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岡本隆司『悪党たちの中華帝国』

1:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/01 (Sun) 10:43:59

雑記帳
2022年10月15日
岡本隆司『悪党たちの中華帝国』
https://sicambre.seesaa.net/article/202210article_15.html

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 新潮選書の一冊として、新潮社から2022年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、「悪党」に焦点を当てた中国史です。本書の「悪党」は、悪名高い人物という一般的な意味合いですが、悪評が定着しているような人物でも実は「悪党」ではないとか、悪評がなくとも本当「悪党」だったとか、客観的実像を検証しつつ、悪評の背景も探られています。対象となる時代は、現代の中国と比較の対象になるような規模の隋と唐以降で、近い時代の人物を対比させる構成になっています。具体的には、唐代が太宗と安禄山、五代十国時代が馮道と後周の世宗(柴栄)、宋代が王安石と朱子(朱熹)、明代の皇帝が永楽帝と万暦帝、明代の思想家が王陽明と李卓吾、清末民初が康有為と梁啓超です。

 唐の太宗(李世民)は、一般的には中国史上屈指の名君とされています。本書は、李世民とは対照的に暴君の代名詞的存在である隋の煬帝(明帝)にも分量を割いて、単純に暴君とは言えず、その政策には必然性があり、李世民にもほぼ受け継がれ、煬帝はそれらの政策遂行において一定以上準備もしていた、と指摘します。李世民は皇太子の兄と弟を殺害し、唐の初代皇帝(高祖)である父(李淵)の後継者となります。本書は、この点で、流血の事態に至らずに兄から後継者の地位を奪った煬帝の方がましだった、と指摘します。また本書は、李世民が名君であることを後世に伝えた『貞観政要』にしても、漢籍史書の特徴である個人の所感・発言・会話が多く、制度や社会の動態描写が少ないことから、李世民の実績は定かではない、と指摘します。本書は、煬帝と太宗(李世民)の構図・影像は同じで、亡国と建国で明暗反転したにすぎず、煬帝が素直な人物だったのに対して、太宗はもっと狡猾だった、と評価します。太宗は歴史と記録を充分に意識して演技した人物であり、煬帝を徹底的に貶めることで自身が明君になった、と本論文は指摘します。

 安禄山は『平家物語』の冒頭で言及されており、日本でも前近代から知名度が高かったのでしょう。安禄山は、太宗から高宗と武則天(則天武后)の治世を経て変容していった唐の体制で台頭しました。安禄山はソグド系突厥人で、複数の言語に通じていたため、交易の仲買人としての役職を務めたこともあり、その後、范陽節度使に仕えて軍人として台頭し、自身が節度使に任じられます。安禄山は玄宗の寵臣である李林甫に取り入って出世しましたが、李林甫が没し、玄宗の寵臣として台頭してきた楊国忠とは玄宗の恩寵をめぐって対立し、楊国忠の誅殺を名目に、755年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)、挙兵しました。安禄山の軍は、突厥やソグドや契丹など、多種族の混合でした。玄宗は長安を放棄し、楊国忠は殺害されますが、安禄山は757年1月、息子の安慶緒に殺害されます。安禄山は楊国忠の排除を名目に挙兵しましたが、その真の理由についてはよく分かっていないようです。この安史の乱は、唐の体制が破綻していたことを明らかにし、節度使割拠の情勢が常態化します。本書は、安史の乱がユーラシア規模の地殻変動を示しており、唐という第一次「中華帝国」解体の狼煙になった、とその意義を評価します。

 馮道は多くの王朝と君主に仕え、その王朝が滅亡しても殉じずに他の王朝に仕えたことから、無節操な人物として後世には指弾されました。しかし、馮道は五代十国の戦乱の中、民をできる限り保護しようとして、それは庶民とごく近い感覚を持っていたからでした。馮道は家柄も風采もよくなく、当時はまだ文官の登用ではそうした要素が重視されていましたが、馮道は人を見る目の優れた上司に恵まれ、出世していきます。馮道を重用した後唐の明宗(李嗣源)の没後、馮道は後継者争いの中でいち早く支持を表明した李従珂にかえって不信感を抱かれて失脚します。この経緯から、後世に馮道を指弾する人が出てくるのは仕方ないかな、とも思えます。本書は、評価の分かれる馮道について、事実認識の点ではほぼ同じながら、君主・王朝本位だと指弾され、人民・社会を重視すると肯定的評価になる、と指摘します。これは、漢字文化圏の前近代的価値観と現代的価値観の違いとも言えそうですが、本書は、前近代にあっても、後述の李卓吾のように馮道を激賞した人物がいる、と指摘します。

 後周の世宗(柴栄)は叔母が郭威の妻となり、その間に子供が生まれなかったことから、郭威の養子となりました。郭威は後晋の石敬瑭の腹心となり、石敬瑭は後晋の初代皇帝となったものの、その後継者は「燕雲十六州」を回収しようとしてキタイ(契丹)と対立し、後晋は滅亡します。後晋を滅ぼし、一時的に中原を占拠したキタイが中原から撤退した後に、劉知遠(高祖)が後漢を建国しますが、これに貢献したのが郭威でした。劉知遠は即位後1年ほどで没し、若くして即位した次男(隠帝)の側近と先代(劉知遠)の旧臣が対立し、自らも隠帝の側近の標的となった郭威は挙兵して開封へと進軍し、隠帝は戦死して後漢は実質的に滅亡します。この時、留守居を任されたのが柴栄でした。郭威は兵士により皇帝に擁立され(後周の太祖)、功臣の粛清も含めて意欲的に統治に努めたようですが、即位後3年で没し、養子の柴栄が即位します(世宗)。世宗は即位直後、後漢の後継政権である北漢を、馮道が反対するにも関わらず攻め、危地に陥ったものの見事に大勝します(高平の戦い)。この戦勝とその後の信賞必罰の人事と軍隊整理により世宗の地位は安定し、国家財政を圧迫していた仏教の規制に着手します。この政策は、仏教を克服した宋学が浸透した後世には肯定的に評価されました。世宗は南唐も従属させ、燕雲十六州を「奪回」すべく出陣して順調に進軍しますが、陣中で発病し、開封に戻るもそのまま没します。即位してわずか5年半後のことでした。本書は、五代十国の混乱収拾の道筋をつけた人物として、世宗を評価しています。

 王安石は現代日本(中国も?)社会では、おおむね進歩的な改革者として肯定的に評価されているでしょうが、歴史的には長く、周囲の勧告を聞かず、「執拗」に過激な施策を強行し、佞臣と奸臣を生み出して国家を滅亡に追いやったとして、批判されてきました。当時、宋はキタイ(契丹)と和睦して(澶淵の盟)平和を実現し、文治主義により国家が軍隊を統制出来ていたものの、軍隊は弱体化し、新興の西夏に対抗するための兵数増加により財政が圧迫され、格差は拡大し、農村は荒廃していき、治安が悪化していました。王安石は、同世代の有望な官僚には珍しく、中央の官職経験がほとんどなく、地方官を歴任していましたが、当時からその名声は高く、若き君主の神宗に抜擢され、改革を進めます。王安石の改革(新法)は財政再建を目的とし、要は支出削減と収入増加ですが、官民で偏ってきた負担関係を整理して合理化し、社会格差の平準化と秩序再建する、という共通点がありました。この改革は相応の成果をあげており、王安石は地方官の経歴が長いだけに、実情を的確に把握していたようです。しかし、これは当時の有力政治家の既得権を侵害することになり、王安石の改革はそうした旧法党により激しく批判されます。さらに、王安石は議論を無駄と考えて反対派を排斥していき、これが後世の悪評につながりました。王安石の失脚後、新法党と旧法党との党争が続き、宋(北宋)は間もなく滅亡します。この時、亡国の君主となった徽宗(実際の滅亡はその息子の欽宗の代ですが)の「奸臣」とされた蔡京が人脈的には新法党だったので、新法党は亡国の原因と考えられ、党争は旧法党が勝利した形となり、王安石の長きにわたる否定的評価が定まりました。

 近代日本社会において朱子学は儒教の代表的存在で、封建主義の代名詞であり、近代に背反する思想とみなされてきました。しかし、朱子学に対する批判は日本よりも中国の方がずっと早かった、と本書は指摘します。清代には考証学が盛んになり、(朱子学も含まれる)宋学と明学は空理空論として敵視されました。さらに言えば、朱子学への批判は14世紀以降の中国史の大きな流れの一つでもありました。朱子(朱熹)の学問は、宋代の儒教復興の流れ(宋学)から現れました。宋学は旧法党の学統というか人脈に連なり、そうした思想状況の中、南宋が成立したばかりの頃に朱子は生まれます。朱子は科挙の最終試験に合格しますが、その成績は悪かったようで、学者としての能力は試験での能力とは別のものも要求される、ということでしょうか。朱子は科挙の成績が悪かったためか、その官暦は華々しくなく、実際に官僚として働いたのは、地方官として9年ほど、中央で40日ほどとされます。朱子は地方官を務める傍ら学問を講義し、自分が政治よりも学問に向いていることを悟ったようです。朱子は、進んで名誉的な肩書である「祀官」を務め、実質的に学問の道に進みます。この祀官は、失脚した人物によく与えられており、実際の職務はありませんでした。朱子の学問は朱子学と呼ばれ、二分的な概念把握で世界全体を体系づけようとしました。朱子学は、宋代に出現した士大夫層にとって煩雑で習得困難な訓詁学に代わる、理解しやすい体系的な教学を提供しました。朱子学では、膨大な儒教の経典に加えてごく短い四書が重視され、史書も『資治通鑑』の入門書としての『資治通鑑綱目』が編纂され、要は新興の士大夫層に対する合理的配慮であり、現代の教科書と教育課程の概念および方法に近いものでした。朱子学は直ちに体制教義となったわけではなく、当初は弾圧もされましたが、やがてはアジア東部漢字文化圏において儒教の代表とみなされるようになり、それが近代には封建主義の代名詞として批判される所以ともなりました。

