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テレビドラマ 三国志 Three Kingdoms (2010年 中華人民共和国)

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2022/12/20 (Tue) 09:06:04

テレビドラマ 三国志 Three Kingdoms (2010年 中華人民共和国)

原作:羅貫中
総監督:高希希(中国語版)
音楽:趙季平

動画

三国志 Three Kingdoms 1〜2話【日本語吹替】
https://www.youtube.com/watch?v=GJn1d9HPQtU

三国志 Three Kingdoms 3〜4話【日本語吹替】
https://www.youtube.com/watch?v=t7EKEBMYq2Q

三国志 Three Kingdoms 5話【日本語吹替】
https://www.youtube.com/watch?v=k5xssZ4WzMQ

三国志 6話
https://www.dailymotion.com/video/x59dtfj

三国志 Three Kingdoms 7〜8話【日本語吹替】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ZGjyZ7gr7kM

三国志 Three Kingdoms 9話【日本語吹替】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=x_u13E8qAck

三国志 Three Kingdoms 10〜18話【日本語吹替】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=wq3DjhZ7eDM

三国志 Three Kingdoms 19〜32話【日本語吹替】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=DVY9oHac4Ek

三国志 Three Kingdoms 33〜42話【日本語吹替】
https://www.youtube.com/watch?v=8iqNRAz-l1I

三国志 Three Kingdoms 第43集 司馬懿、出仕す [日本語吹替版]
https://www.youtube.com/watch?v=pbdiLzOhZLs

https://www.youtube.com/watch?v=eORI8Ia_PCM
https://www.youtube.com/watch?v=eQcZ7yb8lbA
https://www.youtube.com/watch?v=6E3YE7x1dDE
https://www.youtube.com/watch?v=OSTwFQx5UPg
https://www.youtube.com/watch?v=QSzIvyS4s2Y
https://www.youtube.com/watch?v=N8_6NxAYiVY

三国志 Three Kingdoms 第50集 長沙の戦い [日本語吹替版]
https://www.youtube.com/watch?v=uyBlgv3yWPk

https://www.youtube.com/watch?v=iFlh1Si3EnM
https://www.youtube.com/watch?v=IMSdrQG1f2g
https://www.youtube.com/watch?v=ozhHE6sxrko
https://www.youtube.com/watch?v=PE3_TBjHJ5E
https://www.youtube.com/watch?v=YAORtw8sLnE
https://www.youtube.com/watch?v=IXm2xgkZyBI

三国志 Three Kingdoms 第57集 周瑜の死 [日本語吹替版]
https://www.youtube.com/watch?v=3npRbcjqSX0

https://www.youtube.com/watch?v=6BJgYz8Rouk
https://www.youtube.com/watch?v=Jb63xs5NRko

三国志 Three Kingdoms 第60集 馬騰、都に入る [日本語吹替版]
https://www.youtube.com/watch?v=uYGHhybk7Fo

https://www.youtube.com/watch?v=362thkIY3ag
https://www.youtube.com/watch?v=hO1OkArjj6c
https://www.youtube.com/watch?v=JAQFWHLlBDE
https://www.youtube.com/watch?v=XIife2X45X8
https://www.youtube.com/watch?v=WwSof3gzRkQ
https://www.youtube.com/watch?v=cHTUGZc30Sg
https://www.youtube.com/watch?v=XG8IVu58sgA
https://www.youtube.com/watch?v=eT3-JjjamBk
https://www.youtube.com/watch?v=3tQGg1g4qsM

三国志 Three Kingdoms 第70集 楊修の死 [日本語吹替版]
https://www.youtube.com/watch?v=trLDMYwlvgs

三国志 Three Kingdoms 第71集 骨を削り毒を除く [日本語吹替版]
https://www.youtube.com/watch?v=RbSJgsThNuM

三国志 Three Kingdoms 第72集 麦城に敗走す [日本語吹替版]
https://www.youtube.com/watch?v=Ld4jogBpn3U

三国志 Three Kingdoms 第73集 曹操薨去 [日本語吹替版]
https://www.youtube.com/watch?v=j7cvLIkfzts

https://www.youtube.com/watch?v=EJdNpds2YhM
https://www.youtube.com/watch?v=dNpMnCSAIgM
https://www.youtube.com/watch?v=EBoi4QTjJEk

第77話「張飛、殺害される」
https://www.youtube.com/watch?v=pNfO7QQtvaM

三国志 Three Kingdoms 第78集 劉備、呉を伐つ [日本語吹替版]
https://www.youtube.com/watch?v=V3HmI5htf8I

三国志 Three Kingdoms 第79集 黄忠、矢に当たる [日本語吹替版]
https://www.youtube.com/watch?v=7MOnBSbXmS8

三国志 Three Kingdoms 第80集 陸遜、大都督となる [日本語吹替版]
https://www.youtube.com/watch?v=CrHFw6F_Mvw

三国志 Three Kingdoms 第81集 夷陵の戦い [日本語吹替版]
https://www.youtube.com/watch?v=Vr9byeaQmkw

三国志 Three Kingdoms 第82集 陸遜、連営を焼く [日本語吹替版]
https://www.youtube.com/watch?v=xQLGQu5G4gA

三国志 Three Kingdoms 第83集 白帝城に孤を託す [日本語吹替版]
https://www.youtube.com/watch?v=pON5sV1t9nU

https://www.youtube.com/watch?v=ESgrAfYEi-I
https://www.youtube.com/watch?v=5yd4Bwchxos
https://www.youtube.com/watch?v=GO_eNXGhqZA

三国志 Three Kingdoms 第87集 泣いて馬謖を斬る [日本語吹替版]
https://www.youtube.com/watch?v=Dn9-UuE6uKw

https://www.youtube.com/watch?v=SMTtEXoygZw
https://www.youtube.com/watch?v=HzftBOyXokI

三国志 Three Kingdoms 第90集 曹真、敵を軽んじる [日本語吹替版]
https://www.youtube.com/watch?v=5xhK9i19m9Y

https://www.youtube.com/watch?v=tQmLqsold9E
https://www.youtube.com/watch?v=qJcR1lvfBPY
https://www.youtube.com/watch?v=9OMwXDNYBMA

三国志 Three Kingdoms 第94集 星落ち、五丈原に逝く [日本語吹替版]
https://www.youtube.com/watch?v=ihVhMoeIins

三国志 Three Kingdoms 第95集 司馬氏、天下を統一す [日本語吹替版]
https://www.youtube.com/watch?v=0OBM2GgQY_s


▲△▽▼


『三国志 Three Kingdoms』は、2010年の中華人民共和国のテレビドラマ。全95話。総制作費は日本円で25億円。撮影期間は2008年9月から2009年7月まで。登場人物は300人、エキストラ数は延べ15万人。

日本での放送・ソフト化では英題付きの「三国志 Three Kingdoms」と呼ばれる場合が多いが、英題を省略して「三国志」と呼ばれる場合もある。公式略称が「三国志TK」となり、また中国では1994年のテレビドラマ『三国志演義』と比較されて「新三国」とも呼ばれる。

本作品は中国において、サラウンド形式で音声を制作する最初のテレビドラマである。


小説『三国志演義』をベースに、現代的な新解釈を盛り込んだ新時代の『三国志』である。

登場人物
声は日本語吹き替え版。




曹操(そう そう)
演:陳建斌(チェン・ジェンビン)、声:樋浦勉
字は孟徳(もうとく)、第1話から登場する魏/曹操陣営の主人公。本作においては従来の悪漢というイメージよりも、多方面に優れた合理主義精神に富む現実主義者として描かれている。
特に長男の曹丕には理不尽に責めるような描写も見受けられたが、それも彼の王者の器を育むための行動であり、感情豊かで人間味溢れる描写も多い。

曹丕(そう ひ)
演:于浜(ユー・ビン)、声:前野智昭
字は子桓(しかん)、曹操の次男で魏の初代皇帝となる。暗愚を装い理不尽に悩みつつもつつ父親譲りの冷徹さと彼や司馬懿から教わった本質を見抜く力をもって有能な弟を排除し、曹操の跡取りとなる。

曹仁(そう じん)
演:洋光(ヤン・グアン)、声:手塚秀彰
曹操の従弟で曹操軍きっての勇将。本作では夏侯惇に代わって曹操の右腕の1人として長きにわたって登場機会が多い。
八門金鎖の陣で劉備を攻めるも徐庶の前に惨敗。一方で周瑜を計略にはめて毒矢を射るなど、百戦錬磨の実力も見せる。

曹叡(そう えい)
演:楊徳民(ヤン・デミン)、声:岸尾だいすけ
魏二代皇帝。司馬懿を恐れ一度は排除しようとするも、諸葛亮との戦いのために重用する。

曹真(そう しん)
演:趙晋(チャオ・ジン)、声:佐久田脩
司馬懿を排除し曹氏による権力掌握を狙うが、諸葛亮に連敗し司馬懿の台頭を招く。

曹休(そう きゅう)
声:金尾哲夫
曹操の従兄弟。曹叡に司馬懿の排除を提案するも蜀と呉にたびたび破れ司馬懿の台頭を招く。

曹嵩(そう すう)
演:郭継雲(グオ・ジユン)、声:小山武宏
曹操の父親。徐州を訪れた際、陶謙から曹嵩に贈られた財宝に目がくらんだ陶謙配下・張闓に殺害され、曹操の徐州侵攻のきっかけとなる。

曹洪(そう こう)
演:李泓瑞(リ・ホンルイ)、声:高山春夫
曹操の従兄弟で挙兵当時からの腹心。

曹植(そう しょく)
演:李継春(リ・ジチュン)、声:鈴木一敦
曹操の四男。酒癖が酷く傲慢だが、詩文に優れ文学者でもある曹操に最も愛される。

曹貴人(そうきじん)
演:劉梓嬌(リュウ・ズーチャオ)、声:鍋田カホル
献帝夫人。曹操の娘(曹節)。曹操による董貴妃惨殺後に嫁ぐ。曹丕による帝位簒奪には強く反対し、曹丕を短剣で刺す。本作では最期は献帝と共に川に沈む。

曹爽(そう そう)
演:夏添(シャ・ティアン)、声:桜木信介
曹真の息子。才に富み、司馬懿にも警戒されるが、油断により司馬懿のクーデターを招き失脚する。

曹芳(そう ほう)
演:袁紹雄(ユアン・シャオション)、声:戸田亜紀子
曹叡の死後に3代目の魏帝となる。

曹沖(そう ちゅう)
演:安彭澤宇、声:小松三夏
曹操の五男。才に溢れ、曹操が最も目をかける。司馬懿をつけるが、曹丕の手にかかり謀殺される。

曹彰(そう しょう)
演:陳楓、声:小林かつのり
曹操の三男。武勇に優れる。

荀彧(じゅん いく)
演:李建新(リー・ジェンシン)、声:星野充昭
曹操の軍師。冷静沈着であり、幾度となく窮地を救う。しかし、あくまで漢室を助ける立場を貫き、魏王となる曹操と対立し自害する。
本作では郭嘉や荀攸の史実上の行為も彼による行為とされている部分が多く見受けられ、それだけ曹操との密接な人間関係が誇張されて描かれている。

程昱(てい いく)
演:蔣昌義(ジャン・チャンイー)、声:小野健一
曹操の腹心。有能であるがそれをひけらかさず、常に曹操を立てることから終生重用される。

許褚(きょ ちょ)
演:郭濤(グオ・タオ)、声:宝亀克寿
曹操軍随一の猛将。赤壁の戦いで大勢の部下を失った際、己の非力さに号泣するが曹操に励まされる。以後、曹操のためなら親をも殺すと曹丕に評される。
潼関の戦いで馬超との一騎討ちを演じる。

張遼(ちょう りょう)
演:程相銀、声:堀部隆一
元は呂布の配下であるが、武勇と度量を曹操に買われ配下となる。赤壁の戦い後、合肥の守備に就き呉を退ける。
関羽とは古くからの友人で、彼が曹操の客将となって赤兎馬を送られた際には我がことのように喜んでいた。

夏侯淵(かこう えん)
演:李奇龍(リー・チーロン)、声:岡哲也
曹操の旗上げからの腹心で夏侯惇の従兄弟。数々の戦功を立てるが、定軍山の戦いで黄忠に討ち取られる

夏侯惇(かこう とん)
演:李夢成、声:鈴森勘司
曹操軍の勇将。関羽と互角の一騎討ちを演じる。三国志を題材とする他作品と異なり本作では登場機会は少なく曹仁に活躍の場面を奪われている。

夏侯楙(かこう ぼう)
声:鈴森勘司
夏侯淵の実子。蜀軍の北伐を食い止めようと出陣するも経験不足から大敗を喫する。

華歆(か きん)
演:張喜前、声:伊藤和晃
魏の重臣。曹丕の帝位簒奪に多大な貢献をする。

郭嘉(かく か)
演:王今心、声:横堀悦夫
曹操の軍師の一人。

王朗(おう ろう)
演:柳秉鈺、声:山野史人
元は漢の重臣でありながら、魏の重臣となる。そのことを諸葛亮に糾弾され憤死する。

楊修(よう しゅう)
演:金毅(ジン・イー)、声:鈴木正和
知略に優れ曹操に重用されるが、知をひけらかす性格が仇となり処刑される。

郭淮(かく わい)
演:張歌、声:河内浩
蜀の北伐に際し曹真、司馬懿の下で副都督を務める。

孫礼(そん れい)
演:李亜天、声:加藤亮夫
曹真、司馬懿の副官として諸葛亮率いる蜀軍と戦う。



司馬氏・晋

司馬懿(しば い)
演:倪大紅(ニー・ダーホン)(中国語版)、声:佐々木勝彦
第4部から登場する魏/司馬懿陣営の主人公。
字は仲達。常に曹一族からの弾圧を恐れ平身低頭で身を隠すも大業への志は曲げず、最終的に三国を統一する司馬氏の礎を築く。

司馬昭
演:劉国光、声:乃村健次
司馬懿の次男。本作では司馬懿の側近を務める。

司馬師
演:趙大成、声:宮内敦士
司馬懿の長男。本作では司馬昭と比べて出場シーンが少ない。

司馬炎
演:苗雅宁(中国語版)、声:釘宮理恵
司馬懿の孫。後に三国を平定し中国大陸を統一する晋の初代皇帝だが、登場は最終話のみ。

静姝(せいしゅ)
演:李依暁(リー・イーシャオ)(中国語版)、声:魏涼子
司馬懿の側室・柏夫人(中国語版)をモデルにした本作のオリジナルキャラクターである。何進の子孫。
司馬懿を恐れる曹丕がスパイとして送り込む。司馬懿には正体を見破られていたが、それでも羹を作ったり戦に赴く彼に編み物を送るなど健気に尽くし、その人柄を愛される。やがて司馬懿の子を宿すが、司馬懿の手によって殺害される。




劉備(りゅう び)
演:于和偉(ユー・ホーウェイ)(中国語版)、声:家中宏
字は玄徳(げんとく)。漢室の末裔であり、漢の中興を目指す。蜀/劉備陣営の主人公。
剣術の達人であり、それだけは誰にも劣らないと自負している。従来の聖人君子像は大業と民衆のため意識的に行なっているようなしたたかな描写が目立つ。しかし、それ故に仁義に背く行いは自分の基盤を否定するものとして苦悩し、激昂する場面も多い。
諸葛亮を軍師に迎えてからは時に「先生」と呼び敬意と全幅の信頼を置くが、関羽と張飛の死後は諌めを聞かず呉への出兵を強行し陸遜に敗れ、白帝城で諸葛亮と劉禅に後を託して没する。

諸葛亮(しょかつ りょう)
演:陸毅(ルー・イー)(中国語版)、声:堀内賢雄
字は孔明(こうめい)。三顧の礼をもって劉備に迎えられた天才軍師。蜀/諸葛亮陣営の主人公。
周瑜、司馬懿といった当代の天才との争いにおいても常に勝利する。劉備死後はその意志を受け継ぎ北伐を続けるも幾度となく失敗。6度目の北伐中に五丈原で病死する。今作では関羽、張飛ら古参の将との衝突や統治者としての苦悩も描かれている。
劉備から軍師に迎えてからは「先生」と呼ばれ、劉備の死に際息子・劉禅の補佐を懇願されたが「もし我が子が補佐するに足りない暗愚であったならば、迷わずそなたが国を治めてくれ」と全幅の信頼と敬意を持って接せられる。

関羽(かん う)
演:于栄光(ユー・ロングァン)、声:田中正彦
劉備三兄弟の二弟。
知勇兼備の勇将。信義に厚く部下や兵卒には寛大だが、劉備以外の諸侯を軽んずる性格。その傲慢さを諸葛亮に見抜かれ荊州を任せることの不安は的中し、樊城攻略の隙に呂蒙らに荊州を奪われ自害。関羽の死によって荊州を失ったことが蜀の天下統一を妨げる一因となる。

張飛(ちょう ひ)
演:康凱(カン・カイ)、声:天田益男
劉備三兄弟の三弟。
劉備軍屈指の猛将。酒に呑まれ、部下に暴力を振るうことが多いが、義理堅く涙もろい面も合わせ持つ。関羽の死後は仇討ちに躍起になるあまり、粗暴で好戦的な性格が災いして范彊と張達に暗殺される。
吹き替え役の天田は1994年の『三国志演義』と、2013年のドラマ『曹操』でも張飛を演じている。

趙雲(ちょう うん)
演:聶遠(ニエ・ユエン)、声:遊佐浩二
劉備配下の勇将。
元は公孫瓚配下の将であったが、劉備を慕い公孫瓚の元を離れ、劉備に従軍する。その際、劉備から四弟と称された。終生公正無私を貫き、関羽らと異なり遅れて加入した諸葛亮や龐統にも率先して敬意を示す。常に先鋒を好み幾度となく劉備を窮地から救うことで諸葛亮から絶大なる信頼を得る。
劉備の息子・劉禅を抱えつつ長坂坡を単騎で掛け抜け曹軍を驚愕させる。第二次北伐の直前に病死する。
今作の日本語版では字の「子竜」の読みが「しりょう」となっている。

馬超(ば ちょう)
演:陳奕霖(チェン・イーリン)、声:森川智之
劉禅(りゅう ぜん)
演:王鶴鳴、声:古谷徹
字は公嗣(こうし)。劉備の長男。遊興を好むが学問に疎く、高祖本紀が暗唱できずに劉備に叱られていた。劉備の死後は蜀の皇帝を引き継ぎ、劉備の遺言に従って諸葛亮を父のように敬愛するようになる。
本作では暗愚な面はあるものの劉備の死や諸葛亮の北伐を機に君主としての成長も見られるようになっていく。

魏延(ぎ えん)
演:王新軍(ワン・シンジュン)(中国語版)、声:大塚芳忠
長沙制圧後劉備軍に加わった猛将。韓玄を裏切ったことから『反骨の相』があると諸葛亮に評され、彼からはしばしば冷遇される。益州平定から北伐まで蜀の主力を務めた。
諸葛亮によって全軍の指揮官を託されたと思われたが、実際は忠誠心を査定するためのものであり彼の死後、命に背き北伐を続行しようとするが、馬岱に斬られる。

龐統(ほう とう)
演:杜旭東(トー・シュトン)(中国語版)、声:斎藤志郎
孔明と並び、鳳雛と評される軍師。風采が上がらない人物のため、地方の県令という閑職に任命されるが、過ちを認めた劉備に重用されることとなる。生真面目な諸葛亮と比べ、無類の酒好きで自由気ままな性格から張飛とは馬が合った。
己の天命を悟り、西蜀攻略の大義名分を与えるため落鳳坡に散る。

黄忠(こう ちゅう)
演:宋乘道(ソン・チョンダオ)、声:麦人
長沙を代表する老将。太守である韓玄の死後は唯一劉備に降らず喪に服していたが、彼の度量に感じ入り軍下に加わる。五虎大将軍に選ばれ定軍山の合戦などで活躍するも、夷陵の戦いで先鋒を望み幾多の矢を受け陣営にて戦死する。

馬謖(ば しょく)
演:鄭仕明、声:横島亘
馬良の弟で孔明を師と仰ぐ才人。呉との再同盟や南蛮平定で活躍するが、街亭の戦いで指示を無視した采配をしたため敗北を招き、軍法によって処刑される。

馬岱(ば たい)
演:夏天、声:加藤亮夫
馬騰の従兄弟で馬超と共に蜀の軍下に加わる。北伐では魏延の副官として従軍。五丈原で諸葛亮から魏延の処分を命じられ、彼の死後にその任務を果たす。

李厳(り げん)
演:鄧立民(中国語版)、声:加藤亮夫
劉備の益州平定後に配下となる。知勇兼備の将軍だが、保身を第一に考える性格が災いして孔明の北伐中に偽りの書状を送り中断させる。真相が明らかになったのち、劉禅と孔明の決定で平民に落とされる。

姜維(きょう い)
演:叶鵬(イエ・ポン)、声:綱島郷太郎
もとは魏の武将であったが、諸葛亮の策に敗れて蜀に降る。知勇に秀で、彼からも全幅の信頼を置かれる。





孫権(そん けん)
演:張博(チャン・ボー)(中国語版)/鄭偉(チョン・ウェイ)(中国語版)(幼少期)、声:咲野俊介/本名陽子(幼少期)
第3部から登場する、呉の君主。
字は仲謀(ちゅうぼう)、孫堅の次男で孫策の弟。父と兄の意志を継ぎ、呉の君主となる。
聡明であるが冷淡さも伺わせる人物であり、周瑜と呂蒙を重用しつつも独断の多い彼らを危険視する。孫呉や自身を支える配下達との接し方に苦悩する様子が描かれた。本作では皇帝に就くまでは描かれず、呉王の位に留まった。

周瑜(しゅう ゆ)
演:黄维德(ビクター・ホァン)、声:小山力也
字は公瑾(こうきん)。呉の大都督。本作では諸葛亮への私怨や対抗心が一層強調されており、荊州奪還の為しばしば大局を見誤ったり、孫権の命令にすら背き独断で劉備軍を攻撃しようとする等、狭量な一方で武略や音楽にも通じ、部下からの信望ある人物としても描かれている。
死に際には「天は我が周瑜を生みながら、何故諸葛亮をも生んだのか?」と諸葛亮を憎悪する言葉を残して病死する。

魯粛(ろ しゅく)
演:霍青(フォ・チン)(中国語版)、声:岩崎ひろし
字は子敬(しけい)。周瑜の死後に大都督を引き継ぐ才人であり、江東きっての資産家でもある。
孫呉と劉備軍の連盟継続に心を砕き、勇気と実直さは諸葛亮はもちろん誇り高い関羽をもうならせた。周瑜とは上司と部下のみならず戦友としても彼との絆が強調されていた。

小喬(しょうきょう)
演:趙柯(中国語版)、声:園崎未恵
喬国老の次女であり、周瑜の妻となる。
江東でも有名な才色兼備の女性で剣舞や琴にも通じる。諸葛亮を危険視する周瑜の本音を見抜き、東南の風を吹かせて陣へ戻る途中の彼を途中まで送ったり夫にも争わないよう諌めたが、聞き入れられず怒りを買うのみに終わる。

孫小妹(そん しょうめい)
演:林心如(ルビー・リン)、声:中村千絵
孫策・孫権の妹。周瑜によって劉備と婚約することを拒んでいたが、剣術での一騎打ちを通じて相思相愛となる。夷陵の戦い後、劉備の後を追うように生涯を終える。

黄蓋(こう がい)
演:劉魁、声:小山武宏
字は公覆(こうふく)。孫家三代に仕えた勇将。赤壁の戦いにおいて苦肉の策を成功させ勝利を導いた。

呂蒙(りょ もう)
演:常鋮(チャン・チョン)(中国語版)、声:成田剣
字は子明(しめい)。周瑜と魯粛の右腕であり、魯粛の後継の大都督。周瑜の指揮下であった頃から兵法を学び、智勇に秀でた勇将。周瑜と同じく荊州奪還にこだわる。
孫権の指示を無視して関羽を捕らえ自害に追い込んだ結果、劉備の怒りを買うことを恐れた孫権に宴席で罠にかかり、表向きは病没という形で毒殺される。

張昭
声:小川真司
字は子布(しふ)。内政の要と言われる壮年の名士にして、孫権の家庭教師も勤めていた。
赤壁の戦いでは降伏派の筆頭に立ったが、開戦決定後も政治の重責を担い、魯粛亡き後も決断に迷う孫権に様々な献策をした。

諸葛瑾(しょかつ きん)
演:曹毅、声:内田直哉
字は子瑜(しゆ)。諸葛亮の実兄であり、魯粛と同じく親劉備派。温厚な人物であり、主君を違えても諸葛亮との兄弟仲は良好。

陸遜(りく そん)
演:邵峰、声:檀臣幸
字は伯言(はくげん)。智謀に秀でた逸材であり、夷陵の戦い終盤に孫権から大都督に任じられる。
若年であることから当初は古参の将からの評価は乏しかったが、策を成功させ劉備を退けたことから信頼を得る。

孫策(そん さく)
演:沙溢、声:阪口周平
字は伯符(はくふ)。孫堅の長男で孫権の兄。周瑜とは兄弟分であり親友の仲で、2人して大喬・小喬姉妹に謁見し夫婦となる。
単騎で外出中に刺客に襲撃され重傷負う。自身の後継に息子ではなく弟の孫権を指名し、「兵を率いて戦場に駆け、天下の争いに与するような事においては俺には及ばないが、才能ある者を用い、江東を保っていく事については、お前の方が上だ」と言い残し病没する。

孫堅(そん けん)
演:范雨林(ファン・ユィリン)、声:長克巳
字は文台(ぶんだい)。孫策・孫権・孫小妹の父。その能力を危険視した袁紹の罠にかかり襄陽の戦いにて孫権と部下たちを逃す為戦死。

呉国太(ごこくたい)
演:康群智、声:久保田民絵
孫策、孫権、小妹の母親。夫譲りの気丈な人物で、怒ると孫権たち身内はもちろん、首脳である周瑜や魯粛も頭が上がらなくなるほど気が強い。
若くして国を背負うことになる息子たちを支え、本作では夷陵の戦い時点でも存命だった。



後漢・朝廷

漢献帝(かんけんてい)
演:羅晋(ルオ・チン)(中国語版)、小叮咚(幼少)、声:須藤翔、優希(幼少)
諱は劉協。都を占拠した董卓によって擁立され、後に曹操の庇護下に入る。その後曹操を「国賊」と称し憎悪するも、自らはお飾りの皇帝で何一つ力がないことを悟り絶望する。曹丕に帝位を簒奪された後、自ら船底に穴を開け船ごと入水自殺を図る。

王允(おう いん)
演:鄭天庸(ジェン・ティエンヨン)(中国語版)、声:佐々木敏
漢朝廷の司徒。養女・貂蝉に命じ、「連環の計」を使い董卓を討つ。董卓軍の残党に返り討ちにあい自害する。

貂蝉(ちょうせん)
演:陳好(チェン・ハオ)、声:本名陽子
司徒・王允の養女。
絶世の美女で呂布と董卓、二人の男が恋に落ちる。やがて不器用ながらも真っ直ぐな呂布を本気で愛するようになり長安を追われた後は、呂布と供に各地を放浪する。呂布の死後曹操暗殺を図るも失敗し、自害する。

陳宮(ちん きゅう)
演:孫洪濤(スン・ホンタオ)、声:仲野裕
字は公台(こうだい)はじめは中牟県令であり、董卓暗殺未遂により手配されていた曹操を捕らえるも曹操に感服し、身分を捨て共に放浪する。無実の人々と伯父・呂伯奢を殺害した曹操に失望し、曹操の元を去る。
その後、旧知の仲である司徒・王允と共謀して呂布に董卓を殺させ、王允の死後は呂布と共に長安を脱し、以後は彼の参謀として行動を共にすることとなる。

董貴妃(中国語版)
演:白薈、声:鍋田カホル
董承の娘で献帝の側室。

董承(声:岡哲也)
西涼

董卓(とう たく)
演:呂暁禾(リュイ・シャオホー)(中国語版)、声:福田信昭
漢の相国。
何進の十常侍討伐の混乱に乗じて朝廷内で権力を掌握し、朝廷で傍若無人な振る舞いを行う。作中では処刑した人間の血を臣下に飲ませ忠誠を誓わすと言った獣(けだもの)として描かれている一方、貂蟬に心を奪われたり朗報があると朗らかに大はしゃぎするなど、人間味溢れる面も描かれる。

呂布(りょ ふ)
演:ピーター・ホー、声:内田夕夜
字は奉先(ほうせん)董卓配下第一の猛将。策略に関しては鈍いが、勇猛果敢で心根は実直な性格。
「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と言われ、方天画戟を持ち天下無敵と謳われる。
董卓の策略により、赤兎馬欲しさに義父・丁原を殺害し、自らの立身出世のために董卓を義父と仰ぐ。その後、司徒・王允の貂蝉に恋に落ち、王允と陳宮の策略により董卓を殺害する。最終的には劉備の徐州を奪還するも曹操の援軍に敗れ、劉備にも皮肉を言われて刑死する。



袁氏

袁紹(えん しょう)
演:許文広(シュー・ウェングァン)(中国語版)、声:菅生隆之
十八鎮諸侯の一人。普段は勝利を確信するまでは決して行動せず、優柔不断と揶揄されるが、一度決めれば驚くほど大胆で、一度頭が回ればどの諸侯よりも聡明。劉備は「奸賊にして明主、兵法家である」と評した。
董卓との戦いでは、孫堅の推薦で他の十八鎮諸侯からの支持を受け、連合軍の盟主となるが、性格故に勝機を逃した。
曹操軍との最終決戦官渡の戦いでは、大敗北を喫することになり、袁氏衰退の道を歩むことになるが袁紹死亡から息子たちの覇権争いまでは描かれていない。

許攸(きょ ゆう)
演:許毛毛(シュー・マオマオ)、声:池田ヒトシ
袁紹の参謀。本作では沮授が未登場のため、田豊に次ぐ側近の1人として描かれ、劉備との親交も深い。
優柔不断な袁紹にも献身を尽くしたが疑いをかけられたことで見限り、旧知の曹操に寝返る。戦功を鼻にかけ横柄な態度を見かねた許褚に首をはねられた。

田豊(でん ぽう)
演:徐濤、声:佳月大人
袁紹の参謀。
策を献じるが用いられず、投獄される。兵の士気を乱したとして自害を命じられる。許攸とはあまり仲が良くなかった。

袁譚(えん たん)
演:柳龍、声:佳月大人
袁紹の長子。

袁熙(えん き)
演:藍天、声:大羽武士
袁紹の次子。

袁尚(えん しょう)
演:韓文亮、声:林和良
袁紹の末子。袁譚や袁熙とは異母兄弟。

袁術(えん じゅつ)
演:閻沛、声:辻親八
十八鎮諸侯の一人。袁紹の従弟であり、表面上は友好的だが水面下で暗闘を繰り広げている。
孫策の才に惚れ込み寵愛し、養子としようするが、孫策の願いを聞き入れ、孫堅の旧臣であり黄蓋、程普、韓当を連れて行かせ、兵馬を貸し与え、孫策より伝国璽を手に入れ帝位を僭称する。



荊州

劉表(りゅう ひょう)
演:姫成功(ジー・チョンゴン)、声:田原アルノ
荊州刺史。だまし討ちにして孫堅を暗殺したことを悔やむほど温厚な性格。後に袁紹から独立した劉備軍に信頼を寄せ後を託した。

劉琦(りゅう き)
演:樊営、声:手塚ヒロミチ
劉表の長子。長坂坡の戦いで窮地に陥った劉備を救う等、幾度となく劉備を救う。

劉琮(りゅう そう)
演:邱爽、声:林和良
劉表の次子。母は蔡氏。劉琦とは異母兄弟。

蔡氏(さい し)
演:曹曦文(ツァオ・シーウェン)(中国語版)、声:日野由利加
蔡瑁の姉で劉表の妻。劉琦と劉備を目障りに思い、劉琮を後継者にして実権を確固たるものにするべく暗躍した。曹操への降伏後の動向は不明。

蔡瑁(さい ぼう)
演:劉丹(中国語版)、声:高山春夫
蔡氏の弟。劉表の遺言を捏造し、甥の劉琮を劉表の後継者に据えた。後に、曹操に帰順し水軍を指導するも周瑜の奸計にはまり首をはねられる。



徐州

陶謙
演:佟漢、声:伊井篤史
徐州牧。勢力を伸ばす曹操に取り入るため、曹操の父・曹嵩を厚遇するも、家来の張闓が曹嵩を殺害し、曹操に徐州侵攻の口実を与えてしまう。

張闓
演:趙秋声、声:池田ヒトシ
曹操の父・曹嵩を護送途中に殺害し、金品を奪う。


その他

邢道栄
演:王文濤、声:鈴森勘司
劉度配下の豪傑。劉備たちが零陵を攻めた際に立ちはだかるが、張飛を罵倒した挙句一合もせずに敗れ、捕らわれる。
本作では張飛や劉賢に不利な立場に追い込まれて泣いたり、陣地に戻った際に虚偽の報告をするなど滑稽で情けない人物に描かれている。

劉賢
演:楊彤、声:名村幸太朗
劉度の息子。
同俳優は本ドラマにおいて、劉賢の他に50名以上の名無しエキストラを演じたため、非常に多くの視聴者から注目された。スリキンの裏主人公とも呼ばれた。

華佗
演:蔡軍、声:西村知道
三国を代表する名医。龐徳との一騎打ちで毒矢を受けた関羽を治療した。

陳応(ちん おう)
演:丁暁楠、声:大羽武士
桂陽太守・趙範配下の将軍。様々な武器の使い手だが趙雲には敵わず悉く敗れるが、好漢として認められ投降を勧められ、趙範を説得する。
三国志演義と異なり、本作では趙範の策で窮地に陥った趙雲を助けた。その後の動向は不明。



各話タイトルとあらすじ

第1部:群雄割拠
後漢末期、相国として幼い皇帝を操り、暴政を敷く董卓に不満を募らせる侍従。司徒の王允は、若き曹操に七星の剣を託し暗殺を企てるも、あえなく失敗し、曹操は逃亡するところから物語はスタートする。やがて反董卓勢力が結集され、そこには曹操・劉備・孫堅、そして幼き孫権と後の三国時代の英傑が集う。反董卓連合軍はやがて瓦解するも、王允は呂布を計略に嵌め、董卓は惨殺される。しかし王允も漢室の復興はできず、董卓臣下の反撃により死亡。朝廷の権威は完全に失墜し、群雄が乱立する状態となる。曹操は中原制覇を目論み、徐州を攻撃。そこに徐州の援軍として駆けつけたのは劉備であった。曹操を追い払った劉備は徐州を与えられるが、曹操、さらには董卓暗殺後に軍師陳宮を得て放浪する呂布と三つ巴の争いとなる。そんな中、曹操は窮地の皇帝を救うことで皇帝を手中に収める。結局、劉備は曹操と結び、呂布を倒す。呂布・陳宮は処刑される。

第1話「曹操、刀を献ず」
第2話「曹操、亡命す」
第3話「曹操、善人を誤殺す」
第4話「関羽、華雄を斬る」
第5話「三英傑、呂布と戦う」
第6話「孫堅、玉璽を得る」
第7話「孫堅の死」
第8話「王允の離間の計」
第9話「鳳儀亭の貂蟬」
第10話「董卓の死」
第11話「劉備、徐州を救う」
第12話「呂布、小沛に留まる」
第13話「曹操、皇帝を傀儡とす」
第14話「呂布の裏切り」
第15話「轅門に戟を射る」
第16話「呂布、徐州牧となる」
第17話「劉備、兄弟と離れる」
第18話「呂布の死」


第2部:中原逐鹿
曹操と結んだ劉備は皇帝に謁見し、皇帝の真意は曹操の排除にあることを知る。皇帝から血でしたためられた詔を受けた劉備は、曹操を倒すことを決意し、これと争う。しかし曹操の優れた軍略の前に敗北し、義兄弟関羽・張飛とも離散する。関羽は劉備の家族を守るために曹操の配下に入り、敵将を多く討ち取る。やがて劉備の生存を知った関羽は曹操の同意を得、劉備の元へ向かう。この頃、中原の最大勢力であった袁紹は、曹操を倒すために70万の大軍をもって曹操を攻める。初めは劣勢であった曹操は、優れた軍略と粘り強さで立場を逆転させ、ついに袁紹を破り、中原の覇者となる。劉備は袁紹を助けるも破れ、放浪し同族劉表の治める荊州にたどり着く。そこで軍師徐庶を得て、その軍略をもって曹操軍を打ち破るも、徐庶は曹操の元に去ることとなる。去り際に、諸葛亮の存在を知らせ、これを得ることを薦める。

第19話「曹操・劉備の暗闘」
第20話「劉備、命を受ける」
第21話「吉平、毒を盛る」
第22話「三兄弟離散す」
第23話「関羽、三事を約す」
第24話「白馬の戦い」
第25話「単騎、千里を走る」
第26話「古城に再会す」
第27話「官渡の戦い」
第28話「田豊、死諫す」
第29話「夜、烏巣を襲う」
第30話「曹操、河北を平らぐ」
第31話「的驢、壇渓を飛ぶ」
第32話「徐庶、諸葛亮を薦む」


第3部:赤壁大戦
劉備は三顧の礼をもって、軍師諸葛亮を得、天下三分の計を説かれる。この7年前、江東では孫策が死に、若き孫権が後を継ぐ。諸葛亮の智謀をもって曹操を一度は退くも、圧倒的な力の前に劉備は江南に逃れることとなる。曹操軍に追われ絶体絶命の危機に陥るも、趙雲・張飛の活躍により無事に逃れることができる。諸葛亮は曹操に対抗するために孫権と劉備の連盟が必要であると考え、その締結に奔走する。孫劉連盟の締結後、呉の周瑜は諸葛亮の才覚を恐れ、これを殺害しようと企てるも、ことごとく諸葛亮が切り抜ける。そして前半のクライマックスである、赤壁の戦いに突入する。

第33話「三顧の礼」
第34話「孫策、孤を託す」
第35話「諸葛亮の緒戦」
第36話「長坂坡の戦い」
第37話「儒者たちとの舌戦」
第38話「周瑜を怒らせる」
第39話「蔣幹、手紙を盗む」
第40話「草船で矢を借りる」
第41話「苦肉の策」
第42話「赤壁の戦い」


第4部:荊州争奪
赤壁で敗れた曹操は、関羽に捕縛されかけるが、関羽は過去の主従の恩からこれを逃がす。これに激怒した諸葛亮は軍法に則り関羽を死罪にしようとするが、張飛は諸葛亮に反発する。劉備は「軍においては親も子もない」と張飛を怒鳴りつけ、義兄弟として責任を取るため共に刑死しようとするが魯粛の取りなしもあって事なきを得る。本拠に帰った曹操は家臣の前で赤壁の敗北について語りかけるが、それを聴かずに眠り呆ける司馬懿を気に留める。司馬懿の才覚を高く評価した曹操はこれを取り立て、才能豊かな息子曹沖につけることとするが、曹沖は毒蛇に噛まれて急死する。荊州では、赤壁で勝利した孫権と劉備の争いが表面化する。荊州に残った曹仁は周瑜に攻められ一度は敗れるも、逆に計略にはめ、周瑜を毒矢で射る。その争いの間隙をついて、諸葛亮は荊州を奪い、これを他の本拠を得るまで呉から借り受けるという形で利用すると約する。劉備はそのまま南へ版図を広げ、桂陽、長沙を奪い、黄忠・魏延を得る。周瑜は劉備を捕縛するために、孫権の妹を劉備に嫁がせる名目で、江東に劉備を誘き寄せる計略をめぐらす。劉備はこの縁談を受け、江東に赴く。周瑜の計略により江東を脱することができない劉備を諸葛亮の策が救い、劉備は荊州に戻る。劉備を案ずる関羽と張飛は静観を主張する諸葛亮に居ても立っても居られなくなり独断行動を取ってしまう。腹を立てて下野しようとする諸葛亮だったが、関羽の傲慢さと張飛の短気を戒めるための芝居であり、それに気づいた彼らは再び諸葛亮の意見を受け入れるようになった。策が失敗したことに怒る周瑜は、道を借りて鯱を討つの計を用いて荊州奪取を図るが、全て諸葛亮に見破られ惨敗し、失意のうちに死ぬ。

第43話「司馬懿、出仕す」
第44話「曹操、華北に帰る」
第45話「曹沖の死」
第46話「荊州を争う」
第47話「智略で南郡を取る」
第48話「魯粛の斡旋」
第49話「趙雲、桂陽を取る」
第50話「長沙の戦い」
第51話「再び荊州を求める」
第52話「劉備、呉を訪ねる」
第53話「孫権、兵符を返す」
第54話「甘露寺に婿を招く」
第55話「計りて虎穴を脱する」
第56話「再び周瑜を怒らせる」
第57話「周瑜の死」


第5部:奸雄終命
曹操に父の馬騰を殺された馬超は、西涼軍を率いて潼関に攻め入る。曹操は自ら兵を率いて出陣するが、緒戦は大敗。その後は一進一退の攻防が繰り広げられる。馬超の陣営では戦局をめぐって議論が行われたが、馬騰の義兄である西涼の太守・韓遂が和平を提案。曹操と長い会談をしたことで、馬超の心に韓遂への猜疑心が生まれる。その隙を狙って、曹操は西涼軍を破り、西涼を奪い取る。敗れた馬超は張魯に身を寄せる。張魯は馬超に3万の兵を与え、劉備を攻めさせる。馬超の凄まじい戦いぶりに手を焼いていた孔明は策を巡らせ、張魯と馬超を仲違いさせ、馬超を劉備の配下とすることに成功する。龐統を失いながらも、法正や黄権ら益州の将を仲間に加えた劉備は、劉璋を降伏させて成都を本拠地に大事を成そうと動き出す。一方、曹操は丞相から魏王に就くことを重臣達に勧められるが、荀彧はあくまで漢王朝を助ける立場を貫きこれに反対する。しかし聞き入れられず自刃。権力を増す曹操に耐えかねた反魏軍の朝臣達も処断されてしまう。曹操は曹丕と共に荀彧が立てた数々の功績に思いを馳せ、冥福を祈る。 荊州奪回を目論む孫権は、孔明の実兄・諸葛瑾一族の命と引き換えに荊州の返還を要求。周瑜の後任で大都督に就いていた魯粛は病をおして関羽を説得。自らの命を賭けて同盟を維持しようとする魯粛の勇気に心を打たれた関羽は荊州南郡の返還を了承する。しかし魯粛の死後、関羽が孫権の嫡子との姻戚を傲慢な態度で断ったことに怒り、関羽が曹仁らの守る樊城を攻めている隙に後を引き継いだ呂蒙と陸遜を送り込み、荊州各地を占領する。関羽の部下たちが全員討ち死にすると、関羽は毅然として自ら命を絶つ。孫権から関羽の首を受け取った曹操は手厚く葬るが、その時曹操も不治の病に冒されていた。曹操は曹丕を後継者に任命し、志半ばで死去する。

第58話「諸葛亮、喪に服す」
第59話「銅雀台に詩を戦わす」
第60話「馬騰、都に入る」
第61話「曹丕に罪を問う」
第62話「衣を脱ぎ馬超と戦う」
第63話「張松、辱めを受ける」
第64話「張松、地図を献ず」
第65話「江を遮り阿斗を奪う」
第66話「落鳳坡」
第67話「劉備、益州を領す」
第68話「単刀会」
第69話「曹丕、乱を平らぐ」
第70話「楊修の死」
第71話「骨を削り毒を除く」
第72話「麦城に敗走す」
第73話「曹操薨去」


第6部:天下三分
曹植との後継者争いに勝利した曹丕を皇帝にするべく、司馬懿は献帝に禅譲を迫る。献帝は泣く泣く詔書を記して去っていくが、自分の代で漢を滅ぼした事に責任を感じ、船に穴を開けて曹皇后と共に自害する。関羽を失った悲しみから気力を失った劉備は曹丕が漢を滅ぼして魏を建国したと知り、喪に服す。孔明を含む配下達は劉備に皇帝になるように勧めるが、劉備は怒りを露わにする。しかし病を装った孔明の説得を受け入れ、蜀を建国。自ら初代皇帝となる。まず劉備は関羽の仇を討つために孫権との戦いを掲げるが、趙雲と孔明に止められる。鬱憤のたまった張飛は劉備に直談判に行き思いの丈をぶつけるが、「2度と兵士を殴ってはいけない」と諭される。しかし張飛は聞き入れるどころかさらに厳しい罰を与え、我慢できなくなった部下に殺される。その部下が孫権のもとに身を寄せたため、劉備は70万の大軍を率いてついに攻撃を開始する。呉を建国して呉王となった孫権は陸遜を大都督に任命。陸遜は隙をついて劉備軍を火攻めにして大勝する。劉備は白帝城に退き、不本意ながらも呉との和睦を受け入れる。劉備は臨終の際、孔明を呼び寄せてこれまでの忠節に対する感謝と即位の際に忠告を聞かなかった謝罪を述べる。さらに「馬謖は兵法に通じているが大言壮語が過ぎるので重用してはならない」と忠告した後、「息子の劉禅が君主の器に値するならよく補佐してほしい。しかし仕えるに値しない場合は孔明自らが皇帝となって国を率いるように」と言い残す。孔明は劉備の言葉に感動し、皇帝に即位した劉禅を補佐する。劉禅は劉備の遺命に従い、孔明に拝礼の上、父親のように尊敬するようになる。

第74話「七歩の詩」
第75話「退位を迫る」
第76話「曹丕、漢を簒奪する」
第77話「張飛、殺害される」
第78話「劉備、呉を伐つ」
第79話「黄忠、矢に当たる」
第80話「陸遜、大都督となる」
第81話「夷陵の戦い」
第82話「陸遜、連営を焼く」
第83話「白帝城に孤を託す」


第7部:危急存亡
第84話「出師の表」
第85話「罵って王朗を殺す」
第86話「空城の計」
第87話「泣いて馬謖を斬る」
第88話「曹真、兵権を譲る」
第89話「司馬仲達、計にあたる」
第90話「曹真、敵を軽んじる」
第91話「諸葛亮、軍を返す」
第92話「木牛流馬」
第93話「上方谷の火、消える」
第94話「星落ち、五丈原に逝く」
第95話「司馬氏、天下を統一す」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97_Three_Kingdoms
2:777 :

2022/12/20 (Tue) 22:39:37

三国志 (歴史書)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%9B%B8)

『三国志』(さんごくし)は、中国三国時代について書かれた歴史書。著者は陳寿。後漢の混乱期から西晋による中国統一までを扱う。二十四史の一つ。

成立時期は西晋による中国統一後の280年以降とされる。

構成
紀伝体の歴史書であり、「魏志(魏書)」30巻(「本紀」4巻、「列伝」26巻)、「蜀志(蜀書)」15巻、「呉志(呉書)」20巻の計65巻から成る。この他、陳寿の自序(序文)が付されていたといわれるが、現存しない。また、表(年表)や志(天文・礼楽などの記録)は存在しない。

それぞれ『魏国志』『蜀国志』『呉国志』として、独立した書物としても扱われていたという。『魏国志』『蜀国志』『呉国志』の書かれた前後関係は不明である。三国の記述を独立させ、合わせて『三国志』としたところに本書の特徴がある。また、単に『国志』とも呼ばれていた[5]。

魏のみに本紀が設けられているので、三国のうち魏を正統としているものと判断されている。他の魏を正統とした類書では、『魏書』など魏単独の表題とし、蜀(蜀漢)や呉は独立した扱いを受けていない。また、西晋・東晋十六国時代を扱った『晋書』でも、北の諸国家(十六国)はほとんど「載記」(地方の覇者の伝記)として扱われ、やはり独立した扱いを受けていない。南北朝時代の北魏を正統とした『魏書』(魏国志とは別)では、南朝宋などの皇帝の伝記が、やはり「島夷」として列伝に入れられ、独立した扱いを受けていない。こうしたことから、魏・蜀・呉をそれぞれ独立した扱いをしている本書は、魏を純粋な正統と意図した歴史書であるとは言い切れない。

その一方で、漢の正統としての蜀にも大いに配慮をしていることは、多くの日本・中国の研究者が従来から指摘している。「蜀志」の末尾には本伝の補足として楊戯の『季漢輔臣賛』を全文収載している。これについて、銭大昕『三国志弁疑序』では「楊戯伝に『季漢輔臣賛』を載せて数百言も費やしたのは、魏・呉よりも蜀を尊んだものである。季漢(末っ子の漢)という言葉を残したのは、蜀が漢王朝を継承していることを明らかにしたものだ」として、蜀の遺臣である陳寿の故国顕彰の表れであるとしている。呉末期の記述については、旧呉関係者に取材したり、あるいは人物評で旧呉の薛瑩・胡沖のコメントを載せている箇所がある[7]。

また、『三国志』には、魏に朝貢した異民族の記事は存在するものの、蜀や呉に朝貢していたと思われる異民族については、伝が立てられていないという指摘がある[注 3]。これらは、『三国志』が当時のことを遺漏なく記した史書であるかどうかの疑問を提示するものでもある。当初から魏を正統として編纂したとみる日本の研究者の中には、蜀・呉はあくまでも地方政権としての扱いなので書けなかったとする意見もあるが[注 4]、編纂意図として魏を正統としていたかは前述のように定かでない。

日本に関する記事としては、「魏志」烏丸鮮卑東夷伝に邪馬台国についての記述がある。日本では、この部分(魏書東夷伝倭人条)を「魏志倭人伝」と通称している。


裴松之の注
陳寿は『三国志』を記述するにあたって信憑性の薄い史料を排除したために、『三国志』は非常に簡潔な内容になっていた[注 5]。そこで、南朝宋の文帝は裴松之に注を作ることを命じ、裴松之は作成した注を、元嘉6年(429年)に上表とともに提出した。

裴松之の注の特徴は、訓詁の注といわれる言葉の意味や読み、典故などを説明するものは少なく、陳寿の触れなかった異説や詳細な事実関係を収録した点である。陳寿の『三国志』編纂後の出来事も補われている[注 6]。すでに失われた書物からの引用も多く、貴重な史料である。また、話としては面白いが信憑性に欠ける逸話も数多く収録されており、説話の題材にも取り入れられていった。

裴松之の注釈のうち最も著名なものの一つは、倭人の暦に関するものであり、「魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀(魏略に曰く、その俗は正歳四節を知らず、但だ春耕秋収を計算して、年紀と為す。)」である。訳例は「倭人は暦を知らず、春に耕し、秋に収穫することで、年を計算していた。」である。「倭人は、暦を知らず、春に耕すことで1年、秋に収穫することで1年、あわせて1年と計算していた。」という春秋倍歴説の根拠とされる。


後世の評価
『三国志』については、司馬遷の『史記』・班固の『漢書』・范曄の『後漢書』と並び、二十四史の中でも優れた歴史書であるとの評価が高い。同時代に、王沈・韋昭らにより、『魏書』・『呉書』などの史書が書かれているが、いずれも散逸して『三国志』のみが残ったという事実が、『三国志』に対する評価を表しているともいえる[注 7]。また、夏侯湛は『三国志』を見て、自らが執筆中だった『魏書』を破り捨ててしまったという話が残っている。

しかし、後世において王朝の正統論問題や、陳寿の人物に対する批評内容、三国志演義によって定着した人物や事件のイメージとの相違などの要因により、同書は様々な批判に晒されることとなった。特に、私怨によって筆を曲げた疑惑については、早くから指摘されている。陳寿が丁儀・丁廙(中国語版)の子に穀物を求め、断られたため丁儀・丁廙の伝を立てなかった、陳寿の父が諸葛亮に処罰されたため諸葛亮の悪口を書いた、などの逸話が『晋書』に記載されている。

だが、『晋書』の正確性については批判が多く、これらの疑惑に対しては『郡斎読書志』も「未必然也(必ずしも事実とは言い切れない)」と記述するなど、懐疑的な見方も多い[注 8]。王鳴盛の『十七史商榷』では「丁儀・丁廙の2人はしょせん(曹植に取り入っただけの)巧佞の臣であって、どうして伝を立てることなどできようか」[注 9]「陳寿は晋に入って『諸葛亮集』を編纂し上表しており、諸葛亮伝に目録と上表文を掲載している。史家の前例にないことであり、諸葛亮を非常に尊敬しているということだ」[注 10]「諸葛亮は6度も祁山に出征しながら、ついに一勝も収めなかった[注 11]。慎重を期した軍事であって進取には鈍いことがわかる。(応変の将略に欠けるとした陳寿の評は)事実を述べただけだ」と批判している。

ただし、曲筆の疑惑は現在でも消えたわけではない。例えば、魏の杜畿は非常に高く評価されているが、杜畿の孫の杜預を擁護するために過大な評価をしたとする説がある[8]。

また、陳寿が最終的に仕えた西晋に対しては、特に曲筆が目立つと指摘されている。その中でも最も批判を受けたのは、皇帝曹髦殺害の経緯である。西晋の臣という立場上、その禅譲の正統性に関して重大な瑕疵を与えうるこの件は隠蔽せざるを得ず、劉知幾は「記言の奸賊、載筆の凶人」「豺虎の餌として投げ入れても構わない」と激しく糾弾した。

また、劉知幾は『史通』曲筆篇で「蜀志後主伝に『蜀には史官がいないから災祥も記録されなかった』とあるのに、蜀志には災祥が散見される。史官が設けられなかったのであれば、災祥は何によって記録されたのか。陳寿が蜀の史官の存在を否定したことは私怨によるものである」と批判している。当時、史官は国家に必須のものと考えられていた(『史通』史官建置篇)。劉知幾による陳寿批判の要旨は、蜀には国家に必須のものが欠けていると私怨に基づいて述べた、ということである。

時代が下ると、蜀を正統とする朱子学の影響から、魏を正統とした陳寿への非難も現れた。黄震『黄氏日抄』に至っては「どこの鬼魅だ、コソコソと史筆をもてあそび、賊を帝と呼び、帝を賊と呼んでいるのは」と、陳寿を鬼魅(化け物)と罵倒している。一方で朱彝尊『曝書亭集』のように「当時何人かの史家がいたが、ただ魏があるのを知るのみだった。陳寿のみ魏と蜀・呉を並列し「三国」という名称に正したのは、魏が正統でないことを明らかにしたものだ」との意見もある。

さらに、蜀漢正統論に基づいて再構成された歴史書も続々と執筆された。南宋の蕭常、元の郝経、明の謝陛(中国語版)、清の銭兆鵬の『続後漢書』、清の湯世烈の『季漢書』などはいずれも蜀を本紀として、魏・呉を世家や載記としている。紀伝体以外の書としては、元の趙居信の『蜀漢本末』、清の趙作羹の『季漢紀』などがある。

司馬光の『資治通鑑』は魏の元号を用いているが、正統論自体には極めて慎重であり「漢から魏、魏から晋…(以下北宋まで)の流れで引き継がれているので、これらの元号を採用して諸国の事績を記さざるを得ないだけであって、正閏について意見するつもりはない」(巻六十九黄初二年条)と明言している。

断代史にもかかわらず、袁紹・呂布・劉焉など後漢代に没した人物の伝を立てていることについては、趙翼の『二十二史箚記』において「(袁紹などの)諸軍閥はみな曹操と並立して割拠しており、かつ曹操と深く関わっている。ゆえに魏志に伝を立て、(魏王朝についての)事績の叙述にあたりその建国の起源を明らかにしなければならないのだ。また、劉焉は劉璋の父で、彼が割拠した益州は劉備が拠点とした。劉備の紀伝を作るには、まず劉璋について記述し、劉璋について記述するにはまず劉焉について記述しなければならない」とされ、董卓・荀彧らが『後漢書』と重複して伝を立てられている点については、「董卓らは漢末の臣であり、荀彧は曹操のために計略を立てたが、心はなお漢朝のためにあった。三国志に伝があるからといって、後漢書の立伝を省くことはできないのだ」としている。

ただし、『後漢書』は陳寿の死後100年以上経って編纂されたものであるから、陳寿にはその記載に関して何の責任もない。また、清の杭世駿(中国語版)の『諸史然疑』は、「魏志列伝の巻頭が董卓であるのは、(漢魏革命の原因である天下大乱の)元凶を明らかにしているのであり、漢書列伝の巻頭が項羽であるのと同じである」としている。一方で『四庫全書総目提要』は、魏の初代皇帝曹丕の父である曹操から記述を始めていることについて「史記の周・秦本紀の誤りを踏襲したもの」で、「『魏志前史』ともいえない(中途半端な)体裁となっている」と批判している。


年表
王朝 年号 出来事

後漢

184 太平道を率いる張角が挙兵し、黄巾の乱が起こる。
189 霊帝崩御。董卓、弘農王を廃して献帝を擁立。
190 董卓、長安に遷都。
192 呂布、董卓を暗殺。
193 曹操、徐州に陶謙を攻め、領民を虐殺。
郭汜の妻の嫉妬が原因で、李傕と郭汜が仲間割れ。

194 劉備、徐州を領有。
195 劉備、甘夫人を妾とする。
196 曹操、許に献帝を擁立。劉備、糜夫人を迎える。
197 曹操、張繡を降伏させるが、鄒氏に溺れて大敗。
198 呂布、劉備を破って徐州を領有。曹操、呂布を討伐。
199 袁紹、公孫瓚を滅ぼして華北を支配。劉備、徐州で自立。
200 曹操、劉備を破る。関羽、二夫人を守って曹操に降伏。
関羽、白馬の戦いで顔良を斬る。鄭玄死去。

曹操、官渡の戦いで袁紹を破る。

201 劉備、劉表の客将となる。
202 袁紹死去。袁紹の妻の劉氏、嫉妬で妾を皆殺し。
曹操、袁譚・袁尚を破る。曹丕、甄氏を略奪。

207 劉備、三顧の礼で諸葛亮を迎える。
甘夫人、阿斗(劉禅)を生む。

曹操、華北を統一。

208 劉表死去。劉琮、曹操に降伏。
長坂坡の戦いで、趙雲が阿斗を守る。

赤壁の戦い。諸葛亮の説得で孫権・劉備は同盟を結び、曹操を破る。

209 劉備、孫権の妹と結婚。
210 周瑜死去。曹操、銅雀台を建設。
211 劉備入蜀。
214 諸葛亮、張飛・趙雲を率いて入蜀。劉備、益州を領有。
216 曹操、魏王となる。
219 劉備、曹操を漢中に破って漢中王となる。関羽敗死。
220 曹操薨去。夫人に「分花売履」の遺言を残す。
三国 220 曹丕(文帝)、献帝から禅譲を受けて魏を建国。
曹皇后、兄を罵って後漢の奪に抵抗。

221 劉備(昭烈帝)、蜀漢(季漢)を建国。
222 劉備、夷陵の戦いで大敗。
223 劉備崩御。諸葛亮に劉禅を託す。
225 諸葛亮、南征を行って反乱を平定。
227 諸葛亮、出師表を奉り、北伐に出陣。孟達、蜀漢に内応。
228 馬謖、街亭の戦いで張郃に敗れる。陸遜、曹休を破る。
229 孫権(大帝)、呉を建国。諸葛亮、武都・陰平を破る。
234 諸葛亮、五丈原で陣没。献帝(山陽公)崩御。
239 卑弥呼、魏に使者を派遣して親魏倭王の称号を得る。
249 司馬懿、正始政変(高平陵の変)で曹爽を打倒し、権力を確立。
263 司馬昭、蜀漢を滅ぼす。諸葛瞻、奮戦して国に殉ずる。
西晋 265 司馬炎(武帝)、魏を滅ぼして西晋を建国。
280 司馬炎、呉を滅ぼして中国を統一。


内容
魏志(魏書)
巻数 題名 収録人物

巻1 武帝紀 曹操
巻2 文帝紀 曹丕
巻3 明帝紀 曹叡
巻4 三少帝紀 曹芳・曹髦・曹奐
巻5 后妃伝 武宣卞皇后・文昭甄皇后・文徳郭皇后・明悼毛皇后・明元郭皇后
巻6 董二袁劉伝 董卓(李傕・郭汜)・袁紹(袁譚・袁尚)・袁術・劉表
巻7 呂布臧洪伝 呂布(張邈・陳登)・臧洪(陳容(中国語版))
巻8 二公孫陶四張伝 公孫瓚・陶謙・張楊・公孫度(公孫康・公孫恭・公孫淵)・張燕・張繡・張魯
巻9 諸夏侯曹伝 夏侯惇(韓浩・史渙)・夏侯淵・曹仁(曹純)・曹洪・曹休(曹肇)・曹真(曹爽・曹羲・曹訓・何晏・鄧颺・丁謐・畢軌・李勝・桓範)・夏侯尚(夏侯玄)
巻10 荀彧荀攸賈詡伝 荀彧(荀惲・荀甝(中国語版)・荀霬(中国語版))・荀攸・賈詡
巻11 袁張涼国田王邴管伝 袁渙・張範(張承)・涼茂・国淵・田疇・王修・邴原・管寧(王烈・張臶(中国語版)・胡昭)
巻12 崔毛徐何邢司馬伝 崔琰・毛玠・徐奕・何夔・邢顒・鮑勛・司馬芝(司馬岐(中国語版))
巻13 鍾繇華歆王朗伝 鍾繇(鍾毓)・華歆・王朗(王粛・孫叔然(中国語版))
巻14 程郭董劉蔣劉伝 程昱(程暁)・郭嘉・董昭・劉曄・蔣済・劉放(孫資)
巻15 劉司馬梁張温賈伝 劉馥・司馬朗・梁習・張既・温恢・賈逵
巻16 任蘇杜鄭倉伝 任峻・蘇則・杜畿(杜恕)・鄭渾・倉慈
巻17 張楽于張徐伝 張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃(朱霊)
巻18 二李臧文呂許典二龐閻伝 李典・李通・臧覇(孫観)・文聘・呂虔・許褚・典韋・龐悳・ 龐淯(龐娥)・閻温(張恭・張就(中国語版))
巻19 任城陳蕭王伝 曹彰・曹植・曹熊
巻20 武文世王公伝 曹昂・曹鑠・曹沖・曹據・曹宇・曹林・曹袞・曹玹・曹峻・曹矩・曹幹・曹上・曹彪・曹勤・曹乗・曹整・曹京・曹均・曹棘・曹徽・曹茂・曹協・曹蕤・曹鑑・曹霖・曹礼・曹邕・曹貢・曹儼
巻21 王衛二劉傅伝 王粲(徐幹・陳琳・阮瑀・応瑒・劉楨・応璩・応貞・阮籍・嵆康・桓威(中国語版)・呉質)・衛覬(潘勗(中国語版)・王象(中国語版))・劉廙・劉劭(繆襲・仲長統・蘇林・韋誕・夏侯恵・孫該・杜摯(中国語版))・傅嘏
巻22 桓二陳徐衛盧伝 桓階・陳羣(陳泰)・陳矯・徐宣・衛臻・盧毓
巻23 和常楊杜趙裴伝 和洽・常林・楊俊・杜襲・趙儼・裴潜
巻24 韓崔高孫王伝 韓曁・崔林・高柔・孫礼・王観
巻25 辛毗楊阜高堂隆伝 辛毗・楊阜・高堂隆(桟潜(中国語版))
巻26 満田牽郭伝 満寵・田豫・牽招・郭淮
巻27 徐胡二王伝 徐邈・胡質(胡威)・王昶・王基
巻28 王毌丘諸葛鄧鍾伝 王淩(令狐愚)・毌丘倹・諸葛誕(唐咨)・鄧艾(州泰)・鍾会(王弼)
巻29 方技伝 華佗(呉普(中国語版)・樊阿(中国語版))・杜夔(中国語版)・朱建平・周宣・管輅
巻30 烏丸鮮卑東夷伝 烏丸・鮮卑・東夷(夫餘・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・韓・倭)
蜀志(蜀書)
巻数 題名 収録人物
巻31 劉二牧伝 劉焉・劉璋
巻32 先主伝 劉備
巻33 後主伝 劉禅
巻34 二主妃子伝 甘皇后・穆皇后・敬哀皇后・張皇后・劉永・劉理・劉璿
巻35 諸葛亮伝 諸葛亮(諸葛喬・諸葛瞻・董厥・樊建)
巻36 関張馬黄趙伝 関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲
巻37 龐統法正伝 龐統・法正
巻38 許糜孫簡伊秦伝 許靖・糜竺・孫乾・簡雍・伊籍・秦宓
巻39 董劉馬陳董呂伝 董和・劉巴・馬良(馬謖)・陳震・董允(黄皓・陳祗)・呂乂
巻40 劉彭廖李劉魏楊伝 劉封・彭羕・廖立・李厳・劉琰・魏延・楊儀
巻41 霍王向張楊費伝 霍峻(霍弋)・王連・向朗(向寵)・張裔・楊洪・費詩
巻42 杜周杜許孟来尹李譙郤伝 杜微・周羣(張裕)・杜瓊・許慈・孟光・来敏・尹黙・李譔・譙周・郤正
巻43 黄李呂馬王張伝 黄権(黄崇)・李恢・呂凱・馬忠・王平(句扶)・張嶷
巻44 蔣琬費禕姜維伝 蔣琬(蔣斌・蔣顕・劉敏)・費禕・姜維
巻45 鄧張宗楊伝 鄧芝・張翼・宗預(廖化)・楊戯(季漢輔臣賛)
呉志(呉書)
巻数 題名 収録人物
巻46 孫破虜討逆伝 孫堅・孫策
巻47 呉主伝 孫権
巻48 三嗣主伝 孫亮・孫休・孫晧
巻49 劉繇太史慈士燮伝 劉繇(劉基)・太史慈・士燮(士徽・士壱・士䵋・士匡)
巻50 妃嬪伝 呉夫人(呉景)・謝夫人・徐夫人(徐琨)・歩夫人(歩皇后)・王夫人(大懿王皇后)・王夫人(敬懐王皇后)・潘夫人(潘皇后)・全夫人(全皇后)・朱夫人(朱皇后)・何姫(昭献何皇后)・滕夫人(滕皇后)
巻51 宗室伝 孫静(孫瑜・孫皎・孫奐)・孫賁(孫鄰)・孫輔・孫翊(孫松)・孫匡・孫韶・孫桓
巻52 張顧諸葛歩伝 張昭(張奮・張承・張休)・顧雍(顧邵・顧譚・顧承)・諸葛瑾(諸葛融)・歩騭(歩闡)
巻53 張厳程闞薛伝 張紘(張玄・張尚)・厳畯(裴玄)・程秉・闞沢(唐固)・薛綜(薛珝・薛瑩)
巻54 周瑜魯粛呂蒙伝 周瑜・魯粛・呂蒙
巻55 程黄韓蔣周陳董甘淩徐潘丁伝 程普・黄蓋・韓当・蔣欽・周泰・陳武(陳脩・陳表)・董襲・甘寧・凌統・徐盛・潘璋・丁奉
巻56 朱治朱然呂範朱桓伝 朱治・朱然(朱績)・呂範(呂拠)・朱桓(朱異)
巻57 虞陸張駱陸吾朱伝 虞翻(虞汜・虞忠・虞聳・虞昺)・陸績・張温・駱統・陸瑁・吾粲・朱拠
巻58 陸遜伝 陸遜(陸抗)
巻59 呉主五子伝 孫登・孫慮・孫和・孫覇・孫奮
巻60 賀全呂周鍾離伝 賀斉・全琮・呂岱・周魴・鍾離牧
巻61 潘濬陸凱伝 潘濬・陸凱(陸胤)
巻62 是儀胡綜伝 是儀・胡綜(徐詳)
巻63 呉範劉惇趙達伝 呉範・劉惇・趙達
巻64 諸葛滕二孫濮陽伝 諸葛恪(聶友)・滕胤・孫峻・孫綝・濮陽興
巻65 王楼賀韋華伝 王蕃・楼玄・賀邵・韋昭・華覈


裴松之の注に引用された主要文献

以下は、裴松之が注釈で引用している文献である。引用文献の数については、趙翼は「およそ50余種」、銭大昕は「およそ140余種」、趙紹祖は「およそ180余種」、沈家本は「およそ210種」で、張子侠は227種とする。

『異同雑語』 - 孫盛著。異説集らしい。裴松之は「孫盛や習鑿歯は異同を捜し求めて漏洩なし」と評している。孫盛は人物評でもたびたび引用されている。話を盛り上げるために勝手に台詞を創作したと言われている。たとえば、曹操が呂伯奢(中国語版)の子供たちを誤って殺したあと、「寧ろ我れ人に負くも、人をして我れに負くこと毋からしめん(たとえ自分が他人を裏切ろうとも、他人が自分を裏切ることは許さない)」と言ったとあるが、この台詞は同じ事件を記録した先行文献(王沈らの『魏書』、郭頒の『世語』)にはなく、本書で初めて現れている。高島俊男によると、台詞の創作や他の文献からの転用は、陳寿も含め多かれ少なかれ行っているという[10] が、孫盛は他の史家と比べても露骨であり、陳泰の発言について裴松之に指摘されている。
『英雄記』 - 王粲他編『漢末英雄記』のことらしい。後漢末の群雄について書かれている。
『袁子』 - 袁準著。
『益部耆旧伝』 - 陳寿著。益州の人物伝。陳寿によれば、陳術という人物も同名の著書を残しているが、陳術の書が使われているかは不明。『華陽国志』によれば陳寿の書自体が陳術の書に加筆したもの。
『益部耆旧雑記』 - 陳寿著。益州の人物伝。『益部耆旧伝』 の付録らしい。
『華陽国志』 - 常璩著。漢代から晋代までの巴・蜀の歴史書。現存している。
『漢紀』 - 『後漢紀』とも。張璠(中国語版)著。張璠は東晋の人。
『漢書』 - 華嶠(中国語版)著。華嶠は華歆の孫。後漢の歴史。皇后を本紀として扱ったのが特徴。
『漢晋春秋』 - 習鑿歯著。蜀漢正統論を説き、蜀漢から晋へ正統を続けている。後世に大きな影響を与えたが、手放しで蜀漢を絶賛しているわけではない。これは、統一政権を正統の第一条件としたためで、習鑿歯は孝武帝への上表で「蜀は正統だが弱かった」と評している。裴松之は「董允伝」の注で、後述の『襄陽記』と同じ記事でもニ書の内容に違いが有ったり、高官にあった人物をわざと官位を低く書いたりする内容があり、習鑿歯の記事にはいいかげんな部分があると評している。一方、劉知幾は『史通』において「近古の遺直」と高く評価している。
『魏氏春秋』 - 孫盛著。編年体の魏の歴史書。
『魏書』 - 王沈・荀顗・阮籍編。魏の末期に成立したが、司馬氏におもねっているため陳寿に劣ると言われている[11]。甄皇后の項目では、甄皇后は自殺を命じられたのではなく、曹丕は甄皇后を皇后にしようとしたが、病気を理由に辞退するうちに病死したので皇后を追贈したと、明らかに事実と異なった記述をしており、裴松之から批判されている。
『記諸葛五事』 - 郭沖著。司馬駿の配下たちが諸葛亮について討論した際、郭沖は五つの逸話を紹介して諸葛亮の美点を評価した。しかし、裴松之は郭沖の挙げた逸話について、全て作り話としている。
『魏都賦』 - 左思著。『三都賦』の一部。
『魏武故事』 - 作者不明。曹操時代の政府の慣例・布告などを集めたものといわれている[11]。
『魏末伝』 - 作者不明。魏末期の事件を記している。曹氏に同情的。裴松之は「諸葛誕伝」の注で、同書の記述は「鄙陋(下品)」であり、歪曲があると批判している。
『魏略』 - 魚豢著。『典略』の一部で、『魏略』は魏と周囲の異民族を書き、『典略』は通史となっていて、魏以外の中国の出来事も扱っているらしい。中国の文献のうち大秦国(ローマ帝国)に言及した現存最古のものでもある。劉知幾は信憑性をあまり考慮せず何もかも記載しようとしていると批判しているが、高似孫は筆力があると評価している。
『虞翻別伝』 - 作者不明。虞翻の伝記。引用の文に孫策・孫権と実名で記されているため、呉で著されたものではないとされるが[注 12]、三国時代に作られたものらしい。
『献帝紀』 - 『隋書』に劉芳著とあるが、おそらく劉艾(中国語版)著。劉艾は後漢の人。ただし、献帝については途中までしか書かれていないらしい[11]。
『献帝伝』 - 作者不明。『献帝紀』を増補したものらしい。曹丕が献帝から禅譲された際の家臣の上奏文と曹丕の返答が収録されている。禅譲の受諾を勧める上奏を何度も固辞し、謙譲の徳を強調した上で初めて禅譲を受けた様子がわかる。
『献帝春秋』 - 袁暐著。袁暐は張紘とともに呉に逃れた袁迪の孫。裴松之は厳しく批判している。
『高貴郷公集』 - 曹髦著。詔勅・詩賦・自伝などの著作・発給文書集。
『江表伝』 - 虞溥著。江南の士人の伝記集。裴松之は「粗いが筋道は通っている」と評する。孫盛は赤壁の戦いでの劉備軍が(孫権軍を賛美するために)過小評価されていると批判している。
『呉書』 - 韋昭著。呉の国史。完成しなかったようで、本書に依拠して書かれた陳寿の「呉書」にまでその影響が及んでいる。
『呉歴』 - 胡沖著。呉の歴史書であり、全6巻で構成。裴松之は劉備が曹操から離れる際に種菜を植えて遁走したという記述は、事実とかけ離れていると強く批判している。
『呉録』 - 張勃(中国語版)著。張勃は呉の張儼の子で晋の人。紀伝体で書かれた呉の歴史書であり、全30巻で構成。
『後漢紀』 - 『漢紀』とも。袁宏著。後漢から魏への禅譲を批判し、間接的に蜀漢正統論を採る。現存している。
『後漢書』 - 謝承著。後漢を扱った紀伝体の歴史書では、最も早く作られたという[11]。
『山陽公載記』 - 楽資著。楽資は西晋の著作郎。裴松之は厳しく批判する一方で、蜀書と魏書の正誤を判断するのに用いている。
『荀氏家伝』 - 荀伯子著。潁川荀氏の家伝。
『襄陽記』 - 習鑿歯著。襄陽郡の人物伝。
『諸葛亮集』 - 陳寿編。『諸葛氏集』とも。諸葛亮の書簡・発給文書集。
『蜀記』 - 王隠著。蜀漢の歴史書。裴松之は『蜀記』の引く話は作り話が多いと厳しく非難している。
『続漢書』 - 司馬彪著。後漢の歴史書。志のみ、正史『後漢書』に付されて現存。
『志林』 - 虞喜著。虞喜は東晋の人。呉の歴史や民話が記されている。
『晋紀』 - 『晋記』とも。干宝著。紀伝体で書かれた西晋の歴史書。
『晋書』 - 王隠著。父の王銓から親子2代にわたる著作。王隠は東晋の著作郎。西晋の歴史書。正史『晋書』とは別。同じく西晋の歴史を書こうとした虞預(中国語版)は、王隠の原稿を借り受け、勝手に写し取った上、王隠を陥れ免職にさせた。王隠は庾亮から紙筆の提供を受け、やっと完成させたという。正史『晋書』では「見るべき内容は全て父の編纂したところで、文体が乱雑で意味不明なところは隠の作である」と評されている。
『晋書』 - 虞預著。虞預は東晋の人。前出の通り、王隠の著書の盗作疑惑がある[11]。
『捜神記』 - 干宝著。志怪小説集。現在の小説とは違い、本当にあった話という姿勢で書かれている。現存のものは後世の話が混じっている。
『世語』 - 郭頒撰の『魏晋世語』のこと。裴松之によれば、内容に多少問題はあるが、たまに変わった記事があるので、よく世間で読まれており、孫盛・干宝らもこの書から多く採録している。
『曹瞞伝』 - 作者は不明だが、呉の人という。曹操の悪行集といえる内容だが、後世の人にはむしろ痛快といえる逸話もある。信憑性はともかく、『三国志演義』にも大いに取り入れられている。
『趙雲別伝』 - 作者不明。趙雲の伝記。陳寿の本文と区別するため「別」伝と表記している。『三国志演義』で描かれる趙雲の活躍は、多くを本書に拠っている。
『典論』 - 曹丕著。文学論・自伝・人物評など。中国における文芸評論のさきがけで、文学の地位を高めた「文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり」の一文で知られる。
『傅子』 - 傅玄著。思想・歴史評論。魏の記事が多く、親司馬氏の立場から、司馬氏と対立した人士を批判している。
『弁亡論』 - 陸機著。父祖と故国である呉の功績を顕彰しつつ、呉が滅んだ理由を論じている。
『黙記』 - 張儼著。諸葛亮を高く評価した評論など。諸葛亮が2度目に上表した「後出師表」(後人の偽作説が有力)の出典とされる[要出典]。
『零陵先賢伝』 - 作者不明。零陵郡の人物伝。漢室復興の立場から、劉備の皇帝即位を批判している。


