢の勝利を得ることになった。

高祖5年(紀元前202年)、劉邦が項羽に勝利して前漢が建てられると、陳平は故郷の戸牖郷にある戸牖侯に封じられた。

この際、劉邦は陳平に「そなたの功績は大であるな」といったが、陳平は「私は魏無知がいなかったならば、漢に仕えることができませんでした。また私に猜疑がかけられた時、魏無知が潔白を証明してくれました」と言った。これを聞いた劉邦は「そなたのような者を、元に背かぬ者というのだな」と、魏無知にも恩賞を与えた。

高祖7年(紀元前200年)、劉邦は匈奴討伐に自ら出征するが、冒頓単于の作戦で平城(現在の山西省大同市雲州区)付近の白登山で包囲されて食糧も尽きてしまった。ここで陳平の奇策で何とか和睦をして劉邦は帰る事ができた(白登山の戦い)。固く秘密とされたため、策の内容はわからないが、冒頓単于の閼氏(皇后)に中国の美女が単于の物になるかもしれないと吹き込んで、その嫉妬心につけこんだものと伝わっている。

呂氏との闘い
高祖12年(紀元前195年)、劉邦は燕王盧綰(劉邦の親友)討伐に樊噲を派遣したが、讒言を受けた劉邦は樊噲に謀反の疑いを持ち、捕らえて殺すように陳平に命じる。しかし、樊噲は次期権力者の皇后呂雉(呂后)の妹婿であり後難を恐れたことと、劉邦の一時の気の迷いと考えた陳平は、最終的な判断を劉邦に委ねるため樊噲を捕らえるだけに留めた。その帰途で劉邦の死去を聞くと、急ぎ長安に戻り劉邦の棺の傍らにかけつけ一晩を嘆き過ごし、更に何かと理由を付け棺の側を離れないことで、呂雉の歓心を買うと同時に自分を讒言する者が現れるのを封じた。

恵帝5年(紀元前190年)に曹参が死んだ後で左丞相(副首相格)に任じられて、恵帝7年(紀元前188年)秋8月に恵帝が崩御すると、張辟彊(張良の子)の助言を受けて、呂后を安堵させるためにその甥の呂台・呂産・呂禄らを王に封じさせるように進言した。呂后の専権時代には面従腹背の姿勢を保ち、呂后と対立して失脚した王陵の後を受けて右丞相(正宰相格)となった。しかし呂氏が中央の兵権を完全に握っており、左丞相は呂氏と親しい審食其が就くなど、右丞相には権力がなく、実質的に名のみの役職であった。さらに呂后の妹呂嬃が「右丞相は酒と女に溺れ、仕事を行っていません」と呂后に讒言していると聞いた陳平は、その通り酒と女に溺れ骨抜きになったふりをし、呂后や夫(樊噲)を捕らえられた恨みを持つ呂嬃から警戒心を持たれないようにして粛清の嵐を避け、反攻の機を伏して待った。この様は、呂后が陳平に「貴方を讒言するものも居ますが、私はそれに惑いません。私達はもっと良い仲になれると思っています」と言ったほどであった。

高后8年(紀元前180年)に呂后が死去すると、陳平はこれを機として考えていたが、どうすればよいか悩んでいた。その陳平の屋敷へふらりと陸賈が訪れてきて、悩みを即刻見抜き、助言を授けた。そして陳平はそれに従い、宴会に見せかけ、宮廷内で大尉・周勃を始めとする反呂氏勢力や信頼できる人物を集め、密かに人脈を築き、打ち合わせを重ねていった。諸侯の監視を徹底していた呂氏も、酒好き女好きの右丞相が行う宴会なので、警戒をしなかった。陳平は陸賈にも人脈作りを依頼し、そのために召使い100人、車馬50乗・銭500万を与えた。そして斉王劉襄の蜂起と、その討伐に出した灌嬰の寝返りなどに動揺する宮中において策略を用い、周勃などとともに呂后の甥である呂禄の不安を煽らせるため、呂禄の友人である酈寄の父酈商に迫り、酈寄から「いつまでも中央に居るので、野心があるのではないかと疑われ天下が騒がしくなっています。領地は諸侯も重臣も認めており、帰国すれば疑いも晴れ安泰です」と吹き込ませた。呂禄はそれに従い兵権を返上し、周勃が兵権を取り戻す。そしてその兵と築きあげた人材・情報網で、呂雉の別の甥の呂産の帝位簒奪クーデターを鎮圧。更にこれを口実として呂氏一族を皆殺しにする逆クーデターを実行し、劉邦の子である代王劉恒(文帝)を立てた。

その後まもなく、陳平は文帝に「職を辞させて頂きたい」と申し出た。文帝は「朕に不満があるのか」と聞いたが「いいえ」と答えられ、「ではなぜ職を辞したいのか」と聞いた。陳平は「高祖の頃は私の功績が周勃殿より多かったので、私は丞相となりました。しかし呂氏討伐には周勃殿の方が功績が多うございます」と答え、文帝は「なるほど。だがそなたも欠かさるべきであるので、周勃を右丞相、そなたを左丞相とする。朕を補佐してくれ」と言ったので、これを受け入れて左丞相となった。その後、周勃と文帝に乞われ再び右丞相となった。周勃の辞任後は単独で丞相を勤めたが、文帝前2年(紀元前178年)10月に死去した。献侯と諡された。

なおクーデター鎮圧の際に、兵権は握ったものの兵士が従うか不明だったため、「劉氏に加担するものは左袒(衣の左の肩を脱ぐ)、呂氏に加担するものは右袒(衣の右の肩を脱ぐ)するよう」との触れを出し、兵士は全て左の肩を脱いだことが、義により味方することを意味する「左袒する」の故事成語となった。

評価
劉邦の軍師というと張良をすぐに思い浮かべるが、陳平は張良に比べて謀略に長けていた。そのことから身内にも警戒されることがあり、劉邦は死の直前、「陳平に全てを任せるのは危ない」と述べている。陳平自身も「私は国のために止むを得ない事とはいえ、陰謀が多かった。陰謀は道家の禁じる所であり、死後子孫は絶えるだろうし、爵位を失うことがあれば二度と再興はできないだろう。皆、自分が陰謀を立てた報いである」と予言した。

その予言どおりに陳平の爵位は子の共侯陳買、孫の簡侯陳恢の代は何事もなかったが、曾孫の陳何が姦通の罪を犯したために、陳何は処刑され晒しものとなり、爵位を取り上げられた。陳平の玄孫の陳掌は霍去病の母と密通をし霍去病の義理の父となり、その立場を利用して諸侯としての身分回復を図ったが成功しなかった。

陳平は政治にも優れていた。呂氏粛清後に周勃と共に丞相になった際、文帝が周勃に「一年間に何回裁判が開かれているのか?」と尋ると周勃は答えられなかった。文帝が「では一年間の国庫収支はどのくらいか?」と尋ねたが、周勃はそれにも答えられなかった。文帝が陳平に尋ね直すと陳平は「裁判に関しては廷尉が、国庫収支については治粟内史が居ります。この者たちを召しだしてご下問ください」と答えた。文帝が「専門の者が居るのはわかったが、ならば丞相とは何が専門なのか」と聞くと陳平は「丞相の役目は上は天子を補佐し、下は外敵に目を光らせ、諸侯を慰撫し、万民を手懐け従わしめ、各々の役目を全うさせることです。局部的な区々たることに関わるのが役目ではございませぬ」と答えた。文帝は「よくわかった。見事な答えだ」と陳平を褒めた。後で周勃が陳平に「なぜ陛下が質問される前にああいう答え方を教えてくれなかったのか」と問い詰めると陳平は「自分の役目を知らないのか。君はもし陛下が長安の盗賊の数を聞いてきたら、それにも答えたいというのか?人間は全てを知る事は出来ない。だから専門家が居る。我々の専門とは先ほど陛下に申し上げた事だよ」と笑いながら言ったという。自分が陳平には到底及ばないと悟った周勃は丞相を辞任した。

