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JR東海の葛西敬之 と JR西日本の井手正敬がやった事

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2022/12/13 (Tue) 14:59:38

 JR東海 葛西敬之
2022年12月13日
https://ameblo.jp/tokaiama20/entry-12779128537.html

 私が葛西敬之を知ったのは、実父が愛労評事務局長だった1980年代だったと思う。
 愛労評というのは、今は力を失った日本労働運動の総本山=総評の愛知県支部である。総評自体は、1950年に社会党関係者によって設立され、1989年に、経団連によって陰謀的に設立され、コントロールされた連合に追われるように解散した。
 愛労評も初期からの愛知県組織だった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8A%B4%E5%83%8D%E7%B5%84%E5%90%88%E7%B7%8F%E8%A9%95%E8%AD%B0%E4%BC%9A

 総評傘下の労働組合のなかでは、愛知県の国労が非常に強力ということで有名で、父は、その書記長だったが、1960年代はじめ、ストライキの首謀者として逮捕され、長年の国鉄SL機関士としての職を追われ、国労専従となり、やがて愛労評に移動した。
 数ヶ月に及ぶ拘束中は、母も倒れ、三人姉弟で、毎日コロッケ三昧の辛い日々を送ったが、当時は、まだ人情の豊かな時代で、親戚や近所の人々に支えられて過ごすことができた。

 国労は、総評労働運動の核心要のような存在だったが、当時の経団連=自民党政権に仇敵として狙われ、結局、三公社五現業の廃止、民営化とともに解体されることになった。
 愛知県の国鉄=最強の国労に対しては、保守自民党政権が用意できる最強の刺客が送り込まれ、国労解体の辣腕を発揮することになった。
 それが、安倍晋三射殺の一ヶ月前に死んだ葛西敬之である。

 葛西敬之
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E8%A5%BF%E6%95%AC%E4%B9%8B

 【1963年、東京大学法学部卒業後に日本国有鉄道へ入社。静岡鉄道管理局(現・JR東海静岡支社)や仙台鉄道管理局(現・JR東日本仙台支社)で総務部長を務めたのち、経営計画室主幹や職員局次長を歴任。
 労組対策に力を注いだ。国鉄分割民営化にあたっては、JR東日本の松田昌士やJR西日本の井手正敬とあわせ「国鉄改革3人組」と称された。1987年の分割民営化後はJR東海に配属され、取締役総合企画本部長に就任。
 1990年、同社副社長に昇格。その後28年間に渡り代表取締役を務める。1995年代表取締役社長、2004年代表取締役会長。2014年、JR東海の代表取締役会長から、代表権のある名誉会長へ異動した。
 代表権のある会長・社長とともに、トロイカ体制へ移行したと報じられた。2020年6月、30年以上続けてきた取締役を退任し名誉会長となる。2022年5月25日、間質性肺炎のため死去、81歳没。ちょうど松田昌士死去から2年後のことであった。これにより国鉄改革3人組の存命者は井手正敬のみとなった。】

 葛西敬之がJR東海に配属されたときは、ちょうど父の愛労評引退時期だったので、大きな軋轢の記憶はないが、その強引で残酷な組合解体の手法は、現在に至るまで語り継がれている。
 長年、国鉄の安全運行に使命感を持って奉仕してきた組合員たちは、JR移行に伴って、まるで生ゴミのようにゴミ箱に捨てられたのだ。だから、その後、急激に国鉄運行の安定性、安全性が崩壊させられた。
 国労解体後の国鉄は、利益第一主義に陥り、事故トラブルを繰り返すようになった。
  https://biz-journal.jp/2019/12/post_130820.html

 私は、父親が、1960年代からは労働貴族として、労働者の権利や幸福よりも、自分の名誉ばかり考えている人物のように感じていたので、総評運動に期待はしていなかったが、それでも、国労組合員たちの残酷な運命に対しては憤っていた。
 JR東海における国労弾圧の計画を練って実行したのは、間違いなく葛西敬之だった。
 国労組合員たちは、国鉄を庶民の足として、その利便性と安全性を守ることに大きな誇りを抱いて勤務してきたのだが、葛西が指揮をとるようになって、安全運行は、収益性の下に置かれるようになった。