『三国志』と『三国志演義』

後に講談などから発展して成立した通俗小説が『三国志演義』である。この『三国志演義』が日本では「三国志」という名称で流布し、また吉川英治が演義を元に著した小説『三国志』があまりにも有名になったため、日本の三国志愛好家の間では、

歴史書の方を『正史』
『三国志演義』およびそれに基づいた文学作品を『演義』

と呼び分けることが通例である。

中国においては、

歴史書の方を『三国志』
『三国志演義』およびそれに基づいた文学作品を『三国演義』
と、中華人民共和国成立後に統一されており、日本のような呼称の混乱はほぼない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%9B%B8)


▲△▽▼


I think; therefore I am! 漢文
http://www.maroon.dti.ne.jp/ittia/#ChineseSentences

I think; therefore I am! 諸文章
http://www.maroon.dti.ne.jp/ittia/#SomeSentences


ゆっくり解説 三国志
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%86%E3%81%A3%E3%81%8F%E3%82%8A+++%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97

なんでも三国志
https://daisuki-sangokushi.com/
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14080329

後漢はシルクロード交易で黄金を枯渇するほど流出させてしまい衰退した
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14049188

皇帝たちの中国 第2章 第1回「漢民族が10分の1に激減し遊牧民がやってきた」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】
2018/07/10
https://www.youtube.com/watch?v=1G9aXDTGR3A

皇帝たちの中国 第2章 第2回「北魏は漢人の国ではない」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】
2018/07/17
https://www.youtube.com/watch?v=YlqD7EV_mUQ

誰も知らなかった皇帝たちの中国 (WAC BUNKO)
岡田 英弘 : http://amzn.asia/bJO9Lhv

宮脇淳子 皇帝たちの中国史 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%B7%B3%E5%AD%90+%E7%9A%87%E5%B8%9D%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8F%B2

宮脇淳子 中国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%B7%B3%E5%AD%90+%E4%B8%AD%E5%9B%BD

宮脇淳子 皇帝たちの中国 
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/139.html

これを聞けば中国がよく分かります _ 宮脇淳子 「真実の中国史」講義 
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/170.html  

岡本隆司『悪党たちの中華帝国』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14076861

柿沼陽平『古代中国の24時間 秦漢時代の衣食住から性愛まで』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14076893

性生活に没頭しすぎたあまり寿命まで縮めてしまう「中国皇帝たちの淫らな性生活」
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14075593

中国 三国時代の食事!主食やおかず、武将はどんなお酒を飲んでいたの?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14080321

中国の酒の歴史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14078775

テレビドラマ 始皇帝烈伝 ファーストエンペラー (2007年 中華人民共和国)
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14082161

テレビドラマ 項羽と劉邦 King's War (2012年 中華人民共和国)
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14078574

テレビドラマ 三国志 Three Kingdoms (2010年 中華人民共和国)
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14074005

曹植『洛神の賦』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14078559

陳好(チェン・ハオ)_ 中国の絶世の美女というのはこの程度
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14074336

中国後漢末期の伝説の天才医学者 華佗
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14075611

杏仁豆腐を生み出した中国三国時代の名医 董奉
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三国志演義の成立史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E6%BC%94%E7%BE%A9%E3%81%AE%E6%88%90%E7%AB%8B%E5%8F%B2

三国志演義の成立史では、中国明代に成立した長編小説で四大奇書の一つ『三国志演義』の成立過程について概説する。『三国志演義』は、後漢末期の混乱から魏・蜀・呉の三国が鼎立し、晋によって再び統一されるまでの約1世紀にわたる治乱の歴史を描いた通俗小説である。3世紀末に成立した歴史書『三国志』以降、南宋代の都市で語られた講談までの間に培われた逸話群が、元代に刊本『三国志平話』としてまとめられ、さらに元の雑劇(元曲)の要素を吸収しつつ、明代に作品として完成した。そのため、部分的に白話(口語)文体を用いた文言小説[※ 1]となっている。作者は一般的に羅貫中と言われるが、定かではない(後述)。現存する最古の刊本は、1522年刊と思われる『三国志通俗演義』(嘉靖本)である。16世紀から17世紀にかけて隆盛を迎える通俗白話小説の元祖となった。

正史から演義へ

桃園結義図(周曰校本)
『三国志演義』は、実際の歴史を題材として描いた講史小説である。184年に起きた黄巾の乱を契機に漢の世が乱れ、董卓・呂布・曹操・袁紹・孫策ら群雄の攻防が行われた結果、曹丕の魏、劉備の蜀、孫権の呉の3つの国家が鼎立。本来1人しかいない皇帝が同時に3人存在する異常事態となった。その後、魏が蜀を滅ぼした後に晋に代わられ、280年晋が呉を倒して再び国家統一ができるまでの約100年の歴史をその対象とする。史書に書かれた実際の事件だけでなく、時代を彩る英雄達の様々な逸話がちりばめられており、清代中期の学者章学誠(1738年 - 1801年)は、著書『丙辰札記』の中で、『演義』の構成を「七分実事、三分虚構」と評している[2][3]。

『三国志演義』(以下、『演義』と略称)という書名は、史書三国志の義を敷衍するという意味である。その義とは「劉備が建てた蜀こそが漢を受け継いだ正統王朝である」とする蜀漢正統論を意味する(漢の皇室と同姓の劉備は、前漢の景帝の子孫を称しており、漢から魏への王朝交代に際し、漢を継承するとして建国した)。3世紀末に歴史書として書かれた『三国志』は魏を正統としていたが、1200年後に小説として完成するまで、物語が形成される過程の一貫した流れは、蜀漢正統論の浸透と、それに伴う関羽・諸葛亮の神格化、および曹操の奸雄化であった[4]。以下『演義』が成立するまでの過程を概観する。

唐代まで
陳寿『三国志』
詳細は「三国志 (歴史書)」を参照

三国時代
正史『三国志』(以下、正史)65巻は、三国時代の当事者だった蜀出身の晋の史官陳寿(字は承祚。233年 - 297年)による歴史書で、『魏書』30巻『蜀書』15巻『呉書』20巻の3書から成る。『史記』以来のスタイルである紀伝体で叙述されているものの、必須要素である紀(本紀=皇帝ごとの年代記)は『魏書』にしか存在せず『蜀書』『呉書』には伝(列伝=重要人物の伝記)しかない。つまりこれら3書は初めからセットとして作成されたことが伺え、あわせて「三『国志』」と称された。『華陽国志』陳寿伝によれば、晋が呉を滅ぼした(280年)直後に完成したとある[5]。本来は陳寿の私撰として編纂されたが、唐代に編纂された『隋書』経籍志以降、同時期の歴史を扱った類書とともに正史の類に編入され[※ 2]、その後、他書を次第に駆逐していった。なお陳寿の他の著書としては他に『古国志』『益州耆旧伝』などがあるが、現存していない[5]。

蜀漢滅亡後、晋に仕えた陳寿は表向き、漢-魏-晋を正統な後継王朝とし『魏書』のみに「紀」を設けた。中華皇帝は同時に2人以上存在できないという建前の下、魏の文帝は漢の献帝から禅譲を受け、晋の武帝は魏の元帝から禅譲を受けて成立した王朝であるから、これは当然のことである。君主の死亡記事でも、魏の基礎を築いた曹操には、皇帝に対して用いられる「崩」の字を使用している。これに対し、陳寿が以前仕えた蜀漢もまた漢の皇室の血を引くと称する劉備が建国した王朝であり、劉備の死に対して陳寿は「殂」という特別な字を用いている。「殂」は『書経』で堯の死去に用いられている字であり、陳寿が劉備を堯の子孫、すなわち漢の後継者であることを仄めかしているようにも受け取れる[6][7]。これに対し呉の孫権の死去は「薨」であり、『春秋』の義例では諸侯の死去に用いる字とされているように、皇帝として扱っていない。また、晋を建国した司馬一族によって殺害された魏の4代皇帝曹髦(高貴郷公)の死に関しては「卒」という一般人にも用いられる字を使い、殺害された詳細を省いて筆を曲げている[8]。陳寿はこのように死去の際に用いる字を変えることによって、言外に英雄の序列を示唆する手法をとっている。

また本文における呼び名も、曹操に対しては初め「太祖」と表記し、その後の出世にあわせて「公」「王」などと表記し、曹丕も「王」「帝」と表記している。それに対し劉備には蜀書で「先主」、劉禅は「後主」と、「帝」の字を回避しながらも、敬意のある表現を用いている(魏書や呉書に登場した際は「備」とも書かれる)。一方、呉の君主に対しては「権」などと呼び捨てである[9]。

このように陳寿は、相当の配慮を行いながらも、自らの出身である蜀に出来うる限りの敬意を織り込めつつ、表向きは晋王朝=司馬氏やその前身たる魏王朝=曹氏を正統とする史書としたのである[2]。陳寿の隠された蜀びいきは、蜀書の掉尾となる楊戯伝に置かれた『季漢輔臣賛』という書物の引用にも見られる。「季」は末子を表す字であり「季漢」とは漢王朝を最後に受け継いだものの謂である[10]。このように「春秋の微意」(明確に書かずに仄めかす文法)で書かれた陳寿の蜀びいきは、後に形成される蜀漢正統論に影響を与えることとなる。

裴松之注
裴注で参照されている主な資料
著者 書名 引用箇所
王沈 魏書 188
魚豢 魏略 179※
虞溥 江表伝 122
韋昭 呉書 115
郭頒 世語 84
張勃 呉録 79
習鑿歯 漢晋春秋 69
不明 英雄記 69
孫盛 魏氏春秋 53
傅玄 傅子 53
※同じ魚豢の『典略』からも49箇所引用されており、両書は元は同じ本の別部分だったらしい。
高島2000、42-43頁から作成。
陳寿の正史は、戦乱期の限りある史料の中から信憑性の高いもののみ選んで編纂したこともあり、歴史書として高い評価を得たが、一方で他の史書に比べて、記述が簡潔に過ぎるとの指摘もあった。そこで劉宋の文帝(424年 - 453年)の命を受けた裴松之(372年 - 451年)は、429年(元嘉6年)にそれまでに流布していた三国時代を扱う史書を多く集め、それらの記事を『三国志』の注釈として挿入した[11]。これらは「裴松之注(略して裴注)」と呼ばれ、今日『三国志』は裴注も挿入された形で刊行されることが普通である[12]。裴松之は陳寿の『三国志』を「近世の嘉史」と賞賛しており、原文を尊重した上で主観を廃し、陳寿の本文と同じ事件を扱っている他の史料を注釈として併記し、論評を加えることで、読者に是非の判断をゆだねる形式をとっており[13]、後世の研究者にとっては非常に役立つ注となっている。裴松之が参照・挿入した文献は210種にもおよび、高官が編纂した史書もあれば、噂レベルの雑説を拾った逸話集もあるなど玉石混淆である。この結果、裴注の分量は本文の文字量に匹敵するほどになっている[※ 3]。たとえば蜀書趙雲伝は、陳寿の元の記述ではわずか246文字しかないが、趙雲伝につけられた裴注の『趙雲別伝』は1096字と4倍の分量となっている。この別伝という史伝形式は、当時貴族の子弟が初官として就任する著作郎という職に対し、課題として執筆が命じられたもので信憑性は著しく低い。しかしこのような書も参照が容易となったことで、後世の趙雲像に影響を与えていくこととなる。なお、裴松之は、その引用先の信憑の度合いをランク付けする配慮を行なっており、この点でも読者の判断を尊重する方針を採っている。

三国時代終結から150年後に生きた裴松之には、陳寿が置かれていた立場上の制約も無かったため、必ずしも魏を正統とする史料ばかりでなく、呉・蜀の立場から書かれた史書も多く引用している。たとえば裴注に多く引かれる習鑿歯の『漢晋春秋』は、後漢-蜀漢-晋の流れを正統としており、陳寿の正史とは立場を異にしている[14]。習鑿歯は「周瑜・魯粛を卑しめて諸葛亮を評価する論」(『太平御覧』)を述べ、劉備・諸葛亮の正統性を高らかに宣言した人物である[15]。

このように裴注は、陳寿が採用できなかった逸話や、史実とは思われない噂話までも多く引用しており、それらが後に講談や雑劇の筋を作る上で、格好の素材となっていく。

その他の史書
正史や裴注のほかにも、『演義』に逸話を提供した史書は多い。この時期に編纂され、『演義』への流れに影響した主な史書を挙げる。

『華陽国志』
東晋時代の永和11年(355年)に、常璩によって編纂された上古から4世紀半ばまでの巴蜀・漢中・雲南の地方志。全12巻。中でも劉二牧志・劉先主志・劉後主志は、資料に乏しく詳細不明な蜀の歴史を補うものとなっている。裴注にも19件引用されている。
『後漢書』
劉宋時代の元嘉9年(432年)に、范曄によって編纂された後漢時代に関する正史。前漢の歴史を記した班固の『漢書』の続篇として書かれたため、「後『漢書』」と名づけられる[16]。時代的には三国より前を扱いながら、成立は『三国志』よりも150年遅く、裴注と同時期である。范曄がこの書を著す前から「後漢書」「続漢書」等と称する史書は多くあり、唐代に編纂された『隋書』経籍志では、これらの類書とともに正史の類に編入されている。現在見られる『後漢書』には、唐の皇族李賢(章懐太子)がつけた註釈(章懐注)が挿入されるのが普通である。
扱う時代が重なるため、三国成立前の各地の群雄など『後漢書』『三国志』両書に伝がある人物も少なくない。曹操の参謀を務めた荀彧も、曹操が魏公に陞爵するのに反対し死を選んだためか漢臣として扱われ、『後漢書』にも伝がある[※ 4]。『演義』の刊本によっては荀彧の死が描かれる段で、100字余りの論賛(死に際しての評価)がそのまま『後漢書』から丸写しされている(ただしその後、毛宗崗本において当該部分は省略された)[17]。
『世説新語』
劉宋の劉義慶(臨川王)が編纂した、後漢末から東晋までの著名人の逸話集である。後に梁の劉孝標(劉峻)が注を付け、記述の補足、不明な字義の解説、誤りの訂正などに校訂を施した。言語篇(巧い物言い)の孔融や、仮譎篇(嘘も方便)に載る曹操の逸話などが、後に『演義』で採用されている(後述)。
鼓吹曲
唐代に成立した正史『宋書』「楽志」には、歴代王朝の兵士の士気高揚と慰安を兼ねた軍楽である鼓吹曲が収められている。その中に三国時代の国の成り立ちを歌った軍歌も残されている。魏の鼓吹曲は繆襲作の12篇、呉は韋昭作12篇、晋は傅玄作の22篇が載せられ、それぞれの立場から見た国家形成史が歌われている[18](なお蜀のものは散佚したか、あるいは漢の後継国家として漢の鼓吹曲が用いられたためか、伝わっていない)。これら鼓吹曲はごく簡略とはいえ、散在する紀伝体の逸話と異なり、時系列にそったストーリーとして作られていたという意味で、『演義』物語への形成過程として重要である。作者の3人は、ともに各国の歴史書編纂事業に関わったことのある人物であり、鼓吹曲という形でそれぞれの国の正統性を宣伝する目的もあったと思われる[19]。

唐代の変文
唐代に入ると、寺院の俗講で三国物語が語られるようになる。俗講とは僧侶が仏教講話を行う際に、聴衆の興味を引きつけるために語られた唱道文芸である。難解な経文の意義を無学な民衆にも分かるように平易な言葉で説いたもので、それをテキスト化したものを「変文」という。唐から五代・北宋の時代に盛んとなったがその後存在が忘れられ、1907年に敦煌から出土した敦煌文献の中から写本が発見されたことで、再び知られるようになった[20]。変文の文体は、韻文(七言絶句が多い)と散文が交互に現れるという、それまでの中国文芸には無かった特徴を持ち、インドの仏典からの影響が指摘されている。韻文・散文の混在は、語るだけでなく唱歌として聞かせることで、教養に乏しい聴衆への理解を助けるための工夫と思われる。この形式が宋代以降の講談にも受け継がれ、やがて『平話』や『演義』の文中に盛んに詩詞が挿入されることとなる。敦煌変文の中には三国時代の説話は見つかっていないが、俗講の中で語られた三国物語は大覚和尚『四分律行事鈔批』(714年)の註釈にも残されている。内容は史実とかけ離れた部分も多く、諸葛孔明が死後に一袋の土を足下に置き鏡で顔を照らすと、魏の占い師が孔明はまだ生きていると判断し、一月攻められなかったとするなど、孔明が全能の魔術師として扱われ始めている[21][22]。

唐末の詩人李商隠が自分の子について詠んだ「驕児詩」(驕児はやんちゃな子供の意)に、「或いは張飛の胡(ひげ)をあざけり、或いは鄧艾の吃りを笑う」という文章があり、この時期にはすでに、子供たちまで張飛や鄧艾など三国の英雄を、その特徴とともに知っていたことが分かる[23]。また唐を代表する詩人杜甫は、三国時代蜀と敵対した魏・晋の将軍杜預の子孫であるが、「蜀相」「詠懐古跡五首」など、諸葛孔明を悼み称える詩を詠んでおり、蜀漢正統論が受容されつつあったことを物語る[24]。なおこの2つの詩は、後に毛宗崗が『演義』にも採り入れている。

宋代

開封の盛り場(清明上河図、12世紀)
宋代(北宋:960年 - 1127年、南宋:1127年 - 1279年)は都市文化が発展し、三国物語が語られる場も、寺院の俗講から、都市の芸人へと変化していく。また蜀漢正統論にも重要な動きが見られた。

説三分の流行
宋代は都市の経済や文化が大いに発展し、特に北宋の首都開封や南宋の首都杭州(臨安)の瓦市(盛り場)では、勾欄と呼ばれる寄席・見せ物小屋で、様々な講談(説話)が語られた[25]。中でも特に「説三分」と呼ばれる三国ものが人気であり、当時の開封の盛況を記した『東京夢華録』には「説三分」専門の講釈師として「霍四究」などの名が書き留められている[26]。北宋末を舞台にした小説『水滸伝』でも、李逵・燕青ら登場人物が開封に上京した際、勾欄で三国語りを聞く場面がある。講談には何日にも分けて興行される長篇ストーリーもあり、客の興味を引きつけるため、話が盛り上がる場面で「続きはまたの日に」と終了して、翌日以降に再び聞きに来させる手法が用いられた。この手法は後に『演義』毛宗崗本の文章で復活し、各回(章)の末尾に次回を期待させる「且聴下文分解(次回に続く)」などの文句が埋め込まれた。

赤壁の戦いについて詠んだ『赤壁賦』で有名な詩人・蘇東坡は『東坡志林』の中で「子供たちがうるさい時は銭を与えて講釈師を呼び、座らせて三国の物語を聞かせると、劉備が負けたと聞いて涙を流し、曹操が負けたと聞くや大喜びする」と記している[27][28]。当時三国志物語が話芸の題材としてポピュラーであったこと、三国を語る芸人が多くいたこと、劉備が善玉で曹操が悪玉という評価が定まっていたことなどがうかがえる[29]。

資治通鑑と通鑑綱目
庶民レベルでの説三分の隆盛と並行して、知識人の間でも宋代には三国時代の正統論について興味深い動きが見られた。当時、三国のどの国が正統かを論ずる正閏論が盛んとなる。碩学として知られた北宋の司馬光は編年体の史書『資治通鑑』(以下、『通鑑』)において魏正統論の立場で叙述した。欧陽脩(『明正統論』)・蘇東坡(『正統弁論』)らも同様である。しかし南宋時代の朱熹(朱子)は『資治通鑑綱目』(以下、『綱目』)において司馬光を激しく批判。三国時代の記述に魏ではなく蜀の年号を用いるなど、蜀を正統王朝と見なし、特に諸葛亮を「義によって国家形成を目指した唯一の人物」と礼賛した[30]。それ以前に蜀正統論を強烈に主張していたのは東晋の習鑿歯であるが、漢人知識層にとって東晋や南宋は、ともに異民族に華北を奪われ江南に後退を余儀なくされた屈辱の時代であり、それゆえ類似した状況にあった蜀への共感が高まったとの指摘がある[31]。朱子の理論を基盤とする朱子学(宋学)は明代に至り、国家公認の学問となった。すなわち『演義』が完成した時代には、朱子の歴史観(=蜀漢正統論)は公式なものとなっていたのである。

『通鑑』と『綱目』は歴史観のみならず、『演義』の文章にも大きな影響を与えている。『通鑑』は正史をはじめとした様々な史書から抜き書きし、編年体の体裁にまとめた書物であり、『綱目』はさらにそれをダイジェスト化した書である。そのため、歴史の流れを把握する上で、重要人物の記載が各伝に散らばっている正史(『後漢書』『三国志』『晋書』)を直に読むより、はるかに参照しやすくなっている。『演義』の作者・校訂者は、直接正史を参照する以外にも、『通鑑』や『綱目』を参考にして書いたとみられる箇所が散見される[32]。また朱熹と同時代の学者で『近思録』の共著者でもある呂祖謙が記した正史のダイジェストである『十七史詳節』も参照に便利であったと思われ、『演義』刊本の中には、董卓が死亡した箇所の論賛などに「已上、詳節に見ゆ」と『十七史詳節』からの引用を明記してあるものもある[33]。

元代
元代(1271年 - 1368年)になると、講談で語られてきた三国物語の台本に挿絵をつけて読みやすくした書『三国志平話』が登場する。またこの時代に大きく発展した雑劇(元曲)においても、三国時代を題材としたものが多く演じられるようになり、物語や人物の造形にふくらみが増していく。

元雑劇
元代は演劇が非常に発達した時代であり、続く明代前期にかけて、三国説話を題材とした劇も多数演じられた。元雑劇は白(セリフ)と唱(うた)から構成され、明代に成立した『脈望館鈔校本古今雑劇』『元曲選』などに多くの作品が収められている[34]。史実に基づく話もあるものの、全体的に筋は荒唐無稽で、張飛が大活躍する物語が多い。次いで関羽が活躍するものが目立つ。言葉遊びや登場人物同士の掛け合いなど舞台ならではの要素も多く、『三国志平話』や『演義』に引き継がれなかった独自のストーリーを持つものも少なくない。また講談を聞くだけでは想像するしかなかった英雄達の容姿や服装・武器などが、演劇では目に見える形で表現されており、それぞれの人物のイメージとして定着していく。

三国志平話の成立
詳細は「三国志平話」を参照
元代に成立した『三国志平話』(以下、『平話』)は、講談(説三分)の種本を文章化し挿絵を加えたもので、『演義』成立過程において、非常に重要な役割を果たした作品である。現存最古のテキストは、至治年間(1321年 - 1323年)に福建省建安の書肆虞氏が刊行した『至治新刊全相平話三国志』である(日本の国立公文書館(内閣文庫)が所蔵)。「全相」とは全ページの上段に場面説明の絵が挿入されていることを表し、「平話」とは評話、すなわち長篇の歴史物語を指す語である[※ 5]。ページの上部三分の一程度に挿絵が描かれ、下部の三分の二が文章という体裁をとる。ほぼ同内容の『至元新刊全相三分事略』という書も存在し(日本の天理図書館が所蔵)、同版異刻と思われるが[※ 6]、どちらが早く刊行されたかについては諸説ある[※ 7]。この『三分事略』の方は全69葉のうち8葉が失われており、ここでは至治平話について記載する。

これまでの紀伝体史書や『世説新語』・説三分の逸話群が、人物ごとにバラバラで相互のつながりがほとんど無かったのに対し、『平話』は、後漢末から三国の興亡に至る顛末を一連のストーリーにまとめ上げた最初の作品であり、『演義』の成立史の上で非常に重要な位置を占める。 『平話』の特徴は

冒頭と結末に冥界裁判の話があり、これが全体のテーマとして底流にある。
史実の事件と起きた順序が違うことが多い[※ 8]。
魔術や超人が活躍するなど全体的に荒唐無稽であり、特に張飛が大活躍する場面が多い。
各場面の記述は比較的簡素・粗雑であり、人名・地名などに当て字や誤字が多い[※ 9]。
呉に関する記述が非常に少なく、赤壁の戦いと荊州争奪以外はほとんど触れられず、孫堅や孫策に至ってはほとんど登場しない。
関羽の死亡前後までの記述は多いが、その後の筋はかなり簡略化され、孔明の死後についてはほとんど触れられない[38]。
晋による三国統一で終了するのではなく、漢の皇室の子孫という設定の劉淵(史実では匈奴出身で劉禅後継を称した五胡十六国の前趙(自称は"漢")を建国した)が晋を滅ぼして、漢王劉淵の天下で話が終わる[※ 10]。
などが挙げられ、文学的な価値こそ低いが、民衆世界の語り物の雰囲気をよく伝えている[39]。

『平話』では張飛の大活躍が目立ち、特に上巻・中巻では主人公と言っても過言ではない。文中、劉備が「徳公」「玄徳」、関羽が「関公」と呼ばれるのに対し、張飛のみ「飛」と名で呼ばれ、親近感を与えている。序盤の三傑邂逅の場面も、張飛が関羽に話しかけることからストーリーが始まっており、彼が主人公格であることを暗示している(同じ場面が『演義』では劉備視点に変わる)[40]。

なお冒頭と結末の冥界裁判とは、以下のようなストーリーである。

後漢の初代光武帝の時代、司馬仲相という書生が酒に酔って史書で読んだ始皇帝を罵倒していたところ、突如現れた役人が仲相を冥界へと連れ去り、裁判を行わせる。原告は漢王朝の建国の功臣ながら殺害された韓信・彭越・英布の3人で、被告は彼らを殺した漢の高祖(劉邦)とその妃の呂后であった。仲相は立て板に水のごとく裁判を結審させ、天帝はそれに基づいて韓信を曹操に、彭越を劉備に、英布を孫権に転生させ、劉邦・呂后を献帝と伏皇后(曹操に殺された皇妃)にして、曹操に復讐させる。裁判を仕切った司馬仲相は司馬懿に転生させ、三国を統一させた。
すなわち物語の全体構図を復讐劇に仕立てたもので、仏教的な因果応報思想の影響が強い[41][42]。この冥界裁判の話は元代にはよく知られていたようで、似たような話が同じ平話シリーズである『新編五代史平話』の中の「梁史平話」上巻にも現れている[43]。そこでは英布の代わりに陳豨が登場して劉備に転生し、彭越が孫権に転生している。また呂后や司馬仲相が登場していないことから、こちらの方がより原型の話に近いと見られる。物語を収束させる人物として、三国を統一した司馬氏にあたるキャラクターが要求されたが、高祖の時代には該当する武将がいないため、新たに司馬仲相という人物が創作されたと思われる[44][※ 11]。

このように『平話』は、小説としては荒削りであったものの、漢末の混乱から三国の攻防に至る全体のストーリーラインはすでに『演義』と概ね同様だった。『西遊記』説話の古い内容を伝える『大唐三蔵取経詩話』や、『水滸伝』の元となった『大宋宣和遺事』が、現行の小説ではほぼ話の原型を留めていないのに対し、『平話』から『演義』に受け継がれている要素は非常に多く、元代における『平話』の成立が、『演義』形成過程の一画期となったことは間違いない。

花関索の伝説
詳細は「花関索伝」を参照
現存する『演義』の刊本の種類によっては、中盤もしくは後半で関索なる人物が突然登場するものがある。この人物は関羽の子だとするが、関羽の子として史書には載るのは関平(『演義』では養子とする)や関興のみであり、関索はいずれの史書にも見あたらない架空の人物である(後述)。

関索が登場する刊本も、その登場箇所には全く異なる2種類の系統がある。一つは関索を関羽の第三子とするもので、関羽死後の諸葛孔明による南蛮征伐中に、突然登場して自らの生い立ちを語り、たいした活躍もなく、いつの間にか物語から消えてしまう。この系統では父関羽と同時には登場しない。もう一つは荊州攻略中の関羽の下に、花関索という若者が現れ[※ 12]、生い立ちをやや詳しく語る。その後、花関索は孔明の入蜀に従軍して活躍するが、後に関興が「兄が雲南で病死した」と語る形で物語から退場する。こちらの系統では関興が兄と呼ぶので関羽の第二子ということになる。なぜこのように異なる2系統の関索が登場するのか、『平話』や雑劇にもほとんど関索が登場していないため、長らく謎の人物となっていた。

ところが1967年上海市嘉定区の明代の墳墓から、成化年間(1465年 - 1487年)に北平(現北京市)の永順堂という書店が刊行した『花関索伝』という書物が発掘されたことで、元・明代に流布していた関索伝説の全貌が明らかとなった。『花関索伝』は『平話』を上回る荒唐無稽な物語であり、劉備はもちろん諸葛亮や張飛、父である関羽すら押しのけ、ひたすら関索(花関索)のみが大活躍する小説である。入蜀や荊州争奪など三国説話に基づく話もあるが、人物関係や事件の順番などについては『平話』以上にでたらめで、中には『水滸伝』のような盗賊や『西遊記』で現れるような妖怪まで登場する[47]。『平話』と同様、上図下文小説の体裁をとっており、中には『平話』と同じ絵柄の挿絵もある[48]。

関索説話は『演義』の形成とは別に発展したらしいが、『演義』成立後に様々な書店や編者の手で物語に挿入されたため、異なる系統の関索像が取り込まれることとなった。近年では逆に、関索物語の有無や内容によって、各刊本の系統関係が推測されるようになった(後述)。

明代:演義の成立
明代(1368年 - 1644年)に入ると、従前の三国物語が、いよいよ『演義』という小説として完成する。14世紀後半には原「三国演義」ともいうべき書物が成立。その後抄本として書写で流布し、16世紀の出版文化の隆盛とともに様々な刊本が登場した。その動きは清代(1644年 - 1912年)に入り、決定版となる毛宗崗本の出版の後まで続く。

羅貫中は作者なのか
今日、一般的に『演義』の作者とされるのは羅貫中という人物である。現存する各種刊本に「羅貫中編」と記されるものが多いことが理由である。「編」という字からも分かる通り、『演義』を一から著した作者というより、荒削りな『平話』の物語を史書等を用いてストーリーを補正し、黄巾の乱から三国の統一につながる一連の大河小説として完成させた、最終編者としての役割が想定されている。ただし、本当に最終編集が羅貫中なのかどうか、確証は全くない。

というのも羅貫中自体は、経歴がほとんど不詳な人物であり、元末明初(14世紀半ば)に生きた人ということ以外、確かなことは全く分からない為である。清代の俗説では、元末の軍閥張士誠に仕えたとされ、『演義』の赤壁の戦いの描写は、朱元璋と陳友諒との間で行われた鄱陽湖の戦いをモデルに書かれたと言われることもあるが、何ら証拠はない。

賈仲名の『録鬼簿続編』(雑劇作者の列伝)には、羅貫中は太原(現山西省)の人で「湖海散人」と称していたこと、楽府や戯曲を書いていたこと、賈仲名は至正甲辰(1364年)に最後に会ったことが記されている。作品としては「風雲会」「連環諫」「蜚虎子」等があったらしいが、「風雲会」(宋太祖の出世物語)以外は散佚している[49]。ここで重要なのは賈仲名が、羅貫中の作品として『三国志演義』等の小説を一切記していないことである。最も著名な小説を代表作として挙げていないというのは考えづらく[50]、『録鬼簿続編』が言う「羅貫中」が果たして『演義』の編者とされる人物と同一なのかは疑わしい。同姓同名の別人という可能性もある。

賈仲名が羅貫中の出身地として記す太原は、当時文化が高度に発達した地域で、雑劇や語り物の作者を輩出していた。ただし羅貫中の出身を太原以外とする史料もある。たとえば嘉靖本の序文には「東原羅本、貫中」(姓名が羅本で、字が貫中)とある。東原は東平(山東省)の古名である。元末の朱子学者趙偕の弟子に羅本という人物がおり、同じく趙偕の影響下にあった陳文昭の名が『水滸伝』(これも羅貫中の作とする俗説がある)に東平府尹として登場することから、羅本は東平と縁が深かったとみる王利器の説もある[51]。東平は元代に漢人軍閥の厳実・厳忠済父子が地方政権を築いており、元好問など山西地方の文化人が戦乱を避けて多く移り住み、高文秀などの劇作家を生んだ文化的な地だった。いっぽう浙江の郎瑛(1487年 - 1566年?)が、世上の見聞をまとめたメモ『七修類稿』では、「『三国』『水滸』はともに杭人羅本貫中の作である」と記しており、羅貫中を杭州の人間としている。これらをすべて信用し強引にまとめると、羅貫中(もしくは祖先)は元々太原の出身で、その後東原を経て杭州へ移ったということになる[52]。当時モンゴルの支配を避け、北方から南方へ移り住んだ文化人の中には「書会」と呼ばれるギルド組織を構成し、雑劇や小説を作成する者がいたという。各都市の書会ギルドはネットワークを形成し、新たな移住先や旅行先の情報を得る上でも有利に働いた。羅貫中の号とされる「湖海散人」も、遍歴する自由人としての姿を髣髴とさせる[53]。

そうなると「羅貫中」というのは、上記のような書会ギルド名であった可能性や[54]、書会を構成する才人(職業的文士)の伝説的名前として複数人から使用され、個人の名前ではなかった可能性もある[55]。実際『演義』は各場面によって使われる用語・用字の傾向に著しい偏りがあり、すべての構成を1人の人間が一から作成したとは考えがたい[38]。

なお羅貫中は他にも『隋唐両朝志伝』『残唐五代史伝』『三遂平妖伝』『水滸伝』などを執筆したとされるが、これらもかなり疑わしい。確かにこれらの作品には『演義』の影響が見られる。しかし、それはむしろ『演義』のプロットを一部借用して別の作者が書き、羅貫中の名を利用して箔を付けた為と思われる[56]。上記の著作群は16世紀に入った嘉靖年間(1522年 - 1566年)前後に立て続けに出版されている。高島俊男は文学界の潮流として、通俗小説の機運が成熟する嘉靖期よりはるか以前の、明初の人物とみられる羅貫中の作品群が、すべて16世紀まで世に出ずに書写・退蔵され、約200年後に一気に出版されたとは考えづらいと指摘する[50]。また上田望も、原「三国演義」に大部の書物である『綱目』の文章が参照されていることを明らかにし、印刷文化の普及が進んでおらず、史書が高価であった元末明初に、一介の戯曲作家「湖海散人」羅貫中が『綱目』を購入する資力があったとは考えづらく、原「三国演義」の作者はもう少し時代が下がり、木版印刷によって『綱目』が入手可能となった時期の知識人であったと推測する[57]。

このように、羅貫中という一作家がいて、『演義』の最終的な編集を行ったと言えるかどうかは、かなり疑わしい。仮にそうだったとしても、当人の手による作品が現存しておらず、羅貫中版・原「三国演義」を検証することはできない。嘉靖本の序文には「好事者そろいて相写す」とあり、16世紀に印刷文化が隆盛するまでは、専ら書写によって抄本(鈔本)が作られていたと推測され、その過程で他者による改編・挿増・誤写が頻繁に行われたとみられるからである。とはいえ明代の早期に、後に『演義』と呼ばれることになる小説が成立していて、その作者が羅貫中であるとする噂が広まっていたことは間違いない。この成立時期は『平妖伝』『水滸伝』『西遊記』など16世紀に生まれた他の小説よりもかなり早く、『演義』が通俗小説の祖として、他の作品に影響を与えたり、模倣作品を生み出すこととなる。

嘉靖本の登場
現存する『演義』最古の刊本は、嘉靖元年(1522年)に木版印刷された『三国志通俗演義』である。これを嘉靖本と呼ぶ(後述の葉逢春本等も嘉靖年間の刊行であるため、区別して張尚徳本と呼ばれることもある)。全24巻240則から成る。

巻頭には「晋平陽侯陳寿史伝/後学羅本貫中編次」と題されている。首巻に弘治甲寅(1494年)の庸愚子(蒋大器)による序文「三国志通俗演義序」、嘉靖壬午(1522年)の修髯子(張尚徳)による「三国志通俗演義引」「三国志宗寮(人名目録)」をそれぞれ載せる。庸愚子の序文には『演義』形成の過程が記される。それによれば『三国志』など正史の類は難解であるため、庶民の間で野史(でたらめな史伝)が広まり、『平話』のような作品が作られたが、言葉は卑しく誤りが多い。そこで羅貫中が各種史書を慎重に取捨選択してまとめ『三国志通俗演義』と名付けた、とある。また「好事者そろいて相写す」とあることから、出版印刷文化が花咲く嘉靖年間以前は、専ら書写によって鈔本が作られていたと推測される。これを原「三国演義」と呼ぶ。この原「三国演義」の一つとして想定される有力な候補が弘治7年(1494年)の序を持つと思われる弘治本である[58]。

各種刊本の系譜
16世紀嘉靖から万暦にかけては、江南を中心に印刷業や書籍の流通業が発達し、空前の出版ブームが発生した時期である。著作権概念の無かった当時『演義』に限らず、ある作品が人気になると、別の書店がその版木を覆刻・複製して販売することが横行し、その際独自のエピソードを増補したり改作して他の書店と差別化するなどの売り方がとられた。『演義』は最初に人気になった通俗小説でもあり、様々な書店から非常に多くの刊本(テキスト)が売り出された。好評を得た刊本からさらに孫引きした複製や増補が加わることもあり、採用された逸話や用語・用字の違いなどから、各刊本どうしの系譜関係が類推できる。嘉靖本からの進化ですべてを説明した鄭振鐸をはじめ、小川環樹・柳存仁・周頓・上田望などが様々な説を唱えているが、ここでは金文京、中川諭による研究を基に説明する。

現在までに発見されているテキストのうち、主要なものは以下の通りである。

『三国志演義』の主要刊本
書名 通称 刊行年 巻数 発行 図像 関索 周詩 所蔵
三国志通俗演義 嘉靖本 嘉靖元年(1522年) 24巻 不明 なし なし なし 上海図書館・天理市図書館ほか
新刊按鑑漢譜三国志伝絵象足本大全 葉逢春本 嘉靖27年(1548年) 10巻 葉逢春 あり なし あり エスコリアル修道院(スペイン)
新刊校正古本大字音釈三国志通俗演義 周曰校本 万暦9年(1581年) 12巻 万巻楼(仁寿堂) なし 関索 あり 北京大学・内閣文庫・蓬左文庫ほか
李卓吾先生批評三国志 呉観明本 不明 120回 不明 あり 関索 あり 北京大学・内閣文庫・蓬左文庫ほか
音釈補遺按鑑演義全像批計三国志伝 余象斗本 万暦20年(1592年) 20巻 双峰堂(余象斗) あり 花関索 あり 建仁寺・ケンブリッジ大学・ヴュルテンブルク州立図書館・オックスフォード大学・大英博物館
新刻音釈旁訓評林演義三国志史伝 朱鼎臣本 不明 20巻 双峰堂(余象斗) あり 花関索 あり ハーバード大学燕京図書館・ロンドン博物館
鍾伯敬先生批許三国志 鍾伯敬本 天啓~崇禎年間? 20巻120回 積慶堂 なし 関索 あり 東京大学・天理大学
四大奇書第一種 毛宗崗本 康煕5年(1666年)? 19巻 愛日堂 あり 関索 なし
李笠翁批閲三国志 李漁本 康熙18年(1679年)? 120回 不明 あり 関索 あり 北京図書館・京都大学・パリ国家図書館
発行者・発行年などの書誌情報は失われている場合が多いが、以下のような要素を材料に、系譜関係を推測できる。

繁簡の別
明代の長篇小説は、精細な叙述で詩詞を交えた「文繁本(繁本)」と、文章を簡略化して挿絵を入れるなどした「文簡本(簡本)」に大きく分けられることが多い。『演義』でも『水滸伝』『西遊記』と同様、先に繁本が成立し、そこから文章量を削減した簡本ができたと見られる。
李卓吾の批評
李贄(字は卓吾、1527年 - 1602年)は、偽りのない心を尊ぶ童心説で知られた陽明学者で、低俗と見られていた小説を高く評価した。経書や詩文を至高の文学としていた旧来の儒教的価値観から逸脱していたため、迫害され獄中で自殺したが、出版業界では通俗文学を評価した李卓吾の名声は高まった。そのため小説の中に李卓吾の名を使った批評をつけて、売りにすることが流行した(実際には葉昼などの文人が李卓吾の名を騙ったもの)。後に日本へもたらされた呉観明本をはじめ、緑蔭堂本・蔡光楼本などが書名に「李卓吾先生批評」と冠しており、まとめて李卓吾評本系と呼ばれる。
ほかに、李卓吾の思想系譜を引く竟陵派の鍾惺(伯敬)の名を冠した鍾伯敬本もある(これも鍾惺本人の注釈ではない)。
巻数・章回
嘉靖本以来の『演義』は全240則(則は話のまとまり。葉逢春本では段と称する)から構成され、20巻本では12則が1巻、24巻本では10則が1巻となっていた。各則には短い題名がつく(ただし第○則とか第○段といった数字表記はない)。ところが『水滸伝』などの影響により、李卓吾評本ではこの構成を、2則を併せて1回とし、全120回とする構成に変更した。章立てを「第○○回」と数字で呼称することから「章回小説」と呼ぶ[※ 13]。
後の毛宗崗本では、さらに各回の題名を対句的表現とし、各回の最後に「○○如何、且聴下回分解(続きはどうなるか、次回をお聞きあれ)」という講談形式の台詞を挿入している。
関索説話の有無
前述の通り、刊本によって関羽の子関索が登場しないもの、登場する場面が違うものがある。便宜上、孔明の南征に関索が従軍するものを関索系、荊州の関羽の元に母を伴って現れるものを花関索系と呼ぶ。
周静軒詩の有無
周礼(号は静軒先生)は、弘治年間に在世したと推定される杭州の在野の歴史家で、『演義』で描かれる歴史的事件について多くの詩を詠み、それらが挿入された刊本も多い。周静軒の詩が挿入された最初の刊本は、1548年の葉逢春本で、嘉靖本には見えない。その後多くの刊本でそのまま受け継がれたが、毛宗崗はこれを削除している。
まず、各種刊本は大きく3つの系統に分けられる。最も分かりやすい違いは改則の箇所(どこで次の則に移るか)である。たとえば帝号を称した袁術が呂布を攻めて破れた場面(毛宗崗本では第17回に相当)は、内容自体にはあまり相違が無いが、改則している箇所を見ると、嘉靖本では曹操の使者が江東を訪れ孫策が兵を起こそうと考える場面、余象斗本では袁術が呂布に敗れて逃げた際に謎の軍(実は関羽)が現れたという場面、朱鼎臣本では陳珪が陳登に楊奉・韓暹を呂布から引き離した真意を語る場面で、それぞれ則が改まっている。毛宗崗本を除くすべての刊本は、以上の3種類のいずれかで改則しており、これによって分類できる[59]。

1つ目のグループは嘉靖本を含む、主に南京(金陵)の書店から発刊された24巻立て(あるいは12巻立て)のテキストで、これを「二十四巻系」と呼び、周曰校本や李卓吾評本などが含まれる。改則箇所は異なるが、他の要素を注意深く見ると毛宗崗本もこのグループに近いことが分かる。その他は、主に福建(建陽)の書店から発刊され「三国志伝(史伝)」の名が特徴的な20巻立てのもので、余象斗本を中心として鄭少垣本・楊閩斎本など文章が詳細なグループ(「二十巻繁本系」と呼ぶ)と、朱鼎臣本・劉龍田本・楊美生本など文章が簡略化されたグループ(「二十巻簡本系」と呼ぶ)に分けられる。この時期、南京と福建の書店は出版戦争とも言うべき激しい商戦を繰り広げており、余象斗や朱鼎臣といった福建の書林は『演義』に限らず『水滸伝』や『西遊記』においても、南京の書店に対抗して独自の増補や工夫を施して他と差別化を図った意欲的な業者として知られる[※ 14][60]。これら福建の二十巻系は、繁本系・簡本系ともに嘉靖本より前の抄本の古い内容と見られる内容が残る。一方嘉靖本と同じグループの二十四巻系諸本も、嘉靖本から直接進化したのではなく、それより古い抄本を参照した形跡がある。これらの流れをまとめると以下のようになる。


演義各種刊本の系譜(中川1998より作成)
原「三国演義」成立後、『演義』が抄本形式で広まった段階で、史書によって修訂されたものとそうでないものに分かれた。修訂を経た方で早く刊本になったのが嘉靖本であり、それにいくつかの説話や周静軒の詩を挿入したのが周曰校本などにつながる。一方、修訂を経ないテキストにも周静軒詩が挿入された。このうちの一つが葉逢春本である。そしてその中で文章を簡略化したものとしていないものに分かれ、簡略化していない方に花関索説話を挿入したものが二十巻繁本系、簡略にしたものに関索説話を挿入したものが二十巻簡本系につながる。万暦年間に二十四巻系諸本で李卓吾批評と称する注釈を入れたものが現れ、章回分けが行われたのが李卓吾評本である。この李卓吾本の流れから清代に入り、史実を重視して虚構を削ったものが毛宗崗本となる[61]。

毛宗崗本の成立
毛宗崗(中国語版)(字:序始、号:孑庵)は長洲(現在の蘇州)の人で生没年は不詳。父の毛綸(声山)は『琵琶記』の批評を行った人物である。同郷の師に『水滸伝』に大胆な改変を加えたことで知られる金聖歎がいたともいう[62]。父の毛声山は李卓吾本を元に各書を取捨選択し、『演義』の改訂に取り組んでいた。毛宗崗はそれを引き継いで、記事や文章の誤りを正し、自らの評価を挿入して毛宗崗本を完成させた。成立時期は康煕5年(1666年)以降であるという[63]。首巻には金聖歎に仮託した序文[※ 15]と「凡例」「読三国志法」および目録・図録を収める。「凡例」は毛宗崗が底本とした李卓吾評本からどの部分をどういった方針で修正したかを説明したもの、「読三国志法」は毛宗崗自身による『演義』の解説である。

毛宗崗は校訂にあたって、なるべく史実を重視し、それまでの刊本に採録されていた花関索説話などの荒唐無稽な記述や、周静軒の詩を削除する方針をとった。たとえば毛宗崗が削った逸話に「漢寿亭侯」故事がある。関羽が曹操に降った際、曹操から寿亭侯の位を与えられたが、関羽が不満と聞くと、曹操がその上に「漢」の一字を追加して「漢寿亭侯」とした。関羽は「曹公は私の心を分かっておられる」と喜んだという逸話である。関羽の漢(=劉備)に対する忠節を示す話であるが、実際には関羽は「漢寿」という土地(現在の湖南省常徳市漢寿県)に封じられたものであり、漢と寿を切り離す話には無理がある。[※ 16]しかし元明代にはむしろ「漢・寿亭侯」の解釈の方が一般的であった[※ 17]。史実を重んじる毛宗崗は、この話を採用せず削除してしまうが[66]、それ以前の刊本には収録されていたため、李卓吾本を輸入・翻訳した日本では[※ 18]、この説話が残り、広く知られている。

逆に史実ではないのに毛宗崗が挿入した逸話に「秉燭達旦」がある。曹操が関羽の心を乱すため、劉備の二人の夫人と同室に泊まらせたが、関羽は燭を取って戸外に立ち、朝まで一睡もせずに警備したため、曹操はますます関羽に感心したという話で、明刊本の本文中には見られない(周曰校本では註釈で触れている)。博識で有名な学者胡応麟は、『荘岳委譚』の中でこの話は正史にも『綱目』にも見られない虚構の話だと断じたが、毛宗崗は「通鑑断論」に基づいてこの話を入れたという。通鑑断論とは元代の学者潘栄の『通鑑総論』のことで、明代の『綱目』刊本にはこの通鑑総論を冒頭に附録しているものが多かった[68]。毛宗崗が校訂にあたり『綱目』に依拠していたことが推測される。また、赤壁の戦い時に徐庶が離陣する際の名目であった西涼の不穏は、李卓吾本では馬超が原因であったが、毛宗崗は馬騰に置き換えている。

毛宗崗本は既刊刊本の中で、いわば決定版と見なされ、清朝一代をかけて徐々に他の刊本を駆逐し、古い刊本が国内で廃棄・消尽され、日本をはじめ外国に多く伝存するという状況を導くことになる。清末には、ほぼ『演義』といえば毛宗崗本のことを指すという状態となり、現在に至る[69]。清代に特定の刊本が突出し、他の刊本が整理・淘汰されるのは『水滸伝』(金聖歎本)や『西遊記』(西遊真詮)でも似た傾向が見られる。

主要人物の造形
毛宗崗は自ら書き下ろした解説「読三国志法」で、『演義』の登場人物の中から、3人の卓絶した人物を選び「三絶」と称賛している。それは古今の賢相の第一たる諸葛亮(智絶)、古今の名将の第一である関羽(義絶)、そして古今の奸雄の第一とする曹操(奸絶)の3人である。ここではその特別に作り込まれた三絶をはじめ、主要な登場人物について『演義』に至る人物像の形成過程を概観する。

関羽
歴代皇帝による関羽への追諡の変遷
王朝 皇帝 年代 関羽に与えられた諡号・神号
蜀漢 後主 景耀3年(260年) 壮繆侯
北宋 徽宗 崇寧元年(1102年) 忠恵公
北宋 徽宗 大観2年(1108年) 武安王
北宋 徽宗 宣和5年(1123年) 義勇武安王
南宋 高宗 建炎2年(1128年) 壮繆義勇王
南宋 孝宗 淳熙14年(1187年) 壮繆義勇武安英済王
元 文宗 天暦元年(1328年) 顕霊義勇武安英済王
明 憲宗 成化年間 壮繆義勇武安顕霊英済王
明 神宗 万暦42年(1614年) 三界伏魔大帝神威遠鎮天尊関聖帝君
明 熹宗 天啓年間 三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君
清 高宗 乾隆年間 忠義神武霊祐関聖大帝
清 仁宗 嘉慶18年(1813年) 忠義神武霊祐仁勇関聖大帝
清 宣宗 道光年間 忠義神武霊祐仁勇威顕関聖大帝
清 文宗 咸豊2年(1852年) 忠義神武霊祐仁勇威顕護国関聖大帝
清 文宗 咸豊3年(1853年) 忠義神武霊祐仁勇威顕護国保民精誠綏靖関聖大帝
清 穆宗 同治9年(1870年) 忠義神武霊祐仁勇威顕護国保民精誠綏靖翊徳関聖大帝
清 徳宗 光緒5年(1879年) 忠義神武霊祐仁勇威顕護国保民精誠綏靖翊賛宣徳関聖大帝
関羽(字:雲長)は『演義』で「義絶(義の極み)」と絶賛される人物である。関羽の人物像は、長い歴史を経て作り出されたもので、『演義』の時代すでに道教では神として祀られていた。しかし義絶と称される程の義人となるのは『演義』における最終的な演出・造形が関わっている。

神格化される関羽
正史『蜀書』における関羽の伝記は、巻6にまとめられた武臣の筆頭として収載されているが、その分量はわずか953字にすぎない[70]。陳寿は、剛情で自尊心が高すぎるという関羽の短所も指摘しており、まだ神格化はされていない。裴松之はこれに761字の注釈を補うが[71]、呂布の部下秦宜録の妻を娶ろうと曹操に懇願する好色な姿(『魏氏春秋』)も描かれている。南北朝期に発展した初期道教において、当時の道教の神々を整理した陶弘景の『真霊位業図』において、俗世で功績のあった人物が冥界の官吏として挙げられているが、劉備・曹操・荀彧・諸葛亮・司馬懿・徐庶などの名はあっても、関羽・張飛など武臣の名は見られない[72]。ただし同じ陶弘景の『古今刀剣録』では、関羽が自ら山で鉄を取り「万人」と銘した刀を作ったという伝説を記す[73][※ 19]。

関羽が初めて神として祀られたのは唐代である。ただし道教ではなく仏教においてであった。玉泉寺(湖北省)で仏を守護する伽藍神となり、顕烈廟に祀られた。貞元18年(802年)に董挺が著した「重修玉泉寺関廟記」によれば、開山の智顗(天台宗開祖)が、当地で死んだ関羽の亡霊のお告げを得たとし、顕烈廟が玄宗代に建立されたことを記している[74]。南宋の『仏祖統紀』では智顗の前に現れた関羽の霊が、仏法に帰依したいと請い、智顗が煬帝に奏して、関羽を「伽藍神(伽藍菩薩)」に封じたとしている。

一方、五代から北宋にかけて、道教では元帥神という武神の信仰が広まる(『道法会元』)。北方守護の趙元帥(趙公明)、東方の温元帥(温瓊)、西方の馬元帥(馬霊官)とともに、関羽は南方を守護する関元帥として四大元帥に数えられるようになる。元帥神は武器と騎乗動物がセットとして祀られ(趙元帥なら鉄鞭と黒虎)、青竜刀と赤兎馬の組み合わせができたものと考えられる[75][※ 20](ただし道教の中で元帥神の地位は高くなかったため、明清期に関羽の地位がさらに高まると、次第に四大元帥からは外されるようになった)。

財神としての関羽
現在でも関羽は中国国内においても、世界各地の中華街でも、「財神」として崇拝されている。本来、地方政権の一介の武将でしかない関羽が、財神として崇敬されるようになったのは、山西商人(晋商)の活動が大きく影響している。

元々関羽の故郷である山西省の解県には、塩湖である解池があり、古来より内陸部において欠乏しがちな生活必需品である塩を供給する中国最大の生産地であった。漢代から塩は国家の専売とされたが、取引はもっぱら製塩業者や商売人が請け負った(詳細は中国塩政史を参照)。これらの中から晋商(山西商人)と呼ばれる大商人が現れる。彼らは元は山西省・陝西省出身の商人・金融業者であり、五代以降に頭角を現し、明代にピークを迎えた。南方の新安商人(徽商)とともに明・清時代には二大商業勢力にまでなる[76]。彼ら山西商人は、同郷の偉人である関羽を守護神として崇拝していた。関羽信仰の主体が商人であったことが、武将関羽が財神に変化した原因となる。

宋代には、北方の異民族(契丹・西夏・女真)との抗争により軍事費が飛躍的に増大し、実に税収の五割が塩税で占められる。国家から徴税後の塩の取引を認められていた山西商人たちは、朝廷権力とも癒着したため、彼らの関羽信仰も朝廷の官僚や軍人にまで影響していく。次第に宋朝では、北方民族との戦いに際して、関羽に祈りを捧げるようになった[77]。特に北宋末、金の擡頭により軍事的緊張が高まると、時の徽宗皇帝は関羽を忠恵公に封じ、その後義勇武安王まで昇格させて、宋軍への加護を祈った(右表)[78]。徽宗はまた道教への傾倒も著しく「道君皇帝」と称された皇帝でもあった。山西商人から崇拝され、道教でも元帥神となっていた関羽は、国家からも公式に軍神としての地位を認められたことになる。その後、王朝が交替しても関羽に対する顕彰は続き、神としての地位を上げ、『演義』が成立した後はその影響もあり、明末にはついに帝号まで与えられることとなった。

演義における関羽
『演義』では、関羽の武や義を強調するため、様々な工夫が施されている。まず本来別人が挙げた功績を関羽に移し替える作業である。たとえば董卓の部将華雄を斬る功績は本来孫堅のものであったが、これを関羽に移し替えて「温酒斬華雄」という名場面に転換した。群雄の前での鮮やかな関羽のデビュー戦として演出し、読者に関羽を印象づけるとともに、曹操が関羽の武に惚れ込む伏線として機能させている[79]。また曹操に降った関羽が白馬の戦いで袁紹の部将顔良を斬ったことは正史にも載るが、その後さらに文醜まで関羽が斬ったとするのは(『平話』から受け継がれた)創作である。武神・軍神として関羽の武を強調する作為である。

忠義の将としての姿は「千里走単騎(嘉靖本では千里独行)」で典型的に語られる。一時曹操に降伏していた関羽は、袁紹軍に身を寄せている旧主劉備の下に参ずるため、曹操から受けた栄典をすべて返上し、劉備夫人を護衛しながら、行く手を塞ぐ5つの関門で6人の将を斬る。正史ではわずか30字しか記述がないが、『演義』では関羽の忠節を強調する物語として大々的に発展させた。なお嘉靖本の千里独行では関羽に対して「関公」という呼称が使われ、それ以外の部分にはほとんど使われないため、この逸話は後から三国物語に挿入された可能性が高く[80]、全篇に渡って「関公」と表記されることが多い『平話』との関連性がうかがえる[※ 21]。ただし『平話』の段階では関羽が曹操に別れを告げた出発地が長安とされていたのに対し、『演義』ではつじつまを合わせるため、許都に改められている[※ 22]。この逸話の挿入により、関羽の劉備に対する忠義と、曹操の関羽に対する惚れ込みようがさらに強調された。

そして関羽の義将たる側面が最大限に発揮される名場面が「華容道」である。赤壁の戦いにおいて諸葛亮は、関羽が以前曹操から恩義を受けていたことを知りながら曹操の追撃を命じた。しかし関羽は華容道で敗残の曹操とまみえると、情義からあえて曹操を見逃すのである。それまで丁寧に叙述されていた関羽と曹操の因縁を伏線として形成された非常に感動的な場面であり、毛宗崗も総評でこの場面における関羽の義を絶賛している[83]。正史や裴注にはこのような場面は全く存在せず、『平話』では関羽が曹操と鉢合わせした際に謎の霧が立ちこめ、曹操はそれに紛れて逃げたとするのみで、何の感動もない。すなわちこの段は関羽の義を強調するために、『演義』編者によって最終段階で挿入された創作なのである[84]。魯迅は『中国小説史略』でこの場面を「孔明の描写は狡猾さを示しているだけだが、関羽の気概は凛然として、元刊の『平話』とは格段の差がある」と絶賛し、王国維も「文学小言」でこのくだりを「大文学者ならでは為し得ない」と賞賛している[85]。「義絶関羽」の人物造形は、『演義』編者にとって最も思い入れが込められた産物であった。

これ程までに称揚された関羽は、非業の最期を迎えた後、まさに「神化」する。呂蒙の計略で捕らえられ、孫権に処刑された関羽は「顕聖(神として姿を現す)」し、ともに死んだ関平・周倉とともに、普静和尚の前に姿を現す。そして勝利の宴を祝う呂蒙に取り憑いて、呪い殺すという神罰をくわえ、さらに首となった後に曹操の健康まで害する(第77回)。こうして義絶・関羽は文字通り神となった。『演義』の影響でさらなる"関聖帝君"への崇拝を生み、現在も世界中の関帝廟で祀られている。

諸葛孔明
劉備を支えた諸葛亮は「智絶(智の極み)」と称された天才軍師である。物語中の孔明は軍師・参謀という枠を超え、むしろ神仙・魔術師的な活躍まで見せる超能力者として描かれる[※ 23]。『演義』では全篇を通して劉備(玄徳)と諸葛亮(孔明)のみは、姓名より字で呼ぶことが多く、主人公的な視点すら与えられている。また、関羽も「雲長(字)」「関公」と呼ぶことで、いずれも諱を避ける敬意を示
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2022/12/20 (Tue) 22:51:05

諸葛孔明
劉備を支えた諸葛亮は「智絶(智の極み)」と称された天才軍師である。物語中の孔明は軍師・参謀という枠を超え、むしろ神仙・魔術師的な活躍まで見せる超能力者として描かれる[※ 23]。『演義』では全篇を通して劉備(玄徳)と諸葛亮(孔明)のみは、姓名より字で呼ぶことが多く、主人公的な視点すら与えられている。また、関羽も「雲長(字)」「関公」と呼ぶことで、いずれも諱を避ける敬意を示されている。

しかし史実における諸葛亮は、中途から劉備陣営に加わって以降、演義のような神がかりの活躍をみせることはない。赤壁の戦いでも外交面以外の活躍はほとんど見られない。「忠武侯」という諡号を与えられ三国志成立以前の魏呉の史書[※ 24]でも大きく評価されていたにも関わらず、正史における陳寿の諸葛亮評は、制約された条件下で最大限政治能力を発揮した能吏としてのものであり、「然れども連年衆を動かし、未だ成功する能はず。蓋し応変の将略はその長ずる所に非ざるか」とあるように、その軍事的な才能は疑問視していた。ところが陳寿の評は受け入れられず[※ 25]、東晋時代以降に蜀漢正統論が提起されるようになると、最期まで「聖漢」(儒学者の理想国家としての漢王朝)の一統を目指して戦った諸葛亮の評価も上がっていく。

軍事カリスマとしての孔明
正史での陳寿の評価に反して、南北朝から隋唐にかけ、諸葛亮の軍事的才能がさらに賞賛されるようになった。北周王朝(556年 - 581年)の基礎を築いた宇文泰は、諸葛亮の軍才を敬して部下に「亮」の名を与えており[86]、また『演義』にも登場する「八陣之法[※ 26]」や「木牛・流馬[※ 27]」などが、孔明の発明したものとして語られるようになる[87]。唐代に至ると、名君太宗(李世民)の諫臣として『貞観政要』でも知られる魏徴すらも諸葛亮に劣ると評され[88]、その軍才はいにしえの孫子・韓信や唐建国の功臣李靖・李勣と並んで名将ベスト10に名を連ねるまでとなった[88][89]。関羽と同様、南宋においては「威烈武霊仁済王」に封じられ、国家の守護神の一人に数えられている[90]。

また朝廷とは別に、民間においても同時に孔明の軍略を讃え、神秘化する傾向が強まる。前述の通り、唐代に寺院で語られた俗講で三国説話が語られたが、その中では蜀の軍事行動がすべて諸葛亮に結びつけられており、軍師としてだけでなく、その知謀を際立たせるために能力の神秘化までが進んでいる[91]<[22]。

忠臣としての孔明
蜀漢正統論の高まりとともに、忠義の士としての諸葛亮の再評価も進んだ。劉備は死にあたり、病床で諸葛亮に息子の劉禅を托し「我が子に才能なくば君が取って代われ」と遺言したと正史にある。しかしそれにも関わらずあくまで劉禅を主君として奉り、不倶戴天の敵である魏を攻め続けたことは、忠義を尽くした行為として賞賛された。上述の通り杜甫が諸葛亮を讃える詩を詠んだことに見られるように、隋唐時代にはすでに忠臣諸葛亮の評価は高まっていた。

諸葛孔明を「聖漢の忠臣」として改めて再評価したのは、蜀漢正統論を強調した南宋の朱熹であった。朱熹の評価では劉璋をだまして蜀の地を奪ったこともすべて劉備の責任として押しつけ、孔明を「三代(夏・商・周)以来、義によって国家形成を目指したただ一人の人物」とまで絶賛している(『朱子語類』巻136)[92]。これには華北・中原地域を金という異民族王朝に奪われ、その奪回を国是とした南宋の置かれた立場も反映していると見られる[93]。中原回復のための北伐途中に死去した孔明は、朱熹にとって国家の理想を反映する英雄であった。

神仙としての孔明
このような軍事・道徳両面での高評価に加え、孔明には道教の仙人的なイメージが附加されていた。奇しくも三国時代に始まった原始道教(天師道)は、六朝時代以降に発展し、清廉で俗世から遊離した仙人・道士のイメージが知識人層に浸透した。若くから晴耕雨読の生活を送っていた孔明もまた、神仙的な色合いで語られるようになる。後述する葛巾・毛扇という道士的な衣装や、出身地の琅邪が天師道のメッカであり、始皇帝時代の徐福や孫策を呪った于吉など、古代より多くの方士を生み出してきた土地であることも、諸葛孔明と方士~道士~神仙イメージを結びつける一助となった[94]。『平話』では、諸葛孔明の登場時にはっきりと「元々は神仙である」と言明し、超常的な魔術師として扱われている。

『演義』で孔明は、赤壁の戦いにおいて超人級の活躍をする。本来の勝利の立役者である周瑜を完全に脇役へ追いやり、その軍略的天才を発揮するだけでなく、『奇門遁甲天書』に基づき七星壇に祈ることで風をも自在に操る魔術師の姿を見せる。「借東風」はすでに『平話』でも描かれており、風を祈るという魔術師的な孔明像は、講談の中でできあがったものであろう[95]。さらに南蛮征伐の段では、器械仕掛けの猛獣を作製し、羽扇で風向きを変えるなどのオーバーテクノロジーを駆使し、孟獲を七回捕らえ七回釈放(七縦七擒)するという離れ業も見せる[※ 28]。

孔明最後の仕事となる北伐においても、敵軍にわざと隙を見せる空城の計[※ 29]や、木牛・流馬なる摩訶不思議な器械[※ 30]で、魏軍を率いる司馬懿を翻弄した。そして超能力者・孔明の最後の魔術は、星座を観察して死期を悟り、北斗星に祈って自らの延命を図る段(第103回)である。この祈りは魏延の不注意で中断されてしまい、延命はできなかったが、かねて反目していた魏延と孔明の関係を利用し[※ 31]、後に魏延が乱を起こすことの伏線として巧みに配している。さらに超人孔明は死後すらも神通力を発揮した。孔明の死に乗じて攻め寄せた司馬懿を退ける兵法を遺し「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」ことに成功する。この「死諸葛走生仲達」は裴注に引く『漢晋春秋』が初出だが、楊儀・姜維らが司馬懿を迎撃したことに対し、孔明の軍令が行き届いていたことを讃える言葉であり、『平話』も同様だった。ところが『演義』においては、生前の孔明が「我が屍体の口に米七粒を含ませ、足下に行灯をともせば、我が将星は落ちまい[※ 32]。」という道教儀式的な指示を出していたことにし、木像を用いて魏軍にまだ孔明が生きている様に思わせるという、大がかりな魔術で「知絶」の奇才を締めくくっている。加えて生前に魏延の叛乱[※ 33]をも予見し、馬岱に秘策を授けておくなど、死後まで道教的な神秘性を帯びた「知絶」の超人として描かれたのである。

曹操

曹操
曹操(字:孟徳)は「奸絶(奸の極み)」と称される『演義』最大の悪役である。毛宗崗があえて悪役を三絶の一人に数えたのは『演義』における曹操の存在感と、毛宗崗の分析の鋭さを物語る。曹操が『演義』最大の悪役となったのは、主人公たる劉備の前に立ちふさがるライバルであること、漢王朝を終わらせた簒奪者であること、そして宦官曹騰の孫という出自などに起因する。『演義』は曹操初登場シーンの紹介で、宦官の家系に生まれたことを記す。毛宗崗は「このような生まれの曹操が景帝の玄孫である劉備と同列に語れようか」と註釈で誹謗している[98]。

奸雄化の過程
陳寿は、曹操が基礎を築いた魏を継ぐ晋に仕えた史官であるため、曹操に不利益な記述を行うことはなく、正史では曹操はまだ悪玉ではない。しかし当時から曹操の良くない噂は広まっていたようで、裴注の段階では様々な逸話が記載されている。たとえば孫盛の『異同雑語』には当時人物評で知られた許子将が、曹操を「治世の能臣、乱世の姦雄」と評し、それを聞いた曹操が大笑したという逸話を載せる[※ 34]。また、呉側の資料である『曹瞞伝』(作者不明)には、敵国から見た曹操の悪評が記録されている。幼少の日の曹操が、悪行を咎める叔父を中風の振りをして欺く話(第1回)、行軍中「麦畑に足を踏み入れた者は死刑」と布告を出したにもかかわらず、みずからの馬が麦畑に入ってしまった時に、髪を首の代わりに切って切り抜けた話(第17回)など、『演義』に取り入れられた逸話は多い。

この時期における曹操の「悪玉化」を物語る逸話がある。正史は中平6年(189年)董卓の暴政に反撥した曹操が洛陽を密かに脱出し、名前を変えて故郷へ急ぐ途中、中牟(現河南省鄭州市)を通過する際、亭長に捕らえられた後に釈放されたと記す。この件に対し、裴注では以下の3つの異聞を併記する[99]。

太祖(曹操)は数騎の供を連れ郷里へ逃げ帰る途中、成皋の呂伯奢の家に立ち寄ったところ、呂伯奢は留守だったが、その子たちが食客と組んで太祖を脅し、馬と荷物を奪おうとしたため、太祖は自ら刀で討ち殺した。
— 王沈(魏)、『魏書』
太祖は呂伯奢の家に立ち寄ったところ、呂伯奢は外出していた。5人の子は太祖を客として礼儀を尽くした。しかし太祖は自分が董卓に背いたため、彼らが自分を始末するのではないかと疑い、剣を振るって夜のうちに8人を殺害して去った。
— 郭頒(西晋)、『世語』
呂伯奢の子たちが太祖をもてなそうと食事の支度をしている時、太祖は食器の音を聞いて自分を殺そうとしているものだと思い込み、夜のうちに彼らを殺害した。後に過ちに気づいたが「わしが他人に背くことはあっても、他人がわしに背くことはさせぬ」と言って去った。
— 孫盛(東晋)、『雑記』
魏の王沈は建国の祖たる曹操への遠慮もあり、あくまで曹操の正当防衛という目線で描く。それに対し、西晋の『世語』では曹操の猜疑心が強調され、悪人性が浮上してくる。さらに東晋代になると孫盛は曹操の姦雄性を象徴する名台詞「寧我負人、毋人負我」を盛り込み、さらなる非情さを強調している。裴松之は以上3種の異聞を併記するだけだが、時代を経るに従って小説的な脚色が加えられていく過程が如実に見て取れる[99]。『演義』ではこれらをさらにふくらませ、酒を買いに行っていた呂伯奢までも追走して殺す展開とし、さらに事件の観察者として元中牟県令の陳宮を配することで、曹操の残虐性を解説する恰好のエピソードに昇華させた[※ 35]。この陳宮と曹操の因縁は、後に陳宮が曹操に叛し、さらに捕らえた陳宮の命を曹操が惜しむ場面への伏線としても利用されている[101]。

世説新語における曹操
東晋時代に成立した、当時の逸話や噂を集めた『世説新語』でも曹操のずる賢さが強調される。「仮譎篇」には狡知に長けた者が他人を欺く逸話が収められているが、曹操にまつわるエピソードが多い。曹操がのどの渇きを訴える兵士に対し、前方に梅林があると騙して唾を生じさせ、渇きを癒した話なども『平話』で取り入れられ、『演義』にも採用された(第21回)。また『演義』第72回で曹操の「自分の眠っている時に人が近づくと、無意識に斬ってしまうから気をつけよ」という言葉を無視した側近が、寝たふりをしている曹操に布団をかぶせて斬り殺されたという逸話も「仮譎篇」が由来である。

同じく第72回には曹操が普段から憎んでいた小才の利く楊修を処刑した逸話を載せる。きっかけは漢中攻略に失敗した曹操がつぶやいた「鶏肋」という語を楊修が勝手に解釈したことに曹操が激怒したためであるが[※ 36]、それ以前から曹操が楊修を憎んでいた原因として『演義』ではいくつかの逸話を挙げる。部下に作らせた庭園を見た曹操が門に「活」と一字だけ書いて去ったのを楊修が「闊(ひろい)」と看破し「庭が広すぎる」意味だと周囲に解説した件、また酥(乳製品)の瓶が献上された際に曹操が蓋の上に「一合酥」と書いたのを楊修が「一人一口の酥」と解読した件などを曹操が小癪に思ったという。これらはいずれも『世説新語』「捷語篇」に由来する逸話である[102]。このような逸話群により、曹操=小ずるい英雄のイメージが六朝時代に定着しつつあったことが見て取れる。

漢の敵としての曹操
『演義』における曹操は、小ずるい悪党どころか、奸絶と称されるほどの巨悪として君臨する。これは上記のような曹操の詐譎という性格のみによるものではなく、『演義』を最終的に完成させた儒教的知識人の、曹操への評価が反映されたものである。

曹操は、後漢時代の儒教的名士である「清流」と対立し、目の敵とされた濁流=宦官の孫であり、また最終的な漢朝の簒奪者でもある。曹操自身は自らを周の文王になぞらえ[※ 37]、簒奪には及ばなかったが、曹操の死の直後に子の曹丕が献帝に禅譲を強要して魏を建国したことから、漢を聖徳王朝と見なす儒教的観点から見れば悪そのものだった。また曹操は後漢王朝で官吏登用基準とされた儒教的道徳よりも、個人の才覚を重んじた。曹操が発した求賢令(210年)は「才能がある者なら下賤の者でも道徳なき者でも推挙せよ」という唯才主義を前面に押し出したものである。さらに儒教に変わる新たな価値観として、文学を称揚して建安文学を主導し、一方で儒教的名士である孔融や楊修を殺した。こうした曹操の言動は儒教的価値観から見れば異端以外の何者でもなく、激しい批判の対象となった[103]。

それゆえに『演義』で強調される曹操の残忍性・狡猾性は、儒教の忠節の対象であり、理想化されていた漢王朝の皇室に対しての行為に顕著に現れる。第20回では許田で狩猟を行った際に、献帝の獲物を曹操が平気で横取りし、憤慨した関羽が曹操を殺そうと息巻いて劉備に抑制される(後の華容道の場面との対比となっている)。また第66回では、伏完の造反計画が露呈した際、捕らえられた娘の伏皇后に対して曹操自らが罵倒し、その場で打ち殺させるという残忍さを見せ、毛宗崗も註釈で痛憤している。この件は裴注の『曹瞞伝』を元に作られた場面であるが、曹操自らが皇后を罵倒して殺害させたとするのは『演義』の創作である。こういった漢室への悪行は、ライバル劉備が漢室の末裔という高貴性を受け継いでいるのと対照的に、ことさらに簒奪者としての悪印象を植え付けるための措置でもある[104]。『演義』編者にとって王朝簒奪は許し難い悪行であり、憎悪の対象は曹操のみならずその臣下にまで及んだ。たとえば献帝から曹丕への禅譲が行われた際に、皇帝の璽綬を奉戴する役割だった華歆は、正史では清廉潔白・謹厳実直な能吏として記述されているが、『演義』では正反対の卑賤陋劣な人物として曲筆されている[105]。