 明は、モンゴル帝国の覇権下において活発だったユーラシア東西の交流が「14世紀の危機」において低調になり、各地が孤立していく中で成立した政権でした。商業金融の衰微の中、明の建国者である朱元璋(洪武帝)は、農本主義・現物主義的な体制を構築します。それと結びついたのが「中華」の回復で、明では「華夷秩序」が強く志向され、民間人の一般的な内外の往来は禁止されて、外国は「朝貢」もしくはその付随でした明との交流・取引は認められませんでした(朝貢一元体制)。朱元璋は皇帝の一元的支配を志向し、それが経済的に華北に対して有意にある華南を中心とした功臣粛清にもつながりましたが、もちろん皇帝が全てを把握できるわけはなく、息子を各地の王に任命します。本書は、明を「私物化」体制と評価します。洪武帝の息子たちの中で、モンゴルと対峙する要衝の北平(旧大都、現在の北京)に燕王として駐屯したのが、四男である朱棣でした。華南を弾圧して「中華」一元化を図る朱元璋は、首都を南京から北方の古都である西安(長安)へ移そうとして、皇太子の朱標に西安を視察させますが、朱標が没したため、遷都計画は挫折します。その後、皇太孫となったのは朱標の息子である朱允炆でした。朱元璋没後、朱允炆が即位し(建文帝)、各地の王に任じられていた叔父を取り潰そうとします。そこで、朱棣はやられる前に決起し(靖難の変)、苦戦しつつ南京を制圧して、建文帝は行方不明となります。朱棣は即位したものの(永楽帝)、南京の建文帝の臣下の中には従わない者も少なからずいました。永楽帝は父である洪武帝の「中華」統一路線を継承し、都は父の構想とは異なるものの北平に遷されました。ただ、永楽帝は一般的に、その積極的な対外方針から、洪武帝路線を変更した、と評価されているようです。しかし本書は、有名な鄭和の遠征にしても、モンゴル帝国の積極的な海洋展開への「回帰」というだけではなく、「朝貢一元体制」とも背反していなかったことを指摘します。簒奪者として即位した永楽帝は、自らの功績を示すために一見すると積極的な路線を進めましたが、主観的には父である洪武帝の忠実な後継者であろうとした、と本書は評価します。本書は、洪武帝の目指した自給自足敵で運輸・商業を忌避する方針は、その経済力からして、北から南を支配する政体とは整合的ではなく、永楽帝により確立された明の体制には、構造的な矛盾が内在していた、と指摘します。

 明の万暦帝(朱翊鈞)は、亡国の君主として語られてきました。明が実際に滅亡したのは万暦帝の後で、万暦帝の代に滅びなかったのは幸運だった、とも言われてきました。しかし本書は、その評価は妥当だとしても、明の滅亡の責任を万暦帝だけに帰してよいのか、と問題提起します。上述のように明は「中華」一元的な支配体制を志向し、対外的には朝貢一元体制を維持しようとしましたが、江南の経済発展により、明国内では補助的な役割しか与えられなかった通貨に代わって銀が実質的に通貨として機能し、銀が外国から流入することにより、江南の生産物への対外的需要もあって、大規模な貿易により朝貢一元体制が破綻しかねない状況になりました。ヨーロッパ勢力がアメリカ大陸を侵略して支配し、アメリカ大陸では銀の増産が始まり、やがて明にずっと近い日本でも技術革新により銀の増産が始まりました。こうした世界規模での経済の一体化が明後期には始まりつつあり、政治体制と民間社会(経済)は乖離していました。明にとっての「北虜南倭」の脅威も、そうした乖離に起因するもので、この関係はその後の中華帝国の基本的構造になった、と本書は指摘します。隆慶帝の時代にはその乖離は弥縫策で対処されましたが、当然根本的な解決にはならず、そうした状況で1573年に即位したのが万暦帝でした。万暦帝即位後の10年弱は、宰相の張居正の執政期でした。張居正は弛緩した明の体制を立て直そうとし、一定の効果はあったものの、それは王安石のような根本的改革ではなかった、と本書は評価します。万暦帝にとって、師傅でもあった張居正は逆らうことのできない存在でした。その張居正の死後、万暦帝は張居正の一族を積極的に粛清し、その解放感から政務を放棄して自身の陵墓の建造に執心し、財政が傾きます。万暦帝はその対策を次々と思いついて実行しており、暗愚な人物ではないものの、その明敏さを活用する方向が問題だった、と本書は評価します。本書は、こうした皇帝の思いつきの実行が可能だったのは、明の「私物化」体制に原因がある、と指摘します。

 明代には、上述のように政治と社会(経済)の乖離が進行し、士大夫層でも、科挙に合格しても任官しない人(紳士)が現れます。それまで、知識人と官僚は一体であるべきと考えられましたが、明代には、任官する士大夫(官)は政治家・官僚に純化していき、宋代とは異なり、文芸学術での実績が目立たたなくなります。一方、任官しない士大夫(紳)は文芸学術に専心していきますが、それは政治に無関心だったからではなく、官界遊泳をあえて忌避した側面がありました。明初には蘇州を初めとして江南は弾圧され、文化的にも低調でしたが、15世紀後半~16世紀前半にかけて、経済復興とともに文化も再興します。こうした中で、官界・権力とは一定の距離を取った在野在地の名望家は、「郷紳」と呼ばれています。当時、文芸は職業ではなかったので、後援者がおり、江南の民間社会は、「官」よりも「紳」の方を戦略的・選択的に支持した、と本書は指摘します。当時の体制教学は二分の原理を特質とする朱子学で、王陽明(守仁)も当初は熱心に学びました。王陽明は何度かの不合格後、科挙に合格して任官します。最初の官は激務だったようで、病気療養することになり、この時に道教と仏教にも触れたようです。官に復帰後、王陽明は政争に巻き込まれて左遷され、そこで思索を深めたようです。王陽明は群盗鎮圧で功績を挙げ、その後で隠棲生活に配流ものの、その軍才を評価されて再度起用され、その無理がたたったのか、57歳で死亡します。理気二元論の朱子学を学ぶ中で疑問を抱いた王陽明は、二元的な対概念の枠組みでは朱子学と同じながら、内外を区別せず一体化しようとする方向性の思想を打ち出します。こうした陽明学出現の社会的背景として、表向きは高尚なことを言いながら、実際には非違・貪欲な行動が珍しくなかった知識層へ反感・反省がありました。社会の乖離が進むなか、その負の側面に対する警鐘として、陽明学は支持を得ていきました。また陽明学は反読書・書物を特徴として、下層民衆にも門戸を開いていました。陽明学では「講学」が重視され、これは口頭の講義・討論です。門戸の広い陽明学は広範に浸透していきましたが、朱子学を体制教義とする朝鮮半島では異端扱いされ、科挙のない日本では朱子学とともに隆盛しました。

 李卓吾は王陽明の死の1年前となる1527年に生まれました。王陽明の死後、陽明学は、善悪の意識のうえに着実な修養を重視する「右派」と、良知を発現させるために人為的もしくは意識的な修養・実践は無用とする「左派」に、大きく分かれます。本書は、知識層の多くが指示したのは「右派」であるものの、王陽明の思想の正嫡は「左派」だった、と評価しています。李卓吾は福建省での科挙に合格するものの、経済的余裕がないため、次の段階の試験は受けられず、河南省と南京で学校の教官となります。李卓吾はその後も、さほど出世せず、最終の官歴は雲南省姚安府の知事でした。李卓吾は55歳でこの職の任期を終え、官を辞して湖北省で読書と著述に専念しますが、それは郷紳の経済的援助を受けてのことでした。李卓吾は官僚時代に陽明学「左派」に触れたものの、その著作は社会変革を主張するものではありませんでした。しかし、李卓吾の言説は社会問題になりました。李卓吾の思想は陽明学「左派」に連なるものの、違いもありました。陽明学「左派」は「読書」を批判して軽蔑するあまり、「読書」を否定したので、「読書」を重視した陽明学「右派」や朱子学との対立は水掛け論となります。しかし、李卓吾は「読書」に没頭し、その上で「読書」を批判したので、陽明学「右派」や朱子学との「読書人」にとって真の脅威となりました。李卓吾は、儒教の経典も尊重すべき教義を説いた聖賢すら、外在的な「仮」に他なりませんでした。つまり、「中華帝国」で古来続いて来た経典と聖賢の権威を真っ向から否定するものでした。すでに王陽明も、心底納得できなければ孔子の説でも従えない、と言っており、李卓吾は陽明学に内在する思想を極限まで突き止めたわけです。李卓吾の史論も、体裁こそ伝統的な史書と違いはありませんが、論評の基準と判定は大きく異なっており、始皇帝と則天武后を高く評価し、上述のように無節操の変節漢と言われた馮道も賞賛しています。李卓吾の信奉者は少なからずおり、それが士大夫の多数派の警戒を強めていた可能性が高い、と本書は指摘します。李卓吾は捕縛され、獄中にて自殺しました。李卓吾は現代人の感覚・立場に近く、それ故に「旧体制」に憎まれ、中国の近世が市民的近世にならなかった事態を象徴する、との見解もあります。李卓吾の死後、ともに明清交替を生きた顧炎武と黄宗羲は、李卓吾の「近代思惟」にかなり接近しつつも、李卓吾を強く否定し、旧来の聖賢・経典を前提とする「中華帝国」の再建を目指しました。本書はそこに、問題の核心を見ています。