楊顒は諸葛亮が自ら帳簿の確認を行っているの見て、治国のあるべき姿である礼制を一家のあり方に例え、陳平の例を引いて諌めた。

司馬遷は、「奇策を出し、困難の免れさせ劉邦を救った。呂后の時代も多事多難であったが、漢王朝を安定させ、優れた宰相と讃えられた。始め良く、終わり良くと言える。知謀の士でなくて、これがやりとおせただろうか」と評している。

後世、曹操が世に埋もれた人材を求める際に、「陳平のように兄嫁に手を出したり、袖の下を取ったりした過去がある者でも、才能がある者ならば、そのようなことを気にするな。未だ魏無知に出会えずにいる者よ、自分の下に仕官せよ」と触れを出したことはよく知られる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%B9%B3
34:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/18 (Wed) 13:40:22




前漢の高祖・劉邦の知られざる残虐性 「国家の私物化」と「恐怖の政治粛清」
2023年01月11日
石平(評論家/拓殖大学客員教授)
https://shuchi.php.co.jp/voice/detail/6559


<<評論家の石平(せき・へい)氏は、近著

『中国をつくった12人の悪党たち』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4569843476/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=phpdigital-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=4569843476&linkId=3dae828059d3bad8b8f1495de35ab558

でこう述べている。

「腹の黒い悪党ほど権力を握って天下を取るのは中国史上の鉄則であって、中国の歴史と中国という国のかたちはこのようにしてつくられていった。中国をつくったのはまさに悪党たちなのだ。中国の歴史も、中国という国のかたちも、まさにそれらの悪党によってつくられているのである。このような伝統は、現代になっても生きている。」

英雄譚、美談に彩られた中国史上の有名人の本質に迫った同書より、本稿では前漢の初代皇帝である劉邦について触れた一節を紹介する。>>

※本稿は石平著『中国をつくった12人の悪党たち』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。


己の身を守るためにわが子を見殺しにする劉邦の卑劣
最後の勝者となったのは、一方の劉邦である。彼は秦帝国との戦いでは振るわなかったものの、項羽との天下争奪戦においては、まさにその無頼漢としての本領を思う存分発揮して、権謀策略や汚い手の限りを尽くしてその天下取りを果たした。

項羽軍との戦争中、己の生き残りを図るために手段を選ばないという劉邦の冷酷さと卑劣さを語るエピソードが一つある。

劉邦軍は一度、項羽のつくった西楚国の首都である彭城(ぼうじよう)
に攻め込んだことがある。項羽の率いる主力部隊の留守を狙った奇襲だったのだが、戻ってきた項羽軍が一挙に反撃すると、劉邦軍はたちまち雪崩を打って彭城から敗走した。

全軍敗退のなかで誰よりも早く逃げ出したのは、ほかならぬ総大将の劉邦である。彼は息子と娘の二人を引きつれて馬車の一台に乗って一目散に逃走していた。その後をすぐ、項羽軍の騎兵が追ってきたのである。

そのときのことである。馬車の乗せる「荷物」の量を減らして馬を少しでも速く走らせるために、劉邦はなんと、わが子二人をいきなり車から落としたのである。

それを不憫に思った馭者(ぎょしゃ)の夏侯嬰(かこうえい)が飛び降りて拾い上げると、劉邦はふたたび突き落とした。このようなことが三度も繰り返されたと、『史記』が記している。



「悪いやつほど天下を取れる」中国史の起源
この人はいったい、どういう人間性をもっているのだろうか。

劉邦のもとに集まってきた武人や策士たちも、じつは彼と同類の人間が多い。策士の一人である陳平(ちんぺい)という者が親分の劉邦に対して、項羽軍と比較して「わが陣営の特徴」について語るときにこう述べたことがある。

「大王(劉邦)の場合、傲岸不遜なお振る舞いが多く、廉節(れんせつ)
の士は集まりませんが、気前よく爵位や封邑(ほうゆう)をお与えになりますので、変わり者で利につられやすく恥知らずの連中が多く集まっております」

いってみれば、自分の生き残りのためにわが子の命を犠牲にするのに何の躊躇いも感じない劉邦という「人間失格」の無頼漢のもとに、「利につられやすく恥知らずの連中」が集まってできあがったのが、すなわち劉邦の率いる人間集団の性格である。

そして、結果的にはやはり、この「恥知らず」の人間集団が、あの豪快勇敢にして気位(きぐらい)の高い英雄の項羽を打ち負かして天下を手に入れた。

歴史によくあるような無念にして理不尽な結末であるが、いわば「悪いやつほど天下を取れる」という中国史の法則がここから始まったのである。

このような法則が生きているなか、項羽のような貴族的英雄気質と高貴なる人間精神の持ち主は往々にして歴史の闇のなかに葬り去られて、劉邦のごとき卑劣にして狡猾な無頼たちが表舞台を占領して跳梁(ちょうりょう)することが多くなってくる。

その結果、中国史が下っていくにしたがって、項羽流の人間精神は徐々に死滅していき、劉邦のような「嫌なやつ」たちがますます繁殖していく勢いとなっているのである


国家の私物化が特徴の中国流「家産制国家」の原点

劉邦が項羽に勝つという結末は、じつは中国の歴史におけるもう一つの大いなる分岐点ともなった。

周王朝の成立から秦帝国が天下統一を果たすまでの約800年間、中国の政治制度は概して封建制であった。つまり、王様のもとで多くの諸侯が「封
土(ほうど)」という各自の領地を自律的に治めるという政治システムで、日本の江戸時代の幕藩体制とも類似している。

その場合、権力の分散による「天下の共有」が封建制の基本理念となっている。

この封建制の伝統を打破して中国史上最初の中央集権的専制帝国をつくったのは秦朝であるが、建国してわずか十数年後、まさに項羽や劉邦たちの反乱によってそれが潰れた。

そうすると、ポスト秦朝の国づくりに向けて、秦朝以前の封建制に戻るのか、それとも秦のつくった中央集権制を継承するのか、それは当然、中国史にとっての重要な選択となったのである。

秦帝国の潰れた後、一時的に最大の勢力となって天下平定の主導権を握った項羽は、いかにも楚の国の貴族の末裔らしく、確実に封建制の再建を目指した。

彼は楚の懐王を天下の王様として擁し、秦朝を倒すのに功のあった武将や旧諸侯を対象に十八の諸侯を封じてそれぞれに領地を与えた。自らは楚の国の旧領を中心とする土地を領地として「西楚の覇王」と号し、日本でいう「征夷大将軍」のような立場に立とうとしていたのである。

そのとき、劉邦は漢王に封じられて、現在の陝西(せんせい)省にある漢中地方を封土として与えられた。

彼はやがて「西楚の覇王」項羽に反旗を翻すことになるが、もしその後の漢王劉邦の反乱と勝利がなければ、項羽の目指した封建制の再建は成功できたかもしれない。もちろん、それからの中国史も、まったく違った方向へと向かったであろう。

しかし、最後の勝利を勝ち取ったのは漢王の劉邦である。そして、彼はむしろ秦の始皇帝流の専制的中央集権制の骨格を継承し漢帝国を建てた。漢王はそのまま、漢帝国の初代皇帝となったのである。

『中国をつくった12人の悪党たち』で、劉邦が皇帝となってから、父親の「太公」に対して、「昔親父は、よく俺のことを家業も治めない無頼だと馬鹿にしていたなあ」と文句をいったことを記述したが、じつは太公はあのとき、家業を興すのに日夜励んでいる劉邦の兄との比較において三男坊の劉邦の無頼漢ぶりを叱ったわけだった。