 そして、次に葛西敬之に直面させられたのは、前世紀末だった
 私は1970年代以来、ほとんど山狂いの生活をしていて、人生のすべてを登山に捧げるような生活だった。1990年代までの30年間は、年間50日くらいの山行を続けていて、90年までに日本百名山を完登するほどだった。
 名古屋に戻った私が山歩きの対象としたのは、主に木曽周辺と鈴鹿山地だった。
 とりわけ、御嶽山の手つかずの巨大な自然に魅入られ、数十回も通うことになった。

 私が大好きだった御嶽山の大原生林に、とんでもない異変が現れたのは、1997年頃だったと思う。
 濁河温泉から登って下山して、開田村経由で木曽福島から帰宅しようとすると、胡桃沢キャンプ場を過ぎたあたりから、突然、千古斧鉞の入らぬ素晴らしい原生林がたくさんの重機でなぎ倒されていた。
 いったいなにごとかと調べてみたら、そこに「チャオ」という名のスキー場が建設されるのだという。

 まさか、この自然保護の機運のなかで、国立公園級=天然記念物級の大原生林が片っ端から伐採されるなど、信じられなかった。
 御嶽山が、国立公園に指定されなかった理由が、名鉄グループによる開発計画によって政府への働きかけがあったことは聞いていたが、このスキー場は、JR東海によるものだった。その計画実行者が葛西敬之だった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%AA%E5%BE%A1%E5%B2%B3%E3%82%B9%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%88

 私は驚いて、たくさんの文書を作って建設に反対したが、象に息を吹きかけるほどの効果も持たず、1998年開業してしまった。
 この当時、すでにスキー場の斜陽化が始まっていたし、利用者が激減するなかで、交通の便が極度に悪い開田村奥地のスキー場が繁盛するとはとても思えず、原生林の犯罪的伐採は、最悪の結果をもたらすと予想していた。

 そして、JR東海チャオスキー場は、一度も黒字化することなく、閑古鳥が鳴いたまま、2013年、JR東海は経営から撤退し、第三セクターに移行したが、2018年以降、営業が行われなくなり、2019年、正式に閉鎖され、現在は、夢の跡として荒廃に任せ、日本社会の衰退の見本市のような哀れな姿をさらしている。
 皆伐された原生林が復活するのは、人類滅亡後、数千年を経てからだろう。

 このチャオスキー場の大原生林皆伐と無理な営業を指揮したのが葛西敬之であった。
 葛西がJR東海に入ってから、成功を評価されたのは、父のいた国労の解体だけだった。
 葛西が有名になったのは、2000年9月11日の東海豪雨で、葛西による強引な運転指令の結果、5万人以上の乗客が車内に閉じ込められ、一晩を過ごすという事件があったが、これについて「あれは自然災害だった」と強弁し、自らの無理な運転指令を反省しなかったことで、大きな批判を浴びたことだった。
 https://radichubu.jp/dradama-king/contents/id=33100

 そして、2011年、東日本震災の後に、葛西敬之は、中央リニア新幹線計画を大々的に公表した。
 これも、葛西は当初、JR東海独自の資金力で実現してみせると、おおぼらを吹いたが、実際には、後援会長を務めていた安倍晋三との密約があり、3兆円の国税からの超低利融資を受けることが決まっていた。
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政界を牛耳る「最後のフィクサー」JR東海・葛西敬之が安倍晋三と密談して国から「3兆円」を引っ張るまでの一部始終 2022年12月13日
https://gendai.media/articles/-/103251

ブレーンは財務省の事務次官ライン
 葛西は数多くの政府審議会の委員となり、霞が関の高級官僚たちと政策勉強会を兼ねた懇親会を開いてきた。なかでも葛西の大事にしてきた省庁が財務省であり、財務官僚には葛西を取り巻くブレーンが少なくない。
 ざっとあげれば、元国税庁長官の牧野治郎にはじまり、勝(かつ)栄二郎や香川俊介、岡本薫明(しげあき)といった事務次官ラインが葛西と懇親を深めてきた。

