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実際に戦争を体験した人は全員「戦争に敗けてよかった」と思っていた

1:777 :

2022/12/12 (Mon) 18:15:16

実際に戦争を体験した人は全員「戦争に敗けてよかった」と思っていた

『生きづらさについて考える』単行本あとがき - 内田樹の研究室
2022-12-12
http://blog.tatsuru.com/2022/12/12_1001.html

 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 最後までお読みくださってありがとうございます。
 ご覧の通り、これはさまざまな媒体に書いたエッセイのコンピレーション本です。『サンデー毎日』に何年か前から不定期に長文の寄稿をしておりまるので、そこにこれまで書き溜めたものがベースになっています。その他は新聞や雑誌に書いたままハードディスクの底に眠っていたものを集めて、一冊にしました。
 頭から書き下ろしたものとインタビューを添削したものが混在しているので、文体もタッチもひとつひとつで違って、統一感を欠く憾みはありますが、まあ、それも気分転換になって読みやすいかも知れません。
 今回、単行本にまとめるにあたってゲラを通読しましたが「ううむ、暗いなあ」と思いました。時事的なものを書くとどうしても暗くなっちゃうんですよね。他のエッセイ集でしたら、ところどころで武道や宗教の話、映画や文学の話も出てて、ちょっと「コーヒーブレーク」が取れるんですけれど、本書のように、政治の話ばかりしていると、どこまでも果てしなく暗くなります。
 そこで「あとがき」では「お口直し」に、「どうして現代日本で政治について語るとこんなに暗くなるのか?」という話をしてみたいと思います。変な話ではありますが、それほど暗い話ではありません。ちょっと座り直して読んでくださいね。

 日本が高齢化していることは皆さんご存知ですよね。ある国の高齢化の程度を知るためにはいろいろな指標がありますが、その一つは「中央年齢」です。
「中央年齢」というのは、「その年齢よりも上の世代と下の世代の人口が同数」であるような年齢のことです。日本の中央年齢は45・9歳。堂々の世界一です。
 ちなみに世界で一番中央年齢が低いのはニジェールで15.0歳。これは「若い国」であるというよりは、たぶん治安が悪すぎて長生きできないということなので、ニジェールの人たちにとっても、あまりうれしい数字ではないと思います。
 ちなみに中央年齢が17歳以下なのは、他には東ティモール、ザンビア、アフガニスタン、アンゴラ、マリ、ソマリア、ウガンダ、チャドなどがあります。どうやら国内で内戦やテロが続いて、統治機構が満足に機能していなくて、公衆衛生のレベルも低いという国が「若い国」のようです。だとするなら、日本の45・9歳は、日本がいかに治安がよく、統治機構がきちんと機能していて、公衆衛生への気配りが行き届いているかを示す「先進国指標」だと解することもできます。
 豊かで安全なのだけれど、なぜか子どもが生まれない国。
 それが中央年齢の高い国のとりあえずの特性だということになります。
 他の国の中央年齢を見ると、フランスが40.6歳、イギリスが40.2歳、韓国が39.4歳、ロシアが38・3歳。なんとなく、「そうだろうな」というような数字が続きます。
 面白かったのはアメリカと中国が同率40位ということ(37・4歳)。世界の覇権を競う二大国が人口の年齢構成が近いんです。ふうん、ですね。でも、この後、アメリカはそれほど高齢化しませんが、中国は一人っ子政策のせいで急激に高齢化します。その人口構成の「若さ」の差が、いずれは国力の差に反映してくるのでは・・・と僕は考えております。
  でも、僕は今そんな話をしたいんじゃないんです。違う話です。
僕が、日本の中央年齢を確認している時に、一瞬、目の端に「2位ドイツ 3位イタリア」という文字列が見えたのです。日本、ドイツ、イタリア? その三国において中央年齢が高い? それ、どういうこと?
 そして、リストの続きを見て驚くべき事実を発見しました。
 まずはそのリストをご覧ください。
 1位日本 2位ドイツ 3位イタリア 4位ブルガリア 5位ギリシャ 6位オーストリア 7位クロアチア 8位スロベニア 9位フィンランド 10位ポルトガル
 どうです。わかりましたか、これらの高齢化国の共通点が。
 そうです。ポルトガル以外の9つの国と地域はすべて「第二次世界大戦の敗戦国」なんです。スロベニアはナチスに占領されて対独協力していた「地域」で、厳密な意味での「敗戦国」には当たりません。ポルトガルは中立国でした(サラザール独裁のファシスト国家でしたが)。
 このリストから言えることはとりあえず一つ。
 それは「ファシズム体制で戦争を始めて、敗北した国では、戦後しばらくしてから、子どもが生まれなくなった」ということです。
 戦後しばらく経ってからなんです。ここに僕は興味を惹かれました。

