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曹植『洛神の賦』

1:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/08 (Sun) 09:55:51

【国宝は語るⅢ~(1)洛神賦図】 - YouTube
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【端午奇妙游】又杀疯了!水下飞天舞《祈》 绝美演绎洛神飞天 Underwater Flying Dance "Pray", a beautiful interpretation of Luoshen - YouTube
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爆火“出圈”!洛神水下绝美飞天,唐宫夜宴一秒梦回大唐......全网直呼:再来亿遍!【中国风舞蹈 Chinese dance】 - YouTube
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曹植『洛神の賦』
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黄初三年、余 京師に朝し、還りて洛川を済る。古人 言える有り、斯の水の神、名は宓妃(ふくひ)というと。宋玉の楚王に対えて神女の事を説けるに感じ、遂に斯の賦を作れり。其の辞に曰く、  

黄初三年、私は朝廷に参内し、帰途洛水を渡った。古人の言い伝えでは、この川の神の名を宓妃というとのことである。私は、かつて宋玉が楚の襄王に神女の事を説いたことに思い起こして、この賦を作った。それは以下の通りである。
 

余 京城従り、言 東藩に帰る。伊闕を背にし、轘轅(かんえん)を越え、通谷を経て、景山に陵る。日は既に西へ傾き、車は殆れ 馬は煩う。爾して迺ち駕を衡皐に税し、駟たちを芝田に秣い、陽林に容与し、洛川を流眄す。是に於て 精 移り 神 駭き、忽焉として思い散ず。俯しては則ち未だ察せざるも、仰ぎて以て観を殊にす。一麗人を巌(いわお)の畔に覩る。迺ち御者を援きて之に告げて曰く、爾は彼の者を覿たること有りや。彼は何人にして此くの若く艶なるや。御者 対えて曰く、臣聞く 河洛の神、名づけて宓妃と曰う。然らば則ち君王の見し所は、迺ち是れ無からんや。其の状 若何、臣 願わくは之を聞かん。余 之に告げて曰く、  

私は都より、東のわが領土に帰ろうとしていた。伊闕をあとにし、轘轅山を越え、通谷を経て、景山に登った。日はすでに西に傾き、車は傷み、馬は疲れた。そこで車を香草繁る沢にとどめ、馬たちに霊芝が生えている場所で飼葉を与え、やなぎの生い茂る林で休息し、洛水を眺めていた。やがて、こころは別世界に誘われ、思いは遥か彼方に飛翔していく。それとなく眺めている間は気付かなかったが、顔を上げて目を凝らせば、ひとりの麗人が巌の傍らに立っていた。そこで私は御者を引きよせ、彼に尋ねた。
「おまえにも彼女が見えるかね。一体何者だろう、あのように美しいお方は」
 御者は答えて言った。
「洛水の神で、宓妃という方がいらっしゃると聞いております。王がご覧になっているのは、その女神ではありませんか。そのご様子はいかがなものでしょう。私にもお聞かせ願いたいものです」
 私は彼にこう告げた―――


【伊闕・轘轅山・通谷・景山】すべて洛陽近くの地名。 【やなぎの生い茂る林】「陽林」は「楊林」が転じて地名となったという。やなぎの群棲地か。「楊」は「柳」とちがって枝が垂れない。


 
其の形や、翩たること驚鴻の若く、婉たること遊寵の若し、秋菊より栄曜き、春松より華やかに茂る。髣髴たること軽雲の月を蔽うが若く、飄颻たること流風の雪を迴らすが若し、遠くして之を望めば、皎 太陽の朝霞より升るが若し、迫りて之を察れば、灼として芙蓉の淥波より出づるが若し。襛繊 衷ばを得、脩短 度に合す。肩は削り成せるが若く、腰は素を如約ねたるが如し、廷びたる頸 秀でたる項、皓き質 呈露す。芳澤 加うる無く、鉛筆 御せず、雲髻 峩峩として、脩眉 聯娟たり。丹脣 外に朗り、皓齒 内に鮮やか、明眸 善く睞し、靨輔 権に承く。瓌姿は豔逸にして、儀は静かに体は閑なり。柔情 綽態、語言に媚あり。奇服 曠世にして、骨像 図に応ず。羅衣の璀粲たるを披り、瑤碧の華琚を珥にし、金翠の首飾りを戴き、明珠を綴りて以て躯を耀かす。遠遊の文履を踐み、霧綃の軽裾を曳き、幽蘭の芳藹たるに微れ、歩みて山隅に踟蹰す。  