 1980(昭和55)年6月から82年6月まで2年間、防衛庁に出向して経理局会計課に勤めた牧野は思想的に葛西と近く、主計局総務課時代に公共事業担当として旧国鉄の窓口となる。その後、牧野は97年7月に主計局総務課長に就任し、24兆円にのぼる旧国鉄の債務処理を担った。

 JR東日本社長の松田昌士やJR西日本社長の井手正敬は、政府の主張したJRの債務負担法案に反対した。彼らは、株式を上場している民間企業が旧国鉄時代の債務を背負うのは株主に対して理屈が立たない、と主張した。
ちなみにJR本州3社の株式上場は、JR東日本が93年10月、JR西日本が96年10月、JR東海が97年10月という順番だ。その3社のなかで最後に上場したJR東海の葛西だけが、政府案に賛成した。JRによる債務負担は、国の財政をあずかる財務省にとっても好都合だ。結果、JR側の負担は政府案の半額にあたる1800億円で決着した。

 また75年大蔵省入省の勝は小泉純一郎政権時代、2年先輩の牧野に葛西を紹介され、国鉄改革を進めた自民党代議士の野呂田芳成(ほうせい)とも知り合いだったことから葛西と親しくなっていく。
 勝は民主党の菅直人内閣や野田佳彦内閣で財務事務次官となり、後輩次官となる香川を葛西に引き合わせ、さらに岡本へと省内の葛西人脈が引き継がれていった。
 勝は民主党政権で活動を止めていた「財政制度等審議会」(財政審)復活の声が高まったことを受け、事務次官退官の置き土産として復活後の財政審入りを葛西に働きかけた。

 財政審は政府予算や決算をはじめとする国の財政全般の審議をする財務大臣の諮問機関だ。勝から香川、岡本と葛西人脈が引き継がれていった財務省では、岡本が第二次安倍政権で財政審担当の主計局次長となる。
 葛西はその財政審で歯に衣着せぬ過激な発言をして政府に対する影響力を増していった。岡本は葛西が催した朝食会や夜の会合に呼ばれ、付き合いを深めていった。

 続編 https://gendai.media/articles/-/103252
 官邸の介入  情勢が変わったのは、やはり官邸が介入してからだ、とこう続けた。

 「ある日、安倍首相自身が、『経済政策の大きな目玉としてリニアの大阪延伸を早めてほしい』と自民党の稲田(朋美)政調会長を訪ね、依頼したのです。安倍首相が葛西さんに直接伝えればいいようにも感じましたが、その前の根回しのつもりなのかもしれないし、あるいはまず葛西さんの意向を確かめたかったのかもしれません。
 それで、稲田さんが早期大阪延伸案を葛西さんに投げた。といっても稲田さんには葛西さんとのパイプがなく、経産官僚があいだをつないだと聞いています。葛西さんは宇宙開発に関心があり、宇宙政策委員会という内閣府の審議会にも参加していて、窓口になってきた片瀬(裕文元経産審議官)という親しい経産官僚がいるんです」

 3兆円を捻り出す「3つのやり方」
 ここから官邸や自民党は、大阪までの工事を一挙に進めるために3兆円が必要になる、と試算した。むろん財務省としては想定外の“予算”であり、決して乗り気ではなかった。実のところ、当初財務省で3兆円を捻り出す方法は、財投の活用だけではなく、3通り検討されたという。

 一つは「整備新幹線並みの公共事業予算に組み入れる方法」、もう一つが「税制上の特別な措置」、そして「財投」だ。本来、鉄道の建設事業認可は国交省所管のはずだが、3兆円の捻出方法を説明するため、財務省の官房長だった岡本が葛西のいる品川のJR東海東京本社を何度も訪ねた。

 「リニア計画を予算化するには、国会で審議しなければなりません」
「税制の優遇措置をするにも、税法の改正案を国会へ提出しなければなりません」
 岡本は葛西にそう説明した。財投以外の2案はどちらも国会審議を経なければならないため、注目を浴びて批判の矛先がJR東海に向かいかねない。残るは財投しかない。官邸関係者は財投決定までの内幕を明かした。