そして今度は皇帝となった劉邦は、父親に対する意趣返しのつもりで、上述の文句の続きにこういったという。

「ところで、いまの私の成し遂げた家業は、兄と比べればどちらのほうが多いのか」

つまりこの無頼漢上がりの皇帝は、天下国家というものを、まったく自分とその一族の「資産」のようなものとして認識しているのである。

蘇秦や李斯や趙高の場合もそうであるが、どうやら天下国家を自分たちの「私物」だと見なすところに、中国史上の謀略家たちの最大の共通点があ
る。

そして、劉邦が家族の内輪で語った上述の本音剝き出しの一言はまた、彼が秦の専制制度を継承してつくった漢帝国の国家体制の本質をズバリといい得た名セリフといえよう。

要するに、皇帝とその一族による国家の私物化を特徴とする「家産制国家」がここにあるのである。


長い伝統となる「恐怖の政治粛清」
国家そのものを私物化した劉氏一族の独占的利権を守るために、劉邦は皇帝になった後に、もう一つ大きな仕事を成し遂げた。それはすなわち、かつての功臣たちに対する血塗れの大粛清である。

皇帝即位後の紀元前202年から前195年までの短いあいだに、彼は漢帝国の樹立に功績があった韓信、彭越、英布(えいふ)などを、騙し討ちや噓の罪名を被らせるなどの汚い手段を使って、次々と殺していった。

そのなかで、三族まで処刑された韓信の場合もあれば、惨殺後の屍が塩辛にされた彭越の場合もあるという。

劉邦ならではの卑劣さと残虐性がここにも現れているのだが、天下取りの戦いにおいて彼のもとに集まってきた「恥知らず」の人間たちは、今度は一番恥知らずの親分である劉邦の謀略にしてやられたわけである。

こうして基盤を固め得た漢帝国は、その後もまさに劉邦流の「国家理念」と政治手法をもって天下を治め、前漢・後漢を合わせた四百年間にもわたって中国大陸を支配した。そのなかで、皇帝を中心とする家産制国家と専制独裁の政治体制が完全に定着させられた。

漢代以後の歴代王朝も当然、国家の私物化と独裁政治の強化を図るのに余念がなく、そのために恐怖の政治粛清を断行することもしばしばあった。無頼漢皇帝劉邦の残した「国家の私物化」と「恐怖の政治粛清」という二つの遺産は、そのまま中国の長い歴史の悪しき伝統となったわけである。

https://shuchi.php.co.jp/voice/detail/6559?p=2
35:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/18 (Wed) 13:45:31


2017年12月07日
時代は違うがどちらが強い?! 最強といわれた呂布と項羽
https://sangokushirs.com/articles/364

後漢末期の三国志最強の武将といえば、呂布(奉先)が真っ先に挙がることでしょう。史実や演義でも無類の武力を誇り、曹操(孟徳)や劉備(玄徳)といった他陣営から恐れられていました。一方、史記に登場する項羽も呂布と並んで最強武将として君臨しています。この両者、どちらが最強なのでしょうか。


飛将・呂布の凄さ
呂布(奉先)は後漢末期の并州を収めていた実力者の丁原に仕えていました。朝廷が宦官の十常侍によって腐敗し、憤った大将軍の何進は丁原と共謀して宦官抹殺を目論見ました。天下の諸侯を終結させて重圧をかけた何進でしたが、逆に暗殺されると都は混乱し、十常侍も袁紹(本初)らによって斬首されています。

都の混乱を突いて反旗を翻したのが涼州の将軍だった董卓(仲穎)です。董卓は丁原の軍勢を手にしようと、丁原の暗殺を謀ります。しかし、護衛には呂布が付いており、暗殺者たちは呂布に簡単に斬られてしまいました。呂布の実力に恐れを抱いた董卓は、金品を送り、呂布を懐柔します。呂布は丁原の首を取り、董卓に寝返ります。丁原の兵は呂布の強さを知っているので、誰ひとり逆らえず、董卓軍に吸収されています。

暴虐の限りを尽くした董卓の元で護衛をしながら、反董卓連合軍の曹操(孟徳)を散々に打ち破るなど活躍し、その後は王允と手を組んで董卓を暗殺しています。権力を手中にした残虐な主君を誅するのは並大抵のことではなく、あっさりとやってのける呂布は神経もタフといえるでしょう。

呂布は剣術に優れているだけでなく、腕力も常人よりも強くて、馬術や弓の腕前も一流でした。
■ 一騎当千の呂布
呂布は董卓軍の残党に敗れてしまい、しばらく放浪します。袁紹(本初)の元へいくと、冀州で黒山賊といわれる山賊が大軍を以って暴れまわっていました。袁紹は呂布を受け入れて黒山賊の討伐を命じます。呂布はわずか数十騎で1万を誇る賊を相手に突撃を繰り返し、一気に蹴散らしていきます。赤兎馬にまたがった呂布の凄まじい活躍は賊を恐れさせ、その一騎当千ぶりに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞されるようになりました。呂布は袁紹に兵の補充を求めますが、袁紹は呂布の凄まじさに自分では扱いきれないと悟り、逆に暗殺を決意します。当然ながら呂布に通用するわけもなく、袁紹は門を閉じて呂布を避けるようになりました。

■ 部下の諌言を聞かず、曹操に敗れる
以降の呂布は曹操(孟徳)や劉備(玄徳)の軍勢を破り、一時曹操を壊滅まで追い込みます。しかし、呂布は短気で配下の進言も聞かず、次第に勢いを取り戻した曹操(孟徳)によって捕縛されてしまいます。この戦いの決め手となったのは、陳宮や高順といった配下の進言を却下し続けた呂布と、荀攸や郭嘉らの策略を聞き入れて実行した曹操(孟徳)の君主としての差が大きな命運を分けました。

天下に名が届いた項羽

呂布の活躍した時代から遡ること約400年、秦が天下統一を果たした時代がありました。始皇帝の圧政に苦しみ、各地で反乱が起きており、項羽(項籍・字が羽となるが、一般的な通称は項羽)は叔父の項梁とともに挙兵します。項羽は春秋・戦国時代の大国である楚の大将軍・項燕の孫であり、由緒正しき血筋といえました。

項羽は身長2mを超え、腕力はけた外れに強く、周囲からも畏怖の目で見られていました。項羽と項梁は2人だけで会稽郡の役所に乗り込み、項羽が一人で数十人を相手に立ち回り、全員を倒したので、会稽の人々はみな恐れて従うようになりました。

太守の座を奪った項梁は連戦連勝を重ねて、周囲の反乱軍も吸収し、大軍を束ねるようになっていきます。しかし、次第に慢心するようになり、配下の諌めも聞かず、秦軍の有能な将軍である章邯相手に奇襲攻撃を受けて戦死してしまいます。叔父を失った項羽でしたが、自身が後継者となって大軍を引き入れず、楚に仕えていて項梁の側近をしていた宗義が総大将となります。
■ 軍の実権を握る
項羽は参謀の范増に促され、宗義を斬首し、軍の実権を掌握します。元々項梁の甥であり、実力もある項羽に逆らえるものはいませんでした。項羽は大軍を以って秦軍を相手に連戦連勝を重ねていきます。秦の都である咸陽を目指していた項羽は、道中で叔父の仇である章邯の軍と対峙します。秦は20万の軍勢を誇りますが、項羽は短期決戦を目論んで、兵士に3日分の食糧しか持たせず、決死の覚悟で戦いを挑みます。自ら先陣を切った項羽は多くの将兵を蹴散らしていき、遂に章邯を降伏させました。

通常であれば勝ち目はありませんが、秦は始皇帝もすでに亡き、実権を握っていた宦官の趙高によって朝廷は腐敗しており、援軍も見込めない状況が追い風となりました。
■ 残虐な一面を見せる項羽
項羽は降伏してきた名将の章邯と副将の2人を帰順させますが、投降してきた20万にも及ぶ兵士たちは反乱の恐れがあることから、すべて生き埋めにしてしまいました。この残虐といえる行為は後に秦の人々の恨みを買うことになり、周辺の敵城も降伏しても殺されることが分かったことから、決死の抵抗を見せていくようになってしまいます。

これは短気な項羽にとって、一度でも反抗したら見せしめの為に城内皆殺しをするという決断を迫られることにつながっていきます。

劉邦との対決

時を同じくして、別ルートで咸陽を目指している別働隊に劉邦(李)がいました。後の高祖で天下統一し前漢を作り上げましたが、当時は項羽よりも低い身分でした。それでも人望があり、人の進言をよく聞き、降伏してきた将兵は無条件で許すという懐の深さを見せており、敵味方ともに人気が集まりました。劉邦に降伏すれば命は助かるということで、競って帰順しており、項羽よりも圧倒的に速く咸陽に到達して秦を降伏させました。