その姿かたちは、不意に飛びたつこうのとりのように軽やかで、天翔る竜のようにたおやか。秋の菊よりも明るく輝き、春の松よりも豊かに華やぐ。うす雲が月にかかるようにおぼろで、風に舞い上げられた雪のように変幻自在。遠くから眺めれば、その白く耀く様は、太陽が朝もやの間から昇って来たかと思うし、近付いて見れば、赤く映える蓮の花が緑の波間から現われるようにも見える。肉付きは太からず細からず、背は高からず低からず、肩は巧みに削りとられ、白絹を束ねたような腰つき、長くほっそり伸びたうなじ、その真白な肌は目映いばかり。香ぐわしいあぶらもつけず、おしろいも塗っていない。豊かな髷はうず高く、長い眉は細く弧を描く。朱い唇は外に輝き、白い歯は内に鮮やか。明るい瞳はなまめかしく揺らめき、笑くぽが頬にくっきり浮かぶ。たぐい稀な艶やかさ、立居振舞いのもの静かでしなやかなことこの上ない。なごやかな風情、しっとりした物腰、言葉づかいは愛らしい。この世のものとは思われない珍しい衣服をまとい、その姿は絵の中から抜け出してきたかのよう、きらきらひかる薄絹を身にまとい、美しく彫刻きれた宝玉の耳飾りをつけ、頭上には黄金や翡翠の髪飾り、体には真珠を連ねた飾りがまばゆい光を放つ。足には「遠遊」の刺繍のある履物をはき、透き通る絹のもすそを引きつつ、幽玄な香りを放つ蘭の辺りに見え隠れし、ゆるやかに山の一隅を歩んでいく。


是に於て忽焉として体を縱にし、以て遨び以て嬉しむ。左は采旄に倚り、右は桂旗に蔭る。皓腕を神滸に攘げ、湍瀬の玄芝を采る。余が情 其の淑美を悦ぶも、心 振蕩して怡ず。良媒の以て懽を接うる無く、微波に託して辞を通ぜん。誠素の先ず達せんことを願い、玉佩を解きて以て之を要す。嗟 佳人の信に脩き、羌 礼に習いて詩に明らかなり。瓊珶を抗げて 以て予に和し、潜淵を指して期と為す。眷眷たる款実を執るも、斯の霊の我を欺かんことを懼れ、交甫の言を棄つるに感じ、悵として猶予して狐疑す。和顔を収めて志を静め、礼防を申べて以て自らを持す。  


やがて突然、身も軽やかに遊びたわむれる。左に色どりある旗に寄り添ったかと思えば、右に桂の竿の旗に身を隠す。神のおわします汀(みぎわ)で白い腕を露わにし、たぎる早瀬の玄(くろ)い霊芝を摘む。私の心は その滑らかな美しさに惹かれつつ、胸は不安に高鳴って落ち着かない。ここには私の想いを伝える適当な仲人がいないから、せめて小波(さざなみ)に託して この気持ちを届けよう。何より私の真心が彼女に伝わるように。この身におびた玉を解いて、心の証としよう。 ああ、佳人のなんとすばらしいこと、奥ゆかしくも礼儀をたしなみ、詩の道にも明るい。美しい玉をかざして、私にこたえ、深い淵を指さして誓いをたててくれた。私は切々たる慕情を抱いているが、一方で、この女神が欺くのではないかと不安を覚えた。鄭交甫が女神から約束を反故にされた話を思い出し、心は沈み、疑いは晴れずためらう。そこで表情を改めて、心を平静にし、礼法に従って自らを保った。


【私の真心が彼女に伝わる】原文「誠素之先達」。女神のモデルが甄氏だとする説では、この部分を、曹丕に先んじて甄氏を妻としたいという願望だと解する。ここでは一応、そういう欲求や俗っぽい気持ちは後回しにして、とにかく自分の純粋な愛情が伝わって欲しいという意味に解してみた。 

【鄭交甫が女神から約束を反故にされた話】鄭交甫は、漢水のほとりで江妃二女(長江の女神)と言葉を交わし、佩玉を貰い受けたが、数十歩あるいたところで懐の佩玉は消え失せ、女神の姿も見えなくなった(『列仙伝』)。 

 
是に於いて洛の霊は焉に感じ、徙倚傍徨し、神光は離合し、乍ち陰く乍ち陽し。軽躯を竦げて以て鶴のごとく立ち、将に飛ばんとして未だ翔けざるが若し。椒塗の郁烈たるを踏み、衡薄に歩みて芳を流す。超えて長吟して永く慕い、声は哀しく厲しくして弥いよ長し。爾して迺ち衆霊は雑遝して、儔に命じ侶に嘯く。或いは清流に戯れ、或いは神渚に翔けり、或いは明珠を采り、或いは翠羽を拾う。南湘の二妃を従え、漢浜の游女を攜う。匏瓜(ほうか)の匹無きを歎き、牽牛の独り処るを詠す。軽袿の猗靡たるを揚げ、脩袖を翳して延佇す。体は飛びたつ鳧より迅く、飄忽なること神の若し。波を陵ぎて微かに歩めば、羅韈 塵を生ず。動くに常則無く、危きが若く安きが若し。進止 期し難く、往くが若く還るが若し。転じて眄れば精を流し、玉顏を光潤にす。辞を含みて未だ吐かず、気は幽蘭の若し。華容 婀娜として、我をして餐を忘れしむ。  