悪の面を強調する一方で、長所を削ぎ落とすことも行われた。正史や『通鑑』には、魏臣が曹操を褒め称えたり、曹操が過去の因縁に囚われず敵方にいた武将を抜擢・重用する記述は少なくない。しかしそうした話も、全体の筋に関係がないものは、ことごとく削除されている(たとえば臧覇・畢諶・魏种らの登用など)[106]。とはいえ『演義』は、筋の展開に必然性がある場面であれば、史書に由来する曹操の優れた面の記載を排除することはしなかった。戦場で鮮やかな詩賦を詠み、外交や調略を駆使して馬超や張魯などの勢力を操る一方、陳宮の死に涙し、関羽や趙雲への思慕を隠さず、能力重視で人材を活用する姿勢など、文学者としての顔、スケールの大きな戦略家としての側面、人材を貪欲に求める名君としての魅力も随所に織り込まれている。これにより人物像に厚みが増し、曹操は単純な悪玉ではなく、主人公たる劉備や孔明らにとって、乗り越えるべき巨大な障碍として立ちふさがる「大いなる敵」としての存在感を持った人物として描かれた[107]。それこそ、曹操が「奸絶」と評されたゆえんである。

劉備

劉備
劉備(字:玄徳)は蜀漢正統論の主軸となる人物であり、関羽・張飛・趙雲・孔明といった文武の英雄を部下に持ち、特に前半の物語を牽引していく、主人公の役割を与えられた人物である。しかし『演義』では関羽や張飛のような武勇も、孔明や龐統のような知略も持たぬ凡庸な人物であり、長所である仁徳を発揮する場面でも、芝居がかった言動が多く善行が鼻につく。李卓吾本では玄徳のあまりに偽善的な行動や発言に対して容赦なく批判を浴びせており、毛宗崗に至っては目に余る偽善は削除や書き換えを行っているほどである[108]。しかも優柔不断で決断力に乏しく、大義よりも個人の情に流されることも多い、はなはだ魅力に乏しい人物像となってしまっている。そうなった理由は、玄徳を支える関羽や諸葛亮など文武の臣下が超人化したことと無縁ではない。

早くも南北朝から隋唐にかけて、軍師として諸葛亮が神格化された段階で、その行動に精彩を加えるため他の登場人物の価値が引き下げられ、特に諸葛亮の主君たる劉備の格下げが激しくなった[109]。唐代になると、俗講の中で諸葛亮は「主弱くも将強きは彼の難かる所と為る」と明言しており(『四分律鈔批』)、劉備の無力化が顕著となった。軍神たる関羽、破天荒な張飛、万能の孔明など、個性的な部下たちに活躍場所を奪われ、宋代の講談でも元代の演劇でも、臣下の活躍を見守る君主というおとなしい役を与えられるようになる。もちろん史実における劉備は、決しておとなしいだけの飾り物的君主ではない。たとえば正史先主伝では、劉備が博望に押し寄せた夏侯惇・于禁らを見事な計略で撃退したと記している。しかし『演義』ではこの戦いを諸葛孔明のデビュー戦と位置づけ、すべて孔明の策略に置き換えてしまった[110]。

このように周辺人物の個性化に伴って、本来の主人公たるべき人物が凡庸化・非力化・無個性化し「虚なる中心」に変化する現象は、同じ通俗小説である『水滸伝』の宋江、『西遊記』の三蔵法師などの形成過程でも共通して見られる[111]。とはいえ『平話』のように張飛や諸葛亮の超人的な活躍を描くだけでは面白味は増しても、三国の興亡を描くという物語構造は逆に弱まってしまう。それゆえに『演義』では蜀漢正統論に一本筋を通すため、「劉備の善」「曹操の悪」のコントラストをはっきりさせるべく、玄徳の仁君性・高貴性をことさらに強調することとなった[112]。

たとえば玄徳の特徴である福耳は、正史の蜀書先主伝に「振り返ると自分の耳を見ることができた」とある程度だった。これがさらに「両耳が肩まで垂れている」という観相学的な誇張がなされたのは、『平話』までには見られない『演義』での特徴付けであり[113]、釈迦や三蔵法師も同様の「垂肩耳」とされる。また同じく先主伝では、劉備が安喜県尉の時、督郵(監査役)を杖で殴ったという記事を載せるが、『演義』ではその主体が張飛に変更されたのも、『平話』の影響もさることながら、玄徳から粗暴性を払拭するためといえる[114]。

かたや財産に富む権力者を祖父に持つ曹操、かたや父や兄の地盤を受け継いだ孫権という、恵まれた環境にある2人のライバルを敵にまわし、漢王朝の末裔でありながら草鞋売りに身を落としている落魄の貴公子劉玄徳が、裸一貫から仁を強調して漢朝再興を目指すという構図は、民話の常套的な手法である"貴種流離譚"に通ずるという指摘もある[115]。こうした民衆レベルの物語と知識人レベルの蜀漢正統論が結びついた結果が『演義』における玄徳の人物像となったのである。

張飛

成都武侯祠の張飛像
張飛は、三国説話の世界をかき回す随一のトリックスターである。単純で陽性で破天荒、乱暴だが侠を重んじ、腕っ節も強いという分かりやすいキャラクターは庶民に広く愛され、『水滸伝』の李逵・魯智深や『西遊記』の孫悟空・猪八戒と同様、宋代の講談や元の雑劇では大人気であった。

正史における張飛伝の記述は800字に満たないが、「万人の敵」(魏書程昱伝)と称された武は有名だったらしく、敵方の劉曄伝や周瑜伝でも武勇を讃えられている。陳寿による関羽評が「士卒には優しいが、士大夫に対しては驕慢だった」とするにも関わらず、正反対に後世士大夫の崇敬を集めたのとは対照的に、張飛も「君子(目上の者)を敬ったが、小人(目下の者)には情容赦なかった」という陳寿の評とは逆に、小人=庶民の人気を集めていくこととなる[116]。すでに唐代の李商隠「驕児詩」で、子供が張飛の特徴を知っていたことは上述の通りである。説三分においても張飛は人気のキャラクターだった。

口承文学の英雄であったことは張飛の字の変化にも現れている。正史では字を「益徳」とするが[※ 38]、『平話』や、嘉靖本を除く『演義』ではすべて「翼徳」に作る[117]。益と翼は文字で書くと全く別であるが、発音は元代以降非常に近くなり[※ 39]、講談や演劇等の喋りでは区別されない。名の「飛」のイメージに引きずられて同音の「翼徳」で筆記されることが増え、元々同音誤字の多い『平話』でも記載され、『演義』各本にも踏襲されたものであろう[118]。

元末から明初にかけての雑劇の中には、「張翼徳大破杏林荘」「張翼徳単戦呂布」「張翼徳三出小沛」「莽張飛大鬧石榴園」など張飛を主人公とするものが多い。それらの中で張飛はいつも「莽撞(がさつで向こう見ず)」という形容詞をつけられている[119]。今日細部まで内容が残る三国雑劇23本全108幕[※ 40]のうち、張飛が歌唱者となっているのは、実にその1/4の27幕に達し、2位の関羽(15幕)を大きく引き離しており[120]、人気のほどがうかがえる。

講談の世界観を集大成した『平話』になると、張飛の活躍はほぼ主人公といえるまでにすさまじく、当時の張飛の大衆的人気を物語る。正史には劉備が督郵(監査役人)の横柄な態度に怒り、縛って鞭で打ち据え、自らの官印を督郵の首にかけて逃亡したという話が載るが、『平話』ではこの話の主役は張飛に代わり、腹を立てた張飛が督郵の崔廉を殴り殺したあげく死体を八つ裂きにし、劉備・関羽とともに太山[※ 41]へ逃げ込んで山賊になったという無茶苦茶な展開に変わる(『演義』では『平話』の行き過ぎた叙述を正史寄りに改めつつ、張飛が督郵を鞭打つ展開は残し、張飛の短気と劉備の仁愛、そして両者に助言する関羽の冷静さを描く逸話へ変貌させている[121])。さらに徐州で曹操に敗れ兄弟離散した際は、張飛は山賊大王となって「快活」なる独自年号まで立てた。また長坂の戦いでは曹操の大軍を前に、張飛が名乗りを上げると敵兵がひるんだという正史の記事を誇張し、張飛が雷鳴のような叫びをあげるとたちまち橋が真っ二つに断ち切れ、敵兵が驚いて30里も退却したという、とんでもない話に発展する。こうした話は文字にしてしまうと荒唐無稽に過ぎて興醒めするが、講釈師が抑揚をつけ面白おかしく語れば、聴衆から万雷の喝采を受けることができた。『平話』は語り物で受けを取る口調のまま、逸話が収められており、張飛はこうした講談と相性のいい英雄だったことがうかがえる[122]。

しかし士大夫層が加筆する段になると、儒教的道徳や礼教の枠から逸脱した張飛の破天荒な行動は、関羽や趙雲といった道徳的な英雄によって抑制されていく。『水滸伝』でも同様に、張飛的キャラクターである李逵は元の雑劇(水滸戯)で大活躍していたが、小説として完成する段階で、その活動は宋江や燕青といった良識的な人物に行動を制約されるようになった(小川環樹はこれらの無意識な圧力を「小説の儒教化」と呼ぶ[123])。この傾向は、より史実的な物語を追求した毛宗崗本においてさらに強まり、張飛のセリフで頻用される「我哥哥」(兄貴)という口語的な呼称が、毛本では「我兄」といった文言的表現に修正されている[124]。

『演義』が文言的小説として完成する段階で、削ぎ落とされていった大衆的な張飛像は、『笑府』や京劇といった口語的世界ではその後も生き続け、現在でも中国庶民の間で不動の人気を誇っている。

趙雲

頤和園長廊にある 長坂の戦いの図
『演義』完成段階における重要度の変化という意味で、張飛と好対照をなすのが趙雲(字:子龍)である。

趙雲は『演義』において蜀漢の五虎将軍に数えられる名将であり、その活躍や忠誠も関羽・張飛に匹敵する英雄として描かれる。しかし正史には五虎将軍という官職は実在しないうえ(蜀書巻6に「関張馬黄趙伝」と5人の武臣がまとめられていることから、後世に総称されただけのもの)、趙雲伝の記述はわずか246字に過ぎず、『演義』に見られる活躍はほとんど記載されていない。わずかに長坂の戦いにおいて幼い劉禅を保護したことが載るのみである。裴注に引く『趙雲別伝』に、わずかに桂陽太守趙範から未亡人の兄嫁との縁談を勧められるも怒って断った話や、定軍山の戦いの後帰陣しない黄忠の身を案じて出陣した趙雲が、包囲する敵兵を突破して救援し、劉備から「子龍は一身これすべて胆なり」と賞賛された説話が載る。しかし『平話』の段階に至っても、戦場での活躍などは他の武将からそれほど突出した印象はない。

趙雲は『演義』が完成する段階で、一躍英雄としての描写を増加させた人物だった。上記の黄忠を救う場面を採用するにあたり、『演義』は戦闘の描写に文学的技巧の精緻を尽くし、戦場における趙雲の華麗で鮮やかな動きを梨花にたとえる見事な場面に作り上げている[125]。ほかにも『演義』の段階で加えられた趙雲の活躍場面には高度な技巧的表現が用いられたり、忠義・実直・無欲な面が強調され「士大夫の理想的な」武将としての趙雲が描かれていることが多い。これらは張飛や孔明が語り物や演劇などの世界で培われた英雄なのに対し、趙雲は『平話』より後の、文学作品として完成する詰めの段階で造形され、知識人たちの倫理観による洗礼や、文学的なリライトといった技巧を施されて形成された英雄ということを物語るものである[126]。小松建男は『演義』の地の文で、場面によって「趙雲」「子龍」という異なる呼称が偏る傾向があることに注目し、「子龍」が使われる場面(劉備が孫権の妹を娶るために呉へ赴いた際に趙雲が従った話、桂陽太守の兄嫁を巡る話など)は、総じて倫理的・理知的で思慮深い側面を描くために挿入された、比較的新しい故事の可能性があることを指摘している[127]。

『演義』と同じく口承文芸や演劇から小説に発展した『水滸伝』においても、趙雲と同様の士大夫的倫理観を持つ英雄林冲の説話が最終段階で挿入された形跡があり(詳細は水滸伝の成立史#林冲像の形成)、白話文芸から文学作品として大成させる最終段階で、知識人が果たした役割を示している。

孫呉の人々
『演義』において魏・蜀漢とならび、もう一方の当事者である孫呉の人物たちの扱いは非常に軽く、取り上げられるにしても徹底した道化役であり、冷笑・蔑視を含んだものとなっている[128]。正史においても、呉の建国に関わった孫家一族や周瑜・魯粛・呂蒙といった将軍たちは比較的淡々と描写されており、魏や蜀漢に較べ扱いも軽い。それに対し、正史の註釈を挿入した裴松之は呉と同じ江南を本拠とした東晋の人物であり、若干呉びいきの傾向が見られ、呉書に対して多くの逸話を注釈として挿入している[129]。『演義』でも孫家は劉備・曹操と較べて影が薄く、呉の武将の描かれ方にもやや悪意を含む箇所が多い。ただし『演義』を校訂・整理した毛宗崗は孫堅父子のファンであり、毛本では"羅貫中"による孫一族に対する軽視・蔑視に対して、たびたび怒りを込めた批評を施している[130]。このように『演義』においては孫呉の人々は必要以上に小人物として描かれたり、また彼ら自身の功績を蜀の武将にすり替えられたりすることが多い。

たとえば孫堅は、第6回に洛陽で偶然入手した伝国の玉璽に狂喜し、袁紹らから所在を詰問されても白を切り通すなど、小人物として描かれている。孫策もまた短気な若者として描かれ、その最期も于吉を殺したせいで亡霊に翻弄されて衰弱死するという悲惨なものとなっている。孫策と于吉の話は正史には全く登場しないが、裴注に引く『江表伝』には孫策が于吉を殺したことが見え、同じく裴注にある怪異譚『捜神記』(干宝撰)に孫策が于吉の亡霊に祟り殺された件が載り、これを元に話を膨らませたものである[131]。『平話』に至っては孫策はほとんど名前しか登場しない。またさらに扱いがひどいのが呂蒙で、関羽の怨霊に呪い殺されるという惨めな最期が描かれる。

功績のすり替えについては、正史における孫堅の最大の殊勲である「華雄を斬る」も、関羽が行ったことに変更されている。また「孫権の船に敵の曹操軍から大量の矢を射られた際、矢が刺さって船の片側だけが重くなったため、船を反転して逆側にも矢を受けて船の重心が戻った」という逸話が裴注『魏略』に載るが[132]、「赤壁の戦いの前に周瑜に命じられて十万本の矢を敵から借りる」という諸葛亮の功績にすり替えられている[※ 42]。孫呉最大の見せ場である赤壁の戦いで活躍した本来の英雄周瑜や魯粛もまた『演義』においては、脇役・道化役として戯画化される。すでに『平話』の段階でも傾向は見られるが、『演義』の赤壁の戦いは、物語に登場したばかりの諸葛孔明の活躍場所として功績がすり替えられており、周瑜は孔明を引き立てる役のみ割り振られている。孔明に挑発されては怒り、その計略に陥れられる話が繰り返し語られ、荊州争奪に及んで怒りのあまり死亡してしまう。これらはすべて孔明の知謀を引き立たせるための演出である[134]。魯粛も孔明と周瑜の間を伝言するだけの道化として描かれ、関羽との外交交渉「単刀会」において、正論を吐く姿も、部下を叱咤する毅然とした行為も、すべて逆に関羽とすり替えられてしまっている[133]。

以上のような『演義』における呉の人物の扱いは、「第三極」という物語上での呉の立ち位置や、神格化された英雄関羽と敵対した史実に起因する。劉備・曹操という二極対立だけでは物語が単純になる。そこに第三極が加入することで、三者間の関係性のバリエーションは飛躍的に増加し、物語にも幅が加わる[135]。しかし『演義』を貫く対立軸はあくまで蜀と魏の間の抗争である(史実でも呉-魏、呉-蜀間はそれぞれ同盟から反目まで幅があったが、魏-蜀間の関係は常に険悪で連携はあり得なかった)。つまり物語上、呉は第三極という存在自体にこそ意味があるものの、その内部事情についてはあまり大きな関心が払われることがないのである。実際『演義』以上に劉備・曹操の二極対立のみに注目する『平話』においては、孫堅や孫策はほぼ名前しか登場せず、その死すら描かれることはない。そして魏・蜀対立のキャスティングボートを握る立場なだけに、蜀(劉備)と同盟関係にある間のみは、孫権が肯定的に語られる。しかし荊州を巡る争奪で劉備と対立していくにつれて、否定的な記述が多くなり、関羽を処刑する段になると、毛宗崗が露骨に怒りを示すほど孫権や呂蒙を貶める描写が続く[136]。『演義』編者は最も思い入れを込めて描いたキャラクターである関羽を死に追いやった孫権や呂蒙に対して、明らかに好感情を持っておらず、それが孫一族全体の記述にまで影響した可能性が高い[137]。こうした理由で『演義』において孫家や呉の将軍たちは、道化的な役割のみ与えられることとなった。

夷陵の戦いで陸遜が劉備を退けた後、再び呉は蜀漢と講和するが、記述はさらに少なくなり、陸遜も孫権もいつの間にか物語から退場してしまう[※ 43]。また、呉の滅亡による西晋の天下統一で物語の締めくくりとなるため、最後まで好意的に書かれることはほとんどない。簡略な記述ながら、呉の最後の皇帝となった孫晧の暴虐は、史実よりさらに誇張されている[※ 44]。ただし、最後に西晋に降伏するくだりでは、西晋の司馬炎に迎えられた席で、孫皓もまた自国に司馬炎の席を用意していたこと、また孫皓が賈充の不忠(曹髦殺害)を揶揄するエピソード[※ 45]を入れることで、敗者の矜恃を示して幕としている。

司馬懿とその子孫
司馬懿(字:仲達)は、魏の将軍として、北伐に挑む孔明に立ちはだかるライバルである。劉備にとっての曹操とも言え、物語後半は孔明と司馬懿の対決が中心となる。孔明の計略にきりきり舞いさせられるが、最終的に守り切った史実は曲げておらず、そのため周瑜や魯粛のようには貶められていない。また、最終的に司馬氏が魏を滅ぼし、西晋を建国した史実から、司馬懿の扱いは複雑な色彩を増している[138]。

司馬懿が初めて姿を見せるのは第39回、曹操が江南制覇に先駆けて人材を登用した中に見られる。孔明が三顧の礼で仕官した(第38回)次の回で司馬懿を出しておくのは、後の展開のための巧妙な伏線である[139]。孔明の北伐に際して、馬謖の計略により左遷させられてしまうが(第91回)、元劉備の配下で、魏に服属していた孟達が再び蜀漢に通じたために復権し、孟達を手早く片付ける(第94回)。史実では馬謖に左遷させられたという記述はなく、また司馬懿が孔明と対峙したのは、孟達を倒したことを別にすれば、231年の第四次北伐以降となるが、『演義』では初めからライバルとして登場している。北伐では「空城の計」に引っかかり、最後は五丈原で陣没した孔明の智略で「死せる諸葛、生ける仲達を走ら」されることになる。

しかし、同じ引き立て役の周瑜などとは違い、司馬懿は天文に通暁するなど、一種の超能力者として扱われている。無論、天文を見て孔明の死を悟りながら、「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」(第104回)結果に終わるなど、孔明よりは数段劣った存在ではあるが、超能力の片鱗も付与されなかった周瑜の扱いとは異質である。魏の圧倒的な軍事力がバックにあったとは言え、司馬懿が孔明の北伐を凌ぎ切ったことは事実であり、『演義』も大筋では史実に準拠している。そのため、超能力者というべき孔明を阻止した司馬懿に、小魔術師の要素を付け加えたと考察されている[140]。

以降の司馬懿は、魏に反旗を翻した公孫淵を討ち、みずからを名誉職の太傅に棚上げした曹爽をクーデターで討つことで、魏の実権を握るに至る。後を継いだ長男の司馬師は、みずからを除こうとした皇帝・曹芳を廃位させ、曹髦を擁立した。次男の司馬昭は、みずからを討とうとした曹髦を返り討ちにした上で、曹奐を擁立した。その上で、司馬昭の子の司馬炎が、曹奐から禅譲を受け西晋を開くことになる。

一連の事件では、司馬氏の行動には、歴史書の記述から大きな脚色は見られない。一方、曹氏の側は、曹芳廃位は、かつて曹操が献帝を苦しめた因果応報として書かれ(第109回)、また曹髦殺害では、事前に司馬昭が面前で曹髦を侮辱し、曹髦が近臣を前に泣きじゃくる(第114回)など、曹髦の情けなさを誇張している。そして、司馬炎の禅譲要求に抵抗するのは、もはや宦官の張節のみであり、たちまち撲殺されてしまう[※ 46](第119回)。『演義』において、司馬氏による魏の乗っ取りは、死を目前にした曹操が、三頭の馬が一つの桶から餌を食う(三馬同槽)夢を見たという、正史『晋書』「宣帝紀」にあるエピソードで早くから暗示されている(第78回)[※ 47]。司馬懿は孔明のライバルであるが、蜀漢の敵であり、孔明の宿敵である魏を内部から滅ぼした存在でもあったのである。

英雄達の容貌

京劇の関羽
三国物語の登場人物は、口承文芸や演劇として発展した時代に分かりやすい意匠が形作られ、その人物を語る際に分かちがたいイメージとして定着している。これは講談から生まれた文学であるため、外見の描写により人物の大枠が分かるようにするための工夫でもある[141]。

劉備の場合、正史の蜀書先主伝にも耳が大きいと記されていたが、上述の通り、貴人のシンボルである垂肩耳として誇張されることとなった。

関羽は「美髯公」と称される長いひげと「重棗(熟したナツメ)」と形容される赤い顔が特徴とされている。ひげについては正史の関羽伝に「羽美鬚髯」とあり、古くから関羽の特徴として知られていたが、『平話』での関羽は「紫玉のような顔」とされ、まだ赤い顔というイメージは定着していない。民間伝承で関羽は若い頃故郷で殺人を犯して逃亡する際、聖母廟の泉で顔を洗ったところ顔が真っ赤に変色し、おかげで見破られることなく関所を通過できたという話があった。関羽の赤ら顔はそれらの伝承を踏まえて設定されたものとする説もある[142]。また四大元帥で南方の守護神として設定された関羽は、五行説で南方を表す色である赤い顔に設定されたとする説もある[143][※ 48]。『演義』ではさらに「丹鳳眼(鳳凰の眼。将来出世して王侯となる相)」「臥蚕眉(蚕のような眉。科挙に首席で合格する相)」という観相学での貴人的な特徴が追加されている[144][※ 49]。

張飛は『演義』初登場の場面で「豹頭環眼、燕頷虎鬚(豹のような狭い額、どんぐり眼、燕のような角張ったあご、虎のように突っ張ったひげ)」と記されているが、正史にはこのような張飛の容貌は記述されていない。だが唐代の李商隠「驕児詩」に張飛のひげを笑う子供が描写されていることから、早い時期に容貌が特徴付けられていたことが分かる。中野美代子は、8世紀頃から中国の民衆の間で急激に人気の広まった鍾馗、または明王像のイメージが、共に人気のあった張飛の外見に取り入れられたのではないかと述べている[146]。鍾馗は「環眼虎鬚」で知られる道教神である。

曹操は「身長七尺」と、劉備(七尺五寸)・関羽(九尺)・張飛(八尺)と比べ見劣りする身長とされる。裴注の『魏氏春秋』にも「姿貌短小」とあり、古くから背が低いことは知られていた。『世説新語』には、魏王として匈奴からの使者に謁見を許した時に、容貌に優れた崔琰を曹操の影武者として立たせ、自らは刀を持って従者の振りをして脇で見ていたという逸話を載せる。謁見後に匈奴の使者が「魏王は確かに立派だったが、脇で刀を持っていた従者はさらに英雄だった」と述べたのを知った曹操は、その使者を殺させたという。このように小説や語り物では、貧相な小男というイメージが定着しているが、演劇の世界では浄(悪役)としての迫力を出すため、堂々たる体躯の役者が演じることが定着している[98]。

孫権は『演義』で「碧眼紫髯(青い目に赤いひげ)」と記されている。裴注に引く『献帝春秋』には「紫髯」とあるが「碧眼」という語は出てこず、『江表伝』では「(孫権が生まれた時)目に精光あり」と記されているのみである。『平話』にも孫権の目の描写はない。『演義』で他に碧眼とされた人物には沙摩柯(武陵蛮の族長)や孟節(南蛮王孟獲の兄)などがおり、南方の異民族のイメージが附加されたものとみられる。

綸巾・羽扇

武侯祠の諸葛亮像
諸葛孔明は『演義』において、初登場の第38回から死去する104回まで、「羽扇」を持ち「綸巾」をかぶり「鶴氅」をまとう道士的な姿で通している。羽扇は鳥の羽で作られた扇であり、綸巾は帽子で、現在では『演義』の影響により、ともに諸葛孔明の代名詞となっている。しかし『芸文類聚』巻67、裴啓『語林』などに司馬懿が諸葛亮を評した言として「葛巾毛扇もて三軍を指揮し」とある[147]。毛扇は塵という鹿の尾で作った扇で、羽扇とは別物である。西晋代に清談を行う名士・貴族によく使用された。

実は『演義』成立以前は「羽扇綸巾」といえば、主に赤壁の戦いに向かう周瑜の姿を表す衣装であった。史実の赤壁の戦いの主役は周瑜であり、北宋の詩人蘇東坡が赤壁の戦いについて謳った『赤壁賦』においても、周郎(=周瑜)は讃えられているが、孔明は全く登場していない。蘇東坡が黄州流謫時に作った「赤壁懐古」の小題をもつ詞『念奴嬌』でも、「遙想公瑾当年、小喬初嫁了、雄姿英発、羽扇綸巾、談笑間檣櫓灰飛煙滅」と明らかに周瑜を指して「羽扇綸巾」の語が用いられている[148]。

南宋時代に入っても『念奴嬌』を受けて、著名な文人が周瑜の「羽扇綸巾」の詩や詞を残している。楊万里の詩『寄題周元吉湖北漕司志功堂』(『誠斎集』巻23所収)で「又揮白羽岸綸巾」と謳われているのは周郎であり、趙以夫の詞『漢宮春次方時父元夕見寄』でも「応自笑、周郎少日、風流羽扇綸巾」と、周郎と羽扇綸巾がセットになっている[149]。また孔明が神仙として赤壁で大活躍する『平話』でも、まだ羽扇綸巾を身につけていなかった。

ところが、南宋の劉克荘が諸葛孔明について詠んだ詞では、蜀に攻め入る段階で「但綸巾指授」と、綸巾姿であることが謳われている。同じく南宋の魯訔の『観武侯陣図』(『全宋詩』第33冊)にも「西川漢鼎倚綸巾」(西川は蜀のこと)という表現があり、李石の『武侯祠』(『方舟集』巻五)では「綸巾羽扇人何在」と綸巾・羽扇がセットとして孔明の衣装となっている。ただしこれらはすべて孔明が入蜀する段階の姿を詠んだものである[150]。

このように羽扇綸巾は赤壁の戦いにおける周瑜をのぞけば、入蜀以降の時期限定で孔明と結びつきつつあった。しかし『平話』以降、赤壁の戦いで孔明が周瑜をしのぐ活躍を見せて人気を得ると、周瑜の意匠であったはずの羽扇綸巾も、孔明の若い頃からの衣装として定着していくことになる。元代の詩人薩都剌の『回風坡、弔孔明先生』(『雁門集』巻4)では、赤壁で活躍する孔明に対して「綸巾羽扇生清風」と謳っている[151]。このように元代後期以降は「羽扇綸巾」が周瑜から孔明の代名詞へと変化した。

架空人物の履歴
『演義』は史実を題材とした小説であり、ほとんどの登場人物は実在した人間だが、幾人か架空の人物も活躍している。ここでは架空人物が三国物語に入り込んだ過程について述べる。

貂蝉

貂蝉
貂蝉は『演義』序盤(第8回)に登場する絶世の美女である。司徒王允の養女で歌妓とされ、専横を極める董卓と腹心の呂布との間を仲違いさせるべく、2人の男を色香で翻弄して互いに反目させる「連環の計」を主導し、董卓暗殺に成功した後に呂布の妾となる。漢王朝を救うべく自らの貞節を犠牲にした貂蝉に対し、毛宗崗は絶賛して男の名臣とともに称えるべきとまで註釈している(毛本第8回総評)[152]。しかし正史をはじめ、あらゆる史書に貂蝉の名は見えず、彼女は架空の人物である。

正史(『魏書』巻7呂布伝)には呂布が董卓の「侍婢」と私通しており、内心その発覚を恐れていたとの記述があるが、その侍婢の名前は記されていない。『演義』に載る連環の計に近い話が成立するのは『平話』の段階である。ただし『平話』では姓を任、名を貂蝉とし、最初から呂布の妻という設定である[153]。呂布の妻でありながら夫と出会えず、王允の屋敷で世話になり、董卓の下に送り込まれる話になっている。元代の雑劇「錦雲堂暗定連環計」でも姓を任、名を貂蝉とし、忻州木耳村の生まれで、幼名は紅昌、父親の名が任昂とあり、その他『平話』と共通する部分も多い。一方、口承文芸や他の雑劇では別の系統の貂蝉の話もあったらしい。明代の戯曲集『風月錦嚢』(スペイン・エル・エスコリアル所蔵)に収める「三国志大全」には、呂布が捕らえられた際、妻の貂蝉が命惜しさに関羽・張飛に媚び、呂布を罵ったため、関羽に殺されるという、悪女的な貂蝉の姿が描かれている(「関大王月夜斬貂蝉」劇)[154]。明代にはむしろ、こちらの貂蝉像の方がポピュラーであったらしく、王世貞(1526年 - 1590年)などは詩の中で、貂蝉が関羽に殺されるのは当然の報いであると詠み込んでいる[155]。

しかし『演義』の作者は三国の義を敷衍するという方針のもと、士大夫的倫理観に基づき、貂蝉を漢朝に殉ずる貞女として描こうとした。そのため、悪女的な側面や『平話』にあるような元々の呂布の妻という設定は採用しなかった。むしろ王允の養女とすることで、漢への義と王允への孝を貫く清廉な女性として強調したのである[156]。毛宗崗は彼の修訂方針を書いた凡例の最後で、関羽が貂蝉を斬るという逸話は戯曲におけるでたらめだと断じており[157]、関羽に斬られる貂蝉像は、小説からは排除され、演劇の世界のみに受け継がれた。

周倉
周倉は『演義』第28回で初登場。黄巾賊の残党として臥牛山で山賊をしていたが、通りかかった関羽に同行を許され、その後無二の忠臣として活躍する。見せ場として第66回「単刀会」と呼ばれる関羽と魯粛の外交交渉の席で魯粛を罵る場面や、第74回に魏の猛将龐徳を捕らえる場面がある。関羽を神として祀る各地の関帝廟では、関羽像の両脇に関平と周倉の像が並ぶのが普通であり、庶民に親しまれた英雄であるが、彼も史書に記載のない架空の人物である。三国志物語に加わった時期についても明らかでない。

「単刀会」の元となった事件は正史『呉書』魯粛伝に載るが、「土地はただ徳のある所なるのみ」と叫んだ関羽の部下の名前は出ていない。一方『平話』では、終盤の諸葛亮の北伐の段で、木牛流馬を管理する武将として周倉が登場するものの、周倉は関羽と何の関係も持っていない(登場は関羽の死後である)。『花関索伝』では、周倉は成都の元帥として登場し劉備軍と戦うが、関索に敗れて降伏する。その後呉によって荊州が攻められると、関羽ととも玉泉山に逃げ、飢えた関羽に自らの股の肉を与えて死ぬという役回りとなっている。

他方で『平話』以前の宋末元初の関漢卿による元曲『関大王独赴単刀会』にはすでに周倉が関羽の侍者として登場している。また道教の儀礼書『道法会元』巻259には、関元帥(関羽)に従う将軍として関平・関索とともに「周昌将軍」が登場する[158]。周昌は前漢建国期の高祖の側近であり、本来関羽の従者となっているのはおかしいが、道教の冥界秩序としては珍しくない。昌(chāng)と倉(cāng)は、平水韻ではともに下平声陽韻に属する字で発音が非常に近い。ここで周倉を周昌と書き損じたのか、あるいは周昌将軍が後に周倉という武将に変化したかは不明である。

関索
関索は上述のごとく、架空の人物であり、版本によって登場の仕方が異なる。諸本を最終的に校訂した毛宗崗本では、関羽の第三子とし、諸葛亮の南蛮征伐中に登場後ほとんど活躍のないまま、物語から消える。

『演義』よりやや遅れた16世紀前半に成立した『水滸伝』には「病関索」のあだ名を持つ楊雄という人物が登場する。この人物の初出は南宋時代である。南宋末の画家龔聖与(1222年? - ?)は後の『水滸伝』の原型ともいうべき宋江ら36人の肖像画と賛を作成した。現在肖像画は散佚したが、賛のみ同時代の周密(1232年 - 1298年)の著わした『癸辛雑識続集』に引用されている。そこでは「賽関索 王雄」の名が見られる(病や賽は本家よりやや劣るという意である。楊(yáng)と王(wáng)は平水韻では下平声七陽に属する字で発音が近い)。この記述から、南宋末(13世紀半ば)の時点ですでに関索の名が知れ渡っていたことが分かる。

同じく南宋から元代にかけて横行した盗賊の中にも、逆に盗賊を取り締まる軍人の側にも朱関索、賽関索などのあだ名が見られる。また首都臨安の繁栄を描いた『武林旧事』には、都市の盛り場での角力でも小関索・厳関索などの四股名が見られるなど、「関索」が広く認知され、あだ名に用いられる英傑として定着していたことがうかがえる[159]。また伝承の中で関索が活躍したと思われる四川省・雲南省・貴州省などの地域には、関索嶺[※ 50]や関索廟、関索城などの地名が残っている。

これらの関索伝説について小川環樹は、中国天文学の星座に「貫索九星」(かんむり座の一部)があり、それが神様として崇拝された可能性を指摘する。宋代に三国物語(特に孔明の南征や関羽の神格化など)がこの地方に広まるにつれ、関羽への連想から貫索が関索に変化して(「貫」(guàn)と「関」(guān)はほぼ同音)、南征説話と結びつけられ、「関羽の子が死して神となった」という伝説に昇華したという[161]。そのほか、宋代に架空の武将関索の名が広まり、武勇に優れる「関」姓の将軍ということから関羽と関連づけられ、息子ということにされたとする説もある[162]。

『平話』で関索は孔明の南征中、不危城に籠もる呂凱を倒すため突然登場し、しかもその一度しか出てこない[163]。また元代の雑劇のうち、三国時代を舞台とした作品群の中にも、関索の名は全く登場していない[164][165]。すなわち、関索にまつわる伝説は、演義につながる説話とは独立して発展したものであり、その集大成となったのが『花関索伝』であった。『花関索伝』には、上記の呂凱と戦う場面など『平話』と共通する設定がいくつかある。呂凱は正史・『演義』ともに、蜀の官僚で南蛮と対峙する人物であり、ここで敵(南蛮側)として登場するのは本来おかしい。しかし『平話』『花関索伝』に共通する設定となっていることから、『花関索伝』の成立は『平話』とほぼ同時期もしくはやや遅れた頃と見られる。これら関索伝説は原「三国演義」の完成段階で採用されることはなかったが、余象斗や朱鼎臣などの福建の書肆が、二十巻本系の刊本を出す際に一部挿入した。しかし毛宗崗によって、史実から逸脱した関索の逸話は削減され、毛宗崗本ではほとんど名前が出てくるのみの登場となった。

演義の影響
通俗小説の祖
明代通俗小説の中でも最も早い時期に成立した『演義』は、嘉靖から万暦にかけて隆盛した様々な白話小説に大きな影響を及ぼしている。

『水滸伝』には前述の「病関索」のあだ名を持つ楊雄のほか、諸葛亮(孔明)の名から作られたとおぼしき孔亮・孔明の兄弟、関羽の子孫とされ風貌もそっくりな関勝、「豹頭環眼、燕頷虎鬚」と張飛的な外見を持つ林冲、「美髯公」という関羽と同じあだ名を持つ朱仝、呂布と同じく方天戟を操る小温侯呂方(温侯は呂布の諡号)など、『演義』を髣髴とさせる人物が多く登場する。前述の通り、登場人物が説三分を聞く場面もあるなど『演義』と『水滸伝』は相性が良かったらしく、明末の簡本の中には『精鐫合刻三国水滸全伝』(『二刻英雄譜』とも)など、ページの上半分に『水滸伝』、下半分に『演義』を配し、両方の作品を同時に楽しめる書籍も刊行された[166][※ 51]。

『水滸伝』も羅貫中が編したという伝説が生じているように[※ 52]、最初の通俗小説『演義』を著したとされた伝説の作家「羅貫中」の名はブランド化し、『残唐五代史伝』『三遂平妖伝』など後続の小説も羅貫中が書いた作品と銘打って売り出されることになる。また元々演劇の世界から強い影響を受けた作品だけに、『演義』の普及は逆に、演劇界へも大きな影響を与えた。京劇や布袋劇などの伝統劇では、三国ものの演目は『西遊記』や『封神演義』関連のものをしのぐ定番シリーズとなっている。

外国への影響
『演義』は『水滸伝』や『西遊記』など後続の白話小説とは大きく異なり、ほとんどが文言(文語表現)で書かれている[168][※ 53]。日本など漢字文化圏諸国では、古来から漢文(文言)文法が確立しており、いわば国際公用語として広く行き渡っていたため、文言主体で書かれた『演義』の理解は容易で、各国に抵抗なく受容された。

古くから訓読法が確立していた日本でも、林羅山が早くも慶長(1604年)までに『通俗演義三国志』を読了したといい、元和2年(1616年)には徳川家康の駿府御譲本の内にも『演義』が見られるなど、明刊本が早くから流入している。和文翻訳も江戸時代前期の元禄2年(1689年)とかなり早い段階で湖南文山が作成した[※ 18]。一方、口語表現である白話(唐話)は、長崎の唐通詞のほかは荻生徂徠など一部の好事家のみにしか普及しておらず、白話小説の翻訳は遅れた。『水滸伝』は岡島冠山の訳が享保13年(1729年)に出たものの、これは訓点を施したのみで今日的な基準では翻訳とは言えず、誰でも読める『通俗忠義水滸伝』の完成は寛政2年(1790年)と『演義』より1世紀遅れ[169]、『西遊記』に至っては宝暦8年(1758年)の『通俗西遊記』で西田維則が翻訳を開始したが、完成はさらに半世紀後の天保8年(1837年)の『画本西遊全伝』を待たなければならなかった。このことからも『演義』が他の通俗小説とは異なり、文言主体であったことが分かる[170]。また、話の筋こそ『演義』とはあまり関係がないが、元文2年(1737年)には江戸で、二代目市川團十郎主演による『関羽』という歌舞伎の演目が初演されており(のちに市川家歌舞伎十八番に選定される)、庶民レベルまで三国の英雄の名が定着していたことがうかがえる(その他、詳細は三国志#日本における三国志の受容と流行を参照)。

李氏朝鮮でも、金万重(1637年 - 1692年)の『西浦漫筆』には「『三国演義』は元人の羅貫中から出たもので、壬申倭乱(文禄・慶長の役)の後、朝鮮でも流行した」との記述があり、明刊本が早い時期から流入していたことが分かる。宣祖王(在位1567年 - 1608年)が長坂の戦いにおいて張飛の一喝で敵軍が逃げ去ったという記事があると言及し、それに対し朱子学者の奇高峰が、『演義』は史書と異なり虚構が多いと返答したという。その後多くの刊本が印刷され、ついには『演義』が科挙の出題にも使われたほどだという(李瀷『星湖僿説』巻9上「三国衍義」)[171]。1703年には朝鮮語訳が発刊された。

ベトナムでも後黎朝後期には毛宗崗本系の『第一才子書』[※ 54]が伝えられたと思われ、文人政治家レ・クイ・ドン(黎貴惇、1726年 - 1783年)が『芸台類語』(1777年)に『演義』や羅貫中について論評しているほか、フエには関公祠が設けられていたという[172](ただしこれらは漢文としての受容に留まり、ベトナム語訳の出版は20世紀まで遅れる)。18世紀末には『演義』の影響を受け、呉兄弟による『皇黎一統志』などベトナム独自の演義小説まで生まれている。

タイではチャクリー朝成立後の1802年頃にラーマ1世による王命により、チャオプラヤー・プラクランによるタイ語訳の『サームコック』が完成。後のタイ文学に大きな影響を与えている。ラーマ1世没後も中国書の翻訳プロジェクトは進められ、ラーマ2世期の『東周列国志(リエットコック)』をはじめ、多くの通俗小説がタイ語訳された[173]。
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5:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2022/12/22 (Thu) 09:01:05

陳好(チェン・ハオ)_ 中国の絶世の美女というのはこの程度
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貂蝉
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貂蝉(ちょうせん)は、小説『三国志演義』に登場する架空の女性。実在の人物ではないが楊貴妃・西施・王昭君と並び、古代中国四大美人の一人に数えられる。

『三国志演義』第八回から登場。幼少時に市で売られていた孤児で、王允が引き取り、実の娘のように諸芸を学ばせて育てられた[1]。朝廷を牛耳り、洛陽から長安に遷都するなど、暴虐の限りを尽くす董卓を見かねた王允が、董卓誅殺を行う為に当時16歳とされる養女・貂蝉を使い、董卓の養子の勇将呂布と仲違いさせる計画を立てた。

王允はまず呂布に貂蝉を謁見させ、その美貌に惚れさせる。次に呂布とは別に貂蝉を董卓に謁見させ、董卓に貂蝉を渡してしまう。怒った呂布が王允に詰問すると、「董卓には逆らえない」と言い繕い、その場を円く納めた。その後、呂布と貂蝉が度々密会し、貂蝉が呂布のもとにいたいという意思表示をする。呂布が密会していることに董卓はいったん怒ったが、腹心の李儒の進言により貂蝉を呂布の元に送るように言う。だが、一方で貂蝉は董卓にも「乱暴者の呂布の元には行きたくない」と泣きつき、董卓の下を動こうとしない。それに怒った呂布が王允と結託し、董卓を殺害した。強固な結びつきを持つ両者の間に貂蝉を置き、貂蝉を巡る感情を利用し両者の関係に弱点を作りそこを突く、これが「連環計」である。

董卓亡き後の貂蝉は呂布の妾となったが子ができなかった。(第十六回)下邳の攻防戦では、陳宮に掎角の勢を進言されこれに従い出陣しようとした呂布を正妻の厳氏ともに引き止めている。下邳陥落後の貂蝉については記述がない。

モデルとなった人物
中国においては、史書『三国志』の「董卓は呂布に宮中の門を守備させていたが、呂布は董卓の侍女と密通し、発覚をおそれて不安に思っていた。後に王允を訪問した際、ちょっとした事で腹を立てた董卓に殺されかけたことを話したが、董卓暗殺を考えていた王允はこの計画を呂布に打ち明け、呂布はそれを実行した」[2]を引き、この「董卓の侍女」こそがモデルで、後世の講談や物語において架空の名前をつけたとする説がある。

伝承
民間伝承では貂蝉はひどく不美人で、王允が華佗にそのことを打ち明けたところ、華佗は首を西施のものと取替え、それでも度胸がなく行動に移せないのを嘆いたところ、今度は肝を荊軻のものと取り替えたという話がある。一説には天下を憂いて物思いに耽る姿のあまりの美しさに、月が恥じて雲に隠れてしまったと言われる。

元代の雑劇『錦雲堂美女連環計』では姓を任、名を紅昌、小字を貂蝉と設定している。その後の展開としては、貂蝉を巡り曹操と関羽が争うが曹操が降りて関羽に譲る、または関羽が心の動揺を鎮めるため貂蝉を斬ってしまう、など作品によって異同が見られる。

日本国内で広く知られる吉川英治の小説『三国志』およびそれを元にした横山光輝の漫画『三国志』では連環の計を遂げた貂蝉が自害して果てるという翻案がなされている。園田光慶と久保田千太郎による漫画版では董卓の死後、その残党を一掃しようとした呂布の目の前で殺されている。『天地を喰らう』では呂布の妹として登場している。その他の『三国志演義』を題材にした創作作品では、悪女・忠女・戦う女傑など多様な創作を交えて描かれている。
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6:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2022/12/22 (Thu) 20:24:22

董卓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A3%E5%8D%93

董 卓(とう たく、? - 初平3年4月23日(192年5月22日))は、中国後漢末期の武将・政治家。字は仲穎(ちゅうえい)。涼州隴西郡臨洮県の人。

辺境の将軍の1人にすぎなかったが、軍事力を背景に次第に頭角を現すようになった。霊帝死後の政治的混乱に乗じて政治の実権を握り、少帝を廃して献帝を擁立し、一時は宮廷で権勢をほしいままにしたが、諸侯や他の朝臣らの反感を買い、最期は側近で養子になっていた呂布に殺された。『三国志』魏志及び『後漢書』に伝がある。

生涯
青年期と地方官時代
生まれつき武芸に秀で、腕力が非常に強く、弓袋を馬の両側につけて馬を馳せながら左と右の両方の手で弓を引くことができたという。

若いころは男伊達を気取って、羌族ら異民族の居住地を放浪し顔役らすべてと交流した。後に郷里に戻り農耕に従事したが、羌族の顔役たちが面会に来ると、董卓は農耕に使う耕牛を殺し、その肉で宴会をしてもてなした。族長はとても感激し、帰ると董卓に畜獣千頭を贈ったという。

その後、郡の役人となり盗賊を取り締まった(『呉書』)。胡が侵入し略奪をし、多くの住民が拉致されたことがあった。涼州刺史の成就は董卓を従事に取り立て[1]、董卓に騎兵を率いて胡を討伐させたところ、董卓は大勝し、4桁の数の胡を斬ったり捕虜にしたりした(『呉書』)。

并州刺史の段熲は董卓を中央の役所に推挙し、司徒の袁隗は董卓を召聘し掾に取り立てた(『呉書』)。

桓帝の末年、六郡の良家の子弟から郎を選ぶことになると、董卓は羽林郎となった。武勇にすぐれる董卓は張奐の率いる并州征伐軍に司馬として従軍し、反乱を起こした羌族と戦い、張奐軍は族長を斬り1万人余りを捕斬する大勝となった。この功績により董卓は郎中に任命され、絹9千匹を賜ったが、それを全て部下に分け与えた[2]。

広武令・蜀郡北部都尉・西域戊己校尉まで昇進し免官となったが、その後、并州刺史・河東太守などを歴任した。この間、辺境で羌族と戦い続け、その回数は百回を越えていたという(『英雄記』)。

この時期、田を耕していると一振りの刀を見つけ、これを蔡邕に見せたところ項羽の刀であったという伝承がある(南朝梁・陶弘景『古今刀剣録』)。

涼州で牙を研ぐ
中平元年(184年)、昇進して中郎将(『後漢書』「董卓伝」によると持節・東中郎将)に任命され、盧植の後任として黄巾賊を討伐に出るも敗退して、免職となった。

同年冬、涼州で金城郡の辺章・韓遂らが羌・胡の協力を得て反乱を起こすと、翌中平2年(185年)、董卓は再び中郎将に返り咲き、副車騎将軍の皇甫嵩と共に乱の追討に向かった(『後漢書』「董卓伝」)。後に皇甫嵩が罷免されると、司空の張温が車騎将軍に任じられ執金吾の袁滂を副将とし、董卓は盪寇将軍の周慎と共にその指揮下に入った。このとき、破虜将軍に任命された(『後漢書』「董卓伝」)。張温・董卓ら後漢軍は諸郡の兵力10万を集め、美陽に駐屯した。辺章・韓遂の反乱軍が美陽に攻撃を仕掛けてくると不利に陥ったが、流星が流れ辺章・韓遂らの陣営を明るく照らしたため、これを不吉に思った辺章・韓遂らは金城郡へ撤退した。董卓と右扶風の鮑鴻らは辺章・韓遂らを追撃して、大いに破った(『後漢書』「董卓伝」)。

張温は周慎・孫堅らに命令して城に籠った韓遂らを攻撃させる一方で、董卓には羌族の攻撃を命じた。しかし、董卓は数万の羌族の軍により包囲されてしまった。兵糧が欠乏してきたため、董卓は魚を捕るふりをしてひそかに川を堰き止めて水を貯めて、堰の下を通って敵の包囲から抜け出してから、堰を切ったため、川の水深が深くなったので、敵は追撃できなかった。

この戦いで6師団の後漢軍のうち、5師団は敗北したが、董卓の軍勢だけは大きな損害を受けず、扶風に駐屯した[3]。董卓は斄郷侯となり、1000戸の領邑を受けた(『後漢書』「董卓伝」)。

中平5年(188年)、張温の帰還後も韓遂らに備えて扶風に駐屯する董卓は前将軍に任命された。ちょうど、漢陽郡の王国が挙兵し車騎将軍を自称し、韓遂や馬騰らと合流し強勢となった。董卓は左将軍の皇甫嵩と共に王国の討伐に出動した。董卓は兵法通りの作戦を立てて皇甫嵩に進言を行ったが、皇甫嵩は反乱軍に対し臨機応変に対処し、それは董卓の進言の逆を突くものであった。その作戦で反乱軍に大勝した結果として功績は皇甫嵩に帰し、董卓の作戦は的を射ていないと言われてしまう始末であった(『後漢書』「皇甫嵩伝」)。

その後、朝廷から少府に任命され、軍を皇甫嵩に引き渡して帰還を促す命令を受けるが、董卓は辺地の治安悪化を理由に拒否して駐屯を続けた(「霊帝紀」)。翌中平6年(189年)に并州牧[4] となる。なお、并州牧任官と同時に、軍を手放すよう2度目の命令を受けたが、董卓は軍隊を率いたままで并州に赴任することを望んで再び勅令を拒否した(「霊帝紀」)。

董卓は軍勢を率いたまま河東に駐屯し、時勢を伺っていたという(『後漢書』「董卓伝」)。

政権掌握へ
中平6年(189年)に霊帝が没すると、少帝の外戚である大将軍の何進は司隷校尉の袁紹らと謀議を重ね、十常侍ら宦官を一掃しようとしたが、妹の何太后らに反対されていた。そこで何進は董卓ら地方の軍事指揮官を召しだし何太后への圧力としようとした。董卓は何進の命令に応じて首都雒陽(洛陽)に軍勢を進めた。

宦官の反撃に遭い何進が殺され、袁紹らが宮中に突入し宦官殺害を実行する中、宦官の一人中常侍の段珪が少帝とその弟の陳留王劉協を連れ去る事件が起きた。段珪らは小平津まで逃げていたが、軍勢を率いた董卓に追撃され自殺、董卓は徒歩でさまよっていた少帝と陳留王[5] を救出して洛陽に帰還した。

董卓は二人と会話をしながら帰路についたが、この時劉弁は満足な会話さえ十分にできなかったのに対して、陳留王は乱の経緯など一連の事情を滞りなく話して見せたことから、陳留王の方が賢いと思ったという(『献帝紀』)。

董卓が洛陽に入った時は3000ほどの兵力しかなかったので[6][7]、殺害された何進や何苗[8] の軍勢を吸収して軍事力で政権を手中におさめた。また、同じく何進に呼び寄せられた執金吾の丁原の軍士を取り込むべく、丁原の暗殺を企てた。丁原の部下には武勇の士として名高い呂布がおり、暗殺は失敗してしまうが、その呂布がまもなく董卓の誘いに乗り、丁原を殺害して董卓に帰順し、董卓は丁原の兵を吸収した[9]。

洛陽で軍事力を持つ唯一の存在となった董卓は兵力を背景に袁紹らを封じ込め、天候不順を理由に司空の劉弘を免職させ、後任の司空となった。そして少帝の生母である何太后を脅して少帝を廃し弘農王とし、陳留王を皇帝とした(献帝)[10]。その直後、何太后が霊帝の母である董太后を圧迫したことを問題にし、権力を剥奪した[11]。董卓は何太后を永安宮に幽閉し、まもなく殺害した[12]。

専横を極める
董卓は太尉・領前将軍事となり、節を与えられると共に斧と鉞と虎賁兵を与えられ、郿侯に封じられた。

ついで相国[13] となり[14]、朝廷で靴を履いたまま昇殿し、さらにゆっくり歩くことと帯剣[15] を許された。さらに生母を池陽君にし家令・丞を設置することを許された。

位人臣を極めた董卓は暴虐の限りを尽くし、洛陽の富豪を襲って金品を奪ったり、村祭りに参加していた農民を皆殺しにしたり、董卓の兵が毎夜のごとく女官を凌辱したり悪道非道を重ねた[16]。

董卓は名士を取り立てて政権の求心力としようとし、侍中の伍瓊、吏部尚書の周毖、尚書の鄭泰、長史の何顒らに人事を委ね、荀爽を司空、韓馥を冀州刺史、劉岱を兗州刺史、孔伷を豫州刺史、張咨を南陽太守、張邈を陳留太守に任命した。また、かつて宦官と敵対して殺害された陳蕃らの名誉を回復するなどの措置もとった。さらに、董卓に反発し洛陽より出奔した袁紹を追討せず、勃海太守に任命して懐柔しようと図った(『三国志』魏志「袁紹伝」)。

董卓の専横に反発した袁紹・袁術などの有力者は、橋瑁の呼びかけ[17] で初平元年(190年)に反董卓連合軍を組織した。同年2月、董卓は袁隗ら在京の袁氏一門を誅殺するとともに、弘農王を毒殺した。さらに司徒の楊彪・太尉の黄琬[18]・河南尹の朱儁[19] らの反対を押し切って長安に強制的に遷都した。その際に洛陽の歴代皇帝の墓を暴いて財宝を手に入れ、宮殿・民家を焼きはらった。また、袁紹らとの融和策をとっていた督軍校尉の周毖と城門校尉の伍瓊を殺害した[20][21]。

その後も董卓は洛陽に駐屯し、反董卓連合軍を迎え撃つ姿勢をとった[22]。まず、董卓は河陽津で陽動作戦を用いて泰山の精兵を率いる王匡を大いに破った。また徐栄を派遣して、滎陽汴水で曹操・鮑信らを大いに破り、梁県で孫堅を破った[23]。

この間、兼ねてより折り合いの悪い皇甫嵩が軍勢を率いて関西方面にあったため、董卓は城門校尉に任命すると称して長安から皇甫嵩を召還して殺害しようとした。皇甫嵩が自立を勧める部下の反対を押し切り帰朝してきたため、董卓はさっそく皇甫嵩を逮捕投獄し、死刑にしようとしたが、皇甫嵩の子の皇甫堅寿が急遽洛陽に駆けつけ、董卓に必死に嘆願したため、董卓は皇甫嵩の軍権を剥奪するに留めた(『後漢書』「皇甫嵩伝」)。

長安で死す
初平2年(191年)、胡軫・呂布らが率いる董卓軍が孫堅と戦い、華雄が討たれるなど大敗した(陽人の戦い)。このため、同年4月、董卓は洛陽を焼き払い、長安に撤退した。

董卓は長安に着くと太師と称し、董旻・董璜ら一族を皆朝廷の高官に就け、外出するときは天子と同様の青い蓋のついた車を乗り回すようになった。長安でも暴政を布き、銅貨の五銖銭を改鋳したために、貨幣価値が乱れた。長安近くの郿に長安城と同じ高さの城壁をもった城塞を築き(郿城・郿塢と言われる)、30年分の食糧を蓄えていたという。董卓の暴虐ぶりはあいかわらずで、逆らった捕虜は舌を抜かれ、目をえぐられ、熱湯の煮えた大鍋で苦しみながら殺された。捕虜の泣き叫ぶ声は天にこだましたが、董卓はそれをみて笑い、なお平然と酒を飲んでいたという。董卓に信任されていた蔡邕は董卓の暴政を諌めたが、一部を除きほぼ聞き入れられることはなかった[24]。

董卓が太師に就任する儀式の際に、壇上に上る自分に皇甫嵩一人だけが頭を下げなかったことに気づき、董卓は「義真(皇甫嵩の字)、まだかな?」と改めて促し、皇甫嵩も果たして「これは失礼した」と従っていた。皇甫嵩があくまで遜り忍従する態度を貫いたため、董卓は皇甫嵩と和解したという(『山陽公載記』及び『漢紀』)。

一方で、かつての上司である張温を憎み、袁術に通じていたという理由で殺害した。 董卓は大鴻臚の韓融、少府の陰脩、執金吾の胡毋班らを関東への使者として送ったが、袁術と王匡に韓融を除いてことごとく殺害されたという。

関東の諸侯らは袁紹派と袁術派に分かれて互いに争うようになっていた。また、長安遷都に反対した朱儁は中牟において挙兵し、献帝の奪還を狙っていた。董卓は袁紹の背後の幽州の劉虞や公孫瓚に官位や爵位を贈って袁紹への牽制とする一方で、娘婿の牛輔に李傕・郭汜・張済らを部下につけて関東に派遣した。牛輔らは中牟で朱儁を破り、兗州陳留郡・豫州潁川郡の諸県を攻略し、略奪・殺戮・誘拐を行った。

かねてより荀攸は議郎の鄭泰・何顒、侍中の种輯共に董卓を暗殺しようと計画したが、失敗した。鄭泰は逃亡し、荀攸と何顒は投獄された(『三国志』魏志「荀攸伝」)。

このような情勢下で、董卓が都において信任したのは蔡邕の他、司徒の王允と、養子の呂布であった。董卓は王允を尊敬して朝政を任せると共に、武勇に優れた呂布に身辺警護させていた。しかし、王允もまた心中では董卓の暴虐を憎み、尚書僕射の士孫瑞と共に謀議をめぐらせていた。あるとき、小さな過失から呂布は董卓に殺されかけたことがあり、それ以来、恨みを持つようになっていた[25]。王允らは呂布の不安に付け込み、暗殺計画の一味に加担させた。

初平3年(192年)4月、董卓は献帝の快気祝いのために、未央宮に呼び出された。呂布は詔を懐に忍ばせて、同郷の騎都尉である李粛と共に、自らの手兵に衛士の格好をさせて董卓が来るのを待ち受けた。董卓は李粛らに入門を阻止され、怒って呂布を呼び出そうとした。呂布は詔と称して董卓を殺害した。

事件後、長安・郿に居た董旻・董璜をはじめとする董卓の一族は、全員が呂布の部下や袁一族の縁者らの手によって殺害され、90歳になる董卓の母親も殺された(『英雄記』)。また、董卓によって殺された袁氏一族に対しては盛大な葬儀が行われる一方、董氏一族の遺体は集められて火をつけられた。董卓は平素からかなりの肥満体で、折りしも暑い日照りのために死体からは脂が地に流れだしていた。そのことから夜営の兵が戯れに董卓のへそに灯心を挿したが、火はなお数日間燃えていたという(『英雄記』)。長安の士人や庶民は、董卓の死を皆で喜んだ[26]。

王允は董卓の与党とみなした人物に対しては粛清する態度で臨み、名声が高かった蔡邕も含めて皆殺害された。董卓の娘婿の牛輔にも追討軍を差し向けた。牛輔は李粛の追討軍を破ったが、逃走を図って部下に殺害された。残された李傕・郭汜らは王允に降伏を願ったが拒絶されたため、6月に軍を率いたまま長安へ進撃した。李傕らの軍勢は膨れ上がり10万になり、王允は呂布に迎撃させたが敗れ、呂布が逃走すると李傕らはそのまま長安に乱入し、殺人と略奪をほしいままとし、王允を殺害し死体を晒し者とした。

董卓の葬儀のため、部下だった兵士が死体の灰をかき集めて棺に納めて郿城に葬ったという(『英雄記』)。董卓の墓はまもなく暴風雨のため、水が流れ込み棺が浮かび上がるほどの被害に遭った。

評価
陳寿は、「董卓は心拗(ねじ)け残忍で、暴虐非道であった。記録に遺されている限り、恐らく是程の人間はいないであろう」と評している。

天平宝字4年(760年)に成立した『藤氏家伝』大織冠伝には蘇我入鹿の政を「董卓の暴慢既に國に行なはる」と批判する記述があり、この時期の日本において暴君の代表的存在として認知されている。

親族
董君雅(父)
池陽君(母)
董擢(兄)
董旻(弟)
董璜(甥、父は董擢)
董某(子)171年出生、早世[27]。
董氏(子)侯に封ぜられる[28]。
董氏(孫)186年生[29]。
董白(孫娘)君に封ぜられる。
牛輔(娘婿)
呂布(養子)
董卓の暗殺後に、一族が皆殺しされている。

配下
王方
賈詡
郭汜
華雄
伍瓊
胡軫
周毖
徐栄
段煨
張済
張繡
張楊
張遼
田儀
董越
樊稠
楊定
楊彪
李傕
李儒
李粛
李蒙
劉囂


三国志演義
小説『三国志演義』では、さまざまな脚色が施されている。

黄巾の乱のときに敗走するところを劉備三兄弟に救われるが、義勇軍であり、地位の低い劉備らを馬鹿にした態度を取る。
娘婿に悪逆な軍師李儒がおり、さまざまな進言をして董卓の悪事に加担する。
董卓は大軍を率いて洛陽に現れ少帝を廃位し、献帝を即位させようとするが丁原が反発し戦闘状態となる。当初は丁原の元には呂布がおり、その武勇に手こずった董卓は呂布とは同郷で顔見知りの李粛から具申されて赤兎馬を贈呈して寝返らせる事に成功。呂布はその見返りに丁原を殺害して、董卓に帰順する。
曹操が王允の暗殺計画に加担し、七星剣を献上するふりをして董卓を暗殺しようとするが失敗し逃走する。
王允の養女貂蝉を呂布と董卓が奪い合うよう王允が暗躍し、董卓は李儒の諌めも聞かずに貂蝉に溺れて呂布との不和を決定的とする。
葬儀の場面を脚色し、
「(李傕らが)命令を出して、董卓の遺体を探索させたら、わずかに骨や皮の欠片しか見つけられなかったので、香木を彫って董卓の像を造り遺体の代用として、棺を安置し、盛大に祭祀を設けた。(その後)王者の衣冠・棺を用いて吉日を選んで郿塢に改葬しようとしたところ、葬儀の日になると大雷雨となり、平地は数尺の水におおわれ、霹靂が棺を破り、遺体は棺の外に放り出された。李傕は天候の回復を待って再び埋葬したが、その夜にまた同じようなことになった。三度改葬したが、いずれも埋葬できなかった。骨や皮の欠片は、ことごとく雷撃によって消滅した。天の董卓への怒りは甚しいというべきである。」

— 『三国志演義』
としている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A3%E5%8D%93
7:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2022/12/22 (Thu) 20:44:56

呂布
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E5%B8%83

呂 布(りょ ふ、生年不詳 - 建安3年12月24日癸酉〈199年2月7日〉)は、中国後漢末期の武将・群雄。字は奉先。并州五原郡九原県(現在の内モンゴル自治区包頭市)の人。『三国志』巻七 呂布伝[2]、『後漢書』列伝六十五 呂布伝[3] などに記録がある。

剛勇をもって知られる。最初に丁原に仕えたが彼を殺害し、後に董卓に仕えるが、やはり殺害して放浪した。最期は曹操との戦いに敗れ、処刑された。

事跡
董卓政権下

呂布、丁原を弑す(頤和園の三国志演義回廊画)
勇猛さと武芸の腕前を買われ、并州刺史の丁原に仕えた。丁原は、呂布を主簿(会計係)に任じて非常に寵愛した。

中平6年(189年)、霊帝が崩御して宦官の十常侍と外戚の何進とが政争を繰り広げると、丁原は何進と宦官殺害を共謀し、執金吾に任命された。しかしまもなく何進は十常侍に殺害され、十常侍もまた袁紹らに誅殺された。

何進死後、洛陽に入城した董卓は叛乱を計画し、丁原の軍勢を奪おうと考えた。そこで丁原の信頼厚い呂布を誘って、これを殺害させることに成功した。これにより董卓は呂布を非常に重用し、父子の契りを結んだ。呂布は騎都尉、中郎将に累進して、都亭侯に封じられた。

呂布は腕力が常人よりも遥かに強く、弓術・馬術にも秀でていたため、前漢の李広になぞらえて飛将と呼ばれた。絶大な権力を握った董卓は、傍若無人な振る舞いで多くの人の恨みを買っていたため、傍らに呂布を置いて身辺を警護させた。

翌2年(191年)、董卓は孫堅との戦いに際し、胡軫・呂布らを討伐軍として派遣した。しかし呂布は胡軫に偽情報を与える等相いれず敗北(陽人の戦い)。この戦い以降、董卓軍の形勢不利が固まったため、董卓は洛陽を放棄し、長安まで退いた。その際呂布はまた洛陽で孫堅と戦ったが、敗れたという記述も有る[4]。

董卓暗殺と三日天下
董卓が実権を掌握し専横を極めると、司徒の王允は、士孫瑞、黄琬[注釈 1] とともに董卓暗殺を企て、呂布を仲間に引き込んだ。初平3年(192年)4月、董卓が皇帝の病の快癒を祝う為宮門に入ろうとすると、詔書を懐に忍ばせた呂布は李粛等十余名を偽衛子として待機させ、董卓の入門を阻んだ。驚いた董卓が呂布を呼ぶものの、呂布は詔であることを告げ董卓を殺害、その三族を皆殺しにし、董卓派は皆処刑された[5]。

呂布は董卓と父子の関係を結んでおり、常に董卓の傍らにあって護衛をしていたが、些細な事で腹を立てた董卓に手戟を投げつけられたことがあり、密かに恨んでいた。また、董卓の侍女[注釈 2] と密通していたため、それが露顕することを恐れて不安に思っていた。ある時呂布が交友のある王允を訪ね、董卓に殺されかけた事を話すと、王允は呂布に董卓暗殺計画を打ち明けた。呂布は最初董卓とは父子であると固辞したものの、王允に説得され暗殺に加わった[6] と史書は記す。また、董卓が長安に遷った事で自分の権勢が崩れる事を恐れた事が理由とする論文がある[7]。

董卓殺害後『後漢書呂布伝』によると、王允と呂布は共に朝政を掌握し、呂布は奮武将軍に任じられ、温侯・儀同三司となり、仮節を与えられた。(正史三国志.魏書呂布伝では、奮威將軍.假節.儀比三司.進封溫侯。とある。)しかしその後呂布が涼州軍を憎んだ為に董卓の軍事力の基礎であった郭汜・李傕ら涼州の軍勢が長安を襲撃してくると、呂布は郭汜を一騎討ちで破る[8] も防ぎきれず、李傕らに長安を奪われた。呂布と王允の統治はそれなりに良かったようである[9]。尚、呂布と涼州軍の関係については異説が有り、『後漢書』「王允伝」では呂布はむしろ涼州軍赦免を提案したとされる[10]。

呂布は王允を助けようとしたが叶わず[11]、董卓の首を馬の鞍にぶら下げ、数百騎を率いて武関から逃亡した[12]。董卓の死から60日後のことであったという。

中原を彷徨う
呂布は、董卓を討った事を袁術が感謝しているだろうと思い、彼を頼ったが受け入れられず、次に袁紹を頼った。袁紹は黒山賊の張燕と戦っているときであったので、呂布を迎え入れ、共に常山の張燕を攻撃した。張燕は精兵1万と騎馬数千匹を率いて勢威を振るっていたが、赤兎馬に乗った呂布と、呂布配下の勇将・成廉、魏越が指揮する数十騎が1日に3, 4度も突撃して次々に張燕軍を討ち取ったため、数十日後に遂に敗れ、以後黒山賊は離散した[13]。この戦いの後愛馬である赤兎とともに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞されたという[14]。その後袁紹に兵力の補充を要求したが袁紹はそれに応えず、腹いせに呂布の将兵は略奪を行なった。ついに袁紹の忌むところとなり、袁紹は刺客を送るが呂布の奇策により失敗した[15]。その報せを聞いた袁紹は恐れをなし、城門を閉じて守りを固めたという[16]。なお略奪事件については臧洪が「呂布は軍兵の貸与を申し出ただけであり、死刑に値する人物であっただろうか」と、陳琳への返書で述べている[17]。

『後漢書』呂布伝では受け入れられた後、配下の略奪によって呂布が後難を恐れ袁術領を抜けたとする。

冀州を出ると張邈のもとに立ち寄り、別れの際手を取り合って共に誓いをたてた。その次は河内の張楊を頼る。張楊は、長安の意向を受け諸将と呂布を殺そうとした。しかし呂布が察知し張楊に自らの捕縛を教唆したため、張楊は表向きは李傕・郭汜に従う振りをしつつ、実際は呂布を保護するようになった。そのことを知った長安では、呂布の気持ちをなだめるため、呂布を潁川太守に任命したという。

『後漢書』呂布伝では『三国志』と異なり、袁術、張楊、袁紹、張邈、張楊の順に身を寄せたとする[18]。


兗州を襲撃する呂布(三国志演義)
張邈は以前、袁紹と口論になり、袁紹は曹操に張邈を殺させようとしたことがあった。しかし曹操が袁紹に反論したので、張邈は曹操に恩義を感じ親友となったが、呂布の件も含めて、袁紹に色々と恨みを買っていたことから、袁紹の命で曹操に攻撃されることを恐れるようになったという。興平元年(194年)、曹操が徐州の陶謙を討つため兗州を留守にすると、曹操に叛意を持っていた張超と陳宮は呂布との兗州共有を張邈に提案し、彼を迎え入れ兗州牧とし、曹操に反旗を翻した。

張邈に迎え入れられた呂布は濮陽を奇襲し、夏侯惇を捕虜とするも、韓浩によって奪還された[19]。また呂布が濮陽を落とすと多くの城が投降した。しかし荀彧・程昱・棗祗・薛悌等の守る鄄城・東阿・范だけは落とせなかった。

曹操が徐州から戻って来ると、呂布は濮陽に籠城する戦略[20] を取り、曹操が攻撃してくると呂布はこれを連破[21][22] した。しかし旱魃と蝗害によって兵糧が不足し、呂布は曹操に止めを刺し損ね山陽に駐屯した。

その後、呂布は1年以上に亘り激戦を繰り広げたが、兗州連合軍に太刀打ち出来ず[23] 袁紹軍の協力を受けた[24][25] 1千未満の曹操軍に、1万余りを率いて向かった鉅野で敗北した。呂布は夜中に逃れ、雍丘で一族と共に防戦中であった張超と、袁術に援軍を求めて寿春に向かっていた張邈と別れ、徐州を支配していた劉備を頼って落ち延びた。曹操最大の危機はこれで終わった[26]。

徐州を支配
呂布は劉備の元を訪れると、妻の寝台に劉備を座らせて自身の妻に挨拶をさせ、酒を酌み交わし弟と呼んだ。劉備は呂布の言葉に一貫性が無いのを見てとり、内心彼を不愉快に思った[27]。

まもなく徐州を巡って劉備が袁術と戦うようになると、その隙を突いて呂布は劉備の本拠下邳を奪い取った[28][29]。行き場を無くした劉備が呂布に降伏すると、呂布は劉備を豫州刺史にし自らは徐州刺史を名乗った。ちなみに『後漢書』呂布伝では袁術の依頼で徐州を攻め、その後徐州牧を名乗ったとされる[30]。その後袁術は6月に陳宮等と共謀して呂布軍を転覆しようとしたが、呂布がすんでの所で逃れた為失敗した[31]。袁術は呂布が自らに害をなす事を恐れ、自らの息子と呂布の娘との間に婚約関係を結ばせる事を提案した。呂布もそれを承認したという[32]。なお『後漢書』には陳宮謀反の記述はない。

その後、袁術が紀霊らに歩・騎兵あわせて3万の指揮を任せ、再び劉備を攻撃しようとしたため、劉備は呂布に救援を求めた。呂布は袁術と泰山諸将(臧覇ら)による包囲を警戒し、呂布軍の諸将の諌めを遮って歩・騎兵1千人余りで劉備・袁術を調停。陣中で戟を射て両軍を撤退させた。

その後、呂布は1万の兵を集めた劉備を攻め、小沛を陥落させた。劉備は逃走し、曹操を頼った[33]。

呂布は徐州にいた頃、河東にいた献帝から救援の書状を賜った。呂布には兵糧が無いので救援を送れなかったがかわりに使者を送った。朝廷は呂布を使持節・平東将軍・徐州牧・平陶侯に任命した[34]。

最期
その後、袁術は韓胤を使者として送り呂布に婚姻を持ちかけたが、陳珪に諫言された呂布は袁術が最初自分を迎えなかったのを恨んで袁術の使者を捕える[35] と、書簡と共に曹操に送った。この時呂布が徐州牧に就任したという異説がある[36][37]。その後使者を斬られて怒った袁術は楊奉らと同盟し、張勲に数万の大軍の指揮を委ね、連携して呂布を攻撃した。この時『後漢書』呂布伝では呂布は3000余りの兵しか持っていなかった[38] ために陳珪を責めたが、彼の戦略を受けた呂布は楊奉・韓暹を物資で釣る戦術に打って出て袁術から離反させ、張勲軍のほとんどを殲滅した[39][注釈 3]。また『三国志』呉志「孫討逆伝」が引く『江表伝』[40] には呂布が朝廷に対し孫策の抱き込みを提案し、成功したという記録も有る。袁術はこの大敗と、後の曹操戦での敗北によって勢力を大きく損失した[41]。

一方『後漢書』呂布伝では、呂布は袁術をもとから怨んでいたために使者を捕えたとする[42]。

この後、呂布は莒城の蕭建を手紙で投降させたが[43]、独立勢力の臧覇によって莒城が落された。それを受けた呂布は高順の諌めも聞かず臧覇を攻撃したが攻め落とせず、引き返した。また高順は常に、呂布が短気で気まぐれなので、周囲の言う事を聞いていつも口にする誤りを改めるようにと諌めていたが、呂布はその意見を採用せず[44]、あまつさえ陳宮らの反乱後高順の兵を奪い取り縁戚の魏続に与えた。そして戦争では高順に魏続の配下の軍を指揮させたが、高順は終生恨みを抱かなかったと言う[45]。ちなみに、『後漢書』呂布伝には手紙のやり取りはない。