激怒した項羽は劉邦を攻めようとしますが、もう一人の叔父である項伯や劉邦の配下に止められています。劉邦は未開の僻地に追いやられますが、そこで勢力を蓄えて咸陽を再度奪取し、項羽との決戦に備えるようになります。
■ 人を使いこなせない項羽
項羽はその並外れた武力と時折みせる思いやりで部下を魅了していきますが、短気な側面を一度出してしまうと、子どものように感情に身を任せてしまい、配下を殺したり、暴力を奮ったりしてしまいました。その中には劉邦の大元帥として軍事力を束ねた韓信、計略を以って項羽を倒すことに貢献する陳平、さらに長年貢献してきた范増にまでおよびました。范増は陳平や張良(子房)の策略によって離間させられてしまい、項羽の元を去っていきます。

項羽を唯一諌めることができたのが年長者の范増でしたが、それも叶わず、項羽はどんどん短気な側面が滲みでてしまい、多くの将兵を失ってしまいます。それでも自身が戦いにでれば劉邦軍を相手にせず、連戦連勝を重ねていきます。しかし、韓信は独自の別働隊を率いて項羽の周辺国を攻略していき、項羽を孤立させる戦略をとっていました。劉邦は何度も項羽に敗れていますが、韓信が別働隊を引き入れたのも、劉邦が中央で項羽を引きつけておいたことが要因としてあります。

結果、韓信軍と合流した劉邦軍と周辺の諸侯らによって、四面楚歌となった項羽はたった一度の敗戦によって追い詰められ、自害することになってしまいます。

まとめ
呂布や項羽に共通しているのは、その武力を頼りにして配下の諫言を聞かず、逆に配下を上手に使いこなした曹操(孟徳)や劉邦(李)に敗れ去りました。裏切りや生き埋めなど人道的に問題ある行為があり、人心が失っていったことも要因にあるでしょう。腕力や馬術などはともにその時代の天下最強を誇り、多くの将兵から恐れられたことは間違いありませんので、やはり痛み分けといった感じになりそうですね。
https://sangokushirs.com/articles/364
36:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/20 (Fri) 00:40:38

秦王朝末期に天下取りまであと一歩というところまで迫った項羽は、たびたび敵を釜茹でにしました。

項羽が最終的に天下を取れなかった理由の一つは、釜茹での刑を執行するたびに、人心が離れていったことでした。


釜茹で
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C%E8%8C%B9%E3%81%A7

釜茹で(かまゆで)とは、大きな釜で熱せられた湯や油を用い、罪人を茹でることで死に至らしめる死刑の方法である。

中国
古代中国では烹煮(ほうしゃ)と呼ばれる釜茹でが盛んに行われた。三本脚の巨大な銅釜「鼎」や、脚のない大釜「鑊」(かく)に湯をたぎらせ、罪人を放り込んで茹で殺す。そのため烹煮は、別名を「鑊烹」・「湯鑊」とも呼ばれる。

古代においては、殷の帝辛(紂王)が周の人質の伯邑考を醢尸の刑(身体を切り刻む刑)に処して殺し、その身体を茹でて、それを煮込み汁に仕立てた上で伯邑考の父の西伯姫昌に「もてなし」と称して食べさせたのが、記録における初見である[1]。

春秋戦国時代には斉の哀公が釜茹でにされるなど、覇を競う各国の王は車裂きと共にこの方法で不穏分子を処刑した[2]。秦の商鞅は政治改革で正式に釜茹でを死刑の一方法として定め、秦の統一後も罪人が煮殺された[3]。

楚漢戦争の時、項羽が彭城(現在の江蘇省徐州市)に都を定める際に、ある論客が咸陽こそ都にふさわしいと進言したが、項羽はこれを聞き容れず、退出した論客は「楚の民族は猿が冠をかぶったような種族だ」と漏らしたため、それを聞いた楚の衛兵が項羽に報告して、激怒した項羽はその論客を釜茹でに処した[4]。

さらに項羽は劉邦が関中を支配したとき、南陽で挙兵した王陵の母を捕らえて、王陵を帰順させるべく口説いたが、彼女はこれを拒否して自殺したために、怒った項羽は王陵の母の遺体を釜茹でにした[5]。引き続き、滎陽付近で滎陽城を守備した漢の御史大夫の周苛らと戦って、これを捕虜にした項羽は周苛に帰順を促したが、かえって罵倒されて激怒した項羽は周苛を釜茹でに処した[6]。

また、滎陽の北にある広武山で項羽は対峙した劉邦の父の劉太公らを捕らえた。そして人質とした劉太公を俎板に縛り付け、大釜に湯を沸かした上で、劉邦に降伏を迫った。しかし劉邦は動じることなく「我々は義兄弟の契りを結んだ仲である。つまりわが父は、そなたの父でもあるのだ。そなたの父を煮殺すならば、兄弟である私にも一杯の煮込み汁を分けてはくれまいか?」と答えた。これを聞いて効果がないと悟った項羽は、劉太公らの処刑を取りやめた[7]。

楚漢戦争の中では、酈食其も蒯通の進言で和議を背いた韓信に激怒した田広によって釜茹でに処せられている[8]。

前漢の時代、景帝の曾孫である広川王の劉去(中国語版)とその妻の陽城昭信は極端に嫉妬深い性格だった。陽城昭信は劉去が寵愛していた側室の陶望卿を妬み、事あるごとに夫に「陶望卿の浮気」をでっち上げて吹き込み続けた。元々嫉妬深く、単純な性格だった劉去はその誣告を信じ込み、陶望卿を鞭打った挙句火責めにした。絶望した彼女は井戸に身を投げて自害するが、劉去と陽城昭信は引き揚げた遺体から耳と鼻をそぎ落とし、陰部に杭を打ち込んで辱めた。最後に遺体を切り刻んで大釜に放り込み、桃の木の灰と毒薬を加えた上で一昼夜煮込み、どろどろに煮溶かしたという。劉去はこれ以降も妻の讒言に惑わされ、10人以上もの側室を惨殺し続けたため、王位を取り上げられて左遷され、最終的に自害した。陽城昭信は斬首の上、棄市(さらし首)に処された[9]。

後漢も末の頃、董卓は何人もの役人を釜茹でに処した。釜の中で断末魔の叫びが上がる傍らで、董卓は平然と食事を続けたという[10]。

以降も人を煮る処刑は続けられた。五胡十六国時代から南北朝時代にかけて、後趙の石虎や北斉の後主など、各国の君主が釜茹でで反乱分子を処刑している。

隋の煬帝も高句麗に逃亡した武将の斛斯政を和議の条件として、強制的に返還させた後に射殺させて、その遺体を釜茹でにした。その食肉は宴会で諸侯に差し出されたという[11]。

五代十国時代、後唐の将軍の姚洪は反乱軍の董璋(中国語版)に監禁されたが、頑なに降服を拒んだ。激怒した董璋は姚洪の肉を生きながら削ぎとり、大釜でゆでながら喰らったという。ただしこれは後世の創作の可能性が高い。

南宋の秦檜も、釜茹での刑を行っている。清王朝の末期まで、杭州の官舎跡には口径130センチ、深さ66センチの大釜が残されていた。秦檜が罪人を煮た釜だといわれている。

1193年、中国北方の騎馬民族モンゴルのテムジン(後のチンギス・カン)と、その盟友ジャムカとの間で、家畜の盗難を原因とした争いが発生した。十三翼の戦いと呼ばれるこの戦の勝敗は定かではないが、ジャムカは捕虜とした70名を釜茹でを用いて処刑した。この残酷さゆえにジャムカは人望を失い、結果としてテムジン側の勃興につながっていった[12]。