すると洛水の女神は、私の態度に感じ入り、立ち去る様子もなく辺りをさまよう。その神神しい光は、姿が見え隠れするにつれ、時に暗く、時に明るく変化する。軽やかな体を伸ばして、鶴のように爪先立ち、まるで今にも飛びたとうとしてとどまっているかのよう。山椒のしげる道を歩けば、馥郁(ふくいく)たる香りが生じ、香り草の群れる草原を行けば、芳香が辺りに漂う。悲しげに長く尾を引く彼女の歌声は、永久の想いへと誘(いざな)い、哀調にみちた声はいつまでも続く。そのうちに神々はつどい集まり、互いに仲間を呼びあって、滑らかな流れに戯れたり、聖なる渚に飛び翔って、真珠を採ったり翡翠の羽を拾ったりしている。はるか湘水より、二人の妃が馳せ参じ、漢水に遊ぶ女神と手を取り合う。私を天に一人かかる匏瓜星のようだと嘆かれ、牽牛星のように孤独だと歌われる。女神は風にそよぐ軽やかな打掛けを翻し、長い袖をかざして、こちらをじっと見つめる。体は飛びたつ鴨よりも素早く、さながら神霊にふさわしくふわふわととらえどころがない。波を踏んでゆるやかに歩めば、薄絹の足下より塵が立ちのぼる。動作にはまるで筋道がなく、崩れそうであり、また揺るぎ無いようでもある。いつ進み、いつ止まるとも予期できない。去って往くようでもあり、戻って来るようでもある。流し目すれば、強烈な光を生じ、玉のような顔は艶やかさを増し、唇はもの言いたげ、息づかいは幽蘭のように芳しい。美しくしなやかなその姿は、食事することさえ忘れさせるほどだ。


【牽牛星のように孤独】「牽牛」はわし座のアルタイル。「織女(琴座のヴェガ)」とは銀河の両側に離れていて、7月7日に会えるだけ。 



是に於いて屏翳は風を収め、川后は波を静む。馮夷は鼓を鳴らし、女媧は清歌す。文魚を騰げて乗を警め、玉鸞を鳴らして偕に逝く。六龍 儼として其れ首を斉しくし、雲車の容裔たるに載る。鯨鯢 踊りて轂を夾み、水禽 翔りて衛を為す。是に於いて北沚を越え 南岡を過ぎ、素領を紆し 清揚を迴し、朱脣を動かして徐に言い、交接の大綱を陳ぶ。人神の道の殊なるを恨み、盛年の当る莫きを怨む。羅袂を抗げて涕を掩い、涙 襟に流れて浪浪たり。良会の永く絶ゆるを悼み、一たび逝きて郷を異にするを哀しむ。「微情以て愛を効す無ければ、江南の明璫を献ぜん。太陰に潜み処ると雖も、長く心を君王に寄す」と。忽ち其の舎まる所を悟らかにせず、悵として神 宵くして光を蔽いぬ。  


ここにおいて、風の神は風をおさめ、川の神は波を静めた。憑夷は鼓をうち、女媧(じょか)は高くすんだ声で歌う、文魚は飛びあがって先駈けをつとめ、車は玉の鈴を鳴らしながら、一斉に発進する。六頭の竜は厳かに首をもたげ、女神の雲の車をゆるやかに引く、鯨は躍りあがって左右を守り、水鳥は天翔けて護衛する。 ついに北の中洲を越え、南の丘を過ぎると、女神は白いうなじを巡らし、すずやかな瞳を振り向け、朱い唇を動かし、静かに男女の定めを説いた。そして、悲しいかな人と神の道は交わることなく、供に幸せな時間を過ごすことは許されないと嘆くと、薄絹の袖をあげて咽(むせ)び泣き、涙ははらはらと襟にこぼれ落ちる。これから先は逢瀬の途絶えてしまうことを悲しみ、ひとたびここを去れば、住む世界を異にすることを哀しんだ。
「これより先は、ささやかな愛の言葉も語れません。今、江南の真珠の耳玉をさし上げましょう。たとえ、鬼神の住む世界に隠れる身となっても、いつまでも君を想っています」
 そう言い残すと、女神の姿は見えなくなり、悲しくも幽暗のうちに、その光芒を沈めてしまった。


【憑夷】水神の名、河伯のこと。『清冷伝』に、「憑夷は華陰潼郷隄首の人なり。八石を服して水仙たるを得たり。これを河伯と為す」 

【女媧】上古の女帝、媧皇ともいう。(『礼記』「明堂位」) 



是に於いて下きを背にし高きに陵れば、足は往くも神は留まる。情を遺して想像やり、顧み望みて愁いを懐く。霊体の復形冀い、軽舟を御して上遡り、長川に浮かびて反るを忘れ、思いは緜緜として慕うを増す。夜 耿耿として寐られず、繁霜に霑れて曙に至る。僕夫に命じて駕に就かしめ、吾 将に東路へ帰らんとす。騑の轡を攬りて策を抗げ、悵として盤桓として去ること能わず。  