 日本のベビーブームはご存じの「団塊の世代」、1947年から49年、戦争が終わってすぐに、どっと子どもが生まれました。年間260万人超えが3年続いたのです。
 ドイツでも戦後にベビーブームが始まってそれが63年まで続きました。イタリアもドイツとほぼ同じで65年まで出生率は上がり続けました。戦後すぐは敗戦国でも、子どもたちはどんどん生まれた。まるで戦死者たちの分を取り返すような勢いで子どもが生まれた。
 僕は1950年生まれ、「団塊の世代」の尻尾です。その時代の子どもの多さをよく覚えています。小学校の教室が足りなくて、最初のうちは「二部授業」をしていたくらいですから(午前と午後で入れ替え制だったんです)。
 僕は東京の南西のはずれの工場街の中学校に通ってましたけれど、1クラス50人超で、僕の学年が8クラスでした。2つ上の学年は10クラスありました。とにかく子どもの数が多かった。
 でも、どこも家は貧しかったんです。井戸水汲んで、たらいに水溜めて洗濯板で洗濯して、暖房は火鉢だけ。そういう「共和的な貧しさ」の中で、東京でも地域の共同体は助け合いながら、わりと機嫌よく暮らしていた。
 機嫌がよかったのは、みんな貧しかったけれど、自由だったからです。長く戦争が続いた後に、ようやく平和が訪れた。もう兵隊にとられることもなくなったし、空襲もなくなったし、特高も憲兵隊も治安維持法も隣組もなくなった。1930年代から長く続いた重苦しい「戦争の時代」が終わった。もう戦争で死ぬ心配もなくなったし、もう強権で抑圧的な政治体制に怯える必要もなくなった。そのことにみんな心底「ほっとしていた」のです。
 父親たちが酒を酌み交わしているときに、何かのはずみで戦争の話になったときに、「でも、敗けてよかったじゃないか」という言葉が口にされるのを僕は何度か聞いた覚えがあります。それは比較的穏やかな口調で語られ、そのフレーズが出ると、そこで戦争の話は終わりました。
 小津安二郎の『秋刀魚の味』のことは本書の初めの方にも出てきますが、「敗けてよかったじゃないか」というのは戦後のある時期までは、戦中派の人たちにとってはずしんと腹にこたえるような説得力のあるフレーズだったのです。「敗けてよかった」というのは、戦争で死ぬ恐怖と、強権的な政府に弾圧される恐怖の二つの恐怖から解放されたということです。それが日本の若いインテリたちの偽らざる実感だった。
 つまり、その時点では、日本の敗戦は決してトラウマ的な経験、屈辱的な経験としては受け止められていなかったということです。
 敗けたおかげで自分は死なずに済んだ、自由で民主的な社会が実現した、言論の自由も集会結社の自由も、信教の自由も手に入れた。とにかくやっと手に入れたこの自由を思い切り享受しよう。
「戦勝国に恵んでもらった自由なんかうれしがるな。押し付けられた憲法なんかありがたがるな」というような話をしている人はその時代の日本にはいませんでした。いたのかも知れないけれど、ほとんど声にならなかった。今僕が「」で括ったようなことを言い出したのは60年代半ばの江藤淳ですが、江藤は敗戦のとき12歳でした。
 敗戦直後の日本というと、必ず「リンゴの唄」が流れている焼け跡の闇市の映像が使われます。その画面の中の人々の「明るい顔」に僕たちは驚かされます。そこから知れるのは、敗戦がうれしいくらいに戦争がつらかったということです。
 その明るい気分は僕の記憶にも残っています。敗戦からしばらくはそうでした。楽観的で向日的な雰囲気が世の中にはありました。少なくとも、60年代末までは「りんごの唄」的な明るさの残り香は日本社会のどこかに漂っていました。70年代くらいからそういう穏やかな気分が消えて、社会が殺伐としてくる。でも、高度成長期からバブル経済にかけての時期ですから、みんな顔つきは殺伐としているけれど、金だけは潤沢にあった。金さえあれば何でも買えるという奇妙な多幸感の中で、敗戦のことなんか誰も考えなくなった。そして、90年代にバブルが崩壊したあと、ふと気づいたら日本が「暗く」なっていた。それは直接的に「金がなくなった」からではないと思います。だって、バブル崩壊からさらに20年間、日本は世界第二位の経済大国であり続けたんですから(中国にGDPで抜かれたのは2010年のことです)。お金はあったんです。でも、社会はどんよりと暗くなった。
 僕はその頃から「敗けてよかったじゃないか」という気分が失せて、「日本がこんなふうになったのは、すべて戦争に敗けたせいだ」という恨みがましい気分が社会全体に瀰漫したせいではないかという気がします。そんなこと僕の他に言う人はいませんけれど、さっきの「中央年齢リスト」を見て、ふとそう思ったのです。
「自虐史観」という言葉が出て来た頃に日本が「どよん」と暗くなったような気がします。もちろん「自虐史観」が社会を暗くしたわけではありません。逆です。彼らは日本社会の根っこの部分にある種の致命的な「弱さ」を感じ取って、その原因が「敗けてよかったじゃないか」というなげやりな言葉で敗戦経験を総括したことにあると感じた。そして「そういう考え方は自虐的だ」と言い出したのです。
 歴史修正主義者の中に戦争経験者はいません。これはドイツでもフランスでも同じです。子どものときに敗戦を迎えた人はいますけれど、徴兵されて戦場に立った、空襲の中を逃げ惑ったという経験をもつ人はいません。実際に戦争で死ぬ覚悟をしていた人たちは、戦争が終わって、自分たちを戦場に送り出すシステムがなくなったことに深く安堵した。たしかに、祖国の敗北は悲しいことですけれど、それより自分自身や自分の愛している人たちががもう死なずに済むことの方がうれしかった。だから、戦争体験者にとって敗戦は屈辱でもトラウマ的経験でもなかった。
 ところが、敗戦をリアルタイムで経験していないその後の世代には、敗戦を端的に「よいこと」として肯定するような個人的根拠がありません。敗戦の玉音放送を聴いて、ぼんやりと青空を見て「もう死なずに済んだ」と深い嘆息をついたような経験がありません。
 この「敗戦の報を安堵感のうちに経験した」かどうか、その経験の存否が、実は大きな世代的断絶を敗戦国民にもたらしているということはないのでしょうか?

 僕たち戦後世代にとっては「経験の欠如」という経験です。
 いまの自分たちの社会の根本的なかたちを決定した歴史的大事件でありながら、敗戦のときに何があったのか。GHQは敗戦国日本をどう変えようとしたのか、そのためにどのような工作があり、密約があったのかについて、僕たちは「公式の歴史」というものを共有していない。戦中派の大人たちは、そのことについてはかたく口を噤んでいた。
 どうして、どんなふうに敗けたのか、どうして敗戦国日本は「こんな国」になったのかについて、納得のゆく説明を聞かされないままに、僕たちは今も「戦勝国」アメリカの属国身分に甘んじ、日米地位協定という「不平等条約」を呑まされ、国土を外国軍が我が物顔に歩き回るのを指を咥えて見ていなければならない。中国や韓国や北朝鮮はことあるごとに日本が戦前戦中に彼らの土地でどれほど非道なことをしたのか、それについて反省と賠償を求める。戦争を始めたのも、戦争に敗けたのも、僕たちじゃないのに、敗戦国民としての道義的責任と政治的責任だけは「時効なし」で僕たちに負わされる。
 この敗戦国民であることのもたらすフラストレーションを、敗戦を成人で経験した世代は知らなかった。でも、敗戦の解放感や安堵を経験していない世代には、このフラストレーションは恐るべき毒性を持っていた。
 同一経験の世代による受け止め方の違いということを、僕たちは過小評価していたのではないか。そんな気がします。