 「そこにも課題はあります。かつての財投は使い道がないので無理やり貸し付けてきましたが、今はなぜ必要かという説明責任が政府にあります。本来は、現状のまま名古屋までの開通を先行させてJR東海にやってもらったほうがいい。でも、この問題については官邸がらみで稲田政調会長まで介入してきている。国交省は何も口を出さない。
 それで、気心の知れている財務省の岡本さんが葛西さんのところへ説明に通ったのです。葛西さんに選択肢を与え、向こうに決めてもらうという形になった。その答えは財務省経由ではなく、稲田政調会長を通して安倍総理に直接返ってきたと聞いています」


そうして葛西は財投しか方法がないと決めたのだという。その真意は、安倍政権の経済政策をバックアップするためだったのだろうか。あるいは首相のメンツを重んじた結果だろうか。
 財投の投入に関しては、国鉄改革の取材の流れで、初代JR東海社長の須田寛にも尋ねたことがある。須田は苦笑いしながら、現在の3兆円の財投投入について評価した。

 「無利子ではありませんが、昔の8%と比べたら平均0・8%なんてないようなものです。JRはコロナで大減収になっていますけど、財投を活用した借入金を使用して工事を進めることができるので、工事を止めずに済んだ。そういう意味でも非常に意味があったのです。稲田政調会長が一所懸命やってくださったというのは聞きました」

 もっとも、葛西が財投を受け入れた背景は資金繰りの事情だけではない。財投を使った3兆円の融資を申請した16年の春、葛西は病魔に襲われた。命を奪った間質性肺炎である。あまり知られていないが、難病指定されているこの病気は、実は国鉄の動労委員長だった仇敵の松崎明からも命を奪っている。
そんな恐ろしい病気にかかって余命5年を宣告された時期が、まさに財投申請の半年ほど前の出来事なのである。自らの余命を知らされた葛西は、焦り始めていたのではないだろうか。

 一方、リニア中央新幹線の終点となる大阪では、日本維新の会が2025年の大阪・関西万博とカジノIRの同時オープンをぶち上げてきた。結果的にカジノ計画はうしろにずれ込んだが、安倍は政権発足以来ずっと維新の会の政策を後押ししてきた。リニア計画の前倒しとともに大阪の政策は、行き詰まりを見せ始めたアベノミクスの起爆剤とも位置付けられた。

 財投受け入れは、支援してきた首相を助ける有効な一手――。限られた命を告げられた葛西敬之には、そう映ったのではないだろうか。
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 引用以上

 葛西敬之が安倍晋三の後援会長であり、安倍を意のままに動かせる立場にあったことが知られていて、最初から「JR東海が独自予算で行う」という言葉を信じた者はいなかっただろう。
 安倍晋三は憲政史上の稀代の大ウソつきであり、どうせ、秘密裏に国が金を出すことが誰の目にも明らかだったからだ。
 それは税金であり、債権としても超低利であって、JR東海は金利分を国庫から掠め取ったことになるし、それどころか、国に本当に返却するつもりなのかも疑わしい。
 チャオスキー場の大失敗問題では、地元の第三セクターに負債を押しつけようとした。
また葛西がJR東海にきてから、国労追放以外の、あらゆるアイデアが失敗に終わっているともいわれている。
 いずれ、JR東海と名鉄がタイアップして破壊した御嶽山の国宝級大自然についても報告したい。
 
https://ameblo.jp/tokaiama20/entry-12779128537.html
2:777 :

2022/12/13 (Tue) 15:04:59

脱線事故は「個人の責任」と言ったJR西日本の井手正敬
2021/04/12
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/money/287681

事故当時に振替え輸送を伝えるJR尼崎駅(2005年)/(C)日刊ゲンダイ
拡大する
 4月1日に新潮文庫に入った松本創著『軌道』はJR西日本の福知山線脱線事故を追ったものである。

 そこに「JR西の天皇」といわれた井手正敬(元会長)のインタビューが出てくる。井手は松田昌士、葛西敬之と共に「国鉄改革の3人組」と呼ばれた。いわゆる国鉄の分割・民営化だが、私に言わせれば、これは断じて「改革」ではなかった。

 残念ながら、『軌道』にはこの視点が弱く、井手の主張に根底から反論できていない。あの事故は「民営化」ならぬ「会社化」が招いたものであり、天皇の井手に重大な責任がある。しかし、歴代総理の指南番とかいわれた安岡正篤信者の井手はまったくそれを自覚せず、JR西日本の広報室では記者に『マスメディアを通した井手正敬小史』なるものを渡していた。