かくして私は、低い水辺をあとにし、高みへ登っていく。足は進むが、心はあとに残る。募る想いは押さえ切れず、女神の姿を思い描き、何度も振り返ってみては、また愁いに閉ざされる。再び女神が現れてくれることを願いながら、小舟をあやつり、流れを溯り、どこまでも漕いで行き、帰ることさえ忘れてるほどに、恋い慕う気持ちはますます募り、夜がふけても心は休まらない。いつまでも寝付けないまま、気がつくと激しい霜に身を濡らし、いつの間にか朝を迎えていた。私は御者に命じて車の準備をさせ、ついに東への帰路に旅立とうと心に決めた。そこで副え馬の手綱を取り、鞭をくれようと手をあげたが、胸がふさがって思い切りがつかず、いつまでも立ち去ることが出来ずにいた。

【流れを溯り】『詩経』「秦風 蒹葭(けんか)」に、「蒹葭 采采たり、白露 未だ巳まず。謂(おも)う所 伊(か)の人、水の一方に在り。遡迴して之に従わんとすれば、道阻(けわ)しく且つ長し。遡游して之に従わんとすれば、宛(さなが)ら水の中央に在り」とある。


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 【『洛神賦』】この作品の制作動機については、古来有名な説がある。

『文選』李善注が引く『感甄記』によると、この洛水の女神のモデルは兄曹丕の妻甄氏であるという。 甄氏(182~221)は、曹操と対立していた袁紹の次男袁熙の妻だった。しかし、袁氏の本拠地鄴を落とした時、曹丕が自分の妻にした。この時、曹植も彼女を妻にと望んだが、結局叶えられなかった。 時は流れて、甄氏は曹丕の寵愛が衰えたため、不幸にも死を賜わった。

甄氏の死後、曹植が洛陽に参内したところ、文帝は、甄氏の枕を取り出し、それを弟に与え、曹植はそれを見て涙を流した。その帰途、曹植が洛水にさしかかった時、甄氏の幻影が現われ、彼女も本当は曹植を愛していたと伝えた。甄氏の姿が消えた後、曹植は感極まって、この賦を作ったという。

よって、この賦のタイトルは、最初『感甄賦』だったが、明帝(曹丕と甄氏の息子)の目に触れるところとなり『洛神賦』に改められた―――。

しかし、多くの学者が、この話は悲劇の美女・甄氏と悲劇の王子・曹植への同情からうまれた後世の人の附会だろうとしている。理由として、時代が新しい書物にしかこの手の記述がないこと、あまりに話が俗っぽいこと、また二人の年齢差(曹植は10歳年下)があげられる。

この説は広く流布していたらしく、晩唐の詩人 李商隠(813~858)は、その作品の中で「宓妃 枕を留めて 魏王は才有り」とよんだ。 もう一つの説は、女神=文帝説。女神への愛情とだぶらせて、兄に対する変わらぬ思慕を伝えようとしたらしい。が、こちらも根拠があるわけではない。それに「女神=曹丕」にしては、女神の身体描写が執拗に過ぎる気がしないでもない。

「モデルが誰か」問題とともに、制作年代も諸説ある。序によると、黄初3年(222年)、洛陽から鄄城への帰途、洛水を渡って作ったことになっているが、序は本人のものではないという説もあり、本文の内容から明らかになることは、曹植が王に格上げされて(222年4月)以降で、洛陽に入朝した帰路で作られたということになる。これは『三国志』によると、223年の洛陽入りしか記録がないが、史書から漏れているだけで、曹植は222年にも参内した(王に封じられたことに感謝するため)という説がある。しかし222年は、文帝がほとんど洛陽にいないから、洛陽で朝見した事実はないだろう。仮に史書の記録を優先して223年に作られたとすると、223年6月に伊水と洛水が氾濫して、流域で家屋が流され、多くの人民が犠牲になるという天災にみまわれており、洛水に溺死したとされる宓妃の悲恋を賦したのは、それと何らかの関連があるかもしれない。

まあでも、動機がなんであれ、モデルが誰であれ、洛神賦が名作であることに変わりはない。

→女神モデルに関する管理人の個人的意見はこちら。
 http://sikaban.web.fc2.com/megami.htm


【洛水】洛陽の南を流れる川。黄河に流れこむ。洛陽は、この洛水の北(=陽)に位置することから、この名が付けられた。 【宓妃】洛水の女神。「宓妃は宓(あるいは伏)義氏(=古代の伝説上の皇帝)の女(むすめ)にして、洛水に溺死して神となる」(『文選』李善注)。「宓妃」は、古いものでは『楚辞』「 離騒」に登場する。それ以降、曹植がこの賦を作る以前にも、揚雄『甘泉賦』、蔡邕『述行賦』などに登場する。 【神女の事】宋玉(紀元前290?~222)の『高唐の賦』『神女の賦』を指す。『高唐の賦』は楚の襄王に向かって、先王が巫山の女神と夢でちぎった話をして、高唐のさまを語り聞かせ、『神女の賦』は、その夜、楚の襄王が夢の中で邂逅した神女の様子を賦したという構成になっている。ただし、この作品の女神は「宓妃」ではない。また、陳琳・王粲・楊脩にも『神女賦』(『芸文類聚』「巻79 霊異部 神」)がある。
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2:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/08 (Sun) 10:01:51