 戦中派には実際に自分たちが戦争中に占領地で「非道なことをした」という実感がありました。僕の父は中国との国交回復のあと、日中友好協会に入会して、たくさんの中国人留学生を家に迎え、保証人になり、金を貸しましたが、その理由を母親に問われたとき、「われわれは中国人には返しきれないほどの借りがあるのだ」と言っていました。
「あなたがたにはほんとうに申し訳ないことをした。償わせて欲しい」と中国人に向かって告げることは父にとっては苦痛ではなかった。むしろ贖罪の機会を得たことをありがたく思っていたように僕には見えました。
 でも、僕らは違います。侵略して、非道なことをした記憶もない。戦争が終わってほんとうによかったという実感もない。にもかかわらず敗戦国民としての戦争責任だけはエンドレスで追ってくる。
 敗戦について、僕たちの世代が取り得るスタンスは二つしかありません。「戦争にかかわるすべての責任をわれわれは引き受け続けます」と戦中派にならって首を垂れ続けること。アメリカにも中国にも韓国にも台湾にもフィリピンにもインドネシアにもベトナムにもオランダにもイギリスにもオーストラリアにも、行く先々で謝り続けることです。こちらが「政治的に正しい」作法です。
 そして、もう一つは「知るかよ、そんなこと」と居直ること。「あれはよい戦争だった」とか「あの戦争についてアジア民衆は日本に感謝している」とか「あの戦争に日本は実は勝っていたのだ」というようなでたらめを言い募って、戦争責任をまるごと放棄すること。こちらは「政治的に正しくない」作法です。
 そのどちらかを選ばなければならない。
 でも、そんな選択肢は敗戦をリアルタイムで経験した世代には突きつけられていなかった。さくっと「敗けてよかったじゃないか」で済んだ。これは彼らの後から来た世代にとってだけ切実な問いなのです。
 
 加藤典洋・高橋哲哉の間の『敗戦後論』をめぐる論争があったのは、1995年です。メディアを賑わせて多くの人が賛否の立場で発言した論争でした(僕の『ためらいの倫理学』という物書きデビュー作は『敗戦後論』の書評を核にして編まれたものでした)。そのとき、論争に熱狂していたせいで、「どうして今になって敗戦が問題になるのだ?」という問いだけが誰によっても立てられなかった。
 この論争のもう一つの歴史的意味は、敗戦をどう受け止めるかについての国民的合意が、それまでは無言のうちに日本国民に共有されていたけれど、それが95年頃に失われたということではないかと僕は思います。
 95年頃に、僕たち戦後世代は、敗戦に向き合うときに「政治的に正しい」作法か「政治的に正しくない」作法か、どちらを選ばなければならないというきわめて定型的でストレスフルな選択を迫られるようになった。加藤典洋はそれに対して「第三の道」はないのかという提案をした。「第三の道」を見つけないと、日本人がもう一度「明るく」なることはできないのではないか、彼はそう考えたように僕には思われます。「政治的に正しい道」も「政治的に正しくない道」も、どちらも日本人を深く疲弊させ、日本人の思考を停止させ、遅速の差はあれ、いずれ国力を蝕んでゆく結果しかもたらさない、そう思ったのではないか。でも、加藤の努力にもかかわらず、敗戦経験・戦後経験についての国民的合意は今にいたるまで達成されていません(それを独力で果たそうとした加藤典洋は先日志半ばで亡くなりました)。

 僕はこれと同じようなことがすべての旧枢軸国が起きたのではないか・・・という気がしたのです。
 どの敗戦国でも、ある時期までは「敗けてよかった」という実感が支配的であった。人々は貧しいけれど明るく、日々はつらいけれど明日に希望があった。だから、子どもが生まれた。でも、ある時期から「つらいけれど、倫理的な責務に耐えるべきだ」派と「うるせえな。倫理なんて知らねえよ。俺は絶対謝らないからな」派に国民が二分された。日本における左翼リベラルと右派ネトウヨの分断はまさにその通りのものですが、ドイツでも、イタリアでも、ほとんど同じような国民分断が起きていると思います。どちらの道を行くにせよ、「笑顔がなくなる」ことだけは一緒です。
「リンゴの唄」と闇市の人たちの笑顔は「敗けた代わりに手に入れたもの」がもたらしたものです。でも、僕たち敗戦から数十年経った敗戦国民には「敗けた代わりに手に入れたもの」がありません。「敗けたせいでさらにこれからも失い続けてるもの」だけしかない。
 その虚無感が敗戦から一定期間が経ったあとの敗戦国民の「暗さ」を作り出している。そのせいで敗戦国民は自己肯定感をもつことができない。自分の国に対して、その「ありのまま」に対して物静かな敬意や、控えめな誇りをもつことができない。何か細工を加えて、装飾して、別のものに仮装してみないと「自分の国」を取り扱うことができない。
 それがたぶん敗戦国民が敗戦から一定時間経ったあとに罹患する病なのではないかと思います。

 国民が構造的に「自己肯定感の欠如」に苦しんでいる以上、子どもが生まれるはずがない。 それが中央年齢の病的な上昇として結果しているのではないか・・・というようなことを僕は先ほどの中央年齢リストを見ながら考えたのでした。
 だからどうした、だから、どうすればいいのか、というような話では別にありません。何となく、そう思った、というだけのことです。
 戦争というのは、それが終わってから何十年も、場合によっては何百年も、それにかかわった人々とその子孫たちにとってある種のトラウマとなり続けるという「言われてみれば、そうかも知れない」というような話です。