「函カバー入りのA4判、暗緑色の布張りに金箔押しの文字という仰々しい表紙」だというから、当時から井手は正気ではなかったのである。

「事故において会社の責任、組織の責任なんていうものはない。そんなのはまやかしです。組織的に事故を防ぐと言ったって無理です。個人の責任を追及するしかないんですよ」

井手はこう言ったというが、最後の「個人の責任を追及するしかない」にだけ賛成して私は井手の責任を追及する。しかし、安岡教信者の井手は自分に責任があるとは毛頭考えない。「井手商会」と呼ばれたJR西の体質は変わったのか。

 北海道のある町の町長は「国鉄は赤字だ赤字だと騒ぎたてるが、では、消防署が赤字だと言うか」と反論した。

 国鉄は民営化という名で会社になって、過疎地の赤字路線などは廃止された。公共の足が失われ、過疎はさらに進行した。


 そういう公共の観念が井手には欠落している。脱井手がこの会社の課題である。


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梅原猛氏の怒りをきけ
http://landship.sub.jp/stocktaking/archives/000781.html

「週間朝日」5月27日号の嵐山光三郎の連載エッセー「コンセント抜いたか!」の「梅原猛氏の怒りをきけ」という表題がちょっと気になった。

今回の大事故のJR西日本について、5月9日付け東京新聞夕刊に梅原猛が書いた「JR西日本のあきれた体質」という記事についてなのだ。それも14年前のJR京都駅ビルの設計コンペの審査員としての話なのだ。

以下、記事のまま。
............
それによると、梅原氏は14年前に行われたJR京都駅ビルの設計コンペの審査を依頼された。他のイタリアとオーストリアの著名な建築家と故塚本幸一(当時京都商工会議所会頭)と故内井昭蔵氏(建築家)がいた。
7人の建築家による作品が示され、梅原氏はA氏の作品を推した。それは、伊勢神宮に似た素朴な味があり、古都京都にふさわしく、二人の外国人と塚本氏、内井氏も同意見であった。
激しい議論が行われるなかで、A氏の作品が圧倒的優位を保ち、A氏の作品が選ばれるのは間違いないと梅原氏は確信した。
二日目には個々の作品について激しい議論が行われ、エントリーした中の一人であるH氏の作品は京都に相応しいと思えない、と梅原氏が批判し、外国人建築家は更に厳しい批判をした。この時点で梅原氏はA氏に決まるだろう、と判断した。
議論の三日目、JR西日本側はA氏の作品についていろいろケチをつけ、自社から出した二名の審査員と意のままになる審査員を過半数選び、H氏の作品に決定してしまった。採用する作品はあらかじめ、談合によって決められていた。
この決定を見て、イタリア人建築家は「アイ・アム・アンハッピィ」といって退席し、オーストリア人の建築家も「なぜ、我々の意見を尊重しないのか」と怒り、梅原氏は「これは国辱だ」であると激しく幹部に詰め寄ったが、彼らは「ふふん」とせせら笑うばかりであった。
梅原氏は、怒りのあまりコンペの謝礼金をつっかえした、という。JR西日本の実力者幹部は「このような大きな事業が談合によって決められるのは当たり前だ」といったらしい。
こういうあきれた体質のJR西日本が今回のこのような大事故をおこした、と梅原氏は指摘している。
................
1994年の京都遷都1200年の記念関連行事のひとつとして7人の建築家による国際指名コンペによって設計者が決定された。

参加建築家は、以下の7人であった。
池原義郎/バーナード・チュミ(スイス)/黒川紀章/ジェームス・スターリング(英 )/原廣司/ペーター・ブスマン(独)/安藤忠雄
追記 050516
早速、五十嵐さんから、5月9日付け東京新聞夕刊の梅原猛の「JR西日本のあきれた体質ー談合審査に呼ばれた揚げ句…」の切抜きが送られてきた。