『洛神賦』~女神モデルを巡る一考察~
http://sikaban.web.fc2.com/megami.htm

 『洛神賦』は曹植作品の中でもとりわけ名作である。にもかかわらず、過去において、作品の素晴らしさより、ともすれば誰が女神のモデルかということが熱心に議論されてきた。ある意味不幸な作品である。だから、ここでは「モデルが誰か」問題を論じるのではなく、その作品の魅力について語ってみよう!……というわけではなくて、やはり「女神モデルが誰か」という不毛な議論に突入することになる。すみません。


ひととおり、基礎知識は本編解説で確認していただくとして→『洛神賦』を読む  


 そもそも、なぜ「モデルが誰か」が問題になるのかというと、曹植の描き出す女神は非常に美しく、何とも言えないリアリティが漂っているからである。だからこそ「これには誰か現実のモデルがいるはずだ!」という憶測が生まれ、「甄氏説」が登場し、さらにそれを否定する形で「文帝説」が出てきたのではないかと思う。
 『洛神賦』の序によると、曹植は宋玉の『神女賦』に影響を受けてこの賦を作ったことになっている。また王粲・陳琳・楊脩にも『神女賦』が残っており、彼らも同様に宋玉の作品に影響を受けて作ったと思われる。しかし、曹植が『洛神賦』を作ったとき、すでに王粲らは亡くなっており、曹植はひとり別のタイミングでこの賦を作ったようだ。
 ところで、宋玉『神女賦』に登場する女神は、「洛水の女神」ではない。王粲・陳琳・楊脩の『神女賦』に登場する女神は、作品が断片しか残っていないため特定不能だが、少なくとも「洛水の女神」であると思われるような記述はない。ならば、なぜ曹植は「洛水の女神」を邂逅相手に選んだのか。


 例えば「文帝説」なら、魏は洛陽に都を作ったのだし、洛水にゆかりの女神を選んでも不思議はない。一方、「甄氏説」では、洛水に関連のない甄氏がモデルというのがどうも納得しがたい。甄氏は魏が洛陽を都とした後も、洛陽には連れて来られず、最後は鄴で死を迎えている。
 「文帝説」だと内容も説明しやすい。曹植と曹丕は、兄弟であっても簡単に会えない状況にあった。しかも、曹丕やその周辺の人物から、後継者の座を争った曹植が猜疑の目で見られているのは確実だった。そこで、女神への思慕に託し、兄へ変わらぬ忠誠を誓ったのだ、と。
 ただ一つ疑問なのは、曹植→女神の思慕は曹植→文帝の忠誠と重ねても構わないだろうが、女神→曹植も、同様に深い思慕を抱いている点である。要するに、女神と曹植は相思相愛なのである。理由がどうであれ、身内を迫害した文帝と曹植が相思相愛と言えるだろうか?
 いや、相思相愛は曹植の願望だという解釈もできるし、曹丕は曹植を庇えるだけ庇ったのだという美しい兄弟愛と解釈すれば、それが成り立たなくもない。通常、後継争いに敗れた場合、「殺される」か「亡命する」の二者択一しかないのだが、結局、曹丕は曹植を殺さず、曹植も亡命のお誘い(=蜀が出した227年3月の詔など)はあっても、それに乗ろうとはしなかった。
 ただ、そうだとしても、兄の弟に対する気持ちは、「たとえ、鬼神の住む世界に隠れる身となっても、いつまでも君を想っています」という境地ではない。さらに言えば、この一文からも窺えるように、もしモデルがいるなら、やはりその人はすでに死んでいる方が納得できるのである。「甄氏説」が優勢だったのも、甄氏がこの賦の製作時点ですでに悲劇的な死を迎えていたという点が、よりストーリーと寄り添う形であったことが大きいのではないだろうか。そういう点からも、賦の制作当時、まだ存命だった文帝ではモデルとして弱いのではないかと思う。
 また、女神=甄氏と考えた場合であれば、その真意を隠すため、宓妃への恋心に置き換える必要があるだろうが、文帝に対する忠誠なら、ストレートに伝えたって何の問題もない。実際、曹植は兄に対して、服従する旨の上奏や献詩を行っていて、わざわざ宓妃を持ち出し、むしろ誤解を受けるかもしれないような曖昧な描写をする必要はない。
 さらに、『洛神賦』には、女神が自分を欺くのではないかと疑う描写がある。私の直感でしかないけれど、曹植という人は、兄弟に対してそういう描き方をする人ではないように思う。曹植の身内に対する愛情は絶対的なもので、だからこそ美しい。そういうちょっと浮世離れしてるんじゃないかと思わせるほどの感覚が、曹植の作品を普通の人の作品とは別次元のものにしているのだと思う。