 どうして時事的なことを話すと「暗く」なるのかの理由について個人的な仮説を立ててみました。仮説を立てからと言って、ただちに気分が明るくなるというものではありませんが、それでも「暗さの原因」が分かると、「じゃあ、次に打つ手を考えてみようか」という気分に少しはなるんじゃないでしょうか。
 はい、長い話にお付き合いくださって、ありがとうございました。

 最後になりましたが、出自さまざまなテクストを選択、配列して、リーダブルな書物に仕上げてくださいました毎日新聞出版社の峯晴子さんにお礼申し上げます。ありがとうございました。

2019年6月
内田樹
http://blog.tatsuru.com/2022/12/12_1001.html
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漢民族系朝鮮人の天皇一族による極悪非道の世界侵略の歴史
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大東亜共栄圏というのは中国・東南アジアで麻薬を売ってぼろ儲けする体制の事だった
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日本が朝鮮併合したのも満州や中国を植民地化したのも食料を増産するためだった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006703

幕末人口4000万人が1935年に7000万人に増え、日本は大陸で農地を乗っ取って解決しようとした。
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英米金融資本のエージェントだった戦前の日本は英米の利権を守る為に朝鮮を併合した
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14023519

天皇一族はバイシュン業者
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14023528

人間の屑 福沢諭吉のした事
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日本の国体と日本人の信仰を完全に破壊した明治維新
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天皇家は推古朝以降 江戸時代までずっと仏教徒だった
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/795.html

現在の天皇一族は全員クリスチャン
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/783.html


▲△▽▼


明治維新は田布施の 朝鮮人 による日本の乗っ取り
明治天皇も昭和天皇も天皇家ではなく李氏朝鮮の王族や両班階級の血筋だった

故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

熊毛郡田布施町 (00:00:21)
大室寅之佑 (00:03:48)
明治天皇の秘密 (00:03:55)
大正天皇には、子種がない(00:18:39)
西園寺八郎 (00:19:26)
昭和天皇の秘密 (00:21:34)
昭和天皇の父親は、西園寺八郎 (00:22:01)

田布施は李氏朝鮮の王族や両班階級が逃げてきた場所で、岸信介は李氏朝鮮の王の末裔です。

永田町における「朝鮮系」というのは李氏朝鮮時代の両班階級出身という意味です。以前、田布施の話をした時にも言いましたが、田布施は李氏朝鮮の王族や両班階級が逃げてきた場所で、岸信介は李氏朝鮮の王の末裔です。岸という名字も「李」を分解して木(き)と子(し)にしたから岸(きし)なんだという話をしたと思います。安倍さんは岸家の人なので、当然「朝鮮系」ですし、今井さんも安倍さんと遠い親戚なのでやはり「朝鮮系」。二階さんも同じく遠い祖先が李氏朝鮮系だったという区分けです。また、そういう人たちが集まったのが自民党の清和会です。清和会というのは、多くが「朝鮮系」の人々の集まりで、永田町では常識です。実際に、清和会の事務所は旧李王家邸で当時の赤坂プリンスホテルの一階にありました。李氏朝鮮最後の皇族であった李玖も清和会の支援を受け、2005年まで赤坂プリンスホテルで暮らしていました。

これはインターネットで検索したって出てきません。しかし、日本の支配者層にとっては常識中の常識です。
https://tocana.jp/2020/08/post_168418_entry_2.html

鬼塚英昭さんは本を沢山書いていて、その結論をビデオで紹介しているんですね:

鬼塚英昭さんの著書
https://www.amazon.co.jp/%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/e/B004LVD7MC/ref=dp_byline_cont_book_1


【田布施システム】朝鮮系に乗っ取られた日本の裏歴史! 歴代首相を生み出す謎の村「田布施」を専門家が徹底解説!
https://tocana.jp/2019/12/post_130392_entry.html
https://tocana.jp/2020/09/post_171763_entry.html
3:777 :

2022/12/12 (Mon) 18:20:14

明治維新から第二次世界大戦までの皇室の歴史


明治天皇も昭和天皇も天皇家ではなく李氏朝鮮の王族や両班階級の血筋だった
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明治天皇も昭和天皇も天皇家の血筋ではなかった
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漢民族系朝鮮人の天皇一族による極悪非道の世界侵略の歴史
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大東亜共栄圏というのは中国・東南アジアで麻薬を売ってぼろ儲けする体制の事だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006701

日本が朝鮮併合したのも満州や中国を植民地化したのも食料を増産するためだった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006703

幕末人口4000万人が1935年に7000万人に増え、日本は大陸で農地を乗っ取って解決しようとした。
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14009934

英米金融資本のエージェントだった戦前の日本は英米の利権を守る為に朝鮮を併合した
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14023519

天皇一族はバイシュン業者
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人間の屑 福沢諭吉のした事
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日本の国体と日本人の信仰を完全に破壊した明治維新
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天皇家は推古朝以降 江戸時代までずっと仏教徒だった
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/795.html

現在の天皇一族は全員クリスチャン
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/783.html


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明治維新は田布施の 朝鮮人 による日本の乗っ取り
明治天皇も昭和天皇も天皇家ではなく李氏朝鮮の王族や両班階級の血筋だった

故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

熊毛郡田布施町 (00:00:21)
大室寅之佑 (00:03:48)
明治天皇の秘密 (00:03:55)
大正天皇には、子種がない(00:18:39)
西園寺八郎 (00:19:26)
昭和天皇の秘密 (00:21:34)
昭和天皇の父親は、西園寺八郎 (00:22:01)