明王朝初期の靖難の役の折、南京を攻略した朱棣(後の永楽帝)は、将兵部尚書の鉄鉉を鼻そぎにして辱めた上、磔に刑した。そして油を満たした大釜に放り込み、揚がる遺体に釜の中から「謝罪」の体勢を取らせようとした。しかし顔が上に向くよう動かしてもすぐに裏返り、思うような形にならない。まごついているうちに遺体は黒こげとなり、爆発して飛び散ったという伝承がある。

日本
日本では1594年に京都の三条河原で執行された、盗賊団石川五右衛門一派の釜茹でが有名である。

戦国時代末期に織田氏、武田氏をはじめ讃岐の仙石氏、会津の蒲生氏などでも釜茹での刑が行われていた[13]。

この世の刑罰として実際にあったかは別として、他界における刑罰としては、認識的にはさらに遡る。『地獄極楽図屏風』(京都金戒光明寺所蔵、鎌倉中・後期作)の仏教説話画には、釜茹でにされる人間の描写があり、13、14世紀には、地獄の刑罰器と認知されていたことがわかる。同じく京都で処刑された五右衛門の処刑方法は、地獄における刑罰の再現ともいえる。

加賀藩では元和4年、姦通の末に夫を殺害した田上弥右衛門の妻たねが「釜煎」に処された[14]。

イギリス
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この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
出典検索?: "釜茹で" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年11月)
1531年にヘンリー8世が毒殺犯に対する法定刑罰として制定した。1531年2月にロチェスター大聖堂で料理人をしていたリチャード・ルースという人物が食事に毒を盛り、数十人の司祭、教会の来賓と施しを受けていた貧民まで多数の死者を出した無差別殺人事件を起こした。イギリスにおける釜茹での刑はこの事件に対して制定されたものであった。1532年4月15日に市内中央に大釜が設置されルースは公開処刑された。

この事件では、ロチェスター大聖堂を司牧していたジョン・フィッシャー司教も料理を食べていたが、軽症にとどまった。この事件は対立していたヘンリー8世がフィッシャーを暗殺するために仕組んだとの憶測を後世に残すことになった。ヘンリー8世が特別に釜茹でを立法したのは、暗殺であることを誤魔化すためだったする説もある。

この刑罰の執行例はイギリスの歴史上わずか3件しかなく、1531年に婦人を毒殺した家政婦と、1542年3月28日にロンドン北西部にあるスミスフィールド家畜市場で主人を毒殺したマーガレット・ディビーという家政婦に執行されただけである。

釜茹では1547年にエドワード6世が即位すると直ちに廃止された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C%E8%8C%B9%E3%81%A7


▲△▽▼


想像するだけでも恐ろしい 実際に行われていた処刑方法5選
https://r-dynamite.com/fear/syokei5/

5、炮烙(ほうらく)

中国最初の王朝である殷の時代に炮烙という刑があったことが、歴史書「史記」に記されています。

罪人に油を塗った金属製の丸太の上を裸足で歩かせるというもので、渡りきれば罪を免れ釈放されるというものでした。

しかし、丸太は下からの火で熱せられ、触ることさえできないようなものだったため、渡り切ることができた罪人はほとんどいませんでした。

それでも罪人は釈放されることを夢見て、灼熱した丸太の上を歩きました。

途中滑って足を踏み外すと、丸太から落ちまいとして必死にしがみつくのですが、結局は力尽きて猛火の中に落ちて焼け死ぬのが通例でした。

王や王妃はこういった光景を見ては、笑い転げて喜んでいたそうです。


4、簀巻き

「簀巻きにして大阪湾に沈めたろか」という表現がありますが、この刑は正式な刑罰ではなく私刑として行われていました。

賭場を開いて生活をするいわゆる博徒という人たちが借金の取り立てから逃げようとした人を見せしめとして行っていたのが簀巻きです。

対象者をワラなどで出来た筵(むしろ)でぐるぐる巻きにして動けない状態にし、水中に放り投げるというものです。

必ずしも殺すことが目的ではなく、誠意を見せない客に怖い思いをさせるのが主たる目的でした。

ただし、死んでしまったら、それはそれで構わないという人にしか行わなかったそうです。


3、車裂きの刑

中世のヨーロッパでは、罪人を処刑する際に車輪が利用されることがよくありました。

人を車輪に踏ませて手足を粉砕したり、大きな木製の車輪に体を固定させて、こん棒などで殴るなどのものがありました。

しかし、車輪を使った刑で最も残酷なのは古代中国で行われていた車裂きの刑といえるでしょう。

罪人の手足を4つの馬車につないで、同時に馬車を別々の方向に進めるというものです。

この刑を受けた罪人の体は、手足と胴体がいとも簡単に5つのパーツにちぎれたといいます。


2、釜茹で

釜茹での刑といえば石川五右衛門のケースがよく知られています。

石川五右衛門は桃山時代に京都を荒らしていた盗賊団の頭で、逮捕されたのち見せしめとして、釜茹での刑に処されました。

煮立てた湯の中に人を投げ入れて殺す釜茹での刑は古代中国では殷王朝の時代からあったことが記録に残っています。

皇帝が人質を煮込んだスープをその人質の父親に供したというのが記録に残る最初の釜茹でのケースです。

秦王朝末期に天下取りまであと一歩というところまで迫った項羽も、たびたび敵を釜茹でにしました。

項羽が最終的に天下を取れなかった理由の一つは、釜茹での刑を執行するたびに、人心が離れていったことでした。

またイギリスでも16世紀に一時期釜茹でが処刑方法として採用されていたことがありました。

しかし、釜茹での執行例は3件だけで、新しい王が即位すると直ちに廃止されました。


1、腰斬刑(ようざんけい)

処刑というとギロチンなど頭部を切断するイメージですが、紀元前の中国では死刑執行で切断する部位といえば、頭部ではなく腰でした。

台の上に罪人をうつ伏せに寝かせ、執行人が大きな斧で腰部を切っていきました。

首を切るのとは異なり、胴体を切られても即死することはなく、罪人は刑を執行されてしばらく経ってから出血多量やショックで亡くなりました。

その後腰斬刑の執行方法は進化し、現代の裁断機のような形状の道具が使用されるようになります。

てこの原理が使われるため、死刑執行人の体重だけで、それほど苦もなく罪人の腰を切断できるようになりました。

しかし、苦しんで死んでいくという残酷な刑であるため、清の時代に腰斬刑は廃止されましたが、

現代中国の俗語ではまだ使われていて、テレビドラマなどの打ち切りを意味する言葉となっています。
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37:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/20 (Fri) 00:46:57

【実話】史上最凶の刑。耳に硫黄流す。目ん玉くり抜いて…豚便所に捨てる。 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=EMXEkmiSOys&t=74s

呂雉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E9%9B%89

出生 前241年
死去 前180年8月18日

呂 雉(りょ ち)は、漢の高祖劉邦の皇后。恵帝の母。字は娥姁(女偏に句)。諡は高后(高皇后)。夫・劉邦の死後、皇太后・太皇太后となる。現代では呂后と呼ばれることが最も多いが、他に呂太后、呂妃とも呼ばれる。「中国三大悪女」として唐代の武則天(則天武后)、清代の西太后と共に名前が挙げられる。

生涯

皇后となるまで
単父の有力者の呂公(呂文叔平)の娘として生まれた。当時沛県の亭長(宿場役人)だった劉邦が呂公の酒宴に訪れた際に酒宴を仕切っていた蕭何に「進物一万銭」とはったりを書いた劉邦に呂公が感心し、妻の反対を押し切って劉邦に嫁がせ、一男一女(恵帝・魯元公主)をもうけた。この時は劉邦の父の劉太公の農業を助け、懸命に子供たちを育てていた。ちなみに妹の呂嬃は樊噲に嫁いだ。この時、人相を見る老人が呂雉に対し「天下を取られる貴婦人の相がある」と言われ、また秦の始皇帝が「東南のほうに天子の気がある」と言い、始皇帝が巡幸した際に身の危険を感じた劉邦が山奥へ逃げるも、呂雉はすぐに探し当て劉邦が不思議がると呂雉は「あなたのいる所には雲気が立ちこめているので分かるのです」と言ったという。これらが噂となり、劉邦に仕える者が多かったという。