 というわけで、私はここまで、現在よく知られている2説を否定してきた。どちらにもこれといった決定打がなく、以前からなんとなく「どちらも違うのでは?」という気持ちがあった。しかし、『洛神賦』には、誰かモデルがいるのではないかと思わせる何かがある。そこで、私は別のモデルがいるのではないかと考えた。洛水に関係があり、曹植と相思相愛で、すでに死んだ人―――というと、私には楊脩しか浮かんでこなかった。


 楊脩は弘農華陰の人である。華陰は華山の北という意味で、長安と洛陽の間に位置する。洛水もまた華山を源流とし、洛陽付近で黄河と合流する川であり、弘農華陰出身の楊脩は、当然洛水を訪れたことがあったと思われる。しかし、彼の一族は後漢の高官を多く出しているため、生活拠点は弘農華陰ではなく首都洛陽であった可能性が高い。楊脩が洛陽で暮らしていた場合、それこそ洛水は常に目の前にある身近な存在ということになる。
 『洛神賦』で、曹植は「陽林」でくつろいでいる時、洛水に女神を見た。「陽林」は「楊林」と作るテキストもあり、李善注に「陽林,一作楊林,地名,生多楊,因名之。」とあるように、そこは文字通りやなぎの群生地であった。そして、楊はもちろん楊脩の姓でもある。だから、女神=楊脩と考えた場合、たとえば陽林=楊林=ヤナギの林=楊氏一族の墓地という隠喩で、曹植はそこで楊脩の亡霊に会ったという物語を連想することもできるかもしれない。
 楊氏一族の墓地は、おそらく洛陽の北東に位置する芒山にあった。後漢~三国時代にかけて、多くの皇族や大臣たちがこの山に葬られた。楊脩の家も後漢の高官を輩出する家柄であるため、芒山に代々に葬られていたと思われる。
 芒山は地形的に言うと、黄河とその支流である洛河(=洛水)に挟まれた場所にあり、山腹から洛水を眺めることができる。まさに曹植が描写する陽林にぴったりのロケーションである。現在、楊脩の墓は華陰市と勉県にあるが、『三国志集解』には『太平寰宇記』巻三からの引用で、「洛陽芒山有楊修冢(洛陽の芒山に楊修の墓がある)」と書かれており、楊脩の墓もまた洛水を望む芒山にあったとされている。つまり、楊脩の墓参り(=陽林)に行った曹植が、洛水を眺めているとき、楊脩の亡霊(=女神)に会うという連想が可能ではないだろうか。


 しかし、女神=楊脩の場合、ひとつ問題がある。それは『洛神賦』にしばしば登場する「脩」の文字である。
 この文字が『洛神賦』には4回出てくる。「脩」は楊脩の諱であるから、女神=楊脩である場合、その諱を連呼するのは失礼にあたるから使用を避けるのではないか…という疑問がわいてくる。
 実は、曹植が『洛神賦』を制作するきっかけとしている宋玉『神女賦』には、「脩」の字が使われていない。一方、曹植の『洛神賦』は、作品中に「脩」の字を多用している。そのほとんどは「脩=長い」という意味で使っているが、一か所、「佳人之信脩(佳人のなんとすばらしいこと)」という使い方をしている。いくら人柄を讃える文章であるとはいえ、諱そのものはまずい気がする。
 ただ、楊脩の諱は、「脩」と「修」の2説がある。同様に、曹植の作った『洛神賦』も「脩」の文字で伝わっているものと「修」と書かれたものがあり、曹植がどちらの文字を使っていたか定かではない。諸橋大漢和は、「脩の本義はほじし(=干し肉)、修の本義はおさめととのえるで、二者、異なっているが、經傳には両字通用して区別しない。」とあり、つまり「修」=「脩」であり、置き換え可能な文字である。だから、曹植は諱を連呼する必要はなく、ヨウシュウの諱が「修」であれば「脩」の字で、「脩」であれば「修」の文字で、とりあえず失礼を避けることができる。曹植はその逃げ道を使って、あえてこの「脩(または修)」の文字を繰り返し使い、本当の制作の意図をこの作品に刻み込んだのではないだろうか。


 『洛神賦』の中で、人間である曹植と、神である洛神は、決して結ばれない運命にあった。それは曹植と楊脩に当てはめると、この時点ですでに死者と生者であったという意味でもそうだし、後漢から帝位を奪おうとする曹操の息子である曹植と、四世太尉を輩出した後漢の名門出身の楊脩の立場にも重なる。楊脩の父・楊彪は、かつて政治的に曹操と対立し、投獄され、いつ殺されてもおかしくない状態になったことがある。なんとか殺されずにすんだが、すでに後漢の命運が尽きたと判断した楊彪は、曹操に仕えることを潔しとせず、政界から身を引いた。また、かつて曹操も、楊彪に殺されるのではないかという危惧をいだいた事があり、親同士は「殺るか殺られるか」の殺伐とした関係だったことがわかる。
 楊脩がなぜ曹植と親しく付き合ったのか、その真意は分からないが、少なくとも曹植の方は、楊脩という人をかけがえのない大切な人だと思っていた。その気分は『與楊徳祖書』で十分語られているし、『柳頌序』で曹植は楊脩のことを「友人楊徳祖」と記し、彼は無実の罪をかけられていると思っていたようである。これは「序」のみで本文が伝わらないが、蘇彦によると、その本文は「辞義慷慨、旨在其中」(芸文89)であったとされる。
※『藝文類聚』巻89「木部下 女貞」では、タイトルが『楊柳頌』となっている。『楊柳頌』と『柳頌』の2作品があったと考えることも可能だが、おそらく同じ作品ではないかと思う。