田布施は李氏朝鮮の王族や両班階級が逃げてきた場所で、岸信介は李氏朝鮮の王の末裔です。

永田町における「朝鮮系」というのは李氏朝鮮時代の両班階級出身という意味です。以前、田布施の話をした時にも言いましたが、田布施は李氏朝鮮の王族や両班階級が逃げてきた場所で、岸信介は李氏朝鮮の王の末裔です。岸という名字も「李」を分解して木(き)と子(し)にしたから岸(きし)なんだという話をしたと思います。安倍さんは岸家の人なので、当然「朝鮮系」ですし、今井さんも安倍さんと遠い親戚なのでやはり「朝鮮系」。二階さんも同じく遠い祖先が李氏朝鮮系だったという区分けです。また、そういう人たちが集まったのが自民党の清和会です。清和会というのは、多くが「朝鮮系」の人々の集まりで、永田町では常識です。実際に、清和会の事務所は旧李王家邸で当時の赤坂プリンスホテルの一階にありました。李氏朝鮮最後の皇族であった李玖も清和会の支援を受け、2005年まで赤坂プリンスホテルで暮らしていました。

これはインターネットで検索したって出てきません。しかし、日本の支配者層にとっては常識中の常識です。
https://tocana.jp/2020/08/post_168418_entry_2.html

鬼塚英昭さんは本を沢山書いていて、その結論をビデオで紹介しているんですね:

鬼塚英昭さんの著書
https://www.amazon.co.jp/%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/e/B004LVD7MC/ref=dp_byline_cont_book_1


【田布施システム】朝鮮系に乗っ取られた日本の裏歴史! 歴代首相を生み出す謎の村「田布施」を専門家が徹底解説!
https://tocana.jp/2019/12/post_130392_entry.html
https://tocana.jp/2020/09/post_171763_entry.html


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日本の近代史

明治:1868年10月23日(明治元年9月8日)から1912年(明治45年)7月30日まで
大正:1912年(大正元年)7月30日から1926年(大正15年)12月25日まで
昭和:1926年(昭和元年)12月25日 から 1989年(昭和64年 1月7日)まで

江戸幕府を英米の支援で倒した田布施の朝鮮人による日本乗っ取りとアジア侵略

1868年1月3日(慶応 3年12月9日) 王政復古の大号令 ・戊辰戦争 → 明治維新

・山口県田布施部落の朝鮮人が徳川幕府を倒し英米の傀儡政権を作る。

・明治維新から後の日本を支配している人びとはアングロ・サクソン、つまりイギリスやアメリカの支配層と密接な関係にある。19世紀後半からアングロ・サクソンは日本を中国侵略の拠点と見なしてきたのだ。

 その頃、イギリスは中国(清)との貿易赤字に苦しんでいた。そこでイギリスは麻薬のアヘンを清に売りつけ、それを清が取り締まると戦争を仕掛けた。1840年から42年までのアヘン戦争や56年から60年にかけてのアロー戦争(第2次アヘン戦争)である。この戦争でイギリスは勝利、広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いなどを中国に認めさせた。

 しかし、これらの戦争は基本的に海で行われ、イギリス軍は内陸部を占領できなかった。それだけの戦力がなかったのだ。海上封鎖はできても中国を占領することは不可能。そこで日本に目をつけ、日本はイギリスの思惑通りに大陸を侵略していく。

 このイギリスを日本へ行き入れたのが長州と薩摩。イギリスを後ろ盾とする両国は徳川体制の打倒に成功、明治体制(カルト的天皇制官僚国家)へ移行していく。

明治維新以降、日本はイギリスやアメリカ、つまりアングロ・サクソン系国が描く長期戦略の強い影響下にあり、そうした国々が日本へ技術を提供、資金を供給してきた理由もそこにある。彼らは日本列島を東アジア侵略の拠点、日本人を傭兵と考えてきたとしか考えられない。イギリスが自力で中国を制圧する戦力がないことはアヘン戦争を見ても明白だ。

アジア侵略のため、明治政府は日本人にアジア蔑視の感情を植えつけた。


ジェームズ斉藤 : 田布施システム
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14014958

天皇一族はバイシュン業者
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人間の屑 福沢諭吉のした事
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△▽

1868年(明治1年)3月 神仏分離令・廃仏毀釈・神社合祀令

・神仏習合の禁止・日本の仏教と神道を弾圧、六部・虚無僧・山伏・梓巫女・憑祈祷・狐下しを禁止、神社を統廃合した。日本人は無信仰・無神論の民族に変わった

1868年(明治1年)10月23日 慶応から明治に改元

・北海道への和人大量入植 → アイヌ人をジェノサイド
・千島列島の乗っ取り → 千島アイヌを色丹島の強制労働所に集めて絶滅させる

1894年(明治27年)7月25日 日清戦争
1895年(明治28年)4月17日 台湾が清朝から日本に割譲された。
1897年(明治30年)1月21日 台湾阿片令公布

・台湾のアヘン漸禁政策 → アヘンを専売化し、濫用防止の名の下に、大規模なアヘンの密売を主宰することで日本軍資金を調達した。

・欧米との貿易開始 → 日本人女性50万人を騙してバイシュン婦として海外に売り飛ばした
1900年初頭から天皇の命令の下、「海外に行けば良い仕事があり、豊かな生活が出来る」という宣伝が日本全国で大々的に行われた。
大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は「健全な女性をバイシュン婦」として「売却」する事で、欧米のバイシュン業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員であれば10数年分の給与を手に入れていた。

1902年(明治35年)1月30日 日英同盟
1904年 (明治37年) 2月10日 日露戦争
1910年(明治43年)8月29日 朝鮮併合

・朝鮮の農民から農地を取り上げ、作物を日本へ飢餓輸出、朝鮮女性を性奴隷 にする。

・19世紀以来、日本はアメリカやイギリスの手先となってきた。日本列島は大陸を侵略するための拠点であり、日本人は事実上の傭兵だ。

 イギリスは1840年から42年にかけて中国(清)に戦争を仕掛けた。アヘン戦争だ。1856年から60年にかけても同じ構図の戦争、第2次アヘン戦争(アロー戦争)が行われている。イ

 アヘン戦争で勝ったイギリスだが、内陸部を占領するだけの戦力がない。そこで彼らは日本に目をつけた。

 アメリカやイギリスの私的権力は明治維新以来、日本に大きな影響を及ぼしてきた。イギリスの外交官として日本にいたアーネスト・サトウやアメリカの駐日公使だったチャールズ・デロングや厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドルたちはいずれも日本に大陸を攻撃させたがっていた。