 明が滅亡し、ダイチン・グルン(大清帝国)の統治下において漢学が盛行しますが、それには政権側からの弾圧の側面とともに、知識層が政権側に迎合した側面もある、と本書は指摘します。漢学は「実事求是」を掲げ、経書や史書や古典を言語的に正しく読もうとして、実証を徹底しました。これには同時代の西洋の影響もあった、との見解も提示されています。これについて内藤湖南は、一定の知的水準と経済的時間的余裕があれば誰でもできる、と批判しました。大清帝国の平和が続く中、当初実用を志した漢学は、実用から遊離して考証自体が目的となり、些末な対象ばかり扱うようになります。これは、当初の国家的な危機的状況から実用を目指した漢学が、平和の到来により安逸に流れた、ということでもあったので、再び危機が深まれば、新たに実用を志す機運が高まることになり、その危機とは、19世紀の西洋列強の圧力(西洋の衝撃)でした。一方、漢学でも、後漢までだった検証対象が前漢にも及び、公羊学が台頭します。公羊学は、太古の黄金時代を孔子は後世に伝えた、という後漢以降の儒教解釈とは異なり、孔子が既存の体制を改めて新たに儒教を創始した、と主張します。つまり、儒教を尚古思想的ではなく改革的なものとして解釈できるようになったわけです。1858年に広州で生まれた康有為は、公羊学が浸透していく中で、改革思想を構築し、運動を実践しました。康有為が科挙を受験すべく北京に赴いた1895年、大清帝国は日本に敗れ、下関条約を調印します。この屈辱的事態に、康有為も含めて科挙受験者は政権に変革を訴えます。康有為が主張した「変法」は、おもに明治維新を手本にした制度改革で、伝統的な儒教解釈では(王安石が長く批判されてきたように)改革は悪とされているので、「変法」正当化のため孔子は改革者と位置づけられました。これは多くの下級官僚と知識人一般を直接の標的としており、李鴻章など少数の大官による以前の改革事業とは大きく異なっていました。康有為は何度も上書を提出し、ついに高官の前で自説を述べることになります。その結果、1898年6月11日、「変法」開始の詔が下されます(戊戌変法)。光緒帝自身が、康有為を信任して改革を主導した、と考えられています。康有為は科挙の改廃や行政機構の再編を主張しましたが、既得権が関わる大きな問題で反発も大きく、この改革は早くも3ヶ月後には挫折します(戊戌の政変)。本書は康有為を、重厚深奥な思索者ではなく、既成理論を応用する軽薄な人物で、博識ながら相互の矛盾に悩むよりも、それを軽やかにこじつけて統合した、と指摘します。この変革の挫折後、康有為は梁啓超などと共に日本へと亡命します。本書は康有為を、思想家ではあったものの、思想家に必要な独善が度を過ぎていた、と評価しています。亡命後の康有為の活動は多岐にわたりますが、ほぼ挫折の繰り返しでした。康有為は、儒教が多数の庶民に受け入れられるような信仰ではないことから、儒教のキリスト教化(孔教)を図りました。辛亥革命後、康有為は孔教の国教化を訴えましたが、失敗に終わります。しかし本書はこれを、時代錯誤の試みで当然の帰結とは評価しておらず、孔教の排除には新文化運動を待たねばならなかった、と評価しています。

 定見がありすぎた康有為に対して、その弟子の梁啓超は定見がなさすぎて、清代の思想を破壊した、と梁啓超自身が評価していました。その梁啓超は1873年に生まれ、当時の平均的知識人のように科挙を受験しますが、康有為との出会いにより、変革者としての道を歩むことになります。しかし梁啓超は当初から、康有為の学問についていけないところがある、と感じていたようです。それでも、その人生は大きな影響を受けます。戊戌の政変により日本へと亡命した梁啓超は15年も日本に滞在し、その間に思想が大きく変わり、また和製漢語を積極的に取り入れました。こうした梁啓超の思想と新たな文体は、若い知識層に大きな影響を与え、魯迅も毛沢東も例外ではありませんでした。梁啓超は日本滞在中に孔子の権威から離脱しており、思想的には康有為と決別したことになります。梁啓超は西欧と日本を基準に「国家主義」を取り入れ、それが若い知識層に大きな影響を与えたため、「中華帝国」の運命を変えることになりました。梁啓超は、それまでの「中華帝国」には国名がなかった、つまりそもそも国家(ネイション)ではきなったから国名も存在しなかった、というわけで、ナショナル・ヒストリーとしての「中国史」の創出を企図しました。梁啓超は伝統的な史書を、朝廷が国家はなく、王朝の家譜にすぎず、個人の存在を知っていても社会の存在を知らない、と痛烈に批判しました。梁啓超は国民国家形成のため、とくに「公徳」を強く主張しました。「中華帝国」の旧道徳は個々人の改善を図る「私徳」ばかりで、社会全体の改善を歯する「公徳」を欠いていた、というわけです。15年にわたる日本滞在中の1903年、梁啓超はアメリカ合衆国を訪れますが、道徳心・公共観念に乏しい華僑社会の現実に失望し、「私徳」を訴えるようになります。個々の道徳心の確立なくして「公徳」の習得はあり得ない、というわけです。梁啓超は革命派に失望し、「開明専制」を主張するようになります。立憲君主制による漸進的な改革を目指したわけです。辛亥革命後の1912年、梁啓超は帰国します。帰国後の梁啓超は1910年代には、おもに政治家・閣僚として活動し、中央政権を支持しました。その結果、革命派に反対する立場となり、中華人民共和国における梁啓超の評価は低いものでした。この点は伝統的な正統史観と変わらない、と本書は指摘します。梁啓超は、おおむね中央政権を支持したものの、袁世凱の帝制復活には反対し、その後の康有為たちの「復辟」運動にも反対します。梁啓超は、「共和の国体」を維持し、理想の「政体」を目指す点で、立場は不動でした。梁啓超は第一次世界大戦後のパリ講和会議に出席し、西洋の科学・政治・文明への批判を強め、ついには西洋流の「国家主義」を放棄し、政界から離れることにします。梁啓超は「中華帝国」の文明を再評価する方針に転換し、研究活動に専念しますが、1929年に没しました。その思想がたびたび変わったことから、梁啓超を機会主義者・便宜主義者とみなすことも可能ですが、梁啓超の目的は変革を通じた救国で一貫していた、と本書は指摘します。

 本書はこれら12人の「悪党」について、時代の課題・要請に応じようとした言動・進退であり、そうした試行に錯誤という結果を突きつけ、個々人に対する毀誉褒貶を判断基準として「悪党」という烙印を押し続けるのが「中華帝国」の仕組みだったかもしれない、と指摘します。容易に秩序の構築・統一を許さない多元世界に、「中華」に君臨して「帝国」を統治する指導者・君主は苦しめられ、李世民や安禄山や柴栄や永楽帝や万暦帝はその典型です。エリートと庶民の乖離が著しく、多層化の止まらない二元社会では、「帝国」を経営し、「中華」を再考しようと試みた為政者・思想家が悩み、馮道や王安石や朱熹や王陽明はその代表です。西洋と邂逅した新時代に、そうした「中華帝国」変革の端緒を見出だして表現したのが、李卓吾や康有為でした。それだけに毀誉褒貶が激しく、自殺や亡命に追い込まれます。梁啓超はその克服を志しましたが、日本を媒介に西洋流の国民国家を建設する試みは、現実に直面して挫折し、新たな構想を余儀なくされました。辛亥革命に始まる革命の過程で、「中華帝国」は確かに消滅したものの、それは「中華」が「中国」に転化し、「帝国」から皇帝がいなくなっただけ、かえって混迷を深めた感があります。「国家主義(ナショナリズム)」は身に付いても、目指す「国民国家(ネイション・ステート)」にはなりきれず、地域偏差と多元性、エリートと庶民の乖離、多層化した社会格差は根強く存在したので、試行錯誤が繰り返され、「悪党」も輩出され続ける、というわけです。現在の中華人民共和国においても、地域偏差と経済格差はむしろ悪化した面すらあり、習近平主席が「悪党」と見まがう強権を発動し、革命により否定されたはずの「皇帝」の如く振舞うのも当然である、と本書は指摘します。中華人民共和国における現在の「民族問題」についても、梁啓超以来、中国が主張してきた「一つの中国」と「中華民族」の創出にあたった不可避な現象に他ならない、と現在の北京政府はみなしている、と本書は指摘します。多元的な「帝国」は、西洋の衝撃により「一国家一民族(国民)」の制度構築を強いられ、「中華帝国」は「中国」と「中華民族」の概念をその基軸に据えました。それが西側諸国からは、独裁や人権侵害や民族問題に見えるわけです。習近平主席が西側諸国から強権的な「皇帝」に見えるのは、歴史的な所産というわけです。本書は、西側諸国、とくに近隣の日本が、中国側のそうした認識を踏まえて、「普遍的価値」を持ちつつ絶対視することなく、中国に対処せねばならない、と指摘します。
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2:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/01 (Sun) 10:51:12

宮脇淳子 皇帝たちの中国史・日韓近現代史 - YouTube 動画
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14008388

宮脇淳子 皇帝たちの中国 
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/139.html

中国では、法律は、皇帝の命令である。だから、皇帝は、法律に従わなくていい。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/615.html

中国は共産主義国ではなく古来からの皇帝が支配する儒教国家
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14008459

コーカソイドが作った黄河文明は長所は一つも無いが戦争だけは強かった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14013836

コーカソイドだった黄河文明人が他民族の女をレイプしまくって生まれた子供の子孫が漢民族
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14008392

後漢はシルクロード交易で黄金を枯渇するほど流出させてしまい衰退した
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14049188

対外戦争で勝った事が一度も無い中国とロシアはこういう手口で領土を乗っ取る
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14018754

陳好(チェン・ハオ)_ 中国の絶世の美女というのはこの程度
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14074336

性生活に没頭しすぎたあまり寿命まで縮めてしまう「中国皇帝たちの淫らな性生活」
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14075593

儒教
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/440.html

道教
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/455.html

論語と儒教は無関係である
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/305.html

儒教 _ 中国共産党が絶賛する孔子の思想
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/223.html#c1  
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/512.html

地獄の苦しみ 纏足 指折り曲げ成長止める
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14064342

【河添恵子】酷すぎる...中国人の民度とモラルの低さには驚きました
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14008379
3:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/01 (Sun) 11:29:33

テレビドラマ 三国志 Three Kingdoms (2010年 中華人民共和国)
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14074005
4:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/02 (Mon) 06:54:20