建安3年(198年 - 199年)呂布はまた袁術と通じ、部下の高順を派遣して小沛の劉備を陥落させ、臧覇らが呂布に従った[46][47]。そこで曹操は自ら大軍の指揮を執って徐州に攻め込んだ。10月曹操軍が彭城を落とすと陳宮は献策したが呂布は聞かず[48]、しばしば下邳に到着した曹操と戦うも皆大敗し、下邳に籠城した[49]。ちなみに、『後漢書』呂布伝には下邳での野戦が描かれていない。包囲して後、下邳を攻め落とせず疲弊した軍[50] を憂え撤退を計る曹操に対し、曹操軍の荀攸・郭嘉は水計を考案し実行に移されると[51][52]、侯成らは陳宮たちを捕えて呂布を裏切り、呂布は後に部下と投降。この時呂布は部下に自分を売って曹操に降るよう命じたが、部下たちは遂行できなかったとも言う[53]。

投降した呂布は縛られて曹操の前に連行された。『英雄記』によると、曹操は呂布が家臣の妻と不正な関係を持とうとし、そこで家臣に裏切られたと呂布に指摘した。呂布は黙ったままだった。呂布は「縛り方がきつすぎる。少し緩めてくれ」と言うと、曹操は「虎を縛るのにきつくせぬわけにはいかぬ」と答えた。呂布が「これで天下は定まったな。貴殿が歩兵の指揮を執り、俺が騎兵の指揮を執れば、天下の平定なぞ簡単な事よ」と語ると、曹操は顔に疑惑の色を浮かべた。劉備が進み出て「呂布が過去に丁原・董卓を裏切った事をお忘れか」と曹操を諫めると、曹操もそれに頷いた。呂布は「この大耳野郎(劉備)こそが一番信用できぬ者だ」と主張したが、縛り首にされた。司馬彪の『九州春秋』によると、呂布は曹操の賓客になっていた劉備に命乞いの口利きを頼んだが、曹操はこれを制し王必の勧めに従って呂布を処刑したという。同時に曹操による助命を拒んだ重臣の陳宮・高順らも縛り首にされた。呂布・陳宮・高順らの首は許に送られ、晒し首にされたが、後に埋葬されたという。

評価
陳宮は呂布は壮士であり、善く戦って前に(敵は)ないと言っている[54]。一方で、陳登は呂布が勇のみで計りごとが無く、去就が軽はずみであると評している[55]。

陳寿は「虎の強さを持ちながら英略を持たず、軽はずみで狡猾で、裏切りを繰り返し、利益だけが眼中に有った。彼の如き人物が歴史上破滅しなかった例はない[56]。」と評する。

北宋代の軍事学者何去非(中国語版)は、自身が「用兵の第一人者」と評価した曹操[57] に対する呂布の戦ぶりを「兗州では転戦するに無敵であった」とし[58]、北宋以前における特筆すべき武人の一人という評価を下す。

明代の張溥(中国語版)は呂布を漢末第一の将軍とし、文人の中で第一とされた孔融と共に、周公旦に比せられた曹操[59] が殺すに余り有ったとする[60]。

小説『三国志演義』では、張飛は「三姓家奴(後のドラマでの吹き替えでは「三つの家の奴隷(字幕では三姓の奴隷)」)」と皮肉っていたという。

河南商報は呂布を「後漢を再建した戦神」とする[61]。

渡邉義浩は、個人の武勇がものを言う騎兵指揮官としては、随一の能力を持っていたとしている[62]。

フィクションや民間伝承

呂布戯貂蝉
中国では古くから雑劇・京劇や、『三国志平話』・『三国志演義』などで描写されてきた。ある神話では呂布の方天画戟が龍の化身であるとする。また、民間伝承では呂布は呂良と黄氏という親子の第四子として生まれたとされ、その時黄氏は虎に襲われる夢を見、呂布が生まれた瞬間山が崩壊。呂布の二つの目は精悍で、自ら臍の緒を切って立ち上がったという。また、雑劇や京劇では美男子、才子として描かれ、貂蝉との悲恋を演ずる事も多い[63]。

三国志演義

三英戦呂布
身長は一丈、赤兎馬にまたがり、方天画戟を愛用の武器とし、煌びやかな鎧をまとう、豪壮な武者として描かれている。猛々しく華やかだが、欲望に弱く、董卓と対立した義父の丁原を赤兎馬欲しさに殺すなど人間的な面も際立たせ、『演義』を彩る大きな個性として際立った存在感を持つ。また、「空前絶後[64]」と称される彼の驍勇振りを表す描写としては、ただ一騎で数万を蹂躙し、張飛と一騎打ちを演じ、さらに関羽・劉備が加わってもなお持ちこたえる「三英戦呂布」が描かれた虎牢関の戦いが特に有名である[注釈 4]。

また、籠城中に自分だけ豪勢な食事をし、酒ばかり飲んでいて部下を殴りつけたり、怒鳴り散らしているため人心を失う。そこで、自分を戒めるために禁酒令を出すが、部下の侯成が善意から猪料理と酒を薦めたのに、自分を処刑する口実と解釈して腹を立て、百叩きの刑としている。それが恨みを買う一因となって、酒に酔って寝ていた所を侯成・宋憲・魏続に捕らえられてしまう。

陳宮・高順らが斬首された後、捕らえられて曹操に命乞いをするものの、劉備から「丁原や董卓らの事をお忘れですか」と言われる。これに激怒して呂布は「この大耳野郎が、陣門で戟を射て助けてやった事を忘れたか!」と口を極めて劉備を罵るが、同じく処刑のために連行されて来た張遼に「この匹夫めが! もはや死あるのみ、何を恐れるか!」と一喝され、処刑される。ただし濮陽で曹操の「なぜ仇でもない吾が州を襲うか」という問いに対し「誰が取ろうと漢の城は漢の城なのに、お前一人のものだと言うのか」と論破したり[65]、袁術と劉備の衝突の際は優れた見識を示し[66]、謀で戦争を防ぐ[67] 等、聡明さを伺わせる面も見られ、史実と同様に劉備の妻子を2度も保護したり[68]、最後の戦いで陳宮よりも妻の意見を重視する[69] など、情の厚さ故にチャンスを逃した、自分の心に素直な少年の如き英雄[70] としても描写される。

正室の厳氏との間に一人の娘を儲けた。袁術の子との婚約を交わされた。また、寿春の袁術の下へ呂布自らが娘を担いで赴くも、途中で劉備軍に矢を射掛けられ引き返すという場面などが付け加えられ脚色されている[注釈 5]。

近現代の作品
中国史上でも項羽と共に、特に武力に優れた人物とされることが多い[71][72]。『BB戦士三国伝』『蒼天航路』などでは強者との戦いに魂を踊らせる武人としての側面が強調され、劣勢、敗北後も命乞いを一切せず矜恃を貫く人物として描かれている。

貂蝉をはじめとする女性関係に注目されることもあり、横山光輝の『三国志』など創作性の強い作品では、董卓を裏切った理由を貂蝉との密通であると断定的に語られることも多いが、その一方で北方謙三の『三国志』のように妻に忠実な人物として描かれることもある。

その他に呂布を主題とした作品には次のようなものがある。

映画
『三国志 呂布 鬼神伝』(2020年、演:チャールズ・リン)
テレビドラマ
『三国志 呂布と貂蝉』(2002年、演:ホアン・レイ)
小説
『呂布猛将伝』(2010年10月31日発売 著・塚本靑史)
漫画
『名探偵呂布』(著・長沢克泰うどん)- 知力1、武力100の名探偵呂布が助手の高順、陳宮と難事件解決に挑む短期連載作。
『終末のワルキューレ異聞 呂布奉先飛将伝』(作画・オノタケオ)- 『終末のワルキューレ』のスピンオフ作品。
ことわざ
曹操が呂布を殺す(曹操殺呂布)
後悔するの意味[73]
呂布が貂蝉と戯れる(呂布戯貂蝉)
英雄が女難に遭うの意味[74]
関連人物
親族
魏氏(妻、魏続の同族)[75]呂布が下邳城に包囲されたとき、陳宮が提案した城の内と外で曹操を挟み撃ちする策に反対。
娘(袁術の子の婚約者)
演義での妻
厳氏(正室):史実の妻である魏氏の記述と同じだ[76]。
曹豹の娘(側室、早世)
貂蝉(妾)
所属配下
袁渙
王楷
郝萌
韓暹
魏越
魏种
魏続
許汜
許耽
侯諧
高雅
高順
侯成
呉資
蕭建
章誑
徐翕
秦宜禄
成廉
薛蘭
宋憲
曹性
張弘
趙庶
張超
張邈
張遼
陳紀
陳宮
陳羣
陳珪
陳登
汎嶷
畢諶
毛暉
楊奉
李鄒
李封
劉何
同盟関係
尹礼
呉敦
昌豨
臧覇
孫観
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E5%B8%83
8:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2022/12/22 (Thu) 20:50:44

献帝 (漢)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AE%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)

献帝(獻帝、けんてい)は、後漢の第14代(最後)の皇帝。諱は協。霊帝の次男で、少帝劉辯の異母弟。母は美人(側室)の王栄。諡号は、魏からは孝献皇帝、蜀漢からは孝愍皇帝。

生涯
幼少期
生母の王栄は霊帝の寵愛を受けて、劉協を産むと、何皇后の嫉妬を受けて毒殺されたという[4]。母を失った劉協は、嗇夫の朱直によって暴室で養育された。一年後、霊帝の生母の董太后は劉協を引き取って養育したため、董侯と呼ばれた。『後漢紀』によると、既に当時、霊帝には嫡妻の何皇后が産んだ長男の劉辯がいたが、暗愚であったため皇太子に立てていなかった。そこで、大臣たちは利発な劉協を皇太子に立てるよう進言した。しかし霊帝は何皇后を寵愛し、また外戚である何進にも遠慮していたため、結局、劉協を後継者に指名できなかった。霊帝は病が重くなると、上軍校尉の蹇碩に劉協を託した。蹇碩は董太后や董重とともに何進を排除し、劉協の擁立を目指したが失敗した。

中平5年(189年)4月、霊帝が崩御すると劉辯が即位し(少帝)、劉協は勃海王に封じられた。劉協は、生まれてすぐに霊帝の元から離れて暮らし、その上、まだ幼少であったにも関わらず、父帝の死を悼み悲しんだ。その様子を見た大臣たちは皆心を痛めたという。同年秋7月、陳留王に移封される。

当時、朝廷では外戚であった何進の派閥と十常侍ら宦官の勢力が対立していたが、8月に何進が嘉徳殿[5]の前で十常侍に暗殺されると、袁紹らが挙兵して押し寄せ、混乱に陥った。袁術が雒陽城の南宮を攻めると、張譲らは中黄門に命じて宮殿の門を閉ざした。袁術が青瑣門(嘉徳殿の門)に火を放つと、張譲らは長楽宮に参内し、何太后・少帝・陳留王を連れて複道を通り、北宮の崇徳殿へ移った。しかし、袁紹の兵が北宮に攻め入って来たため、張譲・段珪は少帝と陳留王をまた連れ出し、僅かな供回りを伴い雒陽の北門(谷門)から逃げた。一行は夜に黄河の畔の小平津に辿り着いた。しかし、そこで尚書の盧植らが中常侍を討ち、少帝らを保護した。少帝と陳留王は、蛍の微かな光を頼りに夜道を数里歩いた後、ようやく民家で手に入れた露車(幌などの覆いが無い車)へ乗る事ができたという。北邙山の北まで来ると、少帝は馬に乗り換え、陳留王も河南中部掾の閔貢が御す馬に乗って帰還した。

雒陽の北の郊外で、朝廷の百官と共に少帝を出迎えたのが、并州牧の董卓だった。少帝が董卓の兵に怯えて啜り泣いたのに対し、陳留王は冷静さを保ち、董卓に事件の経緯を尋ねられると理路整然に答えたという。この時、少帝の年齢は14歳、陳留王が9歳だった。野心を抱いていた董卓は、陳留王が賢明であり、また、その祖母の董太后が自分と同族である事から、皇帝に立てようと考えたという。

皇帝に即位
その後、朝廷の実権は、混乱に乗じて都へ入った董卓によって掌握される。9月、少帝が廃位され弘農王になると、代わって陳留王が皇帝に擁立された。間もなく弘農王は董卓に殺された。『後漢紀』によると、兄の死を聞いた献帝は玉座から降りて、辺りを憚らず嘆き悲しんだという。

初平元年(190年)春正月、董卓の専横に反発した袁紹ら各地の刺史や太守が兵を起こすと、朝廷は翌月に遷都を決め、献帝を長安へ移した。遷都が実施されたのは、2月17日の事。献帝が長安へ着いたのは3月5日だった。この時、洛陽の民も董卓によって強制的に移住させられた。初平3年(192年)夏4月、献帝の病気回復を祝い、未央殿で大規模な集会が行われたが、そこで董卓は腹心の呂布に暗殺された。その後、王允が朝廷の政治を取り仕切ったが、一月余りで長安は董卓残党の攻撃を受けて陥落し[6]、政治の実権が李傕や郭汜らに奪われたため、元の木阿弥となった。この頃、反董卓の兵を挙げた諸侯らが各地に戻って割拠したため、後漢王朝は内乱状態に陥った。

興平元年(194年)春正月、元服。2月、亡き生母に霊懐皇后の称号を贈り、文昭陵に改葬。興平2年(195年)2月、李傕と郭汜の内紛が起こり、献帝はその権力闘争に巻き込まれた。3月、献帝は李傕の軍営に連れ去られ、宮殿が焼き払われた。郭汜が李傕を攻めた際は、夥しい数の矢が射込まれ、献帝の傍近くにまで届いたという。

曹操の傀儡
建安元年(196年)秋7月、楊奉・楊彪・韓暹・張楊・董承らに擁され洛陽へ帰還[7]。8月、曹操の庇護を受けて許に遷都。これ以降、曹操は漢室の庇護者として諸侯に号令をかけるようになった。また、曹操は対外的には漢室の庇護者として振舞う一方で、献帝の周辺から馴染みの者を排除し、自らの息のかかった者を配すようにもなった。

このような状況に憂慮した献帝は、曹操が謁見した時に「朕を大事に思うならよく補佐してほしい。そうでないなら情けを掛けて退位させよ」と、忠誠か譲位のどちらかにするようちらつかせた。このとき曹操は恐懼のあまり冷や汗をかいたため、以降宮中への参内を控えるようになったという[8]。

196年に曹操の庇護を受けてから、ようやく献帝の王権は安定をみたが、同時に王朝での実権を曹操に掌握された。曹操の身分は丞相・魏公・魏王と地位も上がっていった。これにより後漢は献帝在位中に、事実上の曹操王朝といえる状態に変質してしまった[9]。建安19年(214年)には献帝の皇后伏寿が殺害され、献帝は曹操の娘であった曹節を皇后とする事を余儀なくされた。

後漢の滅亡
建安25年(220年)、曹操が死去し、子の曹丕が魏王を襲位。曹丕とそれを支持する朝臣の圧力で、同年の内に献帝は皇帝の位を譲る事を余儀なくされ、ここに後漢は滅亡した。この時に用いられた譲位の形式は禅譲と呼ばれ、後世において王朝交代が行われる時の手本となった[10]。

皇后である曹節は、漢室への忠義として皇后の玉璽を手放すことを拒み続けたが「とは言え、私があくまで拒めば、兄は陛下や私に容赦しないでしょう」と嘆息して、使者を激しく詰り「天に祝福されないのか」と嘆き、玉璽を放り投げ涙を流した。その場に居た者は皆顔を上げられなかったといわれる[11]。

劉協は曹丕(魏の文帝)から山陽公に封じられ、皇帝という身分は失っても皇帝だけが使える一人称「朕」を使う事を許されるなど、様々な面で厚遇を受けた。また、劉氏の皇子で王に封じられていた者は、皆降格して列侯となった。

益州に逃れて曹操への抵抗を続けていた劉備は、劉氏の末裔であることから曹操の魏王に対抗するため漢中王を名乗っていたが、献帝が殺されたという誤報が伝えられると、漢室の後継者として皇帝を称した上で(蜀漢)、献帝に対して独自に孝愍皇帝の諡を贈った。また、揚州を中心に勢力を保っていた孫権も後に呉国皇帝を称し、大陸が魏・呉・蜀漢とで三分される三国時代に突入した。

その後、劉協は山陽公夫人となった曹節と共に暮らし、青龍2年(234年)3月、54歳で死去した。魏は孝献皇帝と諡した。

末裔
劉協の太子は父に先立って死んでおり、劉協の孫の劉康が青龍2年(234年)に祖父の跡を継いで山陽公となった。魏より禅譲を受けた西晋の時代になっても山陽公はそのまま存続を許された。劉康は太康6年(285年)に死去し、子の劉瑾が跡を継いだ。劉瑾は太康10年(289年)に死去し、子の劉秋が跡を継いだ。

永嘉の乱の真っ最中の永嘉3年(309年)、劉秋は匈奴系の漢趙国(前趙・劉趙)の将軍である汲桑の軍によって殺害され、爵位は断絶した。後に東晋の時代になって、山陽公の末裔を捜索する詔勅が出されている。

真偽は不明ながら、4世紀から6世紀にかけて日本列島に渡来した渡来人の中には、献帝の子孫を称するものが多く見られる。

詳細は「東漢氏」を参照
年表
中平6年(189年)4月、霊帝崩御。蹇碩・董太后・董重が、何進の排除と劉協の擁立を謀るも失敗。同月、劉弁即位。劉協は勃海王となる。7月、劉協、陳留王となる。8月、何進と十常侍の争いによる朝廷の混乱に乗じ、董卓が雒陽(洛陽)に入城。劉弁を廃位し、劉協を皇帝に擁立する。11月、董卓、相国となる。
初平元年(190年)正月、袁紹・曹操ら関東の諸侯が董卓に反旗を翻す。2月、董卓、長安への遷都を強行する。
初平2年(191年)2月、董卓、太師となる。
初平3年(192年)4月、董卓、王允と呂布に暗殺される。王允、録尚書事となる。6月、董卓軍の、李傕・郭汜・樊稠・張済らが長安を攻撃。王允が殺される。9月、李傕は車騎将軍、郭汜は後将軍、樊稠は右将軍、張済は鎮東将軍となる。
興平元年(194年)正月、興平に改元。献帝、元服する。
興平2年(195年)2月、李傕が樊稠を殺害し、郭汜とも戦う。以後、関中は戦乱となり、献帝は各地を転々とする。4月、貴人の伏氏を皇后とする。
建安元年(196年)7月、献帝、洛陽に帰還。8月、曹操を呼び寄せ、領司隷校尉・録尚書事とする。都を洛陽から許に遷す。11月、曹操、司空・行車騎将軍となる。
建安2年(197年)3月、曹操の推挙により袁紹が大将軍となる。この年、江淮で飢饉が起き、民は互いに食い合った。
建安5年(200年)正月、車騎将軍の董承・偏将軍の王服・越騎校尉の种輯ら、密詔を受け曹操暗殺を計画する。曹操、董承らを殺害する。9月、曹操、袁紹の軍と官渡で戦い、勝利する(官渡の戦い)。
建安9年(204年)8月、曹操、冀州を平定し、冀州牧となる。
建安12年(207年)8月、曹操、烏桓を柳城に破り、蹋頓を斬る。11月、遼東太守の公孫康が袁尚・袁煕を殺害。曹操河北を平定する。
建安13年(208年)6月、三公の制度を廃し、丞相・御史大夫を設置。曹操、丞相に就任。郗慮、御史大夫に就任。7月、曹操、南征して劉表を攻撃。劉表は死去し、子の劉琮が曹操に降伏。10月、曹操、水軍を率いて孫権を攻撃するも、周瑜に烏林・赤壁で敗れ撤退(赤壁の戦い)。
建安18年(213年)5月、曹操、魏公となり、九錫を加えられる。
建安19年(214年)11月、曹操、伏皇后を殺害。
建安20年(215年)正月、貴人の曹節(曹操の娘)、皇后となる。
建安21年(216年)4月、曹操、魏王となる。
建安23年(218年)正月、少府の耿紀・丞相司直の韋晃らが曹操殺害を実行したが失敗(吉本の乱)。
建安25年(220年)正月、曹操死去。子の曹丕が魏王となる。3月、延康に改元。10月、曹丕に皇位を禅譲し、後漢滅亡。劉協は山陽公に封じられる。
青龍2年(234年)3月、死去(54歳)。
宗室
【漢王朝系図】(編集)
后妃
皇后伏寿(伏完の娘)
献穆皇后(曹操の娘、曹節)
貴人曹憲、貴人曹華、貴人董氏(董承の娘)、貴人宋都
子女
太子(名は不詳)
南陽王 劉馮
済陰王 劉熙
山陽王 劉懿
済北王 劉邈[12]
東海王 劉敦
長楽公主 劉曼
伏氏との皇子2人
曹丕の嬪2人

劉康
曾孫
劉瑾
玄孫
劉秋
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9:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2022/12/22 (Thu) 20:53:24

曹操
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曹 操(そう そう、拼音:Cáo Cāo、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日))は、後漢末期の武将・政治家。詩人・兵法家としても業績を残した。字は孟徳[1](もうとく)、幼名は阿瞞、また吉利。豫州沛国譙県(現・安徽省亳州市譙城区)の出身。

後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、諡号は武皇帝。後世では魏の武帝、魏武とも呼ばれる。

羅貫中の小説『三国志演義』では敵役・悪役として設定される。

経歴
名門・沛国曹氏
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曹氏系図
父は曹嵩。中常侍・大長秋曹騰の養子となり曹氏を継ぎ(高位の宦官は養子をとって家名を存続することが可能だった)、太尉となっている。曹氏の先祖は前漢の丞相であった平陽侯曹参とされる。また、曹嵩の実家という説がある夏侯氏の先祖は前漢の汝陰侯夏侯嬰とされている。もし、曹嵩が夏侯氏の出であれば、彼の挙兵時から従軍した夏侯惇・夏侯淵らは従兄弟にあたることになる。裴松之が引く『曹瞞伝』及び郭頒の『世語』などによると、曹嵩はもともと夏侯氏であったというが、陳寿は『三国志』の本文では曹操自身は「出自不詳」としている。

なお曹騰には兄が3人おり、長兄・曹褒の孫が曹仁である。また次兄の子に曹鼎がおり、その孫が曹休・弟の子が曹洪である。

治世の能臣、乱世の奸雄
曹操は若くして機知と権謀に富んだが、放蕩を好み品性や素行を治めなかったため世評は芳しくなかった。ただ太尉の橋玄は「天下は乱れようとしており、当代一の才の持主でなければ救うことはできない。天下をよく安んずるのは君である」などと曹操を高く評価した。また、橋玄が紹介した月旦評で有名な後漢の人物鑑定家の許子将(許劭)は、「子治世之能臣亂世之奸雄」(子は治世の能臣、乱世の奸雄(姦雄))[2]または「君清平之奸賊亂世之英雄」(君は清平の奸賊、乱世の英雄)[3]と評した。曹操は後に橋玄を祀り、かつての恩義に報いた。

20歳のときに孝廉に推挙され、郎となった後、洛陽北部尉・頓丘県令・議郎を歴任した。

洛陽北部尉に着任すると、違反者に対して厳しく取り締まった。その任期中に、霊帝に寵愛されていた宦官蹇碩の叔父が門の夜間通行の禁令を犯したので、曹操は彼を捕らえて即座に打ち殺した。このため法の禁を犯す者は現れなくなり、曹操を疎んじた宦官などは追放を画策するも理由が見つからず、逆に推挙して県令に栄転させることによって洛陽から遠ざけた[4]。

光和7年(184年)、黄巾の乱が起こると騎都尉として潁川での討伐戦に向かい、皇甫嵩や朱儁とともに黄巾軍に大勝し、その功績によって済南の相に任命された。済南では汚職官吏の罷免、淫祠邪教を禁止することによって平穏な統治を実現し、後に東郡太守に任命された。しかし、赴任を拒否し、病気を理由に故郷に帰った。若くして隠遁生活を送ることになった曹操だが、その間も文武の鍛錬を怠ることはなかったという。

中平5年(188年)、黄巾の乱平定に功のあった者が選ばれた西園八校尉に任命された。

故郷にいるとき、王芬・許攸・周旌らによる霊帝廃位のクーデター計画に誘われるが、伊尹・霍光、呉楚七国の乱を例に挙げて参加を断った[5]。

反董卓連合軍
後漢末期の黄巾の乱勃発以前に、朝廷の実権を握り、栄華をほしいままにしていた10人の宦官(十常侍)を粛清するため、大将軍何進は諸侯へ向けて上洛を呼びかける檄文を飛ばした。曹操はこの宦官粛清計画を非難している。曹操の父は大宦官の曹騰の養子であったため、曹操自身も宦官の利点と危険性をよく理解していた[6]。

大義名分を何進の檄文が整えてくれている以上、都に上洛し宦官を排除して天子を補佐することが権力を握るための最短路となった。中平6年(189年)8月27日、首謀者の何進が段珪に殺されるも、袁紹と袁術が宮殿を攻めて宦官を皆殺しにしたことで、朝廷内に栄華を極めた宦官の時代もついに終焉を迎えた。しかし、大宦官の曹騰の孫にあたる曹操にとっては、安定して出世することが出来たはずであった未来も、同時に失われたとも言える。

何進の檄文にいち早く反応した董卓が洛陽に上洛、少帝弁を廃して献帝協を立て、朝廷を牛耳った。董卓は曹操を仲間に引き入れようとするが、董卓の暴虐ぶりを見た曹操は妻子も連れずに洛陽から脱出し、故郷に逃げ帰った(その間卞夫人らは袁術に面倒を見られている)。

この帰郷の際、真偽不詳ながらも有名な逸話が呂伯奢の家族の殺害である。呂伯奢は曹操の知人で、呂伯奢本人は曹操が立ち寄った際には留守であったという。王沈の『魏書』では、呂伯奢の息子達による襲撃に対する正当防衛、『世語』では、呂伯奢の息子達の裏切りを心配した曹操の一方的な虐殺、『異同雑語』では、食器を用意する音を曹操殺害の準備と勘違いしたことによる、事故的な過剰防衛としている。また『異同雑語』では、このとき曹操が「俺が他人に背こうとも、他人が俺に背くのはならぬ」と言ったとされる。小説『三国志演義』では、この発言を「俺が天下の人間に背こうとも、天下の人間が俺に背くことは許さない」とし、曹操から陳宮が離れて行くことになった切っ掛けとしており、曹操の悪役のイメージを決定付ける逸話になっている。なお、『三国志』本文には、この逸話の記述はない。

その後、曹操は私財を投じて陳留郡己吾において挙兵した[7]。『世語』では陳留郡の孝廉である衛茲の援助を受けたとしている。とはいえ当初の仲間は夏侯惇や夏侯淵、曹洪や曹仁・曹純兄弟といった身内が中心であり、その勢力は小さなものにすぎなかった。

この後も董卓と諸侯の軋轢は進み、東郡太守の橋瑁によって詔勅が偽造され、各地の諸侯に連合を呼びかける檄文が飛ぶに至る。

初平元年(190年)、袁紹を盟主として反董卓連合軍が成立すると、曹操もまた父の曹嵩の援助を受け、親友である袁紹(曹操自身は袁紹を親友だとは思っていなかったという)のもとに駆けつけた。しかし、董卓打倒を目指して集結したはずの連合軍であったが、諸侯は自らの利益を重視していたために積極的に攻める者はおらず、逆に恐れを抱き董卓の軍を目前にしながら毎日宴会を催し、やがて諸侯は互いに牽制を始めることになる。

董卓が洛陽を焼き払い長安に遷都したので、曹操は盟主の袁紹に好機だと迫ったが、諸侯の打算により、攻撃命令は下されなかった。業を煮やした曹操は鮑信や張邈の配下の衛茲とともに董卓を攻撃した。しかし曹操・鮑信・衛茲の軍は董卓配下の徐栄との交戦により壊滅的な打撃を受け、衛茲は戦死した。その後、曹操は軍の再編をするために揚州などで徴兵し、兵に反乱を起こされたこともあったが鎮圧し[注 1]、司隸の河内郡に駐屯した。董卓が長安に撤退し、孫堅が洛陽を制圧すると、反董卓連合軍は解散した。

基盤構築
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初平2年(191年)、黒山軍の反乱をきっかけに曹操は袁紹によって東郡太守任命を上奏された。この時期、曹操を慕って多くの勇将や策士が彼の下に集まった。この頃、曹操は胡毋班の遺族とともに王匡を殺害した。

初平3年(192年)春、黒山軍の本拠地を攻め、眭固や匈奴の於夫羅に大勝した。同年夏4月、董卓が呂布に暗殺された。また、兗州刺史の劉岱が青州から来た黄巾軍に殺された。そこで鮑信・万潜らは曹操を迎えて兗州牧を引き受けさせた(朝廷より兗州刺史に任命された金尚は追い返した)。曹操は黄巾討伐の詔勅を受け、自ら鎧をまとって黄巾軍を討伐し、黄巾軍の兵30万人、非戦闘員100万人[注 2]を降伏させ、その中から精鋭を選んで自軍に編入し、「青州兵」と名付けた。これ以降、曹操の実力は大きく上昇した。

袁術の配下の孫堅は豫州刺史であったが、初平2年(191年)頃、袁紹は周喁を豫州刺史として派遣したので、孫堅と孫堅の主である袁術は周喁・周昂・周昕と豫州を奪い合うこととなった。これにより袁術と袁紹が対立することとなり、それぞれ群雄と盟約を結び対抗した。袁紹と同盟したのが曹操・劉表・周喁など、袁術と同盟したのが孫堅・公孫瓚・陶謙などである。袁紹は董卓により擁立された献帝に対抗すべく、劉虞の擁立を計画したが、袁術はこれに反対し、劉虞自身も皇帝になるのを拒否している。

初平4年(193年)頃、袁術は曹操の兗州に攻め込んだ(袁術の侵攻には朝廷により兗州刺史に任命された金尚と馬日磾を伴っていた)。袁術は公孫瓚に救援を求め、公孫瓚は劉備や徐州牧・陶謙を派遣する。曹操は袁紹と協力してこれらと当たり、その全てを打ち破った(匤亭の戦い)。敗れた袁術は、劉表に背後を絶たれ、本拠地の南陽郡を捨て、寿春に落ち延びていった。

この頃、曹操は陶謙に父の曹嵩や弟の曹徳を含めた一族を殺されている[注 3]。

初平4年(193年)秋、その恨みから復讐戦を行うことを決意し、50万の兵力で徐州に侵攻、陶謙から十数城を奪い、彭城での戦いで陶謙軍に大勝し、数万人を殺した。『三国志』武帝紀によれば、通過した地域で多数の者を虐殺したという。このことは後世の『後漢書』によれば、「曹操は数十万人の男女を殺し、曹操の軍の通過した所では、鶏や犬の鳴く声さえ聞こえなくなり、死体のため泗水の流れが堰き止められたと言われるほどの惨状であった」と書かれており、この虐殺に因り曹操は陳宮に背かれている[注 4][注 5]。

興平元年(194年)夏、曹操は再び徐州に侵攻し、通過した地域で多くの人を虐殺した。ところが、親友の張邈が軍師の陳宮と謀り呂布を迎え入れ反逆したため、領地である兗州の大半は呂布のものとなった。

張邈は呂布が袁紹を見限って去った後に呂布と会い、深い親交を結んだために袁紹に嫉妬されていた。曹操は袁紹にそのことを言われるたびに張邈を庇っていたが、張邈の方は彼が袁紹との友誼を優先して自分を殺すのではないかと不安になり、裏切ったとされている。張邈と曹操とは古くからの付き合いで、互いが死んだ時には互いの家族の面倒を見ることを約束するほどの仲だった。それほどまでに信頼していた人間に裏切られた曹操は、愕然とする。

曹操は兗州に戻り、呂布を攻めたが敗れ、青州兵は大打撃を受けた上に、曹操自身も大火傷を負った。幸い荀彧や程昱、夏侯惇などが本拠地を守り抜き、蝗害による飢饉が起き、兵糧の尽き果てた呂布が軍を引いたため、曹操は帰還を果たすことができた。

このような時、袁紹が機を見計らったかのように援助を申し入れてくるが、程昱の反対もあり、曹操はそれを断る。この年の秋、蝗害と旱魃のため穀物の値段は1石50万余銭にもなり、一帯では人が人を食らう状態になっていた。そんな中、徐州では陶謙が死に、劉備がそれに代わっていた。

興平2年(195年)春、定陶を攻撃。南城を陥落させられなかったが、折り良く着陣してきた呂布の軍勢を撃破する。同年夏には鉅野を攻めて薛蘭や李封を撃破し、救援に現れた呂布を敗走させた。呂布は陳宮ら一万と合流して再度来襲してきたが、この時曹操軍はみな麦刈りに出向いて手薄だったので、曹操は急遽軍勢をかき集めると、伏兵を用いて呂布軍を大破した。呂布は劉備を頼って落ち延び、張邈もそれに付き従ったが、曹操は、張邈が弟である張超に家族を預けているのを知ると、張超を攻撃する。同年秋、根拠地の兗州を全て奪還した曹操は、兗州牧に任命された。同年冬、張超を破り、張邈の三族(父母・兄弟・養子)を皆殺しにした。張邈は部下に殺された。

この頃、長安では呂布らを追った李傕らが朝廷の実権を握っていた。しかし、李傕らは常に内紛を続けていた。

建安元年(196年)1月、荀彧と程昱の勧めに従い、長安から逃げてきた献帝を迎え入れるために、曹洪に献帝を迎えに行かせたが、董承に妨害された。同年2月、豫州西部の汝南・潁川に割拠していた黄巾賊の黄邵や劉辟・何儀らを破り、建徳将軍に任命された。同年6月、鎮東将軍に昇進し、費亭侯に封じられた。同年7月、洛陽に赴き、首都を守護したため、韓暹は逃亡した。献帝は曹操に仮節鉞を与え、録尚書事とし、司隷校尉も担当させた。同年9月、董昭の策略を用いて、献帝を自らの本拠である許昌に迎え入れた。献帝は曹操を大将軍とし、武平侯に封じた。同年10月、政敵の楊奉を討伐して、後漢政府から追放したため、楊奉は袁術のもとへ逃走した。曹操は大将軍を袁紹に譲り、自らは司空・車騎将軍に任命された。またこの年、曹操は棗祗・韓浩らの意見を採用して、屯田制を開始している。

建安2年(197年)春、宛に張繡を攻めて降伏させた。この際に曹操は張繡の叔父である張済の未亡人を妾としたが、そのことに張繡が腹を立てていると知って彼の殺害を考えるも、事前にそれを察知した張繡に先制され、敗れる。この敗戦で流れ矢に当たって右臂に怪我をし[8]、長男の曹昂と弟の子の曹安民と忠臣の典韋を失った。

建安3年(198年)、張繡を穣に包囲した。劉表が兵を派遣して張繡を助けたので窮地に陥ったが、伏兵を用いて敵軍を挟み撃ちにして散々に撃破した。同年4月、後漢王朝は裴茂・段煨らを派遣して、李傕を滅ぼした[注 6]。同年冬、呂布を攻める。呂布は下邳城に籠城したが、水攻めによって城兵の士気を挫き、落城させ、豫州東部と徐州を制圧した。

建安4年(199年)、袁紹は公孫瓚を滅ぼし、河北を平定した。袁術は呂布や曹操に敗北し勢力が衰え、袁紹のもとに身を寄せようとしたが、その途中で病死した。曹操と河北を制圧した袁紹の対決が必至となると、張繡は再び曹操に降伏し、曹操も過去の恨みを呑んで迎え入れた。

関中には馬騰・韓遂が勢力を保っていたため、曹操は鍾繇を司隷校尉に任じ、関中方面の軍事と統治を任せた。鍾繇は馬騰・韓遂を説得して、曹操に従わせ、馬騰・韓遂の子供を人質として献帝に参内させた。

官渡の戦い以後
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建安5年(200年)、官渡の戦いで最前線に立って[注 7]最大の敵である袁紹を破り、その勢いを削いだ。

建安7年(202年)、袁紹が病死し、袁氏の勢力は袁紹の息子の袁譚と袁尚に分裂した。

建安9年(204年)、袁尚の本拠である冀州の鄴(現在の河北省邯鄲市臨漳県)を攻め落とし、ここに本拠地を移す。同年9月、献帝は曹操に冀州牧を担当させたため、曹操は兗州牧を辞退して返上した。

建安10年(205年)、袁譚を滅ぼし、冀州を平定した。同年、黒山軍の張燕が十数万人の軍勢を率いて降伏してきた。

建安11年(206年)、袁紹の甥の高幹を討伐し、并州を平定した。

建安12年(207年)、袁氏に味方する蹋頓ら烏桓族を討ち、二十数万人を降伏させ、袁紹の子の袁尚・袁煕を滅ぼし、幽州を平定し、河北(黄河の北岸地域)を統一した(白狼山の戦い)。

曹操の勢力は圧倒的なものとなり、残るは荊州の劉表・江東の孫権・益州の劉璋・漢中の張魯・関中の馬騰を筆頭とした群小豪族、寄る辺の無い劉備だけとなった。

建安13年(208年)春正月、三公制を廃止し、丞相と御史大夫を置いた。同年6月、献帝は曹操を丞相に任命した。同年秋7月、曹操は15万の軍を南下させ、劉表征討に赴いた。8月、劉表が病死した。9月、劉表の子の劉琮は代わって襄陽に駐屯していたが曹操に降伏し、劉備や劉琮は夏口へ逃走した。曹操は江陵に軍を進めた。そこで荊州を服従させた功績を判定し、荊州の名士韓嵩や鄧義らを任用した。また、益州牧劉璋がはじめて兵を提供してきた。

同年12月、長江南岸沿いに進んで孫権を討とうとしたが、孫劉連合軍に敗れた(赤壁の戦い)[9]。長江北岸に引き上げ、曹操が敗走すると孫劉連合軍に荊州の大部分を奪われた。

建安14年(209年)春3月、曹操は軍を率いて譙に到着した。秋7月、水路を経て合肥に陣取った。前年、揚州刺史の劉馥が死去していたため、揚州の郡県に長吏を置き、芍陂に屯田を開設し、軍備を整えた。12月、曹操は軍を率いて譙に帰還した。

建安16年(211年)、馬超をはじめとする関中の軍閥連合軍を破った(潼関の戦い)。その後、曹操軍の夏侯淵らが関中の軍閥連合軍の残党を制圧した。赤壁の戦いが終わった後も、曹操軍はその8年間(209年-217年)にわたり、孫権軍と巣湖周辺(合肥・濡須)で攻防戦を繰り広げた。その間、曹操は家臣の進言を受け入れず、四度も総力をあげた巣湖濡須の戦いで敗れて、大な戦果はなかったため、最終的には全て孫権により撃退された[10]。

建安18年(213年)に董昭らの提案に従い魏公となり、建安21年(216年)に魏王に封じられ、後漢皇帝が治める帝国内の一藩国、つまり王国として魏を建国。献帝には権力は無く、実際には後漢を背負う曹操だが、最後まで帝位にはつかず後漢の丞相の肩書きで通した。簒奪の意を問われた曹操は「自分は(周の)文王たればよい(文王は殷(商)の重臣として殷に取って代われる勢力を持っていたが死ぬまで殷に臣従し、殷を滅ぼした子の武王によって「文王」を追号された)」としてその意を示唆したともいう。

建安20年(215年)、漢中の張魯を降伏させた(陽平関の戦い)。漢中平定後、劉曄と司馬懿は、この勢いに乗じて劉備が支配して間もない益州に侵攻するよう曹操に進言したが、この意見は却下されている。217年末-219年間、曹操軍はその2年間にわたり、漢中を侵攻した。

建安24年(218年)、曹操は劉備討伐のために長安に入った。劉備軍が涼州武都まで兵を進めたが曹洪を派遣し呉蘭らを斬り善戦し張飛、馬超らは敗走した。一方、劉備本隊は陽平関に入り夏侯淵と対峙した。曹操は漢中の数万の住民を長安に移住させると、さらに一方では翌年に漢中を守備している夏侯淵が兵を割き、わずか400の兵で陣の修復に向かった。その隙に夏侯淵が黄忠に討ち取られた(定軍山の戦い)。曹操は自らふたたび漢中まで出向くも、陽安で徐晃が陳式を破るなど劉備との間で持久戦が続いた[11]。同年5月曹操は漢中を「鶏肋」と形容し[12]、攻略を諦めて撤退を命じ、漢中を劉備が領有した。また、劉備の配下武将の関羽が曹操の勢力下の樊城・襄陽を包囲し、曹操の配下武将の于禁・龐徳を捕虜とした。さらに、鄴においては丞相掾の魏諷が関羽に通じて反逆し、さしもの曹操も遷都まで考えるほどであったが司馬懿・蔣済の提案に従い、孫権へ結盟を求め、関羽を破った(樊城の戦い)。

建安25年(220年)、病のため死去。「戦時であるから喪に服す期間は短くし、墓に金銀を入れてはならず」との遺言を残した。死後、息子の曹丕が後漢の献帝から禅譲を受け皇帝となると、太祖武帝と追号された。

子孫
後世の正史『晋書』に複数の子孫が立伝されている他、『新撰姓氏録』や杜甫の『杜工部集』など、複数の文献に曹操の子孫が登場する。例えば杜甫は友人の曹覇に送った詩「丹青引・贈曹将軍覇」で、「将軍魏武之子孫、於今為庶為清門、英雄割據雖已矣、文彩風流猶尚存」(あなたは曹操の子孫で、今は庶民だが昔は名門だった、三国の群雄割拠の時代は昔のことだが、曹操の文芸や風流の伝統はあなたにも伝わっている)と述べている。日本にわたってきた渡来人の中にも曹操の子孫がおり、『新撰姓氏録』には「大崗忌寸、出自魏文帝之後安貴公也、大泊瀬幼武天皇[諡雄略。]御世。率四部衆帰化。(中略)亦高野天皇神護景雲三年。依居地。改賜大崗忌寸姓」とあり、曹丕(魏文帝)の子孫の安貴公が雄略天皇の時に一族とともに帰化し、神護景雲三年に「大崗忌寸」の姓を賜ったとしている。この一族からは高向玄理が出ている[13]。

2009年に曹操の陵墓が発見されたが、その真偽を確かめるために、復旦大学では、被葬者の男性のDNAと全国の曹姓の男性のDNAを照合することになった。漢民族では姓は男系で継承されるため曹姓の男性は曹操のY染色体を継承していると考えられるためである[14]。

復旦大学は中国全国の「曹」姓の家系258系統を調査。「曹操の子孫」の可能性がある8族についてさらに系統DNA検査を実施した。その結果6系統を「曹操の子孫」と断定した[15]。

曹髦の66代目の子孫、曹操から数えて70代目の直系子孫にあたると伝えられている曹祖義が遼寧省東港市に住んでいる。最近発見された曹操の墓の真偽の判定を下すため、その他の曹姓の男性と共に復旦大学でDNA鑑定を受けた。検査の結果曹祖義は子孫とされる中で最も曹操の直系に近いとされた。

また、これまで曹操の血縁上の繋がりがあるとされてきた夏侯氏の子孫のDNA鑑定を行ったところ、曹氏と夏侯氏の血縁関係は認められず、今後の研究の進展次第では曹氏と夏侯氏の血縁関係の定説が覆される可能性が出てきた。

一方、曹操の墓の発見を受けて曹操の子孫を名乗る人々も現れている。なかには司馬氏の迫害を逃れるために「操」姓に改姓したという「操氏」の人々もいる[16]。

陵墓
「西高穴2号墓」も参照
曹操の埋葬地は長年不明であったが、1998年に中国河南省安陽市安陽県安豊郷西高穴村で発見された後趙時代の武人の墓誌から、同村付近にあると推定され、2005年に発見された同地の大型古陵が墓誌に記された方位と『元和郡県図誌』と合致することから、曹操の陵墓とみなして発掘調査を進めた[17]。

この結果、約740平方メートルの面積の陵墓から、曹操を示す「魏武王」と刻まれた石牌など200点以上の埋葬品や60代前後の男性の遺骨と女性2人の頭部や足の遺骨が発見され、中国河南省文物局が曹操の陵墓であるということを2009年12月27日に発表[18][19][20]、中国社会科学院など他の研究機関も曹操高陵の可能性が高いとした[21]。2018年3月には河南省文物考古研究院によりこの陵墓が曹操のものであるとほぼ断定されており、改めて60代前後の男性の遺骨も曹操のもので間違いないと報じられている[22][23]。

発掘された上あごの歯は虫歯で失ったり欠けたりしているものが多く、死去の際には虫歯や歯周病で多くの歯を失っていた。なお同じ陵墓から発掘された卞夫人(曹操3人目の正室で曹丕の実母)のものと見られる下あごは歯が全て残っていた状態だったとの分析結果があり、卞夫人とは対照的であった[24]。

人物・事績

『南屏山昇月』(月岡芳年『月百姿』)赤壁を前にする曹操
外見
曹操の外見は正史本文(陳寿『三国志』)には書かれていない。野史には「形陋[25]」「姿貌短小[26]」とある。陵墓の発掘結果によれば、その身長は約155cm[27]であった。また前出通りその際の分析によって、晩年の曹操は虫歯や歯周病で歯をほとんど失っていたことがわかっている。曹操は使者の謁見で常に身代わりを立てたと伝わるが[28]、身長が低く歯が無かったことや、野史の通りであるなら歪んだ醜い顔をしていたために容姿に自信がなかったと考えられる。

出自
曹家は名臣曹参の末裔を称しており、父の曹嵩もまた三公の一である太尉まで昇進したものの、祖父の曹騰が宦官で、曹嵩は養子だったことから、常に士大夫層からそのことを馬鹿にされていた。袁紹の幕下にいた陳琳は、曹操との戦いに向けた檄文の中で、曹操を「贅閹の遺醜」(「宦官という卑しい存在の倅」という意味)と罵倒している[29]。このように、曹操の血筋や家柄は、彼の敵手であった袁紹・袁術ほど、他者に大きく先行するものではなかった。

幼少期
曹操は別の名を吉利といったが、幼い頃から嘘ばかりついていたので幼時は「阿瞞(嘘つきちゃん)」と呼ばれていた[30]。少年時代は鷹狩りや競犬ばかりにうつつをぬかし遊び惚けていた[31]。陳寿『三国志』本伝にも「曹操は若い頃から権謀術数に長け、狭義にまかせて(粋がって)勝手放題、学業には見向きもしなかった」とある。このためほとんどの友人から相手にされていなかったが、橋玄と何顒だけは曹操の才能を特別だと言っていた。橋玄の奨めで人物鑑定を得意とする許子将のもとへ通うようになったものの、曹操が自分の鑑定を頼んでも子将はなかなか答えようとしなかった。無理にと頼むと彼は渋々答えて言った、「お前は治世の能臣、乱世の姦雄(腹黒い英雄)だ」[32]。

政治家として
曹操は家柄や品行ではなく、才能のある人材を積極的に登用することを求めた。建安15年(210年)に布告した「求賢令」では、呂尚や陳平のエピソードを挙げ、「才能を重視し、家柄や過去にこだわらず、当時身分の低かった専門職の人々も厚く用いる(唯才是挙)」という登用姿勢を打ち立てている。自身を裏切った者でも才能があれば再登用しており、自身を裏切ったことのある魏种を再登用している。また『世説新語』軽詆篇によると、荊州の劉表は荷車は引けないが大食の巨大な牛を所有していて、それを自慢していた。だが曹操は荊州を征服した際、その牛を「どんなに大きくても役に立たないのでは意味が無い」と見なし、屠殺して宴の肴にしてしまった[33]という。

曹操は司空府・丞相府において尚書令の荀彧・中軍師の荀攸らを中心に軍師祭酒による参謀集団を構成し、政策・戦略決定に関与させた[34]。袁紹・劉表・劉備・孫権ら同時代の他の群雄は、客将・名士層や豪族を抱きかかえる目的を含めて、評定において従えた程度であったのに対し、曹操はより積極的に軍師・参謀を組織的な軍事・政治顧問として用いた。建安七子に数えられる陳琳・王粲・阮瑀・徐幹ら文人は、曹操の秘書として機密を扱った。

「孝廉」には儒教知識人が主に推挙されるが、曹操や曹操勢力の幹部である荀彧・荀攸・賈詡・董昭・鍾繇・華歆・王朗らが孝廉に推挙されている。川勝義雄は「曹操の元に多くの名士(主に儒教知識人)が集まり、やがて武将を抑えて曹操政権内で大きな権力を持った。魏公国が出来たとき、政府の(文官系の)重要官職は名士らによって占められた」としている[35]。

農政において、他の群雄達が兵糧確保の為に農民から略奪のようなことをしていた当時、曹操は韓浩・棗祗らに提言された屯田(屯田制)と呼ばれる農政を行った。屯田とは、戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる制度である。屯田制は当初は難航したが、袁渙の提案や任峻の尽力などにより軌道に乗せることに成功した。これによって潤沢な食料を抱えることになった曹操は、各地の民衆を大量に集めることができるようになった。この屯田制が、後漢の群雄割拠の中でそれほど出自的に有利ではない曹操が、他の群雄を退け勝ち残る理由の一つとなった。

また、強制婚姻による兵雇制度の改革(屯田制と相まって、軍の盤石化に効果を上げた)、朝廷内の意思を統一するため三公を廃止し丞相と御史大夫の復活による権限の一元化、禁酒法、軍閥の抑制を目的とした地方分権型から中央集権型軍隊への移行、州の区分けを再編することを目的とした合併独立などである。さらに建安10年(205年)には、世間の頌徳碑建立の盛行および厚葬の風潮を正し、石室・石獣・碑銘などを造り、豪奢な葬礼を行い墓碑を立てることを禁止する薄葬令を発した[36]。

曹操は勢力圏の境界付近に住む住民や異民族を勢力圏のより内側である中原や関中への移住政策を行った。これは戦争時にこれらの人々が敵に呼応したりしないようにするためや、敵に戦争で負けて領地を奪われても住民を奪われないようにするためでもあり、減少した中原や関中の戸口増加のためである。例として、馬超に呼応して興国(現在の陝西省漢中市略陽県)で叛いた武都氐の阿貴・千万を夏侯淵が破って降した際には、降った者たちの中で常から叛意の高い者は右扶風に移され軍政の元で厳正に支配され、従順な者は天水・南安郡に住まわされ郡太守に管轄された[37]。また漢中の張魯を破ってその支配権を得た際は当初は渋ったものの、和洽の献策を容れ、劉備との戦いの中、漢中の住民を関中に移住させたのちこの地を放棄した[38]。後漢末・三国時代の東アジアでは、相次ぐ戦乱やFairBaridge Curveが示す大寒波(山本武夫「邪馬台国の気候」)による不作により人口が激減し、また北方民族の南下が始まっており、労働者は非常に貴重だった。曹操は降伏させた烏桓族など北方民族を中国内地に住まわせ、烏桓の兵士を曹操軍に加入させた。曹操軍の烏桓の騎兵はその名を大いに轟かせた。この移住政策は北方と魏蜀の境の漢中と雍州では成功を収めたものの、孫権勢力との境界にある江淮地区での移住政策は劉馥と陳登と言った有力地方官の死去、かつての曹操による徐州虐殺や戸口登録者の屯田民編入への態度への不安などから失敗し、10余万戸の流民を発生させるに至った[39]。

渡邉義浩は曹操の税制に注目し、彼がこれを制定しなければ中国は統一国家として機能しなかっただろうとしている[40]。[41]

兵法家として
曹操は文章家でもあった、兵書『孫子』を現在残る13篇に編纂したのは曹操である[注 8]。これは『魏武注孫子』として後世に伝わることになる[注 9]。また、『隋書』経籍志によると、曹操には『孫子』の他にも、『続孫子兵法』『太公陰謀』『兵書接要』『兵書論要』などの兵法書を著している(いずれも散逸)。

『李衛公問対』によれば、曹操は騎兵の運用法に優れ、唐の名将の李靖も参考にしていたが、曹操の著した『新書』という兵法書の記述は分かり難いとしている。また、同書では、曹操が書いた『新書』や『孫子』の注には、「兵を正兵と奇兵に分け、正兵に先に戦わせて、奇兵に敵側面を攻撃させる」と書かれているとある。

諸葛亮は「曹操の智計、人に殊絶なり。その用兵は孫子・呉子を彷彿させる」と評している。(黙記・漢晋春秋)

朱敬則(中国語版)は『全唐文』にて曹操の策謀を「近古無二」つまりかつて無いこととしている。

将軍として
曹操は実戦においても用兵に通じ、優れた戦略家・軍略家であった。特に匈奴・烏桓・羌などの遊牧騎馬民族との戦いでは無類の強さを発揮している。また、奇襲・伏兵を用いた戦いを得意とし、袁術・呂布との戦いでは水攻めを用いて勝利している。謀略に長じ、軍の統率にも大いに長け、また兵書を編纂し評論できる確かな戦術理論を持っていた。

曹操がこと戦役において、袁紹・呂布・袁術ら他の群雄と比べ瞭然として勝っていた部分は、部下の進言・献策を的確に見極めて取捨選択し、利己心無しに受け入れる能力と言える。多くの重要な戦役においては、それらによって曹操が一時不利な状況から勝利を収めた例が少なくない。しかし、曹操は利害が絡まないと厳しい対応を取ることも少なくなく、不遜な態度をとったことを理由に許攸・華佗・孔融・婁圭・崔琰を処刑したり自害させている。

曹操は適材適所もわきまえており、『魏書』には「任された将兵は立場をよく理解し、自らの武と奇策をもって難に向かった」との記述が残る。荀彧によれば、曹操軍の軍法軍令は明白で、賞罰も的確に行われていた。

軍事学者の何去非(中国語版)は、著書『何博士備論』にて曹操を「用兵における第一人者[42]」としている。詩人の王勃も自らの『三国論』にて、彼の用兵を孫武・呉起に準えている。

喉の乾いた兵に対して、梅の木があるからと言って、兵士のつばが湧き、進軍をすることができたという逸話が世説新語では記載されている[43]。

文人・詩人として
曹操は「槊を横たえて詩を賦す[44]」と後世に言われたように、政治・軍事に多忙な中、多くの文人たちを配下に集めて文学を奨励すると同時に、自身もすぐれた詩人であった。彼は建安文学の担い手の一人であり、子の曹丕・曹植と合わせて「三曹」と称される。曹操は軍隊を率いること30数年間、昼は軍略を考え、夜は経書の勉強に励み、高所に登れば詩を作り、詩ができると管弦にのせ音楽の歌詞にしたという[45]。その記述の通り、現存する曹操の詩は、いずれも楽府という音楽の伴奏を伴った歌詞であり、代表的な作品として『文選』27巻 楽府上 楽府二首[46]に収録された下に記す「短歌行[47]」が有名な代表作である[48]。

對酒當歌 人生幾何 譬如朝露[注 10] 去日苦多 慨當以慷 憂思難忘 何以解憂 唯有杜康[注 11]
(後略)

— 『昭明文選』27巻 樂府上 樂府二首 短歌行[49]
曹操の詩に関する後世の評価には、南朝梁の鍾嶸『詩品』下巻 魏武帝魏明帝[50]の「曹公古直、甚有悲涼之句」(古直にして、甚だ悲涼の句)、明の周履靖の「自然沈雄」、陸時雍の「其言如摧鋒之斧」(その言、鋒を摧(くだ)く斧の如し)、清の沈徳潜の「沈雄俊爽、時露覇気」などがある。また、沈徳潜は曹操の詩には漢の空気が残り、曹丕以後は魏の作品であると記している。「月明星稀、烏鵠南飛」の句は宋の蘇軾の赤壁賦にも引かれまた苦寒行は唐の杜甫の石龕詩に利用されている。中国文学研究者の松本幸男は、曹操従軍文学と言うべき作が多いと指摘している。現存する彼の詩作品は多くはないが、そこには民衆や兵士の困苦を憐れむ気持ちや、乱世平定への気概が感じられる。表現自体は簡潔なものが多いが、スケールが大きく大望を望んだ文体が特徴である。

曹操の楽府「歩出夏門行」の第四章「亀雖寿」(中国語版)[51](208年頃の作)は楽府のなかでもその代表作である[52]。

渡邉義浩はこの中国史上初めての文学活動について、魏王朝を打ち立てる為の政治的な意図も含まれているとし、そしてこの一連の活動によって漢王室を滅ぼす基盤が出来たとする[53]。

その他
曹操は武芸にも優れており、揚州で兵を徴募した際、多数の兵卒が反乱を起こしたが、曹操は剣を手に数十人を殺し、残りのものは皆恐れをなしたといわれるほど、人並みはずれた腕力を持ち、自身で飛ぶ鳥を射たり猛獣を捕らえたりしたともいう[54]。また曹操は張譲の邸宅に忍び込んで発見された際、手戟を振り回し土塀を乗り越えて逃げ、その人並外れた武技で誰も彼を殺害できなかったという[55]。

裴松之が引用する張華の『博物志』では、草書・音楽・囲碁に長けた当時の人物を紹介した後、彼らに劣らぬ腕前の持ち主として曹操の名を記している。また、食に対する興味・関心が深く、知識も豊富であったことがうかがえる[注 12]。なお、陝西省漢中市博物館には、曹操が書いたと伝わる文字(石刻)の拓本が残る。

曹操が後漢の献帝に上奏した酒の醸造法「九醞春酒法」は、現在の日本の酒造業界において尚行われている「段掛け方式」の元であると言われている。[要出典]曹操の九醞春酒法に関する上奏文は現存している。

『三国志』何夔伝によれば、曹操は厳しい性格で、職務で誤りを犯した属官をしばしば杖で殴っていた。曹操が司空だった時、何夔は属官となったが、毒薬を所持し、杖で叩かれたら毒薬を飲む覚悟で職務に当たっていた。

西晋の文学者の陸機の「弔魏武帝文」によると、298年、陸機は宮中の書庫から曹操が息子たちに与えた遺言を目にする機会を得た。遺言には「生前自分に仕えていた女官たちは、みな銅雀台に置き、8尺の寝台と帳を設け、そこに毎日朝晩供物を捧げよ。月の1日と15日には、かならず帳に向かって歌と舞を捧げよ。息子たちは折にふれて銅雀台に登り、西にある私の陵墓を望め。残っている香は夫人たちに分け与えよ。仕事がない側室たちは履の組み紐の作り方を習い、それを売って生計を立てよ。私が歴任した官の印綬はすべて蔵にしまっておくように。私の残した衣服はまた別の蔵にしまうように。それができない場合は兄弟でそれぞれ分け合えよ」などと細々した指示が書き残されていたという。これを見た陸機は「愾然歎息」し、「徽清絃而獨奏、進脯糒而誰嘗」(死んだ後に歌や飯を供して誰が喜ぼうか)「貽塵謗於後王」(後の王に醜聞を伝える)と批評している。

文武両面に非凡な才能を見せた曹操を陳寿は「非常の人、超世の傑」(類稀なる才の持ち主であり、時代を超えた英雄である)と評している。

曹操の犯した虐殺、粛清
曹操は数多くの殺戮をした人物として知られているが、それら殺戮の話は『三國演義』で初めて創作された作り話ではない。 以下に曹操が犯した殺戮事件について、正史(陳寿『三国志』[56])本文および裴松之注に引かれた史書の記述を列挙する。 なお上項目の経歴と重複する話もあるが、虐殺について当項目でまとめるため改めて記した。また、各殺戮事件には「事実と異なる(殺戮事件そのものが無かった)」とする反論や、極端に死傷者の数を少なく解釈して被害を過小評価する主張、または「正しい虐殺だった」と述べて殺戮を正当化し擁護する主張が存在する[57]が、当項目では史書記録を列挙するのみとし近現代学者の主張は割愛する。

呂伯奢一家の殺害。
曹操が董卓暗殺に失敗し逃走していたとき匿おうとしてくれた呂伯奢と、彼の家人を皆殺しにした。殺害に至った経緯については上述の通り、「呂伯奢の息子が馬を盗もうとしたため正当防衛で殺害した(王沈『魏書』)」、「呂伯奢一家のもてなしを受けた後で、通報されたら困ると考え殺した(裴松之注『世語』)」、「呂伯奢の家人が食事の用意のために食器を並べていた音を武器の音と勘違いし、殺される前に殺した(孫盛『異同雑語』)」と史書により多少の違いがある。なおこの事件の後に曹操が「われ人に負(そむ)くとも、人われに負くことなからしめん(『異同雑語』)」と捨て台詞をして逃げた話は『三國演義』で引用され、曹操の人格を表す台詞として大変有名となった。

洛陽の北部尉時代、厳しい禁令をつくり僅かでも破った者へ極刑を下した。
霊帝に寵愛されていた蹇碩の叔父も、禁令を破り夜間外出したために即座に捕えて撲殺したという。都の人々は震え上がり曹操を憎んだが、追放する口実がなかったため彼を頓丘県令に推挙することで追い出した(呉人『曹瞞伝』[58])。

攻略した城の破壊、略奪、徐州等の住民虐殺。
上述されている通り、曹操は父親が徐州で殺されたことを怨み、193年、194年の二度にわたり徐州を襲撃した。史書には「曹操の軍によって徐州では男女数十万人が殺され、鶏や犬など動くものは全て殺された。泗水は投げ込まれた死体で堰き止められ流れが止まった。この虐殺によって徐州の五県では人の姿が途絶えた(范曄『後漢書』[59])。徐州住民虐殺については『三国志-武帝紀』本文に記載がないことを根拠として「虐殺の史実は無かった。死者は全て軍人と餓死者であった」とする反論も多く展開されているが、実際は本文にも「曹操軍が通り過ぎたところはどこでも多くの住民が虐殺された[60]。」と各所の虐殺を一括した表現による記載がある。

降伏した敵兵の捕虜を虐殺。
曹操は戦闘後に降伏した敵兵の捕虜を、生き埋めや斬首などで殺害していた。特に袁紹軍の捕虜については「将らの首を斬り、捕虜数千人を殺害し、全員鼻をそぎとり、牛や馬は唇や舌を切りとり、袁紹の軍に誇示した。袁紹の将兵は皆、恐れおののいた。」と詳細が記述されいる(烏巣戦の記述。『三国志』『曹瞞伝』)。また鄴の戦いでも袁氏の婦女子に対する蛮行、略奪と虐殺が記されている(『後漢書』)。裴松之注にも「諸書にすべて、公(曹操)が穴埋めにした袁紹の軍勢は八万ないし、七万だと書かれている。」と記されている。"諸書にすべて"とあることから、曹操が戦闘後に降伏した敵兵の捕虜を惨殺し略奪していたことは当時は誰もが知る事実であったと推測される。

献帝の忠臣を大量に粛清した。
曹操が許に献帝を迎え権勢をふるうようになった頃の記録に、「宮廷の内外で曹操によって誅殺された者が多くいた」とある。粛清された被害者の代表として趙彦の名が挙げられている。趙彦は献帝へ献策したことで褒美を賜られたが、このことが曹操の怒りを買ってすぐさま処刑された(『後漢書』)。

私怨で多数の人物を殺害。
曹操は許で献帝を傀儡とし実権を得た後、かつて自分を批判した者など怨みがある人々を殺害した(孫盛『魏氏春秋』陳琳の檄文)。辺譲は博学で曹操にも屈せず批判的な議論を続けたため、曹操の怒りを買って処刑された。袁忠は沛国の相だったときに曹操が法を犯したので罰しようとし、曹操の怨みを買った。袁忠は遠方の交州へ亡命したが、曹操は使者を派遣して地元の豪族へ依頼し、袁忠と一族を皆殺しにした。かつて曹操が若い頃に侮って彼を見下した桓邵も、同じく身の危険を感じて交州へ亡命していたが曹操の差し金により一族皆殺しとされた。

建安5年(西暦200年)の大処刑事件。
許に迎えられた献帝は名ばかりの天子となり、曹操の傀儡となっていた。車騎将軍の董承は献帝の密勅を受け、曹操の暗殺計画を企てた(『三国志-先主伝』[61]。しかし事前に発覚し、計画に関係した者[62]は一族もろとも処刑された。このとき董承の娘は献帝の妃で妊娠していたが、彼女も捕えられ殺害された。

皇后とその一族を殺害。
前述した董承らの処刑事件で、天子の子を妊娠していた妃まで殺害した曹操に恐怖を覚えた皇后の伏寿は、もと屯騎校尉であった父親の伏完へ「帝は董承が殺されたので曹操を怨んでいる。残忍な曹操は排除すべき」という内容の手紙を送った。しかし伏完は曹操を恐れて排除を実行できないまま死んだ。この手紙が十四年後の建安19年(214年)に発覚し、曹操は激怒して伏寿を廃后、幽閉した。彼女は幽閉されたまま死亡し、兄弟ともども伏一族は処刑された(『三国志-武帝紀』)。他史書による詳細によれば、曹操は華歆に命じて兵を使って宮中に押し入った。皇后は二重壁の中に隠れたが、壁は壊されて引きずり出された。ちょうどそのとき郗慮と会っていた献帝は、髪を振り乱し裸足のまま連行されようとしている皇后が「陛下、またお会いできるでしょうか」と涙ながらに助けを求めたのに対し、「私でさえいつまで命があるかわからないのだ」と言って為す術なく眺めることしかできなかった。皇后はそのまま連れて行かれて殺され、彼女の一族も数百人が殺された(呉人『曹瞞伝』)。この皇后殺害事件の後、曹操は娘を献帝に嫁がせて皇后とし、自らは天子姻戚の座にすわり強大な権力を手中に収めた(『三国志-武帝紀』)。また、伏寿と献帝の間には子が二人いたが、この子供たちも毒殺されている(『三国志-先主伝』)。

孔子の子孫である孔融を殺害。
博学な学者として名声が高かった孔融は、実権を握った曹操にも怯まずに率直な意見を続けていた。これを疎んじた曹操は「孔融が呉の使者に対し朝廷を誹謗する発言をした」と罪を被せ、孔融の妻子とともに処刑した(『後漢書』)[63]。

名医の華佗を拷問の末に処刑した。
華佗は曹操の頭痛を治療していたが、曹操が自分を見下して粗末に扱っていたため不満を覚えて故郷へ帰った。その後、曹操からの召喚に対して「妻が病床にある」ことを理由として応じなかったが、妻の病が虚言であることが露見し曹操は激怒した。曹操は華佗を捕縛して投獄、長期の拷問をくわえて殺した。後に曹操は自分の頭痛が悪化したとき華佗を殺したことを後悔している(『三国志-華佗伝』)。

崔琰の投獄と自害命令。
崔琰は優れた体格と威厳ある容姿をしていたため、容姿に自信がなかった曹操の代わりとして使者の応対をしていた(『世説新語』)。後に崔琰は丁儀の讒言で投獄されたが、囚人となっても立派に見えたため曹操に疎まれ自害を命じられた(『三国志-崔琰伝』)。崔琰は人望があり、「曹操に嫌われ殺害された人物のなかで、崔琰は最もその死を惜しまれ、未だに冤罪で殺されたと信じられている」と陳寿が評している。

楊脩の処刑。
楊脩は曹操が劉備と戦い、漢中を取ることができずに「鶏肋」と負け惜しみを言った際、その暗合を解いた唯一の人物だった。しかしそのことがあった直後に曹操が彼を処刑している。処刑の理由は不明。袁術の甥であったことから曹操に警戒されて処刑されたとする説(『後漢書』)、曹操が嫌う曹植の味方をしたことで疎まれ処刑された説(『三国志-曹植伝』、『典略』)など諸説が史書に記されている。楊脩は禰衡が「許昌には孔融と楊修しか優秀な人材がいない」と評した人物であり、その死は大変に惜しまれた。

優秀だった少年を危険視して殺害。
幼少時から天才として名高かった周不疑を、曹操は始め息子の曹沖の側近にしようと考えていた。しかし曹沖が死亡した後、曹丕には扱いきれないだろうという理由で彼を危険視し殺した。享年17歳だった(『三国志-劉表伝』)。

愛人を撲殺。
曹操は昼寝をするときに寵愛している女性を傍にはべらせる習慣があった。あるとき「すぐに起こしてくれ」と言って女性の膝枕で寝込んだが、よく寝ていたために起こせなくなった女性がそのまま寝かせていた。しばらくした後に自分で目を覚ました曹操は激怒して、この愛人を撲殺してしまった(『曹瞞伝』)。

兵糧不足の責任を担当係へ押しつけ、処刑。
敵の討伐に赴いた際、糧秣が不足してきたので困った曹操は担当係を呼んで「どうしたら良いか」と訊ねた。すると担当係は「枡を小さくすればどうにか食いつなげます」と答え、曹操はその通りにした。しかし兵士たちが枡が小さくなったことに気付き、「曹操は自分たちを騙している」との噂が流れると兵糧の担当係に罪をなすりつけ処刑し、「この男が枡を小さくして糧秣を盗んでいた」と布告して遺骸をさらした(『曹瞞伝』)。

独裁者としての曹操と三国志演義での悪役化

『三国志演義』で挿絵で描かれる、一般的な曹操の肖像画

京劇の曹操

中国の儺劇の曹操の面(清代)
詳細は「三国志演義の成立史#曹操」を参照
陳琳の檄文や、圧政・重税に苦しむ住民の反乱(『三国志-武帝紀』)などからも窺える通り、数多くの虐殺(前項参照)と漢朝廷の蹂躙・独裁を行った曹操への憎悪は同時代では大変に激しいものがあった。 同時代の憎悪が後を引き、曹操没後百年近くたった五胡十六国時代、既に曹操は批判の対象にされていた。曹操の後継政権である西晋を滅ぼした後趙の石勒は、曹操を司馬懿と並べて「孤児や未亡人を欺き、騙して天下を取った」(『晋書』石勒載記)と痛烈に非難している。しかし、魏の後継政権を称した北魏では、曹操は先代の名君として、『魏書』劉聡伝では「曹武削平寇讎、魏文奄有中原、於有偽孫假命於江呉、僭劉盗名於岷蜀」(曹操は天下を平定し曹丕は中原を支配したが、ニセの孫氏である呉や、ニセ劉氏である蜀が反旗を翻し三国時代になってしまった)とされていた。逆に南朝で編纂された『後漢書』では、曹操を悪人に描こうと史料を改変しており、前述の徐州虐殺のみならず、荀彧を暗殺し、漢王朝を乗っ取った極悪非道の人物として描くことになった。この『後漢書』の曹操悪人説は清の趙翼が高く評価したことから有名になった。趙翼は「実は『後漢書』の記述こそ真実であり、陳寿『三国志』は晋をはばかり嘘を書いた」と『二十二史箚記』で述べた。現代では『後漢書』の史料改変に逆に疑問の声が投げかけられており、一部では曹操の評価も逆転している[注 13]。

『三国志演義』の原型として確認できる最も初期のものとして、北宋の説話があげられる。『東京夢華録』に「説三分」なるジャンルがみられ、蘇軾『東坡志林』には、講談を聞いた子供たちは劉備が負けると涙を流し、曹操が負けると大喜びしたとの記述がある。一方、その能力は特に優れており、『三国論』の著者蘇轍によると、「曹操・孫権・劉備の三人は、その才をもって人を取り立てるを知っています。世間の人曰く、孫は曹に及ばず、劉は孫に及ばない」と評した。

南宋から元の頃にはこれらの物語は書物にまとめられ、『三国志平話』と呼ばれる口語体による三国物小説が生まれた。『三国志平話』もまた、曹操を悪者としている。

その後、羅貫中が三国物語をまとめ直したものが『三国志演義』で、大まかな流れは外れないものの蜀漢の陣営を正統とみなし、大衆の判官びいきの心理への訴求と儒教的脚色がなされている。

また、中国は唐末・五代以降常に異民族に領土を蚕食され続け、南宋期にそれに対する反発として大義名分と正統を重んじる朱子学が完成されてからは長く官学としての主流となると、三国志もまた正統と異端を断ずる格好の材料となっていった。特に南宋では、中原を異民族王朝金に征服されていたこともあり、中原回復を唱えた諸葛亮を自らと重ね合わせていたために魏は金と重ねあわされ悪役にされ、魏を正統王朝としていることから陳寿も非難を受け、曹操は多くの論者によって悪とされたと、『四庫全書総目提要』は論じている。蜀を正統王朝とする『続後漢書』のような史書も編纂され、曹操は正統王朝の漢を乗っ取った悪人として広く一般に認識された。

京劇でも曹操は悪役として扱われ、臉譜(隈取)も悪役のそれ(二皮)である。

近・現代の再評価(評価修正)
『三国志演義』の影響によって悪役としての評価が定着した曹操であるが、1950年代以降に入ってからは、「反儒教」のイデオロギーを掲げる中国共産党下の学者によって評価修正が進んでいる。

中華人民共和国成立前の近代の中国においては、西洋の進出に対してその劣位が明白になり、幾度となく近代化を目指しては失敗した背景に、思想的な儒教・華夷思想への偏重などがあったと反省され、思想的な枠組みを超えて合理性を追求した曹操の施策が、魯迅など多くの反儒教イデオロギーを持つ共産主義者によって評価修正された[64]。

特に曹操の評価修正を盛り上げたのは毛沢東で、彼の主導の下、曹操再評価運動が大々的に行われた。郭沫若が戯曲において曹操を肯定的に評価したのもこの頃である。また、文化大革命の時の批林批孔運動でも、曹操は反儒教の人物として肯定された。なお「反儒教」とはマルクス主義に基づくイデオロギーの運動である。マルクス主義を始めとする共産主義では帝国主義の骨格となる伝統を否定し、人々の精神である文化を破壊し再教育(洗脳[65])することで、真に革命が成功すると考える。このため暴力で政権を奪い、恐怖政治によって人民を支配した後も、"精神の革命"である文化破壊と再教育が続けられる。中国など東アジアでは人々の精神文化の根幹となっていた儒教・仏教・道教が"啓蒙"こと破壊のターゲットとなった[66]。『三国志』は特に蜀漢が儒教的であるとの烙印を押され、共産革命による攻撃のターゲットとなった。従って中国共産党が大躍進政策などで政権基盤を固めていた1950年代から、蜀漢を貶めて曹魏を称揚するための歴史修正議論が噴出している。

「曹操は黄巾乱を承継して中国統一を果たすための礎を築いた」「曹操は民族主義で中国を守った」「曹操の屯田、新税制は農民を地主の圧政から救い、飢民を消失させた」とする郭沫若を始めとする曹操称揚の説は『曹操論集』にまとめられ、その後の三国時代解釈の教本とされた。当記事中「曹操の大躍進」も『曹操論集』の踏襲だが、これは毛沢東の大躍進政策を曹操に投影して称賛しているものと見られる。好並隆司もこの件について『曹操論集―曹操論争よりみた中國「中世」史の理論―』(1960.09,洋学報 : 東洋文庫和文紀要 / 東洋文庫 編)のなかで

所で、この論争(引用者注:郭沫若を発端とした曹操評価変更の議論)の背景には極めて大きな思想斗争が含まれ、政治的な問題が介在していると思われる。先ず、その事情について概略ふれておこう。新中國が解放以来、八年間に、ブルジョア思想の批判、反右派斗争はほぼ所期の目的を達したが、なお一部の知識人には革命の実践を避けて、古代史研究に名をかり、中國の建設をサボタージュする分子が存在するという痛切な批判が中共中央宣伝部の陳伯達から問題にされた。これが五八年三月上旬のことであり、彼の報告をきつかけに"厚今薄古"の必要性が問題となり、歴史の研究の大勢が、五四運動以降の近代史重點という風に理解されたのである。これ以降、中國史學界は急激な左翼志向を生じ、…(略)
と解説している。