 ルジャンドルはアメリカへ戻る途中に日本へ立ち寄り、デロングと大陸侵略について話し合う。デロングは日本の外務省に対してルジャンドルを顧問として雇うように推薦、ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任して外務卿だった副島種臣の顧問になり、台湾への派兵を勧めた。その直前、1872年9月に明治政府は「琉球藩」をでっちあげて琉球を併合、74年5月に台湾へ軍事侵攻した。

1875年9月に明治政府は李氏朝鮮の首都を守る要衝の江華島へ軍艦を派遣して挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功、さらに無関税特権を認めさせ、釜山、仁川、元山を開港させている。
 朝鮮では1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も軍隊を出して日清戦争につながる。
 当時、朝鮮では高宗の父にあたる興宣大院君と高宗の妻だった閔妃と対立、主導権は閔妃の一族が握っていた。閔妃がロシアとつながることを恐れた日本政府は1895年に日本の官憲と「大陸浪人」を使って宮廷を襲撃して閔妃を含む女性3名を殺害、その際に性的な陵辱を加えたとされている。その中心にいた三浦梧楼公使はその後、枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。

 日本は1902年にイギリスと同盟協約を締結、04年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃して日露戦争が始まる。その際、日本に戦費を用立てたのはロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフだ。
 1905年5月にロシアのバルチック艦隊は「日本海海戦」で日本海軍に敗北するが、戦争が長引くと日本は持たない。そこで登場してくるのが「棍棒外交」のセオドア・ルーズベルト米大統領。講和勧告を出したのだ。9月に講和条約が調印され、日本の大陸における基盤ができた。
 日本政府の使節としてアメリカにいた金子堅太郎は1904年にハーバード大学でアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説し、同じことをシカゴやニューヨークでも語っていた。日露戦争の後、ルーズベルトは日本が自分たちのために戦ったと書いている。こうした関係が韓国併合に結びつくわけだ。

アメリカやイギリスの手先として日本は琉球と台湾を含む封鎖線を作り上げた。その南にあるフィリピンをアメリカは1898年に植民地化、その際に住民を虐殺している。アメリカにとって、このフィリピンも大陸を侵略する拠点であり、独立を容認しない。

英米金融資本のエージェントだった戦前の日本は英米の利権を守る為に朝鮮を併合した
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1914年 (大正 3年) 7月28日 第一次世界大戦
1917年 (大正 6年) 3月 8日 ロシア二月革命
1917年 (大正 6年)10月25日 ロシア十月革命
1918年 (大正 7年) 3月 4日 スペインかぜ


・大正デモクラシー
日本で1910年代から1920年代(概ね大正年間)にかけて起こった、政治・社会・文化の各方面における民本主義の発展、自由主義的な運動、風潮、思潮。

・大正ロマン(大正浪漫)
大正時代の雰囲気を伝える思潮や文化事象を指して呼ぶ。
大正時代の個人の解放や新しい時代への理想に満ちた風潮と和洋折衷の先進的な文化に対し、明治末まで文学・美術界で流行していたロマン主義(明治浪漫主義)を拡大してかぶせて、また甘美で抒情的でロマンチックであるという憧れをもって、後世このように呼ばれるようになった。

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1923年(大正12年)9月1日 関東大震災
・関東大震災で死者/行方不明者は10万5000人以上、その損害総額は55億円から100億円だと言われている。

・JPモルガンから復興費用を借り、それ以降天皇一族は JPモルガンのエージェントになる

 多くの企業が苦境に陥り、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残った。しかもこの当時、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だった。

 日本政府は復興資金を調達するために外債の発行を決め、森賢吾財務官が責任者に選ばれたが、その相手はウォール街のJPモルガン。このJPモルガンと最も緊密な関係にあったと言われている人物が地震直後の9月2日に大蔵大臣となった井上準之助だ。

 JPモルガンの総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、実際に指揮していたのはトーマス・ラモント。そのJPモルガンは3億円の外債発行を引き受け、1924年に調印する。その後、JPモルガンは電力を中心に日本へ多額の融資を行い、震災から1931年までの間に融資額は累計10億円を超えた。

 それ以降、この金融機関は日本の政治経済に大きな影響力を持つようになり、日本に対して緊縮財政の実施と金本位制への復帰を求め、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。緊縮財政で景気が悪化するだけでなく、日本から金が流出して不況は深刻化して失業者が急増、農村では娘が売られる事態になった。

 こうした政策を推進した井上は「適者生存」を信奉していた。強者総取り、弱者は駆逐されるべき対象だとする新自由主義的な考え方をする人物だったとも言えるだろう。当然、失業対策には消極的で、労働争議を激化させることになる。

 アメリカでは1932年に大統領選挙があり、ウォール街を後ろ盾とするハーバート・フーバーがニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗北する。巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認め、植民地やファシズムに反対するという立場を表明していた大統領が登場することになったのである。そうした事態に危機感を抱いたJPモルガンをはじめとするウォール街の大物は1933年から34年にかけてクーデターを準備した。

 新自由主義的な政策に反発する声は日本でも強く、1930年に浜口雄幸が銃撃されて翌年に死亡、32年には血盟団が井上準之助と団琢磨を暗殺、また五・一五事件も引き起こされた。井上はJPモルガンと緊密な関係にあったが、団はアメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者で、アメリカの支配層と太いパイプがあった。

 ルーズベルトが大統領に就任する前年、ジョセフ・グルーがアメリカ大使として来日している。グルーのいとこはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻。その当時からグルーは政財官界だけでなく、日本の皇室に太いパイプを持っていた。

 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。
 1941年12月7日に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入、翌年の6月にグルーは離日するが、その直前に商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。

 こうした流れと並行して日本の治安体制が強化されていく。1922年に「過激社会運動取締法」が提出されたが、当時でも内容が問題となって廃案になる。そうした政策を可能にしたのが関東大震災だ。
 地震の2年後に治安維持法が制定され、1928年3月15日には日本共産党関係者らが大量に検挙される。大半の人は勾引状など正式手続きを経ずに逮捕された。この後、特高警察は組織を拡大、思想検察制度が発足していく。