アジア人物史月報 - 内田樹の研究室
2023-01-01
http://blog.tatsuru.com/2023/01/01_1844.html

姜尚中さんが編集にかかわっている『アジア人物史』というシリーズが出ることになって、月報にエッセイを頼まれた。

 歴史の風雪に耐えたものだけが生き残り、歴史の淘汰圧に耐えきれなかったものは消えてゆく。よくそう言われる。でも、それほど軽々しくこのような命題に頷いてよいのだろうか。私はいささか懐疑的である。
 たしかに「棺を蓋いて事定まる」という古諺の意味なら私にも分かる。ある人がどれほどの人物だったのか、その人の事績がどれほど意義のあるものだったのかは生きている間には確定しない。死んでからそれなりの時間が経たないとほんとうのところは分からない。その通りである。でも、死んでからあまり時間が経つと、それはそれで分からなくなる。死んで50年くらいまでなら、史料もあるし、記憶している人もいる。でも、100年くらい経つと、文書は四散し、生き証人は死に絶える。1000年も経つと、日常生活の中でその人の名が口の端にのぼるということは、よほどの例外的人物以外についてはなくなる。
 だが、それでよいのだろうか。
 歴史の淘汰圧はつねに正しく、残るべきものは必ず残り、消えるべきものは必ず消える。歴史という審級は過たず残るものと消えるものを判別するという信憑のことを「歴史主義」と仮に呼ぶとする。「歴史は絶対精神の顕現過程である」とか「歴史は真理が不可逆的に全体化してゆく過程である」とか「歴史は鉄の法則性に貫かれている」とかいう考え方をする人たちのことを私は「歴史主義者」と呼ぶ。私が勝手にそう命名しているだけで、別に一般性を請求する気はない。そして、これもまた個人の感想であるが、私は歴史主義に対してかなり懐疑的である。
「・・・の時代は終わった」とか「これからは・・・の時代だ」とかいう広告代理店が好む言葉づかいは典型的に歴史主義的なものである。だが、The latest is the best 「一番新しいものが最高だ」というのは、少し考えればわかるけれど、まったく事実ではない。
 今ここにあるものは存在する必然性があるから存在するのであり、今ここにないものは存在すべきではなかったから存在しないのであるというタイプの単純な「リアリズム」と「歴史主義」は同一の思考のコインの裏表である。 
 歴史主義は政治的ステイタス・クオを正当化したい人々や、消費者の欲望を亢進させようとする人々にとってはたしかにきわめて好都合なイデオロギーだろう。だが、もう一度繰り返すが、これはまったく事実ではない。
 私たちの目の前に今あるものだけが「歴史の風雪に耐えて生き延びたもの」「存在する必然性のあるもの」であり、ここにないものは「歴史の風雪によって淘汰されたもの」あるいは「存在する必然性がないもの」だということはない。そもそも私たちの目の前に今あるものの相当部分は少し経てば(場合によっては数か月ほどで)「歴史の淘汰圧に耐えきれず消えるもの」なのである。
 だから、ひねくれた言い方になるが、歴史家は「歴史という審級」の判定力を軽々には信じるべきではないと思う。
 いや、別に私がそんなことを言わなくても、おそらく職業的な歴史家というのは実は「歴史の判定力」をそれほど信じていない人なのだろうと思う。もし「歴史の判定力」をほんとうに信じていたら、打ち捨てられた古文書を渉猟したり、誰も訪れることのない旧跡の由来をたどったりすることをしないはずだからである。記憶すべきことが忘れられ、讃えるべき功績や糾弾されるべき悪行について語り継ぐ人がいないという事実を歴史家ほど熟知している人はいないはずだからである。
 だとすれば、歴史家の本務はむしろ「歴史の淘汰圧」に抗うことではないか。歴史家ひとりひとりの判断において「語り継ぐべきこと」を史料のうちから掘り起こし、今に蘇らせることこそが歴史家の仕事ではないのだろうか。
 
 司馬遷の「列伝」の第一は伯夷列伝である。伯夷叔斉は王位を辞して野に逃れ、周の禄を食むことを拒んで隠棲して餓死した仁者である。司馬遷はなぜ伯夷叔斉のような徳者が餓死し、盗蹠のような悪人が富貴を究め天寿を全うするのか、その理不尽にこだわった。「天道は是か非か。」そして、伯夷叔斉が今に名をとどめ得たのは孔子の功績によると書いた。仁者賢人の名がさいわい今も記憶され、顕彰され得たのは孔子の事業である。「天道」がそうしたのではない。
 司馬遷が「列伝」の筆を「天道はしばしばアンフェアである」という伯夷叔斉の逸話から起こしたことは偶然ではないと思う。司馬遷は賢人や仁者を記憶のアーカイブにとどめるのは天の仕事ではなく、人間の仕事だと考えたのである。
 歴史家は「私がここで書き留めておかないと人々の記憶から忘れ去られてしまうかも知れない人」を選り出してその「列伝」を残す。司馬遷は「歴史そのもの」に人物の良否を判定する力するがあるとは考えなかった。誰の事績を書き残し、誰の徳性や叡智を称えるべきか、非とすべきか、それを決めるのは歴史家ひとりひとりの見識であると考えた。私は歴史家の構えとして、これは正しいと思う。
 私たちの世界は今どこでも「歴史修正主義者」たちが跳梁跋扈している。彼らは「歴史の淘汰圧」が実はあまり信用できないということをよく知っている。真実を否定することも、作話を正史に記載させることも可能であることを彼らは知っている。歴史そのものには必ず真実をその正しい地位に就け、虚偽を「歴史のゴミ箱」に投じるだけの力はない。この仕事について、私たちは「天道」からの支援を当てにすることはできない。その責務を果たすのは一から十まで歴史家なのである。
 この『アジア人物史』の企図は司馬遷の「列伝」のそれに通じるものだと思う。私が読んだ範囲では、執筆者たちがその事績を詳細に語ってくれた人物のほとんどを私は知らなかった。しかし、「ほとんどの読者が知らない人物」の事績を語り、集団的記憶に刻み付けておくことこそが歴史家の最もたいせつな仕事の一つなのだと思う。
(2022年5月18日)
http://blog.tatsuru.com/2023/01/01_1844.html
5:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/18 (Wed) 13:41:40

前漢の高祖・劉邦の知られざる残虐性 「国家の私物化」と「恐怖の政治粛清」
2023年01月11日
石平(評論家/拓殖大学客員教授)
https://shuchi.php.co.jp/voice/detail/6559


<<評論家の石平(せき・へい)氏は、近著

『中国をつくった12人の悪党たち』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4569843476/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=phpdigital-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=4569843476&linkId=3dae828059d3bad8b8f1495de35ab558

でこう述べている。

「腹の黒い悪党ほど権力を握って天下を取るのは中国史上の鉄則であって、中国の歴史と中国という国のかたちはこのようにしてつくられていった。中国をつくったのはまさに悪党たちなのだ。中国の歴史も、中国という国のかたちも、まさにそれらの悪党によってつくられているのである。このような伝統は、現代になっても生きている。」

英雄譚、美談に彩られた中国史上の有名人の本質に迫った同書より、本稿では前漢の初代皇帝である劉邦について触れた一節を紹介する。>>

※本稿は石平著『中国をつくった12人の悪党たち』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。


己の身を守るためにわが子を見殺しにする劉邦の卑劣
最後の勝者となったのは、一方の劉邦である。彼は秦帝国との戦いでは振るわなかったものの、項羽との天下争奪戦においては、まさにその無頼漢としての本領を思う存分発揮して、権謀策略や汚い手の限りを尽くしてその天下取りを果たした。

項羽軍との戦争中、己の生き残りを図るために手段を選ばないという劉邦の冷酷さと卑劣さを語るエピソードが一つある。

劉邦軍は一度、項羽のつくった西楚国の首都である彭城(ぼうじよう)
に攻め込んだことがある。項羽の率いる主力部隊の留守を狙った奇襲だったのだが、戻ってきた項羽軍が一挙に反撃すると、劉邦軍はたちまち雪崩を打って彭城から敗走した。

全軍敗退のなかで誰よりも早く逃げ出したのは、ほかならぬ総大将の劉邦である。彼は息子と娘の二人を引きつれて馬車の一台に乗って一目散に逃走していた。その後をすぐ、項羽軍の騎兵が追ってきたのである。

そのときのことである。馬車の乗せる「荷物」の量を減らして馬を少しでも速く走らせるために、劉邦はなんと、わが子二人をいきなり車から落としたのである。

それを不憫に思った馭者(ぎょしゃ)の夏侯嬰(かこうえい)が飛び降りて拾い上げると、劉邦はふたたび突き落とした。このようなことが三度も繰り返されたと、『史記』が記している。



「悪いやつほど天下を取れる」中国史の起源
この人はいったい、どういう人間性をもっているのだろうか。

劉邦のもとに集まってきた武人や策士たちも、じつは彼と同類の人間が多い。策士の一人である陳平(ちんぺい)という者が親分の劉邦に対して、項羽軍と比較して「わが陣営の特徴」について語るときにこう述べたことがある。

「大王(劉邦)の場合、傲岸不遜なお振る舞いが多く、廉節(れんせつ)
の士は集まりませんが、気前よく爵位や封邑(ほうゆう)をお与えになりますので、変わり者で利につられやすく恥知らずの連中が多く集まっております」

いってみれば、自分の生き残りのためにわが子の命を犠牲にするのに何の躊躇いも感じない劉邦という「人間失格」の無頼漢のもとに、「利につられやすく恥知らずの連中」が集まってできあがったのが、すなわち劉邦の率いる人間集団の性格である。

そして、結果的にはやはり、この「恥知らず」の人間集団が、あの豪快勇敢にして気位(きぐらい)の高い英雄の項羽を打ち負かして天下を手に入れた。

歴史によくあるような無念にして理不尽な結末であるが、いわば「悪いやつほど天下を取れる」という中国史の法則がここから始まったのである。

このような法則が生きているなか、項羽のような貴族的英雄気質と高貴なる人間精神の持ち主は往々にして歴史の闇のなかに葬り去られて、劉邦のごとき卑劣にして狡猾な無頼たちが表舞台を占領して跳梁(ちょうりょう)することが多くなってくる。

その結果、中国史が下っていくにしたがって、項羽流の人間精神は徐々に死滅していき、劉邦のような「嫌なやつ」たちがますます繁殖していく勢いとなっているのである


国家の私物化が特徴の中国流「家産制国家」の原点

劉邦が項羽に勝つという結末は、じつは中国の歴史におけるもう一つの大いなる分岐点ともなった。

周王朝の成立から秦帝国が天下統一を果たすまでの約800年間、中国の政治制度は概して封建制であった。つまり、王様のもとで多くの諸侯が「封
土(ほうど)」という各自の領地を自律的に治めるという政治システムで、日本の江戸時代の幕藩体制とも類似している。

その場合、権力の分散による「天下の共有」が封建制の基本理念となっている。

この封建制の伝統を打破して中国史上最初の中央集権的専制帝国をつくったのは秦朝であるが、建国してわずか十数年後、まさに項羽や劉邦たちの反乱によってそれが潰れた。

そうすると、ポスト秦朝の国づくりに向けて、秦朝以前の封建制に戻るのか、それとも秦のつくった中央集権制を継承するのか、それは当然、中国史にとっての重要な選択となったのである。