批林批孔運動では、儒法闘争史観が主張された。これは中国思想を儒教の系譜(孔子・孟子などが中心)と、道家・法家・兵家・墨家(老荘・韓非子・孫子・墨子等)や王充の二つに分け、儒家を悪の権化として法家を善玉とする史観である。中国共産党からすれば、これら二つの思想は「革命」の段階的進行であった、と説明されている[67]。身分制度を重視し、男女差別を人倫の基とした儒教の系譜に対しては否定的な評価がなされ、合理性を追求した法家の思想には甘い評価が為される傾向がある。その中で、曹操は法家の重要人物として高い評価を与えられた。そのため、曹操も単なる「悪役」から多少味のある「悪役」程度には評価を変えてきているようになり、京劇の隈取りも善玉のものに変えるよう政府から指示されたという(前述竹内論考)[注 14]。

日本では吉川英治が小説『三国志』において曹操を悪役ではなく作品前半の主人公の一人として描き、新たな曹操像を提示した。1962年に吉川幸次郎が『三国志実録』において曹操の再評価を行い、特に文学の面での功績を高く評価した。またそれまで日本語訳の無かった『正史三国志』に着目し、曹操の事跡を正史によって詳しく紹介した。長年かけ弟子の井波律子らが完訳した。

陳舜臣作『秘本三国志』は、『三国志演義』に依拠しない、新しい史実解釈を用いた小説として、大きな影響
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2022/12/22 (Thu) 21:24:43


陳舜臣作『秘本三国志』は、『三国志演義』に依拠しない、新しい史実解釈を用いた小説として、大きな影響を与えた。のちに作者は『曹操』とその続編『曹操残夢』を著した[注 15]。この他曹操を主役格に据えた作品として、北方謙三作『三国志』がある。漫画作品では吉川英治『三国志』を漫画化した横山光輝作『三国志』や、李學仁原案(原作)・王欣太作画『蒼天航路』が登場し、またコンピュータゲームでもコーエー(現・コーエーテクモゲームス)から『三國志曹操伝』が発売されている。

歴史学的には、まず中国における郭沫若らの曹操論争があって文学的な評価が進み、その流れを受けて日本でも、京都大学の谷川道雄・川勝義雄らによる曹操集団および曹魏政権に対する再評価が進んだ。曹操の政策として知られる九品官人法は魏晋南北朝時代の貴族制度の前史として言及されることが多い[注 16]。川勝らの曹操ないし曹魏政権、魏晋南北朝理解に対して、越智重明・矢野主税などとの間では1950年代から1970年代の間に活発な議論があった[要出典]。また後漢が建国の経緯から豪族のと知識人を糾合した政権であり、統治機能が失われた黄巾の乱以降に、いち早く豪族と知識人を糾合することに成功したのが曹操であり袁紹であった。曹操が袁紹に勝利した要因には上述の九品官人法のような現実的な人材登用制度の採用がある。また屯田制は豪族が土地と農民を所有する制度に対抗するために導入したが、結果として全ての土地が曹氏のものとなった。これはのちの西晋の占田・課田制とそれに続く均田制をかんがみると公地公民制度の端緒といえる。

逸話
献帝の初平年間(190年 - 193年)ごろに、長沙郡(現在の湖南省長沙市)の人である桓という男が亡くなった。ところが棺に収めてから一カ月余り経ってから、母親が棺の中で声がするのを聞きつけ、蓋を開けて出してやると、そのまま生きかえったのであった。占いによると、「陰の極致が陽に変ると、下の者が上に立つ」ということである。その後果たして曹公(曹操)が平役人の中から頭角を現して来たのである[68]。
魏武帝(曹操)が洛陽に建始殿を建てたとき濯龍園の木を伐採していたところ血が流れでた。また梨の木を移植しようとして根を傷つけたところ血が流れ出た。武帝(曹操)はこれを縁起でもないと嫌な気持ちでいたがやがて病に臥しその月に亡くなってしまった。この年を武帝(曹操)の黄初元年としたのである[69]。
ことわざ
ウィクショナリーに関連の辞書項目があります。
說曹操曹操就到、说曹操曹操就到
曹操の話をすると曹操が現れる(説曹操,曹操到)。
講談などで、曹操打倒の陰謀を図ると必ずといっていいほど露見してしまうことから、日本の「うわさをすれば影がさす」と同じ意味で使用される。
曹操が呂布を殺す(曹操殺呂布)。
後悔するの意味。渡邉義浩は『三国志ナビ』で曰く、傑出した武力を持ち、曹操を一番苦しめたのは呂布で有り、何去非も「呂布は驍勇で有り、転戦するに無敵であった」と、そのことについて言及している[70]。
家族
父母
曹嵩
丁氏

曹徳[注 17]
曹彬(薊恭公)
曹玉(朗陵哀侯)
妻妾
正室:

劉夫人
丁夫人
卞王后(後、皇后を追贈)
側室:

杜夫人、環夫人、秦夫人、尹夫人(元何進の子の妻)
王昭儀
孫姫、李姫、周姫、劉姫、宋姫、趙姫、陳姫
某氏[注 18] (元張済の妻)

兄弟の長幼は不明な部分が多いため、以下は『三国志』武文世王公伝の兄弟順に従う。裴松之はこれが生母の貴賤に拠った順序であると指摘している。

豊愍王 曹昂(子脩)- 母は劉夫人
相殤王 曹鑠(早世)- 母は劉夫人
文帝 曹丕(子桓)- 母は卞王后
任城威王 曹彰(子文)- 母は卞王后
陳思王 曹植(子建)- 母は卞王后
蕭懐王 曹熊(早世)- 母は卞王后
鄧哀王 曹沖(倉舒)- 母は環夫人
彭城王 曹據 - 母は環夫人
燕王 曹宇(彭祖)- 母は環夫人
沛穆王 曹林 - 母は杜夫人
中山恭王 曹袞 - 母は杜夫人
済陽懐王 曹玹(早世)- 母は秦夫人
陳留恭王 曹峻(子安)- 母は秦夫人
范陽閔王 曹矩(早世)- 母は尹夫人
趙王 曹幹 - 母は陳姫[注 19]
臨邑殤公 曹上(早世)- 母は孫姫
楚王 曹彪(朱虎)- 母は孫姫
剛殤公 曹勤(早世)- 母は孫姫
穀城殤公 曹乗(早世)- 母は李姫
郿戴公 曹整 - 母は李姫
霊殤公 曹京(早世)- 母は李姫
樊安公 曹均 - 母は周姫
広宗殤公 曹棘(早世)- 母は劉姫
東平霊王 曹徽 - 母は宋姫
楽陵王 曹茂 - 母は趙姫

曹憲(献帝の貴人)
曹節(献穆皇后)
曹華(献帝の貴人)
清河公主(夏侯楙夫人)- 母は劉夫人
安陽公主(荀彧の長男の荀惲の妻)
金郷公主(何晏夫人)- 母は杜夫人
高城公主 - 母は杜夫人[71]、金郷公主と同一人の可能性がある
従子・族子
甥もしくは曹操より一世代下の親族

曹安民
曹休
曹真
曹彬
曹遵
夏侯充
夏侯楙
夏侯衡
夏侯覇
夏侯称
夏侯威
夏侯栄
夏侯恵
夏侯和
夏侯尚
夏侯儒
従兄弟・族兄弟
いとこもしくは同世代の親族

夏侯惇
夏侯淵
夏侯廉
曹仁
曹洪
曹純
曹紹
曹邵?
養子
何晏(連れ子)
秦朗(連れ子)
曹真(従子とも)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%93%8D
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2022/12/22 (Thu) 21:25:18

劉備
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%82%99

劉 備(りゅう び、延熹4年(161年) - 章武3年4月24日(223年6月10日))は、後漢末期から三国時代の武将、蜀漢の初代皇帝。字は玄徳げんとく。

黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後は各地を転戦した。諸葛亮の天下三分の計に基づいて益州の地を得て勢力を築き、後漢の滅亡を受けて皇帝に即位して、蜀漢を建国した。その後の蜀、魏、呉による三国鼎立の時代を生じさせた。

明代の小説『三国志演義』では中心人物として登場する。

人物
性格について
劉備は読書を甚だしくは楽しまず、狗馬や音楽、見栄えがある衣服を好んだ。言葉は少なく、よく人にへりくだり、喜怒の感情を表にださなかった。豪侠と交わることを好んだため、若者は争って彼についていった。成人頃には、文武も勉強もできるようになった。

風貌について

劉備
劉備は背丈が七尺五寸(約173センチ)、腕が膝に届くまであり、耳が非常に大きく自分の耳を見ることが出来たと言う[5]。

「蜀書」周羣伝には張裕に「潞涿君」(ひげの薄い人の意[6])とあげつらわれたとある。

呼称について
名を備。字を玄徳(げんとく)[7]と言う。『三国志』(正史)では、劉備を諡号の昭烈帝ではなく、「先主」と呼んでいる[8]。生存中、後主劉禅と一緒に「主公」と尊称されている。『演義』では、この呼び方は主君に対する敬称として広く用いられた。

系譜について
劉備は前漢の景帝の第9子、中山靖王劉勝(? - 紀元前113年没)の庶子の劉貞の末裔という。劉勝の子と孫を合わせると120人以上になり、劉備の祖とされる劉貞は、紀元前117年に涿郡涿県の列侯として陸城亭侯の爵位を賜った[9]。だが、紀元前112年の年始(正月)頃に、彼は列侯のみに課された漢朝への上納金(酎金)を納めなかったために、侯国を除かれ、史書の系譜もそこで止まっている。

また、「先主伝」注に引く『典略』では、劉備は臨邑侯[10]の庶流と記されている。

景帝-劉勝-劉貞 以後の系譜は不詳(『三国志』蜀書先主伝)

景帝-常山憲王劉舜-真定頃王劉平-真定烈王劉偃-真定孝王劉由-真定安王劉雍-真定共王劉普-臨邑侯劉譲(『典略』/下記の系譜も同様)

景帝-長沙定王劉発-舂陵節侯劉買-鬱林太守劉外-鉅鹿都尉劉回-南頓県令劉欽-斉武王劉縯-北海靖王劉興-臨邑侯劉復-臨邑侯劉騊駼

閻立本『歴代帝王図巻』より
フィクションである『三国志平話』および『三国志演義』においては、中山靖王劉勝、その子の陸城亭侯・劉貞以後の系譜は、劉貞の子の劉昂は沛侯、その子の劉禄は漳侯、その子の劉欒は沂水侯、劉英は欽陽侯に封ぜられ、劉貞以後の数代は列侯の爵禄を受けたものの、家運の衰退により劉備の父母の代には沓売りや蓆売りにまで零落するも、劉備の代に献帝に拝謁し漢の宗親と認められて左将軍・宜城亭侯に封ぜられ、その後後漢の滅亡により蜀漢を興しその皇帝として君臨したとされている。これは一部を除いて創作である。

江戸時代の林羅山は『寛永諸家系図伝』において、「蜀漢の劉備が中山靖王(劉勝)の子孫だといったり、北宋の趙匡胤が趙広漢の末裔だといったりしているのは途中の系図が切れていて疑わしい。日本の戦国武将の系図にも同様の例が多い」とわざわざ引き合いに出している[11]。

なお、漢代の復除(徭役の免除)を研究している山田勝芳は、延熹2年(159年)以降、属尽と称されていた宗室の資格を失った歴代皇帝の子孫は各種の免税特権を受けていたことを指摘し、劉備の幼少期の逸話(一族の集住や学資援助を受ける話)は彼が属尽の一員として一族集団の保護を受けていた(一族の団結は官吏や外部の人々に特権の存在を明示する手段になる)、すなわち彼が属尽であっても宗室の家に連なる者であったことを確認できる証明になるとしている[12]。

生涯

成都武侯祠の劉備像
若き日
涿郡涿県(現在の河北省保定市涿州市)楼桑里の出身。祖父は劉雄、父は劉弘である。祖父は孝廉に推され、郎中となり、最終的には兗州東郡范県の令となった。父も州郡の官吏を勤めたが、劉備がまだ幼い頃に死んだために土豪(現地の小豪族)の身分でありながら劉備の家は貧しくなり、母と共に筵を織って生計を立てていた。

幼い時に、家の前に生えている大きな桑の木を見て少年だった劉備は「大きくなったら天子の乗っている馬車に乗るんだ」と言った(天子の馬車は桑の木で出来ている)。その際、叔父の劉子敬(劉弘の弟)が劉備の口を塞ぎ「滅多なことを言うでない、そのようなことを口に出すだけで、我が一族は皆殺しの刑に遭うぞ」と叱責したという[13]。また涿郡の人李定は劉備の生家を見て「この家から貴人が出るだろう」と述べた[13]。敦煌文書によれば、この故事は劉備が7歳のときのものである[14]。

熹平4年(175年)、15歳の時に母の言いつけで、従叔父の劉元起(劉雄の甥)の援助を得て、その子の劉徳然(劉備のいとこ)と共に、同郷で儒学者として有名な盧植の下で学問を学ぶようになる。この時の同窓に遼西の豪族の庶子の公孫瓚と同郷の高誘(中国語版)がおり、劉備は公孫瓚と高誘らに対して兄事しており大変仲が良かったという。同時に牽招とも交流があり、「刎頸の交わり」を誓った仲と伝わる[15]。柿沼陽平によれば、盧植は175年に九江郡太守となり、病で辞職し、すぐに廬江郡太守になり、その1年余りのち(ただし178年以前)に議郎となっており、しかも劉備が訪れたときに盧植は「もとの九江太守」と名乗っていることから、盧植には当時学生を直接教える時間などほとんどなく、劉備が師事した期閒はせいぜい数ヶ月あったにすぎない[16]。

学生時代の劉備は乗馬や闘犬、音楽を好み、見栄えがある衣服で身なりを整えた。口数が少なく人にはよくへりくだり、喜怒の感情を顔に出すことがなかった。天下の豪傑と好んで交わったので、若者らはみな先を争って劉備に近づき交わった。中山の豪商・張世平と蘇双は、劉備を見て只者ではないと思い、大金を与えた。なお、張世平は馬商人であることやこの頃に公孫瓚が涿県の県令を務めていたため、劉備は乗馬の趣味や公孫瓚とのつながりから張世平の面識を得たとする見方もある[17]。このおかげで劉備は資金を手にして仲間を集めることが出来た。

決起
黄巾の乱が発生すると、関羽・張飛・簡雍・田豫らと共に義勇軍を結成し、校尉の鄒靖に従って、その名を挙げた。その功により中山国安熹県の尉に任命された[18]。

しかし、郡の督郵(監察官の職)が公務で安熹にやって来た際に面会を断られたのに腹を立ててそのまま押し入ると、縛りあげて杖で200回叩き、官の印綬を督郵の首にかけ、官を捨てて逃亡した[19]。

あるとき、大将軍の何進が都尉の毌丘毅を丹陽郡に派遣した。劉備は毌丘毅の従事として従軍して下邳に向かい、敵軍と戦い、軍功を残し下密県の丞に任じられたが、短期間で官職を辞した。後に、高唐県の尉となり昇進して県令となった[20]。

191年(初平2年)、敵軍に敗れて、昔なじみの中郎将・公孫瓚の元へ身を寄せ、公孫瓚から別部司馬に任じられ、青州刺史の田楷を助けて袁紹軍と戦った。そこで戦功を立てたので、公孫瓚の推薦により平原県の仮の令という地位を得、そののち平原国の相となった。劉備は賊の侵入を防ぎ、民に経済的な恩恵を与え、身分の低い士人を差別しなかったので、大勢の人々に心を寄せられた。

公孫瓚は袁術と手を結んでおり、初平3年(192年)、袁術と袁紹が決裂すると、袁術の要請で劉備を高唐に、単経を平原に、徐州牧の陶謙を発干に駐屯させ、袁紹を圧迫した。

この頃、平原の人劉平は劉備の配下になるのを不快に感じて、刺客を派遣した。そうとは知らずに劉備は、刺客を手厚くもてなした。刺客は殺すのが忍びなくなり、自らの任務を劉備に告げて帰ってしまった[21]。

初平4年(193年)、徐州の陶謙が曹操に攻められて田楷に救援を求めて来たので、田楷は劉備を補佐として陶謙の元へと向かった。陶謙は劉備を評価して4000人の丹陽兵を与えた。そのため劉備は田楷の元を離れて陶謙に身を寄せるようになった。

興平元年(194年)、曹操が退いた後、陶謙は劉備を豫州刺史に推挙して認められた。その後、陶謙は病が重くなり、徐州を劉備に託そうとした。劉備は初めは断ったものの、親交があった陳登・孔融らの説得を受けて徐州を領した。この時に鄭玄の推薦で、北海郡の人の孫乾を従事として迎えた(『鄭玄伝』では、陶謙の推挙で豫州刺史に任じられた時とする)。陳到は劉備の豫州刺史時代からの配下とされ、陳羣も劉備が豫州刺史に任じられた時に登用され、別駕となった。また同姓のため賓客扱いされた劉琰もこの時期に劉備へ仕官し、以後の流浪を共にした。

曹操に敗北した呂布が徐州へやって来たので、迎え入れた。その後、かつての盟主であった袁術が攻めて来たのでこれと対峙し、1ヶ月が経過した頃、下邳の守将の曹豹が裏切って呂布を城内に迎え入れ、劉備の妻子は囚われてしまった。劉備は徐州へ帰って呂布と和睦し、自らは小沛へと移った。苦境に陥った劉備を援助したのは、徐州の大地主であった糜竺であり、劉備は後々まで彼を重用することになる[17]。

流浪
劉備は兵を1万余り集めたが、劉備が多数の兵を集めたことを不快に思った呂布は劉備を攻め敗走させた。劉備は曹操の元へ身を寄せた。ここで、曹操は劉備の器量を評価して優遇した。しばらくして曹操が上奏し、劉備を鎮東将軍とし、宜城亭侯に封じ、豫州の牧に任命して、劉備を援助して再び小沛に入らせた。

建安2年(197年)、楊奉と韓暹は呂布と同盟を結び、袁術を大いに撃破し、徐州・揚州付近を荒らしていたため[22]、劉備は楊奉・韓暹を討ち取る[23]。

建安3年(198年)春、呂布が攻めて来たので、劉備は曹操に援軍を要請した。曹操は夏侯惇を派遣したが、呂布の部下の高順に撃破され、張遼、高順らは半年以上も包囲を続け9月、遂に沛城は陥落し、劉備は逃走した(先主伝注引く『英雄記』)。劉備の妻子は再び捕虜となった。曹操は自ら出陣して劉備軍と合流すると共同して呂布を攻めて、呂布を生け捕りにした。曹操は呂布が将軍として有能なので殺すのを少しためらったが、劉備は「呂布がかつて丁原と董卓を殺したことをお忘れか」と曹操を諌めた。これを聞いた呂布は激怒し、劉備に対して「奴こそが一番信用ならぬのだぞ!」[24]と罵倒したが、結局、呂布は絞首刑に処された。

劉備は曹操に連れられて曹操の根拠地で献帝のいる許昌へ入り、左将軍に任命された。ここでの劉備に対する曹操の歓待振りは、車を出す時には常に同じ車を使い、席に座る時には席を同格にすると言う異例のものであった。曹操と歓談していた時に曹操から「今、この天下に英雄と申せる者は、お主とこのわしのみだ。本初ごときでは不足よ」と評されている。かつて曹操配下の将軍であった徐翕・毛暉は呂布を担いで反乱を起こし、琅邪国相の臧覇に匿われていた。劉備は曹操の命を受け、臧覇に徐翕・毛暉の首を送るよう説得の使者を務めた。

この頃、宮中では献帝よりの密詔を受けた董承による曹操討伐計画が練られており、劉備はその同志に引き込まれた。その後、討伐計画が実行に移される前に朱霊・路招らと共に袁術討伐に赴き、都から徐州に逃げ出す名分を得たという。袁術は袁紹と合流しようとしたが、劉備に道をふさがれたので、引き返し、やがて病死した[25]。

袁術が死去したので、朱霊らは帰還したが、劉備は徐州に居残り、下邳を根拠地とし、徐州刺史の車冑を殺した。下邳の守備を関羽に任せて自らは小沛に移ると、多数の郡県が曹操に背いて劉備に味方した。曹操と敵対することになったので孫乾を派遣して袁紹と同盟し、曹操が派遣した劉岱・王忠の両将を破った。劉備は劉岱らに向かって「お前達100人が来たとしても、私をどうすることもできぬ。曹操殿がご自身で来られるなら、どうなるかわからぬがね」と言った[26]。

だが、劉備の裏切りに激怒した曹操自身が攻めて来ると敵し得ず、袁紹の元へと逃げ、関羽と夏侯博は劉備の妻子と共に曹操に囚われた。『三国志』蜀書先主伝の注に引く『魏書』によれば、劉備は攻めて来た曹操の指揮の旗を見ると、戦わずして逃走したという。袁紹の長子袁譚をかつて劉備が茂才(郷挙里選の科目の一つ)に推挙していたので、その縁で袁紹の元へ身を寄せて大いに歓待された。

袁紹が、曹操と官渡でにらみ合っている時に、汝南で元黄巾軍の劉辟が曹操に対して反旗を翻したので、劉備は袁紹の命を受けこれに合流して、数県を攻め取ると、多くの県が曹操に背いて劉備らに味方した。この時に関羽が曹操の元を去り、劉備のところへ帰ってきた。曹操は曹仁を派遣して、劉備を撃退した。その後、劉備は袁紹の命を受け、再び汝南に侵攻し、賊の龔都らと手を結んだ。曹操は蔡陽を派遣し劉備らを攻撃させたが、蔡陽は敗北し討たれた。『三国志』趙儼伝によれば、このとき袁紹が豫州に兵を派遣し、豫州の諸郡に味方になるよう誘いをかけると、多くの郡がそれに応じたという。

袁紹が敗北したあと、自ら兵を率いて劉備討伐の構えをみせてきた曹操に対して衆寡敵せずと判断し、袁紹の元から離れ荊州の劉表の元へと身を寄せた。

三顧の礼
詳細は「三顧の礼」を参照
劉表から新野城(現在の河南省南陽市新野県)を与えられ、ここに駐屯して夏侯惇・于禁の軍を博望坡にて撃破した。しかし、劉備の元に集まる人が増えたことで、劉表は劉備を猜疑するようになった。また、劉表は外征に熱心ではなかったため、曹操の烏丸討伐の隙をついて許昌を襲撃するようにという劉備の進言は劉表に受け入れられなかった。

この時期のエピソードとして「ある宴席で、劉備が厠に行った後に涙を流して帰ってきた。どうしたのかと劉表が聞くと『私は若い頃から馬の鞍に乗っていたので髀(もも)の肉は全て落ちていました。しかし今、馬に乗らなくなったので髀に肉が付いてしまいました。既に年老いて、何の功業も挙げていないので、それが悲しくなったのです』と答えた」という話がある(裴松之が注に引く『九州春秋』より)。この事から髀肉之嘆(ひにくのたん)という故事成語が生まれた。

この頃(建安12年(207年))、諸葛亮を三顧の礼にて迎え入れ、既に強大な勢力を築いている曹操に対抗するためには荊州と西の益州を手に入れて天下を三分割してその一つの主となり孫権と協力して曹操に立ち向かうべしという天下三分の計を説かれた。

劉表が没し、劉表の後を継いだ劉琮が曹操に降伏した。諸葛亮は劉琮を討って荊州を奪ってしまえと進言したが、劉備は「忍びない」と言って断り、逃亡した。

劉備が逃亡すると、劉琮配下や周辺の住民10数万が付いてきた。そのためその歩みは非常に遅く、すぐにでも曹操軍に追いつかれそうであった。ある人が住民を捨てて早く行軍し江陵を確保するべきだと劉備に進言したが、「大事を成すには人をもって大本としなければならない。私についてきた人たちを捨てるのは忍びない」と言って住民と共に行軍を続けた。

その後曹操の軽騎兵隊に追いつかれて大打撃を受け、劉備の軍勢すら散り散りで妻子と離ればなれになり、2人の娘は曹純に捕らえられるという悲惨な状況だった。ただし、趙雲が乱戦のなか劉備の子・阿斗(後の劉禅)と甘夫人を救っている。

殿軍を務めた張飛の少数部隊が時間稼ぎをし、関羽の軍と合流する事で態勢を立て直し、さらに劉表の長子・劉琦の軍と合流した(長坂の戦い)。

そして孫権陣営から様子見に派遣されてきた魯粛と面会し、諸葛亮を孫権の下に同盟の使者として派遣する。諸葛亮は孫権の説得に成功して同盟を結び、建安13年(208年)、赤壁の戦いにおいて曹操軍を破った。

赤壁の戦いの後、劉備は荊州南部を占拠し、劉琦を上表して荊州刺史に立て、荊州の南の四郡(武陵、長沙、桂陽、零陵)を併合し、徐州を追い出されて以来、初めて確固たる基盤を得た。その後程なくして劉琦が死去すると、家臣たちに推戴されて荊州牧となった。関羽を盪寇将軍・襄陽太守、張飛を征虜将軍・宜都太守、廖立を長沙太守、郝普を桂陽太守、向朗を秭帰など4県の督に任命した。劉備が荊州を治めるようになると、潘濬を治中従事に任じた。後に劉備が蜀に入ると、彼を荊州に留めて州の事務の処理にあたらせた[27]。

劉備の荊州牧就任後、劉備の勢力拡大を憂慮した孫権は、自らの妹(孫夫人)を劉備に娶わせ、さらに共同して西の蜀(益州)を獲ろうと申し出てきたが、劉備たちは蜀を分け取りにするよりも自分たちだけのものにしたいと考えたためこれを断った。

天下三分
建安16年(211年)、蜀の主である劉璋が五斗米道の張魯に対抗するために、劉備に対し兵を益州に入れて欲しいと要請してきた。ところが、要請の使者である張松と法正は既に劉璋を見限っており、劉備に対して蜀を獲ってしまうように勧めた。龐統もこの話に乗るように進言し、劉備はこれを受け入れた。

関羽・張飛・諸葛亮らを留守に残し、劉備は自ら龐統・黄忠・法正と数万人の兵を引き連れて、蜀へ赴いた。蜀に入ると劉璋によって歓待を受け、宴が開かれた。龐統はこの機会に劉璋を捕らえて一気に蜀を手に入れるように進言したが、劉備は「今はその状況ではない(これは重大な事であるから、あわててはいけない[28]、他国に入ったばかりで恩愛や信義はまだあらわれていない、それはいかん[29])」と述べて退けた。劉璋は劉備に兵や戦車や武器や鎧などを貸し、劉備軍は総勢3万人となった。

その後、劉備は兵を率いて前線の葭萌へ駐屯し、この地で張魯を討伐するよりも住民たちの人心を収攬することに勤め、来たるべく蜀占領に向けて準備を整えた。建安17年(212年)、曹操が孫権を攻め、劉備に対して救援要請が来た。劉備たちはこれを兵力移動の隠れ蓑にして劉璋から付けられた監視役の高沛と楊懐の二将を謀殺して、葭萌城を霍峻に守らせ、蜀の首都成都へと向けて侵攻を始めた(劉備の入蜀)。諸葛亮・張飛・趙雲らも長江をさかのぼり、益州の郡県を攻略した。関羽は本拠地の押さえとして引き続き荊州に残った。

劉備本軍は涪城を占拠し、冷苞・劉璝・張任・鄧賢を破り、綿竹の総指揮官である李厳を降伏させるなど、初めは順調に進んでいたものの、劉循・張任が守る雒城にて頑強な抵抗に合い、1年もの長い包囲戦を行なわざるを得なかった。この戦闘中に龐統が流れ矢に当たって戦死した。劉備が龐統に賛美と慨嘆の言葉をもらした際に、張存はかねてより龐統を買っていなかったので、「龐統は忠義を尽くして惜しむべき人物でありますが、しかし君子の道に反しておりました」と述べた。劉備は腹を立て、「龐統は身を殺して仁を成し遂げたのだ。お前はそれを悪いと申すか」と言って、張存を免官にした。張存はほどなく病没した。[30]そして、長い抗城戦の末雒を落とすことに成功し、荊州から進軍してきた諸葛亮や張飛らも加わり成都を包囲した。馬超は劉備が成都を包囲したと聞くや、密書を送って降伏を願い出た。劉備は李恢を漢中に派遣して馬超を味方に引き入れさせた。馬超はかくて命令に従った。劉備は馬超が到着したと聞いて喜び、「私は益州を手に入れたぞ」といった。使者をやって馬超を迎えさせると、馬超は軍兵を率いて、まっすぐに城下に到着した。劉璋は「わしはもはや領民を苦しめたくない」と言い、降伏した。こうして劉備の蜀の乗っ取りは功を成した。これにより天下三分の形勢がほぼ定まった。

劉備は牧を兼任すると、李邈を従事に任命した。 正月元旦、李邈は酒をついで廻る役を命ぜられ、劉備に目通りする機会を得た際、劉備を難詰して、「振威将軍(劉璋)は、将軍(劉備)のご一族として、賊討伐を委任なされたのです。それなのに、大功をおあげにならぬうちに、賊軍より先に[振威将軍(劉璋)を]滅ぼしてしまわれました。私は、将軍が我が州を奪われたことを、はなはだよろしくないことと思っております」と言った。 劉備が、「それがよくないとわかっていたなら、どうして彼を助けなかったのだ」と言うと、李邈は、「助けようとしなかったわけではありません。力不足だっただけです」と答えた。

三国争覇
蜀を奪って安定した地盤を得た劉備であったが、孫権勢力からの警戒を買うこととなった。もともと赤壁の勝利は孫呉の力によるものであると考えていた孫権は、荊州はその戦果として当然帰属するべきものと考えていた。劉備の荊州統治を認めていたのは、曹操への防備に当たらせるためであり、劉備の勢力が伸長しすぎることは好ましいことではないと考えていたのである。

建安20年(215年)、劉備が蜀を手に入れたことで、孫権が荊州の諸郡(長沙・桂陽・零陵)[31]を引き渡すようにと言ってきたが、劉備は「涼州を手に入れたら荊州の地を返します」と答えた[32]。これに怒った孫権は呂蒙を派遣して荊州を襲わせ、両者は戦闘状態に入った。

しかしその頃、張魯が曹操に降伏して益州と雍州を繋ぐ要害の地である漢中地方は曹操の手に入った。この事に危機感を抱いた劉備は荊州の呂蒙に奪われた長沙郡・桂陽郡の領有を認めることで孫権と和解し、奪われた零陵郡の返還と南郡の領有を認めさせ、漢中の攻略を目標とすることになった。 劉備は曹操から漢中を奪おうと出兵を企て、周羣に占わせた。周羣は「土地を手に入れても住民は手に入らないでしょう。また、一部隊しか出さないのであれば必ず負けます」と答えた。劉備は進言を聞かず、呉蘭・雷銅を出撃させたが二人とも敗死した。その後、漢中攻略には成功したが、住民の多くは曹操によって移住させられた後だった。

建安24年(219年)、自ら陣頭指揮を執り漢中の夏侯淵・張郃を攻め、法正と黄権の策に従いこれらを撃破し、夏侯淵・趙顒らを斬り殺した(定軍山の戦い)。その後、曹操自身が漢中を奪還すべく軍を率いて攻めてきたが、劉備は防御に徹して、曹操軍に多くの損害を与え、曹操軍を撤退させた。

劉備は左将軍・領司隷校尉・豫荊益三州牧・宜城亭侯と称していたが、漢中を手に入れたことや曹操が建安21年(216年)に魏王になっていたことを受けて漢中王を自称した。前漢の高祖劉邦が漢王であった故事に倣ったものであった。また、同時に大司馬も称した。なお、群臣が劉備を漢中王に推挙した際の文章は、李朝の書いたものである[33]。平西将軍・都亭侯の馬超、左将軍長史・鎮軍将軍の許靖、営司馬の龐羲、議曹・従事中郎・軍議中郎将の射援、軍師将軍の諸葛亮、盪寇将軍・漢寿亭侯の関羽、征虜将軍・新亭侯の張飛、征西将軍の黄忠、鎮遠将軍の頼恭、揚武将軍の法正、興業将軍の李厳らが上表に名を連ねた。

一方、東では荊州を奪還するべく孫権は呂蒙たちとともに策を練り、関羽が曹仁の守る樊城を攻めている間に、曹操と同盟を結び、荊州本拠を襲って、孤立した関羽らを捕らえ、これを処刑した。これにより荊州は完全に孫権勢力のものとなった(樊城の戦い)。

劉備の養子の劉封は関羽の救援に赴かず、対立していた孟達の軍楽隊を没収し、孟達が曹操に寝返り、曹操軍に上庸を奪われた。劉備は諸葛亮の提案に従い、劉封を軍規により処刑させた。

夷陵(猇亭)の戦い
劉備は曹操が死んだ事を聞くと弔問の使者韓冉を遣わせて、蜀錦を曹丕に貢献した[34]。曹丕は劉備が曹操の死を利用して好を通じようということを嫌い、その使者を殺すようにと荊州刺史に命じた。

建安25年(220年)に曹操の嫡子・曹丕が後漢の献帝から帝位の禅譲を受けた。これに対抗して太傅許靖・安漢将軍糜竺・太常頼恭・少府王謀・光禄勲黄柱らは劉備に帝位への即位を促す勧進文を送り、劉備は受け入れた。蜀の地に作られた漢王朝であるため、前漢(西漢)、後漢(東漢)と区別し、蜀漢(季漢)ともいう。丞相録尚書事の諸葛亮、司徒の許靖、車騎将軍・司隷校尉の張飛、驃騎将軍・涼州刺史の馬超、偏将軍・關中都督の呉懿、鎮北将軍の魏延、輔漢将軍の李厳、侍中の馬良、尚書の楊儀、大鴻臚の何宗らが表に名を連ねた。即位に反対した費詩は左遷された[35]。

劉備が派遣した使者韓冉は病気と称して上庸より先へは行かず、劉備の弔問の書は上庸から曹丕の元まで届いたという。その返答を得た劉備は自ら帝を称した。こうして、劉備は皇帝に即位したが、同年6月、張飛が部下の張達と范彊によって殺害された。張達と范彊は、その首を持って長江を下って孫権の下へ逃亡した。その報告の使者が訪れると発言する前に劉備は「ああ、飛が死んだ」と、死を嘆いた。

劉備は呉を討伐しようとしたとき、人をやって李意其を迎えた。李意其が来ると礼を尽くして敬い、出兵の吉凶を尋ねた。李意其はこれに答えず、紙と筆を求めて、兵・馬・武器の絵を数十枚描きあげると、すぐさま一枚一枚これを破り捨て、また大きな身体の人物の絵を描き、地面を掘ってそれを地に埋めて立ち去った。劉備はたいへん不快がったという[36]。 秦宓は天の与える時期からいって必ず勝利は得られないと説いた廉で、獄に幽閉されたが、後に釈放された[37]。

劉備は章武元年(221年)、孫権に対する報復として趙雲の諫言[38]を押し切って親征(夷陵の戦い)を行った。初めのうちは呉軍を軽快に撃ち破りながら進軍、呉は荊州の拠点であった江陵を背後に残すまでに追い詰められた。また、武陵の部従事である樊伷が異民族の者たちに誘いをかけ、武陵郡を挙げて劉備に帰属しようと企てた[27]。 しかし、翌222年夏、蜀漢軍は夷陵にて陸遜の火計策に嵌り大敗し、孫桓は、敗走する劉備を追って、夔城(きじょう)に通じる道を断ち、その道の要所要所を閉鎖した。劉備は、山中をたどり険害を乗り越えて、やっとのことで脱出すると、憤り嘆息して「私が昔孫権を頼りに(呉の)京城(都、首都の意)に行った際には、孫桓はまだ子供であったのに、その孫桓に今私がこのように追いつめられるとは」と言った[39]。そして白帝城に逃げ込み、ここに永安宮を造営し、崩御するまで滞在した。孫権は劉備が白帝に留まっていると聞き、使者を派遣して和睦を請うた。劉備はこれを許可し宗瑋・費禕らをやって返事をさせた。

遺言
ここで劉備は病を発し病床に臥せってしまう。章武3年4月24日(223年6月10日)、劉備は丞相・諸葛亮と劉永・劉理ら諸子を呼び寄せた。諸葛亮には「そなたの才能は魏の曹丕の10倍はある。必ずや国に安定をもたらしてくれることだろう。我が子(劉禅)が皇帝としての素質を備えているようならば、補佐して欲しい。だが、もし我が子が補佐するに足りない暗愚であったならば、迷わずそなたが国を治めてくれ」、「馬謖は自分の実力以上のことを口にする。だから彼に重要な仕事を任せてはいけない。そなたはそれを忘れずにな」と言い遺し、息子たちに対しては「悪事はどんな小さなことでも行ってはいけない。善事はどんな小さなことでも行いなさい。お前達の父は徳が薄く、これを見習ってはいけない。『漢書』・『礼記』・『六韜(呂尚の著と伝えられる兵法書)』・『商君書(商鞅の著と伝えられる法律論)』などなどを読んでしっかり勉強しなさい。これより丞相(諸葛亮)を父と思って仕えなさい。いささかも怠ったらばお前達は不孝の子であるぞ」と言い遺して間もなく崩御した。享年63であった。人々はそこで、李意其の絵の意味を理解した。李意其が大きな人物を描いてこれを埋めたのは、とりもなおさず劉備が死ぬことを予言していたのである。

陵墓
陵墓は成都市南西郊外の恵陵。現在は諸葛亮をまつる武侯祠の区内にある。前面には乾隆53年建立と刻された「漢昭烈皇帝之陵」の碑がある[40]。しかし、彭山県蓮花村にある三国時代の墓に比定する説もあり、白帝城のあった奉節県に墓所を求める説もあり、お国自慢もからんで現在もにぎやかに議論が続いている[41]。

後世の評
陳寿の評:「度量が大きく強い意志を持ち、おおらかな心をもって礼儀正しく人に接し、人物を良く見極めて、ふさわしい待遇を与えた。それらは前漢の高祖(劉邦)に通じ、英雄の器を備えていたといえよう。国のその後を諸葛亮に全て託すのに際して、何らの疑念を抱かなかったことは、君臣の公正無私な関係を現すものとして、永遠に手本とすべき事例である。好機を得るための機知や、行動の根幹をなす戦略では、魏武(曹操)に及ばなかったため、勢力の基盤となる領土も、その才能の差に準じて狭かった。しかし、挫折して人に屈しても諦めることなく、最終的には誰の下にもおらず独立したのは、彼らの器量を考えた時、自分をいつまでも許容し続けてくれるような人間だとは到底思えないがためにそうしたのである。単純に自分の利益だけを考えてのことではなく、自分にふりかかった災難を避け、殺されないようにするためだったと言えよう[42]」(『蜀書』「先主伝」)。

習鑿歯はいう。先主は顛倒し困難に陥ったときであっても、信義をますます明らかにし、状況が逼迫し事態が危険になっても、道理に外れぬ発言をした。景升(劉表)の恩顧を追慕すれば、その心情は三軍を感動させ、道義にひかれる人々に慕われ(後についてこられ)れば、(見捨てることなく)甘んじてともに敗北した。彼が人々の心に結びついた経過を観察すれば、いったい、どぶろくを与えて凍えている者を慰撫し、蓼(にがい)を口に含み、民の病気を見舞った程度のことであろうか。彼が大事業を成し遂げたのも当然であろう[43]。

子孫
劉備の子孫は、永嘉年間の八王の乱によりほとんどが殺されたが、劉永の孫である劉玄のみが生き残った[44]。彼はチベット系氐族の一派である巴氐の酋長の李雄が蜀で建国した成蜀を頼ったという。

中華民国14年(1926年)に『富陽劉氏宗譜』なる族譜が公表され、浙江省杭州市富陽区漁山郷曙星村なる村落に劉備の子孫がいると主張され、現在でも大々的に喧伝されている。ただこの族譜では、光武帝の末裔と自称した劉川なる人物が西晋の時代に蜀漢の親族とみられることを恐れて金と改姓したことが述べられているのみで、史書での劉備の血統とするつながりは確認できない。

逸聞
ある時、呂布が袁渙に劉備を罵倒する手紙を書かせようとしたが、袁渙はこれを拒否した。このため呂布は武器を袁渙に突き付け、無理やり書かせようとした。しかし袁渙が顔色を変えることなく、逆に冷静さをもって「人を辱めるのに文書でもってしても、その人(劉備)の徳が高ければ対する者(呂布)が辱められるのです」と説得したため、呂布は恥じ入って引き下がった。また、ある時に劉備が死んだとの噂が伝えられたが、他の諸官が慶賀する中で、(袁渙は)それに与しなかった。
呂布が下邳を占拠すると、張飛は敗走した。劉備はこれを聞くと軍勢をまとめて引き揚げ、下邳に至ったところで、軍が崩壊した。崩壊した兵を集めながら東行して広陵を攻略したが、袁術と戦いになって、またも敗北した。飢餓のため困窮し、劉備軍の兵士が互いに食いあったというのである。(『英雄記』)
劉備は成都攻略にあたって、率いる部下たちに「事が定まった際には、成都の国庫内のあらゆる物を私は預からない」と約束した。成都を落とすと、部下たちは矛を捨て競って国庫に所蔵された財貨を取った。このため、軍事用資金や物資が枯渇し劉備はこれを憂いた。劉巴は劉備に「百銭の貨幣(直百五銖)を鋳造し諸物価を安定させ、国が管理する市を立てれば良いでしょう」と進言し、劉備がこれに従ったところ数か月で蔵が一杯になった。部下たちに成都に住居や城外の園畑を恩賞として与えようという議論があった、趙雲が反対したので劉備はそれに従ったという。(『趙雲別伝』『資治通鑑』)
彭羕は、その野心を警戒した諸葛亮が劉備に密告した為に、左遷されることとなった。彭羕は左遷される前に馬超を訪問すると、劉備を批判した後、「君が外で兵を挙げ、私が内を取り持てば、天下は思いのままである」と馬超に反乱を持ちかけた。流浪の末に帰順した馬超は、自分の身を危惧していたのでこの言葉を受け入れず、彭羕が帰るとその言葉を上表したため、彭羕は劉備に処刑された(『三国志』蜀志「彭羕伝」)。
劉備が漢中に出陣すると兵力不足を補うため至急の文書をよこし兵を微発せよといってきた。諸葛亮は楊洪の進言を聞き入れ、漢中に益州百姓を送り込んだ[45](『楊洪伝』)。
建安末年ごろに、張裕はある人に漢朝の滅亡と劉備の死を予言した。その人がこれ密かにを訴え出ると。劉備は以前から彼の不遜な態度もあったため、今回の漏らした言葉に激怒した。さらに漢中についての予言が当たらなかったことを明らかにさせ、張裕を処刑しようとした。諸葛亮が張裕のために助命を嘆願したが、劉備は美しい蘭でも門の前に咲いていれば刈り取らなければならないとの返答をしたという。結局、張裕は処刑され、後に彼が予言した通り魏が成立して漢が滅び、劉備が崩御した(『周羣伝』)。
『三国志演義』における劉備

清朝期の三国志演義における劉備の肖像画
詳細は「三国志演義の成立史#劉備」を参照
小説『三国志演義』は、黄巾の乱によって世が乱れる中、劉備が関羽、張飛と桃園の誓いを結び、義勇兵を起こす場面から始まる。

史書が伝える劉備が、その武勇と人気によって諸勢力に重んじられ、同時に警戒されたのに比べて、『演義』の中の劉備は、武勇を関羽、張飛をはじめとする武臣たち、知略を諸葛亮などの謀臣に預け、多様な個性を周囲に惹き付ける中心として位置している。しかも、若い時は母子で草鞋を作り行商し、吉川英治の小説『三国志』では当時庶民では高級品であったと言われる茶を母に飲ませるために金を貯めていたという苦労人として描かれている。ここから儒教の理想とする君子的高潔さが描かれ、これによって奸雄・曹操と対立軸を構成している。

『演義』の中の劉備は「双股剣」と「的盧」を愛用している[46]。「双股剣」は、桃園の誓いで義兄弟の契りを果たしたあと、張世平と蘇双から贈られた軍用金の一部で鋳させた二本合わせの剣。吉川の小説では、「大小の二剣」と表記され、呂布との戦いで使用された。また同小説では先祖から伝わる剣を所持しており、旅先で黄巾族に襲われているところを救ってくれた張飛に対し礼としてこの剣を渡したが、旅先から戻りこれを知った劉備の母がひどく悲しんだとされている。この剣は張飛と再会し義兄弟の契りを交わした際に劉備の手に戻った。

『演義』では、呂布に追われている時に逃げ込んだ家の主人劉安は、劉備をもてなす食料がなかったので妻を殺害して、オオカミの肉と偽って、その肉を差し出し、そうとは知らず感激していた劉備だったが、顛末を知るやひどく悲嘆したという逸話が存在する(和訳本では削除されるか、価値観の違いについて注釈の上で紹介されている。また吉川の小説ではこの描写前に、中国と日本の文化の違いについて明記している)。『演義』では、蜀を奪ったあと、義兄弟である関羽を魏呉連合軍に殺され、その後に後漢が滅ぶ。諸葛亮を始めとする群臣が劉備に帝位に就くよう勧めるが、「そなた達は私を不義不忠の輩に仕立てる気か」と激昂する。即位後には部下が張飛を殺して呉に逃亡したことにより怒り狂い、義兄弟の敵討ちを大義名分として呉に向かう。その際に黄忠を老人扱いしたり、自軍が75万という大軍勢な上に呉軍の士気が低いのを見て傲慢になっていた。そこを突いた陸遜により大敗し白帝城へ落ち延び、まもなく後悔の念にさいなまれ病気になる。病の床で見た夢に現れた関羽と張飛から「遠くなく兄弟三人がまた集うことになるでしょう」と言われ、自らの死期を悟る。そして諸葛亮を呼び寄せ、後のことを託して世を去る。

妻子・血縁
【漢王朝系図】(編集)
妻妾
穆皇后呉氏(呉懿の妹)
甘夫人(甘梅):劉備が豫州刺史となった興平2年(195年)に、納められた妾である。糜夫人が正妻に迎えられた年にはすでに妾であったことになる。劉備が正妻をしばしば失ったため、甘夫人は妾でありながら、奥向きのことを取り仕切ったという。建安12年、甘夫人は荊州で男の子を生む。これが劉禅である。[47]
糜夫人(糜竺、糜芳の妹):建安元年(196年)、呂布により劉備の妻子が捕虜にされたため、劉備に正妻として迎えられた。その際の持参金により、劉備は再び勢力を盛り返したという。[47]
孫夫人(孫権の妹)
これ以外にも、流浪の時数名の妻を持つ、詳細は不明。

安楽公 劉禅(公嗣)- 母は甘夫人
甘陵王 劉永(公寿)- 庶子
安平王 劉理(奉孝)- 庶子
劉封(養子、副軍将軍)
その他、2人の娘がいた[48]。
その他の血縁 
劉玄 (曾孫)- 劉永の孫
劉子敬(叔父)
劉元起(従父)
劉徳然(劉元起の子)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%82%99
12:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2022/12/23 (Fri) 18:59:42

関羽
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%BE%BD

関 羽(かん う、? - 建安24年12月(220年1月))は、中国後漢末期の武将。字は雲長(うんちょう)。もとの字は長生。司隷河東郡解県(現在の山西省運城市塩湖区解州鎮常平村)の人。子は関平・関興。孫は関統・関彝。

蜀漢の創始者である劉備に仕え、その人並み外れた武勇や義理を重んじた彼は曹操など同時代の多くの人から称賛された。後漢から贈られた封号は漢寿亭侯。諡が壮繆侯(または壮穆侯)だが、諡号は歴代王朝から多数贈られた(爵諡を参照)。死後、後世の人々に神格化され関帝(関聖帝君・関帝聖君)となった。

小説『三国志演義』では、「雲長、関雲長あるいは関公、関某と呼ばれ、一貫して諱を名指しされていない」、「大活躍する場面が壮麗に描かれている」など、前述の関帝信仰に起因すると思われる特別扱いを受けている。

見事な鬚髯(鬚=あごひげ、髯=ほほひげ)をたくわえていたため、諸葛亮からは「髯(ひげ)」殿と呼ばれ、『三国志演義』などでは「美髯公(びぜんこう)」などとも呼ばれる。


生涯

劉備に仕える
出身地から幽州涿郡に逃れてきた。
黄巾の乱が起きると、義勇兵を挙げた劉備・張飛と出会い、張飛とともに劉備の護衛官を務め、簡雍・田豫らと各地を転戦した。劉備が平原の相になると、関羽は張飛と共に別部司馬に任命された。劉備は関羽・張飛に兄弟のように恩愛をかけ、張飛は関羽が年長者であることから兄のように従ったという(『三国志』蜀志「張飛伝」)。しかし、関羽・張飛は大勢の前ではあくまで劉備を主君として立てて仕えた[3]。

忠義を貫く
徐州を得た劉備は呂布と争い曹操を頼って逃れた。建安3年(198年)、曹操が呂布を破ったとき、関羽は張飛とともに戦功を認められ、曹操から中郎将に任命された(『華陽国志』劉先主志)。また、このとき関羽は呂布の部将の秦宜禄の妻を娶ることを曹操に願い出たが、秦宜禄の妻を見た曹操は自分の側室としてしまった(『蜀記』)。

建安4年(199年)、劉備は献帝から密命を受けた董承と結び曹操に叛旗を起こし徐州刺史の車冑を殺害し、徐州を占拠した。このとき、張飛は劉備と共に小沛に戻り、関羽は下邳の守備を任され太守の事務を代行した[4]。

建安5年(200年)、劉備が東征してきた曹操の攻撃を受けて敗れ、下邳に撤退せず北上し袁紹の元に逃げると、関羽は夏侯博や劉備の妻子とともに曹操に捕らわれた。関羽は一時的に曹操に降り賓客として遇され、曹操は関羽を偏将軍に任命し、礼遇したという。曹操と袁紹が戦争となると(官渡の戦い)、関羽は呂布の降将の張遼と共に白馬県を攻撃していた袁紹の将の顔良の攻撃を曹操に命じられた。関羽は顔良の旗印と車蓋を見ると、馬に鞭打って突撃し顔良を刺殺し、その首を持ち帰った。この時、袁紹軍の諸将で相手になる者はいなかったという(白馬の戦い)。曹操は即刻上表して、漢寿[5]亭侯に封じた。

曹操は関羽の人柄と武勇を高く評価していたが、関羽が自分の下に長く留まる心算は無いと思い、張遼に依頼して関羽に質問させたところ、関羽は劉備を裏切ることは無いことと、曹操への恩返しが済んだら立ち去る心算であることを述べた。そのことを張遼から聞いていた曹操は関羽の義心に感心したという。

顔良を討ち取るという功を立てた関羽は、必ずや劉備のもとに戻ると曹操は考え、関羽に重い恩賞を与えた。関羽はこれらの賜り物に封をして、曹操に手紙を捧げて別れを告げ、袁紹に身を寄せた劉備の元へ去った。曹操はその義に感嘆し、関羽を追いかけようとする部下に対して、彼を追ってはならないと言い聞かせた。

荊州を預かる
劉備が袁紹の元を去って荊州の劉表の元に身を寄せると、関羽も同行した。

建安13年(208年)、劉備が襄陽の名士の諸葛亮を三顧の礼で迎え重用するようになると、張飛と共に不満を覚えたが、劉備は自分と諸葛亮との関係は、魚が水を欲するようなものである(水魚の交わり)と述べたという(『三国志』蜀志「諸葛亮伝」)。

同年、劉表が病死し曹操が荊州に侵攻すると、樊の地より南下して江陵を目指した劉備の指示で数百隻の船団からなる別働隊の指揮を執った。途中、長坂の当陽で曹操軍の追撃を受けた劉備は敗北し漢津に逃れ、関羽の船団と合流し難を逃れ、共に夏口に向かった(長坂の戦い)。魯粛、諸葛亮を介して孫権が劉備に援軍を出すと、劉備・孫権軍は赤壁で曹操軍を破り、曹操は荊州制圧を諦めて撤退した(赤壁の戦い)。

建安14年(209年)、荊州の南郡攻防戦では北道を封鎖したが、李通が手勢を率いてこれを攻撃し曹仁を救い出した。また、漢津で徐晃と満寵の攻撃を受けた(『三国志』魏志「徐晃伝」)。(『三国志』魏志「李通伝」)。劉備は江南の諸郡を平定すると、関羽のそれまでの功績を評価し、襄陽太守[6]・盪寇将軍に任命した。関羽は長江の北の守備を任された。

劉備が益州に入ると(劉備の入蜀)、関羽は諸葛亮と共に荊州の守備を任された。後に劉備が益州を攻撃すると諸葛亮は張飛・趙雲らと益州入りし、荊州の留守は関羽が預かることとなった。この頃、襄陽に駐屯していた曹操配下の楽進と襄陽郊外の青泥まで進出して対峙してたがその攻撃をうけて蘇非と共に逃走している。このとき文聘が関羽の輜重、軍船を焼いている(『三国志』蜀志「先主伝」、魏志「楽進伝」「文聘伝」)。荊州刺史の傅羣の主簿の楊儀が降ってくると、関羽は楊儀を功曹に任命して、劉備の元に使者として派遣している(『三国志』蜀志「楊儀伝」)。

劉備が益州を征服すると関羽の功績は張飛・諸葛亮と同等と評価され(『三国志』蜀志「張飛伝」)、関羽は荊州の軍事総督に任命された[7]。しかし同僚の糜芳・士仁とは関羽が両者を軽んじていたことから隙があった。また州の事務を一任された荊州治中の潘濬とは親交を結ぶことはなかった (『季漢輔臣賛』、『三国志』呉志「潘濬伝」)。

孫権との衝突
建安20年(215年)、荊州領有を巡る争いが解決しないことに業を煮やした孫権の命令で呂蒙らが長沙・桂陽・零陵の三郡を襲撃すると、呂蒙の謀略により郝普は呉に降伏した。それをうけて関羽は3万の兵を指揮して益陽に布陣。劉備も自ら大軍の指揮を執って関羽の助勢に駆けつけ、一時は劉・孫同盟の崩壊の危機に至った(『三国志』蜀志「先主伝」)。だが、関羽と通じた長沙郡の安成・攸・茶陵の三県と、揚州廬陵郡の永新県の官吏らが桂陽の陰山城で謀反を起こし、長沙郡の安成県令の呉碭と中郎将の袁龍が関羽と機略を通じ再び反乱を起こした(『三国志』呉志「呂岱伝」)。さらにこの年、曹操が自ら大軍の指揮を執って漢中の張魯を攻撃したことなど、これらが両陣営に和平の機運をもたらし、関羽と魯粛の対談が実現した(単刀赴会)。会談は孫権側の魯粛のペースで進行し、関羽はしばしばやり込められた(『三国志』呉志「魯粛伝」)。結局、湘水を境界線とし、長沙・江夏・桂陽は孫権領に、南郡・武陵、そして一度は奪われた零陵が劉備領となった(『三国志』蜀志「先主伝」)。

建安22年(217年)の魯粛の死後、陸口に赴任した呂蒙は、関羽を警戒する計画をひそかにめぐらしていたが、表面的にはこれまで以上に関羽と親密に接した(『三国志』呉志「呂蒙伝」)。しかし、関羽の荊州での統治ぶりは恩徳と威信がよく行き渡っていたため、なかなか機会を得ることができなかった(『三国志』呉志「陸遜伝」)。

あるとき、孫権から関羽に対し、関羽の娘[8] に、孫権の子との婚姻の申し入れがあった時、関羽はこれを断り[9][10]、孫権を怒らせた。

樊城の戦いと最期
「樊城の戦い」も参照
建安23年(218年)、侯音は宛で曹操に対して反乱を起こし、関羽と手を結んだ。また魏に従わない反乱者や盗賊たちの中には、弘農郡陸渾県の孫狼のように関羽から印綬や称号を受けて魏に反抗する者たちもいた。建安24年(219年)春正月、曹操の部将の曹仁と龐徳は宛を陥落させ、侯音を斬った。

同年秋、関羽ら群臣らが劉備を漢中王に推挙した。劉備が漢中王を称するようになると、関羽は前将軍・仮節鉞に任じられた。

同年、子の関平・都督の趙累らと共に樊城を守る曹仁を攻撃した。曹仁の援軍として、七軍の指揮を執っていた于禁が駆けつけたが、折からの悪天候により大洪水が起こり、七軍は水没した。関羽は船団を指揮して攻撃をかけ、于禁と彼が指揮を執っていた3万の兵を降伏させ、さらに樊城の北に駐屯していた龐徳を斬った。また、このとき荊州刺史の胡修・南郷太守の傅方(中国語版)らが関羽に降っている。関羽は樊城を完全に包囲し、別将を派遣して呂常が守る襄陽までも包囲した。さらに関羽は方々に印綬をばら撒き、梁・郟・陸渾といった曹操領内の群盗などが一斉に蜂起し、中原は震動した。同時に勢いに乗じた関羽は上庸の劉封・孟達に援軍を求めたが、上庸が安定していないことを理由に拒絶された(『三国志』蜀志「劉封伝」)。

曹操はこの事態に狼狽し遷都まで考えるほどであったが、曹操の配下の司馬懿と蔣済は于禁を弁護し、これ以前に和議を結んでいた孫権を利用して、長江南を領有することを条件に関羽を背後から攻撃させる策を提案し、曹操は孫権と密約を結んだ[11]。その一方で、徐晃を派遣して曹仁を救援させた。これにより関羽は、逆に曹・孫両軍に挟撃されてしまうことになる。曹操の配下の董昭は曹操に「樊城の将兵の士気を高めるためと、関羽の我が軍への戦意を喪失させるために、孫権が殿と同盟を結び関羽の背後を攻めることを、樊城の我が軍と関羽に漏らすべきです」と提案した。曹操はこの提案に従い、徐晃を介して樊城の曹操軍と関羽軍に孫権参戦の情報を伝えさせた。この情報を聞いた樊城の曹操軍の士気は大いに上がった。

関羽は孫権への備えを当初はおこたらず、長江沿いに守備兵を置いていたが、呂蒙が病気と称して前線を離れたこと、さらに後任として陸口に派遣されてきた陸遜の謙った手紙にあっさり煽てられ警戒を解き、江陵・公安からさらに兵・物資を前線に送ってしまったという(『三国志』呉志「呂蒙伝」、「陸遜伝」)。さらに孫呉討滅の恫喝、于禁ら降伏した曹操軍の捕虜3万を養う為に孫権軍の軍需物資を強奪したこともあった(『三国志』呉志「呂蒙伝」)。

孫権は呂蒙・陸遜らに命じて関羽への攻撃を開始した[12]。劉備は糜芳に南郡を、士仁に公安を守備させていたが、両者は関羽との仲に隙があり、其処に着目した呂蒙は両者に誘いをかけ寝返らせ、関羽の拠点たる江陵・公安を奪った。その後も陸遜らの働きで荊州の劉備領は次々に攻略されていった。

関羽は襄陽・樊城を落とせぬまま、徐晃に攻撃を受けて敗れ樊城の包囲を解いた[13]。

その後、孫権は関羽軍の輜重を奪ったが、それを聞いた関羽は襄陽の包囲も解き、撤退した[14] 関羽は、使者を何度も呂蒙の元に送り連絡をとろうとしたが、呂蒙はそのたびごとに関羽や関羽の部下の妻子たちを捕虜にして厚遇していることをわざと使者に知らせた。使者の口からこのことを知った関羽の部下たちは敵対心を失って、やがて関羽の軍は四散し、大半の将兵が孫権軍に降伏した(『三国志』呉志「呂蒙伝」)。

関羽は当陽まで引き返したのち、孫権が江陵に自ら軍を率いてきていることを知り、西の麦城に逃走した (『三国志』呉志「呉主伝」「呂蒙伝」)。孫権から降伏を勧告する使者が派遣されてくると、関羽は降伏を受けるふりをして逃走した(『三国志』呉志「呉主伝」)。しかし219年12月、臨沮において関羽は関平らと共に退路を断たれ、捕虜となり斬首された[15][16]。

関羽の死後
群雄・関羽の首級は、孫権の使者によって曹操の下へ送られ、孫権は諸侯の礼を以て当陽に彼の死体を葬った(『呉歴』)。一方、曹操は諸侯の礼を以て洛陽に彼の首級を葬った(『関羽伝』)。

章武2年(222年)、関羽を殺された劉備は孫権に対して夷陵の戦いを起こしたが大敗を喫した。

景耀3年(260年)、蜀漢の2代皇帝劉禅より壮繆侯[17](または壮穆侯)の爵諡を送られた。

関羽の子孫は蜀漢の列侯の一人として続いたが、炎興元年(263年)に鍾会らにより蜀が滅んだ際、龐徳の子であった龐会が関羽の一族を皆殺しにしたという(『蜀記』)。ただし、王隠の『蜀記』は非常に創作された逸話が多く、蜀臣の陳寿、蜀臣の孫である常璩も関羽の一族が皆殺しにされたという話は史書に残していない。『宋書』に登場する河東郡の関康之[18] や唐代の宰相関播は関羽の末裔とされる[19]。

唐代には、武廟六十四将に唐朝以前の中国史を代表する64人の名将として、蜀漢から張飛と共に祀られている。

現在、関羽62代目の子孫を名乗る関新剛なる人物が中国に在住するが、関羽の子孫かどうか実際の所は不明である(今泉恂之助『関羽伝』)。

人物
『春秋左氏伝』を好み、ほぼ暗誦できた[20]。

219年に龐徳から毒矢を受けた際[21]、骨にまで毒が染み込んでいたために、肘を切開して毒が染み込んだ部分を削り取らせたことがあったが、宴会の最中であったにもかかわらずその場で切開させ、痛むそぶりも見せずに酒や肉を飲食し、平然と談笑していたという[22]。

自信過剰なために、部下には優しいが同僚を軽んじることがあり、南郡太守の糜芳、将軍の士仁は関羽と隙があり、荊州治中の潘濬とは親交を結ぼうとしなかった。彼らは孫権に降伏し、呉蜀間で裏切り者として笑い者になったという[23]。また張飛とともに諸葛亮の厚遇振りを悦ばなかったが劉備に説得されると態度を改めたという。

黄忠が後将軍に任じられた際、劉備と対等な存在と自任していた群雄・関羽は「あんな老兵と同格になれるか」と不満を表し、前将軍への就任を拒否しようとしたが、使者である費詩に諌められると彼の言葉に大いに感じ入り、過ちを悟って即座に拝命した(『三国志』蜀志「費詩伝」)。

敵方でありながら張遼・徐晃とは親交があり、彼らとは互いに尊敬しあっており『傅子』では張遼は関羽を兄弟と呼び、『蜀記』では関羽は徐晃を大兄と呼んでいる。

評価
『三国志』を著した陳寿は、關張馬黄趙傳の最後に関羽・張飛2人の人物評をこうまとめている。

評曰 關羽 張飛皆稱萬人之敵 為世虎臣 羽報效曹公 飛義釋嚴顏 並有國士之風 然羽剛而自矜 飛暴而無恩 以短取敗 理數之常也

(関羽・張飛の2人は、1人で万の兵に匹敵すると賞賛され、当世における虎臣『勇猛な家臣』であった。関羽は顔良を斬って義を果たし、張飛は厳顔の義心に感じ入ってその縄目を解き、両者並んで国士の気風があった。しかし、関羽は剛情で自信を持ち過ぎ、張飛は乱暴で情を持たず、両者共その短所により身の破滅を招いた。道理からいって当然である。)
— 『三國志』巻36蜀志6 關張馬黄趙傳[24]
程昱からは「関羽と張飛の武勇は一万の兵に相当する」と評価された(『三国志』魏志「程昱伝」)。

郭嘉も同様に張飛・関羽は共に一万の兵に匹敵するとし、劉備の為に死を以て働いていると評した(『傅子』)。

董昭は関羽・張飛は劉備の羽翼であり恐れるべきであると評した(『三国志』魏志「董昭伝」)。

章武元年(221年)、劉備が呉に報復を行うかを曹丕(文帝)が臣下に諮った際に、臣下は「蜀は小国で、名将と呼べるのは関羽1人でございました(その関羽と荊州を失った以上、蜀には戦う力が無いので、報復など行えない)」と答えている(『三国志』魏志「劉曄伝」)。また、同じ劉曄伝には「勇三軍に冠とする将たり」ともある。

『傅子』には、張飛と共にその武勇と義は天下に知れ渡っており、諸葛亮と合わせに人傑であって、この三人が劉備を助けているのだから蜀を平定できないわけがないと語られている。

また周瑜は関羽を張飛と共に熊虎之将であり、劉備から切り離し自らが使わしめば、大事を定めることも可能であるとした(『三国志』呉志「周瑜伝」)。

呂蒙は関羽は勇猛であり敵とするのは難かしく、荊州を治めて恩信を大いに行き届かせていると陸遜に語っている(『三国志』呉志「陸遜伝」)。

袁準は張飛と共に劉備を支え爪牙となった腹心の武人であるとした(『袁子』)。

一方、廖立からは「(荊州を攻めるに当たって)自分の勇名を恃んで猪突猛進したため、前後の戦役(樊城・夷陵)でたびたび兵を失う原因となった」と批判された。

三国志演義では

関羽像 柳沢淇園筆 柳沢伊信賛 絹本着色 東京国立博物館
詳細は「三国志演義の成立史#関羽」を参照
小説『三国志演義』では、身の丈9尺(後漢から三国時代の尺度で約216cm)、2尺(約48cm)の髭、「熟した棗(=なつめ)の実のような」と形容される紅顔で重さ82斤(後漢から三国時代の尺度で約18kg)の青龍偃月刀(冷艶鋸:れいえんきょ)と呼ばれる大薙刀を持ち、赤兎馬に跨っている。主人公的存在だけあって、史実に比べ活躍は非常に華々しいものとなっており、たとえば、

董卓配下の猛将華雄を、曹操に勧められた酒が冷めないうちに斬った話
張遼に説得され曹操へと投降する際に3つの条件を出す
曹操の元を去るとき、曹操軍の検問に手形がなかったことから見咎められて、6人の将軍を斬り殺して突破した話(五関突破)
孫権軍に処刑されたあと、呂蒙を祟り殺した話
など、講談や元曲・京劇(戯曲)などでの創作が、積極的に取り入れられている。五虎大将軍の筆頭と位置付けられている。

名馬赤兎については呂布の死後曹操が持っており、降伏した関羽の心を得るべく譲ったことになっている。曹操からの贈り物は二夫人への贈り物を含め全て封印した関羽であるが、「この馬は一日に千里を駆けると知っております。今幸いにこれを得たならば、もし兄者(劉備)の行方が知れました時、一日にして会うことが出来ましょうぞ」として唯一これを受け取り、以降は関羽の愛馬として活躍する。

また、養子として関平が、次男として関興、三男として関索が出てくる。正史によれば、関平は実子(養子とする記述はない)。関興は諸葛亮にその才能を評価されていたものの二十数歳で亡くなっている。関索に至っては正史やその註にも一切記載が無く、後世に作られた伝承「花関索伝」の登場人物を流用したもので、実在しない人物だと考えられる。

赤壁の戦いに敗走した曹操を華容で待ち伏せるが、憔悴した曹操を見兼ねて旧恩により見逃す。このことを諸葛亮に咎められ死罪を言い渡されるが、劉備のとりなしで事なきを得ている。

死後に呂蒙を呪い殺すとされているが、義理堅い関羽の印象にそぐわず、また非現実的であることなどから近年では削除されることもある。その場面によると孫権は関羽を処刑した後、祝宴を開いて呂蒙を第一の功労者として上座に座らせ、呂蒙に親しく杯を渡す。呂蒙は恭しく杯を受け取るが、突然その杯を地面に叩きつけるなり、孫権の胸倉を掴んで押し倒し「青い眼の小童よ、拙者が誰か解るか」「我こそは関雲長なり」と大喝。祝宴に列席していた一同が顔色を変えて平伏すると、呂蒙はばったりと倒れ、全身の穴という穴から血を吹き出して死ぬことになる。関羽の魂が乗り移ったように描かれている。またその首を贈られた曹操が戯れに「別れて久しいが、お変わりなかったかな?」と声をかけると眼と口を開いて睨み付け曹操を驚かせた。その後、曹操は関羽の亡霊を恐れ衰弱し病死したとも語られている。

また関羽が斬首された後、その霊が玉泉山の普浄という僧の前に、同じくして死んだ関平と周倉、それに家臣の霊と共に現れ、呉や呂蒙に対する恨みを綴るが普浄の説得により成仏する、という話もある。普浄という人物は話によっては、関羽を以前助けた人物だとも、関羽が死んでから百年後にいた人物だとも言われており、存在した年代がはっきりしておらず、フィクションなのか実在したのかさえもわからない。

死後の関羽と関羽信仰

荊州区の関公義園にあった関羽の巨大銅像(韓美林作)

台湾・新北市の金瓜石にある巨大な関羽像

台湾・新北市の金瓜石にある巨大な関羽像正面向こう

山西省運城市塩湖区にある中国でも有数の大きさの解州関帝廟
六朝時代の道教における、神格化された人間の一覧『真霊位業図』には曹操・劉備はいるが、関羽はいない。六朝時代ではまだ関羽の評価は固まっていなかった証拠といえる。北宋期『漢天師世家』で張天師が関羽を呼び出す話があり、この頃には人間に呼び出される程度の扱いであった。明初に書かれたとされる『道法会元』には「関元帥」と記されており、この時点でかなりの地位の向上がある。その後に「協天大帝関聖帝君」として神格化された。神格化されたのは仏教よりも後なのは確かである。

その仏教では唐代の『荊南節度使江陵尹裴公重修玉泉関廟記』に、隋代の智顗禅師の元に関羽が現れて、僧坊を提供し守護神となったとする話が載り、南宋期に書かれた『仏祖統紀』には智顗禅師の元に関羽の霊が訪れ、仏法に帰依したいと請われた禅師が煬帝に奏して、関羽を「伽藍神(伽藍菩薩)」に封じたとしている。現在では「関帝菩薩」とも呼ばれている。

儒教では五文昌の一人「文衡聖帝」とされて、「山西夫子」と呼ばれている。封じられた時期ははっきりしない。武より文の面が強調されており、台湾などでは受験の際に礼拝される。

政治面から見ると、乱世の中で特定の個人に対して忠誠を尽くした関羽は、為政者から見ると賞賛すべき人物であった。そのため、北宋の徽宗皇帝が爵諡の「忠恵公」後に「武安王」として封じ、「崇寧真君」とした。その後、南宋期には「義勇武安王」とされたと伝わる。明初には神号「協天護国忠義関聖大帝」とされてから、熹宗皇帝が「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」に封じ、清代に入ると順治帝が「忠義神武関聖大帝」として、後に宣統帝が「忠義神武霊佑仁勇威顕開聖大帝」、光緒帝に至っては「忠義神武霊祐仁勇威顕護国保民精誠綏靖翊賛宣徳関聖大帝」と次々と追贈している。多くは王朝初期と末期に追贈がされており、政策の一環や国内外の情勢が垣間見える。なお、清朝が公認した関帝信仰は、満洲を劉備、蒙古を関羽に準えた兄弟結盟を背景とし、蒙古との関係を維持する目的もあった(徐珂『清稗類鈔』、喪祭類「以祀関羽愚蒙」)。

同時に、清代には県に必ず孔子を祭る文廟と、関帝を祀る武廟を建立させた。孔子廟が中華人民共和国初期に多数破壊された結果、現在では関帝廟が単独で多く各地に残る結果となっている。

一方、民衆の人気も高く、各地の中華街には関帝廟が建立されており、日本においては横浜中華街と神戸南京町の関帝廟が著名である。『水滸伝』には関羽の子孫である関勝が、銭彩原『説岳全伝』には関勝の子の関鈴がそれぞれ登場する。また民間伝承では玉帝に比する「左玉皇」とされていて、「関恩主」とも敬称される。なお、民間では関帝の聖誕日を旧暦5月13日もしくは旧暦6月24日としており、台湾では旧暦6月24日に祭りが行われる。

関羽のプロフィールについても、民間伝説により補完されている。銭静方『小説叢考』は、清代に「発見された」関羽の墓碑なるものを根拠に、関羽の生年を延熹3年(160年)6月24日とし、祖父は関審、父は関毅、妻は胡氏[25] であるとする。さらに関平を関羽の実子とし、光和元年に生まれたとする。

中国聯合準備銀行が1938年から1945年まで発行していた10元紙幣に肖像が採用されていた。

京劇における関羽

京劇の関羽(俳優は殷秋瑞氏)
京劇での関羽役は、主な四つのキャラクターのうちの生(Sheng、ション=男役の総称。男役の中でも武人・英雄などは「武生(ウーション)」と細分化して呼ばれる)に分類されるが、特に「紅生」と呼ばれ、専門の役者が演じる。顔は造作の線を除いて、忠義を示す赤一色に塗り、完璧な忠義を表現する。

その一方、関羽を演じる役者は、化粧のとき故意にその顔に黒子や黒い線をつけるなど、完璧なくまどりになることを避ける。これは神として扱われる存在に対して、劇中の関羽は人間の行う模倣であり、関帝そのものではないと言う、京劇関係者の関羽に対する礼儀と遠慮を表すための伝統である。

歌舞伎の演目にも「関羽」がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%BE%BD
13:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2022/12/24 (Sat) 14:34:07

袁紹
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%81%E7%B4%B9

袁 紹(えん しょう、? - 建安7年5月21日〈202年6月28日〉)は、中国後漢末期の武将・政治家。字は本初(ほんしょ)。豫州汝南郡汝陽県(現在の河南省周口市商水県)の人。

何進と協力して激しく宦官と対立。宦官勢力を壊滅させることに成功したが、董卓との抗争に敗れ、一時は首都の洛陽より奔り逼塞を余儀なくされた。後、関東において諸侯同盟を主宰して董卓としのぎを削った。同盟解散後も群雄のリーダー格として威勢を振るい、最盛期には河北四州を支配するまでに勢力を拡大したが、官渡の戦いにおいて曹操に敗れて以降は勢いを失い、志半ばで病死した。『三国志』魏志および『後漢書』に伝がある。

生涯
名門の実力者
後漢時代に4代にわたって三公を輩出した名門汝南袁氏の出身で、袁逢・袁隗の次の世代の人物にあたる。

袁紹の前半生ははっきりしないが、一説(『三国志』魏志「袁紹伝」が引く『英雄記』)によれば、生まれて間もなく父の袁成と死別し、叔父の袁逢と袁隗に育てられたという。幼少にして郎に取り立てられ、20歳で濮陽の県令に任命されると清廉との評判を得た。母が亡くなると3年の喪に服し、喪が明けるとさらに父の喪にも服し、孝を尽くした。6年間の服葬の後、洛陽に隠れ住んだ。むやみに人と会わず、名声の高い人物とのみ交際したという。