秦末動乱期及び楚漢戦争開始直後は、沛県で劉太公や子供達とともに夫の留守を守っていたようである。

しかし楚漢戦争が激化し、彭城の戦いで劉邦が項羽に敗れると、呂雉は舅・太公とともに楚陣営に捕らえられ人質になってしまう(恵帝と魯元公主は劉邦と合流、関中に逃れることに成功するが、その際に劉邦が子を捨てる騒動が起こっている)。

これ以降の楚漢戦争は、劉邦の配下である韓信らによる楚陣営各国の切り崩しと平定、そして太公と呂雉の身柄の解放が焦点となり、項羽側が有利でありつつも膠着状態に陥った。しかし紀元前203年に入ると、韓信等による楚陣営の切り崩しが成功し、形勢は逆転する。窮地に陥った項羽は劉邦と講和し、呂雉は太公と共に劉邦の元に帰ることを許された。

翌紀元前202年、劉邦は項羽を滅ぼして皇帝となり、呂雉は皇后に立てられた。しかし、まだ政情は劉邦が自ら反乱の討伐に出向かねばならぬほど不安定であり、また宮中では劉邦の後継者を巡り暗闘が始まっていた。このような状況の下で、呂皇后は夫の留守を預かり、紀元前196年に淮陰侯韓信の下僕の密告で、韓信が反乱を企てたことを知り蕭何と計りこれを召し出して処刑する一方、自分の実家の呂氏一族、および張良らの重臣の助けを借りて、皇太子となった劉盈の地位の安定に力を尽くした。

呂太后の専横
劉邦が没して劉盈(恵帝)が即位すると、呂后は皇太后としてその後見にあたる。また、自らの地位をより強固なものにするため、張耳の息子張敖と魯元公主とのあいだに生まれた娘(恵帝の姪に当たる)を恵帝の皇后(張皇后)に立てた。だが、高祖の後継を巡る争いは根深く尾を引いており、恵帝即位後間もなく呂后は、恵帝の有力なライバルであった高祖の庶子の斉王劉肥、趙王劉如意の殺害を企て、斉王暗殺は恵帝によって失敗するが、趙王を殺害した。呂后はその生母戚夫人を奴隷とし、趙王如意殺害後には、戚夫人の両手両足を切り落とし、目玉をくりぬき、薬で耳・声を潰し、その後便所に置いて人彘(人豚)と呼ばせ、そのさまを笑い転げながら見ていたと史書にはある(なお、古代中国の厠は、広く穴を掘った上に張り出して作り、穴の中には豚を飼育して上から落ちてくる糞尿を「餌」にする「豚便所」であった。戚氏を厠に入れたことから、豚に喩えたと思われる)。

これに激しく落胆した恵帝は政務を放棄し、酒に溺れ間もなく死去する。死去後の葬儀で呂后が激しく嘆くも涙が出ていないことを張良の息子張辟彊から聞きつけた陳平は、呂后が今後に不安を抱いていることを見抜き、呂后に実家の呂氏一族を重役に立てることを進言、呂后はその遺児・(前)少帝を立て、呂氏一族や陳平、周勃ら建国の元勲たちの協力を得て、政治の安定を図る。しかしこの頃から、各地に諸侯王として配された劉邦の庶子を次々と暗殺し、その後釜に自分の甥たちなど呂氏一族を配して外戚政治を執り、自分に反抗的な少帝を殺害して劉弘(後少帝)を立てるなどの行動をとり、劉邦恩顧の元勲たちからの反発を買うようになる。また、元勲たちも自らの暗殺を不安視したために、ろくに仕事をしなくなった。呂后自身このことには気が付いていたようで、日食が起きた時には周囲の者に「私のせいだ」と言っていたといい、死ぬ数か月前には蒼色の犬[3]に脇の下を引っ張られる幻を見たため占い師に占わせ、少帝の祟りだと告げられた。さらには腋の病気にかかり、甥の呂産らに元勲たちの動向に気をつけるようにさんざん言い聞かせ、さらに呂氏一族を中央の兵権を握る重職などに就けて万全を期した後、死去した。

死後
しかし間もなく、陳平や周勃らの元勲は、斉王の遺児などの皇族や諸国に残る劉氏の王と協力してクーデターを起こし、呂氏一族を皆殺しにした上で、恵帝の異母弟・代王劉恒を新たに皇帝に擁立した。これが文帝である。文帝擁立の前後には少帝弘も、恵帝の実子ではなく呂后がどこからか連れてきた素性の知れぬ者という理由で、恵帝の子とされていた常山王劉朝(軹侯)、淮陽王劉武(壷関侯)らと共に暗殺された。また、呂后の妹の呂嬃は鞭打ちの刑で殺害され、呂嬃の息子の樊伉も殺害された。呂氏の血を引く者のうち、この粛清で殺害されなかったのは、魯元公主が生んだ張敖の子である張皇后と張偃のみであった(公主は母の呂后に先だって死去している)。


評価
呂后の時代は、皇族や元勲が殺害されるなど、何かと血腥い事件の続いた時代であり、呂氏一族も呂后の死後誅殺されることになる。呂后の治世に関して司馬遷は「天下は安定していて、刑罰を用いることはまれで罪人も少なく、民は農事に励み、衣食は豊かになった」と評価する一方で[4]「性格は残忍で猜疑心が強く、息子が亡くなっても悲しまず、天下を私し、功臣や王族を陰謀で陥れて残酷に族滅し、無能卑賤な呂氏を要職に就けた。その悪逆は世に隠れも無い」と非難してもいる。また、司馬遷は『史記』において、時の支配者として始皇帝・項羽・劉邦らと同じく呂太后本紀を立て、『漢書』でも同じく高后紀を立てている。

なお、新末後漢初の動乱の際、 赤眉の軍勢は前漢諸帝の陵墓を盗掘し、安置されていた呂后の遺体を汚したという[5]。光武帝は呂雉から皇后の地位と高皇后の諡号を剥奪し、文帝の生母である薄氏を劉邦の正妻として高皇后の号を贈った。

郭沫若や佐竹靖彦など中国や日本の歴史家によると、呂雉は秦で繁栄した呂不韋の一族である可能性があるという見解が一部であるが、『史記』や『漢書』には記述が無いため真相は不明である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E9%9B%89


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戚夫人
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戚夫人(せきふじん、拼音:Qī Fū-ren、? - 紀元前194年?)は、秦末から前漢初期の人物。高祖劉邦の側室で、劉如意の生母。一説によると名は懿。上体を後ろに大きく反らす楚舞を得意とし、劉邦とは遠征中に碁を打ったともいわれる。

生涯
定陶の人で、紀元前208年頃、楚漢戦争中に劉邦に見初められ、その寵愛を一身に受け、劉如意を生む。その影響で、代王、次いで趙王に封建された息子の劉如意も有力な皇太子候補と目されるようになる。さらに彼女は、劉邦(高祖)が親征を行うたびにこれにしたがい、劉如意を皇太子に立てるようにたびたび懇望した。

寵愛する戚夫人の懇望に加えて、皇太子に立てていた劉盈に対して父の劉邦自身がその資質にかねてから疑問と不安を抱いていたこと、さらに仁弱な劉盈とは対照的に劉如意が活発な子供であったことから、劉邦も徐々に劉盈を廃嫡して劉如意を立てることを考え始める。

しかし、劉邦が皇太子の交代を重臣たちに諮ったものの、重臣たちはことごとく反対した。さらに、劉邦の信任が厚い張良の助言を受けた盈が、かつて劉邦が招聘に失敗した有名な学者たち(商山四皓)を自らの元に招いたことが決定打となり、劉邦は劉盈を皇太子にとどめることを決め、劉如意は趙王のままとされた。