秦帝国の潰れた後、一時的に最大の勢力となって天下平定の主導権を握った項羽は、いかにも楚の国の貴族の末裔らしく、確実に封建制の再建を目指した。

彼は楚の懐王を天下の王様として擁し、秦朝を倒すのに功のあった武将や旧諸侯を対象に十八の諸侯を封じてそれぞれに領地を与えた。自らは楚の国の旧領を中心とする土地を領地として「西楚の覇王」と号し、日本でいう「征夷大将軍」のような立場に立とうとしていたのである。

そのとき、劉邦は漢王に封じられて、現在の陝西(せんせい)省にある漢中地方を封土として与えられた。

彼はやがて「西楚の覇王」項羽に反旗を翻すことになるが、もしその後の漢王劉邦の反乱と勝利がなければ、項羽の目指した封建制の再建は成功できたかもしれない。もちろん、それからの中国史も、まったく違った方向へと向かったであろう。

しかし、最後の勝利を勝ち取ったのは漢王の劉邦である。そして、彼はむしろ秦の始皇帝流の専制的中央集権制の骨格を継承し漢帝国を建てた。漢王はそのまま、漢帝国の初代皇帝となったのである。

『中国をつくった12人の悪党たち』で、劉邦が皇帝となってから、父親の「太公」に対して、「昔親父は、よく俺のことを家業も治めない無頼だと馬鹿にしていたなあ」と文句をいったことを記述したが、じつは太公はあのとき、家業を興すのに日夜励んでいる劉邦の兄との比較において三男坊の劉邦の無頼漢ぶりを叱ったわけだった。

そして今度は皇帝となった劉邦は、父親に対する意趣返しのつもりで、上述の文句の続きにこういったという。

「ところで、いまの私の成し遂げた家業は、兄と比べればどちらのほうが多いのか」

つまりこの無頼漢上がりの皇帝は、天下国家というものを、まったく自分とその一族の「資産」のようなものとして認識しているのである。

蘇秦や李斯や趙高の場合もそうであるが、どうやら天下国家を自分たちの「私物」だと見なすところに、中国史上の謀略家たちの最大の共通点があ
る。

そして、劉邦が家族の内輪で語った上述の本音剝き出しの一言はまた、彼が秦の専制制度を継承してつくった漢帝国の国家体制の本質をズバリといい得た名セリフといえよう。

要するに、皇帝とその一族による国家の私物化を特徴とする「家産制国家」がここにあるのである。


長い伝統となる「恐怖の政治粛清」
国家そのものを私物化した劉氏一族の独占的利権を守るために、劉邦は皇帝になった後に、もう一つ大きな仕事を成し遂げた。それはすなわち、かつての功臣たちに対する血塗れの大粛清である。

皇帝即位後の紀元前202年から前195年までの短いあいだに、彼は漢帝国の樹立に功績があった韓信、彭越、英布(えいふ)などを、騙し討ちや噓の罪名を被らせるなどの汚い手段を使って、次々と殺していった。

そのなかで、三族まで処刑された韓信の場合もあれば、惨殺後の屍が塩辛にされた彭越の場合もあるという。

劉邦ならではの卑劣さと残虐性がここにも現れているのだが、天下取りの戦いにおいて彼のもとに集まってきた「恥知らず」の人間たちは、今度は一番恥知らずの親分である劉邦の謀略にしてやられたわけである。

こうして基盤を固め得た漢帝国は、その後もまさに劉邦流の「国家理念」と政治手法をもって天下を治め、前漢・後漢を合わせた四百年間にもわたって中国大陸を支配した。そのなかで、皇帝を中心とする家産制国家と専制独裁の政治体制が完全に定着させられた。

漢代以後の歴代王朝も当然、 国家の私物化と独裁政治の強化を図るのに余念がなく、そのために恐怖の政治粛清を断行することもしばしばあった。無頼漢皇帝劉邦の残した「国家の私物化」と「恐怖の政治粛清」という二つの遺産は、そのまま中国の長い歴史の悪しき伝統となったわけである。

https://shuchi.php.co.jp/voice/detail/6559?p=2
6:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/20 (Fri) 00:51:58

秦王朝末期に天下取りまであと一歩というところまで迫った項羽は、たびたび敵を釜茹でにしました。

項羽が最終的に天下を取れなかった理由の一つは、釜茹での刑を執行するたびに、人心が離れていったことでした。


釜茹で
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C%E8%8C%B9%E3%81%A7

釜茹で(かまゆで)とは、大きな釜で熱せられた湯や油を用い、罪人を茹でることで死に至らしめる死刑の方法である。

中国
古代中国では烹煮(ほうしゃ)と呼ばれる釜茹でが盛んに行われた。三本脚の巨大な銅釜「鼎」や、脚のない大釜「鑊」(かく)に湯をたぎらせ、罪人を放り込んで茹で殺す。そのため烹煮は、別名を「鑊烹」・「湯鑊」とも呼ばれる。

古代においては、殷の帝辛(紂王)が周の人質の伯邑考を醢尸の刑(身体を切り刻む刑)に処して殺し、その身体を茹でて、それを煮込み汁に仕立てた上で伯邑考の父の西伯姫昌に「もてなし」と称して食べさせたのが、記録における初見である[1]。

春秋戦国時代には斉の哀公が釜茹でにされるなど、覇を競う各国の王は車裂きと共にこの方法で不穏分子を処刑した[2]。秦の商鞅は政治改革で正式に釜茹でを死刑の一方法として定め、秦の統一後も罪人が煮殺された[3]。

楚漢戦争の時、項羽が彭城(現在の江蘇省徐州市)に都を定める際に、ある論客が咸陽こそ都にふさわしいと進言したが、項羽はこれを聞き容れず、退出した論客は「楚の民族は猿が冠をかぶったような種族だ」と漏らしたため、それを聞いた楚の衛兵が項羽に報告して、激怒した項羽はその論客を釜茹でに処した[4]。

さらに項羽は劉邦が関中を支配したとき、南陽で挙兵した王陵の母を捕らえて、王陵を帰順させるべく口説いたが、彼女はこれを拒否して自殺したために、怒った項羽は王陵の母の遺体を釜茹でにした[5]。引き続き、滎陽付近で滎陽城を守備した漢の御史大夫の周苛らと戦って、これを捕虜にした項羽は周苛に帰順を促したが、かえって罵倒されて激怒した項羽は周苛を釜茹でに処した[6]。

また、滎陽の北にある広武山で項羽は対峙した劉邦の父の劉太公らを捕らえた。そして人質とした劉太公を俎板に縛り付け、大釜に湯を沸かした上で、劉邦に降伏を迫った。しかし劉邦は動じることなく「我々は義兄弟の契りを結んだ仲である。つまりわが父は、そなたの父でもあるのだ。そなたの父を煮殺すならば、兄弟である私にも一杯の煮込み汁を分けてはくれまいか?」と答えた。これを聞いて効果がないと悟った項羽は、劉太公らの処刑を取りやめた[7]。

楚漢戦争の中では、酈食其も蒯通の進言で和議を背いた韓信に激怒した田広によって釜茹でに処せられている[8]。

前漢の時代、景帝の曾孫である広川王の劉去(中国語版)とその妻の陽城昭信は極端に嫉妬深い性格だった。陽城昭信は劉去が寵愛していた側室の陶望卿を妬み、事あるごとに夫に「陶望卿の浮気」をでっち上げて吹き込み続けた。元々嫉妬深く、単純な性格だった劉去はその誣告を信じ込み、陶望卿を鞭打った挙句火責めにした。絶望した彼女は井戸に身を投げて自害するが、劉去と陽城昭信は引き揚げた遺体から耳と鼻をそぎ落とし、陰部に杭を打ち込んで辱めた。最後に遺体を切り刻んで大釜に放り込み、桃の木の灰と毒薬を加えた上で一昼夜煮込み、どろどろに煮溶かしたという。劉去はこれ以降も妻の讒言に惑わされ、10人以上もの側室を惨殺し続けたため、王位を取り上げられて左遷され、最終的に自害した。陽城昭信は斬首の上、棄市(さらし首)に処された[9]。

後漢も末の頃、董卓は何人もの役人を釜茹でに処した。釜の中で断末魔の叫びが上がる傍らで、董卓は平然と食事を続けたという[10]。

以降も人を煮る処刑は続けられた。五胡十六国時代から南北朝時代にかけて、後趙の石虎や北斉の後主など、各国の君主が釜茹でで反乱分子を処刑している。

隋の煬帝も高句麗に逃亡した武将の斛斯政を和議の条件として、強制的に返還させた後に射殺させて、その遺体を釜茹でにした。その食肉は宴会で諸侯に差し出されたという[11]。

五代十国時代、後唐の将軍の姚洪は反乱軍の董璋(中国語版)に監禁されたが、頑なに降服を拒んだ。激怒した董璋は姚洪の肉を生きながら削ぎとり、大釜でゆでながら喰らったという。ただしこれは後世の創作の可能性が高い。

南宋の秦檜も、釜茹での刑を行っている。清王朝の末期まで、杭州の官舎跡には口径130センチ、深さ66センチの大釜が残されていた。秦檜が罪人を煮た釜だといわれている。

1193年、中国北方の騎馬民族モンゴルのテムジン(後のチンギス・カン)と、その盟友ジャムカとの間で、家畜の盗難を原因とした争いが発生した。十三翼の戦いと呼ばれるこの戦の勝敗は定かではないが、ジャムカは捕虜とした70名を釜茹でを用いて処刑した。この残酷さゆえにジャムカは人望を失い、結果としてテムジン側の勃興につながっていった[12]。

明王朝初期の靖難の役の折、南京を攻略した朱棣(後の永楽帝)は、将兵部尚書の鉄鉉を鼻そぎにして辱めた上、磔に刑した。そして油を満たした大釜に放り込み、揚がる遺体に釜の中から「謝罪」の体勢を取らせようとした。しかし顔が上に向くよう動かしてもすぐに裏返り、思うような形にならない。まごついているうちに遺体は黒こげとなり、爆発して飛び散ったという伝承がある。