 こうした政策を推進した内務官僚、思想検察、特高警察などの人脈は第2次世界大戦後も支配システムの中枢として機能した。そうした戦後日本のあり方を決めたジャパン・ロビーの中心にはジョセフ・グルーがいて、その背景にはウォール街が存在していた。
 明治維新から日本の支配層はシティやウォール街、つまりアングロ・サクソンの支配層に従属することで自らの権力と富を得てきた。


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世界大恐慌と第二次世界大戦の時代

1927年(昭和2年)3月 昭和金融恐慌

1929年10月24日 Black Thursday → 世界大恐慌

1929年(昭和4年) 昭和恐慌
1929年(昭和4年)10月にアメリカ合衆国で起き世界中を巻き込んでいった世界恐慌の影響が日本にもおよび、翌1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた、戦前の日本における最も深刻な恐慌。

1931年(昭和 6年)9月18日 柳条湖事件 → 満州事変
1932年(昭和 7年)3月1日 満洲国建国
満州の農民から農地を取り上げケシを栽培、麻薬商売で ぼろ儲け

1932年(昭和 7年)1月28日 第一次上海事変

1932年(昭和 7年)5月15日 五・一五事件
1936年(昭和11年)2月26日 二・二六事件
政府の新自由主義政策に憤った共産主義者の将校が革命を起こすが、味方だと思っていた昭和天皇に裏切られる

1937年(昭和12年)7月7日 盧溝橋事件 → 支那事変
1937年(昭和12年)8月13日 第二次上海事変
1937年(昭和12年)12月 南京大虐殺
1941年(昭和16年)12月8日 真珠湾攻撃 → 太平洋戦争

・大東亜共栄圏 → 満州でケシ栽培、chousen の工場で麻薬製造、中国・東南アジアで麻薬を売って ぼろ儲けする体制

・南京大虐殺・慰安婦強制連行・731部隊の人体実験 → 昭和天皇直々の命令でやったので陸軍や外務省では止められなかった

・中国・東南アジア侵略 → 食料を強制調達して日本に送り現地で1000万人以上餓死させる。 現地女性を性奴隷 にする

・近衛上奏文 → 日本陸軍の軍人の殆どが共産主義者で、ソ連の対日開戦に合わせて共産革命を起こそうとしている、と警告

・太平洋戦争 → 日本陸軍による共産革命を防ぐ為にアメリカと八百長戦争をやって、アメリカ軍に日本を占領して貰った
・大空襲・原爆投下 → 共産主義者を武器・食料無しで最前線へ送り、本土の共産主義者も大空襲・原爆投下で革命を起こす気力を無くさせた


故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

太平洋戦争は共産革命を恐れた昭和天皇が英米支配層と組んで起こした八百長戦争だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14016737

昭和天皇を震え上がらせた共産主義の恐怖とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/754.html

関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1055.html

2・26事件は共産主義者の青年将校が起こしたクーデターだった
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/222.html

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戦前から戦後10年くらいの日本は人口が増えすぎ、食料不足が大問題になっていました。日本軍が朝鮮占領したのも満州や中国を占領したのも、根源的には「食料を増産するため」だったのはあまり知られていない。
人口が増えた割りに食糧増産は進まなかったので、朝鮮を占領したが、却って増えた人口を日本が養わねばならなくなった。そこで満州を占領して食糧増産しようとしたが、今度は満州で人口が増えてしまい、日本が満州の人を養わねばならなくなった。
大日本帝国は最初から最後まで食糧不足に悩まされ、内地でも外地でも戦地でも食料が不足した。

△▽

1945年(昭和20年)8月15日 玉音放送によりポツダム宣言受諾及び日本の降伏を国民に公表

・特殊慰安施設協会(RAA)設置 → 35万人の日本駐留米軍の為に、仕事の無い日本女性に女性事務員募集と偽り 7万人の慰安婦を集めた。当時の大蔵省主計局長池田勇人(後の総理大臣)が日本勧業銀行に指示を出して資金を提供した。
朝鮮戦争が始まると横浜、大阪(のち奈良)、小倉の三カ所に日本人慰安婦を集めた米軍管理の「センター」を設置した。
4:777 :

2022/12/12 (Mon) 18:21:18

終戦から平成バブルまでの皇室の歴史


独裁者列伝 _ 昭和天皇
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/799.html

東條英機が語る天皇陛下
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/778.html

米軍は何故日本に駐留しているのか? 日本は何故軍隊が持てないのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/575.html

革命は軍や警察が国家を裏切り市民側に就かないと成功しない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/574.html

アホが書いた日本国憲法
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/613.html

昭和天皇の戦争犯罪問題が再燃すると困るから天皇一族は靖国神社に参拝できなくなった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/128.html

ジェームズ斉藤 : 日本のゴールド「天皇の金塊」
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006705

日本のゴールド「天皇の金塊」をジェームズ斉藤が徹底解説! 知られざる日本の財宝、驚愕の金額…米デフォルトと関連
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/392.html
5:777 :

2022/12/12 (Mon) 18:27:28

戦前の日本陸軍軍人は共産主義者ばかりだった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14016765

太平洋戦争は共産革命を恐れた昭和天皇が英米支配層と組んで起こした八百長戦争だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14016737

ジェームズ斉藤 : GHQ は帝政ロシアやソ連からアメリカへ亡命した極左ユダヤ人だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14014859

戦後日本のバブル崩壊以前の一億総中流社会は共産主義者ばかりの GHQ が意図的に作ったものだった
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/830.html

ウォール街と戦った共産主義者 ルーズベルト大統領
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14067898

ウォール街やシティと戦った共産主義者のフランクリン・ルーズベルト
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1037.html

GHQに君臨した"マッカーサー"の愚将ぶり
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/748.html

アメリカ軍は日本国内のクーデターや共産革命を鎮圧する為に日本に駐留している
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14016725