 楊脩は、曹丕が世継ぎに決まった後、曹操によって殺された。曹操の目に、曹植と楊脩の関係は、今後のために危険だと映っていたのだろうか。それでも、曹植派として族滅させられた丁兄弟とは違って、楊脩の一族や子供は巻き添えを食わなかった。それどころか、曹操は、申し訳ないが貴方の息子を殺すしかなかったという言い訳めいた手紙(『與太尉楊彪書』)まで楊彪(楊脩の父)に書き送っている。遺体も、おそらく丁重に楊彪の元へ送り届けられたことだろう。そして、曹植が『洛神賦』を作った時期では、すでに芒山に葬られていたと思われる。
 洛水の女神は「永遠に君を想う」と伝えて、姿を隠してしまう。楊脩は「自分は死ぬのが遅かったと思っている」という言葉を残し、曹操に処刑され、曹植の目の前から姿を消した。


 曹植にとって、楊脩はすでに「住む世界を異にして」いて、再び会うことは叶わない存在になっていた。楊脩が曹植とつきあい続けたのは、何らかの目的があったのか、純粋な友情からなのかはわからない。また「死ぬのが遅かった」という言葉の真意もよくわからない。しかし、最後は罪に問われ、父に処刑されるという形であった以上、曹植は楊脩のために誄を書くことも許されなかっただろう。だから、誄は書けないけれど、人にはそれとはっきりわからない形で、楊脩に捧げる文章を作りたい、そう思って、曹植は『洛神賦』を作ったのではないだろうか。
 また、女神=楊脩であるなら、『洛神賦』は単なる誄以上の意味があったのではないかと思う。曹植は、『柳頌序』でも書いていたように、楊脩が冤罪で殺されたのだと理解していた。それなら、この『洛神賦』は、ただ楊脩への哀悼文であるだけではなく、当時の権力を握っている人々に対する批判の意味もあっただろう。だからこそ、曹植はモデルを誰とも明かさず、口にすることが許されない公への不満を、女神への思慕という甘いベールで包み、今は亡き楊脩のため、天に訴えたのではないだろうか。


 古来、洛水の女神へ賛辞は、美しい嫂(あによめ)へ捧げられたのではないかと疑われてきた。しかし、仮に絶世の美女・甄氏を彷彿とさせる美女の鮮やかな描写が、「本当の目的」を曇らせるための修辞だとしたら、人々は曹植の華麗な詞藻に躍らされていたことになる。 
 女神が消えた後、『洛神賦』の主人公は再び女神の姿を探す。しかし、再会の願いは叶わず、進むことも戻ることも出来ず、最後に立ち尽くし、この物語は終わっていく。曹植はこの最後の段を、宋玉の『神女の賦』と似た表現や展開を使いながら、より丁寧に描いている。誰かを失うその悲しみの表現は、「物語の中の話」と済ませるにはあまりにリアルでせつない。まさにこのリアルな感情こそが、『洛神賦』の魅力であり、女神モデルを多くの人が探さずにはいられなかった理由でもある。もちろん『洛神賦』は作品として美しく、そこに寓意などなくても十二分に成立している。それでも、これからも女神モデルについて考える人は後を絶たないのだろう。

http://sikaban.web.fc2.com/megami.htm
3:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/08 (Sun) 10:27:17

曹植(そう ち/そう しょく、192年 - 232年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての人物。字は子建(しけん)。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の出身。陳王に封じられ、諡が思であったことから陳思王とも呼ばれる。魏の皇族である一方で唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者として、「詩聖」の評価を受けた。才高八斗(八斗の才)・七歩の才の語源。建安文学における三曹の一人。

生涯
曹操の五男で、生母は卞氏。異母兄は曹昂・曹鑠。同母兄は曹丕(文帝)・曹彰。同母弟は曹熊。妃は崔氏(崔琰の兄の娘)[3]。子は曹苗・曹志。娘は曹金瓠(夭折)・曹行女(夭折)。

曹昂・曹鑠が早世すると、建安2年(197年)頃に卞氏が正室に上げられ、曹植は曹操の正嫡の三男となった。幼い頃より詩など数十万言を諳んじた。群を抜いて文章に異才を放つ彼を怪しんだ曹操は「誰かに代筆を頼んだのか」と尋ねた。これに対し曹植は「言出ずれば論と為り、筆を下せば章を成す。顧だ当に面試すべし。奈何ぞ人に倩わんや」といい、曹操に特別寵愛された[5][6]。