日本
日本では1594年に京都の三条河原で執行された、盗賊団石川五右衛門一派の釜茹でが有名である。

戦国時代末期に織田氏、武田氏をはじめ讃岐の仙石氏、会津の蒲生氏などでも釜茹での刑が行われていた[13]。

この世の刑罰として実際にあったかは別として、他界における刑罰としては、認識的にはさらに遡る。『地獄極楽図屏風』(京都金戒光明寺所蔵、鎌倉中・後期作)の仏教説話画には、釜茹でにされる人間の描写があり、13、14世紀には、地獄の刑罰器と認知されていたことがわかる。同じく京都で処刑された五右衛門の処刑方法は、地獄における刑罰の再現ともいえる。

加賀藩では元和4年、姦通の末に夫を殺害した田上弥右衛門の妻たねが「釜煎」に処された[14]。

イギリス
Question book-4.svg
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出典検索?: "釜茹で" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年11月)
1531年にヘンリー8世が毒殺犯に対する法定刑罰として制定した。1531年2月にロチェスター大聖堂で料理人をしていたリチャード・ルースという人物が食事に毒を盛り、数十人の司祭、教会の来賓と施しを受けていた貧民まで多数の死者を出した無差別殺人事件を起こした。イギリスにおける釜茹での刑はこの事件に対して制定されたものであった。1532年4月15日に市内中央に大釜が設置されルースは公開処刑された。

この事件では、ロチェスター大聖堂を司牧していたジョン・フィッシャー司教も料理を食べていたが、軽症にとどまった。この事件は対立していたヘンリー8世がフィッシャーを暗殺するために仕組んだとの憶測を後世に残すことになった。ヘンリー8世が特別に釜茹でを立法したのは、暗殺であることを誤魔化すためだったする説もある。

この刑罰の執行例はイギリスの歴史上わずか3件しかなく、1531年に婦人を毒殺した家政婦と、1542年3月28日にロンドン北西部にあるスミスフィールド家畜市場で主人を毒殺したマーガレット・ディビーという家政婦に執行されただけである。

釜茹では1547年にエドワード6世が即位すると直ちに廃止された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C%E8%8C%B9%E3%81%A7


▲△▽▼


想像するだけでも恐ろしい 実際に行われていた処刑方法5選
https://r-dynamite.com/fear/syokei5/

5、炮烙(ほうらく)

中国最初の王朝である殷の時代に炮烙という刑があったことが、歴史書「史記」に記されています。

罪人に油を塗った金属製の丸太の上を裸足で歩かせるというもので、渡りきれば罪を免れ釈放されるというものでした。

しかし、丸太は下からの火で熱せられ、触ることさえできないようなものだったため、渡り切ることができた罪人はほとんどいませんでした。

それでも罪人は釈放されることを夢見て、灼熱した丸太の上を歩きました。

途中滑って足を踏み外すと、丸太から落ちまいとして必死にしがみつくのですが、結局は力尽きて猛火の中に落ちて焼け死ぬのが通例でした。

王や王妃はこういった光景を見ては、笑い転げて喜んでいたそうです。


4、簀巻き

「簀巻きにして大阪湾に沈めたろか」という表現がありますが、この刑は正式な刑罰ではなく私刑として行われていました。

賭場を開いて生活をするいわゆる博徒という人たちが借金の取り立てから逃げようとした人を見せしめとして行っていたのが簀巻きです。

対象者をワラなどで出来た筵(むしろ)でぐるぐる巻きにして動けない状態にし、水中に放り投げるというものです。

必ずしも殺すことが目的ではなく、誠意を見せない客に怖い思いをさせるのが主たる目的でした。

ただし、死んでしまったら、それはそれで構わないという人にしか行わなかったそうです。


3、車裂きの刑

中世のヨーロッパでは、罪人を処刑する際に車輪が利用されることがよくありました。

人を車輪に踏ませて手足を粉砕したり、大きな木製の車輪に体を固定させて、こん棒などで殴るなどのものがありました。

しかし、車輪を使った刑で最も残酷なのは古代中国で行われていた車裂きの刑といえるでしょう。

罪人の手足を4つの馬車につないで、同時に馬車を別々の方向に進めるというものです。

この刑を受けた罪人の体は、手足と胴体がいとも簡単に5つのパーツにちぎれたといいます。


2、釜茹で

釜茹での刑といえば石川五右衛門のケースがよく知られています。

石川五右衛門は桃山時代に京都を荒らしていた盗賊団の頭で、逮捕されたのち見せしめとして、釜茹での刑に処されました。

煮立てた湯の中に人を投げ入れて殺す釜茹での刑は古代中国では殷王朝の時代からあったことが記録に残っています。

皇帝が人質を煮込んだスープをその人質の父親に供したというのが記録に残る最初の釜茹でのケースです。

秦王朝末期に天下取りまであと一歩というところまで迫った項羽も、たびたび敵を釜茹でにしました。

項羽が最終的に天下を取れなかった理由の一つは、釜茹での刑を執行するたびに、人心が離れていったことでした。

またイギリスでも16世紀に一時期釜茹でが処刑方法として採用されていたことがありました。

しかし、釜茹での執行例は3件だけで、新しい王が即位すると直ちに廃止されました。


1、腰斬刑(ようざんけい)

処刑というとギロチンなど頭部を切断するイメージですが、紀元前の中国では死刑執行で切断する部位といえば、頭部ではなく腰でした。

台の上に罪人をうつ伏せに寝かせ、執行人が大きな斧で腰部を切っていきました。

首を切るのとは異なり、胴体を切られても即死することはなく、罪人は刑を執行されてしばらく経ってから出血多量やショックで亡くなりました。

その後腰斬刑の執行方法は進化し、現代の裁断機のような形状の道具が使用されるようになります。

てこの原理が使われるため、死刑執行人の体重だけで、それほど苦もなく罪人の腰を切断できるようになりました。

しかし、苦しんで死んでいくという残酷な刑であるため、清の時代に腰斬刑は廃止されましたが、

現代中国の俗語ではまだ使われていて、テレビドラマなどの打ち切りを意味する言葉となっています。
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7:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/20 (Fri) 00:52:55

【実話】史上最凶の刑。耳に硫黄流す。目ん玉くり抜いて…豚便所に捨てる。 - YouTube
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呂雉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E9%9B%89

出生 前241年
死去 前180年8月18日

呂 雉(りょ ち)は、漢の高祖劉邦の皇后。恵帝の母。字は娥姁(女偏に句)。諡は高后(高皇后)。夫・劉邦の死後、皇太后・太皇太后となる。現代では呂后と呼ばれることが最も多いが、他に呂太后、呂妃とも呼ばれる。「中国三大悪女」として唐代の武則天(則天武后)、清代の西太后と共に名前が挙げられる。

生涯

皇后となるまで
単父の有力者の呂公(呂文叔平)の娘として生まれた。当時沛県の亭長(宿場役人)だった劉邦が呂公の酒宴に訪れた際に酒宴を仕切っていた蕭何に「進物一万銭」とはったりを書いた劉邦に呂公が感心し、妻の反対を押し切って劉邦に嫁がせ、一男一女(恵帝・魯元公主)をもうけた。この時は劉邦の父の劉太公の農業を助け、懸命に子供たちを育てていた。ちなみに妹の呂嬃は樊噲に嫁いだ。この時、人相を見る老人が呂雉に対し「天下を取られる貴婦人の相がある」と言われ、また秦の始皇帝が「東南のほうに天子の気がある」と言い、始皇帝が巡幸した際に身の危険を感じた劉邦が山奥へ逃げるも、呂雉はすぐに探し当て劉邦が不思議がると呂雉は「あなたのいる所には雲気が立ちこめているので分かるのです」と言ったという。これらが噂となり、劉邦に仕える者が多かったという。

秦末動乱期及び楚漢戦争開始直後は、沛県で劉太公や子供達とともに夫の留守を守っていたようである。

しかし楚漢戦争が激化し、彭城の戦いで劉邦が項羽に敗れると、呂雉は舅・太公とともに楚陣営に捕らえられ人質になってしまう(恵帝と魯元公主は劉邦と合流、関中に逃れることに成功するが、その際に劉邦が子を捨てる騒動が起こっている)。

これ以降の楚漢戦争は、劉邦の配下である韓信らによる楚陣営各国の切り崩しと平定、そして太公と呂雉の身柄の解放が焦点となり、項羽側が有利でありつつも膠着状態に陥った。しかし紀元前203年に入ると、韓信等による楚陣営の切り崩しが成功し、形勢は逆転する。窮地に陥った項羽は劉邦と講和し、呂雉は太公と共に劉邦の元に帰ることを許された。

翌紀元前202年、劉邦は項羽を滅ぼして皇帝となり、呂雉は皇后に立てられた。しかし、まだ政情は劉邦が自ら反乱の討伐に出向かねばならぬほど不安定であり、また宮中では劉邦の後継者を巡り暗闘が始まっていた。このような状況の下で、呂皇后は夫の留守を預かり、紀元前196年に淮陰侯韓信の下僕の密告で、韓信が反乱を企てたことを知り蕭何と計りこれを召し出して処刑する一方、自分の実家の呂氏一族、および張良らの重臣の助けを借りて、皇太子となった劉盈の地位の安定に力を尽くした。

呂太后の専横
劉邦が没して劉盈(恵帝)が即位すると、呂后は皇太后としてその後見にあたる。また、自らの地位をより強固なものにするため、張耳の息子張敖と魯元公主とのあいだに生まれた娘(恵帝の姪に当たる)を恵帝の皇后(張皇后)に立てた。だが、高祖の後継を巡る争いは根深く尾を引いており、恵帝即位後間もなく呂后は、恵帝の有力なライバルであった高祖の庶子の斉王劉肥、趙王劉如意の殺害を企て、斉王暗殺は恵帝によって失敗するが、趙王を殺害した。呂后はその生母戚夫人を奴隷とし、趙王如意殺害後には、戚夫人の両手両足を切り落とし、目玉をくりぬき、薬で耳・声を潰し、その後便所に置いて人彘(人豚)と呼ばせ、そのさまを笑い転げながら見ていたと史書にはある(なお、古代中国の厠は、広く穴を掘った上に張り出して作り、穴の中には豚を飼育して上から落ちてくる糞尿を「餌」にする「豚便所」であった。戚氏を厠に入れたことから、豚に喩えたと思われる)。