Posted by 秋山東一 @ May 16, 2005 04:51 AM
Comments
特に何か違った話はありませんでしたが、アエラも読んでみました。

正直なところ、私は原さんの京都駅ビルは好きではありません。足し算だけでできたような、駅というよりも商業施設の部分が大きいだけのただのちょっとこって作った駅ビルです。景観論争をかわすためだけなら、最初からコンペなんぞやらなくてもよさそうです。

大阪駅の計画が進んでいるようですが、どんなものになるのでしょう。一私企業が決定していいとは思えない重要な施設であるはずですが、この醜態をさらけだしたJR西日本が、それを担えるとは思えません。

鉄道を文化として捉える視点が鉄道施設を決定する、ただの損得で決まっていい施設ではないはずです。
Posted by: 秋山東一 @ May 16, 2005 06:05 PM
この記事は今週のアエラにも実名で書かれていました。
談合と言うよりJR西日本は景観論争の批判をかわすため、一番低い案と決めていたか神の声があったのでしょう。
コンペも案決定のaccountabilityのためでしょう。
参加した原さんはM事務所が断った代わりに参加したと伝え聞いていますので出来レースではなかったと考えています。
真相はわかりませんが。

(ishikawaのはじめのコメントはミスポストです)
Posted by: ishiakwa @ May 16, 2005 10:19 AM
梅原氏はAERA最新号でも、同じ指摘をしておられ、内容を読んで憤懣も当然と思いました。JR西、まったくどうしようもない会社です。
http://landship.sub.jp/stocktaking/archives/000781.html



JR西日本と京都駅ビルコンペ
https://designcafe.jp/archives/104

脱線事故で露出の多いJR西日本ですが、時が経つにつれて経営方針や会社の体質に問題があるような記事を多く見かけます。その中で先週のAERA(5.23号)で日本を代表する哲学者、梅原猛さんが14年前の京都駅ビルコンペ審査員の体験から「今までの人生でいちばんいやな思いをした会社はJR西日本」と述べています。

これはコンペの審査過程での事ですが、審査した審査員(梅原猛さん、京大の川崎教授、京都商工会議所の塚本会頭、建築家で関空設計のレンゾピアノ、建築家ハンス・ホライン、JR西日本の取締役他数名)のうち、梅原さんと塚本会頭、レンゾピアノ、ハンスホラインは安藤忠雄のプランを推したそうです。それに難癖つけたのがJR側で「金がかかる」「高さの問題で建築が難しい」「危険である」と。要はプログラムの中に「高さの制限はない」としておきながら、結局ビルの高さが一番低い原広司のプランで決まったいきさつがあったようです。この決定過程の会議でレンゾピアノは激怒して、退席しレセプションも欠席。ハンス・ホラインも「我々専門家の意見をなぜ尊重してくれないのか」と嘆き、梅原さんも猛抗議したようですが最初から結果が決まっていた、出来レースだったことが京都駅ビルコンペの真相のようです。これは国辱だと抗議に対しても聞く耳持たず、JRの役員はせせら笑って相手にされなかったと記されています。

要は伯をつけるために地元の有力者、世界的著名な建築家、有識者を集めたに過ぎないのではないかと言っているわけです。このコンペは当時からその後数年物議を醸したのですが、当時僕は日本にいなかった事と今のようにインターネットが無かった事もあって、専門誌でその背景やいきさつを知る程度でした。また、最終的に決まった原広司のプランも京都駅を南北に分断してしまうプランで、建築業界の人たちだけでなく京都の住民からも疑問の声が挙がった事もあり設計内容に対して物議を醸したような記憶があります。コンペを決定するプロセスで「裏の事情」があった事を知って、とても残念でなりません。公平であることがコンペの最低条件な訳ですからね。

このコンペの真相を梅原さんはメディアを使って公表するのですが、それに対してJR西日本は逆上し「審査員に選んでやったのに何をするか」と言ったようです。プロセスに問題があるのに判っていないわけですね。”人を人と思わない企業体質”という梅原猛さんからの厳しい指摘をJR西日本の新しい経営陣が真摯に受け止めて、なぜそのような組織体質になってしまったのか改めて考えないと変わらないと思います。その原因を突き止めることができれば組織風土は変わるかもしれませんね。
https://designcafe.jp/archives/104

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