このことから、戚夫人母子は劉盈の生母の呂雉に憎まれることとなり、紀元前195年に劉邦が死去して劉盈(恵帝)が即位すると、皇太后となった呂雉による報復が始まる。

まず、戚夫人を捕らえて永巷(えいこう:罪を犯した女官を入れる牢獄)に監禁し、囚人服を着せ、丸坊主にした後、一日中豆を搗かせる刑罰を与えた。戚夫人が自らの境遇を嘆き悲しみ、詠んだ歌が「永巷歌」として『漢書』に収められている。

そして呂太后は、長安に入朝した如意を毒殺した。その前後、戚夫人も殺害された。『史記』によると呂太后は戚夫人の両手両足を切り、目耳声を潰し、厠に投げ落としてそれを人彘(人豚)と呼ばせ、さらに恵帝を呼んでそれを見せたため、彼は激しい衝撃を受け、以後酒色に溺れるようになり早世したという。
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人豚の刑とは?両手両足を切断し目を抉り耳と喉を潰し豚便所に投げ込む戦慄の処刑法
2023年1月3日
https://hajimete-sangokushi.com/2022/06/26/han-dynasty-3/

皆さんは人豚ひとぶたの刑をご存知でしょうか?ちなみに猪八戒ちょはっかいとは関係ありませんよ。

人豚刑とは、古代中国の歴史に時々出現する個人的みせしめであり、実際の刑罰には入っていません。しかし、そのあまりにおぞましく惨たらしい方法から聞く人に衝撃を与え、世界的に有名になってしまったのです。

今回は人豚の刑について解説しましょう。

両手両足を切断し目と喉を潰す人豚の刑

では、人豚の刑の内容について解説します。

人豚刑とは、人間の両手両足を切断し、目と耳を潰し喉を潰して歩く事も話す事も見る事も聞く事も出来なくした後、豚便所に放り込んで死ぬまで放置するむごたらしい方法です。

人間は両手両足を切り落としただけでは死なないので、豚便所に落された打撲や骨折、そして切断された両手両足の痛み、さらには目も見えず話す事も聞く事も出来ない絶望的な状況で、数日間生き続けないといけません。考えるだけで、恐ろしいのが人豚刑なのです。


どうして人豚なのか?

東アジアから東南アジアにかけては、人が豚を飼育して食べる事が一般的でした。そして人間の排泄物は、かなり栄養が豊富なので豚にとっては御馳走で人が排泄行為をしていると近寄ってきてウンチを食べる事がありました。

しかし、トイレの度に豚が寄ってきては落ち着いていられないので、豚が這い上がれない程度の深さの穴を掘り、そこに板を渡して便座にする事が編み出されます。こうして人間のトイレの下には豚が飼われるようになり、人の食べ残しやウンチを餌として太っていく事になります。

古代中国では、屋敷の二階がトイレと浴室、一階が豚小屋でした。豚小屋は薄暗く湿気が高く豚はその中でグーグー鳴いている状態です。

この豚小屋に二階のトイレから両手両足を切断して目と耳と喉を潰した人豚を放り込むと大けがをして糞尿に塗れ、声が出ませんから豚のように、もぞもぞとうごめき、うめき声をあげるしかありません。その様子が豚にそっくりなので人豚と名づけられたのです。


最初に人豚を作った女 呂雉(りょち)

では、そもそも史上最初に人豚を製造したのは誰なのでしょうか?
それは恐らく人豚の名づけ親である呂雉でしょう。

呂雉とは、漢の建国者である劉邦の皇后で、一般には呂后と呼ばれます。劉邦が無名時代から支え続けた糟糠の妻で、自らも項羽の人質になるなど苦難を重ねながら劉邦を助けました。やがて嫡男である劉盈りゅうえいも誕生します。

左遷される劉邦

ところが項羽を相手に転戦していた劉邦は、元々女好きだった事もあり、戚夫人せきふじんという舞の上手な美女を側室に迎え入れて寵愛します。戦争の時も戚夫人は劉邦に付き従い、碁の相手を務めたそうなので、利発で機転が利く女性だったのでしょう。寵愛の結果として戚夫人は皇子を産みます。劉如意りゅうにょいです。

子供が生まれた戚夫人は劉邦に、劉盈ではなく息子の如意を次の皇帝にして欲しいと何度も懇願しました。劉邦も溺愛する戚夫人の頼みなのでその気になります。

呂雉は気が気ではなく、重臣の張良にアドバイスを求めるなどしてこれを阻止しました。やがて劉邦は死に、二代皇帝には劉盈が即位しますが呂雉の心には憎悪が燃え盛ります。


血も凍る呂雉の復讐劇
王族ボンビーから一転セレブ03 董太后、霊帝(女性)

呂雉の恨みは二重にも三重にも重なっていました。

第一に、劉邦が容姿の衰えた自分を捨て、戚夫人に夢中になったという女としての屈辱第二に、戚夫人が野心を持ち劉盈を押しのけて劉如意を皇太子にしようとした恨み最後に、息子の劉盈と戚夫人の子の劉如意では如意が利発で劉邦も可愛がった事に対する侮辱です。

元々、大商人の娘で気位が高く、ガマンにガマンを重ねて劉邦の天下取りを支えてきた呂雉にとって、その全てを奪い取った戚夫人への恨みは並大抵ではなかったのです。

「少しばかり容姿が美しいだけで、身分も弁えず夫をたらしこみおって…危うくわが子の帝位を失う所であったわ!忌々しき豚にも劣る淫乱女め、今にみておれ、全てを奪い取る罰を与えてくれる」

呂雉は劉邦が死んで劉盈が即位すると、すぐに戚夫人を罪に落し入れ自分の奴隷にしました。そして長く美しい髪を剃り落とさせ、一日中、豆を搗つかせる重労働を科します。その間に呂雉は趙王、劉如意を長安に呼び出して毒殺しました。

復讐の鬼に変貌する呂雉

次に重労働でやせ衰えた丸坊主の戚夫人を引きずり出し、悲鳴をあげる戚夫人の両手と両足を切断します。激痛に悶えながら助けを求める戚夫人をつかまえ、両眼をくり抜いて視力を奪い無理矢理に毒を飲ませて、耳と喉を潰しました。

「豚は豚に相応しい場所に行くがよい」

呂雉は血まみれの戚夫人を部下に担がせると、豚便所に叩き落とします。

恵帝が人豚を見て精神を病む

糞尿にまみれ豚とともにうごめいている、かつて戚夫人だった人豚を見下ろし、呂雉は狂ったように笑い転げます。そして、こんなに面白い見世物を独占しておくのは勿体ないとして息子である恵帝を呼び出し、豚便所でうめき声をあげる戚夫人を見せます。

しかし便所は薄暗く、恵帝には母が自分に何を見せたいのか分かりません。

「母上、あの豚の中でうごめいている得体が知れないものはなんですか?」

「おや、わからないのかい盈えい?あれは私の奴隷の戚夫人だよ」

その瞬間、恵帝の顔から血の気が引きました。あの美しかった戚夫人が豚便所で糞尿に塗れ、芋虫のようにうごめいている。恵帝はたまらず嘔吐し急いで部屋を出て行きました。

繊細な神経を持つ恵帝は母の仕打ちが理解できず、以後は心を病んで酒と女に溺れ、即位から数年で崩御します。人豚の刑2番目の犠牲者は恵帝だったのかも知れません。


人豚の刑はどうやって発想された?