これに激しく落胆した恵帝は政務を放棄し、酒に溺れ間もなく死去する。死去後の葬儀で呂后が激しく嘆くも涙が出ていないことを張良の息子張辟彊から聞きつけた陳平は、呂后が今後に不安を抱いていることを見抜き、呂后に実家の呂氏一族を重役に立てることを進言、呂后はその遺児・(前)少帝を立て、呂氏一族や陳平、周勃ら建国の元勲たちの協力を得て、政治の安定を図る。しかしこの頃から、各地に諸侯王として配された劉邦の庶子を次々と暗殺し、その後釜に自分の甥たちなど呂氏一族を配して外戚政治を執り、自分に反抗的な少帝を殺害して劉弘(後少帝)を立てるなどの行動をとり、劉邦恩顧の元勲たちからの反発を買うようになる。また、元勲たちも自らの暗殺を不安視したために、ろくに仕事をしなくなった。呂后自身このことには気が付いていたようで、日食が起きた時には周囲の者に「私のせいだ」と言っていたといい、死ぬ数か月前には蒼色の犬[3]に脇の下を引っ張られる幻を見たため占い師に占わせ、少帝の祟りだと告げられた。さらには腋の病気にかかり、甥の呂産らに元勲たちの動向に気をつけるようにさんざん言い聞かせ、さらに呂氏一族を中央の兵権を握る重職などに就けて万全を期した後、死去した。

死後
しかし間もなく、陳平や周勃らの元勲は、斉王の遺児などの皇族や諸国に残る劉氏の王と協力してクーデターを起こし、呂氏一族を皆殺しにした上で、恵帝の異母弟・代王劉恒を新たに皇帝に擁立した。これが文帝である。文帝擁立の前後には少帝弘も、恵帝の実子ではなく呂后がどこからか連れてきた素性の知れぬ者という理由で、恵帝の子とされていた常山王劉朝(軹侯)、淮陽王劉武(壷関侯)らと共に暗殺された。また、呂后の妹の呂嬃は鞭打ちの刑で殺害され、呂嬃の息子の樊伉も殺害された。呂氏の血を引く者のうち、この粛清で殺害されなかったのは、魯元公主が生んだ張敖の子である張皇后と張偃のみであった(公主は母の呂后に先だって死去している)。


評価
呂后の時代は、皇族や元勲が殺害されるなど、何かと血腥い事件の続いた時代であり、呂氏一族も呂后の死後誅殺されることになる。呂后の治世に関して司馬遷は「天下は安定していて、刑罰を用いることはまれで罪人も少なく、民は農事に励み、衣食は豊かになった」と評価する一方で[4]「性格は残忍で猜疑心が強く、息子が亡くなっても悲しまず、天下を私し、功臣や王族を陰謀で陥れて残酷に族滅し、無能卑賤な呂氏を要職に就けた。その悪逆は世に隠れも無い」と非難してもいる。また、司馬遷は『史記』において、時の支配者として始皇帝・項羽・劉邦らと同じく呂太后本紀を立て、『漢書』でも同じく高后紀を立てている。

なお、新末後漢初の動乱の際、 赤眉の軍勢は前漢諸帝の陵墓を盗掘し、安置されていた呂后の遺体を汚したという[5]。光武帝は呂雉から皇后の地位と高皇后の諡号を剥奪し、文帝の生母である薄氏を劉邦の正妻として高皇后の号を贈った。

郭沫若や佐竹靖彦など中国や日本の歴史家によると、呂雉は秦で繁栄した呂不韋の一族である可能性があるという見解が一部であるが、『史記』や『漢書』には記述が無いため真相は不明である。
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戚夫人
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戚夫人(せきふじん、拼音:Qī Fū-ren、? - 紀元前194年?)は、秦末から前漢初期の人物。高祖劉邦の側室で、劉如意の生母。一説によると名は懿。上体を後ろに大きく反らす楚舞を得意とし、劉邦とは遠征中に碁を打ったともいわれる。

生涯
定陶の人で、紀元前208年頃、楚漢戦争中に劉邦に見初められ、その寵愛を一身に受け、劉如意を生む。その影響で、代王、次いで趙王に封建された息子の劉如意も有力な皇太子候補と目されるようになる。さらに彼女は、劉邦(高祖)が親征を行うたびにこれにしたがい、劉如意を皇太子に立てるようにたびたび懇望した。

寵愛する戚夫人の懇望に加えて、皇太子に立てていた劉盈に対して父の劉邦自身がその資質にかねてから疑問と不安を抱いていたこと、さらに仁弱な劉盈とは対照的に劉如意が活発な子供であったことから、劉邦も徐々に劉盈を廃嫡して劉如意を立てることを考え始める。

しかし、劉邦が皇太子の交代を重臣たちに諮ったものの、重臣たちはことごとく反対した。さらに、劉邦の信任が厚い張良の助言を受けた盈が、かつて劉邦が招聘に失敗した有名な学者たち(商山四皓)を自らの元に招いたことが決定打となり、劉邦は劉盈を皇太子にとどめることを決め、劉如意は趙王のままとされた。

このことから、戚夫人母子は劉盈の生母の呂雉に憎まれることとなり、紀元前195年に劉邦が死去して劉盈(恵帝)が即位すると、皇太后となった呂雉による報復が始まる。

まず、戚夫人を捕らえて永巷(えいこう:罪を犯した女官を入れる牢獄)に監禁し、囚人服を着せ、丸坊主にした後、一日中豆を搗かせる刑罰を与えた。戚夫人が自らの境遇を嘆き悲しみ、詠んだ歌が「永巷歌」として『漢書』に収められている。

そして呂太后は、長安に入朝した如意を毒殺した。その前後、戚夫人も殺害された。『史記』によると呂太后は戚夫人の両手両足を切り、目耳声を潰し、厠に投げ落としてそれを人彘(人豚)と呼ばせ、さらに恵帝を呼んでそれを見せたため、彼は激しい衝撃を受け、以後酒色に溺れるようになり早世したという。
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人豚の刑とは?両手両足を切断し目を抉り耳と喉を潰し豚便所に投げ込む戦慄の処刑法
2023年1月3日
https://hajimete-sangokushi.com/2022/06/26/han-dynasty-3/

皆さんは人豚ひとぶたの刑をご存知でしょうか?ちなみに猪八戒ちょはっかいとは関係ありませんよ。

人豚刑とは、古代中国の歴史に時々出現する個人的みせしめであり、実際の刑罰には入っていません。しかし、そのあまりにおぞましく惨たらしい方法から聞く人に衝撃を与え、世界的に有名になってしまったのです。

今回は人豚の刑について解説しましょう。

両手両足を切断し目と喉を潰す人豚の刑

では、人豚の刑の内容について解説します。

人豚刑とは、人間の両手両足を切断し、目と耳を潰し喉を潰して歩く事も話す事も見る事も聞く事も出来なくした後、豚便所に放り込んで死ぬまで放置するむごたらしい方法です。

人間は両手両足を切り落としただけでは死なないので、豚便所に落された打撲や骨折、そして切断された両手両足の痛み、さらには目も見えず話す事も聞く事も出来ない絶望的な状況で、数日間生き続けないといけません。考えるだけで、恐ろしいのが人豚刑なのです。


どうして人豚なのか?

東アジアから東南アジアにかけては、人が豚を飼育して食べる事が一般的でした。そして人間の排泄物は、かなり栄養が豊富なので豚にとっては御馳走で人が排泄行為をしていると近寄ってきてウンチを食べる事がありました。

しかし、トイレの度に豚が寄ってきては落ち着いていられないので、豚が這い上がれない程度の深さの穴を掘り、そこに板を渡して便座にする事が編み出されます。こうして人間のトイレの下には豚が飼われるようになり、人の食べ残しやウンチを餌として太っていく事になります。

古代中国では、屋敷の二階がトイレと浴室、一階が豚小屋でした。豚小屋は薄暗く湿気が高く豚はその中でグーグー鳴いている状態です。

この豚小屋に二階のトイレから両手両足を切断して目と耳と喉を潰した人豚を放り込むと大けがをして糞尿に塗れ、声が出ませんから豚のように、もぞもぞとうごめき、うめき声をあげるしかありません。その様子が豚にそっくりなので人豚と名づけられたのです。


最初に人豚を作った女 呂雉(りょち)

では、そもそも史上最初に人豚を製造したのは誰なのでしょうか?
それは恐らく人豚の名づけ親である呂雉でしょう。

呂雉とは、漢の建国者である劉邦の皇后で、一般には呂后と呼ばれます。劉邦が無名時代から支え続けた糟糠の妻で、自らも項羽の人質になるなど苦難を重ねながら劉邦を助けました。やがて嫡男である劉盈りゅうえいも誕生します。

左遷される劉邦

ところが項羽を相手に転戦していた劉邦は、元々女好きだった事もあり、戚夫人せきふじんという舞の上手な美女を側室に迎え入れて寵愛します。戦争の時も戚夫人は劉邦に付き従い、碁の相手を務めたそうなので、利発で機転が利く女性だったのでしょう。寵愛の結果として戚夫人は皇子を産みます。劉如意りゅうにょいです。

子供が生まれた戚夫人は劉邦に、劉盈ではなく息子の如意を次の皇帝にして欲しいと何度も懇願しました。劉邦も溺愛する戚夫人の頼みなのでその気になります。

呂雉は気が気ではなく、重臣の張良にアドバイスを求めるなどしてこれを阻止しました。やがて劉邦は死に、二代皇帝には劉盈が即位しますが呂雉の心には憎悪が燃え盛ります。


血も凍る呂雉の復讐劇
王族ボンビーから一転セレブ03 董太后、霊帝(女性)

呂雉の恨みは二重にも三重にも重なっていました。

第一に、劉邦が容姿の衰えた自分を捨て、戚夫人に夢中になったという女としての屈辱第二に、戚夫人が野心を持ち劉盈を押しのけて劉如意を皇太子にしようとした恨み最後に、息子の劉盈と戚夫人の子の劉如意では如意が利発で劉邦も可愛がった事に対する侮辱です。

元々、大商人の娘で気位が高く、ガマンにガマンを重ねて劉邦の天下取りを支えてきた呂雉にとって、その全てを奪い取った戚夫人への恨みは並大抵ではなかったのです。

「少しばかり容姿が美しいだけで、身分も弁えず夫をたらしこみおって…危うくわが子の帝位を失う所であったわ!忌々しき豚にも劣る淫乱女め、今にみておれ、全てを奪い取る罰を与えてくれる」