ジェームズ斉藤 : 日本のゴールド「天皇の金塊」
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006705

鈴木宣弘 農業消滅!? アメリカの国家戦略に食い荒らされる「日本の食」
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14018404

昭和時代の「食生活」_ 米国の食糧輸出戦略
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14036563

ジェームズ斉藤 : 菅義偉の黒い正体 ― スパイ、田布施システム、MI6、小渕恵三との繋がり
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14014958

明治維新以降、日本はイギリスやアメリカの手先として 動いてきた。
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14058621

日本は軍事大国 _ 射程1000キロの弾道ミサイルと巡航ミサイルを2000発以上保有
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14042059
6:777 :

2024/02/19 (Mon) 11:34:07

日本人を捨てて逃げた皇軍 終戦後に在住日本人がやらされた事
2024.02.19
https://www.thutmosev.com/archives/78224941mmm.html

満州からの帰国者は被害者なのに加害者扱いされた


引用:http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/257/52/N000/000/011/135139922049213111794_IMG_0002_NEW_20121028134020.jpg
ソ連兵に妻や娘を差し出して命乞い

第二次大戦終了後の満州などで、ソ連や中国が日本人に強要していた戦争犯罪があったが世界史のタブーになっていて日本政府も触れようとしない

この問題が特異なのは事件が1945年8月15日つまり終戦後に発生し、被害者の日本人は「加害者」に仕立て上げられた点です

順に説明すると1945年8月、敗戦を確信した関東軍(日本陸軍の満州駐留軍)は大本営の指示を受け密かに全軍を南朝鮮に移動させた

8月9日にソ連軍は満州に侵攻したが、ソ連は勝ち目がないと見て攻撃しなかったので本格戦闘には至らず「日本軍が下がった分だけソ連軍が前進」する戦略を取った

ソ連は独ソ戦に注力したので極東のソ連軍は弱く、満州の日本軍が本気を出せばまだまだ強敵なので日本軍が下がるのを待ったのでした

8月9日に関東軍は満州脱出を開始したが、「我々はソ連軍と最後の決戦に向かう」と在住日本人100万人以上をだまして夜逃げしました

満州国の首都新京では数十万人の日本人居留民がソ連との決戦を信じて涙を流して日の丸の旗を振って送り出したが、実は関東軍は朝鮮半島まで我先に脱走した

関東軍は決戦に行くと在住日本人に信じ込ませる一方で「必ず勝つからその場から動いたり脱出してはならない」と指示し、実はこれは日本人を囮としてソ連軍に襲わせて時間稼ぎをする作戦でした

関東軍に騙された日本人居留民100万人は押し寄せる中国人やソ連兵におそわれ、30万人から50万人が現地でなくなりました

この時残された日本人居留民は中国人やソ連兵に命乞いするために、自分の娘や妻を差し出して「接待」をさせました

特にソ連兵の規律は悪く金目のものや居留民の全てを奪ったので、カメラを没収され終戦後の満州の写真も残されていません

それでも大勢が集まっていた新京では居留民が協力して大きな被害はなかったが、農村や朝鮮半島北部の民間人被害は深刻でした

政府や軍隊を信じるとこういう目に遭う
最悪だったのは満州の荒野を開拓させられた満蒙開拓団で約27万人のうち約8万人が現地で襲われてなくなり、生き残った人も妻や娘を差し出して逃げ帰りました

満蒙開拓団は表向き志願だが実際は強制で、貧しい農村を中心にノルマとして人数を指定し長男は跡継ぎなので次男夫婦が強制的に満州へ移住させられました(小作人の次男が選ばれるのは最初から決まっていた)

関東軍が逃げ出したのは大本営の指示で、大本営と日本軍は満州在住日本人100万人を囮にしてソ連軍を足止めさせ、全員をみごろしにして関東軍だけを本国に帰還させる作戦を建てた

終戦直前の日本は食糧難だったので満州の日本人が帰って来ては困るので現地に捨てて来ることにし、関東軍60万人は本土防衛のために必要なので帰還させることにした

当時兵士の家族も満州に住んでいたので兵士の家族だけを列車に運び、他の在留日本人は列車に乗るのを禁止し移動も禁止した

関東軍の移動が終わると列車が再開し、38度線の南側は日本軍が駐留し規律が守られていたが、日本軍が撤退した北側は無政府状態になった

関東軍が黙って逃げ去ったので満州の日本人はどうしたら良いか分からず、38度線まで逃げれば良いのに途中でとどまった人が多かった

愚かな事に「お昼ご飯を食べたいから」「夜は旅館で寝たいから」のような理由で北朝鮮側で列車を降りた人が相当数いて、降りた人はシベリアの収容所に送られてほとんど亡くなった

北朝鮮側はソ連兵が徐々にやってきて、北朝鮮の人民はきのうまで日本人に従っていたのにロシア人の歓心を買うために日本人を襲撃し始めた

北朝鮮に残った日本人はやはりソ連兵や現地人に命乞いをするため、 避難民の中の年頃の娘や自分の妻を差し出しました

現地人も日本人をおそって金品を奪ったり、日本人の娘をさらったりしてソ連兵に差し出し、そのような人間が北朝鮮で権力階層に出世していった

そうしてソ連のお気に入りになった人間が後に北朝鮮で要職を占め、その子孫が現在の金正恩政府でも支配階層として君臨している

ソ連や中国や朝鮮で酷い目に遭って命からがら日本まで逃げ帰った人々は、戦後GHQの方針で「侵略者」と定義され加害者扱いされることになった

このような行為をやらされた人や日本人居留民たちは、被害者であるにもかかわらず加害者のレッテルを貼られることになった

帰還者は故郷に帰ってもGHQの統制によって「侵略者」と石を投げられたり村から追い出されたり、へき地に追いやられたりもした

そして満州に置き去りにされた人々は今も「侵略者」のレッテルを貼られ、政府は日本人の被害に見て見ぬふりをし続けている

https://www.thutmosev.com/archives/78224941mmm.html

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