建安16年(211年)、平原侯(食邑5000戸)に封じられた。

曹植は礼法に拘泥せず、華美を嫌い、酒をこよなく愛し、闊達さと奔放さを合わせ持った天才肌の貴公子であった。ただし少々それが行き過ぎてしまうこともあり、天子の専用通路(司馬門)を勝手に通ってしまい、曹操を激怒させてしまったこともあった(このことは相当な禍根となったようで、後々まで曹操はそれを嘆いた)。詩人としてのみならず、実際には父の遠征に従って14歳から従軍し、烏桓遠征・潼関の戦い[7]・張魯征討など数多くの戦役に従軍しており、兄たちと同じく戦場で青年時代を送っている。しかし、軍事面においても飲酒によって不祥事を起こしている。関羽が樊城の曹仁を包囲した際に、曹操は曹植を南中郎将・行征虜将軍として援軍に派遣しようとした。しかし、曹植は酒に酔って曹操の招集に応じることができなかったため、徐晃が派遣されたこともあった。

建安19年(214年)には臨淄侯に転封された。この頃より詩・賦の才能がさらに高まり、さらに曹操の寵愛が深くなった。同時に曹丕との後継争いが勃発した。曹植には楊修・丁儀・丁廙・邯鄲淳・楊俊・荀惲・孔桂・応瑒・応璩らが側近としてつき、曹丕には東曹の人がつくようになり、彼らよりもそれぞれの側近たちの権力闘争といった様相が強かったが、建安22年(217年)に正式に曹丕が太子に指名されると、以降は曹植と側近者たちは厳しく迫害を受けることになった[8][9]。

建安25年(220年)に曹操が没すると側近が次々と誅殺され、黄初2年(221年)には安郷侯に転封、同年の内に鄄城侯に再転封、黄初3年(223年)にはさらに雍丘王(食邑2500戸)、以後浚儀王・再び雍丘王・東阿王・陳王(食邑3500戸)と、死去するまで各地を転々とさせられた。

この間、皇族として捨扶持を得るだけに飽き足らず、曹丕と曹叡(明帝)に対し幾度も政治的登用を訴える哀切な文を奉っている。特に曹叡の治世になると、親族間の交流を復することを訴える文章が増えた。曹叡は族父の曹植を起用しようとしたが、讒言で断念した。その後も鬱々とした日々を送り、太和6年(232年)11月28日、「常に汲汲として歓びなく、遂に病を発して」41歳で死去。子の曹志が後を継いだ。

曹植は中国を代表する文学者として名高いが、詩文によって評価されることをむしろ軽んじていた節がある。側近の楊修に送った手紙では「私は詩文で名を残すことが立派だとは思えない。揚雄もそう言っているではないか。男子たるものは、戦に随って武勲を挙げ、民衆を慈しんで善政を敷き、社稷に尽くしてこそ本望というものだ」と語っており、曹丕が「文章は経国の大業にして不朽の盛事なり」(『典論』論文より)と主張しているのとは、好対照である。


文学作品

漢詩の詩型の一つである五言詩は、後漢の頃から次第に制作されるようになるが、それらは無名の民衆や彼らに擬した文学者が、素朴な思いを詠った歌謡に過ぎなかった。しかし後漢末建安年間から、それまでの文学の主流であった辞賦に代わり、曹植の父や兄、または王粲・劉楨らの建安七子によって、個人の感慨や政治信条といった精神を詠うものとされるようになり、後世にわたって中国文学の主流となりうる体裁が整えられた。彼らより後に生まれた曹植は、そうした先人たちの成果を吸収し、その表現技法をさらに深化させた。

曹植の詩風は動感あふれるスケールの大きい表現が特徴的である。詠われる内容も、洛陽の貴公子の男伊達を詠う「名都篇」や、勇敢な若武者の様子を詠う「白馬篇」のように勇壮かつ華麗なもの、友人との別離を詠んだ「応氏を送る」二首や、網に捕らわれた雀を少年が救い出すという「野田黄雀行」、異母弟とともに封地へ帰還することを妨害された時に詠った「白馬王彪に贈る」、晩年の封地を転々とさせられる境遇を詠った「吁嗟篇」などのように悲壮感あふれるもの、「喜雨」・「泰山梁甫行」など庶民の喜びや悲しみに目を向けたものなど、先人よりも幅広く多様性に富んでいる。南朝梁の鍾嶸は、『詩品』の中で曹植の詩を最上位の上品に列し、その中でも「陳思の文章に於けるや、人倫の周孔(周公旦・孔子)有るに譬う」と最上級の賛辞を送っている。

なお、彼の最高傑作ともいわれる「洛神の賦」は、曹丕の妃である甄氏への恋慕から作ったという説もあるが[10]、疑わしい。

三国志演義においては、実兄である曹丕の前で詠んだとされる七歩詩が極めて有名である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%A4%8D

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