呂雉は劉邦が死んで劉盈が即位すると、すぐに戚夫人を罪に落し入れ自分の奴隷にしました。そして長く美しい髪を剃り落とさせ、一日中、豆を搗つかせる重労働を科します。その間に呂雉は趙王、劉如意を長安に呼び出して毒殺しました。

復讐の鬼に変貌する呂雉

次に重労働でやせ衰えた丸坊主の戚夫人を引きずり出し、悲鳴をあげる戚夫人の両手と両足を切断します。激痛に悶えながら助けを求める戚夫人をつかまえ、両眼をくり抜いて視力を奪い無理矢理に毒を飲ませて、耳と喉を潰しました。

「豚は豚に相応しい場所に行くがよい」

呂雉は血まみれの戚夫人を部下に担がせると、豚便所に叩き落とします。

恵帝が人豚を見て精神を病む

糞尿にまみれ豚とともにうごめいている、かつて戚夫人だった人豚を見下ろし、呂雉は狂ったように笑い転げます。そして、こんなに面白い見世物を独占しておくのは勿体ないとして息子である恵帝を呼び出し、豚便所でうめき声をあげる戚夫人を見せます。

しかし便所は薄暗く、恵帝には母が自分に何を見せたいのか分かりません。

「母上、あの豚の中でうごめいている得体が知れないものはなんですか?」

「おや、わからないのかい盈えい?あれは私の奴隷の戚夫人だよ」

その瞬間、恵帝の顔から血の気が引きました。あの美しかった戚夫人が豚便所で糞尿に塗れ、芋虫のようにうごめいている。恵帝はたまらず嘔吐し急いで部屋を出て行きました。

繊細な神経を持つ恵帝は母の仕打ちが理解できず、以後は心を病んで酒と女に溺れ、即位から数年で崩御します。人豚の刑2番目の犠牲者は恵帝だったのかも知れません。


人豚の刑はどうやって発想された?

いくら、呂雉が残酷な性格をしていたとしても、何もない所からいきなり人豚の刑を思いつくとは思えません。実は、古代中国では肉刑と呼ばれる刑罰が存在しました。

肉刑とは人体を切断したり、刺青をいれるなど肉体に傷をつける刑罰の事です。逆に身体を拘束するだけで傷をつけない刑罰は自由刑と言います。

呂雉が生きていた時代は、過酷な刑罰で知られた秦帝国が存在した時期でもあり、足斬りや鼻削ぎ、刺青や人体を腰から真っ二つに斬って処刑する腰斬という刑罰がありました。

呂雉は若い頃から、このような肉刑を科された人を見ていたので両手両足を切断し、目をくりぬき耳と喉を潰すという、おぞましい人豚刑を思いついたのかも知れません。

今回は、呂雉が最初に考案したと考えられるおそましい処罰、人豚の刑を紹介しました。

いくら憎くても、恨んだ相手の四肢を切断し、目をくりぬき耳と喉を潰して便所に落すなど、恐ろしくて実行できそうにありませんが、呂雉は恵帝の死後に呂一族を王に立てて、漢を乗っ取ろうとしたような女傑なので可能だったのでしょうか?
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残虐行為でも男と女ではやりたい事が全然違うのですね:

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中国三大悪女に名を連ねた劉邦の妻・呂雉(りょち)とはどんな人?とても怖い実話
https://hajimete-sangokushi.com/2016/02/02/post-9167/


三国志には貂蝉(ちょうせん)を始め、傾国の美女はたくさん登場しますが、悪女と呼ばれる程度でした。今回紹介するのは三国志に出てくる悪女より100倍悪い中国三大悪女の一人が登場します。


中国三大悪女とは唐の武則天。清の西太后。そして呂雉(後の呂后)の三人です。彼女は劉邦(りゅうほう)の妻として、支え続けた奥さんですが、彼が亡くなると豹変します。漢の国を建てた功労者を次々と殺害。

また劉邦の側室を殺し、自らの息子も彼女の豹変ぶりに、ショックを受け、若くして亡くなります。その後新たな皇帝を擁立しますが、気にくわなかったため、殺害。そしてついに自らが皇帝のような振舞いを見せる、物凄い女性です。


劉邦と結婚する

呂公は沛に行った時、劉邦を一目見て気に入り娘を嫁がせます。この時、劉邦に嫁いだのが、若かりし呂雉です。彼女は後年見せた野心と嫉妬の塊のような激しい女性ではありませんでした。いつも遊び歩いている夫・劉邦の代わりに、彼の実家を手伝うしっかりとした女性でした。

項羽に捕えられ捕虜になる

始皇帝が死に各地の豪族が反乱。中華は天下統一以前の状態に戻ってしまいます。劉邦も地元の沛県で独立。

項羽と劉邦

呂雉は劉邦が各地を転戦しているため、父親や息子らと共に夫の留守を守っておりました。呂雉は風の噂で劉邦が項羽の本拠地彭城を陥落させたと聞きます。

彼女は夫の勝利を喜びもつかの間、項羽によって劉邦は敗北したと知ります。その後呂雉や劉邦の父親は項羽の軍勢に捕えられ捕虜にされてしまいます。


初代漢帝国の皇后へ

呂雉は項羽の捕虜となりますが、不自由な暮らしもなく、丁寧な扱いをされながら過ごします。項羽の元でのんびりと暮らす事二年後、呂雉はようやく捕虜から解放。彼女は劉邦の父と共に2年ぶりに劉邦の元へ帰ります。その後項羽は劉邦に滅ぼされ、天下統一を果たします。


劉邦は天下統一をすると国号を「漢」とし、皇帝になります。そして、今まで苦労欠けた妻呂雉を皇后にたてます。


劉邦の後継を巡って争い勃発

漢の国内は天下統一後も各地で反乱が頻発。劉邦は反乱を平定するため、自ら出陣する事が多く、首都である長安に居る事はほとんどありませんでした。劉邦が首都にいない間、後宮では劉邦の後継者を巡って激しい暗闘が始まっておりました。呂雉はそう言った暗闘に加わるも、夫劉邦の留守を持ち前のしっかりとした性格で預かります。


漢の功臣韓信の謀反

紀元前196年大事件が勃発します。漢の創業の功臣である韓信(かんしん)が謀反を企てていると報告を受けます。呂雉はこの事件を宰相である簫何(しょうか)に相談。呂雉は簫何と何度も相談を重ね、韓信をおびき出す策を計画します。韓信は二人が作った策にまんまと嵌り、首都長安にきて逮捕されます。


劉邦と簫何

彼は漢の名将といっても過言ではないのですが、簫何を絶大に信頼していた為、彼の呼びかけに応じてしまい、長安へ赴いてしまうのです。呂雉は韓信を捕えると、謀反を企てた罪で処断します。


皇太子劉盈(りゅうえい)の地位を盤石にする

呂雉は韓信の反乱を未然に防いだ後、後宮で起きていた劉邦の後継者争いを止めるべく、天才軍師張良(ちょうりょう)の助けを借りて、皇太子劉盈の地位を盤石にします。こうして後継者争いに終止符を打つことに成功します。

自らの権力を強大化させる呂雉
劉邦の息子を補佐する曹参(そうしん)

呂雉の努力により、劉邦の死後皇太子劉盈が漢の二代目皇帝となります。呂雉は彼が皇帝になると、後見役として皇太后になります。皇太后になった呂雉は、趙王劉如意(りゅうにょい)や彼の母親戚夫人(せきふじん)、斉王劉肥(りゅうひ)などを殺害しようと企てます。斉王劉肥は皇帝劉盈が匿った為、命拾いしますが、劉如意と戚夫人は呂雉によって殺害されます。趙王の母親は劉邦が生きている時、かなり気に入られた側室であったため、彼女の殺し方は残虐を極めました。


戚夫人に復讐を行う

呂雉は戚夫人を奴隷に落とします。さらに趙王劉如意を殺害した後、彼女の目をえぐりとり、両手・両足を斬りおとし、目と耳を薬で潰します。その後トイレにおいて人豚(じんとん)と家臣や一族に呼ばせます。(古代中国のトイレは穴の中に豚を飼って、糞尿を始末していたそうです)

劉盈母の残虐さを目の当たりにし、亡くなる

皇帝劉盈は母の残虐さを目の当たりにし、ショックで仕事が手につかなくなります。彼はこのショックから立ち直れず、若くして亡くなってしまいます。呂雉は彼が亡くなった事を悲しみますが、涙は出てきませんでした。

漢帝国の安定を図る

呂雉は三代目皇帝を立て、兄弟や甥、従兄弟などを重職につけ、呂氏一族や漢帝国の功臣で従順な陳平などと共に乱れた漢帝国の建て直しを図ります。彼女は漢帝国の政治の安定を図ろうとする一方、王となっている側室が生んだ劉邦の子供達を次々に殺し、空白となった王位に自らの身内を送り込み、反抗する勢力に圧力をかけていきます。


三代目皇帝を殺害

三代目皇帝は彼女に対して、すごく反抗的でした。最初は多めに見ていた彼女ですが、次第に三代目皇帝が、目障りになり、殺害。新たな皇帝を擁立。自らは四代目皇帝の後ろ盾となり、政治の実権を握り、漢帝国の政治を行っていきます。


仕事をしない功臣達

漢帝国の功臣達は、彼女が暗殺を何回も行った事で不信感と彼女に暗殺されるのではないかという恐怖感がぬぐえず、仕事を行なわなくなります。そのため彼女の一族が政治を取り仕切り、漢帝国は事実上、呂氏一族の国になってしまうのです。こうして巨大な漢帝国の主として実権を握った彼女ですが、ついに亡くなるときが来ます。


漢帝国の主・呂皇后死す

劉邦の死後、漢帝国の主として君臨し続けた彼女でしたが、幕を閉じる時がやってきました。彼女は重い病にかかります。彼女は自らの死期を悟り、一族の者達に兵を動かす事の出来る重職につけます。さらに彼女は一族に「旦那様が生きていた頃の家臣には十分に気を付けなさい」と執拗に言い残します。権力保持と復讐の日々を過ごした中国三大悪女呂雉は亡くなります。

漢帝国の女主呂雉は亡くなります。その後陳平や劉邦の子供達と共に呂氏一族を皆殺しにします。

そして再び劉氏が漢帝国の実権を握ることになり、 漢の五代目皇帝文帝が誕生します。彼は呂氏によって乱れきった政治を安定させることに成功。文帝と景帝の治政を合わせて世に言う「文景の治」呼ばれる事になるのです。
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