袁紹は威厳がある風貌をしており、また快活な性格で名門出身にも係わらず謙虚でもあったため、曹操ら大勢の人々から慕われたという。一説(『三国志』魏志「袁紹伝」が引く『英雄記』)には遊侠を好み、張邈(孟卓)・何顒(伯求)・許攸(子遠)・伍瓊(徳瑜)・呉巨(子卿)らの名士と「奔走の友」としての交わりを結んだ。朝廷からの招聘には応じなかった。

同世代の袁氏有力者として袁術がいた。宗族の長は袁紹と袁術のいずれか[1]と目されており、都にいた地方の豪族子弟はこぞって両家に赴いたが、何顒や許攸らは袁術のもとには赴かなかったという。このため、袁氏の正嫡であると自負していた袁術に憎まれ、後に対立する一因となった。

当時、朝廷の政治を壟断していた宦官の趙忠らは、袁紹の行動を不審に思い危険視していた。そのことを聞いた叔父の袁隗は、一族を滅ぼすつもりかと袁紹を叱ったという(『三国志』魏志「袁紹伝」が引く『英雄記』)。そのため、何進の掾(属官)に召されるとようやく官途に就くことにした。間もなく侍御史・虎賁中郎将と累進し、188年には中軍校尉(西園八校尉の一つ)も兼ねた。

189年5月[2]、俄かに霊帝が崩御すると、子の劉弁(後の少帝)を支持する何皇后と、劉協(陳留王、後の献帝)を支持する董太后との間で後継争いが起こった。劉協派の宦官の蹇碩は、何進を暗殺しようと図ったが失敗し、劉弁が即位した。劉協派を粛清し外戚として権力を握った何進は、さらに十常侍ら宦官勢力の一掃を袁術と図る。しかし、皇太后(何皇后)は宦官から賄賂を受けていたので、許可しなかった。また、宦官側もしきりに何進に留意を促したため、計画は進展しなかった[3]。

そこで袁紹は、董卓ら諸侯の軍勢を洛陽に召集し、皇太后に決断を迫るよう献策した。その策は何進に採用されたが、後に董卓と諸侯の権力闘争の遠因となった。何進は袁紹を司隷校尉に任じて、兵権を与え洛陽の武官の取りまとめを任せ、また虎賁中郎将の袁術に命じて宦官から武力を取り上げようとした。しかし、時機を逸した上に秘密が漏れ、逆に何進は宦官に暗殺された[4]。ここに至って袁紹は宮中に兵を進め、宦官を老若の区別なく皆殺しにした[5]。

その後、董卓が混乱に乗じて洛陽に入り、武力を背景に朝廷の実権を握ると、袁紹と董卓の間に確執が生じる。董卓が少帝の廃立を諸侯に提議すると、袁紹はこれに反対して席を立ち、そのまま冀州に逃亡した[6]。初め董卓は賞金を懸けて袁紹の行方を追っていたが、袁氏の勢力が結集することを恐れると、罪を赦して勃海郡の太守に任命し、邟郷侯に封じた[7]。

初平元年(190年)正月[8]、東郡太守橋瑁の呼びかけ[9]により、各地の刺史や太守が打倒董卓の兵を挙げた。決起の檄文は冀州にも届き、袁紹もこれに応じた[10]。同盟軍(反董卓連合軍)の盟主に推薦されると、車騎将軍を自称し、河内郡に駐屯した。しかし、袁紹は董卓軍の強さを恐れ、果敢に洛陽を攻めようとはしなかった。そのため、決戦を主張する曹操らから批判された。袁紹らの挙兵を受け、董卓は2月に長安への遷都を行い、洛陽に火を放った。袁隗・袁基ら袁氏一門はことごとく処刑された。これに対し袁紹は、董卓が和睦のために送った使者を捕らえ、執金吾の胡毋班らを殺している。

191年正月、袁紹は安否が不明な献帝に代え、幽州にいる大司馬劉虞の擁立を諸侯に図った。しかし、袁術や曹操などから忠義に背く行為であると反対され、さらに劉虞本人からも拒絶されたため断念した。4月、陽人の戦いの後、敗れた董卓は洛陽を捨てて長安に撤退したが、かつての洛陽は焦土と化し、また諸侯の間で内紛も起こり、最終的に連合軍は瓦解した。挙兵の大義を失った諸侯はそれぞれの根拠地へ戻り、自衛や勢力拡張のため相争うようになる。こうして後漢は、各地に群雄が割拠する内乱の時代に入った。

勢力拡張
董卓征討軍が解散した後、袁紹は同じ袁家の出身で、勢力を誇る袁術と対立を深める。

袁紹は韓馥と共に劉虞に皇帝就任を要請したが、劉虞には固辞された。劉虞はかえって、自身の忠誠の証を立てるために長安に使者を送り、献帝の方でも劉虞を頼りにしようと思うようになり、劉和を使者として送り劉虞に援軍を要請した。この動きを利用した袁術は、劉和を軟禁して手紙を書かせ、劉虞の軍勢の奪取を図った。

幽州において、異民族政策を巡り劉虞と対立してきた公孫瓚は、冀州や青州の黄巾討伐などで功績を挙げ、一方の雄として存在感を強めていた。公孫瓚は、劉虞の軍に自身の従弟の公孫越の軍を同行させ、袁術と友好関係を結ぶようになった。また、反董卓の義兵に加わると称して韓馥を攻撃するなど、軍事的な野心を露骨に見せるようになった。

このような状況下、袁紹は張楊らの軍勢を傘下に収め、さらに韓馥を見限った麴義の軍を味方につけ、軍事的に強勢となっていた。初平2年(191年)、公孫瓚に怯える韓馥に高幹や郭図らの使者を送り、冀州牧の地位を譲り受け牧となった[11]。このときに沮授・田豊を配下とした。

またこれより以前、袁術は孫堅を豫州刺史に任命していたが、袁紹は洛陽に入った孫堅の力を削ぐため、周昂(あるいは周喁)を豫州刺史に任命し牽制させることにした。周昂と孫堅が争う中で、孫堅の援軍として袁術に派遣された公孫越が戦死するという事件が発生する。公孫瓚は袁紹への敵意を剥き出しにし、磐河まで出陣してきた。

初平3年(192年)、袁紹は界橋まで進軍した公孫瓚を迎え撃った。公孫瓚軍の布陣は、中央に歩兵3万余が方陣を敷き、その左右を騎兵1万余が固めるというものであった。袁紹軍の布陣は、先陣の麴義が楯を構えた兵士800人と1000張の強弩隊を指揮し、その後に袁紹自身が指揮を執る数万の歩兵が続いた。羌族の(騎兵)戦術を熟知した麴義の奮闘により、袁紹軍は公孫瓚の部将の厳綱を討ち取るなど勝利した(界橋の戦い)。袁紹は一時、敗走してきた公孫瓚の騎兵によって窮地に追い込まれ、田豊に逃走を勧められたが、戦地に踏みとどまって奮戦を続けたという。

黒山賊に背後を突かれるが、反撃しこれを破っている。

長安において董卓が暗殺され、その後の政争に敗れた呂布が頼ってきた。黒山賊の討伐に呂布を用いたが、呂布が戦功を鼻にかけるような態度をとったため殺害を謀ったが、張邈に制止された。これ以降、張邈との関係は冷え込んでいった。また鮑信は袁紹が驕慢となり、第二の董卓となりつつあると予測し、曹操に河南での自立を勧めたという。

その後、渤海郡をめぐる攻防で公孫瓚の籠る城を落とせず、退却したところを逆に追撃されて大敗を喫する。公孫瓚は南進して諸郡を攻めるも、袁紹は数万の軍を出動させる構えを見せ、冀州・青州を巻き込んで2年余りの長期戦と化す。結果的に袁紹は自領を守りきった。

192年、兗州において黒山賊による争乱が起きると、曹操を東郡太守に任命し支援した。青州には臧洪を派遣し田楷や孔融と対抗させた。一方で、荊州の劉表に袁術の背後を突かせ、劉表を攻撃した孫堅が戦死するという戦果を挙げる。劉岱とは家族を預けるほどの友好関係であったが、青州黄巾の再度の蜂起により劉岱が戦死すると、曹操が鮑信らの計らいで後継の兗州牧に推されるのを容認した。

193年、袁術が正式な兗州刺史の金尚を擁して攻め込んできたときも、曹操に命じて匡亭の戦いにおいて、袁術を揚州の寿春へ退かせた。同年、公孫瓚が劉虞を殺害し、劉虞の旧臣が烏桓を巻き込んで、公孫瓚に対して一斉に反乱を起こした。袁紹は劉虞の子の劉和を支援しその内紛に介入し、鮑丘の戦いで麴義や劉虞の旧臣が公孫瓚を破ると、公孫瓚は10年は籠ることのできると言われた難攻不落の易京城に籠城した。袁紹は麴義に叛かれるなどの損害もあったが、公孫瓚の消極的な姿勢にも助けられ易京の包囲と攻撃に成功した。さらに、公孫瓚が城外の公孫続・黒山賊張燕と連携しようとした作戦も察知し、これを破った。建安4年(199年)には、地下道を掘り進めて易京を陥落させて、公孫瓚を滅亡に追い込んだ。

この間、曹操が徐州の陶謙を攻撃すると、朱霊を援軍に派遣し支援した。また、張邈・陳宮が呂布を呼び入れて、兗州において曹操に対して反乱を起こしたときも、曹操を支援した。青州を任せていた臧洪を東郡太守に任命したが、臧洪が恩義のある張超を支援しようとしたため、敵対関係となり、やむなくこれを討ち果たした。青州には長男の袁譚を送り込み、袁譚は孔融を追い払い青州の支配を固めた。また并州方面には高幹を派遣した。徐州は陶謙の没後、劉備が継承していたが、袁紹は劉備の支配を容認し、劉備も袁譚を孝廉に推挙するなど友好的な姿勢を示したが、袁術も徐州を狙っており、劉備はやがて呂布にその地位を奪われた。

献帝が長安を脱出してくると、献帝を擁立するか否かを巡って家臣団が対立した。結局、曹操が献帝を許において擁立すると、人事や官位の任免に干渉し、建安2年(197年)には曹操を押しのけて大将軍に任じられ、使持節・大将軍・督青幽并三州諸軍事・冀州牧・邟郷侯を名乗った。

袁紹が公孫瓚を滅亡寸前まで追い込んでいたころ、曹操は張繡・劉表・袁術・呂布といった敵を抱えて東奔西走を余儀なくされていた。袁紹は挑発的な手紙を送ったため、曹操の心中は穏やかではなかった。198年、曹操は呂布を降したが、その前後から袁紹に敵対姿勢を示すようになり、翌年には張繡と張楊の勢力を吸収し、公孫瓚を滅ぼした袁紹と並ぶ、中原の二大勢力になっていった。

曹操との決戦
199年、袁術が帝位を自称したものの零落し、袁紹に身を寄せることを申し出てくると、袁譚に袁術を迎え取らせようとしたが、曹操の命令を受けた劉備に阻止された。

同年、劉備が徐州にて曹操に反乱を起こし、袁紹に救援を求めてきた。配下の田豊は、この機会に曹操を滅ぼすべしと主張したが、袁紹は子供(袁尚)の病を理由に断った。曹操はこの時、青州に遊軍を送って牽制しつつ、既に黄河に布陣していたが、袁紹が未だ攻めてこないことを知ると、200年には自ら軍勢を反転させて劉備を追い散らした。敗れた劉備は袁譚の元に身を寄せたので、袁紹はこれを匿った。

袁紹は南征の意思を固め、陳琳に書かせた檄文を自らの支配する四州へ出し、後世に「官渡の戦い」と呼ばれる一大戦役に臨んだ。この際、沮授や田豊は持久戦を主張し、郭図や審配らは速戦を主張したが、袁紹は後者の言を受け入れた。この速戦戦略の不利益を頑なに主張する田豊を、袁紹は遂には投獄してしまった。

建安5年(200年)2月、袁紹は遂に軍を発し河南へ向けて侵攻を開始した。緒戦こそ白馬・延津で顔良・文醜らが討ち取られるなど出鼻を挫かれたものの、兵力・物資で勝る袁紹軍はじりじりと曹操陣営を圧迫し、陽武から官渡へと曹操軍を破って進軍した。官渡の砦を防衛線にした曹操軍に対し、袁紹は土山を築いたり地下道を掘り進めたりなどしたが、曹操軍も同じく土山を築くなどしてこれに対抗した。

秋に入ると、曹操領豫州汝南郡(袁紹の出身地でもある)では黄巾の残党であった劉辟や龔都が反乱を起こし、袁紹は劉備を送ってこれを支援した[12]。また、曹操軍内では兵糧が枯渇し兵が疲弊、袁紹に投降を考えて内通する者が続出した[13]。曹操は一時的な退却を考え、荀彧に相談していた。

袁紹は眭元進・韓莒子・呂威璜・趙叡の四将を淳于瓊に指揮させ、輸送された食糧を備蓄した兵糧庫を守備させようとした。このときに沮授は、淳于瓊に加えて蔣奇に別働隊を指揮させて守備を万全にすることを袁紹に進言したが、またしても受け入れられなかった。これより以前、袁紹は沮授の軍権を削って郭図と淳于瓊に分け与えるなど、袁紹軍の内部は対立が深刻化していた。

10月、袁紹陣営の許攸は膠着した戦線を打開するべく、軽装兵を用いて許都を襲撃することを説いたが袁紹に受け入れられず、また家族が罪を犯して審配に逮捕されたことで嫌気がさし、曹操陣営に投降した[14]。許攸は淳于瓊が守る烏巣の兵糧庫の所在を暴露した。曹操は本陣の兵力の過半を裂いて出陣、敵の哨戒網を突破して、烏巣を強襲した。沮授は兵糧守備の懸念を再度直訴したが、袁紹の不興を買って斥けられ、郭図の目論む(俄か仕込みの)囲魏救趙の計(半数の兵で手薄の敵本陣を攻め、残りの兵で烏巣に援軍する)が採用された。だが、折角の計略も狙いを絞ることが出来なかったために、味方のいずれもが敗退した。結果、烏巣の兵糧庫は炎上陥落し、淳于瓊は敗死した。これが大きな打撃となり、さらに曹操の本陣を攻撃していた高覧・張郃らの寝返りなどもあり、袁紹は冀州に敗走した。

201年4月、倉亭を守備していた袁紹配下の軍が、曹操軍に破られた(倉亭の戦い)[15]。

敗戦後、冀州の各地で反乱が勃発したが、袁紹は軍勢を立て直すと全て鎮圧した。また、曹操も袁紹の存命中は河北に侵攻しなかった。

しかし建安7年(202年)5月、袁紹は発病し、苦悶の内に血を吐いて死去した。(『三国志』魏志「袁紹伝」)ふだん民衆に仁政を行ったため、この死を聞いた河北の百姓たちは嘆き悲しんだという(『献帝春秋』)。

死後
袁紹は生前に明確な後継者を選んでいなかった。このことが彼の死後に災いして、袁氏勢力は長男の袁譚派(郭図・辛評ら)と末子の袁尚派(審配・逢紀ら)に分裂する。建安9年(204年)に曹操が袁氏の本部である鄴を攻め落とした。甄夫人を含む袁氏一族の妻子が落城の際に乱取りされたという[16]。後、曹操は袁紹の墓を祀った。袁紹の本妻である劉氏を慰労し、絹や米を賜った。

袁譚・袁尚は相続を巡り骨肉の争いを繰り広げ、その間隙を曹操に付け込まれた。建安10年(205年)には袁譚を、建安12年(207年)には袁尚を討ち取られ、袁氏は滅亡した。

評価
『三国志』の編者である陳寿は、「袁紹の威容は堂々としており、名声は天下に轟き、河北に割拠した」と前置きしながらも、やはり同じく群雄であった劉表とをまとめて「しかし、外面は寛大に振舞いながら内面は猜疑心が強く、謀を好みながら決断力に欠けていた。また、優れた人物がいても用いることができず、忠言を聴いても実行できなかった。長子を廃して庶子を後継ぎにしようと考え、礼儀を捨て個人の情を重んじた。だからその死後、子孫が困窮し、領地を失ったのは当然であった」と評している。曹操や孫権の後継争いの際にも、袁紹と劉表は悪しき前例として言及されている。

人物・逸話
袁紹は『三国演義』始め、多くの三国志創作では名門の出自によって出世しただけの暗君として描かれているが、史書には以下のような人物像が記録されている。

袁紹の母親は婢女であり[17]、凡才であれば、もともと名が史書に記録されるような立場にはなかった。
「容貌端正」[18]「姿貌威容あり」[18]「姿弘雅」[19]とあり、秀麗な容姿であった。しかし、「体長婦人」[20]とも記されており、小柄な人物であったことが分かる。
後漢末期当時、四つの州を支配した袁紹は最も強盛であるとされた[8]。劉廙は上奏文の中で「孫権・劉備の実績は袁紹の事業と比較にならない」と言っている[21]。
おっとりとして上品で、喜怒哀楽の感情を表さなかったと言われる[22]。
魏郡の軍勢が謀叛を起こし黒山の于毒と結んで鄴城を攻めたという一報が入った時、その場にいた席上の客達は動揺し、中には泣き叫ぶ者もいたが、袁紹は顔色を変える事もなく泰然自若としていた[22]。
公孫瓚配下の騎兵二千騎余りが突如来襲してきた時には田豊が避難させようとしたが、袁紹は兜を地面に叩きつけて「大丈夫たる者は突き進んで戦死するものだ」と言った[22]。
漢末期の王公の間で雅であるとされた幅巾という幅の広い絹の頭巾を被っていた[23]。
帰郷の際、人物評価で名声の高い許劭の目を気にして、車一台だけで帰った[24]。
敵対している立場から郭嘉が「袁紹は人民、蛮人に恩を施していたから、袁紹の息子たちが生きていられるのです」と発言し[25]、荀攸が「袁紹は寛大さと厚情によって人々の気持ちを把握していました」[26]と発言しており、袁紹の死を民百姓が嘆き悲しんだ事から[27]、仁政を執り行った事が分かる。


親族
袁湯(祖父)
袁成(父か養父)[28]
袁逢(叔父か生父)
袁隗(叔父)
袁基(嫡兄か従兄)
袁術(嫡弟か従弟)
袁遺(従兄)
楊彪妻(姉か妹)
高躬妻(姉か妹)
劉氏(後妻)
袁譚(長男)
袁煕(次男)
袁尚(三男)
袁買(四男、一説は兄の子)
高幹(甥)
李宣(姻族)
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14:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2022/12/24 (Sat) 21:09:46

諸葛亮
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E8%91%9B%E4%BA%AE

諸葛 亮(しょかつ りょう、拼音: Zhūgě Liàng ジューガー・リャン、181年 - 234年)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・武将(軍師)。亮は諱で字は孔明こうめい。

司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯ちゅうぶこう。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都や南陽には諸葛亮を祀る武侯祠がある。

妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹で戦死した諸葛瞻。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。親族として叔父の豫章太守諸葛玄、同母兄で呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、同母弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。一族には、魏の武将として仕えた諸葛誕などがいる。

略伝
書生時代
徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省臨沂市沂南県)が本貫だが、出生地は不明。身長は8尺(後漢の頃の1尺は23cmで8尺は184cm、魏・西晋の頃の1尺は24.1cmで8尺は192.8cmになる)。その祖先は前漢元帝の時の司隷校尉の諸葛豊。父の諸葛珪は泰山郡の丞(郡の副長官)を務めた人物であるが、諸葛亮が幼い時に死去している。年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾(異母兄説がある)、弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均、他に妹がいる。

まだ幼い頃、徐州から弟の諸葛均と共に叔父の諸葛玄に連れられ南方へ移住する。この時の行き先について『三国志』本伝では、叔父の諸葛玄は袁術の命令を受けて豫章太守に任命されるが、後漢の朝廷からは朱皓が豫章太守として派遣され、その後、劉表の元に身を寄せたとなっている。これに対して裴松之注に引く『献帝春秋』では、朝廷が任命した豫章太守の周術が病死したので劉表が代わりに諸葛玄を任命したが、朝廷からは朱皓が送り込まれ、朱皓は劉繇の力を借りて諸葛玄を追い出し、諸葛玄は逃れたが建安2年(197年)に民衆の反乱に遭って殺され、首を劉繇に送られたとなっている。

その後、諸葛亮は荊州で弟と共に晴耕雨読の生活に入り、好んで『梁父吟』を歌っていたという。この時期には自らを管仲・楽毅に比していたが、当時の人間でこれを認める者はほとんどおらず、親友の崔州平(太尉・崔烈の子、崔均の弟)や徐庶だけがそれを認めていたという。この時期の他の学友に石韜や孟建がいる。また、この時期に地元の名士の黄承彦の娘を娶ったようである。これは裴松之注に引く『襄陽記』に見える話で、黄承彦は「私の娘は色が黒くて醜いが、才能は君に娶わせるに足る」と言い、諸葛亮はこれを受け入れた。周囲ではこれを笑って「孔明の嫁選びを真似てはいけない」と囃し立てたという。これ以降、不器量の娘を進んで選ぶことを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになった。

妻の父の黄承彦の妻は襄陽の豪族蔡瑁の長姉であり、蔡瑁の次姉は劉表の妻であるため、蔡瑁・劉表は義理の叔父に当たる。また、諸葛亮の長姉は房陵太守蒯祺の妻[1]、次姉は龐徳公の息子の妻であり、龐徳公の甥の龐統も親戚である。

三顧の礼

明の時代に描かれた三顧の礼の様子
華北ではこの頃、建安5年(200年)に曹操が袁紹を打ち破って覇権を手中にし、南進の機会を窺っていた。劉備は袁紹の陣営を離れて劉表を頼り、荊州北部の新野(現在の河南省南陽市新野県)に居城を貰っていた。

諸葛亮は前述のように晴耕雨読の日々を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した[注釈 1]。人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び(207年冬~208年春)、やっと迎えることができた[注釈 2]。これが「三顧の礼」である。この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を故事に習って示し、「曹操・孫権と当たることを避けて、まずは荊州・益州を領有し、その後に天下を争うべきだ」と勧めた。これを聞いた劉備は諸葛亮の見識を認め、諸葛亮を軍師中郎将左将軍府事に任じた、また諸葛亮は劉備に仕えることを承諾した。これを「孔明の出廬」という。

赤壁の戦い
建安13年(208年)、劉表陣営では次男の劉琮が後継となることがほとんど決定的となり、長男の劉琦は命すら危ぶまれていた。劉琦は自らの命を救う策を諸葛亮に聞こうとしていたが、諸葛亮の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。そこで劉琦は一計を案じて高楼の上に諸葛亮を連れ出し、登った後で梯子を取り外して、諸葛亮に助言を求めた。

観念した諸葛亮は春秋時代の晋の文公の故事を引いて、劉琦に外に出て身の安全を図るよう薦めた。劉琦はこれに従い、その頃ちょうど太守の黄祖が孫権に殺されたため空いていた江夏(現在の湖北省東部)へ赴任する事にした。劉琦の兵力は後に劉備たちが曹操に追い散らされたときに貴重な援軍となった。

同年、劉表が死去。その後を予定通り劉琮が継ぐ。諸葛亮は劉備に荊州を取れば曹操に対抗できると勧めたが、劉備はこれに難色を示す。まもなく曹操が南下を開始すると、劉琮はすぐさま降伏した。劉備は曹操の軍に追いつかれながらも、手勢を連れて夏口へ逃れた(長坂の戦い)。

孫権陣営は情勢観察のため、劉表の二人の息子への弔問を名目に魯粛を派遣してきていた。諸葛亮は魯粛と共に孫権の下へ行き、曹操との交戦と劉備陣営との同盟を説き、これに成功した。この際、孫権から「劉備殿はどうしてあくまでも曹操に仕えないのか」と問われ、諸葛亮は「田横は斉の壮士に過ぎなかったのに、なおも義を守って屈辱を受けませんでした。まして我が主・劉玄徳は王室の後裔であり、その英才は世に卓絶しております。多くの士が敬慕するのは、まるで水が海に注ぎこむのと同じです。もし事が成就しなかったならば、それはつまりは天命なのです。何故曹操の下につく事などできましょうか」[注釈 3]と答えた。その後、劉備・孫権の連合軍は曹操軍と長江流域で対決し、勝利した(赤壁の戦い)。

入蜀
戦後、劉備たちは荊州南部の4郡を占領した。4郡の内の3郡の統治に当たり、ここからの税収を軍事に当てた。この頃、諸葛亮と並び称された龐統が劉備陣営に加わった。

建安16年(211年)、益州の劉璋より、五斗米道の張魯から国を守って欲しいとの要請が来た。しかし、その使者の法正は張松と謀って、益州の支配を頼りない劉璋から劉備の手に渡す事を目論んでいた。劉備は初めこれを渋ったが、龐統の強い勧めもあり、益州を奪う決心をした。劉備は龐統、黄忠、法正らを連れて益州を攻撃した。諸葛亮は張飛、趙雲、劉封らとともに長江を遡上し、手分けして郡県を平定。諸葛亮らは戦うところ全てで勝利した(『三国志』劉封伝)。郡県の平定を終えると劉備と合流し共に成都を包囲した(劉備の入蜀)。

建安19年(214年)に益州が平定されると、諸葛亮は軍師将軍・署左将軍府事となる。劉備が外征に出る際には常に成都を守り、兵站を支えた。また法正、劉巴、李厳、伊籍とともに蜀の法律である蜀科を制定した。

夷陵の戦い
その後、劉備は曹操に勝利して漢中を領有したが、荊州が孫権に奪われ、荊州の留守をしていた関羽が捕らえられ、斬殺された。

劉備の養子である劉封が孟達、申儀の裏切りにより曹操軍に敗走して成都に戻ってくると、劉備は劉封が関羽の援軍に行かなかった事と、孟達の軍楽隊を没収した事を責めた。諸葛亮は劉封の剛勇さは劉備の死後に制御し難くなるだろうという理由から、この際に劉封を除くように進言した。劉備はその提案に従い、劉封を自殺させた。

建安25年(220年)には曹操が死去した。その年、曹操の子 曹丕が遂に後漢の献帝より禅譲を受けて、魏王朝を建てた。一方、劉備は後漢の献帝が殺害されたとの報に触れ、翌年成都で漢を継ぐことを宣言し、皇帝に即位して蜀漢を建て、諸葛亮は丞相・録尚書事となった。

劉備が呉へ進軍を計画し、この戦いの準備段階で張飛が部下に殺されるという事件が起こり、諸葛亮は張飛が就いていた司隷校尉を兼務する。この戦いは最初は順調に行き、途中孫権は和睦を行おうとしたが、劉備はそれを聞かず、陸遜の作戦にはまり大敗に終わった(夷陵の戦い)。この戦いの後、諸葛亮は「法孝直が生きていれば、主上(劉備)を抑えて東征させたりはしなかっただろう。例え東征したとしても、このような危機にはならなかっただろうに」と嘆いた[注釈 4]。

劉備は失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城で章武3年(223年)に崩御した。崩御にあたり劉備は諸葛亮に対して「そなたの才能は曹丕の10倍ある。きっと国を安定させて、最終的に大事を果たすだろう。もし我が子(劉禅)が補佐するに足りる人物であれば補佐して欲しい。もし我が子に才能がなければ迷わずそなたが国を治めてくれ」と李厳と共に事後を託した。これに対し、諸葛亮は、涙を流して股肱の臣下としての忠誠を誓った。

また、劉備は死に際して諸葛亮に向かい「馬謖は言葉だけで実力が伴わないから重要な仕事を任せてはいけない」と言い残した(「馬謖伝」)。

益州南部の平定
劉禅が帝位に即くと、諸葛亮は武郷侯、開府治事、益州刺史を兼ね、政治の全権を担った。

諸葛亮は孫権が劉備の死を聞けばおそらく異心を抱くだろうと深く心配していたが、鄧芝を派遣して孫権との友好関係を整え、孫権は魏との関係を絶ち、蜀と同盟し、張温を派遣して返礼させた。さらに、魏に対する北伐を企図する。魏は、諸葛亮が実権を握ったのを見て、華歆、王朗、陳羣、許芝のほか同族の諸葛璋ら高官が相次いで降伏勧告の手紙を送りつけたが、諸葛亮は返事を出さず後に『正議』を発表して彼らを批判した。

劉備の没後、益州南部で雍闓・高定らが反乱を起こしていたが、諸葛亮は建興3年(225年)に益州南部四郡をことごとく平定した(南征)。この地方の異民族に漢代を通じて始めて税を課す事に成功して財物を軍事に充て、蜀の財政は大いに潤った。この時、七縦七擒の故事があったといわれるが、本伝には見えない(詳しくは「孟獲」の項を参照)。12月に諸葛亮が成都に帰還すると南蛮は再び反乱を起こし、雲南太守の呂凱が反乱軍に殺害されたため、李恢が兵を率いて反乱を鎮圧した。その後、建興9年(231年)に死去した李恢の後任として張翼が赴任するが、建興11年(233年)には南夷の豪帥であった劉冑が反乱を起こしたため、朝廷は張翼を召還して馬忠を派遣し反乱を平定させている。

北伐

清の時代、想像で描かれた諸葛亮と司馬懿
建興5年(227年)、諸葛亮は北伐を決行する。北伐にあたり上奏した『出師表』は名文として有名であり「これを読んで泣かない者は不忠の人に違いない」(『文章軌範』の評語)と称賛された。同年に待望の実子、諸葛瞻を儲けた。

北伐に幕僚として従軍し、諸葛亮から高く評価された楊顒は諸葛亮が自ら帳簿の確認を行っているの見て、その働きすぎを治国のあるべき姿である礼制を一家のあり方に例え、前漢の宰相である丙吉・陳平の故事を引いて諌めた。諸葛亮は彼の忠告に陳謝した。後に楊顒は東曹属となって官吏の推挙を担当した。楊顒が亡くなると、諸葛亮はその死を痛み三日間にわたって涙を流した。諸葛亮は留府長史の張裔・蔣琬に手紙を送った際に、同時期に亡くなった西曹令史の頼広とともに、その死は朝廷の重大な損失であると書き記している。

魏を攻める前年、諸葛亮は、以前に魏へ降伏した新城太守の孟達を再び蜀陣営に引き込もうとした。孟達は魏に降った後、曹丕に重用されていたが、建興4年(226年)の曹丕の死後は立場を失い、危うい状況にあった。諸葛亮はこれを知ると孟達に手紙を送り、孟達の方も返書を出した。さらに申儀の讒言や司馬懿の疑惑を恐れた孟達は、魏に反乱を起こそうとした。しかし孟達は司馬懿の急襲を受けて討ち取られた[注釈 5]。

建興6年(228年)春、諸葛亮は漢中より魏へ侵攻した。魏延は、自らが別働隊の兵1万を率い、諸葛亮の本隊と潼関で合流する作戦を提案したが、諸葛亮はこれを許可しなかった[注釈 6]。魏延はその後も北伐の度にこの作戦を提案するが、いずれも諸葛亮により退けられている。

諸葛亮は宿将の趙雲をおとりに使って、郿を攻撃すると宣伝し、曹真がそちらに向かった隙を突いて、魏の西方の領地に進軍した。この動きに南安・天水・安定の3郡(いずれも現在の甘粛省)は蜀に寝返り関中、魏の朝廷は恐慌した。さらに隴西まで進出したが隴西太守の游楚は抵抗するとここではすぐに軍を引いた。これに対して魏の明帝曹叡は張郃を派遣したが、諸葛亮は戦略上の要地である街亭の守備に、かねてから才能を評価していた馬謖を任命していた[注釈 7]。しかし馬謖は諸葛亮の指示に背き行動は妥当性を欠いていた。配下の王平の諫言も無視して山上に布陣し、張郃により山の下を包囲され、水の供給源を断たれて敗北した。趙雲も曹真に敗北し、曹真と張郃は3郡奪回へ進軍した。進路の確保に失敗した蜀軍は、全軍撤退を余儀なくされた(街亭の戦い)。撤退時に諸葛亮は西県を制圧して1000余家を蜀に移住させた。

撤退後、諸葛亮は馬謖らを処刑したほか(「泣いて馬謖を斬る」の故事)、趙雲を降格し、また馬謖の逃亡を黙認した向朗を免職にした。自らも位を3階級下げて右将軍になったが、引き続き丞相の職務を執行した。

李邈は諸葛亮を諫めて「春秋時代に秦は敗軍の将・孟明視(中国語版)を赦したおかげで西戎を制圧でき、楚は子玉を誅殺したため二代にわたって振るわなかったのです」と述べて、諸葛亮の機嫌を損ね、蜀に帰還した[2]。

同年冬、諸葛亮は再び北伐を決行する。その際『後出師表』を上奏したとされるが[3]、これについては偽作説が有力である。2度目の北伐では陳倉城を攻囲したが、曹真が侵攻路を想定して城の強化を行わせていた事や、守将の郝昭の奮戦により、20日余りの包囲した後、食糧不足により撤退した。撤退時に追撃してきた魏将王双を破り討ち取っている(陳倉の戦い)。

建興7年(229年)春、第3次の北伐を決行し、武将の陳式に武都・陰平の両郡を攻撃させた。雍州刺史の郭淮が救援に向かうが、諸葛亮が退路を断つ動きを見せると撤退したため、陳式は無事に武都・陰平の2郡を平定した(陳倉の戦い#第三次北伐)。この功績により、再び丞相の地位に復帰した。

建興8年(230年、魏の曹真らが漢中に攻め寄せるも大雨によって魏軍の進軍が滞った事もありこれを撃退する(子午の役)と、これに乗じた諸葛亮は西に軍を進め魏延、呉懿を羌中へ向かわせ、陽谿で魏の費耀・郭淮を大いに打ち破った。

建興9年(231年)春2月、諸葛亮ら蜀軍は第4次の北伐を行った。魏の祁山を包囲すると別働隊を北方に派遣し、諸葛亮は自ら郭淮らと対峙し撃退したが、張郃ら魏軍が略陽まで進軍してくると、祁山まで後退した。司馬懿が指揮を執る魏軍は祁山を解放するために、司馬懿が諸葛亮の軍を、張郃が王平の軍を攻撃したが、撃退された。蜀軍は局地的には勝利したものの長雨が続き悪天候の食糧輸送を嫌った李厳が撤退を進言したため軍を引いた。撤退時に、司馬懿に追撃を命じられた張郃を伏兵を用いて射殺している(祁山の戦い)[注釈 8]。食糧輸送を監督していた李平(李厳から改名)は、糧秣の不足を伝えて諸葛亮を呼び戻させる一方、軍が帰還すると「食料は足りているのになぜ退却したのだろうか」と驚いたふりをして責任転嫁を図ろうとした。しかし諸葛亮は出征前後の手紙を提出して李平の矛盾を糺したため、李平は自分の罪を明らかにした。そこで自分と共に事後を託された彼を庶民にいきなり落として流罪にした。李平は諸葛亮に次ぐ地位にあったため、政治・軍事の重圧は諸葛亮に集中することになった。

建興12年(234年)春2月、第5次の最後の北伐を行った。諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣した。しかし、同時に出撃した呉軍は荊州および合肥方面の戦いで魏軍に敗れ、司馬懿も防御に徹して諸葛亮の挑発に乗らなかった。諸葛亮は病に倒れ、秋8月[注釈 9]、陣中に没した(五丈原の戦い)。享年54。

死後
諸葛亮の死後、蜀軍は退却した。この時、司馬懿は追撃を仕掛けたが蜀軍が反攻の構えを見せるとすぐに撤退した。この事から当地の民衆は死せる諸葛、生ける仲達を走らす(「死諸葛走生仲達」)と言い合った。魏延は楊儀の指揮下に入る事を拒否して争いを起こしたが、結局は楊儀に殺された。蜀軍が撤退した後、司馬懿はその陣地の跡を検分し「彼こそ天下の奇才だ」と驚嘆した。

諸葛亮は自身の遺言により漢中の定軍山に葬られた。墳墓は山の地形を利用し作り、棺を入れるだけの小規模なもので、遺体も着用していた衣服を着せたままで、副葬品は一切入れないという質素なものであった。

諸葛亮が死去したとの報を聞いた李厳(李平)は「もうこれで(官職に)復帰できる望みは無くなった」と嘆き、程なく病を得て死去した。同様に、僻地へ追放されていた廖立も、彼の死を知るや「私は結局蛮民になってしまうだろう」と嘆き涙を流した。

『華陽国志』によると、劉禅が白い喪服を身に付けて三日間哀悼の意を表したとき、李邈は上表して次のように述べた、 「呂禄(前漢呂后の一族。呂后の死語、反逆のかどで殺された)・霍禹(昌邑王を廃し宣帝を迎えた霍光の子。霍光の死後殺された)は、必ずしも反逆の志を抱いてはおらず、孝宣帝も臣下を殺す君主となることを好まなかったにもかかわらず、ただ臣下は危機が身に迫ることを恐れ、君主は臣下の威勢を畏怖したために、邪悪が発生したにすぎません。 諸葛亮は強力な軍兵を擁し、狼のごとく後を振り返り、虎のごとく機会を狙っておりました。所管の長は勢力が強大な場合は、辺地の任につけてはならないもので、臣(わたくし)はいつもこれを危ぶんでおりました。 いま諸葛亮が死去しましたのは、つまりご一族には安泰を得られ、西戎は安息を得たということでありまして、すべての人にとって喜ぶべき事態であります。」 劉禅は立腹し、獄に下して李邈を処刑した[2]。

諸葛亮の後は、蔣琬を中心に楊儀(後に失脚)・費禕・董允・鄧芝・呉懿・姜維・王平・張翼といった人々が成都での政務と漢中・東部の防衛を引き継ぎ、諸葛亮の死に動揺する蜀漢の安定に心を砕いた。

諸葛亮の死の直後、各地で霊廟を建立したいという願いが出たが、蜀漢の朝廷は礼の制度に背くとして許可しなかった。また後に成都に諸葛亮の廟を建立すべきだとの意見も提出されたが、劉禅はこれを許可しなかった。しかし、民衆や異民族は季節の祭りを口実に、諸葛亮を路上で勝手に祀る事があとを断たなかった。結局、習隆・向充の上奏を受け、景耀6年(263年)に成都ではなく沔陽に廟が建立された(習鑿歯『襄陽記』)。

魏の鍾会は蜀に侵攻した際、諸葛亮の墓の祭祀を行わせた。

評価
同時代の評価
『三国志』裴松之注に引く『襄陽記』では、荊州時代に龐統と並び称されていた[4]。また曹操が漢中を攻略した際、劉曄は蜀を続けて攻めるよう進言したが、この際に諸葛亮の政治がよいため放置しておくのは危険であるとしている[5]。また魏の文帝から諮問を受けた賈詡は、諸葛亮がよく国を治めていると評価している[5]。呉の大鴻臚であった張儼は古代の名宰相である子産や晏嬰、管仲と並ぶか、それを上回る人物であると評価している[6]。諸葛亮の死後、蜀の相となった蔣琬は楊敏に「前任者(諸葛亮)に及ばない」と謗られた際に「事実私は前任者に及ばない」と語った。蔣琬を継いだ費禕は姜維に「我々は丞相(諸葛亮)に遥かに及ばない。丞相でさえ中原を平定できなかったのだ。我らなどでは問題外だ。功業樹立は能力のある者の到来を待とう」と語っている。

軍事については司馬懿が諸葛亮の築いた軍営の跡を見て「天下の奇才」とする一方[7]「志は大きかったが機を見ることには長けていない」と評している[5]。

張儼は著書の『黙記』述佐篇で批評として「司馬仲達は十倍の地を支配しただ自国の保全につとめただけであった。諸葛孔明を思うままに行き来させていたのだから、もしも孔明が死なずその意思を全うすれば勝負の帰趨も結論を見ていたであろう。昔子産が鄭の国を治めたころ諸侯は思い切って戦いを挑もうとしなかった。蜀の丞相もこれに近いといえよう。司馬懿と比較すればまさっていよう」と述べている[8]。

一方、彼の著作内で呉のある人が「空しく軍隊を疲労させ、毎年出征しながらわずかばかりの土地を攻略することもできず、国内は荒廃にさらされた」と論じている[9]。張儼はこれに対し「司馬仲達の才能は諸葛孔明に劣り、劉玄徳でさえ対抗しえたのに諸葛孔明がどうして軍を出して敵の滅亡を策してはいけないのか。私が観察するに彼の蜀国統治の根幹は当時すでにきちんと整備されており、いにしえの管仲、晏嬰といえどもどうして彼以上でありえようか」と反論している。また同時期に袁準は著作『袁子』の中で「諸葛亮の統治により田畑は開墾され、米倉は満ちあふれ、道には酔っ払うものもいなかった」と論じている[8]。

西晋における評価

武侯祠の諸葛亮像
『晋書』においては諸葛亮が政治・忠誠などで高い評価を受けていた記述が見られる[10]。蜀漢の滅亡後には、司馬昭が諸葛亮の軍法や用兵を陳勰に学ばせている[11]。また傅玄が司馬懿を讃えた楽『宣受命』では、公孫氏討伐とともに諸葛亮に対する勝利を司馬懿の功績であるとしている[11]。また当時、諸葛亮と楽毅を比較する論がしばしばあったが、張輔は『名士優劣論』の中で楽毅などとは比べ物にならず、呂尚(太公望)に匹敵する人物であると絶賛している[12]。また『三国志』裴松之注『漢晋春秋』では、武帝司馬炎が「(諸葛亮を)自分の補佐にしていれば今日の苦労はなかったであろう」と。

この時代に書かれた『三国志』の撰者である陳寿の評では「時代にあった政策を行い、公正な政治を行った。どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、嘘偽りは歯牙にもかけなかった。みな諸葛亮を畏れつつも愛した。賞罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲・蕭何に匹敵する」と最大限の評価を与えている[6]。

しかし、その一方で「毎年のように軍隊を動かしたのに(魏への北伐が)あまり成功しなかったのは、応変の将略(臨機応変な軍略)が得意ではなかったからなのかもしれない」とも書いており、政治家として有能であったと評しつつ、軍人としての評価については慨嘆するに留まり、言葉を濁した形になっている。

また、『三国志』に収録されている「諸葛氏集目録」で陳寿らは「諸葛亮の才能は軍隊の統治には優れていたが、奇策はそれほど得意でなかった。諸葛亮の才は興業を成した管仲・蕭何に匹敵した。では敵のほうが兵数が多く、(管蕭の同僚である)王子城父、韓信のような名将もいなかった為、北伐は成功しなかったであろうか?(そうではない)。魏に対する北伐が成功しなかったのは天命であり、人智が及ぶところではなかったのだ」と評している[13]。「諸葛氏集目録」によれば、諸葛亮は道具の改良や技術の発展に大貢献した。

陳寿の評について「彼の父が諸葛亮によって処罰されたため、評価を厳しくしたのだ」という説が『晋書』陳寿伝にある(詳しくは陳寿#陳寿への非難の項を参照)[注釈 10]。

五胡十六国時代以後における評価の上昇
五胡十六国時代から南北朝時代になると、諸葛亮を名臣・名将であると評価する動きが高まった[14]。東晋においては蜀と東晋の状況を重ね合わせ、蜀漢が正統な王朝であるという動きが強まり、諸葛亮が政治や軍事面だけでもなく、理想的な君臣関係を築いた者としても賞揚された[15]。一方で北魏の宰相であった崔浩は「曹氏と天下を争う事あたわず、荊州を委棄し退きて巴蜀に入り、劉璋を誘奪し、孫氏を偽連し、守るも崎嶇の地に窮し、辺夷の間に僭号す。此の策の下なるは、趙他を以て偶と為すべきにして、以て管蕭の亜匹と為すは、また過ぎたるにあらずや」と、陳寿の評も過剰評価であり、昔の名将と比較できるものではないと酷評している[16]。北朝でも北斉の宇文泰は、有能な部下に対し「孤(私)の孔明である」として「亮」の名を与えている(劉亮)[16]。

唐代に至ると唐以前の中国史を代表する名将であるとして、太公望の侍神の一人(武廟十哲)として祀られるようになり、偉大な軍師・名政治家としての評価が固まることとなった[17]。また民衆の間でも軍師としての諸葛亮像が語られるようになった[18]。この傾向は時代を追うごとに強まり、宋代には神仙のような力を持つ諸葛亮像が生まれるに至る[19]。清の雍正帝は孔子廟の侍神として諸葛亮を祀るよう決め、軍神だけでなく、儒者としても国家の尊崇を受ける存在となった[20]。

軍事指導者としての諸葛亮
諸葛亮が奇策を用いなかったことについては「古来より兵を出して奇計を使わず危険を冒さず成功した者などいない。諸葛孔明の用兵は奇計を使えなかった所に欠点がある。…孔明に功を挙げられないのは、そもそも予想がつくことであり、仲達を必要とすることもない」(王志堅『読史商語』)など批判する意見もある一方で、

「蜀がもともと弱国で危ういことを知っていたから、慎重堅持して国を鎮めたのだ」(傅玄『傅子』)
「主君が暗愚で敵国が強大であるので(魏を一気に滅ぼす)計画を変更して蜀を保持しようとしたまでのことだ」(王夫之『読通鑑論』)
「諸葛公はリスクが大きい計略だから用いなかったのではない。大義を標榜した出兵だったから策謀や詭計を用いなかったのだ」(洪邁『容斎随筆』)
など様々に擁護する意見もある。

個人の評価
李厳:諸葛亮に手紙を出し、九錫を受け王となるよう勧めたことがあった。それは劉禅から帝位を奪うことに繋がる行為である。そのため「魏を滅亡させ、あなた方と一緒に昇進するならば、九どころか十の恩典でも受ける所存です」と李厳の申出を拒絶した。(『諸葛亮集』)
司馬懿:諸葛亮に手紙を出し「黄権(魏に降伏した蜀漢の将軍)は快男児です。彼はいつも、あなたのことを賛美し話題にしています」と述べた。(『蜀書黄権伝』)
李邈:諸葛亮の死後、劉禅に上表して「(諸葛)亮は強兵を身辺に置き、狼のように狡猾で、虎のように(叛逆の)機会を窺っていました。強大な臣下を辺境におくのは危険であり(『春秋左氏伝』より)、臣はいつも危惧していました。今亮が没したのは、皇室は安泰を得られ、西戎(西方の非漢民族)は安息を得られたのですから、万民が慶祝すべきと存じます」と主張した。劉禅は怒り、李邈を誅殺した[2]。(『華陽国志』)
「竹林の七賢」の一人の嵆康は「徐庶は母親のために劉備のもとを離れたが、諸葛亮はこれを止めなかった。これこそ真の友情である」と述べた。(『山濤に宛てた手紙』)
袁準:「諸葛亮は基本を守る人間で、状況の変化に対応するのは得意ではなかった。だから不得手な面(状況の変化に対応する事)で無理をしなかったのである。不得手な点を知って無理をしない事こそ賢者の偉大なところである」[注釈 11](裴注所引『袁子』)
傅玄:諸葛亮は誠に当代の異才であり、国を治めるのに分別があり、軍を御するのに法があり、功を積み興業をなし、その機を得ることに余力を残さずついやした。蜀が弱国で危ういことを知り、慎重堅持して国を鎮めた(『傅子』)。
東晋の武将の桓温が347年に蜀の成漢を滅ぼし入蜀を果たした際、諸葛亮が生きていた時に小吏を務めていたという百歳を超える老人に対し、桓温が「諸葛丞相は、今で言えば誰と比べられるか?」と問うた所「諸葛丞相が存命中の時はそれほど特別なお方のようには見えませんでした。しかし諸葛丞相がお亡くなりになられてからは、あの人のような人はもういらっしゃらないように思います」と答えたという(『説郛』に収める殷芸『小説』)。なお、桓温は簡文帝臨終の際に禅譲を考えていたことから、簡文帝に「諸葛亮や王導のように皇太子(孝武帝)を補佐してほしい」と遺詔された。その結果、桓温の野望は潰えた。
常璩:「諸葛亮は英覇之能を持ち、政・理民を脩めて、その武威を外に振るった」(「華陽国志」)
東晋の習鑿歯は、かつて劉備が「馬謖に重事を任せてはならない」といましめていながら、諸葛亮が北伐に際し馬謖を将に起用して大敗し、彼を処刑してしまったことを踏まえて「人を見る目という点で大失敗を犯し、聡明な君主のいましめに背くことになり、人を裁く上で的を外し、有益な人物を殺すこととなった」とし「中国を併呑できなかったのも当然のことではなかろうか」と厳しく断じている。しかしその一方李厳や廖立を廃しながらも、その二人に恨みがましい言葉どころかその死を嘆かせた事をあげ「諸葛亮の刑罰の行使がよく的を射ていたといってよく、秦・漢以来絶えて無かったことである」と法の厳正さを賞賛している。また『漢晋春秋』の中で「諸葛武侯は漢を匡すの望有り、是れ本を宗ぶの心有るなり」と漢の復興が諸葛亮の本望であると述べた。また『襄陽記』には、巴蜀では死後も永くその統治を慕い、懐かしんだ。死後、廟の建立を求める声が各地から挙がり、特別に議して沔陽に立てられたと書いている。
袁宏:東晋の袁宏の「三国名臣序賛」(『文選』所収)では魏の9人、蜀の4人、呉の7人が名臣として賞賛されており、その中に名を挙げられている[注釈 12]。
孫盛:「諸葛亮の名声、謀略は、外敵を征圧するのに十分であり、故に異同の心無く振舞うことができたのである」(「諸葛亮伝裴注」)
桓玄:「いにしえより乱世の君臣で互いに信じあっていた者は燕の昭公と楽毅、玄徳と孔明である」(『晋書劉牢之伝』)
裴松之:「諸葛亮が魏に仕えて能力を発揮していたら、陳羣や司馬懿でも対抗できなかっただろう。あえて魏に臣従しなかったのは皇族の英傑(劉備)を補佐し漢の復興を果たすことを自己の責務としたからである」(「諸葛亮伝裴注」)
李暠:「諸葛亮の訓励・応璩の奏諌を覧るに、其の終始を尋ぬれば周孔の教尽く中に在り」(『晋書』涼武昭王伝)
劉義慶:諸葛誕が仕官した時「蜀漢は其の龍(諸葛亮)を得、呉は其の虎(諸葛瑾)を得、魏は其の狗(諸葛誕)を得たり」といわれた。また東晋の王徽之(王羲之の五男)は、北府(徐州刺史)を拝命した郗愔の家に来て「応変将略は、その長ずるところにあらず」と何度も言った。郗愔の次男は怒ったが、長男は「これは陳寿の諸葛亮評だ。何の文句があろうか」と言った(世説新語)。
隋における第一の儒者の王通は「諸葛亮が死ななければ、さらに礼楽(礼節と音楽のこと、儒教の根本的規範)は興隆したであろう」と述べた。(『文中子』)
唐の宰相の裴度は「君に仕える節度、国を開く才能、立身の方法、人を治める技術、この四条件を全てそなえ実践したのは孔明その人である」と称賛した。(『蜀丞相諸葛武侯祠堂碑文』)
杜甫:「伊尹や呂尚に伯仲し、天下がその指揮に服したならば蕭何や曹参も問題にならなかっただろう」(「詠懐古跡」)、また漢詩「蜀相」の中で、諸葛亮の生き様は後世の英雄たちに涙を流させたと評価した。
唐の文人の孫樵は「武侯(孔明)が死んでほとんど500年になろうとしているが、今に至るまで梁漢(蜀)の民はその事績を歌にうたい、廟に祭る者あるが如し。その民に愛されることかくの如く久しい」と『刻武侯碑陰』に書く。
北宋の神宗は王安石に対して「唐の太宗は魏徴を用い、劉備は諸葛亮を用いることにより様々な政策を実施することができた。この二人はまことに不世出の政治家である」と述べた。(『東都事略王安石伝』)
北宋の司馬光:諸葛亮が丞相の時、恩赦を惜しんで簡単には出さないと指摘された。それに対し「世を治めるには優れた徳で治めるのであり、小さな恩恵で治めるのではない」と答えた。(『資治通鑑』)
蘇軾:「強大な曹操に対して、自らの内の忠信の心のみをもって対抗した」(『東坡全集』前集巻43「諸葛亮論」)。劉璋が支配していた益州を奪ったことに関しては「劉璋を騙し討ちにし、荊州に連れ去った事で天下の声望を失った。これでは曹操と変わる所が無い。劉備と曹操では才能・兵力・領土に大きな差があり、忠信の心のみが勝っていた。(劉璋を騙し討ちにして)これを失ってから北伐の大義と唱えても上手く行くはずが無い」と述べている(前掲「諸葛亮論」)。これに対し、明の学者の王世貞は、劉璋を討つ事を劉備に勧めたのは諸葛亮ではなく龐統・法正である事、また劉焉は漢朝からの独立を企図した叛臣とみるべき存在であり、子たる劉璋を討つ事は正当化される事などを理由として反論している(『読書後』巻2「書蘇子瞻諸葛亮論後」)。
託克託:「岳飛の忠義の言、眞に諸葛孔明の風有るも卒に秦檜の手に死す」(『宋史岳飛伝』)
朱熹:「孟子以降の人物としては張良と諸葛亮がいるのみである」(『朱子語類』巻163・歴代3)
葉方藹:清の順治帝から「諸葛亮は伊尹と比べてどうだろうか」と質問され「伊尹は聖人ですから孔子と匹敵させるべきです。諸葛亮は大賢者ですから顔回と匹敵させるべきです」と答えた。(『清史稿葉方藹伝』)
清の康熙帝は劉備・劉禅に対する献身について「臣下たる者の中で、諸葛亮だけがこのようなことを成しえた」と述べた。(『大清聖祖仁皇帝実録』)
竹中重門:竹中重治が没した時「秀吉限りなく悲しみ、劉禅孔明を失いしにことならず」(『豊鑑』)
平田篤胤:「孔子以後は孔明がいるだけだ」(『西籍概論』)
木戸孝允:「楠木正成や諸葛亮のような有能な人材を登用すべきだ」(長州藩士に宛てた手紙)
現代の評価
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中国文学翻訳家の土屋文子は「文化大革命が終了した後の1980年代前半は、中国の史学研究がいわゆる儒教闘争史の頚木から解放され、著しく活性化した時期であった」「諸葛亮個人に関するものに限ってみても、1980年から1985年までの5年間に全国でおよそ150篇にものぼる論文が発表されているが、これは文革以前の17年間における累計の約3倍に相当する数字である」。このことから、これを「『諸葛亮研究史における繁栄と収穫の時期』であったといってよいだろう」とし「80年代に入って発表された論文の中には、これまでは諸葛亮の功績として評価されてきた事項に、新たな疑問と批判を投げかける、いわば諸葛亮否定論といった風潮が生じている」と指摘し、こうした論文に対して「こうした批判的風潮は、何もいたずらに諸葛亮をおとしめるために起こったものではなく、論者たちはこのような過激な手法を手がかりとして、諸葛亮に対する従来の一方的な賛美から脱却し、新たなアプローチを試みているのである」との見解を提示している[21]。
創作における扱い
『三国志平話』
宋代には『説三分』とよばれる三国時代を題材にした講談が民衆の間で人気を博した。講談の台本として元代に作成されたのが『三国志平話』である。その中で諸葛亮は豆を撒いて兵を作り、風を起こして雨を降らせるなど神仙として描かれている。また諸葛亮は農民出身とされた。

『三国志演義』

諸葛亮の画

京劇の諸葛孔明。『演義』での孔明像をふまえて、頭に綸巾を戴き、手に羽扇をもち、身に八卦衣をまとっている。
詳細は「三国志演義の成立史#諸葛孔明」を参照
小説『三国志演義』の中で、その名前を字で記載されているのは玄徳(劉備)と孔明(諸葛亮)のみである[注釈 13]。

『初学記』巻二十五に引く『語林』では、諸葛亮が白い輿に乗り、葛巾をかぶり羽扇を手に軍を指揮したと描写されているが、『三国志演義』ではさらにイメージがふくらまされ、綸巾を戴き羽扇を手にして四輪車に乗り、鬼神や天候をも操り、敵の意図を全て事前に察知し、天文をもって人の生き死にを知る事が出来るといったほぼ完璧な人物として描写されている。この描写については批判もあり、魯迅などは「人物描写に至ってはすこぶる欠点がある。劉備を温厚な人格者として表現しようとしてむしろ偽善者じみているし、諸葛亮を知恵者として表現しようとしてむしろ化け物じみてしまっている」と述べている。

諸葛亮の事跡に関して、『三国志』と『演義』との主な相違点を挙げる。

『演義』では曹操が南下をもくろみ、夏侯惇に10万の兵を付けて派遣するが、諸葛亮の作戦でこれに大勝した、またこの時に関羽と張飛が諸葛亮に対し反抗したが、孫武の策を使い従わせた、となっているが、実際にはこの戦いは諸葛亮が劉備軍に参加する前の話である。
赤壁の戦いに於いて、前述の通り諸葛亮はあまり目立った事はしていないが、『演義』に於いては重要な役割を演じている。
非戦論を主張する張昭ら呉の重臣達と論戦し、全て言い負かし沈黙させる。
非戦論に傾いていた孫権・周瑜を説得して交戦に向かわせる[注釈 14]。
戦いが始まってから周瑜は諸葛亮の才能を恐れるようになり、諸葛亮に対して10日で矢10万本を手に入れろと言う無理難題を突きつけて殺そうとしたが、諸葛亮は霧の出た夜に曹操軍に夜襲を仕掛け、曹操軍が放った矢を鹵獲して帰った[注釈 15]。
曹操軍を火攻めにすると決まったものの北西の風しか吹かず、このままでは火を点けてもその火が自分達に返ってくる事がわかり、周瑜は悩んでいた。そこで諸葛亮は壇を築いて祈祷し、東南の風を吹かせ、曹操軍を焼き討ちにしたことになっている。
赤壁の戦いでの敗戦後、曹操の敗軍を旧恩により見逃した関羽を軍律に照らし斬ろうとするも、劉備のとりなしで免じる。関羽が曹操を見逃すことを知っていたが、規律の厳しさと公平さを知らしめるべく意図的に行ったとされる。
赤壁以後の荊州争奪戦に於いて、周瑜は曹操の残党軍を攻めてこれを打ち破るが、諸葛亮はこの隙を突いて曹操軍の城を占領し、諸葛亮に先んじられた事で怒った周瑜は持病が悪化する。その後、周瑜は蜀を取るからと偽って荊州に入り、隙を突いて荊州を占領しようと図ったが、全て諸葛亮に看破され、再び怒った周瑜は「既生瑜、何生亮」(天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮をも生んだのだ!)と叫び、そのまま持病が悪化して死去したと展開だが、これらも『三国志』本伝には記載はない。
北伐で馬謖の失策により蜀軍が総崩れで敗北し、魏軍の追っ手の司馬懿らを目の前に諸葛亮自らが城壁の上で琴を弾く「空城の計」を使い、城壁の裏に大軍がいると勘違いした司馬懿が諸葛亮を恐れて撤退した。これは魏・西晋の郭沖が諸葛亮を評価した五つの故事に記述が見えるが裴松之はこれを作り話であるとしている。
『演義』李卓吾本では北伐中、諸葛亮が魏延の危険性を察知し、追撃してきた司馬懿を谷に誘い込んで魏延共々焼き殺そうとしたが、雨が降ったことで失敗する。その事が原因となって魏延をなだめるため「馬岱が自分の命令を守らなかったための手違い」として処理し馬岱を一兵卒に落とした[注釈 16]。
最後の北伐に於いて、病状が悪化した諸葛亮は幕内に祭壇を築き寿命を延ばすべく祈祷を行うが、唐突に幕内に入ってきた魏延がこの祭壇を壊してしまい失敗し、死去する。諸葛亮が没する時に大きな流星があり、司馬懿はこれを見て諸葛亮が亡くなった事を悟り、蜀軍に対して総攻撃をかけようとする。ところが蜀軍には諸葛亮の姿があり、これに狼狽した司馬懿は慌てて引き上げる。だが実はこの諸葛亮は木像であったと描いている。後に現地の人間は「死せる孔明、生ける仲達(司馬懿の字)を走らす」と言ったという[注釈 17]。
著作など
『三国志』諸葛亮伝では「諸葛亮は創造力があった」「諸葛亮の言葉・布告・書簡・上奏文には見るべきものが多くあった」と諸葛亮の創造性と文才を高く評価している。

諸葛亮の著作としてはもちろん『出師表』が最も有名である[注釈 18]。また『隋書』によると論前漢事一巻、蜀丞相諸葛亮撰、諸葛亮兵法五巻がある。漢詩などはまったく残しておらず[注釈 19]、その他の文章も全て政治的なことに関する文章である。『三国志』中に引用されているものとして『出師表』の他には、王朗らの降伏勧告への反論『正議』、李厳を弾劾する表、廖立を弾劾する表などがある。諸葛亮の文章を陳寿が編纂した『諸葛亮集』、また同じく旧蜀の臣寿良も『諸葛亮集』を纏めていたがいずれも、現存していない。

『後出師表』は『三国志』本伝に見えず、呉の張儼の著作『黙記』に収録されていたものが『漢晋春秋』に引用され、それを更に裴松之が「この上表文は『諸葛亮集』には見えない」と注記した上で引用している。この文章は228年に書かれたもののはずだが、翌229年に死去したはずの趙雲が既に死んでいるという記述があるなどの疑念により、後世の偽作という見解が多い。

また『三国志』諸葛亮伝によれば、諸葛亮は兵法を応用して『八陣の図』(「八陣図」「軍勝図」「八卦の陣」とも)を作成したが、ことごとく要点をつかんでいた。『李衛公問対』では、唐の名将李靖の「六花の陣」は、諸葛亮の「八陣の法」を参考にして作られているとしている。『三国志演義』では、諸葛亮は『兵法二十四編』を死の直前に姜維に托している。また宋代には『諸葛亮行兵法』『諸葛亮将苑』など諸葛亮の名を冠した偽兵法書の書名が散見する。

諸葛亮は発明家でもあり、以下のようなものが諸葛亮の発明であるとされる[要出典]。『三国志』諸葛亮伝にも、諸葛亮は連発式の弩(元戎)や木牛、流馬を開発したと記されている。

晋時代に普及した筒袖鎧
連発式の弩を工夫した元戎[注釈 20]
一説に一輪車(猫車)の起源とされる木牛
一説に四輪車と言われる流馬
駐留時栽培させた諸葛菜(蕪)
織物の技術を南蛮民に伝えた諸葛錦
字を知らない民の教育に使用した紙芝居
おもちゃの孔明鎖
孔明灯[注釈 21]
なお、諸葛亮が南蛮征伐の際、人頭を祀るという現地の風習を廃止させるため、人頭の代替食品として、小麦の練り物の内部に肉団子を包み込んで人頭に見立てたものが「饅頭」であるという話があるが、これは宋代の類書『事物紀原』に「小説に曰く」と前置きして引かれている話である。

家系
諸葛亮の子孫たち
中国には諸葛亮の子孫が集まったとされる諸葛八卦村が浙江省金華市蘭谿市諸葛鎮にあり、住民3000人のうち8割が「諸葛」姓となっている。国外へ移住した華人を含めて家系図を十数年に一度更新しており、2020年時点では中国国内のほか欧米、東南アジア、日本に合計1万3000人の「子孫」がいる[22]。

近年になって発見された家系図[注釈 22]があるとはいえ、諸葛亮自身も1800年も前の人物であるので、実際に彼らが諸葛亮の子孫なのかどうかは家系図以外に実証する資料がない。諸葛亮が伝来させたという文化をよく守り、諸葛八卦村は中国から文化財として指定され観光地としても有名である[23]。

清の張澍『諸葛忠武侯文集』によれば、諸葛質(諸葛瞻の子)という孫がおり(故事巻一「雑記」)、また諸葛懐という息子・諸葛果という娘と甥の諸葛望(諸葛均の子)がいたとされる(故事巻一「朝真観記」)。諸葛果は成都近くの道観で修行して、ついに仙人となって昇天したという。しかし、歴史学者の張崇琛によると、張澍が記した諸葛一族は後世の創作であろうと指摘している。

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15:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2022/12/25 (Sun) 11:33:30

孫権
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孫 権(そん けん)は、三国時代の武将、呉の初代皇帝。字は仲謀。

生涯
家系について
孫氏は春秋時代の兵法家であった孫武の末裔である[2]。また陳寿は『三国志』の本文では孫堅は孫武の子孫と伝えられている[注釈 3]。

幼年・少年期
182年(光和5年)、父の孫堅が下邳県丞であった時、五男三女の第四子(次男)として生まれた。

184年(光和7年)、太平道の張角によって勃発した宗教的な反乱である黄巾の乱の鎮圧のため、孫堅は漢王朝の中郎将であった朱儁の下で参戦、孫権と母の呉氏や兄弟たちを九江郡寿春県に残した。189年(中平6年)、一家は廬江郡舒県の周瑜屋敷に移住した。

191年(初平2年)、孫堅が黄祖の部下に射殺された(襄陽の戦い)後、兄の孫策とともに亡父の主君である袁術の下に移された[3]。

193年(初平4年)、孫策は正式に袁術の旗下に入った際、呂範を遣わして家族を曲阿に住む呉景の元へ送り届けた。翌年、孫策は袁術の為に廬江太守の陸康を攻めた。揚州の刺史劉繇は袁術と孫策を恐れて対立の構えを取って、呉景が丹陽郡を追われた。この時、孫策の家族はことごとく劉繇の地盤に在ったため、朱治は人を曲阿に使わして呉氏および孫権と弟たちを引き連れて脱出し、これを保護した[4]。母と共に歴陽や後の阜陵に移住した。195年(興平2年)、孫策が劉繇軍を破った後、孫策は曲阿に入って、部将の陳宝を阜陵に派遣して一族を迎えた。

196年(建安元年)、15歳にして出仕し、陽羡県令に任じられた。孫策から可愛がられており、士人の人望も厚かった。孫堅が亡くなったばかりのころおよび、孫策が江東で自立する時代に、常に孫策に随従した。また計略や謀議があるたびに参画した。孫策は賓客たちとの宴会の時、孫権を顧み「この諸君があなたの将である」と言ったという逸話がある[5]。199年(建安4年)、孫策の廬江太守劉勲の征伐に従って劉勲を破ると、進んで沙羡に黄祖を討った(孫策の江東平定)。

200年(建安5年)初、漢王朝に対し臣従した孫策と曹操が同盟を結んだことがあったため、孫権と弟の孫翊が司空である曹操に招聘されたことがある。先遣として徐州広陵郡を攻めたが、孫策が襲われて瀕死だったので、軍の帰還中に広陵太守の陳登に敗れた[6]。

守成・拡張
200年春、19歳で孫策の遺命を受けて家督を継いだ[7]。張昭に師傅の礼を執り、父や兄から引き継いだ家臣の周瑜・朱治・程普・呂範らをまとめあげると積極的な人材登用を行い、周瑜から皇帝としての資質を認められ、魯粛を薦められた[注釈 4]。その後も陸遜・諸葛瑾・歩騭・顧雍・是儀・厳畯・呂岱・徐盛・朱桓・駱統らを登用した。

家督を継いだ当初は、会稽・呉郡・丹陽・豫章・廬江・廬陵の江東六郡を領有するが、五郡(廬江・会稽・廬陵・丹陽・豫章)が反旗を翻すと、多くの人々が江東から逃げ出して中原に逃げた[8]。従兄の孫輔は、曹操との内通があったことが発覚したため幽閉され、弟の孫翊や孫堅の代からの臣である孫河が部下に殺害され、従兄の孫暠が反乱を企てたことなど、種々の困難に見舞われた。廬江太守の李術は曹操を頼って反乱し、孫権に叛いて揚州刺史厳象を殺し、江東からの逃亡者を多く受け入れた。廬江郡の梅乾・雷緒・陳蘭らも李術に同調し、手勢数万人を集めて長江・淮水流域の郡県を破壊した[9]。孫権が逃亡者返還を求めると、李術はこれを拒絶した。そこに怒った孫権は、先に李術の非を曹操に説いた上、自ら徐琨・孫河を率いて皖城を包囲した。李術は皖城に篭って曹操に助けを求めたものの、曹操の援軍は来ず、食糧は底を突き落城した。孫権は、李術を討ち取り、皖城の兵・民衆3万人を得た。また、程普を率いて三郡を連戦して服さぬ者を平定した[10]。山越が孫権に対して反乱を起こしたため、軍隊を諸将に分けて山越を鎮撫し、命令に従わぬ者を討伐させた。孫権は、裏切り者たちを一掃し、江東各地を平定した。内政を整え、領土を安定させ、巧みな内政手腕を発揮して江東を治めた。

203年(建安8年)、孫権は自ら指揮を執って江夏を討伐し、父の仇である黄祖の軍を打ち破ったが、黄祖は城に逃げ込んでこれを固守した。しかしこの時、山越が背後で反乱が起こったため孫権は撤退した。孫権は豫章に戻り、呂範に命じてに鄱陽を平定させ、程普に楽安を討たせた。建安・漢興・南平の不服従民が再び背き、賀斉に命じて鎮圧させた。反乱の頭目は悉く捕虜となり、討ち取った首は6千にもなったという。のち黄祖の元部下甘寧が降伏してきたためこれを受け入れた。腹心の顧徽を曹操へ使者として派遣し、朝廷の内情を調査した。その後、広陵郡に侵攻し、これを占領した。

206年(建安11年)、孫権は周瑜・孫瑜・凌統を率いて、山越の麻屯・保屯を討伐し、1万余の捕虜を得た。

208年(建安13年)、孫権が再び江夏に自ら軍の指揮を執り討伐し、黄祖を討ち取り江夏郡の南部を落とした。

同年の末、曹操が大軍を率いて南下すると、孫氏軍閥は抗戦か降伏かの決断を迫られた。「近ごろ罪状を数えたてて罪人を討伐せんとし、軍旗が南に向かったところ、劉琮はなんら抵抗もせず降伏した。今度は水軍80万の軍勢を整えて、将軍(あなた)とお会いして呉の地で狩猟[注釈 5]をいたそうと思う。」孫権はこの手紙を受け取ると群臣たちに示したが、震え上がり顔色を変えぬ者はなかった[5]。孫権は魯粛の進言を聞き入れ、荊州の動向を探るため、劉表の弔問使者として魯粛を派遣した。劉琮が曹操に降伏し、劉備は長坂の戦いに敗れ夏口に駐屯していた劉琦と合流した[11]。後に曹操の追撃により劉備は劉琦と共に孫権領の江南に逃げ込んだが[12]、魯粛と面会し劉備に同盟を説いた。劉備は諸葛亮を派遣して魯粛と共に孫権に面会させた。当時、孫権の臣下は降伏派(張昭・秦松など)が多勢を占める中、孫権は抗戦派であり、降伏派に失望していたことを打ち明け、後に周瑜が群臣に両軍情勢を分析したため、周瑜・魯粛等と共に開戦を決断した[13]。孫権は剣を抜くと前に置かれた上奏文を載せるための案(机)を斬りつけて、「お前達の中にこれ以上降伏すべしと申す者がおれば、この案と同じ運命になると思え」と言った[5]。孫権は夜のうちに周瑜に「5万の精兵はすぐには集めるのは難しい。しかしすでに3万人を選び、艦船、武器、物資も揃っている。お前はもし勝てると判断したならば曹操と決戦せよ。もしお前が負けたなら、私の所へ退却せよ。私が自ら曹操と勝負を決めよう」と言った。周瑜・程普に2万の軍勢の指揮権を与え、魯粛を賛軍校尉に任命してこれを補佐させた。また孫権は自ら1万の軍勢を率いて周瑜等に加勢し[14]、賀斉・蔣欽を派遣って後方の山越反乱を平定させた。かくして孫権軍は劉備と合流し、曹操と戦う事となった。江南の気候や地勢に不慣れな曹操軍は疫病に苦しめられていたこともあって、周瑜らは赤壁の戦いで、黄蓋の火攻めにより曹操の水軍を大いに破った。部下達などと共に周瑜に従って赤壁、烏林と連戦した。赤壁の戦いの後に、孫権は周瑜を連動して合肥に包囲すると、孫劉連合軍は荊州の大部分を奪った。張紘の忠告を聞き入れて、攻略を諦めて撤退した。

戦後、孫権は南郡・武陵・長沙・桂陽・零陵の荊州南部の五郡を領有することとなった[注釈 6]。劉備は公安でも士民を養うのに足りないと考え、京口に赴いていたとき、直接孫権のところに荊州の数郡を借りることを頼み込みに行った。また、妹を劉備の継室として嫁がせ、周瑜・甘寧らが孫権に蜀を取ることを勧め兵を送ったが、孫権は劉備に共同して益州を獲ろうと申し出てきたが、劉備は、自分自身が蜀を占拠しようと秘かに考えたためこれを断った[注釈 7]。孫権はこれを聞かず、周瑜の計画による蜀へ進攻したが、その遠征の途上に周瑜は巴丘にて急逝した。周瑜が早世した後に魯粛が継ぎ、程普は南郡太守となったが、江陵に軍を置いた。孫権は長沙を分割して漢昌郡を置き[15]、魯粛をその太守とした上で、陸口に駐屯地を移した。劉備と協調して曹操に対抗すべきだという魯粛の提案により、孫権は荊州を分割して劉備に数郡を貸し与え、劉備を上表して荊州牧に立て[注釈 8]、劉備の上奏で徐州牧・行車騎将軍に就任した。その後、孫瑜が益州に入ろうとしたが、劉備に止められた。劉備は孫瑜に「お前が蜀を取るつもりならば、私は髪を振り乱して山へ入り、天下に信義を失わないようにするぞ」と言った[16]。

210年(建安15年)、歩騭を交州へ交州刺史として派遣した。翌年にかけて歩騭は蒼梧太守呉巨が異心を抱くのを見し、表面的には友好的な接し方をした上で、会見の場で呉巨を斬り、交阯の士燮一族もその威を恐れて服属を誓った。歩騭は水軍を率いて交州各地を攻撃し、全て攻め落とした[17]。交州の南海・鬱林・交阯・日南・珠崖・儋耳・蒼梧・九真・合浦の九郡を領有した。同年、張紘の進言により遷都が実施された[注釈 9]。