いくら、呂雉が残酷な性格をしていたとしても、何もない所からいきなり人豚の刑を思いつくとは思えません。実は、古代中国では肉刑と呼ばれる刑罰が存在しました。

肉刑とは人体を切断したり、刺青をいれるなど肉体に傷をつける刑罰の事です。逆に身体を拘束するだけで傷をつけない刑罰は自由刑と言います。

呂雉が生きていた時代は、過酷な刑罰で知られた秦帝国が存在した時期でもあり、足斬りや鼻削ぎ、刺青や人体を腰から真っ二つに斬って処刑する腰斬という刑罰がありました。

呂雉は若い頃から、このような肉刑を科された人を見ていたので両手両足を切断し、目をくりぬき耳と喉を潰すという、おぞましい人豚刑を思いついたのかも知れません。

今回は、呂雉が最初に考案したと考えられるおそましい処罰、人豚の刑を紹介しました。

いくら憎くても、恨んだ相手の四肢を切断し、目をくりぬき耳と喉を潰して便所に落すなど、恐ろしくて実行できそうにありませんが、呂雉は恵帝の死後に呂一族を王に立てて、漢を乗っ取ろうとしたような女傑なので可能だったのでしょうか?
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中国三大悪女に名を連ねた劉邦の妻・呂雉(りょち)とはどんな人?とても怖い実話
https://hajimete-sangokushi.com/2016/02/02/post-9167/


三国志には貂蝉(ちょうせん)を始め、傾国の美女はたくさん登場しますが、悪女と呼ばれる程度でした。今回紹介するのは三国志に出てくる悪女より100倍悪い中国三大悪女の一人が登場します。


中国三大悪女とは唐の武則天。清の西太后。そして呂雉(後の呂后)の三人です。彼女は劉邦(りゅうほう)の妻として、支え続けた奥さんですが、彼が亡くなると豹変します。漢の国を建てた功労者を次々と殺害。

また劉邦の側室を殺し、自らの息子も彼女の豹変ぶりに、ショックを受け、若くして亡くなります。その後新たな皇帝を擁立しますが、気にくわなかったため、殺害。そしてついに自らが皇帝のような振舞いを見せる、物凄い女性です。


劉邦と結婚する

呂公は沛に行った時、劉邦を一目見て気に入り娘を嫁がせます。この時、劉邦に嫁いだのが、若かりし呂雉です。彼女は後年見せた野心と嫉妬の塊のような激しい女性ではありませんでした。いつも遊び歩いている夫・劉邦の代わりに、彼の実家を手伝うしっかりとした女性でした。

項羽に捕えられ捕虜になる

始皇帝が死に各地の豪族が反乱。中華は天下統一以前の状態に戻ってしまいます。劉邦も地元の沛県で独立。

項羽と劉邦

呂雉は劉邦が各地を転戦しているため、父親や息子らと共に夫の留守を守っておりました。呂雉は風の噂で劉邦が項羽の本拠地彭城を陥落させたと聞きます。

彼女は夫の勝利を喜びもつかの間、項羽によって劉邦は敗北したと知ります。その後呂雉や劉邦の父親は項羽の軍勢に捕えられ捕虜にされてしまいます。


初代漢帝国の皇后へ

呂雉は項羽の捕虜となりますが、不自由な暮らしもなく、丁寧な扱いをされながら過ごします。項羽の元でのんびりと暮らす事二年後、呂雉はようやく捕虜から解放。彼女は劉邦の父と共に2年ぶりに劉邦の元へ帰ります。その後項羽は劉邦に滅ぼされ、天下統一を果たします。


劉邦は天下統一をすると国号を「漢」とし、皇帝になります。そして、今まで苦労欠けた妻呂雉を皇后にたてます。


劉邦の後継を巡って争い勃発

漢の国内は天下統一後も各地で反乱が頻発。劉邦は反乱を平定するため、自ら出陣する事が多く、首都である長安に居る事はほとんどありませんでした。劉邦が首都にいない間、後宮では劉邦の後継者を巡って激しい暗闘が始まっておりました。呂雉はそう言った暗闘に加わるも、夫劉邦の留守を持ち前のしっかりとした性格で預かります。


漢の功臣韓信の謀反

紀元前196年大事件が勃発します。漢の創業の功臣である韓信(かんしん)が謀反を企てていると報告を受けます。呂雉はこの事件を宰相である簫何(しょうか)に相談。呂雉は簫何と何度も相談を重ね、韓信をおびき出す策を計画します。韓信は二人が作った策にまんまと嵌り、首都長安にきて逮捕されます。


劉邦と簫何

彼は漢の名将といっても過言ではないのですが、簫何を絶大に信頼していた為、彼の呼びかけに応じてしまい、長安へ赴いてしまうのです。呂雉は韓信を捕えると、謀反を企てた罪で処断します。


皇太子劉盈(りゅうえい)の地位を盤石にする

呂雉は韓信の反乱を未然に防いだ後、後宮で起きていた劉邦の後継者争いを止めるべく、天才軍師張良(ちょうりょう)の助けを借りて、皇太子劉盈の地位を盤石にします。こうして後継者争いに終止符を打つことに成功します。

自らの権力を強大化させる呂雉
劉邦の息子を補佐する曹参(そうしん)

呂雉の努力により、劉邦の死後皇太子劉盈が漢の二代目皇帝となります。呂雉は彼が皇帝になると、後見役として皇太后になります。皇太后になった呂雉は、趙王劉如意(りゅうにょい)や彼の母親戚夫人(せきふじん)、斉王劉肥(りゅうひ)などを殺害しようと企てます。斉王劉肥は皇帝劉盈が匿った為、命拾いしますが、劉如意と戚夫人は呂雉によって殺害されます。趙王の母親は劉邦が生きている時、かなり気に入られた側室であったため、彼女の殺し方は残虐を極めました。


戚夫人に復讐を行う

呂雉は戚夫人を奴隷に落とします。さらに趙王劉如意を殺害した後、彼女の目をえぐりとり、両手・両足を斬りおとし、目と耳を薬で潰します。その後トイレにおいて人豚(じんとん)と家臣や一族に呼ばせます。(古代中国のトイレは穴の中に豚を飼って、糞尿を始末していたそうです)

劉盈母の残虐さを目の当たりにし、亡くなる

皇帝劉盈は母の残虐さを目の当たりにし、ショックで仕事が手につかなくなります。彼はこのショックから立ち直れず、若くして亡くなってしまいます。呂雉は彼が亡くなった事を悲しみますが、涙は出てきませんでした。

漢帝国の安定を図る

呂雉は三代目皇帝を立て、兄弟や甥、従兄弟などを重職につけ、呂氏一族や漢帝国の功臣で従順な陳平などと共に乱れた漢帝国の建て直しを図ります。彼女は漢帝国の政治の安定を図ろうとする一方、王となっている側室が生んだ劉邦の子供達を次々に殺し、空白となった王位に自らの身内を送り込み、反抗する勢力に圧力をかけていきます。


三代目皇帝を殺害

三代目皇帝は彼女に対して、すごく反抗的でした。最初は多めに見ていた彼女ですが、次第に三代目皇帝が、目障りになり、殺害。新たな皇帝を擁立。自らは四代目皇帝の後ろ盾となり、政治の実権を握り、漢帝国の政治を行っていきます。


仕事をしない功臣達

漢帝国の功臣達は、彼女が暗殺を何回も行った事で不信感と彼女に暗殺されるのではないかという恐怖感がぬぐえず、仕事を行なわなくなります。そのため彼女の一族が政治を取り仕切り、漢帝国は事実上、呂氏一族の国になってしまうのです。こうして巨大な漢帝国の主として実権を握った彼女ですが、ついに亡くなるときが来ます。


漢帝国の主・呂皇后死す

劉邦の死後、漢帝国の主として君臨し続けた彼女でしたが、幕を閉じる時がやってきました。彼女は重い病にかかります。彼女は自らの死期を悟り、一族の者達に兵を動かす事の出来る重職につけます。さらに彼女は一族に「旦那様が生きていた頃の家臣には十分に気を付けなさい」と執拗に言い残します。権力保持と復讐の日々を過ごした中国三大悪女呂雉は亡くなります。

漢帝国の女主呂雉は亡くなります。その後陳平や劉邦の子供達と共に呂氏一族を皆殺しにします。

そして再び劉氏が漢帝国の実権を握ることになり、漢の五代目皇帝文帝が誕生します。彼は呂氏によって乱れきった政治を安定させることに成功。文帝と景帝の治政を合わせて世に言う「文景の治」呼ばれる事になるのです。
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38:777 :

2023/10/03 (Tue) 18:29:30

【項羽と劉邦】キングダム後の世界をわかりやすく解説!〜秦の滅亡はなぜ起こったのか〜
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