212年(建安17年)、曹操が濡須に進軍したとして、孫権は劉備に救援を求めた[11]。翌年にかけて曹操は40余万の軍勢の指揮を執って濡須を攻撃した。劉備が約束を破り益州に侵攻したので[18]、救援を得なかった孫権は[注釈 10]、自ら7万の軍勢を率いて曹操を迎撃した。曹操は水軍を率いて中洲への進軍しようとしたが、孫権に包囲されて敗走した。曹操との濡須での戦いで、敵3000余を捕虜にし、曹操軍で戦没・溺死した者も数千人に及んだ。その後も、孫権がしばしば戦いを挑んだが、曹操は堅く守って出て来なかった。そこで孫権は自ら軽船に乗って曹操の軍営へ強行侵入したり、魏軍の諸将らが迎撃しようとしたところ、曹操が「これはきっと孫権が自ら我が部隊を見ようとしたものだ」とし、軍中は厳戒し、弓をみだりに撃たせなかった。孫権は行くこと五・六里で回頭し、鼓吹して帰還した。曹操は孫権の布陣に少しの乱れも無いことに感嘆し、「息子を持つなら、まさに孫権のような息子がいい」(生子当如孫仲謀)と周囲に語ったという。孫権が曹操への札簡で説くには「春はまさに水が生ず。君は宜しく速やかに去るべし」。別の紙で皮肉言うには、「足下が死なねばわしは安んずることができぬ」。曹操が諸将に語るには「孫権はわしを欺かぬ」かくして軍を徹収して帰還した[19](濡須口の戦い)。戦いの後、曹操は部下の意見に従わず領内の人々を移住させようとしたが、淮水・長江付近に住む十数万の人々は孫権領に逃げ込んでしまった。

214年(建安19年)5月、呂蒙・甘寧とともに曹操領の皖城を攻撃し、朝のうちには皖城を攻め落し、廬江太守の朱光と数万人の男女を捕虜にした。この時、曹操の援軍として張遼が夾石まで来ていたが、落城の知らせを聞き退却した。

214年-215年間(建安19年-20年間)[20]、曹操が10余万の軍勢の指揮を執り濡須一帯を侵攻したが戦果なく[21]、甘寧に命じて曹操の軍営へ夜襲をかけ、100人で曹操軍を撃退した[注釈 11]。後に劉備が益州刺史の劉璋を攻めて益州を領有すると、孫権は荊州の長沙・桂陽・零陵の3郡の返還を要求した。しかし、劉備は涼州を手に入れてから荊州の返還を行おうとこれを先延ばした。涼州は益州の遥か北であり、当時で益州と涼州の間であと漢中があると、劉備がこれを奪うことはその時点で不可能に近く[22]、返すつもりが無いと言ったも同然であった。孫権は諸軍節度(総指揮)として軍の指揮を執り陸口に駐屯した。3郡を支配するため役人を送り込んだが追い返されたので、魯粛を巴丘に派遣して関羽を対抗し[注釈 12]、一方呂蒙らの軍勢を派遣して長沙・桂陽・零陵を奪還した。劉備も大軍を送り込み全面戦争に発展しそうになったが、曹操が漢中に侵攻したので、劉備は益州を失うことを恐れて[23]、孫権へ和解を申し入れてきた。孫権と劉備はかくて湘水を境界線として割き、江夏・長沙・桂陽は東側となり、南郡・武陵・零陵は西側となった。

同年、合肥城を攻めたが、疫病によるこれを降せず帰還した。凌統・甘寧等とともに殿軍として大軍を守り、大軍を無事に退却させた。途上にいたところを張遼の奇襲にあい[24]、寡兵で部下らとともに勇猛に戦った。孫権は、弓で敵の追撃を切り抜け、魏軍に破壊された橋を騎術で飛び越えて退却した[注釈 13]。

216年(建安21年)、長沙郡の呉碭と袁龍も関羽に呼応して好機を通じ再び反乱を起こし、魯粛と呂岱に命じて平定させた[注釈 14]。曹操は自ら10万大軍を率い侵攻してきた、曹操の濡須攻撃に先立ち、山越が曹操に呼応して挙兵したが、賀斉と陸遜に命じて平定させた。不服従民の首領を討ち取り精兵数万人を得、これらを孫権軍に加える。217年(建安22年)、孫権は自ら水軍を率いて曹操を退け、呂蒙と蔣欽を全軍指揮に任命して曹操を防がせた(濡須口の戦い)。曹操は濡須塢を攻め落れず、逆に孫権の部将らが曹操を撃ち破って敗走させた。防備を厳重にしていたため、最終的には孫権はこの戦いに勝利し曹操を首都帰還へと追い込んでいる[注釈 15]。戦いの後、孫権は政策転換をはかり、謀略で使者を派遣して漢王朝への偽りの臣従を申し出て、曹操を利用して休戦が行われた[25]。209年-217年間、孫権は四度も巣湖濡須で曹操の侵攻を食い止めることに成功した[26]。

218年(建安23年)、孫権は曹操に帝位に就く事を勧めた。この手紙を見た曹操は「この小僧め。跪いてみせながらわしを囲炉裏の炭の上に据えようというのか」と言った[注釈 16]。

219年(建安24年)、孫権は息子と関羽の娘との婚姻を申し入れたが、関羽はこれを断り使者を辱めていた、また城を攻め落れず[27]、長沙郡と零陵郡の境にある湘関の米を強奪したこともあった。孫権は内に関羽を畏れ、功を挙げたいと称して漢王朝に関羽を自ら討ちたいと申し出た[注釈 17]。漢献帝の許しを得て、荊州に進軍している。呂蒙を先鋒として内応していた士仁、麋芳を降伏させた。関羽は益州に逃れようとしたが、孫権は元の荊州を全数が奪還わせ、関羽は当陽まで引き返したのち、西の麦城に篭った。孫権は降伏を誘う使者が派遣すると、関羽は偽って降るふりをして逃走しようとした。孫権は潘璋・朱然を派遣して関羽の退路を遮断し、退路を失った関羽を捕らえこれを斬った。その首は、使者によって曹操の下へ送られ、孫権は諸侯の礼をもって当陽に関羽の死体を葬った[19]。孫権が、漢献帝の承認により荊州南部の領有を確実にした。

三国鼎立

呉の地図(右下)
荊州の奪還によって劉備と敵対した孫権は、死去した曹操の後を継いだ曹丕に接近した。また、陳化・馮熙・沈珩らを使者として派遣し、魏との安定した関係を築いた。後漢の献帝から禅譲を受けて魏を建国した曹丕の皇帝位を承認し、諸侯の礼をとって呉王に封ぜられた。呉の群臣が議論し、孫権は上将軍・九州伯(九州諸侯の覇者)を称すのが相応しく、魏の封王は受けるべきではないと考えた。孫権は「九州伯とは古において聞いたことがない。昔、沛公(漢の高祖・劉邦)が楚の項羽の封を受けて漢王になったのも時宜であろう。それが天下統一に対し、何の障害になったであろう」と言った。

趙咨を曹丕へ使者として派遣し、魏の内情を調査した。趙咨が呉に還ってから孫権に魏が盟約を守らないだろうから独立して漢を継ぎ新たな元号を定めるよう進言した[注釈 18]。

魏を利用して北方の安全を確保した孫権は、222年(建安27年)、荊州奪還のために東進してきた劉備が自ら指揮を執る蜀漢軍を夷陵の戦いで打ち破り、武陵の蛮族も劉備に呼応して反乱したが、歩騭に命じて平定させた。ところでこの時魏は呉への援軍を名目に軍の南下を開始させていた。徐盛・潘璋・宋謙らは白帝城に逃げ延びた劉備を討つための追撃の許可して欲しいと願い出た。陸遜・朱然・駱統らは魏の曹丕の動向が不審だとして慎重論を唱えた。孫権は同じ考え方であり、その意見を同意した。それからほどなく、魏がはたして軍を進めてきた。孫権は劉備から和解の手紙を受け取り[28]、その中で劉備が前のことに関して深く反省し謝罪したため、孫権はこれに同意し、使者の鄭泉に劉備への返事を頼んだ。劉備はこれに宗瑋・費禕らを何度も派遣して答礼させた。捨てられた曹丕は、大いに怒って親征しようとした。また、趙咨の意見を採用し、黄武という独自の元号を使い始め、魏との表向きの同盟を破棄した。

222年から223年にかけて、曹丕は曹休に張遼・臧覇・賈逵ら26軍余りの総指揮を命じて洞口に出撃させ、曹仁・蔣済らに命じて濡須に出撃させ、曹真・夏侯尚らに命じて江陵を包囲させた。これに対して孫権は後方で全体指揮を執って呂範を派遣し、徐盛・孫韶・全琮・賀斉ら五軍を監督して洞口で曹休らを拒ませた。また、孫盛・諸葛瑾・潘璋・楊粲らに江陵を救援させ、朱桓らが濡須督として曹仁を拒んだ。呉は三方向から魏に攻められ、呉軍が曹仁・曹休・張遼・臧覇などを撃ち破り、勝利を収めた。包囲は半年に及び、曹真・夏侯尚・辛毗・張郃・徐晃・満寵・文聘らは朱然を降せず、魏軍は戦死者が多く、総退却した。魏軍が退却するのを見た呉軍は、水陸二方面から出て挟撃した。同年4月、呉の群臣が帝位に即く事を勧めたが、孫権はこれを拒絶した。

6月、三方面の戦いで魏軍に勝利するなど反攻に転じたが、魏を賀斉に討伐させた。賀斉は胡綜・糜芳・鮮于丹を率いて魏領を落とし、叛乱を起こした晋宗を生け捕り、蘄春郡を占領した。劉備が崩御すると、益州豪族の雍闓などは牂牁一帯・南中豪族などと共に蜀漢に対して反乱を起こし、孫権に服属していた交州の士燮を通じ呉への帰服を申し出てた。諸葛亮は鄧芝を派遣して孫権との友好関係を整えさせ、蜀漢と再び同盟した。

224年(黄武3年)、曹丕は広陵を攻めてきたが、徐盛が長江沿岸に蜿蜒と百里偽城を築いていたため、10余万の魏軍はこれに驚いた。大波により船団が呉領に流されたため、大きな被害を受けると退却した。

225年(黄武4年)、魏が広陵を再び攻めてきたが、10余万の魏軍に孫韶が500人で夜襲をしかけ、魏軍を撃退した。同年12月、鄱陽で山越の彭綺が反乱を起こし、将軍を名乗り周辺の諸県を攻め落とすと一味に加わる者が数万人に上った。

226年(黄武5年)、孫権は呂岱を派遣して士徽の反乱を平定し、交州の支配を強化した。同年、孫権・孫奐・鮮于丹は江夏を攻め、諸葛瑾は襄陽を攻めた。諸葛瑾は司馬懿らに敗れ、孫権は江夏郡の石陽城を落とすことができずに撤退した。一方で孫奐は鮮于丹に魏軍の淮水退路を断たせ、自らも呉碩・張梁の兵を指揮して先鋒となり、江夏郡の高城を攻め落として敵将三名を捕らえた。

227年(黄武6年)、周魴を鄱陽太守に任して、胡綜と協力しその討伐にあたった。周魴は彭綺の身柄を拘束し、武昌に送った。

228年(黄武7年)、周魴に命じて魏への偽りの降伏を申し出て、魏の曹休を石亭に誘い出した。曹叡は司馬懿らに命じて江陵を包囲させ、賈逵・満寵らに命じて東関に出撃させた。陸遜は朱桓・全琮を率いて曹休と戦い大勝し、魏軍を大破した(石亭の戦い)。一方で司馬懿・張郃は江陵を攻め落れず撤退した。同年、曹叡は東関に賈逵・満寵らを命じて再び攻めてきたが、攻め落れず退却した[29]。

229年、夏口、武昌でともに黄龍、鳳凰が見られたと報告があり。群臣一同が孫権に帝位に即く事を進言し、孫権は皇帝に即位し、元号を黄龍と改めた。これに対して、蜀は呉との同盟関係を維持することに決め、帝位を認め、呉への二帝並尊を申し出てた。陳震を派遣し、武昌において孫権と会盟した。この結果、幽州・豫州・青州・徐州が呉に属し、兗州・冀州・并州・涼州が蜀に属しまた司州は函谷関で分割して、蜀が西側、呉が東側を支配し天下を分配することを誓約し合った。その後、建業に遷都した。

開拓
230年(黄龍2年)、衛温・諸葛直に兵1万を与え、夷洲と亶洲の探索を行わせた。約1年後(231年)、諸葛直と衛温は帰国したが、亶洲へは遠すぎたため到達できず、兵の八割から九割を疫病で失っていた。成果は夷洲の現地民を数千人連れ帰っただけであった[30]。同年、孫布に命じて魏への偽りの降伏を申し出て、魏の対呉司令官の王淩は孫布を迎えに行くために出兵し、潜伏していた孫権軍に大敗した。

233年(嘉禾2年)、公孫淵が呉に戦馬を供給していた。3月、孫権が顧雍・陸遜・張昭ら重臣の諫止を聞かず、公孫淵の内通を信じて張弥・許晏・賀達らに九錫の礼物と策命書と兵1万を持たせ派遣した。結果は家臣の予想通り、公孫淵は孫権が派遣した使者を斬り、恩賞を奪った上で魏に寝返ってしまった。激怒した孫権は自ら公孫淵征伐を行おうとしたが、薛綜らの諫止により思いとどまった。

234年(嘉禾3年)、三方面攻略を期した孫権は諸葛亮と連絡して共に魏領を攻めるが[31]、敵味側戦線は膠着状態に陥ることになった。魏の援軍が迫ったので、曹叡の親征軍が来ると聞くと撤退した。また、陸遜と諸葛瑾は襄陽を攻めたが、江夏郡の安陸・石陽を平定した[32]。この年から3年間、諸葛恪・陳表・顧承らを派遣して山越を討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士として6万人を徴兵した。

235年(嘉禾4年)、魏は孫権に、馬と真珠・翡翠などを交換したいと申し入れてくる。孫権は「真珠や翡翠は確かに貴重な珍品であるが、私には必要のないものだ。その代わりに馬が手に入るなら拒否する必要もない」と、交易を受け入れた。

236年(嘉禾5年)に五銖銭500枚、238年(嘉禾7年)に五銖銭1,000枚の価値を持つ貨幣を発行した。酷吏とされる呂壱を重用していたが、238年(赤烏元年)に悪事が露見して処刑した。

239年(赤烏2年)、公孫淵は魏に対して挙兵し、呉に援軍を求めた。呉の人々は皆その使者を斬ろうとしたが、ひとり羊衜だけは援軍を送り、遼東を救援するよう提案した。孫権はこれを聞き入れ、援軍として羊衜・孫怡・鄭冑を派遣した。公孫淵は魏に討たれたが、その後の処置は苛烈を極めるものであった。呉の援軍が魏の張持・高慮を破ると、遼東の人を連携として帰国した(遼隧の戦い)。

241年(赤烏4年)4月、全琮・諸葛恪・朱然・諸葛瑾・歩騭などに命じて四路から魏を攻め、5月、皇太子であった長男の孫登が33歳で病没すると、6月に全ての戦線で呉の軍勢は撤退した。しかし、六安・芍陂・樊城・柤中の破壊や労働力の掠奪やルート確保に成功するなど作戦目標に合致した戦果を挙げ、諸将に褒賞があった(芍陂の役)。

翌242年(赤烏5年)、三男の孫和を太子に立てた。しかし、当時寵愛していた四男の孫覇を孫和と同等の処遇としたため、立太子を期待する孫覇派と、廃太子を防ごうとする孫和派との対立を招いた。同年、孫権が聶友と校尉の陸凱に3万の兵を与えて珠崖・儋耳の地を討たせ、このとき珠崖郡が再び設置された。後に朱然に命じて魏の柤中へ侵攻した。呉軍を各地に分散させていたところを魏の蒲忠と胡質に襲撃されたが、朱然の果敢な戦略や800人の軍勢 前方の蒲忠が退却してしまったため、後方にいた胡質も退却した[33]。一方、諸葛恪は軽兵のみで魏領を奇襲し、舒城を攻め落とし、長江北岸の住民を移住させた。

243年(赤烏6年)正月、諸葛恪は魏を攻めたが、六安で魏軍を大いに破り[34]、謝順軍を破り謝順を斬り、魏軍の人々を捕虜にした。12月、司馬懿は呉を攻めるが、気象学者の助言で諸葛恪を柴桑に移らせ、孫権は自ら軍を率いてこれを迎撃した。結局、司馬懿は十余日で舒城を陥落させることができずに退却した[35]。

244年(赤烏7年)、歩騭・朱然らは、蜀は魏と通じて呉を攻めようとしていると言上したが、孫権はこれを信ぜず、こう言った「人の言うことはあてにならぬ。私は諸君の為に家の存亡を賭けてこれを保証しよう」。果たして、蜀漢にそのような企ては無く、孫権の予想通りだった。

245年(赤烏8年)、魏からの降将である馬茂が謀反を起こす。馬茂は符節令の朱貞・無難督の虞欽・牙門将の朱志たちと共に孫権暗殺の計画を練るが、事前に事が見通して失敗に終わっている。

246年(赤烏9年)、朱然は上表して、前年に起きた魏からの投降者馬茂による孫権暗殺未遂事件の報復として、再び魏の柤中に侵攻し、曹爽討伐に出る。朱然の勇猛により曹爽が万余人以上を失い[36]、大した被害を受けて退却した。朱然はこれを見逃さず魏軍を追撃し、歩兵と騎兵を6千率いた魏の李興を撃ち破り、数千人を斬り、1000人ほどを捕虜にした [35]。

247年(赤烏10年)、孫権は諸葛壱に命じ魏の諸葛誕を誘き寄せようと謀り、自身も軍を率いて出陣した。諸葛誕らはこれに乗らず撤退した。

248年(赤烏11年)、交州九真郡の夷賊らが呉に対して反乱を起こし、この報告を聞いた孫権は、陸胤らに命じて平定させた。陸胤が説得したことにより反乱の首魁である黄呉ら三千家余りや反乱者ら三万家余りが降伏した[注釈 19]。その後も周辺の郡の反乱を平定し、降伏者を兵士として軍に編入し強勢を誇ったという[注釈 20]。

兄弟の不仲を聞いた孫権は息子と家臣たちとの往来を禁止し、学問に励むよう訓戒をした。孫権の忠告を2人が聞き入れなかったために、250年(赤烏13年)に両者の権力を廃止し、対立両派を排して孫亮を太子に立て、後継者の君主権強化を目指していた(二宮事件)。のちに孫権は、中央に孫和を帰らせる為に彼の名誉を回復しようと考えたが、孫和を憎悪していた長女の全公主弾劾により思いとどまっている。同年、文欽が偽の降伏を申し入れてきたが、朱異はこれを見破り、孫権に信用しないよう申し入れた。孫権は呂拠に命じ、大軍を率いて文欽の身柄を引き取りに行かせたが、文欽は現れなかった。

251年(太元元年)、長江が氾濫し城門まで水に浸かる被害が出て、孫権が視察した際、呂拠は大船をつなぎとめて被害が出るのを防ぐために尽力した。孫権はこれを喜び、呂拠を盪寇将軍とした。11月、風疾で重体になると、諸葛恪に政務の処理を一任した。諸法令への意見について、孫権はそのつど聴許した。百姓は大喜びした[37]。魏の文欽は、六安にその本営を定めると、多くの砦を設け、これを交通の要所要所に配置して、呉からの逃亡者たちをそこにまねき寄せ、国境地域で略奪をはたらいた。朱異は、こうした情況を見ると、みずからその部下の二千人を率いて、文欽のとりで七つに急襲をかけて打ち破り、数百の敵兵の首を斬った。

没後
252年(神鳳元年)4月25日、危篤になると、諸葛恪・呂拠・孫弘・孫峻・滕胤らに後事を託した。

翌日、71歳で崩御した。「大皇帝」[注釈 21]と諡された。

同年7月、蔣陵(現在の紫金山南麓。孫陵崗・梅花山とも呼ばれ、墓標や石像が残る)に葬られた。陵墓は、南京(建業)東の梅花山にある。

人物
風貌
あごが張って、口が大きく、瞳にはキラキラとした光があった[注釈 22]。
劉琬・劉備から高貴な人相であるという評判があった[注釈 23]。また東晋大将の桓温は立派な姿貌を備え、孫権・司馬懿のような風貌をしている[38]。
年上の曹操や劉備と並び、若君の代表格として知られる。南宋の詞人辛棄疾の『南郷子・登京口北固亭有懐』には「年少万兜鍪 坐断東南戦未休 天下英雄誰敵手 曹劉 生子当如孫仲謀」であり、また『永遇楽・京口北固亭懐古』には「千古江山 英雄無覓孫仲謀処」と歌われている。
小説『三国志演義』では、「碧眼紫髯 堂堂一表」と堂々とした風采の持ち主として描写されている[39]。「碧眼児」(水色瞳の童)と呼ばれる。
性格
度量が広く朗らかで、優しいだけでなく決断力があり、侠気を好み士を養った[5]。
弁舌に優れ、言動がおどけていて、無茶苦茶な冗談を飛ばしてからかった[40]。
諸葛瑾から「冷静沈着な性格で的確に物事を判断でき見抜く眼力の持ち主」と評される[41]。曹丕と鍾繇は「嫵媚」[注釈 24]という形容を使い孫権の柔軟な物腰を評している[42]。
質素倹約に努め、即位後、建業に新たな宮殿を建てたりせず、今までの将軍府を使い続けていたが、やがて老朽化が進んだ。そこでやむなく、築28年ほどの武昌宮を解体して資材にして修繕した。また後宮の女性も、糸つむぎの仕事をする女官なども含めて百名に足らない程度しか置かなかった[43]。
趣味
ユーモアから人間観察を趣味とする[44]。
狩りが好きで、218年(建安23年)、孫権は自ら乗馬して庱亭で虎を獲えた。北宋の詩人蘇軾が『江城子・密州出猟』でこの件を「親射虎 看孫郎」と詠んだ。
張遼の言によると、武芸においては馬をよく操り、騎射が得意であったという[16]。
学問を好み、また隷書・草書・行書が巧みで[45]、唐の張懐瓘の『書估』では、「奇材見抜 絶世難求」と評されている[注釈 25]。
異国に関心を持ち、遼東半島と東南アジア航路を開く。高句麗・扶南・林邑・堂明・天竺など多くの国と関係を結んだ。226年(黄武五年)、ローマ帝国の商人秦論と面会した[46]。

孫権の石像

孫権
評価
同時代の評価
周瑜は「主君(孫権)は賢者に親しみ士人を尊重され、奇才を認め異能を取り上げておられます。先哲によって天命を承けて劉氏に代わる者は必ず東南に興り、最終的に帝業の基を築き上げられます」と評している。
呉への使者を務めた趙咨が魏の曹丕に尋ねられた際、「魯粛を抜擢したのはその聡。呂蒙を兵の中から見出したのはその明。于禁を殺さず釈放したのはその仁。荊州を得るとき武器を使わなかったのはその智。三州に拠り天下を窺うのはその雄。身を屈して陛下に仕えるのはその略でございます」と評している。
賈詡は「孫権は虚実を識り、陸遜が兵勢を見ており、険阻に拠って要衝を守り、江湖に舟を浮かべ、皆にわかに謀るのは困難です。用兵の常道は、先ず勝った後に戦い、敵を量って将を論じるもので、それゆえ事を挙げても遺策は無いのです。臣がひそかに群臣を料るに、劉備や孫権に対応できるものはおりません」と評している。
劉曄は「孫権は用兵に巧みであり、策謀変化を知ってる」「孫権は雄才を備えているが、その出身と官位が低い。故漢の驃騎将軍・南昌侯に過ぎない。王位を与えたら、本国に君臣の関係を築いている。虎に更に翼を添えるに相当する」と評している。
後世の評価
『三国志』撰者の陳寿は、「孫権は、身を低くし辱を忍び、才能ある者に仕事を任せ綿密に計略を練るなど、越王勾践と同様の非凡さを備えた、万人に優れ傑出した英雄であった。さればこそ江南の地を自らの物とし、三国鼎立をなす呉国の基礎を作り上げることができたのである」と功績を称えるも「その性格は疑り深く、容赦なく殺戮を行い、晩年に至ってそれが愈々募った」と評し、「その結果、讒言が正しい人々の行いを断ち切り、後継者(孫亮)も廃され殺されることになった。子孫達に平安の策を遺して、慎み深く子孫の安全を図った者とは言い難い。その後は代が衰微し遂には国が滅びることになるのだが、その遠因が彼の行いに無かったとは言い切れない」および、「遠くは斉の桓公を観、近くは孫権を察し、みんな優れた人物眼を持ち、傑出した人材を抜擢したが、嫡庶を分たず、家庭を錯乱させ、後嗣に禍を遺した」と評している。彼の後嗣問題に批判的な態度を示していた。
『三国志』の注を付けた裴松之は、陳寿が孫権の廃嫡問題が呉の滅亡の遠因になったと評した事について反論し、「孫権は罪ない息子を廃して、乱の兆をつくったとはいえ、国の滅亡は、もちろん暴虐な孫晧にその原因があったのである。もし孫権が孫和を廃さなかったなら、孫晧が正式の世継ぎとなって、結局は滅亡にいたったのであって、事態に何の違いがあったであろう。」と述べている。
『弁亡論』の著者の陸機(陸遜の孫)は、「曹氏(曹操)には中原を平定した功績があったが、その暴虐は甚だしく、その住民は怨んでいた。劉公(劉備)は険阻の地に拠って知恵を飾りはしたが、功績は少なく、その習俗も鄙びたものであった。呉の桓王(孫策)が武力でその基礎を固め、太祖(孫権)は徳を以て成し、聡明睿達にして、懿度深遠であった。賢者を求めるに果てしもなく、民を幼子のように哀れみ慈しみ、人に接するに優れた徳を盡し、仁者に親しむ際は心の底から愛を尽くした。呂蒙を軍隊より抜擢し、潘濬を捕虜の中に見出した。誠信なる人物を推挙し、人が自分を欺くことなど憂えず、才能を量って適所に用い、それらの権力が自分を冒すなども憂うことは無かった。馬に乗り鞭を取っても身をかがめて敬いつつしむことで、陸公(陸遜)の威厳を重くし、近衛兵まで悉く委ねることによって、周瑜の軍を救った。宮殿は質素にし、食事も粗末にして、功臣への恩賞を豊かにし、心を開き人の話によく耳を傾けて、国家の大計を唱える者の意見を容れた。それだから魯粛は一度会っただけで自らを託し、士燮は険を冒して臣下となることを望んだのである。張公(張昭)の徳を尊び、そうして狩の楽しみを減らし、諸葛瑾の言うことを尊んで、情欲の楽しみを割き、陸公の規(いましめ)に感じ入って刑罰に関する政治の煩しさを取り除き、劉基の議論を優れているとして「三爵之誓」を作り、身の置き所のないほど、おそれ慎んでいる子明(呂蒙)の病を見舞い、滋養のある物を分け与え、甘い物を減らして凌統の孤児を育て、天子の位に就き、意気上がり感激するにも、それを魯粛の功績に帰し、悪言など見向きもせずに子瑜(諸葛瑾)の忠節を信じた。」と記している。
華譚は「呉の武烈父子はみんな英傑の才能を持っており、大業を受け継いだ。今、陳敏の凶暴のため、桓王(孫策)や大皇(孫権)など賢人の足跡を追い越したいです。そのことは許されない」と言ったことから、西晋末年の呉の士人たちの間には孫権の治世を懐かしむ声が高まっていたことが窺える[47]。
『異同雑語』の著者の孫盛は、「孫権が士を養うさまを見ると、心を傾けて思いを尽くすことで、その死力を求めたのである」と評した。
逸話
読書の範囲が広く、『詩経』『書経』『礼記』『国語』『左伝』『史記』『漢書』『東観漢記』を歴読したが、ただ『易経』だけは読まなかった[5]。
六振りの宝剣と三振りの宝刀を所持していたという。剣はそれぞれ「白虹」「紫電」「辟邪」「流星」「青冥」「百里」と命名された。刀はそれぞれ「百錬」「青犢」「漏影」の名を付けられた[48]。
赤壁の戦いの前夜に、劉備は孫権に虚言を述べて、孫権と周瑜を離間させようとしたが、いずれも失敗に終わっている[49]。周瑜に軍の総指揮を与え、曹操軍を大破した。孫権は鄂州で酒宴を開いたが、凱旋した家臣達を労り、花を散らす、黄色の花が雨のように散っている[注釈 26]。
孫権は賀斉のために送別の儀式や宴会を行い、その場では音楽が奏され剣舞が舞われた。送別の宴も終わって賀斉に馬車に乗るようにと命じた。賀斉が主君の前で馬車に乗るのはおそれ多いと辞退をするが、孫権は側仕えの者に命じて賀斉を馬車に乗せさせ、威儀を整え行列を作って出発させた。孫権はその行列を望みやり、笑いながら、「人たるもの、努力をせねばならぬ。立派な行いを積み忠勤を重ねなければ、こうした栄誉は得られぬのだ」と言った。車が遠くに行ってやっと帰りました。
濡須口の戦いの際、自ら軽船に乗って曹操の軍営に入った。孫権が大船に乗って偵察に現れたので、曹操はさかんにそれを射させた。矢は船にあたり、船が(矢の重みで)転覆しそうになった。孫権は船を反転させ、もう片方でも矢を受けることで船を水平にして、帰還した。曹操は孫権軍の舟船・武器・軍隊が整然厳粛としているのを見て、感嘆してこう言った[42]。
徐盛や朱然といった面々は寒門出身の周泰の指揮下に入っていたが、誰も周泰の指示に随おうとはしなかった。孫権は諸将を集めて濡須塢で宴を開き、その席上でいきなり周泰に服を脱がせ、孫権を守るために刻まれた傷の由来を一つ一つ語らせ、周泰はかつて戦闘があった場所を全て覚えており、孫権の問いに一つ一つ答えていった。孫権は周泰の腕を握って涙を流した。翌日、孫権は周泰に御用の儀仗傘を授けた。孫権が濡須を去る時は、周泰に兵馬を率いて道従(先導と後衛)を指揮させた。鼓角を鳴らし、鼓吹を為して軍営を出た。このことがあって、徐盛達は周泰の指揮下に入ることを納得するようになった[50]。
孫権が合肥から還る時、津北で張遼に急襲された。優れた騎射で既に撤退すると、賀斉は孫権を船に迎え入れた。賀斉は孫権の安危を心配して、席を下りて涕泣した。孫権は指を噛んで血が出て、賀斉の涙を拭いて、彼の諫言を受け入れた。また、殿軍を務め凌統は帰ってきました。孫権は、凌統を手厚く看護させた。凌統は部下が戻っていないことに落涙した。孫権は袖でその涙を拭い「公績、故人は二度と戻らない。だが、私にはまだあなたがいる。それで十分だ」と慰めた。
張飛はかつて、劉巴のもとに泊まったことがあった。劉巴が彼と話もしないので、張飛はかんかんに腹を立てた。諸葛亮が劉巴に向かって、「文武を結束して、大業を定めようとしているので、少し我慢してください」というと、劉巴は、「大丈夫がこの世に生きていくからには、当然四海の英雄と交わるべきです。どうして兵隊野郎なんかと語り合う必要がありましょうか」といった。この話を聞いた張昭が孫権に対して、「主君である劉備が張飛を深く信用していることを劉巴が知らないわけがないのにそうした態度を取るのは臣下としては良くない」と非難した。それに対し孫権は「劉巴が劉備の機嫌をとるために張飛などと話すようでは名士とはいえないだろう(主君の顔色を見て対応を変える方が却って人物を疑われるものである)」として劉巴を弁護している[51]。
荊州に入る際、劉備の部将みなは孫権に帰順したが、潘濬だけは病気を称して出てこなかった。孫権は人を遣って、潘濬の家にベッドを運び込んで、潘濬をそれに乗せて担いでこさせた。それでも潘濬はベッドの上に突っ伏して起き上がろうとせず、泣き続けたので、孫権は潘濬の字で呼びかけると帰付すべきであるという理由に説明した。そして手拭で彼のため涙を拭った。潘濬は心を打たれ、ベッドから離れて孫権に帰順した[5]。
呂蒙が病気になり、孫権は迎えて内殿に置き、呂蒙の疾病を癒せる者を賜千金で募った。鍼を加える時、孫権はこの為に惨憺となった。しばしばその顔色を見ようとしたが、又た、気苦労させる事を恐れ、常に壁を穿ってこれを見、僅かでも食事ができているのを見れば喜び、左右を顧みて言笑したが、そうでなければ歎息として、夜も寐れなかった。
曹丕は魏王になると、賈詡を三公一つである太尉に登用した。孫権はこれを笑いました(三公は徳望の高い者に授けることが多く、賈詡が不適任とされた)[52]。
喪中の曹丕が呉に使者を派遣して雀頭香・大貝・明珠・象牙・犀角・玳瑁・孔雀・翡翠・闘鴨・長鳴鶏などの南方珍品を求めた。呉の群臣が孫権に「荊・揚二州の貢物の内容には決まりがあります。魏が求めた珍玩の物は礼ではないので、与えるべきではありません」と言った。孫権は「今は蜀と魏において事があり、江表の民衆は主である自分を頼りにしている。これは我が愛子ではないか。彼が求めたものは、我々にとっては瓦石に過ぎない。私がなぜ惜しむのだ。そもそも彼は喪中にいるのに、求めるものがこのようであった。どうして彼と礼を語れようか」と言って全てそろえて魏に送った。
呉王になったとき、祝いの宴会で大臣たちに酒を勧め、虞翻は床に酔い潰れたように見えたため孫権が通り過ぎたところ、その後平然と席に座り直した。虞翻が酔って無礼な行為した際[注釈 27]、孫権は大いに怒り、かつて曹操が孔融を処刑した例を引き合いに虞翻を脅したが、大臣の劉基が理を尽くして諭した為に遂に虞翻を許した。孫権は、側近の者たちに対し、今後、酒の後に殺すと言っても、殺してはならないように、と言ったという。一方で、暑い季節、孫権は船上で酒宴を開いたが、雷雨に見舞われた。孫権は自分の上に御用の儀仗傘を差し掛けるとともに、劉基の頭上にも同じ傘を差し掛けるよう命令した。他の人々は傘の下に入ることはできなかったという[53]。
ユーモアで色々な人を人間観察しているため、蜀漢から費禕が呉を公式訪問し御前で謁見した時、孫権が費禕をいじる。席の間で費禕は諸葛恪を相手にし互いに悪口の言い合いをしていたが、話題が呉と蜀の優劣の話になった。これを聞いて孫権は費禕を高く評価しており「君は幾許もしない間に必ず蜀の中心人物になる」と言い、帰国の際に、宝刀を費禕に贈ったので、費禕は感動した。帰国すると、孫権の言う通りに費禕は昇進した。また費禕が使者として再度来訪したとき、席の間で孫権は費禕に「楊儀、魏延は牧童のごとき小人だ。一時的な状況によって聡明と功績が認められたが、諸葛亮がいないなら、必ず災いとなります。君はぼやぼやしているものだから、それに対して予防することすら知らない」と、費禕に告げていた。費禕はびっくりして返答することができなかった[54]。結果は孫権の予想通り、諸葛亮の死後、魏延と楊儀が相次いで失脚した。
郎中の鄭泉に「卿は衆人の中で面と諫めることを好むが、礼と敬意を失することがある。逆鱗を畏れることがあるのか?」「臣は君が明であれば臣は直だと聞きます。今、朝廷は上下とも無諱の時に遭っております。まことに洪恩を恃んでおり、龍鱗などは畏れておりません」鄭泉に宴会に侍り、孫権は怖れさせようと連れ出させて有司に付し、治罪を促した。鄭泉はこのときしばしば顧みた。孫権は呼び還して笑って「卿は龍鱗を畏れぬと言ったが、どうして出される時に顧みたのだ?」「まことに恩寵が篤く、死の憂いが無いと知っていたのですが、出閤の際に威霊に感応して顧みずにはおられなかったのです」[55]。
方士の介象に隠形の術を学び、姿を隠したまま殿門を出入りして見たところ、誰も孫権に気がつかなかったという[56]。
武昌で銅鉄を採取し、千振りの剣、一万振りの刀を製作した。どちらも長さ三尺九寸である。刀は頭の部分が四角になっており、これらはみな南方の銅、越の炭によって作られたものである。小篆による「大呉」との銘がある[48]。
武昌で「長安」なる巨大戦艦の進水式を行った際、孫権も船に乗っていたのだが、羅州まで向かう途中で風が激しく吹き、長江が大いに荒れた。万一を危惧した側近達は船長に樊口に向かうように命じたが、大いにはしゃいでいた孫権はそのまま羅州まで向かえと命令を出した。見かねた側近の谷利が船長に刃を突きつけ「樊口へ向かえ。さもなくば斬る」と脅したため、結局樊口に停泊した。孫権は谷利に「利ちゃん、何故そのように水を怖がるのか」とぼやいたところ、谷利に「もし船が転覆したならば国家の事業をどうされるおつもりか。故に私はあえて死をかけてお止めしたのでございます」と諭されている。そのことから孫権は谷利を大切にする[57]。
陸遜が曹休を破った後、孫権は、彼のために大宴を開いた。陸遜に命じ、二人で共に舞を踊った。その時着ていた白いモモンガの毛皮で作った衣服を脱いで下賜した[58]。
孫権は即位に「私は、周公瑾がおらねば、帝位にはつけなかったのだ」と述懐している[59]。帝位に即位できたのは周瑜のおかげだと述べた後、同意して周瑜を称賛しようとした張昭に対し「もしあの時、張公の(赤壁の戦いで曹操に降伏する)進言を聞いていたら、私は帝位に即位するどころか、今頃は乞食になっていた」と皮肉ると、張昭は酷く恥じ入ったという[5]。
遠い地に赴く朱桓を見送る際に、朱桓は酒杯を奉じつつ 「願わくば陛下の髭に触らせて頂ければ残念なことはありません」。孫権は机に寄りかかって席を進める。朱桓は御前に進んで髭を撫で 「臣はまことに虎の髭に触れました」と言った。孫権は大いに笑った。
康僧会は呉都建業についてから、秦淮の南岸の小長干で茅屋を建てて、仏教を広めた。呉帝の孫権は彼を引見してこう尋ねて「仏陀は何の効き目があるか」と。康僧会は「如来は滅寂してから、最早千年余りがたったが、しかし、今遺骨の仏舎利はまだ霊験を現すことができます。そのため、阿育王はかつて8万4千基の仏塔を建てて、それによって仏教の前代からの気風が教化されました」と答えました。孫権はこのような効き目のあることがあるとは信じないで、そこで、「もし仏舎利を得ることができるならば、それために塔を建てましょう」と言いました。それから、康僧会と沙門たちを大内の中で立壇し、香を燃やして仏像に礼拝し、仏舎利がはっきりと現れることを切に願ったという。初めの7日間の過ぎて、そして二つ目の7日間も過ぎ、なにもなかったが、二十一日目の夜の五更頃になると、供物台の上の銅瓶からリズミカルな音が出て、仏舎利はついに銅瓶の中に顕現れて、きらめいていたのであった。そして翌日の朝、康僧会は仏舎利を孫権に献呈したという。孫権は銅瓶の中の仏舎利を取り出して銅盤の中に置くと、銅盤は直ちに壊れてしてしまった。孫権はこれを見て、しきりに驚嘆したという。康僧会は「この仏舎利は火焼と金剛杵が打つことに耐える」と言った。勇士にかなづちで打つように命じて、仏舎利は少しも損なわなかった。そこで孫権は仏陀の神通力を感服して、それで、建業で建初寺を建築して、それによって仏陀を祭ったという[60]。
家系図
【孫呉王朝系図】(編集)

続柄
父母

孫堅

呉夫人
兄弟姉妹
孫策
姉(弘咨妻)
姉(陳某妻、娘が潘濬の次子の潘祕に嫁ぐ)
孫翊
孫匡
孫朗
孫夫人
后妃
謝妃、徐妃(即位前の正室)
皇后:潘淑
夫人:歩練師、琅邪王夫人、南陽王夫人、袁夫人、趙夫人
謝姫、仲姫

男子
宣太子 孫登(子高)
建昌侯 孫慮(子智)
南陽王 孫和(子孝)- 母は琅邪王夫人
魯王 孫覇(子威)- 母は謝姫
斉王 孫奮(子揚)- 母は仲姫
景帝 孫休(子烈)- 母は南陽王夫人
廃帝 孫亮(子明)- 母は潘皇后
女子
全公主 孫魯班(大虎)- 母は歩夫人
次女(劉纂に降嫁し、早世)
朱公主 孫魯育(小虎)- 母は歩夫人
そのほか、滕胤に嫁いだ娘がいる。養女と考えられている[注釈 28]。

養子
凌烈、凌封(凌統の遺児)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%A8%A9
16:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2022/12/26 (Mon) 12:44:49

周瑜
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E7%91%9C

周 瑜(しゅう ゆ、拼音: Zhōu Yú、175年 - 210年)は、中国後漢末期の武将。字は公瑾(こうきん)。渾名は周郎。揚州廬江郡舒県(現在の安徽省六安市舒城県)の人。高祖父は周栄。従祖父は周景。従父は周忠。父は周異。子は周循・周胤・周妃。妻は小喬。

生涯
孫策との出会い
廬江郡の周家は後漢朝において、高祖父の周栄が尚書令になったのを始めに、従祖父の周景・従父の周忠が三公の一つである太尉を務めた名家である。父の周異も洛陽県令となっている。周瑜は成人すると立派な風采を備えるようになった。

孫堅が反董卓の連合軍に参加した際、彼の息子孫策の名声を聞いた周瑜は寿春に赴き、孫策と面会した。同い年の両者は親交を結んだ。孫策に舒への徙居を勧め、孫策はこれに従った。周瑜は大きな屋敷を孫策の一家に譲り、家族同然の付き合いをしたという。

興平元年(194年)、袁術の下にいた孫策は劉繇を攻略するため江東へ軍を挙げた。丁度その頃、従父の周尚が丹陽太守に任命されていたので、周瑜はご機嫌伺いに出向いていたが、孫策から誘いの手紙が来たため、周瑜は兵士を連れてこれに従った。孫策に従って横江・当利、さらに秣陵を攻略し、湖熟と江乗を通って曲阿に進み、劉繇を敗走させた。孫策の軍勢は数万に膨れ上がり、孫策は独力で呉と会稽を攻略できると判断し、周瑜には丹陽の守備を任せた。

袁術は丹陽太守に従弟の袁胤を送り、周尚と周瑜を寿春に召喚した。袁術は周瑜を配下に迎えようとしたが、周瑜は袁術の先行きに見切りを付け、居巣県長になることを願い袁術の下を離れ、やがて198年頃に呉に帰還した。その頃、魯粛と親交を結び、呉への亡命にも同行させている[1]。

孫策は周瑜を歓迎し、建威中郎将に任命し、兵士2000人・騎馬50匹を与えた。さらに軍楽隊や住居を与えるなどその待遇は並外れていたといい、孫策はかつて丹陽で周瑜に受けた恩に報いるためには、これでもまだ足りないと述べたという[2]。人々は当時24歳の若い周瑜を周郎と呼び称えていた[3]。呉郡での名声の高さを買われて、牛渚の守備を任され、後には丹陽郡の春穀県長にも任命された。

建安4年(199年)、孫策は荊州攻略を考えるようになり、周瑜を中護軍に任命し、江夏太守の職務を任せ、攻略に当たらせた。廬江の皖を攻め落とした時、喬公[4]の2人の娘を捕虜にした。孫策は姉の大喬を、周瑜は妹の小喬を妻に迎えた。尋陽まで軍を進めて劉勲を破り、江夏を討伐、さらに豫章と廬陵も平定した。周瑜は巴丘に駐屯した。

孫権を補佐
建安5年(200年)に孫策が急逝し、孫権が後継者となった。周瑜は軍勢を引き連れて葬儀に参加すると、そのまま呉に留まり、張昭と共に様々な諸務を取り仕切ることとなった。

この頃、諸将や食客の中には後を継いだばかりの孫権を軽んずる者もあった。周瑜は孫権に率先して臣下の礼を取り、規範を示したため、周囲もそれに従うようになった。なお周瑜は在野の魯粛の母親の身柄を呉に移していた。周瑜は孫権の王者としての資質と江南の天運の存在を挙げ、魯粛を説得した。魯粛は北へ戻ることを思いとどまり、周瑜の推挙により改めて孫権に仕官した。

建安7年(202年)、官渡の戦いで袁紹を破り勢いのあった曹操が、孫権の元に使者を差し向け人質を送ってくるよう命令した。孫権は群臣達に議論をさせたが、張昭や秦松といった参謀達もはっきりとした意見を出せなかった。孫権は心の中では人質を送りたくないと考えていたことから、母親の呉氏の元に周瑜一人を連れて、その席で議論をしようとした。周瑜は、人質を送らずこのまま力を蓄えて天下の情勢を見極めるべきと述べ、呉氏もこれに同調した。孫権はこれに従った。呉氏も孫権に対し、周瑜を兄として仕えるよう命じていた[2]。

建安11年(206年)、周瑜は孫瑜の軍の目付けとして山越討伐を行い、麻・保の2つの屯所を攻略して一万人余りの捕虜を得た。その後、江夏太守の黄祖が部将の鄧龍を使って、孫権軍の前線基地であった柴桑を攻撃したが、周瑜はこれを迎撃、鄧龍を生け捕りにして江東に送還した。

黄祖陣営から甘寧が投降し、孫権に対し黄祖征伐を提案すると、周瑜は呂蒙とともにこれに賛同した[5]。

建安13年(208年)春、孫権は江夏を討伐し、周瑜は前部大督(前線総司令)に任命された。

赤壁の戦い
建安13年(208年)9月、曹操が荊州に侵攻し劉琮を降伏させた。これを受けて孫権陣営では曹操に降伏するか抵抗するかで論争が起きた。曹操は兵士数万を有しており、劉表の整備した荊州水軍も手中に治めていたため、孫権陣営では降伏論者が多数を占めていた。周瑜はその時鄱陽への使者に出向き呉を留守にしていたが、主戦論者の魯粛に呼ばれ急いで帰還した。内緒の会話で既に必勝の自信を持った周瑜は孫権に「曹操を破ったら、長江上流は私たちのものです」と進言し、孫権はこれに同意した[6]。後に群臣の会議で曹操を漢の賊と呼び、それへの抗戦を主張し、曹操軍が抱える数々の不利と、自軍の利を降伏の群臣に説いた。周瑜は「曹操が自ら死ににやってきたというのに、それを迎え入れることなどありましょうや?将軍(孫権)の御為に計略を立てることを許されたい」と言った。抗戦派の孫権は曹操に対抗することを決断し、3万の精兵を周瑜や程普らに与え、曹操から逃れてきた劉備と合流した。

劉備は樊口(孫権の領地)に駐屯し、毎日、見張りを河辺に立たせて、孫権軍を待っていた。周瑜の船隊を見えた劉備はすぐさま一艘の小舟に乗って、周瑜に「今、曹操に抵抗するのは、まさしく計略の決定です。兵卒はいかほどおありか?」と訊ねた。周瑜が「三万人です」と言ったので、劉備は「残念ながら少なすぎる」と言うと、周瑜が「これで充分です。豫州(劉備)どのは、周瑜が敵を打ち破るのをゆっくり見てください!」と言った。劉備は内心では周瑜がを必ず撃破できるとは信じられなかった。そのため後方に下がって、二千の兵をひきいて関羽、張飛とともに動かず、周瑜に協力しようとはしなかった[7][8]。赤壁の水上で曹操軍を迎撃させた。周瑜の予測通り、この時曹操軍は軍中に疫病を抱えており、一度の交戦で曹操軍は敗退して、長江北岸に引き揚げた。

周瑜らは長江南岸(赤壁)に布陣し、部将黄蓋の進言を採用して、曹操軍艦船の焼き討ちを計画した。降伏を偽装して接近に成功した黄蓋が、曹操軍の船団に火を放つと忽ち燃え広がり、岸辺の陣営に延焼した。次に烏林陸岸で孫権・程普・呂蒙・甘寧・凌統・韓当・周泰らは周瑜に随行して追撃を加えて曹操軍を打ち破った[9]。被害が多数に及んだ曹操軍は、引き返して荊州の南郡に籠った(赤壁の戦い)。

周瑜が劉備と追走すると、曹操は曹仁と徐晃を江陵の守備に、楽進を襄陽の守備に残し、自らは北方へ撤退した[10]。

荊州争奪と最期
戦後、孫権は江陵に目をつける。曹仁の守りは堅かったが、周瑜は甘寧を夷陵に進撃させ、曹仁と徐晃の部隊を分断した。曹仁が夷陵に軍を送り包囲すると、呂蒙の計略を採用し、凌統だけを守備に残して軍のほとんどを甘寧の救援に引き連れ、曹仁の包囲を打ち破り甘寧を救援した[5]。

そのまま長江の北岸に陣を据えて江陵攻撃を続行したが、この時、正面決戦の末に、周瑜は右のわき腹に流れ矢を受けて傷を負った[11]。周瑜は重傷のまま戦に臨み、将兵が周瑜に激励されたのであった。曹仁側には大量の犠牲者が続出し、曹仁を敗退させた。周瑜は偏将軍に任命され、南郡太守の職務にあたった。その功により、孫権は周瑜を都亭侯に任じた。さらに奉邑として下雋・漢昌・劉陽・州陵を与えられ、江陵に軍を駐屯させた。

この後、周瑜は荊州の長江南岸の地を劉備に分け与え、劉備は荊州の南岸に軍を駐屯させ、近隣の公安に軍府を置いていた。しかし、劉備はこれでも士民を養うのに足りないと考え、呉の京城に赴いていたとき、直接孫権のところに荊州の数郡を借りることを頼み込みに行った。この時、周瑜は孫権に上疏し、劉備を篭絡して劉備と関羽・張飛を分断し、両将を自ら率いると献策したが、孫権は今は曹操に対抗するため、一人でも多くの英雄が必要な時期と考え、また劉備を制約させることはできないだろうと判断し、周瑜の提案は却下された。また魯粛は曹操という大敵に対抗するためには劉備に力を与えておくべきと考え、孫権に進言した。

周瑜は、曹操が赤壁での疲弊から軍事行動を起こせないと判断した。その間に劉璋の支配が動揺していた益州を占領し、益州は孫瑜に任せた上で、関中の馬超と同盟を結び、自らは襄陽から曹操を攻めるという計画を立て、孫権の元に出向き、その同意を取り付けた。しかし、その遠征の途上に巴丘にて急逝した。36歳であった。

周瑜の死は孫権を大いに嘆かせた[12]。孫権は建業に戻ってくる周瑜の柩を蕪湖まで出迎え、葬儀の費用の一切を負担した。また、後に命令を出し、仮に周瑜と程普が勝手に部曲を保有していたとしても、一切問題にしてはならないと言ったという。のち彼の子女らも呉の皇族と通婚関係を結んでいる。

周瑜の後は魯粛が継ぎ、魯粛の提案を受けた孫権は劉備に荊州を貸し与えた。

黄龍元年(229年)、孫権は即位した際に「周瑜がいなければ皇帝になれなかった」と嘆いた。

赤烏2年(239年)、孫権が蕪湖で祭る廟を建てた。中国で最初の城隍廟と思われている[13]。

人物
立派な風采をしていた。知略・武略に優れており、その才能は曹操や劉備からも恐れられるほどであった。実際に曹操は蔣幹を使者として周瑜の引き抜きを図り、劉備は孫権に虚言を述べて、孫権と周瑜を離間させようとしたが、いずれも失敗に終わっている。
寛大な性格で人心を掴むことが得意だった。しかし宿将の程普とだけは折り合いが悪く、程普は若輩の周瑜を度々侮辱していたのだが、周瑜はあくまで膝を屈して謙り続けたので、その謙譲さに程普も遂に感服し、周瑜を尊重するようになった。
若い頃より音楽に精通しており、演奏を聴いていると、たとえ宴会中酒盃が三度回った後でも僅かな間違いに気付いた。そのため当時の人々は「曲に誤りあれば周郎が振り向く」という歌を作って囃したという。
主君の孫策・孫権との関係は親しかった。孫策とは同年で年少の頃から知り合い、ともにお互いの母親へ挨拶するなど良好な関係だった。孫権は周瑜を兄として扱われ、しばしば周瑜に衣服を下賜し、夏服冬服合わせると百着にもおよんだが、諸将で彼に比肩できる者はいなかった[14]。周瑜自身も蔣幹と面会した際に「外は君臣の義に託し、内に骨肉の恩を結び、建言は行なわれ計策に従われ、禍福を共にするもの」と孫権との関係を述べる。
本人の言によれば将来性のある主君を自ら選ぶという。初めて袁術へ仕官したが、袁術があまり才能がないと思っていたため、その下を離れる。孫権が跡を継いだ頃から、孫権が最終に帝位に就いたことを予言した。これに果して周瑜の思ったとおりであった[1]。
評価
陳寿は「曹公(曹操)は丞相という地位を利し、天子を手元に置き、その威をかりて群雄達の掃討につとめていたが、荊州の城を落とすや、その勢いを借りて東夏(=呉)の地に鉾先を向けてきた。このときにあたり、(呉の朝廷では)意見を申し述べるものたちは、国の前途を危ぶみ、皆確信を失っていた。周瑜と魯粛とは、そうした中で他人の意見に惑わされる事無く明確な見通しさを立て、人々に抜きん出た存在を示したというのは、真に非凡な才能によるのである」と評している。

孫権は陸遜に対して周瑜らを論じた時「公瑾は勇敢で、膽略は人を兼ね、遂に孟徳を破り、荊州を開拓した。邈かにして継ぎ難く、君が今これを継いでいる。」孫権は「王佐の資」と評している[2]。

東晋の袁宏の「三国名臣序賛」(『文選』所収)では魏の9人、蜀の4人、呉の7人が名臣として賞賛されており、その中に名を挙げられている[15][16]。 唐の史館が選んだ中国六十四名将に選ばれている(武廟六十四将)。北宋の徽宗のとき、平虜伯の爵位を追贈する。


後世の信仰
北魏の時、北岸近くにあるこの周瑜廟がよく知られ、周瑜の名は「大雷神」とも呼ばれる[17]。

演義、その他
小説『三国志演義』でも、「姿質風流,儀容秀麗」に美男子として描かれている。二張(張昭・張紘)を推薦し、および策謀をめぐらして王朗と太史慈を破ることなどから、孫策の時代に史実より出番が多い。孫策の死後に遺命によって孫権に仕え、張昭と並ぶ重臣となった(史実では張昭だけが後見を務めていた)。赤壁の戦いでは史実と同様、主戦派の重鎮として登場するが、劉備と孫夫人の結婚を提案する。劉備の使者として呉に滞在していた諸葛亮にその出会いのときから翻弄され続ける損な役回りを負わされている。自らの策を全て見透かす諸葛亮を危険視し暗殺を企むも果たせず、終始ライバル視しながらも遂に敵わず病に倒れる。臨終の際にも諸葛亮からの挑発的な書状を読み、天を仰いで「既に周瑜を生みながら、何故諸葛亮をも生んだのだ!(既生瑜、何生亮)」と血を吐いて憤死するという最期となっている。

ただし、軍事の才は『演義』においても優れており、赤壁の戦いを始めとして、多くの戦いで戦功を立てるのは史実と同様である。一国を担う将器・常人に勝る才幹を持つ人物として描かれているものの、それを更に圧倒する鬼謀を備えた諸葛亮の、引き立て役にされてしまったというイメージが強い(諸葛亮と周瑜の対比描写について、魯迅などは「物語にしても、実在の人物の功を歪曲しすぎており、やりすぎである」などと批判している)。

京劇では、「美周郎」というあだ名の通り古来から二枚目が演じる役とされており、眉目秀麗な英雄としてのイメージが定着している。

なお、『演義』において諸葛亮の代名詞となっている道士風の綸巾・羽扇は、元代までは周瑜の姿をイメージした衣装とされていた。北宋の詩人蘇軾の『念奴嬌』(小題「赤壁懐古」)という詞では「遥想公瑾当年、小喬初嫁了、雄姿英発、羽扇綸巾、談笑間檣櫓灰飛煙滅」と歌われ、南宋代の楊万里の詩『寄題周元吉湖北漕司志功堂』(『誠斎集』巻23所収)でも「周郎」が「又揮白羽岸綸巾」と詠まれている。趙以夫の『漢宮春次方時父元夕見寄』でも「応自笑、周郎少日、風流羽扇綸巾」と、周郎と羽扇綸巾がセットとしてイメージされていた。これが諸葛亮のものになっていくのは元代後期以降である[18](詳細は三国志演義の成立史#綸巾・羽扇を参照)。

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17:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2022/12/26 (Mon) 18:10:11

司馬懿
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司馬 懿(しば い、拼音: Sīmǎ Yì)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将・政治家。魏において功績を立て続けて大権を握り、西晋の礎を築いた人物。字は仲達(ちゅうたつ)。西晋が建てられると、廟号を高祖、諡号を宣帝と追号された。『三国志』では司馬宣王と表記されている。

生涯
名門の家柄
河内郡温県孝敬里出身。司馬防の次男で、楚漢戦争期の十八王の一人である殷王司馬卬の12世孫にあたる。司馬氏は代々尚書などの高官を輩出した名門の家柄で、司馬懿自身幼い頃から厳格な家風の下に育った。

兄に司馬朗(伯達)が、弟に司馬孚(叔達)・司馬馗(中国語版)(季達)・司馬恂(中国語版)(顕達)・司馬進(恵達)・司馬通(雅達)・司馬敏(幼達)らがいる。司馬家の8人の男子は字に全て「達」が付き、聡明な者ぞろいであることから「司馬八達」と呼ばれた(ただ単に八人の達たちということでなく、「八人の達人」という意味合いにかけている)。妻に張春華、息子に司馬師・司馬昭らが居る。兄の司馬朗と同様に曹操に出仕した。

司馬懿は若年の頃から聡明で、博覧強記・才気煥発で知られ、優秀な人物が揃っていた司馬八達の中でも最も優れた人物といわれていた。『晋書』「宣帝紀」によると、司馬懿は苛烈な性格であったが感情を隠すのがうまく、内心激しい怒りを抱いている時も表面では穏やかに振る舞ったという。

曹操への出仕
建安6年(201年)、司馬懿は河内郡で上計掾に推挙された[1]。洛陽に書類を提出するため上京した際、兄の司馬朗とともに曹操の司空府によって出仕を求められるが、風痹(リューマチ)を理由に辞退した[1]。『晋書』「宣帝紀」はこれを「漢のために曹操に屈したくはなかった」としている[2]。当時、名士が高官の招請を断ることは一種の流行となっていた[2]。その後上計掾の職も辞し、7年間は家にいた[2]。一方で兄の司馬朗は司空府の属員となっている。

その後かつて司馬懿に会ったことがある崔琰が曹操に司馬懿を推薦し、荀彧も彼を推したため、司馬懿は司空府の属員となった。司馬家は代々経学に詳しく、司馬懿は曹操の世子曹丕に仕えることとなった[2]。一説には曹操は刺客を放って、「もし驚いて逃げるようであれば殺せ」と命じたが、司馬懿は臥して動かなかったために難を逃れた。その後曹操は丞相となり、司馬懿を文学掾に任じて「捕らえてでも連れてくるように」と命令したため、やむを得ず出仕した[要出典]。『魏略』によると、曹洪に交際を求められた司馬懿は、訪ねて行くのを恥に思い、仮病を使い杖をついた。恨みに思った曹洪は曹操に告げ口した。曹操に出仕を求められると、杖を投げ捨て応じたともいう。

司馬懿は曹丕の家臣として大いに信任され、陳羣・呉質・朱鑠は「太子四友」とともに称されたが、司馬懿は陳羣に次ぐ第二席を占めている[2]。建安20年(215年)に曹操が陽平関の戦いに勝利し漢中を制した際、その勢いで劉備が支配して間もない巴蜀を平定するように進言したが[3]、曹操は「隴を得て蜀を望む(望蜀)」ことはしない、と言って、この意見を退けたという。

建安22年(217年)、太子中庶子に任じられる。曹操は鋭敏に過ぎる司馬懿を警戒していたが、曹丕は司馬懿と親しく、何かと彼を庇っていた。司馬懿の方も、軽挙な行いを慎んで曹丕に仕えたため、絶大な信頼を得るにいたった。この頃、疫病で兄の司馬朗を失う。

建安24年(219年)、関羽が荊州から北上して樊城を陥れようとした。この時、首都の許昌以南で関羽に呼応する者が相次ぎ、曹操すら狼狽し遷都の議も上がった。司馬懿は蔣済と共にそれに反対した[4]。さらに孫権勢力を巻き込んで関羽を倒すことを献策し、見事に成功を収めた[4]。この年、厳格で知られる父の司馬防が死去した。

蜀との戦い

清の時代、描かれた諸葛亮と司馬懿

清の時代に描かれた諸葛亮と司馬懿の対峙の様子
建安25年(220年)、曹操が死去した際には、曹丕により遺体を鄴に運び、葬儀を主催することを命じられた[3]。

曹丕が魏王に即位し、献帝から皇位を禅譲され、魏の皇帝になった。軍事的には目立った行為はなく、親征を行う曹丕の留守を守り、後方支援の実務を行っていた[4]。黄初6年(225年)、仮節・撫軍大将軍・録尚書事に叙せられ、五千人の兵権を与えられた[3]。これは有力な将軍であった夏侯尚が病死したことによるものであったが[3]、司馬懿に今まで任されていた後方支援の任務もそのままであった。司馬懿があまりに負担が大きいとして辞退すると、曹丕は「朕は日夜息つく暇も無い。君にこの仕事を任しているのは、何も君に栄誉を与えようと思っているわけではない、この負担を分け持ってもらいたいのだ。」と述べ、司馬懿は引き受けざるを得なくなった[5]

黄初7年(226年)、曹丕が崩御し、その子の曹叡(明帝)が皇帝に即位した。曹丕が死ぬ際には曹真・陳羣・曹休と共に曹叡の補佐を託された[5]。曹叡は母(文昭皇后甄氏)が誅殺されたことで長らく宮廷から遠ざけられており、臣下たちとはほとんど面識がなかった。このため、即位した曹叡は父の代からの重臣であった司馬懿や陳羣らを引き続き重用し、政事にあたらせた。同年、襄陽に侵攻した諸葛瑾・張覇らを徐晃らとともに破り[5]、張覇を斬った。この功により驃騎大将軍に昇進し、曹真・曹休に次ぐ第三位の軍人となった[5]。これ以降、司馬懿は宛城に駐屯し、魏の南部を守る役目に就いた[5]。


京劇の司馬懿。演目は「空城計」。馬上から、城壁の上の諸葛亮に語りかけている。右手に鞭を持ち、左手で馬の手綱を握っている。京劇の演技の約束ごとで、彼がいま馬に乗っていることを示す。司馬懿の顔が白いのは、京劇のくまどりの約束ごとで、彼が悪役であることを示す。
太和2年(228年)、孟達が蜀漢の諸葛亮と内応して魏に叛いた。諸葛亮は孟達に司馬懿を警戒するよう伝えていたが[5]、宛城から孟達の任地である上庸新城までは、通常の行軍で1ヶ月はかかる道程であり、孟達は十分対処できると考えていた[6]。司馬懿は丁寧な書簡を送って孟達を迷わせた上で、昼夜兼行の進軍を強行し、わずか8日で上庸までたどり着いた[6]。城を包囲された孟達は、同僚や部下に次々と離反された。司馬懿は攻城16日間で新城を陥落させ、孟達を斬首した[6]。この電光石火の対処に諸葛亮ら蜀漢の中枢は動揺し、北伐の戦略は大きく狂うこととなった。

同年、孫権の謀略により曹叡は皖や江陵や濡須東関の三方面のルートから大規模に侵攻した。曹休は呉軍に敗れ、数万の死者を出した。一方、司馬懿・張郃率いる雍・涼大軍は朱然の守備する江陵を攻めるが、落とすことができず撤退した。

太和4年(230年)、大将軍に昇進した。

太和5年(231年)、蜀漢に対する戦線の総司令であった曹真が死んだ。司馬懿はその後任として張郃・郭淮らを従え、諸葛亮と対戦する。しかし司馬懿は積極的な攻撃を行わず、陣地に立てこもったままであった[6]。不満を持った張郃らが司馬懿を非難したため、やむなく出撃させたが、張郃らはかえって大敗した[6]。その後蜀漢軍は食糧不足により撤退した。この際、司馬懿は張郃に追撃させたが、高所に伏兵を置いた蜀軍に弓矢を乱射され、張郃は射殺された。なお、『晋書』宣帝紀によれば司馬懿は諸葛亮を追撃して大いに破ったとあるが、『三国志』には司馬懿が諸葛亮を破ったという記述はない(祁山の戦い)。

青龍2年(234年)、諸葛亮が5度目の北伐を敢行してきた(五丈原の戦い)。この戦いで司馬懿は郭淮・辛毗らと共に防衛に徹した[6]。諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に亘って対陣するが病死し、蜀漢軍は撤退した。蜀漢軍が退却したのち、司馬懿はその陣跡を見るや「諸葛亮は天下の奇才だ」と漏らしたという。『漢晋春秋』によると、司馬懿は撤退する蜀漢軍に追撃をかけようとしたが、蜀漢軍が魏軍に再度攻撃する様子を示したので司馬懿は退却した。その事で人々は「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」と言った。ある人がこの話を司馬懿に報告すると、司馬懿は「私は生者のする事は推し測れるが、死者のする事は推し測れない」と答えた。

青龍3年(235年)、蜀漢の馬岱が攻め込んで来たが、配下の牛金に命じて撃退させた。また、武都の氐王の苻双[注釈 1]と強端を降伏させた。この年、司馬懿は三公の一つ太尉に就任し、魏の軍事面でのトップとなった[6]。

公孫淵の征討
詳細は「遼隧の戦い」を参照
景初2年(238年)、遼東に拠っていた公孫淵が反乱を起こし、司馬懿は征討を命じられる。このとき皇帝の曹叡は、公孫淵はどのような策を取るか司馬懿に尋ねた。司馬懿は「往路に100日、復路に100日、戦闘に100日、その他休養などに60日を当てるとして、1年もあれば充分でしょう」と答え[9]、「(公孫淵が)城を捨てて逃げるが上策、遼水に拠って我が大軍に抗するは次策、襄平に籠もるなら生捕りになるだけです。(公孫淵が)知恵者ならば、城を捨てることも有るでしょうが、公孫淵はそんな策を考えつける人物ではありません」と答えた。

司馬懿は毌丘倹、胡遵らとともに公孫淵討伐に出発した。司馬懿が遼東に到着したころ、遼東では長雨が続いていたため、遠征はさらに長引くおそれがあった。廷臣たちは遠征の中止を曹叡に訴えたが、曹叡は「司馬公は機に応じて戦略を立てることのできる人物だ。彼に任せておけば間違いはない」と言い、取り合わなかった。

魏の征討に対し、公孫淵は呉に援軍を求めた。孫権は使者を殺害しようとしたが、配下の羊衜は恩を売った方が得策と進言した。そこで孫権は、「司馬公は用兵に優れ、自在に使うこと神の如しという。そんな人物を相手にせねばならないとは、あなたもお気の毒だ」と書簡を送りつつも、援軍を約束した。司馬懿は野戦で公孫淵が派遣した軍勢を破り、公孫淵は籠城した。公孫淵軍は兵は多く、食料は少なかった。司馬懿はこれを想定しており「兵力が多く兵站の確保が難しいときにはある程度犠牲が出ようとも速戦でかたをつけるべきで、逆に兵力が少なく兵站が安定している場合には持久戦を行うのがよい」と語った。

司馬懿の思惑通り、公孫淵軍の食料は底をついた。公孫淵は使者を送り、人質を差し出して和議と助命を嘆願した。司馬懿はこれに対し次のように弁舌し拒絶した。

「戦には五つの要点がある。戦意があるときに闘い、戦えなければ守り、守れなければ逃げる。あとは降るか死ぬかだ。お前達は降伏しようともしなかったな。ならば残るは死あるのみ。人質など無用である。」
公孫淵は子の公孫脩とともに数百騎の騎兵隊を率いて包囲を突破して逃亡したが、司馬懿は追撃して公孫淵親子を斬り殺した。城は陥落し、司馬懿は公孫淵の高官たちを斬り、遼東の制圧に成功するが、更にその後の処置は苛烈を極めるものであった。中原の戦乱から避難してきた人々が大量に暮らしていた遼東は、いつまた反魏の温床になるかわからないということで、司馬懿は15歳以上の男子を数千人(一説に7000人ほど)殺し、京観を築いたという。司馬懿は曹叡に述べたとおり、1年で公孫氏を滅ぼした。しかし、戦後処理で残虐な行為があったことは後世の批判となった。唐代に編纂された『晋書』は、「王朝の始祖たる人物が、徒に大量の血を流したことが、ひいては子々孫々に報いとなって降りかかったのだ」と批判している。

呉は援軍を送ったものの、既に公孫淵父子が敗死した後だったとして、遼東で略奪して引き上げている。

権力闘争
司馬懿が遼東から帰還する最中の景初3年(239年)、曹叡は病に倒れた。この際、司馬懿に長安へ戻るよう勅書が伝えられたが、その後曹叡直筆の文書で都の洛陽に戻るよう伝えられた[9]。今際の際に駆けつけた司馬懿に対し、曹叡は曹真の長男曹爽と共に次代の帝曹芳の補佐を託した[9]。『漢晋春秋』によると、曹叡は当初曹宇を大将軍に任じ後事を託そうと考えていたが、劉放と孫資の2人の進言により彼を罷免し、曹爽と司馬懿の2人に後事を託すことになったという[9]。

権力独占を狙う曹爽の画策により、司馬懿は名誉職に近い、太子の教育係である太傅に転任させられた[10]。ただし、軍権はそのままで、依然として対蜀漢の最前線を任されていたため、曹爽が内政、司馬懿が軍事を分け合う形になった(当初、軍権を保証するため大司馬を兼任させる予定だったが、不吉な先例があったという理由で見送られた[注釈 2]。)また、曹爽と同じく、「剣履上殿」「入朝不趨」「謁賛不名」(剣を帯び靴を履いたまま昇殿しても許され、小走りに走らずともよく、皇帝に目通りする際は実名を避けてもらえる)の特権を与えられた。また、駐屯地の農業を振興し、大いに名声を高めた[10]。

当初は曹爽が年長の司馬懿を立てていたため、大きな混乱は見られなかった。正始2年(241年)、呉の朱然らが樊城を包囲すると、朱然を退けた(芍陂の役)。『晋書』宣帝紀に引く干宝『晋紀』によれば、この戦いで司馬懿は自ら進み出て軽騎兵を指揮して救援におもむき、朱然を退けた。司馬懿は朱然を追撃して大いに破ったとあるが、『三国志』には司馬懿が朱然を破ったという記述はない。『三国志』「魏書」「呉書」と『晋書』には、呉軍は皇太子の死により撤退し、司馬懿と朱然は交戦しなかった。また、『晋書』にも数回の対呉戦で、司馬懿・司馬師・司馬昭は呉に敗れ屈辱を味わった話が書かれている。『宋書』にこの戦いで司馬懿は朱然を追撃して、朱然の反撃を受けたので撃退された。

243年には呉の諸葛恪を撤退させた(『晋書』宣帝紀に引く干宝『晋紀』)。『三国志』には、司馬懿と諸葛恪は交戦しなかった。司馬懿は諸葛恪に進攻しようとするが、孫権は占いに従って既に諸葛恪を別の戦地に移動させる。孫権は自ら司馬懿を迎え撃つが、司馬懿は城を落とすことができず退却した[13]。

正始5年(244年)に曹爽が行った蜀漢出兵(興勢の役)は失敗し、撤退時には多大な犠牲を強いられた。司馬懿はこの件ほとんど関与しておらず、曹爽の依頼で次男の司馬昭を従軍させるにとどまっている[10]。この際、司馬懿は長男の司馬師を中護軍に転任させるよう依頼している[10]。

曹爽一派は増長し、事ある毎に司馬懿と衝突するようになった。正始7年(246年)の呉の侵攻では、曹爽は逃げて来た住民を帰すよう主張した。司馬懿は反対したが聞き入れられなかった。司馬懿は部下に対し「大将軍(曹爽)の命令で」と告げて農民に帰還するよう命じさせ、怒った農民達は後に退去し、魏は民を失った[14]。呉の朱然の猛攻によって曹爽は万人以上を失って無惨に失敗している(柤中の戦い)。そうしたことが重なって、正始8年(247年)5月には、70歳近い高齢と病気を理由に引退したかに見えた。しかし曹爽も司馬懿を警戒していたので、司馬懿は曹爽一派の李勝の前で芝居を打った。すなわち、李勝が見舞いのため自宅を訪ねてきた際、李勝が言ったことをわざと聞き間違えたり、薬を飲むときにダラダラとこぼすなどして、耄碌した姿を見せた[15]。これを聞いた曹爽は安心し、司馬懿への警戒心を緩めた[15]。

正始10年(249年)1月6日、曹爽が曹芳の供をして曹叡の墓参りに行くため洛陽を留守にした機会を見計らって、司馬懿はクーデターを起こす。司馬懿は郭太后に上奏して、曹爽兄弟の官職を解任する令を得た。司馬懿は司馬師・司馬孚に洛陽の宮城を制圧させ、郭太后の令を用いて高柔・王観に命じて洛陽の曹爽・曹羲の陣営を制圧し、洛陽を制圧した。司馬懿は蔣済とともに洛水の岸辺に布陣し、免官するだけだと曹爽を説得して、戦わずして降伏させた(高平陵の変)[16]。司馬懿は丞相の地位を打診されたが、これを固辞した[17]。曹爽本人やその一族に対しては、食事の買い出しすら出来ぬほどの監視下において軟禁した。しかし、1月10日、曹爽らに謀反の企みがあったとして、結局は一族郎党皆殺しにした。また、曹爽の腹心の何晏・桓範らを一族と共に処刑した。

嘉平3年(251年)、王淩らの企てた、楚王曹彪を擁立して曹氏の実権を取り戻さんとするクーデターを、密告により察知した。司馬懿は証拠を握ると、硬軟両面で王淩を追い込み、降伏させた。王淩は司馬懿が自分を殺すつもりであることを悟って自殺した(王淩の乱)。また、曹彪も自殺を命じられた。この事件の後、魏の皇族をすべて曹操時代の魏都であった鄴に軟禁し、互いに連絡を取れないようにした。

4月に司馬懿は都に戻ったが、6月に病となり、8月に没した[17]。皇帝曹芳は相国と郡公を追贈しようとしたが、弟司馬孚は兄の意志であるとして辞退した[17]。遺言に従って首陽山に薄葬で埋葬された[17]。尚、司馬懿が死去すると、すぐ曹操の太祖廟に功臣として祀られた(この時点で廟には功臣24人が祀られていたが、司馬懿は25人目となった。さらに262年に最後となる郭嘉を追加)その際、官位の高い者順に並べ替えるべきとの意見が出され、司馬懿が功臣の最上位にされた。[18]。

後に孫の司馬炎が魏より禅譲を受けて正式に皇帝となると、祖父の司馬懿を高祖宣帝と追号した。司馬懿は死に際して息子達に次のような言葉を残している。「みな私が謀反すると疑っていたので、私はいつもそのような疑いを懐かれぬよう注意を払ってきた。私が死んだら、お前達はうまく国を治めるよう慎重に行動せよ。」[要出典]。

逸話
「狼顧の相」といい、首を180度後ろに捻転させることができたという。この噂を聞きつけた曹操が、本当か試すためにいきなり司馬懿の後ろから名前を呼んだところ、真後ろに振り向いたという。『晋書』宣帝本紀では、曹操がこの相を見て「この男性は遠大な志を抱いている」と警戒し、曹丕に「彼は心中に野望を秘めており、一介の家臣として終わるつもりはなかろう」と語ったという。ただし、本来「狼顧」というのは「狼が用心深く背後を振り返るように、警戒心が強く老獪なこと」を指す言葉である。

評価
司馬懿の死後、その権力を継承した司馬師と司馬昭は魏の皇帝を廃立し、最終的に孫の司馬炎が禅譲を受けて皇帝に即位した。司馬懿自身が生前に簒奪の意図を明示したという記録はないが、後世の評価としては魏王朝の簒奪を考えていたとされることが多い。これを井波律子は「司馬懿は文帝・明帝の遺命を受けながら、最終的に魏王朝の簒奪をもくろむ裏切り者の烙印を、これまた千古に押された」と評している[17]。

司馬氏の西晋を滅ぼした一人である後趙の石勒は、司馬懿が郭太后を利用したことを、曹操が献帝を利用したことに引き比べて非難している。「大丈夫(立派な男性)たる者、磊磊落落(「磊落」の強調)、日月が明るく輝くように物事を行うべきであって、曹孟徳(曹操)や司馬仲達父子(司馬懿・司馬師・司馬昭)のように、孤児(献帝)や寡婦(郭太后)を欺き、狐のように媚びて天下を取るような真似は絶対にできない」と、発言している。

東晋の明帝は西晋の成立過程を聞き「ああ、どうして我が朝が長続きしようか」と悲嘆したという。

吉田松陰は、君道と臣道を厳別し、その著書講孟箚記(講孟余話)の中で君道の上の教戒として「曹操・司馬懿、智術を揮ひて一時を籠絡すと云へども、天下後世誰か其の心を信ずる者あらん。名づけて姦雄と称し、永く乱臣賊子の亀鑑とす。噫、畏るべきかな。抑操・懿の如き臣あるは、皆人君の罪なり。最も人君の恥なり。況や君に告ぐるの体、君をして戒懼の心を起さしむるを要とす。何ぞ必ずしも此の章を削り去ることを用いんや。」と記し、乱臣賊子の見本として挙げ、曹操や司馬懿のような臣下があるということは、君主自身の罪であり君主にとって最大の恥であるとしている[19]。

司馬懿の現存する詩は、『晋書』に収録された以下の「讌飲詩」一首のみである。

天地開闢 日月重光
遭遇際会 畢力遐方
将掃逋穢 還過故郷
粛清万里 総斉八荒
告成帰老 待罪舞陽

中国で売られている三国演義トランプでは、諸葛亮と並んでジョーカーになっている。小説『三国志演義』後半の主人公格である諸葛亮の最大のライバルとして、魏国の武将の中では曹操に次いで知名度は高い。ちなみに、司馬懿はいわゆる軍師の代名詞である諸葛亮とよく並べられるために、メディアなどで「軍師」と冠されることが多いが、史実では参謀というより将軍としての活躍のほうが遥かに多い[注釈 3]。また、丞相や相国といった国政を司る役職には一度も就いていない[注釈 4]。

宗室
【西晋王朝系図】(編集)
后妃
正室:張春華(宣穆皇后)
側室:伏夫人、張夫人、柏夫人
子女
景帝 司馬師(子元)- 母は張春華
文帝 司馬昭(子上)- 母は張春華
汝南文成王 司馬亮(子翼)- 母は伏夫人
琅邪武王 司馬伷(子将)- 母は伏夫人
清恵亭侯 司馬京(子佐)- 母は伏夫人
扶風武王 司馬駿(子臧)- 母は伏夫人
平原王 司馬榦(子良)- 母は張春華
梁孝王 司馬肜(子徽)- 母は張夫人
趙王 司馬倫(子彝)- 母は柏夫人
南陽公主 (荀惲の子の荀霬の妻、母:張春華)
高陸公主 (杜預の妻)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E6%87%BF
18:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/01 (Sun) 13:50:31

あげrr
19:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/02 (Mon) 06:56:14

アジア人物史月報 - 内田樹の研究室
2023-01-01
http://blog.tatsuru.com/2023/01/01_1844.html

姜尚中さんが編集にかかわっている『アジア人物史』というシリーズが出ることになって、月報にエッセイを頼まれた。

 歴史の風雪に耐えたものだけが生き残り、歴史の淘汰圧に耐えきれなかったものは消えてゆく。よくそう言われる。でも、それほど軽々しくこのような命題に頷いてよいのだろうか。私はいささか懐疑的である。
 たしかに「棺を蓋いて事定まる」という古諺の意味なら私にも分かる。ある人がどれほどの人物だったのか、その人の事績がどれほど意義のあるものだったのかは生きている間には確定しない。死んでからそれなりの時間が経たないとほんとうのところは分からない。その通りである。でも、死んでからあまり時間が経つと、それはそれで分からなくなる。死んで50年くらいまでなら、史料もあるし、記憶している人もいる。でも、100年くらい経つと、文書は四散し、生き証人は死に絶える。1000年も経つと、日常生活の中でその人の名が口の端にのぼるということは、よほどの例外的人物以外についてはなくなる。
 だが、それでよいのだろうか。

 歴史の淘汰圧はつねに正しく、残るべきものは必ず残り、消えるべきものは必ず消える。歴史という審級は過たず残るものと消えるものを判別するという信憑のことを「歴史主義」と仮に呼ぶとする。「歴史は絶対精神の顕現過程である」とか「歴史は真理が不可逆的に全体化してゆく過程である」とか「歴史は鉄の法則性に貫かれている」とかいう考え方をする人たちのことを私は「歴史主義者」と呼ぶ。私が勝手にそう命名しているだけで、別に一般性を請求する気はない。そして、これもまた個人の感想であるが、私は歴史主義に対してかなり懐疑的である。
「・・・の時代は終わった」とか「これからは・・・の時代だ」とかいう広告代理店が好む言葉づかいは典型的に歴史主義的なものである。だが、The latest is the best 「一番新しいものが最高だ」というのは、少し考えればわかるけれど、まったく事実ではない。
 今ここにあるものは存在する必然性があるから存在するのであり、今ここにないものは存在すべきではなかったから存在しないのであるというタイプの単純な「リアリズム」と「歴史主義」は同一の思考のコインの裏表である。 
 歴史主義は政治的ステイタス・クオを正当化したい人々や、消費者の欲望を亢進させようとする人々にとってはたしかにきわめて好都合なイデオロギーだろう。だが、もう一度繰り返すが、これはまったく事実ではない。
 私たちの目の前に今あるものだけが「歴史の風雪に耐えて生き延びたもの」「存在する必然性のあるもの」であり、ここにないものは「歴史の風雪によって淘汰されたもの」あるいは「存在する必然性がないもの」だということはない。そもそも私たちの目の前に今あるものの相当部分は少し経てば(場合によっては数か月ほどで)「歴史の淘汰圧に耐えきれず消えるもの」なのである。
 だから、ひねくれた言い方になるが、歴史家は「歴史という審級」の判定力を軽々には信じるべきではないと思う。
 いや、別に私がそんなことを言わなくても、おそらく職業的な歴史家というのは実は「歴史の判定力」をそれほど信じていない人なのだろうと思う。もし「歴史の判定力」をほんとうに信じていたら、打ち捨てられた古文書を渉猟したり、誰も訪れることのない旧跡の由来をたどったりすることをしないはずだからである。記憶すべきことが忘れられ、讃えるべき功績や糾弾されるべき悪行について語り継ぐ人がいないという事実を歴史家ほど熟知している人はいないはずだからである。
 だとすれば、歴史家の本務はむしろ「歴史の淘汰圧」に抗うことではないか。歴史家ひとりひとりの判断において「語り継ぐべきこと」を史料のうちから掘り起こし、今に蘇らせることこそが歴史家の仕事ではないのだろうか。
 
 司馬遷の「列伝」の第一は伯夷列伝である。伯夷叔斉は王位を辞して野に逃れ、周の禄を食むことを拒んで隠棲して餓死した仁者である。司馬遷はなぜ伯夷叔斉のような徳者が餓死し、盗蹠のような悪人が富貴を究め天寿を全うするのか、その理不尽にこだわった。「天道は是か非か。」そして、伯夷叔斉が今に名をとどめ得たのは孔子の功績によると書いた。仁者賢人の名がさいわい今も記憶され、顕彰され得たのは孔子の事業である。「天道」がそうしたのではない。
 司馬遷が「列伝」の筆を「天道はしばしばアンフェアである」という伯夷叔斉の逸話から起こしたことは偶然ではないと思う。司馬遷は賢人や仁者を記憶のアーカイブにとどめるのは天の仕事ではなく、人間の仕事だと考えたのである。
 歴史家は「私がここで書き留めておかないと人々の記憶から忘れ去られてしまうかも知れない人」を選り出してその「列伝」を残す。司馬遷は「歴史そのもの」に人物の良否を判定する力するがあるとは考えなかった。誰の事績を書き残し、誰の徳性や叡智を称えるべきか、非とすべきか、それを決めるのは歴史家ひとりひとりの見識であると考えた。私は歴史家の構えとして、これは正しいと思う。
 私たちの世界は今どこでも「歴史修正主義者」たちが跳梁跋扈している。彼らは「歴史の淘汰圧」が実はあまり信用できないということをよく知っている。真実を否定することも、作話を正史に記載させることも可能であることを彼らは知っている。歴史そのものには必ず真実をその正しい地位に就け、虚偽を「歴史のゴミ箱」に投じるだけの力はない。この仕事について、私たちは「天道」からの支援を当てにすることはできない。その責務を果たすのは一から十まで歴史家なのである。
 この『アジア人物史』の企図は司馬遷の「列伝」のそれに通じるものだと思う。私が読んだ範囲では、執筆者たちがその事績を詳細に語ってくれた人物のほとんどを私は知らなかった。しかし、「ほとんどの読者が知らない人物」の事績を語り、集団的記憶に刻み付けておくことこそが歴史家の最もたいせつな仕事の一つなのだと思う。
(2022年5月18日)
http://blog.tatsuru.com/2023/01/01_1844.html
20:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/06 (Fri) 16:33:39

三国志の時代にはお酒があった?酒宴でのエピソード紹介!
2018年07月28日
https://sangokushirs.com/articles/612

三国志の世界では、たびたび酒宴の描写があります。そこで気になるのが、三国志の時代にはお酒があったのかです。時代的に三国志は、180年~280年頃の話となっており、本当にお酒があったのか疑問に思うでしょう。そこで今回は、三国志とお酒について紹介していきたいと思います。


1.三国志の時代のお酒!

■ 三国志の時代にもお酒はある!
まず疑問点である三国志の時代にお酒はあったのかだが、単刀直入に三国志の時代にはすでにお酒が存在していたとされています。実は、中国のお酒の歴史は相当古いのです。なぜなら、中国は世界で最も早くお酒の醸造が始まった国とされており、約7千年も前からお酒が造られていたされているのです。また、歴史書である「史記」によると、夏の初代国王の時代にお酒が発明されたと記されています。いずれにしても、中国のお酒に関する歴史は古く、三国志の時代にお酒は確実に存在していたのです。

■ どんなお酒だったの?
三国志の時代にも、お酒があったことはわかったと思います。そうなると気になるのが、どんなお酒があったのかではないでしょうか。三国志の時代には、『事酒(じしゅ)』『昔酒(せきしゅ)』『清酒(せいしゅ)』の3種類のお酒があったとされています。事酒は、どぶろくをイメージするのが一番近いです。また、事酒を発酵させたものを昔酒とされており、アルコール度数が上がります。さらに、昔酒をもっと発酵させたのが清酒です。とは言え、現代に比べれば、蒸留酒を造る技術が圧倒的に劣っています。そのため、アルコール度数はあまり高くなかったとされているのです。

2.三国志のお酒関係でのエピソード

■ 酒飲みと言えば張飛
お酒関係のエピソードと言えば、張飛が真っ先に思い浮かぶと思います。劉備(玄徳)や関羽と義兄弟の張飛ですが、大酒飲みのイメージが強い武将でもあります。張飛は、お酒で失敗したエピソードをたくさん持っているのです。なかでも有名なのが、劉備(玄徳)らが袁術討伐に打って出た際に、徐州の留守を任された後のエピソードです。

劉備(玄徳)は張飛の酒癖の悪さを知っており、張飛に留守を任せるのを渋るのですが、張飛は「お酒を辞めるから」と懇願するため、城の守りを任せることにします。義兄弟との約束から張飛はお酒を飲まずに城を守っていました。しかし、部下たちを労う必要もあると考えて、部下にお酒を振舞うのです。張飛は、最初は一緒にお酒を飲むことを我慢していたのですが、「一杯くらい」と飲んでしまい、結局どんどんお酒を飲んでしまうのです。曹豹はそれを見て張飛にお酒を飲むのをやめるように説得するのですが、張飛は怒ってしまいます。

これにより曹豹は張飛を恨むことになり、呂布に城内の様子を密告するのです。そして、曹豹は呂布に寝返り、張飛や城兵が酔いつぶれている間に徐州を占領されてしまうのです。このように、張飛はお酒で失敗をしており、「酒は飲んでも飲まれるな」という格言がよくわかるエピソードとなっています。

■ 孫権も酒癖が悪い!
呉の初代皇帝である孫権も、酒癖が悪いことで有名です。酔いが回ると酒宴に参加している部下に対し、執拗に酒を注いで酔い潰すだけでなく、寝てしまう部下がいると水を掛けて起こして吐くまで飲ませたとされています。そんな孫権のお酒エピソードとしては、呉王に即位した際の酒宴が有名です。

孫権は呉王に封じられた際、主演を開催していつものように泥酔しながら強引に部下に酒を飲ませます。酒宴に出席していた孫権の部下である虞翻は、孫権が席の前にくると酔い潰れて寝ているふりをしたのです。虞翻は孫権が別の席にいったので、寝たふりをやめたのですが、それを孫権は見つけ激怒します。そして、孫権は斬ろうとするのですが、劉基がとりなしてなんとか宥めることができたのです。ちなみに、孫権はこのエピソードの後、酔いが醒めてから反省したとされています。しかし、その後も酒癖の悪さは治らなかったようです。

■ 面白いお酒のエピソードを持つ劉伶
劉伶とは、竹林の七賢のひとりです。ちなみに、竹林の七賢とは酒を飲んだり清談を行ったりしながら交遊した7人のことです。劉伶は身長が140㎝ほどであり、手押し車に乗り、下僕に手押し車を引かせて移動していたとされています。お酒好きとして有名であり、手には酒壺を抱え、どこでも構わずにお酒を飲んでいたとのことです。そんな劉伶と妻のお酒のエピソードが面白いのです。

劉伶の妻は、酒浸りの夫をいつも心配していました。ある日、劉伶は二日酔いがひどく、妻に迎え酒を持ってくるように言います。しかし、劉伶の妻は夫を心配して、お酒をやめるように説得します。劉伶は妻に諫めてくれたことに感謝し、「自分では意志が弱いから神に誓うためにお供え用のお酒と肉を用意してほしい」と妻に言うのです。劉伶はお酒と肉を神前に供え、「天は劉伶を生みたまい、酒をもって名を挙げてさせたもうた。一度に一斛を飲み、五斗を迎え酒としてくださいました。天に報いるため、婦人の言葉など決して聞きません」と口上を述べ、用意した神前の酒を飲み、肉を食べると酔っぱらって寝てしまったのです。劉伶は、お酒を飲みたいから神に誓うふりをして、酒と肉を用意させただけだったのです。

3.曹操や劉備(玄徳)はお酒を禁止した?

■ 禁酒令があった?
三国志の時代には、禁酒令が出たこともあります。禁酒令を出したことで有名なのが、曹操と劉備(玄徳)です。曹操は酒害を禁酒令の理由としていたのですが、実際には兵糧米の不足を恐れたからとのことです。当時の人もお酒が好きで、穀物の多くを酒に代えてしまうため、曹操は兵糧が不足することを恐れたとされています。ただ、曹操の禁酒令は厳密なものではなく、厳格に施行されていなかったとのことです。

また、劉備(玄徳)も禁酒令を出しています。劉備(玄徳)は、行き過ぎた取り締まりだったことが「三国志簡雍伝」からわかります。これによると、劉備(玄徳)は酒の醸造道具を持っていただけで、禁酒令違反として逮捕することがあったとのことです。これに対し、簡雍は「それならあのカップルも淫行罪で逮捕しましょう。彼らも“淫行の道具を持っている”のですから」と劉備(玄徳)を諫め、醸造道具を持っていた者は釈放されたというエピソードがあるのです。このエピソードから、劉備(玄徳)は厳しい禁酒令を出していたことが窺えます。

4.まとめ

三国志の時代にもお酒はあります。しかし、蒸留技術などが乏しいため、アルコール度数は低いようです。また、三国志の登場人物には、お酒に関係するエピソードが多くあります。なかでも張飛と孫権の酒癖の悪さは有名です。曹操と劉備(玄徳)は、禁酒令を出すこともありました。いずれにしても、三国志の時代の人々もお酒を嗜んでいたと思うとなかなか感慨深いものがあります。
https://sangokushirs.com/articles/612


中国の酒の歴史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14078775
21:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/06 (Fri) 16:38:51


2016年10月19日
三国一のお酒好き!?画期的な酒造法を広めた曹操孟徳と日本酒の意外な関係


お酒に縁の深い三国武将と聞いて、真っ先に浮かぶのは誰ですか?『三国志演義』でお酒に関する失敗が多く描かれている張飛益徳?それとも宴会が大好きだったという呉の孫権仲謀?いえいえ、それより縁が深いのは、魏の君主・曹操孟徳なのです。今回は彼と日本酒の意外な関係や、お酒にまつわるエピソードなどをご紹介いたしますね!
https://sangokushirs.com/articles/40

武将たちが美味しそうに酌み交わしているお酒 三国時代のお酒はどんなものだったの?

三国志を読んでいると、武将たちがお酒を豪快に酌み交わしているシーンが度々描かれています。それを読んでお酒を飲みたい、飲めるようになりたい、と感じる方もきっと多いでしょうね。かくいう筆者も、「爵(しゃく・古代中国の酒器)を傾けて温かいお酒を味わいながら、剣舞などを眺めてみたいなあ」などと幾度となく憧れたものです。
それほどまでに印象的で美味しそうに感じられるのですが、三国時代のお酒は実際どのようなものだったのでしょうか?

周の時代、お酒は神事のための「斉(せい)」、人が飲むための「酒(しゅ)」に分かれていました。斉には5種類あり、そのうち主に使われたとされる醴斉(れいせい)とは甘い一夜酒のことであり、現在で言うの甘酒のルーツと考えられます。
人が飲むお酒は事酒(じしゅ)、昔酒(せきしゅ)、清酒(せいしゅ)の3種類でした。いずれも穀物が原料で、事酒はいわゆるにごり酒、昔酒は事酒の発酵を進めてアルコール度数を高くしたもの、清酒は昔酒を更に発酵させ、上澄みだけを甕に詰めたものです。
漢の時代になると醴斉も酒として扱われるようになり、前漢の歴史書『漢書』には「醴酒」という記述が確認できます。
醴斉や事酒はアルコール度数1%未満、昔酒や清酒であっても現在の発泡酒程度だったのだとか。いずれにせよたくさん飲まなければ酔うことができませんし、酒豪でなくとも浴びるほど飲むことができたのかもしれませんね。

曹操のお酒との付き合い方 なんとまさかの禁酒令を発布!?

さて、そんな時代に酒をこよなく愛した武将のひとりが、魏の創始者・曹操孟徳です。詩人としても名を残している彼の代表作『短歌行』はこのように書き出されています。

対酒当歌  人生幾何
譬如朝露  去日苦多
慨当以慷  幽思難忘
何以解憂  唯有杜康

「酒を飲みながら大いに歌おう。人生は儚く短いもの。毎日辛いことや悲しいことばかりで嫌になるけれど、それを忘れるには酒を飲むのが一番いいんだ」
ざっくりと現代語訳するとこのような感じでしょうか。乱世の中、頭痛持ちでいかにも神経質そうな曹操は、気に病むことが他の人より様々あったのかもしれません。その緊張をほどいてくれるリラックスアイテムであり、楽しい気分を盛り上げてくれるカンフル剤的な役割だったのでしょうか。
そして『曹瞞伝』という書には宴席での姿についても描かれており、お酒を飲んでご機嫌になると、お皿や盃に頭を突っ込んで衣類を汚してしまうほど大笑いしていたとか。鬱憤晴らしの飲酒にしてはずいぶんと明るくお茶目な印象がありますよね。上司と飲むのが楽しいかどうかは、当時であっても個人の感じ方次第でしょう。とはいえ、こんなにご陽気な酒飲みだったら一緒に愉快な時間を過ごせるでしょうし、曹操はこうした面でも多くの臣下に愛されていたのかな、などと筆者は思うのでした。

お酒が大好きな曹操ですが、禁酒令を出したことがありました。理由は人々が飲みすぎて体を壊してしまうから……というのは表面的な理由。飢饉と戦争が続いて財政が困窮、次に戦争が起きたときに兵糧を確保できなくなることを恐れたためだとか。
しかし、禁じられたらますます飲みたくなるのが人情です。当時の人々は、澄んだお酒を「聖人」、濁ったお酒を「賢人」隠語で呼び、こっそり飲んでいたのだそうです。そして禁酒令を破って酒を飲み、酔った部下が失言して早々の逆鱗に触れるも、「酔った上での軽口だから」と周囲に取りなされ、処刑を免れたというエピソードも残っています。このことからも、この禁酒令がさほど厳密なものではなかったことがうかがい知れます。

曹操が広めたお酒の製法『九醞春酒法』って?皇帝にも上奏したレシピをご紹介

曹操はただ酔うのが好きなだけではなく、味にもこだわりを持っていたようです。
酒造職人であるの知人・郭芝(かくし)から聞き出した酒造法を、当時の皇帝(献帝)に上奏しています。その内容をレシピ風にまとめてみますね。

■材料
・麹……30斤(約7kg)
・水……5石(約100リットル)
■作り方
1・12月2日、麹を水で洗い、正月になったら凍っているところを溶かします。
2・良質な米を加えて3日にいちど発酵させ、9石(約180リットル)になったら米を追加するのをやめます。
3・発酵を9回繰り返せば出来上がりです。
※麹のカスを搾り取れば飲めます。こうすれば、麹や米に虫がたくさんついていたとしても、すべて取り去ることができます。
※この方法ではいつも発酵がよくでき、しかもきれいなので酒カスも飲めます。
※9回発酵させても苦くて飲みにくい場合は、10回発酵させてください。ずいぶん甘くなって飲みやすく、不快な酔い方もしにくくなります。
(原文とは文章が前後しています。ご承知おきください)

9回発酵させて作られるこの酒を九醞春酒(きゅううんしゅんしゅ)、その製法を九醞春酒法(きゅううんしゅんしゅほう)と呼びました。これは現在の醸造酒の製法と同じもの。日本酒で言う「段仕込み」ですね。アルコール度数も日本酒のそれと同程度であったと考えられます。事酒や昔酒、清酒のような度数の低い酒がほとんどだった1800年前としては、最先端の技術と言っても過言ではないでしょう。
この製法を誰が考え出したのかは不明ですが、分量や手順を事細かに書けるところを見ると、曹操も作り方について充分な理解があったと考えられます。軍略家で政治家、詩人でなおかつ酒造りの知識もあっただなんて、曹操は実に多才ですよね。

せっかくのお酒。どうせ飲むなら曹操のように

余談ですが、以前筆者が日本酒に関する講座に出席したとき、前述の九醞春酒法の話題が取り上げられました。文献として残されていないため、曹操のレシピが日本に伝わったという確証はないそうです。とはいえその可能性はなきにしもあらず。日本酒を楽しむ際には、かの英傑に思いを馳せてみるのも一興かもしれません。
また、せっかく飲むのならば、やはり陽気で愉快なお酒が一番。酒癖はなかなかコントロールできないものですが、できることなら曹操のようにリラックスして大いに歌ったり、料理に頭を突っ込むまでにならなくても(笑)大いに笑いながら、楽しく過ごしたいものですね。

https://sangokushirs.com/articles/40
22:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/08 (Sun) 10:31:53

曹植
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%A4%8D

曹植(そう ち/そう しょく、192年 - 232年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての人物。字は子建(しけん)。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の出身。陳王に封じられ、諡が思であったことから陳思王とも呼ばれる。魏の皇族である一方で唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者として、「詩聖」の評価を受けた。才高八斗(八斗の才)・七歩の才の語源。建安文学における三曹の一人。

生涯
曹操の五男で、生母は卞氏。異母兄は曹昂・曹鑠。同母兄は曹丕(文帝)・曹彰。同母弟は曹熊。妃は崔氏(崔琰の兄の娘)[3]。子は曹苗・曹志。娘は曹金瓠(夭折)・曹行女(夭折)。

曹昂・曹鑠が早世すると、建安2年(197年)頃に卞氏が正室に上げられ、曹植は曹操の正嫡の三男となった。幼い頃より詩など数十万言を諳んじた。群を抜いて文章に異才を放つ彼を怪しんだ曹操は「誰かに代筆を頼んだのか」と尋ねた。これに対し曹植は「言出ずれば論と為り、筆を下せば章を成す。顧だ当に面試すべし。奈何ぞ人に倩わんや」といい、曹操に特別寵愛された[5][6]。

建安16年(211年)、平原侯(食邑5000戸)に封じられた。

曹植は礼法に拘泥せず、華美を嫌い、酒をこよなく愛し、闊達さと奔放さを合わせ持った天才肌の貴公子であった。ただし少々それが行き過ぎてしまうこともあり、天子の専用通路(司馬門)を勝手に通ってしまい、曹操を激怒させてしまったこともあった(このことは相当な禍根となったようで、後々まで曹操はそれを嘆いた)。詩人としてのみならず、実際には父の遠征に従って14歳から従軍し、烏桓遠征・潼関の戦い[7]・張魯征討など数多くの戦役に従軍しており、兄たちと同じく戦場で青年時代を送っている。しかし、軍事面においても飲酒によって不祥事を起こしている。関羽が樊城の曹仁を包囲した際に、曹操は曹植を南中郎将・行征虜将軍として援軍に派遣しようとした。しかし、曹植は酒に酔って曹操の招集に応じることができなかったため、徐晃が派遣されたこともあった。

建安19年(214年)には臨淄侯に転封された。この頃より詩・賦の才能がさらに高まり、さらに曹操の寵愛が深くなった。同時に曹丕との後継争いが勃発した。曹植には楊修・丁儀・丁廙・邯鄲淳・楊俊・荀惲・孔桂・応瑒・応璩らが側近としてつき、曹丕には東曹の人がつくようになり、彼らよりもそれぞれの側近たちの権力闘争といった様相が強かったが、建安22年(217年)に正式に曹丕が太子に指名されると、以降は曹植と側近者たちは厳しく迫害を受けることになった[8][9]。

建安25年(220年)に曹操が没すると側近が次々と誅殺され、黄初2年(221年)には安郷侯に転封、同年の内に鄄城侯に再転封、黄初3年(223年)にはさらに雍丘王(食邑2500戸)、以後浚儀王・再び雍丘王・東阿王・陳王(食邑3500戸)と、死去するまで各地を転々とさせられた。

この間、皇族として捨扶持を得るだけに飽き足らず、曹丕と曹叡(明帝)に対し幾度も政治的登用を訴える哀切な文を奉っている。特に曹叡の治世になると、親族間の交流を復することを訴える文章が増えた。曹叡は族父の曹植を起用しようとしたが、讒言で断念した。その後も鬱々とした日々を送り、太和6年(232年)11月28日、「常に汲汲として歓びなく、遂に病を発して」41歳で死去。子の曹志が後を継いだ。

曹植は中国を代表する文学者として名高いが、詩文によって評価されることをむしろ軽んじていた節がある。側近の楊修に送った手紙では「私は詩文で名を残すことが立派だとは思えない。揚雄もそう言っているではないか。男子たるものは、戦に随って武勲を挙げ、民衆を慈しんで善政を敷き、社稷に尽くしてこそ本望というものだ」と語っており、曹丕が「文章は経国の大業にして不朽の盛事なり」(『典論』論文より)と主張しているのとは、好対照である。


文学作品

漢詩の詩型の一つである五言詩は、後漢の頃から次第に制作されるようになるが、それらは無名の民衆や彼らに擬した文学者が、素朴な思いを詠った歌謡に過ぎなかった。しかし後漢末建安年間から、それまでの文学の主流であった辞賦に代わり、曹植の父や兄、または王粲・劉楨らの建安七子によって、個人の感慨や政治信条といった精神を詠うものとされるようになり、後世にわたって中国文学の主流となりうる体裁が整えられた。彼らより後に生まれた曹植は、そうした先人たちの成果を吸収し、その表現技法をさらに深化させた。

曹植の詩風は動感あふれるスケールの大きい表現が特徴的である。詠われる内容も、洛陽の貴公子の男伊達を詠う「名都篇」や、勇敢な若武者の様子を詠う「白馬篇」のように勇壮かつ華麗なもの、友人との別離を詠んだ「応氏を送る」二首や、網に捕らわれた雀を少年が救い出すという「野田黄雀行」、異母弟とともに封地へ帰還することを妨害された時に詠った「白馬王彪に贈る」、晩年の封地を転々とさせられる境遇を詠った「吁嗟篇」などのように悲壮感あふれるもの、「喜雨」・「泰山梁甫行」など庶民の喜びや悲しみに目を向けたものなど、先人よりも幅広く多様性に富んでいる。南朝梁の鍾嶸は、『詩品』の中で曹植の詩を最上位の上品に列し、その中でも「陳思の文章に於けるや、人倫の周孔(周公旦・孔子)有るに譬う」と最上級の賛辞を送っている。

なお、彼の最高傑作ともいわれる「洛神の賦」は、曹丕の妃である甄氏への恋慕から作ったという説もあるが[10]、疑わしい。

三国志演義においては、実兄である曹丕の前で詠んだとされる七歩詩が極めて有名である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%A4%8D
23:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/08 (Sun) 10:33:19

【国宝は語るⅢ~(1)洛神賦図】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=iKVb8BvaVHU&list=PLsHyqPzOewQHUCbcyqcpclpMg9aorWkF6

【端午奇妙游】又杀疯了!水下飞天舞《祈》 绝美演绎洛神飞天 Underwater Flying Dance "Pray", a beautiful interpretation of Luoshen - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=jXOU1Z8fh9Y&t=36s

爆火“出圈”!洛神水下绝美飞天,唐宫夜宴一秒梦回大唐......全网直呼:再来亿遍!【中国风舞蹈 Chinese dance】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9zoJGSBeHMM&t=19s


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曹植『洛神の賦』
http://sikaban.web.fc2.com/rakusin.htm

黄初三年、余 京師に朝し、還りて洛川を済る。古人 言える有り、斯の水の神、名は宓妃(ふくひ)というと。宋玉の楚王に対えて神女の事を説けるに感じ、遂に斯の賦を作れり。其の辞に曰く、  

黄初三年、私は朝廷に参内し、帰途洛水を渡った。古人の言い伝えでは、この川の神の名を宓妃というとのことである。私は、かつて宋玉が楚の襄王に神女の事を説いたことに思い起こして、この賦を作った。それは以下の通りである。
 

余 京城従り、言 東藩に帰る。伊闕を背にし、轘轅(かんえん)を越え、通谷を経て、景山に陵る。日は既に西へ傾き、車は殆れ 馬は煩う。爾して迺ち駕を衡皐に税し、駟たちを芝田に秣い、陽林に容与し、洛川を流眄す。是に於て 精 移り 神 駭き、忽焉として思い散ず。俯しては則ち未だ察せざるも、仰ぎて以て観を殊にす。一麗人を巌(いわお)の畔に覩る。迺ち御者を援きて之に告げて曰く、爾は彼の者を覿たること有りや。彼は何人にして此くの若く艶なるや。御者 対えて曰く、臣聞く 河洛の神、名づけて宓妃と曰う。然らば則ち君王の見し所は、迺ち是れ無からんや。其の状 若何、臣 願わくは之を聞かん。余 之に告げて曰く、  

私は都より、東のわが領土に帰ろうとしていた。伊闕をあとにし、轘轅山を越え、通谷を経て、景山に登った。日はすでに西に傾き、車は傷み、馬は疲れた。そこで車を香草繁る沢にとどめ、馬たちに霊芝が生えている場所で飼葉を与え、やなぎの生い茂る林で休息し、洛水を眺めていた。やがて、こころは別世界に誘われ、思いは遥か彼方に飛翔していく。それとなく眺めている間は気付かなかったが、顔を上げて目を凝らせば、ひとりの麗人が巌の傍らに立っていた。そこで私は御者を引きよせ、彼に尋ねた。
「おまえにも彼女が見えるかね。一体何者だろう、あのように美しいお方は」
 御者は答えて言った。
「洛水の神で、宓妃という方がいらっしゃると聞いております。王がご覧になっているのは、その女神ではありませんか。そのご様子はいかがなものでしょう。私にもお聞かせ願いたいものです」
 私は彼にこう告げた―――


【伊闕・轘轅山・通谷・景山】すべて洛陽近くの地名。 【やなぎの生い茂る林】「陽林」は「楊林」が転じて地名となったという。やなぎの群棲地か。「楊」は「柳」とちがって枝が垂れない。


 
其の形や、翩たること驚鴻の若く、婉たること遊寵の若し、秋菊より栄曜き、春松より華やかに茂る。髣髴たること軽雲の月を蔽うが若く、飄颻たること流風の雪を迴らすが若し、遠くして之を望めば、皎 太陽の朝霞より升るが若し、迫りて之を察れば、灼として芙蓉の淥波より出づるが若し。襛繊 衷ばを得、脩短 度に合す。肩は削り成せるが若く、腰は素を如約ねたるが如し、廷びたる頸 秀でたる項、皓き質 呈露す。芳澤 加うる無く、鉛筆 御せず、雲髻 峩峩として、脩眉 聯娟たり。丹脣 外に朗り、皓齒 内に鮮やか、明眸 善く睞し、靨輔 権に承く。瓌姿は豔逸にして、儀は静かに体は閑なり。柔情 綽態、語言に媚あり。奇服 曠世にして、骨像 図に応ず。羅衣の璀粲たるを披り、瑤碧の華琚を珥にし、金翠の首飾りを戴き、明珠を綴りて以て躯を耀かす。遠遊の文履を踐み、霧綃の軽裾を曳き、幽蘭の芳藹たるに微れ、歩みて山隅に踟蹰す。  

その姿かたちは、不意に飛びたつこうのとりのように軽やかで、天翔る竜のようにたおやか。秋の菊よりも明るく輝き、春の松よりも豊かに華やぐ。うす雲が月にかかるようにおぼろで、風に舞い上げられた雪のように変幻自在。遠くから眺めれば、その白く耀く様は、太陽が朝もやの間から昇って来たかと思うし、近付いて見れば、赤く映える蓮の花が緑の波間から現われるようにも見える。肉付きは太からず細からず、背は高からず低からず、肩は巧みに削りとられ、白絹を束ねたような腰つき、長くほっそり伸びたうなじ、その真白な肌は目映いばかり。香ぐわしいあぶらもつけず、おしろいも塗っていない。豊かな髷はうず高く、長い眉は細く弧を描く。朱い唇は外に輝き、白い歯は内に鮮やか。明るい瞳はなまめかしく揺らめき、笑くぽが頬にくっきり浮かぶ。たぐい稀な艶やかさ、立居振舞いのもの静かでしなやかなことこの上ない。なごやかな風情、しっとりした物腰、言葉づかいは愛らしい。この世のものとは思われない珍しい衣服をまとい、その姿は絵の中から抜け出してきたかのよう、きらきらひかる薄絹を身にまとい、美しく彫刻きれた宝玉の耳飾りをつけ、頭上には黄金や翡翠の髪飾り、体には真珠を連ねた飾りがまばゆい光を放つ。足には「遠遊」の刺繍のある履物をはき、透き通る絹のもすそを引きつつ、幽玄な香りを放つ蘭の辺りに見え隠れし、ゆるやかに山の一隅を歩んでいく。


是に於て忽焉として体を縱にし、以て遨び以て嬉しむ。左は采旄に倚り、右は桂旗に蔭る。皓腕を神滸に攘げ、湍瀬の玄芝を采る。余が情 其の淑美を悦ぶも、心 振蕩して怡ず。良媒の以て懽を接うる無く、微波に託して辞を通ぜん。誠素の先ず達せんことを願い、玉佩を解きて以て之を要す。嗟 佳人の信に脩き、羌 礼に習いて詩に明らかなり。瓊珶を抗げて 以て予に和し、潜淵を指して期と為す。眷眷たる款実を執るも、斯の霊の我を欺かんことを懼れ、交甫の言を棄つるに感じ、悵として猶予して狐疑す。和顔を収めて志を静め、礼防を申べて以て自らを持す。  


やがて突然、身も軽やかに遊びたわむれる。左に色どりある旗に寄り添ったかと思えば、右に桂の竿の旗に身を隠す。神のおわします汀(みぎわ)で白い腕を露わにし、たぎる早瀬の玄(くろ)い霊芝を摘む。私の心は その滑らかな美しさに惹かれつつ、胸は不安に高鳴って落ち着かない。ここには私の想いを伝える適当な仲人がいないから、せめて小波(さざなみ)に託して この気持ちを届けよう。何より私の真心が彼女に伝わるように。この身におびた玉を解いて、心の証としよう。 ああ、佳人のなんとすばらしいこと、奥ゆかしくも礼儀をたしなみ、詩の道にも明るい。美しい玉をかざして、私にこたえ、深い淵を指さして誓いをたててくれた。私は切々たる慕情を抱いているが、一方で、この女神が欺くのではないかと不安を覚えた。鄭交甫が女神から約束を反故にされた話を思い出し、心は沈み、疑いは晴れずためらう。そこで表情を改めて、心を平静にし、礼法に従って自らを保った。


【私の真心が彼女に伝わる】原文「誠素之先達」。女神のモデルが甄氏だとする説では、この部分を、曹丕に先んじて甄氏を妻としたいという願望だと解する。ここでは一応、そういう欲求や俗っぽい気持ちは後回しにして、とにかく自分の純粋な愛情が伝わって欲しいという意味に解してみた。 

【鄭交甫が女神から約束を反故にされた話】鄭交甫は、漢水のほとりで江妃二女(長江の女神)と言葉を交わし、佩玉を貰い受けたが、数十歩あるいたところで懐の佩玉は消え失せ、女神の姿も見えなくなった(『列仙伝』)。 

 
是に於いて洛の霊は焉に感じ、徙倚傍徨し、神光は離合し、乍ち陰く乍ち陽し。軽躯を竦げて以て鶴のごとく立ち、将に飛ばんとして未だ翔けざるが若し。椒塗の郁烈たるを踏み、衡薄に歩みて芳を流す。超えて長吟して永く慕い、声は哀しく厲しくして弥いよ長し。爾して迺ち衆霊は雑遝して、儔に命じ侶に嘯く。或いは清流に戯れ、或いは神渚に翔けり、或いは明珠を采り、或いは翠羽を拾う。南湘の二妃を従え、漢浜の游女を攜う。匏瓜(ほうか)の匹無きを歎き、牽牛の独り処るを詠す。軽袿の猗靡たるを揚げ、脩袖を翳して延佇す。体は飛びたつ鳧より迅く、飄忽なること神の若し。波を陵ぎて微かに歩めば、羅韈 塵を生ず。動くに常則無く、危きが若く安きが若し。進止 期し難く、往くが若く還るが若し。転じて眄れば精を流し、玉顏を光潤にす。辞を含みて未だ吐かず、気は幽蘭の若し。華容 婀娜として、我をして餐を忘れしむ。  

すると洛水の女神は、私の態度に感じ入り、立ち去る様子もなく辺りをさまよう。その神神しい光は、姿が見え隠れするにつれ、時に暗く、時に明るく変化する。軽やかな体を伸ばして、鶴のように爪先立ち、まるで今にも飛びたとうとしてとどまっているかのよう。山椒のしげる道を歩けば、馥郁(ふくいく)たる香りが生じ、香り草の群れる草原を行けば、芳香が辺りに漂う。悲しげに長く尾を引く彼女の歌声は、永久の想いへと誘(いざな)い、哀調にみちた声はいつまでも続く。そのうちに神々はつどい集まり、互いに仲間を呼びあって、滑らかな流れに戯れたり、聖なる渚に飛び翔って、真珠を採ったり翡翠の羽を拾ったりしている。はるか湘水より、二人の妃が馳せ参じ、漢水に遊ぶ女神と手を取り合う。私を天に一人かかる匏瓜星のようだと嘆かれ、牽牛星のように孤独だと歌われる。女神は風にそよぐ軽やかな打掛けを翻し、長い袖をかざして、こちらをじっと見つめる。体は飛びたつ鴨よりも素早く、さながら神霊にふさわしくふわふわととらえどころがない。波を踏んでゆるやかに歩めば、薄絹の足下より塵が立ちのぼる。動作にはまるで筋道がなく、崩れそうであり、また揺るぎ無いようでもある。いつ進み、いつ止まるとも予期できない。去って往くようでもあり、戻って来るようでもある。流し目すれば、強烈な光を生じ、玉のような顔は艶やかさを増し、唇はもの言いたげ、息づかいは幽蘭のように芳しい。美しくしなやかなその姿は、食事することさえ忘れさせるほどだ。


【牽牛星のように孤独】「牽牛」はわし座のアルタイル。「織女(琴座のヴェガ)」とは銀河の両側に離れていて、7月7日に会えるだけ。 



是に於いて屏翳は風を収め、川后は波を静む。馮夷は鼓を鳴らし、女媧は清歌す。文魚を騰げて乗を警め、玉鸞を鳴らして偕に逝く。六龍 儼として其れ首を斉しくし、雲車の容裔たるに載る。鯨鯢 踊りて轂を夾み、水禽 翔りて衛を為す。是に於いて北沚を越え 南岡を過ぎ、素領を紆し 清揚を迴し、朱脣を動かして徐に言い、交接の大綱を陳ぶ。人神の道の殊なるを恨み、盛年の当る莫きを怨む。羅袂を抗げて涕を掩い、涙 襟に流れて浪浪たり。良会の永く絶ゆるを悼み、一たび逝きて郷を異にするを哀しむ。「微情以て愛を効す無ければ、江南の明璫を献ぜん。太陰に潜み処ると雖も、長く心を君王に寄す」と。忽ち其の舎まる所を悟らかにせず、悵として神 宵くして光を蔽いぬ。  


ここにおいて、風の神は風をおさめ、川の神は波を静めた。憑夷は鼓をうち、女媧(じょか)は高くすんだ声で歌う、文魚は飛びあがって先駈けをつとめ、車は玉の鈴を鳴らしながら、一斉に発進する。六頭の竜は厳かに首をもたげ、女神の雲の車をゆるやかに引く、鯨は躍りあがって左右を守り、水鳥は天翔けて護衛する。 ついに北の中洲を越え、南の丘を過ぎると、女神は白いうなじを巡らし、すずやかな瞳を振り向け、朱い唇を動かし、静かに男女の定めを説いた。そして、悲しいかな人と神の道は交わることなく、供に幸せな時間を過ごすことは許されないと嘆くと、薄絹の袖をあげて咽(むせ)び泣き、涙ははらはらと襟にこぼれ落ちる。これから先は逢瀬の途絶えてしまうことを悲しみ、ひとたびここを去れば、住む世界を異にすることを哀しんだ。
「これより先は、ささやかな愛の言葉も語れません。今、江南の真珠の耳玉をさし上げましょう。たとえ、鬼神の住む世界に隠れる身となっても、いつまでも君を想っています」
 そう言い残すと、女神の姿は見えなくなり、悲しくも幽暗のうちに、その光芒を沈めてしまった。


【憑夷】水神の名、河伯のこと。『清冷伝』に、「憑夷は華陰潼郷隄首の人なり。八石を服して水仙たるを得たり。これを河伯と為す」 

【女媧】上古の女帝、媧皇ともいう。(『礼記』「明堂位」) 



是に於いて下きを背にし高きに陵れば、足は往くも神は留まる。情を遺して想像やり、顧み望みて愁いを懐く。霊体の復形冀い、軽舟を御して上遡り、長川に浮かびて反るを忘れ、思いは緜緜として慕うを増す。夜 耿耿として寐られず、繁霜に霑れて曙に至る。僕夫に命じて駕に就かしめ、吾 将に東路へ帰らんとす。騑の轡を攬りて策を抗げ、悵として盤桓として去ること能わず。  


かくして私は、低い水辺をあとにし、高みへ登っていく。足は進むが、心はあとに残る。募る想いは押さえ切れず、女神の姿を思い描き、何度も振り返ってみては、また愁いに閉ざされる。再び女神が現れてくれることを願いながら、小舟をあやつり、流れを溯り、どこまでも漕いで行き、帰ることさえ忘れてるほどに、恋い慕う気持ちはますます募り、夜がふけても心は休まらない。いつまでも寝付けないまま、気がつくと激しい霜に身を濡らし、いつの間にか朝を迎えていた。私は御者に命じて車の準備をさせ、ついに東への帰路に旅立とうと心に決めた。そこで副え馬の手綱を取り、鞭をくれようと手をあげたが、胸がふさがって思い切りがつかず、いつまでも立ち去ることが出来ずにいた。

【流れを溯り】『詩経』「秦風 蒹葭(けんか)」に、「蒹葭 采采たり、白露 未だ巳まず。謂(おも)う所 伊(か)の人、水の一方に在り。遡迴して之に従わんとすれば、道阻(けわ)しく且つ長し。遡游して之に従わんとすれば、宛(さなが)ら水の中央に在り」とある。


▲△▽▼


 【『洛神賦』】この作品の制作動機については、古来有名な説がある。

『文選』李善注が引く『感甄記』によると、この洛水の女神のモデルは兄曹丕の妻甄氏であるという。 甄氏(182~221)は、曹操と対立していた袁紹の次男袁熙の妻だった。しかし、袁氏の本拠地鄴を落とした時、曹丕が自分の妻にした。この時、曹植も彼女を妻にと望んだが、結局叶えられなかった。 時は流れて、甄氏は曹丕の寵愛が衰えたため、不幸にも死を賜わった。

甄氏の死後、曹植が洛陽に参内したところ、文帝は、甄氏の枕を取り出し、それを弟に与え、曹植はそれを見て涙を流した。その帰途、曹植が洛水にさしかかった時、甄氏の幻影が現われ、彼女も本当は曹植を愛していたと伝えた。甄氏の姿が消えた後、曹植は感極まって、この賦を作ったという。

よって、この賦のタイトルは、最初『感甄賦』だったが、明帝(曹丕と甄氏の息子)の目に触れるところとなり『洛神賦』に改められた―――。

しかし、多くの学者が、この話は悲劇の美女・甄氏と悲劇の王子・曹植への同情からうまれた後世の人の附会だろうとしている。理由として、時代が新しい書物にしかこの手の記述がないこと、あまりに話が俗っぽいこと、また二人の年齢差(曹植は10歳年下)があげられる。

この説は広く流布していたらしく、晩唐の詩人 李商隠(813~858)は、その作品の中で「宓妃 枕を留めて 魏王は才有り」とよんだ。 もう一つの説は、女神=文帝説。女神への愛情とだぶらせて、兄に対する変わらぬ思慕を伝えようとしたらしい。が、こちらも根拠があるわけではない。それに「女神=曹丕」にしては、女神の身体描写が執拗に過ぎる気がしないでもない。

「モデルが誰か」問題とともに、制作年代も諸説ある。序によると、黄初3年(222年)、洛陽から鄄城への帰途、洛水を渡って作ったことになっているが、序は本人のものではないという説もあり、本文の内容から明らかになることは、曹植が王に格上げされて(222年4月)以降で、洛陽に入朝した帰路で作られたということになる。これは『三国志』によると、223年の洛陽入りしか記録がないが、史書から漏れているだけで、曹植は222年にも参内した(王に封じられたことに感謝するため)という説がある。しかし222年は、文帝がほとんど洛陽にいないから、洛陽で朝見した事実はないだろう。仮に史書の記録を優先して223年に作られたとすると、223年6月に伊水と洛水が氾濫して、流域で家屋が流され、多くの人民が犠牲になるという天災にみまわれており、洛水に溺死したとされる宓妃の悲恋を賦したのは、それと何らかの関連があるかもしれない。

まあでも、動機がなんであれ、モデルが誰であれ、洛神賦が名作であることに変わりはない。

→女神モデルに関する管理人の個人的意見はこちら。
 http://sikaban.web.fc2.com/megami.htm


【洛水】洛陽の南を流れる川。黄河に流れこむ。洛陽は、この洛水の北(=陽)に位置することから、この名が付けられた。 【宓妃】洛水の女神。「宓妃は宓(あるいは伏)義氏(=古代の伝説上の皇帝)の女(むすめ)にして、洛水に溺死して神となる」(『文選』李善注)。「宓妃」は、古いものでは『楚辞』「 離騒」に登場する。それ以降、曹植がこの賦を作る以前にも、揚雄『甘泉賦』、蔡邕『述行賦』などに登場する。 【神女の事】宋玉(紀元前290?~222)の『高唐の賦』『神女の賦』を指す。『高唐の賦』は楚の襄王に向かって、先王が巫山の女神と夢でちぎった話をして、高唐のさまを語り聞かせ、『神女の賦』は、その夜、楚の襄王が夢の中で邂逅した神女の様子を賦したという構成になっている。ただし、この作品の女神は「宓妃」ではない。また、陳琳・王粲・楊脩にも『神女賦』(『芸文類聚』「巻79 霊異部 神」)がある。
http://sikaban.web.fc2.com/rakusin.htm



『洛神賦』~女神モデルを巡る一考察~
http://sikaban.web.fc2.com/megami.htm

 『洛神賦』は曹植作品の中でもとりわけ名作である。にもかかわらず、過去において、作品の素晴らしさより、ともすれば誰が女神のモデルかということが熱心に議論されてきた。ある意味不幸な作品である。だから、ここでは「モデルが誰か」問題を論じるのではなく、その作品の魅力について語ってみよう!……というわけではなくて、やはり「女神モデルが誰か」という不毛な議論に突入することになる。すみません。


ひととおり、基礎知識は本編解説で確認していただくとして→『洛神賦』を読む  


 そもそも、なぜ「モデルが誰か」が問題になるのかというと、曹植の描き出す女神は非常に美しく、何とも言えないリアリティが漂っているからである。だからこそ「これには誰か現実のモデルがいるはずだ!」という憶測が生まれ、「甄氏説」が登場し、さらにそれを否定する形で「文帝説」が出てきたのではないかと思う。
 『洛神賦』の序によると、曹植は宋玉の『神女賦』に影響を受けてこの賦を作ったことになっている。また王粲・陳琳・楊脩にも『神女賦』が残っており、彼らも同様に宋玉の作品に影響を受けて作ったと思われる。しかし、曹植が『洛神賦』を作ったとき、すでに王粲らは亡くなっており、曹植はひとり別のタイミングでこの賦を作ったようだ。
 ところで、宋玉『神女賦』に登場する女神は、「洛水の女神」ではない。王粲・陳琳・楊脩の『神女賦』に登場する女神は、作品が断片しか残っていないため特定不能だが、少なくとも「洛水の女神」であると思われるような記述はない。ならば、なぜ曹植は「洛水の女神」を邂逅相手に選んだのか。


 例えば「文帝説」なら、魏は洛陽に都を作ったのだし、洛水にゆかりの女神を選んでも不思議はない。一方、「甄氏説」では、洛水に関連のない甄氏がモデルというのがどうも納得しがたい。甄氏は魏が洛陽を都とした後も、洛陽には連れて来られず、最後は鄴で死を迎えている。
 「文帝説」だと内容も説明しやすい。曹植と曹丕は、兄弟であっても簡単に会えない状況にあった。しかも、曹丕やその周辺の人物から、後継者の座を争った曹植が猜疑の目で見られているのは確実だった。そこで、女神への思慕に託し、兄へ変わらぬ忠誠を誓ったのだ、と。
 ただ一つ疑問なのは、曹植→女神の思慕は曹植→文帝の忠誠と重ねても構わないだろうが、女神→曹植も、同様に深い思慕を抱いている点である。要するに、女神と曹植は相思相愛なのである。理由がどうであれ、身内を迫害した文帝と曹植が相思相愛と言えるだろうか?
 いや、相思相愛は曹植の願望だという解釈もできるし、曹丕は曹植を庇えるだけ庇ったのだという美しい兄弟愛と解釈すれば、それが成り立たなくもない。通常、後継争いに敗れた場合、「殺される」か「亡命する」の二者択一しかないのだが、結局、曹丕は曹植を殺さず、曹植も亡命のお誘い(=蜀が出した227年3月の詔など)はあっても、それに乗ろうとはしなかった。
 ただ、そうだとしても、兄の弟に対する気持ちは、「たとえ、鬼神の住む世界に隠れる身となっても、いつまでも君を想っています」という境地ではない。さらに言えば、この一文からも窺えるように、もしモデルがいるなら、やはりその人はすでに死んでいる方が納得できるのである。「甄氏説」が優勢だったのも、甄氏がこの賦の製作時点ですでに悲劇的な死を迎えていたという点が、よりストーリーと寄り添う形であったことが大きいのではないだろうか。そういう点からも、賦の制作当時、まだ存命だった文帝ではモデルとして弱いのではないかと思う。
 また、女神=甄氏と考えた場合であれば、その真意を隠すため、宓妃への恋心に置き換える必要があるだろうが、文帝に対する忠誠なら、ストレートに伝えたって何の問題もない。実際、曹植は兄に対して、服従する旨の上奏や献詩を行っていて、わざわざ宓妃を持ち出し、むしろ誤解を受けるかもしれないような曖昧な描写をする必要はない。
 さらに、『洛神賦』には、女神が自分を欺くのではないかと疑う描写がある。私の直感でしかないけれど、曹植という人は、兄弟に対してそういう描き方をする人ではないように思う。曹植の身内に対する愛情は絶対的なもので、だからこそ美しい。そういうちょっと浮世離れしてるんじゃないかと思わせるほどの感覚が、曹植の作品を普通の人の作品とは別次元のものにしているのだと思う。


 というわけで、私はここまで、現在よく知られている2説を否定してきた。どちらにもこれといった決定打がなく、以前からなんとなく「どちらも違うのでは?」という気持ちがあった。しかし、『洛神賦』には、誰かモデルがいるのではないかと思わせる何かがある。そこで、私は別のモデルがいるのではないかと考えた。洛水に関係があり、曹植と相思相愛で、すでに死んだ人―――というと、私には楊脩しか浮かんでこなかった。


 楊脩は弘農華陰の人である。華陰は華山の北という意味で、長安と洛陽の間に位置する。洛水もまた華山を源流とし、洛陽付近で黄河と合流する川であり、弘農華陰出身の楊脩は、当然洛水を訪れたことがあったと思われる。しかし、彼の一族は後漢の高官を多く出しているため、生活拠点は弘農華陰ではなく首都洛陽であった可能性が高い。楊脩が洛陽で暮らしていた場合、それこそ洛水は常に目の前にある身近な存在ということになる。
 『洛神賦』で、曹植は「陽林」でくつろいでいる時、洛水に女神を見た。「陽林」は「楊林」と作るテキストもあり、李善注に「陽林,一作楊林,地名,生多楊,因名之。」とあるように、そこは文字通りやなぎの群生地であった。そして、楊はもちろん楊脩の姓でもある。だから、女神=楊脩と考えた場合、たとえば陽林=楊林=ヤナギの林=楊氏一族の墓地という隠喩で、曹植はそこで楊脩の亡霊に会ったという物語を連想することもできるかもしれない。
 楊氏一族の墓地は、おそらく洛陽の北東に位置する芒山にあった。後漢~三国時代にかけて、多くの皇族や大臣たちがこの山に葬られた。楊脩の家も後漢の高官を輩出する家柄であるため、芒山に代々に葬られていたと思われる。
 芒山は地形的に言うと、黄河とその支流である洛河(=洛水)に挟まれた場所にあり、山腹から洛水を眺めることができる。まさに曹植が描写する陽林にぴったりのロケーションである。現在、楊脩の墓は華陰市と勉県にあるが、『三国志集解』には『太平寰宇記』巻三からの引用で、「洛陽芒山有楊修冢(洛陽の芒山に楊修の墓がある)」と書かれており、楊脩の墓もまた洛水を望む芒山にあったとされている。つまり、楊脩の墓参り(=陽林)に行った曹植が、洛水を眺めているとき、楊脩の亡霊(=女神)に会うという連想が可能ではないだろうか。


 しかし、女神=楊脩の場合、ひとつ問題がある。それは『洛神賦』にしばしば登場する「脩」の文字である。
 この文字が『洛神賦』には4回出てくる。「脩」は楊脩の諱であるから、女神=楊脩である場合、その諱を連呼するのは失礼にあたるから使用を避けるのではないか…という疑問がわいてくる。
 実は、曹植が『洛神賦』を制作するきっかけとしている宋玉『神女賦』には、「脩」の字が使われていない。一方、曹植の『洛神賦』は、作品中に「脩」の字を多用している。そのほとんどは「脩=長い」という意味で使っているが、一か所、「佳人之信脩(佳人のなんとすばらしいこと)」という使い方をしている。いくら人柄を讃える文章であるとはいえ、諱そのものはまずい気がする。
 ただ、楊脩の諱は、「脩」と「修」の2説がある。同様に、曹植の作った『洛神賦』も「脩」の文字で伝わっているものと「修」と書かれたものがあり、曹植がどちらの文字を使っていたか定かではない。諸橋大漢和は、「脩の本義はほじし(=干し肉)、修の本義はおさめととのえるで、二者、異なっているが、經傳には両字通用して区別しない。」とあり、つまり「修」=「脩」であり、置き換え可能な文字である。だから、曹植は諱を連呼する必要はなく、ヨウシュウの諱が「修」であれば「脩」の字で、「脩」であれば「修」の文字で、とりあえず失礼を避けることができる。曹植はその逃げ道を使って、あえてこの「脩(または修)」の文字を繰り返し使い、本当の制作の意図をこの作品に刻み込んだのではないだろうか。


 『洛神賦』の中で、人間である曹植と、神である洛神は、決して結ばれない運命にあった。それは曹植と楊脩に当てはめると、この時点ですでに死者と生者であったという意味でもそうだし、後漢から帝位を奪おうとする曹操の息子である曹植と、四世太尉を輩出した後漢の名門出身の楊脩の立場にも重なる。楊脩の父・楊彪は、かつて政治的に曹操と対立し、投獄され、いつ殺されてもおかしくない状態になったことがある。なんとか殺されずにすんだが、すでに後漢の命運が尽きたと判断した楊彪は、曹操に仕えることを潔しとせず、政界から身を引いた。また、かつて曹操も、楊彪に殺されるのではないかという危惧をいだいた事があり、親同士は「殺るか殺られるか」の殺伐とした関係だったことがわかる。
 楊脩がなぜ曹植と親しく付き合ったのか、その真意は分からないが、少なくとも曹植の方は、楊脩という人をかけがえのない大切な人だと思っていた。その気分は『與楊徳祖書』で十分語られているし、『柳頌序』で曹植は楊脩のことを「友人楊徳祖」と記し、彼は無実の罪をかけられていると思っていたようである。これは「序」のみで本文が伝わらないが、蘇彦によると、その本文は「辞義慷慨、旨在其中」(芸文89)であったとされる。
※『藝文類聚』巻89「木部下 女貞」では、タイトルが『楊柳頌』となっている。『楊柳頌』と『柳頌』の2作品があったと考えることも可能だが、おそらく同じ作品ではないかと思う。


 楊脩は、曹丕が世継ぎに決まった後、曹操によって殺された。曹操の目に、曹植と楊脩の関係は、今後のために危険だと映っていたのだろうか。それでも、曹植派として族滅させられた丁兄弟とは違って、楊脩の一族や子供は巻き添えを食わなかった。それどころか、曹操は、申し訳ないが貴方の息子を殺すしかなかったという言い訳めいた手紙(『與太尉楊彪書』)まで楊彪(楊脩の父)に書き送っている。遺体も、おそらく丁重に楊彪の元へ送り届けられたことだろう。そして、曹植が『洛神賦』を作った時期では、すでに芒山に葬られていたと思われる。
 洛水の女神は「永遠に君を想う」と伝えて、姿を隠してしまう。楊脩は「自分は死ぬのが遅かったと思っている」という言葉を残し、曹操に処刑され、曹植の目の前から姿を消した。


 曹植にとって、楊脩はすでに「住む世界を異にして」いて、再び会うことは叶わない存在になっていた。楊脩が曹植とつきあい続けたのは、何らかの目的があったのか、純粋な友情からなのかはわからない。また「死ぬのが遅かった」という言葉の真意もよくわからない。しかし、最後は罪に問われ、父に処刑されるという形であった以上、曹植は楊脩のために誄を書くことも許されなかっただろう。だから、誄は書けないけれど、人にはそれとはっきりわからない形で、楊脩に捧げる文章を作りたい、そう思って、曹植は『洛神賦』を作ったのではないだろうか。
 また、女神=楊脩であるなら、『洛神賦』は単なる誄以上の意味があったのではないかと思う。曹植は、『柳頌序』でも書いていたように、楊脩が冤罪で殺されたのだと理解していた。それなら、この『洛神賦』は、ただ楊脩への哀悼文であるだけではなく、当時の権力を握っている人々に対する批判の意味もあっただろう。だからこそ、曹植はモデルを誰とも明かさず、口にすることが許されない公への不満を、女神への思慕という甘いベールで包み、今は亡き楊脩のため、天に訴えたのではないだろうか。


 古来、洛水の女神へ賛辞は、美しい嫂(あによめ)へ捧げられたのではないかと疑われてきた。しかし、仮に絶世の美女・甄氏を彷彿とさせる美女の鮮やかな描写が、「本当の目的」を曇らせるための修辞だとしたら、人々は曹植の華麗な詞藻に躍らされていたことになる。 
 女神が消えた後、『洛神賦』の主人公は再び女神の姿を探す。しかし、再会の願いは叶わず、進むことも戻ることも出来ず、最後に立ち尽くし、この物語は終わっていく。曹植はこの最後の段を、宋玉の『神女の賦』と似た表現や展開を使いながら、より丁寧に描いている。誰かを失うその悲しみの表現は、「物語の中の話」と済ませるにはあまりにリアルでせつない。まさにこのリアルな感情こそが、『洛神賦』の魅力であり、女神モデルを多くの人が探さずにはいられなかった理由でもある。もちろん『洛神賦』は作品として美しく、そこに寓意などなくても十二分に成立している。それでも、これからも女神モデルについて考える人は後を絶たないのだろう。

http://sikaban.web.fc2.com/megami.htm
24:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/09 (Mon) 17:32:42

【ゆっくり解説】三国時代の食事!主食やおかず、武将はどんなお酒を飲んでいたの?
2023/01/07
https://www.youtube.com/watch?v=4uxTMKgV5DE

目次
00:00 三国時代の食事
01:10 中国の歴史
   ・魏/呉/蜀
   ・黄巾の乱/赤壁の戦い
06:52 三国時代の食事
08:52 主食とおかず
   ・米以外のものも
   ・肉も今とかわらない調理法だった
   ・点心も?
11:12 どんなお酒を飲んでいたの?
   ・にごり酒
12:12 あのデザートは三国時代生まれ!?
25:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/15 (Sun) 07:11:22

あげおお
26:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/18 (Wed) 13:46:22


2017年12月07日
時代は違うがどちらが強い?! 最強といわれた呂布と項羽
https://sangokushirs.com/articles/364

後漢末期の三国志最強の武将といえば、呂布(奉先)が真っ先に挙がることでしょう。史実や演義でも無類の武力を誇り、曹操(孟徳)や劉備(玄徳)といった他陣営から恐れられていました。一方、史記に登場する項羽も呂布と並んで最強武将として君臨しています。この両者、どちらが最強なのでしょうか。


飛将・呂布の凄さ
呂布(奉先)は後漢末期の并州を収めていた実力者の丁原に仕えていました。朝廷が宦官の十常侍によって腐敗し、憤った大将軍の何進は丁原と共謀して宦官抹殺を目論見ました。天下の諸侯を終結させて重圧をかけた何進でしたが、逆に暗殺されると都は混乱し、十常侍も袁紹(本初)らによって斬首されています。

都の混乱を突いて反旗を翻したのが涼州の将軍だった董卓(仲穎)です。董卓は丁原の軍勢を手にしようと、丁原の暗殺を謀ります。しかし、護衛には呂布が付いており、暗殺者たちは呂布に簡単に斬られてしまいました。呂布の実力に恐れを抱いた董卓は、金品を送り、呂布を懐柔します。呂布は丁原の首を取り、董卓に寝返ります。丁原の兵は呂布の強さを知っているので、誰ひとり逆らえず、董卓軍に吸収されています。

暴虐の限りを尽くした董卓の元で護衛をしながら、反董卓連合軍の曹操(孟徳)を散々に打ち破るなど活躍し、その後は王允と手を組んで董卓を暗殺しています。権力を手中にした残虐な主君を誅するのは並大抵のことではなく、あっさりとやってのける呂布は神経もタフといえるでしょう。

呂布は剣術に優れているだけでなく、腕力も常人よりも強くて、馬術や弓の腕前も一流でした。
■ 一騎当千の呂布
呂布は董卓軍の残党に敗れてしまい、しばらく放浪します。袁紹(本初)の元へいくと、冀州で黒山賊といわれる山賊が大軍を以って暴れまわっていました。袁紹は呂布を受け入れて黒山賊の討伐を命じます。呂布はわずか数十騎で1万を誇る賊を相手に突撃を繰り返し、一気に蹴散らしていきます。赤兎馬にまたがった呂布の凄まじい活躍は賊を恐れさせ、その一騎当千ぶりに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞されるようになりました。呂布は袁紹に兵の補充を求めますが、袁紹は呂布の凄まじさに自分では扱いきれないと悟り、逆に暗殺を決意します。当然ながら呂布に通用するわけもなく、袁紹は門を閉じて呂布を避けるようになりました。

■ 部下の諌言を聞かず、曹操に敗れる
以降の呂布は曹操(孟徳)や劉備(玄徳)の軍勢を破り、一時曹操を壊滅まで追い込みます。しかし、呂布は短気で配下の進言も聞かず、次第に勢いを取り戻した曹操(孟徳)によって捕縛されてしまいます。この戦いの決め手となったのは、陳宮や高順といった配下の進言を却下し続けた呂布と、荀攸や郭嘉らの策略を聞き入れて実行した曹操(孟徳)の君主としての差が大きな命運を分けました。

天下に名が届いた項羽

呂布の活躍した時代から遡ること約400年、秦が天下統一を果たした時代がありました。始皇帝の圧政に苦しみ、各地で反乱が起きており、項羽(項籍・字が羽となるが、一般的な通称は項羽)は叔父の項梁とともに挙兵します。項羽は春秋・戦国時代の大国である楚の大将軍・項燕の孫であり、由緒正しき血筋といえました。

項羽は身長2mを超え、腕力はけた外れに強く、周囲からも畏怖の目で見られていました。項羽と項梁は2人だけで会稽郡の役所に乗り込み、項羽が一人で数十人を相手に立ち回り、全員を倒したので、会稽の人々はみな恐れて従うようになりました。

太守の座を奪った項梁は連戦連勝を重ねて、周囲の反乱軍も吸収し、大軍を束ねるようになっていきます。しかし、次第に慢心するようになり、配下の諌めも聞かず、秦軍の有能な将軍である章邯相手に奇襲攻撃を受けて戦死してしまいます。叔父を失った項羽でしたが、自身が後継者となって大軍を引き入れず、楚に仕えていて項梁の側近をしていた宗義が総大将となります。
■ 軍の実権を握る
項羽は参謀の范増に促され、宗義を斬首し、軍の実権を掌握します。元々項梁の甥であり、実力もある項羽に逆らえるものはいませんでした。項羽は大軍を以って秦軍を相手に連戦連勝を重ねていきます。秦の都である咸陽を目指していた項羽は、道中で叔父の仇である章邯の軍と対峙します。秦は20万の軍勢を誇りますが、項羽は短期決戦を目論んで、兵士に3日分の食糧しか持たせず、決死の覚悟で戦いを挑みます。自ら先陣を切った項羽は多くの将兵を蹴散らしていき、遂に章邯を降伏させました。

通常であれば勝ち目はありませんが、秦は始皇帝もすでに亡き、実権を握っていた宦官の趙高によって朝廷は腐敗しており、援軍も見込めない状況が追い風となりました。
■ 残虐な一面を見せる項羽
項羽は降伏してきた名将の章邯と副将の2人を帰順させますが、投降してきた20万にも及ぶ兵士たちは反乱の恐れがあることから、すべて生き埋めにしてしまいました。この残虐といえる行為は後に秦の人々の恨みを買うことになり、周辺の敵城も降伏しても殺されることが分かったことから、決死の抵抗を見せていくようになってしまいます。

これは短気な項羽にとって、一度でも反抗したら見せしめの為に城内皆殺しをするという決断を迫られることにつながっていきます。

劉邦との対決

時を同じくして、別ルートで咸陽を目指している別働隊に劉邦(李)がいました。後の高祖で天下統一し前漢を作り上げましたが、当時は項羽よりも低い身分でした。それでも人望があり、人の進言をよく聞き、降伏してきた将兵は無条件で許すという懐の深さを見せており、敵味方ともに人気が集まりました。劉邦に降伏すれば命は助かるということで、競って帰順しており、項羽よりも圧倒的に速く咸陽に到達して秦を降伏させました。

激怒した項羽は劉邦を攻めようとしますが、もう一人の叔父である項伯や劉邦の配下に止められています。劉邦は未開の僻地に追いやられますが、そこで勢力を蓄えて咸陽を再度奪取し、項羽との決戦に備えるようになります。
■ 人を使いこなせない項羽
項羽はその並外れた武力と時折みせる思いやりで部下を魅了していきますが、短気な側面を一度出してしまうと、子どものように感情に身を任せてしまい、配下を殺したり、暴力を奮ったりしてしまいました。その中には劉邦の大元帥として軍事力を束ねた韓信、計略を以って項羽を倒すことに貢献する陳平、さらに長年貢献してきた范増にまでおよびました。范増は陳平や張良(子房)の策略によって離間させられてしまい、項羽の元を去っていきます。

項羽を唯一諌めることができたのが年長者の范増でしたが、それも叶わず、項羽はどんどん短気な側面が滲みでてしまい、多くの将兵を失ってしまいます。それでも自身が戦いにでれば劉邦軍を相手にせず、連戦連勝を重ねていきます。しかし、韓信は独自の別働隊を率いて項羽の周辺国を攻略していき、項羽を孤立させる戦略をとっていました。劉邦は何度も項羽に敗れていますが、韓信が別働隊を引き入れたのも、劉邦が中央で項羽を引きつけておいたことが要因としてあります。

結果、韓信軍と合流した劉邦軍と周辺の諸侯らによって、四面楚歌となった項羽はたった一度の敗戦によって追い詰められ、自害することになってしまいます。

まとめ
呂布や項羽に共通しているのは、 その武力を頼りにして配下の諫言を聞かず、逆に配下を上手に使いこなした曹操(孟徳)や劉邦(李)に敗れ去りました。裏切りや生き埋めなど人道的に問題ある行為があり、人心が失っていったことも要因にあるでしょう。腕力や馬術などはともにその時代の天下最強を誇り、多くの将兵から恐れられたことは間違いありませんので、やはり痛み分けといった感じになりそうですね。
https://sangokushirs.com/articles/364
27:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/22 (Sun) 04:13:01

あげcc
28:777 :

2023/07/08 (Sat) 13:22:11

「呉下の阿蒙」という話がある。三国時代の呉の国に呂蒙という将軍がいた。勇猛な武人であったが、惜しいかな学問がない。主君の孫権が「将軍に学問があれば」と嘆じたのに発奮して、呂蒙はそれから学問に励んだ。しばらくしてのちに同僚の魯粛が久しぶりに呂蒙に会ってみると、その学問の深さ見識の広さはかつての彼とは別人であった。魯粛は「君はとてもかつて『呉下の阿蒙』と呼ばれていた人とは思えない」と驚嘆した。これに対して呂蒙は「士別れて三日、すなわちさらに刮目して相待すべし」と答えた。士たるものは三日会わないでいると別人になっているぞ、と。
 私が子どもの頃には時々この話をする年長者がいたが、 ある時期からいなくなった。単に漢籍の知識を重んずる風が失われたということではなく、人間が知的に成長するというのは「別人になること」だという知見そのものが失われたためだと思う。
 知的成長ということを現代人はたぶん「知識の量的増大」というふうに考えている。人間としては何も変わっていないのだが、脳内の情報ストックが増えている状態を「成長」と呼び習わしている。だから、何日経って会おうともとりわけ「刮目する」必要はない。「入れ物(コンテナ)」は同一で、「中身(コンテンツ)」が増加しているだけだからだ。
 でも、それは「学び」とは違う。学びというのは「入れ物」自体が変わることだからである。「刮目」してまみえないと同一性が確信できないほどに人間が変わることだからである。学びが深まれば、話す内容が変わるにとどまらず、表情も、声も、挙措も、着付けも、すべてが変わる。
 呂蒙将軍は学びを深めたあともおそらく以前と変わらぬ卓越した武人であっただろう。けれども、その戦い方は歴史的知見に裏づけられ、人間性についての洞察に満ちたものに変わっていたはずである。単に武勇に学識が算術的に加算されたのではない。武勇のあり方そのものが変わったのである。戦術は奥行きと厚みを増し、用兵は縦横無尽のものとなり、ただ一言で兵たちの人心を掌握するカリスマ性を身に付けた。そうでなければ「刮目する」には値しない。だが、いま「学び」という語に、私たちはそこまでの全面的な人間の刷新を期待していない。
http://blog.tatsuru.com/2023/07/07_1207.html
29:777 :

2023/10/03 (Tue) 17:37:15

【三国志】中国大陸はなぜ3つに分かれた?激動の古代中国史を徹底解説!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14150173
30:777 :

2023/11/19 (Sun) 14:49:13

【ゆっくり解説】三国志最強の国の残酷すぎる結末 |魏の滅亡の歴史
三国志のヒストリア
2023/07/23
https://www.youtube.com/watch?v=hi2eDTlOZqI

魏の滅亡の歴史に関する戦場解説動画です。
31:777 :

2023/11/19 (Sun) 15:38:29

【ゆっくり解説】諸葛亮死後の蜀と姜維の戦い|蜀の滅亡の歴史
三国志のヒストリア
2023/05/31
https://www.youtube.com/watch?v=TUoKpNGvKQc

三国志における諸葛亮の死後の戦いと政治に関する戦場解説動画です。
32:777 :

2023/11/19 (Sun) 16:22:37

【ゆっくり解説】後継者争いと三国志の終焉| 呉の滅亡の歴史
三国志のヒストリア
2023/10/05
https://www.youtube.com/watch?v=VcCtR5QXaRs

後の滅亡の歴史に関する戦場解説動画です。

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